香港で、「lah」が親密な空気をつくる。。- レストラン「Noodle Lah」を訪れて。
マレーシアやシンガポールの英語において、言葉や文章の最後につけられる「lah」。
マレーシアやシンガポールの英語において、言葉や文章の最後につけられる「lah」。
「lah」それ自体では意味を持たないけれど、会話をやわらかみと親しみやすさで包む語感をもち、会話を円滑にする潤滑油のようなものだ。
厳密にはいろいろな機能があるようだが、普通に使われる「lah」は親密な雰囲気をつくり、慣れてしまうと心地よい。
香港には、そのような「lah」をレストラン名にもつ、「Eat Lahグループ」がある。
その最初の系列が、「Noodle Lah」であった(グループの別の系列に「Wah Lah」がある)。
レストラン名を聞いたときには、「やられたなぁ」と思った。
「lah」をうまく使った店名である。
店名だけでなく、メニューには面白い名前が並ぶ。
例えばラクサは「LAHksa」である。
この「LAHksa」のように、東南アジアの麺などを、食べることができる。
少し前になるけれども、そのレストラン「Noodle Lah」の新しい店舗に行ってきた。
Wan Chaiのコンベンションセンターからフェリー乗り場へとつながる道の途中に、反対側に九龍島の景色を見やりながら、レストラン「Noodle Lah」がある。
「Noodle Lah」が最初の店舗をAdmiraltyにオープンさせたときから、人の縁もあって、また「麺類」が好きなこともあって、ぼくはよく足を運んできた。
Admiralty駅は当時の通勤通路でもあったから、場所的に便利であったこともある。
Admiraltyの店舗は残念ながら閉店になり、Wan Chaiに新しい店舗がオープンしたのであった。
場所も、内装も変わったのだけれども、なによりも、その親密さが新しい店舗にもひきつがれているのを感じる。
「lah」という響きそのものが、店舗の形と内実にあらわれているようだ。
そうして、麺好きなぼくは、ここ香港でも、麺を楽しむのである。
香港で、「デング熱」に、注意を向ける。- 香港でのデング熱感染状況を受けて。
海外に住むときには、その土地での風土病や感染症などは、その基礎知識と対処法を知っておくことが大切である。
海外に住むときには、その土地での風土病や感染症などは、その基礎知識と対処法を知っておくことが大切である。
特に、日本に住んでいて海外に出ることになったときには、日本では見られない風土病や感染症について知っておくことである。
症状が出たときに(「もしかしたら」の可能性を)知らないままに対処してしまうことを避けたり、あるいは日本に戻ってから発症したときにも対処できるようにしておくためである(日本では特定のクリニックが対処してくれる)。
ここ香港で、デング熱への注意が喚起されている。
香港のライオンロック公園(Lion Rock Park)が、8月17日(金)より30日間、閉鎖されることになった(※South China Morning Postの記事「Lion Rock Park closed for 30 days to wipe out mosquito breeding sites after 11 people get dengue fever in Hong Kong」)。
「デング熱」の感染ケースから、公園での蚊の駆逐が必要と判断されたためである。
判断の背景には、デング熱の感染が確認された11名の内の9名が、ライオンロック公園を訪れていた事情があるという。
「デング熱」については、感染症についてぼくがよく参照にしている、日本の「国立感染症研究所」のサイト(「デング熱とは」)によると、「ネッタイシマカなどの蚊によって媒介されるデングウイルスの感染症である。デングウイルスはフラビウイルス科に属し、4種の血清型が存在する。比較的軽症のデング熱と、重症型のデング出血熱とがある」と書かれている。
デング熱の症状としては、「感染3~7日後、突然の発熱で始まり、頭痛時に眼窩痛・筋肉痛・関節痛を伴うことが多く、食欲不振、腹痛、便秘を伴うこともある。発熱のパターンは二峰性になることが多いようである。発症後、3~4日後より胸部・体幹から始まる発疹が出現し、四肢・顔面へ広がる」とある。
ところで、デング熱のニュースに反応するのは、ぼくが以前、デング熱に感染したことがあるからでもある。
それは、10数年前に東ティモールに住んでいたときに起こった。
始まりは、ある日、突如の高熱(かなりの高熱)としてやってきたのであった。
それまでに、シエラレオネと東ティモールで、マラリアに幾度かやられていたから、そのときも、マラリアだと思い、マラリア治療薬を飲んで、休むことにした。
でも、マラリア薬を飲んでも、一向に、よくならず、関節痛などがひどく、また皮下の発疹が顕著に現れてきた。
後日、それがデング熱であることを知ったが、いわゆる治療という治療方法がないデング熱を、ぼくはこの身体と休養でのりこえるしかなかった。
そして、デング熱は、かかった後に、異なる血清型につぎにかかると重症化することがあり、それからはさらに蚊対策と免疫力の維持には注意をはらってきた。
香港や中国華南でもデング熱は見られるから、ぼくは自分の「情報アンテナ」をはっている。
そして、なによりも、じぶんの身体の状態をととのえ、できるかぎり免疫力を維持するようにしている。
香港で、路上などで、よく道を尋ねられて。- 「道を尋ねられる」ことについて、少しかんがえてみる。
香港に住んでいて、街やふつうの通りを歩いているときなどに、ぼくは、よく道を聞かれる。
香港に住んでいて、街やふつうの通りを歩いているときなどに、ぼくは、よく道を聞かれる。
昨日も、香港の人に、路上で道を尋ねられた。
でも、この「よく」という言葉を使うのがよいのかどうかはわからない。
「道を尋ねられる」ということにおいて、「よく」というのが、どのくらいの頻度で尋ねられるのかなんて、参考になるような統計や資料があるわけではない。
つまり、きわめて、「相対的」なものだ。
だから、「よく」というのは、ぼくの人生のなかにおいての「よく」という程度にとどめておきたい。
日本に住んでいたときよりも、あるいはニュージーランドやシエラレオネや東ティモールに住んでいたときよりも、はるかに「よく」、ここ香港で、ぼくは道を尋ねられる。
というより、香港に来るまでの人生で「道を尋ねられた数」の総計よりも、ここ香港に住んで11年程の期間に「道を尋ねられた数」の方が大きい。
そう考えてみると、「道を尋ねられる」要因として、まず第一に、「香港」という土地柄が挙げられる。
ぼくに「道を尋ねる人たち」は、大別すると、香港の人と観光で訪れている人(主に中国本土の人)である。
香港の人に道を尋ねられるという点から考えると、香港の人たちの「気さくさ」が挙げられるかもしれない。
たとえば「道を尋ねる」ということにおいて、香港の人たちは互いに気さくに話しかけるようなところがある。
また、観光で訪れる人に尋ねられるという点から考えると、香港は観光で訪れる人たちの数が多く、また香港の街が凝縮されていて「観光地」が密集していることが挙げられる。
だから、どこに行っても、観光で来ている人たちがいたりする。
このような「香港」という土地柄がある。
それから、「道を尋ねられる」要因として、次に「じぶん」ということをかんがえてみる。
ぼくはとりわけ、「道を知ってそうな人」の顔をしているわけではないし(そんな人がいるとしてどんな顔かは定かではないけれど)、「気さくさ」を醸し出しているということもないと思う。
けれども、ぼくが誰かに道を尋ねるとすれば、やはり、ここ/そこに住んでいそうな人で、またそれなりにフレンドリーに答えてくれそうな人を選ぶだろうと思うと、ぼくは、そのような点において「道を尋ねる人たち」の基準をクリアしているのだろうかと、かんがえてみることはできる。
ぼくは第一に、香港のどこにいっても、大体において「香港の人」だと思われる(英語で話しかけても、広東語できりかえされる)。
それから、第二に、ぼくはやはり、それなりに肯定的な雰囲気を心がけている。
ネガティブなときもあるし、気分がのらないこともたくさんあるけれど、根源的な次元において、ぼくは人生を肯定している。
それが道を尋ねられる理由かどうかはよくわからないけれども、ぼくの側からそうかんがえてみる。
こんなふうに、ぼくは「道を尋ねられる」ことのなかに、「じぶん」を見返してみる。
「道を尋ねられる」ことは、それでも、一つの出会いであるし、またぼくの「状態」を映し出す鏡のようなものでもある。
広東語のいくつもの波におされて、まったく答えられないこともあるけれど、ぼくは笑顔をかえす。
それにしても、いつも、「まさかこんなところで…」という場所とタイミングで、ぼくは、道を尋ねられるのである。
香港で、手持ちの「硬貨」を極力減らす。- 人間の歴史における「貨幣」の転換点において。
香港歴史博物館の特別展示「An Age of Luxury: the Assyrians to Alexander(豪華・贅沢の時代:アッシリア人からアレキサンダーへ)」(2018年5月9日~9月3日)で展示品の中に、貨幣経済の発祥地リュディア(Lydia)で製造された「硬貨」があった。
