「井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし」(大澤真幸)。- 井筒俊彦『意識と本質』をひもときながら。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が「この一冊」として勧める、井筒俊彦(1914-1993)の『意識と本質』(岩波文庫)。河合隼雄先生に「この一冊」だと言われて、読まないわけにはいかない。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が「この一冊」として勧める、井筒俊彦(1914-1993)の『意識と本質』(岩波文庫)。河合隼雄先生に「この一冊」だと言われて、読まないわけにはいかない。
これからの時代を生きてゆく「指針」としては、この、「誰(whom)」、ということがキーワードだ。どのような方々と関わっていきたいのか。
だから、ぼくが関わりたい「河合隼雄」という人物に勧められるのであれば、まずは読んでみる。「何」が書かれているかあまりはっきりしない本であっても、読んでみる。ぼくはそう感じ、その感覚にひかれるままに、井筒俊彦の『意識と本質』をひらく。
河合隼雄のほかに、思考と感覚を深く信頼してやまない大澤真幸(社会学者)は、かつて、「古典」にかんする新聞の連載で井筒俊彦の『意識と本質』をとりあげて、つぎのように書いている。
本書は、人間の意識がどのように事物の本質を捉えるのか、ということについての考え方の違いを基準にして、イスラームやユダヤ教までも含む多様な東洋哲学を分類し、それらの間の位置関係を明らかにした書物である。東洋哲学全体の地図を作成しようとしているのだ。
こんなことができるのは、まず井筒俊彦だけだ。井筒はイスラーム思想を中心にあらゆる東洋哲学に(実は西洋哲学にも)精通していた碩学(せきがく)中の碩学。井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし。こう言いたくなくる。大澤真幸「全編を貫く「普遍」への意志 井筒俊彦「意識と本質」」、連載「古典百名山」、朝日新聞(2017年6月11日掲載)
井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし。
『意識と本質』が、ぼくにとって初めての「井筒俊彦」なのだけれど、大澤真幸がこの言葉を「言いたくなる」気持ちが、ぼくは充分にわかるのである。
ぼくにとっては、もともと、「本質」ということが主要なテーマのひとつであった。「本質」とは、「Xとは何か」という問いに対する(正しい)答えであると、大澤真幸は書いているけれど、このような「問いの立て方」が、ぼくの好奇心を駆動してきたことを、ぼくは思う。
たとえば、修士論文では「開発とは何か」という問いをタイトルにして、「開発 development」の「本質」を、じぶんなりに突き詰めていった。「開発 development」の「方法・手段」を主題にすることもひとつだけれど、ぼくは、どうしても「本質」を突き詰めたくなったのである。
そんなふうにして、「Xとは何か」の「X」をいろいろに変えながら、ぼくはいろいろなことの「本質」をつかもうとしてきた。(ちなみに、井筒俊彦は本のなかで「花」を例としてとりあげることが多い。)
でも、そうこうしているうちに、「自分の考え方」そのものを主題にする方向へとおしだされてしまった。それから「考え方」ということにくわえて、このじぶんの「意識」という次元へとおしだされてゆくことになる。
だから、「意識と本質」という問い方はまさしく、ぼくがそう問わざるをえないところにおしだされたテーマであったことを、『意識と本質』を読みながら思う。
しかし、名著の名著たる所以は、さまざまな読み方ができることであり、『意識と本質』もさまざまな読み方にたいし、さまざまに光を放つ本である。
ぼくは「異文化」という視点をもちこんで読んでいて、東洋と西洋の<境界線>で考え続けてきた井筒俊彦は、そんな視点にたいしても、明晰な論理を展開してみせてくれている。
昨日も言ったけれど、「すごい」としかいいようのない本、そして人に出会うことができた。
井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし。大澤真幸の言葉がぼくのなかで、こだましてくる。
「何」の本を読むかということに加え、「誰に」勧められる本か。- 河合隼雄先生に「この一冊」と勧められる本。
昨日の日付「3月24日」がなんとなく気になって、なんだろうかなぁと思いつつ、結局わからないままであったのだけれど、今日のブログを書こうと思って「下調べ」をしているときに、記憶(あくまでもぼくの記憶)にのこる「3月24日」を、ぼくが以前書いた文章のなかに見つけた。
昨日の日付「3月24日」がなんとなく気になって、なんだろうかなぁと思いつつ、結局わからないままであったのだけれど、今日のブログを書こうと思って「下調べ」をしているときに、記憶(あくまでもぼくの記憶)にのこる「3月24日」を、ぼくが以前書いた文章のなかに見つけた。
2001年3月24日。
その日、ぼくは、社会学者「見田宗介=真木悠介」先生による「講義」を、聴講したのであった。講義は二コマで、題目は、見田宗介『宮沢賢治:存在の祭りの中へ』、それから真木悠介『自我という夢』であった。
到着した見田宗介先生が「今回のテーマ設定の背景」を語る。「テーマ」の設定の背景でありながら、「『テーマ』(what)ではなく『どういう人たちと関わってみたいか』(with whom)ということ」を考えていらっしゃったとのこと。
あの「圧巻」の講義の日から、人生を歩んでゆくなかで、『どういう人たちと関わってみたいか』(with whom)ということが、ぼくのなかに印象深く残っていた。「what」ではなく、「with whom」ということ。
あれから時間が経過してゆくなかで、またぼくなりに経験を重ねてゆくなかで、このことがいっそう、大切なこととして浮上してきているのを感じる。
今、そしてこれからの時代は、「何(what)」をしていくかということ以上に、「誰と(with whom)」関わってゆくのかということが、中心的な課題となるような時代である。ぼくは、そう考えている。
2001年3月24日のときも、その「予感」を感じながらも、いまほどの確信はもっていなかった。時代がすすむにつれて、いっそう、確信に近いものとなってきている。見田宗介先生は、すでに、あのとき、確信をしておられたのだ。あのときの「種子」が、ようやく、ぼくのなかで芽を出すのだ。
「誰と(with whom)」関わってゆくのか、というときに、本を通して関わりたい方々がいる。見田宗介先生のほかに、たとえば、心理学者・心理療法家の河合隼雄先生(1928ー2007)がいる。
河合隼雄先生の本を読んでいて、河合隼雄先生の勧める「この一冊」を、最近、ぼくは手にとった。
本を選ぶにあたっても、「誰に(by whom)」勧められるのかということが、これからの「本の選び方」であると、ぼくは思う。河合隼雄先生による「この一冊」、河合隼雄先生が「名著」だとする本。タイトルは知っていたし、古典的名著だとも知っていたけれど、ぼくの肩は、「誰に(by whom)」勧められるのかという「誰に」に、ぐっと押されることとなった。
河合隼雄先生の勧める「この一冊」であり名著は、井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)である。井筒俊彦先生(1914-1993)はイスラム哲学の研究者であり、日本でより海外で活躍され、名が知られてきた方である。
河合隼雄先生は、『意識と本質』にふれながら、つぎのように書いている。
…その後記に先生は次のように書いておられる。
「西と東の間を行きつ戻りつしつつ揺れ動いてきた私だが、齢ようやく七十に間近い今頃になって、自分の実存の『根』は、やっぱり東洋にあったのだと、しみじみ感じるようになった」。
この本は何度読んでも教えられるところのある名著だが、東洋思想が西洋の知に照らされ、しかも平明な言葉によって述べられている。「この一冊」などという原稿を依頼されて、この書物をよく取りあげたものである。河合隼雄『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)
井筒俊彦という碩学が「齢ようやく七十に間近い今頃になって、自分の実存の『根』は、やっぱり東洋にあったのだ」と感じようになったと言われて、そして河合隼雄先生に「この一冊」だと言われて、『意識と本質』を読まないわけにはいかない。
でも、本をひらいて、ぼくは「この一冊」ということの深みとひろがりを知ることになった。なにしろ、「すごい」本なのだ。
それにしても、今年は、1910年代から1920年代生まれの先達に、ぼくはなぜかひかれてやまない(※ブログ「1910年代から1920年代生まれの先達に、ぼくはなぜかひかれる。- 串田孫一にふれながら。」)
井筒俊彦。「すごい」方に、ぼくは出会うことができた。
「外国人になったこと」の体験から。- イチローの引退記者会見より《その3》。
イチローの引退記者会見(2019年3月21日)で放たれた言葉たちのいくつかに共鳴し、それらにふれながら、ブログで、《その1》《その2》と、少しのことを書いた。《その1》では、イチローの<喜び>、とりわけ「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」ということへの変遷、また、《その2》では、イチローの<生きかた>にふれてきた。
イチローの引退記者会見(2019年3月21日)で放たれた言葉たちのいくつかに共鳴し、それらにふれながら、ブログで、《その1》《その2》と、少しのことを書いた。《その1》では、イチローの<喜び>、とりわけ「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」ということへの変遷、また、《その2》では、イチローの<生きかた>にふれてきた。
