名曲「Imagine(イマジン)」(ジョン・レノン)の方法論。- 現実の<消去>という仕方で描かれる世界。
名曲「Imagine(イマジン)」。誰もが知る、今も歌い継がれてゆくジョン・レノンの歌が描く世界に一歩ふみこんでみると、またひとつの視界がひらける。...Read On.
名曲「Imagine(イマジン)」。
誰もが知る、今も歌い継がれてゆくジョン・レノンの歌が描く世界に一歩ふみこんでみると、またひとつの視界がひらける。
この曲の中で、「想像してごらん」と、ジョン・レノンが描く世界は、3つのことの<消去>により現出する世界である。
想像のなかで消去されたのは、次の3つのことである。
- 天国と地獄
- 国と宗教
- 所有
それらに対置されたもの・ことを、さらに一歩ふみこみ理論としてとりだすと、次のようになることを、別のブログで論じてきた。
(1) 天国と地獄 ⇄ 「今を生きること」➡︎ 時間
(2) 国と宗教 ⇄ 「平和に生きること」➡︎ 共同体
(3) 所有 ⇄ 「分かち合うこと」➡︎ お金
これら3つのこと・ものは、今の時代が「次なる時代」にひらかれてゆく過程で直面する、大きな課題である。
ジョン・レノンの名曲は、この大きな課題に照準をあわせながら、しかし、人びとに「想像」をよびかけながら、その方法として現実の<消去>という方法をとっている。
天国と地獄がない世界、国と宗教がない世界、所有のない世界の想像を喚起するという方法である。
理論として語るのであれば、方法としては、「否定」(~ではない)と「肯定」(~である)という方法がある。
しかし、ジョン・レノンは、そのどちらでもない、<消去>という方法をえらんでいる。
なぜそのような方法をとったのだろうかと、ぼくはかんがえる。
社会学者の見田宗介は、1986年の論壇時評において、「差別」をのりこえる方途を次のように書いている。
…男女の差別をこえるという時、「女である前に人間です」という言い方で、同質性に還元してゆく仕方がひとつある。もうひとつ「女といっても一人一人違う。男といっても一人一人違う」という言い方で、異質性をきわだたせてゆく仕方がある。最首の言い方をかりれば、<みんなが同じ>という仕方で差別をこえる方向と、<みんなが違う>という仕方で差別をこえる方向とである。
異質なものの呼応と交響、というあり方に魅かれるわたし自身には、<みんなが違う>という言い方の方が、得心がゆく。異質化は世界をすてきにしてゆく(同質化は世界をたいくつにする!)。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫
見田宗介は、最首悟が障害を持つ自分の子供にふれて言った言葉(最首悟は、<みんが同じ>という均質化の力が差別をつくることを語っている)や、加藤典洋が語る「国境」の話などを手がかりに、差別をのりこえる仕方を展開している。
<みんがが同じ>という方向と<みんなが違う>という仕方。
ジョン・レノンが挙げたこと・ものを、「否定」という仕方で展開して言うと、例えば、「国や宗教がない世界」などとなる。
これは、かんがえる仕方としては、<みんなが同じ>という方向へののりこえに向かってしまう。
それは、最首悟の言うように、均質化の力が逆に差別を生み、見田宗介の言うように、同質化は世界をたいくつにする方向であり、今あることの「否定」がかならずしも、よい世界につながるとは、ジョン・レノンはかんがえていなかったのではないかと、ぼくは思う。
そして、否定とは逆に「肯定」という方向性はいまだ積極的にはみえず、その苦悩と狭間のなかで、<消去>という方法を、彼はとらざるを得なかったのではないかと、ぼくは推測している。
名曲「イマジン」が世に放たれたのは1971年のことであり、時代はますます「標準化」という均質化・同質化の力を強めていたときである。
ぼくはもう少し、ジョン・レノンが描いた世界を、異なる地点や視点から見ていく必要があるように思う(でも、断っておけば、あくまでも、ぼくの解釈にすぎないのだけれど)。
その課題のヒントを、次に、ジョン・レノンのもう一つの名曲「Happy Xmas (War Is Over)」を読みときながら、ぼくは探っていくことになるだろう。
ジョン・レノンの名曲「Imagine(イマジン)」の描いた世界。- この名曲に一歩ふみこんで、かんがえてみる。
誰もが知る、John Lennon(ジョン・レノン)の名曲「Imagine (イマジン)」。名曲「イマジン」は、多くのミュージシャンたちをひきつけてきた。...Read On.
誰もが知る、John Lennon(ジョン・レノン)の名曲「Imagine (イマジン)」。
名曲「イマジン」は、多くのミュージシャンたちをひきつけてきた。
子供のときにイラクの戦場で見つけられたEmmauel Kellyが、だいぶ前にオーストラリアの番組Xファクターで「イマジン」を歌う姿と歌声は、人びとの心をうった。
Emmanuel Kellyは、Coldplayのオーストラリアでのコンサートで、一緒に「イマジン」を披露している。
生きる力の充溢をそこに見ることができる。
ジョン・レノンだけでなく、さまざまなアーティストにひきつがれてゆく名曲の<つなげる力>に、ぼくは心を動かされる。
名曲「イマジン」は、「世界がひとつになって生きる」ことを歌っているけれど、どのような世界を望んでるのか。
何度も聞いてきたこの名曲を、ぼくは一歩ふみこんでかんがえたことがなかった。
歌詞だけにおさまらない力が、この歌にはひめられていることもあるけれど、「わかった」気持ちでいたことも、理由のひとつかもしれない。
「♫ Imagine(想像してごらん)」と、ジョン・レノンが歌うとき、「~のない世界」をとジョン・レノンはメッセージをのせている。
大きく分けると、そこには3つの大きな<消去>がおかれている。
- 天国と地獄
- 国と宗教
- 所有
これらを見ると、わかったような気がするけれど、ジョン・レノンがこれらに「対置」するものを置くと、もう少し見えてくるものがある。
(1) 天国と地獄 ⇄ 「今を生きること」
(2) 国と宗教 ⇄ 「平和に生きること」
(3) 所有 ⇄ 「分かち合うこと」
ここまではジョン・レノンが、歌詞にのせたメッセージである。
さらに、ここから、もう一歩ふみこんで、「抽象度」をあげて理論として取り出してみると、これらの3つは、次のように読みとることができる。
(1’) 時間
(2’) 共同体
(3’) お金
こうしてみることで、ジョン・レノンが名曲にのせて歌うメッセージは、とても「論理的」であることがわかる。
これら3つは、「生きること」の3つの側面であり、「生きること」を支える3つのもの・ことである。
二つ目の「共同体」は、人の<精神的な側面>を支えるものであり、三つ目の「お金」は、人の<物質的な側面>を支えるものである。
人びとの生を支えるものでありながら、それらが逆に、「抑圧」として人びとの生に影響をあたえている状況に、想像の世界でジョン・レノンは現実を<消去>したのだ。
一つ目の「時間」はと言うと、ひとつの解釈としては、人が個人として生きる「意味」がそこにこめられているように、思う。
「天国と地獄」という「結末」に向けられた視線は、人の生をそこに向けて収斂させながら、<今ここの生>をおきざりにしてしまう。
だから、ジョン・レノンは「今日を生きること」へと、人びとの想像の力を解き放とうとしている。
このように、名曲「イマジン」は、時間・共同体・お金という、人が生きてゆくことの、意味と精神的・物質的側面の色彩を変えることで、「ひとつになる世界」を描いている。
その想像の「道すじ」において、ジョン・レノンは、天国と地獄、国と宗教、所有を<消去>するという仕方を選んだことは、積極的な方法というよりも、そう取らざるを得なかったのかもしれないと、ぼくはかんがえている。
ジョン・レノンを思う日。- 「全世界の異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界」(見田宗介)への途上に鳴りひびく歌。
毎年12月8日は、ぼくにとって、ジョン・レノンを思う日だ。時代をつくった音楽バンド、ビートルズの中心メンバーであり、ビートルズ解散後も、数々の名曲をつくり、レノンの歌は世界に交響してきた。...Read On.