香港歴史博物館の特別展示「An Age of Luxury: the Assyrians to Alexander(豪華・贅沢の時代:アッシリア人からアレキサンダーへ)」(2018年5月9日~9月3日)で展示品の中に、貨幣経済の発祥地リュディア(Lydia)で製造された「硬貨」があった。
紀元前600~550年における初期の硬貨である。
それから2500年以上が経過しているけれども、世界では硬貨がふつうに流通している。
もちろん、ここ香港でもふつうに使われている。
香港の「硬貨」はというと、10セント、20セント、50セント、1ドル、2ドル、5ドル、10ドルがある。
ぼくは、少し前に、香港に住んでいる10年間に溜めてしまっていた「10セント、20セント、50セント」を使うことにした。
第一になるべく現金を使わないようにしていこうと思ったこと、また第二に家にあるもので「使わないもの」をなくそうと思ったことを理由に、手持ちの硬貨、とくに「セント」を使いきることにした。
それほど多くはなかったけれども、それでも、1ドル以上の硬貨ならまだしも、セントを使いきるのにはそれなりに時間がかかった。
お店によっては現金しか受けつけてくれないお店もあるので、いまでもときどき硬貨のお釣りをもらうことになるが、ほぼ硬貨のない暮らしになった。
ところで、香港に住んでいて「硬貨」が溜まってしまったとき、使いきったり街頭のチャリティに募金をすることもできるけれど、「香港金融管理局」(Hong Kong Monetary Authority)による「硬貨収集プログラム」(Coin Collection Programme)を利用することもできる。
このプログラムのもとに、硬貨収集の窓口を内装する車両「Coin Cart」が、スケジュールにしたがい香港の各地に現れることになる。
車体には、さまざまなコインが描かれていて、見ればすぐにわかる。
街を歩いていて、ときおり、その姿が目にはいってくる。
利用の仕方は、ホームページにも掲載されているし、「Coin Cart」の入り口にも注意書きがおかれている。
変換可能なコインの種類、利用規則などが決められている。
たとえば、1人あたり「10KG」までと決められている(それにしても10KGは相当な量だ)。
両替は現金で受け取ることもできれば、現金でない仕方で受け取ることもできる。
とても便利なサービスで、ぼくが目を留めている間にも、幾人かの人たちが中に入っていって、両替をしていた。
でも、結局、ぼくはこのサービスを利用する機会はなかったし、またこれからも利用することはないだろう。
ぼくは、一気に両替してしまうよりも、実際に硬貨を使うことを楽しみながら、ほぼ硬貨を持たない生活に変えていった。
それは、生活の仕方を変えていくための儀式のようなものであった。
かつて、リュディアの地で貨幣経済が発祥し、それが全世界に浸透し、どこまでも地球を覆っていくことで、「現代」という時代にまでやってきた。
そして、この「貨幣経済」が大きな転換点を迎えている。
「現金」という形での貨幣は、硬貨を含め、近い将来にはその姿をなくすか、あるいは最小限のものとなるか、また異なる姿へと変身してゆく移行期間に、ぼくたちはいる。
そうなれば、「Coin Cart」のような車両も見ることはできなくなる(あるいは硬貨の歴史をとじるための回収・収集を担うかもしれない)。
リュディアの硬貨が博物館に収められたように、「Coin Cart」も博物館に入ってしまうかもしれない。
まるで、未来からやってきた者たちが観るような仕方で、ぼくは「Coin Cart」を眺めていた。
香港で、人類の「歴史の曲がり角」をかんがえる。- 香港歴史博物館の特別展示「An Age of Luxury」。
香港歴史博物館の特別展示である「An Age of Luxury: the Assyrians to Alexander(豪奢・贅沢の時代:アッシリア人からアレキサンダーへ)」(2018年5月9日~9月3日)が展示する豪華なもの・贅沢品の数々は、紀元前900年から紀元前300年の時代にわたるものである。
香港歴史博物館の特別展示である「An Age of Luxury: the Assyrians to Alexander(豪奢・贅沢の時代:アッシリア人からアレキサンダーへ)」(2018年5月9日~9月3日)が展示する豪奢なもの・贅沢品の数々は、紀元前900年から紀元前300年の時代にわたるものである。
この「時代」は、かつて、歴史家カール・ヤスパースが、つぎのように「特定した時代」と重なっている。
…この世界史の軸は、はっきりいって紀元前500年頃、800年から200年の間に発生した精神的過程にあると思われる。そこに最も深い歴史の切れ目がある。われわれが今日に至るまで、そのような人間として生きてきたところのその人間が発生したのである。…
カール・ヤスパース「歴史の起原と目標」重田英世訳『ヤスパース』河出書房新社
ヤスパースが「軸の時代」(※上記の本では「枢軸時代」の訳)と呼んだ、この時代に着目しながら、社会学者の見田宗介は、「人間の歴史の第一の曲がり角」であったとしている(『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年)。
歴史の第一の曲がり角を特徴づけた背景は、<貨幣経済>と<都市の勃興>であり、とくに貨幣経済による人間世界の「無限化」であったと、見田宗介は語る。
ギリシアの哲学が生まれ、宗教がひらかれた「軸の時代」は、そのような開放と不安と恐怖に彩られる時代であったという。
そして、無限化された人間世界は、現代に至り、グローバル化の果てに、その地球の「有限」を見る。
「人間の歴史の第二の曲がり角」に、ぼくたちはいる。
このような問題意識において、「軸の時代」、つまり「人間の歴史の第一の曲がり角」であった時代を、ぼくは展示品を通して思い描くのであった。
特別展示「An Age of Luxury: the Assyrians to Alexander」は、大英博物館に収められている、歴史の語り手でもある「贅沢品」を展示しているが、この展示物のなかに、世界における、初期の「硬貨」がある。
貨幣経済が発祥したとされるリュディア(Lydia)で製造された硬貨である。
エレクトラム(琥珀金)から作られ、金と銀が混合されているという。
このリュディアでの貨幣経済の発祥にふれて、見田宗介は、前述の本で「現代社会はどこに向かうか」を問いにしながら、つぎのように書いている。
…ミダス王はこのリュディアの東方フリュギアの王である。知られているとおり、ミダス王は黄金を何よりも愛し、手に触れるものすべてを黄金にへんずるという力を獲得するのだが、水を飲もうとしても水が黄金に変わってしまうので、のどが渇いて死んでしまうというものである。貨幣経済のあらあらしい発生期にミダス王の神話を生み出した人びとが直感したのは、貨幣の欲望の本質は世界の等質化ということにあること。つまり抽象化することにあること。この故に貨幣の欲望には限度がないこと。具体の事物への幸福感受性を枯渇すること。この故に人は現代の人間のように、死ぬまで渇きつづけるということである。三千年の射程をもつ予感であった。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
「An Age of Luxury」とは、世界が、等質化され、抽象化され、「無限」として感じられはじめた時代であり、開放と不安と恐怖のなかで、たとえばミダス王の神話に託された「予感」のように、人びとが戸惑った時代でもあったのである。
香港歴史博物館の特別展示「An Age of Luxury」はもちろん大英博物館のほんの一部の展示品(210の展示品)を見せるだけである。
けれども、大英博物館であったなら、展示品があまりにも多すぎることから、ついつい通り過ぎていってしまいそうな展示品の前に立ち止まって、じっくりと鑑賞し、人間の歴史に想いを馳せることができる。
リュディアの、ほんとうに小さい硬貨の前で、ぼくは当時の人たちの「三千年の射程をもつ予感」に想いを馳せる。
香港で、「香港の歴史」を、一気にくぐりぬける。- 香港歴史博物館の「香港故事」。
「歴史が好きか、地理が好きか」と問われるならば、昔は「地理だ」と答えただろうと思うほどに、世界を移動した。
「歴史が好きか、地理が好きか」と問われるならば、昔は「地理だ」と答えただろうと思うほどに、世界を移動した。
でも、今はどちらも好きだし、ある意味では歴史の方が好きである。
ここ香港の「香港歴史博物館」(Hong Kong Museum of History)にある常設展示「香港故事」(The Hong Kong Story)は、そのような「歴史」の好奇心に応え、また一層かきたてる展示である。
4億年前の香港から現代の香港まで、ぼくたちは、一気に、「香港の歴史」をくぐりぬけることができる。
ほんとうにゆっくりと観ていくのであれば、数時間はかかるほどに充実した展示である。
ぼくは大学時代、アジアを旅しながら、現地に到着すると、決まって「博物館」に行ったことを思い出す。
その土地に行って、その土地のことを知る。
