身体性, 言葉・言語, 書籍 Jun Nakajima 身体性, 言葉・言語, 書籍 Jun Nakajima

「伝え授けることむづかしき也」(野口晴哉)。- 野口晴哉の「遺稿」の余白を読む。

「じぶん」というものを相対化していけばいくほどに、ぼくは二人の実践家であり思想家に、ひかれていくように感じる。整体の創始者と言われる野口晴哉、それから養老孟司。...Read On.


「じぶん」というものを相対化していけばいくほどに、ぼくは二人の実践家であり思想家に、ひかれていくように感じる。

整体の創始者と言われる野口晴哉、それから養老孟司。

二人の共通点は、自然としての「身体」への真摯なまなざしである。

 

養老孟司は80歳を迎え、著書『遺言』(新潮新書、2017年)を世に放ったばかりである。

『遺言』についてはまた取り上げたい本だけれど、最近、野口晴哉の文章のなかに、「我は去る也」という≪遺稿≫があるのを知った。

実を言うと、その≪遺稿≫が収められている著作『碧巌ところどころ』は読んでいたのだけれど、その著書の最後に置かれている≪遺稿≫を、ぼくは読むことなくやりすごしていたのだ。

野口晴哉の≪遺稿≫に目を向けさせてくれたのは、松岡正剛による野口晴哉『整体入門』の書評である。

松岡正剛の書評サイト「千夜千冊」のなかに、野口の著作の書評があり、ぼくは松岡正剛に教えられたわけだ。

 

野口晴哉の遺稿は、昭和51年に書かれた。

野口晴哉がこの世を去った年だ。

「我は去る也」と書く野口晴哉が、実際にこの世を去ることを予感していたかは、ここの文章からはわからない。

「箱根に移る」と書かれているから、「我は去る」先は、ひとまず箱根であった。

世を去ることにしろ、箱根に移るにしろ、野口晴哉は「伝え授けることのむづかしさ」を深く深く感じながら、この遺稿を書いている。

 

 我は去る也 誰にも会うこと無し
 …
 我は去る也 心伝え 技授け 今や残す可き何も無し
 伝え授けることむづかしき也 我は授けしと思えど 何も会得せざる人多き也 我伝えしつもりなるに 十日あとには何も伝わりおらざりしを認めさせられること多き也 所詮 自ら会得せしこと以外に 伝え授けること出来ざる也 我が去るはこの為なり

野口晴哉『碧巌ところどころ』全生社

 

伝え授けること、またそれを止めることの比喩として、野口は「空中に文字を画くこと ここで止める也 空中への放言も終える也」とも書いている。

伝え授けることのむづかしさは、空中に文字を画くようなもの、あるいは空中への放言のようなものだと、語られている。

あの野口晴哉でさえ、というか、野口晴哉だからこそ一層に、そのように深いところで感じていたのかもしれないと、ぼくは遺稿の「余白」を読む。

 

松岡正剛は、なぜ「我は去る也」と書いたのかをかんがえながら、野口のような独創の持ち主のまわりには多くの人たちがあつまりながらも、多くは野口を生かそうとは思わず、野口はそこに疲れ、失望したのだろうという考えにいきつく。

松岡正剛はそこでギアを変え、しかし野口晴哉が残した整体は、逆に後世に着実に広まっていったことに着目している。

松岡正剛は次のように書いている。

 

 なぜ野口の意志をこえて広まったのか。野口が主題ではなく、思想ではなく、方法を開発したからなのである。野口は「方法の魂」を残したのだ。野口自身はその方法を早くに開発していたから、そののちはむしろ人々の「思い」や「和」や「覚醒」を期待しただろうけれど、創発者からみれば追随者というものは、いつだって勝手なものなのだ。

松岡正剛「野口晴哉 整体入門」、書評サイト「松岡正剛の千夜千冊」より

 

松岡正剛の解釈に教えられながらも、ぼくは、ぼくだって勝手なものかもしれないとも思う。

ぼくは野口晴哉の「思い」から入って、「方法」は後回しだ。

そのような思いを抱きながら、野口晴哉の「我は去る也」が、ぼくの心にとどまって、去ろうとしない。

 

人間に、人間の身体に真摯に向き合ってきた野口晴哉と養老孟司。

野口晴哉の「遺稿」と養老孟司の「遺言」。

二人の巨人に、ぼくは真摯に向き合うだけだ。

「我は授けしと思えど 何も会得せざる」と、野口晴哉が空中に放言されようとも。
 

遺稿と共に、野口晴哉の次の言葉が、ぼくの心に鳴り響いている。
 

溌剌と生きる者にのみ
深い眠りがある
生ききった者にだけ 安らかな死がある

野口晴哉『碧巌ところどころ』全生社
 

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ワーキングホリデーで、なんとか海外生活できたこと。- 50万円を手に、ニュージーランドに旅立つ。

海外で生活をしていく際に「お金」はやはり必要なのだけれど、ぼくが20年程前にニュージーランドに旅立ったときは、およそ50万円ほどの所持金であった。...Read On.


海外で生活をしていく際に「お金」はやはり必要なのだけれど、ぼくが20年程前にニュージーランドに旅立ったときは、およそ50万円ほどの所持金であった。

大学生の頃にはもちろん大きなお金ではあるけれど、一年を過ごす予定でニュージーランドに旅立つ際に、その金額で何とかなってしまったことは、ぼくのなかに、お金も含めて「なんとかなる」感覚を醸成したのだと、今になっては思う。

 

なぜ「50万円」であったかというと、当時、ニュージーランドのワーキングホリデー制度のビザ申請において「必要な資金」を持っていることの証明が必要であったことだ。

当時は、(確か)50万円であったと記憶しているけれど、じぶんの銀行口座にその金額以上あることを、通帳のコピーを提出することで証明する必要があった。

ぼくは日夜、東京でアルバイトをしながら資金を貯めることで、なんとかその金額にのせることができた。

(確か)ビザが取れてから航空チケットを購入したので、実際に行くときには、その金額を少し切るようなところであったと思う。

航空チケットは、1年オープンの往復チケットを購入しなければならず、しかし逆に、資金が尽きれば、復路のチケットで帰国するという「緊急策」はある。

それでも、初めて暮らすことになる海外で、50万円を切るくらいの金額で旅立ったのは、なにはともあれ、ひとつに恐れを知らない「若さ」とそれから情熱であったのだろう。

今であれば、たったの50万円で、まったく知らない異国で暮らすために、収入のあてもなく旅立つという無謀なことには、一歩も二歩も足がひけてしまう。

あのときは、「今行かなければ」という焦燥感のなかで、とにかくビザを取るための最低限の資金をもって、ぼくはニュージーランドに旅立った。

 

こうして、1996年4月にオークランドに降り立ち、ぼくはニュージーランドで暮らすことになった。

南半球のニュージーランドは、ちょうど秋で、これから冬に向かってゆくところである。

オークランドにあるANZ銀行(後に東ティモールでもお世話になる)で、ぼくは海外ではじめて、銀行口座をひらく。

当時お金に心配がなかったわけではない。

少し書いていた日記を読み返すと、お金がみるみる減っていくことに、ぼくは焦りを感じていた。

宿は、最初はバックパッカー向けの安宿で、ドミトリーに宿泊しながら、「空白の未来」に、どのように進んでいくのかを考えていた。

安宿とはいえ宿代もかかり、焦りがつのる。

「早く仕事を見つけなければ…」と。

 

オークランドを一度はなれ、ファーム(農場)での仕事などにも一時トライしたけれど、結局ぼくはオークランドに戻ることに決める。

オークランドに戻り、住むところを探し、仕事を探す。

今ふりかえると、それはひとつの物語のように、「道」がひらかれていったように、ぼくには見える。

新聞で見つけたシェアハウスの一室を借りることができ、オークランド大学の大学生たちなどと住むことになる。

オークランドで仕事を得ることは容易ではないと言われるなか、たまたま、日本食レストランのウェイターの仕事を得る。

また、日夜働きながらぼくは資金を貯め、「空白の未来」に、「ニュージーランド徒歩縦断の旅」という目標を書く。

そうして、冬があけてくる9月の終わりに、ぼくはオークランドを発ち、「前哨戦」として映画『ピアノレッスン』で有名な砂浜のあるところまでの40キロほどを、歩いていったのだ。

 

1年をすごす予定が、ぼくのなかで何かの区切りがつき、結局9ヶ月ほどして、ぼくは日本に帰国することになった。

現地ですごすためのお金は、なんとかなってしまった。

「なんとかなる」という感覚が、こうして、ぼくのなかに醸成されていったのだと、ぼくは思う。

それはお金だけでなく、海外で生活をしてゆくということもそうだし、何かをきりひらいていくこともそうだし、そして何よりも、人との出会いにおいてもである。

 

その後の人生で、「海外に行きたいけれど、迷っている人たち」の相談を受けたりする。

どこで迷っているかにもよるけれど、それがうまく行かないんではないかという「漠然とした怖れ」のようなものであれば、ぼくは迷わずに肩をおす。

人は、道をあゆんでいるときには懸命で気づかなかったりするけれど、後の人生の歩みのなかで、ふと振り返りながら思い起こす。

なんとかなるもんだな、と。

一歩をふみだして、やはりよかったのだ、と。
 

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「風」のように、あるいは「風」として動くこと。- 野口晴哉の思想の通奏低音としての<風>。

整体の創始者と言われる故・野口晴哉。野口晴哉の思想(生き方)には、通奏低音のようなものとして「風」がふきぬけている。...Read On.


