ネット社会だからこその「関係性の回復」(河合隼雄)。- 「出会いへの欲求」に基礎をおく関係性(真木悠介)へ。

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』(新潮文庫)の文庫版「おまけの講義」として、「関係性の回復ーネット社会こその相当の努力を」と題された、短い記事が掲載されている。


河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』(新潮文庫)の文庫版「おまけの講義」として、「関係性の回復ーネット社会こその相当の努力を」と題された、短い記事が掲載されている。

2004年6月、東京新聞に掲載された文章である。

10年以上前の記事であるにもかかわらず、書かれていることは、今でもその言葉の内実はうすれていない。

インターネットが悪い・よくないなどということではなく、文明の進歩を享受するためにも、「相当な努力」をして、あらゆる人間関係における「関係性の回復」をすることの重要性について、河合隼雄は書いている。

 

インターネットを通じたコミュニケーションの難しさは、直接的なやりとりでは、ある程度の「調整」が入る。

言語だけではない、非言語的なコミュニケーション(表情や身振りなど)が作動するからである。

このことはよく言われることだけれど、河合隼雄が強調していることは、次のことである。

 

…ここでもっと強調したいことは、人間の関係の在り方によって、人間の考えることや感じることも変わってくる、ということである。これは、私の行っている心理療法の根本と言っていいかもしれない。

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』(新潮文庫)

 

機械の操作で物が動くように、人間関係においても、自分が相手を操作したり、支配したりする関係になろうとすることに、河合隼雄は警鐘をならす。

そのような人間関係において、河合隼雄が言うところの「関係性」(=人間と人間の間に生じる相互的な心の交流)が喪失してしまう。

 

 インターネットの書き込みには、「関係性」の喪失の上に立ってなされるので問題が多い。…

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』(新潮文庫)

 

「関係性」ということで、思い出すのは、社会学者である真木悠介が、名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)で語っていた、「関係の実質」ということである。

真木悠介は、差別語が「差別語」とならない現実の関係性にふれて、そこには本人を傷つけないだけの「関係の実質」があるからだと書いている。

また、同書における「出会うことと支配すること」という論考で、「他者と関係するときに抱く基本の欲求」について、論理的に述べている。

 

 われわれが他者と関係するときに抱く基本の欲求は、二つの異質の相をもっている。一方は他者を支配する欲求であり、他方は他者との出会いへの欲求である。操作や迎合や利用や契約は、もちろん支配の欲求の妥協的バリエーションとしてとらえられうる。

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1977年

 

そうした上で、真木悠介たちが構想していた「コミューン」は、この二つの異相のうちの「出会いへの欲求」に基礎をおく関係性である。

ここで、河合隼雄が言うところの「関係性」と、その回復ということにつながってくる。

人を傷つけないだけの「関係性」があるところでは、インターネットのコミュニケーションは上滑りしなくなる。

もちろん、すべての人たちの関係性を構築できるということではないと思うが、「出会いへの欲求」に基礎をおく関係性を実際にもっているかいないかは、直接に知らない人たちとのインターネットでのコミュニケーションの実質を変えていくだろう。

 

この「関係性」への視点から、ぼくのミッションにおける「世界」は「世界(関係性)』というように書いている。

「世界」は、関係の網の目であり、その関係性を豊かにしてゆくところに未来は構想され、また現在は生きられる。

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社会構想 Jun Nakajima 社会構想 Jun Nakajima

「*Made on Earth by humans*」。- Space Xのロケット「Falcon Heavy」の美しい打ち上げに際して。

見事な仕方で打ち上げられた、Elon Musk(イーロン・マスク)率いるSpace Xのロケット「Falcon Heavy」(ファルコン・ヘビィー)。...Read On.

見事な仕方で打ち上げられた、Elon Musk(イーロン・マスク)率いるSpace Xのロケット「Falcon Heavy」(ファルコン・ヘビィー)。

Falcon Heavyはもっともパワフルなロケットで、積載量において最大を誇る。

そのFalcon Heavyに搭載された赤いテスラ車「Roadster」のサーキットボードに記載された言葉は、多くの人たちを魅了する。

 

「*Made on Earth by humans*」

 

ユーモアあふれる言葉であると同時に、宇宙を鏡にして、「地球に住む人類」をひとつにつなげる。

そのテスラ車「Roadster」とそれを片手で運転する「Starman」の映像は、ライブストリームで提供される。

その映像が映し出すはるかな宇宙の旅は、人を魅了してやまない。

はるかな宇宙を火星に向けて旅する「Roadster」車のハンドル横には、「DON’T PANIC!」の文字がひときわ目立っている。

「Starman」はまったく「パニック」になることなく宇宙の旅路につき、車の前方や後方には、美しい地球がうつる。

CBSNのニュース番組で記者に質問され、イーロン・マスクは、無邪気に遊ぶ子供のような表情をうかべながら、質問に答える。

「Starman」について聞かれ、テスラ車「Roadster」のダッシュボードには、小さな「Roadster」と「Starman」があることを、イーロンは楽しそうに語る。

その楽しそうに語るイーロン・マスクの言葉が、まるで美しい仕方で地球に帰還した2本のブースターのように、ぼくのなかに「着地」する。

 

It’s kind of silly and fun. 
But silly and fun things are important. 
(ある種ばかげたことで楽しいことです。でも、ばかげていて楽しいことは大切なことです。)

Elon Musk “Space X Celebrates Successful Launch” CBSN(日本語訳:ブログ著者)

 

「Falcon Heavy」が未来のとびらを確かにひらいたのと同時に、イーロン・マスクはさまざまな仕方で「未来のとびら」をひらいている。

歴史をつくるSpace Xの人たちの歓声と熱気と興奮が、ぼくの耳にこだましている。

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社会構想, テクノロジー Jun Nakajima 社会構想, テクノロジー Jun Nakajima

アマゾンが描く未来を考えはじめる。- ジェフ・ベゾスの語る声に耳を傾けながら。

米国のシアトルで、「Amazon Go」が開店し、社員向けの試験段階から、いよいよ一般向けに開放された。...Read On.


米国のシアトルで、「Amazon Go」が開店し、社員向けの試験段階から、いよいよ一般向けに開放された。

スマートフォンの専用アプリをゲートにかざして入店し、自由に商品を選び、レジを通らずに店舗を出て、自動的に清算される。

これまで描かれてきた「未来」が現実化していくのを見るのは、頭の中でわかっていたことだけれども、実際に映像で見ていると、わくわくすると共に、とても不思議な気持ちがする。

これからも、このような「現実」が、至るところでさまざまな仕方で現れていく。

 

田中道昭は、著書『アマゾンが描く2022年の世界:すべての業界を震撼させる「ベゾスの大戦略」』(PHP新書、2017年)の序章「2022年11月の近未来」で、「佐藤一郎さん(仮名)」の生活を通して近未来のイメージを描いている。

近未来の設定は、「アマゾン365」という無人コンビニエンスストア店舗のオープンカフェ。

「アマゾン365」は、アマゾンが2017年に買収した米国の高級スーパーマーケットであるホールフーズの一業態に、上述の無人店舗「Amazon Go」を融合させたものとして、描いている。

そこはシェアオフィスの機能も有し、フリーランスの佐藤一郎さんがそこで仕事をしているというイメージだ。

今回の「Amazon Go」は、「はじまり」にすぎない。

 

ビジネススクール教授である田中道昭は、前掲書で、アマゾンが描く「世界」を、さまざまなフレームワークを駆使しながら、わかりやすく解説してくれる。

田中が本の執筆で「こだわった点」に、ぼくはひかれる。

 

 本書を執筆するにあたって、私が最もこだわった点のひとつは、アマゾンの経営者であるジェフ・ベゾスの生の声を聞くことでした。その会社を理解するためには、その会社の経営者のセルフリーダーシップとセルフマネジメントのあり方を理解することが極めて重要だからです。

田中道昭『アマゾンが描く2022年の世界:すべての業界を震撼させる「ベゾスの大戦略」』PHP新書、2017年

 

田中道昭は、ベゾスの人物像を理解するために、公開されている動画はすべて視聴し、引用されている発言、関連する学術論文や資料など、可能な限りに目を通す。

その節の見出しにあるように、「ジェフ・ベゾスの生の声」から未来を見ることである。

 

思えば、ぼくもジェフ・ベゾスの話す内容を、動画を通してじっくり視聴したことがなかったから、YouTubeでいくつかをひろって視聴する。

ジェフ・ベゾスの話す内容と話し方が、思った以上に、ぼくの思考の中にすんなりと入って来る。

特に、アマゾンが掲げる「顧客第一主義」「超長期思考」「イノベーションへの情熱」に関するベゾスの説明は、これらのつながりなどを含めて、ぼくの思考と理解を賦活してくれる。

そこに、ぼくが「顧客」として経験する「Customer Experience(カスタマー・エクスペリエンス)」をあわせながら、ぼくはアマゾンが描く「未来」を見ようとする。

今は毎日、アマゾンをいろいろな仕方で利用しているぼくは、どこに向かっているのだろうか。

田中道昭の分析する「アマゾンの大戦略」の図を見ながら、じっくりと考えてみようと、ぼくは思う。
 

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書籍, 社会構想 Jun Nakajima 書籍, 社会構想 Jun Nakajima

「未来」を見据え、考え、構想するための5冊。- 生き方・働き方をひらいてゆくために。

年末になると、いろいろなメディア媒体で、例えば「今年の◯冊」のような記事が掲載される。ぼくは「他者の書棚」を見るのが好きなので、ただ楽しみ、ぼくにとっての「良書」を探す。...Read On.

