音楽・美術・芸術, 成長・成熟 Jun Nakajima 音楽・美術・芸術, 成長・成熟 Jun Nakajima

人生は、40歳にはじまる。- ジョン・レノンの曲「Life Begins at 40」。

「Life Begins at 40」。人生は、40歳にはじまる。

「Life Begins at 40」。人生は、40歳にはじまる。

「Life Begins at 40」は、ジョン・レノンが、1980年、40歳になった年に創られた曲である。同じ年に40歳になったリンゴ・スターのアルバムに収録を意図して創られたようである(参照:Wikipedia「Life Begins at 40(song)」)。

けれども、同年12月8日、ジョン・レノンは銃弾に倒れる。こうして、もともとの計画は頓挫してしまったのだけれど、後年、「Life Begins at 40」のデモ版が収められたCDが発売されて、ぼくたちが聞けるようになった。

メトロノームが鳴り響くなか、「…ダコタのカントリー・ウェスタン倶楽部にようこそ」という、ジョン・レノンの語りからはじまるデモ版である。

その言葉に見られるように、カントリー風の曲調で曲がはじまり、どこか悠長な響きで、ジョン・レノンは歌いはじめる。


They say life begins at forty,
Age is just a state of mind.
If all that’s true,
You know, that I’ve been dead for thirty-nine.

John Lennon「Life Begins at 40」(Lennon Music, EMI Blackwood Music Inc. OBO LENONO Music)


人生は40歳にはじまるのだという。年齢はただのマインドの状態にすぎないんだと。もしそれがほんとうだというのなら、ぼくは39年のあいだ、機能停止して死んでいたも同然だ。

シリアスな感じではなく、ゆっくりとしたカントリー音楽の曲調にあわせて、「あらまあ」という感覚で歌われている。それはたしかに、リンゴ・スターの楽観性にあわせられているかのようでもある。


それにしても、「Life Begins at 40」という見方(パースペクティブ)が、ぼくは好きである。人生は、40歳にはじまる。

ジョン・レノンは「年齢はただのマインドの状態にすぎない」と歌ったけれど、「人生は40歳にはじまる」こと自体が、マインド、心の持ちようであるとも言える。

そのことを確認したうえでなお、「人生は40歳にはじまる」のだということが、ぼくにとってはまるで「真実」のように感じとられるのである。40代の半ばにさしかかって、ぼくはいっそう、そのように思う。

でも、誤解しないでほしい。40歳だけが「人生のはじまるとき」ではない。どんなときも、「はじまり」とすることができる。人が描く「物語」というものは、いろいろに描くことができるのだ。

けれども、さらにこのことを再確認したうえでなお、「40歳」頃、いわゆる「中年期」というのは、人生の「転換期」であると、ぼくは自分の経験から感じるのである(例外がいくらでもあることを、念のため強調しておく)。それも、とても「深い」転換期である。

なお、「人生100年時代」の到来のなかで、おそらく、「中年期」という時期の捉え方も変わってゆくと思う。けれども、捉え方が変わったとしても、人生の「転換期」であることは変わらないだろうと思う。


「Life Begins at 40」を歌ったジョン・レノンは、人生の「このとき」をどのように捉えていたのだろうか。何を感じていたのだろうか。何を思い、この先をどのように描いていたのだろうか(あるいは描いていなかったのだろうか)。

この曲を聴きながら、ついつい、そんなことを想像し、考えてしまう。

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「雨粒」がぼくのうえに落ちてくるとき。- B.J. Thomasが歌う「Raindrops Keep Falling on my Head(雨にぬれても)」。

今日もここ香港は、午後に入って、少しづつ雨が降りはじめる。降りはじめのころは、雨粒を「雨粒」として感じることができるほどの、やわらかな降雨である。

今日もここ香港は、午後に入って、少しづつ雨が降りはじめる。降りはじめのころは、雨粒を「雨粒」として感じることができるほどの、やわらかな降雨である。

「雨粒」といえば、B.J. Thomasが歌う名曲、「Raindrops Keep Falling on my Head」(「雨にぬれても」)が思い浮かぶ。

1969年のアメリカ映画『Butch Cassidy and the Sundance Kid』(邦題『明日に向って撃て!』)のために、(あの)バート・バカラックによって作曲された曲である。その後、いろいろな人たちによってカバーされ、いろいろなところで使われてきた名曲だ。

ぼくにとっては、映画『フォレスト・ガンプ』のサウンドトラックが身近である(けれども、どの場面で曲がながされていたのかはまったく思い出すことがきない。ちなみに、サウンドトラックの曲名を追っていたら、別のブログでとりあげたWillie Nelsonの名曲「On the Road Again」も『フォレスト・ガンプ』で登場していたことを発見しました)。

そのほか、この曲名(日本語)は、作家の上原隆が著書『雨にぬれても』(幻冬舎アウトロー文庫)で借用しているのを、この本を最近読んでいて知った。

この曲はその時代を生きてきた人たちそれぞれに、それぞれの「思い出」が重なっているようだ。

ぼくは、ときおり、この曲を無性に聞きたくなることがある。

この曲の「世界」が、ぼくの情緒世界と深く共振するようだ。曲ができるまでには紆余曲折があったようだけれども、B.J. Thomasの歌声が絶妙な仕方で曲調にマッチしている。なお、似たような感覚を、Gilbert O’Sullivanが歌う「Alone Again (Naturallu)」を聞くときにもぼくは覚えることになります。


曲名「Raindrops keep fallin’ on my head」と同じ歌詞以外は、注意して聴いたことがなかったのだけれど、味のある歌詞である。

たとえば、次のように歌われるのだ。


It won’t be long till
Happiness steps up to greet me

Raindrops keep fallin’ on my head
But that does’t mean
My eyes will soon be turnin’ red

B.J. Thomas『The Very Best of B.J. Thomas』 (Drew’s Entertainment)  ※Apple Musicより


幸せがやってくるまでは遠くないのだと、つまり今は大変なんだと、この歌の「物語」が伝えられる。英語では、「幸せがやってきて(step up)わたしに挨拶してくれる(greet me)までは遠くない(won’t be long till)」と、素敵な表現が使われている。

でも、ぼくにとっては、ゆっくりとしたアップテンポの曲と「Raindrops keep fallin’ on my head」という歌詞だけで、ぼくの世界との共振を感じることができる。それは、ぼく自身にとっての「解釈」によって醸成される世界なのだけれど。


雨粒が、ぼくの頭のうえに落ちてくる。

「幸せがやってくるまでは遠くない」というよりは、それはそれで、幸せなときなのだ。

ただ、雨粒が、ぼくの頭のうえに落ちてくる。

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

4月の、雨上がりの「香港公園」を歩く。- 香港生活に埋めこまれている香港公園。

ここ香港の「Hong Kong Island(香港島)」側。オフィスビルやホテル、それからマンションなどが立ち並ぶなかに「Hong Kong Park(香港公園)」がある。

ここ香港の「Hong Kong Island(香港島)」側。オフィスビルやホテル、それからマンションなどが立ち並ぶなかに「Hong Kong Park(香港公園)」がある。

より正確には香港公園は高台に位置していて、下方にビクトリア湾やオフィスビルがひろがり、逆にさらに高台のほうを見渡すと住宅やマンションを見やることができる。そんな場所であることもあって、都会の只中にありながら、いくぶんか、香港の喧騒をはなれることができる。

遠方から来た友人家族と共に、喧騒をはなれ、雨上がりの香港公園を歩く。4月に入ってから、香港は夏日のような日が続いていたけれど、ここ数日は「小休止」のように曇り空がひろがり、ときおり小雨がふりそそいでいる。そんな小雨が止んだばかりの、雨上がりの香港公園。いつもに増して、緑がいきいきとしているように感じられる。

すごく大きな公園ではないのだけれど(香港の空間を考えると十分に「大きい/広い」)、都会の只中にたたずむ、この香港公園の中に、「植物園」や「鳥舎」が設置されている(いずれも、無料で入園/入舎できる)。小さくても、「なんでもある」香港。そんなことを感じさせる場所でもある。

バードウォッチングができる鳥舎は、改修が進められている。それでも、新しい鳥舎も含め中に入り、木々のなかで身体を解き放ちながら、バードウォッチングを楽しむことができる。

目をこらすと、鳥たちが木の枝のうえで身体を休めている姿を見つけることができる。あるいは、目の前を一瞬の閃光のように鳥が飛行していったりする。なかなかスリリングなのだ。

今日は雨上がりによる演出であったかもしれないけれど、鳥舎であることを忘れるほどに、木々や鳥たちの存在感が深く感じられる、そんな体験であった。

それにしても、香港に香港公園が存在してくれていることに対して、ぼくは有り難さを感じてやまない。

とくに頻繁に行くわけでもないのだけれど、「もし香港公園がなかったら」と仮に考えると、ぼくの香港生活はいくぶんか(もしかしたらだいぶ)色あせたものになっていたかもしれないと思ってしまう。

たとえば、新宿に新宿御苑がなかったら、あるいはニューヨークにセントラルパーク(実際に行ったことはないのですが)がなかったら、と考えてみるのと、規模は違うかもしれないけれど、似たようなところがある。

そんな具合に、香港公園は、ぼくの香港生活の風景として、ぼくのなかに埋めこまれている(河合隼雄先生の言い方を借りるのであれば、香港公園が「ぼく」をやってくれている)。4月の、雨上がりの香港公園を歩いて、ぼくはそんなことを思う。