整体の創始者と言われる故・野口晴哉。

野口晴哉思想(生き方)には、通奏低音のようなものとして「風」がふきぬけている。

『大絃小絃』(全生社)という著作(エッセイ集)の表紙に、「太古の始めから風は吹いていた…」ではじまる、「風」と題された詩的な手書きの文章が掲げられている。

この文章は、中国の仏教書である『碧巖録』と向き合った著作『碧巌ところどころ』に編集されている、「風」という一群の論考のひとつとしても収められている。

その一群の論考には、近代医術の宗祖であるヒポクラテスのこと、能の芸術論などと共に、「風」と題されるもう一つの文章が最後に置かれている。

 

先づ動くことだ
形無くも 動けば形あるものを動かし 動かされている形あるものを
見て 動いているものを 感ずるに至る
動きを感ずれば共感していよいよ動き 天地にある穴 皆声を発す
竹も戸板も水も 音をたてて動くことを後援する 土も舞い 木も
飛ぶ 家もゆらぐ 電線まで音を出して共感する
ーー天地一つの風に包まる

先づ動くことだ
隣のものを動かすことだ
隣が動かなければ先隣りを動かすことだ
それが動かなければ 次々と 動くものを多くしてゆく
裡に動いてゆくものの消滅しない限り 動きは無限に大きくなって
ゆく これが風だ
誰の裡にも風を起こす力はある
動かないものを見て 動かせないと思ってはいけない 裡に動くも
のあれば 必ず外に現われ 現れたものは 必ず動きを発する
 自分自身 動き出すことが その第一歩だ

野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)

 

「風」ということで表象されることに魅かれるぼくは、野口晴哉のこの文章に触発される。

人は変わることができるか/人は変われるか、組織を変えることはできるか/組織は変われるか、社会を変えることはできるか/社会は変われるか。

ぼくたちは、日々の生活をしながら、仕事をしながら、人との関係の網のなかで生きながら、そのように自問する。

それらの問いは、ぼくのなかでも、国際協力・国際支援の場を通じて、また人事労務という場を通じて、いつもこだましてきた。

 

体を知り尽くした野口晴哉は、「誰の裡にも風を起こす力はある」と、書いている。

それは、意志とか意識などよりも手前のところで、ぼくたちの身体に流れる力、あるいは身体という力と向き合いつづけてきた野口晴哉からわきあがってくる言葉だ。

野口晴哉は、風を超える<風>、つまり<動き>に敏感な、整体の実践者であり思想家であった。

「誰の裡にも…ある」力を起こすために、「先づ動くことだ」と、野口晴哉はくりかえし伝えている。

それも、「自分自身動き出すこと」が第一歩だと、最後にも同じメッセージを異なる言葉で加えている。

ぼくたちの周りの、家族や友人、組織、コミュニティなどに、「風」が吹いていないのであれば、やはり「自分自身動き出すこと」からはじめることである。

風を起こす内的な力を起こし、風を味方につけるのだ。

「動かないものを見て、動かせないと思ってはいけない。裡に動くものあれば必ず外に現われ、現れたものは必ず動きを発する」と、野口晴哉の身体を通じた深い知恵は、ぼくたちに教えてくれている。

風のように動き、風として動くこと。

野口晴哉の言葉が、いつものように、あの存在の力をもって、ぼくに迫ってくる。

「先づ動くことだ」
 

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海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima

遠くはなれて、視点の<点>をふやしていく。- 「世界はこうだ」というプログラムを変えること。

大学時代の旅は、ぼくにとって、ぼくのなかの「世界地図」に、<異なる点>を打っていくようなものであったと、今ではより見晴らしのきく視野から見ていて思う。...Read On.


大学時代の旅は、ぼくにとって、ぼくのなかの「世界地図」に、<異なる点>を打っていくようなものであったと、今ではより見晴らしのきく視野から見ていて思う。

「世界地図」は、実際の「世界」ではなく、ぼくが生まれてから自分のなかに築きあげてきた「世界」だ。

世の中はこうであるとか、社会はこうであるとか、人はこうであるとか、である。

脳は日々シミュレーションをくりかえしながら、「世界」をつくりだしていく。

生きていくうえでは、築きあげていく「世界」は必要だ。

この世界で日々、「安全」に生きていくためのプログラムだから。

でも、ぼくはじぶんで築きあげた「世界」に、生き苦しさを感じてしまっていた。

 

ぼくは「海外への憧れ」という、ひとつの直感をたよりに、大学の1年目から「旅」をくりかえしていくことになる。

1994年の中国上海にはじまり、香港、ベトナム、タイ、ミャンマー、ラオスを旅していく。

1996年には、大学を休学して、ニュージーランドで暮らす。

旅や海外生活はそれ自体が楽しいもの(たいへんだけれど楽しいもの)でありながら、「方法としての旅」でもあった。

 

じぶんの脳がシミュレーションをくりかえして築きあげてきた「世界」に<裂け目>をいれていくための、「方法としての旅」。

それは、「視点」の「点」を、「じぶんの世界」にあらたにプロットしていくプログラミングだ。

例えば、ニュージーランドにいたときに、ぼくは初めて、海外で映画館にいく。

確か映画は『12 Monkeys』で、「映画館で日本語字幕なしの映画を観る」という<点>を打つ。

映画のチケットは、ぼくの記憶では当時ニュージーランドドルで6ドルくらいであったから、とても安かったことに、ぼくは驚いたものだ。

日本では「1800円」が「あたりまえ」だと思っていたから、そうではない<点>をぼくはプロットすることになる。

これまでただの<点>であったものが、もうひとつの<点>ができる。

そうして、点と点をつなぐ線分ができる。

そのようにして、視点の<点>をふやしながら、そしてそれは増殖していく。

 

このことは、別に日本でもできるし、本やテレビなどで見てもできるといえばできるのだけれど、「体験」によって打たれる<点>、とくに今いる環境や文化から遠く離れた「体験」によって打たれる<点>は鮮烈だ。

その<点>は、これまでに穿たれていた<点>よりもはるか遠くに、打たれる。

ベトナムを旅しながら、屋台で食事をとり、ビールを注文する。

缶のビールは冷えていなくて、でも氷の入ったグラスと共に出される。

氷は衛生上危ないこともあるので気をつけるべきものだけれど、当時は氷を安全性を身振り手振りで店員さんに確かめながら、ぼくは氷で冷たくなるビールを試した記憶がある。

ぼくの「世界」に、新たな<点>が打たれる。

 

そのようにして増殖していく<点>は、線分になり、さらに<面>になり、さらには<立体>になる。

視野がひろがり、パースペクティブが変わっていく。

そのようにして、ぼくのなかの「世界」はひろがり、ひろがるだけでなく、「ありうる世界」という柔軟性を獲得していく。

これまで「世界はこうだ」と思っていたところに、裂け目ができる。

ある面で凝固していたシミュレーションがふたたび作動していく。

「方法としての旅」ということを考えるときに、ぼくは、この<点>の大切さを、今では思う。

「世界」はぼくたちが思っているほど、狭くはない。

ひろがる<世界>を、ぼくたちの狭い「世界」に閉じ込めないこと。

今日も、だから、<点>をひとつひとつ打つ。
 

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東ティモール Jun Nakajima 東ティモール Jun Nakajima

生きることの「軸」を支えるもののひとつとして。- 遅ればせながら、東ティモールの「サンタクルス記念日」を思って。

遅ればせながら、東ティモールの「サンタクルス記念日」のことに、ぼくは思いを馳せている。毎年の「11月12日」が、その日にあたる。...Read On.


遅ればせながら、東ティモールの「サンタクルス記念日」のことに、ぼくは思いを馳せている。

毎年の「11月12日」が、その日にあたる。

1991年の11月12日、インドネシア占領下の東ティモールのディリで「サンタクルス事件(サンタクルスの虐殺)」が起きた。

独立派の若者がインドネシアの武装集団に殺害され、そのためのサンタクルス墓地での儀礼の際、集まっていた人たちが独立を求めるデモをしたことから、インドネシア軍が発砲。

多くの人たちが亡くなった。

この事件が国際世論の転機ともなり、後の東ティモールの独立につながっていく。

「11月12日」は、今では「サンタクルス記念日」として、東ティモールの祝日となっている。

 

東ティモールに住んでいたときは、サンタクルスの墓地の近くをよく通ったし、日本から来た人たちをよく案内した。

ポルトガル式の墓地はとてもきれいに維持されていて、ぼくはときおり、事件のきっかけとなった若者の墓の前で立ち止まっては、心のなかでお祈りをした。

サンタクルス記念日にサンタクルス墓地に行くことはなかったと記憶しているけれど、11月12日には、歴史のページをひらき、ぼくはしずかに、東ティモールの人たちのことを思ったものだ。

たいへんな仕事があっても、その思いを糧のひとつとして、ぼくは東ティモールでの支援活動にうちこむことができた。

2007年に東ティモールを離れて香港に移ってからも、サンタクルスのことはなぜかぼくのなかに残り、11月12日にぼくはしずかに、東ティモールの人たちに想いを馳せてきた。

東ティモールの独立への厳しい道のりの象徴として、この事件が取り上げられ、その映像に心をひきさかれてきたことも、ぼくのなかに残っていることの理由のひとつである。

ただ、それ以上に、サンタクルスのあの場にいて虐殺を逃れ生き残った人から直接に、サンタクルス事件の話を聞いたときのことが、ぼくの心身の深いところに残っている。

あの話を聞いたときに、ぼくのなかに、なにかが形づくられたように、ぼくは思う。

ひとことでは言い表せないような思いと感情が、ぼくの心身に伝わり、すとーんと心身の深いところにおちてゆき、深く刻まれることになった。

 

それは、今でも、ぼくの生きることの「軸」を、確かに支えてくれているもののひとつであるように、ぼくは思う。

生きるということの方向性、人として大切なこと、人との関係ということ、いろいろな問題や課題の解決など、そのような諸々への姿勢・スタンスにおいて、ひとつの<支え>となっている。

心身の深いところに、そのような<支え>のいくつもが存在していて、ぼくを支えてくれている。

「すぐに何かを」というような即効性のあるものではないけれど、ぼくの存在における深い流れをつくっている。

少し遅れたけれど、今年も、「サンタクルス記念日」のことを思いながら、そんなことを感じている。
 

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秋から冬にかけての「真夏の果実」。- ニュージーランドで聴くサザンオールスターズの記憶。

レストランのスピーカーから、サザンオールスターズの曲のイントロが、ぼくの耳にはいってくる。静かなイントロだ。だれしもが知っている曲だけれど、ぼくは「曲名」を知らない。...Read On.


レストランのスピーカーから、サザンオールスターズの曲のイントロが、ぼくの耳にはいってくる。

静かなイントロだ。

だれしもが知っている曲だけれど、ぼくは「曲名」を知らない。

日本食のレストランでウェイターの仕事をしながら、スピーカーから流れる「日本の歌」に、ときおり懐かしさのようなものを感じる。

 

1996年、ぼくは大学を休学して、ニュージーランドに渡った。

ワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドに渡り、ぼくは、商業都市であるオークランドの日本食レストランで、運良くウェイターの仕事を得ることになった。

オークランドの中心街、海の近くにある日本食レストラン。

オーナーは韓国人、シェフは台湾人と中国人、ウェイター・ウェイトレスが日本人という、不思議な構成だ。

ぼくはニュージーランドに渡る前は、東京のカフェレストランで働いていたから、ウェイターという仕事そのものにおいては問題なかった。

やりとりは英語だから、ときおり日本食の説明にとまどったけれど、ぼくはとにかくよく働いた。

ワーキングホリデーの「ホリデー」はどこへやら、「ワーキング」が生活の主要な活動になっていった。

 

その日本食レストランで、バックミュージックに使われていたのが、日本のポップミュージックであった。

当時は、今では見かけない、カセットテープにふきこまれていた。

1980年代の「少し古い」音楽が流れる。

普段なら聞き流してしまうような曲たちも、異国の土地では、とてもいとおしい音色をひびかせる。

そんななかで、サザンオールスターズの曲の響きはとりわけ、ぼくの心を捉えていた。

静かなイントロに続き、「♫ 涙があふれる 悲しい季節は…」と、桑田佳祐の歌声が店内にひびいてゆく。

後に、ぼくは曲名が「真夏の果実」であることを知る。

南半球に位置するニュージーランドは、日本と逆で、ちょうど秋から冬にかけて季節が移り変わるときであった。

 

「真夏の果実」は、なぜか、ぼくのなかで「海外の風景」との親和性がたかい曲である。

東ティモールに住んでいたときも、それからここ香港でも、ぼくは「真夏の果実」のメロディーと歌声が、風景にしぜんと重なりあうのを感じてきた。

気がつけば、ここ香港も、ようやく秋が深まりつつあるところで、「真夏の果実」は夏が終わったところで(も)、ぼくの心にふれてくる。

これらそれぞれの空間に、無理やりに「共通点」を見つければ、<海>がいつも、ぼくの目の前にひろがっていた。

オークランドの海と港、東ティモールのディリと共にある海と港、それから香港をかたちづくり彩る海と港。

そこにはいつも<海>の風景があり、すこやかな風が吹いていた。
 

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港で、「吉野家」をつうじて<香港>をかんがえる。- ビジネス、メニュー、それから「紅ショウガと生卵」のゆくえ。

ここ香港では、「吉野家」はすでに庶民の食文化に根ざしている。香港のどこにもあり、それから、どこに行っても人であふれている。...Read On.


