「存在の海の波頭のように自我がある」(見田宗介)。- 「じぶん」という問題を問いつづけながら。

ぼくが小さい頃から格闘してきた「問題」のひとつとして、「エゴイズム」の問題がある。


ぼくが小さい頃から格闘してきた「問題」のひとつとして、「エゴイズム」の問題がある。

じぶんを守ろうとしてしまうじぶん、しかし逆に、じぶんをどこかおしころしていってしまうじぶん。

ときに、「じぶん」という枠が牢獄のようにも思えて、とても苦しくなってしまう。

ぼくから誰かに積極的にたずねることはしたわけではないけれど、学校の授業も、大人も、誰も、ぼくが納得のいく仕方で語ってはくれなかった。

だから、じぶんの経験をたぐりよせながら、かんがえるのだけれども、今おもえば、思考は「じぶん」の内部でめぐるだけのようであった。

 

時がすぎ、大学を休学してニュージーランドに住み、大学に戻ってから、ぼくは「本」を読むようになった。

その折に出会ったのが、真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)であった。

人類学者カルロス・カスタネダの著作を素材に、おどろくほど明晰な「世界」がそこに描かれていた。

 

メキシコのヤキ族の老人の生きる世界では、<ナワール>と<トナール>というように語られる世界のあり方がある。

<トナール>とは、社会的人間のことであり、いわば言語でつくられtら「世界」である。

他方、<ナワール>は、「<トナール>という島をとりかこむ大海であり、他者や自然や宇宙と直接に通底し「まじり合う」われわれ自身の本源性」であるという(前掲書)。

社会学者の見田宗介(=真木悠介)は、このことの「イメージ」を、小阪修平との対談で、次のように語っている。

 

…あんまり考えなしに、感じだけを乱暴に言うと、ぼくの感じで言うと自然というのは内部だという気がして…。つまり、わたしは自然だという感じかな。…体感としていうと、<私>は自然の波頭のひとつだと。宇宙という海の波立ちのさまざまなかたちとして、個体としての「自我」はあるのだと。
 だから、ぼくにとっては、ことばとか観念のほうが外部という感じになる。
 …
 自我というのは宇宙の海の波みたいなもので、波が自己絶対化して自分自身の形に執着する場合に、明晰な波は自分の運命が数秒間にすぎないことを知っているから虚しいというニヒリズムを感じるわけです。海とたたかう波として近代的自我というのがあるというイメージが、ぼくにはあるんです。

見田宗介『見田宗介ー現代社会批判 <市民社会>の彼方へ』作品社、1986年

 

<わたくし>という現われは、大海に忙しなく行き来する「波」のようなものとして感覚されている。

それは、デカルトにはじまる西洋の近代化を支えてきた近代的自我の精神が、ことばとか観念を「内部」としてその外に身体や自然や宇宙を置くのとは、逆転したようなイメージとしてある。

ぼくにとって、このイメージはすーっと納得できるものであったし、ときにやりきれなさを感じてきた「じぶん」をかぎりなく広く捉える視野であった。

見田宗介が名著『宮沢賢治』の第一章の冒頭に、宮沢賢治の有名な詩集『春と修羅』の序、「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い証明です」という一節を置いているけれど、そこでも、いわば「海の波」のように、やってきては消えまたやってくるようなイメージが重ねられている。

 

このような、「存在の海の波頭のような自我」について、見田宗介は次のようにも書いている。

 

 存在の海の波頭のように自我があるのだとわたしは思っているのだけれど、海が「主体」で、波としての自我を「外化」したりするわけではない。海はただ存在し、その存在のゆらめきとして波は立ち現われ、光って、消えてゆくだけである。
 波がじぶんのつかのまの形(ルーパ)に執着し絶対化して、海と闘おうとするときに、波は勝手に自分自身を海から<疎外>するだけである。

見田宗介「<透明>と<豊饒>について」『見田宗介ー現代社会批判 <市民社会>の彼方へ』作品社(見田宗介『定本 見田宗介著作集X』所収)

 

「存在の海の波頭のような自我」のイメージはその後の見田宗介の仕事に光をあたえながら、小阪修平との対談から7年後の1993年に、真木悠介名で名著『自我の起原ー愛とエゴイズムの動物社会学』を書き上げる。

この著作の表紙は「波の写真」であり、裏表紙はしずかな「大海の写真」である。

リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』の論理のもつれを、さらに徹底させていくことで、「利己/利他」の地平をきりひらく『自我の起原』は、ぼくが小さい頃からなやんできた「じぶん」という問題のありかと、そこにひらかれている可能性(と不可能生)とを、明晰な仕方で提示してくれた。

じぶんがなやんでいることは、世界のどこかで、あるいはこれまでの歴史のなかの世界で、きっとだれかが、正面から立ち向かっていっているものだということを、ぼくは心づよく思ったし、今でもそう思っている。

そこに生きるうえでの「解決」はなくても、知識や知恵としての、あるいは問いとしての「糸口」がある。

生きることの矛盾をひきうけながら、そこをどのように生きていくのかが、ぼくたちのひとりひとりに問われている。

そして、河合隼雄が言うように、その矛盾をひきうける「生き方」に、ぼくたちひとりひとりの<個性>が現れてくるのだと思う。

 

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<透明>にみちびかれていく生。- 佐藤初女(「森のイスキア」主宰)の生き方にふれて。

悩みを抱えた人たちを手料理でもてなす場、「森のイスキア」を主宰し、2016年に94歳で他界した佐藤初女(さとうはつめ)。


悩みを抱えた人たちを手料理でもてなす場、「森のイスキア」を主宰し、2016年に94歳で他界した佐藤初女(さとうはつめ)。

訪れた人たちが、食事がおいしいと感じるなかで、胸につかえているものもはきだし、「答え」を見出しながら元気になっていったという。

佐藤初女の著作『限りなく透明に凛として生きる』(ダイヤモンド社)の書名にあるように、彼女が追い求め、生きることのイメージとしてもちつづけてきたのが、「透明である」ということである。

「森のイスキア」の外にひろがる葉が透明に光るように、佐藤初女も<透明>になって生きたいと思ってきたという。

 

なぜ<透明であること>が大切かということについて、佐藤初女は次のように書いている。

 

…透明でなければ“真実”が見出せないからです。
 自分が透明になって物事を見ていると、真実が見えてくる。濁っていると、真実が見えず、迷って事が解決しないのです。…
 だからこそ、ただ生活して生きていくのではなく、自分も素直になって透き通って見えるような生活をしたい。…

佐藤初女『限りなく透明に凛として生きる』ダイヤモンド社、2015年

 

佐藤初女にとって<透明であること>は、彼女が書いているとおり、まずもって、じぶん自身が透明であることである。

じぶんが透明であることによって、他者をうけいれ、他者にひらかれる。

佐藤初女はそのようにして、<透明であること>を追い求め、生きてきた。

 

「透明」という言葉は、もともと、料理をしているときに出てきたという。

 

 緑の野菜をお湯の中でゆがくとき、これまでの緑よりもいっそう鮮やかな緑に輝く瞬間があります。この一瞬を逃さず野菜をお湯から引き上げて冷やして食べると、おいしい。
 野菜のいのちがわたしたちの体に入り、生涯一緒に生き続ける、これを“いのちのうつしかえ”と呼んでいますが、このとき野菜の茎を切ってみると透明になっている。

佐藤初女『限りなく透明に凛として生きる』ダイヤモンド社、2015年

 

この描写はとても鮮烈だ。

この「野菜のいのち」を視ることのできる視力は、佐藤初女自身が<透明であること>ではじめて手に入れることのできる視力である。

佐藤初女は「すべての食材にいのちがある」と考えているが、いのちを「奪う」ものとしての人間という視座をとらず、(食材の)<いのちを生かす>方向へと視座を転回している。

「食べること」が食物連鎖という世界でのいのちの奪い合いではなく、いのちの生かし合いというように乗り越えていこうとした宮沢賢治を、ぼくは思い起こす。

 

「野菜のいのち」の透明さということを、ぼくは幼稚園のときに、この身体で感じたことを、その感覚として今でも覚えている。

幼稚園の菜園で育った「きゅうり」を収穫し、その場で輪切りにして、少しの塩をつけて食べる。

その「おいしさ」が、今でも、ぼくのおいしさの感覚の<基準>のようなものとして、この身体に生きている。

それは、佐藤初女にとってみれば、<いのちのうつしかえ>ということだと、ぼくは自身の体験をそこに重ね合わせる。

 

心理学者・心理療法家であった河合隼雄が「森のイスキア」に宿泊したときの話が、この著書には出てくる。

河合隼雄は部屋の中をぶらぶらと歩き、何だろうなと言いつつ、ふと、「信仰かな…そこがふつうのところと違う」と言ったという。

佐藤初女にとってキリスト教への信仰は生きる指針であり、河合隼雄の発言をうれしく思ったことが書かれている。

しかし、佐藤初女の<透明な生き方>をつやぬいているものは、いわゆる制度的な「宗教」というものを深いところで超えていくような、まるで古代の人たちが太陽に向かって自然と手を合わせてしまうような、そのような原的な<信仰>であるように、ぼくには見える。

その<信仰>は、人だけではなく、自然を含めたいのちというものへの畏怖と信頼に支えられている。

 

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<物語>としての自己(鷲田清一)を基盤にして。- 「語りなおすこと」への繊細なまなざし。

哲学者の鷲田清一は、東日本の大震災から一年が経とうというときに、著書『語りきれないことー危機と痛みの哲学』(角川書店、2012年)を書き、危機や痛みに直面したときの「語りなおし」ということを語っている。