年末になると、いろいろなメディア媒体で、例えば「今年の◯冊」のような記事が掲載される。

ぼくは「他者の書棚」を見るのが好きなので、ただ楽しみ、ぼくにとっての「良書」を探す。

ただし、年ごとの切り口よりも、「今」という時点で読んでおくべき大切な本に注目する。

 

「未来」ということは、常に考えている。

「不確実性」に焦点があてられやすい未来だけれど、それ以上に、ぼくにとっては好奇心が圧倒的に勝る<未来>だ。

その「未来」というキーワードにおいて、未来を見据え、考え、構想するための5冊を、ここでは挙げておきたい。

生き方・働き方をひらいてゆくための「土台」となる本だ。


 

(1)見田宗介『社会学入門:人間と社会の未来』岩波新書

刊行されたのは2006年。

今から10年前だけれど、まったく古くならず、むしろ、今の時代においていっそう大切なポイントとなる理論と論考で詰まっている。

「社会学」という学問の枠をつきぬけて、副題にあるように、「人間」と「社会」の未来を、硬質で、ゆらぎのない理論と論理で、論じている。

見田宗介が語るように「社会学」とは<関係としての人間の学>である。

そして、「未来」をひらいてゆくために、この<関係性>がゆらぎ、問われている。

理論的な骨格としては、第六章「人間と社会の未来ー名づけられない革命」と補「交響圏とルール圏ー<自由な社会>の骨格構成」は、必読の内容である。

 

(2)Yuval Noah Harari “Homo Deus: A Brief History of Tomorrow” HarperCollinsPublishers

『サピエンス全史』で有名な歴史学者の著作。

日本語版はこのブログ執筆時点では刊行されていないけれど、刊行されれば日本でもよく読まれるようになるだろう。

ユヴァル・ハラリが著作で展開する「人類の21世紀プロジェクト」とは、人類(humankind)がその困難(飢饉・伝染病・戦争)を「manageable issue」として乗り越えつつある現代において、次に見据える「プロジェクト」で、大別すると下記の通り3つである。

  1. 不死(immortality)
  2. 至福(bliss)
  3. 「Homo Deus(神)」へのアップグレード

「Homo Deus」とは、「神」なる力(divinity)を獲得していくことである。

「神」になるわけではないが、「神的なコントロール」を手にしていくことだ。

読みやすい文章と視点で、ユヴァル・ハラリを導き手に「明日の歴史」を<読む>ことができる。

ぼくにとっては、見田宗介の理論とユヴァル・ハラリの論考とを合わせながら、接合しながら、差異を確認しながら、「未来」をよみときたいと思っている。

 

(3)Lynda Gratton & Andrew Scott “The 100-Year Life: Living and Working in an Age of Longevity” Bloomsbury

日本語訳では『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)ー100年時代の人生戦略』(東洋経済新報社)としてベストセラーになってきた書籍。

ベストセラーとなっても、即座に、人や社会の「価値観」が変わっていくわけではない。

価値観の変遷はまだこの先当面続いていくなかで、「100年時代の人生戦略」の視点と計画と実践を、生き方と働き方、社会システムや組織システムなどに接合していくことが必要である。

ここ香港では、あまり(というかほとんど)取り上げられていない。

しかし、香港人口統計の今後の推移を考慮すると、今から取り組んでいかなければいけないことである。

 

(4)養老孟司『遺言』新潮新書

「新書」という小さな本でまとめられているけれど、養老孟司の「思考と経験」が凝縮された、骨太の本である。

脳化社会・都市化などのこれまでの論点も含め、「人間」というものに、深く深く、思考をおとしてゆく。

養老孟司じしんが述べるように「哲学の本」ともとられかねない内容だけれど、自然科学的な考察も随所になされ、「分類の仕様のない本」である。

「ヒトの意識だけが「同じ」という機能を獲得した」という、この「同じ」をキーワードに、あらゆる事象をよみといていく。

読みやすい本だけれど、養老孟司の「思考」をじぶんのものにすることは容易ではない(ぼくにとっては)。

 

(5)西野亮廣『革命のファンファーレ:現代のお金と広告』幻冬舎

職業としての「芸人」という枠におさまらず、生き方としての<芸人>へと生をひらいてきた西野亮廣が、ビジネス書として世に放つ2冊目の著書『革命のファンファーレ 現代のお金と広告』(幻冬舎)である。

本書は、西野亮廣じしんが言うように、西野の<活動のベストアルバム>となっている。

<生き方としての芸人>という試みは、世界と時代をひらいてゆく試みである。

その試みの、実際の「経験と学び」を、西野亮廣は、この著書で共有している。

上に挙げた4冊とは趣を異にするように見えるけれど、その根底においては、さまざまな通路においてつながっている。

 

 

最初に挙げた著作(『社会学入門』)における、社会学者の見田宗介が見はるかしている、今という世界と時代の「立っている地点」の文章を、最後に抽出しておきたい。

 

 …ぼくたちは今「前近代」に戻るのではなく、「近代」にとどまるのでもなく、近代の後の、新しい社会の形を構想し、実現してゆくほかはないところに立っている。積極的な言い方をすれば、人間がこれまでに形成してきたさまざまな社会の形、「生き方」の形を自在に見はるかしながら、ほんとうによい社会の形、「生き方」の形というものを構想し、実現することのできるところに立っている。

見田宗介『社会学入門:人間と社会の未来』岩波新書

 

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「近代と現代:『標準化、統一化』からの卒業」(落合陽一)。- ダイバーシティの世界へ。

NewsPicksの記事「AI、シンギュラリティ、計算機自然…。落合陽一がいま、考えてること」(2017/12/11)は、筑波大学准教授である落合陽一のプレゼンテーションから8つのトピックをとりあげ、簡潔にまとめている。...Read On.


NewsPicksの記事「AI、シンギュラリティ、計算機自然…。落合陽一がいま、考えてること」(2017/12/11)は、筑波大学准教授である落合陽一のプレゼンテーションから8つのトピックをとりあげ、簡潔にまとめている。

その最初のトピックとして挙げられているのが、「1. 近代と現代」である。

落合陽一自身の言葉かはわからないけれど、そこには、次のような見出しがつけられている。

 

「標準化、統一化」からの卒業

 

落合陽一は、近代という時代の「テーマ」を次のようにきりとっている。

 

 近代は、一人ひとりが多くの人間のために「標準化」した、いわゆる人間らしい社会をつくることに必死で、それがテーマでもありました。その結果、僕たちは「統一化」されてしまったのです。テレビなどのマスメディアはいい例で、皆が似たような感性や思考となってしまいました。

NewsPicks「AI、シンギュラリティ、計算機自然…。落合陽一がいま、考えてること」(2017/12/11)

 

「近代というプロジェクト」にとって、(自由と平等という理念にもかかわらず、いったんはそれらを凍結し)近代家父長制という制度のもとにリソースを集約してきたことは、社会学者の見田宗介が明晰に語っているところである。

「近代」市民社会は、「標準化」の力学で、土着のものを解体してきたことについては、別のブログ(「標準化」と「共通語」の異なり)でも見てきた。

落合陽一は、「現代は違う」と語り、「多様性への変化、ダイバーシティ」への時代の流れを見ている。

それが、「標準化、統一化」からの卒業である。

落合陽一が「多様性・ダイバーシティ」を挙げるのは、落合の主戦場である情報テクノロジーである。

インターネットからスマートフォンの流れで、「個人」が好きなことをできるようになってきたことが挙げられている。

その上で、「統一化された社会の枠組みでものごとをかんがえるフェーズ」から「多様性ある社会でアップデートするすべを考えなくてはならない時代」の到来へと、落合陽一は目を向けている。

 

落合陽一の研究の芯をささえているのは、このような大きな流れをつかみ、そして描かれた未来である。

シンギュラリティなどで語られる人とコンピュータとの関係性についても、コンピュータやロボットによる人間支配ではなく、その逆の未来を描いている。

 

…人が自由意志などの近代パラダイムを脱構築することで、新しい形の共存を作り出す。それによって私たちは今よりも自然な、そしてストレスや無理のない毎日が送れるような未来を描いています。

NewsPicks「AI、シンギュラリティ、計算機自然…。落合陽一がいま、考えてること」(2017/12/11)

 

その手段として、落合が追い続けている研究テーマが「計算機自然・デジタルネイチャー」である。

「標準化、統一化」から卒業した先の「多様性・ダイバーシティ」をささえる、ぼくたちの<共通のことば>を、テクノロジーを実際に駆使しながら、落合はここに構築しようとしている。

ダイバーシティはただダイバーシティであればよい、というものではない。

近代のプロジェクトを推進してきた「標準化」の力のエッセンスを<共通のことば>として残したままで、ダイバーシティのある社会をひらいてゆくこと。

落合陽一の企ては、デジタルネイチャーという<共通のことば>を基幹にしながら、この「現代」をひらこうとしている。

 

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「標準語」と「共通語」の異なり。- グローバル化のなかで<近代・現代をこえる>方向性を確認しておくこと。

社会学者の見田宗介の論考を手がかりに、「差別」をのりこえる仕方を、<みんなが同じ>と<みんなが違う>という異なる方向性において見ることを、少し前のブログで書いた。...Read On.


社会学者の見田宗介の論考を手がかりに、「差別」をのりこえる仕方を、<みんなが同じ>と<みんなが違う>という異なる方向性において見ることを、少し前のブログで書いた。

<みんなが同じ>という均質化の力学が「差別」を生み出していくこと、<みんなが違う>という異質化は世界を豊饒化していくこと。

しかし、見田宗介の徹底した「論理」は、この平面に、もう一段論理を組み込むことで、現実の問題・課題とこれからののりこえの方向性をとらえている。

見田宗介が提示する、この論理・認識と感覚は、とても大切なことであるように、ぼくは世界のいろいろなところに住みながら思う。

 

見田宗介は、同じ論考のなかで、評論家の加藤典洋が書く「国際化」にかんする文章に触発されながら、ことばについて「標準語」と「共通語」とを丁寧に分けながら、ぼくたちが目指す方向性を明晰に示している。

 

「インディアンが部族言語だけを持ち、標準語をもつことがなかった」ことに加藤が学ぼうとしていることに、わたしは共感する。共感するが、加藤がここで「標準語」を「共通語」一般と同一視していることから、加藤は論理的な困難に自分を追い込んでしまったと思う。
 アメリカ原住民がもし共通語を持とうとしなかったとすれば、それは彼らの美しさであると同時に、弱さでもあったのではないか?
 わたしたちに必要なことは、共通語をもたいないことではなく、「標準語」に転化することのないような仕方で、つまり土着語を抑圧することのない仕方で、共通のことばをもつということではないか?

見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫

 

見田宗介は、この<共通のもの>と<標準のもの>ということを、「近代」全般の見方へと敷衍して書いている。

「近代」とは、<共通のもの>を<標準のもの>に転化することで、土着を解体してきた。

これが、「近代」市民社会(ゲゼルシャフト)である。

だから<共通のもの>を批判して、共同体(ゲマインシャフト)に戻ればいいというものでもない。

見田宗介は、近代のもつ「両義性」をひきうけて、そこから「近代をこえる」方向性を示していく。

 

 近代をこえるということは、文化と文化との間であれ、個人と個人との間であれ、人間と他の存在の形たちとの間であれ、各々に特異なものを決して還元し漂白することのない仕方で、きわだたせ交響するという仕方で、共通の<ことば>を見いだすことができるかという課題に絞られてゆくように思う。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫

 

このような見田宗介の指し示す「近代」をこえる方向性は、この文章が書かれた1986年から10年後に、著作『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)として結実する。

近代を否定するのでもなく、近代をただ肯定するのでもなく、近代の両義性をひきうけながら、未来の方向性を明晰に論じている。

このスタイルの重要性と理論の可能性を深いところで認識し、さらに展開をこころみたのが、上述の加藤典洋であったことは、ぼくの関心をひく。

加藤典洋は日本の311の経験ののちに、見田宗介の『現代社会の理論』の可能性を、出版から20年を経て改めて認識し、『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)を書く。

本質的な思想家たちが、お互いに触発されながら、未来の方向性をさがしあてている。

 

人はものごとの「両義性」に弱いように、ぼくには見受けられる。

どうしても、人は、どちらかの「極」(例えば、近代と反近代)にひっぱられていってしまう。

そのようななかにあって、「各々に特異なものを決して還元し漂白することのない仕方で、きわだたせ交響するという仕方で、共通の<ことば>を見いだすことができるか」という、見田宗介がさししめしてくれた課題は、ぼくたちの歩く方向性の見晴らしをつくってくれている。

その課題を、グローバル化の世界における日々の生のなかでどのように生きていくことができるのかが、ぼくたちに問われている。
 

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名曲「Imagine(イマジン)」(ジョン・レノン)の方法論。- 現実の<消去>という仕方で描かれる世界。

名曲「Imagine(イマジン)」。誰もが知る、今も歌い継がれてゆくジョン・レノンの歌が描く世界に一歩ふみこんでみると、またひとつの視界がひらける。...Read On.