ここ香港では、「吉野家」はすでに庶民の食文化に根ざしている。

香港のどこにもあり、それから、どこに行っても人であふれている。

香港に吉野家が登場したのは1991年というから、すでに25年の月日が流れている。

なお、北京に吉野家ができたのは1992年で、ぼくは1994年に、北京への旅のなかで吉野家に訪れたことを覚えている。

10年ほど前にぼくが香港に移り住んだときにも吉野家は健在であったけれど、それ以降も、吉野家は試行錯誤のなか、香港でビジネスを展開し、食を提供している。

 

「うまい、やすい、はやい」という吉野家文化は、香港では、日本ではなかなか想像のつきにくい仕方で運営されている。

あくまでも「基礎編」的な内容ではあるけれど、そこに見える<香港的なるもの>を捉えることを目的として、書いておきたいと思う。

 

(1)ビジネスについて

ビジネスについては、その運営のされ方に、日本とは異なる特徴がある。

第一に、一日が「4区分」されている。

・ モーニング
・ ランチ
・ ティー
・ ディナー

それぞれでメニュー(あるいはセット)が若干かわり、何よりも「値段」がおどろくほどに変わる。

香港の大衆食堂的な店舗では、この形式は「普通」のことであるけれど、吉野家もその形式に順応している。

値段が安くなるティータイムなどの設定により、一日中、人が絶えないことになる。

この「人を絶えさせない」ビジネスに、香港の特徴がある。

 

第二に、上述のように、「値段」の設定である。

ティータイムの値段設定に見られるように、柔軟に展開される。

ティータイムだけでなく、他の庶民食堂のように「学生料金」も設定されている。

もちろん、より「やすい」値段での提供であり、学生への「応援歌」だ。

背景には、香港の多様性と階層的な社会構造があるのではないかと、ぼくは見ている。

 

第三に、店内の構造は、日本のような「カウンター形式」ではなく、他のファーストフード店のような仕組みである。

まずはレジでオーダーしてお金を払う。

そのやりとりの最中に、マイクを通じて、オーダーが伝えられる(オーダーはもちろん印字される紙でも伝わるけれど、それでは例えばスピードが落ちてしまうのだろう)。

引換券を手に待つことになるが、そこからは、「香港 x 吉野家」の「はやい文化」の掛け算で、即座に用意されることになる。

 

(2)メニューについて

第一に、メニューの多様性・柔軟性は圧倒的で、試行錯誤がつづき、さまざまなメニューにあふれる。

うどんがあったり、うどんやインスタント麺(出前一丁)の上に牛肉がのるメニューもある。

牛丼だけでなく、鶏肉や豚肉の丼ぶりがあり、からあげもある。

日本の吉野家のように、カレーもあれば、うなぎもある。

オーソドックスだけでなく、香港ならではで、チーズやトマトが牛丼にトッピングとしてのるものもある。

「飲み物」の選択は、日本茶、味噌汁、コーラ、コーヒー、ミルクティーなどと続く。

 

第二に、メニューの多様性・柔軟性は、上述の「4区分」の時間帯で、異なってくる。

モーニングセットには、西洋風のメニュー(スクランブルエッグやパンなど)も加わる。

特徴的なのはディナーの時間帯で、一人前用の「ホットポット(鍋)」で、吉野家の店内が鍋屋のようになる。

香港の庶民食堂文化が、融合される。

「文化の受容性」は香港のひとつの特徴だけれど、吉野家は<香港なるもの>を、ビジネスやメニューにどんどんと受容している。

 

(3)「紅ショウガと生卵」のゆくえ

やはり、気になるのは、「紅ショウガと生卵」のゆくえである。

牛丼には欠かせない食材だ。

香港的な環境のなかで、これら二つは次のような変化をとげる。

● 紅ショウガ → ガリ(小分けされた「しょうがの甘酢漬け」)

● 生卵 → 温泉卵

紅ショウガが香港の日本食で提供されていないわけではない(豚骨ラーメン店にはある)が、吉野家は薄黄色のガリを小分けで提供している。

ただし、席におかれているのではなく、「しょうがをください」と受け取りカウンターで頼まないといけない。

初めて香港の吉野家に来た人たちは、しょうががあることなんて、まったくわからない。

だから、ぼくはいつも、頼むことになるのだ。

時と場によっては、受け取りカウンターにおかれていたこともあったけれど、今ではぼくの知る限り、しょうがは、キッチンの見えないところに配備されている。

 

それから、問題は「生卵」だ。

生卵を食べることができる地域は、日本を含め、世界でも限られている。

そこで「編み出された方法」が、「温泉卵」であった。

半熟の温泉卵だから、卵のとろみがあり、生卵の代わりとなる。

香港に来た10年前には、その温泉卵でさえなく、また温泉卵が出た当初はそれほど食されていなかったようだ。

牛丼と温泉卵の組み合わせに、とまどう人たちも多かったのではないかと思う。

今では、香港の人たちもオーダーしている風景を目にする。

 

このように、香港の吉野家は、日本の吉野家からは想像のつきにくい仕方で店舗が運営され、食が提供されている。

<香港的なるもの>が吉野家のさまざまなところに浸透しているのだけれど、「うまい、やすい、はやい」という吉野家文化の中心は維持されている。

なにはともあれ、香港に住む人たちの食堂のような存在となっている。

 

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「丘」に現れる喪失と再起の<境界>。- 村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』

「丘」をうたう歌謡曲を通じて、人と社会を考察した村瀬学の著作『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』(春秋社、2002年)は、心踊る作品だ。...Read On.


「丘」をうたう歌謡曲を通じて、人と社会を考察した村瀬学の著作『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』(春秋社、2002年)は、心踊る作品だ。

歌謡曲の中で登場する「丘」にひかれ、「丘」をたよりに、村瀬は歌謡曲通史を試みた仕事である。

その中心的コンセプトとして、村瀬学は「丘」に、喪失と再起の象徴を見ている。

 

 なぜ万葉集の一番最初の歌に「おか」がうたわれているのか。
「丘は丘陵・丘墓にも用いる字。[説文]に「土の高きものなり。人の為る所に非ざるなり」とし、象形とする。墳丘の意にも用いる。」(白川静『字訓』)
 と説明されているように、古代から「丘」と「墓」は同じように意識されてきた側面がある。古墳も「丘」である。そういう意味では、「丘」とは、死者を葬る場所であり、同時にそこで死者を思い出す場所にもなっていた。つまり「丘」とは、失いと思い出しの場所、つまり失いと蘇りを象徴する場所、もう少しいえば、「喪失」と「再起」を象徴するものとしてあった…。

村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』春秋社

 

しかし、それは物理的な「丘」だけに限らない<丘>である。

村瀬学は、次のように書いている。

 

…私は、ここで喪失と再起を象徴するもの全体を「丘」と呼ぶことにした。そう考えることで、なぜ歌謡曲で「丘」がたくさん歌われてきたのか。また「丘」が歌われなくなってから、その「丘」はどういうイメージに変形され、歌い継がれていったのか、そこのところをたどってみることができるのではないかと考えた。…
 丘とは、あくまで「境目」であり「境界」であり、そこには二つの領域の出会いがある。そこはAが終わる場所(喪失)であり、Bが始まる場所(再起)である。その接点を人は歌の中で「丘」と呼んできたのである。ここにはだから「複数の声」がする。Aであろうとする声と、Bであろうとする声だ。その「複数の声」を聞くということが、歌を聴くということの楽しみでもある。

村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』春秋社

 

ここで述べられているように、喪失と再起を象徴するもの全体を、村瀬学は「丘」と呼んでいる。

村瀬学は、この<丘>という喪失と再起の象徴を導きの糸に、日本の戦後歌謡と社会をよみといていくスリリングな旅に出るのだ。

目次にならい、各年代のイメージとしては、次のようなものとして村瀬はよみとく。

●1950年代:「丘」から「峠」へ 
●1960年代:「丘」から「夕陽」へ
●1970年代:「独りよがり」の時代へ
●1980年代:「ワル」のふりをして
●1990年代:「激励」と「感謝」と

それぞれに取り上げられる歌は、美空ひばりや石原慎太郎、坂本九、サザンオールスターズ、モーニング娘。などなど、多岐にわたる。

直接に「丘」という言葉が歌に使われてきたのは六十年代までと村瀬は分析を加えているが、その1961年にヒットした坂本九の名曲『上を向いて歩こう』は、ひとつの時代を画するものとして、捉えられている。


 上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 思い出す春の日 一人ぼっちの夜
 上を向いて歩こう にじんだ星を数えて 思い出す夏の日 一人ぼっちの夜 
 幸せは雲の上に 幸せは空の上に
 上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜
 (『上を向いて歩こう』永六輔詞・中村八大曲、昭和36、1961)

 

この曲が外国でも『スキヤキソング』としてヒットしたことはよく知られているところだけれど、そのひとつの要因として、この歌が日本的な情感や情念より、脱日本語的な「リズム」に共感をうけたことを、村瀬は指摘している。

そして『上を向いて歩こう』という曲も、<境界>に位置した曲であることを、村瀬は次のように書いていて興味深い。

 

 おそらくさまざまな意味において(というのは、リズムや歌い方や歌詞から見ても、ということなのだが)、この歌が「境界」の上でうたわれていることが見えてくる。特に歌詞から見れば、この歌が「失われた過去」と「幸せな未来」の境界に立っていることは一目瞭然である。「境界」だから、「前」も「後」も、まだ保留にされる。だから、ここに立てば、人は「上」を見ることができるのだ。そこにこの歌の持つ「丘」としての位置がある。人はこの「う・え・を・む・う・い・て、あーるこうおうおうおう」と口ずさむ時、「失われた過去」や「まだやってこない未来」をとりあえずカッコに入れて、涙がこぼれないように上を向くことで、元気付けられたのである。…

