<n個の性>にひらかれた世界へ。- <みんなが違う>という方向性へののりこえ。
男女の「差別」をのりこえるとき、論理的に、二つの方向性があることを、社会学者の見田宗介は書いている。
男女の「差別」をのりこえるとき、論理的に、二つの方向性があることを、社会学者の見田宗介は書いている(見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫)。
ひとつは、「女(男)である前に、わたしは人間です」というように、<みんなが同じ>という方向性。
ひとつは、「女といっても一人一人違う、男も一人一人違う」というように、<みんなが違う>という方向性。
日本の社会は、ひとつめの方向性、つまり<みんなが同じ>という「同質化」の方向性を、社会を駆動する原理のひとつとして握りしめているようなところがあるけれど、時代の変遷のなかで、<みんなが違う>という方向性に、個人も社会も向かっている局面を、ぼくたちは見ることができる。
見田宗介自身は「異質なものの呼応と交響、というあり方」に惹かれるとし、<みんなが違う>ということに得心がいくという。
ぼくも、<みんなが違う>という方向に共鳴する。
見田宗介(真木悠介)は別の著書で、「自我の起原」を人間という形態をとる以前の地層にまで遡って探求するなかで、「性の起原」を扱っている。
進化生物学者のマーグリス(1938-2011)たちによると、「性」とは「二つ以上の源からの遺伝子が組み変わること」であること、また、脊椎動物の世界では性といえば自分たちの生殖に伴う性を考えがちだけれど「生きものの五つの大グループのうち四つまでは性と生殖は関係がない」ということに、見田宗介(真木悠介)は焦点をあわせながら、つぎのように書いている。
男/女という2つの性しかないということが特異な形で、<n個の性>が一般型だと、マーグリス/セーガンはいう。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
<n個の性>ということは、性ということが無限にひらかれているということである。
もちろん、ぼくは、ここでいう一般型としての<n個の性>を、上述した<みんなが違う>ということの直接の根拠とするわけではない。
ただし、人間中心主義ではなく、ひろい眼(また、深い眼)で世界を見渡すと、生物学的な「男/女という2つの性」という見方は「あたりまえではない」こととして、立ち上がってくるのである。
見田宗介(真木悠介)の「自我の起原」の探求は、(その明晰で、緻密な論理展開をここでは一気に飛ばしてしまうけれど)その最後に、ぼくたちの<個体>の「非決定=脱根拠性」を見ている。
ぼくたちの<個体>は、その起原から見てくると、生成子(遺伝子)の再生産の機構として決定されてはいないし、それ自体自己目的化するようにも決定されてはいない。
…<個体>のテレオノミーは非一義的であり、重層的に非決定である。<私は何のために生きるか>という問いへの答えは、<個体>のこのような起原に由来する非決定=脱根拠性、あるいは重層・交錯根拠性のために、やがて人間の<文化>をとおしての選択が、ほとんど際限もないまでに多様であるように開かれている。…
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
この際限もないままの多様性のなかに、<みんなが違う>という方向性が、無限にひらかれてもいると、ぼくはかんがえる。
ところで、見田宗介は、「一人一人が違う」(<みんなが違う>)という言い方は依然として近代主義者的であるとし、「その都度に違う」という方向を指し示している。
見田宗介は「差異化は…個体のアイデンティティをも脱解する」(『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫)と書くにとどめ、議論が面白くなりすぎるからと、これ以上はこのポイントには触れていない。
しかし、別著『宮沢賢治』で、<わたくしといふ現象>としての自我の探求から、つぎのようにかんがえることができる。
<近代的自我>をそれがあたかも確固たる「モノ」のように、凝固した実体としてとらえるのではなく、「わたくしといふ現象」(宮沢賢治)として、つまり「その都度に違う」ように現象するものとして「自我」や「自己」をとらえると、脱解された個体のアイデンティティは<その都度に違う>である。
なお、作家である平野啓一郎が提唱する「分人主義」という見方も、<その都度に違う>という方向性に呼応している。
香港のどこまでもひろがる夜空に光を放つ、月、そして火星と木星と金星。- 満月の夜に、宇宙に語りかけられること。
ここ香港は、5月後半、快晴の夏日がつづいている。
ここ香港は、5月後半、快晴の夏日がつづいている。
すきとおる空には、夕方から、月と木星と金星たちが、光をはなっている。
月は満月となり、明るい光が香港にふりそそいでいる。
古代の人たちが見たら心底驚くであろうiPhoneアプリ「skyguide」を空にかざして、木星と金星であることを確認し、やがて火星も姿を見せるだろうことを知る。
香港の明るいネオンなどにも照らされる香港の夜空にあって、月、火星と木星と金星は、太古からふりそそがれていたであろう光を、今日も届けている。
これほどくっきりと、月と太陽系の惑星たちが響宴する光景に、ぐーっと、ぼくはひきこまれる。
月と火星を見ながら、人類が近い将来それらに到達し植民することを想像すると、とても不思議な気持ちになる。
イーロン・マスクのSpaceXが火星を目指し、そしてジェフ・ベゾスのBlue Originは月の植民を目指す。
ジェフ・ベゾスは、月植民計画で、製造業の拠点を月におく構想を説明している。
そんな未来も、やがて現実化していくことを思うと、とても不思議な気持ちになる。
近い将来、月や火星を見ながら、そこに住む家族のことを思う人たちが出てくるのだ。
それにしても、これから生きてゆくうえでは、「宇宙」は視野にいれておきたい。
「グローバル化」は、その進展の果てに、どこまで行っても「球」である地球を(あらためて)発見したのだけれど、そうであるからこそ、そこに環境と資源の問題にぶつかることになる。
これらの限界問題を超える仕方として、「宇宙」という空間が現れてくる。
イーロン・マスクも、ジェフ・ベゾスも、Googleも、すでにそこを見据えて動いている。
月と火星は、宇宙ビジネスの拠点の最前線である。
もちろん、そのような「功利」的な視野に限らず、やはり、「宇宙」はそれだけで魅力的なものである。
地球と同じように、太陽の周りをまわる惑星たちを感じながら、太陽系の住んでいることを感じさせられる。
香港の夜空にその姿をみせる火星をみながら、ぼくは、人類が火星に到達する日を夢見る。
少し赤みがかった火星が、人類の到達を待っているかのように、地球に視線を向けている。
火星を眺めていたら、ふと、映画『The Martian』(邦題『オデッセイ』)を見たくなり、映像を再生して、その日がまるで来ているかのように、ぼくは疑似体験してみたりする。
そうして、宇宙に視線をなげたとき、その視線が反響してかえってくるこの地球の美しさ、その奇跡に、深く、しずかに心を動かされる。
映画『The Martian』で、マーク(マット・デーモン)が地球にもどってきた「Day 1」に、生命を宿す植物の芽をじぶんの足元にみつけるとき、彼はそこに地球の奇跡をみいだす。
地球という惑星に、奇跡のようにひろがる自然が、火星や宇宙空間を鏡としながら、鮮烈に立ち上がってくる。
はるか未来、人類は、太陽系を超えたところに、地球と同じような惑星を見つけ、到達するかもしれない。
そうだとしても、この地球の存在の奇跡は、そがれることはない。
また、今のところ、観測できる範囲では、宇宙に、この地球に変わる場所はない。
満月の夜には、宇宙、そしてこの「宇宙船地球号」が、ぼくに語りかけてやまない。
「個」であるということの宿命。- 「自我の起原」の探求における「死の起原/性の起原」(真木悠介)。
宇宙物理学者フリーマン・ダイソンは、龍村仁のドキュメンタリー映画『地球交響曲第三番』の収録のインタビューを、生命の「多様性」の話から始め、話は「死」ということにつながっていった(龍村仁『魂の旅 地球交響曲第三番』角川ソフィア文庫)。
宇宙物理学者フリーマン・ダイソンは、龍村仁のドキュメンタリー映画『地球交響曲第三番』の収録のインタビューを、生命の「多様性」の話から始め、話は「死」ということにつながっていった(龍村仁『魂の旅 地球交響曲第三番』角川文庫)。
収録の直前に、フリーマンと龍村の共通の友人であり、この映画に出演予定であった写真家の星野道夫を失ったばかりであった。
そのインタビューのポイントをつかみながら、龍村仁はつぎのように書いている。
三十五億年の昔、この地球に初めての生命が誕生した頃、「死」はまだ生命システムの中に組み込まれていなかった。原初生命体は分裂増殖を繰り返すだけで、必ず死ぬ、と定められていたわけではなかった。誕生したものは必ず死ぬ、という仕組みが生命システムの中にプログラムされたのは、性が誕生した時からだ。…
龍村仁『魂の旅 地球交響曲第三番』角川文庫
ぼくたちの日常意識においては、「生きるものは死すもの」という考え方が「ふつう」である。
しかし、フリーマンが語るように、原初生命体は分裂増殖を繰り返すだけであった。
「自我の起原」を人間という形態をとる以前の地層にまで遡って探求した社会学者の真木悠介は、「死の起原/性の起原」という節を立てて、このことを、つぎのように書いている。
多細胞「個体」という存在の顕著な特質は、必ず死ぬ存在であるということである。単細胞生物は死なない。死ぬこともあるが、われわれのように<不可避の死>というものをもたない。…
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
「必ず死ぬ」ということは、たんに生きているからということだけでなく、多細胞「個体」として生きているからである。
真木悠介は、進化生物学者リチャード・ドーキンスの言う「ボトルネック化」にふれながら、多細胞個体は、「単細胞」の生殖子という「細い糸」をとおして次世代につながってゆくこと、そして、多細胞個体は、「ノアの方舟のようにただ1艘というわけではないが、…生成子(遺伝子)のひとそろえを乗客とする小さな舟たちを発進させて自分は死んでいく」と、書いている。
ドーキンスによれば、多細胞個体は、こうすることで、複雑な適応を進化させることができる。
フリーマンが語るように、原初生命体に「死」はなかったけれど、進化の過程で、多細胞「個体」という仕方で、生命体は複雑な適応をしてゆくことへと、ひらかれていく。
そして、インフルエンザ・ウィルスの「新型」のように、微生物は絶えず遺伝子の組み替えを行なっているのに対し、多細胞「個体」は遺伝子の組み替えを、自由にすることはできない。
