東ティモール, 海外・異文化 Jun Nakajima 東ティモール, 海外・異文化 Jun Nakajima

ソーラーパネルが届ける「光」。- 東ティモールでの「小さなランプ」の記憶。

香港で、海岸線を歩き/走りながら、道の片隅に、ソーラーパネルを見つける。海岸通りの公園に設置された装置の一部が、太陽熱により作動している。...Read On.


香港で、海岸線を歩き/走りながら、
道の片隅に、ソーラーパネルを見つ
ける(*写真)。
海岸通りの公園に設置された装置の
一部が、太陽熱により作動している。

ソーラーパネルは、
ぼくが、西アフリカのシエラレオネ
と東ティモールにいたときのことを
思い出させる。

どちらの国でも、
ぼくが住んでいた当時、
一部の地域しか電気が通っておらず、
また、電気が通っていても時間制限
がかけられていた。
だから事務所等には、電気発動機を
設置していた。

東ティモールのコーヒー生産者たち
が暮らす山間部は、当時、まだ電気
が完全には通っていなかった。

山間部の街の「中心エリア」には、
時間統制(電気がくる時間帯が決めら
れている)により、電気が通っていた。
しかし、街の中心を超えて、村々に
入っていくと、電気が通っていない。
夜は、灯油ランプなどで過ごすことに
なる。

ただし、電気にしろ、灯油ランプに
しろ、それなりのコストがかかる。
コーヒーの品質を上げていくことで
コーヒーをより高い価格で売って
世帯収入を増やすプロジェクトをして
いく中で、世帯支出を考えてしまう。

東ティモールの一人当たりGDPは
当時、400~500米ドル台であったか
と記憶している。
コーヒー生産者たちの収入も見ながら
一年間をやりくりする「困難さ」を
肌身で感じる。

そんな環境に暮らしながら、
太陽熱発電・ソーラーパネルの情報
には、常に、ぼくのアンテナが張られ
ていた。

そんな折、インターネットで、
太陽熱発電の「小さなランプ」を
発見する。
同僚と話しながら、ぼくたちは、
この「小さなランプ」を生活に取り
入れて試すことにした。
もともとの仕様は、玄関口に設置して
おくタイプのもの。
昼に太陽光を取り入れ、暗くなると
自然とランプがつく。
値段もそれほど高いものではない。

東ティモールの昼の照りつける太陽
の下に置いておき、夜はそれを使う。
いったん生活に取り入れてみると、
これほど便利なものはない。
東ティモールのスタッフたちの評判
も高かった。

その後、東ティモールの騒乱があり、
プロジェクトにかかりきりになり、
それからぼくは東ティモールを出る
ことになった。
あのランプが、どうなったかは、
定かではない。

しかし、このような場所での
太陽熱発電の可能性は、
決して小さくはなっていないと、
ぼくは思う。

香港で、インターネットで検索を
していたら、
やはり、「太陽熱発電の可能性」を
追求してきている人たちがいるのを
知った。
国レベルの大きなプロジェクトも
あれば、ぼくたちが追求していた
世帯レベルのプロジェクトもある。

様々な人たちが、様々な仕方で、
考え、知恵を合わせ、支援し、
そして確実に「誰かの世界」を
変えている。

香港の道端のソーラーパネルを
見ながら、ぼくはそんなことを思う。

世界は、必ずしも、争いと報復の
絶えない、場所というわけではない。
世界では、今日も、ある人(たち)
は他者を思い、考えを尽くし、知恵を
出し合ってアイデアをつくり、世界に、
「小さな明かり」を灯し続けている。

それは、太陽のように大きくはない
けれど、確かな「光」を届けている。
そして、ソーラーパワーが自然の力で
あることと同じに、
この「光」は、人間に本来埋め込まれ
ている「自然な力」である。

 

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総論, 成長・成熟 Jun Nakajima 総論, 成長・成熟 Jun Nakajima

「生きる」から「生ききる」に、<ことば>を変える。- 宮沢賢治がこめた「一文字」に心を動かされて。

「生きる」から「生ききる」へ。自分の「ライフ・ミッション」を書き直しているとき、その中のことばの一つとして、「生きる」、とはじめに書いた。...Read On.

 

「生きる」から「生ききる」へ。

自分の「ライフ・ミッション」
を書き直しているとき、
その中のことばの一つとして、
「生きる」、とはじめに書いた。

それから、
「生きる」に「き」の一文字を加えて
「生ききる」とした。
この加えた「き」は、英語で言えば、
「fully」の意味を宿す。

Liveだけでなく、Live fully。
生ききること。

人によっては「重く」聞こえるかも
しれないけれど、
今のぼくには、しっくりくる。

<ただ生きること>の奇跡を
土台としてもちながら、
この生を<生ききること>。

「一文字」に、気持ち・感覚(と、
さらには生き方)を込める仕方を、
ぼくは、宮沢賢治に学んだ。

宮沢賢治が、1931年11月3日に、
手帳に書き込んだ、有名なことば。


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ…

宮沢賢治
 

宮沢賢治が書き付けた「直筆」を
見ると、ことばの間隙から、
宮沢賢治の「声」が聞こえてくる。

直筆から見ると、最初の「原型」は
このようなことばであった。


雨ニマケズ
風ニマケズ
雪ニモ夏ニモ…

 

宮沢賢治は、「雨ニ」と「風ニ」
のそれぞれの後ろの横に、
若干小さい文字で「モ」を加えて
いる。

「雨ニ」ではなく「雨ニモ…」、
「風二」ではなく「風ニモ…」、
である。

「モ」にこめられた、宮沢賢治の

気持ちと感覚が伝わってくる。

このこと(と直筆を見る面白さ)を、
名著『宮沢賢治』(岩波書店)の
著者、見田宗介から学んだ。
見田宗介は宮沢賢治生誕100年を
迎えた1996年に、宮沢賢治研究者で
ある天沢退二郎などとの座談会で、
このことに触れている。
(「可能態としての宮澤賢治」
雑誌『文学』岩波書店)

宮沢賢治が、この「一文字」に
込めたものに、ぼくは心が動かされた。

その記憶をたよりに、
自分の「ライフ・ミッション」を
手書きで書きつけながら、
ぼくは「生きる」に「き」を加える。

「生ききる」

ことばを、ぼくの身体に重ねてみて
ぼくは確かめる。
そうして、ぼくの身体とそのリズムが
ことばに「Yes」と言う。

たったの「一文字」が、
世界の見方や生き方を変えることが
あることに、気づかされた。


 

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香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

「雨」の風景。- 東京、ニュージーランド、シエラレオネ、東ティモール、そして香港。

香港はここのところ、雨の日が続いている。早朝に運動をする頃に、決まって、小雨が降りそそぐ。小雨が降ってはやみ、やんでは降る。...Read On.

 

香港はここのところ、雨の日が続いて
いる。
早朝に運動をする頃に、決まって、
小雨が降りそそぐ。
小雨が降ってはやみ、やんでは降る。

天気は「良い・悪い」で考えない、
ということを以前書いた。
ブログ「「天気がいい/悪い」と
言わないように。 - 自分の中に「地球」
を描く。」

晴れが良くて、雨が悪い、という考え
方には、自然から離陸した社会の
「前提」がすでにすりこまれている。

雨は、自然の、地球の恵みでもある。
なお、「好き・嫌い」は、個人の問題
である。

そんなことと、
ぼくが住んできた場所の「雨の風景」
が重なり、いくつかのことを書こうと
思う。

解剖学者の養老孟司は、著書『唯脳論』
の中で、「脳化=社会」について述べて
いる。
都会・都市は、人間の脳がつくりだした
「脳化=社会」であり、
人間が「コントロール」できる空間で
ある。

自然はコントロールできないものである。
雨も、コントロールできないものとして
都会・都市の外部からやってくる。
雨は、都会・都市では「やっかいなもの」
である。

他方、東京に住んでいたとき、
ぼくは、都会においても、「雨」を楽しむ
人たちがいることを、作家・沢木耕太郎の
エッセイで知った。
もう20年近く前のことである。
確か、傘を売っている人の話であったと
記憶している。
雨が降ると(雨の時期には)売り上げが
上がるということもあるけれど、
それ以上に、傘が彩る街並みに、心踊る
人を描いた作品であった。
(詳細はまったく覚えていない。)

大学2年を終え、休学して渡ったニュージー
ランド。
徒歩縦断の試みとトランピング(トレッキ
ング)の旅では、雨は、さすがに「恐怖」
としてあった。
都会ではなく自然の中だけれど、自然の中
だからこそ、歩く者にとっては、雨は厳しい
顔を見せる。

仕事の最初の赴任地、西アフリカのシエラ
レオネ。
アフリカと言うと、日本の人たちは雨のない
風景を思い浮かべてしまう偏見にとりつかれ
るが、
シエラレオネは雨期にはよく雨が降る熱帯
地域であった。
井戸掘削(プロジェクト)は雨期にはできず、
乾季の時期にスケジュールを組んだ。
雨期の移動は、車両がしばしば泥に足をとら
れ、移動を困難にさせる。
雨期に各村に調査に行っていたから、
車両が立ち往生する記憶が残っている。
また、雨は蚊を発生させ、生きていくには
厳しい環境でもある。
しかし雨のおかげで、例えば、アブラヤシが
よく育ち、パーム油が豊富にとれる。

東ティモールも、雨期はよく雨が降る。
コーヒー産地では、雨期の雨が大切だ。
とはいえ、コーヒー農園は、山をまたいで、
各地に広がっている。
強い雨が降ると、道がふさがれる。
四輪駆動の車両も、道のない道に、足をとら
れる。
他方、首都ディリは相対的に道は整備されて
いる。
しかし、雨が少ないと水が枯渇し、ディリの
水道の水が制限される。
雨が生に密着している空間である。

そして、香港。
高層ビルが立ち並ぶ、都会の「顔」をした
香港では、雨は「やっかい」である。
しかし、香港の高層ビル群は、互いに、
繋がっていることが多いから、雨を避けて
移動していくことが比較的容易である。
それでも、ぼくたちは雨を避けたくなる。

しかし、香港の小さな子供達は、雨を、
あっさりと「乗り越えて」しまう。
傘を売る人と同じように、
楽しげなレインコートと長靴を身にまとい、
色とりどりの傘を手にさしながら、
雨の降りそそぐ中に飛びだしていく。
雨に濡れても、気にせず、雨を楽しんでいる。
「子供」は「自然」なのだ。
(養老孟司も、子供は自然であること、
コントロールがきかないことをを述べている)

他方、自然の「顔」をした香港は、
海と緑をたたえている。
緑の木々たちに雨は静かに、そして時に強く
注ぐ。
そして、「雨の風景」は、ぼくの中で香港
を超えて、世界にひろがっていく。


雨を避けたくなる理性が働きながら、
ぼくの中に「美しい文章」のイメージが
ひろがる。
社会学者の真木悠介(見田宗介)が、
屋久島に住んでいた山尾三省に導かれて、
7000年を生きてきた「縄文杉」に会いに
行った文章である。

 

…一つだけ気にくわないのは、雨が降って
いる。熱く乾いた国々ばかりを好きなわた
しは、雨はきらいだ。けれど三省は、
縄文杉に会いに行くのは、こういう雨の日
がいちばんいいのだという。「こんなに
森が森らしい森に会いに行くのは、ぼくも
はじめてです」と、途々もいう。
 晴れますよ。という宿の人の見送りの
言葉に反して、雨は終日降り止まなかった。
…雨は明るくて静かな雨で、ほんとうに雨
が降っているのか、ただ霧の中を歩いて
いるのか、雨でなく光がさんさんと降って
いるのか、歩いているうちに、わからなか
った。その不可思議の明るさの中で、また、
あの時が訪れた。雨と雨でないものとの境
がなくなり、光が光でないものとの境が
なくなり、生と生でないものとの境がなく
なり、明るい水の降りそそぐ森だけがあった。

真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
 

ぼくも、「森が森らしい森」に、これまでの
人生で、幾度か、直接に出会った。

それは、例えば、ニュージーランドの北部
で、90マイルビーチから内陸に入ったとこ
ろの「森」であった。
90マイルビーチを数日かけて歩いた後、
雨が降りはじめたところで、ぼくはようやく
海岸線から内陸に向かって歩む方向を変えた。

そこでは、霧雨のような雨と光が降りそそぐ
森が、静かに、ぼくを包んだのであった。

 

 

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「知」についてのメモ。- ヘッセ、サイード、真木悠介を導きの糸に。

「知」と「生」についてのメモ。知の巨人たち、ヘッセ、サイード、真木悠介から教えられたことのメモである。...Read On.

