一言一言に賭けられた物語。- 福島正伸著『毎日、社員が感動して涙を流す 理想の会社』
会社におけるほとんどの問題は「理想の会社」を描くことで解決できるという経験をもとに、コンサルタントでありセミナー講師であり、そして経営者でもある福島正伸が、2009年に『毎日、社員が感動して涙を流す 理想の会社』という著作を書いている。...Read On.
会社におけるほとんどの問題は「理想の会社」を描くことで解決できるという経験をもとに、コンサルタントでありセミナー講師であり、そして経営者でもある福島正伸が、2009年に『毎日、社員が感動して涙を流す 理想の会社』という著作を書いている。
直球が投げられるようなメッセージをもつ著作であるけれど、著作を際立たせているのは、第一に「理想の会社」のイメージを他者と共有する方法として「理想の会社の状況を物語にすること」を提案していること、また第二に、その物語のもつ具体性である。
福島正伸は、文字通り、「理想の会社」を物語として描くことをすすめている。
そして、「理想の会社の状況を物語にすること」の特徴や利点は、福島自身が挙げているように、さまざまに列挙することができる。
【目次】
第1部:「理想の会社」を描こう!
第2部:「理想の会社」物語
第3部:「理想の会社」の描き方
本書は、第1部で「理想の会社」を描くことの説明があり、そのひとつの例として第2部で物語が描かれ、事例を踏まえた上で「描き方」のヒントが提示されている。
第2部の「物語」がこの本の見どころである。
ここでいう「物語」は、いわば「小説風」である。
どのような言葉が交わされるか、どのように仕事がすすんでいくか、どのように問題解決されるかなどが、小説風に、語られている。
まさに、一言一言に物語が賭けられている。
第3部で挙げられている、「理想の会社」を描くときのポイントは次の通りである。
- 日常のすべての仕事に当てはめることー当たり前と思っていることに、意義を見いだす
- 誰もがやる気になる会話ー理想のあいさつ
- 仕事のレベルを極めるー働く姿が芸術
- 常識を超える、想像を超えるー「まさかそこまで」といわれる
- 情景だけでなく、感情も表現する
- すべての人が幸せになることー会社の成長をすべての人が喜ぶこと
これらを踏まえて、「理想の会社」の情景を描く際の手法や心構えとして3つ挙げられている。
(1)理想の一日を描く
(2)良い事例をいっぱい集める
(3)「理想の会社」を描くことは、理想の会社になること
一言一言に物語が賭けられているということについては「(1)理想の一日を描く」でも、描き方のコツが書かれている。
例えば、こんな感じだ。
◇ 朝、家族にどのような気持ちで、どのようなあいさつをするか
・「おはよう!日本を変えるために目が覚めたよ」
◇問題が起きたときの言葉
・「ようやく、私の出番が来たようですね。これまでいろいろな経験をしてきたのはこの時のためだったんです。まさせてください!」
◇退社するときに、一言
・他の社員に声をかけながら、
「今日も一日、一緒に働くことができて、とてもうれしく思います。明日は、今日よりも皆さんの見本になれるように頑張ります!」
福島正伸『毎日、社員が感動して涙を流す 理想の会社』きこ書房
一言の内容どうこうではなく、先にも書いたように、「理想の会社」としてここまで描ききることに、<物語としての力>が生きてくることに、この方法の力がある。
福島正伸は、第3部の最後に、次のような言葉を置いている。
「理想の会社」を描く。
それは、理想の会社になる過程そのものなのです。
福島正伸『毎日、社員が感動して涙を流す 理想の会社』きこ書房
いわゆる「現実主義」の人たちからは、「理想と現実」という図式の中で、「現実を見なくてはいけない」と語られたりする。
人は、この「理想と現実」という図式にとらわれている。
しかし、よくよく考えていくと、現実主義者であれ、意識されなくても「理想的なもの」を抱いていたりする。
逆に理想をめざす人たちは「理想を現実化する」ということの内に「現実的である」のだ。
ぼくたちは、明確に理想を描き、それを現実化するプロセスを生きてゆくことを選択することができる。
そこでは、「理想主義と現実主義」という図式は、プロセスの内に解体されてゆくのである。
福島正伸が提示する「物語としての理想の会社を描くこと」は、「会社」に限られるものではなく、ぼくたちひとりひとりの「人生」に適用できる骨太さをもっている。
ぼくたちは、ぼくたちの「生き方の理想」を、物語として具体的に描くことができるし、それは「理想の人」になる過程そのものを鮮明に起動させる契機のひとつになると、ぼくは思う。
英語の「takeaway」という言葉を最近よく聞いたり見たりして考える。- 「教科書」と「教科書ではない本」という比較から。
最近、英語のポッドキャスト(podcast)を聞いているとき、英語の講義・セミナーなどの動画を観ているとき、さらに英語のブログなどを読んでいると、「takeaway」という言葉をよく聞いたり、目にしたりする。
🤳 by Jun Nakajima
最近、英語のポッドキャスト(podcast)を聞いているとき、英語の講義・セミナーなどの動画を観ているとき、さらに英語のブログなどを読んでいると、「takeaway」という言葉をよく聞いたり、目にしたりする。
言葉が語られる文脈を考慮せずに「takeaway」と聞くと、店舗やレストランでオーダーする「持ち帰り用の料理」などのイメージが湧いてくる。
「持ち帰り用の料理」という意味での「takeaway」は英国の英語である。
米国の英語では「take-out」であり、日本では「テイクアウト」がカタカナで使われたりするから、こちらの方がなじみがあるだろう。
でも、ぼくが最近聞いたり、観たり、読んだりする「takeaway」は、料理とは関係がない。
グーグル翻訳(英英辞書)では、下記のように定義される意味だ。
【takeaway】
● a key fact, point, or idea to be remembered, typically one emerging from a discussion or meeting.
例文:“the main takeaway for me is that we need to communicate all the things we’re doing for our customers”
ポッドキャストにおけるインタビュー、自己発展・自己啓発系の講義やセミナーの要点まとめ、ブログにおいて何かからの学びのポイントなどを語る際に、「takeaway」という言葉が使用されるのだ。
語源を詳細には調べきれていないけれど、この定義自体は新しいものではないようである。
現在において「言葉の使用法」と「使用される場」ということで考えると、なかなか面白いものである。
「言葉の使用法」ということで言えば、あくまでもぼく個人の語感においては、言葉の「重さ」がとれ、「気軽さ」の語感がわいてくる。
どうしても「持ち帰り料理」的なイメージがわくからということもある。
その点から、「使用される場」ということを考えても、どちらかというと口語的な気軽さが伴う場で使われているように見られる。
必ずしも話される言葉ではないけれど、学術書や論文などでは、まだ見た覚えはない。
学者が書く一般読者向けの本などでは使われることもあるだろうけれど、フォーマルな文書ではやはり避けられるのだろう。
この「気軽さ」が、生きることや自己啓発などの若干重いテーマにおいて、聞く側や読む側に気持ちの余裕のようなものをつくるように思われる。
少し余裕をつくる言い回しの中で、話し手や書き手は、「takeaway」として要点やまとめをとても上手く引き出して、語ったり書いたりしている。
ただし、そのように語られたり書かれたりするものは、往往にして、点としての「知識」や「情報」などである。
要点やまとめが、教科書的にまとまりすぎてしまうことがあるのだ。
社会学者の若林幹夫は「教科書と、教科書でないテクスト」という文章の中で、示唆に富むことを書いている。
…教科書は、ある学問においてこれまで研究され、書かれ、議論されてきたことがらのうち、すでにある程度標準的な見解として一定の評価を得ていることを集め、整理し、解説し、あるいは読者の思考をそうした理解へと導こうとする。そうした書物は、ある学問領域においてすでに考えられて、すでに知られていることを、それらをいまだ知らない人びとのための「情報」として紹介し、提示する。それに対して「教科書ではない本」は、すでに考えられ、知られていることではなく、書き手が新たに何かを考え、明らかにしようとする過程が書かれた書物のことだ。
若林幹夫『社会(学)を読む』弘文堂
「教科書ではない本」は、社会学の古典であるマックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などを指している。
「教科書」は、この書籍の中から、学界内などで常識化された「知識」や「情報」がとりだされて書かれている。
しかし、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などの本は、教科書的な要約におさまりきらないものを「過剰に」もっている。
…教科書はすでにわかったとされることを簡潔に伝えるのに対し、これらの書物は書き手にとっていまだ明らかではないことを明らかにしようとする過程や、それまで考えられなかったことを何とか考えようとした過程が描かれているのだ、と。それゆえそうした書物にとって重要なことは、「わかったこと」それ自体ではなく、「わからないこと」と、それを何とかして「考え、わかろうとする過程」なのだ。
思考は過程(プロセス)であり、知識や情報はその結果(アウトプット)である。…ある学問を学ぶとは、その学問が明らかにしてきたことを知識や情報として知るだけではなく、その学問を用いて世界を理解することができるようになるということだ。…
若林幹夫『社会(学)を読む』弘文堂
「takeaway」と呼ばれるまとめは、知識や情報として重要であるけれど、それだけを知って理解することだけでなく、インタビューやセミナーや文章における「過程(プロセス)」も一層大切だと、ぼくは思う。
普通の学校教育に慣れ親しみすぎていると、どうしても知識や情報一辺倒になってしまい、考えるプロセスが抜けがちになってしまう。
知識や情報は「点」的なものになりがちで、点や線をつないでゆく考えるということの「全体的な視野や構造」が見えないのだ。
だから、双方を大切にしていくことである。
ぼくが耳にし目にする「takeaway」は、そうすることで、聞いただけ、見ただけで終わらせない方法論のひとつだ。
振り返りの中で「takeaway」を明示することで、日常の行動につなげてゆくための、リレー地点をつくる方法だ。
<リレー地点としての点>をつくりながら、しかし、点と線をつなぐ思考を点火しながら、一歩一歩進んで(ときに後退して)ゆくことが、とても大切であると、ぼくは思う。
「退屈さ」というぼくたちの内面の最大の敵(のひとつ)に向かって。- 「人に伝わらない」という経験が退屈さに立ち向かう。
走りながら、ぼくは思考を紡いでゆく。ひとつに、ぼくたちが避けるべきは、あるいはいずれ(何らかの形で)避けることになるのは「退屈さ」ではないかと。...Read On.