哲学者の鷲田清一は、東日本の大震災から一年が経とうというときに、著書『語りきれないことー危機と痛みの哲学』(角川書店、2012年)を書き、危機や痛みに直面したときの「語りなおし」ということを語っている。

そのように語ることの、ひとつの出発点は、<物語>としての自己のあり方である。
 

 わたしたちは誰しもが、わたしはこういう人間だという、じぶんで納得できるストーリーでみずからを組み立てています。精神科医のR・D・レインが言ったように、アイデンティティとは、じぶんがじぶんに語って聞かせるストーリーのことです。
 人生というのは、ストーリーとしてのアイデンティティをじぶんに向けてたえず語りつづけ、語りなおしていくプロセスだと言える。

鷲田清一『語りきれないことー危機と痛みの哲学』(角川書店、2012年)

 

生きていくなかで、これまでじぶんに語りつづけてきたストーリーが崩壊していくような契機に、ぼくたちは出会う。

阪神大震災や東日本の大震災などの天災、大切な人をなくしてしまうこと、病気になることなど、「危機と痛み」の直面する。

その都度、人は、じぶんのストーリーを語りなおしていく。

 

…事実をすぐには受け入れられずにもがきながらも、…深いダメージとしてのその事実を組み込んだじぶんについての語りを、悪戦苦闘しながら模索して、語りなおしへとなんとか着地する。…言ってみれば、<わたし>の初期設定を換える、あるいは、人生のフォーマットを書き換えるということです。

鷲田清一『語りきれないことー危機と痛みの哲学』(角川書店、2012年)

 

鷲田清一は、<わたし>という「物語の核心(コア)」をなすものとして、次のものを挙げている。

  1. 出自(じぶんは誰の子か)

これらのコアに、さらに3つのことを加えている。

● じぶんにとって大事な人
● 家
● 職

震災などでは、これらのいずれか、あるいは複数を喪失しているなかで、じぶんの「物語」を語りなおしていかなければならない。

このような認識を基盤にして、鷲田清一は、それらが現場でどのようになされるのか/なされるべきなのかを、繊細な言葉で、丁寧に語っている。

 

ぼくは大学時代に、鷲田清一の著書『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』を読んだことがある。

詳細は覚えていないけれど、ただ「聴く」ということについて、とても繊細な見方があるのだと、ぼくは本の語りの息づかいに耳をすませていた。

『語りきれないことー危機と痛みの哲学』のなかでも、「聴く」ことへのまなざしが生きていて、そのことの方法と困難さにふれられている。

語る声と聴く耳。

フランスの思想家ミシェル・フーコーは、「声と耳」に「権力」の構図をあきらかにしたけれど、ここでの<声と耳>は、じぶんと他者が存在を分かちあうようなものとして書かれている。

しかし、鷲田清一が書いているように、言葉が交わされる場とその関係性はとても繊細なものであり、また「分かる」ということは「他者の心持ちを知りつくせないことを思い知ること」(鷲田清一)でもあるのであろう。

はたして、他者の「語りなおし」に、この繊細さをもって寄りそうことができているだろうか。
 

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香港で、「箸の置き方」をかんがえる。- 「縦向きに置かれる箸」に文化と歴史を見る。

香港で、広東料理などのレストランに行くと、テーブルには箸(はし)が二膳、縦に置かれる/置かれている。


香港で、広東料理などのレストランに行くと、テーブルには箸(はし)が二膳、縦に置かれる/置かれている。

二膳の箸はそれぞれ色が異なっている。

外側のある箸は大皿から料理を取り皿に取るためにあり、内側に置かれた箸で料理をじぶんの口に運ぶ。

それぞれの料理ごとに取り箸があるのではなく、それぞれに置かれている方式は、それはそれで合理的かつ便利でもあって、その方式にすっかりぼくは慣れてしまっている。

ただ、そもそも箸は、なぜ「縦に置かれる」のかということについては、箸が日本で使う箸よりも長いことから、あまり気にしていなかった。

 

張競の著書『中華料理の文化史』(ちくま新書、1997年)を読んでいたら、第六章が「箸よ、おまえもかー宋元時代」と題されていて、「箸はなぜ縦向きに置くのか」ということが追求されている。

日本では箸を横向きに置く。

香港も、中国本土も、箸は縦向きに置かれる。

この「違い」の起源に、張競は仮説をたてながら、研究をすすめていったという。

箸はそもそも中国から日本に伝わってきたものであり、そこから考えると、なぜ日本人は箸を「横に置いた」のか、というように問いが立てられる。

しかし、張競はこれとは逆に、「日本で箸を横向きに置くのを見て、中国も古代はそうだったかもしれない」(前掲書)というように、仮設を立てる。

文献調査をあきらめていたところ、張競の調査研究の道をひらいたのは、「壁画」であった。

唐代の壁画が見つかり、宴会の場面にて、箸が「横向きに置かれている」ことを、張競はいくつかの壁画から確認することで、少なくとも唐代までは中国も箸を横向きにおいていたことを確証する。

 

そうだとすると、いつから、横向きに置く箸は縦向きに置かれるようになったのか、またその契機はなんであったかが問われてくる。

張競はさらに壁画や絵巻などを調査研究するうちに、宋代、遅くとも元の時代には、箸を縦向きに置くことは定着していたと考えられるという。

それではその「契機」として、張競が着目しているのは、唐と宋の時代のあいだに位置する「五代十国の激動の時代」である。

その時代には、北方の騎馬民族がやってきては、王朝を打ち立てていった。

これら民族は、肉を主食とし、「ナイフ」を使う。

食事のときには、ナイフは刃先をじぶんとは逆の方向に、縦向きに置くことになる。

その際に、皇帝をはじめ騎馬民族の高級官僚は無意識のうちに、箸を縦向き置いたのではないかと、張競は書いている。

 

「中国ではもともと箸は横に置かれていたこと」、また「箸を縦向きに置くようになったこと」にかんする時代の特定(宋代)は、壁画や絵巻などから確証できるものでありながら、ナイフの置き方に影響されたという「契機」については、張競の推測が入る。

それでも、この変遷と現代への文化のつらなりは、興味をひくものである。

また、張競は、箸だけでなく、「椅子とテーブル」の使用についても視点をひろげていき、壁画や絵巻などから見ると、宋代のはじめにに現在とほとんど変わらないような状況になったことを突きとめている。

 

いつも見ているテーブルの風景が、このようにちょっとしたことで、色合いが変わってくる。

なんでもない風景が、意味と物語を帯びてくる。

また、そのようなちょっとした視点が、箸だけではないものに飛び火して、好奇心の光源がひかりだしてくる。

異文化という異なる空間(地理)と文化のつらなり、またそこに積みかさなっている時間(歴史)を感じる。
 

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「正しさ」と「成長」の捉え直し。- 宮崎駿の『千と千尋の神隠し』を加藤典洋が読みときながら。

「シン・ゴジラ」から晩年の大江健三郎にいたるまで、「敗者の想像力」という視点で読み解くという、批評家の加藤典洋の試み(『敗者の想像力』集英社新書、2017年)に圧倒される。

「シン・ゴジラ」から晩年の大江健三郎にいたるまで、「敗者の想像力」という視点で読み解くという、批評家の加藤典洋の試み(『敗者の想像力』集英社新書、2017年)に圧倒される。

主題については本の全体にゆずるところではあるけれど、宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』を題材にとっても、その視点を通過させて、宮崎駿のアニメが魅力的であることの本質をひろおうとしている。

 

論考をすすめるうえで加藤典洋が対置しているのは「ディズニー」のアニメである。

ディズニーのアニメは、物語として、あきらかな悪や不正に対峙する「正義・正しさ」の物語が展開されるものであり、またそれは、「子どもが大人になるという成長」の物語である。

加藤典洋は、このような成長の物語を「大人から見られた成長」(前掲書)であるとしている。

そこでは「成長」が急かされ、子どもから見れば「抑圧」ともなってしまうような成長観にうらうちされた近代的な成長の物語の型があるという。

 

宮崎駿の映画『千と千尋』はどうだろうか。

宮崎駿が養老孟司との対談で語っている箇所に、加藤はふれている。

 

…この映画のきっかけは、たまたま、10歳くらいの子ども達がいるのを目にしたことである。このとき、自分は、彼らに対し、いま、何が語れるだろうか、と考えた。最後に正義が勝つ、なんて物語を語ろうなどという気にはさらさらなれなかった。そうではなく、「とにかくどんなことが起こっても、これだけはぼくは本当だと思う、ということ」、それを語ってみたい…。

加藤典洋『敗者の想像力』集英社新書、2017年

 

『千と千尋』ではよく取り上げられるように、トンネルをくぐって異世界にいくときも、また両親をすくいだしてからトンネルを抜けてもどってくるときも、千尋は心細そうに母親の手にすがりついている。

「成長」は目に見える形では見られない。

これがわかりやすいプロットであれば、戻ってくるトンネルでは、自信をもった千尋がいたのかもしれない。

そこには、正義が最後に勝つような物語はない。

 

加藤典洋は「限られた条件のなかでも人は成長できる」という視点を導入しながら、世界の不正を是正するというところまではいかなくても、何をしても無駄ということはないし、何もしなくてもよいということではないとしながら、その限られた条件のなかでも、人は成長して、「正しい」ことをつくり出していくことができると、論を展開していく。

そのうえで、「正しさ」とはなんだろうか、と自問して、応えている。

 

…それは、人が生きる場面のなかから、その都度、「これしかない」というようにして掴み取られ、手本なしに生きることを通じて、つくり出されるものなのではないか。強い立場の人びとの「正義」の物語をお手本にするよりも、新たに自分たちの「正しさ」を模索することのうちに、「正しさ」の基礎はあるのではないか。また、そのことのうちに、本当の成長も兆すのではないか。…

