「仁義」ということを「大道」(老荘思想)の水面にうつしてみる。- 見田宗介が読みとる人間の歴史と仁義。
見田宗介著作集を読み返していたら、以前はさっと読み進めていたのだろうけれど、今読むと、ぼくに「せまってくる」エッセイがある。
見田宗介著作集を読み返していたら、以前はさっと読み進めていたのだろうけれど、今読むと、ぼくに「せまってくる」エッセイがある。
「仁義について」というエッセイで、初出は1972年となっている(見田宗介『定本 見田宗介著作集X』)。
当時の若者たちのあいだで、「義理人情」があらたに人気になっている状況で書かれ、しかし、ミクロとマクロ(超マクロ)を自由自在に行き来する見田宗介の視野は、「人間の歴史」にひろがりをみせながら、この「義理人情」ということに独特の光をあてている。
「義」という観念について、古代中国、とくに儒教における「仁・義・礼・智・信」という、日本でもよく知られている徳目から、見田宗介はまずふれている。
この教えに対して、儒教を批判する老荘思想においては、「大道すたれて仁義あり」ということが対置される。
「大道」とは、「人間と自然、人間と人間との原初的な融合・調和の世界」(※前掲書)であるという。
つまり、融合・調和の世界がうしなわれたとき、「仁・義」というものがもちだされてくる。
仁・義がもちだされてくる状況は、すでにして、原初としての「大道」がすたれている状況であるというのである。
日本における「義」の観念の展開について、見田宗介はつぎのようにまとめている。
義という観念は日本にきて「義理」として具体化される。それは日本の古代世界が解体し、実力と実力とが相争う武士の時代になって、しかもその武士がたがいに固く結束しなければ生きぬいてゆけないところで、そういう主従や同輩の結合をひきしめるきずなとして発展してきた。「義理」のおきてのきびしさは、暗黙の共同性のいまや解体するときに、実力競争の原理というあたらしい遠心力に対抗するための、集団の求心力のきびしさであった。「義理」が強調されるとき、じつはそこには、謀反へのひそかなおそれがすでに伏在しているのである。
見田宗介「仁義について」『定本 見田宗介著作集X』
日本における「義理」ということの展開と本質が、ここに見事にまとめられているように、ぼくは思う。
見田宗介は、さらに、「仁義すたれて…」と言葉を紡ぎ、近代社会のシステムを具体的につくりあげてきた「合理と契約」の世界を「…」にもってきている。
このことは、近代・現代社会を生きる人たちにとっても、日常の体験としているところであったりする。
ビジネスや組織を生き、そして語るときに、「仁義の世界」と「合理と契約の世界」を軸にすることがある。
そこからさらに、「合理すたれて…」と、「暴力」が代入される。
こうして、見田宗介は、つぎのように太い線で、人間の歴史をみている。
大道すたれて仁義あり、仁義すたれて合理あり、合理すたれて暴力あり、というふうに人間の歴史はたどった。
見田宗介「仁義について」『定本 見田宗介著作集X』
「仁義」ということを手がかりに、この太い線で把握する「人間の歴史」を見晴るかす視野は、鮮烈である。
なお、この流れは「太い幹」なようなものであり、仁義や合理や暴力だけがそれぞれの時代を完全に彩っているものではない。
他者たちの言葉にふれながら見田宗介が語るように、いつの時代にも「大道」は生きつづけている。
しかしながら、見田宗介は、「暴力すたれて大道あり」と、流れが円環するかどうかは「よくわからない」と、書いている。
よくわからないけれど、「思う」ところは、若者たちが幻想しているのは、この「大道」であるとしている。
この文章が書かれたときから40年以上経過し、この「思う」ところは、ますます目にみえるようになってきているように見える。
「大道」、つまり人間と自然、また人間と人間の融合・調和の世界をもとめる人たちが、ますます増えてきているのだ。
「義理人情」が描かれる世界に、ときおり、ぼくは魅かれてもきた。
昔の時代の日本を描く小説にあらわれる、義理人情の世界に、あこがれのようなものを抱いたりするのだ。
しかし、そのような「義理人情」「義理」「義」などは、ぼくのなかに、拘束されるような息苦しさを感じさせもする。
老荘思想の提示する<大道あり>の視点は、仁義よりも原初のものとして、仁義というものの、この<両義性>をうつしだす水面のようでもある。
ぼくがもとめる、仁義というものの肯定的な側面は、おそらく、「大道」ということのなかにある、人間と自然、人間と人間の融合・調和の世界なのではないかと、ぼくは思ったりもしている。
「ふたつの歴史」の結合としての夫婦の絆。- 河合隼雄とともにかんがえる「家族関係」。
世界のいろいろなところに住んでいて、いろいろな「家族」と接し、あるいは見ていると、「家族」ということをかんがえさせられる。
世界のいろいろなところに住んでいて、いろいろな「家族」と接し、あるいは見ていると、「家族」ということをかんがえさせられる。
ニュージーランドで、西アフリカのシエラレオネで、東ティモールで、そしてここ香港で、ぼくはいろいろな仕方で、いろいろな家族と接してきた。
家族のしあわせな姿があり、あるいは家族の葛藤がある。
心理学者・心理療法家であった河合隼雄の著作では、いろいろなところで「家族」にふれられているけれど、そのなかに「家族関係を考える」という、正面から家族をかんがえる著作がある。
「家族」というものを、とくに日本の1970年代に変わりつつある家族、親子という関係、夫婦、父と息子、母と娘、父と娘、きょうだい、老人と家族など、さまざまな諸相から論じられている。
「西洋と日本」の差異をつねに意識していた河合隼雄は、ここでも、その差異を丁寧に見極めながら、家族について書いている。
「夫婦の絆」に触れた章で、河合隼雄は、夫婦の絆は親子関係の絆を切断していき、新しい絆の再生をしてゆくことであり、この「分かち合い」を「愛」と呼べることではないかと、提起している。
…夫婦の絆は親子の絆と十字に切り結ぶものである。新しい結合は、古いものの切断を要請する。若い二人が結ばれるとき、それは当然ながら、それぞれの親子関係の絆を斬り離そうとするものである。一度切り離された絆は、各人の努力によって新しい絆へとつくりかえて行かねばならない。この切断の痛みに耐え、新しい絆の再生への努力をわかち合うことこそ、愛と呼べることではないだろうか。それは多くの人の苦しみと痛みの体験を必要とするものである。
河合隼雄『家族関係を考える』講談社現代新書、1980年
夫婦関係をつくってゆくことには、このように、古いものが壊され、新しいものが創られるという、創造の本質がおりこまれている。
この「再生」への努力をわかち合うことこそ「愛」と呼べることではないかと語るところに、河合隼雄の慧眼と生き方がにじみでているのだけれど、さらに面白い言い方として、河合隼雄は、「ふたつの歴史」が結合してゆくのだとして、その「大変さ」を書いている。
夫婦は結婚に至るまで、それぞれの歴史を背負っている。それが結合されるのだから、これは考えてみると大変なことである。各人の古い歴史からの呼びかけは、どうしても新しい結合をゆさぶるものとして感じとられやすい。このような危険性を防ぐため、人間はいろいろな結婚制度や、結婚に伴う倫理をつくりあげてきた。
河合隼雄『家族関係を考える』講談社現代新書、1980年
結婚に伴う制度や倫理は、日本では「家」が大切にされ、女性はこの「家」に嫁入りすることであったりした。
河合隼雄が言うように、「ふたつの歴史」の相克を、制度や倫理が回避させてきた側面がある。
しかし、現代は、そのような制度や倫理は「新しい結婚観」にとってかわられ、「家」ではなく、「個人」を大切にするところとなっている。
そのことは必然のことであるし、またよいことでもある。
けれども、「ふたつの歴史」の相克を身にひきうけて、みずから結合させてゆく「個人」にはなっていないのではないかと、1980年の河合隼雄は書いている。
河合隼雄がこのことを書いたときから、ほぼ40年がすぎたけれど、「個人」ということの確立については、いまだに「途上」であるように、ぼくには感じられる。
ぼくたちの日々の生活の「前線」でもあることからして、「家族」について、ぼくたちはいつもかんがえている。
「かんがえている」のだけれど、家族だからこそ、あまりに近いことだからこそ、よく見えなかったりする。
だから、ときに、「家族」について書かれた著作を読むことは、「家族関係を考える」ことに、より客観的になれる距離をつくってくれる。
河合隼雄は、そんなときの、よき相談者であり、よき伴走者である。
「歴史が好きか、地理が好きか」。- 見田宗介に深い影響を与えた寺山修司との短い会話。
社会学者の見田宗介にとって、劇作家である寺山修司(1935~1983)と喫茶店で交わした「短い会話」が、その後の見田宗介に「ずいぶん深い影響」を与えてきたという。
社会学者の見田宗介にとって、劇作家である寺山修司(1935~1983)と喫茶店で交わした「短い会話」が、その後の見田宗介に「ずいぶん深い影響」を与えてきたという(※参照 討議:見田宗介 X 加藤典洋「現代社会論/比較社会学を再照射する」『現代思想』2015 vol.43-19、青土社)。