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

10年ぶりの「味の記憶」。- 香港の「家庭料理の味」が身体にしみる。

「この味だよなぁ」。10年ほどまえの記憶なのに、ぼくの身体は「味の記憶」をきっちりとどこかに収納してくれている。その味にふたたびふれるとき、収納されていた記憶はまちがうことなく、ひきだされてくる。

「この味だよなぁ」。10年ほどまえの記憶なのに、ぼくの身体は「味の記憶」をきっちりとどこかに収納してくれている。その味にふたたびふれるとき、収納されていた記憶はまちがうことなく、ひきだされてくる。

ここ香港の繁華街、Causeway Bay(銅鑼灣)にある、いわゆる大衆食堂。そこの「ランチセット」は何種類かあって、毎日替わる。それら日替わりのメニューは、1週間分が事前に発表されることになる(「発表」というとおおげさだけれど、常連さんたちにとってはとても大切な情報である。ぼくでさえ、以前は事前に目を通していたくらいだ)。

「1週間分のメニュー」は、近辺のオフィスなどに配布され、デリバリーを注文することができる。

2007年から2009年の半ばまでCauseway Bayに位置するオフィスで働いていたとき、このデリバリーサービスを利用して、ぼくはこの大衆食堂のランチを食べていた。覚えているかぎり、結構な頻度で注文していたのだと思う。

なにがよかったかといえば、「家庭料理」であったこと。化学調味料が使われることなく、塩も他に比べて控えめであった。食べることにはそれほどこだわりがなくても、できるだけ「健康的な食事」を望んでいたぼくを、香港の同僚が気遣ってくれて、ここのランチをすすめてくれたのが、そもそもの始まりであった(と記憶している。なにしろ、10年以上もまえのことなので定かではない)。


日替わりのメニューは5種類ほどの「おかず」を表示していて、注文するときは、それらからひとつを選ぶことになる。鶏肉系、豚肉系、魚系など、素材はだいたい決まっていて、料理の仕方を変えることで「日替わり」となる。

この「おかず」に、ごはん、スープ、それから糖水(デザートの甘いスープ)がついてくる(なお、飲み物は中国茶が提供される)。香港ではやはり「スープ」が醍醐味であるとぼくは思うけれど、ここのスープは化学調味料が使われておらず、塩分もひかえめである。

このような「家庭の味」が、どうにも、やさしく身体にしみるのである。


この「味」に、10年ほどあとになって、ふたたび再会する。今度は、デリバリーではなく、大衆食堂(レストラン)に実際に出向いて、できたての料理を楽しむ。

「この味だよなぁ」。10年ほど経っても、ぼくの身体に、この「味」がきっちりと記憶されている。それにしても、料理をできたてで食べるのは、やはりいいものである。

そして、プルーストの作品における「紅茶にひたされたマドレーヌ菓子」の味が過去の記憶をよびもどすように、この「味」が、Causeway Bayで働いていたときの記憶をよびもどしてくる。身体の知性というものは、ほんとにすごいものだ。

この10年。この10年はぼくにとって、どんなものであったのだろう。「変わらない味」に心あたためられながら、変わらない自分/変わった自分のことを思う。

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成長・成熟, 村上春樹 Jun Nakajima 成長・成熟, 村上春樹 Jun Nakajima

「誰のために書くのか?」に対する、村上春樹の応答。- 小説家の村上春樹にとっての「ひとつ身にしみて学んだ教訓」。

「どのような読者を想定して小説を書いているのか?」

「どのような読者を想定して小説を書いているのか?」

そのような類の質問がなげかけられるとき、小説家の村上春樹はけっこう迷うのだという。とりわけ「誰かのために」という仕方で小説を書いているわけではないし、さしあたっては「自分のために」書いている。

けれども、ただ「自分のため」だけということもないから、このような問いに明快かつシンプルに応えるのは確かにむずかしい。さらには「読者」といっても、特定しがたい。

そのような迷いの背景を、「誰のために書くのか?」(『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング、2015年)という文章で、「小説家」に成り、作品をつくりだしてゆくプロセスを含めて、村上春樹は書いている。


それにしても、「誰のために書くのか?」という類の質問に応えるのは、簡単でありながら、実はむずかしい。

「簡単」ということは、たとえば、「…の読者のために」と言ってしまえば聞こえはいい。「他者のため」という言説は、一面において、現代社会の美徳でもあるからである。逆に、「自分のために」という言い方も、最近はとても聞こえのいいものである。「自分のため」の生きかたが、一面において、憧憬されているからである。

質問に応えるのが「むずかしい」というのは、根本的に、「他者のため」でありながら、「自分のため」であるからである。気軽な会話やインタビューで、これら二つを踏まえて、相手や読み手が納得する仕方で応えるのは、それほどシンプルではない。また、シンプルに応えるのがよいともかぎらない。


村上春樹は、自身の経験(どのようにどのような小説を書きはじめ、どんな批判を受け、読者の存在がどのように意識され、というような経験)を踏まえ、それらを丁寧な仕方で読者に提示しながら、「誰のために書くのか?」という質問に応えている。

その応答を読んでいるなかで、「ひとつ身にしみて学んだ教訓」の箇所にさしかかると、文章の磁場が、なんだかぐっと変わったような感触をうける。



 ただ僕が作家になり、本を定期的に出版するようになって、ひとつ身にしみて学んだ教訓があります。それは「何をどのように書いたところで、結局はどこかで悪く言われるんだ」ということです。…ですからいきおい、「なんでもいいや。どうせひどいことを言われるのなら、とにかく自分の書きたいものを書きたいように書いていこうぜ」ということになります。

村上春樹『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング、2015年)



このことは、けっして「書くこと」だけの真実ではない。「何をどのようにしたところで、結局はどこかで悪く言われるんだ」というように、汎用性のある教訓であると、ぼくは思う。

なお、「自分が楽しむ」ことが、そのまま「芸術作品として優れている」ということにはならないことがこのあとに書かれているように、上の文章だけをひきぬいて自分の人生に適用することには、「注意」が必要だ。

村上春樹にとっては「身にしみて学んだ」教訓だからこそ、生きてくる教訓である。



この教訓をとりあげながら、リック・ネルソン(Ricky Nelson)の歌『ガーデン・パーティー(Garden Party)』のなかの詞を、村上春樹はとりあげている。


 もし全員を楽しませられないのなら
 自分で楽しむしかないじゃないか



これはおそらく村上春樹訳だと思われる。ちなみに、もとの詞はつぎのようである。


   You see, ya can’t please everyone, 
   so ya got to please yourself

Ricky Nelson “Garden Party”「Greatest Hits」 ※Apple Musicより


古い友人たちと思い出を語るようなガーデン・パーティーに行ったけれども、誰も自分を認識しなかった。彼ら・彼女たちは自分の名前を知っているのだが、自分は同じ容貌ではなかったから。そんなガーデン・パーティーを(おそらく)振り返りながら、「But it’s all right now, I learned my lesson well(でも今は大丈夫さ。私は教訓を得たんだ)」と歌い、軽快なリズムがきざまれるなか、うえでとりあげた詞がつづく。

もし全員を楽しませられないのなら、自分で楽しみしかないじゃないか。「この気持ちは僕にもよくわかります」と、村上春樹は書いている。


この歌詞は確かに人を惹きつける。

「自分で楽しむしかないじゃないか」という箇所の気持ちよさはあるけれど、あるいはそこよりもむしろ、「もし全員を楽しませられないのなら」という箇所が人の心にひっかかってくるのではないか。ぼくは、そう思ったりする。

「全員を楽しませようとする」気持ちや試みの体験、それからその挫折。そこが感じられるからこそ、この歌詞は人を惹きつけるのである。


ところで、うえでとりあげた「教訓」は、逆も、真実をもっていることを、最後に書いておきたい。

「何をどのように書こうとも、どこかで、よく言ってくれているんだ」。

悪く言う人もいるけれども、よく言う人もいる。批判のほうが目立つから「聞こえない」かもしれないけれど、どこかで、誰かが「よく言ってくれている」ということ。

このこともいわば「教訓」である。

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共有される<物語>のコンセプト。- 村上春樹「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」。

ある人とある人が対話する。その<あいだ>で、何かが共有され、何かが生まれる(何かが「解体」されることもある)。そんな<対話の時空間>は、ときおり幸福な仕方で、共有された「何か」、生まれた「何か」を、時空間をこえて、他者にとどく。

ある人とある人が対話する。その<あいだ>で、何かが共有され、何かが生まれる(何かが「解体」されることもある)。そんな<対話の時空間>は、ときおり幸福な仕方で、共有された「何か」、生まれた「何か」を、時空間をこえて、他者にとどける。

小説家・村上春樹と心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)のあいだにひろがる<対話の時空間>は、その時空間をこえて、幸福な仕方でぼくたちにとどけられる。「村上春樹と河合隼雄」という組み合わせは、(少なくとも、ぼくにとって)そのような幸福な組み合わせである。

『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング、2015年)という著作の最後の章(回)で、村上春樹は「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」を書いている(初出は新潮社「考える人」夏号、2013年)。

村上春樹が河合隼雄に初めて会ったのは、プリンストン大学であった。1990年代前半のことだ。それぞれがアメリカに長く滞在していたときである(日本に住んでいたら会っていなかったかもしれない。海外にいるからこそ「会う」人たちがいるものである。ぼくの経験から。)。

