秋から冬にかけての「真夏の果実」。- ニュージーランドで聴くサザンオールスターズの記憶。
レストランのスピーカーから、サザンオールスターズの曲のイントロが、ぼくの耳にはいってくる。静かなイントロだ。だれしもが知っている曲だけれど、ぼくは「曲名」を知らない。...Read On.
レストランのスピーカーから、サザンオールスターズの曲のイントロが、ぼくの耳にはいってくる。
静かなイントロだ。
だれしもが知っている曲だけれど、ぼくは「曲名」を知らない。
日本食のレストランでウェイターの仕事をしながら、スピーカーから流れる「日本の歌」に、ときおり懐かしさのようなものを感じる。
1996年、ぼくは大学を休学して、ニュージーランドに渡った。
ワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドに渡り、ぼくは、商業都市であるオークランドの日本食レストランで、運良くウェイターの仕事を得ることになった。
オークランドの中心街、海の近くにある日本食レストラン。
オーナーは韓国人、シェフは台湾人と中国人、ウェイター・ウェイトレスが日本人という、不思議な構成だ。
ぼくはニュージーランドに渡る前は、東京のカフェレストランで働いていたから、ウェイターという仕事そのものにおいては問題なかった。
やりとりは英語だから、ときおり日本食の説明にとまどったけれど、ぼくはとにかくよく働いた。
ワーキングホリデーの「ホリデー」はどこへやら、「ワーキング」が生活の主要な活動になっていった。
その日本食レストランで、バックミュージックに使われていたのが、日本のポップミュージックであった。
当時は、今では見かけない、カセットテープにふきこまれていた。
1980年代の「少し古い」音楽が流れる。
普段なら聞き流してしまうような曲たちも、異国の土地では、とてもいとおしい音色をひびかせる。
そんななかで、サザンオールスターズの曲の響きはとりわけ、ぼくの心を捉えていた。
静かなイントロに続き、「♫ 涙があふれる 悲しい季節は…」と、桑田佳祐の歌声が店内にひびいてゆく。
後に、ぼくは曲名が「真夏の果実」であることを知る。
南半球に位置するニュージーランドは、日本と逆で、ちょうど秋から冬にかけて季節が移り変わるときであった。
「真夏の果実」は、なぜか、ぼくのなかで「海外の風景」との親和性がたかい曲である。
東ティモールに住んでいたときも、それからここ香港でも、ぼくは「真夏の果実」のメロディーと歌声が、風景にしぜんと重なりあうのを感じてきた。
気がつけば、ここ香港も、ようやく秋が深まりつつあるところで、「真夏の果実」は夏が終わったところで(も)、ぼくの心にふれてくる。
これらそれぞれの空間に、無理やりに「共通点」を見つければ、<海>がいつも、ぼくの目の前にひろがっていた。
オークランドの海と港、東ティモールのディリと共にある海と港、それから香港をかたちづくり彩る海と港。
そこにはいつも<海>の風景があり、すこやかな風が吹いていた。
人は「(世界どこでも)みんな同じ」か「文化によって違う」か、という、問いと思考。- 普遍性と異文化について。
人は「みんな同じ」か「文化によって違う」か、という、問いを、ぼくたちはじぶんに投げかけたり、あるいは友人や同僚などとの会話の中でたずねたりする。...Read On.
人は「(世界どこでも)みんな同じ」か「文化によって違う」か、という、問いを、ぼくたちはじぶんに投げかけたり、あるいは友人や同僚などとの会話の中でたずねたりする。
「人はどこでも、やっぱり人だよ」という意見もあれば、「◯◯人は…だよ」というように文化による違いを強調するような意見もある。
言葉を変えれば、普遍性なのか、異文化的なのか。
さて、どうだろうか。
このような意見が交錯する会話を聞いていたもう一人は、もしかしたら、次のように言うことで、この問いを「解決」しようとするかかもしれない。
「人は、だれもがひとりひとり異なると思う」
人は誰もが同じという普遍性でもなく、文化によって異なるというカテゴリーをあてはめるのでもなく、「個人」に焦点をあてて「みんなが違う」という方向性に解決の方向性を見つけてゆく。
この意見を聞いて考え直して、さて、どうだろうか。
上記のような問いはいろいろな文脈において、ぼくたちがそれら問いを発したり、議論したり、意見したりしている。
日々のちょっとした会話から、仕事から、学術的なところに至るまで、いろいろにである。
それら問いにたいして、大抵は「漠然とした考え・思考」をもっていたりするのだけれど、それはあくまでも「漠然としたもの」である。
問いを発したり、あるいは答えたりする人それぞれの信念や論理、またそれぞれの経験にもとづき、問いや回答はいろいろである。
ぼくからは「視点」だけにしぼって、そのいくつかを提示しておきたい。
(1)「平面」だけで考えないこと
ぼくたちの思考は、平面的にまた往々にして二分法的(…か…か)に考えてしまうようなところがある。
世界の人たちはみんなやっぱり人として同じなのか、文化ごとに違うのか、というように。
でも、この二つは、平面的に考えるものではなくて、「重層的」なものである。
どちらも、人それぞれに、重層的に存在しているものである。
「現代の人間」ということを見ていくときに、社会学者の見田宗介は、「現代人間の5層構造」ということを書いている(参照:見田宗介『社会学入門』岩波新書)。
【現代人間の5層構造】
④ 現代性
③ 近代性
② 文明性
① 人間性
⓪ 生命性
これら「5層構造」にふれて、見田宗介は読者に次のように語りかけてくる。
…人間をその切り離された先端部分のみにおいて見ることをやめること、現代の人間の中にこの五つの層が、さまざまに異なる比重や、顕勢/潜勢の組み合わせをもって、<共時的>に生きつづけているということを把握しておくことが、具体的な現代人間のさまざまな事実を分析し、理解するということの上でも、また、望ましい未来の方向を構想するということの上でも、決定的である。
見田宗介『社会学入門』岩波新書
この理解が次の点につながってくる。
(2)「みんなが違う」という見方
「現代人間の5層構造」だけを見ても、見田宗介が教えてくれるように、これら五つの層が「さまざまに異なる比重や、顕勢/潜勢の組み合わせをもって、<共時的>に生きつづけている」ことからくる、無限の発現のされ方がありうる。
比重や組み合わせは無限的であるからだ。
ちなみに、「みんなが違う」という見方と「みんなが同じ」という見方は、「平等」ということを考えるときの二つの考え方である。
「平等」をおいもとめてゆくときに、わかりやすいところでは「みんなが同じ」という仕方でおいもとめてゆくことができる。
それは、ある意味とある文脈において、日本的な仕方であった。
しかし、魅力的なのは、「みんなが違う」という方向につきぬけてゆく仕方である。
最近使われる言葉で言えば、「多様性 diversity」の方向につきぬけてゆく仕方である。
ただし、今現在の「多様性 diversity」は、「カテゴリー」を増やしていくところにとどまっているのだけれど。
(3)異文化を視る視点
「みんなが違う」という見方をしながらも、「異文化」が人それぞれに顕勢/潜勢する<層>はある。
社会や法やモラルや宗教などの文化の構造とコードが、そこにいる人たちをある「型」へと導いてゆくようなところがある。
それらの比重や、顕勢/潜勢の組み合わせは、人さまざまだけれど、やはり文化的な現れは、場面場面でおきてくるのだ。
さらには、時代や時代の価値観などの異なる「層」も組み合わさるため、より複雑にみえたり、実際に複雑だったりする。
海外に長くいながら、やはり「日本的な文化の層」がぼくにはあることを感じてきた。
でも、それは、あくまでもひとつの層である。
いくつかの視点を提示したけれど、まずは、普遍か文化かというように「平面的に見ること」から、<重層的に見ること>へ移行すること。
現在は、Virtual RealityやAugumented Realityなどの技術と視界がひらけてきている一方で、<重層的に見ること>は、世界が<ほんとうのグローバル社会>になっていく上で、ぼくたちが<Reality>を見るために身につけておく大切な<視力>であるように、ぼくは思う。
英語の「takeaway」という言葉を最近よく聞いたり見たりして考える。- 「教科書」と「教科書ではない本」という比較から。
最近、英語のポッドキャスト(podcast)を聞いているとき、英語の講義・セミナーなどの動画を観ているとき、さらに英語のブログなどを読んでいると、「takeaway」という言葉をよく聞いたり、目にしたりする。
🤳 by Jun Nakajima
最近、英語のポッドキャスト(podcast)を聞いているとき、英語の講義・セミナーなどの動画を観ているとき、さらに英語のブログなどを読んでいると、「takeaway」という言葉をよく聞いたり、目にしたりする。
言葉が語られる文脈を考慮せずに「takeaway」と聞くと、店舗やレストランでオーダーする「持ち帰り用の料理」などのイメージが湧いてくる。
「持ち帰り用の料理」という意味での「takeaway」は英国の英語である。
米国の英語では「take-out」であり、日本では「テイクアウト」がカタカナで使われたりするから、こちらの方がなじみがあるだろう。
でも、ぼくが最近聞いたり、観たり、読んだりする「takeaway」は、料理とは関係がない。
グーグル翻訳(英英辞書)では、下記のように定義される意味だ。
【takeaway】
● a key fact, point, or idea to be remembered, typically one emerging from a discussion or meeting.