見田宗介は気の合った寺山修司との会話について、討議の相手である加藤典洋に向けて、つぎのように語っている。
…一つだけ対立したことがあって、「僕は歴史が好きで地理は興味がない」と言ったら、寺山は「僕は歴史に興味がなくて、地理が好きだ」と言ったことです。「歴史は待たなきゃいけないからきらいだ。ぼくは走って行く人だから」と。…ぼくはそれまでは時間の思想でしたが、寺山の話を聞いていて、空間の思想もいいものだと思いました。今思うと、この短い会話は、ぼくにずいぶん深い影響を与えたように思います。
討議:見田宗介 X 加藤典洋「現代社会論/比較社会学を再照射する」『現代思想』2015 vol.43-19、青土社
この短い会話をもとに、その後に見田宗介は「空間の思想/時間の思想」(初出:1969年)という、興味深いエッセイを書いている。
今では、見田宗介著作集(『定本X』)に収められたこのエッセイであるけれど、ぼく自身がこのエッセイに初めて出会ったのは、とても意外なところであった。
見田宗介の著作に魅かれ、手に入る著作群を徹底的に読み始めていたころ(20年も前のころ)、古本屋で購入した見田宗介の著作のなかに、このエッセイが掲載された新聞の切り抜きがはさまれていたのだ。
予想もしていなかったその「幸運」にひかれてゆくように、ぼくはこのエッセイを読み、そして一読して、その「世界」に深くひきずりこまれたのだ。
「歴史」と「地理」をそのものとしてみれば、「歴史」は動き、「地理」は動かないものだけれども、行動する<じぶん>から見る視点において、「歴史」は<待つ>思想であり、「地理」は<走る>思想であることに見田宗介はふれながら、エッセイは生きることの本質へと降りてゆく。
寺山修司との「短い会話」に触発された「短いエッセイ」は、しかし、見田宗介自身の生や思想に影響を与え、そしてこの新聞の切り抜きを著作のなかにはさんでいた人にも、さらにはそれを読んだぼくにも、大きな影響を与えたのだと思う。
ぼくが生きるということでは、ぼくも「走る」思想において、「地理」をかけぬけてきたようなところがある。
日本の外へと/日本の外を「走る」なかで、ぼくも生きてきた。
ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、そしてここ香港…。
ところが、ここのところは、ぼくは「歴史」(時間)に強くひかれている。
いろいろな「空間」(地理)のなかに、ぼくは「歴史」を見たくなる/見るのだ。
「歴史/地理」あるいは「時間/空間」という視点は、ぼくにとって、世界を見る「見方」を、いっそう面白くしてくれている。
ところで、ここ「香港」はどうなのだろうか、とかんがえる。
寺山修司が「ぼくは走って行く人だから」と聞いて、ぼくは香港も「走って行く」のだと思う。
何かをゆっくり<待つ>のではなく、空間に向けて、ひたすらに全速力で、走って行く。
そんなことを、雨が降りそそぐなか「夏至」を迎えた香港で、かんがえる。
「夏至」は「時間」のことだけれど、ある見方において「空間」とも言えるのかなと、時空に関するじぶんのかんがえかたが歪みはじめる。
西アフリカのシエラレオネで、「サッカー」をしてみる。- アフリカの<パワー>に魅せられて。
2002年の終わりから2003年の中頃にかけて、西アフリカのシエラレオネにぼくは住んでいた。
2002年の終わりから2003年の中頃にかけて、西アフリカのシエラレオネにぼくは住んでいた。
当時、リベリア難民支援とシエラレオネ帰還民支援というプロジェクトに、NGOの職員として携わっていた。
シエラレオネでは長年の内戦が終結したばかりで、難民となっていた人たちの、村々への帰還が進んでいたものの、隣国リベリアでの内戦は続き、リベリアからの難民がシエラレオネに押し寄せていた。
ぼくは、そのような「現実」の前に圧倒されながらも、持てる頭脳と体力で、全身全霊で仕事にうちこんでいた。
ぼくがシエラレオネに入ったときは、国連の平和維持軍も展開しているときであったけれど、それなりに(相対的に)「落ち着いている」状況であった。
難民キャンプに避難している人たちの生活も長期化により、「日常化」するようなところもある。
国連やいろいろなNGO団体がともにかかわる難民支援においてはさまざまな支援活動が展開され、日々生活するための「ベーシック・ニーズ」の提供だけでなく、心身の健康のための活動などもさまざまに企画される。
そのような活動のひとつに、サッカーイベントがあった。
とても簡易な形だけれど「サッカー場」を準備し、サッカーができるようにする。
文字通り、生きることに精一杯でありつづけてきた人たちの日々に、光が灯るようなイベントだ。
記憶が定かではないけれど、そのようなサッカーイベントの話が出ていたころに、野原をそのまま小さなサッカー場としたような場所で、ぼくはスタッフの人たちなどとサッカーボールを蹴った思い出がある。
何らかの用事でぼくはその場所に赴き、その日の仕事が終わったころに、シエラレオネのスタッフの人たちに誘われて、一緒にサッカーをしたのだ。
大学に入ってからも、友人たちに誘われて、ときおり東京でフットサルをやっていたぼくであったけれど、アフリカの人たちとサッカーをするのは初めてのことである。
サッカーのワールドカップの試合などを観ていて、アフリカ勢の選手たちの身体能力の高さには驚きを抱いていたから、ただの遊びでするサッカーとはいえ、ぼくは好奇心と怖れを同時に感じることになる。
そんな気持ちを抱きながらも、「何事も体験」と、ぼくは参加する。
参加人数はそれほど多くないけれど、二つのチームに分けて、試合形式でサッカーを始めることになった。
案の定、シエラレオネの人たちの動きは目を見張るもので、動きの「速さ」、それから身体の柔軟性とダイナミックさと強さに、ぼくの身体がまったくついていかない。
それが、特定の誰かということではなく、皆が皆、そのような動きだから、まったく油断できない。
どのくらいプレーしただろうか、ぼくは、早々にプレーから引き上げることになってしまった。
ちょっとした体験であったけれども、野原のような広場でシエラレオネの人たちと一緒にしたサッカーは、アフリカの<パワー>に触れる出来事のひとつとして、ぼくの記憶に刻みこまれている。
サッカーのワールドカップで、アフリカ勢の動きを見ながら、ぼくは、アフリカの独特の<パワー>に魅せられたときのことを、思い出す。
「天才」であることの本質。- 見田宗介(真木悠介)の語る<天才>と狂気。
ぼくが心から尊敬している社会学者の見田宗介(真木悠介)氏の著作は、<どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか>(真木悠介)という問いに導かれながら、「学問」がほんとうの<知>であるところへとつきぬけてゆく仕方で、ことばをぼくたちに届けている。
ぼくが心から尊敬している社会学者の見田宗介(真木悠介)氏の著作は、<どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか>(真木悠介)という問いに導かれながら、「学問」がほんとうの<知>であるところへとつきぬけてゆく仕方で、ことばをぼくたちに届けている。
それぞれの著作における根柢的な問いと明晰な論理、そして生きられた美しい文体は、読む者の思考と心、そして「生きること」の全体を揺さぶる。
また、それぞれの著作のなかには、ぼくたちの「視点・見方」を変えてしまうようなことばが、いっぱいにつまっている。
人が日常においてかんがえている「天才」という言葉ひとつ取ってみても、認識を一段も二段も深めるような視点・見方を、ぼくたちに見せてくれる。
「時間」の問題を、比較社会学の観点から明晰に論じた『時間の比較社会学』(岩波書店、1983年)のなかで、「天才」について、つぎのように書いている。
天才はしばしばひとつの狂気であるということばによって、ひとはこの問題を片付けようとする。天才はただ、時代の狂気をより深く身にこうむり、より妥協なく対面するのだ。
真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1983年
ここで指摘される「この問題」とは、「天才」と呼ばれる思想家や芸術家などの手記等のなかに、いわゆる「精神病者」に見られるような状況が見られることである。
「時間」や「じぶん」(自我)といったものが崩れさるような感覚などが記され、また作品となっていたりする。
そのことに対し、「天才はひとつの狂気だ」ということばで、人はわかったような気になる。
そのことばを語る側も、また聞く側も、ともに、ある種の納得感を共有するのである。
見田宗介(真木悠介)は、そのようなことばを掘り下げてゆく。
あるいは、そのようなことばの内実をつかむことで、「問題のありか」を明晰に布置してゆく。
<時間の解体>と<自我の解体>というノエマ的=ノエシス的な崩壊感覚の鋭く生きられる「精神疾患」群についての諸研究が明らかにしていることは、それらがその根柢において関係の病いであるということだ。そしてその関係の質は、<近代社会>がまさしくその原理とする関係の質の極限に他ならなかった。
真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1983年