「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」では、そのときのことが語られている。

けれども、そのときに「何を話したかほとんど覚えていない」という。そうでありながら、そのことはどうでもいいことじゃないかとも、村上春樹は書いている。

…そこにあったいちばん大切なものは、話の内容よりはむしろ、我々がそこで何かを共有していたという「物理的な実感」だったという気がするからです。我々は何を共有していたか?ひとことで言えば、おそらく物語というコンセプトだったと思います。物語というのはつまり人の魂の奥底にあるものです。人の魂の奥底にあるべきものです。それは魂のいちばん深いところにあるからこそ、人と人とを根元でつなぎ合わせられるものなのです。僕は小説を書くことによって、日常的にその場所に降りていくことになります。河合先生は臨床家としてクライアントと向き合うことによって、日常的にそこに降りていくことになります。あるいは降りていかなくてはなりません。…

村上春樹『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング、2015年)

<物語というコンセプト>。共有されていたものは、おそらくこのことであったと書かれている。ここでの物語は、「魂のいちばん深いところにあって、人と人とを根元でつなぎ合わせられるもの」である。

おそらく、ここで語られ、共有されていたことが、日本での「対話」に継続され、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮社)として書籍化された。この本をとおして、ぼくたちは、共有されていたものの一端をつかむことができる。

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』は、「内容」もとてもスリリングだけれども、それよりも、語られていることの全体性のようなものによって、どこか、ぼくの深いところが癒されるような、そんな本である。少なくとも、(確か)2000年前後に初めてこの本を読んだとき、ぼくはそのような「実感」を抱いたものである。

今にして言葉にしようとするのであれば、「魂のいちばん深いところにあって、人と人とを根元でつなぎ合わせられるもの」にふれられることで、じぶんの深いところが癒されるような、そんな「実感」が湧いたのだろうと思う。

それとともに、「魂のいちばん深いところにあって、人と人とを根元でつなぎ合わせられるもの」の次元へと降りていって、そこから、人や社会とのかかわりをさぐる先達たちに、生きづらさを感じていたぼくは強く励まされたのだとも、ぼくは思う。

それにしても、誰かとあって話をして、何を話したかはほとんど覚えていないけれど、その場でいちばん大切であったものは、話の内容よりもむしろ、そこで何かを共有していたという「物理的な実感」であった、という経験を、人はするものである。じぶんの経験を憶い起こしながら、そう思う。

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成長・成熟, 物語・ストーリー Jun Nakajima 成長・成熟, 物語・ストーリー Jun Nakajima

周りのどんな人たちも「自分に協力してくれている」。と、考えてみる。- 名作『アルケミスト』で語られる言葉の教えに耳を傾けて。

日々のなかで、ぼくたちはさまざまな場所で、さまざまな人たちに出会い、いろいろな状況に出くわす。親切や好意を受けることもあれば、文句を言われたり、ぞんざいに扱われることもあるかもしれない。

日々のなかで、ぼくたちはさまざまな場所で、さまざまな人たちに出会い、いろいろな状況に出くわす。親切や好意を受けることもあれば、文句を言われたり、ぞんざいに扱われることもあるかもしれない。

文句を言われたり、ぞんざいに自分が扱われるとき、その人に対して怒りがわいたり、いらだったりする。誰しもがよく扱われたいものである。

でも、そんなふうに嫌な場面に遭遇するとき、その人(たち)が「自分に協力してくれている」と、考えてみること。これは、自分や自分が望むものをきりひらいてゆくための方法のひとつである。


ブラジル人作家パウロ・コエーリョの作品に、『アルケミスト』(角川文庫ソフィア、1997年、山川紘矢・山川亜希子訳)というベストセラーがある。ぼくも、昔からとても好きな本である。原作は1988年にブラジルで発刊され、そののち、この作品は時空をはるかに超えて、世界中で今でも読み継がれている。

主人公は、羊飼いの少年サンチャゴ。サンチャゴは、宝物が隠されているという夢を信じ、アンダルシアの平原から、エジプトのピラミッドに向けて旅にでる。この旅では、本のタイトルにあるように、「アルケミスト=錬金術師」が、サンチャゴの壮大な旅の物語において大切な役を担い、少年の旅を導いていく。

そんな『アルケミスト』のなかに、つぎのような箇所がある。



「人が本当に何かを望む時、全宇宙が協力して、夢を実現するのを助けるのだ」と錬金術師は言った。…少年は理解した。自分の運命に向かうために、もう一人の人物が助けに現れたのだった。
「それで、あなたは僕に何か教えてくださるのですね」
「いや、おまえはすでに必要なことはすべて知っている。わしはおまえをおまえの宝物の方向に向けさせようとするだけだ」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(角川文庫ソフィア、1997年、山川紘矢・山川亜希子訳)


「人が本当に何かを望む時、全宇宙が協力して、夢を実現するのを助けるのだ」。錬金術師が少年サンチャゴに語るこの言葉は、よく引用される言葉である(ぼくも好きな言葉である)。

ぼくたちが「本当に何かを望む」とき、周りの人やものごとが、夢の実現を助けてくれる。ぼくもそう思う。けれども、ぼくは「本当に何かを望むとき」という箇所をいったん外してしまっても、全宇宙が協力してくれている、と、言うことができると思う。

「本当に何かを望む」という言い方は、望みを明確に意識している状態を想像させるのだけれど、人は明確に意識しなくても、それぞれに「物語」を生きている。「物語」はじぶんで選びとった物語ということもあれば、そうではないこともある。あるいは、他者たちが生きてきた「物語」であることもあれば、「自分の物語」をつくりだしていることもある。

いずれにしろ、人はそれぞれに「物語」を生きていて、その物語に沿う形で「全宇宙が協力」しているのだと、考えてみる。たとえば、文句をぶつけてくる人も、その自分が生きる「物語」のなかで、なんらかの「役割」を担っているのだと、考えてみることができる。

自分の「物語」が展開してゆくなかで、それは「大切なシーン」であるかもしれない。そこで、自分は「何か」に気づく場面であるかもしれないし、その場面をきっかけに自分が「変わる」ことになるかもしれない。


「そんなこと言われても、文句を言われたら腹がたつ」と思われるかもしれない。

それはひとまず仕方のないことである。でも、「腹がたつ」のあとの自分の言動については、自分で選ぶことができる。そこで、立ち止まって考えてみることができる。誰もが、自分に協力してくれている、あるいは、自分の「物語」で役を演じてくれている。

そんなふうに考えてみるとき、「本当に何かを望む」ものごとがなくても、自分のなかで何か気づくことがあるかもしれない。「自分に協力してくれている」とするならば、どんなことで、どんなふうに協力してくれているのか。そんな「気づき」があるかもしれない。

少なくとも、こんなふうに考えてみることで、自分が生きる「世界」は、異なって見えると思う。

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<初めの炎>を保つこと。そして<残り火>は捨てること。- 見田宗介先生による、インドの哲学書『秘密の書』の解釈。

4月に入って、ここ香港ではぐっと暑さが増してきていて、今日は日中の気温が30度ほどであった。また、香港の、「あの」じっとりくる湿気も、じわじわとやってきているようだ。

4月に入って、ここ香港ではぐっと暑さが増してきていて、今日は日中の気温が30度ほどであった。また、香港の、「あの」じっとりくる湿気も、じわじわとやってきているようだ。

日本の「4月」とは異なるけれども、季節の変わり目というところでは「始まり」のときでもある(ほんとうは、いつだって「始める」ことはできる)。


そんな「始まり」において、見田宗介先生(社会学者)の次の文章を、ここに紹介しておきたい。


『秘密の書』というインドの哲学書によれば、愛の格律は究極のところ二つしかない。
 一.初めの炎を保ちなさい。
 一.残り火は捨てよ。

これは直接には性の技術の書であるともいわれているが、また愛の真実であり、生きることの真実でもあるとぼくは考えている。たとえばひとつの哲学を愛する時に、それともひとつの仕事を愛する時にさえ、<初めの炎>を保つこと。そして<残り火>は捨てること。それだけが哲学や仕事を鮮烈に愛する仕方だ。

見田宗介「解説 夢よりも深い覚醒へ」、竹田青嗣『陽水の快楽』(ちくま学芸文庫、1999年)


ここで「哲学」が出てくるのは唐突かもしれないが、この文章は、哲学者である竹田青嗣の「井上陽水論」に付された解説であるからである(「夢よりも深い覚醒へ」と題された、この解説文はほんとうに美しい解説である。ぼくはこれほど美しい解説文をこれまでほかに読んだことがない)。

この文章は、ぼくが、とても好きな文章である。

初めてこの文章に出会ったときから、ぼくはこの「真実」に共感し、ぼくの生を支えてくれる「真実」として心のうちに収めておき、事あるごとに取り出しては、ぼくの生に照らし合わせてきた。

じぶんがやっていることにどこかもやもやとしたものを感じるときなどに、このページをひらいては、究極の二つである「愛の格律」に戻って、じぶんの生きかたに光をあててみるのだ。


<初めの炎>を保つこと。そして<残り火>は捨てること。

これ以上、ここで追加で語るところはひとまずないのだけれど、「ちなみに」を加えておきたい。

ちなみに、見田宗介先生は、うえで紹介した文章のなかで、『秘密の書』の「真実」がつらぬくことがらとして、「性」のこと、「愛」のこと、それから「生きる」ことを挙げられているが、これは決して恣意的な並列ではない(と、ぼくは考えている)。

見田宗介先生のペンネーム(真木悠介)で書かれた名著『自我の起原』(岩波書店、1993年)では、性のこと、愛のこと、生きることが、書名のとおり「自我の起原」にまで射程をひろげながら、一貫性をもった視点で追求されている。