それはとても楽しい時間のひと時であった。
生活する場合、そんな「学び」がついつい脇に押しやられてしまうことがある。
生活の土台をつくり、仕事で忙しくなり、あれよあれよと時間は過ぎていく。
毎日その土地にいるから、生活視点では、いろいろと観察し、あるいは人から聞いて学んだりするのだけれども、そこで止まってしまうことがある。
そんなとき、ふと、「博物館」に行ってみること。
それは、思っている以上に、いろいろなものをもたらしてくれる。
これまでの生活体験に、「歴史」の光をあてながら、納得することがあったり、教えられることがある。
旅で、初めての土地で行く「博物館」もよいものだけれど、ずっと生活していた土地のことを、じぶんの体験も重ねながら学ぶことは、違った楽しみと学びを得ることができると、ぼくは思う。
ところで、「香港歴史博物館」でぼくは、「煤氣風扇」(Gas operated fan)を見つけた。
19世紀後半のもので、もちろんすべての人たちではなく一部の人たちが使っていたものだろうけれども、このようなものを使って、香港の夏の暑さをやりすごしている情景が思い浮かぶ。
そのときから百数十年のうちに、香港も、そして世界も、一気に「発展・成長」を遂げてきた。
果たして、この先の「歴史」は、どのようにつくられ、あるいは人はそれをつくってゆくのだろうか。
香港で、「香港製造」を楽しむ。- その土地のものを、その土地で楽しむ。
「香港」という場所は、「港」であり、交通の要衝・ハブでもあるから、香港では世界のいろいろなものが手に入る。
「香港」という場所は、「港」であり、交通の要衝・ハブでもあるから、香港では世界のいろいろなものが手に入る。
「メイド・イン・ジャパン」のものにはどこにいっても遭遇し、また「日本(からの)直送」の食材やお菓子やケーキが売られているのを日常で見る。
日本のレストランなどの食材も、例えば、「日本直送」を宣伝していたりする。
さらに、日本の不動産だって、香港の不動産屋の店頭にチラシが出ていて、ぼくの出身地の「静岡県」の物件が出ているのを見たときは、さすがにびっくりしてしまった。
別に「日本」にかぎらず、世界各国のものが香港で手に入る。
<なんでもある香港>のすごいところだ。
そのような<なんでもある香港>の豊かさと便利さを享受しながら、他方で、「香港」のもの、「香港製造/Made in Hong Kong」のものを楽しむ。
食材や食べ物など、ここでしか食べられないものを楽しむ。
他で食べられるかもしれないけれど、新鮮さが失われたりしてしまったり、その環境だからこそのおいしさが損なわれてしまうこともある。
その土地のものを、その土地で楽しむ。
おいしい食べ物も、おいしいお酒も、旅をしない、というようなことが言われるように、その土地のものはその土地で味わうことで、味が生きてくる。
「ローカル」なものを応援したい、ということもある。
けれども、「応援したい」だけでは、楽しみが長続きしにくく、どこか「応援しなければならない」といった、じぶんをしめつける気持ちで抑制されてしまうこともある。
だから、ほんとうによいものを選ぶことで、それを楽しむ側も、それを提供する側も、ともに、「物語」を紡いでゆくことができる。
そうして、ぼくは、このブログの写真にたどりつく。
これは豆腐ではなく、「豆腐花」とここ香港では呼ばれるデザートである。
豆乳を固めてつくられた、豆腐よりも柔らかいデザート(※香港の外ではいろいろな仕方で食されている事情はひとまず横に置いて)。
香港のデザート店では、暖かいものと冷たいものとお好みで選び、たとえばシロップなどをかけて食べる。
その新鮮な風味を楽しむことができる。
最近は、ぼくは、豆腐花がパッケージされたものをスーパーマーケットで購入して、冷蔵庫に入れておいて、ときおり食べる。
スーパーマーケットは、世界各国からのデザートでいっぱいで、たくさんの選択肢があるけれども、ときに豆腐花も、買い物カゴに入れる。
「応援したい」だけでなく、シンプルに、その素朴なおいしさがあるからでもある。
その土地のものを、その土地で楽しむ。
香港でふれる、ボブ・ディラン(Bob Dylan)の「世界」。- 「捉えどころのない」なかで浮かび上がる歌声。
香港の「サイズを活用する」ことのひとつとして(電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』の「17 「香港のサイズ」を活用する。」)、「コンサート」を楽しむことがある。
香港の「サイズを活用する」ことのひとつとして(電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』の「17 「香港のサイズ」を活用する。」)、「コンサート」を楽しむことがある。
香港の「コンサート会場」は小さいから、大物ミュージシャンであっても、ぼくたちは間近に音楽を楽しむことができる。
Coldplayも、Jason Mrazも、Bryan Adamsも、Elton Johnも、The Beach Boysも、そして、Bob Dylanだって。
2018年8月4日、香港のビクトリア湾に面する「Hong Kong Convention and Exhibition Centre」。
ボブ・ディラン(Bob Dylan)と彼のバンドが、舞台に立った。
久しぶりに来るこのコンサート会場はやはり小さな会場で、一番後ろのゾーンにいるぼくの位置からも、肉眼で舞台を普通に見ることができる。
そんな会場に入って舞台を見渡してみて、「スクリーン」がないことに気づく。
普通のコンサートではこの会場でも「スクリーン」がつくのだけれども、そのスクリーンがなく、さすがに顔の表情までは見ることができない。
スクリーンがないことを含め、舞台はきわめて素朴で、エンターテインメント性を極力にそぎおとしているようにも見えるのだ。
やがて、開演時間がやってきて、少し遅れて、演奏がはじまった。
香港のコンサートでは時間通りに演奏がはじまることはとても少ないためか、多くの人たちがまだ席についていないなか、ボブ・ディランのあの独特の声音が会場にひびきはじめる。
これまでいろいろなコンサートを観てきたけれど、ボブ・ディランのコンサートは、なかなか独特で、なかなか捉えどころのないものであった。
ギターのチューニングのズレ、音をうちこむリズムのズレ、楽器の音量バランスのズレなど、演奏や楽器の音がときに「ズレ」ているように感じる。
また、ボブ・ディランもバンドメンバーも、2時間近くのコンサートで、曲の間に一言もしゃべることはなかった。
そのような「捉えどころのない」演奏やコンサートの全体に最初はとまどったのであったけれど、とても不思議なのは、その空間には、やはり(あるいは、だからこそ)「ボブ・ディラン」が浮かびあがってくるのである。
ボブ・ディランの「歌」自体が、<ことばを伝えること>であって、それ以外に「何」が必要だろうかとも思う。
歌自体に、ことばが尽くされているのだと見ることもできる(とは言っても、ぼくは、英語の歌詞はほとんど聞き取ることができなかったけれど)。
また、ボブ・ディランの声音を主旋律として、楽器の音たちはそのどこか不器用な声音に不器用に合わさることで、主旋律である声の響きがいっそう照らし出されるのでだ。
こうして「ボブ・ディランの世界」が顕現してくる。
歌われることのなかった名曲「Blowin’ in the Wind」と「Like a Rolling Stone」はやはり聴きたかったけれど、演奏される曲たちはコンサートの全体感のなかで選ばれているから、ぼくはその全体感を尊重したい。
このように、なかなか「捉えどころのない」コンサートであったのだけれども、ほかに「捉えどころのない」風景として、聴きに来ている人たちがあった。
会場全体に、若い人たちが目立ったのだ。
サンタナが香港に来たときは圧倒的にサンタナと同年代の人たちが多かったのだけれども、ボブ・ディラン(77歳)はちがった。
ぼくの席の周りも、まだ20代くらいの人たちで埋まっていたのである。
彼ら・彼女たちにとって「ボブ・ディラン」の歌や存在はどのようなものなのだろうかと、ぼくは興味深く思う。
このような「捉えどころのない」コンサートの余韻が、ぼくのなかに、不思議と、強く残っている。
香港で、香港の「広さ」をかんがえる。- 香港は「広い」、香港は「小さい」。
香港に初めて来られた方が、「香港は思っていたよりも広い」と語る。
香港に初めて来られた方が、「香港は思っていたよりも広い」と語る。
香港に長く住んでいると、ときに、「香港は小さいなぁ/狭いなぁ」という感覚が生まれることがある。
感覚は主観的かつ相対的なものだけれども、旅行ならまだしも、実際に住んでいくときには、主観的だからこそ、いっそう気をつけておきたいところでもある。
香港は「香港島」「九龍」「新界」の三つの地域に分けられている。
香港の総面積は「1106平方キロメートル」(香港島:81平方キロメートル、九龍:47平方キロメートル、新界:978平方キロメートル)であり(2014年10月現在)、香港全体で「東京都の半分ほどの広さ」になるという(『香港を知るための60章』明石書店)。