加藤典洋『敗者の想像力』集英社新書、2017年

 

このような物語は、勝者の物語であるディズニー式の「成長」物語とは異質であることとして加藤は対置しながら、その可能性の芽をたしかめている。

何か「正義」の図式があって、その物語にそって「正義」の剣をふるのではなく、人が生きていくなかで、新たな「正しさ」を模索していくこと。

そして、そのような生の内に、本当の成長の芽がひらいていくこと。

加藤自身が言うように、このような模索は、生きる場面においてその都度なされる。

それは幾度も幾度もやってくる場面であり、トンネルをくぐりぬけて、また戻ってきたときに、別人のように成長したというものではないはずだ。

しかし、成長していない、ということでもない。

子どもたちの(そして大人たちの)内面の世界では成長が兆していると視ることのできる眼をもつことができているかが、問われている。

 

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南伸坊が河合隼雄から心理療法を学ぶ(『心理療法個人授業』)。- 対話と関係から生まれる言葉と学びの深さ。

イラストレーターの南伸坊(みなみしんぼう)が「個人授業」で学問を学ぶ著書シリーズ(新潮社)がある。

イラストレーターの南伸坊(みなみしんぼう)が「個人授業」で学問を学ぶ著書シリーズがある。

生物学個人授業(岡田節人)、免疫学個人授業(多田富雄)、解剖学個人授業(養老孟司)、それから心理療法個人授業(河合隼雄)がある。

河合隼雄の著作たちを読みすすめていくなかで、シリーズにおける『心理療法個人授業』(河合隼雄・南伸坊、新潮文庫)に出会った。

 

河合隼雄が「先生」で、南伸坊が「生徒」である。

南伸坊が、河合隼雄から「個人授業」で心理療法や臨床心理学を学び、レポートを書く。

河合隼雄がレポートに対して応答する。

第1講から第13講にわたる内容は、「専門書」ではない、対話形式から生み出される、根本的なトピックに充ちている。

以下のような「講」のタイトルを見るだけでも考えさせられる。

 

第1講 催眠術は不思議か?
第2講 頭の中味をを外に出す
第3講 心理学は科学か?
第4講 心理療法は大変だ
第5講 心理療法とヘンな宗教
第6講 謎の行動、謎の言葉
第7講 人間関係が問題
第8講 心理療法と恋愛
第9講 箱庭を見にいった
第10講 「物語」がミソだった
第11講 わかることわからないこと
第12講 ロールシャッハでわかること
第13講 やっとすこしわかってきたのに

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫

 

心理学も心理療法も知らない南伸坊の視線・視点、南伸坊のするどいレポート、対話の中に言葉を生む河合隼雄。

「そもそも心理学とは?」ということから、講をすすめていく内に、南伸坊と河合隼雄とのあいだの関係性、また南伸坊の「気づき」が深みを増していくのを感じることができる。

人が生きていくための心理の「学」が語られている。

 

ぼくのフォーカスである「物語」については、講義も終わりに近づく「第10講」で、南伸坊が予感に充ちた気づきで「物語」のトピックを取り上げて、河合隼雄にぶつけている。

南伸坊は、「なるほどなァ!」とわかった気になりながら、そもそも「物語」とはなんだ、と考える。

南伸坊はそんなことを語りながら、次のようにも語る。

 

「人生に予め意味などない」
という意見に、私は合点していたのだったが、予めないからこそ、意味をつくろうとするのだともいえる。
 なんだか、茫々としてくる思いだ。いままでこんなことを、考えたこともなかった。

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫

 

生きることの「物語」を真摯に考え始めた人の言葉が、ここに興味深く湧いている。

河合隼雄は、あらためて、臨床心理学における「物語」の大切さを書いている。

 

…われわれ臨床心理士のところを訪れる人は、いわゆるビョーキとか異常などというのでない人(大人も子どもも)が多くなってきた。それは、南さんが詳しく書いているように、それぞれの人が自分自身の「物語」をいかように生きるか、ということを相談に来て居られる、とも言えるだろう。

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫

 

両親と別れて住んでいる子供が、「お父さんは大金持だ」とか「お母さんは女優なの」と言うことに対して、これらは「虚言癖」ではなく、そのような「物語」に支えられて子供たちはなんとか生きているという、暖かい視線を投げかけることを、河合隼雄は提示している。

 

講義は、最後の3講で、心が「わかる」と「わからない」という二つの側面を語っている。

これら二つを、共に、謙虚にひきうけていくことの中に、河合隼雄の心理療法の本質がつめられている。

 

 南さんの「わかる」に「わからない」を「つなげる」というのは、本当にいい言葉である。われわれ臨床心理士の仕事の本質がうまく言い表されている。…
…「わからない」と自覚する謙虚さが必要だが、これは、自信がないのとは、全く異なる。自信のないのは、はなから何もわからない人である。「わかる」に「わからない」をつなぐ人は、「わかる」自信と「わからない」謙虚を共存させている。…
 すぐにわかりたい方は、こんな本など読まず、本屋に行けば、御要望に応える本は、ありすぎるほどある。…

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫

 

レポートで南伸坊も書いているように、河合隼雄の言葉を引用しようとすると、あれもこれもで、尽きることがないから、どこかで禁欲しなければならない(ぜひ購入してお読みください)。

それくらい、「本当にいい言葉」で充ちている。

それだけ、「大変な」世界をくぐりぬけてきているのだと、ぼくは感じる。

 

文庫版には「おまけの講義」で、ネット社会における「関係性の回復」について、河合隼雄が書いた記事が掲載されている。

ここにも、言葉の宝物が埋まっている。

別のブログで、このことについては、ふれたいと思う。

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「宇宙を引き寄せる言葉/語る文法」(池内了)。- 池内了『宇宙入門:138億年を読む』を読む。

小学生の頃だったと記憶しているけれど、ぼくは「宇宙」の世界に魅了されていた。...Read On.

小学生の頃だったと記憶しているけれど、ぼくは「宇宙」の世界に魅了されていた。

関心は、やがて「望遠鏡による観察」となり、望遠鏡のレンズを通して、ぼくは月や火星、木星などを見ていた。

天体ということに限らず、そこには何か大きなものがひろがっているような感触に、ぼくの想像はかきたてられた。

 

しかし、その後、学校教育のなかに入っていくなかで「試験・受験勉強」の語彙と文法にからめとられ、ぼくは自然科学の興味を失ってしまった。

宇宙物理学者の池内了は、著書『宇宙入門:138億年を読む』(角川ソフィア文庫)の「まえがき」で、受験における、無味乾燥な暗記や計算、意味不明な記号、考える暇を与えない答えの訓練等が、物理学から人をとおざけてきたことを、語っている。

ぼくの埋もれた好奇心をひらいてくれたのは、やはり「夜空」であったように、ぼくは思う。

ニュージーランドでキャンプをしているとき、またトランピングの折に見た、夜空にひろがる星たち。

西アフリカのシエラレオネの空にひろがる広大な空間。

東ティモールの山に、ふりそそぐ流星たち。

香港でも、中秋節を迎える頃には、月が圧倒的な光をふりそそぐ。

そして、時代は、宇宙探索の「空白の時代」を超えて、今また、火星やそれを超えるところに視界をとらえている。

 

「宇宙」は、人の好奇心をかきたてるものでありながら、現代において実にいろいろな「意味」をもっている。

そのような導火線にみちびかれながら、ぼくは「宇宙」について再び、学び始めている。

内田樹の語るところの、私たちが知らないことから出発する「よい入門書」(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書)を探していたところ、池内了の「宇宙入門」に出くわした。

専門家向けではなく、ぼくのような一般の人向けに書かれ、「解かれていない」宇宙の問題を語っている。

「宇宙を引き寄せることば」と「宇宙を語る文法」という構成で、ぼくたちに語りかけてくれる。

 

池内了『宇宙入門:138億年を読む』(角川ソフィア文庫)

【目次】

Ⅰ 宇宙を引き寄せることば
第1章 ビッグバン
第2章 インフレーション宇宙
第3章 膨張宇宙
第4章 バブル宇宙
第5章 渦巻銀河
第6章 フィードバック
第7章 潮汐力
第8章 望遠鏡

II 宇宙を語る文法
第9章 エントロピーの法則
第10章 エネルギー保存則
第11章 運動量保存則
第12章 ベルヌーイの定理
第13章 遠心力
第14章 コリオリ力
第15章 フラクタル
第16章 チューリングモデル

 

「宇宙を引き寄せる言葉/宇宙を語る文法」を、ひとつひとつ丁寧に、池内了が読者に提示してくれる。

「ビックバン」という、今では「正統的な理論」も、市民権を得たのは実はここ50年ほどのことだという。

「初めに光ありき」と語られる「ビッグバン」は、非常な高温で、高エネルギーの「光」に満ちていたと考えられている。

その光は、宇宙が膨張していく過程でエネルギーを失い、その光は現在「電波」となって宇宙にただよっているということが、ビッグパンの証拠であるという考え方だ。

池内了は、しかし、「ビッグバン宇宙論」を疑う態度は忘れてはならないのではないかと、語る。

 

人間に眼を投じたときにぼくを捉えたのは、私たちの体も「光のエネルギー」を発していることに、池内了がふれたところである。

 

 温度が高いと放射されるエネルギーも高くなります。私たちの体は、体温に応じた光である赤外線を放射していることは、暗闇でも赤外線写真が撮れることからもわかります。私たちも「輝いている」のです。…

池内了『宇宙入門:138億年を読む』角川ソフィア文庫

 

ぼくたちは、この暗闇の宇宙のなかで「輝いている」。

SpaceXのロケット「Falcon Heavy」に搭載されたテスラ車「Roadster」の前方には、大きな「暗闇」がどこまでもひろがっている。

そのようなはるかな暗闇のなかで、「輝いている」人たち。

ぼくは、池内了がふと書いた「輝いている」という言葉とイメージに、どこかひかれている。

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20年以上が経過して開かれる本。- ニュージーランドの作家Patricia Grace『Potiki』。

ニュージーランドの作家Patricia Graceの文学作品『Potiki』(Penguin Books, 1986)。...Read On.

