なぜ「支援」するのかということについて。- じぶんの深いところからくる「衝動」としての<助けの手>。
世界で、いろいろな「支援の手」が、さしのべられている。
世界で、いろいろな「支援の手」が、さしのべられている。
紛争においても、自然災害においても、事故においても、それぞれの現場で、ふつうには想像もつかないような、危険を背負った支援がおこなわれる。
助ける側も助けられる側も、生死や大事、あるいは人生や生活がかかってくるような状況におかれることもある。
そのようななかで、どうしてそこまでできるのだろう、と思うほどに、人は全身全霊で立ち向かってゆく。
「どうしてそこまでできるのだろう」という問いの後ろには、何が人をそうさせるのだろうか、という思いと疑問がある。
そこへの「回答や推測」は、語る人の立ち位置によって、あるいは語る人の視点によって、さまざまである。
純粋に利他的な行動であるという語り、信念に基づく行動であるという語りから、なんらかの「利得」のためだという語りまで、いろいろだ。
そして、それらの「語り」は、それぞれにおいて、それぞれの真実の一面を語るものでありながら、すべてを語りつくすものではないように聞こえる。
それでも、実際に出来事が起きている「現場」では、人は、<何かの衝動>につきうごかされるように、じぶんという「個」をさしおいて、ときにじぶんを犠牲にする仕方で、助けの手をさしのべたりする。
ぼくも、「何かの衝動」につきうごかされるように、国際協力・国際支援の道を歩み、紛争後の西アフリカのシエラレオネ、それから紛争後の東ティモールで、NGOの活動を担っていた。
シエラレオネでの難民キャンプの人たちや帰還民の人たちへの支援、東ティモールでのコーヒー生産者たちへの支援、それらの「現場」に立つことになって、ぼくはできることをしながら、いろいろとかんがえてもいた。
日々は、雑用もあり、解決しなければならない事柄でいっぱいで、また「仕事」をこなしてゆく過程でもあり、いつもいつも「何かの衝動」につきうごかされているわけではない。
「支援」の現実にまとわりつく、いろいろな局面に対処してゆかなければならない。
それでも、緊急な状況、差し迫った状況、あるいはそのような間隙において、ぼくは、じぶんの深いところからくる「何かの強い衝動」につきうごかされるような感覚をもって、活動する。
それ以上を問うことができないような「何かの衝動」に動かされているように、ぼくは感じたものだ。
そのように感じた衝動と限定された経験のなかで、ぼくは、世界の、さまざまな「現場」に生きているであろう、この「衝動」のことを思う。
任務や仕事としてくくられる行動のなかにも、<助けの手>をさしのべることの「衝動」が、個々の身体の奥深くに息づいている。
世界のそれぞれの「現場」からのニュースを見聞きしながら、そんなことを思い、また、安全に<助けの手>がとどくとよいと、ぼくは気持ちを向ける。
「時間」から解き放たれること。- 個人的な経験と試みの、メモ風の走り書き。
「時間」というものが、じぶんの生活においてとても切迫するものとして、あるいはじぶんを束縛するものとして立ち現れる。
「時間」というものが、じぶんの生活においてとても切迫するものとして、あるいはじぶんを束縛するものとして立ち現れる。
あるいは、とても長く感じたり、とても短く感じたりと不思議な時間感覚を生きたりするなかで、「時間」が、まるで人格化されたもののように、あるいは全知全能なものであるように、現象したりする。
そのような日々の感覚のなかで、どうすることもできず、時間にコントロールされるように生き、ときに息苦しくなる。
だから、身体を時間で束縛するような「腕時計」というものが好きになれずにいた。
そのような「時間」という不思議なもの/現象から、ぼくが「距離」をおき、関係をとりもどしてきた、個人の経験のことを少し書こうと思う。
そんなこと読者の方が聞いてもなんの役にも立たないかもしれないけれど、世界には、じぶんと同じように世界を感覚し、悩み、かんがえている人が一人くらいはいるかもしれないという、勝手な前提を立てて、ぼくは書く。
1.世界(異なる「時空間」)を旅し、生きること
「時間」というものが、ある意味で<絶対的なもの>のようにぼくの前に現れていたのが、いくぶん、その姿がほどかれはじめた契機のひとつは、「日本の外」に出たことであった。
それまですっぽりと、そのなかにはまっていた「日本」という社会から出てみることで、<時間はいろいろあるんだ>という感覚がぼくのなかに浸潤してくる。
「日本という社会」は、あるひとつのシステムとして、その内的な時間を共有する時空間であると言える。
18歳ではじめて上海から中国を旅し、20歳のときにはニュージーランドに住み、26歳のときには西アフリカのシエラレオネにいた。
そのように「移動する身体」としてのぼくは、「日本という社会」の「時間」から離れ、それぞれの社会の時間感覚のなかで生きることで、「絶対的なるものとしての時間」から距離をおくことができたように、思う。
2.時間を「時間」として<知る>こと
世界の異なる時空間を旅し、生きることと並行して、とても大切であったのは、<知>として、時間を知ることである。
真木悠介(見田宗介)という知性と生に出逢ったことは、偶然であり、偶然ではなかった。
真木悠介の名著に『時間の比較社会学』(岩波書店)があり、「時間」を、社会科学の主題として正面から、そしてきわめて明晰に論じた本である。
哲学や文学などの「時間論」は楽しいものだけれど、ぼくはいっそう、「時間」の迷宮に迷い込むだけであった。
だから、「時間」を、比較社会という方法のもとに、人類の歴史における社会の変遷のなかで捉える、この名著に、ぼくはすっかり目を見開かせられたのだ。
もちろん、真木悠介が書くように、この本は「時間の問題」を解決するものではないけれども、生きることの「道を照らす」という仕方で、ぼくの「時間の問題」に光を射すものであった。
3.日々の実践、たとえば「Apple Watch」というアシスタントツール
実践的なところで言うと、「Apple Watch」の存在は、「腕時計」という概念を転回させるものであったことが挙げられる。
上記の1と2と直接なつながりはないけれども、「時間」というものがある程度、感覚として、そして知として、ぼくのなかで客観化されてゆくなかで、このような「ツール」が生きてくるようなことはあると思う。
「Apple Watch」は、第一に、「時計」を超えたものであったこと、また第二に、「時計」を超えるものとしてぼくのアシスタントツールであること、において、勝手に抱いていた「腕時計」による時間の呪縛からぼくを解き放つものであった。
「時計」を超えたものであるとは、字義通り、機能として「時計」に限定されず、むしろ時計の機能が「周縁」であることである。
時計の機能を「周縁化」した他の機能たち(SNSや電話通知、ヘルスサポートなど)が、ぼくの「アシスタント」的なツールとして動いてくれることは、ぼくにとって、束縛という感覚を解きほどいてくれるものであった。
世界で異なる「時間」感覚を生き、知でそのことを知り、そして実践的に日常を解体し生成させる。
これは、あくまでも、ぼくの個人的な経験と試みであり、また、ここに書いたこと以外にも、いろいろな試みを日々の実践のなかで生きてきた。
それでも、ときに時間は、あの「時間」として<絶対的なもの>の顔を、ふいと見せることもある。
けれども、ぼくはその顔を見るときに、以前とは違った仕方で、見るだけである。
香港で、小売店の「動き」にびっくりし、また納得して。- こうして香港は動きつづける。
香港では、小売店やレストランは、利用する側から見れば、よく「変わる」。小売店やレストラン側の視点から言えば、よく「動く」。
香港では、小売店やレストランは、利用する側から見れば、よく「変わる」。
小売店やレストラン側の視点から言えば、よく「動く」。
このダイナミズムが、「香港」を象徴しているようなところがある。
このダイナミズムには、たとえば、それを駆動する「賃料」の高騰があり、それに追随できる店舗で次第にショッピングモールは埋められ、それが繰り返されていく。
利用する側としては新しい店舗に「楽しみを得ること」(あるいは逆に望まない店舗などに「不都合・不便であること」)、小売やレストランを運営する方としては「頭を悩ますこと」(あるいは逆に「入居できるチャンスが増えること」)であったりする。
よく変わる/よく動くから、香港のショッピングモールなどでは、小売店の、いわゆる「閉店セール」を頻繁に見ることになる。
厳密には、店舗の「契約期間満期」に伴うセールと、店頭には書かれたりする。
微妙な言い方だけれど、契約期間満期で契約を更新しないことになる。
そうして、小売店は「セール」を展開していく。
それは期間的に、だいぶ前からはじまったりするのである。
あるショッピングモールで、ある小売店が、上述のような「セール」を展開していた。
いつ終わるかは明示されておらず、店舗契約期間満期に伴うセールで、店内には多くの人たちが買い物をしている。
でもよくよく聞くと、この店舗が閉じられるのは、数ヶ月先のことであった。
その間も「セール」は続けられ、ようやく閉店の週になって、あと何日、という文字が現れることになる。
それなりに店内は混み合っているようだ。
後日、その店舗の場所が改装工事に入っているのを見つけて、ようやくその時が来たんだと思っていたら、そこから数店舗を隔てたところに、その店舗の看板が見えた。
そこの場所もちょうどある小売店が出ていったところであったが、その場所に店を構えたようだ。
もちろん店舗サイズはまったく同じわけでもないし、したがって品揃えも異なってくる。
けれども、ぼくは、びっくりし、感心してしまった。
たとえば日本であれば、あるショッピングモールで閉店セールをすれば、やはりそこからは撤退することを前提としているように思える。
そこには「いろいろな意味合い」が込められたりする。
しかし、ぼくが見た光景は、まるで儀式のように閉店セールが行われ、そのセールを売る側も利用する側もひとつの「機会」とし、そして期間が終わるとなにごともなかったように、「次」へと時間のコマをすすめる。
もちろん、裏舞台では「いろいろな意味合い」が込められていたのかもしれないのだけれども、「表舞台」で見ていたぼくは、一瞬、頭の回路が混乱し、「待てよ」と頭の体制をととのえなければいけなかったのだ。