世界史の教科書でも出てくるように、1842年の南京条約で「香港島」がイギリスに割譲されるのだけれど、九龍と新界が編入されるまでには歴史のページをさらに繰ってゆくことになる。
九龍と新界の広さを考慮すると、最初に割譲された「香港島」は、現在の香港(香港特別行政区)の広さから見れば、わずかな地域であった。
その後、九龍がイギリス領に編入されたのは1860年、さらに現在の香港の面積の大部分を占める「新界」を租借したのが、1898年のことである。
このような歴史もあってか、香港は、それぞれの地域によって異なる風景を見せている。
中国本土の深センから香港に入り、電車やバスに乗って、この「新界」を通りぬけてくると、「香港は思っていたよりも広い」と感じることがある。
風景も、「百万ドルの夜景」の香港ではなく、多くが緑に覆われていたりする。
逆に、香港へ飛行機で入り、「百万ドルの夜景」の舞台である香港のビクトリア湾周辺に住み、そこでどっぷりと入って生活していると、「香港は小さいなぁ/狭いなぁ」と感じることがある。
どこの風景を見、どこに暮らし、どこを生活範囲とするかで、「香港」の見え方が異なる。
当たり前のことではあるけれども、実際に、香港に住んでいると、じぶんの感覚と見方がときに<凝固>してしまうことがある。
だから、香港の外から来る人たちの感覚や感想は、ときに、(ぼくを含め)香港に長く住む人たちの感覚や味方を<溶解>し、新鮮な風をおくりこんでくれるのである。
それでも、「香港」に長く住んでいると、やはり香港の「サイズは小さい」と思ったりする。
でもだからといって「つまらない」のではなく、<なんでもある香港>とも言えるのである。
そして、この、<サイズが小さい香港>と<なんでもある香港>の組み合わせは、圧倒的な「便利さ」を、ここ香港につくりだしてもいる。
さらには、<なんでもある香港>は、長く住んでいても、すべてを行きつくせないほどの「なんでも」に充ちてもいる。
香港12年目のぼくだって、行きつくせていない。
このような「香港で生きる経験」をつんで、ぼくは、電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』の「17番目のこと」として、「17 「香港のサイズ」を活用する。」と書くことになる。
これだって、当たり前のことと言えば当たり前のことである。
けれども、香港で実際に長く住んでいると、「香港は小さいなぁ」とかつぶやいたり、見方が小さくなってしまうから、「「香港のサイズ」を活用する。」視点は、香港でよりよく生きるために「とても大切なこと」だと、ぼくは思う。
住んでみて直面することがあり、そこで生きていくなかで、じぶんの納得する仕方で気づくことがあったりする。
香港に住み始めて、12回目の夏を過ごしながら、ぼくはそんなことを考える。
香港の「新界」が清朝からイギリスに租借されたのが1898年で、それから1997年に中国に返還されることになったのだけれど、1898年から今に至るまでは約120年。
ぼくは、その約10分の1もの時間を、ここ香港で過ごしたことになる。
中国に返還されてからの時間では、ぼくは、その半分以上を、ここ香港で過ごしている。
見方によっては、それはとても不思議な感覚を、ぼくに与える。
香港で、改装された飲食店に立ち入って、感じたこと、かんがえたこと。- 「環境」と「人」と。
香港では、店舗やレストランなどの「内装」や「外装」が頻繁に変わる/変えられる。
香港では、店舗やレストランなどの「内装」や「外装」が頻繁に変わる/変えられる。
(いろいろと背景や事情はあるのだけれど/あるのだろうけれど)それにしても、よく変わる。
「転がる香港に苔は生えない」(星野博美)と言われるように、香港はまさしく転がりつづけ、動きつづける。
あるチェーンの飲食店の改装工事が終わって、足を運んでみる。
「以前」とは、まったく様相が変わり、デザインだけでなく、雰囲気も変わっている。
でもぼくが驚いたのは、いつもの週末であれば、ひどく混んでいる店内に、結構空席が見られたこと。
そういうわけで、店内はしずかでもある。
来ている人たちも、以前とは少し異なった人たちのようにも感じられる。
ふと、「環境」は、その環境にマッチするような人たちや振る舞いを引き寄せる、ということをかんがえる。
店内を見渡しながら、そのことが「当てはまる」のかどうかはわからず、「たまたま」だけかもしれないとも思う。
- ある視点で、「仮説」を立てる
- ある期間、定点観測をする
- 1の仮説を2から、かんがえてみる
ぼくが、ここ香港で、10年以上にわたって、いくどもいくども繰り返してきたプロセスである。
今回も、とりあえず、「仮説」を据え置いて、これから「定点観測」をしてゆくことになる。
それにしても、「環境」ということをかんがえると、人は環境につくられ、また環境は人につくられることをかんがえる。
「歴史」ということでも同様で、人びとは歴史をこうむるだけでなく、歴史は人びとによってつくられる。
「環境」や「歴史」のカッコ内はいろいろと変えることができ、たとえば、「組織」など、いろいろなバリエーションがある(動詞部分、「つくる」も変えることで、いろいろばバリエーションがある)。
いずれにしても、なにかに<働きかけられる>ものとしての人と、なにかに<働きかける>ものとしての人がいる。
そのような相互作用のなかに、「環境」が生まれ、また「歴史」が生まれる。
こんなことを書いても、言っても、「意味がない」と思われるかもしれない。
けれども、ぼくたちは、ときどきの状況によって、<働きかけられる>ことか、あるいは<働きかける>ことのいずれか(だけ)に焦点をあてて、<働きかけられ/働きかける>ものとしてのじぶんを、どこかに忘れてしまう。
だから、ときに、ぼくはこんなことを思い起こして、「じぶんのいる場所」をたしかめてみたりする。
香港で、「Hong Kongに行きたい」と書きつけたときのことを振り返る。- ニュージーランドに住みながら書きつけたこと。
ニュージーランドに住んでいたときの「日記」をパラパラと読み返す。
ニュージーランドに住んでいたときの「日記」をパラパラと読み返す。
1996年4月、ぼくはニュージーランドの商業都市オークランドに降り立っていた。
身体の深いところからくる衝動に導かれながら、大学2年を終えたところで大学に休学届けを提出し、東京のニュージーランド大使館でワーキングホリデーのビザを取得して、ぼくは大韓航空で韓国を経由して、ニュージーランドのオークランドに降り立った。
とくに具体的な計画をつくっていたわけではなく、とにかく、ひとまずニュージーランドに降り立つことを、ぼくは大事にした。
20歳を迎える、少し前のことであった。
オークランドに到着し、はじめのころは、中心街のQueen Streetにある「Aotea Square」に隣接していたバックパッカー向けの宿に宿泊していた。
街の中心にあり、ビジターセンターもあったから、なにをするにも便利な場所であったし、ぼくはその宿が気に入っていた。
ただし、オークランドに来てから「次の一歩」がうちだせず、気持ちが焦りだしたころ、宿の共有キッチンの掲示板に、たまたま「farm helper in NZ」の文字を見つけたのを契機に、ぼくはファーム・ステイをしてみようと思い立ったのであった。
オークランドを離れ、まずは温泉で有名なロトルアというところに行き、そこからファームへ移動した。
その数日間のファーム・ステイをしながら、やはりオークランドに戻って、仕事と滞在先を見つけようと、ぼくの意志は方向づけられていく。
そうして戻ったオークランドは、いつもとは違う街に見え、ぼくはそこで、仕事探しと家探しをはじめたのであった。
そのような、「はじまり」の不安と期待のなかに置かれながら、ぼくはなぜか、つぎのように、唐突に、日記に書きつけている。
「Hong Kongに行きたい。何がそんなに引きつけるのか」と。
香港へは、そこから9ヶ月ほど前に、訪れていた。
大学の夏休みを利用して、香港から広州、広州からベトナムへ行き、そこからまた広州・香港へと戻ってくるルートで、一人旅をしていた。
香港に滞在したのは、数日であった。
それほどいろいろと散策したわけではなかったのだけれど、なぜか、9ヶ月後のニュージーランドで、ぼくは「Hong Kongに行きたい」と、思ったのであった。
そんなことを書いたのは、今の今まで記憶しておらず、ほぼ20年後の今、書きつけられた文字を、ぼくは見つける。
大学でぼくは「中国語・中国文化」を専門としていたのだけれど、ニュージーランド滞在時から、ぼくは「国際関係論」という分野にひかれ、またその関心がやがて「途上国研究」の方向へと水路を見出してゆくことになる。
さまざまな変遷を経験しながら、ぼくは2002年、NGO職員として西アフリカのシエラレオネに赴任し、「中国・香港」からはますます距離が離れていくことになった。
そのシエラレオネの滞在中に、今でも覚えているのは、同僚が持参してくれたAERA誌に見つけた「香港SARS」の記事であった。
シエラレオネの、当時水も電気も通っていないコノという街で、ぼくはこの記事を読みながら、その出来事の深刻さを感じるとともに、出来事がはるか彼方のところで起こっているように感じたものだ。
