香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

海外をつなぐ「ビデオ通話」のこと。- 手紙とポストカードのノルタルジアとともに。

1990年代に、アジアを旅したり、ニュージーランドに住んでいたりしたときには、まだ、ビデオ通話はなかった(方法はあったかもしれないけれど一般的ではなかった)。もちろん国際電話はできたのだけれど、それなりにお金もかかるし、余程の急ぎの件がなければ国際電話はしなかった。

1990年代に、アジアを旅したり、ニュージーランドに住んでいたりしたときには、まだ、ビデオ通話はなかった(方法はあったかもしれないけれど一般的ではなかった)。もちろん国際電話はできたのだけれど、それなりにお金もかかるし、余程の急ぎの件がなければ国際電話はしなかった。

だから、ふつうのときであれば、旅先から、あるいはニュージーランドの住まいから、ぼくは「手紙」や「ポストカード」を手書きで書き、また家族や友人たちのなかには手紙やポストカードを送ってくれる人たちもいた。あるいは、東京に住んでいると、ときおり、海外を旅している友人たちからのポストカードが届いた。

相手のことを思いながら書き、手紙やポストカードのなかに相手を感じる。それはとても「しあわせ」なときであったと、ぼくは思う。

そのような、日本と海外の距離(感)、あるいは親しい人たちとの距離(感)が、海外を旅したり海外に住んだりすることを、いっそう「特別なこと」のように感じさせたのであった。


2000年代になって、情報通信技術の発展によって、インスタント・メッセージやビデオ通話などが一般的になってきて、この「距離・距離感」が一変した。

「インターネット環境」が整っていれば、世界のどこにいても、この「距離・距離感」を一気に縮めて、いつでも誰かとメッセージをやりとりしたり、通話することができるようになった。ぼくが2000年代半ば頃に西アフリカのシエラレオネや東ティモールに住んでいたときは、さすがにネット環境が整っておらず、実際の距離も、そして距離感も「遠く」に感じたものであったけれど、それでもインターネットがある環境ではすぐさま「つながる」ことができた。

2010年代は、スマートフォンの普及もあって、この「つながり」が、いつでも、どこでも容易になった。

いまぼくは、ここ香港でこうして文章を書いているけれど、こうしていながら、世界各地へ/から、メッセージや通話でいつでも「つながる」ことができる。手紙やポストカードを書き、あるいは受け取っていた時代が、それほど遠くない過去であるのにもかかわらず、はるか遠くの過去のように感じられるのである。

この「つながり」は、ほんとうにすごいことだし、ありがたいことだし、よろこばしいことである。けれども、手紙とポストカードの時代を、ぼくは懐かしみながら、あの「感覚」が失われつつあることが残念であるようにも思う。

もちろん、今だって、手紙やポストカードを届けることができるし、そうすることでいつもとは違った気持ちをのせることができるのだけれども、それでも、いつでも容易につながることのできる状況がいつも手元にあることを思うと、1990年代のときとは「違う」という感覚がぼくのなかで湧き起こる。


それでも、そのような少し残念のような気持ちをふきとばすような光景に、ぼくはここ香港で、出会う。

香港には、35万人を超える「Domestic Helper」(つまり、住み込みのヘルパーの方々)がいて、ほとんどがフィリピンとインドネシアから来ている人たちだ(香港政府の特別なスキームで香港に滞在している)。香港の人口が740万人ほどであることを考えると、35万人という人数のすごさを感じる。実際にも、マンションでも、通りでも、ショッピングモールでも、どこでも、ヘルパーの方々にすれ違い、この香港で共に共生しているのだ(香港に来るまで、ぼくはこの状況を知らなかった)。

そんな彼女たちが、通りを歩きながら、とてもうれしそうな表情をみせている。そして、すれ違うようなとき、ぼくは気づくことになる。彼女たちは、スマートフォンのビデオ通話で、おそらく、ふるさとの家族やパートナーやボーイフレンドや友人たちと通話をしているのだということ。

こちらが見ようとしなくても、どうしてもそのような光景が目に入ってしまうのだ。でも、ぼくを捉えるのは、彼女たちの笑顔だ。

そんなとき、ビデオ通話があること、ビデオ通話がいつもできるような環境であることを、ぼくはほんとうにすばらしいことだと思うのである。手紙やポストカードへの、ぼくの小さなノスタルジアなど、一気に吹き飛ばしてしまう笑顔なのだ。

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時代や時間の区切り方。- 西暦と元号の併用、あるいは旧暦の並存について。

思想家・武道家の内田樹が、ブログ『内田樹の研究室』で、「元号について」(2018年12月7日)という、興味深い文章を書いている。ここでいう「元号」は、もちろん、日本の新しい元号(2019年5月1日)を照準している。

思想家・武道家の内田樹が、サイト『内田樹の研究室』で、「元号について」(2018年12月7日)という、興味深い文章を載せている。ここでいう「元号」は、もちろん、日本の新しい元号(2019年5月1日)を照準している。

朝日新聞から受けた「元号について」の取材を契機として、以前雑誌に書かれた文書に加筆された文章が、ここに掲載されている。

「いまの時代、元号なんて必要なのか?」という問いに対する、内田樹の応答だ。結論的には、「時代の区分としての元号はやっぱりあった方がいい」というのが、内田樹の立つところである。

確かに、西暦と元号の「併用」はややこしいし、「2019年」には平成と新元号元年の生まれが混在するし、あるいはいろいろなシステムや書類などの諸々もいっそうややこしそうだけれど、内田樹は、「西暦と元号の併用という「不便」に耐えるぐらいのことはしても罰は当たるまい」という立場にたつのだ。


私は西暦と元号の併用という「不便」に耐えるぐらいのことはしても罰は当たるまいという立場である。世の中には「話を簡単にすること」を端的に「よいこと」だと考える人が多いが、私はそれには与さない。「簡単にするにはあまりに複雑な話」も世の中にはある。それについては「複雑なものは複雑なまま取り扱う」という技術が必要である。…

内田樹「元号について」(2018年12月7日)、Webサイト『内田樹の研究室』


ぼくも、基本的に同意である。ぼくが思うのは、「統一」するのがどうしても必要なものもあるけれど、<多様性>を保持することが肝要であることだ。見田宗介が書いたように、世界は、「標準語」(言語もそうだけれど、言語以外のことも)ではなく、<共通語>をもっていくことが課題である。「標準」は世界をつまらなくさせるし、あるいはもともと多様な人たちを抑圧してしまうこともある。「多様性」は、世界をおもしろくする。


内田樹の語るところも、もう少し見ておこう。


元号を廃して、西暦に統一しようというような極端なことを言う人がいるが、私はそれには与さない。時代の区分としての元号はやっぱりあった方がいい。そういう区切りがあると、制度文物やライフスタイルやものの考え方が変わるからである。元号くらいで人間が変わるはずはないと思うかもしれないが、これが変わるから不思議である。…

内田樹「元号について」(2018年12月7日)、Webサイト『内田樹の研究室』


内田樹は「明治人」としての父親を例として挙げながら、その「不思議さ」(じぶんの脳内幻想としての「模造記憶」)について語っているが、そのあたりは内田樹のブログを読んでほしいと思う。

また、日本のように「元号」がない国も、「元号に代わるもの」を持っていることを、内田樹は指摘している。イギリスでは王が交代することで時代が区切られ、アメリカでは「10年(decade)」という時代区分が使われたりしてきた。さらには、そもそも「西暦」も、「イエス・キリストの生年を基準とする紀年法」であり、価値中立的なものでもないことに、内田樹は触れている。


ところで、西暦や元号などの「多様性」を好ましいものとして考えるのは、考えるとともに、この心身に感覚として感じるものがある。それは、時代という大きな区分ではないけれど、「一年」ということの区切り方として、中国の旧暦を生きてきた実感が、ぼくのなかにあるように思うのだ。

東ティモールに住んでいたとき、華人の人たちは旧暦にあわせて自国に帰国してしまい、その時期を考慮してプロジェクトを進行させる必要があったりして、ややこしかった経験がぼくにはある。あるいは、日本の元号も、今は何年と聞かれたら、ぼくはすぐに応えられない。

そんなぼくが、ここ香港で、10年以上暮らしながら、西暦と旧暦が「並存」する世界をじっくりと生きてきて、なんだか、異なることはいいことだと感じてきたのである(もちろん、並存によって「ややこしい」こともある。香港の労働法の規定にも影響していたりする)。

西暦と旧暦が「並存」する世界に生きてきて、逆に、世界や社会がひとつの「時代的/時間的な枠組み」のなかに入ってしまったら、それは逆にこわいことだと思いはじめたのだ。

「異文化」という言葉には「ややこしさ」の感覚がどこか含まれているようにも感じるが(そしてぼくも実際に、さまざまな「ややこしさ」に悩まされてきたのではあるけれど)、<異なり>があるからこそ、いろいろなものやことが<視える>こともあるし、可能性もひらかれるし、やはりおもしろいのだと、ぼくは思うのだ。

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「日本だけ」と言われることを体験・経験のなかに確認しながら。 - 異国での<書き換え>。

日本をはなれての異国の地における短い旅や異国に住むことを、それなりの長い時間をかけてしてきたなかで、それらの体験・経験がぼくのなかに少しずつ積層しながら、ぼくはときどき思うことになります


日本をはなれての異国の地における短い旅や異国に住むことを、それなりの長い時間をかけてしてきたなかで、それらの体験・経験がぼくのなかに少しずつ積層しながら、ぼくはときどき思うことになります。

「日本だけだよ、…」「日本くらいだよ、…」と言われてきたことは、かならずしも「日本だけ…」ということではないということをです。

「日本だけだよ、…」につづく言葉は、よいこともあれば、あまり好ましくないこともあります。

でも、実際の体験や経験のなかで、その風景のなかで、そのように語られていた言葉やイメージが次第にくずれてゆくことになります。

1回や2回ほど目にしたということ以上に、「日常」を生きてゆくなかで、「日本だけだよ、…」の語法が機能しなくなってゆくのです。


もう20年以上前のことになるけれど、ニュージーランドに住んでいたときは、蛇口からでる水が「飲める」ということに、ぼくは小さな、でも意表をつかれたおどろきを感じたものでした(今はどうなっているかはわかりませんので、飲まれる際にはご確認を。なお、ぼくはそれでも蛇口からの水は沸騰させて飲みましたが)。