びっくりし、感心し、そして同時に、ぼくは「香港だなぁ~」と納得してしまった。
つぎからつぎへとすすんでゆく時間、プラクティカリティ、変わりつづける諸相とそれらのエネルギーなどが、いっぺんにぼくの目の前に見せられたようであった。
そうして、ぼくは、開店したばかりの、新しいお店に立ち寄ったのであった。
(注)「写真」はイメージのみ。
竹内敏晴のレッスンにおける「たった一つの出発点」。- ルソーの言葉に混乱しながらの、気づき。
竹内演劇研究所を主宰していた竹内敏晴(1925-2009)。
竹内演劇研究所を主宰していた竹内敏晴(1925-2009)。
その竹内敏晴が、ルソーの晩年の作品『孤独な散歩者の夢想』のある箇所を読んでいて「ぎょっ」とした体験を、著書『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書、1990年)のなかで、書いている。
この言葉に、かなり長い間、竹内敏晴はこだわりつづける。
まずは、その、ルソーの言葉である。
…人間の自由は、自分の欲することをなすことにあるなどと、僕は一度も思ったことはない。ただ、自分の欲しないことをなさないことにあると思っている。
ルソー『孤独な散歩者の夢想』青柳瑞穂訳(新潮文庫)
「したいことをすること」ということが自由であることだと思っていた竹内敏晴は、これ以後、「欲しないことをなさないこと」という言葉にこだわりつづけてゆく。
「竹内レッスン」と呼ばれる、「からだ」と「ことば」のレッスン(「話しかけ」のレッスン、「並ぶ」「触れる」「押す」レッスン、緊張に気づくレッスン、声とことばのレッスン、「出会い」のレッスン」など)という、「人が変わること」の具体的な方法を展開しながら、竹内敏晴はルソーの投げかけたことばの「意味」を問うことをしていったのだ。
竹内敏晴はそうして、じぶんなりの「気づき」を得てゆくことになる。
…したいことは容易に見つからないが、したくない、って感じは、人はすぐ感じとることができる。たとい単なるわがままだと言われるような次元のことでも、たしかに、そこに、その人がいるのだ。それを大切にすることから出発すれば、自分が現れてくる。見えてくるのではあるまいか。むしろ、現代では、まじめな人ほどやっていることを自分が好きか嫌いかなどと感じてみようともせず、ただやらねばならぬことだから一所懸命にやる、という訓練のうちにからだを凝り固まらせてしまっているのではないか。
竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』講談社現代新書、1990年
そうして、竹内レッスンの場にいる間は「イヤなのか好きなのか」を、からだに問うということをして、「イヤなことは捨てる」ということをしようとする。
そのことが、<たった一つの出発点>なのかもしれないと、竹内敏晴は書いている。
「ただやらねばならぬことだから一所懸命にやる」という<身体たち>をいっぱいにつくりだしてきた「社会」は、竹内敏晴がこの文章を書いた1990年頃以降も手をゆるめることなく、一見自由に見える個々人の身体たちを凝り固まらせているように、ぼくには見える。
それらに気づき、ときほぐし、「イヤなことは捨てる」という消去法を出発点としてきた竹内敏晴の方法に、ぼくは惹かれる。
じぶんに何かを「加えること」ばかりを推進する社会の力学から解き放たれ、消去法のうちに、じぶんの「からだ」と「ことば」に向き合う。
「消去」は、「加えること」よりも、時間も労力も要するものかもしれない。
でも、「じぶんを生きていく」ということにとって、それは大切なことであり、竹内敏晴が言うように、ある意味で、<たった一つの出発点>でもあるかもしれないと、ぼくは思う。
ルソーの考えていた「人間の自由」。- 『孤独な散歩者の夢想』におけるルソーの、思いがけない言葉。
東ティモールで心を揺さぶられた「挨拶」について書いたブログで触れた本、竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』。
東ティモールで心を揺さぶられた「挨拶」について書いたブログで触れた本、竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書、1990年)。
この本を読んでいて、竹内敏晴(1925-2009)自身が「ぎょっ」となったように、ぼくも「ぎょっ」とした。
それは、ルソーの晩年の作品『孤独な散歩者の夢想』における、つぎの箇所を読んだときのことである。
竹内敏晴はその箇所を読んでいて「ぎょっ」としたと書いていて、ぼくも「ぎょっ」として、すぐさま『孤独な散歩者の夢想』の本をひらいて、その箇所を読み返してしまった。
…人間の自由は、自分の欲することをなすことにあるなどと、僕は一度も思ったことはない。ただ、自分の欲しないことをなさないことにあると思っている。
ルソー『孤独な散歩者の夢想』青柳瑞穂訳(新潮文庫)
「したいことをすること」に人間の自由があるんじゃないかと思っていた竹内敏晴と同じように、ぼくも漠然と、「自由」という近代を導く理念が、この理念の生成に多少なりとも影響を与えたであろうであろう人物によって、「したいことをすること」の方向に(も)語られていたのだと思っていた。
「自由論」ということを研究していたときがぼくにはあって、その記憶では、西洋的な歴史の文脈においては、たしかに「~からの自由」、いわゆる「消極的な自由」が表舞台に出てきていた側面がある。
「~への自由」という「積極的な自由」は、ときに危険なものとしてかんがえられたりしてきた。
ルソーは、自由という言葉が観念論におちいる手前のところで、そのことを、実際の「関係」のなかで、たとえばじぶんが社会から放逐されたという状況のなかで語っている。
孤独な散歩者の夢想として。
…この自由のために、僕は同時代人から最もはなはだしく誹謗を受けもしたのである。つまり、活動的で、撹乱的で、野心的な彼らとしては、他人のうちに自由を憎み、自分自身に対しても自由を欲することなく…一生涯、窮屈を忍んでも自分のいやなことをなし、命令するためには、どんな卑屈なことも辞さなかったのである。だから、彼らの過誤は、僕を無益な一員として社会から遠ざけたことでなくて、有害な一員として社会から放逐したことだったのだ。
ルソー『孤独な散歩者の夢想』青柳瑞穂訳(新潮文庫)
このような文脈のなかに、ルソーは、人間の自由は、「自分の欲しないことをなさないことにある」と語っている。
消極的自由(~からの自由)は、たとえば政府や制度や他人から干渉されない自由であり、ルソーの語る「人間の自由」は、他者たちからの自由に加えて、<じぶん自身からの自由>とでも呼ぶべき自由を含んでいる。
そのことは上にとりあげたルソーの文章において、ルソーと対置されている「彼ら」の特徴と比較することで見えてくる。
「彼ら」は、「他人のうちに自由を憎み、自分自身に対しても自由を欲することなく…一生涯、窮屈を忍んでも自分のいやなことをなし、命令するためには、どんな卑屈なことも辞さなかった」ような人たちである。
ここで「彼ら」は、じぶん自身を押さえ込み、抑制・抑圧していくものたちである。
ルソーの視点からは「人間の自由」がないもの、つまり「欲しないことをする」ものたちである。
そういう「彼ら」が、「他人のうちに自由を憎み、…命令をするためには、どんな卑屈なことも辞さなかった」という描写は、現代にも通じることを語っているように見える。
養老孟司が、インタビューの中で語っていた言葉が、ぼくのなかで重なってくる。
…日本は律儀な社会です。それが裏返って気持ち悪いことになるのです。自分が我慢してやっている人は他人にも我慢させる。それが怖いんです。…この強制が日本の場合、一番キツいですね。
養老孟司インタビュー「煮詰まった時代をひらく」『現代思想』2018年1月号
「近代」の創世記にルソーによって語られていた「人間の自由」のことが、「近代」の原理が成熟してきた現代という時代においても、あるいは現代という時代だからこそ、その「意味」が表出されるようなところにきている。
ところで、冒頭の竹内敏晴がルソーの言葉に「ぎょっ」として出会って、「からだ」と「ことば」という次元において「自分の欲しないことをなさないこと」のことばをかんがえつづけたなかで、どこに「方向性」を見出したのか、このことは別のブログで書こうと思う。
「挨拶」のことばの届き方。- 東ティモールでの挨拶の「声」と「ことば」に心身を揺り動かされて。
東ティモールに住んでいたときに、ぼくの心身が揺さぶられたこととして、「挨拶」ということがあった。
東ティモールに住んでいたときに、ぼくの心身が揺さぶられたこととして、「挨拶」ということがあった。
挨拶のことばの響き方であり、より正確には、挨拶のことばの「届き方」であった。
「届き方」ということは、ある人がある人に挨拶のことばを届けるとき、その「ことば」がどのように伝わってゆくのかということである。
東ティモールの人たちの「挨拶」は、そのことばと響きが、直球で、かつそこに生きることの原初的な歓びをもって、ぼくの心身に伝わってくるような、そのような挨拶のことばであった。
東ティモールで話される言語は「テトゥン語」と呼ばれる言語である。
しかし、日常に交わされる言葉の中には、東ティモールの歴史の足跡を残すように、ポルトガル語、またインドネシア語が、いろいろな仕方で混じってくる。
「挨拶」のことばも例外ではなく、ポルトガル語の「おはよう」(Bondia)などがふつうに使われる。
例えば、「おはようございます。お元気ですか?」は、「Bondia. Diak ka lae?」のように会話される。
このような言語の使われ方もまた興味をひくところであるけれども、ぼくをとらえてやまなかったのは、そのことばの「届き方・届けられ方」であった。
挨拶のことばが発音されるときの「声の大きさ」が、まずは大きいこと。
お腹の底から響いてくるような声の大きさと響きは、例えば「ボソボソとした挨拶」に慣れてしまっている身体には、ひとつの驚きのようなものとしてやってくる。
ただ、声が大きいだけであれば、そのような人たちは世界のどこにもいるから、「驚き」で終わってしまっただろう。