村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』春秋社

 

そこからひとたび視点を日本の社会に転じると、「上」は「高度成長」としての「上」とも重なり、高度な消費社会は人々のつながりを解体し、「一人ぼっち」にしはじめていたことにも触れられている。

この「一人ぼっち」(個人主義)につらなるものとして、「上を見る=星を見る=希望(夢)を見る=アメリカン・ドリームを見る」(村瀬学)といった生活の形式と内実があるのだ。

時代が歌に反映し、歌が時代をつくりだしてゆくような、そのようなものとして、歌謡曲と社会が捉えられている。

ぼくのことで言えば、「ニュージーランド徒歩縦断」の旅に旅立つときに、ニュージーランドの北島の果てでたまたま出会った日本人の方が、『上を向いて歩こう』をオカリナで吹いてくれたことを思い出す。

互いに「一人ぼっち」の旅であった。

ニュージーランドの北端のポイント、レインガ岬の近くでのことであった。

なだらかな「丘」が先までつづく道のりを歩くぼくの背中に向けて、『上を向いて歩こう』の曲がオカリナの音色にのって響いてくる。

その音色に確かに励まされながら、あの「丘」で、ぼくはどのような喪失と再起の<境界>を越えようとしていたのかを、20年以上が経過した今でも、ぼくはときどき考えてしまう。

 

 若い頃には、何でもないような歌に心ときめく歌謡体験をし、さらに何でもないようなささやかな一行の歌詞になぐさめられ、勇気づけられることがしょっちゅうあるものだ。それが、日々の「丘の体験」である。そういう体験が直接に「丘」という言葉を使って歌にされたのが六十年代までであって、その後は、言葉としては直接使われなくなる。それでも歌謡曲が存在する限り、すぐれた歌の体験は、大なり小なり「丘の体験」としてあるのだ…。

村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』春秋社

 

歌は、ぼくたちの日々の「丘の体験」の時空を、ぼくたちの中につくりだしてくれる。

それにしても、今の時代の「歌たち」は、どのような「丘の体験」なのだろうか、あるいは「丘の体験」などなくしてしまったのだろうか。

 

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身体性, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima 身体性, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima

音楽を演奏するように、語り、仕事をし、文章を書き、生きる。- <音楽の地層>による祝福。

ぼくは、まるで音楽を演奏するように、あるいは音になったようにして、人と語り、仕事をし、文章を書くという感覚を、生きることの「地層」としている。...Read On.


ぼくは、まるで音楽を演奏するように、あるいは音になったようにして、人と語り、仕事をし、文章を書くという感覚を、生きることの「地層」としている。

音楽と共に生きる、ということよりも、より深い地層である。

ぼくは「音楽のまち」(今は「音楽の都」へ)といわれる浜松市に生まれ育った。

ヤマハやカワイ、ローランドといった楽器メーカーが立地するという「環境」においてピアノを習い、また「時代」の流れのなかで早い時期からバンド活動でギターを演奏し、ドラムを叩き、歌を唄ってきた。

さらには、浜松祭りという大きな祭りでは、ラッパの音色に合わせて練り歩くなかで、ぼくはラッパを吹いた。

生きることのすみずみにまで「音楽」がしみこんでいた。

音楽を演奏するように、あるいは音楽のように、生きていくような感覚とリズムを、ぼくはいつのまにか獲得していたように、今では思う。

 

よく知られているように、小説家の村上春樹が、小説を書くときに「リズム」をもっとも大切にしている。

デヴュー作となった『風の歌を聴け』の創作について、村上は次のように書いている。

 

 小説を書いているとき、「文章を書いている」というよりはむしろ「音楽を演奏している」というのに近い感覚がありました。ぼくはその感覚を今でも大事に保っています。それは要するに、頭で文章を書くよりはむしろ体感で文章を書くということなのかもしれません。リズムを確保し、素敵な和音を見つけ、即興演奏の力を信じること。

村上春樹『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング

 

村上春樹が、このように語るとき、ぼくは頭ではなく「体感」でわかる。

「文章を書く」ときに限らず、人と語るときのリズム感や素敵な和音的感覚から、仕事にいたるまで、音楽を演奏しているような感覚が、ぼくの深いところで感じられる。

うまく演奏できることもあれば、演奏がしっくりこないときもある。

あるいは、うまい演奏ではなくても、深い響きに充ちた演奏になることもある。

そのようにして、ぼくは生きる。

 

社会学者の大澤真幸は、「音楽」というものは「笑い」の延長線上にでてきたものではないかと考えている(『<わたし>と<みんな>の社会学』左右社)。

音楽と笑いをつなげる太い線は、「共感のメカニズム」である。

つまり、人と人とが一緒に生きていくことの関係づくりであり、その一つの方法として音楽があったのではないかという。

ネアンデルタール人は、言葉は原始的であったとしても、音楽はかなり発達していたと考えられていることを、大澤真幸は語っている。

音楽というのは、その意味において、言葉よりも本源的なものである。

ぼくたちの、より深い地層を形成している。

その深い地層から祝福されるように、ぼくたちの語ること、書くこと、描くこと、創ること、つまり生きることは存在している。

だから、今日も、音楽を演奏するように、生きる。

 

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「潤一(コペル君)」(『漫画 君たちはどう生きるか』)が、この世界に溶けていってしまいそうな気がするとき。

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)。…物語の中で、潤一(コペル君)が、おじさんが近所に引越してきたばかりのころ、おじさんと銀座のデパートに行く場面がある。...Read On.


『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)。

1900年代前半(原作の出版は1937年)の日本の東京を舞台に、主人公である本田潤一(コペル君)と叔父さん(おじさん)が、人生のテーマ(世界、人間、いじめ、貧困など)に真摯に向き合いながら、物語が展開していく作品だ。

 

物語の中で、潤一(コペル君)が、おじさんが近所に引越してきたばかりのころ、おじさんと銀座のデパートに行く場面がある。

化学に興味をもったばかりの潤一は「分子」という不思議さを通して、デパートの屋上から人通りを見る。

潤一は、そのデパートの屋上で、次のような「気の遠くなってしまいそうなへんな気持ち」を感じることになる。

 

デパートの屋上で僕は……
自分がこの世界に溶けていってしまいそうな気がして
ほんとはちょっぴり恐かった。

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)マガジンハウス

 

「分子」の不思議さを通して、目に見えているものはなんだって、どんどん拡大して見ていくと、いずれ「分子」にたどりつくという学びが、潤一の想像力をかきたてたのだと、文脈からはひとまず読める。

しかし、その感覚は、ぼくたちがときに、感じる感覚でもある。

大人になって忙しくしていると、なかなかそのようなことを思う瞬間は訪れないかもしれないけれど、子どもたちは「この世界の不思議さ」に幾度も、<じぶんというもの>の解体の契機に出会うものだと思う。

潤一のこの気持ちと感覚にみちびかれてゆくように、ぼくはこの作品世界の中にひきこまれていったように感じる。

 

この気持ちと感覚は、ぼくに「宮沢賢治」のことを思い出させた。

『君たちはどう生きるか』の原作者である吉野源三郎が児童文学者であったように、宮沢賢治も童話作家でった。

潤一が化学・科学の世界に魅かれたように、宮沢賢治も、例えば、アインシュタインの相対性理論を学んでいたという。

その宮沢賢治が永眠についたのが1933年であったから、それからまもなくして、『君たちはどう生きるか』の原作が出版されている。

 

宮沢賢治は、<じぶんというもの(現象)>に、きわめて敏感な人であったことを、社会学者の見田宗介は著作(『宮沢賢治』岩波書店)の中で書いている。

宮沢賢治の研究者である天沢退二郎が、賢治の作品『小岩井農場』の分析の中で、賢治がもつ<雨のオブセッション(強迫観念)>を指摘ていることにふれながら、見田宗介は、<雨>のもつ両義性(「…くらくおそろしく、まことをたのしくあかるいのだ」)に、<自我>の両義性をみている。

<自我>がぼくたちを「守る」ためにくりだす「恐い気持ち・感覚」がある一方で、<自我>から解き放たれるときに感じる「たのしくあかるい」感覚があることを、ぼくたちは知っている。

潤一(コペル君)は、この<自我>の両義性を、あの銀座のデパートの屋上で経験することになる。

このような自我の本質にふれる機会をも、『君たちはどう生きるか』という作品は、ぼくたちに与えてくれている。

「生きる」ということにおける、さまざまな本質がいっぱいにちりばめられているのが、この作品だ。

この作品に限らず、児童文学の名作たちは、大人になったぼくに、ほんとうに多くのことを教えてくれる。

そして、「自分がこの世界に溶けていってしまいそうな経験たち」の記憶が、かすかに、ぼくの中でよみがえってくる気配を、ぼくは感じることになるのだ。
 

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『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)。- 生き方の指南ではなく、「どう生きるか」の問い。

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一、マガジンハウス刊)は、1937年に発刊された名作を、漫画化した作品。...Read On.