毎年12月8日は、ぼくにとって、ジョン・レノンを思う日だ。
時代をつくった音楽バンド、ビートルズの中心メンバーであり、ビートルズ解散後も、数々の名曲をつくり、レノンの歌は世界に交響してきた。
そのジョン・レノンが、1980年12月8日にニューヨークの自宅前で、凶弾に倒れた。
ジョン・レノンが40歳のときだ。
それから27年が過ぎた。
気がつけば、ぼくはジョン・レノンの年齢を超えている。
ぼくがジョン・レノンに出会ったのは、たしか中学生のときの英語の教科書のなかであって、ぼくのなかではジョン・レノンは、今でもそのときの立ち位置に存在している。
英語の教科書では、ニューヨークのセントラルパークに、亡くなったジョン・レノンを思いつつ平和をいのる人たちが集ったこと、それから名曲「イマジン」のことが書かれていたように記憶している。
学校で学ぶということの窮屈さのなかにあって、英語の教科書にあらわれたジョン・レノンは、ぼくをひきつけてやまなかった。
大学で東京に出てからは、渋谷東急でビートルズの物品の展示に使われていた、ジョン・レノンモデルの「リッケンバッカー」のギターが売りに出されていたのを、ぼくは手に入れて、ジョン・レノンが鳴らしたであろう響きを、少しでも感じようとした。
12月8日にかぎるわけではないけれど、クリスマスが近づき、ジョン・レノンの名曲「Happy Xmas (War Is Over」が外からも、それからぼくの内からも、その響きを届けるころ、ぼくはジョン・レノンのことを思い、ジョン・レノンが思い描き、目指していた世界のことをかんがえる。
ビートルズとジョン・レノンの歌、それからレノンの生き方は、ぼくの生き方の方向性に交響する仕方で、ぼくのなかに流れている。
社会学者の見田宗介は、整体の創始者といわれる野口晴哉にかんする論考のなかで、ジョン・レノンにふれている。
その「節」は、「時代の文脈ーレノンの歌、遥かな呼応」という言葉がおかれている。
見田宗介が1970年代半ばにメキシコの滞在から日本に帰ったおり、野口晴哉の思想に出会ったときの「時代の文脈」を、2008年の地点から振り返って語るところである。
今ふりかえってみて初めて気がつくのだけれども、わたしたちにとって野口晴哉は、ジョン・レノンやボブ・ディランやカルロス・サンタナの歌と遥かに呼応する運動のうねりの中で、全世界の異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界を実現するための、方法の夢中の模索と探求という途上で出会われた。
戦争と憎悪と抑圧のない世界を、暴力的な否定という仕方ではなく、(人間の中の自然の可能な力を肯定するということをとおして)異質なもの多様なものの相補し交響する世界の胚芽を、至るところの今ここに生きられる仕方で実現してゆくのだという方法論の、確実な一角として探り当てられていた。
見田宗介「思想の身体価」『定本 見田宗介著作集X:春風万里』岩波書店
この時代を生き、「方法の夢中の探索と探求」をつづけてきた人たち。
見田宗介、野口晴哉、ジョン・レノン、ボブ・ディラン、カルロス・サンタナなど。
学問も、整体も、歌も、反戦運動も、すべてが「遥かに呼応する運動のうねり」の中で、それぞれに、「全世界の異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界」の実現をめざしてゆくことの活動としてあった。
時代に流されるのではなく、時代に垂直に立つ仕方で、これらの人たちの生は生きられてきた。
ジョン・レノンの生き方にぼくがあこがれたのも、その音楽的な感性だけでなく、「時代に垂直に立つ仕方」であったように、ぼくは思う。
「全世界の異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界」。
時代がうつりかわっていくなかで、しかし、照準はそこに、定められている。
「暖かい気候のクリスマス」のこと。- ぼくのなかに定着した「暖かい/寒いクリスマス」。
香港はいたるところで、クリスマスの飾りつけがほどこされ、クリスマスと新年の到来の足音がきこえるようになってきた。...Read On.
香港はいたるところで、クリスマスの飾りつけがほどこされ、クリスマスと新年の到来の足音がきこえるようになってきた。
ヴィクトリア湾を挟んで、ビルがイルミネーションに包まれ、「Season’s Greeting」のメッセージを届けている。
住まいであるマンションのロビーや敷地内も、クリスマスの飾りで、すっかり化粧をし直したところだ。
そんな香港は、今年は暖秋が続いている。
いっときは冬の到来が感じられるようになったと思ったら、すぐさま20度前後の気温にもどってしまった。
2017年の「9月~11月」にかけての平均気温は、25.8度で、これまでの歴史上の記録で3番目に暖かい秋となったという。
まだクリスマスの予報は出ていないけれど、「暖かい気候のクリスマス」になるかもしれない。
それにしても、「暖かい気候のクリスマス」をぼくが体験したのは、1996年にニュージーランドに住んでいたときのことであった。
ニュージーランドは南半球に位置しているから、クリスマスはちょうど夏の時期にあたる。
ぼくは、キャンプ場でテントを設営して、サンタクロスの姿を横目に、まったく「クリスマスらしくないクリスマス」を過ごしたことを思い出す。
「暖かい気候のクリスマス」があることなんて、南半球があり、また熱帯がありなどとちょっと考えてみれば、知識・情報としてはすぐわかることだ。
しかし、「暖かい気候のクリスマス」を過ごす感覚は、やはり体験してみないとわからない。
だから、体験として、ぼくの既成概念を壊すのに、よい機会となった。
その後は2002年に西アフリカのシエラレオネに住むことになり(その年のクリスマスは会議等で日本に戻っていたけれど)、それ以降も東ティモール、それから香港と移り住むなかで、「暖かい気候のクリスマス」はすっかりぼくのなかに定着した。
それでも、例えば、香港では、15度の気温だとして、その「気温」にはあらわれない<寒さ>のようなものを感じる。
実際、この暖秋においても、それなりの人たちが、コートやダウンジャケットを着はじめている。
気温にはあらわれない<寒さ>は、ある人は、湿気が高いことが理由だと言う。
ほんとうのところはよくわからないけれど、ぼく自身のことで言えば、人間の環境適応性のようなところがある。
2002年以降、ずっと、熱帯や亜熱帯に暮らしてきて、ぼくの身体はすっかりその気温・気候に慣れてしまった。
だから、ぼくのなかでの「寒さの基準」が変わってしまったのだと思う。
香港にいながら、ぼくはこの「寒さ」のなかでも、クリスマスの雰囲気を楽しめるようになった。
もしかしたら、人間のもつ「想像力・イメージ」の力、あるいは「記憶」の力が、力をかしてくれているのかもしれない。
そのようにして、ぼくのなかに、「暖かい/寒いクリスマス」が定着し、同居している。
それにしても、この「人間の環境適応性」はすごいものだと思いながら、逆にこわいものだとも思う。
現在の地球がくぐりぬけている環境汚染や気候変動に、ぼくたちがすっかり慣れてしまい、それが「当然のこと」となってしまうことの恐れである。
そうならない前に、ぼくたちの社会は、その軌道を変えていかなければならない。
「暖かい気候のクリスマス」は決して悪いものではないけれど、でも、世界全体が「暖かい気候のクリスマス」を迎えないように。
「ほんとう」という言葉からはじまる旅路:「ほんとうの」と「ほんとうに」。- 竹田青嗣、宮沢賢治、そして見田宗介。
ぼくたちは、日々の会話や書くもののなかで、「ほんとう」という言葉を使う。小さい頃から、ぼくは、よくこの言葉を使っていたと思う。...Read On.
ぼくたちは、日々の会話や書くもののなかで、「ほんとう」という言葉を使う。
小さい頃から、ぼくは、よくこの言葉を使っていたと思う。
「ほんとう」の反対は「うそ」というような対置をされると、ぼくたちは他者の言うことを信じていないように聞こえてしまう。
でも、ぼくの感覚では、「ほんとうーうそ」というシンプルな対置だけにおさまらない構図のなかで、その言葉が発せられてきたことを感じていた。
そのことを正面から見つめようとしたのは、やはり、社会学者の見田宗介の著作に触発されてきたところが大きい。
見田宗介の仕事のなかで、「ほんとう」ということを論じている対象としては、哲学者である竹田青嗣と、そして宮沢賢治が挙げられる。
音楽家の井上陽水論を展開した竹田青嗣の著作『陽水の快楽』(ちくま文庫)で、見田宗介は鮮烈な「解説」を書いていて、その解説が書かれる前の「前身」的な解説として、論壇時評に次のように書いている。
竹田の文章が要所で放つ「ほんとうに」という副詞は、書くことの外部からくる息づかいのように、彼の論理の展開の、生きられる明証性のようなものを主張している。宮沢賢治は「ほんとうの」しあわせとか考えとか世界を求めた。竹田の断念は、<真実>を方法の場所に、形容詞でなく副詞の場所にまでしずめている。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫
見田宗介は、「ほんとう」ということで示されるものを、「ほんとうの」という形容詞、それから「ほんとうに」という副詞というように切断線を引いて、かんがえている。
「ほんとう」という言葉に表象される心象は、ぼくの個人史だけに固有のものではなく、それが時代の困難さをあらわしていることを、ぼくはここにみる。
竹田青嗣の展開する陽水論と見田宗介の鮮烈な読みとりについては、以前にもブログで触れたけれど、またいずれ書きたいと思う。
むしろ、ぼくをひきつけてやまないのは、「ほんとうの」という形容詞である。
見田宗介が吉本隆明の著作『宮沢賢治』に応答するように書いた文章、「性現象と宗教現象ー自我の地平線」は、いっそうの深みにおいて、宮沢賢治が追い求めた「ほんとうのもの」をスリリングに論じている。
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を素材に、主人公ジョバンニと宮沢賢治を重ね合わせながら、見田宗介(真木悠介)は性と宗教を明晰に論じている。
銀河鉄道に乗るジョバンニは、その旅路で乗客たちに出会うけれど、乗客たちは途中で降りていってしまう。
それでもジョバンニはどこでも降りない。銀河鉄道のそれぞれの乗客たちが、それぞれの「ほんとうの神」「ほんとうの天上」の存在するところで降りてしまうのに、いちばんおしまいまで旅をつづけるジョバンニは、地上におりてくる。
ひとつの宗教を信じることは、いつか行く旅のどこかに、自分を迎え入れてくれる降車駅をあらかじめ予約しておくことだ。ジョバンニの切符には行く先がない。ただ「どこまでも行ける切符」だ。
真木悠介『自我の起原』岩波書店
法華経の人であった宮沢賢治を読みときながら、見田宗介は宮沢賢治が<歩きつづけた方向性>を、次のように書いている。
性が何度も人を裏切るものであることと同じに、宗教もまた、何度でも人を裏切る。宗教に裏切られる毎に、賢治の資質は、宗教を否定する方向にでなく、<ほんとうの>宗教を求めるという方向に賢治を向かわせた。
人が<ほんとうのもの>を求めるということをどこかでやめてしまう仕方は、二つある。宗教の駅と、反宗教の駅だ。宗教の駅は、<ほんとうのもの>はここにあるのだ、これ以上求めることはないのだという仕方で人をその場所に降ろす。反宗教の駅は、<ほんとうのもの>はどこにもないのだ、そんなものを求めることはないのだという仕方で降ろす。賢治が択んだのは、そのどちらでもないような仕方で歩き続けることだったと思う。
真木悠介『自我の起原』岩波書店
宮沢賢治が択んだ「第三の道」のように、見田宗介もまた「どこまでも行ける切符」を手に、<ほんとうのもの>を求めつづけ、「反時代の精神たち」に言葉を届けてきた。
見田宗介が措定してきた「虚構の時代」のなか、「時代の商品としての言説の様々な意匠の向こう」(真木悠介)めがけて、「ほんとうに切実な問いと、根柢をめざす思考と、地についた方法とだけを求める反時代の精神たち」に、上記の論考を含む、「分類の仕様のない書物」の言葉たちは放たれる。
「ほんとう」という言葉からはじまったぼくの旅路は、こうして、新たな旅路が目の前に、どこまでもどこまでも、ひろがっている。
生ききること、全生を追い求めてきた野口晴哉の視野・視点の自由さ。- 「自由自在なる宇宙人」という視野・視点。
「世界で生ききる」ということをブログのタイトルの一部に、ぼくはもりこんでいる。言葉に堅さ・硬さのようなものが残るものの、これからの時代をきりひらいていく方向性を感覚しながら、書いた言葉である。...Read On.