「天才」は、<近代社会>が原理とする関係の質の極限という状況に、正面から妥協することなく対面し、「時代の狂気」をみずからの身にこうむる。
このように、見田宗介は、「問題のありか」そのものを、じぶんと他者、そして社会という全体のなかで、捉え返してゆくのだ。
そのようなことばが、見田宗介(真木悠介)の著作群には、いっぱいにつまっている。
だから、ぼくは、そのようなことばそれぞれの前で、立ち止まっては、つぶさに読みとく。
そのようなことばは、ぼくの視点・見方の「道具箱」に収められては、道具が使われる出番を待つことになる。
どこかで「天才」が語られたり、また天才の作品や文章の断片などを見たりして、それらを読みとくとき、ぼくは、見田宗介のことばを「道具箱」からそっと取り出し、それら対象を見る「メガネ」として活用する。
「世界」は異なる側面を開示して、どこまでもつづく興味を、ぼくの内に点火する。
ニュージーランドで、ぼくのなかで響きわたっていた名曲「Let It Be」(ビートルズ)。- 「なるがままに、なる」。
ニュージーランドに住んでいるとき(1996年のことだ)、ぼくの心のなかではよく、ビートルズの名曲「Let It Be」が響きわたっていた。
ニュージーランドに住んでいるとき(1996年のことだ)、ぼくの心のなかではよく、ビートルズの名曲「Let It Be」が響きわたっていた。
1970年に出された、ビートルズ最後のアルバム作品の、そのタイトルにも使われた「Let It Be」。
When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom, let it be
…
The Beatles “Let It Be” 『Let It Be』※「Apple Music」より
「Let it be」の日本語訳には、「そのままにしておく」「なるようになるさ」「あるがままに」など、いろいろな訳語があてられているけれど、ぼく個人がしっくりくるのは「なるがままに、なる」である。
ちなみに、「Let it be」という知恵を伝えてくれる「Mother Mary」は、「母のメアリー」という捉え方もあれば、なかには新約聖書の「マリア」という捉え方をする人もいる。
島田裕巳は著作『ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのかーロックとキリスト教』(イースト新書)で、「Let it be」ということばが、新約聖書の「ルカによる福音書」第一章第三十八節に出てくることを指摘している。
そこには、マリアがイエスを身ごもった「受胎告知」の場面であり、「お言葉のとおりに成りますように」(let it be to me according to your word…)と書かれているという。
この曲をつくったポール・マッカートニーは、聖書を下敷きにしていることは否定していることを、島田裕巳は書いている。
…ポールは、…この歌詞ができたのは、夢のなかに十四歳のときに亡くなった母親が出てきたからで、それが励みになり、「僕が一番みじめなときにメアリー母さんが僕のところへ来てくれた」という歌詞を思いついたとしている。
これで、”Mother Mary”が登場する理由はわかるが、なぜその母親が、”Let it be.“と言ったのかはわからない。”Mother Mary”と”Let it be”とは、「ルカによる福音書」において密接に結びついているわけで、ポールはそれを無意識のうちに記憶していて、それがここで甦ってきたと考えることはできる。
島田裕巳『ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのかーロックとキリスト教』イースト新書
いずれにしろ、ぼくにとっては、(聖母マリアではなく)メアリー母さん(のような人物)がやってきてくれ、「なるがままに、なるわよ」と、語りかけるものとして、「Let it be」は心のなかにしまわれている。
オークランドの中心をつきぬけるQueen Streetの路上で歌ったときも、名曲「Let It Be」は選曲のひとつであったし、またオークランドで仕事がみつからないときも、メアリー母さんがやって来ては「Let it be」の知恵をぼくのなかに鳴り響かせた。
なるがままに、なる、と。
それからいろいろあったニュージーランドでの生活と旅も、「なるがままに、なる」の通り、展開し、行き詰まり、ひらかれ、進んでいった。
ところで、アルバム『Let It Be』が出されてから、やがてビートルズは正式に解散にいたる。
ビートルズがその後、曲を創り続けていたらという思いが、ぼくのなかにわく。
しかし、「なるがままに、なる」ということばのように、その後の4人の行く末は、「なるがままに」展開されていったのだ。
4人それぞれに、名曲を世に放ち、それぞれに生きた/生きている。
なにががよくてわるくてという視点は、それぞれの実際の生のなかに溶解してしまったかのようだ。
ある意味で、「なるがままに」、それぞれの生きる物語はひらかれていったのだと、言うこともできる。
ニュージーランドで、ぼくと生をともにした「ギター」。- マーチン社のギター「Backpacker」(バックパッカー)。
だいぶ前のことになるけれど、1996年、ぼくはニュージーランドに住んでいた。
だいぶ前のことになるけれど、1996年、ぼくはニュージーランドに住んでいた。
大学2年を終えたところで1年間休学し、ワーキングホリデー制度を利用して、ニュージーランドに渡ったのだ。
当時のワーキングホリデー制度は、カナダとオーストラリアとニュージーラン(のみ)が開放されていたのだけれど、カナダとオーストラリアは人数制限で上限に達していたため、ぼくは結局、最終候補としていたニュージーランドに行くことになった。
それまで音楽を呼吸のようにして生きてきたぼくにとって、「音楽」をどのように荷物につめこむのかが、ひとつの課題であった。
最終的に、ぼくは東京で、マーチン社の「Backpacker」(バックパッカー)という、旅用の小さなギターを購入することにした。
こうしてぼくは、ボディ部分が最小限にまでそぎ落とされたこのギターと共に、ニュージーランドで生活することになった。
ニュージーランドの生活を通して、ギターは、文字通り、ぼくと生をともにした。
ギターそのものを弾き、歌を口ずさむだけで、旅の宿でも、後に住むようになったフラットでも、ぼくは楽しむことができた。
持ち運び便利なこのギターをもちだして、ぼくは、オークランドの路上(Queen Street)で、ビートルズなどの曲を歌ったこともあった。
こんなときは、ギターは、人と人とをつなぐ<メディア>ともなる。
ギターはそのように、ぼくと他者をつなぐ<メディア>としても活躍した。
ニュージーランド滞在の後半、ニュージーランドを旅しながら、ぼくは他者のためにも、ギターを奏でた。
あるときは、ある町の人がぼくがギターを弾くのを知って、夜の語りのイベントに招待してくれた際に、参加者の人たちが歌う歌の伴奏をしたこともあった。
またあるときには、南島のトレッキングコースにある山小屋でのとても静かな夜に、同じ山小屋に泊まっている人のために(そしてぼくのために)、静かな調べを奏でたりもした。
ひとつ困ったのは、徒歩旅行をしていたときのこと、この縦長のギターをビニール袋でカバーをしてバックパックにくくりつけていると、遠くから見ると「猟銃」のように見えたことである。
徒歩旅行中のぼくに声をかけてくれた人たちの幾人かが、「それは何?」と尋ねてきて、「ギターですよ」と応えるぼくに、銃のように見えたからと、伝えてくれることがあったのだ。
また、少しでもバックパックを軽くしたいなかで、このギターの軽さも「重さ」となって、ぼくの心身にくいこむことがあった。
それ以外はとくに困ることなく、この小さなギターは、ぼくの徒歩旅行のときも、また山登りのときも、ぼくのバックパックに装填されていた。
それは、ぼくにとって大切な「旅の同行者」であったし、その音色は、ぼくの(そしておそらく他者の)心をいやしてくれた。
<音楽>は、世界の共通言語として、世界の人たちをつなぐものだとしばしば言われるけれど、ニュージーランドでの生活と旅を通じて、ぼくはそのことをじぶんの体験と実感として、じぶんのなかに積みあげてきた。
それは、やはり幸福なことであったと、ぼくは思う。
ニュージーランドで、オークランドの「路上」に歌声を放ったこと。- ギターと歌と、Queen Streetの風景。
ニュージーランドの北島に位置するオークランドの中心を、Queen Streetというメインストリートが通っている。
ニュージーランドの北島に位置するオークランドの中心を、Queen Streetというメインストリートが通っている。
ストリートのひとつの端は、海につながる湾にいきあたる。
その端とは逆方向に見やると、ストリートはまっすぐに伸びていて、お店やレストランや銀行などが並んでいる。
オークランド、あるいはニュージーランドで、もっとも賑やかな繁華街だ。
1996年、ぼくはそのストリートに腰をおろし、ギターを奏でながら、歌を歌っていたことがある。
広い意味で「バスキング」とも言われるけれど、いわゆる路上ライブである。