『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一、マガジンハウス刊)は、1937年に発刊された名作を、漫画化した作品。

発売から2ヶ月強で、50万部ほどの売れ行きを見せているという。

主人公である本田潤一(コペル君)と叔父さんが、人生のテーマ(世界、人間、いじめ、貧困など)に真摯に向き合いながら、物語が展開していく作品だ。

ぼくは原作を読んだことがなく、この漫画をひもとくことで、この作品世界に初めて入っていくことになった。

漫画化された作品は、マンガと共に、手紙という形式の「文章」とのコラボレーションにより、立体的な作品世界をつくりだしている。


吉野源三郎が、タイトルを「君たちはどう生きるか」と質問型にしたことに、この作品における思想のひとつが顕現している。

近所に引越してきたおじさんに、コペル君は、学校で起きた出来事について相談をする場面がある。

おじさんは、次のように、コペル君に応答する。

 

つまり、そんなときどうすればいいのか……
おじさんに聞きたいってことかい?
そりゃあ、コペル君
決まってるじゃないか
自分で考えるんだ。

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)マガジンハウス

 

生きる道ゆきで出会う本質的な出来事は、「答え」のない、出来事だ。

ただし、そこに「自分なりの答え」を見つけてゆくことに、おじさんはコペル君を導いてゆく。

そして、導きながら(一緒に考え、よりそいながら)、おじさんも人生の道をきりひらいていく。

コペル君とおじさんという<関係性>を見ながら、世代的に<横のつながり>で占められる現代の若者たちの姿が、ぼくの脳裏に浮かぶ。

コペル君が化学の「分子」を考えながら気づくように、世界は「つながっている」のだけれど、グローバル化する世界での現代的な関係性は逆に「狭い関係性」へと人を押しこめてしまうようなところがある。

 

名著たるゆえんが、言葉ひとつひとつ、あるいは物語の中に、いっぱいにひそんでいる。

潤一(コペル君)の亡き父が残した言葉は、ぼくの中でこだまする。

 

私は……
潤一に
立派になってほしいと思っています……
人間として立派なものに……

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)マガジンハウス

 

現代であれば、「幸せになってほしい」と、願うのかもしれない。

幸せではなく、「人間として立派なもの」にという願いは、「幸せ」だけに狭まれない、より大きな空間であるように、ぼくには見える。

このように、物語を構成するひとつひとつの出来事に、多くの物語が詰まっている。

 

言葉の「使われ方」の前でも、ぼくは立ち止まる。

一昔前の作品だからか、言い回しは少し現代とは異なるところがある。

おじさんはコペル君宛の文章で、次のような箇所がある。

 

…それを味わうだけの、心の目、心の耳が開けなくてはならないんだ。

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)マガジンハウス

 

「心の目、心の耳を開ける」ではなく、<心の目、心の耳が開ける>である。

ただ時代の言葉の違いかもしれないけれど、ぼくにとっては、この「を」と「が」の違いはとても大きいものだと感じられる。

名著は、いろいろな「読み方」ができる。

 

ベストセラーは、その作品の力であるとともに、ひとつの社会現象である。

今回は相当にこだわってきた企画が背後にあるようだが、社会現象ということにおいては、作品が読者を獲得するのではなく、読者たちが作品をつかみとるものだ。

硬質なタイトルである「君たちはどう生きるか」という言葉による問いが、読者たちの何に響いたのだろうかと、ぼくは考えてやまない。

この本は、無限にひろがってゆく<問い>を、ぼくたちの中に蒔く。

漫画と文章の素敵なコラボレーションの中でも、<吉野源三郎>が投げかける言葉と問いが、通奏低音のごとく作品にひびいている。

 君たちは、どう生きるのか、と。 

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野口晴哉から見田宗介へ。- 体癖論の「思想」への適用。自由と自立を求める身体の身体価。

整体の創始者である野口晴哉による「体癖論」(体の「偏り運動」の探求と実践)は、「人間の解放」ということを生涯のテーマとして追いつづけている見田宗介(社会学者)の関心を深いところでとらえ、「身体」という拠点から「人と社会を解き放つ」という、見田宗介の視力と方法を豊饒化してきた。...Read On.


整体の創始者である野口晴哉による「体癖論」(体の「偏り運動」の探求と実践)は、「人間の解放」ということを生涯のテーマとして追いつづけている見田宗介(社会学者)の関心を深いところでとらえ、「身体」という拠点から「人と社会を解き放つ」という、見田宗介の視力と方法を豊饒化してきた。

<身体的な現実性に根をはること>は、思想という、ともすれば「観念の操作の罠」(見田宗介)にはまってしまうことを回避する手段のひとつである。

見田宗介は、体癖論の「思想」への適用事例を書きながら、「思想の身体価」という論考を書いている。

この論考が、雑誌『思想』(岩波書店)で発表されたのは、もともと1989年である。

思想の言葉や観念がインフレをおこし、「操作の罠」におちいっていたときに、「思想」のリーディング雑誌のひとつであった『思想』誌に発表している。

 

「観念の操作の罠」ということは、ふつうに生活をしていた人たちと、決して無縁ではなかったのではないかと、ぼくは今では思う。

言葉や観念が、それらだけで語られ、身体的な現実性からまったくはなれていってしまうような世界である。

ぼくが1990年代において<言葉の身体性>をもとめて、例えばアジアを旅したりしていたことは、まったくの偶然ということではなかったのではないかと、ぼくは思うのだ。

そんなぼくも、2000年代初頭、修士論文を準備しながら、「自由」という言葉と観念の迷路にまよいこんでしまった。

途上国の経済発展や成長、貧困、南北問題、人的資本などを対象としながら「自由」を主題に修士論文を書くなかで、これら現実の圧倒的な問題が、ともすると、抽象的な観念の世界にはいりこみすぎてしまうところであった。

最終的に「論理」としては一貫した論文になったのだけれど、現実問題に即しきれない内容であった。

「自由」ということをさらにつきつけられたのは、ぼくがこの身体で、西アフリカのシエラレオネと東ティモールで、言葉につくせない現実に生きてゆくなかであったのだと、ぼくは思う。

 

この「自由」という言葉と、もうひとつ「自立」という言葉を事例に挙げながら、見田宗介は「思想の身体価」という文章を書いている。

見田宗介が出会った、ある集団で「スナドリネコさん」と「ぼのぼの」とよばれるようになった二つの身体類型(ここではそれぞれ、SとBと名づけられる)を事例にしている。

 

 Sは、野口晴哉の整体の体癖論では「9種1種」、つまり骨盤がしまっていて性欲旺盛でいつまでも若く、空想と観念の自己増殖力に富む身体であり、Bはほぼこれと対照的に、「10種3種」とよばれるのだが、骨盤が開いていて包容力があり、身体がやわらかく感情が豊富で食べることが好き(引出しの中はちらかっている)という身体である。この両者はたがいに魅かれ合うらしくカップルも多い。…SはBの先天的な「自由さ」に魅かれ、BはSの「自立性」に魅かれるのである。Bは容易に人に共感し、まきこまれて自己を失ってしまうので、「自立」や「自我の確率」や「主体性」という観念に憧れている。ところがSにとっては、「自立」とか「自我」とか「主体性」とかははじめから強すぎてあきあきしていて、Bのように自由に自在に世界にまきこまれ、自分を失ってしまう能力に魅かれてしまう。

見田宗介「思想の身体価」『定本 見田宗介著作集X:春風万里』岩波書店

 

見田宗介は、SとBという身体の二類型において、「自立」と「自由」ということを見ながら、自立と自由の対位を述べたあとに、次のように書いている。

 

 自由のないところに自立はないし自立のないところに自由などない。こういう命題は正しいのだが、このように抽象的に正しい結論を手に入れるみちで、最初の問題の身体的な現実性が、手放されている。漂白されている。観念の操作の罠だ。結論は到達点でなく、結論は出発点だ(結論からあとがたいへんなのだ)。…
 自由を求める身体と自立を求める身体は異質のものだ。自由と自立が、抽象的な観念として同義語に帰結するかもしれないとしても、二つの概念は、いわばその身体価を異にしている。…<自由>の身体価は遠心的であり、<自立>の身体価は求心的である。…

見田宗介「思想の身体価」『定本 見田宗介著作集X:春風万里』岩波書店

 

ぼくは「身体性」ということをひとつの手がかりに生きてきたことを、ふりかえりながら、「思想の身体価」のことを考える。

時代の言葉だけにかぎらず、ぼくたちは、ぼくたち個人が魅きつけられてやまない「言葉や観念」をもっていたりする。

それぞれの個人がおかれている環境や状況の影響をうけていることもあるとは思うのだけれど、そのもっと手前のところで、ぼくたちの身体という現実性がある。

世界は「データ」の時代に突入している。

良い悪いという一面性の話ではないが、それは、ある意味において、身体性から離れた「記号」の世界だ。

ぼくたちはこれからの時代、身体的な現実性をいっそう手放していくのか、あるいは身体的な現実性にねざしていくのか、それとも別の次元につきぬけていくのか。

ぼくの身体は、(おそらく見田宗介の身体もそうであるように)<自由>ということにあこがれながら、「人間の解放」という生涯のテーマを追い求めつづけている。
 

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人間の「余剰エネルギー」のゆくえ、にかんする野口晴哉の考察。- これからますます大切になる視点。

野口晴哉の著作『体癖』(ちくま文庫)を読みながら、その中に収められている「体の自然とはなにか」という考察に、ぼくは目をとめる。...Read On.


野口晴哉の著作『体癖』(ちくま文庫)を読みながら、その中に収められている「体の自然とはなにか」という考察に、ぼくは目をとめる。

野口晴哉が書くように、人間が自然の動物であったということを痛感せざるを得なくなったのは、人間による生活技術が進歩して、生活のすみずみにまで浸透していることでもある。

人間だけが、環境に適応するだけでなく、環境を人間に適応させていく。

ぼくが窓の外に見るような船も自動車も、それからここ香港にひろがるエアコンの環境も、人間が生活技術を発達させてきたことによるものだ。

 

野口晴哉は、そのような近代・現代社会を生きながら、次のように問いを立てる。

 

…人間の生活エネルギーは、他動物に比べて著しく余剰を来たしたとて不思議ではない。
 その余剰エネルギーはどこにいくのだろう。他動物なら肉体の発達とか、体力の充実とかになるであろうが、すでに肉体労力を不要としている人間にあっては、肉体の発達の必要もない。

野口晴哉『体癖』ちくま文庫

 

「余剰エネルギー」はどこに行ってしまうのかと、野口晴哉は問いを立て、その問いへの考察をシンプルに論理をくみながらすすめる。

 

 動物の動くのは要求の現象である。人間においても同じであって、そのエネルギーは欲求となり欲求実現の行動に人間をかりたてる。…人間は後から後から生じる欲求を、実現せんものとあくせくし続ける。…しかし欲求実現のために他動物はその体を動かすのだが、人間生活の特徴はその大脳的行動にある。坐り込んで機械器具を使って、頭だけをせっせと使うのだから余剰運動エネルギーは、方向変えして感情となって鬱散するのは当然である。

野口晴哉『体癖』ちくま文庫

 

ぼくたちの「余剰運動エネルギー」は、ぼくたちの「大脳的行動」を回路とし、「方向変えして感情となって鬱散する」のだと、野口晴哉は当然のこととして語る。

 

…八十の老婆も火の如く罵り、髭の生えた紳士も侮辱されたと憤る。四十秒の赤信号が待ちきれないで運転手は黄色になるや否や飛び出す。足もとも見ないで遮二無二苛だっている姿は理性のもたらすものとはいえない。余剰エネルギーの圧縮、噴出といえよう。人間に安閑とした時のないのも、また止むを得ない。しかしこれとてエネルギー平衡のための自然のはたらきであって、他の動物はこれによって生の調和を得ているのである。人間はその余剰によって生活に混乱を来たしているのであるが、しかしこれもまた自然の良能である。人間もまた自然のはたらきによって生きているのである。

野口晴哉『体癖』ちくま文庫

 

「余剰によって生活に混乱を来たしている」状況は、だれしもが、経験していることである。

野口晴哉は、これも自然のはたらきであると、人間の地層のもっとも深いところにまで降りる視点で、人間の身体をみつめている。

 

現代におけるメディテーションやマインドフルネスなどへの注目、走ったり泳いだりの様々な運動によるエネルギーの燃焼などは、「余剰運動エネルギー」をリダイレクト(方向転換)させる方法である。

これからの時代がひらけてゆくなかで、野口晴哉が言うような「余剰エネルギー」の問題と課題は引き続き、ぼくたちが直面していくものだ。

生活技術のさらなる進展が予測される未来において、さらなる「余剰エネルギー」をぼくたちは、ぼくたちの内に宿していくことになる。

ぼくたちの身体は、多くの生命が共生している、ひとつの<エコシステム>である。

その<エコシステム>は、余剰エネルギーをかかえている。

それは、いわば、ぼくたちの身体における環境問題だ。

人工知能(AI)などがきりひらいていく未来において、ぼくたちは、この「余剰エネルギー」という内なる環境問題とむきあっていくことが求められる。

人間の体と真正面からむきあってきた野口晴哉の真摯な考察が教えてくれることは、これからますます大切になってくるように思われる。

人間はこれから「技術との融合」をどのように、どの程度していくのかはぼくにはわからないけれど、それでも、人間が生きることの「自然のはたらき」という地層はなくなることはないと(ゼロになることはないと)、(現時点では)考えるからだ。
 

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野口晴哉著『体癖』。- 野口晴哉という巨人の仕事に惹かれながら。

整体の創始者といわれる故野口晴哉(1911年、東京生まれ)のことをはじめて知ったのは、どこからであったか、今でははっきりと思い出せない。...Read On.