この不自由さの代わりに、多細胞「個体」には「性という革命」がある、つまり「性によって命を革(あらた)める」のだと、真木悠介は論をすすめてゆく。
われわれの個体の「自己」のアイデンティティは、生成子の交換を生殖の時だけに限定することをとおして、成立する。…
性という<革命>のかたちをとおして、個体の立場からみれば、死は真に徹底した死となる。性のある者は、同じ遺伝子型の個体を決して残さない。…われわれが性の存在であるということは、完全に死すべき存在であるということだ。生成子の転生=再身体化 reincarnationの永遠の旅は、この個体の徹底した死をとおして貫徹する。そして個体は、くりかえしのない真に一回限りの生として、「個」として確立する。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
誕生したものが必ず死ぬのは「性」が誕生したときだという、フリーマンの語りが、ここで真木悠介の語りとつながってくる。
「性」という革命で、「個体」はいずれ死んでゆく。
しかしそのことを生成子たちの立場からみるのであれば、それぞれの「個体」を<のりもの>としながら、「性という革命」を通じて、永遠の旅をつづけてゆくことになる。
真木悠介は、「死の起原/性の起原」という節を、つぎのように閉じている。
死すべきものであるということは、生きているものであるということの宿命ではない。個であることの宿命である。とりわけ、性的な個であることの宿命である。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
文学作品や映画などにおいて、「死と性」は密接するものとして描かれたりするのに、ぼくたちはときおり出逢う。
それは単なる幻想ではなく、「死すべきものであるということは、性的な個であることの宿命である」ことからくる、人間の生の根源的な一面でもある。
「生きているものの宿命として死がある」という日常意識にとって、この認識は、ぼくたちの目を(ふたたび)見開かせてゆくものである。
その視点から、「個」であること、また「性的な個」であること、という、ぼくたちにとっての「あたりまえ」ことが、「あたりまえではない」ものとして立ち上がってくる。
「個体」という、ぼくたちの存在の仕方。- 「生成子たちの永劫の転生の旅の一期の宿」(真木悠介)。
社会学者の真木悠介が「自我の起原、われわれの<自己>という存在の仕方の起原を、人間という形態をとる以前の地層にまで遡って追求」した書物、『自我の起原』(岩波書店、1993年)は、真木悠介自身が書くように「分類の仕様のない書物」である。
社会学者の真木悠介が「自我の起原、われわれの<自己>という存在の仕方の起原を、人間という形態をとる以前の地層にまで遡って追求」した書物、『自我の起原』(岩波書店、1993年)は、真木悠介自身が書くように「分類の仕様のない書物」である。
この名著が<名著>としてより語られるようになるのは、おそらく、まだ先の時代のことであると思う。
そのくらいに、時間を超えて読み継がれてゆく書物であると、ぼくは思う。
この書物の最初は、これまでのオーソドックスな生物学の知見にふれながら、しかし、ぼくたちがじぶんをみる<見方>を変えてしまう。
「まとめ」にあたる章で、真木悠介はつぎのように書いている。
…われわれの<個体>という存在仕方は、生成子たちの永劫の転生の旅(eternal caravan of reincarnation)の一期の宿として、そして幾十万という生成子たちがそこに来会し集住する共生態として派生してきた。個体は共生系である。われわれの身体はこの共生する生成子たちの再生産によりふさわしい仕方で、幾億年来たゆみなく進化してきた。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
ここで「生成子」とは「遺伝子」(gene)のことである。
真木悠介は「遺伝子」ではなく、その原義に近い「生成子」という言葉を意図的に使っている。
「遺伝子」とはgeneに対して、個体中心主義的なドグマから翻訳された日本語である…。つまり個体の何かの形質を次世代の個体に遺し伝える「ための」メディアという考え方だ。…
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
ぼくたちの「個体」からの視点ではなく、「gene」の側からの視点で見ると、ぼくたちの「個体」は、いわば「のりもの」である。
真木悠介が、カルロス・サンタナのアルバム『キャラバンサライ』の第1曲「転生の永遠のキャラバン」という曲名を採用して、「生成子たちの永劫の転生の旅」(eternal caravan of reincarnation)というように、<個体>の存在仕方を書くとき、個体中心主義的なドグマからはなれ、生成子(gene)という視点からみたときの<世界観>である。
ぼくたちの身体を「一期の宿」としながら、生成子たちは、はるか昔から今へ、「永劫の転生の旅」をつづけてきたのである。
「転生」(reincarnation)ということが、ぼくたちの「個体」や「自己」ではなく、その「生成子」に拠って立つとき、それは生物学的な「真実」として、ぼくたちに開示される。
このことはそれだけでもほんとうに目を見開かせることなのだけれど、ぼくたちはこの「かけがえのない個」に執着しがちだからか、そのような驚きや感動を減じてしまうようなところがあるのかもしれない。
ぼくたちひとりひとりの「個体」という「一期の宿」には、太古からひきつがれてきたものが、生きている。
この視点に立つと、写真家の星野道夫とドキュメンタリー映画監督の龍村仁が、「ぼくたちの中に眠っている五千年、一万年の記憶が蘇るような映画にしたいね」と、映画「地球交響曲 第三番」について語るとき(龍村仁『魂の旅 地球交響曲第三番』角川文庫)、それはある意味において「根拠」のないことではないこととして、立ち上がってくる。
生成子たちの視点から見れば、そこには太古からの叡智が結集されている。
ぼくたちの中に「眠っている」という言い方は「個体」を中心とした見方であり、生成子たちの視点からは、眠っているのではなく、生きているのである。
生成子たちの視点から見える<世界>は、こうして、ぼくたちの「個体」が見る世界を、「あたりまえではないもの」として、一気にひらいていく。
この感覚はぼくにとって、とても不思議なものだ。
でも、ぼくのなかに、太古からの叡智が生きているのだと感じることは、「なにがあっても大丈夫」という感覚を、ぼくに与えてもくれる。
マズロー「欲求の5段階」理論を呼びよせる「力学」。- なぜ、マズローが一般的によく語られ、根拠とされるのか。
心理学者マズローの「欲求の5段階」理論、つまり、「生理的欲求→安全の欲求→所属と愛情の欲求→尊敬の欲求→自己実現の欲求」というように低次の欲求から高次の欲求へと段階づける理論は、いろいろな著書や記事やコメントなどを見ていると、今でもよく引用され、またときに展開される議論や論理の根拠とされたりするのを見つけたりする。
心理学者マズローの「欲求の5段階」理論、つまり、「生理的欲求→安全の欲求→所属と愛情の欲求→尊敬の欲求→自己実現の欲求」というように低次の欲求から高次の欲求へと段階づける理論は、いろいろな著書や記事やコメントなどを見ていると、今でもよく引用され、またときに展開される議論や論理の根拠とされたりするのを見つけたりする。
心理学者の理論のなかで、これだけよく参照される理論と心理学者も、それほど多くないのではないかとも、思う。
マズローの理論は、「なんとなくわかったような気がしてしまう」ものであるけれど、いろいろと批判にさらされてきた理論でもある。
ぼくの立てる問いは、さまざまな批判などにもかかわらず、それでも、なぜマズローの理論(厳密にはマズローの「通俗化」された理論)が一般的によく語られ、「信じ」られ、あるいは根拠とされるのか、ということである。
社会学者の見田宗介は、『価値意識の理論』(弘文堂、1966年)において、人間の行為を規定するような「価値判断の<底>にあるもの」として、「欲求性向の構造と起源」を探求している。
心理学や隣接科学の歴史から、ただ一つの「基本的欲求」からすべてを説明しようとするものと、ときには40ないし100もの項目からなる欲求リストを提示するものを見ながら、これらのアプローチから一歩すすんでいく試みとして、マズローなどの欲求の分類が出てきたことを、見田宗介はまず振り返る。
そのうえで、マズローなどの発想の共通点として、欲求を「生理的ないし生得的な欲求」と「文化的ないし習得的な欲求」とに二分する考え方であるとして、位置づけている。
このように、「生理的欲求と文化的欲求」というように二分する考え方には、つぎのような二つの基本的な仮説(前提)をもつと、見田宗介は書いている。
(1)生理的欲求は、歴史的(系統発生的)にも発達史的(個体発生的)にも、原初的ないし第一次的な欲求であり、文化的欲求は派生的ないし第二次的な欲求である。
(2)生理的欲求はまた、その動因としてのつよさ、切実性あるいは優先性の点においても、基本的ないし第一次的な欲求であり、文化的欲求は派生的ないし第二次的な欲求である。
このような考え方は、「衣食足って礼節を知る」あるいは、「花よりダンゴ」という俗説に支持されており、…マスロウの仮説も同様である。
見田宗介『価値意識の理論』弘文堂、1966年
このように「欲求論における二分法」という考え方を括りだしながら、この二分法がつぎのように大別して三つの点から多くの批判にさらされていることを、整理している。
(1)「基本的仮説」の第二にたいする反証…すなわち、いわゆる「二次的」欲求の方がかあえって強力かつ切実な動因となるばあいも多いということ。
(2)人間においてはいわゆる「生理的欲求」でさえ、社会的・文化的要因によって深く浸透されており、この意味で純粋に「生理的」欲求を区分してとりだすことが、ほとんど不可能であるということ。
(3)そして最後に、このような二分法図式自体が、方法論的に「役に立たない」あるいは「無意味だ」とする主張である。
見田宗介『価値意識の理論』弘文堂、1966年
さまざまな研究と参照文献を縦横無尽に分析しながら、見田宗介は、欲求における二分法的な考え方(生理的要因と文化的要因)は、上述のような難点にもかかわらず、「欲求性向の構造と起源」ということの探求において、また「構造論的・発生論的な諸仮説の源泉」として、一定の役割を果たす、というところにとどめている。
これは社会学者である見田宗介の整理であるけれども、論理的に見ていくと、マズローの理論はやはりそのままでは根拠となるものではなく、ひとつの参照としての位置づけであるように思われる。
そこで、最初に挙げた問いが、ふたたびやってくる。
さまざまな批判などにもかかわらず、それでも、なぜマズローの理論(厳密にはマズローの「通俗化」された理論)が一般的によく語られ、「信じ」られ、あるいは根拠とされるのか。