ずっとやっていたわけではなく、ほんのわずかであったけれども、当時のぼくは、「一度はやってみたいこと」のひとつをやってみたのだ。
やってみたいことだとはいえ(あるいはやってみたいことだからこそ)、ぼくにとっては「勇気」のいることであった。
なお、当時のQueen Streetにはときおり、同じように、ギターを手に、歌声を届けている人たちがいた。
ぼくも、ある日、小さなギターをかかえて、よさそうな場所を見つけ、腰をおろし、また投げ銭を入れることのできる容れ物を前におき、そして、歌を歌うことにしたのだ。
ワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドに渡る前に、ぼくは東京で、マーチン社の「Backpacker」(バックパッカー)という旅用の小さなギターを購入していた。
ギターのボディの部分がそぎ落とされたモデルだ。
ボディが小さいため、ギターの音色はそれほど大きくはならないが、名前の通り、持ち運びに便利なギターである。
だから、家からQueen Streetに持ち運ぶのには便利であったけれど、人が忙しく行き交うストリートでは、音のボリュームが小さくて、音が空間に散っていってしまう。
ぼくは空間に響く音を耳で確認しながら、それでも歌を歌い続けた。
曲は、例えば、ビートルズの「Across the Universe」や「Let it Be」であったりした。
ぼくの前を通りすぎてゆく人たちは、ある人たちはまったくこちらを振り返ることもせず、音も届かない様子で通り過ぎていった。
またある人たちには、可笑しさで、笑われることもあった。
でも、あるときには、微笑みをなげかけてくれたり、なかには、投げ銭をしてくれる人たちもいた。
いつも通っていたQueen Streetの風景が、いつもとは違っていた。
悪い気分が身体をかけぬけたことも、暖かい気持ちを抱いたことも含めて、「勇気」を出して、オークランドのQueen Streetの路上で歌って、ぼくはよかったと思う。
今は、こうして文章を書いていて、路上ライブのように、ある人たちはまったく振り返ることもない。
またある人たちは、ぼくの書いたものを気に入らないだろうし、批判をすることだってある。
でも、あるときには、ぼくは、励ましや感謝をいただくこともある。
そんな諸々のことを含めて、ぼくはインターネット世界の<路上>で、言葉や感覚を届けていて、ぼくはそれで、よいのだと思う。
生きることの「特別な響き方」。- じぶんの<響き>を奏でる、ということ。
ぼくは音楽が好きだ。
ぼくは音楽が好きだ。
もちろん、すべての「音楽」が好きなわけではないけれど、生きるという経験の背景において、あるいはそのステージ上において、音楽がいつも奏でられている。
ぼくが音楽を好きなのは、音楽の街、浜松市に生まれたということも関係しているかもしれないし、物心ついたときにはピアノの鍵盤を通じて「音」を楽しんでいたことも理由(あるいは証拠)かもしれない。
20代前半くらいまでは、ギターなどを手に「音を奏でる」ことが日常であったのが、いつからか、「音を聴く」ことへと重心を移動させてきたところがある。
そして、ときに、音楽について、書く。
音楽について「書く」というのは、実はなかなか骨をおるところがあるのは、実際に書きながら、思ってきたところだ。
だから、小説家の村上春樹が音楽について書くのを読むようになって、文章のひろがりと深さ、そして何よりも、文章における音楽的なリズムに心を揺り動かされてきた。
批評家としての文章ではなく、「生きる=書く=音楽」がひとつになっているような、そのような文章である。
村上春樹が書く、そんな音楽に関する文章を読んでいると、ぼくの心の奥の「何か」がひらいて、ぼくは音楽を聴きたくなってくるのだ。
ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクが、「あなたの弾く音はどうしてそんなに特別な響き方をするのですか?」と聞かれたときに、ピアノを指差しながら彼が応えた言葉を、村上春樹はあるところで、「小説を書きながら、よく思い出す」言葉として、書いている。
モンクがどう応えたかを、まずは想像してみてほしい。
モンクは、次のように応えたという。
「新しい音(note)なんてどこにもない。鍵盤を見てみなさい。すべての音はそこに既に並んでいる。でも君がある音にしっかり意味をこめれば、それは違った響き方をする。君がやるべきことは、本当に意味をこめた音を拾い上げることだ」
村上春樹「違う響きを求めて」『雑文集』新潮社
モンクの語る英語を、このように日本語訳をする村上春樹はさすがであるけれど、村上春樹は小説を書きながら、この言葉をよく思い出す。
村上春樹は、「音」から「言葉」のことへとスライドさせながら、つぎのように書く。
…そう、新しい言葉なんてどこにもありはしない。ごく当たり前の普通の言葉に、新しい意味や、特別な響きを賦与するのが我々の仕事なんだ、と。そう考えると僕は安心することができる。我々の前にはまだまだ広い未知の地平が広がっている。開拓を待っている肥沃な大地がそこにはあるのだ。
村上春樹「違う響きを求めて」『雑文集』新潮社
ぼくは、「音」から「言葉」、そして「言葉」から「生きる」ことそのものへと、ここで語られることの本質をさらにスライドさせて読む。
「生きる」ということそのものも、抽象度を上げて語れば、形としての「新しい生き方」なんてないのだ、と。
でも、じぶんの生き方に、新しい意味や特別な響きをあたえていくことが、ぼくたちの生きるということでもある。
ぼくたちは、それぞれが、<違った響き方>で、じぶんの生を奏でてゆく。
そのことが、自己実現(self-actualization)ということの、ひとつの側面を語っているように、ぼくは思う。
「幻想の都」へ、そして<幻想の都>から。- <ドリームランド>の設営される空間について。
日本の地方に住んでいる者にとって、例えば「東京」は、「幻想の都」である。
日本の地方に住んでいる者にとって、例えば「東京」は、「幻想の都」である。
それは「あこがれの都会」である。
ぼくもかつて、高校までを静岡県浜松市で過ごした後、大学は東京にある大学に行くことを切望していた。
「東京」という都市が装う色彩は、とても魅力的であったのだ。
当時感じていた閉塞性をひらいてくれる空間が、「東京」にあるものだと、ぼくは思っていたのである。
しかし、東京に実際に住むようになって、楽しさを感じる側面もありながら、他方で東京という都市がまとっている「幻想」が、ぼくのなかではがれてくるのを感じる。
ぼくは、地方から「東京」へ上京し、そこに生きながら、そこから生きることの<軌道>を、アジアを旅しながら、またいろいろな現実の重力にひっぱられながら、見極めていくことになる。
もちろん、ぼくに限らず、数かぎりない青年たちが、東京やその他の大都市へと向かってきた。
さらには、<東京>という大都市と並ぶように語られる、パリやロンドンなどにもひろがりをもつ、近代化の「物語」でもある。
このような大都市へのあこがれは、とても大きいものである。
作家の宮沢賢治も、同じようなあこがれをもった一人として、幾度か、東京へと上京を試みていたという。
そんな宮沢賢治の生をおいながら、社会学者の見田宗介は、宮沢賢治のすすんだ軌条を、つぎのように書いている。
…賢治の資質は、結局東京やその水平の延長上の都、パリやロンドンに終着する幻想に住することえを許さず、むしろ垂直に折り返して岩手自体の心象の気圏のうちに、<イーハトーヴォ>の夢を設営する。
見田宗介「補章 風景が離陸するとき」『宮沢賢治』岩波現代文庫
「イーハトーヴォ」について、宮沢賢治は『注文の多い料理店』の広告文に、つぎのように書いている。
イーハトブは一つの地名である。…実にこれは著者の心象中にこの様な状景をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である。そこでは、あらゆる事が可能である。…
宮沢賢治『注文の多い料理店』広告文、青空文庫
見田宗介は、さらに高度経済成長以降の日本にふれながら、そこにみられる対欧米コンプレックスの消失などに、「ふるさとから<東京>→<世界の首都>」へと向かっていくような幻想の水平性の基礎が解体されてきたことを読みとっている。
そのうえで、つぎのように文章をつづけている。
…成熟しつくした近代としての現代の少年や青年たちの夢を設営する空間は、幻想のすすむ軌条をどこかで透明に離陸するはずの、あの異次元の空間にしか残されていない。
見田宗介「補章 風景が離陸するとき」『宮沢賢治』岩波現代文庫
ふるさとの地も、<東京>も、世界の都市たちも、魅力に充ちた空間である。
しかし、そこは<ドリームランド>を保証する空間ではない。
ぼくたちはぼくたちの「外部」をどこまで行ったとしても、ほんとうの<ドリームランド>を設営することはできない。
ふるさとから東京に上京したぼくは、そのようなことを「感覚」のなかで感じつつ、しかし実際の空間を移りながら生きてきた。
アジアの旅、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それからここ香港。