例文:“the main takeaway for me is that we need to communicate all the things we’re doing for our customers”
ポッドキャストにおけるインタビュー、自己発展・自己啓発系の講義やセミナーの要点まとめ、ブログにおいて何かからの学びのポイントなどを語る際に、「takeaway」という言葉が使用されるのだ。
語源を詳細には調べきれていないけれど、この定義自体は新しいものではないようである。
現在において「言葉の使用法」と「使用される場」ということで考えると、なかなか面白いものである。
「言葉の使用法」ということで言えば、あくまでもぼく個人の語感においては、言葉の「重さ」がとれ、「気軽さ」の語感がわいてくる。
どうしても「持ち帰り料理」的なイメージがわくからということもある。
その点から、「使用される場」ということを考えても、どちらかというと口語的な気軽さが伴う場で使われているように見られる。
必ずしも話される言葉ではないけれど、学術書や論文などでは、まだ見た覚えはない。
学者が書く一般読者向けの本などでは使われることもあるだろうけれど、フォーマルな文書ではやはり避けられるのだろう。
この「気軽さ」が、生きることや自己啓発などの若干重いテーマにおいて、聞く側や読む側に気持ちの余裕のようなものをつくるように思われる。
少し余裕をつくる言い回しの中で、話し手や書き手は、「takeaway」として要点やまとめをとても上手く引き出して、語ったり書いたりしている。
ただし、そのように語られたり書かれたりするものは、往往にして、点としての「知識」や「情報」などである。
要点やまとめが、教科書的にまとまりすぎてしまうことがあるのだ。
社会学者の若林幹夫は「教科書と、教科書でないテクスト」という文章の中で、示唆に富むことを書いている。
…教科書は、ある学問においてこれまで研究され、書かれ、議論されてきたことがらのうち、すでにある程度標準的な見解として一定の評価を得ていることを集め、整理し、解説し、あるいは読者の思考をそうした理解へと導こうとする。そうした書物は、ある学問領域においてすでに考えられて、すでに知られていることを、それらをいまだ知らない人びとのための「情報」として紹介し、提示する。それに対して「教科書ではない本」は、すでに考えられ、知られていることではなく、書き手が新たに何かを考え、明らかにしようとする過程が書かれた書物のことだ。
若林幹夫『社会(学)を読む』弘文堂
「教科書ではない本」は、社会学の古典であるマックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などを指している。
「教科書」は、この書籍の中から、学界内などで常識化された「知識」や「情報」がとりだされて書かれている。
しかし、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などの本は、教科書的な要約におさまりきらないものを「過剰に」もっている。
…教科書はすでにわかったとされることを簡潔に伝えるのに対し、これらの書物は書き手にとっていまだ明らかではないことを明らかにしようとする過程や、それまで考えられなかったことを何とか考えようとした過程が描かれているのだ、と。それゆえそうした書物にとって重要なことは、「わかったこと」それ自体ではなく、「わからないこと」と、それを何とかして「考え、わかろうとする過程」なのだ。
思考は過程(プロセス)であり、知識や情報はその結果(アウトプット)である。…ある学問を学ぶとは、その学問が明らかにしてきたことを知識や情報として知るだけではなく、その学問を用いて世界を理解することができるようになるということだ。…
若林幹夫『社会(学)を読む』弘文堂
「takeaway」と呼ばれるまとめは、知識や情報として重要であるけれど、それだけを知って理解することだけでなく、インタビューやセミナーや文章における「過程(プロセス)」も一層大切だと、ぼくは思う。
普通の学校教育に慣れ親しみすぎていると、どうしても知識や情報一辺倒になってしまい、考えるプロセスが抜けがちになってしまう。
知識や情報は「点」的なものになりがちで、点や線をつないでゆく考えるということの「全体的な視野や構造」が見えないのだ。
だから、双方を大切にしていくことである。
ぼくが耳にし目にする「takeaway」は、そうすることで、聞いただけ、見ただけで終わらせない方法論のひとつだ。
振り返りの中で「takeaway」を明示することで、日常の行動につなげてゆくための、リレー地点をつくる方法だ。
<リレー地点としての点>をつくりながら、しかし、点と線をつなぐ思考を点火しながら、一歩一歩進んで(ときに後退して)ゆくことが、とても大切であると、ぼくは思う。
外国語の言い回しによって「物事の見方・風景」が変わること。- 東ティモールのテトゥン語「matan aat」という<拠点>から。
日本では「10月10日」は「目の愛護デー」。10.10を横にしたときに、目と眉に見えるという、ユーモアの効いた日だ。...Read On.
日本では「10月10日」は「目の愛護デー」。
10.10を横にしたときに、目と眉に見えるという、ユーモアの効いた日だ。
ぼくが子供の頃は10月10日は「体育の日」だったけれど、第2月曜日への移動により状況は変わってしまった。
「人生100年時代」を生きる際の課題のひとつは「目」であり、目の大切さを改めて感じている。
とりあえずは、コンピュータや携帯電話の画面に向かっては、時折休んで、遠くに目をやったりしている。
「目が悪いこと(視力が低いこと)」については、15年程前に東ティモールに住んでいたとき、東ティモールのテトゥン語の語彙を東ティモール人の同僚に投げかけられて、気づかされたことがある。
コンタクトレンズではなく、眼鏡をかけていたから、ぼくの目の視力が低いことは誰もがみてとることができた。
テトゥン語で、その時に投げかけられたのは、次のような言い回しである。
「matan aat」
「matan」は、「目(=eye)」のことである。
形容詞の「aat」は、「悪い・壊れた(= bad, broken)」などの意味合いである。
「matan aat」ぼくの「脳の語彙変換装置」は、「壊れた目/目が壊れている」と訳した。
「壊れた」と訳したのは、こんな事情がある。
東ティモールのハードなオフロードでの移動により、よく車両が壊れるのだが、「車両が壊れた」ということを「kareta aat」という言い回しでコミュニケーションをとっていたからだ。
語彙数の限定的なテトゥン語であるから、そして外国人であるぼくとのコミュニケーションであるから、ひとつの用語がいろいろに使われる(ちなみに、コーヒー豆のよくないものも「cafe aat」として会話していた)。
だから、ぼくの「脳の語彙変換装置」は、「壊れた車両」と言うのと同じように、「壊れた目」と訳したのだ。
「matan aat」は、テトゥン語の教科書などに「blind」として載っていたりするけれど、当時は、目が悪いということで、ぼくたちはコミュニケーションをとっていた。
東ティモールで眼鏡をかけている人は圧倒的に少ない。
東京や、ここ香港とは比較にならないほど、眼鏡をかける人口は少ない。
ましてや、東ティモールの子供たちはまずかけていない(今はどうかわからないけれど)。
ここ香港では、ほんとうに小さい子供たちが、眼鏡をかけている。
日本にいるときには眼鏡をかけていることが「普通」だったのが、東ティモールでは「普通ではない」こととしてある。
あるいは、どこかかっこよさやインテリ的なものを含んだ「見方・風景」から、「そうではない見方・風景」へと、ぼくの<物事を見る眼鏡>を変えてしまう。
東ティモールという環境の中で、「matan aat(壊れた目)」と言われて、ぼくの目に対する「見方・風景」が変わってしまった。
異なる環境で、異なる言語で、ある「同じもの」を語るとき・指し示すとき、その「効果」のひとつとして、物事を見る「見方・風景」を変えてしまうということがある。
それは、とても鮮烈な経験であった。
言語でつくられる「檻」から解き放たれる経験のひとつだ。
今でも、じぶんの目のことに思いをめぐらすときに、このテトゥン語が立ち上がってくることがある。
ぼくたちはこのように、「世界の見方・風景」を変え、もっとひろい「世界」へと視界をひろげてゆくことができる。
ぼくたちが「変わる」ということの拠点のひとつとして、ぼくたちはそこに拠点のひとつをもつことができる。
異国における思いがけない、日本語書籍との出会い(再会)。- 旅先で、赴任先で、異国の生活の中で。
まだそれほど「昔」ではない時代、電子書籍が普及していなかった(確か)8年程前まで、異国で「出会う」日本語書籍は、特別なものであった。...Read On.
まだそれほど「昔」ではない時代、電子書籍が普及していなかった(確か)8年程前まで、異国で「出会う」日本語書籍は、特別なものであった。
バックパッカーでアジアを旅しているときに目にした、安宿に残された日本語書籍。
赴任先で、同僚が残していった日本語書籍や出張者が差し入れで持ってきてくれた日本語書籍や日本語雑誌。
異国で、日本語書籍を販売している書店で、限定された書籍の中で出会う日本語書籍。
世の中に無数にある日本語の本の中から、偶然に、それらの本に出会う。
インターネットが普及していない時代であったから、さらに、それは特別なものとして感じられた。
今の時代は、インターネットが普及し、電子書籍が普及し、どこにいても、大体どんな書籍も、クリックボタンを押すだけで手にいれることができる。
また、ハードコピーの書籍も、オンラインで購入して、日本からアジアの近いところであれば数日で到着してしまう。
この状況が切り拓いてきた、あるいは切り拓いてゆく「世界」から、ぼくたちはほんとうに多くの恩恵を受けることができる。
でも心のどこかで、不便であった「昔」を懐かしく思い、便利さにたいして逆につまらなさのようなことを感じることがある。
だからといって、「昔」に戻るわけではないけれど、あのような「特別さ」を今後感じることはないだろうと思っていたところで、ちょっとしたことだけれど、あの特別な気持ちを呼び覚ますような出来事にでくわすことになった。
先日、作家の辺見庸のことをブログに書いた。
辺見庸の文章に出会ったのは大学時代であった。
辺見庸を「知る」ようになったのは、食から世界の辺境にまでくいこんでゆくノンフィクションの著作『もの食う人びと』であった。
この著作に出会ったのは、アジアへの一人旅をはじめた時期であったから、なおさら、ぼくの深いところに届いた。
ぼくが世界に仕事と生活の場をうつしてから、ぼくは辺見庸の作品から何故か遠ざかっていた。
ところが、ここ数年、また彼の作品世界に足を踏み入れていた。
ブログではそんなことを書いた。
その「声」がどこかで届くように、ぼくは「小さな出来事」に出くわす。
ここ香港で、「小さなリーディング・ルーム」の棚で、著作『もの食う人びと』に再会したのだ。
中国語の本が並ぶ中で、二冊だけ、日本語の本が並んでいる。
その内の一冊が、『もの食う人びと』であった。
まさかの再会であった。
確率論で言えば、その確率は果てしなくゼロに近いだろう。
日本人が寄贈したのかもしれないけれど、それでも、無限にある日本語書籍の中で、この一冊が確かにそこにたたずんでいたのだ。
ぼくは、その「確かさ」を確かめるように、『もの食う人びと』を手に取る。
ページを開き、本の最初に綴じられたカラー写真を確かめる。
確かに、そこには、『もの食う人びと』があった。
これを読んだ人は、ここ香港で、この本をどのように読んだのだろうか、と想像する。
なぜこの本を選び、人生のどのような旅路で、ここ香港で、どのようにこの本を読み、何を考えていたのか。
20年以上を経て再会する『もの食う人びと』の本に、日本を離れ、あるいは日本語が当たり前にある空間を離れたときに感じるちょっとした不安の中で、たまたま出会う日本語書籍に感じた、あの「特別な気持ち」がぼくの中で呼び覚まされる。
取るに足らない、ちょっとした出来事だけれど、ぼくにとっては大切なものを再び拾うような出来事であった。
それにしても、なぜ『もの食う人びと』が、ぼくの目の前に、あのような形で再び姿を現したのだろうか。
それも、ここ香港で。
海外にいて、異郷で出会う「同郷」の人たち。- 「共通性」をもつことの驚きと歓び。
海外にいて、同郷の人たちに出会うことは、時に心が踊る出来事だ。もちろん、まったく共通点のないような他者(例えば、はじめて出会う国の人たち)と出会うことも歓びである。...Read On.