興味のある方は、ぜひ『自我の起原』の本をひらいてほしい。

『自我の起原』は、まさに、<初めの炎>を保つこと、そして<残り火>は捨てることにつらぬかれた書物である。

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物語・ストーリー, 河合隼雄 Jun Nakajima 物語・ストーリー, 河合隼雄 Jun Nakajima

たくさんの「生きる物語」があること、の理解。- 自分の生きている「物語」を自覚してゆくこと。

先日から、「個としての私」が生きる「物語」について、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の語りにも耳を傾け、その声に共感・共振しながら、いくつかのブログを書いている。

先日から、「個としての私」が生きる「物語」について、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の語りにも耳を傾け、その声に共感・共振しながら、いくつかのブログを書いている。

現代という時代を「個」を大切にして生きてゆくかぎり、自分が生きていくための「物語」を自分自身でつくっていくことになる。

たとえば、「よい」大学に入学し、卒業後は一流の企業に勤めたり官僚になったりという「(日本の)スタンダードの物語」は、ひと昔前のように「幸せ」を保証する物語ではない。今ではそれは「スタンダード」ではなく、たくさんの物語のうちのひとつの「物語」である。

自分の幸せを追い求めていくのであれば、「自分の物語」をつくってゆく必要がある。それは「大変」であるかもしれないけれど、自分自身の物語をつくりながら生きていけることはすばらしいことであると、ぼくは思う。

「物語」はスタンダードに集約されるのではなく、多様性に充ちた物語たちがいっぱいに花を咲かせてゆくのである。


この「多様性」ということを理解しておくことは、やはり大切なことである。

「自分の物語」をつくっていく時代が来ているとはいえ、「スダンダードの物語」もいくぶんか内実を変えながらも、物語を「標準する力」を維持しようとしているかのように見える。

「よい」大学に入学し、卒業後は一流の企業に勤めたり官僚になったりという「物語」自体がわるいのではない。ただし、その物語が、たくさんの物語のうちのひとつであることを明確に認知され、共有されているべきだと思う。それは「標準」ではない。

この点について、河合隼雄は、つぎのように書いている。


 たくさんある物語の中のどれを自分は生きようとしているのかを自覚していない人は、しばしば、自分の生きている物語だけが「正しい」と確信しているようである。そうなると、その人の幸福度が高まるにつれ、まわりの者は苦労させられると思う。

河合隼雄『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)


「幸福度が高まるにつれ」と書かれているように、自分の生きている物語だけが「正しい」と確信している人は、うまくいけばいくほどに(「幸福度が高まる」ということは、いわゆる「成功」することによらず、「安定的な人生を歩むこと」によることもある)、その成功物語を「よかれ」と思いながら他者におしつけてしまうこともあるだろう。


日本の「スタンダードの物語」が崩れはじめていたがまだそれなりに通用していた1990年代半ばから2000年頃、なるべく「スタンダードの物語」を気にしないようにしながらも、それはやはりぼくの内面で、まるでコマーシャルがながれるかのように、ときおりながれていた。

「よい」大学に入って、さて「次」は、という岐路で、ぼくは「自分の物語」をつくってゆくことに苦心していたのだと思う。

大学2年を終えたところで休学してニュージーランドに行ったことは「物語」をつくることの一環であったし、大学を卒業して、途上国における国際協力の道に向けて大学院に進んだこともその一環であった。

大学院を修了したあとに勤務しはじめたNGOで、ぼくはシエラレオネと東ティモールに赴任したのだが、そこでの経験は、この世界には「たくさんの物語」があるのだということを、いっそう、ぼくの身体で実感させるものであった。

ほんとうにいろいろな「物語」を生きている人たちに触発されながら、日本の「スタンダードの物語」がたくさんの物語のうちの「ひとつ」にすぎないことを、より深いところで理解することができたように、ぼくは思う。

そこでも「正しさ」の物語はないとまでは言えないかもしれないけれど、だいぶ薄まって語られていたように思う。


それから香港に移って12年。ぼくは「自分の物語」をつくりつづけている。これからもずっと、つくりつづけてゆくと思う。

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日本, 河合隼雄 Jun Nakajima 日本, 河合隼雄 Jun Nakajima

「現代日本人の意識」について。- 深層の意識に生き続ける「伝統的な日本」。

海外に住んでいると、やはり「現代日本人の意識」のようなことを考えてしまう。

海外に住んでいると、やはり「現代日本人の意識」のようなことを考えてしまう。

さまざまな「異文化」との接触のなかで、異文化を理解し、それらを「鏡」としながら、じぶんを含めた「現代日本人の意識」のようなことを考える。あまり偏見的に見方を固定したくないし、最終的には文化を超えて「個人」ごとに異なるのだとも思いながら、それでも「現代日本人」に焦点をあててゆく。


心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)も、自身の心理療法の経験などから「現代日本人の意識」を論じることはきわめて困難であることを語っている。ただし、その困難さを確認したうえで「ある程度の一般論」を述べている。


…ある程度の一般論を述べるなら、日本人の意識は表層的には欧米化しているとは言えるのだが、少し深くなると、まだまだ日本の古来からの伝統的なものを保持していることになる。
 ここに「表層的」と述べたことは、本人が通常生活において意識していることである。しかし、人間はあんがい自分で意識せずにいろいろ行動をしているし、非日常的な場面においては、通常の意識とまったく異なる意識がはたらくものである。それらの意識を深い層の意識と考える。
 あるいは、意識的には自分は民主的に生きていて、そんな点でアメリカ人と変わらないと思っているが、アメリカ人から見ると、それは彼らの考えとは異質の「日本的民主主義」だったりする。つまり、日本人はアメリカ人と同じと思っていても、それの動因となる深層の意識のはたらきが異なるので、まったく異なる様相になってくる。

河合隼雄『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)


2000年頃に書かれた文章だけれども、20年近く経った今も、この様相は変わっていないように、ぼくは思う。

つまり、ざっくりとした「現代日本人の意識」を語ると、表層意識はだいぶ「欧米化」されているが、深層意識には「伝統的な日本」が生き続けている、ということができる。


このことを、たとえば、海外における日系企業の「人事」に、コンサルタントとして密接にかかわってきたなかで、ぼくは身にしみて感じてきた。たずさわる人たちが海外・グローバルにおける人事ということを意識し、仕組みも日本とは異なる「欧米的」なものであったとしても、運用の過程でいつしか「伝統的な日本」がさまざまな仕方でまぎれこんでくる。

こんなことが続くと、海外の方々の眼には「日本人」が不可解な存在としてあらわれてしまう。日本人のあいだであれば深層意識の動因は(納得するしないは別として)了解できることであっても、海外の人たちにとっては「わからない」から、ときに「誤解」の幅がひろがり、深化してしまう。

事態は、これが「深層の意識」でのはたらきであるため、なかなか厄介である。表層の意識では「海外」のやり方(あるいは、異文化に限らず「人として」のアプローチ)にしたがってやっているつもりだから、「深層の意識」をメタ認知することが容易ではない。

欧米がよくて、伝統的な日本がわるいということではない。「表層の意識」だけでなく、「深層の意識」が異なった仕方ではたらくことから、いろいろな事態や誤解などが起こるのであり、まずはそのことを「理解する」ことが大切である。そして理解のうえで、じぶんの深層にうめこまれている「伝統的な日本」(のあり方ややり方)をあぶりだし、認知してゆく。


「現代日本人の意識」を論じるのは、たしかにむずかしい。でも、「ある程度の一般論」という見方において、ぼくの経験をさし挟んだとき、河合隼雄先生が述べていることが、ぼくにはよくわかる。

2002年からずっと海外に住んできても、ぼくの「深層の意識」には、まだ明確に対自化できていない「伝統的な日本」がいろいろな仕方で生き続けているのを感じることも、ぼくの「経験」のひとつである。

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香港, 宇宙・地球 Jun Nakajima 香港, 宇宙・地球 Jun Nakajima

夏の足音が聞こえる、香港の「清明節」に。- 「生命」のリレーのなかに存在すること。

本日(2019年4月5日)、ここ香港は「清明節」の休日である。

本日(2019年4月5日)、ここ香港は「清明節」の休日である。

朝から陽射しがふりそそぎ、空はうっすらと雲がかかり、空気のよごれが少し気になるけれど、よく晴れた一日となった。日中は29度ほどまで気温が上昇し、外に出たときには、セミたちが鳴いているのを、耳にした。

「清明節」は、日本の「お盆」にあたるもので、祖先を敬い、家族で墓地にお参りにいく。

お墓参りをするには暑いなぁと勝手に気になってしまったのだけれど、清明節には雨がふりそそぐより、陽射しがふりそそいでいるのがよいと、ぼくは思ったりする。


昨年のブログでぼくは何を書いたのか気になって、ぼくは昨年の清明節(2018年4月5日)のブログをひらいてみた。

昨年の清明節も、よく晴れた香港であったことを、ブログを読み返しながら思い出した。

そして、「よく晴れていたこと」だけでなく、「生命」という次元にまで降りていって書いていたことを、一年前のじぶんに思い出させられた。「清明節」(Ching Ming Festival)の「清明」を日本語読みすると「せいめい」となるけれど、ぼくは(思考が飛んで)「生命」ということを考えていた。

「生命」を考えることは、大それたことかもしれない。しかし、「祖先」ということをつきつめて考えると、誰もが、はるか太古の昔からの「生命たちのリレー」のうちに存在していることを知る。現代の時代を特色づける「個人主義」を履き違えると、それは人を周りの他者たちから切り離すだけでなく、この「生命たちのリレー」から自分の存在を切り離してしまうこともある。