走りながら、ぼくは思考を紡いでゆく。
ひとつに、ぼくたちが避けるべきは、あるいはいずれ(何らかの形で)避けることになるのは「退屈さ」ではないかと。
一人という生においても、組織というものであっても、社会というものであっても、人あるいはその集団は、意識していようがいまいが、「退屈さ」を嫌うのではないかと。
「退屈さ」をこわすためであれば、人や集団は、苦痛や不幸さえつくりだしていってしまうように、ぼくは思う。
「苦痛や不幸さえつくりだす」ということは、語弊があるかもしれないけれど、意識せずともあるいは意図せずとも、そのような状況に自分を追い込んでいってしまうということ。
生きていくということは、時間により「右肩上がりの直線」が引かれるのではない。
それは、Joseph Campbellが言うような「Hero’s Journey」のように、あるいはその原型を適用する映画のように、アップ&ダウンの連続なのだ。
直線的な退屈さをこわすために、人は「ダウン」さえ、生きる物語につくっていくということである。
逆に「面白さ」ということをかんがえるときには、面白さをつくりだす条件として「自由」ということがあると、ぼくは思う。
ここで言う「自由」は、日々の生活における自由ではなく、根源的な「自由」である。
例えば、コミュニケーションということにおいて、次のような図式でかんがえてみる。
「伝わらない」<ーーーーーーーーーー>「伝わる」
一方に「伝わらない」ということがあり、他方に「伝わる」ということがある。
人と人とのコミュニケーションにおいて、「いつも、完全に伝わる」(つまり線分の一番右)ということであったらどうだろうか、とかんがえる。
コミュニケーションがうまくいかないという、誰もが悩み苦痛とフラストレーションを感じる中に、ぼくたちは「いつも、完全に伝わったら…」という願望を抱く。
しかし、はたして、「いつも、完全に伝わったら」ぼくたちの世界はどうなるのか。
ぼくは思うのだけれど、そこには「退屈さ」の影が侵入してくるのではないだろうか、と。
伝わらないことと伝わることの「間」は、ぼくたちが自由であることの条件なのだと、ぼくはかんがえる。
自由は、コミュニケーションがよくできることも、あるいはできないことも、何も保証してはくれないけれど、ぼくたちが「アップ&ダウン」を楽しむことのできる可能性をつくってくれる。
ぼくたちが楽しむテレビドラマや映画、恋愛映画であったり家族の物語であったりは、この「伝わらないー伝わる」ということがつくりだす自由空間でくりひろげられるドラマである。
その意味において、自由は「面白さ」の可能性をつくりだしていく。
それは「退屈さ」という敵にくりだす武器なのだ。
見田宗介が語る「自由の前提」が、ぼくの頭から離れない。
…自由には二つの前提がある。第一に、「どこにでも行ける」ということ。第二に、どこかに行けば、幸福の可能性がある。「希望」があるということである。第一は自由の、抽象的、形式的な条件である。第二は自由の、現実的、実質的な条件である。…
見田宗介「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』2016年9月号
コミュニケーションにおいて、「伝わらないー伝わる」という可能空間で、ぼくたちは「どこにでも行ける」。
伝わらないことも伝わることも、あるいはその中間のどこかであることもできる。
そこには「どこにでも行ける」だけでなく、ぼくたちにはコミュニケーションの「希望」がある。
村上春樹が「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」(新潮文庫の同タイトルの著作より)と願うように、ほんとうに伝わるということが極めてむずかしいのがコミュニケーションである。
それでも「きっと伝わる/伝える」という「希望」が、ぼくたちをつきうごかしていく。
その「希望」につきうごかされながら、アップ&ダウンの「面白い」ドラマの中で、ぼくたちは日々を生きる。
「伝わらないー伝わる」という両極の事例に限らず、生きることのさまざまな同じ形式のことは、「自由」ということの条件である。
それは、ぼくたちの内面の最大の敵のひとつである「退屈さ」をこわしていく空間を、ぼくたちに与えてくれている。
「言葉のお守り」としての(社会で流通する)進化論。- 鶴見俊輔と吉川浩満に教えられて。
吉川浩満の著作『理不尽な進化ー遺伝子と運のあいだ』は、とてもスリリングな本だ。社会で流通する「進化論」は、ダーウィンの名前のもとに「非ダーウィン的な進化論」である発展的進化論であることを、明晰に語っている。...Read On.
吉川浩満の著作『理不尽な進化ー遺伝子と運のあいだ』は、とてもスリリングな本だ。
社会で流通する「進化論」は、ダーウィンの名前のもとに「非ダーウィン的な進化論」である発展的進化論であることを、明晰に語っている。
グローバル化の中での価値観の同一性、また「次なる時代」をみすえてゆく中で、この認識は大切であると思い、このことをぼくはブログに書いた。
この著作と吉川の文章について、もう少し書いておきたい。
吉川の文章の特徴は、理論の明晰性と共に、さまざまな知性たちがさまざまな仕方(時に興味深い仕方)で、登場してくることだ。
それぞれの登場ごとに、ぼくは好奇心と共にとても気になってしまい、立ち止まっては「登場人物たち」の著作や来歴などを調べるから、なかなか本の先に進んでいかなくなってしまうのだ。
ほんとうに良い本というのは、その本におさまらないような遠心力をかねそなえている。
数々の「登場人物」の中で、社会で流通する「進化論」を読み解く際に、吉川は思想家の鶴見俊輔の力をかりている。
鶴見俊輔が1946年に雑誌『思想の科学』に書いた論文「言葉のお守り的使用法について」で展開された言葉の使用法(分類)を使って、進化論への誤解を読み解いていくのだ。
ぼくはこの論文そのものは読んでいないけれども、ここでは、吉川による紹介と読解、それから誤解された進化論への適用から、学んでおきたい。
鶴見俊輔は、ぼくたちが使う言葉を、まず大きく二つに分ける。
吉川の説明を参考にまとめると、下記のようになる。
● 主張的な言葉:実験や論理によって真偽を検証できるような内容を述べる場合。真偽を検証できる主張。(例:「あのお店のランチは1000円だ」「二かける二は四である」)
● 表現的な言葉:言葉を使う人のある状態の結果として述べられ、呼びかけられる相手になんらかの影響を及ぼすような役目を果たす場合。感情や要望の表現。(例:「おいっ!」「好きです」)
この二つの言葉の分類をもとにしながら、次のようなケースがあることに注意を向ける。
■ 実質的には表現的(感情や要望の表現)であるのに、かたちだけは主張的(真偽を検証できる主張)に見えるケース
鶴見俊輔は、このような言葉を「ニセ主張的命題」と呼んでいる。
「ニセ主張的命題」の言葉は、その意味内容がはっきりしないままに使われることが多いのだと、鶴見は注意をうながすのだ。
そして、この「ニセ主張的命題」により、「言葉のお守り的使用法」が可能になるという。
鶴見俊輔は、次のように述べている。
人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場をまもるために、自分の上にかぶせたり、自分のする仕事にかぶせたりする。
鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法について」『思想の科学』創刊号(*吉川浩満の前掲書より引用)
吉川浩満は、鶴見のこの考え方を「眼鏡」として、社会で流通する進化論の言葉たちを見渡してみる。
そうすると、テレビやネットや本や雑誌や広告などで語られる「進化論」の言葉は、この「ニセ主張的命題」そのものだと考えられることになる。
…それらは見かけ的には主張的な言葉(真偽を検証できる主張)の体裁をとっている。なぜならそれらの言葉は、実験や観察や論理によって真偽を検証できる科学理論(進化論)に由来するものだからだ。でも実際に自らの発言を科学的に検証する者など誰もいない。じゃあなにをしているのかといえば、すでに起こってしまった事象にたいして慨嘆したり、将来にたいして希望的あるいは悲観的な感想を述べたり、商品の優れた点を宣伝したり、自分や他人を鼓舞奨励あるいは意気消沈させるために、こうした言葉を発しているのである。それらは実質的には表現的な言葉(感情や要望の表現)であり、一種の「生活感情の表現」あるいは「人生にたいする態度の表現」(©︎ルドルフ・カルナップ)なのである。
吉川浩満『理不尽な進化論』朝日出版社
進化論を「ニセ主張的命題」として使用するのはなぜかと、吉川は続けて書いている。
どうしてそんなことをするのか。鶴見の言葉に沿っていえば、それはもちろん、進化論的世界像がみんなに「正統と認められている価値体系」であるからであり、自然淘汰説がそれを「代表する言葉」であるからであり、それを用いることによって「自分の社会的・政治的立場をまもる」ことができそうに思えるからだ。
吉川浩満『理不尽な進化論』朝日出版社
それが「言葉のお守り的使用法」である。
進化論に限らず、ぼくたちはいろいろな場面で、便利に使ってしまっている方法だ。
ここで議論をとめることはせずに、吉川は、さらに奥深くに向けて、言葉を紡いでいる。
それにしても、「言葉のお守り的使用法」という言葉の使われ方は、意識されないままで、実にこわいものである。
「言葉」をあなどってはいけない。
ぼくたちの「世界」は、言葉によってつくられるものでもある。
世界は「言葉のお守り」が至るところに貼られている。
鶴見俊輔と吉川浩満に、ぼくは教えられた。
「私の体は私だけのものではない」(養老孟司)。- 共生系としての個体/身体。
ぼくたちは、普通、自分の身体は「自分の所有物」であることに疑いを持たない。英語では、自分の身体の全部あるいは一部を呼ぶ際には、やはり「my(私の)」をつける。...Read On.
ぼくたちは、普通、自分の身体は「自分の所有物」であることに疑いを持たない。
英語では、自分の身体の全部あるいは一部を呼ぶ際には、やはり「my(私の)」をつける。
ぼくもかつて明確にそのように思っていたわけではないけれど、やはり疑いをもたなかったと思う。
「疑いをもたない」ことに風穴を開けてくれたのは、真木悠介の名著『自我の起原』(岩波書店、1993年)であった。
真木悠介の著作の前に、養老孟司の語りをひろっておきたい。
著作『「自分」の壁』で、養老孟司は「私の体は私だけのものではない」ということを書いている。
養老孟司は、人間の身体の中にある「ミトコンドリア」について説明を加えている。
人体は約60兆の細胞から成っていて、その中にミトコンドリアがある。
ミトコンドリアは、酸素を吸い、糖を分解してエネルギーを生むという重要な仕事をしている。
ミトコンドリアを調べると、細胞本体とは別に、自前の遺伝子を持っている、ということがわかってきました。…
ミトコンドリアに限らず、細胞の繊毛や鞭毛のもとになる中心体も自前の遺伝子を持っています。…
遺伝子は生物の設計図だといいます。しかし、体内にいる細胞が別の設計図を持っている。これをどう考えればいいのか。
養老孟司『「自分」の壁』新潮新書
養老孟司は、1970年代に提出された、リン・マーグリスという生物学者による仮説を紹介している。
それによると、「自前の遺伝子を持つものは、全部、外部から生物の体内に住みついた生物である」というものだ。
かつては否定されつづけたと言われるマーグリスのこの仮説は今ではある程度受け入れられるようになったという。
このマーグリスによる主著『細胞の共生進化』を丁寧に読み解きながら、真木悠介は『自我の起原』の「共生系としての個体」という章で議論を展開している。
真木悠介は、生成子(遺伝子)から人間のような多細胞「個体」が生成される過程を問題とするときの問題設定として、二つの階層の創発があることを最初に指摘している。
- 原核細胞(単純な細胞形態)からの真核細胞システムの創発
- 多細胞「個体」システムの創発
個体中心的な「日常の思考」はこの内の2番目を重大視するけれど、専門家たちの主流的な認識はこの1番目における創発が「決定的」であったということであるという。
この1番目の理論展開において、前出のマーグリスが登場する。
マーグリスの理論展開を概観した後に、真木悠介は次のように書いている。
今日われわれを形成している真核細胞は、それ以前に繁栄の極に達した生命の形態による地球環境「汚染」の危機をのりこえるための、全く異質の生命たちの共生のエコ・システムである。…
われわれ自身がそれである多細胞「個体」の形成の決定的な一歩は、みずから招いた地球環境の危機に対処する原始の微生物たちの共生連合であり、つまりまったく異質の原核生物たちの相乗態としての<真核細胞>の形成である。この<真核細胞>が、相互の2次的な共生態としての多細胞生物「個体」の、複雑化してゆく組織や器官の進化を可能とする遺伝子情報の集合体となる。個体という共生系の形成ののちも、その進化的時間の中で、それは数知れぬ漂泊民や異個体からの移住民たちを包容しつつ変形し、多様化し豊饒化しつづけてきた。「私」という現象は、これら一切の不可視の生成子たちの相乗しまた相剋する力の複合体である。
真木悠介『自我の起原』岩波書店
ぼくたちの身体は生命の<共生のシステム>である。
「私の体は私だけのものではない」と養老孟司が言うとき、そこにはこの<共生のシステム>という事実と畏れのようなものがある。
真木悠介(見田宗介)は、別の著作で、この事実に触れて、尽きない好奇心を文章に載せている。
…この「身体」自体が、多くの生命の共生のシステムなのです。これはほんとうに驚くべき、目を開かせるような事実なのですが、長くなるから省きます…。われわれの身体がそれ自体多くの生命の共生のシステムであるという事実が、「意識」や「精神」といわれるものの究極の方向性とか、われわれが何にほんとうに歓びを感じるかということにも、じつに豊饒な可能性を開いているのです。
見田宗介『社会学入門』岩波新書
ほんとうに驚くべき、目を開かせる事実であると、ぼくも思う。
じぶんの身体を、事実を知る前と同じようには見ることができなくなってしまうような事実である。
真木悠介は、「私」ということを「現象」であると述べているように、それは確実なものではなく、立ち現れるものである。
身体はその意味で「私」ではなく、また養老孟司の言うように私だけのものでもなく、それはひとつの<共生のシステム>だ。
このようにして、「健康」とはこの共生のシステムの「環境問題」であると、ぼくは考える。
そして、ぼくは、ぼくの身体に共生する多くの生命たちにたいして、感謝すると共に、畏れのようなものを感じてやまないのだ。
時代の変わり目に「貨幣」を本質的に考える。- 「貨幣とは外化された共同体である」という真理。
時代の変わり目に「貨幣」について、本質的に考えていくことがますます大切になってきている。...Read On.