海外にいて、同郷の人たちに出会うことは、時に心が踊る出来事だ。
もちろん、まったく共通点のないような他者(例えば、はじめて出会う国の人たち)と出会うことも歓びである。
そのことを確認しながら、他者との「共通点」があることの歓び、それは例えば海外にいて同郷の人たちに出会うことの歓びがあることを、ぼくは感じる。
こんなことを考えるきっかけは、そもそも、カレー専門家の水野仁輔のプロフィールを見ていたときであった。
「ほぼ日」の糸井重里に「カレースター」と呼ばれる水野仁輔は、「カレーにまつわるあらゆることのスペシャリスト」で、カレーの学校を開いたりと、面白いことをしている。
それで、たまたまプロフィールを見ていたら、「浜松市出身」とある。
少し検索すると、水野仁輔はかつてぼくと同じ高校の出身で、年齢的に見ると一年上の先輩であったことを知る。
彼は別に海外にいるわけではないけれど、より広い社会の中で、共通点として「同郷」を共有することに、ぼくは驚きと歓びをおぼえたのだ。
その検索の過程で、ジャズピアニストの上原ひろみ(Hiromi)が、同じ高校の出身であったということを知る。
ぼくよりも4つ下の代であったから、同じ時期ではないけれど、彼女はぼくと同じ部活「軽音楽部」でロック的な活動をしていたという。
上原ひろみはアメリカ在住だから、例えばぼくが海外で彼女と出会うことがあれば、軽音楽部のことを語るだろうなと、勝手に想像する。
上原ひろみや水野仁輔やぼくが通った高校は、文武両道で、とても自由な校風に彩られるところであった。
その自由さが、日本や世界のいろいろな分野で活躍する人たちの<土壌>を耕したであろうことを、ぼくは思う。
そんなことを考えながら、「海外で出会う同郷の人たち」ということを、ぼくは考えていた。
「同郷」とは、比較的大きく捉えれば「日本人」であり、小さくはぼくの出身である「静岡県」であり、さらに小さくは「浜松市」であり、といった具合だ。
ある意味で、「確率論的な可能性」の中で、出会うことの確率が少なくなればなるほどに、驚きは大きくなる。
西アフリカのシエラレオネにいたとき、当時2002年において、シエラレオネには「日本人」は10名もいなかった。
シエラレオネに日本の大使館はなく、ぼくが所属していたNGOの同僚、それから国連の日本人職員が数名で、総計5、6名であったと思う。
そこで、「日本人」に出会うこと自体が、日本から遠く離れた土地ということもあって稀であり、親密さを感じさせることであった。
東ティモールに移ってからは、「日本人」が増えた。
ぼくの記憶では、自衛隊の人たちを除くと(自衛隊は途中で任務を終えた)、日本人は70名程であったと思う。
「日本人」ということに驚きはなかったけれど、そこで出会う日本人の人たちとの「共通性」があれば、それは驚きと歓びを届けてくれた。
でも、同郷の人にはそれでも出会うことはなかったと思う。
香港に移ると、「日本人」は圧倒的に増えた。
香港内に、2万人ほどもいるという。
その中で、仕事などを通じて、「日本の出身」をよく聞かれたり、尋ねたりしてきたものだ。
ぼくの「実験的な経験」からは、「静岡県」という枠組みになると、実はそれほど多くはない。
ましてや「浜松市」になると、この10年で数名であった。
同じ「中学校」を出身とする方は、1名であった。
でも、この「確率論的な可能性」の低さの中だからこそ、同郷の人たちにお会いすると、驚きと歓びが増すものである。
「翼をもつことと根をもつこと」(真木悠介)という、人間のもつ欲望の両義性がある。
「翼をもつこと」の欲望がまさるぼくは、Global Citizen的に世界で生きていくことにあこがれる。
真木悠介が語るように、地球そのものを「ふるさと」とすることで、この両義的な欲望は共に満たされる。
それでも、ぼくはときに、「根をもつこと」の狭い形式である「同郷」(出身地など)に根ざすような関心と欲望を、じぶんの中にみる。
そこに執着はもたずに、しかし他者との「共通性」を共有することの歓びを感じながら。
そして、翻って「地球そのものをふるさととすること」に戻れば、ぼくたちは誰とでも、<共通性>を分かち合うことで生きていくことができるということでもある。
パリで、20代の岡本太郎が学んだこと。- 岡本太郎著『壁を破る言葉』にみる「のり超えの痕跡」。
芸術家・岡本太郎の妻である岡本敏子が構成・監修を担当した、岡本太郎の著作『壁を破る言葉』。岡本太郎の「言葉」が、まるで芸術作品のように並んでいる。...Read On.
芸術家・岡本太郎の妻である岡本敏子が構成・監修を担当した、岡本太郎の著作『壁を破る言葉』(イースト・プレス)。
岡本太郎の「言葉」が、まるで芸術作品のように並んでいる。
目次は、「自由」「芸術」「人間」とシンプルに構成され、それぞれのテーマごとに、岡本太郎の「言葉」が存在感を放っている。
この「人間」の章における最後の方に、次の言葉が置かれている。
ぼくはパリで、
人間全体として生きることを学んだ。
画家とか彫刻家とか一つの職業に限定されないで、
もっと広く人間、全存在として生きる。
これがぼくのつかんだ自由だ。
岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
1911年に生まれ1996年に他界した岡本太郎は、世界で生ききってきた人間である。
岡本太郎がパリに渡ったのは1930年だから、ほぼ20歳で、そこから10年ほどをパリで過ごしたという。
つまり、20代を、岡本太郎はパリに生きたのだ。
その経験から学びとったものとして、岡本太郎は上記のような言葉を残している。
この言葉に込められたこと。
人間として、ぼくはとてもわかるような気がする。
ぼくは20代の後半を西アフリカのシエラレオネと東ティモールに生き、そして30代を香港に生きた。
その過程において、「もっと広く人間、全存在として生きる」(岡本太郎)空間へと、ぼくは押し出されてきたように感じる。
気がつくと、「生きる」という、大きなテーマのところに行き着いている。
大きいテーマであることは承知で、しかし、強力な重力にひっぱられるように、この大きなテーマの前に立たされているようだ。
人間全体として生きること。
そのように生きる人たちに出会ってきたこともあるし、ぼくが<人間全体>で向き合わないとやっていけないような場に生きてきたこともある。
それでも、存在の小ささのようなことを感じてしまうときもある。
そのようなとき、岡本太郎は次のように言葉をかけるのかもしれない。
自分の限界なんてわからないよ。
どんなに小さくても、未熟でも、
全宇宙をしょって生きているんだ。
岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
この著作は、タイトルにあるように、「壁を破る」ヒントがいっぱいにつまっている。
「ものを創る人」が必ずゆきづまり、壁にぶつかったときにこの書を開いてほしいと望みながら、岡本敏子は「あとがき」で次のように書いている。
…岡本太郎の言葉は簡潔だが、自身の血をふき出す壮烈な生き方に裏打ちされている。理屈ではない、説教でもない。彼のナマ身がぶつかり、のり越えてきた、その痕跡なのだ。…
岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
理屈でもない、説教でもない、と岡本敏子は言葉をつぎ足しながら書いている。
人間全体として、全宇宙をしょって生きてきた岡本太郎の「ナマ身」にかけられた、ひとつの生。
岡本太郎が、パリで、何を経験し、何を感じ、どうのり越えたのか。
ぼくは、<ひとつの生の歴史>を紐解きたくなる。
この世界で「ナマ身」でぶつかればぶつかるほど、岡本太郎の「のり超えの痕跡」としての言葉が、この心身の深いところに響いてくる。
世界のレストランから。- 東ティモールの「廃墟のレストラン」に灯るろうそくの光が記憶を照らして。
世界のいろいろなレストランで食事をしてきた。思い出深いレストランのひとつを取り上げると、東ティモールのディリ市内にあった「廃墟のレストラン」である。...Read On.
世界のいろいろなレストランで食事をしてきた。
思い出深いレストランのひとつを取り上げると、東ティモールのディリ市内にあった「廃墟のレストラン」である。
正確には、廃墟の建物が「レストラン」となっていた。
廃墟は、コンクリートがむきだしで、屋根はなく、破壊された建物の壁と柱が、かろうじて建物の形態をふちどっていた。
2002年に独立した東ティモールは、さかのぼること1999年に、独立に関する住民投票を行なった。
その結果、事実上の独立が決まると、インドネシア併合維持派は民兵により破壊活動へと走った。
ぼくが東ティモールに入った2003年頃、破壊された建物がまだ見受けられた。
「廃墟のレストラン」は、そのように破壊された、首都ディリ郊外の建物のひとつであった。
そこの家族が、破壊された建物を残したままで、レストランを開業していたのだ。
「レストラン」とは、別に「建物」を意味するとは限らない。
そこに、食事を提供する人たちがいて、食事をとる人たち(カスタマー)がいて、食事があって、サービスがあれば、「レストラン」になる。
「廃墟のレストラン」は、夜に「レストラン」となる。
廃墟のひとつの部屋(部屋といっても部屋があったであろう空間である)に、長テーブルが出される。
外が次第に暗くなり、ろうそくがテーブルと、そこに着席している人たちを灯す。
料理は、以前はポルトガル領であったこともあり、ポルトガル料理的なものが並ぶ。
廃墟で、屋根はなく、壁もあってないようなものだから、星たちが頭上にのぼり、周囲の静かな気配が直に伝わってくる。
難点は「蚊」で、コイルの蚊取り線香が足元で、煙を一生懸命にたいている。
ぼくたちは、レストランで食事をとりながら、東ティモールのこと、そこでの支援活動の話などを語る。
当時はとても平和な東ティモールであって、独立闘争や民兵による破壊活動がなかなか想像しにくいほどであった中で、「廃墟」という空間は困難な歴史を伝え続けていた。
レストランのオーナー家族が「廃墟」を残していることの目的のひとつも、歴史を忘れないことであったかと記憶している。
しんみりとしてしまうこともあるのだけれど、そのように生きている人たちに勇気づけられ、翌日、チャレンジングな支援活動にまた立ち上がっていったものである。
料理はおいしかったと思うのだけれど、それ以上に、その空間とそこに生きる人たち、一緒に東ティモールで支援活動を行う人たちなどとの総体としての体験として、東ティモールの「廃墟のレストラン」は、ぼくの中に記憶されている。
2006年に、首都ディリなどが再度騒乱になげこまれてから、ぼくが東ティモールを去る2007年初頭まで、ぼくが再びこのレストランに行くことはなかった。
あれから、この「廃墟のレストラン」がどうなったかはわからない。
わからないけれど、ぼくを含め、そこを訪れた人たちの心の中に確かに記憶として残っていると思う。
困難な歴史を刻印づけながらも、しかし一歩でも未来に向かって歩む人たちの存在を、ろうそくの光が灯しながら。
「能率」か「情緒」か?「むずかしい仕事」と「地域の問題」において。- 「日本人の意識」調査の結果から。
「『能率』か『情緒』か?」などのような問いに対する日本人の考え方と考え方の変容について、統計学的に、客観的な数字で見ることのできる資料として、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査がある。...Read On.