考えられることとしては、第1に、欲求の二分法的な考え方が前提とする仮説が、俗説として、受け入れられやすいということがある。
見田宗介が挙げたように、「衣食足って礼節を知る」あるいは「花よりダンゴ」という俗説、そしてそれらの考え方を支える<感覚>が、日々、この世界で生きられているからである。
この意味において、マズローの理論は一般的に「わかりやすい」のである。
それは「理解」としても「わかりやすい」ものであり、また「感覚」としても「わかりやすい」ものである。
それから、第2に、最も高い次元として「自己実現」が掲げられていることである。
「自己実現」ということが言われるようになった/なってきた時代が、そこに合致しそうな論理と理論を呼び寄せたようなところがあると、ぼくは思う。
心理学者の河合隼雄はかつて、「自己実現」ということが一般化されるなかで、負の側面や誤解が生まれてきていた状況を指摘していたが、「自己実現」ということの一般化された見方が、マズローの一見すると「わかりやすい」理論と合わさるような仕方で、一般に受け入れられるようなところがあるのではないかと、ぼくは推測する。
そのような時代の背景には、「個人主義」が行き着いた社会と人のあり様が重なっている。
第3に、第1と第2の理由をベースとして、書く側・語る側としても「使いやすい」理論であろうことである。
「使いやすい」ということは、「わかりやすい」ということと共に、「受け取られやすい」ということでもある。
このような社会と人の「力学」のうちに、マズローの「欲求の5段階」理論(「自己実現理論」)が呼び寄せられてきたように、ぼくには見える。
とはいえ、すべてが否定されるべきものではないし、思考のプロセスのうえで視点を与えてくれるものでもある。
そしてなによりも、上で見てきたように、多くの人たちが「呼び寄せたくなる」理論という側面に、人と社会を逆照射する視点があぶりだされる。
このような「力学」のうちに、ぼくたちが生きている世界を<視る>ことができる。
「大きな流れの中における個人主義」(河合隼雄)。- 河合隼雄が真剣に考えようとしていたこと。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が、晩年に真剣に考えようとしていたこと。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が、晩年に真剣に考えようとしていたこと。
「大きな流れの中における個人主義」。
この言葉は、小説家の小川洋子との対話のなかで、ふれられている。
「個」ということ、「個」への執着という話の流れにのって、言葉が生成している。
小川 あまりにも「個」に執着してると、何か行き詰まってしまうんですね。
河合 そう。「個」というものは、実は無限な広がりを持ってるのに、人間は自分の知ってる範囲内で個に執着するからね。私はこういう人間やからこうだとか、あれが欲しいとか。「個」というのは、本当はそんな単純なものじゃないのに、そんなところを基にして、限定された中で合理的に考えるからろくなことがないです。前提が間違っているんですから(笑)。
河合隼雄・小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫
「個」ということ、「個」への執着にふれながら、小川洋子が「大きな流れ」の視点を導入し、河合隼雄はそれに応答している。
小川 何か大きな流れの中の一部として、自分を捉えるような見方が足りないんですね。
河合 「個」を大きな流れの中で考える、そういうふうに「個」を見るいうことはものすごく大事なんじゃないですかね。…僕はだから、これからそういうことを真剣に考えようと思っているんです。大きな流れの中における個人主義。現代の日本人が考えている個人主義というのは、ものすごく小さいんですよ。ムチャクチャに小さい。
河合隼雄・小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫
「大きな流れの中における個人主義」。
それだけを見ると特記するような言葉ではないけれども、とても深いものが含まれている。
第1に、「大きな流れ」を、ぼくたち個人の「生きるという物語」にふたたび(でもこれまでとは異なる仕方で)取り戻そうとしていること。
河合隼雄はここで明示的に「大きな流れ」を説明していない。
しかし、カウンセリングにくる人が、河合隼雄との対話のなかで「その人の力で物語を作っていこう」とすることにふれており、外部的なお仕着せの物語ではないことを示唆している。
20世紀の歴史をふりかえっても、「大きな物語」がたくさんの不幸をつくりだしてきたことを河合隼雄は深いところで認識していると、ぼくは思う。
その意味でも、じぶんの人生の道ゆきで、じぶんで感じとり、選びとり、つくりだしてゆくような「大きな流れ」だと思われる。
このことは簡単ではないし、楽でもないことは河合隼雄は承知で、みんなが「自分で仕事せないかん」(つまり、じぶんで物語をつくらなければいけない)と語っている。
そして第2に、「個人主義」を手放すことなく、しかし、河合隼雄が語るように、「個」というものを捉え返すことを意図している。
個人「主義」という言い方はともあれ、また負の側面の存在もいったん横におくと、人類の歴史が「個人」を発見し、その方向にすすみ、それを獲得してきたことは、やはりとても大きなことであった。
ほんとうの「個人主義」への動きは、この世界で、現在進行形で、進行中である。
いまだ、さまざまな「偏見」のなかに、個人がおかれている。
そのようななかで、個人主義を手放すことなく、「個」を軸に考えられていることは、やはり大切なことだと、ぼくは思う。
しかし、「個」を軸にしながらも、「個」を探求し、捉え返し、前提を変えていかなければならない。
「大きな流れの中における個人主義」。
ぼくも、そこの方向に共鳴する仕方で、いろいろと考え、いろいろと書いているようなところがある。
ぼくのブログ「世界で生ききる知恵」の「世界で生ききる」ということのコンセプトは、晩年の河合隼雄が真剣に考えようとしていたことに重なっている。
だから、この簡潔に語られる言葉にぼくは惹かれている。
文系と理系の境界を自由に越境して。- 真木悠介の<分類の仕様のない書物>に導かれて。
「分析理性」のもとに、そして社会の要請のもとに、専門性を細分化しつづけてきた科学がもたらした「光」はとても大きいものでありながら、極度に細分化された科学がもたらした「闇」も大きい。
「分析理性」のもとに、そして社会の要請のもとに、専門性を細分化しつづけてきた科学がもたらした「光」はとても大きいものでありながら、極度に細分化された科学がもたらした「闇」も大きい。
文系/理系という「境界線」も、学校教育制度のなかで学ぶものたちにとっては「あたりまえ」のこととして、受け入れ、選択し、文系/理系という「枠」に合わせてじぶんを成形し、そこに「将来」の道をつくりながらすすんでいく。
社会のさまざまな状況のなかで、今でも、「文系/理系」ということが議論の前線にもちだされる。
そのような「議論の前線」にふみこむことはしないけれど、文系/理系の境界線を超える経験のひとつを書きたい。
「文系」の大学に入って外国語(中国語)を学びながら、実践としてぼくは「旅」を方法としていた。
旅の豊饒さにひらかれると同時に、ぼくの「好奇心」もひらかれ、ぼくは社会学者である「見田宗介=真木悠介」の著作に出会うことになる。
大学生活における折り返し地点を折り返してからのことである。
見田宗介=真木悠介の著作を一冊一冊読んでいくなかで、なかなか手が出せない一冊があった。
『自我の起原』(岩波書店、1993年)である。
なかなか手が出せない理由のひとつに、その副題「愛とエゴイズムの動物社会学」に付された「動物社会学」という言葉があった。
その言葉は、動物「社会学」というよりも、「動物」社会学のように聞こえ、生物学の領域の「境界線」がぼくの前に引かれたのだ。
生物学という理系の響きに、ぼくは躊躇してしまったのである。
紀伊国屋書店の新宿店で、ぼくは本を手にとって、目次や構成などを目にすると、やはり生物学の記載が見られ、なおさら躊躇してしまうことになる。
それでも、ぼくを突き動かしたのは、著者が見田宗介=真木悠介という人であったことであり、そしてまた、副題の「愛とエゴイズム」であった。
小さい頃から、ぼくの思考の中を旋回し続けてきた「愛とエゴイズム」という問題を、ぼくはやはり追求してみたくなったのだ。
見田宗介は、社会学の特徴として「越境する知」であること(つまり領域横断的であること)を別のところで書いているけれど、それは「越境」が目的なのではなく、問題を追求してゆくうえで、やむにやまれず、専門領域を<越境>せざるを得ないということである。
「愛とエゴイズム」という問題を追求してゆくうえで、真木悠介=見田宗介は「生物社会学」などの知見も取り入れていかざるを得なかった。
…生物社会学的な水準の自我の探求は、この重層する自我の規定の、1つの基底的な位相を明確にしておこうとするものにすぎない。
けれども<自我>という現象のさまざまな契機ー個体であること.「主体」であること.自己意識.「かけがえのなさ」の感覚.等々ーの原初の起原を、生命の形態展開 evolutionの系譜の内に明確に同定しておくことは、現在に至るわれわれの「自己」という現象の本質と存立の機制を明晰に掌握する上で、不可欠の理論的予備作業である。
真木悠介「補論1<自我の比較社会学>ノート」『自我の起原』岩波書店、1993年
こうして、真木悠介自身も書いているとおり、著書『自我の起原』は<分類の仕様のない書物>として、世に放たれることになった。
この書物では、カルロス・サンタナも、進化生物学者リチャード・ドーキンスも、宮沢賢治も、<自我の起原>を探求する旅程に、ぼくたちの前に現れることになる。
「愛とエゴイズム」という問題の探求の内に、文系/理系という「境界」はもとより、さまざまな「境界」となる「分類」も、消失しながら、この名著はつくられたのだ。
この書物と学びの経験は、当時のぼくにとっても、そして今のぼくにとっても、圧倒的なものである。
文系/理系ということの内にじぶんなりに引いてしまっていた「/」という境界線を、じぶんの意識としては乗り越えたときでもあった。
専門領域を尊重しないわけではない。
けれども、この書物で真木悠介の言葉や理論や論理に導かれるようにして、「自我」や「愛とエゴイズム」などにかんする思考の旅をしながら、ぼくは、圧倒的な「自由さ」を感じることになった。
なぜなら、この書物を読んだ世紀の変わり目の頃も、そして今世紀も、ぼくたちの前には、専門領域を超えるようにしてしか(おそらく)探求できない問題・課題がいっぱいだからである。
登山家の栗城史多の語る「旅」。- 「うまくいかないことって、実は意外と楽しい」(栗城史多)。