「世界で生ききる」ということをブログのタイトルの一部に、ぼくはもりこんでいる。
言葉に堅さ・硬さのようなものが残るものの、これからの時代をきりひらいていく方向性を感覚しながら、書いた言葉である。
とくに「生ききる」という言葉をアンテナとしている。
整体の創始者といわれる野口晴哉が「全生」ということをその思想のコアにしていることは知っていたけれど、例えば、次のような野口晴哉の言葉を、ぼくは最近見つけた。
溌剌と生きる者にのみ
深い眠りがある
生ききった者にだけ 安らかな死がある
野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)
野口の焦点は、溌剌と生きること、「生ききる」こと、彼が言う「全生」ということにある。
…象の百年生くるも全生なら、蝉の一夏の生涯も又全生なのだ。大と小と対立させてその価値に拘泥するのは、人間的な有限感覚に基づいているに他ならぬ。人間の五十年は蚊の一夏に比して長いとは言えぬ。欅の三千年の寿命も猫の十年に等しい。全は、全だ。
この如く、人間が人間感覚からのみ推して ものを対立させているなかに宇宙的無限感を得たものがいたなら、こう言うだろう。
野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)
ここに見られるように、野口晴哉の視点は、多くの知の巨人たちと同じく(「巨人」という使い方自体、野口は「人間的な有限感覚」だと言い放つだろうけれど)、時間と空間の「幅」がはてしなくひろい。
野口晴哉の思想を深いところで支えているのは、この時間と空間の感覚だ。
時間は人間的な有限感覚に限らず、空間も宇宙にまでひろがっていく。
それでいながら、野口晴哉の「実践」は、この人間の身体に向けられている。
この「視野・視点の自由自在さ」が、野口晴哉の屹立する思想を支えている。
野口晴哉がもっとも魅かれてきた書、『碧巌録』を野口流に読み解きながら、野口晴哉の思想と実践は、『碧巌録』におさまりきらないように、ぼくには見える。
一秒間で地球を八回めぐる光の速さで、何十億年かかる距離を容れて尚あまりある宇宙も、その宇宙に浮かぶゴミの如き地球も、その地球に生えたかびの如き人間も、その人間の眼にも見えぬ最近の類も、自然の存在であり、ある可くしてある全なる相である。宇宙の運行と等しく我らが面前にある事実、我らが裡に行われる動き、我らが一呼一呼 一挙手一投足も 自然のはたらきたらざるはない。このことを見つけ出し 身に体した人は 自由自在なる宇宙人だ。
野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)
野口晴哉の思想と実践は、そこにはいりこめばはいりこむほどに、異なる相をぼくたちにひらいてくれる。
「生ききる」ということ、「全生」を求め、そこに生きてきた野口晴哉。
「自由自在なる宇宙人」という視野・視点のひろがりの中で、いまここの一点に集注してゆく、その自由さと型のなかに、野口晴哉の力強さはある。
ぼくがかかげる「Global Citizen」という諸相など、一気にふきとばされてしまうほどの強さだ。
でも、実を言うと「Global Citizen」の意味合いのなかには、<宇宙人>(宇宙に生きる人)としての諸相がふくまれている。
変にきこえるかもしれないけれど、ほんとうにそうかんがえながら、ぼくは野口晴哉の思想と実践に、真摯に耳を傾けている。
「自然からの人間の自立と疎外」と「共同態からの個の自立と疎外」(真木悠介)。- 月あかりに照らされる「近代文明の存立」。
香港の夜空で月あかりがさらにあかりを増していくなかで、「自然」という大きな視野はぼくの視界をひろげてくれることを思う。...Read On.
香港の夜空で月あかりがさらにあかりを増していくなかで、「自然」という大きな視野はぼくの視界をひろげてくれることを思う。
じぶんという存在を、一気に相対化してくれる。
その大きな視界から、人間の社会をみつめる。
社会学者である真木悠介のどこまでもひろがり、どこまでも深い視界・視野と、展開される論理は、人間社会、その近代文明を「大きく太い線」でとらえている。
「自然からの人間の自立と疎外」と「共同態からの個の自立と疎外」という、大きく太い線である。
真木悠介の著作のなかで、この太い線がより明確な形で提示されたのは、名著『時間の比較社会学』においてである。
…われわれの<時間の比較社会学>の問題意識と主導的な仮説を整理しておくと、つぎのようになる。
第一に、虚無化してゆく不可逆性としての時間の観念は、萌芽的にはオリエント、とりわけヘブライズムといった、最古の反自然主義的な文化と社会の中で発生し、展開してきたものではないか。
第二に、抽象的に無限化されうる等質的な量としての時間の観念は、萌芽的にはインダスその他の、高度にはヘレニズムのような、都市化された(集合態的な)社会形態の中で発生し、展開してきたものではないか。
そして西欧にその起源を有する近代文明は、この二つの文明史的な展開の統合の帰結として存立するのではないか。
理論的に抽象化していえば、第一の契機は、自然からの人間の自立と疎外、それによる自然との<生きられる共時性>の解体にかかわる要因ではないか。第二の契機は、共同態からの個の自立と疎外、それによる共同態の<生きられる共時性>の解体にかかわる要因ではないか。…
真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店
途上国の発展・開発の現代的課題(よって先進国の発展・開発の歴史)を学び、疑問を抱きつつ、「発展・開発とは何か」という原的な問題を追い求めていた20年程前に、ぼくは、真木悠介の、この「大きく太い線」で引かれた視界・視野を手に入れた。
そして、この太い線は、ぼくたちが生きる世界の巨視的な把握のためにも、とても大切で、かつ有効なものであると、ぼくは思う。
今も「自然からの」あるいは「共同態からの」<自立>のたたかいはまだつづき、そしてそれらからの<疎外>がもたらす人と社会における問題に、ぼくたちは日々直面し、あるいはそれらを目にする。
ただし、自然からの、あるいは共同態からの自立は、人びとの生活とその社会を解き放ってきたものでもある。
太い線による巨視的な「近代文明の存立」の把握は、正の面と負の面双方をみはるかしながら、現代をよりよく生き、これからの未来を構想しひらいていくための、基礎・基盤である。
自然の限りない大きさにさらされると、ぼくの視界は一気に拡大し、たとえば「近代文明」を視野におさめようとしたりする。
ぼくが今立っている「地点」は、人や社会が、自然から、また共同態から自立してきたことの帰結なのだ。
異常なほどに光をはなつ月あかりに、古代の人たちは畏れ・恐れを感じ、その中に埋没してしまっていただろう。
現代のぼくたちは、自然から「自立」し、そんな月に不気味なものは感じない。
しかし「自立」でありながら、自然からの「疎外」として、うしなってきたものもある。
自立と疎外の行きつく果てに、ぼくたちは今さしかかっているのだと、ぼくは思う。
自立と疎外の行きつく果てに、ぼくたちは、どのような世界をつくりだしていくのか、月あかりのなかで、そんなことをかんがえる。
月あかりからもらってきた「おはなし」。- 香港で、満月の月あかりに照らされて考える、「非意識」からやって来た宮沢賢治作品の普遍性。
宮沢賢治のことをかんがえながら、ちょうど月が満月になるタイミングが重なって、ぼくの中では、だれもが知るところの『注文の多い料理店』の序に書かれた文章が浮かんでくる。...Read On.