引退記者会見は「質疑応答」形式ですすめられ、イチローの「応答」は、すみずみまで、インスピレーションに充ちているように、ぼくは思う。
ふれたいポイントはたくさんあるのだけれど、《その3》としてもうひとつだけとりあげて、ひとまず「区切り」としたい(また後日ブログでとりあげるかもしれないし、別の機会に書いたり話したりするかもしれない)。
《その3》としてとりあげたいのは、「外国人であること」である(このことをとりあげたのには、ぼくのブログ「世界で生ききる知恵」に直接にかかわることであるし、また、最近ちょうど読んでいた文章、「わたしが外人だったころ」という鶴見俊輔の文章もぼくのなかに印象深くのこっているからでもある)。
1時間30分ほどにわたって行われた引退記者会見の、最後の「質問」に応答するイチローが、「外国人であること」について語っている。雄弁に語るのではなく、ときどき、言葉と言葉のあいだに「沈黙」(沈思)をはさみながら。
質問は「孤独感」についてであった。だいぶ前に、何度か「孤独を感じながらプレーしている」という発言があったことに記者が言及しながら、「孤独感をずっと感じながらプレーしてきたのか」と、イチローに尋ねたのであった。
イチローは、「現在それはまったくない」と応答したあと、「それとは少し違うかもしれないですけど…」と前置きしながら、つぎのように語った。
…アメリカに来て、メジャーリーグに来て、、、、外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人ですから。このことは、、、、、外国人になったことで、人の心を慮ったり、人の痛みをこう想像したり、今までなかった自分が、あらわれたんですよね。この体験というのは、、、、、ま、本を読んだり情報をとることはできたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。
イチロー「引退記者会見」(※KyodoNewsの動画「イチロー現役引退 記者会見ノーカット版」、および、BuzzFeed.News「貫いたのは「野球への愛」 イチローが引退会見で語ったこと【全文】」を参照)
「外国人になったこと」という体験。イチローが語るように、「体験」からでしか感じることのできない側面がある。
この体験において、自分の中から生まれるものは人それぞれであるだろうけれど、イチローにとっては、「人の心を慮ったり、人の痛みを想像する」自分があらわれることになったのだという。
自分の「どの部分」があらわれることになるかは異なっても、外国人であることによって、「今までなかった自分」があらわれてくる。おなじことが、ぼくの「体験」からも言えると思う。
今までの「自分」がまったく変わってしまったり、なくなってしまうというのではないけれど、「今までなかった自分」、あるいは、今まで隠れていた自分があらわれてくる。「外国人であること」を、自分の<幅>をひろげてゆくための契機とすることができる。
もちろん、「外国人であること」で「大変なこと」もある。じっさいにその「大変ななか」にいるときは、やはり大変なことだ。でもそんなことをひっくるめて見てみても、自分の糧となってゆく。
上記の発言につづいて、イチローはつぎのように語る。
孤独を感じて、苦しんだこと、ま、多々ありました。ありましたけど、、、その体験は、未来の自分にとって、大きな支えになるんだろうと、今は、思います。だから、ま、辛いこと、しんどいことから逃げたいと思うのは当然のことなんですけど、でもエネルギーのある元気なときに、それに立ち向かっていく、そのことは、すごく、人として重要なことなんではないかなというように、感じています。
イチロー「引退記者会見」(※KyodoNewsの動画「イチロー現役引退 記者会見ノーカット版」、および、BuzzFeed.News「貫いたのは「野球への愛」 イチローが引退会見で語ったこと【全文】」を参照)
この発言のあと、「締まったね、最後」と、イチローが笑みをうかべながら言うように、この「締め」のあとに、(ぼくが)どんな言葉を付け加える必要があろうか。
でも、あえて一言だけ加えておけば、ぜひ、映像で、この「語り」を聴いてみてほしい。「文字」では視えないものがそこには視え、聴こえてくる(だろう)から。
「遠回りすることでしか、本当の自分に出会えない」こと。- イチローの引退記者会見より《その2》。
イチローの引退記者会見(2019年3月21日)で放たれた言葉たちに惹かれながら、ブログ「「自分のため」を超えるとき。- イチローの引退記者会見より《その1》。」を書いた。《その1》を書き始めたとき、《その2》を書くかどうかは決めていなかったのだけれど、体験と思考を通過してきた言葉たちが魅力的で、《その2》を書こうと思う。
イチローの引退記者会見(2019年3月21日)で放たれた言葉たちに惹かれながら、ブログ「「自分のため」を超えるとき。- イチローの引退記者会見より《その1》。」を書いた。《その1》を書き始めたとき、《その2》を書くかどうかは決めていなかったのだけれど、体験と思考を通過してきた言葉たちが魅力的で、《その2》を書こうと思う。
《その1》では、「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」という言葉をとりあげ、「自分のため」を追求することを他者への貢献や他者の喜びの方法としてきたイチローが、野球人生の途上で、「人に喜んでもらえること」を一番の喜びとするところへと変わってきたことにふれた。
他者のためであっても「自分のため」をとことん追求する方法を、どこかで乗り越えるときが、イチローのなかのおおきな地殻変動としてあった。そのことが引退記者会見で語られたのであった。
この「喜び」ということと共に、《その2》では、イチローの<生きかた>にふれておきたい。
引退記者会見は質疑応答の形ですすめられたのであるが、そのなかで、「生き様で伝えたこと、伝わっていたら嬉しいと思うこと」についての質問がイチローに投げられた。
「生き様」という言葉に少しとまどい、「生きかたというふうに考えれば…」という前置きをしながら、イチローはつぎのように語った。
…ま、先ほどもお話しましたけれど、、人より頑張ることなんて、とてもできないんですよね。あくまでも、はかりは自分のなかにある。それで自分なりに、そのはかりを使いながら、自分の限界を見ながら、ちょっと超えていく、ということを繰り返していく。そうすると、いつの日かなんか、「こんな自分になっているんだ」、っていう状態になって。だから、少しずつの積み重ねが、、それでしか、自分を超えていけない、というふうに思うんですよね。
なんか一気に、、一気になんか高みにいこうとすると、、今の自分の状態とやっぱギャップがありすぎて、、それが続けられない、と僕は考えているので。ま、地道に進むしかない。進むというか、進むだけではないですね。後退もしながら、あるときは後退しかしない時期も、あると思うので。でも、、自分がやると決めたことを、信じてやっていく。でもそれは正解とは限らない、ですよね。間違ったことを続けてしまっていることもあるんですけど。でもそうやって、遠回りすることでしか、なんか本当の自分に出会えないというか、そんな気がしているので。…
イチロー「引退記者会見」(※KyodoNewsの動画「イチロー現役引退 記者会見ノーカット版」、および、BuzzFeed.News「貫いたのは「野球への愛」 イチローが引退会見で語ったこと【全文】」を参照)
自分のなかにじぶんの「はかり」をもちながら、少しずつの積み重ねでもって、自分を少しずつ超えていく。そして、こう語られる。「遠回りすることでしか、本当の自分に出会えない」と。
もちろん、これはイチローの考え方である。けれども、イチローの深く長い体験と思考を通ってきた言葉である。
ぼくが感じるのは、現代において、「本当の自分」というものが、確かにあるものとして安易にとらえられ、また「すぐに」出会う(ことができる/べきである)ものとして、感覚されているのではないか、ということである。
イチローの体験と思考と言葉は、そんなところに、「少しずつの積み重ね」と「後退」と「間違ったことを続けてしまっていること」という、<遠回り>の生きかたを提示している。
<遠回り>という言い方には、「遠回りしない」生きかたが、暗黙裡に対置されている。さらにもう少しうがってしまえば、<遠回り>自体のなかに、「生きる」ことの本質がこめられている。少なくとも、ぼくにはそう聴こえる。
質疑応答のはじめのほうで、「後悔することは?」と尋ねられたイチローは、「後悔などあろうはずがありません」と発言しながら、「結果を残すために、自分なりに重ねてきたこと」、結果としての記録ではなく、この<重なり>に光をあてて語っている。
<遠回り>の生きかた、その<遠回り>自体のなかに「生きる」ということがある。
「自分のため」を超えるとき。- イチローの引退記者会見より《その1》。
イチローの引退と引退記者会見(2019年3月21日)。いろいろな方々がいろいろな仕方で、それぞれに共感するところを書いている。人それぞれに、どんなところに、どのように「惹かれた」のかを読むのは、興味深いところである。
イチローの引退と引退記者会見(2019年3月21日)。いろいろな方々がいろいろな仕方で、それぞれに共感するところを書いている。人それぞれに、どんなところに、どのように「惹かれた」のかを読むのは、興味深いところである。
引退会見で放たれた言葉は、たしかに、さまざまな角度から、人の心をとらえるものである。