時代の変わり目に「貨幣」について、本質的に考えていくことがますます大切になってきている。
日々の生活がかけられている「マネーゲーム」ということの、その「ゲーム盤」自体が揺らぎ、変容をとげようとしているからである。
仮想通貨やベーシックインカムなどはメディアでも頻繁にとりあげられ、またクラウドファンディングなどの方法もよく語られる。
このような新しい形式は視野に入れながら、しかしここでいう「時代」の区分は重層的で、長い射程においては、紀元前にまでさかのぼる。
中間的な射程においては、例えば「近代」という時代であったりする。
理論的な記述として、その本質をとらえている社会学者である見田宗介の文章を、ここで挙げておきたい。
近代社会の古典形式は、かつて第一次の共同体のもった、人間の生の物質的な根拠としての側面を「市場のシステム」として開放し、人間の生の精神的な根拠としての側面を「近代核家族」として凝縮する、という二重の戦略であった。
「貨幣とは外化された共同体である」という心理は、「市場」として散開する共同体のこの第一の側面に定位している。貨幣のシステムは、微分され/積分される共同性である。限定され/普遍化された(specific/universal)協働の連関である。貨幣はこの限定され/普遍化された交換のメディアであることをとおして、近代的な市民社会の存立の媒体であるが故に、その<諸主体の主体>として立ち現れる、<物象化された共同体>に他ならなかった。…
見田宗介『社会学入門ー人間と社会の未来』岩波新書
マルクスの『資本論』を「ふつうの古典」として「現代社会」を理解するための素材として見田宗介(=真木悠介)は読み解きながら、上記の文章を語っている。
「貨幣とは外化された共同体である」という真理は、次の時代にぬけてゆくために、ぼくたちが理解しておくべきものである。
貨幣(お金)がそれ自体ただの「紙切れ」やただの「硬貨」でありながら、それへの執着をうながす根拠は、それが<諸主体の主体>として立ち現れる、<物象化された共同体>であるからだ。
それはそのようにあるものとして、「市民社会の物神」(真木悠介)である。
ぼくが住んでいるここ香港は、貨幣(お金)ということのとても敏感な社会である。
それは、共同体的な基盤が確固としていない中で、生の物質的な根拠としての側面を「市場のシステム」にたくす、「外化された共同体」である。
また、ぼくが以前住んでいた東ティモールでは、「市場のシステム」の浸透のプロセスに置かれていた。
それは、グローバル化と共に、世界の市場システムという「共同体」につながりながら、しかし、貨幣が必要な生活に投げ込まれることでもある。
そのような「貨幣」が今さまざまな角度から問われることの背景には、「共同体」というものの変容がある。
「市場のシステム」はグローバル化のもとに進展し、他方で先進社会の「近代核家族」はその解体という契機に直面している。
いま生の精神的な根拠もまた…その凝縮を失って散開するのだとしたら、新しく限定され/普遍化されたコミュニケーションの媒体として、現代的な市民社会の存立のメディアであるが故にその<諸主体の主体>として立ち現れるのは、情報のテクノロジーである。電子メディアのネットワークは、このように完成され純化された近代のシステムの、外化され物象化された共同体である。
共同体を微分し/積分せよ、という<近代>の未完のプロジェクトはここに、「主体」のその深部に至る領域化、という仕方で完結する。
見田宗介『社会学入門ー人間と社会の未来』岩波新書
この「情報のテクノロジー」が、時代を先に押し進めながら、同時に「共同体」の変容を促している。
貨幣も、この歴史的な変容の中で、その新たな行く先へと視線を向けている。
貨幣の問題は、人がどのようにつながってゆくのか、あるいはつながっていかないのか、という課題へと、ぼくたちの社会の「基盤」を揺らがせている。
「世界で生ききる」ために、この問題と課題は、この「基盤」を正面から直視していくこと。
ぼくたちは、そのような時代の「過渡期」に置かれている。
「移動」の中で考えること、思いつくこと。- シエラレオネと東ティモールで大切にした「移動の思考」。
2002年に西アフリカのシエラレオネで仕事(国際協力・緊急支援)をし、2003年に東ティモールに移ってコーヒー生産者支援をしてゆく中で、ぼくはよく「移動」した。...Read On.
2002年に西アフリカのシエラレオネで仕事(国際協力・緊急支援)をし、2003年に東ティモールに移ってコーヒー生産者支援をしてゆく中で、ぼくはよく「移動」した。
日本からシエラレオネは、当時はロンドン経由であり、飛行時間はやはり長かった。
シエラレオネ国内でも、よく移動した。
シエラレオネの首都フリータウンに降り立つと、市内へは、なぜかヘリコプターでの移動であった。
フリータウンに事務所本部をもちながら、ボーとコノというところにそれぞれ事務所があった。
それぞれの事務所間は、主に、スタッフが運転してくれる車両などで移動した。
ボー事務所は、リベリア難民の支援の拠点であった。
難民キャンプまでは車で1時間ほどの距離で、難民キャンプに行くときは往復2時間の移動であった。
大雨が降ると、オフロードの泥道は車両の足をつかみ、ときに抜け出せないような状況であった。
ぼくが主に駐在していたのは、コノ事務所。
シエラレオネの東部に位置し、ギニアやリベリアに近くなる。
コノ事務所は、帰還民支援(難民として逃れていたシエラレオネ人が紛争後に戻った村々の支援)として、井戸掘削と衛生教育の支援の拠点であった。
道路は整備されていないから、車両での移動は時間を要した。
支援そのものだけでなく、各ステークホルダー(シエラレオネ地方政府、国連、NGOなど)との会議なども多く、よく移動したことを覚えている。
ぼくは、いつのまにか移動に慣れ、「移動の時間と空間」を大切にした。
首都フリータウンはそれなりにコンクリートの道路が整備されていたが、渋滞にはまることもあり、各ドキュメントに目を通すなど車内は仕事の空間であった。
フリータウンをはずれ、ボーやコノに行くとき、あるいはボーやコノにおいては、道が道でないようなところで車両が上下左右に揺れるから、スタッフの人たちと話すことに加え、「考えること」にぼくは徹した。
「移動の時間と空間」は、とても貴重なものであった。
一箇所にとどまって仕事をしているときに「煮詰まってしまった問題・課題」を考えているうちに、ふとアイデアがわいたり、解決策を思いついたりした。
相当に煮詰めていた思考が、ふーっと解き放たれるようにしてひろがり、思考の間隙をぬって、これまで考えていなかったことが浮上する。
ぼくはその内に、「移動の思考」を方法とするようになった。
東ティモールに移っても、方法としての「移動の思考」は、ぼくにとってとても大切であった。
首都ディリからコーヒー生産地であるエルメラ県レテフォホまで、整備の行き届いていない道路を通って、2時間から3時間ほどかかる道のりであった。
シエラレオネと異なることのひとつは、東ティモールでのこの移動は、「気温が変わること」であった。
エルメラ県はディリに比べて標高を高くし、レテフォホは涼しいコーヒー生産地だ。
移動と共に気温が変わっていく「移動の時間と空間」の中で、スタッフが運転してくれる車両の助手席に座りながら、ぼくはいろいろなことを考えた。
煮詰まっている問題・課題はもちろんのこと、組織マネジメント、新しいプロジェクト、プロジェクトのプロポーザルの内容と構成、ホームページ用の文章、スケジュールなどなど、「移動の時間と空間」をぼくは思考の方法として活用した。
さらに、ディリとエルメラ県をつなぐ道路で、知り合いなどと車両でよくすれちがうことがあった。
他の国際NGOの人たちであったり、東ティモール政府の人たちであったりと、さまざまであった。
ときに、互いに車両を降りて、仕事の話をしたり、互いを励ましあったりと、移動の道程は特別なものとなった。
車両を降りたときに、あたり一面にひろがる木々たちがつくる静寂が、まだぼくの記憶に鮮明に残っている。
シエラレオネや東ティモールにおいて「移動の時間と空間」はぼくにとってとても大切な時間と空間であったのだけれども、掘り下げてゆくと、ぼくたちはいつも<時間と空間の移動>の中に在る。
この反転を言葉の綾だけでなく、言葉の内実を生きるところにまで生ききることに、「移動の思考」だけではなく<思考の移動>がひらけてくるように、ぼくは思う。
生きることの「時間の有限性」を直視すること。- 「サマルカンド」に向かう旅路で。
ぼくたちの生の時間が有限であること。このことの認識と深い実感が、ぼくたちの生き方を変えてゆくことがある。...Read On.