ニュージーランドの作家Patricia Graceの文学作品『Potiki』(Penguin Books, 1986)。

1996年に、9ヶ月ほど住んでいたニュージーランドを旅立つ際に、ニュージーランド人の友人からいただいた本である。

20歳になってようやく「本」というものの面白さと深さを体験しはじめていたぼくを知ってか、友人はぼくに、まるで「ニュージーランド」を本のなかに吹き込むようにして、ぼくに贈ってくれた。

日本に帰国してから、数ページ読み始めては、そこから先に進まず、ぼくの蔵書のなかに収められていた。

180頁ほどの小さな本だけれど、いつか読もうと、ぼくは心のひきだしにしまっていた。

 

そして、最近なぜか、この『Potiki』に呼びかけられているような気がして、ぼくはこの本をひらいた。

まず、驚いたのは、本のタイトルページをめくると、次の文字が目にとびこんできたときであった。

「Printed in Hong Kong」

1986年の出版の際に、この本は、ぼくが今いる、ここ香港で印刷されている。

やがて、本はニュージーランドに旅し、そこで友人の手にわたり、出版から10年の歳月を経て、1996年にぼくの手にわたる。

そのようにして、その本はぼくと共に、日本にわたっていくことになる。

2007年に、香港に移り住む際に、(おそらくそのタイミングで)ぼくはこの『Potiki』を香港にもってくることになる。

それから、またおよそ10年が経過する。

そこで、ふと呼びかけられるようにして、開いた本は、「Printed in Hong Kong」を刻印している。

30年の時を経て、香港にもどってきたことになる。

そうして開かれた本の物語と情景は、今度は、ぼくの心のなかに、すーっと、はいっていくのだ。

 

Patricia Graceは、1937年に、ニュージーランドのウェリントンに生まれる。

父親はマオリ人、母親がヨーロッパ系である。

最初の頃は英語教師でありながら、短編をつむぐ。

彼女が1975年に発表した短編集は、マオリ人女性によって書かれた初めての短編集であったという。

作品は、マオリの生を描いている。

『Potiki』は1986年に発表され、ニュージーランドでの賞を得ることになった作品だ。


「明るさ」に充ちた物語ではないけれど、それでもその筆致はとても美しい作品だ。

ニュージーランドの風景を、ぼくのなかに、ありありと思い出させてくれる。

そのような風景のなかで、人が生きていく「物語」の物語だ。

「物語」を生きていく人たちを描く物語。

 

ぼくも生きていくなかで、この「物語」としての生を、今みつめている。

この本は、ぼくに開かれるのを、じっくりと待っていてくれたように、ぼくは「物語」を紡いでいる。

決して、ぼくにいらだつのでもなく、ただじっと、そこで待っていてくれたわけだ。

まるで、ニュージーランドの海や山や森たちのように。

 

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「問いの、核心にことばが届くということがあるなら…」(真木悠介)。- 書くものにとっての「過剰の幸福」と「奇跡といっていい祝福」。

社会学者である真木悠介(見田宗介)は、『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)と『自我の起原』(岩波書店、1993年)の二つの仕事を通して、自身が持ち続けてきた「原初の問い」に対して、「透明な見晴らしのきく」ような仕方で、自身の展望を得た...Read On.


社会学者である真木悠介(見田宗介)は、『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)と『自我の起原』(岩波書店、1993年)の二つの仕事を通して、自身が持ち続けてきた「原初の問い」に対して、「透明な見晴らしのきく」ような仕方で、自身の展望を得たことを、『時間の比較社会学』の岩波同時代ライブラリー版(1997年)の「後記」で書いている。

「原初の問い」とは、「永遠の生」を願望としてしまうという問題と、「自分」という唯一かけがいのないものとして現象してしまう理不尽な問題である。

見田宗介の仕事を<初めの炎>として駆動してきた原初の問いは、一貫して追求され、自身が納得のいく仕方で書かれ、その成果が「本」という形で世に放たれる。

「後記」の最後は、次のような、美しい文章でとじられている。

 

 わたし自身にとって納得のできる仕方が、他の人にとって、さまざまな角度と限界をもちながら、いくつもの光源の内の一つとなることができるなら、すでに過剰の幸福である。更に、問題感覚の核を共有することのできる読者が一人あるなら、そしてこのような一つの問いの、核心にことばが届くということがあるなら、それは書くものにとって、奇蹟といっていい祝福である。

真木悠介「同時代ライブラリー版への後記」『時間の比較社会学』(同時代ライブラリー版)(岩波書店、1997年)

 

この「後記」を読みながら、20年ほど前のぼくは、思わずにはいられなかった。

ぼくのような「読むもの」にとって、ぼくの問題感覚の核に向けてことばが紡がれ、そして問いの核心にことばが届くということは、「奇跡といっていい祝福」である、と。

当時のぼくは、この世界において、ほんとうに光を得たような感覚を得たものだ。

 

そして、今度は書く側に立って、断片やまとまった文章を書きながら、真木悠介が考えていたことを思う。

他者の問いの、核心にことばが届くということの、「奇跡といっていい祝福」についてである。

ことばが伝わっていくルートには、「さまざまな角度と限界」があるからである。

真木悠介が語るような角度と限界、つまり他者にとっての大切な生きられる問題や経験との差異や深浅などもある。

またそもそも、その本を手に取るか否かという限界性もある。

毎日毎日文章を書きながら、そしてこの度は「本」という形で文章を書いて構成しながら、ぼくの脳裏に、真木悠介のこの「後記」がよぎってくる。

そして、それは、ぼくを励ましてもくれている。

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書籍, 香港, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 香港, 成長・成熟 Jun Nakajima

とにかく、やってみること。- Kindle電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)を発行して。

先日(2018年1月29日)に、アマゾンKindleでの電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)を発行した。...Read On.

先日(2018年1月29日)に、アマゾンKindleでの電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)を発行した。

「香港で、彩り豊かな「物語」を生きる。」と表紙の帯に掲げたように、香港という人生の舞台で、この本を読んでくださる方々が(そしてこの本を読まれない方々も)、彩り豊かな生を生きていってくださればと思いながら、ぼくは書いた。

「香港」ということで書いたものだけれど、それは、少し掘れば「海外での生活」ということになるし、さらに掘れば「この世界」ということを明確に意識しながら、書いた。

そして、この世界で生きることは、もちろんぼくにとって「現在進行形」である。

 

とにかく、やってみること。

今回の「プロジェクト」において、これは、やはり大きなことであったと、ぼくは思う。

電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』の構想から執筆、数えきれないほどの書き直し、アマゾンにおける出版プロセスなどの一連の仕事。

その過程における、数多くの学びと気づき。

プロジェクトプランの大切さ。

編集ということの大切さと困難と深さ。

アマゾンでの出版の仕組みと、新しい時代の足音。

その全行程における、仲間からの励ましのありがたさ。

このようなことは、やはり、やってみなければわからない。

もちろん、ぼくの「仕方」は、ありうる仕方のひとつにすぎない。

その意味において、ぼくはぼくの経験があらゆることにあてはまることなど、まったく思わない。

ただし、それでも、やってみることの大切さがあるし、なによりもこの「やること」それ自体が生きるということである。

 

「だれでも出版はできる」という言葉は一面の正しさをもちつつ、しかし、やはりそうすんなりといくわけではないことも、この一連のプロセスを経るなかで、ぼくは感じてきた。

このことは、またどこかで書きたいと思うけれど、「とにかく、やってみること」は、すべての人ができるわけではないこととも、つながっているようなトピックでもある。

また、「だれでもできる」としても、「よりよく」できることは、まったく異なる次元のことでもある。

「できる」から「よりよくできる」の間の<断層>の大きさにも、ぼくは愕然とした。

こんなことも、やってみることではじめて、身体で感じることができた。

 

この世を去る方々が、なくなる直前に、「あれをやっておけば、という後悔だけはしないこと」という、ほんとうに深い、本質をつくメッセージをぼくたちに届けてくれている。

この「助言」は頭ではわかっても、「やってみること」ができない人たちも多い。

ぼくは、この助言に、ただただ導かれている。

これからも「やってみること」をつみあげていきたい。

そうして、ぼくが将来、「この世」を去るときには、「あれをやっておけば、という後悔だけはしないこと」というメッセージを語っているだろう。

そんな「物語」を、ぼくは紡いでいる。

 

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香港, 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima 香港, 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima

Kindle電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)。- 香港で、彩り豊かな「物語」を生きる。

ぼくのアマゾンKindleでの電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)が、2018年1月29日(香港・日本では1月30日)に発行された。...Read On.