 

「知」と「生」についてのメモ。
知の巨人たち、ヘッセ、サイード、
真木悠介から教えられたことの
メモである。

20世紀前半のドイツ文学を代表する
ヘルマン・ヘッセ。
文学研究者・批評家で、主著として
『オリエンタリズム』がある
エドワード・サイード。
それから、社会学者の、
真木悠介(本名:見田宗介)。

一見すると、繋がりのない、
ヘッセ、サイード、真木悠介は
ぼくにとっては「師」である。

思想家の内田樹は、「師」について
語る中で、
「師」=
「想像的に措定された俯瞰的な視座」
あるいは
「弟子をマップする視座」
である、と述べている。
(内田樹『レヴィナスと愛の現象学』
文春文庫)

この視座をもつことで、
「自分自身を含む世界の風景」を
超えることができる。

「師」とはそのような存在であると
するなら、
ヘッセも、サイードも、真木悠介も
ぼくの「師」である。
圧倒的な跳躍で飛び上がった俯瞰的
視座で、自分を含む世界の風景を
違った形で見せて/魅せてくれる。

この文章は、
その「俯瞰的視座」から、
ぼくの生を「マップする視座」の
メモ(のほんの一部)である。

なお、ここでいう「知」は
広義の意味での「知」である。

 

1)それ自体で歓びの「知」

ヘッセの著書は、ぼくが確か高校生で
あったときに、夏休みか何かの「読書
感想文」を書くために選んだ本であっ
た。

すすんで手に取ったというよりは、
他に特に読みたいようなものもなかっ
たから、最後に、仕方なく手にとった
本であった。

確か、新潮文庫の『シッダールタ』や
『知と愛』を、ぼくは読んだ。
読書感想文は「宿題」として書いた。
大したことは書かなかったと思う。
「あとがき」か何かを参考にしながら
字数を積み上げただけのようなもので
あった。

でも、それらの著書、特に『シッダー
ルタ』は、ぼくの人生に「宿題」を
残した。
ぼくは、ヘッセの文章に、深いところ
で「何か」を得ていたのだ。

大学時代、本を読むようになったぼく
は、ヘッセが「教養」について書く
文章の冒頭にひきつけられる。

ほんとうの教養というものは、
何か他の目的のための教養ではなく、
それ自体で意義のあるものである、
という趣旨の文章であった。

大学入学のための教養、
就職するための教養などというのでは
なく、
それ自体で歓びになるような教養。

ぼくは、この言葉を頼りに、
大学院に進んだ。
国際協力の仕事では、当時「修士」
が必要であるような状況だったから、
大学院の学びは「何かのため」で
あった。
しかし、ヘッセの言葉を頼りに、
ぼくは学び自体をほんとうに楽しむ
ことを意識し、
そして、とことん楽しむことができた。

 

2)「知」と「権力」

エドワード・サイードの著書、
『オリエンタリズム』は、
大学の授業か何かでの課題図書であっ
たと記憶している。
大学などで、「ポストコロニアル」的
な思想がよく学ばれていた時期であった。

日本語の分厚い書籍を手に、
何度もくじけた本である。
ひどく「難解」な本であったのである。

他方で、ぼくは、社会学者の見田宗介
(筆名:真木悠介)の著作の「難解さ」
を通過していた。
しかし、見田宗介の著作の内容を理解
しはじめ、また「読むこと」の深みが
増していくなかで、ぼくは、サイードの
著作に真正面から向かうことができて
いったように、記憶している。

サイード著『オリエンタリズム』は
今でこそ内容は覚えていないけれど、
「とてつもない本」であったことだけ
は、身体で記憶している。
はるか上空に舞い上がった「俯瞰的
視座」を与えてくれるような内容で
あった。

ただ、サイードが教えてくれたことで
ひとつだけ明確に覚えていることが
ある。

それが、知と権力のことである。
知は権力に結びつきやすい。
知識人は、知を、よきことに使わなけ
ればならない。云々。

大学院を修了し、ぼくは
国際協力・国際支援の領域で仕事を
する機会を得る。
西アフリカのシエラレオネ、
東ティモールと、
緊急支援・開発協力の現場に降り立つ。

サイードが仔細にわたって語る「知=
権力のこと」の、その「姿勢」を意識し
つつ、ぼくは常に「大きな俯瞰的視座」
をもちながら、言葉や語り、支援の実践に
取り組んできた。

 

3)「知」と「生」

そして、社会学者の真木悠介。
ブログ「ぼくと「見田宗介=真木悠介」」)

内田樹が哲学者レヴィナスの「自称弟子」
であるのと同じように、
ぼくは真木悠介の「自称弟子」である。

真木悠介は、小さい頃からの自身の切実
な問題であった「時間の虚無」ということ
に、名著『時間の比較社会学』(岩波書店)
で自身の展望を手にいれる。

この著書の「あとがき」で、
真木悠介は、「知」と「生」について
書いている。


生きられるひとつの虚無を、知によって
のりこえることはできない。けれども
知は、この虚無を支えている生のかたち
がどのようなものであるかを明晰に
対自化することによって、生による自己
解放の道を照らしだすことまではできる。
そこで知は生のなかでの、みずからの
果たすべき役割をおえて、もっと広い
世界のなかへとわたしたちを解き放つのだ。

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店)
 

「理論のための理論」にならないような、
ほんとうに生をきりひらくための理論を
追求していく真木悠介の「姿勢」が、ここ
に見られる。

ところで、
「知と生」という問題系において
世間一般に流布する「問題の立て方」は、
「理論と現実」
というものである。
往々にして、理論を仕事にする人たちと
現実(現場)を仕事にする人たちとの間
にはギャップがあるものだ。

真木悠介の思想と姿勢は、
そんな「問題の立て方」に対して、
一気に、垂直に「軸」を突き通すような
力を有している。

真木悠介は、『時間の比較社会学』の
「最終章」の最後で、このように語って
いる。


知でなく生による解放とは、世界を解釈
することではなく世界を変革するという
こと、すなわちわれわれが現実にとりむ
すぶ関係の質を解き放ってゆくことだ。
けだしひとつの社会の構造は、人間の
自由な意志と想像力とがその中でみずか
らをうらぎるような軌道をさえ描いてし
まうような磁場を形成しているのであり、
ひとつの時空とその非条理からの解放は、
ひとつの社会のあり方の構想なしには
ありえないからだ。けれどもそれはこれ
までのいわゆる「社会変革」のイメージ
とはすでにはるかに異質の、しかし同様
に実践的な、ひとつの人間学的な解放で
なければならないだろう。…

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店)


真木悠介が、「知」と「生」をひとつ
のものとして突き抜けていく仕方に、
ぼくは憧れる。

「知」と「生」をひとつのものとして、
ほんとうに追い求めていく「師」として、
真木悠介はぼくにとって在る。


 

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香港, 村上春樹, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima 香港, 村上春樹, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima

村上春樹に教わる「クラシック音楽を聴く喜び」。- ピアニストLeif Ove Andsnesの音楽を体験として。

ぼくが、クラシック音楽を聴くようになったのは、日本の外で、仕事をするようになってからだ。正確には歓びをもってクラシック音楽を聴くようになったことである。...Read On.


ぼくが、クラシック音楽を聴くように
なったのは、日本の外で、仕事をする
ようになってからだ。
正確には歓びをもってクラシック音楽
を聴くようになったことである。

西アフリカのシエラレオネでの仕事を
していた頃が、ぼくの記憶と感覚の中
では、ひとつの「分水嶺」のような
時期であった。

紛争が終結したばかりのシエラレオネ
での経験と、ぼくがクラシック音楽を
聴くようになったことは、
決して、ばらばらに起こったことでは
ないと、ぼくは思っている。
ブログ「紛争とクラシック音楽」

クラシック音楽の美しい調べの深い
地層には、人の悲しみや心の痛みが
堆積している。

シエラレオネで、紛争の傷跡を身体で
感じ、東ティモールの銃撃戦の只中に
身を置いた後に、ぼくは香港に移って
きた。

香港で、村上春樹著『意味がなければ
スイングはない』(文藝春秋)を読む。
村上春樹が、音楽のことを「腰を据え
てじっくり書い」た本である。

ジャズ、クラシック、ロックとジャンル
を超えて、主に取り上げられた人物は
次の通りである。

・シダー・ウオルトン
・ブライアン・ウィルソン
・シューベルト
・スタン・ゲッツ
・ブルース・スプリングスティーン
・ゼルキンとルービンシュタイン
・ウィントン・マルサリス
・スガシカオ
・フランシス・プーランク
・ウディー・ガスリー

とりわけ、ぼくに響いたのは、
なぜか、シューベルトであった。
シューベルトについて語られた章だけ、
「作品名」がタイトルにつけられていた。

「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850

シューベルトのピアノ・ソナタの中で、
村上春樹が「長いあいだ個人的にもっと
も愛好している作品」(前掲書)である。

 

…自慢するのではないが、このソナタは
とりわけ長く、けっこう退屈で、形式的
にもまとまりがなく、技術的な聴かせど
ころもほとんど見当たらない。いくつか
の構造的欠陥さえ見受けられる。…

村上春樹
『意味がなければスイングはない』
(文藝春秋)

 

ぼくはなぜか、(聴いてもいないのに)
この作品に惹かれた。

村上は、この曲を演奏するピアニストを
15名リストアップする。
そして、「現代の演奏」の中から素晴ら
しい演奏として、
ノルウェイのピアニストである、
Leif Ove Andsnesを挙げている。
村上の「迷いなしのお勧め」である。

ぼくは、まるで先生にしたがうように、
LeifのCDを購入し、彼の演奏を聴く。
村上がそうしたように、他の演奏家の
演奏ともできるかぎり比べながら。
でも、最後にはLeifの演奏に戻ってくる
のであった。