オークランドで、ぼくは同年代の人たち(多くはオークランドの大学に通っているニュージーランドの人たち)と一軒家をシェアしていて、ニュージーランドの人たちの暮らしかたを目の当たりにしながら生活をしていました。だから、フラットメートが蛇口からの水が飲んでいるのを見て、蛇口から水を飲めるのは世界で「日本だけ/くらい」と思っていたから、びっくりしたのでした。

飲むことにほかに、食べることでもそのようなことはあります。たとえば、よく言われる「麺をすする」食べ方。「麺をすする」食べ方は、日本人だけ/日本人くらいだと思っていると、ここ香港のレストラン・食堂で、となりの席の人が麺をすするように食べているのを見て、「あれ、違うぞ」と、ぼくはじぶんの認識をよびだして、そこに注をつけたり、あるいは書き換えをしなければならなくなるのです。そんなふうに「書き換え」をしたあとに、韓国のテレビドラマのなかで、麺をすするシーンがあるのを見たりもしました。

さらに、飲むことや食べることに加え、住むこととなると、ぼくはどこかで、住環境が「狭い」のは日本だけだと思っていたのでしたが、香港に住んでみて、日本だけじゃないぞ、と身体で実感することになりました。日本の細やかな技術や製品(たとえば収納用品など)が、香港のような場所に活躍の場をもっているわけです。


もちろん、「日本だけだよ、…」「日本くらいだよ、…」という言い方は、語っているものごとを誇張し強調するための便宜的な言い方かもしれません。ほんとうに「日本だけ」とは思っておらず、ただ圧倒的な少数としての意味合いで「だけ」や「くらい」を使っているということです。

それでも、そのような言い方をふだんからしていると、それがあたかも「現実」のように感じられたり、考えられたりしてしまうように、ぼくは思います。ぼくも生まれてから20年くらいのあいだに、いろいろな言葉や思考を吸収して、思い込みや偏った見方をそれとなしに、じぶんのなかに構築してきてしまったのだと思います。


さらに、これまでの巨大な知性たちが語り、知性たちの延長線上に「日本辺境論」として内田樹先生がえがく、日本・日本人の思考・行動様式も思い起こされます。


私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
 日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません…。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。…

内田樹『日本辺境論』新潮新書


「日本とは…」という日本文化論の<決定版>をもたず、常に同一の主題に繰り返し回帰する。日常のなかで、悩み、じぶんを見つめ直し、他者たちとの距離を確認し、じぶんのあり様をながめる。そのようなあり様が、「日本だけ」や「日本くらい」という語法とも、どこか結びついているように、ぼくには見えます。


いずれにしろ、ぼくは、じぶんの体験・経験のなかで、じぶんのなかの何かをこわしながら、じぶんのなかに何かをつくってきているのだということを、現在進行形の時制で感じています。

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「外国に行って外国の人とよくつきあう日本人」は日本のことを理解しているか?。- 作家橋本治の叱咤激励。

ぼくがちょうど、海外に出るようになった1990年代半ば、作家の橋本治は、日本が経済大国となった頃に外国のあちこちで挙がることになった「日本人はよくわからない」という声について、その「理由」の推測を、つぎのように書いている。

ぼくがちょうど、海外に出るようになった1990年代半ば、作家の橋本治は、日本が経済大国となった頃に外国のあちこちで挙がることになった「日本人はよくわからない」という声について、その「理由」の推測を、つぎのように書いている。

 …どうして外国の人が日本のことを「わからない」というのか?理由はいろいろあるでしょうが、私には「もしかして」と思うことがあります。それは、「外国に行って外国の人とよくつきあう日本人が、あまり日本のことを知らないから」ということです。
 …英語を熱心に勉強してちゃんと英語が話せるようになった日本人はいっぱいいます。英語が話せて、外国語にくわしくて、外国人とよくつきあう人たちです。でも、そういう人たちが、一転して「日本のこと」になったらどうでしょう?日本の古典や日本の歴史や日本の伝統文化のことをきちんと理解している人たちは、どれくらいいるでしょう?

橋本治『これで古典がよくわかる』(ごま書房 1997年→筑摩書房 2001年・2014年に電子書籍)

この箇所を読みながら、ぼくはなぜか「既視感」を覚えていた。

ぼくは2000年前後にこの本を「読んでいた」のかもしれないという感覚である。

それで、たぶん、そのときにおいても、この箇所が「気になる」ところで、またじぶんに「突き刺さってきた」ところであった、という感覚である。

1990年代半ばから、アジア諸国を旅し、また1996年にニュージーランドに住んだぼくは、「「日本のこと」になったらどうでしょう?日本の古典や日本の歴史や日本の伝統文化のことをきちんと理解している人たちは、どれくらいいるでしょう?」という言葉を強烈に突きつけられたのであった(と思う)。

もしかしたら、この本を以前に「読んでいない」のかもしれないけれど、それでも、どこかで出会った同じ趣旨の言葉に、当時のぼくは、「理解していない」、の言葉以外に返す言葉をもちあわせていなかった。

実際に、たとえば、ニュージーランドで「日本のこと」を聞かれて、応えられることもあれば、応えられなかったこともあり、そのような経験は、日本のことを「理解していない」じぶんを浮き上がらせてきたのであった。

明確に書いておきたいことは、「日本・日本のこと」を知りたいとぼくが心の底から思ったのは、「日本の古典や歴史や伝統文化を学ばなければだめじゃないか」という声によってではなかったこと。

むしろ、外国の人たちに聞かれて「応えられなかった」ことの情けなさ、あるいは、日々の仕事や生活のなかでどうしても現出してしまう「日本的なるもの」の存在(異文化との差異のなかで明示的に浮かび上がってくる思考や行動)といったものが、「日本・日本のこと」を知りたいと思う気持ちを醸成し続けてきたのだと、ぼくは思う。

また、日本から物理的に距離を置いているという距離感が、ある程度客観的な思考の条件をつくり、さらには「日本・日本のこと」への好奇心の火に薪をくべてくれたのであった。

と同時に(とは言っても多少の時間差はあっただろうけれど)、「他者」、つまり住んでいる国や地域の人たちのことも、もっともっと知りたくなったということも、ぼくの経験に刻まれている。

だから、「日本・日本のこと」だけを知ろうとするのではなく、ぼくは好奇心の赴くままに、楽しみながら学んでいる。

ところで、2000年前後から時はうつり、今では、ほんとうに多くの外国の人たちが日本を訪れるようになった。

冒頭に挙げた橋本治の言葉を裏返せば、もし「日本人はよくわからない」と言われるのであれば(今実際にどう言われているかはわからないけれど)、「日本で外国の人とよくつきあう/コミュニケーションをとる日本人が、あまり日本のことを知らないから」ということもあるかもしれない(もちろん、日本を訪れる人たちは、言葉によるコミュニケーションだけでなく、まさしく「体験」として日本にふれることになるので、事情は異なっている。)。

このように書いて、「だから、日本のことを知ろう」などと声高らかに語ろうとはぼくは思わない。

でも、なんらかの形で、いろいろな文化の人たちと「ふれあう」体験があってほしいなとは思う。

そしてそんな「ふれあい」が、心温まるものであったり、ただ可笑しさにあふれるものであったり、あるいは何かの「問い」や好奇心を立ち上がらせるものであったりするとよいなと思う。

相手を知るということは、雪がふりつもっていくように、そのようなふれあう体験のつみかさねである。

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内戦下の子どもたちが放つ「ゆるし forgiveness」の声。- 「ゆるしは、まるで水のようなんだ」(Gausくん)。

『National Geographic』(ナショナル・ジオグラフィック)の短い映像に、ぼくは強い磁力に引かれるようにして、ひきこまれてしまった。

『National Geographic』(ナショナル・ジオグラフィック)の短い映像に、ぼくは強い磁力に引かれるようにして、ひきこまれてしまった。

「Healing From a Civil War, These Children Choose Forgiveness」(内戦から癒されること、これらの子どもたちは赦しを選ぶ)というタイトルと、動画リストに映されている子どもたちの眼差しに、ぼくは、なんとも言えない身体的な揺らぎを感じながら、引かれたのである。


Bintouちゃん(12歳)はイスラム教徒、またGausくん(9歳)はキリスト教徒。

中央アフリカ共和国で2012年から続く内戦(内戦は一方で宗教間などの争いの様相を呈す)において、二人はそれぞれ、派閥の敵対する側におかれることになった。

内戦にまきこまれた子どもたちが、その体験を振り返りながら自らのことばで語る。

声は今にもとぎれそうな声である。

家族を殺されながら、でもそこに「復讐」の連鎖をつくるのではなく、「ゆるし forgiveness」の声を放つ。

内戦前はふつうに共生していた二人は、内戦による「分離 separation」の力に、こうして抗ってゆく。

眼はどこか虚空に向けられながら、なんとか「希望 hope」のかけらをつかもうとしているかのようだ。

子どもたちは「ゆるし forgiveness」を選択する。


この映像は、ぼくのなかで、(今は平和な)西アフリカ・シエラレオネの風景と重なる。

広大なアフリカを一緒くたに語ることはできないし、中央アフリカ共和国からシエラレオネの間には距離があるけれど、それでも、風景の近似性、そしてなによりも内戦による混乱、痛み、傷痕、語りつくせないものが、ひろがっている。