ぼくたちは、今この時代に生きる人たちと共に生きる「生きかた」を見いだしてゆくだけでなく、「生命たちのリレー」というひとつの奇跡のなかで、過去から未来へとつながる「生きかた」を見いだしてゆくときにいる。


そんなことを書いた昨年の清明節(2018年4月5日)のブログをここに再掲しておきたい。


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ここ香港は、本日(2018年4月5日)は「清明節」を迎えている。

「清明節」は、いわゆる日本の「お盆」にあたる行事である。清明節は旧暦の3月に到来し、香港の人たちはこの機会に墓地におとずれ、「清明」という漢字に表されているように、祖先の墓を掃除する。

清明節の当日はもとより、その前後の日に、お供え物などを入れた赤いプラスチック袋を手に提げながら、家族一緒に、墓地に歩いてゆく人たちを目にする。香港の、清く、よく晴れた日に。


香港政府観光局のホームページには、「清明節」は以下のように記載されている。


…この時期、中国の人は祖先の墓を掃除します。でも掃除だけで終わりません。清明節は祖先を敬う重要な儀式なので、家族全員で墓地の草むしりをしたり、暮石の碑文を塗りなおしたり、食べ物をお供えしたり、お香をたいたりします。
清明節の時期は伝統的に、先祖があの世で使うとされているものの紙のお供え物を多くの人が墓地で燃やします。…

「清明節」、香港政府観光局ホームページ『香港 Best of All It’s In Hong Kong』(日本語)


「紙のお供え物」は、お金を模したものであったものが、最近では時代を反映して、携帯電話・タブレット、車、冷蔵庫などの紙のレプリカがある。時代の反映のされ方は興味深いものだけれど、このような伝統的な行事が今も大切にされていることに、ぼくは目を惹かれる。

そしてそこには「家族」が、現代という時代の荒波にありながらも、きっちりと土台をなしていることに感銘をうける。日本のお盆とは異なる時期だけれど、清明節の、香港の人たちの行き交う姿に触発されて、ぼくも祖先や家族に思いをはせる。



そのような思いはいつしか、このぼくの身心に受け継がれているものへと向けられる。

リチャード・ドーキンスの言うような「利己的遺伝子」の視点から見れば、人は遺伝子にとっての「乗り物」である。遺伝子は過去から現在に至るまで、長い旅を続け、ぼくという身体に至っている。その意味において、祖先は、ぼくのなかに息づいている。


そしてまた、人の身体は、真木悠介の書くように、さまざまな生物たちの<共生のエコ・システム>である。


…今日われわれを形成している真核細胞は、それ以前に繁栄の極に達した生命の形態による地球環境「汚染」の危機をのりこえるための、全く異質の生命たちの共生のエコ・システムである。…
 われわれ自身がそれである多細胞「個体」の形成の決定的な一歩は、みずから招いた地球環境の危機に対処する原始の微生物たちの共生連合であり、つまりまったく異質の原核生物たちの相乗態としての<真核細胞>の形成である。この<真核細胞>が、相互の2次的な共生態としての多細胞生物「個体」の、複雑化してゆく組織や器官の進化を可能とする遺伝子情報の集合体となる。個体という共生系の形成ののちも、その進化的時間の中で、それは数知れぬ漂泊民や異個体からの移住民たちを包容しつつ変形し、多様化し豊饒化しつづけてきた。「私」という現象は、これら一切の不可視の生成子たちの相乗しまた相剋する力の複合体である。

真木悠介『自我の起原』岩波書店


ぼくたちを構成する細胞もまた、太古の昔から進化的時間の中をぬけながら、今のぼくたちに引き継がれてきているものである。地球のいろいろな生命たちのリレーのうちに、今のぼくがいる。地球のいろいろな生命たちも、ぼくにとっての祖先である。


そう書きながら、「生命」が、「清明」という言葉と同じ響きであることに気づく。「生命」は、清明節の字と同じように、<清く明るい>ものである。

いろいろな生命たち、そして祖先に深謝しつつ、いろいろな生命や祖先から受けつがれているこの身体に、ぼくは深く感謝をする。

香港の、清く、よく晴れた日に。

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物語・ストーリー, 河合隼雄 Jun Nakajima 物語・ストーリー, 河合隼雄 Jun Nakajima

河合隼雄『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』の「主題」。- 「個人の物語」をつくることが要請される時代に向けて。

ここのところ、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)という著書にふれながら、人が生きるための「物語」について書いている。

ここのところ、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)という著書にふれながら、人が生きるための「物語」について書いている。

『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』という本のタイトルだけを見ると、この本がメッセージを送る宛先は、「源氏物語」に関心がある方であったり、「日本人」論的なことに関心がある方であるように見える。

けれども、この本は、これからの時代の「生きかた」を正面から論じるものであり、ぼくのライフワーク(のひとつ)である「個人の物語の構築」というテーマに照準をあわせている。ぼくたちがこれからの時代を生きてゆくうえでの大きな課題のひとつ、「個人の物語」をつくる、を主題にして書かれている。


近代は「合理化」の原理を徹底させてゆくところに経済発展を達成してきたが、合理化のもとで「封印」されてきた近代の理念「平等と自由」が、ようやく深化する時代に、ぼくたちは今、立っている。ここにきていよいよ、個人が「個人」として、徹底される。

このような時代にあって、個人それぞれが、どのような物語をつくってゆくのかが決定的に重要になってくる。所属する文化や共同体や集団などの「物語」が、それぞれの個人のしあわせを保証するものではないからである。

もちろん、この課題は「個人主義をとるのなら…」である。河合隼雄はこの「条件」をくりかえし述べている。


河合隼雄自身は、個人の物語をつくることができることの、ありがたさと興味深さについて書いている。ただし、個人主義の「個人」に焦点をいっそう当てながら、この「個人」をどう考えるか、には一歩引いて、冷静な視線をなげかけている。

個人の「能力や欲望」を伸ばすことは大切であることを確認したあとで、少なくとも、下記の「二つの点」を考慮する必要があると注意を喚起する。

● 他人との関係をどう考えるか

● 自分の死をどのように受けとめるか

これらに対し、たとえば、キリスト教は、「隣人愛」と「復活の信仰」という仕方で解決する。では、キリスト教などの宗教なしで、「個人主義」をどのように考えるていくか。河合隼雄は、つぎのように書く。


 キリスト教などは信じられない、近代科学こそ信じられるという人があったとしても、…「他人との関係」と「自分の死」ということに関しては、近代科学は答えをもっていないのだ。これらに答えるためには「物語」が必要である。

『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年


「近代科学」は答えをもっていないということには、その答えの「射程」においてぼくはいったん留保をおくけれども(ここでの「答えをもっていない」をもう少し詳細に聴かなければならない)、「物語」が必要とされるものとして、「他人との関係」と「自分の死」が挙げられていることに、ぼくは関心がある。関心をもつのは、これら二つは、「自分」というものを追求していったときにその臨界にあらわれるものごとであるからである。

こうして、「個人主義をとるのなら」、個人は「自分の物語」をみずからつくりだしてゆくことが要請される。

なお、「つくること」は、まったくゼロからつくるということではないだろう。これまでの「物語」のなかから着想を得たり、それをまねたり応用したり、組み合わせたりと、どこかからヒントを得ることが方法となる。

ヒントは「過去の物語」から、ということもある。これからの時代を豊饒に生きていくうえでは、「近代」をどのようにのりこえていくか、ということがきわめて大きな課題であるけれど、河合隼雄が書くように「近代を超える知恵を古代がもっていたりする」こともある。

そんな知恵が「源氏物語」に宿っている。河合隼雄はそう論じるのだ。

「源氏物語」を「光源氏の物語」ではなく「紫式部の物語」として読み解くことで、『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』は、「個人の物語をつくる」というこの大きな課題を、人それぞれが解決してゆくことのヒントを提示しようとしているのである。

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物語・ストーリー, 河合隼雄 Jun Nakajima 物語・ストーリー, 河合隼雄 Jun Nakajima

「個としての私」がつくる「物語」。- 現代に生きる人間の、今もつづく課題。

人生とは「物語」である。別のブログ(「人生とは「物語」である。- <つなげる力>としての「物語」。」)で、そのように書いた。

人生とは「物語」である。別のブログ(「人生とは「物語」である。- <つなげる力>としての「物語」。」)で、そのように書いた。

そして大切なのは、どのような「物語」を語るか、「物語」をどのように語るか、ということである。人生は、そのようにしてつくられてゆくのであり、どのような「物語」をどのように生きてゆくのか、ということが問われる。

そう書きながら、「けれども」という前置詞をおかなければならない。なぜなら、そのような「物語」を見出したり、つくりだしてゆくことが、大きな課題だからである。


「個人の物語」としたときに、課題は、さしあたって、第一に「個」であり、第二に(個人にとっての)「物語」である。

心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)は、2000年代のはじめに、『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)の「文庫版まえがき」で、これらの課題について明示している。


第一の「個」について、日本人にとって、「個の確立」ということが大きな課題として、河合隼雄はとりあげている。


「個の確立」ということは、ヨーロッパの近代において生じてきたことで、、それがキリスト教を背景とする父性原理の強調によって成立してきたものである…。
 そこで、日本人はヨーロッパとは異なる背景の中で「個の確立」を考える必要がある。われわれは、いったいどのようなものを支えとして、自分の「個」を確立しようとするのか。天に存在する唯一の神を支えとしない、「個の確立」はあり得るのか。