「『能率』か『情緒』か?」などのような問いに対する日本人の考え方と考え方の変容について、統計学的に、客観的な数字で見ることのできる資料として、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査がある。
調査は1973年から5年ごとに行われ、日本人の生活や社会についての意見の動きを捉えることを目的としている。
最新の調査は、2013年に行われている。
日本の国外(海外)で15年にわたり生活をし、働いてきた中で、「日本人の意識」や考え方と、異国・異文化における人々の意識や考え方との<間>におかれながら、いろいろと問題に直面し、考えさせられてもきた。
そのような問題意識で、「日本人の意識」調査のデータを見ていると、とても興味深いことばかりだ。
海外で(もちろん日本国内でも)よりよく生きて、よりよく働くためにも、「気づき」を得て、日々に生かしていくことが大切だ。
その「気づき」のためにも、調査結果のデータはたくさんのことを、客観的な数値で見せてくれる。
「能率・情緒」という意識と考え方について、「仕事」と「隣近所」という場に関する設問を見ることにする。
能率・情緒(仕事の相手)
第16問
かりにあなたが、リストにあげた甲、乙いずれかの人と組んで仕事をするとします。
その仕事がかなりむずかしく、しかも長期間にわたる場合、あなたはどちらの人を選びたいと思いますか。
甲:多少つきあいにくいが、能力のすぐれた人
乙:多少能力は劣るが、人柄のよい人
NHK放送文化研究所「日本人の意識」調査(2013年)結果の概要
これまで行われた9回の調査の内、ここでは1973年・1993年・2013年のデータを共有しておくと次のようになる。
- 甲の人を選ぶ(能率):26.9%(1973), 24.6%(1993), 27.0%(2013)
- 乙の人を選ぶ(情緒):68.0%(1973), 70.8%(1993), 70.3%(2013)
- わからない、無回答等:5.0%(1973), 4.6%(1993), 2.7%(2013)
むずかしい問題に向かい中長期にわたって一緒に仕事をする相手を選ぶ際に、能率よりも「情緒」を選ぶ人が多いことは、推測の域を超えるところではない。
ただし、それでもおどろくのは、第一に、情緒を選ぶ人が70%という高い数値であり、それから第二に、この40年間の推移において、ほとんど数値が動かないことである。
一貫して高い数値を維持し、2013年という最近においても、その数値の水準が維持され続けていることである。
むずかしい仕事の乗り越えを、仕事そのものの解決というより、「人間関係」にたくしているように(あるいは人間関係に解消してしまうように)みえる。
例えば、香港という「能率」を重視する社会の中で、香港的な能率と日本的な情緒という仕事の仕方のようなところで、異文化のズレがさまざまな事象の中に見られる。
このトピックはここから深く分析していくことも可能だけれど、ここでは立ち入らず、次の「地域・隣近所」における「能率・情緒」を見てみる。
能率・情緒(会合)
第32問
かりに、この地域に起きた問題を話し合うために、隣近所の人が10人程度集まったとします。
その場合、会合の進め方としては、リストにある甲、乙どちらがよいと思いますか。
甲:世間話などをまじえながら、時間がかかってもなごやかに話をすすめる
乙:むだな話を抜きにして、てきぱきと手ぎわよくみんなの意見をまとめる
NHK放送文化研究所「日本人の意識」調査(2013年)結果の概要
ここでも、前の設問と同じように、1973年・1993年・2013年のデータを共有しておくと次のようになる。
- 甲の人を選ぶ(情緒):44.5%(1973), 50.9%(1993), 54.8%(2013)
- 乙の人を選ぶ(能率):51.7%(1973), 44.6%(1993), 42.5%(2013)
- わからない、無回答等:3.8%(1973), 4.5%(1993), 2.7%(2013)
「仕事の相手」の設問とは、場(関わり方)の設定、時間(短期、長期)の設定などが異なるが、それでも興味深いデータを見ることができる。
第一に、「能率」を選ぶ人が多いこと、第二に、1973年時点では「能率」を選択する人の方が多かったこと、さらに第三に、1973年以後徐々に「情緒」の数値の方が大きくなっていることである。
1973年の数値の背景としては、「隣近所」というコミュニティの「つながり」が醸成されていたこと、あるいは逆に「つながり」がなかったけれど見えない信頼感のようなものが形成されやすい場であったのかもしれない。
「情緒」が醸成されている/醸成されやすい環境で、むしろ「能率」に目が向けられる。
あるいは、日本社会の「合理化」という近代化の動力におされる形で、社会のすみずみまで、「能率」が貫徹されていく過程であったのかもしれない。
1973年以降は、今度は、日本社会における共同体と家族の変容(あるいは解体)の中で、「つながり」の細い糸を巻いては強くするように、「情緒」を大切にしているように見える。
あるいは、社会における合理化の貫徹の中で、また311などを契機としていく中で、違うところに価値を見出す人たちの出現を表しているのかもしれない。
調査では、甲・乙という設問のあり方だけれど、現実はそれほど単純ではない。
能率も大切だし、情緒も大切だ。
能率か情緒かに関する抽象的な議論にはあまり意味がない。
日々の仕事やコミュニティにおける問題・課題の解決では、双方が求められ、日々の具体性の中で双方を駆使していく必要がある。
そのことを認識しながらも、しかし、意識の底辺における考え方や感じ方が、問題・課題解決から人や組織を遠ざけることもある。
異文化の中では、それが「先鋭化」しがちだ。
その一歩引いた視点の中で、「気づき」を土台に、仕事やコミュニティでの人との関わり方を考え、生きていくことが、ぼくたちをより広い世界に解き放ってくれる。
「生きるリアリティの崩壊と再生」(見田宗介)。- <生きるリアリティ>という、現代の若者たちが求める共通の<地層>から。
社会学者の見田宗介が、2010年8月に福岡のユネスコ協会で行った講演「現代社会はどこに向かうかー生きるリアリティの崩壊と再生ー」の最後を、次のように終えている。...Read On.
社会学者の見田宗介が、2010年8月に福岡のユネスコ協会で行った講演「現代社会はどこに向かうかー生きるリアリティの崩壊と再生ー」の最後を、次のように終えている。
…ボランティアに限らなくてもいいですけれども、実際に自分が役に立つようなことならばやりたいと思っている青年と、リストカットをする、あるいは無差別殺人をする青年というのは同じものを求めているわけです。つまり、それは生きることのリアリティを求めている。そこが大事だと思います。今の日本の若い人たちはいわば同じものを求めているわけですが、求め方が違っているのです。日本の若い人たちが自分の体を傷つける、あるいは人を傷つける、あるいは人を殺そうとする、そういうものとは違った仕方で、生きるリアリティを求める方法を見つけ出すことができれば、そこでもう一つ新しい時代が開けてくる可能性があるだろうと、そういうふうに思うわけです。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー≪生きるリアリティの崩壊と再生≫ー』弦書房、2012年
ここで並列されている若者たちは、例えば、次のような若者たちである。
● ボランティア的・支援的な活動を入れた海外ツアーに意欲的に参加する若者たち
● リストカット、つまり手首を切る自傷者(例えば、卒業するまで死なないとして自死した「南条あや」)
● 無差別殺人をする青年(例えば、秋葉原事件の加藤智大)
「冷静な頭脳と暖かい心」で、1960年から日本の若者たちをみてきた見田宗介は、一般的にまた表層的にはまったく「別」として語られる若者たちが求めていることの「深い地層」を、ぼくたちに示してくれている。
別の著作で、見田宗介は、「南条あや」と「加藤智大」について、より詳細に見ている。
南条あやのように、少女たちの孤独が「自分に向かって」内攻するときにリストカットといった「自傷者」になり、リストカットをする少女たちの孤独が「外に向かって」爆発するときに「無差別殺傷」にはしった青年がいる。
南条あやが書き残した文章からは「生きていることのリアリティの確認儀式」のような感覚が語られ、また加藤智大は自分が「誰からも必要とされない存在」の中で犯行にでる。
そのような「感覚」の<深い地層>は、ボランティアなどで海外ツアーに赴く若者たちと、<求めるもの>において通底している。
1990年代に、アジアへの旅行にいわば「リアリティ」を求めていたぼくも、この<深い地層>において、これらの若者たちと同じものを求めてきたのだと思う。
南条あやとぼくは、ほぼ同時代人である。
ぼくは、「違った仕方」で、生きることのリアリティを求める方法を見つけただけだ。
その「方法」の鮮烈さに惹かれ、ぼくは当時、「旅によって人は変われるか?」という問題意識を手にし、見田宗介の理論と言葉に助けられながら、生きてきた。
一歩の歩みを間違っていれば、リストカットや殺人あるいは他の形で「リアリティの不在」が爆発したかもしれないという想像力を起点にすることで、現代の若者や現代という時代を考えてゆくことができる。
他者の問題ではなく、ぼく(たち)の問題である。
質疑応答で、やはりこの「リアリティの崩壊」の問題に触れられる中で、「なぜ昔はリアリティを求めようとしなかったのか」という質問に、見田宗介は次のように応答している。
…周囲との関係がリアルであればそれでいいわけで、もともと人間というのは昔からずっとそういう存在なのですから。現代だけがちょっと変わった状況で、人との関係が非常に薄いというか、情報を媒介にした関係というのがでてきた。…ケータイなどでメル友が何百人もいるという形で、いま友達をつくることも簡単になっていますが、おそらくそこで出来た友達というのはやはりリアリティがないんですね。…ケータイだけでつきあった人というのはものすごく友達を欲しがりますよ。ちょうどお腹すいた人が、本当は胃袋にたんぱく質が入らないとお腹は満たされないのだけれども、清涼飲料水とかコーラとかを飲むと一時ちょっと気が休まる。でもやっぱり飲んでも飲んでも空腹は収まらないですね。そんな感じが今の若い人にある。…
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー≪生きるリアリティの崩壊と再生≫ー』弦書房、2012年
リアリティの「再生」の方法のひとつとして、見田宗介は「人から必要とされること」を、アメリカの心理学者であったエリクソンの言葉を引用しながら、提示している。
エリクソンの言葉に、「mature man need to be needed」という言葉がある。
「成熟した人間は必要とされることを必要とする」ということである。
そこに、周囲との関係のリアリティが再生されていく「解決の出口」を、見田宗介はみている。
冒頭の「ボランティア的・支援的な活動を入れた海外ツアーに意欲的に参加する若者たち」ではないけれど、ぼくは東ティモールにいるとき、日本の「悩める」若者たちには東ティモールに来ることで、何らかの「解決の糸口」が見つかるのではないかと、本気で思っていた。
そんな東ティモールと西アフリカのシエラレオネという「生きるリアリティ」を強烈に押し出してしまうような社会(しかし、生きるための「ニーズ」の問題などに悩まされる社会)、それから、東京や香港という最先端の「先進」社会を生きてきた、ぼくのこの15年。
「新しい時代が開ける」ために、ぼくにできることをしようと思う。
「生きることのリアリティ」に、本気で立ち向かってきた一人として。
外国の友人の眼と体験を通じた「日本」。- 小さい子供たちが楽しめる日本。
外国の友人と話をしていて、興味深いことを聞いた。いろいろと海外旅行をしてきた中で、日本がいちばん、小さい子供たちが楽しめるところだと言う。...Read On.