 

名曲「Imagine(イマジン)」。

誰もが知る、今も歌い継がれてゆくジョン・レノンの歌が描く世界に一歩ふみこんでみると、またひとつの視界がひらける。

この曲の中で、「想像してごらん」と、ジョン・レノンが描く世界は、3つのことの<消去>により現出する世界である。

想像のなかで消去されたのは、次の3つのことである。

  1. 天国と地獄
  2. 国と宗教
  3. 所有

それらに対置されたもの・ことを、さらに一歩ふみこみ理論としてとりだすと、次のようになることを、別のブログで論じてきた。

(1)  天国と地獄 ⇄ 「今を生きること」➡︎ 時間

(2)  国と宗教 ⇄ 「平和に生きること」➡︎ 共同体

(3)  所有 ⇄ 「分かち合うこと」➡︎ お金

これら3つのこと・ものは、今の時代が「次なる時代」にひらかれてゆく過程で直面する、大きな課題である。

ジョン・レノンの名曲は、この大きな課題に照準をあわせながら、しかし、人びとに「想像」をよびかけながら、その方法として現実の<消去>という方法をとっている。

天国と地獄がない世界、国と宗教がない世界、所有のない世界の想像を喚起するという方法である。

理論として語るのであれば、方法としては、「否定」(~ではない)と「肯定」(~である)という方法がある。

しかし、ジョン・レノンは、そのどちらでもない、<消去>という方法をえらんでいる。

なぜそのような方法をとったのだろうかと、ぼくはかんがえる。

 

 

社会学者の見田宗介は、1986年の論壇時評において、「差別」をのりこえる方途を次のように書いている。

 

 …男女の差別をこえるという時、「女である前に人間です」という言い方で、同質性に還元してゆく仕方がひとつある。もうひとつ「女といっても一人一人違う。男といっても一人一人違う」という言い方で、異質性をきわだたせてゆく仕方がある。最首の言い方をかりれば、<みんなが同じ>という仕方で差別をこえる方向と、<みんなが違う>という仕方で差別をこえる方向とである。
 異質なものの呼応と交響、というあり方に魅かれるわたし自身には、<みんなが違う>という言い方の方が、得心がゆく。異質化は世界をすてきにしてゆく(同質化は世界をたいくつにする!)。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫

 

見田宗介は、最首悟が障害を持つ自分の子供にふれて言った言葉(最首悟は、<みんが同じ>という均質化の力が差別をつくることを語っている)や、加藤典洋が語る「国境」の話などを手がかりに、差別をのりこえる仕方を展開している。

<みんがが同じ>という方向と<みんなが違う>という仕方。

ジョン・レノンが挙げたこと・ものを、「否定」という仕方で展開して言うと、例えば、「国や宗教がない世界」などとなる。

これは、かんがえる仕方としては、<みんなが同じ>という方向へののりこえに向かってしまう。

それは、最首悟の言うように、均質化の力が逆に差別を生み、見田宗介の言うように、同質化は世界をたいくつにする方向であり、今あることの「否定」がかならずしも、よい世界につながるとは、ジョン・レノンはかんがえていなかったのではないかと、ぼくは思う。

そして、否定とは逆に「肯定」という方向性はいまだ積極的にはみえず、その苦悩と狭間のなかで、<消去>という方法を、彼はとらざるを得なかったのではないかと、ぼくは推測している。

名曲「イマジン」が世に放たれたのは1971年のことであり、時代はますます「標準化」という均質化・同質化の力を強めていたときである。

ぼくはもう少し、ジョン・レノンが描いた世界を、異なる地点や視点から見ていく必要があるように思う(でも、断っておけば、あくまでも、ぼくの解釈にすぎないのだけれど)。

その課題のヒントを、次に、ジョン・レノンのもう一つの名曲「Happy Xmas (War Is Over)」を読みときながら、ぼくは探っていくことになるだろう。

 

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社会構想, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima 社会構想, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima

ジョン・レノンの名曲「Imagine(イマジン)」の描いた世界。- この名曲に一歩ふみこんで、かんがえてみる。

誰もが知る、John Lennon(ジョン・レノン)の名曲「Imagine (イマジン)」。名曲「イマジン」は、多くのミュージシャンたちをひきつけてきた。...Read On.


誰もが知る、John Lennon(ジョン・レノン)の名曲「Imagine (イマジン)」。

名曲「イマジン」は、多くのミュージシャンたちをひきつけてきた。

子供のときにイラクの戦場で見つけられたEmmauel Kellyが、だいぶ前にオーストラリアの番組Xファクターで「イマジン」を歌う姿と歌声は、人びとの心をうった。

Emmanuel Kellyは、Coldplayのオーストラリアでのコンサートで、一緒に「イマジン」を披露している。

生きる力の充溢をそこに見ることができる。

ジョン・レノンだけでなく、さまざまなアーティストにひきつがれてゆく名曲の<つなげる力>に、ぼくは心を動かされる。

 

名曲「イマジン」は、「世界がひとつになって生きる」ことを歌っているけれど、どのような世界を望んでるのか。

何度も聞いてきたこの名曲を、ぼくは一歩ふみこんでかんがえたことがなかった。

歌詞だけにおさまらない力が、この歌にはひめられていることもあるけれど、「わかった」気持ちでいたことも、理由のひとつかもしれない。

「♫ Imagine(想像してごらん)」と、ジョン・レノンが歌うとき、「~のない世界」をとジョン・レノンはメッセージをのせている。

大きく分けると、そこには3つの大きな<消去>がおかれている。

  1. 天国と地獄
  2. 国と宗教
  3. 所有

これらを見ると、わかったような気がするけれど、ジョン・レノンがこれらに「対置」するものを置くと、もう少し見えてくるものがある。

(1)  天国と地獄 ⇄ 「今を生きること」

(2)  国と宗教 ⇄ 「平和に生きること」

(3)  所有 ⇄ 「分かち合うこと」

ここまではジョン・レノンが、歌詞にのせたメッセージである。

さらに、ここから、もう一歩ふみこんで、「抽象度」をあげて理論として取り出してみると、これらの3つは、次のように読みとることができる。

(1’) 時間

(2’) 共同体

(3’) お金

こうしてみることで、ジョン・レノンが名曲にのせて歌うメッセージは、とても「論理的」であることがわかる。

これら3つは、「生きること」の3つの側面であり、「生きること」を支える3つのもの・ことである。

二つ目の「共同体」は、人の<精神的な側面>を支えるものであり、三つ目の「お金」は、人の<物質的な側面>を支えるものである。

人びとの生を支えるものでありながら、それらが逆に、「抑圧」として人びとの生に影響をあたえている状況に、想像の世界でジョン・レノンは現実を<消去>したのだ。

一つ目の「時間」はと言うと、ひとつの解釈としては、人が個人として生きる「意味」がそこにこめられているように、思う。

「天国と地獄」という「結末」に向けられた視線は、人の生をそこに向けて収斂させながら、<今ここの生>をおきざりにしてしまう。

だから、ジョン・レノンは「今日を生きること」へと、人びとの想像の力を解き放とうとしている。

このように、名曲「イマジン」は、時間・共同体・お金という、人が生きてゆくことの、意味と精神的・物質的側面の色彩を変えることで、「ひとつになる世界」を描いている。

その想像の「道すじ」において、ジョン・レノンは、天国と地獄、国と宗教、所有を<消去>するという仕方を選んだことは、積極的な方法というよりも、そう取らざるを得なかったのかもしれないと、ぼくはかんがえている。

 

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ジョン・レノンを思う日。- 「全世界の異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界」(見田宗介)への途上に鳴りひびく歌。

毎年12月8日は、ぼくにとって、ジョン・レノンを思う日だ。時代をつくった音楽バンド、ビートルズの中心メンバーであり、ビートルズ解散後も、数々の名曲をつくり、レノンの歌は世界に交響してきた。...Read On.


毎年12月8日は、ぼくにとって、ジョン・レノンを思う日だ。

時代をつくった音楽バンド、ビートルズの中心メンバーであり、ビートルズ解散後も、数々の名曲をつくり、レノンの歌は世界に交響してきた。

そのジョン・レノンが、1980年12月8日にニューヨークの自宅前で、凶弾に倒れた。

ジョン・レノンが40歳のときだ。

それから27年が過ぎた。

気がつけば、ぼくはジョン・レノンの年齢を超えている。

ぼくがジョン・レノンに出会ったのは、たしか中学生のときの英語の教科書のなかであって、ぼくのなかではジョン・レノンは、今でもそのときの立ち位置に存在している。

英語の教科書では、ニューヨークのセントラルパークに、亡くなったジョン・レノンを思いつつ平和をいのる人たちが集ったこと、それから名曲「イマジン」のことが書かれていたように記憶している。

学校で学ぶということの窮屈さのなかにあって、英語の教科書にあらわれたジョン・レノンは、ぼくをひきつけてやまなかった。

大学で東京に出てからは、渋谷東急でビートルズの物品の展示に使われていた、ジョン・レノンモデルの「リッケンバッカー」のギターが売りに出されていたのを、ぼくは手に入れて、ジョン・レノンが鳴らしたであろう響きを、少しでも感じようとした。

12月8日にかぎるわけではないけれど、クリスマスが近づき、ジョン・レノンの名曲「Happy Xmas (War Is Over」が外からも、それからぼくの内からも、その響きを届けるころ、ぼくはジョン・レノンのことを思い、ジョン・レノンが思い描き、目指していた世界のことをかんがえる。

ビートルズとジョン・レノンの歌、それからレノンの生き方は、ぼくの生き方の方向性に交響する仕方で、ぼくのなかに流れている。

 

社会学者の見田宗介は、整体の創始者といわれる野口晴哉にかんする論考のなかで、ジョン・レノンにふれている。

その「節」は、「時代の文脈ーレノンの歌、遥かな呼応」という言葉がおかれている。

見田宗介が1970年代半ばにメキシコの滞在から日本に帰ったおり、野口晴哉の思想に出会ったときの「時代の文脈」を、2008年の地点から振り返って語るところである。

 