ぼくたちの生の時間が有限であること。
このことの認識と深い実感が、ぼくたちの生き方を変えてゆくことがある。
しかし、生の時間が有限であるということを、頭で理解するのではなく「ほんとうに実感する」ということは、それほどシンプルにはいかない。
人は、「誰もがいつかは死ぬこと」を知っているけれど、ときに、そのことを深く感じない。
人は、「人生の時間には限りがあること」を知っているけれど、ときに、そのことを深く感じない。
スティーブ・ジョブズが、今日が生きる最後の日であるなら何をするかを問おうと呼びかけても、頭ではわかりながら、心(気持ち)とお腹(行動)に落としていくことは、まるで「次元」が異なるように思われる。
ニュースなどで余命が少ない人たちの生きる物語りを聞いても、頭(また心)ではわかりながら、「時間の有限性」はじぶんの物語として組み込まれていかない。
近代は時間や空間や価値の「無限という病」にとりつかれた時代だと、社会学者の見田宗介が語っているけれど、個人という生においても「無限の病」にとりつかれるようなところがある。
日々はとても忙しいのだけれど、それでもその忙しい時間はどこまでも続いてゆくように感じられる。
その日や週や年といった視野においては時間は極度に有限であると感じられるけれど、日・週・年といった視野の先の時間は「無限に近いもの」として、あるいは有限でも無限でもない不明瞭なものとしての無限性として感じられるのだ。
まるで近代における「無限という病」が個人に憑依しているかのようである。
近代・現代世界は「無限」という磁場を、社会にはりめぐらしている。
また、あるいは、個人の生(また人類)における時間の有限性を「見ないことにしている」とも言える。
なぜ人は時間の有限性を深いところで実感できないのだろうという問いは、それだけでも話の尽きることのない問いだ。
その問いをひとまず置くとしても、時間の有限性を直視して、頭で理解するだけでなく心で感じ、お腹にまで落として行動につながるような<生きることの拠点>を創ることは、人が変わるということの契機のひとつとなるものである。
「時間の有限性」は、それが真実でありながら、充溢した生を生きるための<方法>として、ぼくたちが取り出すことのできるものである。
そのためには、(多くの個人の生の物語りが語るような)生死を分けるような極端な経験をする必要は必ずしもない。
しかし、その<生きることの拠点>をつくること自体が、その人の生の物語(の一部)である。
ぼく個人のことで言えば、「時間の有限性」に向き合ってきたぼくの「物語」は、20年以上にわたる物語である。
見田宗介は、1980年代半ばの論壇時評で、植島啓司の「サマルカンドの死神」という報告(『へるめす』別巻シンポジウム)における、次のような「伝説」を取り上げて、そこに大切なものを見ている。
ある兵士が市場で死神と会ったので、できるだけ遠く、サマルカンドまで逃げてゆくために王様の一番早い馬をほしいという。王様が王宮に死神を呼びつけて、時分の大切な部下をおどかしたことをなじると、死神は「あんなところで兵士と会うなんて、わたしもびっくりしたのです。あの兵士とは明日以降にサマルカンドで会う予定ですから」という。
わたしたちはどの方向に走っても、サマルカンドに向かっているのだ。わたしたちにできることは、サマルカンドに向かう旅路の、ひとつひとつの峰や谷、集落や市場のうちに永遠を生きることだけだ。
見田宗介『白いお城と花咲く野原』朝日新聞社
ぼくたちは、どの方向に走っても、サマルカンドに向かっている。
ぼくたちは誰もが「サマルカンド」をもっている。
でも、「サマルカンド」をもつことは、ぼくたちの生を空虚にはしない。
ぼくたちの生を空虚にしてしまうのは、あるいはぼくたちの生を祝福するのも、ぼくたちがサマルカンドに向かう旅路への「旅の仕方」次第であることを、上述の引用の最後の文章で、見田宗介は教えてくれている。
ぼくたちに「できること」は、旅路の、ひとつひとつの峰や谷、集落や市場のうちに永遠を生きることである。
時間の有限性である生の中に、永遠ともいえる無限性を生きることができるところに、生の充溢がある。
ハリケーンで、スタッフの人たちと地下室に避難したリチャード・ブランソンが大切にした「2つのこと」。
2017年9月にカリブ海に被害をもたらしたハリケーン「イルマ」は、ヴァージングループの創業者であり会長でもあるリチャード・ブランソンがカリブ海に所有するネッカー島にも壊滅的な被害をもたらした。...Read On.
2017年9月にカリブ海に被害をもたらしたハリケーン「イルマ」は、ヴァージングループの創業者であり会長でもあるリチャード・ブランソン(Richard Branson)がカリブ海に所有するネッカー島(Necker Island)にも壊滅的な被害をもたらした。
リチャード・ブランソンは、吹き飛んだ建物などの被害状況を、ネットで発信した。
当時ネッカー島にいたリチャード・ブランソンは、スタッフの人たちと共に、ワインセラーである地下室に避難して難を逃れた。
その当時の様子を、リチャード・ブランソンは、ポッドキャストの「The Tim Ferriss Show」において、ティム・フェリス(Tim Ferriss)のインタビューに丁寧に応えながら、語っている。
インタビューは、のちに「The Billionaire Maverick of the Virgin Empire」と題され、ハリケーンだけでなく、彼の新しい自伝『Finding My Virginity』を元に、ヴァージン航空などのビジネス、彼の生い立ち、彼の習慣、社会へのコミットメントなど、さまざまに語られていて、興味がつきない。
ただし、インタビューはハリケーンがネッカー島に被害をもたらした後日に行われたことから、ハリケーンの話から始められた。
リチャード・ブランソンがネッカー島とその状況を一通り説明した後に、ティム・フェリスは次のような主旨の質問をなげかける。
死をもたらすかもしれないような状況において、そのような状況をとても心配し、中にはパニックにおちいるようなスタッフたちに向かって、あなたは何を言ったり行動したりしたのか?、と。
リチャード・ブランソンは冒険家でもあり、これまでにも幾度も、いろいろな危険な状況にあってきたことにも触れて、リチャード・ブランソンという一人の巨人の本質にふれる問いを、ティム・フェリスはなげかけたのだ。
リチャード・ブランソンは、今回のハリケーンのときに地下室でスタッフの人たちと避難していたときのことに触れ、間髪いれず、次のように応える。
「ぼくはユーモアが大切だと思う。…冗談を言ったりね。」
Tim Ferriss「The Billionaire Maverick of the Virgin Empire」, Podcast『The Tim Ferriss Show』
ユーモアのことを語りながら、リチャード・ブランソンはもう一つ付け加えている。
「それから、たくさんのハッグ。ハッグもある意味大切です。」
Tim Ferriss「The Billionaire Maverick of the Virgin Empire」, Podcast『The Tim Ferriss Show』
それから、リチャード・ブランソンは、他の冒険におけるときの経験を語りながら、「ポジティブでありつづけること」の大切さを語るのだけれど、ぼくの中には、「ユーモアとハッグ」が印象深く残ることになる。
そこに「リチャード・ブランソン」を見たような気がしたこと、また、極限的な危機状況において、やはりそれらはとても大切であること。
ハリケーンは地下室の外のドアを10メートルも飛ばしたという状況の中、地下室でジョークを語るリチャード・ブランソンの様子が見えてくるようだ。
「ユーモアとハッグ」。
ここにはそれぞれに重要な「効果」が詰められている。
- ユーモア:言葉(とマインド)を通じて、身体をゆるめること
- ハッグ :身体をゆるめることで、マインド(と言葉)を変えること
それぞれに、言葉・マインドと身体の緊張を「ゆるめる作用」をもっている。
リチャード・ブランソンは、明確に意識することなく、この「双方」をじぶんの方法としている。
間髪いれずに応えたブランソンのトーンから、そのことが伝わってくる。
インタビューの終わりに、「経験から学ぶこと」の重要性をリスナーに語るリチャード・ブランソンの言葉を聞きながら、経験のひとつひとつからの学びを(字義通り)「体得」していったところに、彼の強さとレジリエンシーはある。
「自分を大切に扱うこと」がとても大切な理由。- 自分と他者双方を大切にしながら、互いをつなぐ「ループ」をつくる。
自分を大切に扱うことが、決定的に大切であると、ぼくは思う。日本社会はしかし「自分」をおさえる磁場を形成しがちだし、逆に個人主義的な社会では「自己中心」的な個人をつくりやすい。...Read On.
自分を大切に扱うことが、決定的に大切であると、ぼくは思う。
日本社会はしかし「自分」をおさえる磁場を形成しがちだし、逆に個人主義的な社会では「自己中心」的な個人をつくりやすい。
もちろん実際にはそんな簡単に述べることはできない。
個人主義的と言われる社会などを見ても(経験、あるいは著作やインタビューなどで見ても)、人は「他者を喜ばせること・がっかりさせないこと」を起点に行動していたりする。
しかし、日本社会を経験の土台とするぼくが、世界のいろいろな場所で生きてきて、相対的にはやはりそう感じるところがある。
あくまでも表層的な相対性の中で。
「自分を大事に扱うことが成功につながる」という論理を、脳科学者の中野信子が著書『脳はどこまでコントロールできるか?』(KKKベストセラーズ)で書いている。
…なぜ、自分を大事に扱うことが、成功につながるのでしょうか。
大成功といっても、実は小さな信頼の積み重ねだったり、周囲の人といかに良好な人間関係を築けるかというところに左右されているものです。
ここが重要なポイントなのですが、自分を大事にしている人は、ほかの人からも大事にされるのです。逆に、自分を粗末に扱っている人は、他人からも粗末に扱われるようになってしまいます。
中野信子『脳はどこまでコントロールできるか?』KKKベストセラーズ
「自分を大事にしている人は、ほかの人からも大事にされる」というつながりは、論理上も経験上も、なかなかわかりにくい。
中野は、心理学における「割れ窓理論」という理論をひきだしから出して、説明している。
「軽微な犯罪が凶悪な犯罪を生み出すという理論」で、それは、人間の「秩序の乱れに同調してしまう性質」を語っている。
中野信子は、理論について、シンプルな例を挙げている。
自分の目の前に2台の車がある。
1台は手入れが行き届いている車で、もう1台は汚れていてキズや凹みがある車。
この内どちらか一台を棒で思い切り叩いてくださいと言われたら、どちらの車を叩くかは、多くの人が後者を叩くだろうという例である。
もう一つの例は、きれいで美しい道にゴミを投げ捨てることには気が引ける一方、汚くてゴミが落ちているような道であれば「ちょっとくらい捨てても構わない」と思ってしまう例である。
この二つ目の話は、以前どこかで読んだ、スラム街の話をぼくに思い起こさせる。
スラム街を「よくするため」に、ある人は、スラム街をきれいにし、それだけでなく花でうめつくしていったという。
きれいにしただけでなく、そこを花で充たすことで、「秩序の乱れ」を防ぐことになったのだ。
中野信子は、「自分を大切に扱うこと」を生きてきた人物として、世界の大富豪エドモンド・ロスチャイルド男爵の夫人となった女性、ナディーヌ・ロスチャイルドを取り挙げている。
貧しい家庭に生まれ、中学卒業後に工場などで必死に働き、誰もが一目置くような美人でないけれど小劇場の女優であったナディーヌは、エドモンド・ロスチャイルドに出会い、求婚される。
そのナディーヌ・ロスチャイルドは、著書で、次のように語っているという。
「あなたがまず心を配るべきなのは、自分自身です」(前掲書)
「自分を大切に扱うこと」が、すんなりと腑に落ちるまで理解でき、生活のすみずみに落としていければ問題はないのだけれど、現実はなかなかそうすんなりといかない。
時代や社会を駆動する価値観などにより、人は往々にして、下記のいずれかに「偏って」いってしまうように思う。
● 自分だけを大切にすること(自己中心)
● 自分を粗末に扱い、他者だけを大切にすること(他者への自己犠牲的献身)
前者は非難を受けがちであるから、社会の<引力>は後者へと人びとをひきつけてゆく。
「他者を大切にする」ということが、どこからか歪曲して他者を単純に(表面的に)「喜ばす」ことになってしまったりして、いつしか「自己犠牲」になってしまう。
それぞれをつきつめて生きていくと、次のような「反対の状況・事象」をつくりだしているように見える。
自分だけを大切にすることは、そうすることで、実は自分を大切にしない状況を2重につくりだしている。
- 「自分」に境界線をひいてしまうことで、他者から大切にされない「壁」をつくってしまっている
- 他者(誰か)のためになるという歓びの機会を自分自身から奪っている
(自分を大切に扱わず)他者を優先的に大切にすることは、そうすることで、実は他者を大切にしない状況を2重につくりだしている。
- 他者が「あなた」を大切にする機会を奪う
- 他者への献身、つまり自己犠牲的な抑圧を、言葉や行動のどこかで他者に伝えてしまっている
自分を大切にすること、あるいは他者を大切にすることが、その逆の状況・事象をつくりだしてしまうのだ。
この状況をのりこえてゆく方途は「自分も他者も大切にすること」なのだけれど、現実には、やはり「自分自身を大切にすること」からだと、ぼくは思う。
人それぞれの生における「動的な流れ」の中では、どちらが先かは一概には言えないし、その流れ自体が「個人の生の物語」である。
しかし、静的な状況として見れば、「自分自身を、ほんとうに大切にすること」である。
自分自身を大切にすることにより、中野信子が指摘するように、他者からも大切に扱われる。
自分自身を大切にすることにより、自分自身がもつほんとうの「ギフト」を他者に与えてゆくことができる。
そこには、自分自身の「自己犠牲的な献身」という抑圧性はない。
他者の生がひらかれてゆくことは、自分自身にとって、「ほんとうの歓び」となってゆく。
この「ループ」ができてゆくところに、あるいはその「ループ」がつくられる過程に、「意義のある人生」がつくられ、「物語」が生まれてゆくのだと、ぼくは思う。
246年前の10月に、ゲーテが考えていたこと。- 「若きウェルテル」の言葉を借りて。
1771年10月20日。今から246年前の10月20日。この日付が付された書簡で、ウェルテルはシャルロッテに宛てて、次のように文章を書き出している。...Read On.