それぞれの地に生きることを楽しみながら、しかし<ドリームランド>は、ぼく(あるいはぼくたち)自身の心象中に実在するドリームランドとしての「地球」であると、ぼくは心象の気圏に想像・創造している。
ぼくたちは、いつだって、<移動>している。- <コペルニクス的転回>の思考と生き方。
夜空にひろがる惑星や星たちを見ながら、以前、ふと、でも深いところで、思ったことがある。
夜空にひろがる惑星や星たちを見ながら、以前、ふと、でも深いところで、思ったことがある。
地球のなかにおいては、ぼくは一日「同じ場所」にいるにしても、「宇宙」のなかにおいては、ぼくは、いつも、<移動>しているのだ、と。
だから、例えば終日家にずっといるとしても、実際には「じっとしていない」。
「宇宙」という座標軸においては、<ぼくたち>は、いつだって、動いているのである。
バックミンスター・フラーが提唱した言葉を使えば、ぼくたちは「宇宙船地球号」(Spaceship Earth)に乗って、この宇宙をつねに、動いていることになる。
「宇宙船地球号」は、太陽の周りを、自転しながら公転するというように、いつだって、二重に動いているのだ。
こうして、朝食を食べていた食卓は、夕食を食べる頃には「そこ」にはなく、宇宙の座標軸のなかを、はるかに旅していることになる。
部屋にひきこもっているとしても、気がつけば、そこは宇宙の違う場所に移動していることになる。
天動説ではなく、コペルニクスが唱えた「地動説」のことなど、誰もが知っている。
けれども、「地動説」は誰でも知るところではあるけれど、そのことは、「地動説」を誰もが<実感として生きている>ということではない。
朝食を食べていた食卓は、夕食時にはやはり「そこ」にあるし、ぼくたちは「同じ場所」で食事をとっていると、感覚する。
部屋にひきこもっていれば、他人は、その人を「同じ場所」にいると、思っている。
もちろん、「地球」を閉じた空間として見れば、「同じ場所」であろう。
しかし、ある意味において、そのように見ているのは、<天動説的な見方>である。
つまり、宇宙は、「実感」として、地球が中心にあるように感覚し、生きていることになる。
ぼくが、ある日、夜空を見ながら、ふと、でも深いところで思ったのは、この不思議さであった。
朝、家を出て、夕方に家に帰ってくるころには、ぼくは、宇宙の違うところに移動(旅)しているという、不思議さ。
朝見ていた天空の方向性は、夕方には、宇宙のまったく異なる方向に向かっているということの、その不思議さ。
ぼくは、その不思議さに圧倒されながら、「宇宙船地球号」に乗っているじぶんを、外部から見ているように感覚したのだ。
漫画版のベストセラーで一躍有名になった、吉野源三郎の名著『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)において、「叔父さん」が主人公のコペル君に宛てて書いた最初の手紙は、「ものの見方について」と題され、このコペルニクスの地動説を素材にしている。
そのなかに、つぎのように言葉が書き綴られている。
コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと坐りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりの事ではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることなのだ。
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫
叔父さんは、「自分中心」的なものの見方を超えてゆくところに、コペル君の未来を見ている。
それにしても、コペルニクスの地動説による<転回>は、今となっては、誰もが知るところだけれど、当時はほとんどの人が信じることのできなかったことだ。
ぼくたちが生きるということにおいても、ぼくたちの考え方や生き方のなかに、<コペルニクス的転回>を見つけ、気づき、行動を反転し、きりひらいてゆくことができる。
「地動説」を初めはほとんどの人が信じることをせず、危険視までしていたことと同じに、<コペルニクス的転回>の思考や生き方は、周りの人たち、そしてぼくたち自身も、信じることができないものかもしれない。
でも、<コペルニクス的転回>の思考や生き方は、ぼくたちが「同じ場所」にいるにもかかわらず、<地球のなかで動いていない>という見方を、<宇宙のなかでいつも動いている>という見方に転換するほどの、原的な転換を生んでいくのである。
「他者との関係のあり方」をかんがえるときの出発点。- <他者の両義性>(見田宗介)ということ。
ぼくたちが生きていくなかで、他者との関わり方、他者との関係の「あり方」をかんがえるとき、そこには他者を「他者」として一括りとすることに困難を感じる。
ぼくたちが生きていくなかで、他者との関わり方、他者との関係の「あり方」をかんがえるとき、そこには他者を「他者」として一括りとすることに困難を感じる。
その理由のひとつは、じぶんと「他者」という関係の距離感や濃度がさまざまな様相をみせることである。
例えば、じぶんの「家族」との関係の距離感は近く、関係の濃度も濃かったりする。
もちろん、友人などとの関係が、家族との関係よりも近く、そして濃いことだってある。
だから、社会的なラベルは、じぶんと他者との関係のあり方をかんがえる際には、絶対的ではない。
さらには、そもそも、人は、小さい頃から「他者に好かれる」「他者に嫌われない」ように生きてきたりするけれど、生きてゆく道ゆきのなかで、「すべての他者」に好かれたりすることはないことを、実感として知る。
それでも、小さい頃からの教えを身体に刻みこんだ人たちは、「他者に好かれる」「他者に嫌われない」生き方を一心に追求していき、日々に奮闘する。
「世界平和」のイメージは子供の頃に触れるものであったりするけれど、「世界平和」は、誰とも仲良くすること、誰からも好かれること、ではない。
そんなふうにかんがえてみると、「他者」を一括りでは語れない、となる。
また、「他者」を一括りで語る仕方は、人をまどわせるものでもあると、思う。
「他者」との関係の「あり方」を原的にかんがえることにおいて、ぼくを導いてくれたのも、社会学者の見田宗介であった。
「社会の理想的なあり方を構想する仕方」として、見田宗介は、<他者の両義性>という原的な地点から、理論を構成してゆく。
「他者」とは、
- 人間にとって、生きるということの意味の感覚と、あらゆる歓びと感動の源泉
- 人間にとって、生きるということの不幸と制約の、ほとんどの形態と源泉
である(参照:「補 交響圏とルール圏」『社会学入門』岩波新書)。
見田宗介は、ここを原的な出発点としながら、次に、1を「関係のユートピア」の方向に、そして2を「関係のルール」の方向として展開し、理論設計の第一次的な様相を「<関係のユートピア・間・関係のルール>」として取り出してゆく。
ここでは、これ以上、この理論設計には踏み込まないけれど、じぶんと他者との関係の「あり方」をかんがえていく際にも、このように<他者の両義性>の原的な地点を出発点とすることは、とても大切なことであると、ぼくはかんがえる。
少なくとも、ぼくたちは、「すべての他者」たちと、<関係のユートピア>をつくるわけではないことが、シンプルに理解できる。
もう一歩、見田宗介の「言葉」を取り上げておくならば、「<関係のユートピア・間・関係のルール>」における、他者との関わり方は、次のように表現されている。
それは、
<交歓する他者>and/or<尊重する他者>
である。
つまり、「関係のユートピア」においては、他者たちは<交歓>する他者たちである。
また、「関係のルール」においては、他者たちは<尊重>する他者たちである。
このように、<他者の両義性>に、それぞれ対応する他者たちである。
じぶんが生きていくということにおいても、人は「関係のユートピア」を築き、他者たちと<交歓>する関係をつくってゆくことができるとともに、そうではない他者たちとの関係においては、<尊重>という仕方で関係を築いてゆくことができる。
このことは言われてみれば「あたりまえ」のことだけれど、ぼくたちはときに、「他者との関係のあり方」を一括りにかんがえようとしてしまう。
だから、<他者の両義性>を出発点としながら、他者との関係のあり方をかんがえてゆくことが、とても大切になると、ぼくはかんがえる。
香港で、香港MTRの鉄道路線「South Island Line(南港島綫)」に乗る。- 「体験」としての、生きる。
香港MTRの鉄道路線のひとつ、「South Island Line(南港島綫)」の電車に初めて乗る。
香港MTRの鉄道路線のひとつ、「South Island Line(南港島綫)」の電車に初めて乗る。
「South Island Line(南港島綫)」は、香港島の「Admiralty(金鐘)」駅から、香港島を縦にぬけてゆく路線である。
2016年12月に全面的に開通してから、だいぶ経っていたのだけれど、特に利用する機会もなく、今にいたっていた。
Admiralty駅に行くことはそれなりにあったけれども、なんとなく、乗らないままにいたのだ。