そのシエラレオネを去り、次は東ティモール。
アジアに来たとはいえ、さらに「中国・香港」からは距離が離れていった感があった。
その感覚は、とくに良いものでも悪いものでもなく、ただそのように感じただけであり、ニュージーランドで「Hong Kongに行きたい」と思ったことなど、ひとかけらの記憶も、ぼくの意識には上がってこなかった。
ただし、人生の道ゆきは、ときに、思ってもみないところに、つながり、またひらかれてゆく。
人との出会いに導かれながら、東ティモールの後に向かったのが、「香港」であった。
その「香港」に来たのが2007年のことであり、それから10年以上が過ぎたことになる。
そんな地点において、ニュージーランドの日記に書きつけた「Hong Kongに行きたい。何がそんなに引きつけるのか」の言葉を見つけ、とても不思議に、そしてとても面白く思う。
「願いは叶う」ということだけに還元できない何かがあるようにも思う。
むしろ、「何がそんなに引きつけるのか」というところに「何か」があるのかもしれない。
「何がそんなに引きつけるのか」わからない場所や人や事柄に、ぼくたちは、生きていくなかで、引きつけられていく。
なんとなく言葉にすることもできるのだけれど、それだけでは何かが欠けているように感じる。
そんなふうにして言葉にして「何が」を突き詰めてゆくよりも、そこに、入ってみる、飛び込んでみる。
あるいは、「何が」は、<未完了な事柄>として、いずれ、じぶんのところにやってくるのだとも、言える。
そんなところから、<じぶんの生>が展開し、ひらかれてゆく。
ぼくの経験の地層は、ぼくにそのように語っている。
そして、ぼくはじぶんに問うてみる。
「何がそんなに引きつけるのか」と感じさせる「何」とは、今のぼくにとって何だろうか、と。
香港で、「よく使われる英語表現」にみる<香港>。- 言葉に表出する、社会と生活の諸相。
香港で、よく使われる英語表現がある。
香港で、よく使われる英語表現がある。
しばしば、ビジネスやサービスにおける「書き言葉」として使われる英語表現で、フォーマルな場における通知(アナウンスメント)に使われたりする。
香港に住んでいらっしゃる方、香港に住んでいらっしゃった方は、ぜひ、少しばかり、かんがえてみてほしい/思い出してみてほしい。
どの英語表現だろうか、と。
なお、よく使われる英語表現の「統計数値」があるわけでもなく(少なくとも、ぼくは知らない)、ぼくが10年以上にわたって、ここ香港に住み、仕事をしてきたなかで、よく接してきた英語表現である(今回のこのブログのポイントは、その「正確性」ではありませんので、そこはあらかじめご了承ください)。
香港で、よく使われる英語表現(しばしば「書き言葉」としての英語表現)として、つぎのものが挙げられる。
「Sorry for any inconvenience caused.」
日本語に訳すとすると、「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。」である。
なにか、不便や面倒や迷惑をかけるような事態(小さなことから大きなことにいたる事態)を引き起こしたとき、文面の最後に(あるいは通知などの最後に)、この言葉がおかれる。
eメールのやりとりでも、この言葉が使われることがある。
じぶんの「海外生活」をふりかえってみて、香港以外で、ぼくはこの言葉を使ったり、目にした覚えがない。
ニュージーランドでも、西アフリカのシエラレオネでも、東ティモールでも、英語のやりとりにおいて、ぼくはこの表現を使ったことはない(少なくとも使った覚えがない)。
ぼくの体験・経験上のこととして、この英語表現は、「香港」で、よく使われる表現なのである。
この英語表現におけるキーワードのひとつは、「香港」という社会と生活を軸にかんがえると、「convenience」ということであるかと思う。
この英語表現に表出されているのは、「convenience」(便利さ)ということにかけられている、社会や生活のエネルギーである。
香港という社会とそこでの生活は、とにかく、「便利さ」において突出している。
社会システムのさまざまな側面が、この「便利さ」に向けて、構築されてきたようなところがある。
街の構造も、交通機関の作られ方も、政府関連の手続きも、便利なのだ。
そして、この「便利さ」と重なり合いながら、「スピード(迅速さ)」があることで、変わり続け、止まることのない、香港のダイナミズムをつくりだしている。
だから、この「便利さ」を阻害するようなものやことがあったとき、そこに注がれてきたエネルギーが突如にせき止められて、フラストレーションを起こす。
そのフラストレーションをおさえるかのように、「Sorry for any inconvenience caused.」の表現が投げかけられるのだ。
この表現の多用は、「convenience」(便利さ)に注ぎ込まれる社会や人の力の強さを逆に表出しているように、ぼくには見える。
こうして、「Sorry for any inconvenience caused.」の表現は、今日も、そこかしこで、使われているのである。
「麺をすする音」のちょっとした文化考。- 世界で暮らしてゆくときには。
世界で暮らしていくうえで、「麺をすする音」には一歩立ち止まって考え、じぶんの「麺の食べ方」を定位しておくところである。
世界で暮らしていくうえでは、「麺をすする音」について一歩立ち止まって考え、じぶんの「麺の食べ方」を定位しておくことである。
日本でも外国からやってくる人たちが増え、「ヌードルハラスメント」(略:ヌーハラ)なる和製英語があることを、ぼくは初めて知った。
Wikipediaでは、「日本人に多く見られる『麺類を食べるときに、麺をすすってズルズル音を立てる』食べ方が、猫舌の人や外国人に不快感を与えるとして慎むべきであるとする主張を示す和製英語」と書かれている。
そもそもは「麺をすする音をカモフラージュする機能を搭載したフォーク」(日清食品)の動画を見ていて、この言葉に触れたのであった。
「麺をすする」のは日本人だけというふうに以前は思っていたのだけれど、ここ香港に住んでいて、「そうでもないな」と実際の生活レベルで体験する。
「日本人だけが…する/日本だけが…だ」と言われる事柄のいくつかは、実際に海外に住んだり旅したりするなかで、必ずしもそうではないはないことを、ぼくは目にしてきた。
その一つが「麺をすする」ということであり、ここ香港で、だれもがというわけではまったくないけれど、外食しながら、ぼくは隣の席に「麺をすする音」を耳にすることがある。
「実証」としては、ぼくの経験上多くは決してないけれど、一度や二度や三度のことではない(ただし、実証研究に耐えるような観察ではなく、あくまでも、ぼく個人の日常観察ですが)。
でも、ここからが、文化考のひとつとして面白いところなのだけれど、ポイントは「環境の前提条件」である。
日本の環境は、まずはじめに、「静かな環境」で(静かに)食べるということへ条件が設定されたうえで、「麺をすする音」が聞こえる。
ところが、たとえば香港では、この最初の条件設定がなしに、ワイワイガヤガヤで食べるという環境があるから、「麺をすする音」は聞こえても、気にならない。
「麺をすする音をカモフラージュする機能を搭載したフォーク」がカモフラージュ音を流すことでノイズキャンセルする一方で、「ワイワイガヤガヤ」の環境は、会話音を自然のごとくに流すことでノイズ自体を無効化するのだ。
そんなちょっとしたことを、ぼくは香港にいながら、文化のはざまで、かんがえる。
ぼくのことで言えば、ぼくが「麺をすする音」を明確に意識しはじめたのは、ニュージーランドに暮らしているときであった。
大学2年を終えて休学し、ワーキングホリデー制度を利用して住んだニュージーランド。
シェアハウスでニュージーランド人たちと共に共同生活をしたり、バックパッカー宿やキャンプ場で過ごしたり、またニュージーランドを旅しながら夕食をご馳走になったりしながら、ぼくは、「麺をすすらない」麺類(スパゲティ)の食べ方を習得し、身につけていった。
おそらく、そこが出発点で、それからも海外の人たちと時間や食事を共にすることがそれなりにあって、ぼくは、日本でも日本の外でも、「麺をすすらない食べ方」をじぶんの食べ方として選んできた。
世界で生きてゆくためには、「麺をすする」食べ方を大切にする場合も、「麺をすすらない」食べ方も身につけておきたい。
時と場所によって「麺をすする/麺をすすらない」という選択ができるように。
「麺をすする音をカモフラージュする機能を搭載したフォーク」(フォークにしては大きいフォークだ)をいつも持ち歩くわけにはいかないし、カモフラージュ音が気になってしまうような時と場所もあるだろう。
なお、ぼくは「麺をすする」食べ方を世界のどこででも通すほどそこにこだわっていないし、また「麺をすする/麺をすすらない」ことをその時々で選択するのも面倒だしと、「麺をすすらない」食べ方を、すっかりと身につけただけだ。
「麺をすする」文化の退行だとある人は言うかもしれないけれど、ぼく一人がやめても、その影響のかけらもなにもないと、ぼくは思う。
香港で、「虹」の風景に出逢って。- 最近、<虹>をご覧になりましたか?