「驚き」を超えて、それがぼくの心身を深く揺さぶったのは、挨拶のことばが、じぶんに伝わってくるときの「伝わり方」である。
竹内演劇研究所を主宰していた竹内敏晴(1925-2009)は、幼い頃の難聴とことばの困難のなかで、じぶんの声とことばが「ひらかれる」ことの経験とメルロ・ポンティの現象学を基礎にして、<からだとことばのレッスン>を展開していった。
竹内敏晴は、人間のからだのぜんたいが他者にいきいきとはたらきかけることにおいて、その現象の音声的なパートが「声」や「話しことば」であるという認識に立っている。
そんな竹内敏晴の<からだとことばのレッスン>のなかに、「話しかけのレッスン」というレッスンがある(竹内敏晴『<からだ>と<ことば>のレッスン』講談社現代新書、1990年)。
その形式のひとつは、四、五人の人に好きな方向を向きながら床に座ってもらい、二~三メートル離れたところにいる人がそのうちの一人に短いことばで話しかけ、座っている人たちのなかで「話しかけられた」と感じた人は手をあげるというものだ。
とても「簡単な」レッスンの形式なのだけれど、内実はそれほど容易ではないようだ。
聞き手は「話しかけられた!」とはすぐにはならず、発話されているにもかかわらず声がじぶんに届いてこない。
聞き手の感想は、たとえば、「声がじぶんの手前で落ちた」とか、「みんなに言っているようだ」とか、「通り過ぎて行った」とかである。
竹内敏晴は、このことについて、つぎのように書いている。
声が私まで届いて来ない、とか、もっと手前で落ちてしまった、とか言うけれども、考えてみると、声そのものはちゃんと聞こえているわけだ。文としてのことばの内容も理解できている。にもかかわらず、自分に話しかけてくれてるかどうかと耳を澄ましてみると、さまざまに違った形が見えて(聞こえて)くる、ということは、話しかける、とは、ただ声が音として伝わるということとは別の次元のことだということだろう。
…即ち、からだへの触れ方を、声はするのである。声はモノのように重さを持ち、動く軌跡を描いて近づき触れてくる。いやむしろ生きもののように、と言うべきであろうか。
竹内敏晴『<からだ>と<ことば>のレッスン』講談社現代新書、1990年
竹内敏晴の実践と生きられる理論は鮮烈である。
東ティモールでの、ぼくの経験も、竹内敏晴の<眼>で見てみると、その一端をつかむことができるように思う。
東ティモールでぼくに届けられる「挨拶」のことばは、もしそれが「話しかけのレッスン」の場であったとしたら、「聞き手」のぼくは、話し手の声が発生されるやいなや、すぐさまに「話しかけられた!」と手を挙げることができるような声であり、ことばであった。
そのような「挨拶」のことばに、いつしか、ぼくの身体もつられるようにして、同じような挨拶のことばと声を、他者たちに届けていた。
東ティモールの同僚たちに向かって、あるいはコーヒー生産者たちの村々に入っていってときに彼(女)らに向かって、竹内敏晴が言うように、まるで声が「モノのよう」であるように、ぼくは挨拶のことばを届けた。
そして、そのような<ひらかれた身体>が、心のひらかれ方にも通じているように、ぼくは感じたものだ。
東ティモールでの挨拶の「声」と「ことば」は、このようにして、ぼくの心身を、根底から揺さぶったのであった。
「子どもたちが笑う」風景と国際協力・国際支援。- シエラレオネの難民キャンプで、東ティモールの村々で、ふりむけられた笑顔。
国際協力・国際支援ということにおいて、その風景はしばしば、「子どもたちの笑う風景」として、写真や映像において切り取られる。
国際協力・国際支援ということにおいて、その風景はしばしば、「子どもたちの笑う風景」として、写真や映像において切り取られる。
屈託のない、どこまでもひろがってゆくような笑顔が、それらから見るものに伝わってくる。
逆に子どもたちの「悲惨な状況」が切り取られて伝えられることもあるけれど、それとは対極に位置するように、「笑う姿」がメディアに映し出される。
そこには、見るものに対し、国際協力・国際支援といった支援への「支援」や「理解」を要請する意図が織り込まれる。
子どもたちのいっぱいにひろがる笑顔に触発され、メッセージを発する者の意図に応答するように、「(金銭的/非金銭的)支援」を提供する人たちがいる一方で、個々の経験の回路が作動して、これらのイメージに「作られたイメージ」を読み取って抵抗感を感じる人たちもいる。
それらの異なる「反応」は、そこには個別の経験を含めいろいろな力学が作動しているから、その背景や理由は一概には言えない。
けれども、ぼく個人の経験に照らし合わせると、「子どもたちの笑う姿」は、国際協力・国際支援ということの「現場」において、そこで働く/活動する者(つまり、ここでは「ぼく」)の気持ちや行動を積極的に駆動したものである。
2002年、西アフリカのシエラレオネにおける難民キャンプで、リベリア難民の小さな子どもたちが、ぼくにふりむける笑顔が、どれだけ、ぼくに力を与えてくれたか、ということのなかに、経験されている。
国際協力・国際支援の「現場」は、(場所や状況にもよるけれど)一般にかんがえられるようなところではないかもしれない。
写真や映像というものが、現実の一部のみを切り取るものであるように、現場で働く者にとって、「子どもたちの笑顔」だけを見ているのではないし、「悲惨な状況」だけを見ているのでもない。
また、以前の「ボランティア」というイメージに塗り込められていたような、「仲良く、わきあいあい、楽しい」協力・支援という場面(だけ)ではない。
「現場」での仕事は、「なんとなく」という仕方での関わり合い方ではやっていけないし、「プロフェッショナルさ」が求められる。
組織を運営したり、人と関わる際に起きるであろう問題や課題や困難にしばしば直面しながら、また先進産業地域に住む者にとっては「思いもよらない」ような状況にも出くわしながら、プロフェッショナルとして、プロジェクトを進めていかなければならない。
「それでも」という接続詞で、ぼくは文章をつなぐ。
「笑顔」だけで出来上がっている世界ではまったくないけれど、「それでも」と、ぼくは書き続ける。
それでも、「子どもたちの笑顔」は、現場に生きる/現場で働く人たちの「奥深く」に届く。
先進産業地域の環境に生きる人たちが<写真や映像に切り取られて見る世界>のひとつの典型的な形式であるだけでなく、現場に生きる/現場で働く人たちにとっても、現場の世界は「子どもたちの笑顔」で切り取られる。
少なくとも、「ぼく」にとっては、子どもたちの笑顔は、そのようなものとしてあった。
シエラレオネの難民キャンプで子どもたちにふりむけられる笑顔とはにかみ、東ティモールの村々でぼくにまっすぐに届けられる子どもたちの笑顔と歓声、等々。
それらは、写真や映像ではなく、その時、その場におけるリアリティとして、経験される。
子どもたちがぼくにふりむける笑顔に生かされ、よりよい「未来」を想像し、また創造のための思考や行動や努力に向かう気持ちに火を点火する。
そのように触発される力は、ぼくの中の、ずっと奥深いところからやってくるようなものとして、感じられる。
それは、「人がよろこぶことを人はよろこぶ」という欲望の構造からなのか、あるいは「人間」にあらかじめ装填された自己を解き放つ装置が作動したからなのか。
「子どもたちが笑う」風景は、写真や映像のなかだけでなく、国際協力・国際支援という「現場」においても、ひとつの<真実の風景>として、ぼくの日々の中で経験されていた。
思い出としての「新鮮なライム」。- 西アフリカ・シエラレオネの首都フリータウンの、ある日曜日に。
思い出は、ふとしたときに、やってくる。
思い出は、ふとしたときに、やってくる。
プルーストの作品における「紅茶にひたされたマドレーヌ菓子」の味が過去の記憶をよびもどすように、それはたとえば、「新鮮なライム」のみずみずしさとして、ぼくのところにやってくる。
けれども、プルーストの過去の記憶のように、その味の詳細な記憶はなく、新鮮なライムを飲み物のなかにしぼり、それを口にしたときに心を動かされたことを覚えている。
あるいは、ぼくがいた、「あの」空間の雰囲気が一緒になって、思い出・記憶のファイルにとじられている。
2002年の終わりから2003年の前半にかけてのこと、ぼくは西アフリカのシエラレオネにいた。
NGO職員として、当時、紛争が終結して間もないところで、支援活動に従事していた。
事務所は、首都フリータウンの事務所を含め、シエラレオネ内に3箇所あり、ぼくはそれらを行き来しながら活動していた。
それなりにシエラレオネの生活に慣れたころの、ある日曜日(だったと思う)に、一緒に働いていたシエラレオネの同僚が、ぼくを家に招待してくれた。
生活に慣れたころとはいえ、生活も仕事も、とてもチャレンジングな日々が続いていた。
そんな折の、つかの間の休息。
招待された家で、とくに何かをするわけでもなく、会話を交わし、飲み物をいただく。
すると、同僚は「ライムは欲しいですか?」とぼくに尋ね、そうですねと応えると、「ちょっと待ってて」と部屋を出ていく。
ちょっとして戻ってきた同僚は、ライムを手に戻ってきて、それをぼくに渡してくれる。
どうやら、家の庭に育っているライムを取ってきてくれたようだ。
そして、その鮮烈なみずみずしさと、新鮮な香りにぼくは、心身揺り動かされることになる。
15年以上経過した今も、そのときのことが、暖かい思い出として、思い起こされる。
新鮮なライムは、とりたてて珍しいものではない。
家庭菜園をしていたりすれば、いつだって、菜園から摘み取り、新鮮な味と香りを楽しむことができる。
「過去の記憶」というものは、時間の経過ととに<純化された記憶>となることもあるから、「新鮮なライム」の記憶は、ぼくのなかで、相当に純化され再構成されているのかもしれない。
そう思いながら、しかしそれだけではなく、あの時、あの場、そしてそこに置かれたじぶんという状況のなかで、ぼくの心身の深いところに<思い出・記憶の旗印>を立てたのだとも思う。
シエラレオネに生きる人たちにとって日常が戻ってきたとはいえ、人びとの心のなかには深い闇があり、また目に見える形では、たとえば、フリータウンの街の中にもまだ避難民キャンプがあって、紛争が残したものをむきだしにしている。
ぼくはといえば仕事は四方八方において困難がつづき、あるいはアフリカの強烈なマラリアにかかったりと、都会の便利さに慣らされてきた身体はサバイバルモードに入ったりすることもある。