その後は、Leif Ove Andsnesのピアノ
ソナタD850を、ぼくはよく聴くように
なった。
疲れた日の夜遅くに、
あるいは空気が凛とする早朝に。

その内に、ぼくは、香港で
クラシック音楽を生演奏で聴く楽しみ
を見つけた。
一流の演奏家が香港を訪れるのだ。
日本に比べ、おそらく、チケットも
手にいれやすい。

2015年、香港。
ぼくは、Leif Ove Andsnesの演奏を
直接に聴く。
マーラー室内管弦楽団と共に演奏する
ベートーヴェンのピアノ協奏曲。

Leif Ove Andsnesは、
通常指揮者が立つ場所にピアノを置き、
管弦楽団の方向に向かって指揮をとり、
そして聴衆に背中と指の柔らかさを
見せながら、しなやかにピアノを演奏する。
自由で、親密な空気が流れてくる。

この「形式」にも驚かされたが、
Leifとマーラー室内管弦楽団がつくる
音楽に、ぼくは、文字通り、心を奪わ
れてしまった。

こんなに美しく、心の深いところまで
届くクラシック音楽を、ぼくは、それ
までの人生で聴いたことがなかった。
そして、その後も、まだ聴いていない。

この体験は、ぼくの心の中に、
暖かい記憶として静かに残っている。

村上春樹は、次のように、語っている。


思うのだけれど、クラシック音楽を
聴く喜びのひとつは、自分なりの
いくつかの名曲を持ち、自分なりの
何人かの名演奏家を持つことにある
のではないだろうか。それは場合に
よっては、世間の評価とは合致しない
かもしれない。でもそのような
「自分だけの引き出し」を持つことに
よって、その人の音楽世界は独自の
広がりを持ち、深みを持つように
なっていくはずだ。…

村上春樹
『意味がなければスイングはない』
(文藝春秋)


ぼくは、このことを、村上春樹から
教わった。

押し付けがましさのかけらも感じず、
まったく自発的に。

Leif Ove Andsnesの演奏する
シューベルトの「ピアノ・ソナタ
第十七番ニ長調」D850から、
Leif Ove Andsnesが香港で魅せて
くれたマーラー室内管弦楽団との
奇跡的な演奏へと続いていく、
「個人的体験」を通じて。

 

…僕らは結局のところ、血肉ある
個人的記憶を燃料として、世界を
生きている。もし記憶のぬくもり
というものがなかったとしたら、
…我々の人生はおそらく、耐え難
いまでに寒々しいものになって
いるはずだ。だからこそおそらく
僕らは恋をするのだし、ときと
して、まるで恋をするように音楽
を聴くのだ。

村上春樹
『意味がなければスイングはない』
(文藝春秋)


ぼくは、納得してしまうのである。
個人的体験の記憶のぬくもりを
燃料として、ぼくは、この世界で
生きていることを。


 

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「今まで飲んでいた烏龍茶は、いったい何だったのだろう。」- 23年程前の上海の豫園で。

ぼくの初めての「海外」は上海。1994年、大学1年のときのことであった。横浜港から鑑真号にのって、3泊4日の旅路であった。...Read On.

 

ぼくの初めての「海外」は上海。
1994年、大学1年のときのことで
あった。
横浜港から鑑真号にのって、3泊4日の
旅路であった。

上海に着いて、「日本ではない物事」
に囲まれる経験は、不思議なもので
あった。
「周りの世界との距離感」のような
ものが、ひどく揺らいだ。
日本語のない環境は、そんな揺らぎの
振り幅をいっそう大きくした。

ぼくは「周りの世界との距離感」を
つかみ、揺らぎを鎮めていくように、
上海の街を歩いた。
夏のとても暑い日であった。

「豫園」という庭園にある小龍包の
有名店を訪れ、小龍包を楽しむ。
豫園を歩きながら、夏の暑さにさすが
にやられてしまう。
上海の街では、時折、冷房のかかった
場所を探して、そこに一時的に「避難」
して、暑さと折り合いをつけていた。

豫園では、お茶を飲むのことのできる
「茶館」が、どうやら冷房がかかって
いるようであった。
少し値段がはるので躊躇したが、
暑さにはかなわず、ぼくは茶館に入る
ことにした。

メニューの中から、ぼくは、烏龍茶を
選ぶ。
当時は茶の種類をよく知らなかった。
日本では烏龍茶を飲んだりするので、
安全策で、烏龍茶を選択した。

やがて、烏龍茶が運ばれてくる。
日本のペットボトルに入っているような
烏龍茶とはもちろん異なり、フォーマル
な形式である。
茶道具が一通り揃っている。

工程を終えて、小さなティーカップ
(茶杯)に烏龍茶を注ぐ。
そして、そっと、丁寧に口元に運ぶ。
豊かな香りを楽しみながら、ぼくは
烏龍茶を飲む。

「うん?」

ぼくは、烏龍茶との「距離感」に
大きな揺らぎを感じたのだ。

今まで日本で飲んでいた烏龍茶とは、
まったく異なる香りと味であったので
ある。

何度も口に運びながら、ぼくは思わず
にはいられなかった。

「今まで飲んでいた烏龍茶は、
いったい何だったのだろう。」

烏龍茶にはいろいろな種類があること
は後に知ることになるけれど、
当時感じたのは「種類」を超えるほど
に異なる飲み物だったのだ。

それから、ぼくは烏龍茶との「関係性」
を取り戻すのに、心身共に、ステップ
を踏んでいかなければならなかった。
それは決して大げさではなく。

でも、ひとつ言えることは、この経験
はとても大切であったことである。
例えば、「今までAである」と思って
信じてやまなかったものが、
「いや、Bである」という体験である。
Aというものの既成概念が、あっけなく
壊されていく。

後年、東ティモールのコーヒーを口に
したときも、ぼくは思わずにはいられ
なかった。

「今まで飲んでいたコーヒーは、
いったい何だったのだろう。」

東ティモール、エルメラ県レテフォホ。
コーヒーの木になる赤いチェリーを採り、
乾いたパーチメントに精製をしていく。
まったくの手作業である。
そのできあがったばかりの
パーチメントを脱穀し、そして手作業で
丁寧に煎る。
やがて、コーヒーの、あの香りがたちこ
めてくる。
煎ったコーヒーをグラインダーで粉にし、
ハンドドリップでコーヒーを淹れる。

そのコーヒーを、
そっと、丁寧に口に運び、口の中で味を
確かめる。

「今までのコーヒーは、何だったのか?」

ぼくの「世界」の一部が、確実に、
書き換えられていくときである。

この体験は、
コーヒーや烏龍茶などの飲み物に限らず、
ぼくたちが生きていくなかで、
時折、出くわすものである。

そうして、ぼくたちの「狭い観念」は、
広い海原に向かって、その一部が決壊
する。

ぼくは、23年程前の上海の豫園で、
ぼくに張られた「堤防」を決壊する
装置を、自らに装填したのだ。


 

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旅の<初めの炎>を灯しながら。- 初めての「海外」、上海の記憶。

香港のビクトリア湾。いくつかのクルーズフェリーが定期的に行き来している。ビクトリア湾から大洋に出て、それからビクトリア湾に戻ってくる。そんな風景を、ぼくは、毎日眼にしながら、香港の日々を生きている。...Read On.

香港のビクトリア湾。
いくつかのクルーズフェリーが定期的
に行き来している。
ビクトリア湾から大洋に出て、
それからビクトリア湾に戻ってくる。
そんな風景を、ぼくは、毎日眼にしな
がら、香港の日々を生きている。

フェリーは、ぼくが初めて日本の国外
に出たときのことを思い出させる。

ぼくが、初めて海外に出たのは、
1994年の夏のことであった。
当時、ぼくは大学に入ったばかりで
あった。

地元を出て東京にある大学に通い、
中国語を専門に勉強していた。
だから、最初の海外として中国を目指し
たとしても、なんら不思議はない。

いろいろ考えた挙句、
ぼくは、横浜と上海を結ぶフェリー、
鑑真号に乗って、上海から中国に入る
ことにした。

当時はエアチケットはそれなりの
値段がしたし、LCCなどはもちろん
運航していなかった。
そして、何よりも、船旅(的なもの)
にあこがれた。

ぼくの「初めての海外」は、横浜港から
鑑真号にのって上海に入り、そこから
電車で西安に行き、西安から北京を
目指すルートとなった。
北京の故宮で、ある日のある時間に
大学の友人と待ち合わせをして、
会えたら、そこから一緒に天津へ、
そして天津からフェリー(燕京号)で
神戸港に向かうことを計画した。

横浜港では、すでに中国語が飛び交い、
日本と中国を行き来する家族たちが
別れの時を、惜しむようにして分かち
あっている。

やがて、横浜港から鑑真号は出港し、
大洋に出ていく。
心踊らせるぼくは、夕食時に、青島
ビールを飲んだことも影響して、
3泊4日の船旅が「船酔いの旅」と
なってしまった。
大洋は、台風が近づいていたことから、
波を荒くしていた。

その後はベッドに横になったまま、
ほとんど食事をとらず、やがて到着日
となった。
到着日には、ようやく、身体が戻り
はじめていた。
そんなぼくを、上海の入り口の黄浦江
が待っていた。
褐色で、広大に広がる黄浦江に、
ぼくは、深く、心を動かされた。

上海港に着いても、ぼくは船酔いのため
頭がぐるぐるまわっていた。
しかし、港のイミグレーションの風景、
そして、日本とは明らかに異なる匂い、
それらにぼくは、完全に、心を奪われて
いた。

上海港から歩いていけるホテルの
ドミトリーに、ぼくはその日は泊まる
ことにした。
世界各地から、旅人が、そこに集まって
いた。
なんらかのビジネスをしているような
人たちもいた。

それから、ぼくは、上海の街を、熱に
うかされるように、歩いた。
西洋式建築が並ぶ外灘を歩く。
豫園で、小龍包を食べ、烏龍茶を飲む。
蛇をはじめて、食べてみる。
デパートメントストアに入ってみる。
日本人とはわからない格好をしていた
つもりが、通りで、「社長さん、社長
さん!」と呼び止められる。
上海駅の広場に群をなす人たちに圧倒
される。

ぼくは、完全に、心を奪われていた。

それから、この旅が終わってからも、
毎年、ぼくは、海外を目指した。

その内、「旅に慣れる」という状況に
も直面した。
また香港に住みながら、今でこそ、
旅への憧憬は大きくはなくなっている。
それでも、ぼくの中には、
1994年に、上海に降り立った時の
記憶が、刻まれているのを感じる。

初めていく「海外」は、
どんな旅であれ、ぼくたちの中に、
「何か」を残してくれる。

社会学者の見田宗介が、
インド・古代バラモンの奥義書以来の、
エソテリカ(秘密の教え)という伝統に
触れている。
そのエソテリカの内のひとつが、
<初めの炎を保ちなさい>という教えで
ある。
(見田宗介『社会学入門』岩波新書)

ぼくは、上海に降り立ったときに
灯された<初めの炎>を灯している。

香港のビクトリア湾を行き来する
フェリーを眺めながら、
ぼくは、ぼくの心の中で静かに灯る
<初めの炎>を、そっと確かめる。

 

追伸:
今でも、中国と日本をむすぶフェリー
は運航していて、「新鑑真号」が
大阪・神戸と上海を行き来している
ようです。
なお、天津と神戸をむすぶ燕京号は、
2012年で運航を終了したとのこと。
 

 

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世界で、「笑顔・笑い」を届ける。- 紛争地で。ビジネスで。世界で。

作家・起業家のJames Altucherは、彼のブログ記事、「笑いにいったい何が起こったのか?」の中で、「1日に笑う回数」の統計に触れている。...Read On.