整体の創始者といわれる故野口晴哉(1911年、東京生まれ)のことをはじめて知ったのは、どこからであったか、今でははっきりと思い出せない。

見田宗介の著作群を一気に読んでいるときに、見田宗介がふれる「野口晴哉」を知ったのだろうと、おぼろげに思うのだけれど、ちくま文庫に文庫化されている野口晴哉のいくつかの著作を通じてかもしれない。

いずれにしろ、20歳を超えたあたりで、ぼくは野口晴哉のことを知った。

ちくま文庫から出されている野口晴哉の著作のひとつに『風邪の効用』というタイトルの本があり、ぼくはその本を読みながら、「視点の転回」を体験することになった。

それは、ぼくが唯一その著作の内容として覚えていることでもあるのだけれど、野口晴哉によると、「風邪」というのは<体の祭り>なのだということである(正確な言い回しはまったく覚えていないので、あくまでもぼくの解釈もはいりこんでいる)。

ぼくが生まれた静岡県浜松市は「浜松祭り」という祭りが毎年あり、ぼくは「祭りの効用」を身体でかんじとっていたから、風邪が<体の祭り>であるという考え方は、すんなりとぼくの中に収まったようだ。

風邪が「悪いもの」と思っていたから、必ずしもそうではないことを知って、ぼくの視点はひろがりをえることになった。

その視点は、真木悠介(=見田宗介)の名著『自我の起原』(岩波書店)を読んでいるときに(本と「格闘」しているときに)、ぼくたちの身体は<共生のエコシステム>なんだと知って、さらにぼくの中に、すとーんと落ちたものだ。

 

それから時をだいぶ経て、見田宗介の『定本 見田宗介著作集X:春風万里』に収録されている「野口晴哉」に関する論考を読んだときに、ぼくはすっかりと、野口晴哉の世界(また見田宗介による読解)に惹きこまれてしまった。

ぼくはこのとき、香港に居住をうつしていたけれど、日本から野口晴哉の著作をいくつかとりよせた。

その中の一冊に、野口晴哉『治療の書』(全生社)がある。

野口晴哉の「治療生活三十年の私の信念の書」である。

天才的な治療家であった野口晴哉は三十年の治療生活に専心した後に、治療を捨て「整体」を創始していくことになるが、この書は、治療三十年に終止符を打つ書であった。

ぼくは香港で人事労務コンサルティングの仕事をしていて、ちょうど「予防」的な施策に思考をめぐらせていたから、専門の垣根をこえて、ぼくは野口晴哉から学んだ。

今でも、『治療の書』は、圧倒的な存在感をもって、ぼくの横にある。

 

見田宗介の『定本 見田宗介著作集X:春風万里』の論考(講義録)で、野口晴哉を導きの糸に、美術画に描かれている人物の「身体」を読み解くという、きわめて興味深い話を展開している。

その身体の読み解きの「基礎」は、野口晴哉の「体癖論」である。

野口晴哉の著作の中に『体癖』(ちくま文庫)という著作がある。

それによると、体癖論は、個人の身体運動がそれぞれに固有の「偏り運動」に支えられていることを中心にそえる考え方だ。

その「偏り運動」は、固有の運動焦点の感受性が過敏であることから生まれるものだという。

「偏り」は体全体の動きに関わり、偏りがどのように連動しながら体全体の動きとなるかが焦点のひとつとなる。

そもそもなぜこの「体癖研究」を行なっていたのかということについて、野口晴哉は、次のように書いている。

 

 私は半身不随の人が火事でビックリして逃げ出したのを見たことがあります。人間は攻撃とか防御とかには全力を発揮しなければなりませんから、全力発揮のための特殊運動が行われるのは当然ですが、もっと日常的なことで、例えばある人はチップを貰えるかもしれないということから運動能力が発揮され、また別の人は探偵小説なら徹夜で読みつづけても辛くないというように、全力が発揮できる方向が各人それぞれにあるのです。こういう自発的な運動能力発揮の方向は、偶然生ずるのではなく、一定の習性があり、一連に連動する方向があるのです。各個人異なった自発的な一連の動きを解くために体癖研究を行なっているのであって、運動の研究に欲求とか感情とか闘志とか利害などを持ち出さねばならぬ理由もここにあるのです。

野口晴哉『体癖』ちくま文庫

 

「全力が発揮できる方向が各人それぞれにある」ということ(=自発的な運動能力発揮の方向)は、現代風に言い換えると「モチベーション」である。

モチベーションを、体癖から解いてゆくという仕事である。

「自発的な運動」ということについては、野口晴哉の、次のような言葉を引いておきたい。

 

 健康に至るにはどうしたらよいか。簡単である。全力を出しきって行動し、ぐっすり眠ることである。自発的に動かねば全力は出しきれない。

野口晴哉『体癖』ちくま文庫

 

体癖研究の対象とする「自発的な運動能力発揮」は、したがって、「健康に至る」仕方でもあるのだ。

全力を出しきって行動し、ぐっすり眠ること。

自発的に動くこと。

野口晴哉という巨人を前に、ぼくは姿勢を正しながら、ただ耳をかたむけ、「はい」と、心の中で威勢よく返事をするだけだ。
 

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成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

しつけや説教、大人の都合、デタッチメント。- 「生き方」をひらいてゆくことを考える端緒。

村上春樹は、1960年代の学園闘争の時に感じていた「表層的な言葉に対する不信感」を、今となっても感じていることを、作家の川上未映子と語る中で、ふれている。...Read On.

村上春樹は、1960年代の学園闘争の時に感じていた「表層的な言葉に対する不信感」を、今となっても感じていることを、作家の川上未映子と語る中で、ふれている(『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子訊く/村上春樹語るー』新潮社)。

村上春樹が取ったのは、社会からの「デタッチメント」という仕方である。

それが1990年代頃から「コミットメント」へと姿勢が変わってきたことを、当時は心理療法家の河合隼雄と語り、そして川上未映子との会話の中でもふれている。

 

同時代に、社会学者の見田宗介も、異なる側面からであるけれど、「ことば」の問題に直面していた。

見田宗介は1970年代、言葉によっても、暴力によっても、世界が変わっていかない社会の只中で、「人間は変わることができるか」という問いをきりひらく方向性を次のようにつかんでいた。

 

…そのころまでに、わたしたちのつかんでいた方向は、こういうことだった。言葉ではない、暴力ではない、<生き方の魅力性>によって、人びとを解き放つこと、世界を解き放ってゆくのだということだった。

見田宗介『定本 見田宗介著作集X』岩波書店

 

その「具体的な方法」のひとつが、身体技法であった。

整体の創始者としてしられる野口晴哉の著作との出会いにより、見田宗介は「爽快な視力」を獲得していったものと、思われる。

1970年代は、見田宗介(真木悠介)にとって、<生き方の魅力性>ということを軸に、社会学という仕事の上でも「大きな転回」のときであった。

見田宗介は「野口晴哉の見方」もとりあげながら、1985年に、「都会の猫の生きる道ー教育という視点の彼方」という文章を論壇時評として書いている。

 

 ニューヨークでネコを飼うときは、去勢するのが普通だという。そのことを「ネコのためだ」という人がいて、背筋が寒くなったことがある。ネコの去勢をアメリカ人はフィックス(fix)というが、これは日本語の「しつける」という語感を思わせる。
 人間の身体というものを知りつくしていた野口晴哉の観察によれば、わたしたちが普通、子どもや赤ん坊のためにするのだと思い込んでいる育児法とか「しつけ」の仕方の多くの部分は、大人の都合にすぎないという。人間の都合でネコを去勢する都会の市民たちとおなじに、わたしたちはそれを自分で「愛情」と錯覚している。

見田宗介「都会の猫の生きる道ー教育という視点の彼方」『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫

 

ぼくが「感覚」でしか感じられてこなかったことにたいして、野口晴哉や見田宗介は、言葉を与えてくれる。

子どもたちは、どこか感覚で、「しつけ」や「説教」の多くにたいし、「大人の都合」を敏感に感じとっていたのだと思うし、それは今でも基本的にあまり変わっていないように思う。

そのような環境の中で、子どもたちの中には、ますます家庭や社会からの「デタッチメント」を生きていかざるをえないような方向に、舵をとってしまうものもいる。

大人も子どもも、どの方向に、生き方をきりひらいていくのかが、やはり問われる。

 

日本では「生き方」にかんする本を手にとる人たちがでてきているときく。

吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』(1937年)の漫画化された本が、わずか2ヶ月ほどで50万部も売れたという。

先月、宮崎駿も新作の題名を、吉野源三郎の小説からとった「君たちはどう生きるか」となると明らかにしたというニュースが流れた。

「しつけ」や「説教」などに疲れ果てた世代たちが、「説教めいた本」を意識的にあるいは無意識的に避けながら、しかし<漫画という入り口>には関心をむけて、心の奥では気になっている「生き方」へと向き合っているように、ぼくには見える。

「どう生きるか」は、ぼくたちが避けても避けても、向こうの方から、幾度もやってくる問いである。

試験のような「答え」がない問いである。

それでも、問いにたいし、「まっすぐに」語られるときがくるとよいと、ぼくは思う。

説教でなく、見田宗介たちがつかんだように、<生き方の魅力性>にひらかれながら。

その方向性に、「大人の都合」はその姿を変えてゆくのかもしれない。

アニメーション映画の最後に、かけられていた魔法が解かれてゆくように。
 

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<ことば>とは、<言葉の力>とは。- 「近代的自我」からはなれてみて。

「近代的な自我」というもの(あるいは現象)について、今でこそデフォルトであるけれど、「絶対のもの」ではないことを、考える。...Read On.