そのようななかに置かれていたからこそ、「新鮮なライム」は、生ということの新鮮さをいっそう感じさせるものとして、ぼくにとってとてもとくべつなものであったように、思う。
そして、招かれた部屋のしずかな雰囲気となんでもない会話が、あたたかい思い出として、今も生きている。
それだけでも、あの時、あの場所にいてよかったと思えたりする。
ぼくたちは、どの時代の、どこにいても、そのような、なんでもない「とき」と、それからあたたかい思い出に、心の火を灯されるようにして生きる。
「消去法」としての「自分の個性を知る」こと(内田樹)。- じぶんを「マッピング」する視点。
思想家・武術家の内田樹が、「自分の個性を知る」ということは、ほんらい「消去法」的な作業なんだ、ということを語っている。
思想家・武術家の内田樹が、「自分の個性を知る」ということは、ほんらい「消去法」的な作業なんだ、ということを語っている。
自分の個性を知ることは消去法によってなんだ、という見方・考え方を支えるものとしては、内田樹が語る、じぶんを「マッピング」する視点を見ておく必要がある。
著書『疲れすぎて眠れぬ夜のために』において、内田樹は、<じぶんがどこにいるか>ということを、時間軸と空間軸それぞれにおいて、「マッピング」すること(=「地図上のどの点に自分がいるかを特定すること」)の方法を語っている。
「今・ここ・自分」というところを離れて、想像的に上空に飛翔し「鳥の眼」でじぶんを見下ろす。
これを「空間的なマッピング」とともに、「時間的なマッピング」としてもおこなう。
「時間的なマッピング」は、内田樹が言うように、じぶんの「前史」を見通すということである。
この視座および視点の置き方は、ぼくもじぶんの方法として使ってきたものであり、ぼくの「時間的なマッピング」は、じぶんの生の時間を超えて、極めて長い時間軸をとっている。
このような<じぶんの時空間マッピング>において、じぶんを括弧に入れて、「じぶん」を理解してゆく。
じぶんの「ものの見方や考え方を絶対視する人」=「マッピングする知的習慣を持っていない人」だと、内田樹は書いている。
「じぶん」は、「じぶんはじぶんだから」というように言い切れない仕方で、つまり<時空間>の網の目のなかにおける<じぶん>として成り立っているから、「マッピング」をすれば、じぶんのものの見方や考え方は相対化されてゆくことになる。
だから、<じぶん>というものをほんとうに生きていこうと思えば、<時空間のマッピング>のなかで「じぶん」を理解し、そこから、「消去法」でいろいろな条件や状況などを削ぎ落としてゆくことが必要となってくる。
こうして、最初に挙げた、内田樹のことばに戻ってくることになる。
「自分の個性を知る」というのは、ほんらい「消去法」的な作業なんです。
自分たちの生きている社会の成り立ちを「勉強」することによって、ある世代、ある地域集団の全体にのしかかっている「大気圧」を認識できた人間だけが、それを控除した後になお残っているものを、自分の「個性」として認知できるのです。…
内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫
内田樹はさらに、個性的であるということについて、それは、それぞれの時代の流行や出来事などの「正史」を構成してゆく「記憶の共同体」への住民登録を求めないということであると、つづけて書いている。
…頭にぎっしり詰め込まれた「偽造された共同的記憶」を振り払い、誰にも共有されなかった思考、誰にも言えなかった欲望、一度もことばにできなかった心的過程を拾い集める、ということです。
これは徹底的に知的な営みです。メディアでは人々が「個性的に」ということを実にお気楽に口にしていますが、「個性的である」というのは、ある意味で、とてもきつことです。…
内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫
ぼく自身の<時空間マッピング>は、このように書く内田樹やぼくの尊敬してやまない見田宗介などの、ほんものの知性たちから学ぶことで支えられてきた。
そして、20代の半ばから日本を離れ、異なる社会とそこの時間の流れのなかに「身」を置いてきたことが(そして、そこに「身」を置きながら、想像的に上空に飛翔したことが)、ぼくにとっての方法とすることができたようにも、思う。
生まれてからぼくのなかにインストールされてきた「プログラム」が、異なる社会で生きてゆくなかで、いろいろな場面で、互換性・適合性(コンパティビリティ)の問題を起こし、ときに誤作動し、(生きることの)「ひっかかり」を日々つくってゆく。
そのような「ひっかかり」に立ち止まっては、考えて、あるいは「マッピング」をしてみて、ぼく自身のなかに組み込まれている「プログラム」は相対化されていくばかりだ。
そうして、ぼくの「プログラム」は絶対的なものなんかではなく、特殊なものだと知り、それでも、そのなかに、かすかに読み取ることのできる「個性」を見つけたりする。
そこで「個性を知る」という過程は、やはり、「消去法」なんだと、ぼくは思ったりする。
文章の「短さ/長さ」と呼吸。- 「呼吸の浅さ/深さ」という切り口。
ずっと昔のこと、まだ学生の頃だったと思うけれど、文章を書く際に、文章を「句読点」で短く切ってゆくことを指導/勧められたことがあって、そのことが「理解できる部分」と「納得できない部分」が混在しているような感覚を、ぼくはその後もつことになった。
ずっと昔のこと、まだ学生の頃だったと思うけれど、文章を書く際に、文章を「句読点」で短く切ってゆくことを指導/勧められたことがあって、そのことが「理解できる部分」と「納得できない部分」が混在しているような感覚を、ぼくはその後もつことになった。
そのような、どこか納得しない気持ちが晴れたのは、真木悠介のことばにおいてであった。
真木悠介は、鳥山敏子との対談(1993年頃の対談)において、「メディアのことば」に触れて、つぎのように話をしている。
句読点という話でいうなら、いまのメディアのことばというのは、句読点をとにかく要求されるんだ。新聞の文体というのは短くないとだめなんだ。…切れるところで切らなきゃだめだと。そういう圧力があるんだ。現代の、社会のなかにね。
…ぶつぶつ無差別に切ってしまう。わかりやすくなるように見えて、だいじなことは伝わらないんだ。ひっかからないから。……ひっかかることがだいじなんだ。…ほんとにいい悪文というのがありますよね。マスコミは一律に悪文を拒否してしまう。マスコミの文章は、呼吸の浅い読者に合わせてあるんだ。急いでいる人に。
真木悠介・鳥山敏子『創られながら創ること』太郎次郎社、1993年
この対談の会話を読みながら、ぼくのなかで、すーっと、あの、どこか納得できない気持ちが晴れたことの感覚を、今でも覚えている。
「短い文章」が悪いということではなく、さまざまな文章たちを一様/一律に(無差別に)区切ってしまう仕方に問題があり、またその背後にながれる「社会の圧力」は問われるべきところである。
そして、ぼくが気にかかったのは、「呼吸の浅さ」ということであった。
文章の「短い/長い」が、「呼吸の浅い/深い」ということと連関している面が少なからずあるだろうということに、ぼくの感覚は「納得」をしたのであった。
(経済成長を最優先とする)「社会」のあらゆる局面において求められるのは、分単位で動く世界のリズムに合う「短い文章」であり、それぞれの個人の「だいじなこと」ではない。
そのような「圧力」のなかで、(教育の場を含めた)社会のすみずみまでに、短い文章が求められてきたことが、ぼくはわかるような気がしたのだ。
だからといって、「長い文章」が必ずしもよいということではなく、「短い文章/長い文章」を時と場合によって<自由自在>に行き来できることが大切である。
あるいは、もう少し先をいけば、「短い/長い」という長さによらずに、個人がそれぞれに、<じぶんの文体>を生きていけるようなところがくるとよいと、ぼくは思う。
論理の飛躍だと思われるかもしれないけれど、社会における<多様性・ダイバーシティ>は、そのようなところとも関わってくるだろう。
また、それは、「呼吸の深い」生き方や働き方「も」、とくべつなこととしてではなく、ひとつのあり方とされることでもあると思う。
この対談が行われた1990年代前半と比較してみると、現代の人たちと社会は、日々の「呼吸の浅さ」にたいして、いろいろな仕方で対処しようとしてきている。
近年(ふたたび)注目されてきた「メディテーション」や「ヨガ」などは、その本質において、「呼吸をととのえる」「呼吸をゆっくりと意識しながらする」ということでもある。
このブログを「文章の短さ」ということから書き始めたけれども、それは呼吸の浅さ/深さということであり、それは生き方や働き方とも密接につながってくるものである。
そのような「ぜんたい」が、太い線としては、あらゆる変遷を遂げてきているのが「現在」であり、ぼくたちは、そこにさまざまな気づきを見つけ、さまざまな方法とあり方をインストールしてゆくことができる。
宇宙論の「最前線」にふれる。- 野村泰紀『マルチバース宇宙論入門』。
香港の夜空にのぼってゆく満月をときおり見ながら、宇宙論の最前線、「マルチバース理論」にふれる。
香港の夜空にのぼってゆく満月をときおり見ながら、宇宙論の最前線、「マルチバース理論」にふれる。
本は、野村泰紀『マルチバース宇宙論入門』(星海社新書、2017年)。
野村泰紀氏は理論物理学者で、現在は、カリフォルニア大学バークレー校教授、バークレー理論物理学センター所長である。
ぼくたちが住む宇宙のほかに、物理法則や次元が異なる無数の「宇宙たち」が存在するとする「マルチバース宇宙論」。
そもそもぼくが、野村泰紀と「マルチバース理論」を知って、そこに魅かれたのは、雑誌『現代思想』2018年1月号(青土社)における、野村泰紀へのインタビュー記事であった。
インタビュー記事は「量子的マルチバースと時空間概念の変容」と題され、それによってぼくの好奇心は点火された。
もう少し基礎的な理論や実証や議論などに触れたく思い、やがて、野村泰紀『マルチバース宇宙論入門』にたどりついたのだ。
『マルチバース宇宙論入門』はつぎのように構成されている。
【目次】
まえがき
第1章 「宇宙」って何?