1771年10月20日。
今から246年前の10月20日。
この日付が付された書簡で、ウェルテルはシャルロッテに宛てて、次のように文章を書き出している。
…運命はぼくに苛酷な試練を課そうとするらしい。しかし元気を出そう。気を軽く持っていればどんな場合も切り抜けられる。…まったくちょっとでもいいからぼくがもっと気軽な人間だったら、ぼくはこの世の中で一番果報者なんだろうがね。…ぼくは自分の力と自分の才能に絶望している…。
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』新潮文庫
よく知られているように、この小説はゲーテの実体験をもとに書かれ、1774年に刊行されている。
主人公ウェルテルの言葉を通じて、ゲーテが語っている。
「近代」という時代の創世記に書かれ、ゲーテというひとりの近代的自我の言葉は、現代においても心に響いてくる。
苛酷な試練の前で気楽になれず、自分の力と才能に絶望する。
現代において、毎日、世界のいたるところで、さまざまな人たちの脳裏でつぶやかれることだ。
「気を軽く持つ」という仕方を語る書籍やトークは、現代日本で、多くの人たちの心をとらえている(ぼくが日本に住んでいるときからその流れが始まっていた)。
しかし、ウェルテルと同じように、「もっと気楽な人間だったら…」と思ったりする。
「自分の力と自分の才能に絶望する」ウェルテルが、そこから切り抜けるために思いついた方法として、「気楽になること」に加えて、次のような方法が語られる。
辛抱が第一だ、辛抱していさえすれば万事が好転するだろう…。われわれは万事をわれわれ自身に比較し、われわれを万事に比較するようにできているから、幸不幸はわれわれが自分と比較する対象いかんによって定まるわけだ。だから孤独が一番危険なのだ。ぼくらの想像力は…われわれ以外のものは全部われわれよりすばらしく見え、誰もわれわれよりは完全なのだというふうに考えがちだ…。ぼくたちはよくこう思う、ぼくらにはいろいろなものが欠けている。そうしてまさにぼくらに欠けているものは他人が持っているように見える。そればかりかぼくらは他人にぼくらの持っているものまで与えて、もう一つおまけに一種の理想的な気楽さまで与える。こうして幸福な人というものが完成するわけだが、実はそれはぼくら自身の創作なんだ。
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』新潮文庫
「ぼくら自身の創作なんだ」と、ウェルテルは、自我がえがく幻想を明確に認識している。
それにしても、この言葉がこの現代で語られたとしても、まったく違和感がない。
自分と他者との比較の内に「自分」を定め、欠けているものばかりを見てしまう。
ウェルテルがこの書簡を書いてから246年が経過した今も、人びとはこの「幻想」からなかなか逃れることができない。
あるいは、比較から逃れられた人たちも、生きる道ゆきの中で、幾度となく、同じような経験に直面してきている。
「若きウェルテルの悩み」は「誰もの悩み」である。
この「自身の創作」から抜け出すことの方法をいろいろと考えながら、246年前にウェルテルがたどり着いた<地点>に、ぼくはひかれる。
これに反してぼくらがどんなに弱くても、どんなに骨が折れても、まっしぐらに進んで行くときは、ぼくらの進み方がのろのろとジグザグであったって、帆や櫂(かい)を使って進む他人よりも先に行けることがあ、と実によく思う。ーそうしてーほかの人たちと並んで進むか、あるいはさらに一歩を先んずるときにこそ本当の自己感情が生まれるのだ。
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』新潮文庫
まっしぐらに進んで行くこと。
ウェルテルは、つまりゲーテは、「まっしぐらに進んで行くこと」に、のりこえてゆく方途を見出している。
どんなに弱くても、どんなに骨が折れても、あるいはのろのろとジグザグに進んだとしても、である。
246年前にゲーテが考えていたこと・感じていたことは、今のぼくたちに「伝わるもの」をもっている。
いろいろな本を読めば読むほどに、ゲーテに限らず、ぼくは「古典作品」にひかれていく。
古典作品の中でも、さらに古典へと誘われていく。
古典作品は、ぼくたちが、現代という時代を「まっしぐらに進んで行く」ためのガイドである。
この時代にたいして<垂直に立ち>ながら、まっしぐらに、ぼくは進んでいきたい。
進み方がのろのろしていても、ジグザグであっても…。
そして、気を軽くもって。
レオナルド・ダ・ヴィンチとベンジャミン・フランクリンの「共通点」。- 作家Water Isaacsonの言葉に耳をすませて。
近年では、スティーブ・ジョブズの伝記を書いたことで名を知られるようになった作家のWalter Isaacson。...Read On.
近年では、スティーブ・ジョブズの伝記を書いたことで名を知られるようになった作家のWalter Isaacson(ウォルター・アイザックソン)。
ヘンリー・キッシンジャー、ベンジャミン・フランクリン、アインシュタイン、スティーブ・ジョブズといった伝記に続き、ウォルターは新しい作品であるレオナルド・ダ・ヴィンチの伝記『Leonardo Da Vinci』を世に放った。
これまでの伝記と同じように、英語版で600頁を超えるような大作である。
この本の刊行と時を同じくして、ウォルターは、Tim Ferrissのポッドキャスト「The Tim Ferriss Show」のインタビューを受けている。
このインタビューの中で、ベンジャミン・フランクリンとレオナルド・ダ・ヴィンチの「共通点」として、ぼくたちがレッスンとして学ぶことができることを、ウォルターは次のように述べている。
「…interested in everything」
Tim Ferriss「Lessons from Steve Jobs, Leonardo da Vinci and Ben Franklin」, Podcast『The Tim Ferriss Show』
すべてのことに関心をもつこと、つまり「好奇心」を、ウォルターは挙げている。
レオナルド・ダ・ヴィンチの多才さはよく知られているところだけれど、彼は、毎朝起きると、その日の「知りたいこと」をリストとしてノートに書いていたという。
ウォルター・アイザックソン自身も「好奇心」をそのコアにもつ人であるけれど、ベンジャミン・フランクリンやレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受けて、ウォルターは、さらに「好奇心と観察眼」で、物事を見るようになったと語っている。
それは、例えば、外を歩いていて青空を見て立ち止まる。
青空を観察しながら、なぜ空は青いのかを考えるようなことだという。
「好奇心」ということは、作家の中谷彰宏の言葉を思い出させる。
中谷彰宏は、著書『成功する人は、教わり方が違う』(河出書房新社)の中で、「好奇心」に触れて、次のように言っている。
一流は、好奇心を持つ。
二流は、興味を持つ。
中谷彰宏『成功する人は、教わり方が違う』河出書房新社
続けて、言葉の定義について、次のように語っている。
「興味」とは、「好きなものが、好きなこと」です。
「好奇心」とは、「好きでないことでも、好きなこと」です。
…「好きじゃないものは、やりたくない」と言う人は、たいてい履歴書の自己紹介欄に「好奇心が強い」と書いてあります。
それは間違いです。
好きでないことを「なんだろう、これ?」と見続けられるのが好奇心です。
好奇心によって、その人の幅は広がります。
中谷彰宏『成功する人は、教わり方が違う』河出書房新社
そのようにして、「幅」を広げ続けて、クリエイティビティがスパークしたのが、ベンジャミン・フランクリンであり、レオナルド・ダ・ヴィンチである。
Tim Ferrissは、上述のインタビューで、ウォルター・アイザックソンの仕事の幅(大学教授、ジャーナリストなど)に着目し、なぜ伝記を書くのかということを尋ねる。
ウォルターの応答は「connecting us people」、人びとをつなげることだと言う。
伝記のナラティブは人びとをつなげてゆくものであること。
その語りを聞きながら、「好奇心」と「興味」ということの違いを考える。
「興味」は、「好きなこと」という枠で、人びとをつなげる一方で、枠の内と外の境界で人びとを引きはなす。
「好奇心」は、枠の内か外からにかかわらず、すべてのことに関心を注ぎながら知ろうとすることで、人びとをつなげる。
人びとをつなげてゆくものとしての「好奇心」というところに、ベンジャミン・フランクリンとレオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてウォルター・アイザックソンの共通点と、ぼくたちが学ぶレッスンがある。
道端に咲く花たちを見て、ぼくは立ち止まり、「花」ということを考えざるを得ない。
「花」というものは、生きるということの根幹を語っている。
ぼくは、「花」にひきつけられてゆく。
「世界を変える」を紐解く。- 重層的/複層的に「世界」をとらえながら。
「世界を変える」ということを、本気で、考えてきた。「世界を変える」ということを、本気で、行動にうつそうとしてきた。...Read On.