あらかじめ言っておけば、ぼくはイチローが好きだし、尊敬している。試合をいつも追っていたわけでないし、いわゆる「ファン」という言葉も違うような気がするけれども、ぼくの「世界」のなかには、やはり、イチローがいる。
その「存在感」はどこか独特のもので、言ってみれば、イチローの節目節目の言動はどこかぼくの深いところに届き、また、ぼくの人生の節目節目で、ぼくはイチローの言動を心のどこかで意識している。
そんな前提で、ぼくの関心と共感のフィルターは作動してきた/作動していることを、あらかじめ伝えたうえで、引退会見の「言葉」にふれたいと思う(「言葉」というように括弧をつけるのは、それがただの知識的な「言葉」ではなく、経験と思考を通ってきた「知恵」としての言葉であるからである)。
いろいろとふれたい点があり、今回はその一つだけにふれることから、タイトルは「その1」とつけておきたい。いずれ、「その2」を書くかもしれないし、書かないかもしれない。
引退会見は、冒頭で、イチローが短い言葉を語ったうえで、会場からの質問に応える仕方で進められた。
今回「その1」でとりあげたいのは、「イチロー選手にとってのファンの存在」を尋ねられたときの、イチローの応答である。
この応答の前半部分では引退に際し「東京ドーム」で起きた出来事にふれたのだが、その後半部分で、イチローはこれまでをふりかえりながら、次のように語った。
…まぁ、ある時までは、まぁ自分のためにプレーすることが、まぁチームのためにもなるし、見ていてくれる人も喜んでくれるかなというふうに思っていたんですけれど、、まぁニューヨークに行ったあとぐらいからですかね、人に喜んでもらえることが、一番の喜びに変わってきたんですね。その点で、ファンの方々の存在なくしては、自分のエネルギーはまったく生まれないと言っても、、いいと思います。
イチロー「引退記者会見」(※KyodoNewsの動画「イチロー現役引退 記者会見ノーカット版」、および、BuzzFeed.News「貫いたのは「野球への愛」 イチローが引退会見で語ったこと【全文】」を参照)
この発言のあと、静まった会場に少しのあいだ目をそそぎ、会場の反応をみながら、「え、おかなしこと言ってます?僕、大丈夫?」と、イチローはおかしみを表情にふくませて語り、場の雰囲気をゆるめる(この発言をふくめ、ぜひ映像で見てほしいところである)。
それにしても、「自分のためにプレーすることがチームのためにもなるし、見ていてくれる人も喜んでくれる」ところから、「人に喜んでもらえることが、一番の喜びに変わってきた」というところへの変遷、また「ファンの方々の存在なくしては、自分のエネルギーはまったく生まれない」という確信は、ぼくをとらえる。
なんとなく、イチローには「自分のためにプレーすることがチームのためにもなるし、見ていてくれる人も喜んでくれる」というイメージがついているように、ぼくには思われる。
それが、あるとき(ニューヨークに行ったあとぐらいから、というのがイチローの言なのだけれど)、イチローの内面でおおきな地殻変動がおこりはじめ、「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」へと変動してゆく。
言葉では数行で語られることだけれど、じっさいには、とてもおおきな、内面の地殻変動である。
さらには、以前のイチローからは聞くことができなかったであろう(どこかで語られたかもしれないけれど、ぼくはイチローからこのような確信のもとで語られるとは想像していなかった)、「ファンの方々の存在なくしては、自分のエネルギーはまったく生まれない」ということが語られるのである。
もちろん、「自分のためにプレーすることがチームのためにもなるし、見ていてくれる人も喜んでくれる」という状況においても、他者の喜びを念頭においた「自分のため」である。でも、それがどこかでつきぬけて、「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」というところへ、イチローをおしだしてしまう。
でも、「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」は、より次元の高い(あるいはより深い)「喜び」である。ぼくは、そう思う。
他方で、この変遷は、「自分のため」をとことんまでおいもとめてきたイチローだからこそ、経験してきたものだとも思う。
「自分」がないままに「人に喜んでもらえる」ところへとつきすすんでゆくことで、「自分」という存在がわからなくなったり、自分の心身をこわしてしまったりすることがある。「他者のため」「人のため」という呪文の危険なところである。
だから、「自分のため」というフェーズをとことん生きてみることが大切であったりするのである。けれども、「自分のため」という言動はどこかで、「喜び」の深さにおいて、限界がきてしまう。「自分のため」が他者に向けられていたとしても、である。
どこかで、「自分のため」でありながら、「自分のため」を超えてゆくことが、喜びを深めることにおいて要請される。別の言い方をすれば、<喜び>をとことんおいもとめてゆくと、「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」という地点へ、ぼくたちの生はひらかれてゆくのである。
「植物の名」の多いこと。- 日本語と日本人の「植物」への関心と可能性。
言語学者であった金田一春彦(1913-2004)の著書『美しい日本語』(角川文庫)のなかに、「世界で一番植物の名が多い国」という文章がある。
言語学者であった金田一春彦(1913-2004)の著書『美しい日本語』(角川文庫)のなかに、「世界で一番植物の名が多い国」という文章がある。
日本語にはおびただしい数の木の名・草の名がある。大槻文彦氏の編集した『言海』を開いて、これは植物の名ばかりではないかと言ったという外国人の話がある。…
金田一春彦『美しい日本語』(角川文庫)
海外の友人が、日本人の植物への関心の高さについて語っていたのを、ぼくは思い起こす。思えば、ぼく自身も、海外で日本から来た人を案内するときに、植物の名前を尋ねられたことがあった。
言語のなかで言葉が多くあらわれるのは、ひとつには、実際の生活において密接なつながりを有しているものごとである。使われる言葉から、人の生活や社会が見えてくることになるが、たしかに、日本は植物(木や草や花など)とのむすびつきがより強いように、実感として感じる。
もちろん、金田一春彦が書くように、日本語に植物の名が多いことの背景には、まず、日本に植物の種類が豊富であることが挙げられる。
さらには、ひとつの対象であっても、古来の言葉や方言などが加わって、植物の名は『言海』の辞書を埋め尽くす、とまではいかなくても、外国人が「これは植物の名ばかりではないか」と発言するほどの存在感をつくってしまうのである。
ぼくはこの文章に眼をとおしながら、そこに「可能性」を見る。
日本語にはおびただしい数の木の名・草の名があっても、それがそのままに「世界」にひろがってゆくものではない。
けれども、おびただしい数の木の名・草の名をもつ「生きかた」、自然との関係のありかたに、自然と人間社会との関係性をいくぶんなりとも変容させてゆく「可能性」を感じるのである。
そのような生きかたやありかたの底流にながれる、人と植物たちとの具体的な関係性に、である。
この「可能性」は、おなじように、ぼくのなかにも、ひらいていきたいものである。
抽象的思考を好むぼくは、ついつい、具体性から離陸してしまう。だから、「名前」をきっかけに(「名前」の功罪ということもあるので、それがすべてではないけれど)、この「世界」のいろいろなものごとを、楽しみたいと思う。
そのような具体的な関係のありように、「世界」は、ぼく(たち)のまえに、異なった姿であらわれるのである。
「競争」ということ。日本的な「競争」のこと。- <境界線>に生き、考える河合隼雄に教えられて。
ここ数年来、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が書いたもの、語ったものを、ぼくはよく読むようになった。
ここ数年来、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が書いたもの、語ったものを、ぼくはよく読むようになった。
20年以上まえ、大学生のころにも数冊を読んだのだけれども、そのころはたぶん、ぼくの経験の基盤がうすく、また表層で読んでしまっていたところがあったのだろう。
あのときと比べ、ぼくの経験と思考が少しは深まったことを、いま読みながら思うのである。
また、どこの「視点」から読みとっていくのかということも、いくぶん、ぼくのなかではっきりしたこともあって、じぶんの生にひきつけて読むことができているのだということも、ぼくは思う。
河合隼雄はアメリカで心理学を学び、スイスでさらに研究をすすめたことから、「西洋」発出のものを「日本」の文化や文脈でどのように適用してゆくのかについて試行錯誤し、考えてきた。
だから、書かれているものや語られたもののなかには、日本とアメリカ、東洋と西洋などの「境界」で考えられたものが多く見られる。(いまでは言葉としてあまり聞かれなくなったが)「国際化」などについて言及しているところも多い。
このような<境界線>で考えること。このことは、ぼくのライフワークでもあり、ほんとうに多くのことを教えられるのである。
そのようなトピックのひとつに、日本人にとっての「競争」ということが挙げられている。
「競争」のよしあしを、ああだこうだと論じるよりも手前のところで、「競争」というものが日本人にとってどのようなものであるのかを、たとえばアメリカを念頭においたりして、考えている。
精神科医の中井久夫との会話に触発されるかたちで、河合隼雄は、この「競争」ということにふれている。