外国の友人と話をしていて、興味深いことを聞いた。
いろいろと海外旅行をしてきた中で、日本がいちばん、小さい子供たちが楽しめるところだと言う。
ヨーロッパに行くと、例えば、美術館や博物館などは、小さい子供たちがすーっと入っていけるものではない。
日本は、小さい子供たちが遊べるようなものが豊富だというのだ。
外国の友人の眼と体験を通じて見る「日本」というのは、日本人のぼくにとって「ブラインド・スポット」となっているところに光をあててくれる。
日本に住んでいたり、観光で行った海外の人たちからよく聞くことのいくつかは、次のことである。
● 人が親切であること(道をたずねるととても親切に案内してくれること、など)
● モノ(携帯電話やコンピューターなどの高価なものを含む)をなくしても戻ってきたり見つかったりすること
● 街などがきれいであること
これらのことは、直接の友人や知り合いからも聞き、また日本について語るPodcastのような番組などでも聞く。
「小さい子供たちが楽しめる場所」であるということは、今回、はじめて耳にしたと思う。
他で聞いた覚えはない。
もちろん、「体験」には限度があるから、その限度内でのことであるけれど、それでも一面の「真実」を伝えている。
アトラクションや会場に行って、小さい子供たちが楽しめるようなものが用意され、提供されている。
確かに「言われてみれば…」というところがないわけではないが、実体験として、実感としてはまだぼくの中で熟成されていない。
それでも、他者の眼と体験を通じて見える「世界」は、ひとつの視点として、ぼくの中に住みつく。
そのような視点やパースペクティブの集積が、ぼくの「世界」の豊かさを醸成してくれる。
視点やパースペクティブが、相互に矛盾し、相互に対立したりすることもあるけれど、それらを含めて「世界」は豊饒になってゆく。
「日本」の情景をみる視点がまたひとつ付け加えられ、情景は異なる様相を見せ始める。
技について、「説明できないといけない」(イチロー)。- 身体と頭脳の交響と共演。この世界で次元を上げていくために。
米国メジャーリーグで活躍する野球選手イチローが、「説明できないといけない」ということを、北野武との対談における「理論」に関するトピックの中で語っている。...Read On.
米国メジャーリーグで活躍する野球選手イチローが、「説明できないといけない」ということを、北野武との対談における「理論」に関するトピックの中で語っている。
「説明できないといけない」のは、イチローが挙げる例で言えば、「ヒットを打ったときに、なぜそのヒットになったのか」ということの説明である。
興味を引くのは、イチローが説明ができるようになったのは、1999年以降のことであったということ。
当時はイチローは日本のプロ野球で活躍しているときで、すでに5年連続で首位打者であったけれども、その時点ではまだ説明ができなかったという。
それまで、ただただ「身体」で打っていたイチロー。
そのイチローが1999年以降に「理論」を自分自身で見つけ、2000年にアメリカの大リーグにうつる。
身体だけで打っていたら大リーグでの活躍はなかったかもしれない。
「頭脳」を使うことは、もう一段も二段も上の次元で活躍できる土台を、イチローに用意した。
このことが教えてくれるのは、第一に、「理論」の大切さである。
「理論」という言葉が重たければ、イチローの言うように、「説明できること」である。
身体で動くだけであれば、あるところで「天井」にぶつかってしまう。
「天井」をやぶって、一段も二段も上にいきたいのであれば、それは大切なことだ。
イチローは、この話の中で、さらに面白いことを言っている。
イチローにつくコーチは人それぞれに違うことを言ってくる。
それらにいちいちしたがっていたら、打てなくなってしまうという趣旨のことである。
「説明できること」により、いろいろに異なるアドバイスや指導の中であっても、「自分軸」をきっちりと持つことができたということだ。
第二に、技を使う職業において、説明できなくても「結果」が出ていればよい、ということにはならない。
イチローも、北野武も、若い頃は「ヒットを打てているからいいじゃないか」、「(コントを見に)お客さんが来ているからいいじゃないか」と思っていた。
そのような彼らが、技も、活躍も、それらの次元を上げていくときに、説明できること(=理論)を確実に味方につけていったのだ。
第三に、上記の二つのことは、日本を離れ「世界」に出ていくときには、さらに説明できることの意義を深めていったであろうことである。
日本という舞台でうまくいっていたことが、世界の舞台ではうまくいかなかったりする。
いろいろに異なる状況や事情があり、自分の「周囲」の声もいろいろだ。
そのような中で、説明できることを「軸」に、自分をつくり、そしてときに自分をのりこえていくことができる。
それは自分に固執するということではなく、オープンさ・柔軟さを兼ね備えた自分軸だ。
だから、冒頭で述べた通り、イチローが「説明できるようになった時期」と「大リーグ入りの時期」とがほぼ重なったことは、無関係ではない。
それにしても、本質的な生き方をしている人たちの会話は、気がつくと、生きることの本質に一気に射程を広げる。
イチローと北野武の、この「理論」の会話も、対談の冒頭近くに1分ほどで語られた内容だ。
ぼくは、聞き逃さないように、あるいは語られる言葉の地層に流れるエッセンスに、一所懸命に耳をすます。
「体育座り」を止めること。- 海外の環境が助けてくれる「unlearning」のプロセス。
日本の国外(海外)にいると、自分が習ってきたこと、学んできたこと、身につけてきたことが、「相対化」されやすくなる。
🤳 by Jun Nakajima
日本の国外(海外)にいると、自分が習ってきたこと、学んできたこと、身につけてきたことが、「相対化」されやすくなる。
日本にいても、意識を高くもって行動していれば、自分を「相対化」することはできるけれど、海外に生活していると、普段の生活の中で、「あれ、こうはしないんだな」といった場面がやってきやすくなる。
「床に座る座り方」も、そのような場面のひとつだったりする。
日本にいて、ぼくが小学校のときから「普通」の座り方としてきた「体育座り(体操座り、三角座りなど)」は、海外ではやはり見ない。
少なくとも、ぼくが目にした記憶はない。
日本の姿勢治療家である仲野孝明は、ブログで「体育座りは、今すぐ止めなさい!!」と警鐘をならしている。
仲野孝明の教えを、『座り方を変えれば、身体の疲れがイッキに取れる!』(Gakken)や『長く健康でいたければ、「背伸び」をしなさい』(サンマーク出版)といった著書、それから仲野孝明のポッドキャスト『成功する姿勢力』から、ぼくは学んでいる。
その感覚を信頼する治療家のひとりだ。
仲野は、診察に来た20歳の女性の「数々の不調の原因」をつきとめていくなかで、彼女が好んできた「体育座り」に原因のひとつを見つける。
体育座りをすると、確かに、腰の部分から背中が曲がってしまう。
彼女は、正しい姿勢をしていくことで、不調から解き放たれていったという。
「体育座り」の起源は明瞭ではないけれど、仲野は、wikipediaに掲載されている情報、1965年(昭和40年)に『集団行動指導のてびき』として学校教育に入ったのが初めてであることに触れている。
なぜ導入されたのかも不明瞭だが、長時間立っていることで貧血を起こす子供たちの状況に対処するため、とも言われている。
日本独自の座り方であるということだ。
冒頭で述べた通り、海外に生活していて、体育座りは目にしない。
そもそも「床に座る」ということ自体、日本では普通だけれど、海外ではそれほど普通ではない。
西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それから香港と生活をしてきたなかで、ぼくは普段床に座ることはない。
椅子やソファーやベッドに座る。
そのような日本と異なる生活様式の中で、「あれ、こうはしないんだな」というつぶやきを、ぼくの内面ですることになる。
よい習慣であればよいのだけれど、体育座りのような「悪い動きや習慣」であると問題だ。
そして「悪い仕方」を、ぼくたちは盲目に習い、盲目に継続してしまっていたりする。
そのために、習ってきたこと・学んできたことを、一度、意識的に取り除くというプロセスを経る。
「unlearning」のプロセスだ。
Mark Bonchek (Shift Think)が書くように、学ぶことのより深い問題は、learningではなく、むしろunlearningにある。
unlearningを終えて/と同時に、新しい仕方を、意識的に、心身にインストールしていく。
海外の生活が15年を超えた今も、このプロセスを起動させる機会がしばしばある。
「座り方」は、まるでアップデートされるOSにいつしか対応できなくなるアプリのように削除され、新しいアプリをダウンロードする。
それほど簡単であればよいのだけれど、人の「習慣」は、削除のボタンを押しても押しても、なかなか削除されない。
海外という環境は、相対化の力と異なる環境の力を発揮して、いくぶんか、このプロセスを助けてくれる。
人と人との<間身体>的な影響と共に、環境に埋め込まれた様式の影響が、ぼくたちに作用する。
床に座る機会を与えないようにして。
ぼくの心身にインストールされている「アプリ」の整理と取り替えの必要性を、ぼくはしみじみと感じている。
香港で、『故宮養心殿文物展』(香港文化博物館)を観て。- 清の時代の「鏡」に魅せられて。
香港で、香港文化博物館の『八代帝居:故宮養心殿文物展』(2017年6月29日ー10月15日展示)を訪れる。中国の清代において、八代にわたる皇帝が住居とした「養心殿」の文物展だ。...Read On.