宮沢賢治のことをかんがえながら、ちょうど月が満月になるタイミングが重なって、ぼくの中では、だれもが知るところの『注文の多い料理店』の序に書かれた文章が浮かんでくる。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたがないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫
今から20年程前に行われた、宮沢賢治をめぐる座談会(「可能態としての宮澤賢治」雑誌『文学』岩波書店)で、見田宗介はとても面白い問題を提起している。
近代的自我という視点において、「近代的自我の表現としての文学、という方向を原的に批判する思想としての賢治作品」として、見田宗介は宮沢賢治の作品をとらえている。
見田 自我の問題でいうと、宮澤賢治の作品というのはフロイトが言うような無意識と同じものではなくて、ユングの言う無意識とも違う。だから精神分析学で言う無意識というより、もう少し非意識みたいな、<意識でないもの>というような感じのところから来るものがあるようにみえる。…作品がどこから来るかというのは、作者の意識から来るというのが一つの典型的な形としてある。もう一つは作者の非意識から来るというのがある。それともう一つは作者以外のところから来る、作者の外部から来るみたいなところがある。…
「可能態としての宮澤賢治」雑誌『文学』岩波書店、1996年
見田宗介は、谷川俊太郎から聞いた、大江健三郎の発言も紹介している。
大江健三郎は谷川俊太郎との会話のなかで、「最初の二つの作品で無意識は全部使い果たした」ということを語ったという。
それ以降の作品は意識で書いている、と。
無意識を使って書かれた作品と文学作品における「普遍性」ともからめながら、宮沢賢治の作品の「普遍性」も、賢治作品が非意識から来ているということと関係しているのではないかと、見田宗介は語っている。
賢治作品は、よく知られているように、アメリカの原住民の人たちが深い共振を示したと言われている。
月あかりからもらってきた「おはなし」は、人と人との境界を、超えてゆく。
宮沢賢治は、冒頭の「序」のなかで、「ほんたうに」という言葉をくりかえしつかっている。
虹や月あかりからもらったとしか言いようがない仕方で、非意識から届けられた「おはなし」は、宮沢賢治が自身にたいしても「ほんたうに」と言うしかないような作品が立ち上がってきたのだろうと、思われる。
『注文の多い料理店』だけでなく、例えば『鹿踊りのはじまり』は「すきとおつた秋の風」から聞いた「おはなし」である。
月あかりは、西アフリカのシエラレオネにいても、東ティモールにいても、それからここ香港にいても、ぼくに光をそそいでくれる。
ぼくたちが心を「ほんたうに」すきとおらせていけば、「おはなし」は聞こえてくるはずだ。
「近代的自我の表現としての文学」に見られるように、近代や都市という「脳化社会」(養老孟司)において意識や意味などにだけ水路づけられた生においては、「おはなし」は容易には聞こえてこないかもしれない。
この文章の最初に置いた「序」は、宮沢賢治の次のような言葉で終わっている。
…わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。
宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫
「すきとほつたほんたうのたべもの」が、生をひらく水路をひらいていくための「たべもの」となるかどうかは、宮沢賢治の「ちいさなものがたりの幾きれ」にではなく、ぼくたち自身に賭けられている。
天頂から四方の青白い天末までいちめんはられた「インドラの網」(宮沢賢治)。- とても疲れているときに読む宮沢賢治。
宮沢賢治の書いた短編の中に『インドラの網』という作品がある。作品は、「私」が大へんひどく疲れていて倒れているところから、はじまる。...Read On.
宮沢賢治の書いた短編の中に『インドラの網』という作品がある。
作品は、「私」が大へんひどく疲れていて倒れているところから、はじまる。
そのとき私は大へんひどく疲れていてたしか風と草穂との底に倒れていたのだとおもいます。
その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずいぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやっていました。
そしてただひとり暗いこめももの敷物を踏んでチェラ高原をあるいて行きました。…
宮沢賢治『インドラの網』青空文庫
「私」はそうしてチェラ高原を歩きながら、やがて一人の天が翔けているのを見て、いつしか、人の世界のチェラ高原から「天の空間」にまぎれこんだことを知る。
ただ、まぎれこんだと思ったら、やはりチェラ高原にいることを知り、感官のゆらぎを感じることになる。
そのとき、ふと三人の天の子供らに出会い、その一人が空を指差して、叫ぶ。
「ごらん、そら、インドラの網を。」
私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金で又青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。…
宮沢賢治『インドラの網』青空文庫
「インドラの網」をたよりに、見田宗介は宮沢賢治という詩人の描いた「ありうる世界の構造」をよみとっている。
…インドラの網(因陀羅網)は、帝釈天(インドラ)の宮殿をおおうといわれる網である。この網の無数の結び目のひとつひとつに宝の珠があり、これらの珠のひとつひとつがまたそれぞれに、他のすべての珠とそれらの表面に映っているすべての珠とを明らかに映す。このようにしてすべての珠は、重々無尽に相映している。
それは空間のかたちとしては、それぞれの<場所>がすべての世界を相互に包摂し映発し合う様式の模型でもあり、それは時間のかたちとしては、それぞれの<時>がすべての過去と未来とを、つまり永遠をその内に包む様式の模型でもあり、そして主体のかたちとしては、それぞれの<私>がすべての他者たちを、相互に包摂し映発し合う、そのような世界のあり方の模型でもある。
それは詩人が、<標本>と<模型>という想像力のメディアをとおして構築しようとこころみていた世界のかたちーありうる世界の構造の、それじたい色彩あざやかな模型のひとつに他ならなかった。
見田宗介『宮沢賢治』岩波書店
インドラの網の無数の結び目のひとつひとつの珠は、ぼくにいっぱいにひろがる水玉を思い起こさせる。
水玉たちは相互に相映している。
ひとりの人のきらめきが、他の珠にも映されてゆき際限なくひろがっていくような、そしてそのような映り行きが幾億互に交錯しひかってゆく「世界のあり方」。
そのイメージが、「空間」と「時間」そして「主体(<私>)」というかたちとして、詩人のはてしない想像力が描く「ありうる世界の構造」の模型であったという読解は、ぼくたちの描く「世界のあり方」を豊かにしてくれる。
実を言うと、とても疲れているところで、いつものように(儀式のように)見田宗介の『宮沢賢治』を手に取って、それからこの「インドラの網」に目がとまり、この読解に心身をひたしてから、宮沢賢治の作品『インドラの網』をひらいた。
そうしたら、その冒頭を見ながら、あっと、ぼくは気づく。
『インドラの網』は、「大へんひどく疲れていてたしか風と草穂との底に倒れていた」私の、感官のはてにひろがってゆく話であったからだ。
疲れは、ときに、想像力がひらくあの次元に、人をはこんでもいく。
そんなことをかんがえながら、『インドラの網』という話に心身をひたしていたら、いくぶんか、疲れがとれたことを、ぼくは感じている。
暦・時間にとりこまれず、味方につける。- 世界を移動しながら相対化されてゆく「暦・時間」の中で。
カレンダーが12月になり、2017年という年は1ヶ月という「時間」を有している。そんなあたりまえのことを思いながら、ぼくは、日本、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それからここ香港と、世界で住まいの拠点を変えていく過程で、「暦・時間」の感覚が一層、じぶんの中で相対化されてきたことを、思う。...Read On.
カレンダーが12月になり、2017年という年は1ヶ月という「時間」を有している。
そんなあたりまえのことを思いながら、ぼくは、日本、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それからここ香港と、世界で住まいの拠点を変えていく過程で、「暦・時間」の感覚が一層、じぶんの中で相対化されてきたことを、思う。
日本に暮らしていたときには、すっぽりと「日本的な暦・時間」の中にじぶんがおさまっていて、日本的な風習・行事を生活の区切りとしながら、そのような「暦・時間の構造」の中で生きていた。
お正月があり、4月の入学・入社・新しい会計年度のスタートがあり、お盆があり、年末がありという具合だ。
ひとたび海外に出てみて、その「時間の構造」が相対化されていく。
ここ香港では新年は「旧正月」を祝うことから、1月1日ではなく、旧暦にしたがい毎年日にちが変動する「旧正月」が生活や仕事の流れの中に、ぐいっと、はいりこんでくることになる。
シエラレオネや東ティモールなどでは、祝日の中には宗教的な日が選ばれたりすることから、生活の区切りも異なる。
シエラレオネや東ティモールにおいて国際NGOや国際機関で勤務している人たちは、それぞれ自身の「時間の構造」の中で動くから、日本にいたときのようにみんなが一斉に休むというより、それぞれの風習や文化に沿った暦・時間に沿って休暇をとったりする。
このような環境に長く身をおいていると、それまでの「日本的な暦・時間」の考えが相対化され、その感覚も解凍されていく。
そして、それでも「西暦」というものがひとまず、(お金という概念と同じように)世界の「協働連関」をつなげるものとして屹立していることに、驚きと感嘆をいだくことになる。
「相対化」されていくことで得たものと言えば、「暦・時間」はやはり人間がつくりだしたものだということの、実感である。
日本で暮らしていたときには、そのようなことは頭ではわかっていたのかもしれないけれど、「暦・時間」は絶対的なものとしてそこにあるように感覚されていたのだと、思う。
その実感を手にいれながら、ぼくは、「暦・時間」をあくまでもツールとして、ぼくの「味方」につけることへと方向転換をしてきた。
絶対的なものとしてじぶんに迫ってくる「暦・時間」ではなくて(もちろん「締め切りがせまってくる」ような状況はあるけれど)、ぼくの生活を豊饒化させていく手段として活用していくことである。
まったく自分勝手だけれど、いわゆる「新年」(1月1日)までにできなかったことは、「旧正月」をターゲットにして動く。
「Procrastination(先延ばし)」と言われればその通りなのだけれど、これは、あくまでもひとつの例として。
暦・時間に支配されることなく、逆に活用していくこと。
世界をつなげる協働連関のための「暦・時間」の「ありがたさ」をたしかめながら、しかし、じぶんの中や大切な他者たちとの間に流れる<時間>も取り戻し、生きてゆくこと。
外的な時間(「暦・時間」)と内的な時間(「じぶんの中や他者たちとの間に流れる<時間>」)を、それぞれに豊饒に生きてゆくこと。
世界を移動しながら相対化されてゆく「暦・時間」の中で、ぼくが実感として獲得してきたことである。
それでも、ますます加速していく世界の中で、外的な時間は気がつけば、圧倒的な力でもって、ぼくたちの内的な時間に侵食してしまう。
その侵食をのりこえていくところに、今のところ、ぼくたちの生き方のスタイルと工夫がかけられている。
心と身体にせまってくる、相田みつをの言葉たち。- 一時帰国したときに立ち寄った「相田みつを美術館」で。
2010年のとき、ぼくは香港に暮らしていて(今も香港だけれど)、日本に一時帰国することになった。...Read On.