私はもともと「競争」は必要と考えている。自分の個性を伸ばし、やりたいことをやろうとすると、何らかの競争が生じてくるし、それによって自分が鍛えられる。ところが、中井さんが指摘しているのは、日本人は、自分のやりたいことをやる、というのではなく、「集団から落ちこぼれない」ように頑張る、極端に言えば、一番になっておけば、まさか落ちこぼれることはあるまい、という「競争」をしている。つまり、競争の基盤が自分自身にあるのではなく、全体のなかにある。「自分はこれで行く」というのではなく、全体のなかで何番か、を問題にする。
河合隼雄『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)
日本的な「競争」にかんする、とても教えられるところの多い考え方である。
日本の多くの子どもたちは「落ちこぼれないための競争をさせられている」ことからキレそうになっているのではないか、とも、河合隼雄は指摘している。
ぼくも「競争」は必要であると考えているが、「競争」ということの、どうもネガティブな意味合いの一端は、言葉にしてみると、中井久夫と河合隼雄が指摘するところであると、ぼくも思う。異文化との<境界線>で考えながら、そう思うのである(だからといって、他の文化圏で「競争」がうまくいっているというわけではかならずしもないところが、「近代・現代」という時代性ともからみながら、むずかしいところである。なお、「近代・現代」のあとの時代の<競争>ということを、考えることができる)。
20年ほどまえに書かれた文章であるけれども、このような状況の核心は、いまでもひろく見られるものではないだろうか。
「天才」と「秀才」の違い。- 桑原武夫が語る、「天才」鶴見俊輔のこと。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)と、思想家の鶴見俊輔(1922-2015)との「出会い」について、河合隼雄による「回想」を取り上げながら、昨日(2019年3月18日)のブログに書いた。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)と、思想家の鶴見俊輔(1922-2015)との「出会い」について、河合隼雄による「回想」を取り上げながら、昨日(2019年3月18日)のブログに書いた。
思いもよらず河合隼雄が鶴見俊輔を「敬遠」していたこと、鶴見俊輔に会ってすぐに「誤解がとけたこと」、また誤解がとけただけでなく、鶴見俊輔は<天性のアジテーター>であると、河合隼雄が見出したこと。
河合隼雄は鶴見俊輔の「目の輝き」にいくどもふれているのが、ぼくの印象につよくのこっている。
この回想は、「鶴見俊輔さんとの出会い」という、『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)所収の短い回想だけれども、とても印象的な文章である。
今年2019年は「鶴見俊輔を読もう」と思ったぼくの<寄り道>は、しかし、鶴見俊輔という人物を知るうえで、大切なことをぼくに教えてくれたように思う。言ってみれば、「鶴見俊輔を読む」ことが「目的」なのではなく、<鶴見俊輔>を通して、ぼくは「何か」を学ぼうとしているのであり、その意味において、これはふつうの意味での「寄り道」ではない。
また、「鶴見俊輔さんとの出会い」という文章は、ぼくがうすうすと感じとっていたことの「ことば化」を手伝ってくれたところもあるのである。
さらに、この文章の最後のくだりも、とても磁力のつよい言葉が放たれている。
鶴見俊輔との出会いののち、河合隼雄は鶴見俊輔との仕事を共にする機会を多く得てゆくことになり、「ホンモノ」と「ニセモノ」を見抜く眼力に、いつも敬服されることになる。そのことを、河合隼雄は桑原武夫(フランス文学者・評論家)に話したのであった。
…いつか桑原武夫先生に鶴見さんがいかに素晴らしいかを話すと、いかにも当然というように、「ああ、鶴見は天才でっせ」と言われる。そこで、先生は天才と秀才をどうして見分けられますかとお尋ねすると、「天才は面白いと思ったら自分に不利なことでも平気で喋る」、「秀才は自分が損するようなことは上手に隠す」とのことであった。
河合隼雄『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)
「天才は面白いと思ったら自分に不利なことでも平気で喋る」。
桑原武夫の、この「見分け方」もすごいけれど、この話を読みながら、鶴見俊輔という人物、それから、彼を通じて学ぶ「何か」の一端を、ぼくは見てとることができる。
このような事情は、ぼくが尊敬してやまない見田宗介(社会学者)の、つぎのような文章にもあらわれるのである。見田宗介が学生であったころのことである。
…(…「こんど出た吉本隆明の『ナショナリズム』をもう読みましたか?わたしが徹底的に批判されているんです。すばらしい論文です。ぜひ読んでみて下さい」。学生であったわたしに鶴見は目を輝かせて言った。爽快だった。本質的な思想家は、論争での勝敗などには目もくれぬものだ)。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
ここでも、鶴見俊輔は、じぶんの「損得」など気にすることなく、面白いと思ったもの、すばらしいと思ったものを平気で語っている。やはり、目を輝かせながら。
このような振るまいが、あるいは生きかたが、どれだけ多くの人たちをひきつけ、触発してきたことか。
河合隼雄が語る「鶴見俊輔」。- 「天性のアジテーター」というちから。
2019年は鶴見俊輔(1922-2015)の作品群を読もうということで、年初に、鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)の本をひらいた。言い訳をするならば、いろいろとほかのことをしているうちに、この本の途中でとまったままに、早いもので3ヶ月近くがすぎた。
2019年は鶴見俊輔(1922-2015)の作品群を読もうということで、年初に、鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)の本をひらいた。言い訳をするならば、いろいろとほかのことをしているうちに、この本の途中でとまったままに、早いもので3ヶ月近くがすぎた。
でも、もうひとつの理由としては、鶴見俊輔の作品を読んでいると、ぼくの関心と思考の輪がひろがってゆくことがあげられる。『思想をつむぐ人たち』でとりあげられる「人たち」を、鶴見俊輔の「眼」を通して語られると、ぼくの関心と思考は、その「人たち」のほうへと、自然と向いていってしまうのである。
そんな「力」が、鶴見俊輔の「語り」のなかには宿っているのかもしれないと思ってしまう。
ところで、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が、鶴見俊輔との出会いについて、『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)という本に書いている。
鶴見俊輔を敬遠していたようなところがあると、河合隼雄は鶴見俊輔についての文章をかきはじめている。
敬遠していた理由は、第一に、河合隼雄は頭のいい人を敬遠しがちであること、それから、第二に、鶴見俊輔を「正義の味方」だと誤解していたことにあった、という。
そんななか、鶴見俊輔・多田道太郎とマンガについての評論をやらないかと編集者に誘われたが、マンガはほとんど見ないし、上述の理由もあって、河合隼雄は最初は断ったという。けれども、両氏を交えて飲む場に誘われて、行ってみることにしたのだという。
そして鶴見俊輔に会ってすぐに、鶴見俊輔を誤解していたのだということを、河合隼雄はさとることになる。とりわけ、鶴見俊輔の「目の輝き」がすばらしく、頭のいい人で頭の悪い人や弱い人の気持ちがこれほどまでにわかる人はいないだろうと思ったのだという。
さらに、鶴見俊輔が語る「マンガの面白さ」に、ひきこまれていく。鶴見はマンガの台詞もおぼえていて、熱演してみせる。シェイクスピアやゲーテの言葉を暗記している学者や偉い人はたくさんいるけれど、マンガの台詞をおぼえている人はあまりいないから、いっそうひかれてしまう。
こんなぐあいに、河合隼雄が鶴見俊輔と初めて会ったときのことが書かれている。
でも、ぼくをいっそうひきこんだのは、つぎのようなところである。
別れてしまってから、鶴見さんというのは天性のアジテーターである、と思った。鶴見さんは一般の人の言う「アジる」などということは、まったくされなかった。ただただ、自分にとって興味のあることを話しておられた。ところが、鶴見さんの心のなかの動きが、知らぬ間に私の心のなかの動きを誘発してしまうのである。別にマンガを読んでみませんかなどと言われてもいないのに、自分のほうから自発的に「マンガを読んでみましょう」などと言ってしまうのである。おそらく、…あの目の輝きを見ているだけで、たくさんの人が自発的に何かをやり出したくなったりすることは、多くあるのではなかろうか。
河合隼雄『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)
ぼくは、このことがとてもよくわかるような気がしたのだ。
鶴見俊輔の文章を読んでいると、ついつい「自発的に」ほかの著書や人物を読んでみようかな、調べてみようかな、などと思ってしまうのである。
そんなことをしているうちに、「鶴見俊輔を読む」2019年は、3ヶ月近くも瞬く間にすぎてしまったのだ、というと少し大げさかもしれないけれど、じっさいに、ぼくの関心と思考はひろがっていってしまったのである。
鶴見俊輔が語り、書くもののなかに「目の輝き」が感じられ、そこにひきつけられてゆくように。
また、この「天性のアジテーター」ぶりを、ぼくは、じっさいに「体験」したことがあることを、思い出す。