最近、「虹」を見ましたか?この問いを、たとえば1ヶ月前に問われたとしたら、こう応えていただろう。
最近、「虹」を見ましたか?
この問いを、たとえば1ヶ月前に問われたとしたら、こう応えていただろう。
「最近は見てないですね。それに、“最近”だけでなく、最後に虹を見たのがいつか、思い出せないですねぇ」と。
そう、最後に見たのが、いつ、どこであったのか、ぼくには記憶がない。
東ティモールであったか、西アフリカのシエラレオネであったか、あるいはそもそも東ティモールとシエラレオネで、ぼくは虹を見たのか。
見たような気もするが、いずれの場所にいたのも10年以上前のことで、はっきりと覚えていない。
それから、今ぼくが住んでいるここ香港で、虹を見たかどうか、この記憶も定かではない。
なにはともあれ、先日、ここ香港で、ぼくは「虹」の風景に遭遇した。
最後に虹を見たのが、いつ、どこであったか覚えていなかったからか、ぼくは、すっかりと、その風景に心を揺さぶられたのだ。
じぶんの内面の奥深くを揺さぶる<虹>であった。
それにしても、最近、都会で虹を見ることは減ってきているのではないかと、そんな仮説をたててみる。
もし虹があまり「現れなくなっている」とすれば、それは、「人間」の側の問題だろうか、あるいは「(自然)環境」の側の問題だろうか、さらには「人間と(自然)環境の<あいだ>」の問題だろうかと、ぼくはかんがえてしまう。
「人間」が、現代社会において、さらに自然から切り離された生活をおくるようになったのだろうか。
「自然環境」が、環境破壊や公害などの影響をより受けているのだろうか。
あるいは、上記とも関連して、人間と自然環境との「むすびつき」が弱くなっているのだろうか。
もちろん、ただ、ぼくが見ていなかっただけ、ということもありうる。
ともあれ、ぼくは、ここ香港で、虹を見た。
虹の「色」は、時空間によって、つまり時代と文化によって、その見られる仕方が異なってきたものであり、何色に見られるかは「実際の色」ではなく、人間の「見方」に規定されてきたものである。
Wikipedia(ウィキペディア)は、「虹」の項目において、その発生の科学的説明を含めて、それ相当の解説をのせている。
虹という現象が人を惹きつけてやまないからであろう。
解説の多くの部分が割かれている、虹にかんする「科学的説明」はとても興味深いものである。
でも、それと共に、ぼくは、神話や伝説や物語などに描かれてきた<虹>にも惹かれる。
人びとの心をとらえる<虹>は、人びとに彩り豊かな想像を抱かせる。
大切なことは、虹の発生の仕組み(科学)を知ることと共に、それだけに思考を還元してゆくのではなく、<虹>に感動する感受性とそこから想像力を解き放つことでもあるように思う。
宮沢賢治が、「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」(宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫)と書くとき、それは賢治にとって、ほんとうのことであったと思う。
香港で「虹」の風景に出逢った余韻のなかで、ぼくは、つぎのように書く。
最近、<虹>をご覧になりましたか?
香港で、小売店の「動き」にびっくりし、また納得して。- こうして香港は動きつづける。
香港では、小売店やレストランは、利用する側から見れば、よく「変わる」。小売店やレストラン側の視点から言えば、よく「動く」。
香港では、小売店やレストランは、利用する側から見れば、よく「変わる」。
小売店やレストラン側の視点から言えば、よく「動く」。
このダイナミズムが、「香港」を象徴しているようなところがある。
このダイナミズムには、たとえば、それを駆動する「賃料」の高騰があり、それに追随できる店舗で次第にショッピングモールは埋められ、それが繰り返されていく。
利用する側としては新しい店舗に「楽しみを得ること」(あるいは逆に望まない店舗などに「不都合・不便であること」)、小売やレストランを運営する方としては「頭を悩ますこと」(あるいは逆に「入居できるチャンスが増えること」)であったりする。
よく変わる/よく動くから、香港のショッピングモールなどでは、小売店の、いわゆる「閉店セール」を頻繁に見ることになる。
厳密には、店舗の「契約期間満期」に伴うセールと、店頭には書かれたりする。
微妙な言い方だけれど、契約期間満期で契約を更新しないことになる。
そうして、小売店は「セール」を展開していく。
それは期間的に、だいぶ前からはじまったりするのである。
あるショッピングモールで、ある小売店が、上述のような「セール」を展開していた。
いつ終わるかは明示されておらず、店舗契約期間満期に伴うセールで、店内には多くの人たちが買い物をしている。
でもよくよく聞くと、この店舗が閉じられるのは、数ヶ月先のことであった。
その間も「セール」は続けられ、ようやく閉店の週になって、あと何日、という文字が現れることになる。
それなりに店内は混み合っているようだ。
後日、その店舗の場所が改装工事に入っているのを見つけて、ようやくその時が来たんだと思っていたら、そこから数店舗を隔てたところに、その店舗の看板が見えた。
そこの場所もちょうどある小売店が出ていったところであったが、その場所に店を構えたようだ。
もちろん店舗サイズはまったく同じわけでもないし、したがって品揃えも異なってくる。
けれども、ぼくは、びっくりし、感心してしまった。
たとえば日本であれば、あるショッピングモールで閉店セールをすれば、やはりそこからは撤退することを前提としているように思える。
そこには「いろいろな意味合い」が込められたりする。
しかし、ぼくが見た光景は、まるで儀式のように閉店セールが行われ、そのセールを売る側も利用する側もひとつの「機会」とし、そして期間が終わるとなにごともなかったように、「次」へと時間のコマをすすめる。
もちろん、裏舞台では「いろいろな意味合い」が込められていたのかもしれないのだけれども、「表舞台」で見ていたぼくは、一瞬、頭の回路が混乱し、「待てよ」と頭の体制をととのえなければいけなかったのだ。
びっくりし、感心し、そして同時に、ぼくは「香港だなぁ~」と納得してしまった。
つぎからつぎへとすすんでゆく時間、プラクティカリティ、変わりつづける諸相とそれらのエネルギーなどが、いっぺんにぼくの目の前に見せられたようであった。
そうして、ぼくは、開店したばかりの、新しいお店に立ち寄ったのであった。
(注)「写真」はイメージのみ。
香港で、香港MTRの鉄道路線「South Island Line(南港島綫)」に乗る。- 「体験」としての、生きる。
香港MTRの鉄道路線のひとつ、「South Island Line(南港島綫)」の電車に初めて乗る。
香港MTRの鉄道路線のひとつ、「South Island Line(南港島綫)」の電車に初めて乗る。
「South Island Line(南港島綫)」は、香港島の「Admiralty(金鐘)」駅から、香港島を縦にぬけてゆく路線である。
2016年12月に全面的に開通してから、だいぶ経っていたのだけれど、特に利用する機会もなく、今にいたっていた。
Admiralty駅に行くことはそれなりにあったけれども、なんとなく、乗らないままにいたのだ。
乗ってみて、やはり「体験」ということの強さを、思い知らされることになる。
路線に乗り換え、路線に乗る感覚がからだのなかに組み込まれ、そして「便利さ」がよくわかる。
香港島(の一部)を「縦」にぬけてゆく路線ができたことで、「South Island Line(南港島綫)」のAdmiralty駅の次の駅名ともなっているテーマパーク「Ocean Park(オーシャンパーク)」に行くのも、とても便利になった。
それまでは、Admiralty駅で、バスにのりかえ、あるいはタクシーにのって、「Ocean Park」へと向かう必要があった。
乗り換えはそれなりに時間も手間もかかったし、また途中渋滞することもあった。