「旅」について、ほんとうに残念ながらエベレストで帰らぬ人となった登山家の栗城史多が、その著書で書いている。
「旅」について、ほんとうに残念ながらエベレストで帰らぬ人となった登山家の栗城史多が、その著書で書いている。
著書『弱者の勇気』(学研、2014年)のなかで、テーマ別の短いエッセイを集めた章で、「旅」にかんする文章を綴っている。
「無駄」というテーマのもとで、「旅」にふれる。
「無駄」という、一見するとマイナスな言葉のなかに、<光り輝くもの>を見つける視点である。
…でも旅の面白さって、実は無駄な部分にあったりするんじゃないだろうか。
例えば、列車が途中で止まってしまい、蒸し風呂のように暑い車内で一日過ごしたり、目的地までの道が崩れて迂回するはめになり、悪路を歩かされて大変な目にあったり。炎天下の中、自転車で移動したら迷子になった、とか。
…
のちに旅を振り返ってみたときに思い出されるのは、意外とこうした無駄な経験だったりするのだ。
栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年
栗城史多は「無駄」な部分として語っているけれど、ここで語られる経験はまた、「途方に暮れる」経験であったり、「大変な」経験であったりする。
このような「無駄な経験」がのちに振り返って思い出されるのは、その経験の深さに印象づけられるためであったり、<じぶん>の枠を超えてゆくようなものでああるからであり、そしてまた、その経験のうちに、ほんとうは心が奪われているからでもあったりする。
列車が途中で止まってしまったり、道が崩れていたり、悪路であったり、迷子になったりするところから、ほんとうの「旅」がはじまる。
「入っては駄目」と言われていた扉をあけたら素晴らしい世界がひろがっていたという童話などと同じく、「無駄」という標識の扉も、じっさいにあけてみて、中に入ってみたら、想像以上の世界がひろがっていたりする。
だから、栗城史多は、「無駄」というテーマの短いエッセイで、「うまくいかないことって、実は意外と楽しい」と、文章の最後に書いている。
山も同じで、写真で見るよりも自分の足で立って見る景色のほうが感動するし心に残る。目に見える世界を簡単に見ようとするのではなく、自分の心に刻みこめる世界。そういうものを僕は感じたい。
栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年
山登りということも、「山の頂上に登る」という結果だけからかんがえれば、それは「無駄」なことである。
人類は、山を登ることの代わりに、飛行機などを発明し、あっというまに効率的に、またリスク少なく、苦しむこともなく、山の頂上の高さまで飛翔できる。
そしてそこから、高性能なカメラを通じて、美しい景色をきりとることができる。
そのことに比べ、危険を冒し、一歩一歩、山を登ってゆくことは「無駄」なことである。
しかし、そのなかに、「生きる」ということの歓びの本質があったりするのだ。
ぼくも、ニュージーランドに住んでいたとき、徒歩縦断の試みや山登りなど、効率性の観点からは、いわゆる「無駄」と呼ばれる時間を生きていた。
アジアの旅だって、バスを乗り継いだり、陸で国境を越えたり、「無駄」な時間の積み重ねであった。
けれども、そのような経験たちが、ぼくの存在の地層を確かにつくってきたのだし、そして、栗城史多が書いているように、のちに旅を振り返ったときに思い出すことの多くは、やはりそのような思い出だったりする。
効率性を追求してきた近代社会の果てに、ぼくたちは「無駄」を見直す時代にはいっている。
もちろん効率性の追求は新たなテクノロジーの出現によってさらにすすんでいるのだけれど、それはすでに「次元」をいくつも上げながら、すすんでいる。
それらのような効率性の追求は、決して否定されるものでもない。
ただ、ぼくたちそれぞれの生きるという経験のぜんたいにおいては、「効率ー無駄」という区分を超えるようなところにも、その経験の深さと豊饒さがひろがっている。
次なる時代は、この経験の深さと豊饒さが解き放たれていく仕方で、ひらかれていくと、ぼくは思っている。
登山家の栗城史多が目指した世界。- 「あ、あなたも出る杭ですか」(栗城史多)と、「出る杭」の祝福される社会に向けて登る山。
登山家の栗城史多が、エベレストでの下山途中に、帰らぬ人となった。
登山家の栗城史多が、エベレストでの下山途中に、帰らぬ人となった。
「目を疑う」とはこういうことかと思い知らされるほど、ニュースの見出しを見ながら、ぼくはじぶんの目を疑った。
一部だけの報道であったのが、時間が経過していくなかで、ここ香港の各メディアやBBCなどのニュースでも報じられるようになっていく。
そして、その事実をうけいれながら、ぼくの心のどこかに、やはり穴があいてしまったように感じることになる。
このニュースを知る前日の夜のこと、ぼくは、なぜか、写真家であった星野道夫について、本を読みたくなる。
ドキュメンタリー映画『地球交響曲』の龍村仁が、その「第三番」の制作を終えたあとに書いた著作『魂の旅 地球交響曲第三番』(角川文庫)で、このドキュメンタリーに登場するはずであった「星野道夫」のことを書いている。
「登場するはずであった」というのは、「地球交響曲第三番」の撮影開始を10日後に控えた1996年8月8日の深夜、龍村仁はこの撮影でもっとも重要な出演者となるはずであった星野道夫の「死の報せ」を友人から受けたのだ。
星野道夫は、ロシアのテレビ番組の取材中に、熊に襲われて亡くなった。
深夜に、野外テントで就寝中に熊に襲われたという。
取材チームが山小屋で過ごしたのとは異なり、星野道夫は、野外テントを自ら選んでいた。
そして龍村仁は、星野道夫にインタビューしたときに、星野道夫が語っていたことを思い出すことになる。
「どこか近くに熊がいて、いつか自分が殺られるかも知れない、と感じながら行動している時の、あの、全身の神経が張りつめ、敏感になり切っている感覚がボクは好きです。あるインディアンの友人が言っていたんだけど、人類が生き延びてゆくために最も大切なのは“畏れ”だって。ボクもそう思います。我々人類が自然の営みに対する“畏れ”を失った時滅びてゆくんだと思うんです。今ボクたちは、その最後の期末試験を受けているような気がするんです」
龍村仁『魂の旅 地球交響曲第三番』(角川文庫)
星野道夫の「死」についてはぼくはあまり読んだことがなかったのだけれど、龍村仁の眼と心を通して、ぼくは星野道夫の「死」を思い、感じ、かんがえていた。
それから一晩明けた翌日に、ぼくは栗城史多の「死」を知り、ぼくの心のなかで、栗城史多の「死」が、なぜか、写真家の星野道夫の「死」と重なったのだ。
ぼくの心のなかで、星野道夫の「死」がその居場所を見つけられていないままに、栗城史多の「死」がぼくの心のなかにはいってくる。
星野道夫にとっての「熊」が、栗城史多にとっての「山」であるように、人と自然との関係性のあり様が、ぼくのなかで二人の死を重ねたのかもしれない。
ところで、栗城は、著書『弱者の勇気』のなかで、「下山」の難しさを次のように書いている。
登りのときはモチベーションも高く、体と心のスイッチも入るが、下山となるとそのスイッチがオフになってしまう。下山時にどれだけスイッチをオンの状態に保てるか。下山こそ、本当の強さを求められるのだ。
栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年
この「下山」の難しさのなかで、栗城史多は山の懐に抱かれることになる。
各メディアニュースの見出しにも記されているように、栗城史多は以前、凍傷で最終的に9本の指を失っている。
その経緯と学びと気づきは、著書『弱者の勇気』のなかに詳細に書かれている。
「大きな事故のあとに、いい山登りができるようになる。その経験を糧にして、自分をコントロールできるようにならないと」という先輩の言葉を導きの糸にして、これまでの山登りとじぶんを見つめ直すなかで、栗城史多は、自分をコントロールする力を完全に失っていたじぶん、弱いじぶんを否定して強くなろうとしていたじぶんを見つける。
栗城は、これらの経験と学びと気づきを軸に、それまでに背負ってきた「とてつもなく重たい荷物」を少しずつ降ろし始める。
「楽しくなかったら下山しろ」という別の先輩の言葉を思い出しながら。
2012年、秋季エベレストで凍傷となって帰国した栗城は、東京の病院に入院しながら、札幌の父親になかなか電話できずにいたという。
凍傷で指を失う可能性があることなど、心配させたくないからであったと、栗城史多は書いている。
ようやく退院する直前に電話をかけることができ、怒られると思っていた栗城は、まったく違う状況に遭遇する。
…電話に出た父は、大きな声で開口一番こう言ったのだ。
「おめでとう」
その明るい声に僕は戸惑い、聞き返す。
「何がおめでとうなの?」
「生きて帰ってきたことに、おめでとう。そしてもう一つ、お前はその苦しみを背負ってまた、山に向かうことができる。それは、素晴らしいことなんだよ」
栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年
この瞬間に、栗城は、苦しくても、山へ復帰することを選んだのだ。
栗城史多の挑戦は「無謀」であったのだと、ある人はいう。
栗城史多の生涯は「挫折」であったのだと、ある人はいうかもしれない。
挑戦し続けた「秋季エベレスト無酸素・単独登山」を達成すれば、それでよかったのだろうか。
栗城史多は次のように書いている。
僕が常に目指しているのは、山の頂ではなく、多くの人が夢を共有できる世界。…夢を「叶う・叶わない」で判断し、叶わない夢なら持たないほうがよいと考える人もいるけれど、僕はそうは思わない。
夢は、その人が生きていくための源だと思っている。…
人が人らしく生きるために大切なものなのだ。
僕は、「冒険の共有」というテーマに、10年、20年先の未来を見据えた可能性を感じていた。
栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年
そんな栗城史多だからこそ、指を失ったときに「一番怖かったこと」は、「夢を失うこと」であった。
しかし、彼は、彼にとってとても大きな存在であり続けてきた父親の言葉にも生かされるようにして、夢を失うことなく、挑戦と冒険の共有をし続けてきたのだ。
そして、著書『弱者の勇気』は「見えない山を登る全ての人達」に向けられて、「あとがき」には「最終的に目指している山」の輪郭が書かれている。
…
僕はその出る杭を増やしたい。一人ひとりが様々な形をした出る杭になり、「あ、あなたも出る杭ですか」と街や会社で認め合える社会ができたら良いなと思っています。
今こうして山を登りながら、最終的に目指している山は、そこなのかもしれません。…
皆さん、ぜひ「出る杭」になってやりましょう!