「世界を変える」ということを、本気で、考えてきた。
「世界を変える」ということを、本気で、行動にうつそうとしてきた。
「世界を変える(change the world)」ということを言うと、普通、周りからは「何を言っているんだ」的な反応が返ってきたりする。
ここでは、「世界」は「地球大」のイメージとして、会話の中に現れる。
世界が「理想の時代」であったときには、その言葉はある「真実」として迎えられたのかもしれないが、たとえそのような時代にあっても、「何を言っているんだ」的な反応はあったはずだ。
それにしても、「世界を変える」という言葉は、極めて曖昧な言い方である。
「世界を変える」ということの中には、世界の「何を」変えるということが語られていない。
語られる状況や環境、そして語る者それぞれの立ち位置によるところが大きい。
共通性があるとすれば、「よい方向に変える」という意識がねりこまれていること。
ただし、この「よい」は、人それぞれであったりするから、「良さ・善いこと」の意味と定義の迷宮にはいりこんでしまう。
そんな中で、「happiness」が登場したりする。
人は幸せな生を求め、社会は幸せな社会をめざす、などなど。
ところが、「happiness」ということの意味と定義の迷宮もあり、また「happiness」ということが導く生の限界に、ぼくたちはぶつかることになったりする。
この「(世界の)何を」については、ひとまず横においておく。
前段の意図は、「世界を変える」ということの曖昧性を述べておくことである。
「世界を変える」ということは、ぼくの中においては、重層的/複層的に捉えられ、考えられ、行動に落とされている。
そして、この「重層/複層した世界への視野」が、大切である。
シンプル化して、並べると次のようになる。
- 世界(グローバル社会、地域、国などの)
- 生活世界(直接的に関わる家族、友人、仕事関連の世界)
- じぶんの世界
「世界」は、地球大のイメージにまで、その空間をひろげる。
「世界」は、未来へと時間軸をひろげてゆく。
しかし、日々の生活においては、ぼくの生活圏における「世界」のことだ。
家族や友人という拠点からひろがる「生活世界」であり、仕事という拠点からひろがる「生活世界」である。
「世界」とは、「人と人との関係性」のことである。
さらには、「じぶんの世界」へと、視点と行動は、重層している。
この「じぶんの世界を変える」ということを、例えば、成長などと呼ぶ。
こうして「世界を変える」ということは「じぶんの世界観・見方・感じ方」を変えてゆくということがある。
その影響力の中で、生活世界を変えてゆく、あるいは生活世界が変わってゆく。
さらに大きな地球大の「世界」の視点から見れば、じぶんを変え、生活世界を変えることは、「世界が変わる」ことの大きなうねりのひとつとなることができるかもしれない。
「世界を変える」というよりも、「世界が変わる」ことへの、世界にひろがるたくさんの試みのひとつになるということである。
ここで、やはり「世界を変える」ことにおいて、「世界をどの方向に?」ということが、どうしても現出してきてしまう。
この問題を考えるときに、社会学者の見田宗介が社会理論を純粋モデルとして描いた「交響圏/ルール圏」が、その議論の方向性の「土台」をつくってくれている。
理論は、「他者の両義性」(「歓びの源泉である他者」と「苦しみの源泉である他者」)に照応し、社会の構想は「二つの系譜」があることになる。
…一つは、直接に歓びであり、<至高なるもの>の生きられる形を解き放つ生のあり方、関係のあり方を構想するものであり、一つは、人間が相互に他者であり、それぞれに異なる仕方でこの<至高なるもの>を生きつくそうとすることの事実からくる、不幸と抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化しておこうとするものである。…<他者の両義性>が、具体的にみると、その圏域をたがいに異にしているということ。そしてこの圏域の異なり(限定性/全域性)という事実が、じっさいの社会の構想にとって、実質上決定的な意味をもつということ…。
見田宗介『社会学入門』岩波新書
見田宗介は、圏域を異にするという事実からひきだされる社会構想の形式として、<関係のユートピア・間・関係のルール>を定式化する。
…この一般化された形式に、<至高なもの>の生きられる関係を解き放つこと/<至高なもの>の生きられる関係の自由を相互に保障すること、という二重の課題を実現する仕方で内実を充たすものとして、<交響するコミューン・の・自由な連合>としての世界の構想が提起された。
見田宗介『社会学入門』岩波新書
見田宗介がここで<至高なもの>と呼ぶもの(上述の「良さ・善いこと」)を、他者に強いてはならない、「自由な社会」という世界の構想である。
このことを踏まえた上で、最初の3層に重ね合わせると、次のように並べることができる(なお、3層は完全に区分されるのではなく、重なりをもちつつ圏域を異にしている)。
- ルール圏
- 交響圏
- じぶん(自我)
「世界を変える」ということにおける「世界」は、ぼくの中で、このような世界の構想を下敷きとしながら、ぼくの生を方向づけている。
このブログは「世界を生ききる」というメッセージのもとに、書いてきている。
これまでのブログでもそうだけれど、「世界」を重層的/複層的に捉えながら、考えながら、ぼくは書いている。
グローバルにひろがる「世界」を生ききるために、じぶんの世界を生ききること、じぶんの世界を変えていくこと。
そのような「じぶん」が世界いっぱいに、それぞれに異なる仕方でひろがることで、交響するコミューンは交響性の実質を開き、そして/同時に、自由な連合の総体としての世界も変わってゆく。
国際協力の道を志してから、じぶんに言い聞かせてきた言葉。-「今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない」(森崎和江)
大学時代に、途上国への国際協力・国際支援という道を志したときから、支援の現場にいたときも、それから今でも、ぼくの中に存在している言葉がある。...Read On.
大学時代に、途上国への国際協力・国際支援という道を志したときから、支援の現場にいたときも、それから今でも、ぼくの中に存在している言葉がある。
「草の存在が見える人間になりたい。今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない。…」
森崎和江が1980年代半ばに『思想の科学』(第64号)に寄せた文章の一部である。
文章は「教育の原点での自己と他者」と題され、強者や弱者の「存在の矛盾」の問題に向き合うものだ。
この文章は、次のように続く。
「子供も大人も日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなることを知っていたい。そのことを体得しあえる関係を教育の現場として、随所に求めたい。」
西アフリカのシエラレオネで難民の人たちや住民の人たち、東ティモールのコーヒー生産者とその家族たちに向き合いながら、ぼくの中で、森崎和江の言葉がこだましていた。
「子供も大人も日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなること」。
そして「草の存在」が見えたとしても、「今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない。」
いわゆる「途上国」と呼ばれる国や地域の人たちが、そのまま草の存在であるということではないし、「弱者」であるということではない。
どこでも、人間存在としての強さや深さをもっている人たちはいる。
しかし、ある時代に、ある場所で、ある環境の中で、生きることの「幅」(潜在能力)をひどく狭まれている人たちがいる。
それは、途上国に限られることではないし、世界のどこででも起こりうることだ。
森崎和江が対象として語るように、教育の場にも起こりうることである。
あくまでも相対的に恵まれていたぼくは(例えば、食べることには困らない)、国際協力・国際支援での仕事を志しながら、当時出会った森崎和江の言葉に、深く耳を傾けざるを得なかったのだ。
「草の存在が見える人間になりたい」と。
その言葉に続く、「今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない」が、ぼくの心により頻繁に浮かぶようになったのは、ぼくが実際に「支援の現場」に降り立ち、その現実に直面しているときであった。
例えばシエラレオネでは、紛争による混乱と傷跡に翻弄される人たちと日々直接に接し、訴えを聞き、要望を聞き、あるいは言葉にならないような表情を投げかけられて、「草の存在」が見えてくる。
訪れた難民キャンプや村からの帰路で、あるいは夜をひとりで過ごしながら、時折、あの言葉がやってくる。
今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない…。
支援の現場で、この眼で直接に見えるにもかかわらず、しかしこの眼で直接に見えるからこそ、この言葉の大切さが感じられる。
「日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなること」と、ぼくはじぶん自身に向かう。
それでも、いろいろな状況と環境の中で、「他者」が見えなくなったことはあったと思う。
だから、森崎和江の言葉は、今でもぼくの心の中に、時折、現れる。
ここ香港にいて、たくさんの「人」に向き合ってきながら、後半の部分に「重点」が置かれる形で、それはぼくにやってくる。
「日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなる」という言葉だ。
生活を営みながら、仕事をしながら、ぼくはじぶんに言い聞かせる。
今思えば、ぼくの生きる過程に沿う仕方で、森崎和江の言葉におけるぼくの「重点」が移行してきたようだ。
初めは「草の存在が見える人間になりたい」ということからはじまり、それから支援の現場で焦点は「今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない」に移る。
その内に、「日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなる」という言葉がぼくの生きる道ゆきを照らすようになる。
そうして今、ぼくは、いわゆる「教育」ではないけれど、文章を書き「他者に伝える・共有する」ということをしている。
けれども、そのことは翻って、ぼく自身に向かって語られてもいる。
今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない、と。
「多様性」を創出することの手前で。- 自分の経験の多様性を、自分の内面の土壌に植えること。
「多様性」ということが、言われる。例えば、組織作りでは、組織の内部に多様性をつくりあげてゆくということが言われる。...Read On.