第2章 よくできすぎた宇宙
第3章 「マルチバース」ー無数の異なる宇宙たち
第4章 これは科学?ー観測との関係
第5章 さらなる発展ー時空の概念を超えて
あとがき
参考文献
著作を通じて、ぼくを惹きつけるのは、さまざまな理論のその前提、出発点を問い返す視点と姿勢である。
例えば、これまでの宇宙論の「行き詰まり」の地点において、つぎのように書いている。
…我々の宇宙の全て(標準模型の構造や真空のエネルギーの値を含む)を物理学の基本理論から直接導出しようとする試みはほぼ完全に行き詰まったように見える。そしてそれは、この試み自体に何か決定的な誤りがあることを示唆しているように思える。それは前にも述べたように宇宙が唯一無二であると仮定したことと関係しているのだろうか?だとすれば標準模型やそれを単純に拡張した理論を超える「真の基本理論」から導かれる本当の自然界の姿とはどのようなものなのであろうか?
野村泰紀『マルチバース宇宙論入門』星海社新書、2017年
「試み自体」への疑問が、この文章の後に展開されるマルチバース理論への導線となってゆく。
無数の「宇宙たち」があるとするマルチバース理論については、論点をひとつずつ丁寧に追いながら、ひもといてゆく野村泰紀の説明を読むのがよいだろう。
ただ単に「無数の宇宙がある」ということに限らない、(ユニバースではない)マルチバースの描像、その理論へ寄せられる疑問や批判への応答など、ひと通りのことが、この本では展開されている。
「あとがき」で野村泰紀が書くように、『入門』の割には内容が難しく「式のない教科書」(野村泰紀)になっているようなところが、この本にはある。
理論物理学、量子力学、素粒子、標準模型、一般相対性理論(アインシュタイン)、超弦理論、インフレーション宇宙など、はじめて触れる人たちにとっては、なかなかとっつきにくい用語と論が次から次へと出てくる。
しかし、「本当に興味のある人はゆっくり読んでもらえれば…内容が分かるように書いた」(前掲書)と野村が言うように、その野村自身の研究を駆動してきた<知的好奇心の火>を灯すかぎりにおいては、宇宙論のこれまでのポイントと「最前線」を、この小さな本を通じて、知ることができる。
野村泰紀は、宇宙論もやがて、音楽のコンサートやアートの個展のような仕方で、講演や展示が文化活動のひとつとして定着していくとよいと、理想を描いている。
そのような理想に、ぼくも魅かれる。
「学問」などに閉じ込めておくのではなく、音楽やアートのように、宇宙論が自由に、そして楽しく会話が交わされる風景である。
そのような風景が遠くない未来に現実化することを、ぼくは明瞭にイメージしている。
空にとびたつ/空からおりたつ「飛行機」の風景。- 海外で、いつも、ぼくの目と耳には、飛行機があった。
ひろい空に「飛行機」がとびたってゆく風景というのは、ぼくにとって、特別なものでありつづけてきた。
ひろい空に「飛行機」がとびたってゆく風景というのは、ぼくにとって、特別なものでありつづけてきた。
日本にいるときは日常で「飛行機」を見た覚えはあまりないのだけれど、海外に住んでいるときは、よく見てきたし、今でもよく見る。
昔の人たちが<鉄道>を見てそこに込めたであろう「想像力の飛翔」のようなものを、ぼくは<飛行機の飛び立つ姿>に託してきたのかもしれないと、ときどき思う。
飛行機の行く先に、<未知なる世界>が放つ、あの、魅惑と憧憬と畏れのようなものを、想像のなかで感じてきたのかもしれない。
ここ香港では、日々、青い空に飛び立ってゆく飛行機、あるいは夜の空を、光を明滅させながらゆっくりとすすんでゆく飛行機を見る。
香港国際空港の近くにいなくても、空が晴れわたる日には、あらゆる方向に飛行機が飛び立ってゆく姿が目にはいる。
「香港」という、このコンパクトな土地が、アジアにおけるひとつの大きなハブとして機能している風景だ。
空を見上げていなくても、「音」が、飛行機が飛び立ち、あるいは飛行機が着陸態勢に入っていることを伝えてくる。
思えば、海外に住んできたところでは、いつも、ぼくの目と耳には、飛行機があった。
ニュージーランドのオークランドで、仕事場に向かって歩いているとき、ぼくはオークランドの大きな空に、飛行機を見た。
大学を休学して、ニュージーランドに来たぼくは、「世界」に飛び立ちたかったのだ。
その「世界」のひとつ、オークランドにいながら、しかし、ぼくの衝動は、さらなる「世界」へと向けられてもいた。
また、西アフリカのシエラレオネは、状況は複雑であった。
内戦終結後のシエラレオネにいたとき(2002年~2003年)は、さまざまな飛行機やヘリコプターが、行き来していた。
国連のもとに動く部隊、国連の小型機やヘリコプターなど、新しく歩きだしたシエラレオネでは、人も物資も、忙しく行き来していた。
東ティモールにいたとき(2003年~2007年)も、新しく歩きだした東ティモールを、いろいろな人たちが行き来していた。
事務所の近くはヘリポッドであったし、旅客機は毎日一便で、インドネシアのバリを定刻で出発すれば、いつも決まった時刻に、首都ディリに到着した。
いつもの時刻が来ると、旅客機の音が、平和なディリ市内に鳴り響き、人びとの到着を知らせた。
ぼくは人の出迎えでよく空港に行ったから、そのときの様子をよく覚えている。
このような日々に、ぼくの目と耳は、想像力の風にふかれながら、ひろい空へと散開していった。
なお、東ティモールのディリ騒乱(2006年)の際には、飛行機がやってくる「音」は、とりわけ特別なものであった。
昼間からディリ市内で銃撃戦がつづき、ぼくの耳にも銃声がなりひびいていた。
政府は事態を収拾できず、オーストラリアを含む他国に協力要請を出した。
同日、オーストラリア軍機が、ディリ上空を舞う「音」が、ぼくの耳にとどく。
これで、事態がある程度落ち着くだろうと、ぼくは安堵したことを覚えている。
そして、今日も、ここ香港にひろがる空に、いくつもの飛行機が飛び立ってゆくのを、ぼくの目と耳がとらえる。
この文章を書いている間にも、遠くで、飛行機の「音」が聞こえている。
海外では、いつも、ぼくの目と耳には飛行機があった。
ぼくはそこに、いろいろなものを託し、幻想し、想像力を解き放ってきた。
「ことば」/「かんがえること」と「疲れ」。- 書くこと/読むことの<方向学>。
コラム「おとなの小論文教室。」を「ほぼ日刊イトイ新聞」で書いている山田ズーニーが、「Lesson 880」のコラムで、下記のタイトルのもとに書いている。
コラム「おとなの小論文教室。」を「ほぼ日刊イトイ新聞」で書いている山田ズーニーが、「Lesson 880」のコラムで、下記のタイトルのもとに書いている。
おもしろい視点であり、その詳細については山田ズーニーの「ことばの世界」へと足をふみいれていただくのがよいかと、思う。
「書いて疲れる時は、どこか嘘をついている」(そのコラムの内容ではなく)を目にして、ぼくの頭の中に浮かんできたのは、思想家であった吉本隆明の「疲れ」である。
山田ズーニーと吉本隆明がつながっているわけでもなく、このコラムの内容と吉本隆明の書くものがつながっているわけでもなく、ただ、タイトルを見たときに、ぼくの頭の中の「回路」で、つながっただけである。
つながっているのは、「ことば」や「かんがえること」(またそれらを書くこと/読むこと)と「疲れ」のことである。
吉本隆明は、著作『宮沢賢治』(ちくま学芸文庫)の「あとがき」のなかで、おおよそ、つぎのようなことを書いている(と記憶している)。
この著作の執筆においては、どんなに仕事で疲れていても、夜、もどってきては、すーっと、その世界にはいっていける。