残念ながら、生身の鶴見俊輔さんにお会いする機会はなかったのだけれど、鶴見俊輔の「人物関係図」を描いたとしたらそこにつながる見田宗介先生(社会学者)の講義で、ぼくは「天性のアジテーター」を体験したのだ。
見田宗介先生は、ただただ、自分にとって興味のあることを語っておられた。やはり、目を輝かせながら。
たった二コマの講義だったのだけれど、ぼくは自発的に、いろいろと学んだり、やってみたくなったりしたのであった。
思えば、鶴見俊輔を2019年に読もうと思ったきっかけも、見田宗介先生の著作(『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』)からであった。
天性のアジテーター。
それは、鶴見俊輔の核心をつらぬくものである。そこに魅力をいっぱいに感じながら、ぼくも、そう思う。
<生きることのリアリティ>について。- 海外を旅し、海外で暮らしながら、思い、考えること。
日本の外(「海外」)で暮らしてきた時間も、17年ほどとなった。人生の5分の2以上である。
日本の外(「海外」)で暮らしてきた時間も、17年ほどとなった。人生の5分の2以上である。
海外ですごす時間が徐々に長くなってきたころ(それがいつだったか正確には思い出せないけれど)、「海外」で暮らす時間が、人生のうちの「半分」を超えると、どんな「感覚」を覚え、どんなことを考え、どんなふうにじぶんをかえてゆくことができるのだろうかと、思ったことがあった。
今は、その「地点」にさしかかったところである。でも、じっさいにその「地点」に近づいていくと、そんなことはあまり考えなくなった。それでも、ときおり、日本で暮らした時間と海外で暮らした時間を数えて、比べてみることがあるのである。
なにはともあれ、人生の5分の2以上を海外で暮らしてきたところで、「海外で暮らす」ことによってより鮮明に記憶にやきつけられたことについて、ブログ(「人生の5分の2以上を「海外」で暮らしてきて感覚すること。- 身体にきざまれる<日常の風景>。」)を書いた。
ブログのタイトルに書いたように、より鮮明に記憶にやきつけられたことのひとつは、<日常の風景>である。ニュージーランドの、シエラレオネの、東ティモールの<日常の風景>が、ときおり、ぼくのなかで<再生>されるのである。まるで、「今、現在」、その日常をこの眼で見ているかのように、である。
このことはぼくにとってとても大切なことなのだけれど、<日常の風景>は、「知識」としてではなく、身体的な記憶として、ぼくにリアリティを与えてくれる。動画や記事などで「知る」のではなく、この身体にきざまれるように、<リアリティの感覚>が生きている。
海外で暮らすようになるまえ、ぼくは、アジアを旅していた。
「旅」で獲得したものは、ありきたりの言葉かもしれないけれど、<生きることのリアリティ>ともよぶべき感覚であった。そのことは、旅をしている最中も感じるところであったけれど、旅のあとにふりかえりながら、より明確にことばにすることができたことでもあった。
「海外に暮らす」ことにおいても、いくぶん異なる仕方で、まただいぶ時間が経過してゆくなかにおいて、これまで暮らしてきた場所の<日常の風景>が、ぼくに「リアリティ」の感覚を与えてくれていることに、ぼくは気づいたのである。
それは、ぼくに、見田宗介(社会学者)の「生きるリアリティの崩壊と再生」にかんする見解を思い起こさせる。
見田宗介は、講演「現代社会はどこに向かうかー生きるリアリティの崩壊と再生ー」(2010年8月、福岡ユネスコ協会)で、次のように語っている。
…ボランティアに限らなくてもいいですけれども、実際に自分が役に立つようなことならばやりたいと思っている青年と、リストカットをする、あるいは無差別殺人をする青年というのは同じものを求めているわけです。つまり、それは生きることのリアリティを求めている。そこが大事だと思います。今の日本の若い人たちはいわば同じものを求めているわけですが、求め方が違っているのです。日本の若い人たちが自分の体を傷つける、あるいは人を傷つける、あるいは人を殺そうとする、そういうものとは違った仕方で、生きるリアリティを求める方法を見つけ出すことができれば、そこでもう一つ新しい時代が開けてくる可能性があるだろうと、そういうふうに思うわけです。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー≪生きるリアリティの崩壊と再生≫ー』(弦書房、2012年)
「生きることのリアリティ」。
そう書くのはむずかしくないけれど、それは、頭で「知る」ことでなく、全身で生きてゆくなかで<知られていく>ことである。
それなりの時間を海外で暮らしてきたなかで、そんなことを、ぼくは思い、考えている。
人生の5分の2以上を「海外」で暮らしてきて感覚すること。- 身体にきざまれる<日常の風景>。
ニュージーランド、シエラレオネ、東ティモール、それから、ここ香港。日本の外(「海外」)で暮らしてきた時間がつみかさなり、あわせて17年ほどになる。つまり、人生の5分の2ほどの時間を、海外ですごしてきたことになる。
ニュージーランド、シエラレオネ、東ティモール、それから、ここ香港。日本の外(「海外」)で暮らしてきた時間がつみかさなり、あわせて17年ほどになる。つまり、人生の5分の2ほどの時間を、海外ですごしてきたことになる。
時間の「量」が重要であるわけではないけれど、かといって、「量」がまったく意味がないということもない。
海外の旅もいろいろと印象に残っているけれど、それなりの時間をすごしてきたところは、どこか少し異なった仕方で、ぼくのイメージのなかに居場所をみつけているようである。
「海外で暮らす」ということによってより鮮明に記憶にやきつけられたことのひとつは、<日常の風景>である。
「暮らす」ということは、旅における非日常的なかかわりとは異なり、その場における「日常」を生きることである。
気候はどんな感じで、どんな空気感があり、どんなふうに時間がながれ、どんな人たちがどんなふうに歩き、会話しているか。そんな<日常の風景>が、ぼくの記憶のなかに、より鮮明にやきつけられている。
ニュージーランドの、シエラレオネの、東ティモールの<日常の風景>。そのような<日常の風景>が、たとえば、ここ香港の街を歩いているときにも、ときおり、ぼくのなかで<再生>される。
記憶にやきつけられた<日常の風景>が、あたかも、現在進行形で動いているように<再生>される。
そんなとき、今も、ニュージーランドの、シエラレオネの、東ティモールの<日常>がつづいていることを、ぼくはたしかに感じるのである。
そこに、日本の<日常の風景>が加わり、ぼくのなかで、いろいろな<日常>が同時に動いてゆく。
それは、ぼくにとっては、すてきな感覚だ。この世界には、あたりまえのことだけれど、いろいろな場所があって、そこに住む人たちによって、それぞれに<日常>が営まれている。
じぶんが今生きている、この「日常」だけが「世界」ではない。
今こうしているあいだにも、この世界のいろいろなところで、いろいろな仕方で、<日常>が生きられている。
このような感覚が、ぼくの「知識」としてではなく、身体という記憶にきざまれている。この身体的な記憶が、ぼくにたしかなリアリティを与えてくれているようだ。
ぼくにとっては、このことは、とても大切なことである。
<関係のゆたかさ>の内実。- ニュージーランドのニュースを見ながら思うこと。
20年以上まえにニュージーランドに住んでいたとき、ぼくはオークランドを「拠点」としていた。最初の半年ほどをオークランドに住み、それからニュージーランドを北から縦断する旅に出たぼくは、やがて、オークランドのある北島からフェリーに乗って南島にわたった。
20年以上まえにニュージーランドに住んでいたとき、ぼくはオークランドを「拠点」としていた。最初の半年ほどをオークランドに住み、それからニュージーランドを北から縦断する旅に出たぼくは、やがて、オークランドのある北島からフェリーに乗って南島にわたった。
まだ冬がようやく明けたころであった。北島とはまったく異なる風景に、ぼくは魅了された。
南島で行ってみたいところはいくつかあり、そのうちのひとつが、クライストチャーチであった。でも、ニュージーランドの自然にすっかりはまってしまっていたぼくは、クライストチャーチにはそれほど滞在はしなかったのだけれど、数日滞在したバックパッカー向けの宿の空気感が、ぼくの記憶の片隅に、いまもただよっている。
そんなクライストチャーチでの悲しいニュースを見ながら、そんなニュージーランドの記憶がわきあがってくる。
大学を休学して住んだニュージーランド、それから夏休みを利用して旅したアジアなどの経験を重ねながら、その「道ゆき」で、ぼくは、社会学者の真木悠介(見田宗介)の本に出会った。ニュージーランドやアジアでの経験の素地がぼくのなかになかったら、ぼくは真木悠介の本に出会うことはなかったかもしれない。出会っていても、ぼくは読み流してしまったかもしれない。
それほどに、ニュージーランドやアジアでの経験は、ぼくにとって決定的であった。
クライストチャーチのニュースを見ながら、ニュージーランドの記憶とともに、ぼくの脳裡にうかんできたのは、真木悠介の「言葉」であった。
「旅」ということが、真木悠介にとっても転機となる経験であったが、真木悠介は『旅のノートから』という著書で、つぎのように、言葉をつむいでいる。
…関係のゆたかさが生のゆたかさの内実をなすというのは、他者が彼とか彼女として経験されたり、<汝>として出会われたりすることとともに、さらにいっそう根本的には、他者が私の視覚であり、私の感受と必要と欲望の奥行きを形成するからである。他者は三人称であり、二人称であり、そして一人称である。
真木悠介『旅のノートから』(岩波書店、1994年)
<横にいる他者>という他者論である。「他者」というと、たとえば<向かい合う他者>というように捉えられる傾向にたいして、真木悠介は<横にいる他者>という視点、そして、「三人称であり、二人称であり、そして一人称」である<他者>について書いている。