「近代的な自我」というもの(あるいは現象)について、今でこそデフォルトであるけれど、「絶対のもの」ではないことを、考える。

「精神」こそが<私>というものであって、「身体」はその<私>の所有物であるというような「近代的な自我」の図式は、今でこそ多くの人たちに信じられているけれど、その歴史はここ数百年ほどのものである。

筑波大学助教でメディアアーティストでもある落合陽一が、以前、テレビ番組(スマホで朝生)における「AI時代の生き方」に関する激論の中で、「近代的自我」の浅い歴史について簡単にふれ、それも将来には変わってゆく可能性を淡々と語っていた姿が印象に残っている。

落合陽一の、そこまで徹底した客観的な認識の土台が、「近代的自我」を(無意識に)絶対視するような人たちと交わされる議論の「すれ違い」のひとつの原因である。

人間は、将来、今とはまったく異なる「自我の認識と感覚」をもちながら生きてゆくのかもしれない。

 

「言葉」(あるいは「言葉の力」)ということも、「自我の認識と感覚」の立ち位置によって、異なる様相をぼくたちに開示する。

「自我の比較社会学」をきりひらいてきた社会学者の見田宗介は、次のような話を紹介する。

出産直前になっても頭を下にしない胎児(逆子)を直したといわれる、整体の創始者である故野口晴哉の話だ。

その評判を聞いたイスラエルの母親が、野口晴哉のところにやってくる。

ヘブライ語ができない野口は、仕方がないから日本語で、「オイ逆さまだぞ、頭は下が当たり前なんだぞ」と言ったら、翌日には正常に生まれたという。

このエピソードにたいして、見田宗介は次のように書いている。

 

 胎児は、日本語の単語を知っていていうことをきくわけではない。言葉を発するときにこめられた<気>に感応しているのだと、わたしは思う。
 「神秘的」なはなしではない。「硬い身体」にとじこめられて他者から孤立した「内面の精神」だけが<私>だという、近代的な身体感・自我感から解放されれば、ごくあたりまえのことである。
 わたしたちが言葉を交わしているときに、ほんとうはたがいの身体の全体が感応し合っているのだ。ことばとは、このような間身体の呼応のことのは、事の一端をなすにすぎない。言葉は気の波がしらである。
 ただ人間の指先や耳たぶなどに鋭敏な気が集中してゆくように、この波頭には、気が凝縮してこめられている。非近代社会の人びとが呪術のうちに感受していた「言葉の力」とは、このような現象の核に、様々な意匠の神話を分厚くまとったものではなかったか。

見田宗介「近代を馳けぬける身体」『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫

 

齋藤孝がどこかで、コミュニケーションとは「意味」と「感情」の二つを伝えるものだ、というような趣旨のことを書いているのを読んだ記憶があるが、「間身体の呼応」はいわば「感情の交流」である。

近代的自我に「憑かれている」ぼくたちは、どうしても「意味」に集中しがちであるけれど、「言葉の力」は意味だけに限定されるものではない。

 

海外にいると、日本から旅行などできている、外国語を話さない「おばちゃんたち」の力に圧倒されることがある。

買い物にしろ、普通の会話にしろ、現地の人たちに、容赦ない普通の日本語で話しかけている。

驚かされるのは、そのコミュニケーションで、なんとかなってしまうことである。

もちろん「状況・情況」によって、想定はできるのだろうけれど、それを補うような仕方で、「言葉の気の波頭」が伝わってゆくようだ。

だから外国語を学ぶ必要がないということではないけれど、「意味の病」から逃れること、つまりその根底にある「近代的な身体感・自我感」からいったんはなれてみることで、ぼくたちの世界を見る眼は変わったりもする。

歴史家ユバル・ハラリが言うような人間の未来、「Homo Deus」は、「近代的な身体感・自我感」からはなれてゆく人間たちが、(同時に)これまでとはことなる方向に人間をつくってゆく姿を描いている。

「わたくしといふ現象」(©️宮沢賢治)は、未来において、どのようにたちあらわれ、「自我の認識と感覚」を変えてゆくのだろうか。
 

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言葉・言語, 香港 Jun Nakajima 言葉・言語, 香港 Jun Nakajima

香港で、「THERE is NO PAUSE in LIFE」の言葉に、つい引きつけられて。- ショッピングモールを歩きながら。

今年2017年の1月中旬から書きはじめたブログ。毎日一歩一歩をあゆみながら、ふとこれまでの歩みをふりかえれば、300ほどの文章を紡いできたことに気づく。...Read On.


今年2017年の1月中旬から書きはじめたブログ。

毎日一歩一歩をあゆみながら、ふとこれまでの歩みをふりかえれば、300ほどの文章を紡いできたことに気づく。

ブログとは別に少しずつ書き溜めている文章と異なり、ブログは、なるべくその日に思いついたことを書くようにしている。

最初から「枠」の中にはめずに、自由にひろがっていくトピックについて書いている。

いろいろなトピックが雑多にならんでいるのは、そうした理由からである。

けれども、雑多に見えても、ふりかえってみれば、そこに「思考の流れ」や「生きることの焦点」が見えてくる。

 

ここ香港に、すでに10年以上暮らしながら、「テーマ」として追ってきたことのひとつに、「生活のスピード」がある。

以前ふれた『No City for Slow Men』(Jason Y. Ng著, Blacksmith Books刊)という本のタイトルにもあるように、香港は「Slow Men」の都市ではない。

圧倒的なスピードでうごきつづけることで、生きることのリズムをつくっている。

そのような香港も、ぼくの身体感覚と観察において、この10年は、スピードにおいてけっして一様ではなかったように、思う。

 

そのような「テーマ」を追っていると、ショッピングモールで、たまたま出会う、次のような言葉が目に自然とはいってくる。

「THERE is NO PAUSE in LIFE」

ショッピングモールの「改装中の敷地の壁」に、店舗の広告と共に、書かれている。

あらゆる場所ですすんでいる「改装」自体が、香港のスピードの象徴のひとつのようなところがあるが、「改装にもかかわらず、店舗は休むことなく営業中」ということのメッセージのようだ。

あるいは、人生は「NO PAUSE」だから店舗は営業している、というようなメッセージなのかもしれない。

言葉を受けとる側の関心のおきどころによって、受けとられ方が異なる言葉だ。

いずれにしろ、香港では、「休む間もなく」ということが生活のすみずみにまで浸透しているから、「NO PAUSE in LIFE」を「普通のこと」として読んでしまう。

 

「THERE is NO PAUSE in LIFE」という言葉とは逆に、「PAUSE in LIFE」が極めて大切になっていると、ぼくは思う。

「PAUSE」で思い起こすのは、リーダーシップ論の著作として、前にすすむための「Pause」を提示している、『The Pause Principles: Step Back to Lead Forward』(Kevin Cashman著、Berrett-Koehler刊)という興味深い本である。

「立ち止まって考えること」の大切さを感じながら、しかし「香港という場」がぼくに語りかけてくるのは、「動きながら考えること」である。

香港はその意味で「THERE is NO PAUSE」なのだけれど、実際にそこで暮らす人たちは、近年ますます、「PAUSE」を生活の中に組み込もうとしているように、ぼくには見える。

その「方法」はひとそれぞれにいろいろである。

仕事で「考える場と時間」をつくることもそうであるし、マラソンやヨガなどもある意味そうであるだろうし、海外の「田舎」(例えば、ぼくも行ったことのないような日本の田舎)への旅もその一形態であるかもしれない。

「No City for Slow Men」(Jason Y. Ng)の香港は、全体としては「NO PAUSE」でありながら、その周辺に「PAUSE」をする人たちを生みだしてきている。

とはいえ、「PAUSE」をどのようにとり、その機会をどのように使い、Kevin Cashmanが言うように「Step Back to Lead Forward」できるかどうかは、それぞれの個人にかかっている。

 

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<言説の鮮度>(見田宗介)ということ。- 「足が早い」言葉たちを生きる。

ここのところ「言葉というもの」を見てきているけれど、<言説/言葉の鮮度>ということにもふれておきたい。...Read On.


ここのところ「言葉というもの」を見てきているけれど、<言説/言葉の鮮度>ということにもふれておきたい。

2000年前後に、ぼくが「言葉というもの」を取り戻そうともがいていたときに、見田宗介(社会学者)の書く言葉たちと向き合いながら、ぼくが学んだことのひとつである。

 

見田宗介は、1986年の論壇時評で、「教育のことばの困難」に向き合いながら、「言説の鮮度について」という、ぼくたちの目を見開かせるような文章を書いている。

雑誌に掲載されている「教育」に関する記事や特集における、教育の記録や報告にふれながら、見田宗介は次のように、言葉や関係性の本質にきりこんでゆく。

 

「子どもってほんとにすばらしい」「先生ありがとう!」といった、ことばだけをとりだしてみると「気恥ずかしくなる」ようなことばも、このような記録の中では生きている。これらのことばは、それが思わず生みおとされるその固有の場所の中では、それぞれに一回かぎりの、真実のことばなのである(そうでないことももちろんあるが、そうであることも一生に一度はあるのだ)。同時にこのような鮮度の高いことばは、言葉がその中で生きている<関係の海>の中から言葉として釣り上げられるとき、たとえば「子どもはすばらしいのです」という観念の一般性として抽出され、流通するとき、それは「教育くさい」言説として、あのわたしたちをへきえきさせる特有のにおいを発散しはじめる。魚が魚でなくなる時に「魚くさく」なることとおなじに。

見田宗介「言説の鮮度について」『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫

 

副題を「教育のことばの困難」とし、見田宗介自身が語るように、教育では子どもたちのためによかれと思って、「命」とか「輝く」とか「信じる」という言葉を説教としてならべながら、しかし逆に「シラケルことしかできない世代」をふやしてきたように、当時、ぼくは感じたのである。

 

 教育にかぎったことではないが、教育の現場でことばが輝いたり踊ったりするというとき、その輝きや躍動は、その時その場に立ち会った子どもたち、大人たちの中でだけ新鮮に生きつづけられる。それが他人に伝えられ、後世に残されようとするとき、苛酷な変質を開始するのだ。大事なことばだからしまっておいた方がいいのだよ、とでもいうように。
 子どもをめぐることばは愛のことばとおなじに、とりわけ足が早いのだ。

見田宗介「言説の鮮度について」『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫

 

ぼくは、見田宗介のこの言葉たちに出会ってから、<言葉の鮮度>というものへの視点を獲得し、それから<関係の海>そのものへの関心をふかめていった。

言葉が生きてこないのは、<関係の海>そのものが「死海」となってしまっていることもあるからだ。

関係の実質がない<海>からは生きる言葉は生みおとされないし、また<関係の海>が豊饒であればあるほどに、言葉さえも超えてしまうような「more than words」の世界が現出することもある。

 

「生きる」という言葉は、西アフリカのシエラレオネや東ティモールにおける<関係の海>の中では、ほんとうに切実な言葉として立ち上がってくるような言葉であった。

紛争を生きぬいてきた人たち、紛争をのがれてきた人たち、身近な人たちをうしなってきた人たち、日々を精いっぱいに今も生きる人たち、きびしいなかでも笑顔でいる人たち。

そのような<関係の海>の中で、思わずにはいられなかった。

「生きる」ことだけでも奇跡であること、を。

でも、それだけではなくて、「生ききる」ということの重力に引かれながら、ぼくは一歩でも前に足をすすめる。
 

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<彩色の言葉>で彩る個人の生と世界の物語。- 「彩色の精神」(真木悠介)に触発されてきて。

言葉には、よく言われるように、「ポジティブ/ネガティブ」な言葉がある。「ポジティブな言葉を使っていこう」というのはひとまずその通りなのだけれど、ついついネガティブな言葉も出てしまったりする。...Read On.