2010年のとき、ぼくは香港に暮らしていて(今も香港だけれど)、日本に一時帰国することになった。
その頃は日本に行く機会は、年に1回ほどであった。
人が生きていく上で直面しなければならないことに、ぼくは相当にまいっていて、「世界の風景」が違ってみえるほどであった。
そんな折に、たまたま東京国際フォーラムの近くを通って、「相田みつを美術館」がひらかれているのを見つけた。
美術館のオープンは2003年11月。
ちょうどぼくが西アフリカのシエラレオネから東ティモールに移って、最初のコーヒー輸出を終えたころということで、ぼくはあまり東京に帰ってくる機会がなく、美術館のオープンは知らなかった。
それまでも「相田みつを」のことは知っていたし、数点の作品を見ただけで魅かれてもいたけれど、通常であれば美術館の行くほどの気持ちは起きなかっただろう。
しかし、2010年のその時は、なぜか、「相田みつを」に魅かれ、空白の時間ができたこともあり、ぼくはひとり、「相田みつを美術館」の空間に入っていった。
ぼくは、そこで出逢う、相田みつをの言葉たち、言葉とその筆使いに圧倒されることになる。
原作の数々の言葉たちが、心と身体にせまってくる。
「詩」という、言葉の地平線にむかって放たれて書かれる言葉たち。
書かれた言葉たちが、深く、身体的なのだ。
ぼくは、言葉ひとつひとつの「筆づかい、筆致」に、心身をかさねあわせていく。
ぐーーっと、言葉たちがちかづいてきては、じぶんのなかで、何かが解凍される。
当時のぼくを、深いところでささえてくれるような、言葉たちであった。
しあわせは
いつも
じぶんの
こころが
きめる
相田みつを(相田みつを美術館)*写真はブログ筆者(美術館で手に入れたもの)
このシンプルな言葉だけでも、ぼくたちに伝わってくるものがあるけれど、筆づかいは「相田みつを」という人をとおして、ぼくたちをさらなる深いところに導いてくれる。
「しあわせ」ということを、相田みつをは、どのように考え、感じていたのだろう。
ここでは「じぶんのこころがきめる」としている。
「じぶん」と「こころが」の筆致が、「しあわせ」に増して、圧倒的にちからづよく書かれ、せまってくる。
相田みつをにとって、「しあわせ」は、二の次だったのではないかと、ぼくには見える。
「しあわせ」を大切にしていないわけではない。
「じぶん」と「こころ」に、徹底的にむきあってきたからこそ、変幻自在の「しあわせ」はこの筆致で書かれたように、思う。
相田みつをの言葉たちと筆づかいを心身で感じながら、ぼくが見ているのは、ぼく自身の「じぶん」と「こころ」でもある。
相田みつをのまなざしは、この言葉たちをみている人たちの「じぶん」と「こころ」にも、向けられている。
相田みつをはそこに立ちながら、ぼくたちに問う。
あなたの「じぶん」と「こころ」はいかがか、と。
国際協力・国際支援という<場>。- ぼくの「底流に流れるテーマ」の現出する場としての国際協力・国際支援。
国際協力・国際支援という「領域」に踏み込んだこと、それからそれに最初の仕事として関わったということの、その底流には、さまざまなことがあったと、今では思う。...Read On.
国際協力・国際支援という「領域」に踏み込んだこと、それからそれに最初の仕事として関わったということの、その底流には、さまざまなことがあったと、今では思う。
「底流」とここで言うのは、ぼくの内的な側面である。
外部的なことで言えば、世界では貧困問題や戦争・紛争が続いている。
そのような外的な状況の中で、世界を少しでもよいところにしたい、必要としている人たちに手をさしのべたいという気持ちがわき起こる。
それらの気持ちはぼくを牽引するものでもあったけれど、「底流」はさらに、ぼくの中の奥深くにあるものだ。
それは、ぼくが生きることの「テーマ」とも言える。
「本」にたとえて言えば、世界を少しでもよいところにしたい、というのが「章」であるとするなら、底流に流れるテーマは本全体に照準する。
国際協力・国際支援は、ぼくの底流に流れるテーマと接合する<場>であったように思う。
あるいは、底流に流れるテーマがもっとも露わな仕方で現出し、ぼくをそのテーマの中に日々投げ落としていくような<場>である。
国際協力・国際支援の「現場」は、一般に思われるほど「協力・支援の美しい形と内実」にみちあふれた場ではない。
もちろん、そのような「美しい形と内実」を目指してはいるし、ときに、幸福な仕方で、そのようなことが起こったりする。
でも、あたりまえだけれど、日々の仕事においては苦悩と矛盾と困難に直面してゆく。
それら苦悩と矛盾と困難の中にすっぽりと入って、道をきりひらいていかなければならない。
ぼくは、その中に、ぼくの「底流に流れるテーマ」がもっとも現出されるような現実に直面してゆくことになる。
「底流に流れるテーマ」のひとつは、ぼくのブログのテーマでもあるけれど、「生きる」ということ。
生きるということは何であろうか。
紛争や貧困などの現実に身体でふれながら、ぼくは心身ぜんたいで考える。
それから「しあわせとは何であろうか」という問いが、こだましてきた。
国際協力・国際支援は、プロジェクトを通じて「結果」をうみだしていくことになるのだけれど、その先にぼくたちは何を目指しているのか。
それは人びとの「しあわせ」であるのだけれど、そもそも「しあわせ」とは何だろうか。
そして、ぼくたちはどのようにしたらよりよく生きていけるのか、歓びにみちた生をどのようにおくることができるのか。
このような「底流に流れるテーマ」が日々の中で問われる。
圧倒的な仕事量で目の前の仕事に手一杯になりながらも、問いは外部から、そしてぼくの底流の方から、いやおうがなくやってくる。
国際協力・国際支援は、ぼくにとっては(あくまでもぼくにとってはということだけれど)、「底流に流れるテーマ」がもっとも露わに現出するような<場>であった。
だから、苦悩と矛盾と困難に日々圧倒されながらも、情熱の炎を消すことなく、全身全霊で立ち向かうことができたのだろうと、ぼくは思う。
「英語」は習ったままにせず、異なる世界への「鍵」として使う。- 「英語のインターネット空間」に入ること。
「英語」は習ったままにしないことである。「英語を使う」というあたりまえのことなのだけれど、現代は、その「垣根」が一気に低くなった。...Read On.
「英語」は習ったままにしないことである。
「英語を使う」というあたりまえのことなのだけれど、現代は、その「垣根」が一気に低くなった。
使わないことの言い訳ができないほどに、垣根が低い。
ぼくが英語を習い始めた30年程前は、英語を使う環境を自発的に見つけ作っていく必要があった。
「英語を使って話す」ことが必要だと言われたけれど、じぶんの周りを見回したところですぐには見つからない。
そのような環境を見つけていく必要があった。
ぼくは結局のところ、教科書や参考書と向き合い、ときおり洋楽の歌詞の世界に入りこんだ。
でも、今は事情はまったくと言ってよいほど異なる。
「現実の世界」においては、日本にいても、世界いろいろなところからくる人たちに出会うことができる。
そして何よりも、「インターネットの世界」が状況を圧倒的に変えてしまった。
そんなことは言われなくても誰もが思うところだが、ぼくは繰り返し、そのことを書いておきたい。
「インターネットの世界」に誰もがつながりながら、しかし、多くの人たちはそのヴァーチャルな世界の一部にしか訪れていない、ふれていない。
「日本語のインターネット世界」に閉じこもってしまうのだ。
英語検索によってインターネット世界をひらくだけでも、視界は一気にひらける。
東浩紀が、著書『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎)の中で、検索の言語を変えてみるだけで異なる世界がひろがることにふれている。
検索ワードを日本語だけに限定すると、検索エンジンは「日本語のインターネット世界」に人を案内する。
それを他の言語に変えると、そこにはまったくといってよいほどに異なるインターネット世界がひろがっている。
それも、どこか遠くにあるのではなく、すぐそこに、ひろがっている。
「検索ワード」はどのような検索ワードをタイプするかで検索のパフォーマンスに影響するという意味で、検索ワードの選び方はスキルのひとつだけれど、そこで「言語を変える」ということも身につけたいところだ。
英語によるインターネットの世界は圧倒的な「空間」であるけれど、検索などで訪れるだけでなく、もう一歩すすんでおきたいところだ。
楽しむだけでなく、インターネットがどのように使われているのかを見ておくことが、もう一歩である。
例えば、無料の「ニュースレター」でよいので、配信登録をしてみる。
配信登録で使われる英語は初歩的なものだ。
ニュースレターがどのような内容で、どのように送られてくるのか、どのくらいの頻度で、どのタイミングに配信されるかなど、学ぶべきところばかりだ。
マーケティングオートメーションなどの仕組みなども、興味深い。
いろいろな実践や試みが、圧倒的に早いスピードで展開されているのだ。
このような学びが、今では、手元の携帯電話だけでできてしまう。
「英語」は習ったままにしないこと。
それは、異なる世界、「英語のインターネット空間」という、果てしないひろい世界への「鍵」である。
いずれは、翻訳アプリや翻訳機能の進歩により、言語を習わなくてももっとシームレスに入っていける空間がひらけていくけれど、今ここに「鍵」があるのだから、使わない手はない。
「如何なる教育も健康を損なうようなら間違っている」(野口晴哉)- 今だからこその、野口晴哉著『潜在意識教育』。
野口晴哉の著作の中に『潜在意識教育』(全生社、1966年)という著作がある。体癖研究や整体指導につくす野口晴哉が、専門外でありながらと断りつつも、4人の子供たちの親として語る本である。...Read On.