シエラレオネにぼくが滞在していたのは、2002年後半から2003年前半にかけてである。

シエラレオネは内戦が終結したばかりで、ぼくはNGO職員として、支援を展開するNGOの一員として活動していた。

シエラレオネ国内はもとより、隣国リベリアの内戦のため、リベリア難民がシエラレオネにおしよせていた。

そのときに、同じ空間を共有し、同じ空気を吸い、生きるという場を共にした、シエラレオネとリベリアの子どもたちの、その姿や表情が、この映像にどうしても重なってくる。

ぼくの「じぶん」ということに、彼ら・彼女たちの声が、共生している。



「Forgiveness is like water.」


「ゆるしは、まるで水のようなんだ」と、Gausくんは、しずかに語る。

映像は、子どもたちが井戸のようなところから吹き出す水で戯れる様子を映し出し、またGausくんが川の浅瀬のようなところを歩く姿を映す。

Gausくんがこのことばによって「何を」言おうとしたのかは、明確には語られていない。

でも、このことばは、ぼくの深いところに響いてくる。


ぼくが思うに、「水 water」は、まずは生活のためのものであるけれど、吹き出る水に「一緒」に戯れる子どもたちの表象は、子どもたちを(人を)「つなげる」ものとしてあるように見える。

また、水は、それに身体をひたすことにより、心身を「洗う」ものである(過去のこと・記憶を洗ってくれるものであり)と同時に、川の流れのように、絶えず流れをつくって、「洗い流してくれる」ものである。

まるで水のような「ゆるし forgiveness」とは、じぶんの内面を「洗う」と同時に、他者たちの/他者たちに向かう気持ちを「洗い流す」ものである。

このようなものとして、「水 water」とは、「生命そのもの」である。

子どもたちは「自然」の存在であり、このようなことを、意識することなく感覚しているように、ぼくには思えてくる。


「ゆるしは、まるで水のようなんだ」


「ゆるし forgiveness」を、じぶんたちで選んだ子どもたちの「物語」である。

それははるか彼方のことではなく、この先の平野と山と大海を超えていったところに生きている「物語」である。

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対話の仕方について。- ブッダの「対話作法」を知り、共感し、学ぶ。

日本から海外に出て、学びの必要性を感じ、関心をもったことのひとつに、「宗教」がある。

日本から海外に出て、学びの必要性を感じ、関心をもったことのひとつに、「宗教」がある。

タイやラオスやミャンマーを旅しながら、仏像や遺跡だけではなく、街の通りで出くわす僧侶たち。

マレーシアの早朝に、イスラムの祈り(録音されたもの)に目を覚ますことになる凛とした空間。

西アフリカのシエラレオネで、街の教会から聞こえてくる賛美歌。

東ティモールの、生活の隅々にまで浸透するカトリック、そこに呼ばれ参列しながら、ぼくは「宗教」をかんがえる。

特定の「制度宗教」(仏教やキリスト教やイスラム教など)を、ぼくは持たないし「生きかた」としてはいないけれども、それらをリスペクトしながら、また宗教学者の釈撤宗が言う「自然宗教」のような位相における(だれもがもつ)「宗教性・宗教なるもの」には、ぼくはオープンでいる。

「制度宗教」についても、この世界で生きてゆくなかで、もっと知らなければいけないと思い、本を読む。

釈撤宗と思想家である内田樹の「対話」「やりとり」が収められている著作『いきなりはじめる仏教入門』『現代霊性論』などは、わかりやすいことば、生きたことばで、これら、宗教・宗教性・宗教なるものを語ってくれていて、初学者にも、したがって(そうであるからこそ)深くかんがえてきたものにとっても、いろいろな意味で読者を触発するものである。

とても刺激に満ちた本たちである(だから、こうして触発されて、いくつかのブログを書いてきている)。

なかでも、「制度」化された宗教のこと以上に、その最初の生成、つまり、たとえばゴータマ・シッダールタ(ブッダ、釈迦、釈尊など)の考えたこと、悩んだこと、生きかたなどは、ぼくの関心をひく。

釈撤宗は、仏教は「相対性を基底にした宗教」であること、釈尊の瞑想方法は「理性的で分析的なもの」であったことなどを指摘しながら、また「釈尊による説法の作法」として、つぎのように(文章の注記で)書いている。

釈尊は誰にでも同じ話をしたわけではないようです。対機説法(相手の状況や能力や傾向に合わせて教えを説く)、次第説法(相手のレベルに合わせて教えを説き、だんだんレベルアップさせていく)、といった手法を使ったといわれています。いわば、めざす山の頂点は同じでも、いろんな登り方やルートがある、といった感じでしょうか。ですから、仏教は、異端や正統という区別には鈍感です。いや、寛容か。

内田樹・釈撤宗『いきなりはじめる仏教入門』(角川ソフィア文庫、2012年)

「相手の状況や能力や傾向に合わせて教えを説く」方法(対機説法)や「相手のレベルに合わせて教えを説き、だんだんレベルアップさせていく」方法(次第説法)は、現代においても、コンサルティングなどの方法に通じるところがある。

別に、コンサルティング的なことに限定しなくても、たとえば、映画「スター・ウォーズ」におけるヨーダの対話作法でもあるだろう。

なお、「対機説法」については、中村元も、著作のなかで、つぎのように書いている。

 原始仏教には体系的な教説というより、いろいろな人、いろいろな立場の人との対話が数多く載せられております。ブッダに教えを乞いにきた人にたいして、まずその人が思っていることをいわせてみて、それに応じて諄々と説法していくという場合が多く見られます。これは仏教の特徴ともいえるでしょうが、いわゆる対機説法といって相手に応じて違った言い方で自在に応じるということになります。
 相手を頭から否定してしまったり、争ったりということを固く戒めております。このことが、後世に仏教が大きく発展していく要因となったのでありましょう。

中村元『ブッダ伝 生涯と思想』(角川ソフィア文庫)

中村元はここで、「仏教」というぜんたい(仏教の特徴や発展)から遡ってブッダの作法を語っていて、ブッダの「方法」が伝えられ、制度化されてゆく道すじの一端を教えてくれているけれども、ぼくにとっては、ただシンプルに、ブッダがそのような対話の作法をとっていたことに興味をひかれるのである。

そして、「教え」ということについても、なにかが「わかった」と思ったところで、ふたたび、その「わかったこと」を懐疑してゆくという、「相対性」でもって立ち向かい、「理性的かつ分析的」にかんがえる作法は、ぼくもふだんのなかで配慮している方法のひとつである。

いやはや、いろいろと興味をひかれ、いろいろとかんがえさせられるのである。

 

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「ジャガイモ」について。- 主食としてのジャガイモ、ベークドポテト、情報化・消費化社会。

香港のショッピングモールを歩いていて、レストランの入り口にスペシャルメニューが写真付きで宣伝されているのを見る。

香港のショッピングモールを歩いていて、レストランの入り口にスペシャルメニューが写真付きで宣伝されているのを見る。

メニューは「Baked Potato」(ベークドポテト)で、なんとも美味しそうなイメージにあふれている。

そのレストランに入るつもりはなかったけれど、値段を確認してみると、結構な値段で少しびっくりしてしまう。

「びっくり」の根拠のひとつは、ぼくの「ジャガイモ」に対する見方がある。

一個のジャガイモを単純に値段で価値を決めてしまっている見方である。

もちろん、現代においては、「高級な」ジャガイモがあることは知っているのだけれども、ぼくの生活史が、ジャガイモの見方に影響している。


そもそも、日本に住んでいたころは、ジャガイモはフライドポテトやマッシュドポテトのように、それ自体が主食になるようなことはなかったのが、ニュージーランドに住んでいたときに、「主食代わり」として食卓に出てきたことが、ぼくの「見方」を変えることになった。

一軒家をシェアしていたハウスメイトたちと家で一緒に食事を食べるときに、ジャガイモが主食であったりしたのだ。

あるいは、キャンプサイトで、サイトのオーナー主催のパーティに出た際にも、確か、ジャガイモがどーんと出されていたと思う。


ところで、ヨーロッパの多くの国では、ジャガイモを主食として食べるということについて、それは「昔」からそうであるのではないことを、内田樹は書いている。


…ヨーロッパの多くの国ではジャガイモを主食代わりに食べます。ジャガイモの中にはヨーロッパ人を育てる大地の恵みが含まれているとその人たちは考えているかもしれません。でも、ジャガイモがヨーロッパに広がったのは十七世紀です。もともとアンデス山地が原産地で、インカ帝国を侵略したスペイン人が持ち帰ったんです。…
 私たちが「伝統」とか「固有の」とか思っているもののかなりの部分は伝統的でもオリジナルでもなく、ちょっと前にどこかから入ってきたものです。…

内田樹『街場のアメリカ論』(文春文庫、2010年)

ニュージーランドにジャガイモが入った事情は知らないけれど、ヨーロッパなどを経由して、いつしか「ちょっと前に」入ってきたものだろうと推測してみる。


世界を旅したり、住んでいたりすると、こんなことを考えてしまう。


なにはともあれ、ニュージーランドでの生活は、ぼくの「ジャガイモの見方」と、また言ってみれば<ジャガイモとの関係性>をいくぶんか変えることになったのである。

ニュージーランドの大きなスーパーマーケットなどに行くと、ジャガイモが大袋に入れられて売られていて、そのリーズナブルな値段に驚いたことを覚えている。

そんなイメージがぼくの中に埋め込まれているなかで、ここ香港で、一個のジャガイモが「ベークドポテト」になって、トッピングされて、この値段にまさしく「跳ね上がる」ことにびっくりしたというわけだ。


「値段」というものは絶対的なものではないから、好きなものであれば値段を気にせず食べればいいと思う。

けれども、「一個のジャガイモ→ベークドポテト」への変身による「値段の跳ね上がり」を見てぼくが連想していたのは、社会学者の見田宗介が『現代社会の理論』(岩波新書)で書いていた「ココア・パフ」の話である。

ココア・パフとはゼネラル・ミルズ社によって販売されるシリアルの一種であり、原料はトウモロコシ粉、砂糖、コーンシロップ、ココア、塩などである。

ある生産者組合の書記長が、当時トウモロコシの一ブッシェル当たり生産者価格が平均二ドル九十五セントであったことを考慮し、それが「ココア・パフ」という商品になって消費者のわたるまでに、生産者価格の二十五倍になったことなどを告発していることにふれて、見田宗介は告発の正当な論理から「はみだす別の論理」を取り出して、そこに「情報化・消費化社会の可能性」を見て取っている。