それが、他の鉄道路線からの連絡通路でつながった「South Island Line(南港島綫)」にのって4分で、「Ocean Park」に着いてしまう。
これは、やはり乗ってみて、体験してみて、よくわかった。
また、その他にも、「South Island Line(南港島綫)」の電車は、自動のシステムで動き、先頭車両からは、電車が進んでゆく風景を見ることができるなど、新しいテクノロジーが採用されている。
こんなことも、乗ってみるまでは、やはり知らなかった。
この日は、用事があって、Admiralty駅で乗り、Ocean Park駅の次の駅「Wong Chuk Hang(黄竹坑)」で降りて、帰りはAdmiralty駅に戻っていくだけであった。
それでも、たくさんの感覚と情報が、ぼくのからだに入ってくるのであった。
それにしても、香港は、交通機関がはりめぐらされており、移動するのにとても便利である。
もちろん、そのことも、実際にじぶんのからだで動いて体感していくことのなかに、<実感>として形成されてくるのだ。
ぼくたちが、日々を生きるということは、このような「体験」の積み重ねのうちに、ぼくたちの<物語>が織り込まれてゆくものである。
「文化的無臭性」(四方田犬彦)という視点。- 香港における「日本の小説やテレビ」を通してかんがえる。
香港の文学者である也斯(1949~2013)は、比較文学学者の四方田犬彦との往復書簡(四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』岩波書店、2008年)のなかで、じぶんの生い立ちを随所で語りながら、也斯より若い世代の香港の人たちが、日本のテレビドラマを見て育ってきたことを語っている。
香港の文学者である也斯(1949~2013)は、比較文学学者の四方田犬彦との往復書簡(四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』岩波書店、2008年)のなかで、じぶんの生い立ちを随所で語りながら、也斯より若い世代の香港の人たちが、日本のテレビドラマを見て育ってきたことを語っている。
誰でもよく知っているテレビドラマとして挙げられているのは、『キャプテン翼』『きまぐれオレンジロード』『キャンディ・キャンディ』『Dr. スランプ アラレちゃん』『ミスター味っ子』『ロングバケーション』『おいしい関係』などである。
また、也斯の子供たちは、『ドラえもん』『美少女戦士セーラームーン』『ちびまる子ちゃん』などを見て育ってきたという。
ここ香港では、今でも、街のなかで、『キャプテン翼』『ドラえもん』『アラレちゃん』『ちびまる子ちゃん』などを、よく見る。
先日はショッピングモールのイベント会場に『キャプテン翼』を見て、とても不思議な感じがすると共に、「キャプテン翼」の根底に流れる<普遍性>のようなものをかんがえていたところである。
ところで、四方田犬彦は、也斯への手紙のなかで、小説家の村上春樹の作品に言及しながら「文化的無臭性」という問題にふれている。
…恐るべき文化的無臭性が、ハルキの小説の根底に横たわっているのです。
誤解がないようにいっておきますと、わたしはハルキの作品が日本文学ではないと、単純化していいたいのではありません。彼はどこまで日本語で書き、日本を舞台に日本人を描いてきた作家です。ただ、強調したいのは、彼がこれまで海外の眼差しがステレオタイプとして享受し、また期待もしてきた日本的なるものから、完全に距離をとっているという事実です。…
四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)
香港でも、村上春樹はよく読まれており、新作が出ると、店頭に高く積まれることになる。
村上春樹の作品の登場人物を中国人名にしてみたら、香港の物語と受け取る香港の人たちは多いのではないかと、四方田は書いている。
そのような「文化的無臭性」に包まれる村上作品が海外に波及していく仕方は、「ある意味で日本のアニメや漫画、またTVゲームのそれと平行」していると、四方田はさらに指摘している。
そうして、日本文化であっても、香港文化であっても、それらの「ローカリティを犠牲にし、無臭性に徹することでしか、外国に受容されない」のだろうかと、彼はじぶんに問い、思考をめぐらせている。
「キャプテン翼」の<普遍性>のようなことをかんがえていたら、ぼくは、四方田犬彦のいう「文化的無臭性」という視点に、たまたま出くわしたのである。
世界の都市の風景と生活スタイルが「文化的無臭性」の方向に、一様化されてきているようなところは、実際の経験のなかで感じる。
「一様化」という言い方よりも、グローバリゼーションの流れにおける「標準化」の力である。
文化の地層を深く掘っていくことを通して、その根底に諸々の文化を通底するような水脈につきあたるのではなく、それとは逆の方向に「標準化」してしまうような力学だ。
「文化的無臭性」という見方をその表層においてぼくは理解しつつ、村上春樹の作品の根底に「文化的無臭性」が横たわっているのかどうかは、ぼくにはわからない。
村上春樹自身が語るように、無意識の次元に降りて書くようなスタイルは、むしろ人間のなかの深い水脈に降りていくこともできるかもしれず、それは文化的無臭性とは逆の方向に<普遍性>を見出すようにも思えるからだ。
ぼくにはわからないけれど、ただ言えることは、ぼくたちの生は(ひとつの)文化だけに規定されているわけではなく、例えば「生命性/人間性/文明性/近代性/現代性」(見田宗介)というようにそれぞれが共時的に、ぼくたちのなかに生きつづけているということである。
それでも、「文化的無臭性」という四方田犬彦が提示した視点と問題は、ぼくのなかに収めておきたい視点と問題提起である。
香港で、じぶんのなかに「漠然と抱く香港の映像」をイメージする。- 四方田犬彦の「三つの映像」に触発されながら。
比較文学学者の四方田犬彦はかつて、香港文学の第一人者である也斯との5年間にわたる往復書簡の初めの手紙を、つぎのように書き始めている。
比較文学学者の四方田犬彦はかつて、香港文学の第一人者である也斯との5年間にわたる往復書簡の初めの手紙を、つぎのように書き始めている。
親愛なる也斯に
小学生の頃、わたしが漠然と抱いていた香港の映像は、三つの映像から出来あがっていました。女王陛下と、ネオンが華やかに輝く夜景と、それに高台から見下ろされた美しい海です。ここにきみに向かって長い手紙を書き始めるにあたって、わたしはまずこの三つの映像の起源について、お話ししなければなりません。…
四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)
四方田犬彦が「小学生の頃」とは、1950年末から1960代前半にかけての頃で、もちろん香港が「返還」(1997年)される前のことである。
往復書簡は『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)という本にまとめられ、とても親密な文体で、香港と東京というアジア二大都市の街の風景、飲食、映画、文学などが描かれている。
その最初が、四方田犬彦にとっての「わたしが漠然と抱いていた香港の映像」であり、長い手紙の書き出しとして、それはとてもすてきな書き出しであるように、ぼくは思いながら読む。
読みながら、ぼくは、ぼくにとっての「わたしが漠然と抱いていた香港の映像」とはなんであっただろうかと思い出そうとする。
「小学生の頃」は、ぼくにとっては、1980年代にあたる。
それから、1995年に、初めて香港に降り立つときまで、「わたしが漠然と抱いていた香港の映像」はどんなものであったろうか。
「三つの映像」を挙げるとすれば、ジャッキー・チェン、「百万ドルの夜景」、高層ビル群、である。
でも、それらの「起源」となると、四方田のように、ぼくは語ることができるほどの記憶がない。
でも、テレビで、ジャッキー・チェンの映画のなかに、「香港」を観ていたことは確かだ。
夜景も、高層ビル群も、もしかしたら、映画のなかの映像であったかもしれない。