ぼくのアマゾンKindleでの電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)が、2018年1月29日(香港・日本では1月30日)に発行された。

香港にこれから住む方、香港に現在住んでいる方/以前住んでいた方、香港に興味のある方に向けて、「香港でよりよく生きていくため」のヒント集である。

「ヒント」と言っても、そこに「答え」があるわけではない。

ここ香港で10年以上(まもなく11年)にわたって生きてきたなかで、ぼくが、観察し、考え、行動し、議論し、学んできたことなどのエッセンスを凝縮して、まとめた本である。

このブログとは別に、形式や文体も変えて、書いた52項目。

あくまでも、限られた視点でしかない。

 

書き始めたのはちょうど1年ほど前のこと。

ドラフトを一気に書いて、寝かせて、直して、しばらく置いて、直してということを、幾度も幾度も繰り返す。

ときには、書いたものを「捨て」て、新たに書き直す。

その間も香港での生活(観察と行動)は続き、またブログも書きながら、気づいたことを反映させ、項目間の整合性をつけ、また用語を直す。

ぼくにとって大切な人たちが「進捗」を時折確認してくれることに励まされながら。

 

書き始めて1年だけれど、この文章と内容に至るまでに、42年かかった。

もちろん、「すべて」を書いたわけではない。

「書くこと」自体が、無限の事象と心象の一部をすくいとる行為でもある。

書くことは生きることのただ一部である。

それでも、あくまでもぼくにとっては、42年という「時間」とその間に移動したいろいろな場所という「空間」を凝縮して、その一部を言葉にした。

 

言葉として浮かびあがってきたことのひとつが、「物語」であった。

人が生きるということは、物語を生きるのだということ。

香港であれば、<香港ライフストーリー>を、ぼくたちは生きる。

だれもが、「物語」を生きる。

そして、本を書き、Kindleで発行し、いろいろな人たちに共有するとプロセスそれ自体が、「物語」に彩られているのだということを、ぼくはあらためて感じている。


それにしても、香港で、東ティモールで、西アフリカのシエラレオネで、ニュージーランドで、アジア各国で、東京で、浜松で出会ってきた方々のことを思い出していたら、「感謝」はお会いした人たちすべてにお伝えしなければと、思ってやまなくなってしまった。

ここでも、ブログを読んでくださっている方々を含め、深く深く感謝させていただくことで、今日のブログを閉じたいと思う。

 

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『君たちはどう生きるか』をめぐる回想(丸山真男)。- 丸山真男の「震え」と「明晰さ」。

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)が多くの読者を獲得している。...Read On.


『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)が多くの読者を獲得している。

1900年代前半(原作の出版は1937年)の日本の東京を舞台に、主人公である本田潤一(コペル君)と叔父さん(おじさん)が、人生のテーマ(世界、人間、いじめ、貧困など)に真摯に向き合いながら、物語が展開していく作品だ。

この『漫画 君たちはどう生きるか』によって、はじめてこの作品を知ったぼくは、原作を読みたくなり、原作を手にした。

 

原作『君たちはどう生きるか』の岩波文庫版には、丸山真男(丸山眞男)が1981年に書いた「追悼文」が付載されている。

丸山真男は今ではあまり知られていないかもしれないけれど、さまざまな人たちに大きな影響を与えてきた、政治学者・思想史家である。

その丸山真男が、吉野源三郎の追悼文として、雑誌「世界」の依頼で「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」を書いた。

丸山が20代でこの本を読んだときの「震え」と、晩年に読み返して筆をとったときの「明晰さ」が、この文章に詰められていて、とても興味深い。

丸山真男がこの本と出会ったのは、研究者として一歩を踏み出したときであった。

 

…自分ではいっぱしのオトナになったつもりでいた私の魂をゆるがしたのは、自分とほぼ同年輩らしい「おじさん」と自分を同格化したからではなくて、むしろ、「おじさん」によって、人間と社会への眼をはじめて開かれるコペル君の立場に自分を置くことを通じてでした。

丸山真男『君たちはどう生きるか』をめぐる回想、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫

 

この「点」を起点として、そこに立ち入って述べていくことで、丸山真男は、吉野への追悼と名著の紹介を果たそうとする。

ぼくの問題関心から、ここではひとつだけ取り上げるとすれば、「主体・客体関係の視座の転換」である。

原作の第一章「へんな経験」で展開される、銀座のデパートメントストアの屋上での出来事。

漫画版においても、原著においても、とても印象的なシーンである。

丸山真男はそのシーンをつぶさに読み解いている。

潤一が屋上から銀座の通りに目をやりながら「見る自分」と「見られる自分」とを感じる場面、またおじさんが手紙でふれる「コペルニクスの地動説」にふれながら、丸山真男は「主体・客体関係の視座の転換」ということを明晰に述べている。
 

…世界の「客観的」認識というのは、どこまで行っても私達の「主体」の側のあり方の問題であり、主体の利害、主体の責任とわかちがたく結びあわされている、ということーその意味でまさしく私達が「どう生きるか」が問われているのだ、ということを、著者はコペルニクスの「学説」に託して説こうとしたわけです。認識の「客観性」の意味づけが、さらに文学や芸術と「科学的認識」とのちがいは自我がかかわっているか否かにあるのではなくて、自我のかかわり方のちがいなのだという、今日にあっても新鮮な指摘が、これほど平易に、これほど説得的に行われている例を私はほかに知りません。

丸山真男『君たちはどう生きるか』をめぐる回想、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫

 

この回想には、前に述べたように、丸山真男の「震え」と「明晰さ」が共につめこまれている。

丸山真男が書いているとおり、『君たちはどう生きるか』は、いつの時代にも変わることのない問いかけとなっている。

実際に、原著が出てから80年を経ても、その問いの色合いは決してあせることのない新鮮さで、ぼくたちの前に提示されている。

 

回想の最後に、丸山真男はこんなことを書いている。

 

…すくなくとも私は、たかだかここ十何年の、それも世界のほんの一角の風潮よりは、世界の人間の、何百年、何千年の経験に引照基準を求める方が、ヨリ確実な認識と行動への途だということを、「おじさん」とともに固く信じております。…

丸山真男『君たちはどう生きるか』をめぐる回想、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫

 

1981年に書かれたこの文章は、そのまま、この現在においても、力強く光を放っている。

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「よい入門書」はどのような入門書か。- 内田樹の書く「まえがき」はいつも素敵に文章を奏でる。

思想家・武道家である内田樹の書く「まえがき」は、いつも素敵に文章を奏でる。...Read On.


思想家・武道家である内田樹の書く「まえがき」は、いつも素敵に文章を奏でる。

本文も「わかりやすい」(でもだからこそ深い)言葉で、鋭い切れ味の論理と独特のリズムを持って書かれているけれど、ぼくはいつもいつも「まえがき」の奏でる音楽に聴きいってしまう。

著書『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)を読もうとして、「構造主義」という思想にはいっていこうとしていたら、その「まえがき」につかまってしまったのだ。

「まえがき」で、内田樹は、この本が「入門者のために書かれた解説書」であることを語る。

そこから、「よい入門書」に関する考えが、やはり入門的に、書かれている。

 

…「よい入門書」は、「私たちが知らないこと」から出発します。

内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)

 

「専門家のために書かれた解説書」が「知っていること」を積み上げ式で積み上げてゆくのに対し、入門書は「知らないこと」から問いを始める。

それは、内田樹も言うように、ラディカルな(根源的な)問いにならざるをえない。

 

 入門書は専門書よりも「根源的な問い」に出会う確率が高い。これは私が経験から得た原則です。「入門書がおもしろい「」のは、そのような「誰も答えを知らない問い」をめぐって思考し、その問いの下に繰り返しアンダーラインを引いてくれるからです。そして、知性がみずからに課すいちばん大切な仕事は、実は、「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのです。

内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)

 

「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」と、内田樹は繰り返し述べている。

例として挙げられていることで言えば、真にラディカルな「医学の入門書」があるとしたら、「人はなぜ死ぬか」という問いから始まるだろうと。

「死ぬことの意味」や「老いることの必要性」の根源的な考察などなど。

そんな入門書には会ったこともないし、会ってみたいと思う。

医学ではなく、ぼくが大学院で「(途上国の)開発学」を土俵としていたとき、方法論にしびれをきらしたぼくは、修士論文で、「開発とは何か」と、人や社会の発展と開発という根源的な問いに一気に下降していってしまった。

すぐに「現場」で使えるものではなかったけれど、そのときの考察はその後のぼくの「現場」での活動はもとより、今でもぼくの思考の土壌となっている。

そのようなぼくの資質もあってか、ぼくも「よい入門書」が好きである。

そして、内田樹の奏でる<入門の音楽>を聴きながら、ぼくは重要な問いの下にアンダーラインを引き続けるのだ。

「構造主義」などという思想はじぶんとは関係ないと思うだろうけれど、そう思う前に、この<入門の音楽>を聴いてみるのもひとつだ。

専門家だけでなく、ぼくたちのような普通の人たちの思考も、「構造主義の思考」の中でかけめぐっていると言われたら、どうだろうか。
 

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身体性, 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima 身体性, 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima

「ゴールのわからない未知のトラックを走る」。- 内田樹『修業論』の強力な重力に引かれて。

「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」という修業について、思想家・武道家の内田樹は「ゴールのわからない未知のトラックを走る」ようなものだと、著書『修業論』(光文社新書)のなかで述べている。...Read On.