作家・起業家のJames Altucherは、
彼のブログ記事、
「What Happened to All the
Laughter?」(「笑いにいったい
何が起こったのか?」)

の中で、「1日に笑う回数」の統計
に触れている。

その箇所を日本語訳すると、
こんな具合だ。

 

子供は1日に平均で300回笑う。
大人が笑う回数は、平均で…、
1日5回なんだ。
なんてことだ。
どのようにして、我々は、
300回から5回に行ったんだ?
いったい全体、我々に、
何が起こったと言うんだ?
だから、我々は1日の途中で、
パニックになりはじめたり
するんだ。…

James Altucher
Blog「What Happened to
All the Laughter?」

 

Jamesは、このブログ記事の
中で、この「どのようにして」
を列挙していく。
「遊び」がなくなったこと、
「ばか」になることを恐れる
こと、などなど。

この統計数値の出所は述べら
れていないけれど、
肝心なのは、数値の「正確さ」
ではない。

肝心なのは、
「笑うこと」は日々やはり
少ないこと、
である。

300回から5回というギャップ
を聞いたときに、驚きもある
が、他方で、納得する部分も
あるのだ。
心のどこかで、ぼくたちは、
やはり「知って」いるのだ。
笑うことが減ったことを。

というぼくはと言うと、
笑いや笑顔が得意ではない。
大人になってからというより
子供の頃から「まじめ」が
顔に出てしまうのである。
世界を旅し、世界に住むよう
になってからは、ある程度の
「緊張感」をもってきたこと
もある。

それでも、(というより、
だからこそ)ぼくは、
笑いや笑顔に努めてきた。
あるいは、笑いのでるような
場をつくってきた。
もちろん、友人や同僚など
から、たくさんの笑いと笑顔
をもらってきた。

西アフリカのシエラレオネ
の難民キャンプや村で、
大変な状況に置かれてきた
であろう見知らぬ人たちに
笑顔を届ける。

東ティモールのコーヒー生産
者たちとの会議前に、皆と
談笑する。
笑顔で、村をまわっていく。

これらのプロジェクトを率い
るスタッフに、冗談を投げか
ける。
ぼくのシンプルすぎる冗談だ
けれど笑いのきっかけになる。

香港における人事労務のコン
サルテーションでも、
大変な問題を議論するときも、
最後には笑顔が出るような
対話と施策をつくっていく。

世界で、笑いや笑顔を届ける。
紛争後のシエラレオネや
東ティモールで。
香港のビジネス環境で。
そして、世界を旅し、暮らし
ていく中で。

とは言っても、
ぼくはついつい、
真剣な顔になってしまう。

 

Ron Gutman(ロン・ガット
マン)は、著書『Smile』の
中で、こう述べている。


幼児が示してくれるのは、
笑うこと(smiling)は
生まれつきのもの(innate)
であり、状況的なもの
(circumstantial)ではない
ということです。
私たちは、周りのものに
たた反応して笑うのでは
ありません。…

Ron Gutman
『Smile』(TED)


笑うことは、
ぼくたちが、すでに、
生まれながらにして持って
いるものである。

そして、それは、
「ただ生きることの奇跡」
とでも言うほかのない、
ぼくたちの生の本質に、
その起原をもっている
ように、ぼくには感じられる。

 

追伸:
上記のRon Gutmanの著作は
彼のTEDでのトークを元に
しています。
下記はリンクです。

ロン・ガットマン
「笑みの隠れた力」
(7分26秒)

 

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世界で、「水」との関係性をつくりなおす。- 「日本での当たり前」を乗り越えながら。

日本を出て海外を旅行するときに旅行ガイドなどを開くと、「水に注意すること」が、書かれているのを見つける。日本で当たり前の「水」は、世界では当たり前ではない。...Read On.

 

日本を出て海外を旅行するときに
旅行ガイドなどを開くと、
「水に注意すること」
が、書かれているのを見つける。

日本で当たり前の「水」は、
世界では当たり前ではない。

世界の各地では、次のように
「ない」状況に置かれている。

●「安全」ではない
●「水道」ではない
●「水」がない

ぼくも、世界を旅するようになって
から、また世界に住むようになって
から、このことを実際に体験して
きた。


1)「安全」ではない

ぼくは、大学時代にかけめぐった
アジアの国々で、
この水の経験の洗礼を受けた。

水道水はそのままでは飲めない。
だから、水を購入する。
厄介なのは、「氷」である。
アジアの屋台などで食事をするとき
飲み物に「氷」がついてくる。
昔は飲み物は「冷えていない」こと
が普通であったから、氷をグラスに
入れて、そこに飲み物が注がれる。
でも、氷は、水道水から作られて
いたりするから、結果として、
お腹をこわしたりする。

また、場所によっては、飲めない
だけでなく、口に入れることも危険
である。
だから、歯を磨くときも、
購入してきた水をつかったりした
ものだ。

 

2)「水道」ではない

「水道」は世界ではデフォルトでは
ない。
「水道」がないところがたくさん
ある。

東ティモールのコーヒープロジェクト
が展開されたエルメラ県レテフォホ。

コーヒー精製にも、生活にも水が
欠かせないコーヒー生産者たちは、
「竹」をつなげる形で、いわゆる水道
をつくっている。

竹を垂直に半分にわり、つなげる。
水が湧き出ている高台から竹を伝って
水が届く仕組みだ。

「蛇口をひねれば…」の日本ではない。
 

3)「水」がない

「水」がそもそも身近にない、と
いうこともある。

西アフリカのシエラレオネでは、
コノという地域に住んでいた。
ダイヤモンド産地で有名な場所で
それなりの「街」を形成していた
けれど、当時(2002年)には、
街に水道はなかった。
だから、井戸水をつかっていた。

また、当時はプロジェクトとして
井戸掘削の事業を展開していた。
水のない村で、掘削機で、井戸を
掘っていく事業である。
掘削機が水源にたどりつき、
ポンプをとりつけて無事に水が
汲み上げられる。
村の人たちの笑顔が、いっぱいに
ひろがる。
なんとも言葉にならない、よい
光景である。

ある時、ぼくは完成した井戸の
点検のためある村を訪れた。
村人たちと水が出るのを確認する。
たくさんの村人たちが集まって
いてくれた。
ぼくは、思いも寄らない光景に
一瞬動けなくなってしまった。
村の人たちが皆、地面にひれふす
形で、感謝を伝えてくれたのである。
ぼくは「そんなことしないでくださ
い」というジェスチャーをしたのだ
と思う。
「水の大切さ」と共に、ぼくの中に
深く刻印された光景である。

さらに、「水がない」地点から
「水への感謝」につながる瞬間は、
「宇宙の視点」である。
ぼくは、火星が舞台の映画を観る。
人が火星へ移住することの本を読む。
宇宙を旅する映画を観る。
これらの「宇宙の視点」がぼくたち
に投げかけるのは、「水の奇跡」で
ある。

ただ水が存在するということの
奇跡。
そんな風にして、ぼくは、水への
畏敬の念と感謝の気持ちをオンに
する。

世界に住むようになって、ぼくが
変わったのは、
水をよく飲むようになったことだ。

日本にいたときは、「飲み物=
ソフトドリンク、お茶など」で
あった。
それが、水が、ぼくのなかで完全に
デフォルトとなった。

上記のような「ない」状況を通過し
今のところ落ち着いているのは、
・購入した水を飲む
・常温(あるいは温めて)で飲む
である。

世界のいろいろなところの水を
楽しんでいる。
その土地その土地の水を必ず試す。

人のすごいところは、環境に慣れる
適応性である。
しかし、その反面、適応がゆえに、
「ない状況」を忘れてしまう。

だから、水を飲めること、
水を使えることに、感謝を忘れない
よう、ぼくは心がける。
記憶をたよりに、また今ここの水に
感謝を向けながら。


追伸:
水は購入したから「安全」という
わけでもありません。
そこにはいろいろな要素があります。

売っているペットボトルの水を
購入したら、
リサイクルのペットボトルに
中身をリフィルして売られている
なんてこともあります。
キャップの部分が、再度、接合され
ている跡で見つけたりします。

 

 

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村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima 村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima

腹が立ったときに、村上春樹(の本)に相談すると想像してみたら。

まったく想像のこととして。腹が立ったとき、作家の村上春樹に「村上さん、腹が立って仕方がないんですよ」と、相談をもちかけたとする。...Read On.

 

まったく想像のこととして。

腹が立ったとき、作家の村上春樹に
「村上さん、腹が立って仕方がない
んですよ」
と、相談をもちかけたとする。

村上春樹は、どのように応えて
くれるだろうか。

例えば、こんな具合である。


僕はいつもより少しだけ長い距離を
走ることにことにしている。いつも
より長い距離を走ることによって、
そのぶん自分を肉体的に消耗させる。
そして自分が能力に限りのある、
弱い人間だということをあらためて
認識する。いちばん底の部分でフィ
ジカルに認識する。そしていつも
より長い距離を走ったぶん、結果的
には自分の肉体を、ほんのわずかで
はあるけれど強化したことになる。
腹が立ったらそのぶん自分にあたれ
ばいい。悔しい思いをしたらその
ぶん自分を磨けばいい。そう考えて
生きてきた。…

村上春樹『走ることについて語る
ときに僕の語ること』(文芸春秋)

 

村上春樹は、そう言った後で、
こんな風に終わりに付け加えるだろう。

「そういう性格が誰かに好かれる
とは考えていない」し、
走ることを勧めるわけでもないし、
これはあくまでも、僕個人のこと
だけれど、と。

ぼくたちは、例えば、
このようにして、村上春樹を
相談相手にすることができる。

読書は、そんなふうに、
擬似相談の場でもあったりする。

さらには、村上春樹が、
頭の中に住みついていくことも
ある。
そして、頭の中に住みついている
他の人たちと話したりする。
頭の中での、擬似会議の場となっ
たりする。

村上春樹は、自身で述べている
ように、「頭の中で純粋な理論
や理屈を組み立てて生きていく
タイプ」ではない(前掲書)。

村上春樹は「身体に現実的な
負荷を与え、筋肉にうめき声を
(ある場合には悲鳴を)上げさ
せることによって、理解度の
目盛りを具体的に高めていって、
ようやく「腑に落ちる」タイプ」
である(前掲書)。

どちらかというと、頭の中で、
理論を組み立てていくタイプで
あるぼくは、「村上さん」に
読書を通じて相談している。

そんな「村上さん」が、
あくまでも個人的なことだけれ
どね、と言いつつ、
ぼくに、本の中で、語りかけて
くれるのは、それだけで、
気が晴れたりする。

あくまでも、身体にねざした
地に根の張った言葉が、
ぼくに響いてくる。

その響きの中で、
ぼくもニュージーランドを、
北から南に徒歩で歩いたときに
「自分を肉体的に消耗させ」た
ことを思い出す。

ぼくは、あのとき、
特に何か特定のもの・ことに
腹を立てていたのではないと
思う。
少なくとも記憶にも、ジャー
ナルにも残っていない。

でも、あのとき、
ぼくは「何か特定できないもの」
に対して、言葉にもならない、
怒りのようなものを感じていた
のかもしれない。

だから、今から思い返すと、
「肉体をとことん消耗させた」
ニュージーランドの経験を境と
して、ぼくの生き方は、
「転回」をし始めたように、
思えてくる。

20年以上が経過して、
歩いてきた道を振り返ることで
はじめて見えてきた風景である。

 

追伸:
村上春樹『走ることについて語る
ときに僕の語ること』(文芸春秋)
は、2007年の出版でした。
ぼくが、香港に来た年。

この本は、ぼくが香港で生きて
いく上で、影響を与えてきました。

2007年から4年後の2011年。
ぼくは、香港マラソンを完走し、
はじめてフルマラソンを走りきり
ました。

この本の最後で、村上春樹は
自分の墓碑銘に刻みたい言葉を
こう書いています。

 

村上春樹
作家(そしてランナー)
1949-20**
少なくとも最後まで歩かなかった

 

ぼくも「最後まで歩かなかった」
という生き方をしたいと思います。
でもちょっとは歩くと思いますが。
少なくとも、香港マラソンでは、
最後まで歩かなかった。
とは言えます。

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ぼくにとっての「シエラレオネと村上春樹」。- 転回、コミットメント、物語の力。

「ぼくにとっての『香港と村上春樹』」(とブライアン・ウィルソン)ということを書いた。そうしたら、それでは、ぼくにとっての「シエラレオネと村上春樹」はどうなんだろうと、思ったのだ。...Read On.