世界がもっとひらかれ、世界の多様性を享受してゆくには、この<横にいる他者>という視点、そしてそのような生きかたによってくるのではないか。ぼくは、そんなふうに考えている。
ニュージーランドでの暮らしと旅は、このことを切実に感じるための経験の土台を、ぼくに与えてくれたのである。クライストチャーチのニュースを見ながら、ぼくはそんなことを思う。
「きみはあなた自身を創造していると思いなさい」(岡本太郎)。- ときおり、岡本太郎の「言葉」にじぶんをなげいれて。
芸術家の岡本太郎(1911-1996)は、つぎのように、かつて語った(そして、今も「語っている」)。
芸術家の岡本太郎(1911-1996)は、つぎのように、かつて語った(そして、今も「語っている」)。
きみはあなた自身を創造していると思いなさい。
岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
ときおり、芸術家の岡本太郎(1911-1996)の「言葉」にふれる。岡本太郎の言葉が集められた本、『壁を破る言葉』(イースト・プレス)をひらいて、ページを繰る。
岡本太郎の芸術以上に、ぼくは岡本太郎の生きかたにひかれるのである。その魅力性は「芸術」に現れるのでもあるけれど、芸術という「プロセス」から湧き出てくる言葉の磁場に、ぼくはじぶんをなげいれてみる。
もちろん、岡本太郎が何を語ろうとしていたのかを「聴く」のであるけれど、それと同時に、その言葉にふれてぼくのなかに浮かんだり、共鳴したり、光があてられることがらに、ぼくは耳をいっそう傾けるのである。
「きみはあなた自身を創造していると思いなさい」と、岡本太郎は語りかけてくる。
とりわけ「ユニーク」な言葉ではないかもしれない。でも、岡本太郎の残像と芸術と生きかたにあぶりだされるように、この言葉が、ぼくの目の前につよくあらわれてくる。
「創造」ということにたいして、だれよりも徹底的であった岡本太郎であるけれど、ぼくが今回立ちどまったのは、むしろ「あなた自身」というところである。
ユニークな言葉ではないかもしれないけれど、ぼくたちは、「じぶん自身を創造している」ということをわすれがちである。そんなふうにぼくは感じ、「あなた自身」にひっかかったのである。もちろん、「あなた」は、ぼくをも指している。
「じぶん自身を創造している」ということをわすれがちであるということ。なぜわすれがちかというと、ひとつには、ぼくたちは、じぶんではない「何か」を、じぶんの外部に創りだすことに精一杯になっていたりするからである。
「創造」、ここのところの言葉でいえば「クリエイティビティ」は、じぶんの外側に何かを創りだすことに向けられる。じぶんの外側に何かをクリエイティブに創りだすために、じぶんがクリエイティビティになる。こんなふうに、「創造」の指は、外側に向けられている。
べつにそれがいけないということではない。それはすばらしいことだし、ぼくも、少なからず、何かを創ろうとしてきた。
ただ、「創造」が指差す方向を、外側にだけでなく、「じぶん自身」にも、向けること。そのことが、ときおり、わすれがちであったことを、ぼくは振り返りながら思う。
「きみはあなた自身を創造していると思いなさい」という岡本太郎の言葉は、そんなふうに、ぼくのなかで響くのである。
なお、「じぶん自身を創造している」と「クリエイティブになる」は、重なる部分もありながら、やはり意味合いが異なっているとぼくは思う。
ところで、ぼくが、岡本太郎の言葉を言い換えるとすれば、「あなたはあなた自身の『物語』を創造しながら生きていると思いなさい」となるだろうか。
日本的な「異文化」接触の問題点にかんする仮説。- 「私」という経験をめぐって。
日本で生まれ育った人たち(日本的な思考や振る舞いを言動の「コード」としている人たち)が、旅であれ、滞在であれ、海外において「異文化」に接触していくうえで、いろいろな「問題」に直面してゆく。
日本で生まれ育った人たち(日本的な思考や振る舞いを言動の「コード」としている人たち)が、旅であれ、滞在であれ、海外において「異文化」に接触していくうえで、いろいろな「問題」に直面してゆく。
とりわけ、仕事において、「異文化」接触から生まれ、現象してくる「問題」は、先鋭化することがある。たとえば旅のときのように、ただ立ち去るという態度をとることができない。できる状況もあるだろうけれど、仕事としていったんコミットしてからは一緒に目標に向かうことになる。その過程に、「問題」が現象してくる。
それらの現象する「問題」、たとえば、仕事の仕方の違いであったり、コミュニケーションの行き違いであったりは、仕事の結果が出てうまくすすんでいるときは、それほど「問題」とは捉えられないかもしれない。仕事の「結果」が、問題群をおおいかくしてくれるからである。
でも、仕事の結果が出なかったり、うまく仕事がすすまないとき、現象する「問題」は先鋭化する。
べつに、海外でなくても、うまくいっていないときは、「問題」ばかりが見えてしまったりするから、当然といえば当然である。問題の発生源を「異文化」だけにおしつけるのはまったくおかしいし、もっと根源的といえる問題の発生源を見つけることもある。
そんなふうにして異文化との接点ではなくても「問題」はさまざまに起きてくるけれど、仕事における異文化との接触においては、それなりに特色的な「問題」を見てとることができる。海外に展開する日系企業の多くに、ある程度共通する「問題」を指摘することができるである。
ひとつだけ挙げておくとすると、「コミュニケーションの曖昧さ」がある。ここでの「コミュニケーション」は、「言語」だけのことではなく、話し方であったり、言葉の選び方であったりと、その全体を指している。
会議や会話において、その全体であれ、一部であれ、「何を言っているのかわからない」という状況が発生したりする。
ここでは「問題」の詳細にははいっていかないけれど、「コミュニケーションの曖昧さ」ということのほかにも、いろいろな「問題」が現象してくる。日々の仕事のなかで、「現象する問題」の問題解決ということは大切だし、それはそれで適切にしていかなければならないことである。
けれども、「現象面」からさらに階段をおりていって、現象する問題群の発生源や根本的な「課題」をつきつめようとしてゆくことも大切である。そのときに、発生源や根本的課題について一様にとらえるというよりは、いくつかの「階層・次元」があると考える。
そんな「次元」をずっと降りていったときに、あることがらが大きな発生源であると、ぼくは「仮説」を立てる。
それは、「私」という経験のありかたの違いである。英語で「I」(私)を主語とするような「私」のありかたと、日本語のように主語はさまざまに変化・変幻する「私」のありかたの違いである。
これまでにも、この「主語」の使われかたや個人主義か否かなどはよく語られてきたけれども、この「私」という経験のありかたにじっくりと腰をすえて、仕事の場面で起こる異文化との接触の問題点を語っているものは、ぼくの知るかぎり、それほどない。(ぼくが知らないだけかもしれない。)
ぼくの「仮説」は、「問題群」の多くが、この違いに行き着くのではないかということである。あくまでも「仮説」である。まだ、「仮説」である。
この視点でだいぶ網羅できるのではないか、ということを感じながら、しかし、まだ言語化できていない。でも、ここに「仮説」として書いておきたいと思う。
「Live at…」の、すてきな<変換>。- 音楽バンド「Endless Summer」の企て「Music, Travel, Love」。
音楽バンドの動画で、たとえば、「Stand BY Me(Live at…)」という題名を見たら、どう思いますか?「Live at…」と書かれていたら、「…で開催されたコンサート映像」だと思うのが、ふつうだろうと思います(今の時代、「ふつう」というのは使い方がむずかしいのだけど、あえて)。
🤳 by Jun Nakajima
音楽バンドの動画で、たとえば、「Stand BY Me(Live at…)」という題名を見たら、どう思いますか?「Live at…」と書かれていたら、「…で開催されたコンサート映像」だと思うのが、ふつうだろうと思います(今の時代、「ふつう」というのは使い方がむずかしいのだけど、あえて)。
少なくとも、ぼくは、このような題名だけを見た時に、「…で開催されたコンサート映像」というふうに、一方で思ったわけです。「コンサート」というからには、そこには、会場があり、バンドが存在して、聴衆がいる。そんなイメージがあるわけです。
けれども、「Perfect(Live from Gasparilla Island)」という題名を見ながら、どこか「違和感」を感じたのは、YouTube動画の静止イメージには、いわゆる「コンサート会場」があるのでもなく、聴衆の姿が見えるのでもなく、ただ、広大な自然を背景に、ギターを手にした二人が写っていたからです。
文字で読んで沸いたイメージと、動画の静止イメージが、ぼくの解釈系統において、スムーズにつながらない。でも、二人の歌い手、それからなによりも、二人の背後にひろがる広大な自然の美しさにひかれながら、ぼくは、YouTubeの動画を再生したのでした。
これが、「Endless Summer」というバンド(*注:のちに、バンド名を「Music Travel Love」に変更)との出逢いだったのですが、動画を再生してみて、「Live at…」の意味がわかり、ぼくは深く触発されたのでした。
彼ら二人は、世界を旅し、広大な自然(山も、湖も、花畑も)などを「舞台」にし、マイクスタンドを立て、ギターを手に、歌を歌うわけです。つまり、「Live at…」の「…」は、これら、世界のうつくしい場所だったわけです。