 今ふりかえってみて初めて気がつくのだけれども、わたしたちにとって野口晴哉は、ジョン・レノンやボブ・ディランやカルロス・サンタナの歌と遥かに呼応する運動のうねりの中で、全世界の異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界を実現するための、方法の夢中の模索と探求という途上で出会われた。
 戦争と憎悪と抑圧のない世界を、暴力的な否定という仕方ではなく、(人間の中の自然の可能な力を肯定するということをとおして)異質なもの多様なものの相補し交響する世界の胚芽を、至るところの今ここに生きられる仕方で実現してゆくのだという方法論の、確実な一角として探り当てられていた。

見田宗介「思想の身体価」『定本 見田宗介著作集X:春風万里』岩波書店

 

この時代を生き、「方法の夢中の探索と探求」をつづけてきた人たち。

見田宗介、野口晴哉、ジョン・レノン、ボブ・ディラン、カルロス・サンタナなど。

学問も、整体も、歌も、反戦運動も、すべてが「遥かに呼応する運動のうねり」の中で、それぞれに、「全世界の異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界」の実現をめざしてゆくことの活動としてあった。

時代に流されるのではなく、時代に垂直に立つ仕方で、これらの人たちの生は生きられてきた。

ジョン・レノンの生き方にぼくがあこがれたのも、その音楽的な感性だけでなく、「時代に垂直に立つ仕方」であったように、ぼくは思う。

「全世界の異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界」。

時代がうつりかわっていくなかで、しかし、照準はそこに、定められている。

 

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「自然からの人間の自立と疎外」と「共同態からの個の自立と疎外」(真木悠介)。- 月あかりに照らされる「近代文明の存立」。

香港の夜空で月あかりがさらにあかりを増していくなかで、「自然」という大きな視野はぼくの視界をひろげてくれることを思う。...Read On.


香港の夜空で月あかりがさらにあかりを増していくなかで、「自然」という大きな視野はぼくの視界をひろげてくれることを思う。

じぶんという存在を、一気に相対化してくれる。

その大きな視界から、人間の社会をみつめる。

 

社会学者である真木悠介のどこまでもひろがり、どこまでも深い視界・視野と、展開される論理は、人間社会、その近代文明を「大きく太い線」でとらえている。

「自然からの人間の自立と疎外」と「共同態からの個の自立と疎外」という、大きく太い線である。

真木悠介の著作のなかで、この太い線がより明確な形で提示されたのは、名著『時間の比較社会学』においてである。

 

…われわれの<時間の比較社会学>の問題意識と主導的な仮説を整理しておくと、つぎのようになる。
 第一に、虚無化してゆく不可逆性としての時間の観念は、萌芽的にはオリエント、とりわけヘブライズムといった、最古の反自然主義的な文化と社会の中で発生し、展開してきたものではないか。
 第二に、抽象的に無限化されうる等質的な量としての時間の観念は、萌芽的にはインダスその他の、高度にはヘレニズムのような、都市化された(集合態的な)社会形態の中で発生し、展開してきたものではないか。
 そして西欧にその起源を有する近代文明は、この二つの文明史的な展開の統合の帰結として存立するのではないか。
 理論的に抽象化していえば、第一の契機は、自然からの人間の自立と疎外、それによる自然との<生きられる共時性>の解体にかかわる要因ではないか。第二の契機は、共同態からの個の自立と疎外、それによる共同態の<生きられる共時性>の解体にかかわる要因ではないか。…

真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店

 

途上国の発展・開発の現代的課題(よって先進国の発展・開発の歴史)を学び、疑問を抱きつつ、「発展・開発とは何か」という原的な問題を追い求めていた20年程前に、ぼくは、真木悠介の、この「大きく太い線」で引かれた視界・視野を手に入れた。

そして、この太い線は、ぼくたちが生きる世界の巨視的な把握のためにも、とても大切で、かつ有効なものであると、ぼくは思う。

今も「自然からの」あるいは「共同態からの」<自立>のたたかいはまだつづき、そしてそれらからの<疎外>がもたらす人と社会における問題に、ぼくたちは日々直面し、あるいはそれらを目にする。

ただし、自然からの、あるいは共同態からの自立は、人びとの生活とその社会を解き放ってきたものでもある。

太い線による巨視的な「近代文明の存立」の把握は、正の面と負の面双方をみはるかしながら、現代をよりよく生き、これからの未来を構想しひらいていくための、基礎・基盤である。

 

自然の限りない大きさにさらされると、ぼくの視界は一気に拡大し、たとえば「近代文明」を視野におさめようとしたりする。

ぼくが今立っている「地点」は、人や社会が、自然から、また共同態から自立してきたことの帰結なのだ。

異常なほどに光をはなつ月あかりに、古代の人たちは畏れ・恐れを感じ、その中に埋没してしまっていただろう。

現代のぼくたちは、自然から「自立」し、そんな月に不気味なものは感じない。

しかし「自立」でありながら、自然からの「疎外」として、うしなってきたものもある。

自立と疎外の行きつく果てに、ぼくたちは今さしかかっているのだと、ぼくは思う。

自立と疎外の行きつく果てに、ぼくたちは、どのような世界をつくりだしていくのか、月あかりのなかで、そんなことをかんがえる。
 

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<彩色の言葉>で彩る個人の生と世界の物語。- 「彩色の精神」(真木悠介)に触発されてきて。

言葉には、よく言われるように、「ポジティブ/ネガティブ」な言葉がある。「ポジティブな言葉を使っていこう」というのはひとまずその通りなのだけれど、ついついネガティブな言葉も出てしまったりする。...Read On.


言葉には、よく言われるように、「ポジティブ/ネガティブ」な言葉がある。

「ポジティブな言葉を使っていこう」というのはひとまずその通りなのだけれど、ついついネガティブな言葉も出てしまったりする。

ネガティブな言葉を発することは、それが人のことであれ、世界のことであれ、「自分と人/世界との関係」をネガティブに規定し、そのような物語としてつくりだしてしまう。

それはただの言葉だけにとどまらず、自分の描く対象の人や世界との「現実の関係性」において、言葉で描いたような物語として現実につくりだしていってしまう。

だから、ポジティブな言葉を使っていこう、ということはひとまずその通りではある。

 

その通りではあるのだけれども、他方で、ぼくは「物語の全体性」への視点を大切にしたい。

それは、人の「生きる物語」の基底をなすような、態度・姿勢であり、大きな物語である。

その基底となるようなものとして、ぼくは、<彩色の言葉>ということを考えている。

このコンセプトは、社会学者の真木悠介が言うところの<彩色の精神>から、「言葉」の視点で切り取ったものだ。

 

…フロイトは夢を、この変哲もない現実の日常性の延長として分析し、解明してみせる。ところが『更級日記』では逆に、この日常の現実が夢の延長として語られる。フロイトは現実によって夢を解釈し、『更級日記』は夢によって現実を解釈する。
 この二つの対照的な精神態度を、ここではかりに、<彩色の精神>と<脱色の精神>というふうに名づけたい。

真木悠介「彩色の精神と脱色の精神ー近代合理主義の逆説」『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫

 

『更級日記』から真木悠介がとりあげているのは、作者と姉が迷いこんできた猫を大切に飼っていたところ、姉の夢まくらにその猫がでてきて、自分が侍従の大納言どのの皇女であり、因縁があってしばらくここにいることを告げる、という話だ。

姉妹はいっそう猫を大切にあつかい、猫にむかって「大納言どのの姫君なので」などと話しかけると、心が通じているように思われる。

真木悠介は、夢により現実を解釈するという精神態度を、「彩色の精神」と呼んだ。

 

 われわれのまわりには、こういうタイプの人間がいる。世の中にたいていのことはクラダライ、ツマラナイ、オレハチットモ面白クナイ、という顔をしていて、いつも冷静で、理性的で、たえず分析し、還元し、君たちは面白がっているけれどこんなものショセンXX二スギナイノダといった調子で、世界を脱色してしまう。そのような人たちにとって、世界と人生はつまるところは退屈で無意味な灰色の荒野にすぎない。
 また反対に、こういうタイプの人間もいる。なんにでも旺盛な興味を示し、すぐに面白がり、人間や思想や事物に惚れっぽく、まわりの人がなんでもないと思っている物事の一つ一つに独創的な意味を見出し、どんなつまらぬ材料からでも豊饒な夢をくりひろげていく。そのような人たちにとって、世界と人生は目もあやな彩りにみちた幻想のうずまく饗宴である。

真木悠介「彩色の精神と脱色の精神ー近代合理主義の逆説」『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫

 

<脱色の精神>は、真木悠介がこの文章につづけて書いているとおり、近代の科学と産業を生みだし、人びとの心をとらえて、生きる世界を脱色していったのである。

しかし、「科学」そのものが<脱色の精神>ということでは必ずしもない。

伝記作家Water Isaacsonが追いもとめてきた人物たちーレオナルド・ダ・ヴィンチ、ベンジャミン・フランクリン、アインシュタイン、スティーブ・ジョブズーは、「科学 science」と「人間性 humanity」をつなげてきた人たちである。

かれらにとっては、世界は「目もあやな彩りにみちた幻想のうずまく饗宴」であったはずである。

かれらにとっては脱色の精神でさえも、<彩色の精神>に彩られてゆくような精神の磁場がつくられていたように、ぼくは思う。

 

このような<彩色の精神>を基礎に、<彩色の言葉>ということが、ぼくが考えていることである。

そこでは、脱色の言葉でさえ、(彩色の精神による)<彩色の言葉>で、彩り鮮やかな物語を語ってしまうような言葉たちである。

<彩色の言葉>は、世界や人生を「目もあやな彩りにみちた幻想のうずまく饗宴」の物語として語る言葉たちだ。

歴史家のYuval Harariが焦点をあてるように、人間(サピエンス)のユニークな強さを与えるものは「フィクションとしての物語」である。

<彩色の言葉>は、個人の生だけでなく、それは人間たちが共有する「フィクションとしての物語」をも彩色してゆく。

脱色の精神と脱色の言葉により「何もないところ」まで来てしまったぼくたちが、個人の生と世界の物語を彩色してゆくこと。

そのような祝福された言葉として、<彩色の言葉>はある。

 

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人は「(世界どこでも)みんな同じ」か「文化によって違う」か、という、問いと思考。- 普遍性と異文化について。

人は「みんな同じ」か「文化によって違う」か、という、問いを、ぼくたちはじぶんに投げかけたり、あるいは友人や同僚などとの会話の中でたずねたりする。...Read On.