 

「ぼくにとっての『香港と村上春樹』」
(とブライアン・ウィルソン)という
ことを書いた。

そうしたら、それでは、ぼくにとって
の「シエラレオネと村上春樹」は
どうなんだろうと、思ったのだ。

ぼくにとっての、
まったく個人的な経験としての、
「シエラレオネと村上春樹」。

シエラレオネと村上春樹が、直截的
につながっているわけではないけれど、
ぼくを通じて、この二つは確かに
つながっている。

でも、直感的に、やはり「何か」が
あるように、ぼくには感じられる。
だから、書いておこうと思う。

ぼくが国際NGOの職員として
シエラレオネに行っていたのは
2002年から2003年にかけての
ことであった。

シエラレオネは2002年のはじめに
10年以上にわたった内戦が終結した
ばかりであった。
また、隣国リベリアでも内戦が続き、
リベリアからシエラレオネへは
難民が流入していた。

2002年、ぼくは東京で黄熱病の予防
接種を受け、上司と共に、ロンドンを
経由してシエラレオネの首都フリー
タウンに入った。

最初は短期出張であった。
難民キャンプの運営プロジェクトの
補佐である。

ぼくは、東京と同じ地球の、同じ
時代の、ただ飛行機で着いてしまう
場所で、まったく違った現実の中に
いた。

最初の短期出張は3か月ほど続いた
だろうか。
ぼくは、シエラレオネの短期出張
から日本にもどり、そのとき、
村上春樹の長編小説『海辺のカフカ』
を読むことになる。

ぼくは、小説『海辺のカフカ』の
登場人物に、
また、そのときの村上春樹に、
「肯定性への転回」を読みとっていた。

『海辺のカフカ』では、
主人公の少年がヒッチハイクで四国
への旅を続ける場面がある。

その旅で、主人公は、あるトラックの
運転手に出会う。
朝食を食べる場面で、運転手の口から
「関係性」ということが語られる。

「関係性ということが実はとても
大切なことじゃないか」といった風に。

村上春樹の初期の作品が、社会からの
「デタッチメント」を色調としてきた
のに対し、ここでは「関係性」への
コミットメント的なことが物語として
語られている。

旅に出ていた主人公の少年は、
最後には「家に帰り、学校に戻ること」
を決める。

この物語の展開のなかには、
とても大切な「転回」がひそんでいる。
少年は、「非現実的世界」において、
この「転回」を生き、現実的な世界に
戻っていく。

どんな人も現実的な世界のなかで
暮らしているけれど、
生きることの様々な場面で、
非現実的な世界、非日常の世界に
接触し、新たな力を獲得して、
現実的な世界に戻ってくる。

『海辺のカフカ』の少年もそうだし、
『銀河鉄道の夜』のジョバンニもそう
であったし、
宮崎駿の作品に登場する主人公たちも
そうである。

村瀬学は、日本の戦後歌謡を追うなか
で、歌詞に「丘」(字義通りの「丘」
もあれば、象徴的な「丘」もある)
が多いことに気づく。
例えば、人は現実に疲れ果てたとき、
丘をのぼり、そこで生きる力を得て、
坂を駆け下り、現実の世界に戻って
いく。
(なお、『銀河鉄道の夜』のジョバン
ニも、その銀河鉄道の夢をみたのは、
丘の上であった。)

そんなことを、シエラレオネから
戻ってきた日本で、ぼくは村上春樹
の『海辺のカフカ』を読みながら
考えていた。

シエラレオネに仕事で行くことに
なったことは、そもそも、ぼくが
国際協力・国際支援の分野に
コミットすることを決めたことに
遡る。

ぼくにとっての「丘へのぼって、
生きる力を得て、駆け下りてくる」
という「転回」は、1996年に、
ワーキングホリデーでニュージー
ランドへ行ったことである。
それは、そのときには、まったく
わからなかったけれど。

ぼくのなかで「デタッチメント」
から、「コミットメント」へと
転回したときである。
今、思い返すと。

そのコミットメントの延長で、
ぼくは国際協力を専門として学び、
国際NGOに職を得て、
西アフリカのシエラレオネに
辿りついたわけだ。

そのタイミングで、
ぼくは村上春樹の『海辺のカフカ』
を読む。
内戦の傷跡が深く残るシエラレオネ
から戻ってきたなかで。

ぼくは、シエラレオネの日々に、
積極的に、自分のために文章を書く
ことがほとんどできなかった。
仕事に深く没頭していたことも
あったけれども、
現実に圧倒されて、自分のなかに
言葉がなかった。

そんななかでも、「物語を読む」
ということは、ぼくを癒すことで
もあった。
ぼくの内面では、「物語」が
ぼくを暗い次元に投げ込むことを
防いでいたのだと、今は思う。
当時はそんなことを考える余裕は
なかったけれど。

ぼくにとって、
シエラレオネと村上春樹は、
こんなふうにつながってきた。
あくまでも、ぼくにとっての
個人的な体験にすぎないけれど。

また、それは一見すると、
まったく関係がないものごとの
つながりである。
でも、実は、どこかで、何かで
つながっているように、ぼくは
感じている。

そして、
(広い意味での)「物語」は、
世界を変える力をもつと、
ぼくは思う。

それが、シエラレオネの現場で
あろうと、村上春樹の読者が
生きている世界であろうと。

だから、力強い「物語」を
つくっていかなければならない。

ほんとうの「リーダー」は、
そんな「物語」を語ることの
できる人たちである。
すぐには成果はないかもしれない
けれど、人に未来をみせる・感じ
させる「物語」を、である。
「未来」という言葉が、消え失せ
ていってしまうような世界で。

 

追伸:
シエラレオネにも持って行った
村上春樹の本は、
『もし僕らのことばがウィスキー
であったなら』(新潮文庫)
でした。

シエラレオネにロンドン経由で
行っていて、この紀行本の舞台で
あるスコットランドが近く感じら
れたこともあるかもしれません。

ただ、ひどく疲れた日に、
この本をひらいて、村上春樹の
言葉のリズムに身をまかせると、
気持ちが楽になったのです。

だから、
東ティモールに移っても、
この本はぼくと共にありました。
そして、
香港に移っても、
この本はぼくと共にあります。


 

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香港, 村上春樹, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima 香港, 村上春樹, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima

ぼくにとっての「香港と村上春樹とブライアン・ウィルソン(ビーチボーイズ)」。- 名曲「God Only Knows」に彩られて。

人も、本も、音楽も、たまたまの偶然によって、すてきに出会うこともあるけれど、ときに「すてきな出会いに導いてくれる人」に出会うという偶然に、ぼくたちは出会うことがある。...Read On.

 

人も、本も、音楽も、
たまたまの偶然によって、
すてきに出会うこともあるけれど、
ときに「すてきな出会いに導いて
くれる人」に出会うという偶然に、
ぼくたちは出会うことがある。

ぼくにとって、作家の村上春樹は、
「すてきな出会いに導いてくれる人」
である。

ちなみに、村上春樹は、ぼくにとって

  1. 「物語」を語ってくれる人
  2. 「生き方」を指南してくれる人
  3. 音楽や本へと導いてくれる人

である。

今回は、3番目、音楽への出会いを
導いてくれたことの話である。

ぼくが香港に移ってきた2007年の末
のこと。
村上春樹は、和田誠と共に、
『村上ソングズ』(中央公論新社)
という著作を出版した。

本書では、29曲が取り上げられ、
村上春樹が英語歌詞の翻訳と解説を、
和田誠が絵を描く形で、つくられて
いる(内2曲は和田誠が解説)。
29曲の内2曲をのぞいて、すべて
村上春樹が選んだ曲たちである。

その一曲目に、
「1965年に発表されたビーチボー
イズの伝説のアルバム『ペット・
サウンズ』に収められたとびっきり
美しい曲」(村上春樹)である、
「God Only Knows」
(「神さましか知らない」)が
とりあげられている。

ビーチボーイズのリーダー、
ブライアン・ウィルソンが作曲した
名曲である。

 

…God only knows what I’d be
without you.
…君のいない僕の人生がどんなもの
か、それは神さましか知らない。

「God Only Knows」


村上春樹が「いっそ『完璧な音楽』
と断言してしまいた」くなる音楽で
あり、
ビートルズのポール・マッカートニ
ーが「実に実に偉大な曲だ」と言う
名曲である。

ぼくは、村上春樹の翻訳と解説を
読みながら、この曲のメロディーと
コーラスに想いを馳せていた。
当時は、今のように、Apple Music
ですぐに検索して聴くなんてことが
できなかった。
だから、香港のCauseway Bayにある
HMVに行って、ビーチボーイズの
名盤『ペット・サウンズ」を購入する
しかなかった。

昔(1950年から1960年代)の音楽が
好きなぼくは、以前にも、もちろん
『ペット・サウンズ』は聴いていた
けれど、この曲は覚えていなかった。
二十代前半くらいまでは、村上春樹が
ビーチボーイズを語るときによく話題
に挙げるビートルズを、ぼくはよく
聴いていたこともある。

さて、名盤『ペット・サウンズ』をCD
で購入して、聴く。
「God Only Knows」は、すてきなメロ
ディと言葉の響きを届けながら、ぼく
から、なつかしさの感情もひきだす。

ちょっと調べていると、
映画『Love Actually』の最後のシーン
で流れていた曲だとわかる。
クリスマス後の空港で、人が再会して
いくシーンである。
「空港での再会」は、海外をとびまわ
っていたぼくにとって、とても印象的
なシーンであったから、ぼくはよく
覚えていた。

香港で生活をしていたぼくにとって、
名曲「God Only Knows」は、
なぜか、心に響いた。
それからも、ブライアン・ウィルソン
のCD・DVDで、ブライアンがこの曲
を歌うのを聴いていた。
香港に生活を移し、30代を生きるぼく
には、ビートルズよりも、ビーチボーイ
ズ(ブライアン・ウィルソン)の方が、
心に響いていた。