「多様性」ということが、言われる。
例えば、組織作りでは、組織の内部に多様性をつくりあげてゆくということが言われる。
近代から現代にかけて世界を推進してきた「合理化」の企てが社会の全域に貫徹したところで、抑え込まれていた力が声を挙げ、合理化の推進役であった企業組織はその背景に押される形で、「多様性」を組織の中にとりこむ必要性に直面する。
そのことは、近代家父長制システムの解体と共に連動している。
近代を駆動してきた合理化の力は、共同体を解体してきた末に、近代家父長制にもその力を伸ばし、最後に「個人」にまで行き着く。
個人とは英語で「in-dividual」と言われるように、これ以上分けることのできない単位である。
個人に行き着いたところで、個人たちはテクノロジーを得て、テクノロジーや情報によりつくられる空間に、新たな「共同体」をさまざまに創設していく。
このような現代から次の時代に向かう中で、「多様性」は必然のものとして立ち上がってきた。
社会や組織において「多様性を持とう」という掛け声の正しさにかかわらず、その手前のところで、個人として「多様性をもって生きる」ということに関心を注ぎ、実際に生きてゆくことが大切であると、ぼくは考えている。
「多様性を持とう」ということの芯のひとつは、「差異」を受け入れていくこということである。
同質性(それも特定の同質性)だけでなく、「差異」にひらかれてゆくマインドをもつことである。
そのようなマインドを持つことを「心がけること」は方法の一つである。
しかし、ぼくは、心がけることと共に(あるいはそれ以上に)、「差異」を生きることで、自分の中に描かれる「世界像」に差異を取り込んでゆくことが肝要だと思う。
個人として、多様性を生きて、多様性に豊饒化された「内面」をもつことである。
「多様性を生きる」とは、具体的には、いろいろな人たちに会ったり、いろいろな人たちと過ごしたり、いろいろな「立場」で生きてみたり、いろいろな場所で過ごしてみたり、ということである。
ぼく個人を振り返ってみても、随分と、「いろいろ」を生きてきたなぁと、思い返すことができる。
アルバイトでは、レストラン、レストラン&バー、デパート、工場など、いろいろな人たちに出会って、一緒に働いた。
先進国の人たち、途上国の人たち、難民の人たち、いろいろな国や人種の人たちなどに出会い、関わってきた。
仕事も、NPOの仕事から民間企業の仕事でいろいろな人たちと仕事をし、公的機関の人たちともプロジェクトを共にしてきた。
戦争・内戦や紛争を生き抜いてきた人たち、心や身体に傷を負ってきた人たち、都市生活の「豊かさ」の中で悩む人たち、都市の先進性に生きる人たち、伝統的な社会に生きる人たちと一緒に活動をしてきた。
会社員として働く人たち、経営者として働く人たち、起業した人たち、仕事が見つからない人たち、仕事先さえない人たち、などなど。
実に、「いろいろ」を生きてきたことを思い出す。
気をつけることは、人や場所などに「ラベルを貼ること」(カテゴリー化してしまうこと)の危険性を念頭に、「個人と個人」として出会ってゆくことである。
ただし、「個人」は、ただ単体として自立的に存在するのではなく、社会や立場や環境や置かれる状況等に「創られる」存在でもある。
これら「いろいろ」が、ぼくの内面に創られる「世界像」を構成し、その「世界」を豊かにしていく。
でも、「豊か」であるということは、問題が起きないわけではないし、むしろ「矛盾」をいたるところにつくっていく。
だから、いろいろな人たちの立場や状況を想像することで、よく悩むことにもなるし、一様に決断できないときもあるし、矛盾を生きていくことになる。
矛盾はしかし、「何か」を生んでいく力の源泉となると、ぼくは思う。
同じように、社会や組織に「多様性をつくる」ことで、多様性による豊かさを生むと共に、問題点や矛盾に、ぼくたちは投げ込まれる。
心やマインドをひらくだけでなく、これらの問題や矛盾をよりよいものに変えていく意志と楽しむ力が求められる。
そのためにも、「多様性を持とう」の掛け声の手前のところで、ぼくたちが個人として「多様性を生きる」ことで、自分の経験の多様性を自分の内面の土壌に植えることが大切である。
経験の多様性を植えられた内面の土壌に水を与え続けることで、実際の「世界」で、たくさんの<豊かさ>を創出してゆくだろうと、ぼくは思う。
「作るっていうか、生まれるんですね」(黒澤明)から「芸術は爆発だ」(岡本太郎)にみる創造の本質と感動の条件。
昔、テレビで黒澤明へのインタビュー映像を見ていて、「映画づくり」について、黒澤明は次のように語っていた。「作るっていうか、生まれるんですね」...Read On.
昔、テレビで黒澤明へのインタビュー映像を見ていて、「映画づくり」について、黒澤明は次のように語っていた。
「作るっていうか、生まれるんですね」
当時「ほんとうのもの」を求めながら、ぼくは「創造」ということの本質に<関心のアンテナ>がはられていた。
世界の人たちに「感動」を生むような仕事=作品の条件のひとつが、そこに開示されているように、ぼくには聞こえた。
それは、まるで、<自我の稜線>を越え出てゆくような精神の運動である。
そんなことを、芸術家の岡本太郎の「言葉」に耳をかたむけながら、思い出した。
岡本太郎の「言葉」として一般に流通したのが、「芸術は爆発だ」という言葉である。
この言葉と岡本太郎の出で立ちだけが、表層的に、岡本太郎に対する大衆イメージをつくっていった。
この言葉はいろいろに語ることができる。
その一つの諸相として、黒澤明の語る「生まれるんですね」ということと重層する創作プロセスのことを、「爆発」とう言い方で言語化したものと言えると思う。
「作る⇨生まれる」という創作プロセスにおける、いわば「⇨生まれる」の部分の出来事である。
岡本太郎は、彼と親交があったフランスの思想家ジョルジュ・バタイユの思想の本質のように、「どこまでもあふれでる生命力」でもって、何事にも「ぶつかる」存在であった。
だから、「芸術は爆発」ということは、「芸術」を超えて、<生き方の芸術>へとひろがっていかざるをえない岡本太郎の生そのものを意味している。
岡本太郎は、このような言い方をしている。
人間として最も強烈に生きるもの、
無条件に生命をつき出し、爆発する。
その生き方こそが、芸術だ。
岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
このような、いわば<自我の稜線>を越え出てゆく人間とその作品が、世界のあらゆる人に届き「感動」を生んでいく。
岡本太郎は、「ほんとうに感動したら…」という言葉に続けて、「あなたの見る世界は色、形をかえる」(前掲書)とも述べている。
ぼくたちには誰にも、<自我の稜線>を越え出る力、そして感動する力が備わっている。
岡本太郎とバタイユと「フランスのパリ」という共通項をもつ、フランスの哲学者ベルクソン。
彼は「創造的活動」に触れる中で「精神の力」について、次のように書いている。
…もしも、精神の力というものが存在するのならば、その精神の力がほかのものから区別されるのは、まさしく自分が持っている以上のものを自分自身から引き出す働きによってではないでしょうか。…
ベルクソン『世界の名著:ベルクソン』(中央公論社)
黒澤明、岡本太郎、バタイユ、ベルクソンといった「師」たちが指し示してくれる<地点>に、ぼくはどこまでもあこがれる。
パリで、20代の岡本太郎が学んだこと。- 岡本太郎著『壁を破る言葉』にみる「のり超えの痕跡」。
芸術家・岡本太郎の妻である岡本敏子が構成・監修を担当した、岡本太郎の著作『壁を破る言葉』。岡本太郎の「言葉」が、まるで芸術作品のように並んでいる。...Read On.
芸術家・岡本太郎の妻である岡本敏子が構成・監修を担当した、岡本太郎の著作『壁を破る言葉』(イースト・プレス)。
岡本太郎の「言葉」が、まるで芸術作品のように並んでいる。
目次は、「自由」「芸術」「人間」とシンプルに構成され、それぞれのテーマごとに、岡本太郎の「言葉」が存在感を放っている。
この「人間」の章における最後の方に、次の言葉が置かれている。
ぼくはパリで、
人間全体として生きることを学んだ。
画家とか彫刻家とか一つの職業に限定されないで、
もっと広く人間、全存在として生きる。
これがぼくのつかんだ自由だ。
岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
1911年に生まれ1996年に他界した岡本太郎は、世界で生ききってきた人間である。
岡本太郎がパリに渡ったのは1930年だから、ほぼ20歳で、そこから10年ほどをパリで過ごしたという。
つまり、20代を、岡本太郎はパリに生きたのだ。
その経験から学びとったものとして、岡本太郎は上記のような言葉を残している。
この言葉に込められたこと。
人間として、ぼくはとてもわかるような気がする。
ぼくは20代の後半を西アフリカのシエラレオネと東ティモールに生き、そして30代を香港に生きた。
その過程において、「もっと広く人間、全存在として生きる」(岡本太郎)空間へと、ぼくは押し出されてきたように感じる。
気がつくと、「生きる」という、大きなテーマのところに行き着いている。
大きいテーマであることは承知で、しかし、強力な重力にひっぱられるように、この大きなテーマの前に立たされているようだ。
人間全体として生きること。
そのように生きる人たちに出会ってきたこともあるし、ぼくが<人間全体>で向き合わないとやっていけないような場に生きてきたこともある。
それでも、存在の小ささのようなことを感じてしまうときもある。
そのようなとき、岡本太郎は次のように言葉をかけるのかもしれない。
自分の限界なんてわからないよ。
どんなに小さくても、未熟でも、
全宇宙をしょって生きているんだ。
岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
この著作は、タイトルにあるように、「壁を破る」ヒントがいっぱいにつまっている。
「ものを創る人」が必ずゆきづまり、壁にぶつかったときにこの書を開いてほしいと望みながら、岡本敏子は「あとがき」で次のように書いている。
…岡本太郎の言葉は簡潔だが、自身の血をふき出す壮烈な生き方に裏打ちされている。理屈ではない、説教でもない。彼のナマ身がぶつかり、のり越えてきた、その痕跡なのだ。…
岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
理屈でもない、説教でもない、と岡本敏子は言葉をつぎ足しながら書いている。
人間全体として、全宇宙をしょって生きてきた岡本太郎の「ナマ身」にかけられた、ひとつの生。
岡本太郎が、パリで、何を経験し、何を感じ、どうのり越えたのか。
ぼくは、<ひとつの生の歴史>を紐解きたくなる。
この世界で「ナマ身」でぶつかればぶつかるほど、岡本太郎の「のり超えの痕跡」としての言葉が、この心身の深いところに響いてくる。
生き方の方向性や行動を選ぶ「基準」( 快楽、利得、正邪、善悪…)について。- <気流の鳴る音>が聞こえるか。
生き方の方向性や行動を選ぶ「基準」というものは、人それぞれが、それぞれの生の中で、意識的にあるいは無意識的にもっている。...Read On.
生き方の方向性や行動を選ぶ「基準」というものは、人それぞれが、それぞれの生の中で、意識的にあるいは無意識的にもっている。
ぼくが勝手に師とする社会学者の見田宗介は、著作集(『定本 見田宗介著作集X』)の中で、自身の「基準」に触れている。
社会学における社会理論や価値意識などの精緻な研究を続けてきた見田宗介は、「じぶんはどうか?」と問われたりする中で、しっくりとこない経験をする。
基準となりうるような、快楽、利害、善悪、正義/不正(正邪)等のどの基準も、自分に合わない。
そのうちに、現実を生きていく中で、ある時期から、非常に明確に感知できるようになる。
しかし、「簡潔な二字熟語」では表現できず、長くなってもよいからということで表現をしようとして、次のようなところに行き着く。
●<気が充ちる/気が涸れる>
●<気が澄む/気が濁る>
●<気が晴れる/気が曇る>
見田宗介は、次のように言葉を届けている。
…気が涸れること、気が濁ること、気が曇ることはやらない。「わがまま」と言われても拒否する。気が充ちわたるような方向、気が澄みわたるような方向、気が晴れわたるような方向を必ず選ぶ。「気」というものがどういうものか、現在の科学は正確に定義することができない。精神か身体かといえば、精神であり、身体である。利己か利他かといえば、利己であり、利他である。また、どちらでもないものでもある。けれども、<気が充ちる/気が涸れる>、<気が澄む/気が濁る>、<気が晴れる/気が曇る>という現象は明確に存在している。そして、気が充ちわたるような方向、気が澄みわたるような方向、気が晴れわたるような方向を選択すれば、大きい方向性としてまちがえることはないとわたしは考えている。…
見田宗介『定本 見田宗介著作集X 春風万里』岩波書店
この挿話を聞きながら、ぼくたちは、じぶん自身に問うことができる。
じぶんの「生き方の方向性や行動を選ぶ基準」は、どのようなものであるだろうか?