乗ってみて、やはり「体験」ということの強さを、思い知らされることになる。
路線に乗り換え、路線に乗る感覚がからだのなかに組み込まれ、そして「便利さ」がよくわかる。
香港島(の一部)を「縦」にぬけてゆく路線ができたことで、「South Island Line(南港島綫)」のAdmiralty駅の次の駅名ともなっているテーマパーク「Ocean Park(オーシャンパーク)」に行くのも、とても便利になった。
それまでは、Admiralty駅で、バスにのりかえ、あるいはタクシーにのって、「Ocean Park」へと向かう必要があった。
乗り換えはそれなりに時間も手間もかかったし、また途中渋滞することもあった。
それが、他の鉄道路線からの連絡通路でつながった「South Island Line(南港島綫)」にのって4分で、「Ocean Park」に着いてしまう。
これは、やはり乗ってみて、体験してみて、よくわかった。
また、その他にも、「South Island Line(南港島綫)」の電車は、自動のシステムで動き、先頭車両からは、電車が進んでゆく風景を見ることができるなど、新しいテクノロジーが採用されている。
こんなことも、乗ってみるまでは、やはり知らなかった。
この日は、用事があって、Admiralty駅で乗り、Ocean Park駅の次の駅「Wong Chuk Hang(黄竹坑)」で降りて、帰りはAdmiralty駅に戻っていくだけであった。
それでも、たくさんの感覚と情報が、ぼくのからだに入ってくるのであった。
それにしても、香港は、交通機関がはりめぐらされており、移動するのにとても便利である。
もちろん、そのことも、実際にじぶんのからだで動いて体感していくことのなかに、<実感>として形成されてくるのだ。
ぼくたちが、日々を生きるということは、このような「体験」の積み重ねのうちに、ぼくたちの<物語>が織り込まれてゆくものである。
「Google Earth」時代の旅と海外滞在のあり方。- さいごに、残ってゆくもの。
香港のとても暑い日に、グーグルのアプリ「Google Earth」を久しぶりにひらき、その「バーチャル地球儀」の「世界」を楽しむ。
香港のとても暑い日に、グーグルのアプリ「Google Earth」を久しぶりにひらき、その「バーチャル地球儀」の「世界」を楽しむ。
その「世界」は、衛星写真などで世界を構成し、世界のどこへでも、一気に、降りたつことができる。
場所によっては、通りの風景(「Street View」)までが映しだされる。
「3D」での表示もあったり、その他の機能も搭載され、この世界という<空間>を楽しむことのできるアプリだ。
<空間>だけでなく、ぼくたちの思い出と記憶を重ね合わせることで、そこに<時間>を視ることだってできる。
今まで旅したところや訪れたところ、あるいはそれなりの期間にわたって滞在していたところに、時空をこえて、ぼくたちは降りたつことができる。
風景を「思い出と記憶」のなかに大事にしまっておくこともひとつだけれど、「Google Earth」を通して、その不思議な世界に立ってみることも面白いものである。
そのようにして、ぼくたちは、その風景の表層だけであれば、この世界の空間をこえて、いつでも行ける時代に生きている。
ぼくがかつて住んでいたところが、今どうなっているだろうかという好奇心におされながら、ぼくはそこへの道ゆきをたどっていく。
やがて、「懐かしい」風景が、ぼくの前に現れる。
庭の風景が少し変わったけれど、家の様相は変わっていない。
「Google Earth」を楽しみながら、そのような「Google Earthの時代」における、旅や海外滞在の「あり方」が、ふと気にかかってくる。
旅や海外滞在ということが、色あせてしまうようなことはないだろうか。
昔の風景をGoogle Earthのなかに見ながら、「思い出」に色彩を与えていた想像の風景から、何かがぬけおちてしまうだろうか。
そのように気にかかりながら、それでも、Google Earthが映しだす通りの風景だけでは代替できないものが、はっきりと浮かびあがってくる。
<五感で捉えられた風景>と<風景のなかの物語>である。
Google Earthで、世界のどこにも瞬時にして行くことができるけれど、ぼくたちは、その風景を基本的には<視る>のであり、その場を<五感>で捉えることはできない。
そこの風景には、香りがあり、音があり、手触りがあり、またそこで食べていたものがある。
将来は、テクノロジーの進化により、香りや音や手触りを感じることのできるようなものが出てくるかもしれない。
それでもやはり、その場の風景そのものに代替することはできない(だろう)。
また、五感で感じることの、その<全体感>のようなものがあると、ぼくは思う。
仮に、<五感で捉えられた風景>がテクノロジーで再現されるようなことがあったとしても、それでも、<風景のなかの物語>は、その場を旅し、あるいは住むことで、つくられてゆく。
テクノロジーによって再現されるものではなく、ぼくたちの内面につくってゆくものである。
あるいは、他者たちとの<あいだ>につくってゆくものである。
ぼくたちのなかに、やはり残るものとしての<物語>。
「Google Earth」時代にあっても、ぼくたちは、ぼくたちそれぞれの物語、また他者と共有する物語を、豊饒に生きてゆくことができる。
ニュージーランドで、一歩一歩、オークランドに向けて進む。- 北端レインガ岬からの、400キロを超える「歩く旅」。
1996年、ぼくは、ニュージーランドの北島の北端レインガ岬を出発地点に、歩いて南下し、北島の中心に位置するオークランドに向けて歩いていた。
1996年、ぼくは、ニュージーランドの北島の北端レインガ岬を出発地点に、歩いて南下し、北島の中心に位置するオークランドに向けて歩いていた。
ニュージーランド徒歩縦断の計画の第1フェーズであった。
今現在においてグーグルマップで調べてみると、レインが岬からオークランドまでの距離は最短で423キロ。
東京ー大阪間に少し満たないほどの距離である。
当時はグーグルマップなどなく、またスマートフォンもなかったから、ぼくは地図とコンパスを手に、あとは「標識」を手がかりに、歩いていた。
ぼくの体調やメンタルの状態は日々異なるし、また外部的な環境も日々異なる。
そんななか、ペースがあがらなくても、体調がすぐれなくても、雨のなかを歩くときでも、とにかく一歩一歩、足を前に進めていれば、オークランドへと近くなっていく。
歩く道ゆきは国道のハイウェイであることが多く、だからそれほど複雑な道のりではないのだけれど、ときにそれは入り組んでいて、目指している方向からそれてしまうこともあった。
そのことに気がつくときは、「やってしまった」という思いがのしかかる。
車や自転車などの旅と異なり、気づいたら引き返してとか、気にせずに遠回りしてというように簡単にはいかない。
重いバックパックを背にしているし、その影響もあって、ぼくの足、とくに足の裏への負担がとても大きい。
また、街から街へ向かう距離と日数を算定して、(重くなるのでできるだけ少量の)食料や水を用意しているから、街から街の「間」における予定がずれることは、できるだけ避けたい。
そんな状況で、ときに道をまちがえてしまったり、地図と実際の道の状況の違いから立てた予定がずれてしまう。
それでも、ぼくは、道すがら、じぶんに言い聞かせる。
「進んでいれば…」と。
そうして、一歩一歩、歩を前に前に進めていく。
とてもあたりまえのことだけれど、歩を進めていれば、オークランドに近くなっていく。
そのことは、道の「標識」に「Auckland」の文字をよく見るようになることで、わかる。
最初の頃は、次の街などが表示されていたところに、「Auckland」の文字を見るようになっていく。
そして、やがて、オークランドを一望できるところにさしかかる。
レインガ岬からの「一歩一歩」が、ここまで、ぼくをつれてきてくれたのだ。
レインガ岬を出発してから、3週間が経過していた。
一歩一歩、少しずつでもいいから、前に向かって歩んでいれば、ぼくたちは、それまでに思いもしなかったところまで行くことができる。
一歩一歩に物語がつまっていて、そして、目的地に到達するころには、「歩いた」という事実以上に、ぼくたちの「何か」が変わることもある。
旅の前まで半年ほど住んでいた「オークランド」は、一歩一歩の旅のあと、それまでの「オークランド」とは違って、ぼくの眼にうつっていた。
ニュージーランドで、雨の中を、歩く。- 「徒歩旅行者」にとっての<雨>。
ここ香港は、近くに到来した台風の影響もあり、雨が降り注いでいる。
ここ香港は、近くに到来した台風の影響もあり、雨が降り注いでいる。
ときおり、激しさを増しながら、香港の大地と海に雨粒を落としている。
先月(2018年5月)後半には、香港の一部の貯水池が干上がってしまっていたことをかんがえると、恵みの雨である。
香港で雨が降り注ぐなかで、「ニュージーランドでの徒歩旅行」を思い返していると、雨の中を歩いた記憶が、ぼくのなかにやってくる。
1996年、ニュージーランドで、ぼくはその北端から歩きはじめ、南下していた。
その大半の行路は、いわゆる「国道」で、車が真横を通り過ぎる「ハイウェイ」でもあった。