香港で、香港文化博物館の『八代帝居:故宮養心殿文物展』(2017年6月29日ー10月15日展示)を訪れる。
中国の清代において、八代にわたる皇帝が住居とした「養心殿」の文物展だ。
「養心殿」(Hall of Mental Cultivation)は、中国の明代に、北京の紫禁城(故宮)に1537年に建設された建物である。
展示は、「養心殿」の家具などの文物などにより、「養心殿」を再現している。
展示を見ながら、ぼくが高校時代に習った「世界史」に出てきた「清代の皇帝たち」を「養心殿」に見ているようで、とても不思議な感覚を味わうことになった。
ぼくが北京の紫禁城(故宮)に足を運んだのは1994年、そのときの風景も思い出しながら、ぼくは「歴史の世界」を楽しんだ。
「養心殿」(Hall of Mental Cultivation)の「養心」は、『孟子』にある「養心莫善於寡欲」(”Leading a frugal life is the best way to cultivate the mind”)から来ているという。
明代には皇帝は時おりの滞在にしか使っていなかったところ、清代になって皇帝の住居、また執務室として使われるようになる。
清の雍正皇帝(1678 - 1735)が「Home Office」として使い始め、乾隆皇帝、嘉慶皇帝、道光皇帝、咸豐皇帝、同治皇帝、光緒皇帝、そして「ラストエンペラー」の宣統皇帝にわたる八代の皇帝たちに大切にされてきた養心殿。
養心殿の構造は次の通りである。
【中心】
「正殿明間」(Central Hall):皇帝が大臣たちと話し合いをしたり、官員が皇帝に謁見する間
【西側】
「西暖閣」(West Warmth Chamber):日々の執務などを行う執務室(*ブログ写真)
「三希堂」(Room of Three Rarities):乾隆皇帝の書斎
【東側】
「東暖閣」(East Warmth Chamber):宮廷の画家や彫刻家などの仕事場、元旦の筆書を執り行う場
「垂簾聴政」(Empress dowagers as regents behind the curtain):清の後期における摂政皇太后の間
展示では、この「養心殿」の構造が再現され、順番に見ていくことができる。
入り口から入って、まず目の前にひろがるのが「正殿明間」(Central Hall)。
重要な文化財であるため、セキュリティ・ガードが数名、「正殿明間」(Central Hall)を囲むようにして、見守っている。
この椅子に、清代の皇帝たちが座っていたところを想像するだけで、不思議な感覚をぼくは覚え、心がゆさぶられる。
「正殿明間」(Central Hall)から、「西暖閣」と「三希堂」にまわる。
この机で戦略が練られ、執務が執り行われていたことに、歴史の想像力がかきたてられる。
雍正皇帝はこの時代に夜遅くまで働き、睡眠時間は4時間に満たなかったというから驚きだ。
西側から、今度は東側に位置する「東暖閣」と「垂簾聴政」にまわっていく。
なかなか思い出せない映画『ラストエンペラー』の風景を、感覚として想像する。
それは、また、ぼくを不思議な感覚の中につれていく。
いろいろな展示物それぞれに魅せられながら、中でもぼくが魅せられたのは「鏡」であった。
清代の、大きな鏡。
その大きな鏡に自分の姿をうつしてみる。
鏡は、ぼくの姿を確かにうつしている。
清代にこの鏡に姿をうつしていたであろう人たちの内面に入っていくような感覚を覚える。
皇帝がこの鏡をのぞきこんでいる姿を想像し、ぼくはそれを見ているような不思議な感覚もわきあがる。
ぼくは、この「鏡」に魅せられてやまなかった。
鏡のもつ不思議な力が作用したのかもしれないけれど、先日読んでいた「鏡の中の自己=他者」という、社会学者の大澤真幸の論考も作用したのかもしれない。
「社会の起原」を追う大澤真幸は、「鏡像による自己認知」ということに注目する。
「鏡像による自己認知」は「他者体験」ときわめて深い関係があること、である。
発達心理学的な研究は、人間の赤ちゃんが1歳半から2歳程度の年齢に至るときに、鏡に映った像が自分であることを明確に理解するようになることを伝えている。
他方、「動物」はと言うと、鏡像の自己認知は非常に難しいようだ。
ただし、チンパンジーは一定の年齢に達すると認知ができるようになるという。
しかし、ある研究者は、チンパンジーが他個体から隔離されて育てられた場合に自己認知できないことを発見する(今日では実験は「非人道的」として実施できないという)。
さらに、3個体のチンパンジーに行ったこの実験の後に、2個体は「同じ部屋に同居」させ、1個体は「隔離させたまま、しかし他の2個体を見ることができる」ようにした。
結果は、前者の2個体は鏡像による自己認知が可能になったが、後者の1個体は自己認知ができなかったという。
大澤真幸は、この実験結果が含意することとして、次の二つのことを明示している(『動物的/人間的:1. 社会の起原』弘文堂)。
- 鏡像による自己認知が可能になるのは、他者の存在、他者についての経験の不可欠性
- その経験は他者を外から「見る」ということだけでは不十分で、身体的な直接の接触を含む、他者との実質的な相互作用がなければならないこと
大澤真幸はそして、次のように語っている。
鏡に映った自己を見るということは、自己の自己への関係であるように見える。しかし、その自己関係の前提として、他者との関係が、つまりある種の社会的体験が必要なのだ。他者との関係が、どこか魔術的な仕方で、自己への関係と転移してきたかのようだ。…
繰り返せば、鏡によって自分の顔を見る体験は、他者の顔を見る体験を前提にしている。それこそ、エマニュエル・レヴィナスが哲学的な思索のすべてを賭けて、その秘密を解き明かそうとした体験であろう。おそらく、そこに<社会>を構成する最小の要素が、つまり<社会>の原基(エレメント)がある。
大澤真幸『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂)
鏡に映る自己はもちろん自己であるのだけれど、この能力の獲得という原初の過程において、ぼくたちは「他者」を経験し、媒介にしている。
「養心殿」の鏡を前にしながら、そしてそこに映る自分を見ながら、ぼくはそのようなことを考える。
でも、そのような考えをとびこえるようにして、その「鏡の体験」は、ぼくを不思議な空間になげこむことになった。
清代にこの鏡を通して、人は何を見ていたのだろう。
そして、ぼくは、この鏡を通して、今何を見ているのだろう。
鏡の前に立ったときの感覚は、まだぼくの身体に残っているのを感じる。
「プロフェッショナル」を追い求めてきて。- 「プロフェッショナル」と「アマチュア」の違い。
「プロフェッショナル」であること、またあり続けること。そもそもプロフェッショナルであることとは何であるか。...Read On.
「プロフェッショナル」であること、またあり続けること。
そもそもプロフェッショナルであることとは何であるか。
この問いの後ろには、プロフェッショナルではない、つまり「アマチュア」であることとは何であるかという問いが並走している。
ここで書いていることは、単なる専門性(専門知識・技術)を有する職業ということではない。
ここで書こうとしていることは、広い意味での、プロフェッショナルとしてのあり方のことである。
プロフェッショナルと呼ばれる人たちはどういう人たちなのか。
ぼく自身のことで言えば、生きていくなかで、仕事をするなかで、「プロフェッショナル」であることを、ぼくは追い求めてきた。
「学問」においては、例えば、社会学者の見田宗介先生の著作群から、ぼくは「プロフェッショナル」ということを学んできた。
見田宗介先生の圧倒的な著作が、ぼくの目の前にある。
それらの「成果」、目指すもの・こと、理論、考えること・論理、文章の質・生きている文章、姿勢、研究のプロセスなどが、それらに凝縮されている。
「学問」という垣根を瓦解し、生という領域ににじみでてくる仕事に、ぼくは、言葉にならないほどに深い感銘を受けてきた。
そのような出会いの恩恵も受けて、国際支援のプロをめざし、ぼくは大学院で徹底的に学ぶ。
日本に本部をおく国際NGOで働くようになってからは、NGO職員として「プロフェッショナル」ということを、しばしば考えさせられた。
ぼくが働いていた2000年代初期においては、NGOは日本社会の中での認知がまだ十分でない時期であった。
とかく「ボランティア」と思われがちであった。
世界の現場に出ると、プロとしての仕事が期待され、求められる。
緊急支援・国際支援のプロとして、「プロフェッショナル」であることを、専門性という視点でもつきつけられてきた。
紛争後の状況などの現実に対峙しながら、そしてその現実のあまりの大きさ(測ることのできない大きさ)に圧倒されながら、である。
香港にうつって、人事労務コンサルタントとして仕事をするようになってから、上司がリスト化する「プロフェッショナルとアマチュアの違い」から学ぶ。
「プロは…する。アマチュアは…する/しない」という対比のなかで、プロフェッショナルのあり方を明確にしていく。
プロフェッショナルの定義を、項目・トピックごとに、より具体性におとしていく作業だ。
リストを見ながら、自分の仕事の仕方を見直すことにもなる。
また、香港人のお客様からのメール(英語)の言葉に、ときおり、ぼくは期待され、励まされ、気持ちをまっすぐに整えることになった。
「Thank you for your professional advice.」的な言葉がメールで、ぼくに送られる。
それは、アドバイスを求められる最初に、「前もって(in advance)」で、ぼくに向けられることもあれば、逆に、コンサルテーションが終わる際にいただく「お礼」として述べられることもあった。
この有難い言葉に、ぼくは姿勢を正し、励まされる。
しかし、他方で、その言葉は重くぼくにのしかかってくる。
コンサルタントに求められるレベルは果てしなく、その果てしない地平に、「プロフェッショナル」という言葉が重なったのだ。
ぼくはこのような時期に「野口晴哉とカザルス」に出会う。
野口晴哉の整体とカザルスの音楽。
それらは、果てしない地平の彼方にある<プロフェッショナルを超えるプロフェッショナル>のようなものとして、ある種の「完全性」のようなものとして、ぼくの前に屹立した。
そして、昨日、ダニエル・ピンクのメルマガにピックアップされた記事に、再び、「プロフェッショナルとアマチュアの違い」というテーマの前に連れ戻される。
記事のタイトルは、まさしく「The Difference Between Amateurs and Professionals」(アマチュアとプロフェッショナルの違い)。
20ほどの項目にわたり、「アマチュアは…である。プロフェッショナルは…である」のリストが書かれている。
例えば、こんな具合だ。
●Amateurs stop when they achieve something. Professionals understand that the initial achievement is just the beginning.
(アマチュアは何かを達成してストップしてしまう。プロフェッショナルは最初の達成は始まりにすぎないことを理解する。)
●Amateurs have a goal. Professionals have a process.
(アマチュアは目標をもつ。プロフェッショナルはプロセスをもつ。)
Farnam Street「The Difference Between Amateurs and Professionals」(※日本語訳はブログ著者:中島)
「プロフェッショナルはプロセスをもつ」ということは、ここでは、目標を<習慣化のプロセス>に変換させていくことである。
「習慣の力」を知るプロフェッショナルは、目標をもつだけでなく、それを「習慣」にするために行動していく。
このような項目と対比は、さまざまに書くことができる。
この記事は、そのことを指摘した上で、(抽象的に)落とし込んでいくと最終的に二つになることを書いている。
二つとは「Fear(恐れ)」と「Reality(リアリティ・現実)」だ。
記事はこんな風に説明している。
Amateurs believe that the world should work the way they want it to. Professionals realize that they have to work with the world as they find it. Amateurs are scared — scared to be vulnerable and honest with themselves. Professionals feel like they are capable of handling almost anything.
(アマチュアは世界が自分たちが望むように動くことを信じる。プロフェッショナルは自分たちが出会う/経験する世界と仕事をしなければいけないことを認識する。アマチュアは脆弱であることや自分自身に正直になることを恐れる。プロフェッショナルはほとんどすべてのことに対処できると感じる。)
Farnam Street「The Difference Between Amateurs and Professionals」(※日本語訳はブログ著者:中島)
アマチュアの行動やあり方は「恐れ」から出てくること、この視点はある種の真実を伝えているように、ぼくは思う。
「恐れ」を抱いてはいけないということではなく、また「恐れ」を契機としてはいけないのではなく、「恐れ」を行動やあり方が生まれる源泉としてはならないということ。
仕事をすることでも、人に接することでも、そして生きていくことにおいても、それはとても大切なことである。
この短い記事を読みながら、これまで「プロフェッショナル」を追い求めてきたことを思い出し、これからも「プロフェッショナル」を追い求めてゆくことを自分に言い聞かせる。
たとえ今日「プロフェッショナル」であったとしても、明日「プロフェッショナル」でいられるとは限らないから。
世界に生きてゆくなかで心構えとしての「野生の思考」。- レヴィ=ストロース著『野生の思考』に教えられて。
自分には理解できないような状況や考え方、さらには理解できない「世界」を理解しようとする。...Read On.