宮沢賢治の世界やことばは、そのようなものであると。
そこは、吉本隆明にとって、「疲れ」が解き放たれてゆくところ/解き放たれてあるところであったのだ。
ぼくは、このことを、真木悠介(社会学者の見田宗介)が、朝日カルチャーセンターの「宮沢賢治」にかんする講義で語るのを聞いて、知った。
じぶんが書きたいこと/読みたいものの方向づけをしてゆく際に、つまり<書くこと/読むことの方向学>としてかんがえる際に、吉本隆明が語るところは、ひとつの、ある方向性を指し示している。
どんなに疲れていても、いつだって、ぼくたちが入っていきたくなる「ことば」や「かんがえること」の世界。
そしてその「世界の入り口」をとおる足取りはかるく、また歩いてゆくと、じぶんが解き放たれてゆくようなところ。
言い方を換えれば、ことばがことばでなくなり、<じぶん>がひらかれてゆくところ。
見田宗介(真木悠介)は、名著『宮沢賢治』(岩波現代文庫)に「現代文庫版あとがき」で、つぎのように書いている。
宮沢賢治、という作家は、この作家のことを好きな人たちが四人か五人集まると、一晩中でも、楽しい会話をしてつきることがない、と、屋久島に住んでいる詩人、山尾三省さんが言った。わたしもそのとおりだと思う。
<近代>という時代が成熟し、解体し、その彼方までも、この作家は「古くなる」ということがないのはどうしてか、という問いひとつをとっても、話はつきることがない。…
見田宗介『宮沢賢治』岩波現代文庫
「会話(話)はつきることがない」とは、「疲れない」ということでもある。
そのような<方向性>に、ぼくたちは、<じぶん>をひらいてゆくことができる。
「現実を見なさい」という言葉の力学。- 日常のことばに潜む、ひどく狭い世界観。
日常の会話のなかで、「現実を見なさい」とか、「現実的には」とか、「現実的じゃないよね」とか、「現実主義だからね」という言葉を聞くことがある。
日常の会話のなかで、「現実を見なさい」とか、「現実的には」とか、「現実的じゃないよね」とか、「現実主義だからね」という言葉を聞くことがある。
このような会話に託されている「現実」という言葉の使われ方は、その言葉をひどく狭いものにしている。
この言葉の前提には、「現実」という世界が確固なものとしてあるような世界観が敷かれている。
そしてそれは、みんなが共有する、ただひとつの「現実」世界のように感覚されている。
しかし、ぼくたちが視る「現実」は、ひとりひとりで異なるものだ。
同じ場面、同じ風景、同じ画面を観ていても、そこに居合わせた人たちは「異なる」事象を観ている。
つまり、ポイントを並べてみるならば、
- 「現実」はただひとつではないし、
- 「現実」は人それぞれに違う。また、
- 「現実」はそれぞれの人がつくりだす「世界」である。
じぶんが(深いところで)信じている「世界」が、じっさいに、じぶんの前に現前してゆく(言葉を変えれば、そのように、じぶんは「世界」を視る)。
日常会話で交わされる「現実」という言葉は、往々にして、ひどく狭い意味と世界観に押しこまれていることになる。
それは、「食べていける」「お金がかせげる」「生活をまかなえる」などの視点で切り取られた世界観を下敷きに、「現実的/現実的でない」の境界線が日々引かれ、強化され、あたかも、「現実」という世界があるかのように、ふるまっている。
このような世界観のもとに、人的な資力を尽くして社会的に推進されたのが、「高度成長期」であったということもできる。
しかし他方で、そのように、ひどく狭い意味と世界観に押しこまれた「現実」という言葉は、じっさいに、多くの若者たちの夢を打ち砕いたり、心の奥底に抑圧するための、呪文のようなものとしてありつづけてきた。
もちろん、局所的にみれば、「サバイバルとしての現実」という状況が、個々の人たちの生きる過程で現れたりする。
しかし、だからといって、それがすべての「現実」ではないし、時代は変遷してゆくものでもある。
「現実」の三つの反対語ー「理想」「夢」「虚構」ーをもとに、日本の時代の変遷を論じた見田宗介の論考(『社会学入門』岩波新書)が示唆しているように、言葉は、それぞれの時代の状況と感覚に支えられているものでもある。
そのようにして視野をひろげてみると、狭い意味に押しこまれた「現実」という言葉が、ぼくたちの日常の会話で、あたかも真実であるかのように語られることの力学(とその強さ)に、おどろかされる。
そして、時代が変遷してゆくなかにおいても、そのような言葉が、その言葉の語る「現実」を生きてきた者たちによって、ときに、語られつづけている。
そのような「共同幻想」の強固さが、「安定」であるかのように見える世界を形づくっていたりするのである。
ひどく狭い意味におしこまれた「世界」の殻を、内から破っていくことが、これからの未来をつくってゆく原動力となる。
理想や夢などを「現実化」してゆく力である。
<ふるさと>としての言語。- 海外に住みながら「日本語」に感覚していたもの。
2000年代初頭から半ばにかけて、西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールに住んでいたとき、「日本語」にふれることは、ぼくが<ほんらいあるところ>に戻ってくるような感覚を、ぼくは抱いた。
2000年代初頭から半ばにかけて、西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールに住んでいたとき、「日本語」にふれることは、ぼくが<ほんらいあるところ>に戻ってくるような感覚を、ぼくは抱いた。
それは、まるで、<ふるさと>に戻ってくるような感覚である。
当時、同僚や友人などと日本語で話すことはあったけれど、週の多くの時間を日本人1人で過ごし、生活と仕事の大半は英語(また東ティモールではテトウン語)であった。
通信環境のこともあり、インターネットで自由に日本語にふれることはできなかった。
西アフリカのシエラレオネのときは、公共の水も電気もないところにいて、もちろん通信も限られており、仕事の隅々まで英語であったから、「日本語」にふれることは、<ふるさと>に戻ってきたような安心感を感じたものである。
じぶんにとっての、いわゆる<ふるさと>とは、「日本語」ではないかと、本気でかんがえていたときもあった。
小説家の村上春樹は、40歳になる前にヨーロッパで3年間ほど、「やむにやまれぬ」滞在をすることになる。
その滞在において、村上春樹は、小説などのほかに、常駐的旅行者としての文章スケッチを継続してつけてゆくことになる。
…僕にとってはその継続そのものの中に、これらの文章を途切れ途切れではあるにせよ書きつづけるという行為そのものの中に、意味があった。流離うヨーロッパの僕は、これらの日本語の文章を媒介として、流離わない日本の僕と心を通じあわせていたのだ。…
村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫
このように、日本語の文章を「媒介」として、「日本の僕」と心でつながっていたと、村上春樹は書いている。
「シエラレオネの僕」は日本語に雑誌や書籍でふれることはあっても、しかし逆に、(仕事以外の)日本語の文章が書けなくなってしまった。
仕事へのコミットメントと忙しさは大きな理由であったけれど、シエラレオネで日々出会う出来事に、ぼくは全存在において、圧倒されていたのだと思う。
それでも、日本語の文章を読むとき、ぼくは<ふるさと>に戻ってきたような感覚を感じたことを覚えている。
それにしても、<ふるさと>のような感覚はどのような感覚に支えられていたのだろうか?