栗城史多『弱者の勇気』学研、2014年
批判や反対や否定などに晒されながら、しかし栗城史多は「出る杭」を生き、そして山の頂を超えた世界を描いていた。
そして、そんな世界に向けて、栗城史多は、最後まで、歩き尽くしたのだ。
栗城史多の直近のブログ、そして著書『弱者の勇気』をふたたび読んでいると、ぼくは、星野道夫が’亡くなったときに龍村仁が感じた「体感」が、少しは、わかるような気がしてくる。
星野道夫の死の報せを受け、深夜の新宿御苑にうねる森を見ながら、龍村仁は、からだの奥底から渾々と湧き続ける「星野道夫は生きている」という体感を得る。
「栗城史多は生きている」という感覚をぼくはどこかで感じながら、今はただ、感謝を伝えたいと、ぼくは思う。
「人間の力」を取り出すこと。- 野口晴哉の提示する「心の働かせ方」。
野口晴哉(1911-1976)の著書『潜在意識教育』(全生社、1966年)は、かぎりない知恵が詰まった本である。
野口晴哉(1911-1976)の著書『潜在意識教育』(全生社、1966年)は、かぎりない知恵が詰まった本である。
「精神集中法」ということの文脈で、「人間の力」を取り出していくことについて、整体を通じてからだを知り尽くす野口晴哉がふれているところがある。
数学や理科が苦手な人たちの能力(推理判断の力)を引き出していくという話の中で、次のように野口晴哉は語る。
人間の力というものは、取り出そうと思えば、どういう方向からでも取り出せるものである。ただそれを意識から取り出して一生懸命勉強するとか、眠いのを我慢して、水をかぶって勉強するとかいうことをやったのでは取り出せない。
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
ここで、野口晴哉は「子どもたちの勉強」に、教師がどのようにかかわっていくのかを語っているけれど、その冒頭は次のようにはじまっている。
今の教師のように宿題をたくさん出さないと不安だということは、それだけ自分のやっていることに自信がないのだといえる。…
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
この観察の切り口は、ふつう、思いもよらない(少なくとも、ぼくは、はっとさせられた)。
「宿題の多さ」が、不安に起しているとしたら、また、その不安が教えることの自信のなさからきているとしたら、宿題は誰にとっての何のためだろうということになる。
野口晴哉は、そこに、次のような方向性を提示している。
…絶え間なく勉強させて、更に勉強しようとする意欲を喚び起こそうとしたってそれは無理で、緊張を破る時間があって初めてその緊張は続く。どこで緊張を打ち切り、どういうように興味を持たせるかという興味の誘導法、どのように理想をうちたて、それに向かって希望を持たせるかという希望の持続法、それを先生方は研究すべきである。そういう道を開拓しないで努力だけさせようとすることは、心を殺しておいて勉強することを強いることで、ちょうど、エンジンに砂が入っているまま自動車を走らせようとするようなものである。
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
「興味の誘導法」と「希望の持続法」。
これら、「興味」と「希望」は、子どもたちにとって、また子どもたちだけにかぎらず大人たちにとっても、ほんとうに大切なものだと、ぼくは思う。
「宿題」という、方法によっては心を殺してしまう勉強の仕方から、「興味」と「希望」という地平へと、野口晴哉は一気に視界をひらく。
さらに、本のなかでは、時計の音を聞く訓練や呼吸法など、具体的な方法と根拠も提示している。
このように書きながら、20世紀の近代化の進展においては、大量生産や効率性といった社会の主旋律のなかで、心や興味や希望などはまったく脇に追いやられてきたものでもあることを、ぼくはかんがえる。
そう知りながらも、子どもたちに接する現場の人たちの一部が、野口晴哉のように、やむにやまれず、声を発し、実践をひろげてきたのだろう。
そして、時代は、経済のグローバリゼーションのなかに、近代化の完成形をみるところまできて、はじめて、心や興味や希望などがスポットライトを浴びるようになる。
見方を変えれば、時代が、野口晴哉などの言葉や実戦に追いついてきたのだともいえる。
社会も世間も経済も、気ままに変わっていくなかで、ぼくたちはじぶんの中に、<信頼するじぶん>をもっておくこと。
野口晴哉は、そのために、今でも、ぼくたちに(少なくともぼくに)語りかけてくれる。
「興味」と「希望」は、ぼくたちの「人間の力」を取り出すための、扉のパスワードである。
「25秒早く出発した日本の電車」のニュースを、日本の外から見て。- 「時間の比較社会学」(真木悠介)の視点と共に。
先日BBCのアプリでニュースを読んでいたら、「Japanese train departs 25 second early - again」(BBC News)という見出しの記事に出くわした。
先日BBCのアプリでニュースを読んでいたら、「Japanese train departs 25 second early - again」(BBC News)という見出しの記事に出くわした。
日本の鉄道会社が、電車が25秒早く駅を出発したこと(数ヶ月の内に同様のケースとして2件目)について謝罪したというニュースだ。
記事に書かれているとおり、電車が(極度に)時間通りに運行されることにおいて、日本の列車は高い評価を得ている。
しかし、25秒というように秒刻みで動く社会の「ニュース性」ということが、日本という社会の特異性を示してもいる。
日本に住んでいると、そのような電車があたかも「あたりまえ」のように生活する一方で、ひとたび、日本の外に出ると、そのことが「あたりまえではないこと」として、見えてくる。
アジアのいろいろなところを旅し、ぼくはこれら双方の視点で、「時間」をかんがえてきた。
社会学者の真木悠介(=見田宗介)は、1970年代にメキシコに住んでいた折に、日本で電車が1時間ほどおくれたことから暴動がおきたことを報じるメキシコの新聞を見て、次のように書いている。
…それは必ずしも先天的な「民族性」云々の問題ではなく、「みんな生活がかかっている」のだ。精緻なシステムの破綻するときに一挙に裂け目を噴出するそのエネルギーは、分刻みに追われる時間に生活がかけられている社会構造が、平常はみえないところに抑制し、たくわえられているいらだちの情動のようなもののすごさを思い知らされる。「1日に2度とおる」というバスを朝から待つようなくらしの中で、“緊急用件”の無限連鎖のシステムとしての<近代>のうわさがとおい狂気のように伝わってくる。
真木悠介『旅のノートから』岩波書店
日本における「時間どおり」はとてもすごいものだと思う一方で、さすがに、「25秒」に「みんなの生活がかかっている」システムと生活は行き過ぎだと、日本の外にいながら、ぼくは見つめる。
海外に駐在する駐在員の人たちが「ぶつかる」問題に、出勤などにおける「時間」の問題があるけれど、その問題の詳細はさておき、「時間感覚」の違いが、このようなニュースにも見てとれるように思う。
真木悠介は、日本とメキシコの「間」に置かれながら、時間はたんに費用(コスト)にすぎない<近代>の世界と、メキシコなどのいなかの市場で売り手と買い手のはてしないかけひきに1日を暮らす人たちの世界をかんがえている。
…インディオたちにとって、時間はどんな時間でもそれ自体人生であるようにみえる。バスを待つ時間は近代人にとって、最小限にきりつめられるべき無意味な余白か、本をよむこと(doing!)などに有効に活用されるべき資源だ。インディオたちはどんな時間も等価に充実していることを知っているから、待つときは待つことのうちに現実に存在してしまう。彼らが関心をもっているのは時間を活用することではなく、時間を生きることだ。
真木悠介『旅のノートから』岩波書店
どちらがよい・悪いということではなく、ぼくたちが「あたりまえ」としている日常を、「あたりまえではないこと」として照射する視点を投じている。
真木悠介はこの問題意識を熟成させながら、後年、名著『時間の比較社会学』を書いている。
近代がもたらした「光の巨大」を豊饒に享受しながら、近代の「闇の巨大」を乗り越えてゆくところに生き方をひらいていくうえで、とても大きな課題が提示されてもいる。
「時間」ということを通じて、現在と未来に目を向けることは、ぼくたちの「生きる」という経験の芯へと、ぼくたちを導いていく。
香港で、「啓徳空港」の跡地(クルーズ・ターミナル)に「歴史」を見る。- 想像力が飛び立っていくところ。
香港の暑い日に、以前の「香港国際空港」であった「啓徳(カイタック)空港」の跡地を訪れる。
香港の暑い日に、以前の「香港国際空港」であった「啓徳(カイタック)空港」の跡地を訪れる。
啓徳空港は、20世紀の香港の歴史をかけぬけてきた空港でもある。
1998年に閉港され、跡地は、現在では「啓徳クルーズ・ターミナル」となっている。
ぼくが初めて香港を旅したのは、1995年の夏のことであった。
成田空港からユナイテッド航空にのって、当時はイギリス領であった香港の地に、ぼくは降り立った。
中国への返還の2年前のことで、当時は、まだ啓徳空港が使われていた。
ぼくにとっては、初めての空の旅であったし、初めて降り立った海外の空港であった。
この旅の前年に、ぼくは中国を旅していたけれど、行きも帰りも、いずれもフェリーの旅であった。
そういうことで、啓徳空港は、ぼくにとって思い出深い場所であり、20年以上が経過して、ぼくはその跡地をふみしめることにした。
九龍湾と呼ばれる駅から、ミニバスにのって、10分ほどで、「啓徳クルーズ・ターミナル」に行くことができる。
クルーズ・ターミナルの細長い施設が、跡地に、悠然と建てられている。
ミニバスで跡地の道のりを確かめながら、こんな小さな場所に空港があったことを、ふたたび感じさせられる。
啓徳空港は、滑走路はひとつで、市街地につらなる場所に位置し、着陸がむずかしい場所であったことを、ぼくは啓徳空港に着陸しながら/着陸して、知ることになる。