 

村上春樹は2007年の『村上ソングズ』
に引き続き、2008年に、
ジム・フジーリ著『ペット・サウンズ』
の翻訳書(新潮社)を出版した。


時は過ぎ、2012年8月、
ビーチボーイズが結成50周年を迎えて
再結成しての世界ツアーを敢行。
香港にもやってきたのである。

ブライアン・ウィルソンの苦悩の個人史
などから再結成の世界ツアーはないと
思っていたから、驚きと歓びでいっぱい
であった。

ブライアン・ウィルソンも70歳を迎え、
他のメンバーも高齢である。
コンサートは休憩を途中はさんで、
第一部と第二部の3時間におよんだこと
に、ぼくはさらに驚かされることになった。

この香港公演で、
ブライアン・ウィルソンは、
名曲「God Only Knows」を、
ぼくたちに、聴かせてくれた。
彼の歌声に耳をすませながら、
ぼくはなぜか、目に涙がたまったことを
覚えている。

それから3年が経過した2015年。
ブライアン・ウィルソンの半生を描いた
映画「Love & Mercy」が上映された。
ぼくは、映画館に足をはこび、
ブライアン・ウィルソンの苦悩の半生を
観る。
ぼくにとっては、ぼくの内面の深いとこ
ろに届く映画であった。

そして、2016年、ビーチボーイズは、
再度、香港公演にやってきたけれど
(HK Philとの共演)、
今度はブライアン・ウィルソン抜きの
メンバー構成であった。
ブライアン・ウィルソンは、個人で
世界公演に出ていたのだ。
ビーチボーイズの香港公演は
これまたすばらしいものであったけれ
ど、ブライアンのいない公演は寂しい
ものでもあった。

同年、ブライアン・ウィルソンは、
半生を綴った自伝を発表している。

そして、この自伝の存在が、
ぼくにブライアン・ウィルソンを
思い出させたのだ。

よくよく観てみると、
ぼくの香港10年は、村上春樹とブライ
アン・ウィルソンに、
「音楽」を通じて彩られた10年でも
あったことに、ぼくは気づいたのだ。


香港 
 x
村上春樹 
 x
ブライアン・ウィルソン

ぼくの中で、この組み合わせによる
化学反応がどのように起こったのかは
わからない。

でも、確かに、それはぼくの中で、
香港と村上春樹とブライアン・ウィル
ソンだったのだ。


 

追伸:
村上春樹がブライアン・ウィルソンに
ついて書いている本は下記です。

●『意味がなければスイングはない』
 (文芸春秋)
●『村上ソングズ』(中央公論新社)
●『ペット・サウンズ』(新潮社)

『意味がなければスイングはない』の
中で、ブライアンを取り上げ、
ブライアンの名曲「Love and Mercy」
について文章を書いています。
村上春樹は、ハワイのワイキキで、
ブライアンの歌う「Love and Mercy」
に、胸が熱くなる経験をしています。

映画「Love & Mercy」のタイトルは
この名曲から来ています。
映画の最後に、この曲がながれます。
映画館でぼくは、村上春樹と同じよう
に、その曲と歌声に含まれる切実な
想いに、胸が熱くなりました。


 

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海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima

世界で15年働いてきたことは、ぼくにとって「何であったのか」。- 多様性、出会い、自分のライフ・ミッション。

15年にわたり、世界で働いてきた。世界でいろいろな人たちと働いてきた。...Read On.

 

15年にわたり、世界で働いてきた。
世界でいろいろな人たちと働いてきた。

大学時代には、
ワーキングホリデー制度を活用して
訪れたニュージーランドの日本食
レストランで、働いた。
韓国人の方がオーナーで、従業員は
中国人・台湾人・日本人という
組み合わせであった。

それから、国際NGOの組織で、
西アフリカのシエラレオネに赴任。
難民キャンプの運営、井戸掘削など
のプロジェクトで、
シエラレオネの人たち、それから
隣国リベリアからの難民の人たちと、
働いた。
NGOのチーム、他のNGO、国連、
シエラレオネ政府、シエラレオネの
いろいろなコミュニティの人たち
など、日々かかわりながら、紛争後
のシエラレオネで、働いた。

シエラレオネから、東ティモールに
移り、今度はコーヒー生産者支援。
独立した東ティモールの輸出産業の
要であるコーヒー産業において、
コーヒー生産者の生活支援であった。
NGOチーム、他のNGO、JICA、
日本政府、東ティモール農業省、
国連、エルメラ県レテフォホの人たち
など、プロジェクトを軸に、いろいろ
な人たちと仕事をしてきた。

香港では、人事労務コンサルタントと
して、主に香港にある日系企業の方々
と、人・組織のマネジメントにおける
問題・課題に向き合ってきた。
香港に駐在員として来られる日本の方々、
管理職として勤務される香港の方々など
ほんとうに多くの方々と、仕事をさせて
いただいた。

働くという「場」だからこそ、いろいろ
な方々
に出会うことができた。

通算で15年以上にわたり世界で働いて
きて、その経験たちが、
ぼくに「どのような影響を与えたのか」、
ぼくにとって「何であったのか」
について、ぼくはこんなことを考えている。

 

(1)働く・生きるの多様性

日本にいたときは、ぼくの視界・視野
は、ひどく狭いものであった。
「レールにのるか、レールから外れる
か」くらいにしか、ぼくは見ることが
できないでいた。

世界に出てみて、働く、そしてそれを
貫いていく「生きる」という経験に
おいて、その多様性に圧倒された。

出会う人それぞれに、生きてきた人生
があり、それぞれの場で人生が交錯し
て一緒に仕事をする。

人の生きる「道」は、人がいるだけ
あるのだと、実感として、ぼくは
思えるようになった。

出会う人たちとは、一部の仕事だけの
関係であることもあるけれど、
仕事という枠組みは往々にして曖昧に
なり、人と人との関係、つまり生きる
という経験に押し出されてきた。

「働き方」も、ぼくが習ってきたこと
や思っていたことが、実際の経験の中
で、書き換えを余儀なくされた。

 

(2)出会いにつくられる「自分」

働く・生きるの多様性は、「人との
出会い」によって、ぼくに提示されて
きた。

出会った人たちに、少なからず、影響
を受けてきた。
出会った人たちが、やがて、ぼく自身
の内面に住みついていく。

「良心は両親の声」と言われるように、
また、
「自我はひとつの関係である」と
社会学者の見田宗介が言うように、
「自分」とは、他者との関係性でつく
られるものでもある。

そのようにして、ぼくの「自分」とい
う経験は、出会う人たちの影響を受け、
豊饒な空間をぼく自身の内部につくっ
てきた。

そのようにして、出会い、仕事を一緒
にしてきた人たちが、ぼくの中に、
生きている。

 

(3)ぼくの「ライフ・ミッション」

働く・生きるの多様性に圧倒され、
また、人との出会いにより「自分」を
つくりながらも、
やがて、ぼくは自分の軸のようなもの
を形づくってきた。
絞り出されてきたとも言える。

そのように絞り出されてきたのが
今のぼくという人間であり、また
ぼくの「ライフ・ミッション」である。


子供も大人も、どんな人たちも、
目を輝かせて、生をカラフルに、
そして感動的に生ききることの
できる世界(関係性)を
クリエイティブにつくっていくこと。


数年前に、この今の「ライフ・ミッ
ション」に結実してきた。

このプロセスの中で、
働くことと生きることが、
ひとつになってきたように、思う。

ぼくはこんな風景を思い出す。

シエラレオネのある地区の
簡易な空港の滑走路で、
ぼくはシエラレオネのスタッフと
人のマネジメントの難しさを語って
いた。

いろいろと難しい問題にぶつかって
いたのだ。

「最後は、やはり人なんですよね。
人間学です。」

ぼくは、滑走路から飛びたつ国連機
を遠い目で眺めながら、
英語で、そんな言葉を彼に投げかけ
たことを、今でも覚えている。

そして、今でも、
ぼくは「人」を追い求めている。
「人と人との関係性」(社会、組織、
交響圏など)を追い求めている。

どんな人たちも、
目を輝かせて、生をカラフルに、
そして感動的に生ききる世界を
つくっていくために。

 

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野口晴哉著『治療の書』- 「巨人」を前に、心と身体の姿勢を正す。

整体の創始者といわれる野口晴哉。1911年、東京生まれ。野口晴哉の著作のひとつ『治療の書』は、野口晴哉「治療生活三十年の私の信念の書」である。...Read On.


整体の創始者といわれる野口晴哉。
1911年、東京生まれ。
野口晴哉の著作のひとつ『治療の書』
は、野口晴哉「治療生活三十年の私の
信念の書」である。

天才的な治療家であった野口晴哉は
三十年の治療生活に専心した後に、
治療を捨て「整体」を創始していく。
この書は、治療三十年に終止符を
打つ書であった。

もともとの文章は1949年に書かれた
ものである。
ぼくが手にしているのは「再版」の
書で、1977年に初版が出版されている。

出版された著作であるけれども、
野口晴哉が述べているように、
この書は、野口晴哉が「自分の為に
記したようなもので、売るつもりでも、
他人に理解してもらうつもりで記した
ものでもない」。

この書の存在を教えてくれたのは、
社会学者の見田宗介先生の著作で
あった。

「春風万里-野口晴哉ノート」と
題される文章の中で、
「一冊の本をと問われる時」に
挙げる書のひとつとして、
野口晴哉『治療の書』を挙げている。

見田宗介はこのように書いている。


一冊の本をと問われる時に、…
『治療の書』を挙げるということは、
とりわけて心のおどる冒険であるよう
に思われる。…その書名からしても、
…何か実用的な健康書か医療技術の
専門書か、そうでなければ反対に
宗教書の類のごとくに受け取られかね
ないからである。それはいくつかの
わたしにとって最も大切な書物と同じ
に、「分類不能の書」、野口晴哉の
『治療の書』としかいいようのない
孤峰の書である。

見田宗介『定本 見田宗介著作集X』
(岩波書店)

 

この文章に「呼びかけ」られて、
ぼくはこの書を日本から、ここ香港
へと取り寄せた。

この書は確かに「分類不能の書」で
あり、読むたび、そのときの自分の
ありようによって、さまざまな角度
と仕方で語りかけてくる書である。

この書を目の前にしながら、そして
この書の一言一言をゆっくりとかみ
しめながら、ぼくの「姿勢」が正さ
れていく。

目次構成はこのようである。

【目次】

治療といふこと
治療する者
ある人の問へるに答へて
治療術
わが治療の書
後語

目次構成には「治療」の文字が
あふれているが、
見田宗介が書いているように、
決して、実用的な健康書や医療技術
の専門書ではない。

「治療」をはるかに超えて、
仕事のこと、プロであること、
そして深く、人間のことにまでつらぬ
いていく書物である。

「治療する者」の文章の中で、
このように、野口晴哉は記している。


治療といふこと為すに、自分の心の
こともとより大切也。されど技を磨く
こともつと大切也。されど磨きし技を
いつ如何に用ふるかといふこと心得る
ことはもつと大切也。その為には冷静
なる不断の観察が大事也。観察といふ
こと興味をもつて丁寧に行へば次第に
視野が広くなり、普通の人には見へぬ
ことをも見へるやうになる也。この鍛
錬行はず、物事に出会ひたる時自分の
記憶の中を探し廻って目前の事実を
合せやうとしてゐるやうではその時
そのやうに処すること出来ぬ也。…
 その時そのやうに処する為には、
自ら産み出す力もたねば為せぬこと也。
習つたことを習つたやうにくり返す
人々は記憶の樽也。治療家に非ず。