自分には理解できないような状況や考え方、さらには理解できない「世界」を理解しようとする。
いろいろな文化や習俗など、世界でぼくが出会うものを理解しようとする。
「それはおかしい」と口に出てきそうになる言葉をおさえて、一歩立ち止まり、そこに流れている「論理」をつかもうとすること。
相手の考え方ということだけにとどまらず、相手という他者の考え方や行動を規定するようなことの「論理」のレベルにて理解をしようとすることを、ぼくは心がける。
そのような姿勢を教えてくれた書のひとつが、人類学者のレヴィ=ストロースの名著『野生の思考』(みすず書房)であった。
15年ほど前に、途上国の開発・発展という問題、南北問題、貧困問題などを追いかけているときに、手に取った。
書名にも冠せられた「野生の思考」とは、「未開と文明とを問わず、すべての人間に開かれている根源的な思考の次元」(『社会学事典』弘文堂)である。
『野生の思考』の中で、次の引用にはじまり、このように語られる箇所がある。
『科学者は、不確実や挫折には寛容である。そうでなければならないからである。ところが無秩序だけは認めることができなし、また認めてはならないのである。…科学の基本的公準は、自然がそれ自体秩序をもっているということである。」(Simpson)
われわれが未開思考と呼ぶものの根底には、このような秩序づけの要求が存在する。ただしそれは、まったく同じ程度にあらゆる思考の根底をなすものである。私がこのように言うのは、共通性という角度から接近すれば、われわれにとって異質と思われる思考形態を理解することがより容易になるからである。
レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房
「秩序づけの要求」という次元においては、未開思考も文明の思考も、思考形態としては共通している。
「未開」は思考できないのではなく、異質と思われる仕方で思考している。
まったく理解できない「未開の地」であったとしても、そこの社会の中で「秩序づけられた思考形態」がある。
その「思考形態」という「論理」を、つかみだそうとすること。
未開に限らず、異質の文明・文化の世界に中にあっても。
当時、全体を深く読みきれなかった『野生の思考』の中から(それでも)教えられたことのひとつとして、このことが、その後のぼくの「世界で生ききる」ことの姿勢として、ぼくの中に埋め込まれている。
このことを、大澤真幸『<世界史>の哲学:イスラーム篇』(講談社)に出てくる、パキスタンの「職業的乞食」と思われる男のエピソードを読んでいて思い出した。
この男は、小銭を施された際に一言も礼を言わない、というところから始まるエピソード。
詳細はここでは書かないけれど、「イスラーム世界」における「秩序(と思考形態)」を理解しなければ、この謎はとけない。
しかし、言えることは、そこにはきっちりと「秩序(と思考形態)」があることだ。
この男は無礼なのではなく、この「秩序」のなかで、心豊かに生きている。
ぼくたちは、その「心の豊かさ」を視るための<視覚>を手にいれなければならない。
そのようなことを考えながら、『野生の思考』のレヴィ=ストロースにまた学ぶ時期がきたのかもしれないと、ぼくは思う。
<じぶんが準備できたとき>に、「師」はあらわれる。
世界に生きる中では、やはり「宗教」は知っておくこと。- 大澤真幸著『<世界史>の哲学:イスラーム篇』を読み終えて。
香港の南の海上を台風が通過しているとき、大澤真幸著『<世界史>の哲学:イスラーム篇』(講談社)を、ようやく読み終わる。...Read On.
香港の南の海上を台風が通過しているとき、大澤真幸著『<世界史>の哲学:イスラーム篇』(講談社)を、ようやく読み終わる。
思考のひろがりと深さに、まだついていっていない。
しかし、これまで見て学んできた「イスラーム」とは、また違った視点で「イスラーム」を見ることができるようになったことは確かだ。
ぼく自身は特定の「宗教」をもたないけれど、世界を旅し、世界に生きてきた中で「宗教」をより身近に感じてきた。
日本の中にいると「宗教」は見えにくい。
その背景についてはここでは書かないけれど、日本の外に出ると、「宗教」は好き嫌いにかかわらず、自分の生活に顔をだしてくる。
少なくとも、日々の生活の「風景の一部」として、やってくる。
記憶のひとつは、アジアへの旅路で聞くことになった、早朝の(大音量で流れる)イスラームの祈りの言葉である。
西アフリカのシエラレオネでは、キリスト教とイスラーム教などが日々の生活にとけこんでいる。
東ティモールにいたときは、カトリック教徒がほとんどで、ぼくもイベントなどには列席することがあった。
世界各地でいろいろな人たちに出会い、宗教はぼくにとって、「ふつう」のこととなった。
ここ香港でも、TsimShaTsuiには大きなモスクがあり、金曜日に脇の道を通ると、イスラーム教徒の人たちとすれちがうことになる。
宗教が、日常の「風景の一部」となる。
ぼくは、「尊重」の念で、それぞれの宗教を信じる人たちと接してきた。
それから、時間をみつけては文献などで学ぶようにしてきた。
歴史として、社会学として、自己啓発として、それから人と社会の「地層」をさぐるために。
さて、日本人は、イスラーム教については、ほとんど知らない。
社会学者の大澤真幸は、この著書の「まえがき」で、このように書いている。
日本人は、あまりにもイスラーム教を知らない。私はかつて、「キリスト教について知らない程度」の順位を付けたら、日本人はトップになるだろう、と書いたことがあるが(『ふしぎなキリスト教』講談社現代新書)、日本人は、イスラーム教についてはもっと知らない。…
この無知は、しかし、ちょっとした無知、あまりに細かかったり専門的に過ぎるために知らないという類の無知とは違う。現在の地球の人口の、五人に一人くらいは、イスラーム教徒である。これほどたくさんイスラーム教徒がいるのに、重要な国際ニュースの半分近くがイスラームに関係しているというのに、さらにイスラーム教の普及地域と盛んに商取引をしているというのに、イスラーム教についてまったく何もイメージができないのだとすれば、この知識の欠落は、高くつくだろう。…
大澤真幸『<世界史>の哲学:イスラーム篇』講談社
大澤真幸は、イスラーム教を専門としているわけでもなく、また中東研究の専門家でもないが、専門家の「盲点」をつきながら、「イスラーム」ということに立ち向かったのが、この書だ。
「イスラーム」を考える論考でありながら、しかし、視点は、縦横に深く広く貫かれている。
イスラームを通じて、大澤真幸の一生をつらぬくテーマのひとつで(あろう)「資本主義」、そして人と社会という「垂直(縦軸)」に深くきりこむ。
また、キリスト教、ユダヤ教、東洋(中国、インド)など、「比較」を方法とし、「水平(横軸)」に広く、しかし深くきりこむ。
『<世界史>の哲学』の思考は、だから、最初から「シリーズ」(古代篇、中世篇、東洋篇、イスラーム篇、近代篇)で組まれている。
『<世界史>の哲学:イスラーム篇』の目次だけを見ても、このことがわかる。
【目次】
第1章:贖罪の論理
第2章:純粋な一神教
第3章:<投資を勧める神>のもとで
第4章:「法の支配」をめぐる奇妙なねじれ
第5章:「法の支配」のアンチノミー
第6章:人間に似た神のあいまいな確信
第7章:預言者と哲学者
第8章:奴隷の軍人
第9章:信仰の外注
第10章:瀆神と商品
第11章:イスラームと反資本主義
章のタイトルを見るだけでも、思考のひろがりを見ることができる。
『<世界史>の哲学』シリーズをつらぬく問題設定は、「西洋の優位」についてである。
なぜ西洋が優位に立ったのか。
「イスラーム」を通じて考えられることのひとつも、なぜ資本主義はイスラームで起きなかったのか(イスラームの方が資本主義に適しているとも言えるのに)。
このような深い思考に入って読み進めているうちに、おそらく、1年くらい経ってしまった。
それぞれの宗教には、たくさんの「ふしぎ」がある。
普通に、一般的に考えても、なぜそうなのかわからない。
そのような問題群を議論の入り口にする、社会学者の大澤真幸、橋爪大三郎、それから(一部の著作において)宮台真司による「対談本」は、例えば特定の宗教をもたない者にとって「宗教を学ぶこと」のスタート地点としては、とてもよい本である。
●『ふしぎなキリスト教』橋爪大三郎・大澤真幸(講談社現代新書)
●『ゆかいな仏教』橋爪大三郎・大澤真幸(サンガ新書)
●『続・ゆかいな仏教』橋爪大三郎・大澤真幸(サンガ新書)
中国の儒教などにふれている次の書籍にもふれておきたい。
●『おどろきの中国』橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司(講談社現代新書)
これらの著作は、一般的に考えてしまう「ふしぎ」なトピック群を、縦横無尽に議論の俎上にのせる。
そこから、あらゆる方面に「好奇心」が放射されていく、スリリングな議論を展開している。
そして、よりスリリングなのは、そのような議論にふれ、宗教それから人と社会の見方を獲得してゆくことで「世界の見方」が変わっていくことだ。
まるで、かけている<メガネ>を変えるように。
だから、ぼくは学ばずにはいられない。
香港で、台風の過ぎさった後に考える「進化論」。- 木々が倒れ枝々が折れている傍らで咲く「花」。
香港は、2017年8月23日に、香港天文台(気象庁)が「台風シグナル10」を発令した。台風のシグナルの最上位にくる警告だ。...Read On.