「会場」は、なにも、コンサート会場である必要もないし、また「聴衆」も、その場にいる必要はないわけです。こんなふうにして、カバー曲やオリジナル曲がYouTubeにアップされてゆくわけです。
● True Colours (Live at Singha Park)
● When You Say Nothing At All (Live in Nashville)
● Perfect (Live from Gasparilla Island)
● I Will (Live at Glenwood Canyon)
などなど。
このような「企て」に触発されたわけですが、企てのエネルギーを支えているのは、やはり、二人の歌声です。どこかひかれる歌声なのです。
そこで、インターネットで彼ら「Endless Summer」(Music Travel Love)のホームページにとび、バンドの成り立ちなどを読んでいると、彼らが兄弟であり、1990年代に結成され人気を博したカナダのグループ「The Moffatts」のメンバーであった(ある)ことがわかったのです。
「The Moffatts」は人気のグループであったので、知る人は知っているだろうし、ぼくのようにグループ名を知らなくても曲は覚えている人もいるようなグループです。
4歳からプロフェッショナルとして歌いはじめ、5000を超えるライブパフォーマンスを重ねてきた経験が、「Endless Summer」の歌声に結晶してきたのだと、ホームページを読みながら、ぼくは勝手に想像します。
そして、うえで取り上げた曲群は、そんな彼ら、ボブとクリントがすすめるプロジェクト「Music, Travel, Love」に沿って、アップロードされている曲たちなのです。
彼らの歌声にひかれ、また「企て」も面白いのですが、でも、ぼくが、とりわけここで書いておきたいのは、この企てにおけるコンサートの「舞台」です。つまり、広大な自然のことなのです。
舞台である自然がとてもうつくしく撮影され、また魅力的に編集されている。それらを見ているだけで、気持ちがひらかれるのですが、でも、ぼくは、自然にひらかれた視点をふたたび、ボブとクリントの二人にもどしてみるのです。
彼らの歌声はもちろん彼らの歌声であるわけですが、彼らの歌声は、これらの自然から得るちからを<変換>させているのだと。ぼくにはどうしても、そう感じられるのです。
コンサート会場であればたくさんの聴衆から得るちからを変換させてパフォーマンスにつなげるのと同じに、「Endless Summer」の二人は、自然から得るちからを、歌声に<変換>させている。それが、伝わってくる。
そこに<うつくしさ>を、ぼくは感じます。
「異文化の力」について。- 香港の通りを歩きながら、ふと、そんなことを考える。
異文化の力。陽射しをうける香港の通りを歩きながら、「異文化」について考える。
異文化の力。
陽射しをうける香港の通りを歩きながら、「異文化」について考える。
なお、これほどに使われる「文化」という言葉には、だれもが了解する共通の定義はなく、その位置づけもそれほど自明のことではない。ここではその詳細についてふれるのではなく、言葉も社会システムも異なる「異文化」という経験のことを書いている。
日本に生まれ、日本で育てられ、日本で教育を受けてきたぼくが、日本の外に出てきた経験を土台にしながら書いている。最近は、生まれや育ちや教育の場所や形態が「多様化」していて、そのことを認識しつつも、ぼくはやはりぼくの経験を土台にして書いている。
異文化の力。
異文化との「出逢い」によって影響をうけてきたぼくは、「異文化に接しつづけてきたことは、ぼくにとって、ほんとうに大切なことだったし、とてもよかったことだった」ということを思う。3月だけれど初夏さえ感じさせる陽射しがふりそそぐなか、香港の、なんでもない通りを歩きながら。
そうして、ふと、「異文化の力」という言葉がわいてくる。
でも、正確には、「異文化の力」という言い方はおかしい。「異文化」という言葉自体が、「ある文化」(またその文化コードを内面化した人)と「ある文化」(またその文化コードを内面化した人)の接触を前提にしている。
つまり、「異文化」そのものに「力」が内在しているというよりも、文化と文化との接触の界面に力が宿ることになる。
そのことを書いたうえで、「ぼく」のほうから見ると、「異文化の力」があるように見えるのである。
「異文化の力」は、ぼくにとって(そしておそらくそれなりに多くの人たちにとって)、とてもとても大きなものである。
「日本」という文化コードのなかで、それにしたがう方向にじぶんの心身を「成形」してきたところ、「異文化」に接触する。じっさいに接する「異文化」は、「じぶんの心身」という<文化>のなかに、<異文化>を見つけてゆくことでもある。
人は社会で生きていくうえで、「ある文化のコード」を身に引き受けていく。それは避けることはできないし、必要なことでもある。
でも、「異文化」に接してゆくなかで、そして、その経験がじぶんの心身の深くに生じれば生じるほどに、<じぶんの心身という文化>は、絶対的なものではないことを自ら知ることで相対化され、じぶんの心身のなかにある<異文化>を開花させ、<じぶん>という経験の全体性を獲得してゆくことになる。
このプロセスのなかで「異文化の力」を感じる。
「異文化」は、日本の外の「異文化」である必要は必ずしもないけれども、ぼくは、たとえば、中国本土、ベトナム、タイ、ラオス、ミャンマー、マレーシア、インドネシア、シンガポール、それからこれまでに暮らしてきたニュージーランド、シエラレオネ、東ティモール、そして香港という「異文化たち」に深いところで影響されながら、<じぶんの心身という文化>をいくぶんなりとも変容させてきた。
これらの「異文化たち」と出逢わなければ今のぼくはないし、そして、ぼくの経験のなかでは、このほかに、このような/これほどの「力」をもっているものごとは、(ほとんど)見つけることができない。
異文化の力。ぼくは、香港で、そのことを思う。
ツールの「メンテナンス」の大切さについて学んだこと。- シエラレオネで、東ティモールで。
西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールで働いていたころ(12年から17年ほどまえのことになるけれど)、ドライバーのスタッフの方々が、車両をとても丁寧に、時間をかけて手入れし、メンテナンスしている姿に触発されたことがある。
西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールで働いていたころ(12年から17年ほどまえのことになるけれど)、ドライバーのスタッフの方々が、車両をとても丁寧に、時間をかけて手入れし、メンテナンスしている姿に触発されたことがある。
シエラレオネの電気も水道もない山奥、東ティモールの山間部にひろがるコーヒー農園など、そのような道があってないようなところを走る車両には、とても負荷がかかる。山奥ではなくても、交通機関どころか、交通網も整備されていないから、車両(さらにはロジスティクス)はプロジェクトをすすめるうえでのコアになる。
人の命も、仕事も、車両にかかってくるところがあり、ドライバーの方々は、車両のメンテナンスにいつも熱心である。朝早くから、車両のエンジン掛けから点検にいたるまで、ほんとうに余念がない。
そんな「姿」を鏡にして、ぼくは、じぶんの「姿勢」を見つめていた。
ドライバーの方にとっての「車両」は、ぼくにとっての「コンピューター」ということもできる。
もちろん、ぼくは、コンピューターだけで仕事をしていたわけではない。プロジェクトの「現場」、具体的には、難民キャンプや村々、コーヒー農園などの現場での仕事は、ぼく自身、つまり人間が問われるところだ。
だから、ぼくは「人間全体」が問われるところに、押しだされたのである。それはとてもチャレンジングであったし、ぼくも全身全霊で取り組んだ。
そんな「現場」にありながら、プロジェクトの運営や組織マネジメント、対外関係などにおいて、仕事のツールはやはり「コンピューター」であった。それは、ぼく自身の「拡張器官」であるとも言える。
けれども、都会のオフィスにあるコンピューターと異なり、プロジェクトの現場、それも電気や通信が整っていない現場でのコンピューター仕事である。そんな事情もあって、先進産業社会における都市で仕事をするのとは異なる諸々の注意点を含め、いろいろと気をつかうところであった。
いろいろと気をつかってはいたのだけれど、それでも、ぼくはほんとうにコンピューターをメンテナンスできているだろうか、また、ぼくの仕事を最善の仕方ですすめてゆくツールとなるようにケアできているだろうか、と、ドライバーの方々の車両メンテナンスにいつも横で接しながら、じぶんを振り返っていた。
それから、どれくらいケアできてきたか、どれくらいケアできているか。香港に移住してから、じぶん自身のコンピューターを含めて、どれくらいケアできてきたか。自信があるわけではない。忙しさを理由に、あとまわしにしてきたところもある。
でも、ときに、ドライバーの方々の「姿」がぼくの意識に、ふと思い起こされる。そんな「姿」が、メンテナンスの大切さを、ぼくのなかに呼び起こしてくれるのである。
音楽の「楽しみ」そのもののほうへ。- 村上春樹が小澤征爾との対談で学んだこと。
「学ぶ」ことにおいては、「学ぶ」ことそのものに楽しみや歓びがあふれてくるものであるところへとひらいてゆくことが大切であると、先日のブログで書いた。
「学ぶ」ことにおいては、「学ぶ」ことそのものに楽しみや歓びがあふれてくるものであるところへとひらいてゆくことが大切であると、先日のブログで書いた(ブログ「「学ぶ」を、ひろいひろい空間に解き放つこと。- 「学ぶ」にぬりこめられた時代の精神。」)。