野口晴哉『治療の書』(全生社)
 

「治療」を「問題解決」と置き換えて
考えていくだけでも、問題解決の際
の心構え、普段の準備、絶え間ない
学び、視野(パースペクティブ)、
などなど、考えさせられることばかり
の、一言一言である。

作家の村上春樹は、川上未映子に
よるインタビュー(著書『みみずくは
黄昏に飛びたつ』)の中で、
「何も書いていない時期のこと」を
語っている。

作家にとって必要なものとしての
「抽斗」をもっておくこと。
何も書いていない時期に、せっせと、
「抽斗」にものを詰めていくこと、
などを。

村上春樹が小説を書くという「総力戦」
は、野口晴哉の言う「産み出す力」で
戦われる場である。

村上春樹がいう「作家」と、
野口晴哉がいう「治療家」は、
深い地層において、つながっている。

野口晴哉の『治療の書』は、
これだけの言葉をとりあげても、
話の尽きることのない、インスピレー
ションを、ぼくたちに与えてくれる。

そして、これからも、ぼくたちに
尽きることのない、渇れることのない
インスピレーションを与え続けて
くれると、ぼくは思う。

野口晴哉は、この書の「あとがき」を
このようにしめくくっている。

 

この書に記したことは、三十年間少し
も変らなかったことばかりである。
これからも変らないであろうことを
確信している。

野口晴哉『治療の書』(全生社)
 

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成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

「To Doリスト」を見るのがつらくなってしまったときに。- 「すべき」に「したい」を混ぜる。

ぼくは、世界で仕事をしてきた中で、「To Doリスト」を活用してきた。西アフリカのシエラレオネで使い始め、東ティモールで、香港でいろいろ試しながら、自分に合った使い方を追求してきた。...Read On.


ぼくは、世界で仕事をしてきた中で、
「To Doリスト」を活用してきた。
西アフリカのシエラレオネで使い始め

東ティモールで、香港でいろいろ試し
ながら、自分に合った使い方を追求し
てきた。

「To Doリスト」の有効性については
賛否両論である。

「To Doリスト」の使い方に気をつけ
ないと、早急な判断で、有効性に
「否」をつきつけることにもなる。

「成功者は「To Doリスト」を使わない」
と題されるウェブサイトの記事
では、
「To Doリスト」の3つの大きな問題
として、下記を挙げている。

・所要時間がわからない
・緊急と重要の区別がつかない
・(完了しない業務は)ストレス要因になる

これらは一面において正しいし、
しかし一面においては正しくない。
これらは使い方次第でもある。

大切なことは、とにかく、やってみる
こと。

やってみて、自分に合った使い方へと
最適化してみること。
それでも、合わないということであれ
ば、そもそもの「使用目的」に戻って
他の方法を模索すること。

そして、一度うまくいかなかった経験
も、時には掘り返してみて、再度
「実験台」に載せてみることである。
数年前は自分に合わなかったことも、
今となっては有効であることもある。

この「実験の繰り返し」が、
「よりよくする」ということの本質で
あるように、思う。
生産性向上であろうと、その他どんな
ことであろうと。

ぼくも、「To Doリスト」はいろいろ
に試してきた。
うまくいくこともあれば、うまくいか
ないこともあった。
今も「実験の繰り返し」の日々である。

下記は「実験の途上」でのメモである。
 

(1)書き出すこと

「To Doリスト」にしろ、
「To Doリスト」ではなく「予定表」に
落とすという代替案にしろ、
それは「書き出す」ということである。

「書くこと」の有効性は認識されている。
「書くこと」で、頭の中をすっきりと
させておくことができる。
「書くこと」で、忘れないでいることが
できる。
「書くこと」で、完了の際に、進んだこ
との証として、チェックできる。
「書くこと」で、一歩先に進むことが
できる。

 

(2)「デッドライン」

「To Doリスト」を書きだすときに、
日にちを設定する。
いつまでにやらなければいけないなど
と、「デッドライン」を設定する。

そうすると「To Doリスト」は
「デッドライン」だらけになってしまう。
それらは、完了しないタスクの
リストとなることがある。
「To Doリスト」を見るのがつらくなっ
てしまう。

「デッドライン」には、追われる傾向に
ある。
タスクに追われる感覚である。

だから「デッドライン」として、設定し
ないことが方法のひとつである。
「To Doリスト」を「デッドラインリス
ト」にしないこと。

常に追っていくタスクとしてのリストと
することである。

 

(3)「すべき」に「したい」を混ぜる

「To Doリスト」を見るのがつらくなっ
てしまったときに、ぼくにとって有効だ
ったのは、「やりたいこと」や楽しみの
ことを、リストにどんどん混ぜていくこと
である。

苦手な食べ物に「好きな食べ物」を混ぜ
ることで食べることができるように。

「To Doリスト」は、言葉の響きからか
「すべきリスト」と最初は考えていた。
仕事はどうしても「やるべきこと」が増
えてしまうかもしれない。
それでも「したいこと」はある。
プライベートを含め、「やりたいこと」
をリストに書きだしていく。

「To Doリスト」は、だから、
「Want To Doリスト」でもある。

「To Doリスト」を見るのがとてもつら
くなってしまったとき、
ぼくは、「やりたいこと」をリストに
混ぜていくことで、「To Doリスト」を
常に見るようになっていった。


 

「To Doリスト」という方法を
使い倒していく中で、「To Doリスト」
そのものの問題も出てくる。
しかし、その方法の使用からこぼれおち
てくるものは、
ぼくたち「自分自身の問題」である。

例えば、
「To Doリスト」が「すべきリスト」と
なってしまうのは、ぼくがそう生きて
きてしまったからでもある。
「すべき」で詰まった生き方を。

例えば、
「To Doリスト」が未完了だらけになっ
てしまうのは、ぼくが先手先手で仕事が
できないからである。

例えば、
「To Doリスト」を完璧に使いこなそう
として失敗するのは、ぼくの完璧主義の
せいでもある。

などなど。

方法の問題ではなく、方法を使う「主体」
側の問題である。
あるいは、主体と方法との相性の問題で
ある。

方法だけを追い求めていると、そのこと
は見えてこない。

だから、自分をまなざすこと。

そんなことを認識させてくれることも
含めて、「To Doリスト」は有効であると
ぼくは思う。

世界は、「やるべきこと」も充ちている
けれど、「やりたいこと」も充ちている。

 

追伸:
アプリとしては、
ぼくは「OmniFocus」を使っています。
iPhoneに最初からついている
「Reminder」も一緒に使いますが。
後者はチェックリスト的な使い方です。

また、iPhone上での操作だけではなく
Apple Watchの画面に通知が来るよう
になっています。

 

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香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

香港で、朝日が差しこむ海岸通りの「人の交差点」にて思うこと。- 香港の早朝の風景。

早朝のすきとおるような空気があたりを包み、朝日が静かに差しこんでくる。ここのところ、運動する時間を早朝に変えている。朝日が差しこんでくる海岸通りを歩き、そして走る。...Read On.

早朝のすきとおるような空気があたり
を包み、朝日が静かに差しこんでくる。

ここのところ、運動する時間を早朝に
変えている。
朝日が差しこんでくる海岸通りを歩き、
そして走る。

通りには、すでにいろいろな人たちが
くりだしている。

汗をいっぱいにかいて走っている人たち。
音楽やラジオを鳴らしながら行き来する
人たち。
太極拳(Tai chi)で身体を動かす人たち。
ロードバイクで滑走する人たち。
運動を始めたばかりという姿の人たち。

通りは朝日が差しこむ「人の交差点」だ。
いろいろな人たちが、交差していく。


そんな早朝の風景に惹かれながら、
人がすれちがう波風の中で、ぼくは
次のようなことに思いをめぐらしている。

 

(1)交差点ですれちがう人たち

すれちがう人たちは、毎朝、同じ人たち
であったりする。

お互いに知り合いでもなんでもないけれ
ど(時に朝の挨拶をすることはある)、
そこには「何か」が共有されているよう
なところがある。
それはそれで、すばらしいことである。

共有される「何か」は、いろいろなもの
であろう。
例えば、「何かに向かう肯定性」のよう
なものであったりする。

ある調査では、香港人は、平均よりも
多く身体的活動をしているという。
ぼくの「実感値」としても、ここ10年程
の間に、「走る人」はだいぶ増えたよう
に思う。

「人の交差点」で、ぼくたちは、
いろいろな人たちとすれちがっている。
それぞれに、いろいろな人生を歩き、
走りながら。

 

(2)朝のすきとおる空気

午後に走ることは、それまでの頭脳的な
疲れを癒し、散らばった情報やアイデア
を吟味・再編成・再構築していくような
ところがあった。

朝は、すっきりした頭脳の状態である。
考え事がなくはないけれど、比較的、
すっきりとして何も入っていない「器」
から、ポジティブな何かが湧き上がる
ようなところがある。

朝のすきとおる空気が全身を包み、
心身を浄化するような作用を感じる
ことができる。
それは、午後の空気には、感じられない
ものである。

 

(3)心の余裕

運動の時間を朝に変えてみて、「余裕」
ができた。
活動時間はそんなに変わるわけでは
ないけれど、心の余裕がでるようだ。

「時間のマジック」も作用する。
朝に活動することで、同じ時間でも、
その日がより長く感じられる。
時間の感じ方は、主観的なものである。

「時間に追われる」のではなく、
「時間を追っていく」感覚をもつこと
がしやすくなる。

以前、香港マラソンに参加するための
トレーニングとして早朝に運動をして
いたときのことを思い出す。

 

「朝の効用」は、多くの人たちが
語ってきたところである。
ここ、香港でも、朝の効用は大きいと
ぼくは思う。
香港社会の「(物事が進む)スピード
の速さ」は、心地よいこともあるけれ
ど、それなりのストレスを生んでいく。
「速さ」は、人と自然、人と人との
関係をも規定していく。
朝の時間は、幾分か、それらを相対化
してくれる。

しかし、朝は「効用」(何かのため)
という思考にとどまるものではない。

効用にけっして還元できないような、
それ自体が祝福であるような風景が
香港の朝にはひろがっている。

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書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima

セス・ゴーディン作『What to Do When It's Your Turn』-「責任」から<責任>へと開くこと。

ぼくは小さい頃から、自分の強みはという問いへの応答として、「責任感が強い」ということを挙げてきた。...Read On.