1995年、ユナイテッド航空の窓から香港の夜のネオンを間近に見ながら、機体が大きく旋回しながら、まるでジェットコースターのように滑走路に降り立っていったのだけれど、着陸と同時に沸き起こった、乗客たちの歓声と拍手に、ぼくは啓徳空港というものを知らされることになったのだ。
今もYouTubeなどの動画で啓徳空港の様子を見ることができるけれど、なかなかスリリングな着陸を、ぼくたちは映像で確認することができる。
タイミング的なものか、静まりかえった「啓徳クルーズ・ターミナル」を歩きながら、かつての啓徳空港のイメージが、ぼくのなかで重なってくる。
かつての啓徳空港の名残は、クルーズ・ターミナルの細長の形態にしか見られないくらいだけれど、何もない跡地にだって、ぼくたちは「歴史」を見ることができる。
日本にいるときには、城跡など、ただ草むらしかないような跡地に、ぼくは古き戦国の世を見ることだってできたのだ。
啓徳空港には20年以上前に「実際に」来たのであり、ぼくはありありとしたイメージの断片を呼び起こしながら、そこに「過去」を見ることができる。
ただし、ぼくの記憶のなかには、啓徳空港の空港内の記憶はかなり薄れている。
滑走路に降り立ったところの次に来る記憶は、空港のバス停で、香港の街に出るバスに乗るときのことだ。
宿も決めておらず、街の名前もまったく知らなかったぼくは、夜10時頃の空港のバス停で、西洋人のバックパッカーたちが乗るバスに乗り込んだのであった。
そんな、夜の空港のバス停が、ぼくの記憶に残っている。
「空港」という場所は、いつだって、ぼくたちにとって特別な場所となりうる。
人が、出発する場所であり、帰ってくる場所である。
あるいは、新しく降り立つ場所であり、次なる場所に向かう中継場所である。
現実の場所としてそうありながら、また、ぼくたちの「物語」や「想像力」が、飛び立っていくところでもある。
啓徳空港の跡地から、ぼくはどこに飛び立っていこうとしているのだろうか。
旅、その「前」「途中」「後」を楽しむ。- そして、「旅の後」に、旅を感じる。
旅は、旅の「前」に、はじまる。
旅は、旅の「前」に、はじまる。
旅は、途上で、例えば<途方に暮れる>経験を軸に、その先におもわぬ宝物の箱をひらいてみせてくれる。
そして、旅は、やがて、おわる。
でも、旅はおわっても、旅の情景は記憶として、また<じぶんの地図>として、じぶんのなかで新たな場所を得ることになる。
小説家の村上春樹が書く極上のエッセイをまとめた本に、『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)がある。
「ウィスキー」を中心テーマに、スコットランドのアイラ島、それからアイルランドと、ウィスキーの聖地巡礼の旅を、村上陽子の素敵な写真とともにエッセイとして綴られた、素敵な本だ。
「あとがき」で、村上春樹は、東京のバーでシングルモルトを飲むとき、そこに、アイラ島の風景がわかちがたく結びついていることを書いている。
アイリッシュ・ウィスキーも、同じように、アイルランドの風景に結びついている。
…どこかでジェイムソンやタラモア・デューを口にするたびに、アイルランドの小さな待ちで入ったいろんなパブのことを思い出す。そこにあった親密な空気と、人々の顔が頭の中によみがえってくる。そして僕の手の中で、ウィスキーは静かに微笑みはじめる。
旅行というのはいいものだなと、そういうときにあらためて思う。人の心の中にしか残らないもの、だからこそ何よりも貴重なものを、旅は僕らに与えてくれる。そのときには気づかなくても、あとでそれと知ることになるものを。もしそうでなかったら、いったい誰が旅行なんかするだろう?
村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
村上春樹は、「人の心の中にしか残らないもの」を与えてくれる旅に、「旅はいいものだな」と感じる。
「いいものだな」とは、効用や効果やメリットということを超えた、生きていること自体の歓びのような感慨である。
そして、「そのときには気づかなくても、あとでそれと知ることになるもの」と、村上春樹は、付け加えている。
旅の途上ではなく、旅の「後」で、ぼくたちは気づくことになる。
だから、旅の「後」を楽しむとは、ただそのときの思い出を楽しむということではなく、気づかなかったことの思い出を、今の時間のなかで楽しむことでもある。
そして、その「後」は、まったく思ってもみないほど「後」に、やってくることがある。
10年や20年という後にやってくることだってある。
今住んでいる、ここ香港の街を歩きながら、1995年に香港に初めて来たときの「あの旅」が、20年以上のときを超えて、ぼくの今の心象風景に、ふと、やってきたりする。
そんなときに、旅はいいものだなと、ぼくは思う。
旅、その「前」「途中」「後」を楽しむ。- 旅の途中で、「途方に暮れる」とき。
旅は、旅の「前」から、その楽しみがはじまる。
旅は、旅の「前」から、その楽しみがはじまる。
目的地を立てながらルートをかんがえたり、あるいは「少し先の楽しみ」に照らされて生きていく(黒川伊保子)ことだってできる。
そんなふうに楽しみにしていた旅は、やがて、はじまる。
楽しみにしていた旅がひらいていく過程に、ときに、ふしぎな感覚をおぼえたりする。
予定・計画していた場所に行き、食べ、見て、体験する。
世界が新鮮に開示してくる。
写真や動画で見ていた世界に身体をさらしてみると、違った世界が、五感を通じて感じられる。
そんなふうにして感じた世界が、じぶんのなかに「地図」として、はいってくる。
旅は一人旅もあれば、二人旅もある。
それなりの人数で行く旅もあるけれど、旅は、やはり、「途方に暮れる」というところから、旅らしくなってくる。
予定や計画が、旅のなかで、立ち行かなくなってしまう。
<じぶんがかんがえていたこと・予測していたこと>が、現実の旅のなかで行き詰まり、その状況において、<じぶんが超えられながら超える>という体験がおきてくる。
創る旅が、「創られながら創る旅」へとひらかれ、じぶんが超えられてゆく。
ぼくが、今住んでいる香港に、旅としてはじめて来た1995年。
宿も何も決めない行き当たりばったりの旅(そんな旅をしてみたかった)。
空港からバスにとびのって街で降りたのはいいけれど、目指していた場所にも着けず、バックパックを背負って深夜の香港の街で途方に暮れる。
そんな「途方に暮れる」ところから、旅ははじまる。
じぶんが乗り越えられていく。
社会学者の真木悠介は、「ほんとうの創造」という体験を、フランスの思想家バタイユにヒントを得ている。
…創造するということは、「超えられながら超えるという精神の運動なんだ」と。つまり、ほんとうの創造ということは、創るということよりまえに、創られながら創ることだと。…ぼくらは、近代的な芸術を批判するものとして、バタイユを読み返すことができると思う。近代的な芸術というのは、個性の表現とか主体の表現ということがあって、…バタイユは、そういうのは、いわば貧しい創造に過ぎないのであって、ほんとうの創造は、自分自身が創られるという体験から出てくるのがほんとうの創造なんだということを、半分、無意識に言っていると思うんです。
真木悠介・鳥山敏子『創られながら創ること』(太郎次郎社)
真木悠介は、このあとのところで、自身のインドの旅の経験、まさに「途方に暮れる」旅の経験を語っている。
芸術にかぎらず、この「創られながら創る」ということは、ほんとうの創造が現出するときのエッセンスであるように、ぼくは思う。
あるいは、生きるということそれ自体が「芸術(アート)」であり、個性の表現とか主体の表現という一方向性の生き方を、「超えられながら」超えるところに、<生きることの芸術>がひらかれていくのだとも、いうことができる。
「超えられながら超える」旅、あるいは「創られながら創る」旅は、その旅の途上において、快適ではない。
「途方に暮れる」とは、どうしてよいかわからなくなる経験であり、道に迷うことだ。
ただし、そのような旅は、その先に、思ってもみなかった宝物をぼくたちに与えてくれる。
だから、じぶんと他者と世界を信じて、旅の途上の一歩一歩を、楽しみながら、歩くだけである。
旅、その「前」「途中」「後」を楽しむ。- まずは、「旅の前」の楽しみから。
旅は、時間の流れから見てみると、旅の「前」「途中」「後」と、それぞれに異なる仕方で、ぼくたちの生を祝福してくれる。
旅は、時間の流れから見てみると、旅の「前」「途中」「後」と、それぞれに異なる仕方で、ぼくたちの生を祝福してくれる。
旅の「途中」だけでなく、旅立つ前からの一連の流れにおいて、旅の楽しみに充ちている。
旅の「前」を楽しむことは、格別である。
でも、それは、人によっても、旅の前の「楽しみ方」は異なってくる。
ぼくがアジアを一人旅していたときなど、目的地とそこに至るルートなどを計画しながら、楽しんだ。
それはとてもワクワクするものであった。
今では、それは男性脳的な「目的・ゴール志向」の楽しみ方であるかもしれないと、思ったりする。
女性脳の持ち主の女性とともにする旅であれば、男性脳の持ち主は黒川伊保子のアドバイスも聞いておきたい。
脳の性差にかんするエッセイストでもあり、人工知能エンジニアでもあった黒川伊保子は、「女性脳のトリセツ」を語るなかで、(旅に限られることではないけれど)「女性脳は、「少し先の楽しみ」に照らされて生きていく」ということに触れている。
感性のひも付けを手操って、関連記憶を臨場感たっぷりに想起する女性脳は、未来への想念においても、それを応用する。だから、少し先の楽しみが、女性脳にはとても嬉しいのである。
「梅雨が明けたら、美味しいビールを飲みに行こう」「今年の冬は、北海道に蟹を食べに行こうか」などと誘われたら、何を着て、何を見て、何を食べて、どうふるまうかを、断片的に想像しては期待感を増す。
黒川伊保子『キレる女 懲りない男ー男と女の脳科学』ちくま新書、2012年
このように、「少し先の楽しみ」をともに楽しんでいくところに、旅の前の楽しみのひとつがある。
「少し先の楽しみ」は、別に大げさなことではなく、「今週末、うちでご飯食べない?」などの女友達の誘いでもよいと、黒川伊保子はこの文章のあとに書いている。