野口晴哉の著作の中に『潜在意識教育』(全生社、1966年)という著作がある。
体癖研究や整体指導につくす野口晴哉が、専門外でありながらと断りつつも、4人の子供たちの親として語る本である。
著作の最初に「潜在意識教育について」という文章がおかれ、直截的な言葉が置かれている。
「如何なる教育も健康を損なうようなら間違っている」
とてもシンプルな結論でありながら、この現代社会の中では「むつかしい」ことでもある。
「潜在意識教育」と聞いて、現代の人たちはもとより、当時においても「心の問題」のようなものとして語られるだろうことを想定して、野口晴哉ははじめにストレートに書いている。
…潜在意識教育というものも、心の問題として考えているのではなくて、私自身が体の整理ということを仕事にしているので、潜在意識教育も、体の整理のための手段と言うか、その通り道として扱っている。べつだん心のための心の教育とか、今日の社会に必要な人間の教育とかいうことを考えているわけではない。ただ人間の体が健康であり元気であるためには、どのように心を使って行ったらよいか、どういう心の使い方が人間の健康と関連し、人間が丈夫になるのかということが問題であって、私の説くことが今の社会に合うか合わないかは、まだ検討していないのである。
野口晴哉『潜在意識教育』(全生社、1966年)
野口晴哉ならではの「切り口」で、潜在意識や教育にきりこみ、その教えの基本の深さから、野口晴哉の他の著作群と同じように「分類不能の書」(見田宗介)となっている。
体の健康の話であり心の話であり、それから子供の話であり大人の話である。
子供や人間の「体」がおきざりにさられがちな現代の状況にあって、今だからこそ、ぼくたちに訴えてくる話にあふれている。
【目次】
序
潜在意識教育について
独立の時期
可能性の開拓
裡の自律性
内在する創造力
空想の活用
人間の自発的行為
価値の創造と価値観の変化
性と破壊の要求
思春期
潜在能力の開発
- 暗示からの解放
- 推理の能力を開拓する法
- 忘れるという記憶法
- あなたは自分の体の主人
- 予知本能か觀念死か
性格形成の時期
- 口のきけない時期
- 誕生以前
- 生後十三ヵ月間の問題
- 食べ過ぎの心理
質問に答えて
非行の生理
子供の「教育」の本でありながら、大人の「問題」にも光があてられる。
子供と親の「間」のことが語られながら、大人が抱えている体の問題に、まっすぐに野口の言葉が届いてくる。
ぼくは、自分が子供だったころのじぶんを重ね合わせながら、そこから今も引き継いでしまっているであろう「体」と潜在意識の問題を、野口の教えを導きに、みつめている。
ところで、「裡の自律性」という章で、野口晴哉は「躾(しつけ)」の問題に向き合っている。
その中でに、「人間の本性は善か悪か」という節がある。
人間の本性は悪いものだから躾が必要だという考え方と、人間の本性は善いものだから心にあるものを喚び出しさえすればいいのだという考え方の両極を見はるかしながら、野口晴哉は躊躇することなく、「本来の人間の心は善である」と語る。
…何故かというと人間は集合動物で、お互いがなくてはお互いに生きられない。そういう構造をしているのだから、いつでも相手の心を我が心とする心が誰の中にでもある。だから産まれる時に何故オギャーと言うかというと、人の助けを求めているのである。自分がここに産まれたという宣言である。人の世話にならなくては大きくなれないように産まれるということはおかしなことで、馬だって、象だって、産まれたらすぐに歩けるのに、人間だけは一年たってもなかなか歩けない。大人の保護を受けるようにできているということは、人間の心が善意であるということを意味している。だからこそ、赤ちゃんはそんな無用心な、保護を受けなければ育たないような格好で産まれてきている。もし善意がなかったら、誰も育ってはいない。お互いに生命を伸ばそうという心があるから、伸ばす相手も伸びてゆくことが嬉しい。…お互いの生命を扶け合うように、人間自体ができている。一人では生きられないようにできている。…
野口晴哉『潜在意識教育』(全生社、1966年)
野口晴哉の言葉には、曇りがない。
まっすぐに、人間の「善」を見つめている。
戦争の時代を生きてきた野口が、人の「闇」を知らないわけはない。
ただ、その体というところに降りたった時に、野口はそこに「善」をみるだけだ。
「人間が産まれる」ということの中に、人間や家族や社会ということの本質が詰まっている。
なお、赤ちゃんの「産まれ方」にかんする現代の動物社会学などの学問・科学的な知見は、野口晴哉のこの見方と同じ方向に議論を展開している。
野口晴哉の、この「分類不能の書」は、分類だけでなく、体ということに定位することで、分類だけでなく時代をものりこえてゆく力をもっている。
そのような力をもつ本と思想は、この本が出版されてから50年が経っても、まだ依然として語り尽くされていない。
「リーダーはむつかしいぞ」(野口三千三)。- 見田宗介の「リーダー」論。
人間と社会を透徹した深さとどこまでもひろがる視界でよみとき、「人間はどう生きたらいいか、ほんとうに楽しく充実した生涯をすごすにはどうしたらいいか」を生きることのテーマとして追い求めてきた社会学者の見田宗介が「リーダー」をどのように考えるか。...Read On.
人間と社会を透徹した深さとどこまでもひろがる視界でよみとき、「人間はどう生きたらいいか、ほんとうに楽しく充実した生涯をすごすにはどうしたらいいか」を生きることのテーマとして追い求めてきた社会学者の見田宗介が「リーダー」をどのように考えるか。
ぼくが知るところ、それほどは、直接的に語られていない。
見田宗介がどのように「リーダー」を語るのかは興味深いところだ。
個人的に「リーダー」というものを見直しているなかで、そんなことを思う。
そのような折に、一息ついて見田宗介の著作集(『見田宗介著作集X』岩波書店)を手にとり、「春風万里ー野口晴哉ノート」という論考(講演)の文章を、ぼくは読む。
どんなにつかれているときでも、見田宗介(真木悠介)の文章を読んでいると、心身がときほぐされていく。
論考の最初の章は「春風万里ー技を修めて技を用いず」と題され、整体の創始者と言われる野口晴哉の『治療の書』という、「分類不能の書」にふれている。
その中で、見田宗介はエピソードのひとつを語っている。
東演という劇団の演出家が亡くなり、若い俳優の相沢治夫が劇団をひきつぐことになったときの、激励のパーティーでの話である。
パーティに出席していた野口三千三(「野口体操」の創始者。野口晴哉・野口整体とは別である)が、相沢治夫をそばに呼んで、次のようにささやくのを、見田宗介は隣席で耳にする。
「リーダーはむつかしいぞ。利口でだめ。馬鹿でだめ。中途半端はもっとだめ」
見田宗介は、「指導者となるべき人間の器を問う観察として、鋭く的確な表現」と、この論考(講演)の時点でも考えていることを伝えている。
見田宗介の「リーダー」論があるとすれば、とりあげられる言葉だ。
野口三千三の言葉は、見田宗介が言うように、的確でありながら、人を迷わせる。
利口はだめ、馬鹿はだめ、その中間もだめであるならば、リーダーはどのようであるのがよいのか、と。
見田宗介は、ここで論考のテーマである野口晴哉にもどる。
『治療の書』の冒頭に近い所に、このような一節がある。
技は振うべく修むるに非ず。用いざる為也。
技を修めて、技を技として振うのが利口の道である。技をはじめから修めないのが馬鹿の道である。技を修めて技を用いずという道は利口でも馬鹿でもないが、その中間ということでもない。人はこのような仕方で、利口とか馬鹿とかいう地平を越えて出ることができる。
見田宗介『見田宗介著作集X』岩波書店
野口三千三の言葉、野口晴哉の「技」にかんする到達点(通過点)、見田宗介による読み解きは、ぼくの中に思考の芽を点火する。
「技は振うべく修むるに非ず。用いざる為也。」
ぼくの中の思考の大海に、ぼくは言葉を投ずる。
しかし、観念だけの大海ではなく、体験や経験と重ね合う思考の大海だ。
野口晴哉や野口三千三や見田宗介といった「身体」から人や社会を考える、ほんとうの思想家たちと(ぼくの中で)議論を交わしながら。
音楽を奏でる家「Goose house」という<場のコミューン>。- 「オンガク」へと解凍される音楽。
「Goose house」という、日本の音楽グループがある。ソニー・ウォークマンのPR企画「PlayYou.House」の後身として、番組終了後も番組制作を続け、YouTubeなどに演奏をアップしている。...Read On.