人は「(世界どこでも)みんな同じ」か「文化によって違う」か、という、問いを、ぼくたちはじぶんに投げかけたり、あるいは友人や同僚などとの会話の中でたずねたりする。

「人はどこでも、やっぱり人だよ」という意見もあれば、「◯◯人は…だよ」というように文化による違いを強調するような意見もある。

言葉を変えれば、普遍性なのか、異文化的なのか。

さて、どうだろうか。

このような意見が交錯する会話を聞いていたもう一人は、もしかしたら、次のように言うことで、この問いを「解決」しようとするかかもしれない。

「人は、だれもがひとりひとり異なると思う」

人は誰もが同じという普遍性でもなく、文化によって異なるというカテゴリーをあてはめるのでもなく、「個人」に焦点をあてて「みんなが違う」という方向性に解決の方向性を見つけてゆく。

この意見を聞いて考え直して、さて、どうだろうか。

 

上記のような問いはいろいろな文脈において、ぼくたちがそれら問いを発したり、議論したり、意見したりしている。

日々のちょっとした会話から、仕事から、学術的なところに至るまで、いろいろにである。

それら問いにたいして、大抵は「漠然とした考え・思考」をもっていたりするのだけれど、それはあくまでも「漠然としたもの」である。

問いを発したり、あるいは答えたりする人それぞれの信念や論理、またそれぞれの経験にもとづき、問いや回答はいろいろである。

 

ぼくからは「視点」だけにしぼって、そのいくつかを提示しておきたい。

 

(1)「平面」だけで考えないこと

ぼくたちの思考は、平面的にまた往々にして二分法的(…か…か)に考えてしまうようなところがある。

世界の人たちはみんなやっぱり人として同じなのか、文化ごとに違うのか、というように。

でも、この二つは、平面的に考えるものではなくて、「重層的」なものである。

どちらも、人それぞれに、重層的に存在しているものである。

 

「現代の人間」ということを見ていくときに、社会学者の見田宗介は、「現代人間の5層構造」ということを書いている(参照:見田宗介『社会学入門』岩波新書)。

【現代人間の5層構造】

④ 現代性
③ 近代性
② 文明性
① 人間性
⓪ 生命性

これら「5層構造」にふれて、見田宗介は読者に次のように語りかけてくる。

 

…人間をその切り離された先端部分のみにおいて見ることをやめること、現代の人間の中にこの五つの層が、さまざまに異なる比重や、顕勢/潜勢の組み合わせをもって、<共時的>に生きつづけているということを把握しておくことが、具体的な現代人間のさまざまな事実を分析し、理解するということの上でも、また、望ましい未来の方向を構想するということの上でも、決定的である。

見田宗介『社会学入門』岩波新書

 

この理解が次の点につながってくる。

 

(2)「みんなが違う」という見方

「現代人間の5層構造」だけを見ても、見田宗介が教えてくれるように、これら五つの層が「さまざまに異なる比重や、顕勢/潜勢の組み合わせをもって、<共時的>に生きつづけている」ことからくる、無限の発現のされ方がありうる。

比重や組み合わせは無限的であるからだ。

ちなみに、「みんなが違う」という見方と「みんなが同じ」という見方は、「平等」ということを考えるときの二つの考え方である。

「平等」をおいもとめてゆくときに、わかりやすいところでは「みんなが同じ」という仕方でおいもとめてゆくことができる。

それは、ある意味とある文脈において、日本的な仕方であった。

しかし、魅力的なのは、「みんなが違う」という方向につきぬけてゆく仕方である。

最近使われる言葉で言えば、「多様性 diversity」の方向につきぬけてゆく仕方である。

ただし、今現在の「多様性 diversity」は、「カテゴリー」を増やしていくところにとどまっているのだけれど。

 

(3)異文化を視る視点

「みんなが違う」という見方をしながらも、「異文化」が人それぞれに顕勢/潜勢する<層>はある。

社会や法やモラルや宗教などの文化の構造とコードが、そこにいる人たちをある「型」へと導いてゆくようなところがある。

それらの比重や、顕勢/潜勢の組み合わせは、人さまざまだけれど、やはり文化的な現れは、場面場面でおきてくるのだ。

さらには、時代や時代の価値観などの異なる「層」も組み合わさるため、より複雑にみえたり、実際に複雑だったりする。

海外に長くいながら、やはり「日本的な文化の層」がぼくにはあることを感じてきた。

でも、それは、あくまでもひとつの層である。

 

いくつかの視点を提示したけれど、まずは、普遍か文化かというように「平面的に見ること」から、<重層的に見ること>へ移行すること。

現在は、Virtual RealityやAugumented Realityなどの技術と視界がひらけてきている一方で、<重層的に見ること>は、世界が<ほんとうのグローバル社会>になっていく上で、ぼくたちが<Reality>を見るために身につけておく大切な<視力>であるように、ぼくは思う。
 

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短編動画『Why 'Happiness' is a useless word - and an alternative』(The School of Life)。- 幸福論の「二つの系譜」。

「Eudaimonia」。古代ギリシアの言葉で、「Happiness」に代わるものとして、「The School of Life」の短編の動画作品『Why 'Happiness' is a useless word - and an alternative』で提示されている言葉だ。...Read On.

「Eudaimonia」

これは古代ギリシアの言葉であり、いわゆる「Happiness」に代わるものとして、「The School of Life」の短編(3分28秒)の動画作品『Why 'Happiness' is a useless word - and an alternative』で提示されている言葉だ。

この言葉は古代ギリシアにおいて、特にプラトンとアリストテレスが語っていたものとされる。

一般的に使われる人生の目的や様々な論の前提には「Happiness(幸福)」や「幸福の追求」があるのだけれど、その欠点を補うもの・代替されるものとして、「Eudaimonia」があるという。

この「翻訳語」としては、何があてられるか?

この言葉にはいろいろな「訳」があてられてきたけれど、The School of LifeのAlain de Bottonは、ベストな訳として「fulfilment」(充実)をあてている。

そして、HappinessとFulfilmentを区別するのは「痛み(pain)」だと語る。

前者がむずかしいのは、ぼくたちの生きることの日々は、ハッピーであったり、ハッピーでなかったりと上下がはげしいのだ。

ただし、後者の「Eudaimonia (fulfilment、充実)」は、そのような「上下」をひっくるめて語ることができる。

仕事でプロフェッショナルな才能を適切に模索してゆくこと、家事をこなしてゆくこと、人間関係を維持してゆくこと、新しいビジネスを起こすことなど、これらのどれも、日々においてぼくたちをいつも陽気にしてくれるようなものではないことを、Alain de Bottonは語る。

むしろ、それらはチャレンジであり、ぼくたちはときに疲労困憊し、ぼくたちをきずつけることだってある。

でも、それでも、終わりから振り返ってみれば、それらひとつひとつに価値があったことを思うのが、人というものである。

 

Eudaimoniaを心にしまうことで、痛みのない存在を目標にするということ、それから機嫌が悪いことにたいして私たち自身を不公平に非難するということを想像することを、私たちはやめることができるのです。

The School of Life『Why 'Happiness' is a useless word - and an alternative』(YouTube)(※日本語訳はブログ著者)

 

社会学者の見田宗介は、初期の著作(修士論文)である『価値意識の理論』(弘文堂)において、「幸福論の二つの系譜」を記している。

幸福論の二つの系譜とは、次の二つである。

  1. 欲求の満足としての幸福
  2. 活動にともなう充実感としての幸福

The School of LifeのAlain de Bottonが語る用語にあわせていけば、次のように記しておくことができる。

  1. 欲求の満足としての幸福:Happiness
  2. 活動にともなう充実感としての幸福:Eudaimonia (fulfilment)

現在の社会科学の理論や評価や指標の多くは、いまだに前者の「欲求の満足」をその前提としている。

経済学の諸流派もそうであるのだけれど、しかし経済学者アマルティア・センの「潜在能力アプローチ」という評価指標(「生き方の幅」を評価)は、経済成長指標を捕捉・代替するものとして提示され、実際に国連開発計画(UNDP)で使用されてきたのである。

センの理論は、実は、前述のアリストテレスに源流をもっている。

アリストテレスは、『二コマコス倫理学』の中で、「幸福は活動である」と述べており、センはその思想をひきつぎながら「潜在能力アプローチ」という強力な理論をつくりだしたのだ。

見田宗介も、アリストテレスを筆頭に、思想家たちの言葉を引用している。

 

 アリストテレスは「幸福は活動である」といい、モンテーニュは「われわれが知っているすべての快楽はそれを追求すること自身が快楽である」とのべ、またパスカルは「なぜ人は、獲物よりも狩を好むか?」と問いかけている。スピノザもまた、「幸福は目標そのものなのでなく、能力の増大という経験に付随するもの」であるとしている。ラッセルやデューイをはじめ、幸福や人生の目的について考えた多くの哲学者や作家や詩人は、それが行為のかなたにではなく、行為の過程それじたいのうちに内在することを指摘している。

見田宗介『価値意識の理論』(弘文堂、1966年)

 

それでも、歴史は、人びとの多くが「欲求としての満足=Happiness」を目的としてきたことを語る。

それはなぜだろうかという問いが当然のことながらわきあがる。

説明や仮説や理由はいろいろに考えられるけれど、「欲求としての満足」の中毒性と共に、近代という時代の「合理化」という原理に接合しやすいものであったのだと、ぼくは思う。

その近代という時代が次の時代に向かう大きな転換点において、幸福の二つの系譜の内の「充実感としての幸福」に再び光があたりはじめている。

この「充実感としての幸福」の中に、ぼくの目指すところの、人びとの目の輝きに彩られる生が現出する。
 

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「退屈さ」というぼくたちの内面の最大の敵(のひとつ)に向かって。- 「人に伝わらない」という経験が退屈さに立ち向かう。

走りながら、ぼくは思考を紡いでゆく。ひとつに、ぼくたちが避けるべきは、あるいはいずれ(何らかの形で)避けることになるのは「退屈さ」ではないかと。...Read On.