生きるということの「楽しみ方」として、このことはとても大切なことを教えてくれてもいると、ぼくは思う。
ちょっとした予定とちょっと気の利いた言葉だけで、世界は、あかるい色に照らされる。
それにしても、「少し先の楽しみ」に照らされて生きていく、という響きはとてもすてきだ。
ここ香港に住んでいて、電車のなかやカフェや本屋さんで、女性の方々が日本旅行のガイドブックをひらいているのを目にしたりする。
視線はとても真剣であるけれど、他方で「少し先の楽しみ」の世界を楽しんでいらっしゃるのかもしれない。
ぜひ日本を楽しんでほしいと、ぼくは勝手に思ったりする。
1週間の旅であっても、それは1週間だけの旅ではない。
旅は、いつだって、その前からはじまっているし、旅が終わっても、その旅のうちにあって心をうばうような経験は、その後もぼくたちの生を照らしていく。
そんな旅の作法において、旅を楽しんでいくことも、方法のひとつである。
旅することで、「地図」が、からだのなかにはいる。- <じぶんの地図>をつくっていくこと。
情報通信テクノロジーの発達によって、世界中の画像と動画とニュースに、いつでも、どこでも、ぼくたちはアクセスできる。
情報通信テクノロジーの発達によって、世界中の画像と動画とニュースに、いつでも、どこでも、ぼくたちはアクセスできる。
VRや360度動画などを駆使すれば、ほんとうに、その場にいるような錯覚さえ覚える。
そんな時代に生きながら、それでも、この身体で、実際に旅することは、異なる体験である。
この身体は、どれだけ画像と動画を見ていても、実際にその場にいくと、五感をひらきながら、その場を感じる。
その場の空間にひろがるにおいを感じ、空気の流れを肌で感じ、空気の質感を全身で感じ、さまざまな音をきき、そこの<全体感のようなもの>を、身体の全体感のようなもので感じる。
そして、実際に旅することで、「地図」が、ぼくのからだのなかにはいるように、ぼくは思う。
10代の頃、学校の地理の授業で、地図帳を前に、あるいは地球儀を前に、地域や地名をおぼえていた。
でも、これが、なかなかむずかしい。
地域や地名の「位置感」が、頭のなかにしっくりとはいってこない。
そんな経験を、ぼくはおぼえている。
それが、大学に入ってから、例えば、アジアを旅しながら、ニュージーランドに住みながら、また働くようになってアフリカに行くようになってから、「地図」が、ぼくのからだのなかにはいるようになった。
なんの苦労をすることもなく、「地図」が、ぼくのからだの体感としてきざまれていったのだ。
アジアの旅では、中国本土を電車やバスで旅しながら、またタイ・ラオス・ミャンマーという国々の国境をこえながら、さらにベトナムをバスと電車を乗り継ぎながら縦断していって、ぼくは「地図」をからだのなかにとりこんでいく。
今住んでいる香港にいても、そうである。
香港という限られたところでも、実際にその場に行ってみないと、やはりわからないことは多いし、香港の「地図」がからだにはいってこない。
実際にあちらこちらに足をはこんで、この身体をさらしてみることで、香港の「地図」が、ぼくのからだのなかに、ぼくのフィルターと物語を通して、ぼくのなかにはいってくる。
そんな風にして、ぼくのなかに<香港の地図>が、つくられていく。
あるいは、<世界の地図>が、ぼくのなかに、リアリティをもって、つくられていく。
そのような<地図>はリアリティのほんの断片であることも承知しているし、また人によっても感覚の仕方は異なることも承知だけれど、ぼくにとって、それはとても大切なことであるように思うし、生きるということのしあわせな一面であるようにも思う。
そのような<地図>があると、その地域やその場所のニュースをきいたときに、ぼくはじぶんの地図を重ね合わせながら、ある種の現実感(リアリティ)をじぶんのなかで組み立てる。
出来事の一面しか伝えることのないニュースに、そこにひろがりをつくりながら、読み解き、感じる。
じぶんの地図が「正しい」わけではないし、それも一面であるだけだけれど、その感覚が体感としてあるだけで、ぼくのなかに、余裕ともよべる空間ができる。
とくにニュースがなくても、日々生きているなかで、ぼくは思うことになる。
あぁ、あそこの人たちも、この地球のあの場所で、ぼくと同じときを生きているんだ、と。
そう思うだけで、ぼくの心は温かくなったりする。
「“と思い込む”こと」にかんする野口晴哉の考察。- 「固定観念」をほどく。
整体指導や体癖研究などを通じて体を知りつくしていた野口晴哉(1911-1976)は、専門ではない領域の「教育」にふみこみ、「意識以前の心の在り方を方向づける方法」としての教育を、ぼくたちに残してくれている。
整体指導や体癖研究などを通じて体を知りつくしていた野口晴哉(1911-1976)は、専門ではない領域の「教育」にふみこみ、「意識以前の心の在り方を方向づける方法」としての教育を、ぼくたちに残してくれている。
整体協会で行なった講座が、野口晴哉『潜在意識教育』(全生社、1966年)としてまとめられている。
1966年の著書だけれど、その内容は古くなるどころか、今という時代だからこそ、ぼくたちの心と身体に響くものである。
この本のなかに、「“と思い込む”こと」という、固定観念にかんする経験と考察が展開されるところがある。
固定観念というのは、自分ひとりでいつの間にか“と思い込んで”しまうことである。…郵便ポストを幽霊に間違えるようなことも時にはある。大人でもそうなのだから、子供が“と思い込んで”しまうということがあると、子供は意識で判断することが大人よりも弱いだけに、その考えが直接に深く潜在意識に入ってくる。潜在意識に入ってしまうと、その考えに支配される割合が子供は大人よりも大きい。…子供が親から悪いとか不良だとかいうように言われたら、どうなるだろうか。一番信頼している親がそういうように観る。教師がそういうように観る。子供にとっては否が応でも自分は劣等児だと思い込むより他はない。一旦“と思い込む”と、今度は自分でよくなろうと努力しながら、逆に“と思い込んだ”心の映像の方が濃くなってくる。…
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
「郵便ポスト」ではないけれど、小さい頃、夜道を歩いていて、空き地にある鉄塔のようなものが幽霊に思えて、びくびくしていたことがぼくにはある。
そうではないと意識では言うのだけれど、いつ通っても、それが幽霊のように見えてしまう体験だ。
少なくない人たちが似たような体験をもっているだろうし、また大抵の人たちが、多かれ少なかれ、子供の頃に“と思い込んだ”固定観念を、心の映像として色濃く持ったままに「大人」になっていく。
どこかで読んだ(聞いた)話では、小さい頃に「醜い」と親に言われた女の子が、大人になって世界的なスーパーモデルになっても、じぶんのことを「醜い」と思ってしまっていたりする。
野口晴哉は、“と思い込んだ”固定観念は、いつでも意志の力よりも強く、努力しても覆すことがなかなか容易ではないという。
“と思い込んだ”固定観念が、その観念を意志や理性で否定しようとする力よりも強いというのだ。
だから、意志で観念を覆そうとするのではなく、少しズラした仕方で、野口晴哉は子供を解き放ったときのことを書いている(※前掲書)。
あるとき、整体協会に通っている子供のなかに、脳膜炎をやったために普通に扱えない子供がいたという。
野口晴哉は、子供の親に、好きな勉強や家でやることを尋ねると、「他のことはみな駄目だけれども、機械類をいじることが好きで、壊しては組み立てている」と応答が返ってくる。
それに対し、子供のお兄さんは壊したものを組み立てられるかと尋ねると「組み立てられない」、さらに子供のお父さんは組み立てられるかと尋ねると「組み立てられない」という返答が、立て続けに返ってくる。
…そこで本人に向かって、「では、君はどうか」と言うと、「組み立てられる」と言う。「では君はお父さんよりも、兄さんよりも、そういう力はあるんだな」と、私がそれだけ言ったら急に元気になって、それから他の勉強も標準以上になった。親の方は頚を治してもらったから頭が治ったのだと言うがそうではない。その子供が劣等感に埋まっていた中に、一つの光を与えたからである。そういう光を与えるためにこう言ったのだと親に説明したならば、きっと親はそれを子供にもう一回言って聞かせる。そうしたらおそらくはそうはならないだろうと思う。観念というものは、意志で努力すると別の方向に行ってしまう。何気なしにそう認めたことが効いたのである。
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
「では君はお父さんよりも、兄さんよりも、そういう力はあるんだな」という言葉だけであるけれど、その言葉が子供に「一つの光」を与える。
簡単なようでありながら、野口晴哉が見ているように、「何気なしにそう認めたこと」に効力があったものと思われ、そのスタンスは子供の心の機微が見えないと、ぼくたちの内からは自然と出てこない。
子供の「問題」が脳膜炎にあると思い、また治ったのは頚を治してもらったからと見てとる親には、取ることのできないスタンスであるように思われる。
子供の固定観念をほどいていくことが語られているのだけれど、大人の固定観念をほどいていくことが大切になってくる。
野口晴哉の考察と実践は、極めて明晰であり、「生きる」ということに徹底的に寄り添っている。
それが、野口の言う「全生」ということとつながってくるのだけれど、そのことはまた別のブログで書こうと思う。
野口晴哉にとっての「教育」。- 野口晴哉の「潜在意識教育」。
整体指導や体癖研究などを通じて体を知りつくしていた野口晴哉(1911-1976)は、専門外である「教育」について、整体協会で講座として語ってきた。
整体指導や体癖研究などを通じて体を知りつくしていた野口晴哉(1911-1976)は、専門外である「教育」について、整体協会で講座として語ってきた。
その記録が、野口晴哉『潜在意識教育』(全生社、1966年)の書となり、まとめられている。