『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)


「個」や「個人」ということが中立的な仕方で語られる(傾向にある)が、「異なる背景」は視野にいれておかなければならない。


それから、第二の(個人にとっての)「物語」における大きい課題について、河合隼雄はつぎのように書いている。


 現代に生きる者の大きい課題はもうひとつある。それは「個」を大切にする限り、自分が生きていくためのスタンダードの物語などは、あり得ないということである。
 どの時代にも、どの文化にも、ある程度のスタンダードの物語がある。…最近の日本では、「よい」大学に入学し、卒業後は一流の企業に勤めるとか、官僚になる、などというスタンダード物語があった。しかし、現在では、それほど単純に、そのようなスタンダード物語を生きるのが幸福とは言えないようになってきた。
 したがって、現代に生きる人間としては、「個としての私」は、どのような物語を生きようとしているのか、それを見いだしたり、つくりだしたりしなければならない。

『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)


ここで語られる「最近」は、2003年頃の位置に立った「最近」である。もちろん、それから15年ほどがたつ現在の「最近」は、状況は異なる。ただし、ここで語られる課題が解決されてゆく方向にではなく、いっそう、「スタンダード物語」が消えてゆくなかに、ぼくたちは立っている。

「個としての私」がどのような物語を生きようとしているのかが、いっそう切実な課題として個々人にあらわれ、個人はそれぞれにじぶんの物語を見いだしたり、つくりだしたりしなければならない。

それは、「スタンダード物語」が消え去りつつ、他方で「個人の物語」が要請される、という<過渡期(トランジション)>にいて、この過渡期をどのようにのりこえてゆくのか、という課題でもある。

過渡期のむずかしさは、一方で、消え去りつつあるがまだ形が(うっすらと)のこる「スタンダード物語」をどのように手放し、他方で「個人の物語」をつくりだすという、<解体と生成>にある。


ところで、『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』という本のタイトルだけを見ると、なぜこの本がここで参照され引用されているか、疑問に思う方もいらっしゃるかもしれない。

河合隼雄は『源氏物語』を、紫式部という女性が「自分の物語を見事につくりだしたもの」として読み解こうとするのが、この本である。ここでは、『源氏物語』は「光源氏の物語」ではなく、「紫式部の物語」としてとらえられる。

千年も以前、「個」をこれほどまでに追求した一人の女性がいたという事実に、しばらく眠ることができないほどに興奮した河合隼雄。

そんな興奮に共振し触発されながら、きっちりと読めていない『源氏物語』にわけいっていこうと、ぼくは思う。

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物語・ストーリー Jun Nakajima 物語・ストーリー Jun Nakajima

人生とは「物語」である。- <つなげる力>としての「物語」。

人生とは「物語」である。そもそもからして、「人生」という言葉自体に、「物語」がうめこまれている。

人生とは「物語」である。そもそもからして、「人生」という言葉自体に、「物語」がうめこまれている。

「人生」をどのように語り、それがどのように語られるかということはあるけれど、「人生」という言葉のなかに、すでに「物語」が前提されている。「人生 Life」という言葉によって、ひとはそれぞれに、イメージを伴った物語を想起する。人が生まれ、育てられ、学び、成長し、働き…などというように。


ところで、哲学者ハンナ・アーレントはかつて、著書『人間の条件』のある章の冒頭に、つぎのような主旨のエピグラフをおいた。

「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、耐えられる。」

このエピグラフをはじめて読んだとき、ぼくはこのエピグラフにひきつけられ、なんだか、とてもわかるような気がした。それからぼくなりに人生を歩んできて、その道ゆきに刻まれてきた足あとをたしかめながら、エピグラフの語る真実さをいっそう感じるようになった。

ある「物語」が、個人の物語であろうと、集団・グループの物語であろうと、さらにはより大きな社会の物語であろうと、「物語」というものの力を、ぼくは感じ、信じるようになった。


「物語」とは、ものごとを<つなげる力>であり、つなげることで「意味」をつくりだしてゆく。あるいは、「意味」をつくりだすことで、ものごとをつなげて、「物語」はつくられてゆく。これからの時代は「つながり」がキーワードであると言われ、基本的なところではその通りだと思うけれど、そのさらに基底的な次元においては、「物語」という、<つなげる力>が、いろいろな局面をきりひらいてゆく時代である。

生きることがむなしくなったり、やる気がなくなってしまったり、生きる「意味」がわからなくなってしまったりするとき、それは「物語」を語ることができなくなったときである。

けれど、人生とは「物語」であるということは、「物語」を語るのが人だということでもある。人は「物語」を語らずにはいられない。じぶんが「物語」なんて語ったことがないと思っている人であっても、「物語」を語る。だれもが「物語」をもち、「物語」を語る。

大切なのは、どのような「物語」を語るか、ということ。「物語」をどのように語るか、ということである。ひるがえって、人生は、そのようにしてつくられてゆくのであり、どのような「物語」をどのように生きてゆくのか、ということが問われる。

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「ひとり旅」という旅の形式と方法。- 内向的でありながら外向的であること。

1994年、大学1年の夏休みに、ぼくははじめて「海外」を旅した。

1994年、大学1年の夏休みに、ぼくははじめて「海外」を旅した。

横浜から大型客船の鑑真号にのって、中国の上海を最初の目的地とし、上海から北に向けて(西安→北京→天津)移動してゆく旅であった。

こだわったのは「ひとり旅」ということであった。旅の終盤に北京の故宮で大学の友人とおちあう約束をしてはいたのだけれど、そこまでの旅路は「ひとり」であった。


「ひとり旅」にこだわった理由は、じぶんの好きな仕方で旅をしたかったこともあるけれど、自立への志のようなものも少なからずあったし、モデルとなるような旅人たちに見習ったということもあったと思う。

ひとり旅では、当たり前と言えば当たり前なのだけれども、普段の日常に比較して、「ひとり」になる時間が圧倒的に多くなる。「ひとり」であることの自由さを楽しみながら、でも、異国の地の宿でひとりでいるときなど、深い孤独の暗闇にまよいこんでしまうこともある。

深い孤独の暗闇のなか、思ったことを文章に書くことでじぶんやじぶんのなかの他者と対話して、孤独感をやわらげたこともあった。

たとえばそんな風にして、「じぶん」と向き合う時間も増え、「じぶん」と向き合う深さも深まった。

「ひとり旅」は、旅路は結構忙しかったりもするのだけれど、それでもやはり、「じぶん」の内面と向き合うための機会として貴重な方法であった。


このような「ひとり旅」は、ひとり旅をしてきた人たちには「当たり前」のことだろうし、ひとり旅の経験がない人たちも想像がつくところである。

外部からの見え方によっては、ひとり旅によって<じぶんに閉じこもる>、というように見える。それは「正しい」見方ではあるのだけれど、「ひとり旅」の一面をとらえただけである。

「ひとり旅」という方法は、<じぶんに閉じこもる(向き合う)>というじぶんに向けられた方向性とは逆に、「ひとり」であるからこそ、<外部にひらかれている>形式でもある。旅を共にする人たちとの「共同体」を形成して、外部に対する皮膜をつくってしまうのではなく、ひとりであることで、誰とでも接する可能性にひらかれる。

「ひとり旅」とは、「ひとり」という言葉の語感とは裏腹に、外部に向かってオープンにひらいてゆく方法でもあるのだ。

実際に、「ひとり旅」をしていると、旅路でいろいろな人たちと出会う。相手も「ひとり旅」をしている人であったり、現地の人たちであったり、出会いの量と質が異なるように感じることもある。


1994年、中国の旅においても、「ひとり」であるぼくを、ほんとうにたくさんの方々が気にかけてくれたり、声をかけてくれたり、ケアしてくれたりしたものだ。

「ひとり旅」が一番いい、などと言っているのではない。別のブログにも書いてきたように、<横にいる他者>(真木悠介)によって、じぶんが体験する「世界」の奥行きがまるで変わってくることがある。北京の故宮で待ち合わせをした友人の「人柄」と「眼」を通して、ぼくの「世界」は広がってゆき、深まったものだ(ぼくひとりであれば、会わないような人たちに出会い、行かないようなところに行った)。

ぼくが書いているのは、「ひとり旅」は、<じぶんに閉じこもる>(※言葉にネガティブさを感じるのであれば、「じぶんに向き合う」)という方法でありながら、それと同時に、<外部にひらかれている>形式であり、方法であることである。

内向的でありながら、きわめて、外向的である。

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「ヒッチハイク」へとおしだされた旅。- ニュージーランドを、北から南に向かって歩きながら。

旅を始めたとき、まさか、ぼくが「ヒッチハイク」をすることになるとは、思ってもみなかった。

旅を始めたとき、まさか、ぼくが「ヒッチハイク」をすることになるとは、思ってもみなかった。

ぼくのなかでヒッチハイクをすることはイメージになかったし、もちろん意図としてもなかった。でも、旅を続けてゆくなかで、「ヒッチハイク」という旅をすることにおしだされていったのである。


1996年、ぼくは、ワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドのオークランドに住み、滞在の後半になってから、ぼくは「ニュージーランド徒歩縦断」の旅に出た。

ニュージーランドに渡るまえから決めていたことではなく、オークランドに住みながら、「こんなことをしたんだ」と、じぶんや他者に言えるような「何か」をしておきたいと思い、アウトドアの雑誌で見た記事に触発されて、ぼくは「ニュージーランド徒歩縦断」を試みたのであった。