言葉には、よく言われるように、「ポジティブ/ネガティブ」な言葉がある。

「ポジティブな言葉を使っていこう」というのはひとまずその通りなのだけれど、ついついネガティブな言葉も出てしまったりする。

ネガティブな言葉を発することは、それが人のことであれ、世界のことであれ、「自分と人/世界との関係」をネガティブに規定し、そのような物語としてつくりだしてしまう。

それはただの言葉だけにとどまらず、自分の描く対象の人や世界との「現実の関係性」において、言葉で描いたような物語として現実につくりだしていってしまう。

だから、ポジティブな言葉を使っていこう、ということはひとまずその通りではある。

 

その通りではあるのだけれども、他方で、ぼくは「物語の全体性」への視点を大切にしたい。

それは、人の「生きる物語」の基底をなすような、態度・姿勢であり、大きな物語である。

その基底となるようなものとして、ぼくは、<彩色の言葉>ということを考えている。

このコンセプトは、社会学者の真木悠介が言うところの<彩色の精神>から、「言葉」の視点で切り取ったものだ。

 

…フロイトは夢を、この変哲もない現実の日常性の延長として分析し、解明してみせる。ところが『更級日記』では逆に、この日常の現実が夢の延長として語られる。フロイトは現実によって夢を解釈し、『更級日記』は夢によって現実を解釈する。
 この二つの対照的な精神態度を、ここではかりに、<彩色の精神>と<脱色の精神>というふうに名づけたい。

真木悠介「彩色の精神と脱色の精神ー近代合理主義の逆説」『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫

 

『更級日記』から真木悠介がとりあげているのは、作者と姉が迷いこんできた猫を大切に飼っていたところ、姉の夢まくらにその猫がでてきて、自分が侍従の大納言どのの皇女であり、因縁があってしばらくここにいることを告げる、という話だ。

姉妹はいっそう猫を大切にあつかい、猫にむかって「大納言どのの姫君なので」などと話しかけると、心が通じているように思われる。

真木悠介は、夢により現実を解釈するという精神態度を、「彩色の精神」と呼んだ。

 

 われわれのまわりには、こういうタイプの人間がいる。世の中にたいていのことはクラダライ、ツマラナイ、オレハチットモ面白クナイ、という顔をしていて、いつも冷静で、理性的で、たえず分析し、還元し、君たちは面白がっているけれどこんなものショセンXX二スギナイノダといった調子で、世界を脱色してしまう。そのような人たちにとって、世界と人生はつまるところは退屈で無意味な灰色の荒野にすぎない。
 また反対に、こういうタイプの人間もいる。なんにでも旺盛な興味を示し、すぐに面白がり、人間や思想や事物に惚れっぽく、まわりの人がなんでもないと思っている物事の一つ一つに独創的な意味を見出し、どんなつまらぬ材料からでも豊饒な夢をくりひろげていく。そのような人たちにとって、世界と人生は目もあやな彩りにみちた幻想のうずまく饗宴である。

真木悠介「彩色の精神と脱色の精神ー近代合理主義の逆説」『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫

 

<脱色の精神>は、真木悠介がこの文章につづけて書いているとおり、近代の科学と産業を生みだし、人びとの心をとらえて、生きる世界を脱色していったのである。

しかし、「科学」そのものが<脱色の精神>ということでは必ずしもない。

伝記作家Water Isaacsonが追いもとめてきた人物たちーレオナルド・ダ・ヴィンチ、ベンジャミン・フランクリン、アインシュタイン、スティーブ・ジョブズーは、「科学 science」と「人間性 humanity」をつなげてきた人たちである。

かれらにとっては、世界は「目もあやな彩りにみちた幻想のうずまく饗宴」であったはずである。

かれらにとっては脱色の精神でさえも、<彩色の精神>に彩られてゆくような精神の磁場がつくられていたように、ぼくは思う。

 

このような<彩色の精神>を基礎に、<彩色の言葉>ということが、ぼくが考えていることである。

そこでは、脱色の言葉でさえ、(彩色の精神による)<彩色の言葉>で、彩り鮮やかな物語を語ってしまうような言葉たちである。

<彩色の言葉>は、世界や人生を「目もあやな彩りにみちた幻想のうずまく饗宴」の物語として語る言葉たちだ。

歴史家のYuval Harariが焦点をあてるように、人間(サピエンス)のユニークな強さを与えるものは「フィクションとしての物語」である。

<彩色の言葉>は、個人の生だけでなく、それは人間たちが共有する「フィクションとしての物語」をも彩色してゆく。

脱色の精神と脱色の言葉により「何もないところ」まで来てしまったぼくたちが、個人の生と世界の物語を彩色してゆくこと。

そのような祝福された言葉として、<彩色の言葉>はある。

 

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人は「(世界どこでも)みんな同じ」か「文化によって違う」か、という、問いと思考。- 普遍性と異文化について。

人は「みんな同じ」か「文化によって違う」か、という、問いを、ぼくたちはじぶんに投げかけたり、あるいは友人や同僚などとの会話の中でたずねたりする。...Read On.


人は「(世界どこでも)みんな同じ」か「文化によって違う」か、という、問いを、ぼくたちはじぶんに投げかけたり、あるいは友人や同僚などとの会話の中でたずねたりする。

「人はどこでも、やっぱり人だよ」という意見もあれば、「◯◯人は…だよ」というように文化による違いを強調するような意見もある。

言葉を変えれば、普遍性なのか、異文化的なのか。

さて、どうだろうか。

このような意見が交錯する会話を聞いていたもう一人は、もしかしたら、次のように言うことで、この問いを「解決」しようとするかかもしれない。

「人は、だれもがひとりひとり異なると思う」

人は誰もが同じという普遍性でもなく、文化によって異なるというカテゴリーをあてはめるのでもなく、「個人」に焦点をあてて「みんなが違う」という方向性に解決の方向性を見つけてゆく。

この意見を聞いて考え直して、さて、どうだろうか。

 

上記のような問いはいろいろな文脈において、ぼくたちがそれら問いを発したり、議論したり、意見したりしている。

日々のちょっとした会話から、仕事から、学術的なところに至るまで、いろいろにである。

それら問いにたいして、大抵は「漠然とした考え・思考」をもっていたりするのだけれど、それはあくまでも「漠然としたもの」である。

問いを発したり、あるいは答えたりする人それぞれの信念や論理、またそれぞれの経験にもとづき、問いや回答はいろいろである。

 

ぼくからは「視点」だけにしぼって、そのいくつかを提示しておきたい。

 

(1)「平面」だけで考えないこと

ぼくたちの思考は、平面的にまた往々にして二分法的(…か…か)に考えてしまうようなところがある。

世界の人たちはみんなやっぱり人として同じなのか、文化ごとに違うのか、というように。

でも、この二つは、平面的に考えるものではなくて、「重層的」なものである。

どちらも、人それぞれに、重層的に存在しているものである。

 

「現代の人間」ということを見ていくときに、社会学者の見田宗介は、「現代人間の5層構造」ということを書いている(参照:見田宗介『社会学入門』岩波新書)。

【現代人間の5層構造】

④ 現代性
③ 近代性
② 文明性
① 人間性
⓪ 生命性

これら「5層構造」にふれて、見田宗介は読者に次のように語りかけてくる。

 

…人間をその切り離された先端部分のみにおいて見ることをやめること、現代の人間の中にこの五つの層が、さまざまに異なる比重や、顕勢/潜勢の組み合わせをもって、<共時的>に生きつづけているということを把握しておくことが、具体的な現代人間のさまざまな事実を分析し、理解するということの上でも、また、望ましい未来の方向を構想するということの上でも、決定的である。

見田宗介『社会学入門』岩波新書

 

この理解が次の点につながってくる。

 

(2)「みんなが違う」という見方

「現代人間の5層構造」だけを見ても、見田宗介が教えてくれるように、これら五つの層が「さまざまに異なる比重や、顕勢/潜勢の組み合わせをもって、<共時的>に生きつづけている」ことからくる、無限の発現のされ方がありうる。

比重や組み合わせは無限的であるからだ。

ちなみに、「みんなが違う」という見方と「みんなが同じ」という見方は、「平等」ということを考えるときの二つの考え方である。

「平等」をおいもとめてゆくときに、わかりやすいところでは「みんなが同じ」という仕方でおいもとめてゆくことができる。

それは、ある意味とある文脈において、日本的な仕方であった。

しかし、魅力的なのは、「みんなが違う」という方向につきぬけてゆく仕方である。

最近使われる言葉で言えば、「多様性 diversity」の方向につきぬけてゆく仕方である。

ただし、今現在の「多様性 diversity」は、「カテゴリー」を増やしていくところにとどまっているのだけれど。

 

(3)異文化を視る視点

「みんなが違う」という見方をしながらも、「異文化」が人それぞれに顕勢/潜勢する<層>はある。

社会や法やモラルや宗教などの文化の構造とコードが、そこにいる人たちをある「型」へと導いてゆくようなところがある。

それらの比重や、顕勢/潜勢の組み合わせは、人さまざまだけれど、やはり文化的な現れは、場面場面でおきてくるのだ。

さらには、時代や時代の価値観などの異なる「層」も組み合わさるため、より複雑にみえたり、実際に複雑だったりする。

海外に長くいながら、やはり「日本的な文化の層」がぼくにはあることを感じてきた。

でも、それは、あくまでもひとつの層である。

 

いくつかの視点を提示したけれど、まずは、普遍か文化かというように「平面的に見ること」から、<重層的に見ること>へ移行すること。

現在は、Virtual RealityやAugumented Realityなどの技術と視界がひらけてきている一方で、<重層的に見ること>は、世界が<ほんとうのグローバル社会>になっていく上で、ぼくたちが<Reality>を見るために身につけておく大切な<視力>であるように、ぼくは思う。
 

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