「Goose house」という、日本の音楽グループがある。
ソニー・ウォークマンのPR企画「PlayYou.House」の後身として、番組終了後も番組制作を続け、YouTubeなどに演奏をアップしている(参照:Wikipedia)。
シンガーソングライターが集まり、カバー曲やオリジナル曲を演奏している。
2011年の活動から徐々にファンを増やし、CDを発表し、今では大きなライブ公演もこなす。
YouTubeに演奏がアップされると、またたく間に多くの視聴者を得ているようだ。
ぼくたちの「思考の癖」からは「グループ」というように見てしまうのだけれど、名前そのものが示すように「house 家」という<場>である。
Goose houseのホームページに書かれているプロフィールには、そのことがシンプルに書かれている。
シンガーソングライターが集い
オンガクを奏でる家、Goose house。
ひとつひとつは、
まだちっぽけな音だけれど、
重なり合い、紡ぎ合い、
やがてひとつの暖かい音になり、
この都会の片隅の小さな部屋から、
世界中の街へ拡がりつつある。
「WHAT’S Goose house」Goose houseホームページより
それは、ひとつの<場>である。
実際に、Goose houseはシェアハウスに集まっては、曲を収録する。
収録した曲は、YouTubeなどに「発表」される。
曲によっては、何万回・何十万回も再生され、視聴する人たちに「何か」を届けている。
Goose houseは、音学を「オンガク」とカタカタで表記している。
ぼくたちが知る「音学」を一度解凍することで、「オンガク」という<オト(音)のたのしさ(楽)>にまで戻りつつ、変わりゆく世界のなかで<オンガクの力>を追い求めているように、ぼくには見える。
Goose houseは、ホームページにおける、上述の文章につづいて、次のように書いている。
10年前には考えられなかった。
それが「今」という時代。
オンガクを取り巻く環境は、
明るい話ばかりじゃないけど、
オンガクの力は、
変わらなくヒトを包んでくれる。
オンガクの「今」を、全身で楽しみたい。
オンガクの「これから」を、
この目で確かめたい。
「WHAT’S Goose house」Goose houseホームページより
ぼくの個人的な好みでは、多くのメンバーで楽曲を奏でる曲に、心ひかれる。
そのアレンジの面白さと「オンガク」を奏でることの<たのしさ>の表出から、ぼくは、例えば次の曲の演奏が好きだ。
● 坂本九「明日があるさ」
● 猿岩石「白い雲のように」
● スガシカオ「Progeress」
● 19「あの紙ヒコーキ くもり空わって」
● Goose house「オトノナルホウへ」
Goose houseの奏でる「オンガク」から湧き出る<たのしさ>は、ぼくが10代に「オンガク」にうちこんでいたときのことを思い出させてくれる。
友人たちと集まっては、だれかれとなく楽器を奏で始める。
そこに響きをあわせるように、ひとりが加わり、またひとりが加わり、そうして「セッション」が始まる。
そこで、ぼくたちは、「オンガク」を通じて、生きることのリズムと<つながり>を感じることができる。
ぼくにとっては、「オンガク」が、この世界につながることの<蜘蛛の糸>のようなものであった。
それは独り占めする「蜘蛛の糸」ではなく、みんなと共にのぼってゆく<蜘蛛の糸>であった。
「伝え授けることむづかしき也」(野口晴哉)。- 野口晴哉の「遺稿」の余白を読む。
「じぶん」というものを相対化していけばいくほどに、ぼくは二人の実践家であり思想家に、ひかれていくように感じる。整体の創始者と言われる野口晴哉、それから養老孟司。...Read On.
「じぶん」というものを相対化していけばいくほどに、ぼくは二人の実践家であり思想家に、ひかれていくように感じる。
整体の創始者と言われる野口晴哉、それから養老孟司。
二人の共通点は、自然としての「身体」への真摯なまなざしである。
養老孟司は80歳を迎え、著書『遺言』(新潮新書、2017年)を世に放ったばかりである。
『遺言』についてはまた取り上げたい本だけれど、最近、野口晴哉の文章のなかに、「我は去る也」という≪遺稿≫があるのを知った。
実を言うと、その≪遺稿≫が収められている著作『碧巌ところどころ』は読んでいたのだけれど、その著書の最後に置かれている≪遺稿≫を、ぼくは読むことなくやりすごしていたのだ。
野口晴哉の≪遺稿≫に目を向けさせてくれたのは、松岡正剛による野口晴哉『整体入門』の書評である。
松岡正剛の書評サイト「千夜千冊」のなかに、野口の著作の書評があり、ぼくは松岡正剛に教えられたわけだ。
野口晴哉の遺稿は、昭和51年に書かれた。
野口晴哉がこの世を去った年だ。
「我は去る也」と書く野口晴哉が、実際にこの世を去ることを予感していたかは、ここの文章からはわからない。
「箱根に移る」と書かれているから、「我は去る」先は、ひとまず箱根であった。
世を去ることにしろ、箱根に移るにしろ、野口晴哉は「伝え授けることのむづかしさ」を深く深く感じながら、この遺稿を書いている。
我は去る也 誰にも会うこと無し
…
我は去る也 心伝え 技授け 今や残す可き何も無し
伝え授けることむづかしき也 我は授けしと思えど 何も会得せざる人多き也 我伝えしつもりなるに 十日あとには何も伝わりおらざりしを認めさせられること多き也 所詮 自ら会得せしこと以外に 伝え授けること出来ざる也 我が去るはこの為なり
野口晴哉『碧巌ところどころ』全生社
伝え授けること、またそれを止めることの比喩として、野口は「空中に文字を画くこと ここで止める也 空中への放言も終える也」とも書いている。
伝え授けることのむづかしさは、空中に文字を画くようなもの、あるいは空中への放言のようなものだと、語られている。
あの野口晴哉でさえ、というか、野口晴哉だからこそ一層に、そのように深いところで感じていたのかもしれないと、ぼくは遺稿の「余白」を読む。
松岡正剛は、なぜ「我は去る也」と書いたのかをかんがえながら、野口のような独創の持ち主のまわりには多くの人たちがあつまりながらも、多くは野口を生かそうとは思わず、野口はそこに疲れ、失望したのだろうという考えにいきつく。
松岡正剛はそこでギアを変え、しかし野口晴哉が残した整体は、逆に後世に着実に広まっていったことに着目している。
松岡正剛は次のように書いている。
なぜ野口の意志をこえて広まったのか。野口が主題ではなく、思想ではなく、方法を開発したからなのである。野口は「方法の魂」を残したのだ。野口自身はその方法を早くに開発していたから、そののちはむしろ人々の「思い」や「和」や「覚醒」を期待しただろうけれど、創発者からみれば追随者というものは、いつだって勝手なものなのだ。
松岡正剛「野口晴哉 整体入門」、書評サイト「松岡正剛の千夜千冊」より
松岡正剛の解釈に教えられながらも、ぼくは、ぼくだって勝手なものかもしれないとも思う。
ぼくは野口晴哉の「思い」から入って、「方法」は後回しだ。
そのような思いを抱きながら、野口晴哉の「我は去る也」が、ぼくの心にとどまって、去ろうとしない。
人間に、人間の身体に真摯に向き合ってきた野口晴哉と養老孟司。
野口晴哉の「遺稿」と養老孟司の「遺言」。
二人の巨人に、ぼくは真摯に向き合うだけだ。
「我は授けしと思えど 何も会得せざる」と、野口晴哉が空中に放言されようとも。
遺稿と共に、野口晴哉の次の言葉が、ぼくの心に鳴り響いている。
溌剌と生きる者にのみ
深い眠りがある
生ききった者にだけ 安らかな死がある
野口晴哉『碧巌ところどころ』全生社
ワーキングホリデーで、なんとか海外生活できたこと。- 50万円を手に、ニュージーランドに旅立つ。
海外で生活をしていく際に「お金」はやはり必要なのだけれど、ぼくが20年程前にニュージーランドに旅立ったときは、およそ50万円ほどの所持金であった。...Read On.