結果としては「途中で断念した」のだけれども、ニュージーランドの北端から南に向かって歩きはじめオークランドに到達し、オークランドで体制を立て直して南に向かってふたたび歩いた経験は、ぼくにとって、とても大切なものとなった。


驚いたことのひとつに、歩いている道中、ほんとうにたくさんの車がぼくのまえで停車してくれて、「乗っていきますか?」と声をかけてくれたり、乗車提供のジェスチャーを示してくれたりしたことがある。

そのたびに、ぼくは「No, thank you.」を伝え、ときに「北から南に歩いているんです」と説明することになった。そんなやりとりに、ぼくは励まされたものである。


足をけがして、ようやく到着したオークランドで治療し、オークランドで体制をととのえてふたたび南に向かって歩きだしたとき、ぼくの身体も精神も、なんだか歯車がくずれはじめたように思う。

ニュージーランドの北端から(おそらく)700キロメートルほどのところで、ぼくはじぶんでじぶんに「リタイヤ」を告げた。ぼくの身体を大粒の雨粒がうっていた。

じぶんで「リタイヤ」を決めてからそれほどたたないうちに、大雨がふりしきるなか、ある車が停まってくれた。大雨のなか、田舎のハイウェイを歩いているぼくを見兼ねて、停車してくれたようであった。

こうして、ぼくは、「ヒッチハイク」をすることになった。なお、その日は、彼の家での宿泊をすすめてくれ、ぼくはありがたく泊めてもらうことにした。出会ったばかりの方に泊めてもらうのは、ぼくにとって「はじめて」の経験でもあった。

身心の状態がよければありがたく断っていたかもしれない。それほどに、ぼくの身心は疲弊していたのかもしれないと思う。


今ふりかえってみると、「ヒッチハイク」という旅の形と内実は、「生きることの幅」をひろげてくれる契機のひとつであった。

ぼくの「ニュージーランドでの旅」は、一方に、きちんと料金を支払って決められた時間に決められた交通機関で移動する旅があり、他方に、じぶんの足をたよりにニュージーランドを縦断しようと試みる旅があった。

どちらの旅の形態も、「他人に迷惑をかけまい」とする旅の形態であるように、今ではぼくの眼に見える。「他人に迷惑をかけてはいけない」、このことを小さい頃から教えられてきたことを、ぼくはふと憶い出す。

でも、身心が疲弊し、ふりしきる雨がぼくの身体に浸潤してくる状態で、ぼくは、他者がさしのべてくれる好意を受け入れることにした。

「他者がさしのべてくれる好意を受け入れること」を、ぼくは「他人に迷惑をかけること」であると勝手に思っていたところがあるのかもしれない。切羽詰まった状態になってはじめて、ぼくは、そのような偏った見方の壁を、いくぶんか崩すことができた。

最後の最後まで、よくしてくれることに「申し訳なさ」が残ったのだけれど、でも、ぼくも「他者に手をさしのべる」ことができるような人になりたいと思ったものだ。


イメージもせず、意図もしていなかった「ヒッチハイク」の旅におしだされて、「じぶんの足をたよりに歩く」ことに挑戦していたときとは異なる経験と楽しさと学びを、ぼくは得ることができた。

そのことを、ここに書いておきたい。感謝の気持ちをこめて。

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自分のなかに埋もれている「一面」を照らしだす。- 旅で出会った人たちの<窓>を通して見る世界。

「あんな風に振舞ってみたい」。旅先で出会った日本人の方と語り、行動を共にしながら、そんな風に思ったことがあった。

「あんな風に振舞ってみたい」。旅先で出会った日本人の方と語り、行動を共にしながら、そんな風に思ったことがあった。

もう20年以上もまえのことになる。

1997年、ぼくは大学の夏休みのあいだに、タイ、ミャンマー、ラオスを旅していた。大学に入ってから、夏休みはアジアを旅し続けていた。そのまえの年、1996年には大学を一年休学し、ニュージーランドに住んだぼくは、1997年の夏、アジアに戻ってきた。アジアは、アジア通貨危機で揺れていた。

ニュージーランドに住んでいるときに無性にアジアに行きたくなるときがあったのだけれど、タイに到着したときは、やはり、身体の細胞がさわぎだすような感覚を覚えた(ちなみに、ニュージーランドでの経験はもう少し異なる次元を含めてぼくに影響を与え続けてきている)。


その方に、どこで、どのように出会ったのかは、今となっては正確には覚えていない。けれども、あのときの「体験」は、ぼくのなかにたしかに残っている。

成田空港からタイに入り、タイからミャンマーに空路で移動し、ミャンマーからラオス、ラオスからタイに戻ってくるルートで旅はすすんでいったのだが、おそらく、ミャンマーで(あるいはラオスで)、ぼくはその方に出会った。ぼくも一人旅であったし、彼も一人旅であった。

異国の地で、彼と語り、食事を共にしたりした。

それほど長い時間ではなかったけれど、彼と行動を共にするなかで、彼が、とても気さくでオープンマインドであったことに、ぼくはとてもひかれたのであった。異国の地の人たちと打ち解けてゆく仕方に、ぼくは人の「豊かさ」のようなものを感じたのだ。

後年ふりかえるなかで理解したことは、彼と行動を共にすることで、隣にいるぼくは「彼」を通じて、その<窓>から「世界」を見て、体験することができたことになる。その鮮烈な体験が、ぼくのなかの「埋もれていたもの」を刺激し、ふるい起こす。他者に感じる圧倒的な魅力性は、自分のなかに埋もれているものを照らす光となることがある。

「埋もれていたもの」に光があてられ、凍りついていたその表面が雪解けし、自分の違う「一面」が表層に出てくる。

旅路で彼と別れ、ラオスのビエンチャンに移動したぼくは、じぶんのなかに埋もれていた気さくさとオープンマインドをひらいてみる。出会う人たちや子供たちにオープンマインドで声をかける。夜の路上店で、クレープのような食べ物を売っている人にたのんで、作り方を教えてもらう。それだけで、「世界」がいつもとは違って、ぼくの前にあらわれる。


向き合う他者というのではなく、<横にいる他者>(真木悠介)である。


…関係のゆたかさが生のゆたかさの内実をなすというのは、他者が彼とか彼女として経験されたり、<汝>として出会われたりすることとともに、さらにいっそう根本的には、他者が私の視覚であり、私の感受と必要と欲望の奥行きを形成するからである。他者は三人称であり、二人称であり、そして一人称である。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店


1997年のアジアの旅を憶い出しながら、そのことをさらに深く感じる。

生きてゆくうえで、その場ですぐに学べることもあれば、あとになって(ときには、ずっとあとになって)「ことば化」されることがある。さらには、あとになって「ことば化」されたことのなかにも、生の旅路を歩きながら、もっともっと、深まってゆくこともある。

1997年のアジアの旅は、そんな体験のひとつであったようだ。

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成長・成熟, 香港 Jun Nakajima 成長・成熟, 香港 Jun Nakajima

「根をもつこと」の欲求と安心感。- 香港で「Apple Store」を利用しながら感じること。

ここ香港で、アップル社の「Apple Store」(香港には現在のところ6箇所ある)を利用しながら、「Apple Store」のすごさを実感する。「外部」から見ているだけではなかなかわからないけれど、実際にあらゆる仕方で利用してゆくと、そのすごさをしみじみと感じることになる。

ここ香港で、アップル社の「Apple Store」(香港には現在のところ6箇所ある)を利用しながら、「Apple Store」のすごさを実感する。「外部」から見ているだけではなかなかわからないけれど、実際にあらゆる仕方で利用してゆくと、そのすごさをしみじみと感じることになる。

シンプルでデザイン性にすぐれた全体的な空間(ミニマリスト的な空間)のなかに、いろいろな「サブ空間」があり、デバイスの購入から設定、アドバイスや修理、リサイクル、さまざまなセッションなど、これらが相互にからみあいながら立体的な空間をつくっている。

「Apple Store」は世界各地にあるけれど、この香港という場所で、これほどの空間とサービスを展開していることに、いろいろと考えさせられるところがある。

でも、ここではそれらをひとつひとつ考えてゆくのではなく、「Apple Store」のような空間の、物理的な存在そのもののことに光をあてておきたい。

劇場的な空間であること(またその楽しさ)をひとまず横に置いておくと、ひとことでその「物理的な存在」にたいする感覚を述べるとすれば、やはり、「安心」ということであるように、ぼくは思う。

アップル製品の良し悪しを語っているのでもなく、そして、「安心」はべつに「Apple Store」に限ることではない。

そうではなくて、その感覚は、ぼくたちの内奥に向かって深く降りていったときに、<根をもつことの欲求>に重なることであるように、ぼくは思ったのであった。


「人間の根源的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根をもつことの欲求だ」。名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)で、真木悠介はこのように書いた。

「翼をもつこと」だけでなく、「根をもつこと」の欲求。「根をもつこと」だけでなく、「翼をもつこと」の欲求。いずれもが<人間の根源的な欲求>であると、人間の欲望・欲求の構造を徹底的に探求してきた真木悠介は書く。

真木悠介は、この矛盾の解き方として、ふるさとを「局所」に求めようとするとするのではなく、「地球ぜんたい」に求めることを提示している。

その論理的な正しさ、それからぼくが求めてきた方向性もそこにあることを確認したうえで、それでも、「根をもつこと」の欲求はぼくの内面の回路を経由して、どこか「局所」的なものや場所に向かうこともある。

実際に住む場所があること、通う場所があること、働く場所があること、「知っている」場所があること、帰る場所があること、などなど。このようにして、(違った形ではあるけれど)「根をもつこと」の安心感を、ぼくたち(少なくともぼく)は、感じたりすることがある。