「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」という修業について、思想家・武道家の内田樹は「ゴールのわからない未知のトラックを走る」ようなものだと、著書『修業論』(光文社新書)のなかで述べている。

自身の合気道の修業を身体的なベースとしながら、「修業ということ」の本質を丁寧にさぐっている。

 

…走っているうちに「自分だけの特別なトラック」が目の前に現れてくる。新しいトラックにコースを切り替えて走り続ける。さらにあるレベルに達すると、また別のトラックが現れてくる。また切り替える。
 そのつどのトラックは、それぞれ長さも感触も違う。そもそもを「どこに向かう」かが違う。はっと気がつくと、誰もない場所を一人で走っている。…

内田樹『修業論』光文社新書

 

修業というものは、そのような「未知」を走る。

しかし、以前からよく言われるように、「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」と頭ごなしに言われると、若い人たちは耳を貸さない。

内田樹は、このようなふるまいを、「消費者」という視点を導入して、語っている。

消費者が商品を見定めるときに例えば「何の役に立つのか?」ということを聞いたとして、その問いに対し(修業のように)「使ってみればわかる」と答えるような売り手はいない。

 

 使い道がわからない商品はこの世に存在しない。とりあえず、今の子どもたちはみなそう信じています。現に、家庭でも学校でも、あらゆる機会において、子どもたちは何かするときに「これをするとこれこれこういう『善いこと』がある」という説明を受けて利益誘導されています。

内田樹『修業論』光文社新書

 

「利益誘導」ということは、内田樹も説明しているように、「努力のインセンティブ」を与えていくことである。

前述のように消費者的な視点を引き入れると、努力をすると「商品」が得られるというプロセスなのだが、修業とはそのようなものではない。

「ゴールのわからない未知のトラックを走る」ようなもので、あらかじめ、明確なゴールが示されるものではない。

ゴールは、「あれはそういうことだったのか」という事後の気づきという形で、語られる。

そういうものだ。

 

著書『修業論』は、そのようなことがわからない「子ども」に対して書かれた本である。

しかし、内田樹が展開していく論理は、この「まえがき」の導入から本文に入っていくなかで、一気にその論が先鋭化されていく。

「無敵とはなにか、天下無敵とはどういうことか」など、修業というものの本質が持つ強力な磁場に引かれるようにして、論は深くきりこんでゆく。

その強力な重力に、ぼくは一気に引っぱられている。

そのようにして、「ゴールのわからない未知のトラック」を、ぼくはただただ走り続けている。

 

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留学生である夏目漱石のイギリスでの苦悩と「変身」。-「嚢(ふくろ)を突き破る錐(キリ)」を追い求めて。

夏目漱石の『私の個人主義』に最初に目を通したのは、確か、大学か大学院で勉強していた20代前半のことであったと思う。...Read On.

夏目漱石『私の個人主義』に最初に目を通したのは、確か、大学か大学院で勉強していた20代前半のことであったと思う。

夏目漱石の書くものにぼくは深く惹かれていたわけではない。

中学や高校での教科書や読書感想文用の図書として取り上げられる夏目漱石であったけれど、どうにも、深く入っていくことができずにいた。

ただ、おそらく、「個人主義」という言葉にひかれて、手にとったのだと思う。

当時のぼくは、個人と共同体、自由主義と共同体主義などのトピックに、正面からぶつかっていた時期であったからだ。

でも、『私の個人主義』もあまりぼくの心身に合わず、読んだ内容はほぼ覚えていないような状況であった。

 

20年程が経過して再び『私の個人主義』を手にとろうと思ったのは、ある論考を読んでいて、「留学生の夏目漱石」に焦点をあてた箇所に惹かれたからである。

『現代思想』誌(青土社)の2016年9月号(特集:精神医療の新時代)における、酒井崇「適応することと潜勢力としての思考」という論考のなかである。

精神病理学を専門とする著者が、「大学において留学生の相談・診療業務」をするなかで、留学生などにみられる「適応の困難さ」について論じている。

論考の展開のなかで、「留学生漱石」に光をあて、イギリス(ロンドン)に留学した夏目漱石が、ロンドンの生活に「不適応」を起こしていたことに目をつける。

 

イギリス留学に行くずっと以前から「不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至るところに潜んでいるようで堪まらない」(夏目漱石、『私の個人主義』青空文庫)感覚を漱石は持ち続けていた。

「私はこの世に生れた以上何かしなければならん」(前掲書)と思いつつ、思いつかないといった、状態である。

漱石は、この状態を、「あたかも嚢(ふくろ)の中に詰められて出る事のできない人のような気持ち」と語り、「一本の錐(キリ)さえあればどこか一箇所突き破って見せるのだ」(前掲書)というように、焦り抜いていたという。

不安を抱いたまま、漱石はイギリスのロンドンに渡ることになる。

 

…この嚢を突き破る錐は倫敦(ロンドン)中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。

夏目漱石『私の個人主義』青空文庫

 

本を読んでもうまくいかない。

本を読む意味さえも失うなかで、夏目漱石はひとつの「気づき」を得る。

 

 この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う道はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で…そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。

夏目漱石『私の個人主義』青空文庫

 

夏目漱石がそうして行き着いたのが「自己本位」ということである。

「自己本位」という言葉を手に入れた漱石は、文学に限らず、科学的研究や哲学的思索にふける。

「自己本位」が道を照らしたのだ。

そのとき、留学してから、一年以上が経過していた。

漱石はこう語っている。

 

…外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。

夏目漱石『私の個人主義』青空文庫

 

漱石のロンドン「不適応状態」に焦点をあてた酒井崇は、「嚢を突き破る錐」は何であったのだろうと問う。

 

…英国へ留学して一年間、いわば不適応状態にあった漱石を変えたものは何であったのだろうか。…たんに英文学に見切りをつけて、関心を文学そのものへ移したということだけのことでは決してない。「概念を根本的に自分で作り上げ」ようとしたこと、周囲から神経衰弱と言われるほどまでに「思考」したことが錐となったのではないだろうか。

酒井崇「適応することと潜勢力としての思考」『現代思想』(青土社)2016年9月号(特集:精神医療の新時代)

 

夏目漱石が「私の個人主義」の講演を行なったのは1914年(大正3年)11月25日。

漱石が他界する2年前の講演で、そのとき漱石は47歳であった。

イギリス留学の年から14年が経過していた。

ぼくも幾分、霧の中をくぐり抜けてきた漱石と同じような経験を通過してきた。

そのためなのか、漱石の言葉をかみしめる素地が少しはできたのかもしれない。

久しぶりに読む『私の個人主義』のなかに興味のつきない語りを見つけ、それらがぼくに迫ってくるように感じられる。

なお、「個人主義」という言葉だけでは、ミスリーディングになりやすい。

だから、「私の個人主義」というように「私の」がつけられているように思う。


夏目漱石は、この講演で聴衆に向けて、次のような、熱を帯びた言葉を投げかけている。
 

…もし途中で霧か靄(もや)のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。…もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。ーもっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。

夏目漱石『私の個人主義』青空文庫

 

「掘当てるところまで行ったらよろしかろう」と、漱石は語る。

それにしても、留学生の漱石に会ってみたくなった。

 

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書籍, 社会構想 Jun Nakajima 書籍, 社会構想 Jun Nakajima

「未来」を見据え、考え、構想するための5冊。- 生き方・働き方をひらいてゆくために。

年末になると、いろいろなメディア媒体で、例えば「今年の◯冊」のような記事が掲載される。ぼくは「他者の書棚」を見るのが好きなので、ただ楽しみ、ぼくにとっての「良書」を探す。...Read On.

年末になると、いろいろなメディア媒体で、例えば「今年の◯冊」のような記事が掲載される。

ぼくは「他者の書棚」を見るのが好きなので、ただ楽しみ、ぼくにとっての「良書」を探す。

ただし、年ごとの切り口よりも、「今」という時点で読んでおくべき大切な本に注目する。

 

「未来」ということは、常に考えている。

「不確実性」に焦点があてられやすい未来だけれど、それ以上に、ぼくにとっては好奇心が圧倒的に勝る<未来>だ。

その「未来」というキーワードにおいて、未来を見据え、考え、構想するための5冊を、ここでは挙げておきたい。

生き方・働き方をひらいてゆくための「土台」となる本だ。


 

(1)見田宗介『社会学入門:人間と社会の未来』岩波新書

刊行されたのは2006年。

今から10年前だけれど、まったく古くならず、むしろ、今の時代においていっそう大切なポイントとなる理論と論考で詰まっている。

「社会学」という学問の枠をつきぬけて、副題にあるように、「人間」と「社会」の未来を、硬質で、ゆらぎのない理論と論理で、論じている。

見田宗介が語るように「社会学」とは<関係としての人間の学>である。

そして、「未来」をひらいてゆくために、この<関係性>がゆらぎ、問われている。

理論的な骨格としては、第六章「人間と社会の未来ー名づけられない革命」と補「交響圏とルール圏ー<自由な社会>の骨格構成」は、必読の内容である。

 

(2)Yuval Noah Harari “Homo Deus: A Brief History of Tomorrow” HarperCollinsPublishers

『サピエンス全史』で有名な歴史学者の著作。

日本語版はこのブログ執筆時点では刊行されていないけれど、刊行されれば日本でもよく読まれるようになるだろう。

ユヴァル・ハラリが著作で展開する「人類の21世紀プロジェクト」とは、人類(humankind)がその困難(飢饉・伝染病・戦争)を「manageable issue」として乗り越えつつある現代において、次に見据える「プロジェクト」で、大別すると下記の通り3つである。

  1. 不死(immortality)
  2. 至福(bliss)
  3. 「Homo Deus(神)」へのアップグレード

「Homo Deus」とは、「神」なる力(divinity)を獲得していくことである。

「神」になるわけではないが、「神的なコントロール」を手にしていくことだ。

読みやすい文章と視点で、ユヴァル・ハラリを導き手に「明日の歴史」を<読む>ことができる。

ぼくにとっては、見田宗介の理論とユヴァル・ハラリの論考とを合わせながら、接合しながら、差異を確認しながら、「未来」をよみときたいと思っている。

 

(3)Lynda Gratton & Andrew Scott “The 100-Year Life: Living and Working in an Age of Longevity” Bloomsbury

日本語訳では『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)ー100年時代の人生戦略』(東洋経済新報社)としてベストセラーになってきた書籍。

ベストセラーとなっても、即座に、人や社会の「価値観」が変わっていくわけではない。

価値観の変遷はまだこの先当面続いていくなかで、「100年時代の人生戦略」の視点と計画と実践を、生き方と働き方、社会システムや組織システムなどに接合していくことが必要である。