ときおり、前方にとまった車から、乗車の誘いと励ましという<やさしさ>をうけながら、ぼくは歩いていた。
ところが、ときに雨が降りおちてくると、そのなかを何時間も歩く身としては、とてもたいへんだ。
だから、朝起きて、テントを出て空を眺めることが日課になる。
雨がおちてくるときは、バックパックにカバーをかぶせ、レインジャケットを着る。
途中ゆっくり休むこともできず、雨の中を歩いてゆく。
やがて、雨がレインジャケットを通過して、ぼくの皮膚にまで浸潤してくる。
ぼくは、じぶんに負けそうになりながら、でも雨の中を歩いてゆく。
徒歩旅行者にとって、「雨」は、ひとつの恐怖でもある。
宮沢賢治『春と修羅』における「小岩井農場」を分析するなかで、天沢退二郎は「雨のオブセッション(強迫観念)」を見て取っていることに、社会学者の見田宗介は注目している。
「よるべない土地をひとり行く徒歩旅行者」にとって、「いちめん降りおちてくる雨は…じつに全体的なるものそのものの圧倒的な浸潤であり、…やがて全身をそれら「全体」の無言の言葉のむれに浸しつくされざるをえない」と、天沢は徒歩旅行者にとっての「雨の恐怖」をとりあげている(見田宗介『宮沢賢治』岩波書店)。
見田宗介は、さらに「雨」がもつ両義性として、雨が恐怖であると同時にまた、ぼくたちを解き放つものであることを、「小岩井農場」における宮沢賢治の歩行に見ている。
『小岩井農場』の歩行において、賢治のじぶんにいいきかせるような否定断言にもかかわらず、…パート七ではもうすきとおる雨が降っていて、パート九では詩人はすでに全面的にこの雨に浸潤された風景を歩む。そしてこの雨に、詩人が何よりも恐れていたこの雨に浸潤されつくした空間の中ではじめて、詩人はこの歩行の旅で真に求めていたものを手に入れることができる。すなわちユリア、ペムペルと、<わたくしの遠いともだち>と出会うのだ…。
見田宗介『宮沢賢治』岩波書店、1983年
<雨>のもつ両義性は、<自我>の両義性の裏にほかならないことを、見田宗介は明晰にみてとり、つぎのように書いている。
…雨は詩人の自我をその彼方へ連れ去る全的で圧倒的な力の表徴に他ならなかった。そしてこのような<雨>の恐怖と驚異とは、宮沢賢治の、風景に浸潤されやすい自我、解体されやすい自我の不安と恍惚の、さかだちした影に他ならなかった。
見田宗介『宮沢賢治』岩波書店、1983年
思い起こすと、ぼくの歩行も(そして自我も)、この「両義性」のなかに投げこまれていたように、感じてくる。
雨の降りはじめは雨に抵抗する仕方で雨に対峙して歩いていたところ、やがて、いちめん降りおちてくる雨のなかに、じぶんがすっぽりと入りこんでしまっているところにきて、そんな抵抗感がほどけていく。
その風景と雨にとけこんでゆくような、そんな幻視をおぼえる。
いつもそうだった、ということではない。
一度は、雨のハイウェイを歩行しつづけて、やっとのことで街にぬけたとき、ぼくの体調がくずれかけたこともあった。
そんなとき、宮沢賢治の詩にあるように、「雨ニモマケヌ」身体を望んだりしたのだった。
なにはともあれ、<雨>の両義性のこと、また<自我>の両義性のこと、さらにはそんなことを教えてくれた見田宗介の著作群に出会ったのは、ぼくがニュージーランドから帰国してからのことであった。
ニュージーランドの国道を南下しているときは、「あの」幻視を身体で感じただけであり、この「あの」を幾分か言葉化するまでにはそこから数年がかかった。
でも言葉化以上に、「あの」体験がこの身体に刻みこまれたことが、ぼくにとっての徒歩旅行で得たことのひとつであったと、ぼくは思う。
ニュージーランドで、ぼくの歩行の先に、とまってくれる人たちに励まされて。- 気にかけ、<声>をかけてくれること。
ニュージーランドの国道を歩いて南下していると、横を通り過ぎていく車が、ぼくの前方数十メートルのところにとまる。
ニュージーランドの国道を歩いて南下していると、横を通り過ぎていく車が、ぼくの前方数十メートルのところにとまる。
ぼくは歩きながら、やがて、車がとまっているところに、たどりつく。
車の窓越しに、運転をしている人か、助手席にいる人が、ぼくに(英語で)声をかけてくれる。
「どこまで行くの?よかったら乗っていく?」
ぼくは、「ノー、サンクス」を伝え、「今、ニュージーランドを徒歩縦断しているんです」と、簡単に説明を加える。
驚きの表情を見せながら、彼(女)らは、ぼくに励ましの言葉を投げかけてくれる。
やがて、車はふたたび、ゆっくりと走り出し、走り去るときに、クラクションかライトで、もう一度、ぼくに励ましの合図をくれる。
そんなとき、自然と、ぼくのなかに、感謝の気持ちがあふれてくるのだ。
1996年、ぼくはニュージーランドにいた。
ワーキングホリデー制度で、ニュージーランドで暮らしていたのだ。
暮らしながら、ぼくにひらかれた計画は、ニュージーランド徒歩縦断。
アウトドアの雑誌を読んでいるときに、チャリティを兼ねながら、それを成し遂げている人がいるのを知って、ぼくの心が揺り動かされたことが、きっかけのひとつである。
せっかくだから「何かしたい」という気持ちに点火されるように、ぼくのなかで静かな炎がもえだしたのである。
そうして、ぼくの旅は現実化していく。
ニュージーランドの北端から、ぼくは一歩を踏み出した。
北端から南下していくなかで、ぼくが予測していなかったのが、「国道」を歩かなければいけなかったこと。
国道はいわゆるふつうの道路なのだけれど、それは「ハイウェイ」でもあって、歩くぼくの横を、車が猛スピードでかけぬけていくことになる。
ニュージーランドの自然のなかを静かに歩くことをイメージしていたぼくは、ぼくの真横を通りすぎていく車に、安全面をふくめ、それなりに気をつかわなければいけないのだ。
けれども、そんな状況のなかに、さらに、ぼくが予測していなかったことが起きていく。
それが、冒頭のように、ぼくの横を通りすぎていく車が、毎日、何台も何台も、とまってくれるのである。
そして、ぼくに、「乗らないか」と声をかけてくれる。
ただ「歩いている」ぼくを、だれもが、助けようとしてくれる。
ぼくは「歩いている」から、お断りすることになるのだけれど、だれもが、「励まし」をぼくに与えてくれる。
ただ歩く日々のなかで、そんな「励まし」に生かされているように、ぼくは思わずにはいられなくなるのだ。
ぼくの徒歩縦断は、4分の1ほどで挫折することになったのだけれど、挫折をした日、ぼくを助けてくれたのも、そんな一台の車(乗っている人たち)であった。
ぼくの「生きる」ことの感覚のなかに、この体験が埋め込まれている。
助けられながら、生きている。
見ず知らずの、旅人であるぼくを、助けてくれる人たちがいる。
世界は、ぼくたちが思っている以上に、<やさしさ>に充ちている。
「縦向きの『ものさし』を横向きに置いてみよう」(本田晃一)。- <横向き>にひろがる世界観。
ぼくたちは生きていくなかで、じぶんのなかに、物事を判断する「ものさし」を構築し、それに従ってゆく。
ぼくたちは生きていくなかで、じぶんのなかに、物事を判断する「ものさし」を構築し、それに従ってゆく。
なにがよくて、なにが悪いのか。
どうすべきか、すべきでないのか。
「ものさし」は、とりわけ親の「ものさし」である。
生きていくプロセスで、「ものさし」を構築したことも、それに従って生きていることも「見えなく」なり、それはじぶんの価値観・世界観そのものとなっていく。
「ものさし」は、じぶんに同化してしまうのである。
いろいろな物事が「うまくいっていない」ようなとき、このじぶんに同化している「ものさし」を、分離して、「見える」ようにすること、つまり<気づく>ことが、状況を好転させていくための大きな一歩になることがある。
そのようにじぶんを無意識のうちに縛ってきた「ものさし」を見直す方法として、本田晃一は、著作『はしゃぎながら夢をかなえる世界一簡単な法』(SBクリエイティブ、2017年)のなかで、つぎのような「とても簡単」な方法を提示している。
…いままで縦にして見ていた「ものさし」を横にしてしまうんです。
上とか下をなくして、右左にしてしまう。上下の「優劣」の世界から、たんなるジャンルわけの世界に持っていくわけです。
「こつこつ真面目がいい」と「こつこつ真面目はバカだ」を横に水平に並べれば、どっちが上でどっちが下か、ではなくなります。たんなるジャンルわけになるので、そうすると、人を「ジャッジ」することがなくなってフラットな見方ができるようになるんです。
本田晃一『はしゃぎながら夢をかなえる世界一簡単な法』SBクリエイティブ、2017年
「縦向きの『ものさし』を横向きに置いてみよう」という本田晃一の「方法」は、「ものさし」イメージのしやすさと、<横向き>にひろがる世界観ということにおいて、とても魅力的である。
本田晃一は、この方法を「セルフイメージを高める」ことの文脈で書いている。
「セルフイメージを高める」なかで、ほとんどの人が「セルフイメージが高い自分=親の『ものさし』に合っている自分=親から認められる自分」という方向性にかんがえ行動してしまうことで、「ものさしの罠」にはまってしまうのだと、本田晃一は指摘している。
このように<横向き>にひろがる世界観のなかで、より自由に、ぼくたちは生きていくことができる。