まず第1に、ぼくの<身体としてのことば>を取り戻す感覚であるのかもしれない。
「ことば」は、「はじめにことばありき」ではなく(それは「文明世界のはじまり」であったけれど)、原初においては「音」であったはずである。
ことばと身体がひとつのものとしてあるような「音」。
日本語を使うことで、ぼくのなかで幾分か、ことばと身体のつながりが取り戻されたということである。
第2に、日本語で語られる「世界」に戻ってきた感覚であるのかもしれない。
人は外部世界を視るときは、じぶんの感覚とともに、「ことば」を通して視ている。
「ことば」がなければ、「世界」を形づくられる仕方は、ずいぶんと違ったものである。
「日本語の世界」に入ることで、ぼくの周りにひろがる「世界」は、それまで親しんでいた「世界」の様相を帯びる。
第3に、それは「懐かしさ」の感覚であるかもしれない。
懐かしさは、その本質において、<ふるさと>に戻ってくる感覚である。
<ふるさと>とは、そこを離れる者たちによって感覚されるものである。
地元を離れて東京に行った者が、地元を<ふるさと>と感覚する。
同じように、日本語を離れる者が、日本語を<ふるさと>として感覚することになる。
そんなことをかんがえるここ香港では、しかし、そのような鮮烈な感覚はない。
香港のいろいろなところに「日本」が存在しているからかもしれない。
以前にも増して、インターネット上で、「日本語の世界」を自由に旅することができるからかもしれない。
日本語の電子書籍で、すぐに日本語の書籍を読むことができるからかもしれない。
あるいは、海外で長く住んでいるうちに、英語がぼくの身体と、いくぶんか融合しているのかもしれない。
さらには、「日本の僕」を超えてゆくようなところに、じぶんが解き放たれているからかもしれない。
そのような<地点>から、日本語が<ふるさと>ではないかと感覚した、シエラレオネと東ティモールの日々が、懐かしく思い出される。
「右」の優越と「左」の空間。- 「空間の比較社会学」(見田宗介)。
「空間の思想/時間の思想」(初出:1969年)というタイトルの興味深いエッセイを、寺山修司との「短い会話」に触発されて、社会学者の見田宗介は書いている。
「空間の思想/時間の思想」(初出:1969年)というタイトルの興味深いエッセイを、寺山修司との「短い会話」に触発されて、社会学者の見田宗介は書いている。
寺山との会話で「歴史が好きか、地理が好きか」ということで、好みが分かれたことによる。
生きる人を主体とする立場からは、「歴史=時間」であり、また「地理=空間」である。
「歴史」ということに魅かれてき見田宗介は、やがて「時間」を素材に、名著『時間の比較社会学』(岩波書店)を真木悠介名で書くことになる。
「時間」という、哲学や宗教や文学、あるいは物理学の範疇にあった素材を、「比較社会」という視点で明晰に論じた書物である。
その見田宗介が、1996年に『現代詩手帖』に「火の空間」という文章を寄稿し、それが「見田宗介著作集」に収められる際には、「火の空間ー空間の比較社会学」というように、「空間の比較社会学」という副題が付された。
その副題には、「時間の比較社会学」にたいしての、「空間の比較社会学」という問題意識が明示されている。
数ページの短い文章だけれど、それは、ぼくの好奇心をそそってやまない文章だ。
そこでは、空間における、「左右」という非対称の「意味」が、比較社会の視点でさぐられている。
まずは、人類学・民族学・言語学で、よく語られ、よく知られている、「右の優越」ということをふりかえるところから、はじまっている。
例えば、英語の「right」は「正しい」ということにかぎらず、「left」は「弱い」という意味の古語が変形したものだという。
あるいは、ドイツ語における「左(link)」は明確に「不正」の観念にむすびつき、またラテン語の「右(dexter)」は「幸運」であり「左(sinister)」は「不吉」を意味する、等々。
これらの例は、インド・ヨーロッパ語系だけでなく、アフリカの諸族にも多くみられるという。
さらには、ロベール・エルツは、宗教社会学的な視点で、「右手の優越」(ちくま学芸文庫)という論文(『右手の優越』ちくま学芸文庫)を書いている。
それにしても、ぼくも日常において英語を話すときに、「right」(正しい)という言葉には、ときおり違和感を感じる。
「right」が「正しい」という意味をもつ一方で、非対称としての「左」は「正しくない」ということではないのだけれど、と思ってしまう。
その違和感は、「右利き」が標準とされてきたことにたいする違和感とかさなっているようにも、思う。
世界は、「右利き」を標準として、「左利き」を例外として、構築されている。
楽器のギターも、「右利き」を標準としてつくられている。
そんな「違和感」をもっていたぼくは、見田宗介の「空間の比較社会学」で展開される「右の優越」、そしてその逆転の「左の優越」の事例を興味深く、なんども読む。
見田宗介は、上述のような「右の優越」ということにたいして、逆転の事例が少なくないこと、つまり「左の優越」があることを示し、そこに彩られた意味をとりだす。
例えば、ケニアの諸族においては、日常の俗的な領域で「右」が優越するのにたいして、祭祀や聖的な領域では「左」が優越する。
日本語の「ひだり」については、つぎのように光があてられる。
日本語の「ひだり」という語は、南面すると東が左にあるので「日(ひ)の出(だ)る方(り)」であるという大野晋氏の仮説がよく知られているが、民間の言い伝えでは、左は「火垂り=霊垂り(ヒダリ)」であるという。火は霊であった。それは「実気=身気(ミギ)」、「実のある方」としての右と、対照されている。
見田宗介「火の空間ー空間の比較社会学」『定本 見田宗介著作集X』岩波書店
※上記の一部表記(ルビ)は都合上、原文と異なります
その他、「左の優越」を語る事例を挙げながら、見田宗介は、「左」を不吉なもの、悪しきものなどとする一方で、天のもの、聖のものなどとする感覚の矛盾について、どう解けるだろうかと、この論考の最後でかんがえている。
ぼくにとっては、右の優越と左の優越という事例と、そこにみられる意味論だけでも面白く、ぼくの思考を触発してやまない。
けれど、この論考の最後に提示されるものに、ぼくは深い感動を得るのだけれども、そこはぜひ、興味のある方は直接に、この論考ぜんたいを含めて読んでいただくのがよいかと思う。
あるいは、右の優越と左の優越ということに触発される思考で、独自に、かんがえてみるのも楽しい。
「仁義」ということを「大道」(老荘思想)の水面にうつしてみる。- 見田宗介が読みとる人間の歴史と仁義。
見田宗介著作集を読み返していたら、以前はさっと読み進めていたのだろうけれど、今読むと、ぼくに「せまってくる」エッセイがある。
見田宗介著作集を読み返していたら、以前はさっと読み進めていたのだろうけれど、今読むと、ぼくに「せまってくる」エッセイがある。
「仁義について」というエッセイで、初出は1972年となっている(見田宗介『定本 見田宗介著作集X』)。
当時の若者たちのあいだで、「義理人情」があらたに人気になっている状況で書かれ、しかし、ミクロとマクロ(超マクロ)を自由自在に行き来する見田宗介の視野は、「人間の歴史」にひろがりをみせながら、この「義理人情」ということに独特の光をあてている。
「義」という観念について、古代中国、とくに儒教における「仁・義・礼・智・信」という、日本でもよく知られている徳目から、見田宗介はまずふれている。
この教えに対して、儒教を批判する老荘思想においては、「大道すたれて仁義あり」ということが対置される。
「大道」とは、「人間と自然、人間と人間との原初的な融合・調和の世界」(※前掲書)であるという。
つまり、融合・調和の世界がうしなわれたとき、「仁・義」というものがもちだされてくる。
仁・義がもちだされてくる状況は、すでにして、原初としての「大道」がすたれている状況であるというのである。
日本における「義」の観念の展開について、見田宗介はつぎのようにまとめている。
義という観念は日本にきて「義理」として具体化される。それは日本の古代世界が解体し、実力と実力とが相争う武士の時代になって、しかもその武士がたがいに固く結束しなければ生きぬいてゆけないところで、そういう主従や同輩の結合をひきしめるきずなとして発展してきた。「義理」のおきてのきびしさは、暗黙の共同性のいまや解体するときに、実力競争の原理というあたらしい遠心力に対抗するための、集団の求心力のきびしさであった。「義理」が強調されるとき、じつはそこには、謀反へのひそかなおそれがすでに伏在しているのである。
見田宗介「仁義について」『定本 見田宗介著作集X』
日本における「義理」ということの展開と本質が、ここに見事にまとめられているように、ぼくは思う。
見田宗介は、さらに、「仁義すたれて…」と言葉を紡ぎ、近代社会のシステムを具体的につくりあげてきた「合理と契約」の世界を「…」にもってきている。
このことは、近代・現代社会を生きる人たちにとっても、日常の体験としているところであったりする。
ビジネスや組織を生き、そして語るときに、「仁義の世界」と「合理と契約の世界」を軸にすることがある。
そこからさらに、「合理すたれて…」と、「暴力」が代入される。
こうして、見田宗介は、つぎのように太い線で、人間の歴史をみている。
大道すたれて仁義あり、仁義すたれて合理あり、合理すたれて暴力あり、というふうに人間の歴史はたどった。
見田宗介「仁義について」『定本 見田宗介著作集X』
「仁義」ということを手がかりに、この太い線で把握する「人間の歴史」を見晴るかす視野は、鮮烈である。
なお、この流れは「太い幹」なようなものであり、仁義や合理や暴力だけがそれぞれの時代を完全に彩っているものではない。
他者たちの言葉にふれながら見田宗介が語るように、いつの時代にも「大道」は生きつづけている。
しかしながら、見田宗介は、「暴力すたれて大道あり」と、流れが円環するかどうかは「よくわからない」と、書いている。
よくわからないけれど、「思う」ところは、若者たちが幻想しているのは、この「大道」であるとしている。
この文章が書かれたときから40年以上経過し、この「思う」ところは、ますます目にみえるようになってきているように見える。
「大道」、つまり人間と自然、また人間と人間の融合・調和の世界をもとめる人たちが、ますます増えてきているのだ。
「義理人情」が描かれる世界に、ときおり、ぼくは魅かれてもきた。
昔の時代の日本を描く小説にあらわれる、義理人情の世界に、あこがれのようなものを抱いたりするのだ。
しかし、そのような「義理人情」「義理」「義」などは、ぼくのなかに、拘束されるような息苦しさを感じさせもする。
老荘思想の提示する<大道あり>の視点は、仁義よりも原初のものとして、仁義というものの、この<両義性>をうつしだす水面のようでもある。
ぼくがもとめる、仁義というものの肯定的な側面は、おそらく、「大道」ということのなかにある、人間と自然、人間と人間の融合・調和の世界なのではないかと、ぼくは思ったりもしている。