…秘密の核心は、第一に、少量の(あるいは微量の)ココアと砂糖と塩とを用いた、食料デザインのマージナルな差異化であり、第二に、「ココア・パフ」というネーミング自体にあったはずである。…「ココア・パフ」を買った世代は、「トウモロコシ」の栄養をでなく、「パフ」の楽しさを買ったはずである。「おいしいもの」のイメージを買ったのである。…
 …ゼネラル・ミルズ社が同じブッシェルのトウモロコシから二十五倍の売上を得たということは、逆にいえば、同じ売上を得るために、二十五分の一のトウモロコシしか消費していないということである。つまり、この場合、飢えた人びとからの収奪はそれだけ少ないということである。…理論として重要なことは、論理的な可能性の問題である。情報化/消費化社会というこのメカニズムが、必ずしもその原理として不可避的に、資源収奪的なものである必要もないし、他民族収奪的なものである必要はないということ…。

見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)


パフの楽しさやイメージは、「情報」というものがつくりだすことのできるものだ。

ジャガイモの話から逸脱したように見えるかもしれないけれども、「一個のジャガイモ→ベークドポテト」も、「トウモロコシ→ココア・パフ」と同じように、おそらく原材料の何十倍もの価格となり、消費者のダイニングテーブルでは、ベイクドポテトの楽しさとイメージを提供していると推測される。

「情報化/消費化社会というメカニズム」が、必ずしも、資源収奪的ではないものであることが、ここに見られると、ぼくは思ったのであった。

そして、思うに、日本食にはこれらと同じような可能性がたくさん見られるように思ったりもするのである。

こうして、「ジャガイモ」にも、いろいろと深くかんがえさせられるのである。

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書籍, 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 書籍, 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

香港で、本と知の「力学の地図」をかんがえる。- 香港の書店の店頭の風景のなかで。

香港の書店にときおり訪れて、「最近の動向」を追う。

香港の書店にときおり訪れて、「最近の動向」を追う。

どんな本が読まれて、どんな本が関心を集めているのか。

日本の書籍の「中国語訳」は、ここ香港の書店でも、あらゆるジャンルのものが並んでいる。

大きな書店ではなく、小さな書店でも、日本の書籍の中国語訳を結構見ることができる。

 

また、ここ1、2年のことだろうか、日本の書籍の「英語訳」も、心なしか増えたように感じる。

正確に調査をしたわけではないけれども、香港の書店の店頭に、日本の書籍の英語訳を見つけることができる。

これまで、店頭で目にする日本の書籍の英語訳と言えば、古典的な文学作品や村上春樹の作品であったのだけれども、そのジャンルの幅を少しづつ広げているようだ。

近藤麻理恵の片付けの著作はもちろんのこと、「片付け」や「ミニマリズム・ミニマリスト」系の他の著作も並ぶ。

また、岸見一郎・古賀史健の『嫌われる勇気』の英語版(『Courage to be Disliked』)なども目にすることができるのだ。

 

英語などの著作の日本語訳はつぎからつぎへと出版されているなかで、その逆(日本語の書籍の英語訳)を見たときに、その少なさということがある。

本と知の「力学の地図」のようなものを描くとしたら、そこにはアンバランスがある。

ちょうど読み終えた、加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)のような作品が英語に訳されて、日本の外でも読まれるといいなと思ったりする。

けれども、このような著作が英語になるのは、まだいくつものハードルを飛び越えていかないといけなさそうだ。

出版社としては「売れる・売れない」の軸があるし、英語訳(のコストと労力)の問題もある。

 

さらに視野をひろげると、例えば、アジアの著作の日本語訳が多いというわけではなく、そこにもアンバランスがある。

ぼくもアジア圏の著作群を読むことができているかというと、あまり読めていない。

本と知の「力学の地図」が、ある意味で、ゆがんでいる。

飛躍するようだけれども、この「ゆがみ」と、この世界で起きていることの、さまざまな<ゆがみ>は、いろいろな回路を通じてつながっているように、ぼくは思う。

それらは、ぼくのなかの<ゆがみ>でもある。

香港の書店の店頭の風景のなかで、ぼくはそんなことを感じ、かんがえる。

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海外・異文化, Jun Nakajima 海外・異文化, Jun Nakajima

じぶんの「世界の○○な場所」の地図をつくる。-「The World's Greatest Places 2018」(TIME誌)の特集を読みながら。

「The World’s Greatest Places 2018」(2018年世界の最も素敵な場所)という特集が、TIME誌2018年9月3日号/10日号に掲載されている。

「The World’s Greatest Places 2018」(2018年世界の最も素敵な場所)という特集が、TIME誌2018年9月3日号/10日号に掲載されている。

副題には「100 Destinations to Experience Right Now」(今体験すべき目的地100)と付され、「新しい」目的地として100の行き先(博物館、公園、レストラン、ホテルなど)が厳選されている。

選定の基準として、クオリティ、オリジナリティ、創造性、持続可能性、影響が挙げられている。

特集の見開きページに写真と共に掲載されている、中国の天津の図書館「Tianjin Binhai Library」は、「A Haven for Book Lovers」と書かれるように、本好きのぼくにとってはとても魅力的だ。

それから、ここ香港からは「3箇所」(ホテル、レストラン、文化的施設)が選ばれている。

今の「新しい行き先」が選ばれているとおり、まだ、ぼくも行ったことがない(機会を見つけて、そのいくつかには行ってみたいと思う)。

 

いわゆる「定番」の行く先ではなく、「今体験すべき」行き先を眺めるのは(行くことはできなくても)楽しいものだ。

ひとつには、やはり「今」がきりとられていて、変わりつつある世界を少しでも感じることができる。

100の目的地すべてに行くことはできないから(「不可能」ではないけれども)、写真や文章などで「知る」ことは、大切な手段である。

 

ふたつ目には、じぶんではない他者たちの「お勧め」に、じぶんでは見つけることができなかった/知ることができなかったような場所が取り上げられていることである。

やはり、じぶんの「検索」だけでは視野が狭くなってしまう。

視野をひろげようと思って、普段しないような「検索」をしても、それでもそれほどひろがりを持てないかもしれない。

だから、他者たち(ここではTIME誌の編集者たち)による「お勧め」は、「じぶんの検索」幅を、じぶんが思ってもしなかったような仕方でひろげてくれる。

 

みっつ目には、「100の目的地」のトレンドやコンセプト、またそれらの「選定基準」というメガネは、今の<時代>のあり様、それから未来の萌芽を見てとるのに「参照」となる。

例えば、選定基準に、持続可能性(sustainability)や創造性(innovation)が含まれていて、その視点で選ばれた場所を知ることから、<時代を読むこと/考えること>ができるのだ。

 

このように特集を楽しく読みながら、他方で、じぶんにとっての「世界の○○の場所」という<地図>を、じぶんの体験・経験のなかにつくってゆくことが楽しいことだとも思う。

「○○」は、じぶんにとっての基準やテーマが入り(TIME誌のように「Greatest」も候補のひとつである)、その視点から「選定基準」もかんがえてみる。

また、ここでの「世界」とは、この地球ぜんたいというよりも、<じぶんの生きる世界>のことであり、ローカルな世界でもよい。

挙げる数はいくつでもよいけれど「100」とするのもひとつである。

「100」という数は、思っている以上に多く、列挙してゆくのは大変だけれども、その分飽きない数だ。

そんなふうにして、じぶんの「世界の○○の場所」の地図をつくってゆく。

TIME誌の特集「The World's Greatest Places 2018」を読みながら、そんなことをやってみようと、ぼくは思う。

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香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

香港で、「デング熱」に、注意を向ける。- 香港でのデング熱感染状況を受けて。

海外に住むときには、その土地での風土病や感染症などは、その基礎知識と対処法を知っておくことが大切である。

海外に住むときには、その土地での風土病や感染症などは、その基礎知識と対処法を知っておくことが大切である。

特に、日本に住んでいて海外に出ることになったときには、日本では見られない風土病や感染症について知っておくことである。

症状が出たときに(「もしかしたら」の可能性を)知らないままに対処してしまうことを避けたり、あるいは日本に戻ってから発症したときにも対処できるようにしておくためである(日本では特定のクリニックが対処してくれる)。

 

ここ香港で、デング熱への注意が喚起されている。

香港のライオンロック公園(Lion Rock Park)が、8月17日(金)より30日間、閉鎖されることになった(※South China Morning Postの記事「Lion Rock Park closed for 30 days to wipe out mosquito breeding sites after 11 people get dengue fever in Hong Kong」)。

「デング熱」の感染ケースから、公園での蚊の駆逐が必要と判断されたためである。

判断の背景には、デング熱の感染が確認された11名の内の9名が、ライオンロック公園を訪れていた事情があるという。

 

「デング熱」については、感染症についてぼくがよく参照にしている、日本の「国立感染症研究所」のサイト(「デング熱とは」)によると、「ネッタイシマカなどの蚊によって媒介されるデングウイルスの感染症である。デングウイルスはフラビウイルス科に属し、4種の血清型が存在する。比較的軽症のデング熱と、重症型のデング出血熱とがある」と書かれている。

デング熱の症状としては、「感染3~7日後、突然の発熱で始まり、頭痛時に眼窩痛・筋肉痛・関節痛を伴うことが多く、食欲不振、腹痛、便秘を伴うこともある。発熱のパターンは二峰性になることが多いようである。発症後、3~4日後より胸部・体幹から始まる発疹が出現し、四肢・顔面へ広がる」とある。

 

ところで、デング熱のニュースに反応するのは、ぼくが以前、デング熱に感染したことがあるからでもある。

それは、10数年前に東ティモールに住んでいたときに起こった。

始まりは、ある日、突如の高熱(かなりの高熱)としてやってきたのであった。

それまでに、シエラレオネと東ティモールで、マラリアに幾度かやられていたから、そのときも、マラリアだと思い、マラリア治療薬を飲んで、休むことにした。

でも、マラリア薬を飲んでも、一向に、よくならず、関節痛などがひどく、また皮下の発疹が顕著に現れてきた。

後日、それがデング熱であることを知ったが、いわゆる治療という治療方法がないデング熱を、ぼくはこの身体と休養でのりこえるしかなかった。

そして、デング熱は、かかった後に、異なる血清型につぎにかかると重症化することがあり、それからはさらに蚊対策と免疫力の維持には注意をはらってきた。

 