見田宗介の経験から、ぼくたちは、いくつかのヒントを拾い出しておくことができる。
第1に、人は、「基準」を最初からもっているわけでは必ずしもなく、生きていく過程で、感知し、言葉化していくことができる。
最初から明確に「基準」をもつような人もいるけれど、生きていく過程で、しぼりだされ、浮かび上がってくるようなものでもある。
第2に、しっくりくるまで「じぶんの言葉」で表現をこころみること。
言葉を、じぶんの精神と身体の「土壌」にひたしてみることである。
第3に、「基準」でじぶんをしばるわけではないが、方向性を確認するものであること。
基準がほんとうに「じぶんの言葉」であれば、それはきっと、大きな方向性へと導いてくれることである。
ぼく個人のことはというと、やはり関心を持ち続けてきて、生きてゆく過程のその時どきで、基準(=言葉)と行動を常に行き来しながら、「じぶんに合うか」を確かめてきた。
いっときには、例えば、「チャレンジングか/チャレンジングではないか」などを、ぼくは採用してきた。
しかし、基準と行動の行き来(=フィードバック)の中で、しっくりこないものを感じつつ、一生懸命に、精神と身体双方に合うような言葉をさがしてきた。
そのうち、ぼくは「長くなってしまう形」で、<個人ミッション>へと昇華させてきた。
<個人ミッション>
子供も大人も、どんな人たちも、
目を輝かせて、生をカラフルに、そして感動的に
生ききることのできる世界(関係性)を
クリエイティブにつくっていくこと。
<個人ミッション>に沿うかどうかを、ぼくは「生き方の方向性や行動の基準」としている。
そう考えた後で、しかし、より簡潔な言葉をさがしてみる。
ぼくはじぶんの記憶をさぐり、何を「基準」としてきたのかと、さらに思考を重ねる。
<個人ミッション>に通底するようなものとして、ぼくは、ひとつ思い当たる。
それは、<気流の鳴る音>だ。
見田宗介が真木悠介名で書いた著作のタイトルである。
20歳を超えたところで、ぼくはこの名著に出会い、ぼくの内側が開かれていくのを感じた。
生き方や行動を選ぶにおいて、「気流の鳴る音」が聞こえるかどうか。
「気流の鳴る音」は、<はじまりの音・気配>である。
「気流の鳴る音」は、<新しい風をかんじさせる音・気配>である。
「気流の鳴る音」は、<生きるリズムがきこえる音・気配>である。
ぼくは、耳をすます。
そこに、「気流の鳴る音」が聞こえるかどうか。
気流の音が聞こえるとき、そこに、はじまりがあり、新しい風がふきぬけ、生の躍動がこだまするのだ。
「125歳まで生きるためには…」と、じぶんに問いかけてみること。- 「人生の時間軸」を切り拓いて気づくこと。
片岡鶴太郎(肩書きはタレント・俳優・画家・書家・ヨーギなど)は、「125歳まで生きること」を目標のひとつとしている。...Read On.
片岡鶴太郎(肩書きはタレント・俳優・画家・書家・ヨーギなど)は、「125歳まで生きること」を目標のひとつとしている。
著作『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる』(SB新書)で、朝(夜中)に起きてから6時間かけて、一日をはじめる「準備」をする様子が書かれている。
ヨガにはじまり、瞑想、それから2時間かけての食事(一日一食)と続く。
その片岡鶴太郎が「125歳まで生きること」を目標としていることを公言している。
他方で、昨年に出版されたLynda Gratton & Andrew Scottの著書『The 100-Year Life: Living and Working in an Age of Longevity』(日本語訳『LIFE SHIFT(ライフシフト)』)が、読者を獲得し、メディアでも取り上げられてきたことで、「100年時代」というキーワードが日本では一般的に使われ始めている。
平均余命のトップ1・2を日本と分かち合う、ここ香港では、「100年時代」的なキーワードは特に一般化されてはいないようだ。
日本政府の資料や香港政府の資料などを見ると、2060年予測には、平均寿命や平均余命において「90歳代」(女性)の数値が現れる。
これまでの「最高年齢」をネット検索していると、122歳という方がいらっしゃったりする。
その他、人間は何歳まで生物学的に生きることができるのか、という記事やブログが、ネット検索でもいろいろにひっかかってくる。
遺伝子の視点なども含め、いろいろな説があるようだ。
片岡鶴太郎が公言する「125歳の目標」は、とんでもない数値目標ということでもなさそうだ。
だから、ぼくも「100年時代」だから「100歳」とはせずに、片岡鶴太郎式に数値目標を上げることにした。
現状は、125歳に3歳足して、「128歳」というように、ぼくは「人生の時間軸」を切り拓くことにした。
目標を大切にしながらも、その道ゆきを楽しむものとしての目標数値である。
何よりも、そのように設定したときの「自分の気づき」や思考の仕方、それから日々の生き方(実践)を大切にするために、ぼくは「人生の時間軸」を引き伸ばしてみることにした。
別に、125歳や128歳を勧めるわけではないけれど、思考実験として試すことは、誰でもできる。
片岡鶴太郎式に、例えば「125歳まで生きる」としたら、じぶんは、日々どのように生きていくだろうか、と。
そのときに引き入れておくべき「補助線」は、「健康寿命」である。
「健康寿命」とは、健康的に日常生活をおくることのできる期間のことである。
ぼくは、寿命と健康寿命が重なるようにして、考えてみる。
40歳を超えたぼくとしては、80年以上をどのように健康的に生きていくことができるかと、じぶんに問うことである。
ぼくは、たくさんの「気づき」を得ることになる。
ひとつには、やはり、じぶんの「思い込み」である。
ぼくは、小さいころから漠然と、平均寿命といわれる80歳くらいまで生きるという「思い込み」の中で、人生を組み立て、生きてきたことである。
40歳は人生の「折り返し地点」などと、じぶんの身体に相談もせず、じぶん勝手に思ったりしたことだ。
その考え方と思い込みの中で、じぶん(じぶんの身体)を大切にして来なかったようなところが、128歳まで生きると決めてから、より明確に「見えてくる」ようになる。
人は、この話題になると、二者択一的な議論を展開しがちだ。
- 太く短い人生
- 細く長い人生
人は本来の「生」を、このように「狭い議論」の中におしこめてしまう。
「じぶんは長生きするつもりはなく、太く短い人生でいいんだ」と、二者択一的な思考の中で、「選択」してしまう。
生きることは「選択」である。
かつては「太く短い人生」に憧れたぼくは、今でこそ、「太く(深く)長い人生」もあるという確信の中で、そのような人生を生きたいと思う。
ただ「選択」するところから、「生」は本来の豊饒さを開いていく。
ぼくは、たくさんの本を読みたいし、たくさんのこともしたいし、火星に移住する人たちと同時代を生きたいし、人工知能が生活にとけこんだ社会も生きてみたい。
近代・現代の後の「次なる時代」を構想し、その「次なる時代」へつながる橋渡しに生き、「次なる時代」を生きたい。
「125歳まで生きるために」という思考とそのような生き方の選択は、何よりも、「じぶんを大切にすること」への思考と実践へと、じぶんを開いていくことの戦略と戦術である。
「じぶんを大切にすること」で、じぶんがもつギフトをもっと他者に与えられることへと、じぶんを開いてゆく。
「他者」は、同時代に生きる人たち、子供たち、将来に生まれでてくる人たち、それからこの地球の自然や動物や生物にまで射程がひらかれる。
「125歳」というはるか先を見すえたはずなのに、視点と実践はいつのまにか、「今、ここ」にそそがれていることに、ぼく(たち)は気づく。
「今、ここ」のじぶんや他者への暖かく冷静な心と行動が、「125歳」までの豊饒な道ゆきをつくりだしていくのだから。
「Happiness」だけに人生を押し込めないこと。- Emily Esfahaniの提示する「意義ある人生の4つの柱」。
「TED Talks」にて、Emily Esfahani Smithが「There’s more to life than being happy」というタイトルで、聴衆に言葉を届けている。...Read On.
「TED Talks」にて、Emily Esfahani Smithが「There’s more to life than being happy」というタイトルで、聴衆に言葉を届けている。
タイトルにあるような大きな内容が12分のプレゼンテーションに凝縮されていて、その凝縮のされようが美しい。
Emily Esfahaniのモチーフは、自身が「幸せを追い求めること」でたどり着いた地点が、「心配とさまよい」の地点であったことである。
そのことは、自分だけでなく、周りの友人たちもそうであったという。
そこで、Emilyは大学院で「ポジティブ心理学」を学ぶことにし、そこから人生をきりひらいていく。
データが示すのは、幸せを追い求めることで、人は不幸せになっていくこと。
アメリカや世界では自殺者が増え、社会の豊かさの見かけに反して、人びとには希望がなく、鬱的で、孤独である。
研究が示すのは、幸せが欠如しているのではなく、「有意義な人生を生きること」の欠如である。
心理学者たちが、「happiness(幸せ)」の定義として「comfort(快適さ)、ease(和らぐこと・楽であること)、feeling good in the moment(瞬間気持ちのよく感じること)」などを挙げることに触れる。
「meaning(意義)」については、心理学者セリグマンに言及し、「意義は自分よりも大きな何かに所属し貢献し、自分の中のベストなものを発展させることから来る」とする。
Emily Esfahaniは、幸せと意義の違いとは何か、また「どのようにしたら有意義な人生を生きることができるのか?」という設問を立てて、研究を重ねていくことになる。
彼女の研究の成果は、「意義の4つの柱」として提示される。
- Belonging (所属感)
- Purpose (目的)
- Transcendence (超越的)
所属している感覚、目的をもつこと、それからいわゆる「フロー状態」のように極めて集中するような状態をもつことである。
Emily Esfahaniは例をあげながら、きわめてコンパクトに話を展開している。
そして、通常人を驚かせるという「4つ目の柱」に触れてゆく。
4. Storytelling (物語)
自分を語ること、自分を物語として語ることである。
ぼくは、驚きというより、「そうきたか、うまいなぁ」と感じた。
「Storytelling (物語を語ること)」については、ぼくも極めて大切にしている。
よりよく生きていくためには、なくてはならない要素だ。
彼女が言うように、人生はイベントのただのリストではなく、人は生きることの物語を編集し、解釈し、言い直すことができる。
それは、とてもパワフルだ。
そして、より正確には、実は誰もが「物語」をもっている。
意図していようがいまいが、程度の差はあれ、「物語」がある。
その「物語」をどれだけ彩ることができるかに、ぼくたちの人生はかけられている。
そのように彩られた物語の例としてEmily Esfahaniがプレゼンテーションの最後に挙げる「物語」に、ぼくは心をひかれる。
哲学者ハンナ・アーレントの著書『人間の条件』のどこかの章の冒頭に、エピグラフとして掲げられている言葉の意味が、ぼくの中に強く残っている。
それは、大体、このような言葉だ。
「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、耐えられる。」
その言葉は、例えば、西アフリカのシエラレオネで内戦の傷跡が圧倒的な風景で、ぼくの中に思い起こされた。
東ティモールでも、同じだった。
だから、「プロジェクト」という形での国際支援であれ、ぼくはそこに「物語」を組み込みたかった。
言葉に尽くせない「悲しみ」の風景の中で、かすかであっても、関わる人たちの中に「希望の物語」が育まれていくことを願って。