この<横向き>にひろがる世界観は、世界で生きていくための「視点」をひろげていくという、ぼくの見方とも重なる方法だ。
じぶんの「内面」における「ものさし」だけでなく、この世界に生きていくうえでは、いろいろな価値観や世界観に、ぼくたちは出会っていく。
それらを、じぶんの無意識の「ものさし」に忠実にしたがって「縦向き」の序列をつけるのではなく、ひとまずは、<横向き>に取り入れてゆくことである。
「取り入れる」ということは、「そういう見方もある」と<横向き>に認めていくことである。
もちろん、<横向き>にひろがる世界観のなかで、じぶんがえらびとる視点、そして世界観・価値観がある。
大切なのは、それらを自由な仕方で「えらびとる」ことだ。
その意味で、無意識にじぶんを縛ってしまっている「ものさし」の内実に、いったん<気づく>ことが肝要になる。
ぼくは、日本の外で生きながら、ときに、じぶんの狭い「ものさし」に翻弄されてイライラすることもあるけれど、いろいろと周りで起こる物事やアイデアや現象を「そういうのも、ある」というように、<横向き>にひろがる世界観を楽しんでいる。
「文化的無臭性」(四方田犬彦)という視点。- 香港における「日本の小説やテレビ」を通してかんがえる。
香港の文学者である也斯(1949~2013)は、比較文学学者の四方田犬彦との往復書簡(四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』岩波書店、2008年)のなかで、じぶんの生い立ちを随所で語りながら、也斯より若い世代の香港の人たちが、日本のテレビドラマを見て育ってきたことを語っている。
香港の文学者である也斯(1949~2013)は、比較文学学者の四方田犬彦との往復書簡(四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』岩波書店、2008年)のなかで、じぶんの生い立ちを随所で語りながら、也斯より若い世代の香港の人たちが、日本のテレビドラマを見て育ってきたことを語っている。
誰でもよく知っているテレビドラマとして挙げられているのは、『キャプテン翼』『きまぐれオレンジロード』『キャンディ・キャンディ』『Dr. スランプ アラレちゃん』『ミスター味っ子』『ロングバケーション』『おいしい関係』などである。
また、也斯の子供たちは、『ドラえもん』『美少女戦士セーラームーン』『ちびまる子ちゃん』などを見て育ってきたという。
ここ香港では、今でも、街のなかで、『キャプテン翼』『ドラえもん』『アラレちゃん』『ちびまる子ちゃん』などを、よく見る。
先日はショッピングモールのイベント会場に『キャプテン翼』を見て、とても不思議な感じがすると共に、「キャプテン翼」の根底に流れる<普遍性>のようなものをかんがえていたところである。
ところで、四方田犬彦は、也斯への手紙のなかで、小説家の村上春樹の作品に言及しながら「文化的無臭性」という問題にふれている。
…恐るべき文化的無臭性が、ハルキの小説の根底に横たわっているのです。
誤解がないようにいっておきますと、わたしはハルキの作品が日本文学ではないと、単純化していいたいのではありません。彼はどこまで日本語で書き、日本を舞台に日本人を描いてきた作家です。ただ、強調したいのは、彼がこれまで海外の眼差しがステレオタイプとして享受し、また期待もしてきた日本的なるものから、完全に距離をとっているという事実です。…
四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)
香港でも、村上春樹はよく読まれており、新作が出ると、店頭に高く積まれることになる。
村上春樹の作品の登場人物を中国人名にしてみたら、香港の物語と受け取る香港の人たちは多いのではないかと、四方田は書いている。
そのような「文化的無臭性」に包まれる村上作品が海外に波及していく仕方は、「ある意味で日本のアニメや漫画、またTVゲームのそれと平行」していると、四方田はさらに指摘している。
そうして、日本文化であっても、香港文化であっても、それらの「ローカリティを犠牲にし、無臭性に徹することでしか、外国に受容されない」のだろうかと、彼はじぶんに問い、思考をめぐらせている。
「キャプテン翼」の<普遍性>のようなことをかんがえていたら、ぼくは、四方田犬彦のいう「文化的無臭性」という視点に、たまたま出くわしたのである。
世界の都市の風景と生活スタイルが「文化的無臭性」の方向に、一様化されてきているようなところは、実際の経験のなかで感じる。
「一様化」という言い方よりも、グローバリゼーションの流れにおける「標準化」の力である。
文化の地層を深く掘っていくことを通して、その根底に諸々の文化を通底するような水脈につきあたるのではなく、それとは逆の方向に「標準化」してしまうような力学だ。
「文化的無臭性」という見方をその表層においてぼくは理解しつつ、村上春樹の作品の根底に「文化的無臭性」が横たわっているのかどうかは、ぼくにはわからない。
村上春樹自身が語るように、無意識の次元に降りて書くようなスタイルは、むしろ人間のなかの深い水脈に降りていくこともできるかもしれず、それは文化的無臭性とは逆の方向に<普遍性>を見出すようにも思えるからだ。
ぼくにはわからないけれど、ただ言えることは、ぼくたちの生は(ひとつの)文化だけに規定されているわけではなく、例えば「生命性/人間性/文明性/近代性/現代性」(見田宗介)というようにそれぞれが共時的に、ぼくたちのなかに生きつづけているということである。
それでも、「文化的無臭性」という四方田犬彦が提示した視点と問題は、ぼくのなかに収めておきたい視点と問題提起である。
香港で、じぶんのなかに「漠然と抱く香港の映像」をイメージする。- 四方田犬彦の「三つの映像」に触発されながら。
比較文学学者の四方田犬彦はかつて、香港文学の第一人者である也斯との5年間にわたる往復書簡の初めの手紙を、つぎのように書き始めている。
比較文学学者の四方田犬彦はかつて、香港文学の第一人者である也斯との5年間にわたる往復書簡の初めの手紙を、つぎのように書き始めている。
親愛なる也斯に
小学生の頃、わたしが漠然と抱いていた香港の映像は、三つの映像から出来あがっていました。女王陛下と、ネオンが華やかに輝く夜景と、それに高台から見下ろされた美しい海です。ここにきみに向かって長い手紙を書き始めるにあたって、わたしはまずこの三つの映像の起源について、お話ししなければなりません。…
四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)
四方田犬彦が「小学生の頃」とは、1950年末から1960代前半にかけての頃で、もちろん香港が「返還」(1997年)される前のことである。
往復書簡は『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)という本にまとめられ、とても親密な文体で、香港と東京というアジア二大都市の街の風景、飲食、映画、文学などが描かれている。
その最初が、四方田犬彦にとっての「わたしが漠然と抱いていた香港の映像」であり、長い手紙の書き出しとして、それはとてもすてきな書き出しであるように、ぼくは思いながら読む。
読みながら、ぼくは、ぼくにとっての「わたしが漠然と抱いていた香港の映像」とはなんであっただろうかと思い出そうとする。
「小学生の頃」は、ぼくにとっては、1980年代にあたる。
それから、1995年に、初めて香港に降り立つときまで、「わたしが漠然と抱いていた香港の映像」はどんなものであったろうか。
「三つの映像」を挙げるとすれば、ジャッキー・チェン、「百万ドルの夜景」、高層ビル群、である。
でも、それらの「起源」となると、四方田のように、ぼくは語ることができるほどの記憶がない。
でも、テレビで、ジャッキー・チェンの映画のなかに、「香港」を観ていたことは確かだ。
夜景も、高層ビル群も、もしかしたら、映画のなかの映像であったかもしれない。
2007年、四方田犬彦と也斯との好奇心に充ちた往復書簡が終わるころに、ぼくは東ティモールから、香港に移り住むことになる。
それから10年以上の時間のうつりかわりを、ぼくはここ香港で生きることになる。
その間に、ぼくの「三つの映像」はどうなっただろうかと、じぶんのなかを見つめてみる。
もちろん、今は「漠然と抱いた映像」ではなく、「現実としての映像」が日々目の前にひろがっている。
「現実としての映像」を目の前に、じぶんのなかの映像を見るということは、おかしく聞こえるかもしれない。
けれども、「じぶんのなかの映像」を通して、あるいはその世界観を通して、ぼくたちは「現実としての映像」を見ていたりする。
そのようにして、「三つの映像」を思い浮かべて見て、ぼくに見えるのは、香港の海、(高速で時間を回しながら映像が移り変わる)高層ビル群、そして(まるでフランドルのタペストリのように)装飾された香港の多様性に充ちたイメージ、である。
それぞれの映像は平面というより、さまざまな時空が映像に凝縮されて、立体的になっている。
現時点での香港に抱く「三つの映像」を思い浮かべながら、「ある場所で生きる」ということは、映像が<立体的になる>ということかもしれないという想念が、ぼくのなかにわいてくる。