香港や中国華南でもデング熱は見られるから、ぼくは自分の「情報アンテナ」をはっている。

そして、なによりも、じぶんの身体の状態をととのえ、できるかぎり免疫力を維持するようにしている。

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海外・異文化, 言葉・言語 Jun Nakajima 海外・異文化, 言葉・言語 Jun Nakajima

レストランで、「何を食べますか?」と聞かれるときの応答。- 文化と文化の<はざま>で。

海外に住んでいて、例えばレストランに招待され、「何を食べますか?」と聞かれる。

海外に住んでいて、例えばレストランに招待され、「何を食べますか?」と聞かれる。

あるいは、家にお邪魔していて、「何をしたいですか?」と聞かれる。

もし、あなたが、このような状況であれば、どのように応答されるだろうか。

 

この質問文は、厳密には、「あなたは…?」というように、「あなた」が主語として話される。

「あなた」の意向が問われている。

当たり前と言えば当たり前だけれども、日本で生まれ育ってきた人たちにとって、慣れない内は、応答するのに難しかったりする。

 

応答すること自体が難しいというよりは、適切に応答することが難しい。

日本であれば、応答は、例えば、レストランの設定では、「何でもいいですよ」とか、「何でも結構です」とか、「お任せします」とか、「同じもので」とかであったりする。

それは、日本であれば(あるいは海外でも日本的な場であれば)、ふつうの応答である。

けれども、海外(場所と状況によっても違うのだけれど)においては、上述の通り、「あなた」の意向が問われている。

だからといって、「私は…食べたい」「私は…したい」という応答は、なかなか出てこなくて、より意識的に言葉を表出することになってしまう。

 

心理学者の河合隼雄は、自らの体験をベースに、これらのことを語っている。

 

…たとえば、私の子どもがスイスの幼稚園へ行っておりましたので体験したことですけれども、幼稚園に子どもが入ってくるでしょう。そしたら、先生が待っていて、入ってくる子に、「きょう、何したい?」と聞くんですね。その子が「ぼく、ブランコする」と言ったら、「はい、ブランコのほうに行きなさい」。その子が「絵をかきたい」と言ったら、「はい、絵のほうに行きなさい」と、こういうふうに言うわけです。
 ところが、その先生が言われるのは、私の子どもというのは「何をしたい?」と聞いてもなかなか答えないんですね(笑)。「何したい?」と言っても、顔を見てニコッとしているだけです。…

河合隼雄『カウンセリングを語る(下)』講談社+α文庫、1999年

 

これに続けて河合隼雄が語るように、日本では、「何したい」と言わないほうがよくて、「お任せします」というのは非常にうまくできた言葉として機能する。

だから、レストランにおいても、海外の人に「何にしますか?」と聞かれて、「自分はこれにします」と、すぐに言えるように、日本人は訓練されていない。

 

…われわれというのは、大人になっても、いつも「お任せします。どうぞ、どうぞ」とみんなが言うて(笑)、何や知らん間にきまっているという……。非常にうまいと思うのですが、「何をしたい」と言うてないんだけれども、全体の中で、結局、自分のしたいことができるようにわれわれは訓練されている。

河合隼雄『カウンセリングを語る(下)』講談社+α文庫、1999年

 

一個の個人と一個の個人との関係というより、河合隼雄が挙げるように例えば「おまえとおれの仲じゃないか」に見られる二人が一緒になってしまうような人間関係ができあがっているのが、日本的であったりする(河合隼雄は、「母性的人間関係」ということで論理を展開する)。

だから、「私は…食べたい」「私は…したい」という応答は、実際の状況において、なかなか出てこなかったりするのである。

 

海外に住みながら、慣れを味方につけたぼくは「私は…食べたい」「私は…したい」という応答をするのだけれど、ときに日本的な応答をしてしまったりすることもある。

レストランで海外の知り合いが、ぼくに「何食べたい?」と聞いてきたときに「何でもいいよ」とぼくが答えたりすると、場の流れが滞ってしまったりする。

文化と文化の<はざま>では、いろいろなことがあって、それらは鏡のように、「ぼく」を映し出している。

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ニュージーランドで、「日曜日」に、ぼくは生活様式を問われる。- 「当たり前」の風景から離れてみて。

もう20年以上も前のことになるけれど、ニュージーランドに住みはじめたとき、はじめのころなかなか慣れずにいたのが、「日曜日」であった。

もう20年以上も前のことになるけれど、ニュージーランドに住みはじめたとき、はじめのころなかなか慣れずにいたのが、「日曜日」であった。

慣れずにいたのは、日曜日には、街の大半のお店が閉店しまうことであった。

ニュージーランドに来る前までは東京に住んでいて、日曜日だって、祝日だって、夜だって、開店していることにすっかり慣れていたから、大半のお店が閉店してしまう「日曜日」を、はじめのころは、心身のリズムが合わないままに過ごしていた。

 

一方で「プラクティカルでないこと/便利でないこと」が好きになれず、他方で「(皆で一緒に)きっちりと休みをとること」の慣習もよいものだと思う。

この二つが同居していて、けれども、これまでのじぶんの「生活様式」における習慣からか、また異なる文化に対してぼくが充分にひらかれておらず、柔軟性に欠けていたからか、「プラクティカルでないこと」の気持ちがより優って、はじめのころは、どうしても日曜日が好きになれずにいたのであった。

ニュージーランドに着いたばかりのころ、オークランドの中心街にある宿に泊まっていたときは、日曜日はメインストリートであるQueen Streetは閑散とし、歩いているのは観光客(日本人観光客をよく見た)であったりした。

Queen Streetにある中規模のスーパーマーケットは(確か)限定された時間で営業していたから、ぼくは、食料の買い出しにスーパーマーケットに足を運んだのであった。

 

この図式に変更が加えられることになったのは、宿住まいから、共有ハウスの一部屋を借りて過ごしはじめてからであったと思う。

ぼくを含めて7名で住む共有ハウスに移り、旅的な生活から、より生活感のある生活をするようになって、日曜日に「きっちりと休みをとること」の慣習もよいものだということが、ぼくの生活のなかに入り込んできたのだ。

ある日曜日には、オークランドの街を一望できるMt. Eden(マウント・イーデン)に足を運んだりした。

 

このような生活の変化とともに、もちろん、ニュージーランドに暮らす「時間」も、ぼくの味方であった。

幾度もの日曜日を過ごしながら、幾度もの「週」を生きながら、ぼくの心身は、次第に、時間のリズムと生活様式を取り入れていくことになる。

こうして、ぼくは、静かな「日曜日」の生活に慣れていき、じぶんの生活の仕方に、ある種のひろがりを獲得していったのであった。

 

そんななか、ニュージーランド滞在の後半、徒歩縦断旅行やトレッキングやキャンピングなどをしているときは、日曜日に限らず祝祭日も大半が閉店であるから、旅程や買い出しなどにおいてより注意が必要となった。

そのような時期もあったけれども、それでも、生活の仕方における「ひろがり」の獲得は、ぼくにとって大きな体験であったと思う。

便利さを生きることもできるし、ひとつの社会の中での特定の生活様式も生きることができる。

なによりも「日曜日は休み」という生活様式を実際に生きてみることで、異なる時間と生活のリズムを心身で感覚し、そこで「見えてくる」ことをかんがえる。

どちらが良いだとか悪いだとか、結論するということではなく、異なる社会の「あり方」から、これまで「当たり前」だと生きてきた「あり方」を客観視する。

こうして、「当たり前」のように生きてきた日本の生活様式から実際に離れてみることは、ぼくにとって、とても大切な経験であった。

日曜日には近くの建設工事が「休み」になる、ここ香港で、そんなことを思う。

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中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』。- けっして「古くない」、日本・日本の組織や集団・日本人を「視る」視点の提起。

ある本で、つぎのように論じられている。

ある本で、つぎのように論じられている。

 

…海外滞在が長いと出世がおくれる、ということは多くのサラリーマンたちの口にするところである。…本国の中央から遠くにいるということは、マイナスを意味するというのが常識になっており、事実、日本の人事というものがその傾向を充分もっていることはいなめないのである。
 この現場軽視の思想が、現地駐在員の発言権を弱め、彼らの現地生活は腰かけ的な一時しのぎのスタイルを生むのである。…

 

これは、中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』(講談社現代新書、1972年)の一節であり、今から45年以上も前の論考であるにもかかわらず、それはある側面において「今」を分析しているかのように思われる。

もちろん、この45年ほどの間に、グローバリゼーションが進展し、経済社会的に、あるいは企業組織的にも、いろいろな(そして、ときに根本的な)変化を遂げてきてはいる。

現地駐在員の方々の中には、現地生活を一時しのぎではなく、そこに「ミッション」を定めながら、仕事に傾注してきた/傾注している人たちがいる。

また、現在の状況においては、海外滞在が多くの「プラス」を意味していることもある。

そのような変化や個人的な傾注にかかわらず、また冒頭の文章も企業・組織によっては現在の状況とのズレがでていることを考慮に入れたうえで、それでも、「日本社会また組織」という地平からみるとき、中根千枝がこの本で書いていることは、さまざまな点において、「今」の状況をかんがえるための視点を与えてくれる。

 

中根千枝は社会人類学者であり、今でも読み継がれている、中根千枝『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書、1967年)がよく知られている。

この本の「姉妹篇」として、『適応の条件:日本的連続の思考』が書かれている。

ぼくが『タテ社会の人間関係』を読んだのは、大学に在学中の頃であったから、20年ほど前のことになる。

「日本社会」におけるいろいろな疑問を感じていた頃に読んだこの本は、その疑問の背景を、まるで「見方・考え方」にひとつひとつ輪郭をつくることで理解させてくれるような本であった。