ここ香港では、あまり(というかほとんど)取り上げられていない。

しかし、香港人口統計の今後の推移を考慮すると、今から取り組んでいかなければいけないことである。

 

(4)養老孟司『遺言』新潮新書

「新書」という小さな本でまとめられているけれど、養老孟司の「思考と経験」が凝縮された、骨太の本である。

脳化社会・都市化などのこれまでの論点も含め、「人間」というものに、深く深く、思考をおとしてゆく。

養老孟司じしんが述べるように「哲学の本」ともとられかねない内容だけれど、自然科学的な考察も随所になされ、「分類の仕様のない本」である。

「ヒトの意識だけが「同じ」という機能を獲得した」という、この「同じ」をキーワードに、あらゆる事象をよみといていく。

読みやすい本だけれど、養老孟司の「思考」をじぶんのものにすることは容易ではない(ぼくにとっては)。

 

(5)西野亮廣『革命のファンファーレ:現代のお金と広告』幻冬舎

職業としての「芸人」という枠におさまらず、生き方としての<芸人>へと生をひらいてきた西野亮廣が、ビジネス書として世に放つ2冊目の著書『革命のファンファーレ 現代のお金と広告』(幻冬舎)である。

本書は、西野亮廣じしんが言うように、西野の<活動のベストアルバム>となっている。

<生き方としての芸人>という試みは、世界と時代をひらいてゆく試みである。

その試みの、実際の「経験と学び」を、西野亮廣は、この著書で共有している。

上に挙げた4冊とは趣を異にするように見えるけれど、その根底においては、さまざまな通路においてつながっている。

 

 

最初に挙げた著作(『社会学入門』)における、社会学者の見田宗介が見はるかしている、今という世界と時代の「立っている地点」の文章を、最後に抽出しておきたい。

 

 …ぼくたちは今「前近代」に戻るのではなく、「近代」にとどまるのでもなく、近代の後の、新しい社会の形を構想し、実現してゆくほかはないところに立っている。積極的な言い方をすれば、人間がこれまでに形成してきたさまざまな社会の形、「生き方」の形を自在に見はるかしながら、ほんとうによい社会の形、「生き方」の形というものを構想し、実現することのできるところに立っている。

見田宗介『社会学入門:人間と社会の未来』岩波新書

 

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言葉・言語, 身体性, 書籍 Jun Nakajima 言葉・言語, 身体性, 書籍 Jun Nakajima

言葉は「目と耳とを同じだとするはたらき」(養老孟司)。- ヒトと社会の底流にながれる「同じ」という意識の機能。

養老孟司の著書『遺言』(新潮新書、2017年)は、シンプルな記述と意味合いの深さの共演(響宴)にみちた本である。...Read On.


養老孟司の著書『遺言』(新潮新書、2017年)は、シンプルな記述と意味合いの深さの共演(響宴)にみちた本である。

分類の仕様のない本であるけれど、「人間」にむけられた深い洞察に、思考の芽を点火させられる。

本それ自体については、また別途書きたいと思う。

 

養老孟司の思考の照準のひとつが、「同じ」ということにあてられる。

第3章は「ヒトはなぜイコールを理解したのか」と題され、「当たり前」の覆いを取り、思考をそそいでいる。

この思考のプロセスがスリリングであるが、「結論」だけを、ここの箇所から取り出しておく。

 

…動物もヒトも同じように意識を持っている。ただしヒトの意識だけが「同じ」という機能を獲得した。それが言葉、お金、民主主義などを生み出したのである。

養老孟司『遺言』新潮新書、2017年

 

「同じ」という機能が言葉を生み出したと、養老孟司はいう。

通常、ふつうにかんがえても、このつながりはよくわからない。

「意識と感覚の衝突」という項目でプラトン(養老孟司はプラトンのことを「史上最初の唯脳論者」と呼ぶ)にまでさかのぼりながら、「乱暴なこと」と認識しながら、次のように、「言葉」について語る。

 

…いうというのは、言葉を使うことであって、言葉を使うとは、要するに「同じ」を繰り返すことである。それをひたすら繰り返すことによって、都市すなわち「同じを中心とする社会」が成立する。マス・メディアが発達するのも、ネットが流行するのも、結局はそれであろう。グーグルの根本もそれである。われわれはひたすら「ネッ、同じだろ」を繰り返す。なぜなら言葉が通じるということは、同じことを思っているということだからである。動物はたぶんそんな変なことはしていないのである。

養老孟司『遺言』新潮新書、2017年

 

言葉は現実を裏切る、などとよくいわれる。

言葉は物事を「言い尽くせない」のは本来は通常のことであり、人間は「同じ」という意識の機能、その産出物である「言葉」で、言い尽くせないものを名付け、「同じ」ものとして集団で認識していく。

養老孟司の思考はさらに「科学」的にきりこんでゆき、「同じ」はどこから来たか、と問うていく。

脳の構造と機能にその起源をもとめていき、ヒトの脳の「大脳新皮質」の進化に目をつける。

ヒトの脳の特徴は大脳皮質(特に新皮質)が肥大化したことにあるという。

情報処理の機能である。

 

 視覚の一次中枢から聴覚の一次中枢までを、皮質という二次元の膜の中で追ってみよう。視覚、聴覚の情報処理が一次、二次、三次中枢というふうに、皮質という膜を波のように広がっていくとすると、どこかで視覚と聴覚の情報処理がぶつかってしまうはずである。そこに言葉が発生する。
 なぜか。言葉は視覚的でも聴覚的でも、「まったく同じ」だからである。というより、ヒトはそれを「同じにしようとする」。…
 つまり目からの文字を通した情報処理も、耳からの音声を通した情報処理も、言葉としてはまったく「同じ」になる。

養老孟司『遺言』新潮新書、2017年

 

この意味において、言葉は「目と耳とを同じだとするはたらき」である。

言葉というものの「強さ」と同時に、言葉がよってたつところの基盤の「危うさ」を思わせる。

 

「考えるということ」は「分けること」でもあると、ぼくはかんがえる。

あるものを、論理で分けながら、綿密に「分」析していく。

養老孟司の思考をここに注入するとするのであれば、「同じ」という土台の基盤において、できるかぎり「違い」において分けていく、ということであろうか。

別の「同じ」という機能の言葉を使って。

それは、この本の主題のひとつ、「科学とは?」ということとも繋がってくるということに、この文章を書きながら、ぼくは気づく。

 

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書籍, 人事マネジメント・労務 Jun Nakajima 書籍, 人事マネジメント・労務 Jun Nakajima

漫画「クロカン」における「チーム」づくり。- 人と組織、そしてマネジメントをかんがえさせられる作品。

漫画「クロカン」。「型破りなクロカン野球で目指せ甲子園」(マンガトリガー)というストーリーで展開される作品(著者:三田紀房)。...Read On.

 

漫画「クロカン」。

「型破りなクロカン野球で目指せ甲子園」(マンガトリガー)というストーリーで展開される作品(著者:三田紀房)。

1996年から2002年まで雑誌で連載され、アプリ「マンガトリガー」で、無料(「待てばタダ」)で掲載されている「懐かしい作品」である(ちなみに「マンガトリガー」のビジネスモデルは面白い)。

ぼくは「マンガトリガー」で初めて知り、作品に描かれる、人と組織(チーム)、それからマネジメントということを考えさせられながら、作品を読んでいる。

 

甲子園をめざす桐野高校野球部の監督、黒木竜次(28歳)、通称クロカンが主人公である。

監督就任後に3年目に県大会ベスト4、4年目で準優勝にまでチームをつくっていく。

同野球部の部長、森岡謙一郎(28歳)が描く「エース中心の、守り抜く野球」とは対称的に、クロカンの指導方法と監督の采配は「はちゃめちゃ」である。

高校時代は二人でバッテリーを組んでいた森岡にどういうチームを作りたいのかと聞かれ、「しいていえば、バカばっかのチームだな」と応答するクロカン。

そんなクロカンが、甲子園をめざして、「はちゃめちゃ」な策を展開する。

 

第2話「口火」は、口火として、策のひとつがチームに「火を灯す」ストーリーである。

既成事実的にエースだと誰からも思われているピッチャーの正宮をショート(+抑えのピッチャー)に転向させる。

チーム内にも、チームの外にも、波紋を広げていくなかで、キャプテンの小松がクロカンに相談にくるシーンがある。

小松は、クロカンに、なぜ正宮をショートに変えたのかをたずねる。

 

「あの 監督……
教えて下さい
どうして正宮をピッチャーからショートにしたんですか?
みんな頼りにしてたエースが急にショートだなんて…

みんな憶測とか噂とか……
好き勝手なこと言い出して
モメてケンカ腰になって収拾つかなくて…」

三田紀房『クロカン』コルク

 

キャプテン小松にたいし、「ダメだ……俺から理由は言わねぇ……」と伝え、クロカンは「答え」をさしださない。

あくまでも、自分で考えさせる姿勢をとる。

そして、クロカンは、小松をまっすぐに見つめ、次のように尋ねる。

 

「おまえはあいつらとどういうチームにしてぇ?」
「キャプテンとしておめえはどう思うかって聞いてんだよ」

三田紀房『クロカン』コルク

 

チームで話し合ったこともないと答える小松にたいし、クロカンは言葉を続ける。

 

「チームは俺や森岡や誰のものでもねぇ
おまえらのもんだろ
それをどうしたいのか
自分らで考えもしねぇのか」

「まず
てめえらで考えろ……」

三田紀房『クロカン』コルク

 

黙る小松にたいし、「モメることを恐れるな」と最後にアドバイスをなげかける。

ぼくはこのシーンに心を動かされる。

 

漫画であるし、高校野球という枠のなかではあるけれど、人や組織(チーム)をかんがえる際に、とても大切なことを「物語」として描いている。

「守り」に入ってしまう人とチーム、既成事実的に動くチーム、どういうチームにしたいかがわからないチーム、「考えること」を現実には放棄してしまっている人など、物語を通じてかんがえさせられてしまう。

それらは、現実に、人や組織が直面していく問題であり、課題だ。

さらに、直接的には語られていないことで、ぼくが気になっているのは、この「口火をきったタイミング」である。

監督になって4年目に準優勝を果たした後に、この「口火」がきられたことだ。

そんなことをかんがえながら、ぼくは次の話へとすすんでゆく。

「まず、てめぇで考えろ」というクロカンの声が、ぼくにはきこえてくる。
 

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月あかりからもらってきた「おはなし」。- 香港で、満月の月あかりに照らされて考える、「非意識」からやって来た宮沢賢治作品の普遍性。

宮沢賢治のことをかんがえながら、ちょうど月が満月になるタイミングが重なって、ぼくの中では、だれもが知るところの『注文の多い料理店』の序に書かれた文章が浮かんでくる。...Read On.