走りながら、ぼくは思考を紡いでゆく。

ひとつに、ぼくたちが避けるべきは、あるいはいずれ(何らかの形で)避けることになるのは「退屈さ」ではないかと。

一人という生においても、組織というものであっても、社会というものであっても、人あるいはその集団は、意識していようがいまいが、「退屈さ」を嫌うのではないかと。

「退屈さ」をこわすためであれば、人や集団は、苦痛や不幸さえつくりだしていってしまうように、ぼくは思う。

「苦痛や不幸さえつくりだす」ということは、語弊があるかもしれないけれど、意識せずともあるいは意図せずとも、そのような状況に自分を追い込んでいってしまうということ。

生きていくということは、時間により「右肩上がりの直線」が引かれるのではない。

それは、Joseph Campbellが言うような「Hero’s Journey」のように、あるいはその原型を適用する映画のように、アップ&ダウンの連続なのだ。

直線的な退屈さをこわすために、人は「ダウン」さえ、生きる物語につくっていくということである。

 

逆に「面白さ」ということをかんがえるときには、面白さをつくりだす条件として「自由」ということがあると、ぼくは思う。

ここで言う「自由」は、日々の生活における自由ではなく、根源的な「自由」である。

例えば、コミュニケーションということにおいて、次のような図式でかんがえてみる。

 

「伝わらない」<ーーーーーーーーーー>「伝わる」

 

一方に「伝わらない」ということがあり、他方に「伝わる」ということがある。

人と人とのコミュニケーションにおいて、「いつも、完全に伝わる」(つまり線分の一番右)ということであったらどうだろうか、とかんがえる。

コミュニケーションがうまくいかないという、誰もが悩み苦痛とフラストレーションを感じる中に、ぼくたちは「いつも、完全に伝わったら…」という願望を抱く。

しかし、はたして、「いつも、完全に伝わったら」ぼくたちの世界はどうなるのか。

ぼくは思うのだけれど、そこには「退屈さ」の影が侵入してくるのではないだろうか、と。

伝わらないことと伝わることの「間」は、ぼくたちが自由であることの条件なのだと、ぼくはかんがえる。

自由は、コミュニケーションがよくできることも、あるいはできないことも、何も保証してはくれないけれど、ぼくたちが「アップ&ダウン」を楽しむことのできる可能性をつくってくれる。

ぼくたちが楽しむテレビドラマや映画、恋愛映画であったり家族の物語であったりは、この「伝わらないー伝わる」ということがつくりだす自由空間でくりひろげられるドラマである。

その意味において、自由は「面白さ」の可能性をつくりだしていく。

それは「退屈さ」という敵にくりだす武器なのだ。

 

見田宗介が語る「自由の前提」が、ぼくの頭から離れない。

 

…自由には二つの前提がある。第一に、「どこにでも行ける」ということ。第二に、どこかに行けば、幸福の可能性がある。「希望」があるということである。第一は自由の、抽象的、形式的な条件である。第二は自由の、現実的、実質的な条件である。…

見田宗介「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』2016年9月号

 

コミュニケーションにおいて、「伝わらないー伝わる」という可能空間で、ぼくたちは「どこにでも行ける」。

伝わらないことも伝わることも、あるいはその中間のどこかであることもできる。

そこには「どこにでも行ける」だけでなく、ぼくたちにはコミュニケーションの「希望」がある。

村上春樹が「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」(新潮文庫の同タイトルの著作より)と願うように、ほんとうに伝わるということが極めてむずかしいのがコミュニケーションである。

それでも「きっと伝わる/伝える」という「希望」が、ぼくたちをつきうごかしていく。

その「希望」につきうごかされながら、アップ&ダウンの「面白い」ドラマの中で、ぼくたちは日々を生きる。

「伝わらないー伝わる」という両極の事例に限らず、生きることのさまざまな同じ形式のことは、「自由」ということの条件である。

それは、ぼくたちの内面の最大の敵のひとつである「退屈さ」をこわしていく空間を、ぼくたちに与えてくれている。
 

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社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima 社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima

時代の変わり目に「貨幣」を本質的に考える。- 「貨幣とは外化された共同体である」という真理。

時代の変わり目に「貨幣」について、本質的に考えていくことがますます大切になってきている。...Read On.

時代の変わり目に「貨幣」について、本質的に考えていくことがますます大切になってきている。

日々の生活がかけられている「マネーゲーム」ということの、その「ゲーム盤」自体が揺らぎ、変容をとげようとしているからである。

仮想通貨やベーシックインカムなどはメディアでも頻繁にとりあげられ、またクラウドファンディングなどの方法もよく語られる。

このような新しい形式は視野に入れながら、しかしここでいう「時代」の区分は重層的で、長い射程においては、紀元前にまでさかのぼる。

中間的な射程においては、例えば「近代」という時代であったりする。

理論的な記述として、その本質をとらえている社会学者である見田宗介の文章を、ここで挙げておきたい。

 

 近代社会の古典形式は、かつて第一次の共同体のもった、人間の生の物質的な根拠としての側面を「市場のシステム」として開放し、人間の生の精神的な根拠としての側面を「近代核家族」として凝縮する、という二重の戦略であった。
 「貨幣とは外化された共同体である」という心理は、「市場」として散開する共同体のこの第一の側面に定位している。貨幣のシステムは、微分され/積分される共同性である。限定され/普遍化された(specific/universal)協働の連関である。貨幣はこの限定され/普遍化された交換のメディアであることをとおして、近代的な市民社会の存立の媒体であるが故に、その<諸主体の主体>として立ち現れる、<物象化された共同体>に他ならなかった。…

見田宗介『社会学入門ー人間と社会の未来』岩波新書

 

マルクスの『資本論』を「ふつうの古典」として「現代社会」を理解するための素材として見田宗介(=真木悠介)は読み解きながら、上記の文章を語っている。

「貨幣とは外化された共同体である」という真理は、次の時代にぬけてゆくために、ぼくたちが理解しておくべきものである。

貨幣(お金)がそれ自体ただの「紙切れ」やただの「硬貨」でありながら、それへの執着をうながす根拠は、それが<諸主体の主体>として立ち現れる、<物象化された共同体>であるからだ。

それはそのようにあるものとして、「市民社会の物神」(真木悠介)である。

 

ぼくが住んでいるここ香港は、貨幣(お金)ということのとても敏感な社会である。

それは、共同体的な基盤が確固としていない中で、生の物質的な根拠としての側面を「市場のシステム」にたくす、「外化された共同体」である。

また、ぼくが以前住んでいた東ティモールでは、「市場のシステム」の浸透のプロセスに置かれていた。

それは、グローバル化と共に、世界の市場システムという「共同体」につながりながら、しかし、貨幣が必要な生活に投げ込まれることでもある。

 

そのような「貨幣」が今さまざまな角度から問われることの背景には、「共同体」というものの変容がある。

「市場のシステム」はグローバル化のもとに進展し、他方で先進社会の「近代核家族」はその解体という契機に直面している。

 

 いま生の精神的な根拠もまた…その凝縮を失って散開するのだとしたら、新しく限定され/普遍化されたコミュニケーションの媒体として、現代的な市民社会の存立のメディアであるが故にその<諸主体の主体>として立ち現れるのは、情報のテクノロジーである。電子メディアのネットワークは、このように完成され純化された近代のシステムの、外化され物象化された共同体である。
 共同体を微分し/積分せよ、という<近代>の未完のプロジェクトはここに、「主体」のその深部に至る領域化、という仕方で完結する。

見田宗介『社会学入門ー人間と社会の未来』岩波新書

 

この「情報のテクノロジー」が、時代を先に押し進めながら、同時に「共同体」の変容を促している。

貨幣も、この歴史的な変容の中で、その新たな行く先へと視線を向けている。

貨幣の問題は、人がどのようにつながってゆくのか、あるいはつながっていかないのか、という課題へと、ぼくたちの社会の「基盤」を揺らがせている。

「世界で生ききる」ために、この問題と課題は、この「基盤」を正面から直視していくこと。

ぼくたちは、そのような時代の「過渡期」に置かれている。

 

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<生き方の魅力性>によって変えてゆくこと。- 西野亮廣、「革命」、人びとを解き放つ方法。

西野亮廣著『革命のファンファーレ』(幻冬舎)を読みながら、<生き方としての芸人>を生きる西野の生き方と、そこに「可能性」を見る人たちについて考えている中で、次の言葉がぼくの中に湧き上がってきた。...Read On.


西野亮廣著『革命のファンファーレ』(幻冬舎)を読みながら、<生き方としての芸人>を生きる西野の生き方と、そこに「可能性」を見る人たちについて考えている中で、次の言葉がぼくの中に湧き上がってきた。

<生き方の魅力性>によって解き放つこと。

社会学者である真木悠介の言葉だ。

真木悠介は、演出家・竹内敏晴の著作『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫)の「解説」として、「人間は変わることができるか」というこの本をつらぬく主題をとりだして、文章を書いている。

竹内敏晴の本書の初版は1975年で、文庫本の「解説」は1988年に掲載された。

人間は変わることができるか、人間はどこから変われるか。

1990年代から2000年代前半にかかる大学時代に、ぼくはこの主題にとりつかれるように、アジアを旅し、ニュージーランドに住み、徒歩で歩き、そして、真木悠介や竹内敏晴の本に向き合ってきた。

真木悠介が「解説」で述べているように、竹内のこの本は、変わることに向かう方法の「具体性」を提示している。

ぼくは当時、その「具体性」のある実質的な方法を、「旅」の中に見出そうとしていた。

そのような中で、真木悠介の言葉は、ぼくの中に「翼と根」として存在することになる。

真木悠介は、「人間は変わることができるか」という問いにたいして、1970年代に「つかんでいたこと」を次のように書いている。

 

…そのころまでに、わたしたちのつかんでいた方向は、こういうことだった。言葉ではない、暴力ではない、<生き方の魅力性>によって、人びとを解き放つこと、世界を解き放ってゆくのだということだった。

見田宗介『定本 見田宗介著作集X』岩波書店

 

<生き方の魅力性>で、人びとや世界を解き放ってゆくこと。

概念(言葉)はいつだって行動に遅れると、見田宗介(=真木悠介)の生徒であった社会学者・大澤真幸は言う。

身体で感じていたものに言葉がすーっと重なってゆく体験だ。

それからというもの、<生き方の魅力性>という言葉が、ぼくの生の方向性を照らし出していくことになる。

 

「解き放つ」という言葉を、真木悠介=見田宗介は著作の中でよく使う。

見田宗介は、17歳の頃(1950年代半ば)に「解放論」をめざしたときのことを、それから60年ほど経過した後に、ある小論(「走れメロスー思考の方法論について」『現代思想』2016年9月号)の中で書いている。

だれでも17歳の頃に人生の目的や方向性について思い悩む時期に、見田も、仕事や勉強を「何のためにするのか」という究極の目的や方向性についてイメージを描いては消して、描いては消してを繰り返す中で、二つの「候補」が残ったという。

第1候補:「人類の幸福」
第2候補:「世界の革命」

ただし、これらは双方とも、候補から抜け落ちてしまう。

理由は次のことだったという。

第1候補「人類の幸福」:「幸福」という言葉の「ぬくぬく感」に違和感、パンチ力に欠けること
第2候補「世界の革命」:「やるぞ!」感はあるが、「革命」という言葉の政治的なニュアンスが好きでなかったこと

そして、二日目に、突如、言葉がまいおりる。

それは、「人間の解放」であったという。

見田宗介は、これから60年生きるとしても、ここに変わりはないと書いている。

その「人間の解放」という目的と方向性にたいして、1970年代、30代の見田宗介は、<生き方の魅力性>を方法の方向性として見定めるところに来ていた。

 

それから40年ほどがすぎ、「革命のファンファーレを鳴らそう」と、芸人であり作家の西野亮廣はよびかける。

「革命」という言葉は、20世紀までの歴史における革命や政治的な色彩は感じられず(芸人であり、絵本作家であり、「おとぎ町」主催の西野亮廣のイメージもある)、共同体が解体され、個人主義の貫徹してゆく社会の「個人の生き方」に向けられている。

そこでは、「革命」は、ゲーム的な世界における、楽しさの衣をまとったものとして現れている。

「よびかけ」は、クラウドファンディングであり、著作であり、ツイッターでありと、現代の「情報メディア」が駆使されている。

これらの仕組みや情報メディアは、個人たちがテクノロジーでつくりだす<共同体>だ。

活動や行動、それから未来へとひっぱる重力は、そのコアに<生き方の魅力性>を宿している。

西野亮廣が「芸人」という定義にもこだわることのひとつは、それは「職業」ではなく<生き方>であり、その<生き方の魅力性>に生がかけられているからだと、ぼくは思う。

見田宗介は、上述の小論で、「人間の幸福」や「世界の革命」などについて、「今時こんなことを考える人はいないと思うが…」、と綴っている。

そのようなことを直接的に、直球で考える人たちは昔に比べてすくないかもしれないけれど、人びとや世界を解き放つことにおいて、<生き方の魅力性>を方向性として定めて生を生ききる人たちがいる。
 

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社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima 社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima

「世界を変える」を紐解く。- 重層的/複層的に「世界」をとらえながら。

「世界を変える」ということを、本気で、考えてきた。「世界を変える」ということを、本気で、行動にうつそうとしてきた。...Read On.