 

少し長くなるけれども、目次の全体を下に書いておきたい。

 

【目次】

まえがき
第一部 カルチュア・ショックー異文化への対応
1ー異なる文化の拒絶反応
2ー日本文化(システム)への逃避
3ー表現と実行のあいだ
4ー特定ケースと一般化の問題
5ー日本的システムの強制
6ー日本的信頼関係の敗北
7ー契約に信頼をおく欧米との違い
8ー現地社会への逃避
9ー国内用の異国
10ー外国語の修得と文化の関係
11ー個人差による適応度

第二部 日本の国際化をはばむものー社会学的諸要因
1ー厚い“ウチ”の壁
2ー日本人の社会学的認識
3ー連続の思考・ウチからソトへ
4ー二者間関係における連続
5ー義理人情の分析
6ーもてる者ともたざる者の関係

適応の条件ー結びにかえて

 

「異文化への対応」と「日本の国際化をはばむもの」という、「今でも」本質的なものとして立ち上がる課題にたいして、1970年代初頭という「国際化」のはじまりの時代に、中根千枝は自身の海外経験と「タテ社会」の論理をもって向かい、論を展開している。

一部の記述は当時の状況を反映したものであり、一見すると「古さ」を感じるものである。

しかし、日本企業のより積極的な海外進出などを見ることになった「国際化」の初期の時代だからこそ、現象する問題が先鋭化されて発現することもあること、またそれらを駆動する力学は今でも見られる現象や問題を分析する上で大切な視点を与えてくれることから、「古くない」と言える論考である。

むしろ、それは、海外の日系企業において変わってゆく形態や施策や試みや努力などの底流において、今も生きつづけている力学を論じていると、ぼくは読む。

こうして、冒頭の状況に戻ってくる。

底流に生きつづけている力学としての「タテ社会」は、つぎのように書かれている。

 

…「タテ」のイメージは、自己中心的な社会認識と異なるようであるが、いずれもヒエラルキーの頂点あるいは自己という基点を設けて、そこからの距離によって他の人々、集団を位置づけるという点で同じである。いずれも異質の存在、機能というものを考慮にいれないところに特色があるといえよう。
 タテ組織の頂点、あるいは自己(集団)を基点とする思考方法によるイメージ化は、さらに、中央から地方へというスキームに結びつくものである。これは、本書のテーマからいえば、本部と現場、本社(本省)と海外駐在員ということになる。

中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』講談社現代新書、1972年

 

この力学において、「日本人全体、そして日本の中枢の人たちは、まだ本当にソトの世界を理解しようとしていない」のであり、このことは「『ソトに出る者』は相対的に低い地位におかれてきたという、社会学的なシステムと密接に関連している」と、中根千枝は書いている。

繰り返しになるが、現在における、海外における日系企業の動きにおいては、さまざまな動きと試みによって、「タテ社会」から生じる問題の克服、あるいはそれ自体の構造変化をねらうものが見られる。

けれども、と前置詞を置いた上で、ぼくは、この現代においても、いろいろな実際の場面で、ぼくは、中根千枝の指摘するような状況を見て取るのである。

 

この小さな本(新書)には、そのような指摘と分析、そしてときに厳しいコメントが詰まっている。

20年ぶりに中根千枝の本をひらき、その20年のほとんどを海外で仕事をしてきた経験を本の内容に重ねてみながら、ぼくはここ香港で、日本・日本の組織・日本の集団・日本人について、いろいろと深くかんがえさせられる。

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香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

「麺をすする音」のちょっとした文化考。- 世界で暮らしてゆくときには。

世界で暮らしていくうえで、「麺をすする音」には一歩立ち止まって考え、じぶんの「麺の食べ方」を定位しておくところである。

世界で暮らしていくうえでは、「麺をすする音」について一歩立ち止まって考え、じぶんの「麺の食べ方」を定位しておくことである。

日本でも外国からやってくる人たちが増え、「ヌードルハラスメント」(略:ヌーハラ)なる和製英語があることを、ぼくは初めて知った。

Wikipediaでは、「日本人に多く見られる『麺類を食べるときに、麺をすすってズルズル音を立てる』食べ方が、猫舌の人や外国人に不快感を与えるとして慎むべきであるとする主張を示す和製英語」と書かれている。

そもそもは「麺をすする音をカモフラージュする機能を搭載したフォーク」(日清食品)の動画を見ていて、この言葉に触れたのであった。

 

「麺をすする」のは日本人だけというふうに以前は思っていたのだけれど、ここ香港に住んでいて、「そうでもないな」と実際の生活レベルで体験する。

「日本人だけが…する/日本だけが…だ」と言われる事柄のいくつかは、実際に海外に住んだり旅したりするなかで、必ずしもそうではないはないことを、ぼくは目にしてきた。

その一つが「麺をすする」ということであり、ここ香港で、だれもがというわけではまったくないけれど、外食しながら、ぼくは隣の席に「麺をすする音」を耳にすることがある。

「実証」としては、ぼくの経験上多くは決してないけれど、一度や二度や三度のことではない(ただし、実証研究に耐えるような観察ではなく、あくまでも、ぼく個人の日常観察ですが)。

でも、ここからが、文化考のひとつとして面白いところなのだけれど、ポイントは「環境の前提条件」である。

日本の環境は、まずはじめに、「静かな環境」で(静かに)食べるということへ条件が設定されたうえで、「麺をすする音」が聞こえる。

ところが、たとえば香港では、この最初の条件設定がなしに、ワイワイガヤガヤで食べるという環境があるから、「麺をすする音」は聞こえても、気にならない。

「麺をすする音をカモフラージュする機能を搭載したフォーク」がカモフラージュ音を流すことでノイズキャンセルする一方で、「ワイワイガヤガヤ」の環境は、会話音を自然のごとくに流すことでノイズ自体を無効化するのだ。

そんなちょっとしたことを、ぼくは香港にいながら、文化のはざまで、かんがえる。

 

ぼくのことで言えば、ぼくが「麺をすする音」を明確に意識しはじめたのは、ニュージーランドに暮らしているときであった。

大学2年を終えて休学し、ワーキングホリデー制度を利用して住んだニュージーランド。

シェアハウスでニュージーランド人たちと共に共同生活をしたり、バックパッカー宿やキャンプ場で過ごしたり、またニュージーランドを旅しながら夕食をご馳走になったりしながら、ぼくは、「麺をすすらない」麺類(スパゲティ)の食べ方を習得し、身につけていった。

おそらく、そこが出発点で、それからも海外の人たちと時間や食事を共にすることがそれなりにあって、ぼくは、日本でも日本の外でも、「麺をすすらない食べ方」をじぶんの食べ方として選んできた。

 

世界で生きてゆくためには、「麺をすする」食べ方を大切にする場合も、「麺をすすらない」食べ方も身につけておきたい。

時と場所によって「麺をすする/麺をすすらない」という選択ができるように。

「麺をすする音をカモフラージュする機能を搭載したフォーク」(フォークにしては大きいフォークだ)をいつも持ち歩くわけにはいかないし、カモフラージュ音が気になってしまうような時と場所もあるだろう。

なお、ぼくは「麺をすする」食べ方を世界のどこででも通すほどそこにこだわっていないし、また「麺をすする/麺をすすらない」ことをその時々で選択するのも面倒だしと、「麺をすすらない」食べ方を、すっかりと身につけただけだ。

「麺をすする」文化の退行だとある人は言うかもしれないけれど、ぼく一人がやめても、その影響のかけらもなにもないと、ぼくは思う。

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空にとびたつ/空からおりたつ「飛行機」の風景。- 海外で、いつも、ぼくの目と耳には、飛行機があった。

ひろい空に「飛行機」がとびたってゆく風景というのは、ぼくにとって、特別なものでありつづけてきた。

ひろい空に「飛行機」がとびたってゆく風景というのは、ぼくにとって、特別なものでありつづけてきた。

日本にいるときは日常で「飛行機」を見た覚えはあまりないのだけれど、海外に住んでいるときは、よく見てきたし、今でもよく見る。

昔の人たちが<鉄道>を見てそこに込めたであろう「想像力の飛翔」のようなものを、ぼくは<飛行機の飛び立つ姿>に託してきたのかもしれないと、ときどき思う。

飛行機の行く先に、<未知なる世界>が放つ、あの、魅惑と憧憬と畏れのようなものを、想像のなかで感じてきたのかもしれない。

 

ここ香港では、日々、青い空に飛び立ってゆく飛行機、あるいは夜の空を、光を明滅させながらゆっくりとすすんでゆく飛行機を見る。

香港国際空港の近くにいなくても、空が晴れわたる日には、あらゆる方向に飛行機が飛び立ってゆく姿が目にはいる。

「香港」という、このコンパクトな土地が、アジアにおけるひとつの大きなハブとして機能している風景だ。

空を見上げていなくても、「音」が、飛行機が飛び立ち、あるいは飛行機が着陸態勢に入っていることを伝えてくる。

 

思えば、海外に住んできたところでは、いつも、ぼくの目と耳には、飛行機があった。

ニュージーランドのオークランドで、仕事場に向かって歩いているとき、ぼくはオークランドの大きな空に、飛行機を見た。

大学を休学して、ニュージーランドに来たぼくは、「世界」に飛び立ちたかったのだ。

その「世界」のひとつ、オークランドにいながら、しかし、ぼくの衝動は、さらなる「世界」へと向けられてもいた。

 

また、西アフリカのシエラレオネは、状況は複雑であった。

内戦終結後のシエラレオネにいたとき(2002年~2003年)は、さまざまな飛行機やヘリコプターが、行き来していた。

国連のもとに動く部隊、国連の小型機やヘリコプターなど、新しく歩きだしたシエラレオネでは、人も物資も、忙しく行き来していた。

 