この時代や環境などのなかで、「学ぶ」ことが「~ために」という功利的次元へと、あまりにも狭く押しこめられてしまっている。「学ぶ」ことが、何かのための「手段」として、何かを達成するための「手段」としてばかり語られて、それ自体の楽しみや歓びが肩身の狭い思いをしているようなのだ。
なにも、手段としての学びが「悪い」わけではなく(手段としての学びがどれだけ世界を豊かにしてきたか)、楽しみや歓びとしての「学ぶ」ことを、いっそう鮮烈に取り戻してゆくことが、生きることの本質であるように、ぼくは思う。また、むしろ、楽しみや歓びとしての「学ぶ」が、手段としてもいっそう、その役割を深めるのだと、ぼくは思っている。
「学ぶ」ことそのものの楽しみと歓びということをこうして書いていたら、ふと、ある文章に、ぼくはまた惹かれた。小説家の村上春樹が、小澤征爾について、また小澤征爾との共著『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』(新潮社)について書いた文章である。
この文章は、CD「『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』で聴いたクラシック」(DECCA)のライナーノートとして、村上春樹が書いた文章である。
CDのタイトル通り、うえで挙げた本のなかで取り上げられたクラシックが集められた、とても贅沢な曲集に、これまた贅沢に、村上春樹が文章を寄せている。
『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』という本はとても素敵な本で、読んでいるだけで音楽が聴こえてくるかのようだ。でも、やはり、(CDを通してだけれども)じっさいの音楽を聴きたくなる。そんなふうにわきおこる欲求を、さーっと満たしてくれるCDである。
そのCDのライナーノートで、村上春樹はつぎのように書いている。
…僕が小澤さんとの対話から学んだいちばん大きなことは、「音楽は音楽そのものとして楽しまなくてはいけない」ということだった。当たり前のことだけれど、音楽は音楽であり、音楽として自立し、完結するべきものなのだ。…
「小澤征爾さんとの一年」ライナーノート、CD「『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』で聴いたクラシック」(DECCA)
「当たり前のことだけれど」と注記しながら、しかし、村上春樹は、直球で、この言葉を書いている。「音楽は音楽そのものとして楽しまなくてはいけない」、ということを。
音楽の「周辺」には、あまりにも多くのことがらがあり、あまりにも多くのことが語られる。音楽には、あまりにも多くの意味づけがされてしまう。そんななかで、「音楽そのものの楽しさ」が、ときとして、どこかへ身をかくしてしまうのだ。
音楽は音楽そのものとして楽しまなくてはいけない。学びは学びそのものとして楽しまなくてはいけない。
何かを、そのものとして、ただ楽しむこと。それは、日々の暮らしのなかで、忘れてしまいがちなことであり、ぼくたちは、その経験のただなかで、楽しさと歓びを取り戻さなければならない。
ちなみに、ぼくがマーラーをきちんと聴きたくなったのは、『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』の本を読んでからであったと思う。
「片づけ」を「済ましてしまう」のはもったいない。- 片づけの「プロセス」を大切にする。
家の「片づけ」をする。ここでは、片づけのうち、部屋に散らかったものを元の場所にもどす「整頓」ではなく、必要ではないものや歓びではないものを「整理」していくこと、つまり「捨てること」について書いている。
家の「片づけ」をする。
ここでは、片づけのうち、部屋に散らかったものを元の場所にもどす「整頓」ではなく、必要ではないものや歓びではないものを「整理」していくこと、つまり「捨てること」について書いている。
タイトルに書いたように、「片づけ」を「済ましてしまう」という仕方はもったいない、と、ぼくは思う。
片づけは、ともすると、「さっさと済ましてしまうもの」と思われがちである。ほかにやることがいっぱいで、「さっさと済ましてしまう」ことができるのであれば、それに越したことがない、というのも、それはそれでひとつの見方でありあり方である。
けれども、たとえば、じぶんや人生を変えてゆこうとするとき、あるいはそのように意識はしていなくてもそのように心の奥のほうで望んでいるとき、「片づけ」を「済ましてしまう」のは、もったいないと思う。
片づけの「プロセス」そのものに、じぶんや人生を変えてゆくことの気づきやヒントなどが、いっぱいに、いっぱいにつまっているからだ。
片づけを「済ましてしまう」という仕方は、その言葉が語るように、片づけを完了した状態にプライオリティをおき、片づけの「プロセス」そのものを脱色してしまう。「プロセス」は、なるべく効率的なほうがいいとされる。
「プロセス」の効率性には、片づけそのものの効率性だけでなく、他の「ながら」行動を重ねることで時間の効率性を上げることも考慮されたりする。ぼくも以前はよくやっていたように、オーディオブックを聴きながら、片づけをすることで、一定の時間を二重に有効に使うことができる。
オーディオブックを聴きながらの片づけ自体が「悪い」と書いているわけではない。それがじぶんにとって「適切」なときもある。
そうではなく、片づけをしながら、「片づけ」を通して、オーディオブックを聴くのではなく、「じぶんの内面に耳をかたむける」ことで、じぶんや人生を変えてゆくときの気づきやヒントなどの「氷山の一角」にふれることができることを、体験として知っておきたい。
とかく、人は、「片づけを済ます」というように考えがちだからであり、また、「じぶん」と向きあうことをあらゆる手段・方法で避けようとするからである。
「片づけ」は、そのあり方によって、「片づけを済ます」片づけにもなるし、じぶんや人生を変えてゆく「プロセス」としての片づけとすることもできる。
ぼくは、この「プロセス」を、なるべく一歩一歩、たしかめながら、踏みしめているところである。
「学ぶ」を、ひろいひろい空間に解き放つこと。- 「学ぶ」にぬりこめられた時代の精神。
「学ぶ」という言葉を目にしたり、「学ぶ」という言葉の響きを耳にしたとき、どのような気持ちをいだきますか?
「学ぶ」という言葉を目にしたり、「学ぶ」という言葉の響きを耳にしたとき、どのような気持ちをいだきますか?
人は、生きてゆくなかで、言葉に、じぶん自身の経験や社会的な意味合いをぬりこんでゆくのだということを思います。もちろん、「学ぶ」という言葉も例外ではありません。
じぶん自身の経験、それはたとえば両親や先生などの他者とともにつくってゆく経験でもありますが、「学ぶ」ということは、「じぶん」がつくられる段階からの経験であるため、じぶんが生きてきた環境やともに過ごしてきた人たちの影響を受けるものでもあります。
「学ぶ」ということをじぶんなりに定義する(できる)以前に、あるいはそもそも「学ぶ」という言葉以前に、「学ぶ」ということを経験として生きてきたわけです。
「じぶん」をつくってゆく段階で、「学ぶ」ということのあり方に疑問をもちながら、じぶんなりの「学ぶ」ということを考えてゆくこともできますが、じぶんの奥深くにまでしみこんだ経験のためか、また社会的な(周りの)影響からか、あまり考えずに大人になって、そのまま生きてきてしまうということもあります。
ぼくの経験としては、「学ぶ」ということのあり方にたいする疑問がどんどんどんどん大きくなっていったことから、その居心地の悪さが原動力になる仕方で、居心地の悪さをのりこえたくてもがいているうちに、いつしか、より広い海に出ていたというところだと思っています。
「学ぶ」は、ぼくの経験のうちに、試験やよい大学に入るためといった「何かのため」、それからそれをもっと時間的にひろげた「将来のため」、ということが、幾重にも幾重にも、ぬりこめられていたのでした。
ぼくの心身は、そんな「学ぶ」に、疑問を感じつづけてきたのです。
大学に入ってしばらくして、ぼくは、経済学者であった内田義彦(1913年~1989年)の本に出会います。岩波新書に収められている本で、たしか『読書と社会科学』という本だったと思います。
本を読むことで、社会をよみとく「眼」をつくってゆくこと。このことは、本を読み、学ぶことは「社会をよみとくため」ということでもあるのだけれど、それ以上に、ぼくは「学ぶ」こと自体の<楽しさ>をそこに見つけたのだと思います。
「~のため」ということと共に、それ自体で楽しいこと。つまり、「学ぶ」は手段的であるとと共に、あるいはそれ以上に、それ自体が、人が生きるということの本質なのだということ。
<学ぶ>ということは、「~のため」という理由が目的を必要としないままに、ほんとうは、学ぶことそのもののうちに歓びがあるということを、そのとき、ぼくは実感として、また意識的にわかりはじめたのだと思います。
「学ぶ」という言葉にどこか重い響きを聞きとってしまうのは、ひとつには、そこに「~のため」という功利的な考え方と経験があまりにも深く深くぬりこめられているからであると、ぼくは思っています。
「~のため」ということがいけないわけではありません。問題なのは、「学ぶ」を「~のため」へと、あまりにも狭めてしまっていること。だから、「学ぶ」を、もっともっとひろい空間に解き放ってゆくことが必要だということです。
でも、だからといって、「学ぶを楽しむべき」とやってしまうのはちがいます。楽しさや歓びは、強引に外側からつくるものではなく、内側からひらかれてゆくものです。
学ぶことを楽しむこと、そして学ぶことで成長すること。「~のため」という理由や目的の手前のところで、学ぶことや成長すること自体が歓びであること。
それは、どんな人にも、その生きることの核心に装填されている欲望である。そして、そのように解き放たれた「学ぶ」や「成長」ということが、これからの時代をひらいてゆく。ぼくはそう思います。