2007年、四方田犬彦と也斯との好奇心に充ちた往復書簡が終わるころに、ぼくは東ティモールから、香港に移り住むことになる。
それから10年以上の時間のうつりかわりを、ぼくはここ香港で生きることになる。
その間に、ぼくの「三つの映像」はどうなっただろうかと、じぶんのなかを見つめてみる。
もちろん、今は「漠然と抱いた映像」ではなく、「現実としての映像」が日々目の前にひろがっている。
「現実としての映像」を目の前に、じぶんのなかの映像を見るということは、おかしく聞こえるかもしれない。
けれども、「じぶんのなかの映像」を通して、あるいはその世界観を通して、ぼくたちは「現実としての映像」を見ていたりする。
そのようにして、「三つの映像」を思い浮かべて見て、ぼくに見えるのは、香港の海、(高速で時間を回しながら映像が移り変わる)高層ビル群、そして(まるでフランドルのタペストリのように)装飾された香港の多様性に充ちたイメージ、である。
それぞれの映像は平面というより、さまざまな時空が映像に凝縮されて、立体的になっている。
現時点での香港に抱く「三つの映像」を思い浮かべながら、「ある場所で生きる」ということは、映像が<立体的になる>ということかもしれないという想念が、ぼくのなかにわいてくる。
香港で、「キャプテン翼」に出会い、諸々のことをかんがえる。- 子供の頃の「あこがれ」を見つめる。
ここ香港のショッピングモールで、「キャプテン翼」に出会う。
ここ香港のショッピングモールで、「キャプテン翼」に出会う。
ワールドカップの時期にあわせられたであろう、「キャプテン翼」をモチーフとしたイベントだ。
「キャプテン翼」は、1980年代に/から日本で人気を博したサッカー漫画である。
連載開始から35年以上も経過する漫画が、ここ香港でも、その存在感を放っている。
香港の人に「日本のどこのご出身ですか?」と聞かれたら、「静岡という県で、キャプテン翼と同じですよ」と答えることができる。
それにしても、ぼくが子供の頃「はまっていた」この漫画に、こうして出会うのは、とても不思議な気持ちがする。
そんな不思議な気持ちを抱きながら、子供の頃のぼくにとって「キャプテン翼」の存在は、とても大きかったのだと、あらためてかんがえてしまう。
ぼくは「キャプテン翼」に惹かれてサッカーを始めたりしたわけではない。
でも、香港で「キャプテン翼」に出会って、昔のことを思い出していたら、ぼくは「大空翼」という存在にあこがれていたんだという記憶がよみがえってくる。
漫画を読み、テレビで観て、またときにはサッカーボールを蹴りながら、ぼくは「大空翼」になりたかったんだという記憶。
そして、漫画という世界に、生きるということの大切なことを学んでもいたのだと、今になって思う。
大空翼がもつ「ボールは友達」という信条に、直接的に、あるいは間接的に影響を受けた。
それは、「モノ」や「道具」にたいする態度、距離感のようなものを、ぼくのなかに生成させたのだ。
また、キャプテン翼の登場人物の小さいフィギアを手に入れて、サッカー場の全体を俯瞰しながら、試合運びを想像したりして遊んでいたことも、場の<全体を見る眼>を養ってくれたのかもしれない。
そして、なにより、<夢を追う>ということにおいて、ぼくは大空翼に学んだのだと思う。
ぼくはときおり、今をよりよく生きるために、「昔のじぶん」(今のじぶんのなかに生きている昔の「じぶん」)を見つめ直すワークをみずからやったりするけれど、「大空翼」の存在は忘れていたことに気づかされる。
それが漫画であったからかもしれないけれど、逆に漫画の人物だからこそ、「現実」を超えたところに飛び立つような存在だからこそ、ぼくたち(子供たち)に与えてくれるものがあるのかもしれない。
ところで、昨年2017年、BBCニュースを読んでいたら、内戦の続くシリアの難民の子供たちに、「キャプテン翼」の漫画が届けられているという記事を見つけて、驚きと歓びを覚えたことも、この機会にぼくは思い出す。
日本に留学していたシリア人の方が、何かできないかと、協力を得ながら、「キャプテン翼」のアラビア語版を作成し、それが子供たちに届けられたという。
子供の頃、ぼくがキャプテン翼に学び、楽しみ、夢を抱いたように、今も、世界の子供たちが「何か」を得ている。
そんな諸々のことを、香港のショッピングモールで「キャプテン翼」に出会って、かんがえる。
それにしても、「キャプテン翼」がこれだけ時空を超えて愛されつづける、その<普遍性>はどこにあるのだろうかと、ぼくの「分析理性」が作動する。
香港で、「啓徳空港」の跡地(クルーズ・ターミナル)に「歴史」を見る。- 想像力が飛び立っていくところ。
香港の暑い日に、以前の「香港国際空港」であった「啓徳(カイタック)空港」の跡地を訪れる。
香港の暑い日に、以前の「香港国際空港」であった「啓徳(カイタック)空港」の跡地を訪れる。
啓徳空港は、20世紀の香港の歴史をかけぬけてきた空港でもある。
1998年に閉港され、跡地は、現在では「啓徳クルーズ・ターミナル」となっている。
ぼくが初めて香港を旅したのは、1995年の夏のことであった。
成田空港からユナイテッド航空にのって、当時はイギリス領であった香港の地に、ぼくは降り立った。
中国への返還の2年前のことで、当時は、まだ啓徳空港が使われていた。
ぼくにとっては、初めての空の旅であったし、初めて降り立った海外の空港であった。
この旅の前年に、ぼくは中国を旅していたけれど、行きも帰りも、いずれもフェリーの旅であった。
そういうことで、啓徳空港は、ぼくにとって思い出深い場所であり、20年以上が経過して、ぼくはその跡地をふみしめることにした。
九龍湾と呼ばれる駅から、ミニバスにのって、10分ほどで、「啓徳クルーズ・ターミナル」に行くことができる。
クルーズ・ターミナルの細長い施設が、跡地に、悠然と建てられている。
ミニバスで跡地の道のりを確かめながら、こんな小さな場所に空港があったことを、ふたたび感じさせられる。
啓徳空港は、滑走路はひとつで、市街地につらなる場所に位置し、着陸がむずかしい場所であったことを、ぼくは啓徳空港に着陸しながら/着陸して、知ることになる。
1995年、ユナイテッド航空の窓から香港の夜のネオンを間近に見ながら、機体が大きく旋回しながら、まるでジェットコースターのように滑走路に降り立っていったのだけれど、着陸と同時に沸き起こった、乗客たちの歓声と拍手に、ぼくは啓徳空港というものを知らされることになったのだ。
今もYouTubeなどの動画で啓徳空港の様子を見ることができるけれど、なかなかスリリングな着陸を、ぼくたちは映像で確認することができる。
タイミング的なものか、静まりかえった「啓徳クルーズ・ターミナル」を歩きながら、かつての啓徳空港のイメージが、ぼくのなかで重なってくる。
かつての啓徳空港の名残は、クルーズ・ターミナルの細長の形態にしか見られないくらいだけれど、何もない跡地にだって、ぼくたちは「歴史」を見ることができる。
日本にいるときには、城跡など、ただ草むらしかないような跡地に、ぼくは古き戦国の世を見ることだってできたのだ。
啓徳空港には20年以上前に「実際に」来たのであり、ぼくはありありとしたイメージの断片を呼び起こしながら、そこに「過去」を見ることができる。
ただし、ぼくの記憶のなかには、啓徳空港の空港内の記憶はかなり薄れている。
滑走路に降り立ったところの次に来る記憶は、空港のバス停で、香港の街に出るバスに乗るときのことだ。
宿も決めておらず、街の名前もまったく知らなかったぼくは、夜10時頃の空港のバス停で、西洋人のバックパッカーたちが乗るバスに乗り込んだのであった。
そんな、夜の空港のバス停が、ぼくの記憶に残っている。
「空港」という場所は、いつだって、ぼくたちにとって特別な場所となりうる。
人が、出発する場所であり、帰ってくる場所である。
あるいは、新しく降り立つ場所であり、次なる場所に向かう中継場所である。
現実の場所としてそうありながら、また、ぼくたちの「物語」や「想像力」が、飛び立っていくところでもある。
啓徳空港の跡地から、ぼくはどこに飛び立っていこうとしているのだろうか。