東ティモールにいたとき(2003年~2007年)も、新しく歩きだした東ティモールを、いろいろな人たちが行き来していた。

事務所の近くはヘリポッドであったし、旅客機は毎日一便で、インドネシアのバリを定刻で出発すれば、いつも決まった時刻に、首都ディリに到着した。

いつもの時刻が来ると、旅客機の音が、平和なディリ市内に鳴り響き、人びとの到着を知らせた。

ぼくは人の出迎えでよく空港に行ったから、そのときの様子をよく覚えている。

このような日々に、ぼくの目と耳は、想像力の風にふかれながら、ひろい空へと散開していった。

 

なお、東ティモールのディリ騒乱(2006年)の際には、飛行機がやってくる「音」は、とりわけ特別なものであった。

昼間からディリ市内で銃撃戦がつづき、ぼくの耳にも銃声がなりひびいていた。

政府は事態を収拾できず、オーストラリアを含む他国に協力要請を出した。

同日、オーストラリア軍機が、ディリ上空を舞う「音」が、ぼくの耳にとどく。

これで、事態がある程度落ち着くだろうと、ぼくは安堵したことを覚えている。

 

そして、今日も、ここ香港にひろがる空に、いくつもの飛行機が飛び立ってゆくのを、ぼくの目と耳がとらえる。

この文章を書いている間にも、遠くで、飛行機の「音」が聞こえている。

海外では、いつも、ぼくの目と耳には飛行機があった。

ぼくはそこに、いろいろなものを託し、幻想し、想像力を解き放ってきた。

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言葉・言語, 海外・異文化 Jun Nakajima 言葉・言語, 海外・異文化 Jun Nakajima

<ふるさと>としての言語。- 海外に住みながら「日本語」に感覚していたもの。

2000年代初頭から半ばにかけて、西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールに住んでいたとき、「日本語」にふれることは、ぼくが<ほんらいあるところ>に戻ってくるような感覚を、ぼくは抱いた。

2000年代初頭から半ばにかけて、西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールに住んでいたとき、「日本語」にふれることは、ぼくが<ほんらいあるところ>に戻ってくるような感覚を、ぼくは抱いた。

それは、まるで、<ふるさと>に戻ってくるような感覚である。

当時、同僚や友人などと日本語で話すことはあったけれど、週の多くの時間を日本人1人で過ごし、生活と仕事の大半は英語(また東ティモールではテトウン語)であった。

通信環境のこともあり、インターネットで自由に日本語にふれることはできなかった。

西アフリカのシエラレオネのときは、公共の水も電気もないところにいて、もちろん通信も限られており、仕事の隅々まで英語であったから、「日本語」にふれることは、<ふるさと>に戻ってきたような安心感を感じたものである。

じぶんにとっての、いわゆる<ふるさと>とは、「日本語」ではないかと、本気でかんがえていたときもあった。

 

小説家の村上春樹は、40歳になる前にヨーロッパで3年間ほど、「やむにやまれぬ」滞在をすることになる。

その滞在において、村上春樹は、小説などのほかに、常駐的旅行者としての文章スケッチを継続してつけてゆくことになる。

 

…僕にとってはその継続そのものの中に、これらの文章を途切れ途切れではあるにせよ書きつづけるという行為そのものの中に、意味があった。流離うヨーロッパの僕は、これらの日本語の文章を媒介として、流離わない日本の僕と心を通じあわせていたのだ。…

村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫

 

このように、日本語の文章を「媒介」として、「日本の僕」と心でつながっていたと、村上春樹は書いている。

 

「シエラレオネの僕」は日本語に雑誌や書籍でふれることはあっても、しかし逆に、(仕事以外の)日本語の文章が書けなくなってしまった。

仕事へのコミットメントと忙しさは大きな理由であったけれど、シエラレオネで日々出会う出来事に、ぼくは全存在において、圧倒されていたのだと思う。

それでも、日本語の文章を読むとき、ぼくは<ふるさと>に戻ってきたような感覚を感じたことを覚えている。

それにしても、<ふるさと>のような感覚はどのような感覚に支えられていたのだろうか?

 

まず第1に、ぼくの<身体としてのことば>を取り戻す感覚であるのかもしれない。

「ことば」は、「はじめにことばありき」ではなく(それは「文明世界のはじまり」であったけれど)、原初においては「音」であったはずである。

ことばと身体がひとつのものとしてあるような「音」。

日本語を使うことで、ぼくのなかで幾分か、ことばと身体のつながりが取り戻されたということである。

 

第2に、日本語で語られる「世界」に戻ってきた感覚であるのかもしれない。

人は外部世界を視るときは、じぶんの感覚とともに、「ことば」を通して視ている。

「ことば」がなければ、「世界」を形づくられる仕方は、ずいぶんと違ったものである。

「日本語の世界」に入ることで、ぼくの周りにひろがる「世界」は、それまで親しんでいた「世界」の様相を帯びる。

 

第3に、それは「懐かしさ」の感覚であるかもしれない。

懐かしさは、その本質において、<ふるさと>に戻ってくる感覚である。

<ふるさと>とは、そこを離れる者たちによって感覚されるものである。

地元を離れて東京に行った者が、地元を<ふるさと>と感覚する。

同じように、日本語を離れる者が、日本語を<ふるさと>として感覚することになる。

 

そんなことをかんがえるここ香港では、しかし、そのような鮮烈な感覚はない。

香港のいろいろなところに「日本」が存在しているからかもしれない。

以前にも増して、インターネット上で、「日本語の世界」を自由に旅することができるからかもしれない。

日本語の電子書籍で、すぐに日本語の書籍を読むことができるからかもしれない。

あるいは、海外で長く住んでいるうちに、英語がぼくの身体と、いくぶんか融合しているのかもしれない。

さらには、「日本の僕」を超えてゆくようなところに、じぶんが解き放たれているからかもしれない。

 

そのような<地点>から、日本語が<ふるさと>ではないかと感覚した、シエラレオネと東ティモールの日々が、懐かしく思い出される。

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「歴史が好きか、地理が好きか」。- 見田宗介に深い影響を与えた寺山修司との短い会話。

社会学者の見田宗介にとって、劇作家である寺山修司(1935~1983)と喫茶店で交わした「短い会話」が、その後の見田宗介に「ずいぶん深い影響」を与えてきたという。

社会学者の見田宗介にとって、劇作家である寺山修司(1935~1983)と喫茶店で交わした「短い会話」が、その後の見田宗介に「ずいぶん深い影響」を与えてきたという(※参照 討議:見田宗介 X 加藤典洋「現代社会論/比較社会学を再照射する」『現代思想』2015 vol.43-19、青土社)。

見田宗介は気の合った寺山修司との会話について、討議の相手である加藤典洋に向けて、つぎのように語っている。

 

…一つだけ対立したことがあって、「僕は歴史が好きで地理は興味がない」と言ったら、寺山は「僕は歴史に興味がなくて、地理が好きだ」と言ったことです。「歴史は待たなきゃいけないからきらいだ。ぼくは走って行く人だから」と。…ぼくはそれまでは時間の思想でしたが、寺山の話を聞いていて、空間の思想もいいものだと思いました。今思うと、この短い会話は、ぼくにずいぶん深い影響を与えたように思います。

討議:見田宗介 X 加藤典洋「現代社会論/比較社会学を再照射する」『現代思想』2015 vol.43-19、青土社

 

この短い会話をもとに、その後に見田宗介は「空間の思想/時間の思想」(初出:1969年)という、興味深いエッセイを書いている。

今では、見田宗介著作集(『定本X』)に収められたこのエッセイであるけれど、ぼく自身がこのエッセイに初めて出会ったのは、とても意外なところであった。

 

見田宗介の著作に魅かれ、手に入る著作群を徹底的に読み始めていたころ(20年も前のころ)、古本屋で購入した見田宗介の著作のなかに、このエッセイが掲載された新聞の切り抜きがはさまれていたのだ。

予想もしていなかったその「幸運」にひかれてゆくように、ぼくはこのエッセイを読み、そして一読して、その「世界」に深くひきずりこまれたのだ。

「歴史」と「地理」をそのものとしてみれば、「歴史」は動き、「地理」は動かないものだけれども、行動する<じぶん>から見る視点において、「歴史」は<待つ>思想であり、「地理」は<走る>思想であることに見田宗介はふれながら、エッセイは生きることの本質へと降りてゆく。

寺山修司との「短い会話」に触発された「短いエッセイ」は、しかし、見田宗介自身の生や思想に影響を与え、そしてこの新聞の切り抜きを著作のなかにはさんでいた人にも、さらにはそれを読んだぼくにも、大きな影響を与えたのだと思う。

 

ぼくが生きるということでは、ぼくも「走る」思想において、「地理」をかけぬけてきたようなところがある。

日本の外へと/日本の外を「走る」なかで、ぼくも生きてきた。

ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、そしてここ香港…。

ところが、ここのところは、ぼくは「歴史」(時間)に強くひかれている。

いろいろな「空間」(地理)のなかに、ぼくは「歴史」を見たくなる/見るのだ。

「歴史/地理」あるいは「時間/空間」という視点は、ぼくにとって、世界を見る「見方」を、いっそう面白くしてくれている。

 

ところで、ここ「香港」はどうなのだろうか、とかんがえる。

寺山修司が「ぼくは走って行く人だから」と聞いて、ぼくは香港も「走って行く」のだと思う。

何かをゆっくり<待つ>のではなく、空間に向けて、ひたすらに全速力で、走って行く。

そんなことを、雨が降りそそぐなか「夏至」を迎えた香港で、かんがえる。

「夏至」は「時間」のことだけれど、ある見方において「空間」とも言えるのかなと、時空に関するじぶんのかんがえかたが歪みはじめる。

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「幻想の都」へ、そして<幻想の都>から。- <ドリームランド>の設営される空間について。