「ふたつの歴史」の結合としての夫婦の絆。- 河合隼雄とともにかんがえる「家族関係」。
世界のいろいろなところに住んでいて、いろいろな「家族」と接し、あるいは見ていると、「家族」ということをかんがえさせられる。
世界のいろいろなところに住んでいて、いろいろな「家族」と接し、あるいは見ていると、「家族」ということをかんがえさせられる。
ニュージーランドで、西アフリカのシエラレオネで、東ティモールで、そしてここ香港で、ぼくはいろいろな仕方で、いろいろな家族と接してきた。
家族のしあわせな姿があり、あるいは家族の葛藤がある。
心理学者・心理療法家であった河合隼雄の著作では、いろいろなところで「家族」にふれられているけれど、そのなかに「家族関係を考える」という、正面から家族をかんがえる著作がある。
「家族」というものを、とくに日本の1970年代に変わりつつある家族、親子という関係、夫婦、父と息子、母と娘、父と娘、きょうだい、老人と家族など、さまざまな諸相から論じられている。
「西洋と日本」の差異をつねに意識していた河合隼雄は、ここでも、その差異を丁寧に見極めながら、家族について書いている。
「夫婦の絆」に触れた章で、河合隼雄は、夫婦の絆は親子関係の絆を切断していき、新しい絆の再生をしてゆくことであり、この「分かち合い」を「愛」と呼べることではないかと、提起している。
…夫婦の絆は親子の絆と十字に切り結ぶものである。新しい結合は、古いものの切断を要請する。若い二人が結ばれるとき、それは当然ながら、それぞれの親子関係の絆を斬り離そうとするものである。一度切り離された絆は、各人の努力によって新しい絆へとつくりかえて行かねばならない。この切断の痛みに耐え、新しい絆の再生への努力をわかち合うことこそ、愛と呼べることではないだろうか。それは多くの人の苦しみと痛みの体験を必要とするものである。
河合隼雄『家族関係を考える』講談社現代新書、1980年
夫婦関係をつくってゆくことには、このように、古いものが壊され、新しいものが創られるという、創造の本質がおりこまれている。
この「再生」への努力をわかち合うことこそ「愛」と呼べることではないかと語るところに、河合隼雄の慧眼と生き方がにじみでているのだけれど、さらに面白い言い方として、河合隼雄は、「ふたつの歴史」が結合してゆくのだとして、その「大変さ」を書いている。
夫婦は結婚に至るまで、それぞれの歴史を背負っている。それが結合されるのだから、これは考えてみると大変なことである。各人の古い歴史からの呼びかけは、どうしても新しい結合をゆさぶるものとして感じとられやすい。このような危険性を防ぐため、人間はいろいろな結婚制度や、結婚に伴う倫理をつくりあげてきた。
河合隼雄『家族関係を考える』講談社現代新書、1980年
結婚に伴う制度や倫理は、日本では「家」が大切にされ、女性はこの「家」に嫁入りすることであったりした。
河合隼雄が言うように、「ふたつの歴史」の相克を、制度や倫理が回避させてきた側面がある。
しかし、現代は、そのような制度や倫理は「新しい結婚観」にとってかわられ、「家」ではなく、「個人」を大切にするところとなっている。
そのことは必然のことであるし、またよいことでもある。
けれども、「ふたつの歴史」の相克を身にひきうけて、みずから結合させてゆく「個人」にはなっていないのではないかと、1980年の河合隼雄は書いている。
河合隼雄がこのことを書いたときから、ほぼ40年がすぎたけれど、「個人」ということの確立については、いまだに「途上」であるように、ぼくには感じられる。
ぼくたちの日々の生活の「前線」でもあることからして、「家族」について、ぼくたちはいつもかんがえている。
「かんがえている」のだけれど、家族だからこそ、あまりに近いことだからこそ、よく見えなかったりする。
だから、ときに、「家族」について書かれた著作を読むことは、「家族関係を考える」ことに、より客観的になれる距離をつくってくれる。
河合隼雄は、そんなときの、よき相談者であり、よき伴走者である。
「歴史が好きか、地理が好きか」。- 見田宗介に深い影響を与えた寺山修司との短い会話。
社会学者の見田宗介にとって、劇作家である寺山修司(1935~1983)と喫茶店で交わした「短い会話」が、その後の見田宗介に「ずいぶん深い影響」を与えてきたという。
社会学者の見田宗介にとって、劇作家である寺山修司(1935~1983)と喫茶店で交わした「短い会話」が、その後の見田宗介に「ずいぶん深い影響」を与えてきたという(※参照 討議:見田宗介 X 加藤典洋「現代社会論/比較社会学を再照射する」『現代思想』2015 vol.43-19、青土社)。
見田宗介は気の合った寺山修司との会話について、討議の相手である加藤典洋に向けて、つぎのように語っている。
…一つだけ対立したことがあって、「僕は歴史が好きで地理は興味がない」と言ったら、寺山は「僕は歴史に興味がなくて、地理が好きだ」と言ったことです。「歴史は待たなきゃいけないからきらいだ。ぼくは走って行く人だから」と。…ぼくはそれまでは時間の思想でしたが、寺山の話を聞いていて、空間の思想もいいものだと思いました。今思うと、この短い会話は、ぼくにずいぶん深い影響を与えたように思います。
討議:見田宗介 X 加藤典洋「現代社会論/比較社会学を再照射する」『現代思想』2015 vol.43-19、青土社
この短い会話をもとに、その後に見田宗介は「空間の思想/時間の思想」(初出:1969年)という、興味深いエッセイを書いている。
今では、見田宗介著作集(『定本X』)に収められたこのエッセイであるけれど、ぼく自身がこのエッセイに初めて出会ったのは、とても意外なところであった。
見田宗介の著作に魅かれ、手に入る著作群を徹底的に読み始めていたころ(20年も前のころ)、古本屋で購入した見田宗介の著作のなかに、このエッセイが掲載された新聞の切り抜きがはさまれていたのだ。
予想もしていなかったその「幸運」にひかれてゆくように、ぼくはこのエッセイを読み、そして一読して、その「世界」に深くひきずりこまれたのだ。
「歴史」と「地理」をそのものとしてみれば、「歴史」は動き、「地理」は動かないものだけれども、行動する<じぶん>から見る視点において、「歴史」は<待つ>思想であり、「地理」は<走る>思想であることに見田宗介はふれながら、エッセイは生きることの本質へと降りてゆく。
寺山修司との「短い会話」に触発された「短いエッセイ」は、しかし、見田宗介自身の生や思想に影響を与え、そしてこの新聞の切り抜きを著作のなかにはさんでいた人にも、さらにはそれを読んだぼくにも、大きな影響を与えたのだと思う。
ぼくが生きるということでは、ぼくも「走る」思想において、「地理」をかけぬけてきたようなところがある。
日本の外へと/日本の外を「走る」なかで、ぼくも生きてきた。
ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、そしてここ香港…。
ところが、ここのところは、ぼくは「歴史」(時間)に強くひかれている。
いろいろな「空間」(地理)のなかに、ぼくは「歴史」を見たくなる/見るのだ。
「歴史/地理」あるいは「時間/空間」という視点は、ぼくにとって、世界を見る「見方」を、いっそう面白くしてくれている。
ところで、ここ「香港」はどうなのだろうか、とかんがえる。
寺山修司が「ぼくは走って行く人だから」と聞いて、ぼくは香港も「走って行く」のだと思う。
何かをゆっくり<待つ>のではなく、空間に向けて、ひたすらに全速力で、走って行く。
そんなことを、雨が降りそそぐなか「夏至」を迎えた香港で、かんがえる。
「夏至」は「時間」のことだけれど、ある見方において「空間」とも言えるのかなと、時空に関するじぶんのかんがえかたが歪みはじめる。
西アフリカのシエラレオネで、「サッカー」をしてみる。- アフリカの<パワー>に魅せられて。
2002年の終わりから2003年の中頃にかけて、西アフリカのシエラレオネにぼくは住んでいた。
2002年の終わりから2003年の中頃にかけて、西アフリカのシエラレオネにぼくは住んでいた。
当時、リベリア難民支援とシエラレオネ帰還民支援というプロジェクトに、NGOの職員として携わっていた。
シエラレオネでは長年の内戦が終結したばかりで、難民となっていた人たちの、村々への帰還が進んでいたものの、隣国リベリアでの内戦は続き、リベリアからの難民がシエラレオネに押し寄せていた。
ぼくは、そのような「現実」の前に圧倒されながらも、持てる頭脳と体力で、全身全霊で仕事にうちこんでいた。
ぼくがシエラレオネに入ったときは、国連の平和維持軍も展開しているときであったけれど、それなりに(相対的に)「落ち着いている」状況であった。
難民キャンプに避難している人たちの生活も長期化により、「日常化」するようなところもある。
国連やいろいろなNGO団体がともにかかわる難民支援においてはさまざまな支援活動が展開され、日々生活するための「ベーシック・ニーズ」の提供だけでなく、心身の健康のための活動などもさまざまに企画される。
そのような活動のひとつに、サッカーイベントがあった。
とても簡易な形だけれど「サッカー場」を準備し、サッカーができるようにする。
文字通り、生きることに精一杯でありつづけてきた人たちの日々に、光が灯るようなイベントだ。
記憶が定かではないけれど、そのようなサッカーイベントの話が出ていたころに、野原をそのまま小さなサッカー場としたような場所で、ぼくはスタッフの人たちなどとサッカーボールを蹴った思い出がある。
何らかの用事でぼくはその場所に赴き、その日の仕事が終わったころに、シエラレオネのスタッフの人たちに誘われて、一緒にサッカーをしたのだ。
大学に入ってからも、友人たちに誘われて、ときおり東京でフットサルをやっていたぼくであったけれど、アフリカの人たちとサッカーをするのは初めてのことである。
サッカーのワールドカップの試合などを観ていて、アフリカ勢の選手たちの身体能力の高さには驚きを抱いていたから、ただの遊びでするサッカーとはいえ、ぼくは好奇心と怖れを同時に感じることになる。
そんな気持ちを抱きながらも、「何事も体験」と、ぼくは参加する。
参加人数はそれほど多くないけれど、二つのチームに分けて、試合形式でサッカーを始めることになった。
案の定、シエラレオネの人たちの動きは目を見張るもので、動きの「速さ」、それから身体の柔軟性とダイナミックさと強さに、ぼくの身体がまったくついていかない。
それが、特定の誰かということではなく、皆が皆、そのような動きだから、まったく油断できない。
どのくらいプレーしただろうか、ぼくは、早々にプレーから引き上げることになってしまった。
ちょっとした体験であったけれども、野原のような広場でシエラレオネの人たちと一緒にしたサッカーは、アフリカの<パワー>に触れる出来事のひとつとして、ぼくの記憶に刻みこまれている。
サッカーのワールドカップで、アフリカ勢の動きを見ながら、ぼくは、アフリカの独特の<パワー>に魅せられたときのことを、思い出す。