「世界を変える」ということを、本気で、考えてきた。

「世界を変える」ということを、本気で、行動にうつそうとしてきた。

「世界を変える(change the world)」ということを言うと、普通、周りからは「何を言っているんだ」的な反応が返ってきたりする。

ここでは、「世界」は「地球大」のイメージとして、会話の中に現れる。

世界が「理想の時代」であったときには、その言葉はある「真実」として迎えられたのかもしれないが、たとえそのような時代にあっても、「何を言っているんだ」的な反応はあったはずだ。

 

それにしても、「世界を変える」という言葉は、極めて曖昧な言い方である。

「世界を変える」ということの中には、世界の「何を」変えるということが語られていない。

語られる状況や環境、そして語る者それぞれの立ち位置によるところが大きい。

共通性があるとすれば、「よい方向に変える」という意識がねりこまれていること。

ただし、この「よい」は、人それぞれであったりするから、「良さ・善いこと」の意味と定義の迷宮にはいりこんでしまう。

そんな中で、「happiness」が登場したりする。

人は幸せな生を求め、社会は幸せな社会をめざす、などなど。

ところが、「happiness」ということの意味と定義の迷宮もあり、また「happiness」ということが導く生の限界に、ぼくたちはぶつかることになったりする。

 

この「(世界の)何を」については、ひとまず横においておく。

前段の意図は、「世界を変える」ということの曖昧性を述べておくことである。

「世界を変える」ということは、ぼくの中においては、重層的/複層的に捉えられ、考えられ、行動に落とされている。

そして、この「重層/複層した世界への視野」が、大切である。

シンプル化して、並べると次のようになる。

  1. 世界(グローバル社会、地域、国などの)
  2. 生活世界(直接的に関わる家族、友人、仕事関連の世界)
  3. じぶんの世界

「世界」は、地球大のイメージにまで、その空間をひろげる。

「世界」は、未来へと時間軸をひろげてゆく。

しかし、日々の生活においては、ぼくの生活圏における「世界」のことだ。

家族や友人という拠点からひろがる「生活世界」であり、仕事という拠点からひろがる「生活世界」である。

「世界」とは、「人と人との関係性」のことである。

さらには、「じぶんの世界」へと、視点と行動は、重層している。

この「じぶんの世界を変える」ということを、例えば、成長などと呼ぶ。

こうして「世界を変える」ということは「じぶんの世界観・見方・感じ方」を変えてゆくということがある。

その影響力の中で、生活世界を変えてゆく、あるいは生活世界が変わってゆく。

さらに大きな地球大の「世界」の視点から見れば、じぶんを変え、生活世界を変えることは、「世界が変わる」ことの大きなうねりのひとつとなることができるかもしれない。

「世界を変える」というよりも、「世界が変わる」ことへの、世界にひろがるたくさんの試みのひとつになるということである。

 

ここで、やはり「世界を変える」ことにおいて、「世界をどの方向に?」ということが、どうしても現出してきてしまう。

この問題を考えるときに、社会学者の見田宗介が社会理論を純粋モデルとして描いた「交響圏/ルール圏」が、その議論の方向性の「土台」をつくってくれている。

理論は、「他者の両義性」(「歓びの源泉である他者」と「苦しみの源泉である他者」)に照応し、社会の構想は「二つの系譜」があることになる。

 

…一つは、直接に歓びであり、<至高なるもの>の生きられる形を解き放つ生のあり方、関係のあり方を構想するものであり、一つは、人間が相互に他者であり、それぞれに異なる仕方でこの<至高なるもの>を生きつくそうとすることの事実からくる、不幸と抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化しておこうとするものである。…<他者の両義性>が、具体的にみると、その圏域をたがいに異にしているということ。そしてこの圏域の異なり(限定性/全域性)という事実が、じっさいの社会の構想にとって、実質上決定的な意味をもつということ…。

見田宗介『社会学入門』岩波新書

 

見田宗介は、圏域を異にするという事実からひきだされる社会構想の形式として、<関係のユートピア・間・関係のルール>を定式化する。
 

…この一般化された形式に、<至高なもの>の生きられる関係を解き放つこと/<至高なもの>の生きられる関係の自由を相互に保障すること、という二重の課題を実現する仕方で内実を充たすものとして、<交響するコミューン・の・自由な連合>としての世界の構想が提起された。

見田宗介『社会学入門』岩波新書

 

見田宗介がここで<至高なもの>と呼ぶもの(上述の「良さ・善いこと」)を、他者に強いてはならない、「自由な社会」という世界の構想である。

このことを踏まえた上で、最初の3層に重ね合わせると、次のように並べることができる(なお、3層は完全に区分されるのではなく、重なりをもちつつ圏域を異にしている)。

  1. ルール圏
  2. 交響圏
  3. じぶん(自我)

「世界を変える」ということにおける「世界」は、ぼくの中で、このような世界の構想を下敷きとしながら、ぼくの生を方向づけている。

 

このブログは「世界を生ききる」というメッセージのもとに、書いてきている。

これまでのブログでもそうだけれど、「世界」を重層的/複層的に捉えながら、考えながら、ぼくは書いている。

グローバルにひろがる「世界」を生ききるために、じぶんの世界を生ききること、じぶんの世界を変えていくこと。

そのような「じぶん」が世界いっぱいに、それぞれに異なる仕方でひろがることで、交響するコミューンは交響性の実質を開き、そして/同時に、自由な連合の総体としての世界も変わってゆく。
 

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社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima 社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima

「多様性」を創出することの手前で。- 自分の経験の多様性を、自分の内面の土壌に植えること。

「多様性」ということが、言われる。例えば、組織作りでは、組織の内部に多様性をつくりあげてゆくということが言われる。...Read On.


「多様性」ということが、言われる。

例えば、組織作りでは、組織の内部に多様性をつくりあげてゆくということが言われる。

近代から現代にかけて世界を推進してきた「合理化」の企てが社会の全域に貫徹したところで、抑え込まれていた力が声を挙げ、合理化の推進役であった企業組織はその背景に押される形で、「多様性」を組織の中にとりこむ必要性に直面する。

そのことは、近代家父長制システムの解体と共に連動している。

近代を駆動してきた合理化の力は、共同体を解体してきた末に、近代家父長制にもその力を伸ばし、最後に「個人」にまで行き着く。

個人とは英語で「in-dividual」と言われるように、これ以上分けることのできない単位である。

個人に行き着いたところで、個人たちはテクノロジーを得て、テクノロジーや情報によりつくられる空間に、新たな「共同体」をさまざまに創設していく。

このような現代から次の時代に向かう中で、「多様性」は必然のものとして立ち上がってきた。

 

社会や組織において「多様性を持とう」という掛け声の正しさにかかわらず、その手前のところで、個人として「多様性をもって生きる」ということに関心を注ぎ、実際に生きてゆくことが大切であると、ぼくは考えている。

「多様性を持とう」ということの芯のひとつは、「差異」を受け入れていくこということである。

同質性(それも特定の同質性)だけでなく、「差異」にひらかれてゆくマインドをもつことである。

そのようなマインドを持つことを「心がけること」は方法の一つである。

しかし、ぼくは、心がけることと共に(あるいはそれ以上に)、「差異」を生きることで、自分の中に描かれる「世界像」に差異を取り込んでゆくことが肝要だと思う。

個人として、多様性を生きて、多様性に豊饒化された「内面」をもつことである。

 

「多様性を生きる」とは、具体的には、いろいろな人たちに会ったり、いろいろな人たちと過ごしたり、いろいろな「立場」で生きてみたり、いろいろな場所で過ごしてみたり、ということである。

ぼく個人を振り返ってみても、随分と、「いろいろ」を生きてきたなぁと、思い返すことができる。

アルバイトでは、レストラン、レストラン&バー、デパート、工場など、いろいろな人たちに出会って、一緒に働いた。

先進国の人たち、途上国の人たち、難民の人たち、いろいろな国や人種の人たちなどに出会い、関わってきた。

仕事も、NPOの仕事から民間企業の仕事でいろいろな人たちと仕事をし、公的機関の人たちともプロジェクトを共にしてきた。

戦争・内戦や紛争を生き抜いてきた人たち、心や身体に傷を負ってきた人たち、都市生活の「豊かさ」の中で悩む人たち、都市の先進性に生きる人たち、伝統的な社会に生きる人たちと一緒に活動をしてきた。

会社員として働く人たち、経営者として働く人たち、起業した人たち、仕事が見つからない人たち、仕事先さえない人たち、などなど。

実に、「いろいろ」を生きてきたことを思い出す。

気をつけることは、人や場所などに「ラベルを貼ること」(カテゴリー化してしまうこと)の危険性を念頭に、「個人と個人」として出会ってゆくことである。

ただし、「個人」は、ただ単体として自立的に存在するのではなく、社会や立場や環境や置かれる状況等に「創られる」存在でもある。

 

これら「いろいろ」が、ぼくの内面に創られる「世界像」を構成し、その「世界」を豊かにしていく。

でも、「豊か」であるということは、問題が起きないわけではないし、むしろ「矛盾」をいたるところにつくっていく。

だから、いろいろな人たちの立場や状況を想像することで、よく悩むことにもなるし、一様に決断できないときもあるし、矛盾を生きていくことになる。

矛盾はしかし、「何か」を生んでいく力の源泉となると、ぼくは思う。

同じように、社会や組織に「多様性をつくる」ことで、多様性による豊かさを生むと共に、問題点や矛盾に、ぼくたちは投げ込まれる。

心やマインドをひらくだけでなく、これらの問題や矛盾をよりよいものに変えていく意志と楽しむ力が求められる。

そのためにも、「多様性を持とう」の掛け声の手前のところで、ぼくたちが個人として「多様性を生きる」ことで、自分の経験の多様性を自分の内面の土壌に植えることが大切である。

経験の多様性を植えられた内面の土壌に水を与え続けることで、実際の「世界」で、たくさんの<豊かさ>を創出してゆくだろうと、ぼくは思う。

 

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「近代・現代の社会はどのような社会であったか/あるか」を説明せよとの設問が出されたら。- 見田宗介の文章に倣う。

「近代・現代の社会はどのような社会であったか」を300字程度で説明せよと、試験の設問に出されたら、どのように書くことができるだろうか。...Read On.