日本の地方に住んでいる者にとって、例えば「東京」は、「幻想の都」である。

日本の地方に住んでいる者にとって、例えば「東京」は、「幻想の都」である。

それは「あこがれの都会」である。

ぼくもかつて、高校までを静岡県浜松市で過ごした後、大学は東京にある大学に行くことを切望していた。

「東京」という都市が装う色彩は、とても魅力的であったのだ。

当時感じていた閉塞性をひらいてくれる空間が、「東京」にあるものだと、ぼくは思っていたのである。

しかし、東京に実際に住むようになって、楽しさを感じる側面もありながら、他方で東京という都市がまとっている「幻想」が、ぼくのなかではがれてくるのを感じる。

ぼくは、地方から「東京」へ上京し、そこに生きながら、そこから生きることの<軌道>を、アジアを旅しながら、またいろいろな現実の重力にひっぱられながら、見極めていくことになる。

 

もちろん、ぼくに限らず、数かぎりない青年たちが、東京やその他の大都市へと向かってきた。

さらには、<東京>という大都市と並ぶように語られる、パリやロンドンなどにもひろがりをもつ、近代化の「物語」でもある。

このような大都市へのあこがれは、とても大きいものである。

 

作家の宮沢賢治も、同じようなあこがれをもった一人として、幾度か、東京へと上京を試みていたという。

そんな宮沢賢治の生をおいながら、社会学者の見田宗介は、宮沢賢治のすすんだ軌条を、つぎのように書いている。

 

…賢治の資質は、結局東京やその水平の延長上の都、パリやロンドンに終着する幻想に住することえを許さず、むしろ垂直に折り返して岩手自体の心象の気圏のうちに、<イーハトーヴォ>の夢を設営する。

見田宗介「補章 風景が離陸するとき」『宮沢賢治』岩波現代文庫

 

「イーハトーヴォ」について、宮沢賢治は『注文の多い料理店』の広告文に、つぎのように書いている。

 

イーハトブは一つの地名である。…実にこれは著者の心象中にこの様な状景をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である。そこでは、あらゆる事が可能である。…

宮沢賢治『注文の多い料理店』広告文、青空文庫

 

見田宗介は、さらに高度経済成長以降の日本にふれながら、そこにみられる対欧米コンプレックスの消失などに、「ふるさとから<東京>→<世界の首都>」へと向かっていくような幻想の水平性の基礎が解体されてきたことを読みとっている。

そのうえで、つぎのように文章をつづけている。

 

…成熟しつくした近代としての現代の少年や青年たちの夢を設営する空間は、幻想のすすむ軌条をどこかで透明に離陸するはずの、あの異次元の空間にしか残されていない。

見田宗介「補章 風景が離陸するとき」『宮沢賢治』岩波現代文庫

 

ふるさとの地も、<東京>も、世界の都市たちも、魅力に充ちた空間である。

しかし、そこは<ドリームランド>を保証する空間ではない。

ぼくたちはぼくたちの「外部」をどこまで行ったとしても、ほんとうの<ドリームランド>を設営することはできない。

 

ふるさとから東京に上京したぼくは、そのようなことを「感覚」のなかで感じつつ、しかし実際の空間を移りながら生きてきた。

アジアの旅、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それからここ香港。

それぞれの地に生きることを楽しみながら、しかし<ドリームランド>は、ぼく(あるいはぼくたち)自身の心象中に実在するドリームランドとしての「地球」であると、ぼくは心象の気圏に想像・創造している。

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宇宙・地球, 海外・異文化 Jun Nakajima 宇宙・地球, 海外・異文化 Jun Nakajima

「Google Earth」時代の旅と海外滞在のあり方。- さいごに、残ってゆくもの。

香港のとても暑い日に、グーグルのアプリ「Google Earth」を久しぶりにひらき、その「バーチャル地球儀」の「世界」を楽しむ。

香港のとても暑い日に、グーグルのアプリ「Google Earth」を久しぶりにひらき、その「バーチャル地球儀」の「世界」を楽しむ。

その「世界」は、衛星写真などで世界を構成し、世界のどこへでも、一気に、降りたつことができる。

場所によっては、通りの風景(「Street View」)までが映しだされる。

「3D」での表示もあったり、その他の機能も搭載され、この世界という<空間>を楽しむことのできるアプリだ。

 

<空間>だけでなく、ぼくたちの思い出と記憶を重ね合わせることで、そこに<時間>を視ることだってできる。

今まで旅したところや訪れたところ、あるいはそれなりの期間にわたって滞在していたところに、時空をこえて、ぼくたちは降りたつことができる。

風景を「思い出と記憶」のなかに大事にしまっておくこともひとつだけれど、「Google Earth」を通して、その不思議な世界に立ってみることも面白いものである。

そのようにして、ぼくたちは、その風景の表層だけであれば、この世界の空間をこえて、いつでも行ける時代に生きている。

 

ぼくがかつて住んでいたところが、今どうなっているだろうかという好奇心におされながら、ぼくはそこへの道ゆきをたどっていく。

やがて、「懐かしい」風景が、ぼくの前に現れる。

庭の風景が少し変わったけれど、家の様相は変わっていない。

 

「Google Earth」を楽しみながら、そのような「Google Earthの時代」における、旅や海外滞在の「あり方」が、ふと気にかかってくる。

旅や海外滞在ということが、色あせてしまうようなことはないだろうか。

昔の風景をGoogle Earthのなかに見ながら、「思い出」に色彩を与えていた想像の風景から、何かがぬけおちてしまうだろうか。

そのように気にかかりながら、それでも、Google Earthが映しだす通りの風景だけでは代替できないものが、はっきりと浮かびあがってくる。

<五感で捉えられた風景>と<風景のなかの物語>である。

 

Google Earthで、世界のどこにも瞬時にして行くことができるけれど、ぼくたちは、その風景を基本的には<視る>のであり、その場を<五感>で捉えることはできない。

そこの風景には、香りがあり、音があり、手触りがあり、またそこで食べていたものがある。

将来は、テクノロジーの進化により、香りや音や手触りを感じることのできるようなものが出てくるかもしれない。

それでもやはり、その場の風景そのものに代替することはできない(だろう)。

また、五感で感じることの、その<全体感>のようなものがあると、ぼくは思う。

 

仮に、<五感で捉えられた風景>がテクノロジーで再現されるようなことがあったとしても、それでも、<風景のなかの物語>は、その場を旅し、あるいは住むことで、つくられてゆく。

テクノロジーによって再現されるものではなく、ぼくたちの内面につくってゆくものである。

あるいは、他者たちとの<あいだ>につくってゆくものである。

ぼくたちのなかに、やはり残るものとしての<物語>。

「Google Earth」時代にあっても、ぼくたちは、ぼくたちそれぞれの物語、また他者と共有する物語を、豊饒に生きてゆくことができる。

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海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima

「縦向きの『ものさし』を横向きに置いてみよう」(本田晃一)。- <横向き>にひろがる世界観。

ぼくたちは生きていくなかで、じぶんのなかに、物事を判断する「ものさし」を構築し、それに従ってゆく。

ぼくたちは生きていくなかで、じぶんのなかに、物事を判断する「ものさし」を構築し、それに従ってゆく。

なにがよくて、なにが悪いのか。

どうすべきか、すべきでないのか。

「ものさし」は、とりわけ親の「ものさし」である。

生きていくプロセスで、「ものさし」を構築したことも、それに従って生きていることも「見えなく」なり、それはじぶんの価値観・世界観そのものとなっていく。

「ものさし」は、じぶんに同化してしまうのである。

 

いろいろな物事が「うまくいっていない」ようなとき、このじぶんに同化している「ものさし」を、分離して、「見える」ようにすること、つまり<気づく>ことが、状況を好転させていくための大きな一歩になることがある。

そのようにじぶんを無意識のうちに縛ってきた「ものさし」を見直す方法として、本田晃一は、著作『はしゃぎながら夢をかなえる世界一簡単な法』(SBクリエイティブ、2017年)のなかで、つぎのような「とても簡単」な方法を提示している。

 

…いままで縦にして見ていた「ものさし」を横にしてしまうんです。
 上とか下をなくして、右左にしてしまう。上下の「優劣」の世界から、たんなるジャンルわけの世界に持っていくわけです。
「こつこつ真面目がいい」と「こつこつ真面目はバカだ」を横に水平に並べれば、どっちが上でどっちが下か、ではなくなります。たんなるジャンルわけになるので、そうすると、人を「ジャッジ」することがなくなってフラットな見方ができるようになるんです。

本田晃一『はしゃぎながら夢をかなえる世界一簡単な法』SBクリエイティブ、2017年

 

「縦向きの『ものさし』を横向きに置いてみよう」という本田晃一の「方法」は、「ものさし」イメージのしやすさと、<横向き>にひろがる世界観ということにおいて、とても魅力的である。

本田晃一は、この方法を「セルフイメージを高める」ことの文脈で書いている。

「セルフイメージを高める」なかで、ほとんどの人が「セルフイメージが高い自分=親の『ものさし』に合っている自分=親から認められる自分」という方向性にかんがえ行動してしまうことで、「ものさしの罠」にはまってしまうのだと、本田晃一は指摘している。

このように<横向き>にひろがる世界観のなかで、より自由に、ぼくたちは生きていくことができる。

 

この<横向き>にひろがる世界観は、世界で生きていくための「視点」をひろげていくという、ぼくの見方とも重なる方法だ。

じぶんの「内面」における「ものさし」だけでなく、この世界に生きていくうえでは、いろいろな価値観や世界観に、ぼくたちは出会っていく。

それらを、じぶんの無意識の「ものさし」に忠実にしたがって「縦向き」の序列をつけるのではなく、ひとまずは、<横向き>に取り入れてゆくことである。

「取り入れる」ということは、「そういう見方もある」と<横向き>に認めていくことである。

もちろん、<横向き>にひろがる世界観のなかで、じぶんがえらびとる視点、そして世界観・価値観がある。

大切なのは、それらを自由な仕方で「えらびとる」ことだ。

その意味で、無意識にじぶんを縛ってしまっている「ものさし」の内実に、いったん<気づく>ことが肝要になる。

 

ぼくは、日本の外で生きながら、ときに、じぶんの狭い「ものさし」に翻弄されてイライラすることもあるけれど、いろいろと周りで起こる物事やアイデアや現象を「そういうのも、ある」というように、<横向き>にひろがる世界観を楽しんでいる。

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