正確には「根」ではないけれど、たとえば、テント(テント内の空間)も、どこか安心感を与えてくれるものである。ニュージーランド徒歩縦断に挑戦していたとき、道ばたにテントを設営し、テントにもぐりこんだときの安心感をぼくは憶い出す。

「根をもつことの欲求」から派生してくる安心感を、そのような広い幅において考えていると、「Apple Store」も、ある意味で、「根をもつことの欲求」からわきあがってくるような安心感を与えてくれるのかもしれないと、思ったりするのである。

世界をいろいろと移動したり、移り住んだりするときに、「Apple Store」があるのは、やはり、安心である(もちろん、便利でもあり、デザインを楽しむことができる)。


いずれぼくの考え方や感覚が変わるかもしれないけれど、実際に、海外を含め、生活スタイルを試みているなかで、そんなことを考えたり、感じたりしている。



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「大量生産→大量消費」のこと。- 片づけをしながら考える「歴史的な大量消費社会」。

家の片づけをしながら、現代という時代の「大量消費」のことを思う。

家の片づけをしながら、現代という時代の「大量消費」のことを思う。

「モノ」への執着はあまりないと思ってきたにもかかわらず、それでも、いろいろな「モノ」が、いろいろな形で、いろいろなところにあるのを見つける。生きることの「豊かさ」をつくってくれる「モノ」が、かならずしもそのように機能せず、また、ぼくも大切にあつかうことができていない。

少し論理が飛躍するけれど、このことは「モノ」だけの話ではなく、「大切にあつかうことができていない」ことが、じぶんの生のどこかに、なんらかの仕方でつながっていたりする。

ともあれ、できるだけ、じぶんなりに「大切にしよう」などと思うのだけれど、現代社会の「構造」のなかに生きていると、「構造」にとりこまれてしまうようなところがある。


「大量消費」のことを思うと、いつも、見田宗介先生(社会学者)の名著『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』で展開された、明晰な論理が憶い起こされる。


「大量生産/大量消費」のシステムとしてふつう語られているものは、一つの無限幻想の形式である。事実は「大量採取/大量生産/大量消費/大量廃棄」という限界づけられたシステムである。
 つまり生産の最初の始点と、消費の最後の末端で、この惑星とその気圏との、「自然」の資源と環境の与件に依存し、その許容する範囲に限定されてしか存立しえない。

見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)


先進産業地域の都市などに暮らしていると、「大量生産→大量消費」のなかで(忙しく)生きてゆく。街に出ていけば、あるいはインターネットに接続すれば(大量生産でつくられた)「モノ」がいつでも、どこでも手に入り、そして、それらを(大量消費的に)購入し、利用し、楽しむ。使いおわれば、ゴミとして廃棄する。

見田宗介先生が明晰に論じているように、これは「一つの無限幻想の形式」であり、実際には「大量採取→(大量生産→大量消費)→大量廃棄」という限界づけられたシステムである。

日々の生活のなかでこの「限界づけられたシステム」(の両端)を感じることはあまりなく、「モノを購入して消費し、そして廃棄する」ことを、ただふつうの日常として生きる。でもときに、テレビやインターネットの写真や映像で、「大量採取」と「大量廃棄」を知識として知る。遠くの出来事のように感じたり、心を傷めたりしながら。

前出の著書で、見田宗介先生がさらに論じているように、歴史的な大量消費社会は、この限界づけられたシステムの両端、つまり「大量採取」と「大量廃棄」を、「外部」の諸社会や諸地域に転嫁することで存立してきたのである。

いろいろな物事は、このような「間接化」され、視えなくされることで存立している。


もちろん、これらのことを「知って」いるだけでは、この限界づけられたシステムから解き放たれることはできないし、また、個々それぞれにゴミを少なくしたり(なくしたり)、リサイクルをすすめたりするだけでは、(それらはとても大切なことであるけれども)なかなか「解放の道」が見えないものでもある。

でも、人びとが、このような社会を理解し、そこから解き放たれてゆくことの「物語」を共有することなしに、道はひらけていかない。だから、知ることと、個々にできることをすることは出発点でもある。


見田宗介先生は、21世紀の人間にとって切実な課題を、ポジティブに定式化して、つぎのように書いている。


…<自由な社会>という理念を手放すことなしに、現在あるような形の「成長」依存的な経済構造=社会構造=精神構造からの解放の道を見出すということが、二十一世紀の人間にとって切実に現実的な課題として立ち現れる。

見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)※2018年増補版


ハイライトをつけておきたいのは、「経済構造=社会構造=精神構造」からの解放の道であるということ。経済/社会/精神が相互に連関する構造として、描かれていることである。

経済/社会/精神のそれぞれが「同時に」すすんでゆくこともあれば、それぞれのあいだに時間的/空間的なギャップ(あるいは緊張)をつくりながら動いてゆくこともある。「現代」は、まさにそのような<過渡期>であるとも言える。

「じぶん」がいる立ち位置を確認しながら、じぶんの生を抑圧するのではなく、ひらいてゆく方向に(ほんとうの「歓び」を深めてゆく方向に)、「解放の道」をそれぞれに見つけたい。そのために、「じぶん」という経験の内奥に、降りてゆくこと。

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言葉・言語, 河合隼雄 Jun Nakajima 言葉・言語, 河合隼雄 Jun Nakajima

「無意識」、あるいは「深層意識」という言葉のこと。- 河合隼雄と井筒俊彦に学びながら。

「意識」にたいして、「無意識」という言葉が使われることがある。日常の意識とは異なり、もっと深いところにあって、普段はあらわれないような次元の意識である。ぼくも、普段の会話では、この深い次元の意識のことを「無意識」という言葉で語ったりする。

「意識」にたいして、「無意識」という言葉が使われることがある。日常の意識とは異なり、もっと深いところにあって、普段はあらわれないような次元の意識である。ぼくも、普段の会話では、この深い次元の意識のことを「無意識」という言葉で語ったりする。

心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)は、著作のなかで、この「無意識」ではなく、「深層意識」という言葉をよく使っている。河合隼雄の著作群を読みながら、そのことに気づいてはいたのだけれど、より具体的に、その「理由」を知ってはいなかった。あくまでも、「おそらく」の推測で、ぼくは考えていただけであった。

そんな折に、河合隼雄自身が、「フロイトやユングが無意識と言っているのはおかしい」、と語っているところに、著作のなかで出くわすことができた。


…フロイトやユングが無意識と言っているのはほんとうはおかしいと思うのです。なぜかと言えば、無意識と言っても、結局、その話をするわけですから、意識ですね。意識しないと話はできないわけだから。したがって「私は無意識的にこういう癖があるんです」と言ったとたんに意識化されているわけです。だから無意識という言葉を使うのはおかしいと思うんですが、フロイトやユングは西洋人ですから、自分を対象化するときに自分が意識でこう思って、心のなかを対象化したものを無意識と呼んでいると考えると、よくわかります。ですから正確には対象化してみると、自分の深いところにこういう癖があったと、そういう言い方をすべきなのでしょう。それで自分の今の意識と違う言葉を使わなければならないので、無意識と言ったのだと思います。

河合隼雄『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)


ここでの主題は「明恵上人と宮沢賢治の共通点」(※この主題はこの主題で非常に興味深い)で、東洋的なところに焦点をあてていることから、フロイトやユングの「西洋的な見方」が比較対象としてもちだされている。

東洋的なところでは、このあとすぐに語られているように、たとえば東洋の宗教では、「対象化せずに、自分がそのなかに入っていく」ことになる。そこで、意識の「段階」が変わるといった感覚において、「深層意識」という言葉のほうがいいと、河合隼雄は語っている。


ところで、ここ数日ブログでもとりあげている、井筒俊彦(1914-1993)の『意識と本質』(岩波文庫)を読んでいて、このあたりの言葉が、哲学的な色彩をあびながら、しかしとても明晰にふれられ、語られていることに、関心をひかれる。

じぶんに学ぶ準備ができたときに、やはり、「師」はあらわれる。

『意識と本質』では、最初から、「表層意識」と「深層意識」というような言葉が使われている。このような言葉を丁寧に布置しながら、井筒俊彦は「意識」について書いている。言葉の布置が決定的な役目を果たしているのを読んで、まさに、「東洋哲学全体の地図を作成しようとしている」(大澤真幸)書物であることを感じる。

なお、以前のブログでも書いたように、『意識と本質』は、河合隼雄が勧める「この一冊」でもあり、井筒俊彦による言葉の布置に親しんでいたと思われる。

それぞれのものごとをどのように言葉であらわし、それぞれの言葉をどのように位置付けるのか。ただの「言葉の布置」でしかない、と片付けてしまうにはもったいない。井筒俊彦も河合隼雄もそれぞれに、じっさいの「経験」にせまってゆく仕方で、「言葉」を丁寧にとりあげ、位置付けている。

意識と無意識、表層意識と深層意識、といったテーマは、ぼくにとっても決定的に大切なテーマであるから、井筒俊彦や河合隼雄の言葉の使い方や言葉の布置に学ぶところが、ぼくには山ほどある。

さて、これからどう言葉を使おうかと考えてしまうけれど、「無意識」という言葉のほうが日常ではよく使われるから、相手や文脈をたしかめながら、これからも「無意識」という言葉を、ぼくは使っていくだろう。けれども、時と場合によっては、「深層意識」という言葉を使っていこうとも思う。さしあたっては。

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