「近代・現代の社会はどのような社会であったか」を300字程度で説明せよと、試験の設問に出されたら、どのように書くことができるだろうか。

なお、設問は追記で、「合理性」および「自由と平等」というキーワードを必ず文章に入れること、とされているとしたら。

社会学者の見田宗介が書く文章の一部を見ていたら、この質問への徹底的に考えつくされた「魅力的な解答例」であるように思えて仕方なく、ぼくは、何度も何度もその箇所を読み返す。

それは、「世界の見方」を、ぼくたちに与えてくれる。

 

見田宗介は、この文章を、日本における「近代家父長制家族」の考察に続けて、次のように書いている。

 

 ウェーバーの見るように「近代」の原理は「合理性」であり、近代とはこの「合理性」が、社会のあらゆる領域に貫徹する社会であった。他方、近代の「理念」は自由と平等である。現実の近代社会をその基底において支えた「近代家父長制家族」とは、この近代の現実の原則であった生産主義的な生の手段化=「合理化」によって、近代の「理念」であった自由と平等を封印する形態であった…。
 「高度経済成長」の成就とこの生産主義的な「生の手段化」=「合理化」の圧力の解除とともにこの「封印」は解凍し、「平等」を求める女性たちの声、「自由」を求める青年たちの声の前に、<近代家父長制家族>とこれに連動するモラルとシステムの全体が音を立てての解体を開始している。

見田宗介「現代社会はどこに向かうか」『定本 見田宗介著作集 I』岩波書店

 

繰り返しになるが、ポイントを分けて再掲すると、次のようになる。

●「近代の原理」は、「合理性」であること

●「合理性」が、社会のすみずみまで浸透する社会が近代であること。それは「生きること」を生産のために手段化すること

●この「合理化」を支えたのが、実際には「近代家父長制家族」(父親が外で仕事をし、母親が家庭を守る「内外分担」の家族像)であったこと

●「近代の理念」は、「自由と平等」であること

●「自由と平等」は、実際には、社会の合理化優先の中で、「封印」されたこと(理念は一旦後回しにされたこと)

●合理化が社会に貫徹し、高度に経済成長した(日本)社会において、理念である「自由と平等」が(封印をとかれ)姿を現してきたこと

●「自由と平等」は、例えば、平等を求める女性であったり、自由を求める青年であったりすること

●「自由と平等」の理念のもとで、「近代家父長制度」とそれに連動し関連する道徳や制度などがくずれてきていること

ぼくは、見田宗介の文章を読みながら、頭の中で、上記のように、ひとつひとつに分解し、読み直し、ダイジェストしていく。

それぞれの文章に、深い考察が凝縮されている。

これらは「近代」という時代の全体像を簡潔にしかし深いところで理解させてくれるだけでなく、凝縮された文章の中に、現代の状況を語りあるいは分析するための思考のヒントがいくつも開示されている。

これらは、今現在、日々起きている事象、日本に限らず、世界で起きている事象を考えていく際に、その「骨格」を用意してくれる。

 

「合理化」=生産主義的な生の手段化、ということひとつをとってみても、それは、ぼくが小さい頃から感じてきた「生き難さ」の感覚の源泉のひとつである。

「将来役に立つから…」という社会の声の前で、現在の豊饒な生が脇に追いやられ、自分の生を生産主義的に手段化し成形していく。


また、「近代家父長制」に疑問をもちつつも、実は、現実にそれが合理化を支える制度であったことに、現実をつきつけられる。

「自由と平等」という理念の大切さにひかれながらも、現実の社会では、「合理化」と「自由と平等」の並行的な両立は容易ではないことを考えさせられる。

ぼくが携わってきた途上国などの状況と国際支援という文脈においてみると、考えさせられることばかりだ。

 

経済成長を果たし、つまり「合理化」を貫徹させてきたところで、「自由と平等」の「封印」が解かれる事象を、ぼくは現実にもメディアにもさまざまに見ることができる。

「人事」という領域ひとつとっても、話題に尽きない。

「働き方改革」は、誰もが知るところである。

日本における「近代家父長制度」の崩壊とともに、「自由と平等」の理念が開花し、例えば「多様性」が仕事・職場に一気に流入してゆく。

 

日々の事象やメディア情報に流されるのではなく、それらを大きな軸・骨格をもって見ること。

そのことの大切さと見方、思考の展開の仕方(生成力のある思考の方法)などを、ぼくは上記の文章を何度も読み直しながら学ぶ。

「大きな軸・骨格」をもったからといって、すぐに人生が好転するわけではないけれど、それは生きていく航路で、必ず、ぼくたちの生を支えてくれるのだと、ぼくは思っている。

 

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香港, 社会構想 Jun Nakajima 香港, 社会構想 Jun Nakajima

香港で、「香港人口予測」(2017年-2066年)から考えること。- 個人・組織・社会の「構想」へ。

香港政府が2017年9月8日に、『Hong Kong Population Projections 2017-2066』(香港人口予測 2017年-2066年)を発表した。...Read On.


香港政府が2017年9月8日に、『Hong Kong Population Projections 2017-2066』(香港人口予測 2017年-2066年)を発表した。

「超高齢社会になる」ということはすでにわかりつつ(しかし準備ができていないけれど)、関連することとしてぼくの関心を挙げるとすれば、大きく三つある。

  1. 人口推移における安定平衡的な社会(「高原・プラトー」)
  2. 平均余命(Life Expectancy)に見る、ライフステージの変遷
  3. 香港の企業などの組織と雇用の問題・課題

一つ目は、社会全体の行く末を見晴るかすものとしての全体像であり、二つ目は、人の人生のライフステージを変えてゆく動力のひとつであり、そして三つ目は、組織また個人としての雇用の問題・課題である。

今回の人口予測も、これら三つを考えさせてくれる「予測」となっている。

「数値」は、予測であっても(予測であることを理解しながら)、実際の動向を「見える化」してくれる。

 

今回の「香港人口予測」の数値は、例えば、下記のようだ。

【人口】
・2016年:734万人
・2043年:822万人
・2066年:772万人

【(超)高齢社会:65歳以上の人口】
・2016年:人口の16.6%
・2036年:人口の31.1%
・2066年:人口の36.6%

【平均余命】
・2016年:男81.3歳、女87.3歳
・2066年:男87.1歳、女93.1歳

【労働力】
・2016年:362万
・2019年ー2022年:367万から368万
・2031年:351万
・2066年:313万

 

これらの数値を見ながら、最初の三つについて、簡易に「問題・課題のありか」を書こうと思う。

<1. 人口の推移における「高原」>

人口の推移における「安定平衡的な社会」が、予測の中に明確におさまってきている。

つまり、人口は増え続けるのではなく、安定平衡的な社会へと向かっている。

香港に限らず、世界の先進諸国・地域は、すでにそこへと向かっている。

生物学者が「ロジスティクス曲線」と名づける推移に触れて、社会学者の見田宗介はこの「事実」に注意を向けている。

「ロジスティックス曲線」とは、縦軸に「個体の数」、横軸に「時間の経過」をとる座標軸におけるS字型の曲線である。

成功した生物種は、この座標軸の第I期を経て、第II期に爆発的に反映し、第III期で繁栄の頂点の後に滅亡していく(「修正ロジスティックス曲線」)。

この経路が「S字」をなしている。

哺乳類などの大型植物はより複雑な経路をとるといわれるが、人間という生物種も基本的には、ロジスティックス曲線をまぬがれないといわれる。

 

 1960年代には地球の「人口爆発」が主要な問題であったけれども、前世紀末には反転して、ヨーロッパや日本のような「先進」産業諸国では「少子化」が深刻な問題となった。「南の国々」を含む世界全体は未だに人口爆発が止まらないというイメージが今日もあるが、実際に世界全体の人口増加率の数字を検証してみるとおどろくことに、1970年代を尖鋭な分水嶺として、それ以後は急速かにかつ一貫して増殖率を低下している。つまり人類は理論よりも先にすでに現実に、生命曲線の第II期から第III期への変曲点を、通過しつつある。この時点からふりかえってみると、「近代」という壮大な人類の爆発期はS字曲線の第II期という、一回限りの過渡的な大増殖期であったことがわかる。そして「現代」とはこの「近代」から、未来の安定平衡期に至る変曲ゾーンと見ることができる。

見田宗介「現代社会はどこに向かうか」『定本 見田宗介著作集I」岩波書店

 

この「未来の安定平衡期」が、香港においても、すでに予測された数値で指し示されている。

 

<2. 人生のライフステージ/3. 組織の雇用>

香港の平均余命も、確実に、「100歳」を射程圏内にとらえている。

女性はいよいよ90歳代へと突入していく。

リンダ・グラットンが著書『LIFE SHIFT:100年時代の人生戦略』で述べているように、今成人しているような人ではなく、今生まれたりこれから生まれる世代は「100歳」を生きていく。

伝統的な人生の「ライフステージ」(教育ー仕事ー定年の3サイクル)は、確実に変容していく。

香港の英字紙「South China Morning Paper」は、香港政府の「人口予測」の発表を受けて、「Thinking of retiring at 60? Think again - we’ll work longer, Hong Kong population projection shows」という記事を掲載している。

高齢社会の進展と労働力の減少を、(法的な定年年齢はないが)<定年年齢の(考え方の)見直し>と<高齢者と女性の労働力>で補完していくことが書かれている。

個人の視点からは「ライフステージ」のサイクルは変容していく方向に流れ、組織の視点からはそのような個人を雇用する仕方の変容におされていく。

個人の「生き方」の問題であり、組織の「組織つくり・マネジメント」の問題である。

 

香港の人口予測は、おそらく、これからのテクノロジーの発展(人工知能やIoT、先端医療など)や社会の発展(ベーシック・インカムなど)の可能性については、織り込んでいない。

これらの動きも見据えながら、個人が、組織が、社会が、どのように「未来の安定平衡期」への「移行」をとげていくのかが、今問われるべき問題・課題だ。

ぼくは、これらの大きなテーマを、大きくある必然性の中で一度「全体像」として描きながら、その中で各論(特に生き方や働き方、組織つくりやコミュニティつくりなど)に落としていく方途を、当面の課題としている。

それは、「予測」に生きるのではなく、予測を参考にしつつも、個人や組織や社会を「構想」していくという能動性に生きる生き方である。
 

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