宮沢賢治のことをかんがえながら、ちょうど月が満月になるタイミングが重なって、ぼくの中では、だれもが知るところの『注文の多い料理店』の序に書かれた文章が浮かんでくる

 

 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたがないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。

宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫

 

今から20年程前に行われた、宮沢賢治をめぐる座談会(「可能態としての宮澤賢治」雑誌『文学』岩波書店)で、見田宗介はとても面白い問題を提起している。

近代的自我という視点において、「近代的自我の表現としての文学、という方向を原的に批判する思想としての賢治作品」として、見田宗介は宮沢賢治の作品をとらえている。

 

見田 自我の問題でいうと、宮澤賢治の作品というのはフロイトが言うような無意識と同じものではなくて、ユングの言う無意識とも違う。だから精神分析学で言う無意識というより、もう少し非意識みたいな、<意識でないもの>というような感じのところから来るものがあるようにみえる。…作品がどこから来るかというのは、作者の意識から来るというのが一つの典型的な形としてある。もう一つは作者の非意識から来るというのがある。それともう一つは作者以外のところから来る、作者の外部から来るみたいなところがある。…

「可能態としての宮澤賢治」雑誌『文学』岩波書店、1996年

 

見田宗介は、谷川俊太郎から聞いた、大江健三郎の発言も紹介している。

大江健三郎は谷川俊太郎との会話のなかで、「最初の二つの作品で無意識は全部使い果たした」ということを語ったという。

それ以降の作品は意識で書いている、と。

無意識を使って書かれた作品と文学作品における「普遍性」ともからめながら、宮沢賢治の作品の「普遍性」も、賢治作品が非意識から来ているということと関係しているのではないかと、見田宗介は語っている。

賢治作品は、よく知られているように、アメリカの原住民の人たちが深い共振を示したと言われている。

月あかりからもらってきた「おはなし」は、人と人との境界を、超えてゆく。

 

宮沢賢治は、冒頭の「序」のなかで、「ほんたうに」という言葉をくりかえしつかっている。

虹や月あかりからもらったとしか言いようがない仕方で、非意識から届けられた「おはなし」は、宮沢賢治が自身にたいしても「ほんたうに」と言うしかないような作品が立ち上がってきたのだろうと、思われる。

『注文の多い料理店』だけでなく、例えば『鹿踊りのはじまり』は「すきとおつた秋の風」から聞いた「おはなし」である。

月あかりは、西アフリカのシエラレオネにいても、東ティモールにいても、それからここ香港にいても、ぼくに光をそそいでくれる。

ぼくたちが心を「ほんたうに」すきとおらせていけば、「おはなし」は聞こえてくるはずだ。

「近代的自我の表現としての文学」に見られるように、近代や都市という「脳化社会」(養老孟司)において意識や意味などにだけ水路づけられた生においては、「おはなし」は容易には聞こえてこないかもしれない。

 

この文章の最初に置いた「序」は、宮沢賢治の次のような言葉で終わっている。

 

…わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。

宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫

 

「すきとほつたほんたうのたべもの」が、生をひらく水路をひらいていくための「たべもの」となるかどうかは、宮沢賢治の「ちいさなものがたりの幾きれ」にではなく、ぼくたち自身に賭けられている。

 

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書籍, 身体性, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 身体性, 成長・成熟 Jun Nakajima

「如何なる教育も健康を損なうようなら間違っている」(野口晴哉)- 今だからこその、野口晴哉著『潜在意識教育』。

野口晴哉の著作の中に『潜在意識教育』(全生社、1966年)という著作がある。体癖研究や整体指導につくす野口晴哉が、専門外でありながらと断りつつも、4人の子供たちの親として語る本である。...Read On.


野口晴哉の著作の中に『潜在意識教育』(全生社、1966年)という著作がある。

体癖研究や整体指導につくす野口晴哉が、専門外でありながらと断りつつも、4人の子供たちの親として語る本である。

著作の最初に「潜在意識教育について」という文章がおかれ、直截的な言葉が置かれている。

 

「如何なる教育も健康を損なうようなら間違っている」

 

とてもシンプルな結論でありながら、この現代社会の中では「むつかしい」ことでもある。

「潜在意識教育」と聞いて、現代の人たちはもとより、当時においても「心の問題」のようなものとして語られるだろうことを想定して、野口晴哉ははじめにストレートに書いている。

 

…潜在意識教育というものも、心の問題として考えているのではなくて、私自身が体の整理ということを仕事にしているので、潜在意識教育も、体の整理のための手段と言うか、その通り道として扱っている。べつだん心のための心の教育とか、今日の社会に必要な人間の教育とかいうことを考えているわけではない。ただ人間の体が健康であり元気であるためには、どのように心を使って行ったらよいか、どういう心の使い方が人間の健康と関連し、人間が丈夫になるのかということが問題であって、私の説くことが今の社会に合うか合わないかは、まだ検討していないのである。

野口晴哉『潜在意識教育』(全生社、1966年)

 

野口晴哉ならではの「切り口」で、潜在意識や教育にきりこみ、その教えの基本の深さから、野口晴哉の他の著作群と同じように「分類不能の書」(見田宗介)となっている。

体の健康の話であり心の話であり、それから子供の話であり大人の話である。

子供や人間の「体」がおきざりにさられがちな現代の状況にあって、今だからこそ、ぼくたちに訴えてくる話にあふれている。

 

【目次】


潜在意識教育について
独立の時期
可能性の開拓
裡の自律性
内在する創造力
空想の活用
人間の自発的行為
価値の創造と価値観の変化
性と破壊の要求
思春期
潜在能力の開発

  1. 暗示からの解放
  2. 推理の能力を開拓する法
  3. 忘れるという記憶法
  4. あなたは自分の体の主人
  5. 予知本能か觀念死か

性格形成の時期

  1. 口のきけない時期
  2. 誕生以前
  3. 生後十三ヵ月間の問題
  4. 食べ過ぎの心理

質問に答えて
非行の生理

 

子供の「教育」の本でありながら、大人の「問題」にも光があてられる。

子供と親の「間」のことが語られながら、大人が抱えている体の問題に、まっすぐに野口の言葉が届いてくる。

ぼくは、自分が子供だったころのじぶんを重ね合わせながら、そこから今も引き継いでしまっているであろう「体」と潜在意識の問題を、野口の教えを導きに、みつめている。

 

ところで、「裡の自律性」という章で、野口晴哉は「躾(しつけ)」の問題に向き合っている。

その中でに、「人間の本性は善か悪か」という節がある。

人間の本性は悪いものだから躾が必要だという考え方と、人間の本性は善いものだから心にあるものを喚び出しさえすればいいのだという考え方の両極を見はるかしながら、野口晴哉は躊躇することなく、「本来の人間の心は善である」と語る。

 

…何故かというと人間は集合動物で、お互いがなくてはお互いに生きられない。そういう構造をしているのだから、いつでも相手の心を我が心とする心が誰の中にでもある。だから産まれる時に何故オギャーと言うかというと、人の助けを求めているのである。自分がここに産まれたという宣言である。人の世話にならなくては大きくなれないように産まれるということはおかしなことで、馬だって、象だって、産まれたらすぐに歩けるのに、人間だけは一年たってもなかなか歩けない。大人の保護を受けるようにできているということは、人間の心が善意であるということを意味している。だからこそ、赤ちゃんはそんな無用心な、保護を受けなければ育たないような格好で産まれてきている。もし善意がなかったら、誰も育ってはいない。お互いに生命を伸ばそうという心があるから、伸ばす相手も伸びてゆくことが嬉しい。…お互いの生命を扶け合うように、人間自体ができている。一人では生きられないようにできている。…

野口晴哉『潜在意識教育』(全生社、1966年)

 

野口晴哉の言葉には、曇りがない。

まっすぐに、人間の「善」を見つめている。

戦争の時代を生きてきた野口が、人の「闇」を知らないわけはない。

ただ、その体というところに降りたった時に、野口はそこに「善」をみるだけだ。

「人間が産まれる」ということの中に、人間や家族や社会ということの本質が詰まっている。

なお、赤ちゃんの「産まれ方」にかんする現代の動物社会学などの学問・科学的な知見は、野口晴哉のこの見方と同じ方向に議論を展開している。

野口晴哉の、この「分類不能の書」は、分類だけでなく、体ということに定位することで、分類だけでなく時代をものりこえてゆく力をもっている。

そのような力をもつ本と思想は、この本が出版されてから50年が経っても、まだ依然として語り尽くされていない。

 

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