香港では、2017年8月23日に、香港天文台(気象庁)が「台風シグナル10」を発令した。
台風のシグナルの最上位にくる警報だ。
言葉としては、「ハリケーン(Hurricane)」と名づけられている。
ビジネスがとまり、株式市場が閉じ、飛行機もキャンセルされるなど社会への影響も大きく、ニュースは40億香港ドル(約560億円)から80億香港ドル(約1100億円)の損失を告げる。
一夜明けて見る、木々が根こそぎ倒れ、枝々が折れている風景に、昨日の強風と激しい雨の威力をみせつけられる。
共生系としての森の木々はそれでも台風をうけとめたようだけれど、例えば、人工的に一本一本植えられた木々たちのいくつかは強風に耐えきれなかったようだ。
他方で、人工的に、花壇に植えられている花たちは、いつもと変わらない姿をみせている。
ビルの壁や垣根や木々に守られる形で、木々よりもはるかに「弱い」花たちが、そこに強く咲いている。
その姿を見ながら、ぼくは「進化論」のことを考える。
20年ほど前から、ぼくのテーマとして、人や社会の「成長」や「発展」がおかれていて、それと並行する形で「進化」に関する文献を読んできた。
中でも、とりわけ、真木悠介『自我の起原ー愛とエゴイズムの動物社会学』(岩波書店)は、ぼくの好奇心をひらいてくれた。
この著作に触発されて、大澤真幸は『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂)を書いている。
大澤真幸は、この著作の中で、古生物学者であるデイヴィッド・ラウプの進化論から、進化というのは出来上がったものではなく、常に「適応へのプロセスにあること」を導いている。
ラウプの進化論は、正攻的な進化論ではなく、「絶滅」の視点から進化を考えるものとなっている。
「絶滅」のシナリオには、三つのパターンがあるという。
- 「公正なゲーム(fair game)」
- 「弾幕の戦場(field of bullets)」
- 「理不尽な絶滅(wanton extinction)」
一つ目の「公正なゲーム」は、「進化論」として一般的にイメージするもので、繁殖において有利な遺伝子をもっている種が生き残り、不利な遺伝子をもっている種が絶滅に至るというものである。
二つ目の「弾幕の戦場」は、たまたま運が悪い生物が絶滅に至るというシナリオである。
戦場で無差別に撃たれる弾丸(天体との衝突、火山噴火などの状況)のもとに絶滅するか否かは、生物的な優劣の差ではなく、運の問題である。
三つ目の「理不尽な絶滅」は、上記二つを合わせたようなところにある。
大澤真幸は、白亜紀の天体衝突による地球規模の寒冷化で絶滅した生物の中で生き残った「珪藻類」の例を挙げている。
珪藻類は、海流の影響で栄養分がとれない季節に「休眠する能力」をもっていて、それが地球規模の寒冷化という環境において役立ったという。
これが、前の二つのシナリオとどう違うのか。冬眠の能力が環境に適応的だったと解釈すると、第一のシナリオに回収できるように思える。しかし、珪藻類の冬眠の能力は、天体衝突に備えて進化してきた性質ではない。それは、もともと、湧昇流の季節的な変動に対応して進化してきたものである。ゲームのルールが偶発的に変わってしまったのだが、たまたま、前のゲームのために発達させていた能力が、後のゲームでも役立ったのである。こういうやり方で勝利者が決まったとき、われわれは、これを「公正なゲーム」だとは感じないだろう。「珪藻類は適応的な性質をもっている」とは言えない。そうではなく、ルールの変更の後に遡及的に、珪藻類は適応的だったと見なされるのだ。
大澤真幸『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂)
地球環境は、常に「変化」の内におかれている。
だから、進化の「適応状態」があるのではなく、常に「適応へのプロセス」の中に、生物は生きている。
真木悠介は、進化というのは適応をめざしている「試行錯誤の連続」だと言っている(『<わたし>と<みんな>の社会学』太田出版)。
生物の「多様性」の本質はそこにあるという。
そのようなプロセスの中で、ときに「ゲームのルール」が大きく変わってしまうことがある。
木々が倒れ、枝々が折れている中で、花壇の中で美しく咲く花たちを見ながら、木々や花たちの環境というゲームのルールは人間によって変えられてきたことを、ぼくは考える。
そして、人間社会も「ゲームのルール」が大きく変わることがある。
現代という「過渡期」は、「ゲームのルール」が書き直されている/いく時代だ。
新しい時代に、ぼくたち一人一人がそれぞれに違った仕方で「花」を咲かせることができるとよいと思う。
ただし、人はその人生において「試行錯誤の連続」に生きている。
そのことが、人の「多様性」をつくってもいる。
その多様性の中で、「花」は今日咲くかもしれないし、明日咲くかもしれない。
ぼくたちにできるのは、日々の「試行錯誤の連続」を、豊饒に生きてゆくことである。
台風が通り過ぎたばかりの香港で、ぼくはそのようなことを思う。
異なる「時間の流れ」の間隙で、仕事をすること。- 「タイム・トラベラー」として世界で生ききるということ。
それぞれの社会に流れる<時間>、つまり人びとの振る舞いや動き、人と人とのやりとりなどのに感じられる総体としての<時間>は、それぞれの場所で異なって現れる。...Read On.
それぞれの社会に流れる<時間>、つまり人びとの振る舞いや動き、人と人とのやりとりなどに感じられる総体としての<時間>は、それぞれの場所で異なって現れる。
ブログ『異なる「時間の流れ」の中に身をおくこと。- 世界は「いろいろ」に現象する。』(8月16日)にて書いたように、例えば「海外」という異なる社会に身をおいたときに、その社会の「時間の流れ」は、いろいろに感じられる。
それは、ぼくに「感覚としての自由」を与えてくれる。
しかし、他方、現実問題として、異なる社会の間で「仕事」をするようなとき、共通の「(時計的な)時間」のもとで、「いろいろに現象する時間感覚」は、フラストレーションの源泉ともなることがある。
1日24時間という「時間」を基準として仕事をしながら、しかし、Aという場所での「時間の流れ」とBという場所での「時間の流れ」が異なる。
それぞれの場所にいる人たちは、自分たちのいる場所の「時間の流れ」を、当たり前のこととして仕事をし、相手側の「時間の流れ」を感じることができないことから、「時間の流れのギャップ」が生じる。
ぼくが、東ティモールで仕事をしているときは、よくそんなことを感じた。
「途上国」的な時間の流れ、その流れで人や組織が動くようななかで仕事をしながら、日本とのつながりのなかで「日本的な時間の流れ」が仕事に混入してくる。
それは、具体的な仕事の流れから、自分のマインドセットに至るまで、自分(また組織)の仕事のいろいろなレベルにおいて影響を与える。
「東ティモールという外部環境」のなかでは、その時間の流れにあわせて動いたりしながら、他方で、コンピューターや電話越しに対峙する「日本という外部環境」のなかで、日本的な時間の流れにあわせて動いていく。
そのように、自在に行き来する柔軟さが求められる。
また、香港で仕事をしてきて、今度は香港と日本それぞれの時間の流れの相対性のなかに置かれる。
この相対性におけるギャップは、時間はもとより、そこに付随するような仕事の仕方など、重層的に影響を与えることから、フラストレーションがたまる。
香港という、実行・実施におけるスピードの速い社会においては、そこの断面における、日本の(判断・決断や実行の)「遅さ」が浮かびあがってくる。
異なる社会の「間」で仕事をしていくなかで、「(時計的な)時間」の共通尺度のもと、それでもそれぞれの社会に流れる<時間>を自由に行き来することが大切だ。
「(時計的な)時間」という共通尺度をもったこと、またその全世界的な浸透ということは、現代のグローバル化の素地を用意したことであり、それはぼくたちの「世界」をひらいてきた。
今こうして、世界で仕事をし、世界を旅し、いろいろな人たちと会ったりコミュニケーションがとれるのも、この「(時計的な)時間」のおかげである。
しかし、それぞれの社会には、それぞれに内的な<時間>が流れている。
そのことは、ときに、ぼくたちに「世界はいろいろに現象する」という<自由な感覚>を与えてくれるけれど、他方で、何か共通のものを一緒に目指すときには<困難な感覚>と現実的な困難の源泉ともなることがある。
グローバルに生きてゆくということは、これらの意味において、「タイム・トラベラー」になるということでもある。
仕事における日々の「タイム・トラベル」は大変だったりするけれど、それでも、「タイム・トラベル」は、総体としては自由の感覚をぼくに与えてくれる。
そして、ひとつの社会の「時間の流れ」ともうひとつの社会の「時間の流れ」という<相対性>のなかで、ぼくたちは「相対化の力」を手に入れることができる。
つまり、ひとつの社会が「絶対的なもの」ではなく、それを相対化してみせることで、社会や組織、それからひとりの人の生き方にいたるまで、「世界をひらいていくこと」の契機としていくことができる。
異なる「時間の流れ」の中に身をおくこと。- 世界は「いろいろ」に現象する。
日本の外に初めて出たときもそうだったけれど、「海外に出ること」とは、自分を日本とは異なる「時間の流れ」にさらすことであった。...Read On.
日本の外に初めて出たときもそうだったけれど、「海外に出ること」とは、自分を日本とは異なる「時間の流れ」にさらすことであった。
小さい頃から信じていた「ひとつの世界」のようなものが、実は「いろいろ」に現象するのだという感覚を、身体を通じて得ることは、ぼくにとってとても大きなことであった。
そして、今でも、例えば、ここ香港を一時的に離れると、それぞれの場所の「時間の流れ」に身を置きながら、そのような感覚を覚え、ときに異なる「時間の流れ」に身を置くことの大切さを思う。
自分は何をやってもだめだとか、自分は何も変えられないとか、自分の将来なんてないんだとか、自分が「煮詰まった経験」をするときは、異なる「時間の流れ」に身を置いてみる。
Aという場所があって、そのAがすべてだと思っていたら、いやBもCもあったという感覚は、人をー少なくとも、ぼく自身はということだけれどーを安心させるのだ。
「時間の流れ」を変えるということは、方法としては「空間の移動」である。
論理的には、大別すると、二つある。
- 社会(人)⇄自然
- 社会(人)⇄もうひとつの社会(人)
ひとつめは、「社会」から離れて、「自然」の流れに身をひたすことがある。
山登りや航海など、社会的な時間から離れ、自然の(時間の)流れのなかで、これまでいた社会的な時間が相対化される。
解剖学者の養老孟司は、「都会と田舎の参勤交代」(6ヶ月をそれぞれで過ごす)を日本で制度化すべきということを、真剣に語っているほどに、社会と自然の間の「行き来」は、生きることの大切な契機とすることができる。
ふたつめは、ひとつの社会を離れて、もうひとつの社会の流れに身をひたすことである。
同型の文化内(例えば、日本国内)での移動も、方法のひとつである。
しかし、「海外」、とくに文化の大きく異なる場所に身をひたすことで、相対性の幅が大きくなり、自分への影響もより大きくなる。
この文章の冒頭で述べたことは、ふたつめの内の「海外へ」という方法だ。
海外という異なる「時間の流れ」における時間とは、いわゆる時計的な「時間」ではない。
「時間の流れ」は、人びとが話す仕方、人びとがやりとりをする仕方、人びとの身振り、その集合的な社会の動き、そこの空気の流れなどの総体のようなものである。
海外であっても、都会と都会は似たような「時間の流れ」であったりするけれど、それでもそれぞれの場所の「時間の流れ」が否応なく流れている。
世界の「紛争地域」において、国際機関やNGOなどではたらく人たちは、一定期間はたらいたら、その地域の「外部」に出ることを制度・仕組みとしている。
「紛争地域」という過酷な生活において、知らず知らずのうちにためてしまっている「身体的・精神的ストレス」を、緩和したり取り除くことを目的としている。
このことは、異なる「時間の流れ」に身を置くことでもある。
ここでの「時間」は、「社会」と置き換えてもよいほどに概念上の射程をひろくして使っているけれど、この実践の影響力はとても大きい。
紛争地域の「内部」にいたときは気づこうにも気づけなかったストレスや過度な緊張が、「外部」に出ることによって相対化され、明確に感じるようになる。
「あぁ、ぼくは相当緊張して、相当に疲れていたんだな」と、感じることになるのだ。
紛争地域の内部から外部に出ることは少し極端な例であるかもしれないけれど、ぼくたちは、ひとつの社会の「外部」に出ることを方法とすることができる。
もうひとつの社会で、異なる「時間の流れ」に身をさらし、ひとつの社会ともうひとつの社会の相対性の只中で、凝固していた身体と精神がほぐれていく。
現代は、VR(ヴァーチャル・リアリティ)の発達を見ているけれど、VRの世界が、VRで違う場所に訪れる人たちに、どれほどまでに「時間の流れ」を変えることができるかどうかは、ぼくはわからない。
おそらく(あくまでもおそらくということだけれど)、実際に身体に蓄積された「経験」に応じて、VRが連れていってくれる世界の奥ゆきは変わってくるものと思われる。
その限定性のなかで、だから、実際に、例えば海外に出て、違う「時間の流れ」に身体をひたすという「体験」が大切であるように、ぼくは思う。
時計的な「時間」ではない、社会やコミュニティや環境などに内的に共有される<時間>は、それほどまでに深淵である。