ぼくは小さい頃から、自分の強みはと
いう問いへの応答として、「責任感が
強い」ということを挙げてきた。

「責任」をもって、役割をこなすこと。
「責任」をもって、やるべきことをする
こと。

グループ、チーム、組織の中で求められる
「役割・責務」を果たす。
これはこれで大切なことである。

でも、生きるなかで、どこか、
「ひっかかり」を感じてきたことでもある。

うまくいかないことの連続の中で、
「責任」から<責任>へ、ということを
考え始めた。

その転回は、「自分の人生への責任」と
いうことである。

責任は、英語では「responsibility」。
用語を分解すると、
「response + ability」である。

「責任」は、まずは「他者への応答」
(response)である。
そして、<責任>は、第一に「自分の
生への応答」である。

しかし、<責任>も、実は、深い層では
他者へ応答である。
深い層にひびく、他者による呼びかけへ
の応答である。

 

セス・ゴーディン(Seth Godin)作の
『What to Do When It's Your Turn』は
2014年に世に出た。

「セス・ゴーディン著」ではなく、
「セス・ゴーディン作」としたのは、
装丁と内容が「作」(作品)とするのに
ふさわしいからである。

言葉と写真と絵画で織られた美しい作品で
ある。

これは、
・注文はオンラインのみ
・プリント版のみ
という特別な作品であった。

作品を通して、ぼくたちに呼びかける。
副題にあるように、
「あなたの番だよ」と。
副題の原題は、
[and it’s always your turn]である。

「表紙の女性」は、70年程前に他界した
アニー・ケニー(Annie Kenney)である。
アニーは、英国の工場ワーカーであり、
初期の婦人参政権論者であった。

1905年のタウンホール・ミーティングで、
アニーはある議員に対して女性の投票権に
ついての質疑を投げかける。
そのやりとりの結果、彼女は3日間投獄
されることになってしまった。
この彼女の勇気が運動を拡大させ、
結果として、世界を変えるにいたった。

多くの女性がこの運動において
「自分の順番」をひきうけることができたはずだ。
しかし、立ち上がり、「自分の番」を
ひきうけたのは、アニーであった。

アニーは、家庭においても、
女性参政権運動においても、
特定の「役割」を担い、責任をもって
遂行していたはずである。
運動に参加している女性たちと同じように。

しかし、アニーは、「責任」を<責任>へ
と開いたのでもあったと思う。

開かれた<責任>は、自分の人生への責任
であり、(そしてだからこそ、)他者の生への
責任に応答することでもある。

アニーは、「責任」を<責任>へと開きな
がら、「自分の番」をひきとったのである。
立ち上がり、他者たちの前に「現れ」、
他者たちをリードしたのである。

表紙のアニー・ケニーの眼に宿る決断と
勇気、セス・ゴーディンのタイトル(と
副題)に込められた「呼びかけ」が、
ぼくを、常に見つめている。
そして、ぼくに、呼びかけてくる。

大切なのは、
自分の人生に<責任>をとること。
自分の順番になったときに、その機会を
とらえること。
そして、
実は「常に、あなたの番なのだよ」と。


 

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香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

香港で、「街の空間」を考える。- 「街の路地裏」に身を投じて。

香港に住むようになって、10年が経過した。住み始めた当初は「街の空間」の印象は、次のようなものであった。...Read On.


香港に住むようになって、10年が
経過した。

住み始めた当初は「街の空間」の
印象は、次のようなものであった。
・高層ビルが多いこと
・密集していること
・雑多な空間であること

「高層ビル」は、オフィス用だけ
でなく、人々の住まいであるマン
ションも高層ビルが一面に続いて
いる。

香港は、東京都の半分ほどの面積
に、700万人以上が暮らしている。
まだ、今も、人口は増えていると
いう。

だから、「空間」は貴重である。
ビルは、横ではなく、上に向かっ
て伸びていく。

ぼくは、そんな空間に、暮らして
きた。

香港はアジア各地への「ハブ」的
な位置にあり、旅をする拠点とし
ては絶好の場所である。
2011年か2012年頃に、ぼくは、
初めて台湾に行った。
香港から1時間40分ほどのフライ
ト時間である。

空港から台北の街の中心に向かう
バスから、窓の外を眺めていた
ぼくは、「ひっかかり」を感じて
いた。

空が広いこと、街の空間が日本に
似ていたことも印象的ではあった
けれど、それだけではなかった。

「あっ」

と、ぼくは気づいた。
気づいたのは、
一軒家が多いことに。

高層ビルが香港に比べ少ないこと
を感じながら、その裏返しとして
「一軒家」が多いことに気づいた
のだ。
それは、ほっとする感覚をぼくに
与えたことを、今でも、覚えて
いる。

そんな「視点」をもちかえり、
ぼくは香港の街の空間をみてきた。

香港も、中心部を離れ、緑の木々
たちがいっぱいに広がる空間に
立ち入ると、風景が一変してくる。

高層ビルだけでなく、
「村」の風景が眼にはいってくる。
村にはコミュニティがある。
そして、そこには、昔ながらの
一軒家が連なっている。

そんな「街の路地裏」の迷宮に
はいる。
数十年前の風景が残っている。
店舗のつくりも、そこにかかる
看板も、そんな名残をいっぱい
に放っている。

そんな「街の路地裏」に身を投じ
ながら、ぼくは考える。
「街の空間」は、そこに住む人々
の心身の持ちように、大きく影響
を与えるだろうことを。
また、人と人との「関係性」に
影響するだろうことを。

香港は、今も各地で、高層ビルの
建設が盛んに行われている。
新しいマンションの敷地の中には
一軒家とマンション棟が兼在して
いたりするのを見る。

そんな風景を眼の前にしながら
香港の社会はどこに向かうのだろう
かと、勝手に思いをめぐらしている。


 

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社会構想, 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima 社会構想, 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima

「マーケティングとは?」にどう応答するか?。- セス・ゴーディン(Seth Godin)の「語り」に震える。

「マーケティングとは?」という問いかけに、ぼくたちはどのように応答することができるだろうか。...Read On.


「マーケティング」という言葉には、
時代につくられた意味が詰め込まれて
いる。

「マーケティングとは?」という問い
かけに、ぼくたちはどのように応答
することができるだろうか。

世界的なマーケッターである
Seth Godin(セス・ゴーディン)は、
James Altucherによるインタビュー
の中で、彼の以前の著書『Tribes』
に触れながら、このように語る。

 

…『Tribes』が言っているのは、
こういうことなのです。
誰もが立ち上がり、リードすること
ができる今となって、
つまり、誰もがメディアチャネルを
持つことができ、誰もが繋がりを
つくることができる中で、
あなたは(人々を/トライブを)
リードすることを選択しますか?
そして、もしあなたがリードすると
したら、誰を、あなたはリードしま
すか?
どのように、あなたがリードする
人々を繋げていきますか?
それが、マーケティングなのです。
でも、それが生きること(life)
でもあるのです。

Podcast: The James Altucher Show
Ep. 194: Seth Godin

 

ぼくは、Sethがこのように語る
のを聴きながら、身体が震えた。

マーケティングという言葉の表層
の意味合いが、Seth Godinの語り
をたよりに、一気にコアの部分に
到達したような感覚である。

だから、何度もこの文章を見て、
幾度もインタビューのこの部分を
聴く。

ぼくの思考と心に、
この「語り」をしずかに通過させる。

Seth Godinの著書『Tribes』
(邦訳:『トライブ - 新しい“組織”
の未来形』)は、Sethの2008年の
仕事である。

原書に付された副題は、日本語の
邦訳とはまったくことなり、
「WE NEED YOU TO LEAD US」
である。

それは、あなたへの、ぼくへの、
「呼びかけ」である。

『Tribes』から5年程を経過して、
Sethはとても素敵な書籍を、
オンラインでのオーダーだけで、
そしてハードカバーのみで、世に
放った。

その書籍のタイトルも、
あなたへの、ぼくへの「呼びかけ」
である。

『WHAT TO DO WHEN IT’S
YOUR TURN』
(「あなたの順番がきたときに
すべきこと」)

副題は、このように加えられる。

[and it’s always your turn]

そう、「そして、いつも、あなた
の番だよ」と。

Sethは、これらの仕事を通じて、
人々をリードし、つなげている。
「マーケティング」している。

そして、これが「生きる」という
ことであるところに、Sethの生は
賭けられている。

 

追伸:
Seth Godinの『Tribes』は、
ぼくにとって「ずっと気になって
いたけれど読まずにいた本」の一冊
でした。
ぼくは、早速、原書をキンドルで
手に入れました。

発刊から10年近く経って、ようやく
ぼくが追いついたようです。
でも、10年もかかってしまった。
そして、Sethは、さらに、
「はるか、その先」に行っている。


 

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他者からのコメントなどが自分の感情を揺さぶるときに。- 「感情を掘り起こすこと」を楽しむ。

他者が、自分の態度や行動についてコメントしたりフィードバックを投げかけてくれることがある。プライベートでも、仕事でも。...Read On.


他者が、自分の態度や行動について
コメントしたりフィードバックを投げ
かけてくれることがある。
プライベートでも、仕事でも。

もらったコメントやフィードバックを
注意深く聴きながら、それらは、
大きく二つに分けられる。

●なんらかの「感情」が湧くこと
●どんな「感情」も湧かないこと

聴きながら、イライラやフラストレー
ション、怒りなどの「感情」が湧いて
くることが、しばしばある。

聴く途中で、自分の感情に飲まれて、
言ってくれている他者に対し、
感情的な言葉を投げ返してしまうこと
があったりする。
コメントやフィードバックの内容に
対して、自分はそう思わない、自分は
ああだ・こうだ、と感情的な言葉を
並べる。

自分の感情が揺さぶられるような
コメントやフィードバックには、
なんらかの「真実」が含まれている
ものである。

でも、この「真実」に切り込んでいく
ことは、「感情の海」に放りこまれ、
心が痛んだり、居心地の悪さを極度に
感じることもあるから、どうしても
避けたくなる。
感情とその感情に眠る経験を掘り起こ
したくはなかったりする。

このような「感情を掘り起こす」機会
が訪れることを、楽しみに待ち、楽し
く掘り起こしていくことを、ぼくは、
次の著作シリーズから学んだ。

Robert Scheinfeldの著作シリーズで
ある。

●『Busting Loose from the Money Game』
 (邦訳『「ザ・マネーゲーム」から脱出する法』)
●『Busting Loose from the Business Game』
 (邦訳『「ビジネスゲーム」から自由になる法』)

方法の詳細は、これらの本たちの全体
が関わってくるため、ぜひ、読んで試し
てほしい。
(*ぼくは英語で読みました。邦訳は
読んでいません。なかなか手強い本で
す。)

Robert Scheinfeldは、
この「掘り起こす」作業を、
「雲をドリルで掘り起こす」という
比喩に例えている。

感情が揺さぶられる「地点」をドリル
で掘り起こしていくことで、
厚く覆っていた「雲」がとりのぞかれ
そこから「太陽の光」が差しこんでくる。

どんなに雲が厚く覆っていても、
「太陽」はいつもそこに在る。

その掘り起こすべき「地点」に、
ぼくたちは過去から通じる「物語」を
勝手に構築してきてしまったのだ。
ぼくたちから「力を奪ってしまう物語」を。

ドリルで掘り起こす「地点」がわかる
ということは楽しいことだし、
それで太陽の光がさしこんでくるので
あれば、それは楽しい作業となる。

そこに人生を変えていく「秘密」が
埋まっているというようにも考えること
もできる。

ぼくはそのようにして、
感情を掘り起こす作業をしてきたけれど、
「感情の地層」が何層にも重なっている
のを、よく見つける。
まだまだ、感情の地層にねりこまれた
「物語」をドリルで掘り起こし、
解体する作業がつづいていく。

その深さに気づき、驚きと共に、作業
継続のコミットメントを自分自身に誓う。

 

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