海外で生活をしていく際に「お金」はやはり必要なのだけれど、ぼくが20年程前にニュージーランドに旅立ったときは、およそ50万円ほどの所持金であった。
大学生の頃にはもちろん大きなお金ではあるけれど、一年を過ごす予定でニュージーランドに旅立つ際に、その金額で何とかなってしまったことは、ぼくのなかに、お金も含めて「なんとかなる」感覚を醸成したのだと、今になっては思う。
なぜ「50万円」であったかというと、当時、ニュージーランドのワーキングホリデー制度のビザ申請において「必要な資金」を持っていることの証明が必要であったことだ。
当時は、(確か)50万円であったと記憶しているけれど、じぶんの銀行口座にその金額以上あることを、通帳のコピーを提出することで証明する必要があった。
ぼくは日夜、東京でアルバイトをしながら資金を貯めることで、なんとかその金額にのせることができた。
(確か)ビザが取れてから航空チケットを購入したので、実際に行くときには、その金額を少し切るようなところであったと思う。
航空チケットは、1年オープンの往復チケットを購入しなければならず、しかし逆に、資金が尽きれば、復路のチケットで帰国するという「緊急策」はある。
それでも、初めて暮らすことになる海外で、50万円を切るくらいの金額で旅立ったのは、なにはともあれ、ひとつに恐れを知らない「若さ」とそれから情熱であったのだろう。
今であれば、たったの50万円で、まったく知らない異国で暮らすために、収入のあてもなく旅立つという無謀なことには、一歩も二歩も足がひけてしまう。
あのときは、「今行かなければ」という焦燥感のなかで、とにかくビザを取るための最低限の資金をもって、ぼくはニュージーランドに旅立った。
こうして、1996年4月にオークランドに降り立ち、ぼくはニュージーランドで暮らすことになった。
南半球のニュージーランドは、ちょうど秋で、これから冬に向かってゆくところである。
オークランドにあるANZ銀行(後に東ティモールでもお世話になる)で、ぼくは海外ではじめて、銀行口座をひらく。
当時お金に心配がなかったわけではない。
少し書いていた日記を読み返すと、お金がみるみる減っていくことに、ぼくは焦りを感じていた。
宿は、最初はバックパッカー向けの安宿で、ドミトリーに宿泊しながら、「空白の未来」に、どのように進んでいくのかを考えていた。
安宿とはいえ宿代もかかり、焦りがつのる。
「早く仕事を見つけなければ…」と。
オークランドを一度はなれ、ファーム(農場)での仕事などにも一時トライしたけれど、結局ぼくはオークランドに戻ることに決める。
オークランドに戻り、住むところを探し、仕事を探す。
今ふりかえると、それはひとつの物語のように、「道」がひらかれていったように、ぼくには見える。
新聞で見つけたシェアハウスの一室を借りることができ、オークランド大学の大学生たちなどと住むことになる。
オークランドで仕事を得ることは容易ではないと言われるなか、たまたま、日本食レストランのウェイターの仕事を得る。
また、日夜働きながらぼくは資金を貯め、「空白の未来」に、「ニュージーランド徒歩縦断の旅」という目標を書く。
そうして、冬があけてくる9月の終わりに、ぼくはオークランドを発ち、「前哨戦」として映画『ピアノレッスン』で有名な砂浜のあるところまでの40キロほどを、歩いていったのだ。
1年をすごす予定が、ぼくのなかで何かの区切りがつき、結局9ヶ月ほどして、ぼくは日本に帰国することになった。
現地ですごすためのお金は、なんとかなってしまった。
「なんとかなる」という感覚が、こうして、ぼくのなかに醸成されていったのだと、ぼくは思う。
それはお金だけでなく、海外で生活をしてゆくということもそうだし、何かをきりひらいていくこともそうだし、そして何よりも、人との出会いにおいてもである。
その後の人生で、「海外に行きたいけれど、迷っている人たち」の相談を受けたりする。
どこで迷っているかにもよるけれど、それがうまく行かないんではないかという「漠然とした怖れ」のようなものであれば、ぼくは迷わずに肩をおす。
人は、道をあゆんでいるときには懸命で気づかなかったりするけれど、後の人生の歩みのなかで、ふと振り返りながら思い起こす。
なんとかなるもんだな、と。
一歩をふみだして、やはりよかったのだ、と。
「風」のように、あるいは「風」として動くこと。- 野口晴哉の思想の通奏低音としての<風>。
整体の創始者と言われる故・野口晴哉。野口晴哉の思想(生き方)には、通奏低音のようなものとして「風」がふきぬけている。...Read On.
整体の創始者と言われる故・野口晴哉。
野口晴哉思想(生き方)には、通奏低音のようなものとして「風」がふきぬけている。
『大絃小絃』(全生社)という著作(エッセイ集)の表紙に、「太古の始めから風は吹いていた…」ではじまる、「風」と題された詩的な手書きの文章が掲げられている。
この文章は、中国の仏教書である『碧巖録』と向き合った著作『碧巌ところどころ』に編集されている、「風」という一群の論考のひとつとしても収められている。
その一群の論考には、近代医術の宗祖であるヒポクラテスのこと、能の芸術論などと共に、「風」と題されるもう一つの文章が最後に置かれている。
風
先づ動くことだ
形無くも 動けば形あるものを動かし 動かされている形あるものを
見て 動いているものを 感ずるに至る
動きを感ずれば共感していよいよ動き 天地にある穴 皆声を発す
竹も戸板も水も 音をたてて動くことを後援する 土も舞い 木も
飛ぶ 家もゆらぐ 電線まで音を出して共感する
ーー天地一つの風に包まる
先づ動くことだ
隣のものを動かすことだ
隣が動かなければ先隣りを動かすことだ
それが動かなければ 次々と 動くものを多くしてゆく
裡に動いてゆくものの消滅しない限り 動きは無限に大きくなって
ゆく これが風だ
誰の裡にも風を起こす力はある
動かないものを見て 動かせないと思ってはいけない 裡に動くも
のあれば 必ず外に現われ 現れたものは 必ず動きを発する
自分自身 動き出すことが その第一歩だ
野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)
「風」ということで表象されることに魅かれるぼくは、野口晴哉のこの文章に触発される。
人は変わることができるか/人は変われるか、組織を変えることはできるか/組織は変われるか、社会を変えることはできるか/社会は変われるか。
ぼくたちは、日々の生活をしながら、仕事をしながら、人との関係の網のなかで生きながら、そのように自問する。
それらの問いは、ぼくのなかでも、国際協力・国際支援の場を通じて、また人事労務という場を通じて、いつもこだましてきた。
体を知り尽くした野口晴哉は、「誰の裡にも風を起こす力はある」と、書いている。
それは、意志とか意識などよりも手前のところで、ぼくたちの身体に流れる力、あるいは身体という力と向き合いつづけてきた野口晴哉からわきあがってくる言葉だ。
野口晴哉は、風を超える<風>、つまり<動き>に敏感な、整体の実践者であり思想家であった。
「誰の裡にも…ある」力を起こすために、「先づ動くことだ」と、野口晴哉はくりかえし伝えている。
それも、「自分自身動き出すこと」が第一歩だと、最後にも同じメッセージを異なる言葉で加えている。
ぼくたちの周りの、家族や友人、組織、コミュニティなどに、「風」が吹いていないのであれば、やはり「自分自身動き出すこと」からはじめることである。
風を起こす内的な力を起こし、風を味方につけるのだ。
「動かないものを見て、動かせないと思ってはいけない。裡に動くものあれば必ず外に現われ、現れたものは必ず動きを発する」と、野口晴哉の身体を通じた深い知恵は、ぼくたちに教えてくれている。
風のように動き、風として動くこと。
野口晴哉の言葉が、いつものように、あの存在の力をもって、ぼくに迫ってくる。
「先づ動くことだ」
遠くはなれて、視点の<点>をふやしていく。- 「世界はこうだ」というプログラムを変えること。
大学時代の旅は、ぼくにとって、ぼくのなかの「世界地図」に、<異なる点>を打っていくようなものであったと、今ではより見晴らしのきく視野から見ていて思う。...Read On.
大学時代の旅は、ぼくにとって、ぼくのなかの「世界地図」に、<異なる点>を打っていくようなものであったと、今ではより見晴らしのきく視野から見ていて思う。
「世界地図」は、実際の「世界」ではなく、ぼくが生まれてから自分のなかに築きあげてきた「世界」だ。
世の中はこうであるとか、社会はこうであるとか、人はこうであるとか、である。
脳は日々シミュレーションをくりかえしながら、「世界」をつくりだしていく。
生きていくうえでは、築きあげていく「世界」は必要だ。
この世界で日々、「安全」に生きていくためのプログラムだから。
でも、ぼくはじぶんで築きあげた「世界」に、生き苦しさを感じてしまっていた。
ぼくは「海外への憧れ」という、ひとつの直感をたよりに、大学の1年目から「旅」をくりかえしていくことになる。
1994年の中国上海にはじまり、香港、ベトナム、タイ、ミャンマー、ラオスを旅していく。
1996年には、大学を休学して、ニュージーランドで暮らす。
旅や海外生活はそれ自体が楽しいもの(たいへんだけれど楽しいもの)でありながら、「方法としての旅」でもあった。
じぶんの脳がシミュレーションをくりかえして築きあげてきた「世界」に<裂け目>をいれていくための、「方法としての旅」。
それは、「視点」の「点」を、「じぶんの世界」にあらたにプロットしていくプログラミングだ。
例えば、ニュージーランドにいたときに、ぼくは初めて、海外で映画館にいく。
確か映画は『12 Monkeys』で、「映画館で日本語字幕なしの映画を観る」という<点>を打つ。
映画のチケットは、ぼくの記憶では当時ニュージーランドドルで6ドルくらいであったから、とても安かったことに、ぼくは驚いたものだ。
日本では「1800円」が「あたりまえ」だと思っていたから、そうではない<点>をぼくはプロットすることになる。
これまでただの<点>であったものが、もうひとつの<点>ができる。
そうして、点と点をつなぐ線分ができる。
そのようにして、視点の<点>をふやしながら、そしてそれは増殖していく。
このことは、別に日本でもできるし、本やテレビなどで見てもできるといえばできるのだけれど、「体験」によって打たれる<点>、とくに今いる環境や文化から遠く離れた「体験」によって打たれる<点>は鮮烈だ。
その<点>は、これまでに穿たれていた<点>よりもはるか遠くに、打たれる。
ベトナムを旅しながら、屋台で食事をとり、ビールを注文する。
缶のビールは冷えていなくて、でも氷の入ったグラスと共に出される。
氷は衛生上危ないこともあるので気をつけるべきものだけれど、当時は氷を安全性を身振り手振りで店員さんに確かめながら、ぼくは氷で冷たくなるビールを試した記憶がある。
ぼくの「世界」に、新たな<点>が打たれる。
そのようにして増殖していく<点>は、線分になり、さらに<面>になり、さらには<立体>になる。
視野がひろがり、パースペクティブが変わっていく。
そのようにして、ぼくのなかの「世界」はひろがり、ひろがるだけでなく、「ありうる世界」という柔軟性を獲得していく。
これまで「世界はこうだ」と思っていたところに、裂け目ができる。
ある面で凝固していたシミュレーションがふたたび作動していく。
「方法としての旅」ということを考えるときに、ぼくは、この<点>の大切さを、今では思う。
「世界」はぼくたちが思っているほど、狭くはない。
ひろがる<世界>を、ぼくたちの狭い「世界」に閉じ込めないこと。
今日も、だから、<点>をひとつひとつ打つ。