野口晴哉の名著『治療の書』とは異なる文体で書かれた『潜在意識教育』も、読めば読むほどに、そこにひろがる世界の深さに圧倒されてしまう。
四十数年にわたる指導の経験が、この世界に奥ゆきを与えている。
野口晴哉の語る「教育」とは、「意識以前の心の在り方を方向づける方法」としての教育である。
野口晴哉は、著書『潜在意識教育』の「序」で、このことに触れている。
私は…同じような教育を受けながらみな異なったことを考えたりするのは、教育を受け入れる意識以前の心の方向によるのであり、人間は意識で考えているようには行えず、咄嗟の際に本当のことがヒョッコリ出てしまうのは、意識以前の心によって為されるからであるということを知っている。…
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
教育のことを考えさせるようになった「理由」を、野口晴哉は、「お互いに自分の子供は選べないから」であると書いている。
結婚相手や友人などは選べるけれども、子供とか親とかを選ぶことはできない。
そのように、「選べない宿命の中で楽しく生くる道を見つける方法」として、教育の方法を考えようと、野口晴哉はこの本のもととなった講座で、ことばを届けてきたのだ。
親は子供をよりよく育てるとかで、自分の理想を託したり、自分に都合のよいようなことを上手に押しつけたりしてそれを教育だと言うが、子供の方は教育の必要を感じていないばかりか、植木や盆栽みたいに親の勝手な形に整えられることは迷惑である。それ故中には反感を抱き反対の方向へ走る欲求すら持つようになる。それが実現できなければ、反抗として他のいろいろのことに逆らうことが生じ、時にその実現の衝動に駆られることさえある。…お互いに選べない、選りどれないという宿命のためである。どちらの罪でもない。それ故教育の専門家でない私が教育のことを語るのである。選べない、選りどれないその宿命の中で楽しく生くる道を見つける方法として、意識以前の心の在り方や方向を教育する方法を考えようというのである。
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
このように、野口晴哉は、本書の「序」で、「教育」ということ、教育を語る理由、めざす方向性を明示している。
これだけの文章のなかにも、多くのことを教えられ、かんがえさせられる。
講座の記録としてのこの書は、子供が読むものではないだろうから、「大人」に向けられているものだ。
対象は「親」である者ばかりでなく、「大人」全般であると、ぼくは思う。
子供を持たなくても、大人として子供にかかわることがあるであろうし、なによりも、「意識以前の心の在り方」という、だれにとっても大切なことに向けられているからである。
実際に、野口晴哉も、「親ー子」という書き方より、「大人ー子供」という語り口で書いており、その基礎には「人間」が土台としてきっちりとおかれている。
さらに、どんな「大人」も、「子供」という時期を通過してきたのであり、本書で語られる「子供」に<じぶんの中の子供>を重ねあわせながら、読むことができる。
それは心理学の知見がいろいろな仕方で語るところでもある。
そのように読んでゆくことで、大人としての<じぶん>をきりひらいていくことができるのであり、それが「楽しく生くる道」の方法でもあるところに、野口晴哉の「教育」はあるように、ぼくは思う。
「自己実現」ということについて。- 河合隼雄による「自己実現再考」。
河合隼雄の著書『おはなし おはなし』(朝日文庫、2008年)は、1992年から1年にかけて新聞紙上で連載されたエッセイをとりまとめられたものである。
河合隼雄の著書『おはなし おはなし』(朝日文庫、2008年)は、1992年から1年にかけて新聞紙上で連載されたエッセイをとりまとめられたものである。
心理学者・心理療法家である河合隼雄の書くものは時代を超えるようなものでありながら、新聞紙上ということもあり、時代を反映させた内容もあり、ぼくは当時の日本や世界を思い出しながら、またそこに生きていたじぶんを思いながら、読んだ。
このエッセイのなかに、「自己実現」ということが置かれている。
1990年代初頭に行われた日本臨床心理士会の全国大会の公開公演で、東京大学教授(当時)の村上陽一郎が「本当の私」という話をし、そして河合隼雄自身は「自己実現再考」という話をしたことの、ダイジェスト版である。
臨床家たちが悩みなどの相談を受けているうちに、ただ悩みを解決するだけでなく、「自己実現」ということが大切であると考え始め、「自己実現」という言葉も一般化してきていたなかでの、「自己実現再考」である。
河合隼雄も指摘するように、言葉が一般化することの負の側面として、そこに誤解がつきまとうこと、またそれにまどわされる人も出てくることがあり、「自己実現」もこの言葉の一般化の罠にはまっている。
言葉の一般化には、そのように特定の仕方で解釈したり、言葉が方向づけたりする欲求・欲望をもつ身体たちが存在している。
そのような言葉の一般化の罠をときほぐし、「自己実現」を、もう一度捉え直すことを目的とした講演である。
「自己」を実現する、というと、ともかく「自分のやりたいこと」をできる限りすること、そして、それは幸福感に満ちたものなどと思う人がいる。「自己実現を目標にして努力している」とか、「自己実現を達成した」などと言う人さえ出てくる。しかし、「自己実現」というのはそんななまやさしいことではない。
実現しようとする「自己」とはいったい何なのだろうか。奥底に存在して「実現」を迫ってくるものは、混沌そのものと言っていいほどつかみどころのないものなのだ。…
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
このつかみどころのないものは、じぶんの意識で簡単にはコントロールできるものではないし、この社会で生きていくなかで出世やお金もうけなどの一般の評価に寄り添いすぎると、賞賛は得ても、「自己実現」の道筋からははずれてくるかもしれないと、河合隼雄は書いている。
河合隼雄が素材として挙げているのは、夏目漱石の著作『道草』。
主人公である中年の健三は、大学教授という「本職」をやろうとしつつ、ごたごたにもまきこまれ、「道草」ばかりさせられているように思っているが、この「道草」こそが、高い次元から見ると、自己実現の道となっている。
そのように河合隼雄はこの作品を読んでいる。
明確な目標があってそれに到達するなんてものではなく、生きていることそのままが自己実現の過程であり、その過程にこそ意味があるのだ。従って、よそ目には「道草」に見えるかも知れないが、それが自己実現の過程になっている、と考えられる。…
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
ここで河合隼雄は、大切なことにふれている。
第1に、明確な目標を超えてゆくようなところに「自己実現」があること、第2に、生きていることの過程そのものが「自己実現」の過程であり、そこに意味が凝縮されてあること、さらに第3に、よそ目には「道草」に見えるかもしれないこと、である。
そして、「自己実現の過程になっている」という表現をしている。
自己実現を「する」のではなく、そのような過程に「なっている」というように、言葉を丁寧においている。
生きていることの過程を生きつくしながら、自己実現の過程に「なっている」ということに、自己実現の本質があると、ぼくは思う。
そんなことを思いつつ、きっちりと読んだことがない夏目漱石『道草』を読んでみようと思う。
それにしても、夏目漱石『道草』のなかに「自己実現」のテーマを見出す河合隼雄の慧眼に、ぼくは心を動かされる。
「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」(河合隼雄)。- 「詩人まどみちお」論。
詩人のまどみちお(1909-2014)。まどみちおの名前は知らなくても、「ぞうさん、ぞうさん、おはながながいのね」と聞けば、「あぁ」と、だれもが反応する。
詩人のまどみちお(1909-2014)。
まどみちおの名前は知らなくても、「ぞうさん、ぞうさん、おはながながいのね」と聞けば、「あぁ」と、だれもが反応する。
まどみちおの大ファンである心理学者・心理療法家の河合隼雄が、「魔法のまど」というエッセイのなかで、まどみちおと彼の詩について、おもしろいことを書いている。
…まどさんの名前を知らないままに、まどさんの歌を口ずさんでいる人はたくさんいるだろう。まどさんは、それでいいのです、と言われるに違いない。まどさんにとっては、まどさんのうたっている、ぞうやありやコスモスなどの姿を、皆が見てくれるといいのであって、まどさんは文字どおり、それを見る「窓」になって、見る人の意識から消えてしまっていいと思っておられるだろう。それは、ほんとうに「魔法のまど」なのである。
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
まどさんが「窓」になって、見る人の意識から消える。
「魔法のまど」とは、ユーモア感あふれる河合隼雄を感じさせるけれど、見る人の意識から消える「窓」となる詩とその世界は、とても大切なことを伝えてくれてもいる。
そして、この地点から、河合隼雄の文章はいっきに、ぼくたちを深いところにつれていくことになる。
…井筒俊彦先生が次のようなことを書いておられた。われわれは通常は自と他とか、人間とぞうとか、ともかく区別することを大切にしている。しかし、意識をずうっと深めてゆくと、それらの境界がだんだんと弱くなり融合してゆく。そして、一番底までゆけば「存在」としか呼びようのないような状態になる。そのような「存在」が、通常の世界には、花とか石とか、はっきりしたものとして顕現している。従って、われわれは「花が存在している」と言うが、ほんとうは「存在が花している」と言うべきである、というのである。
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
「存在が花している」という反転は、ぼくたちの意識から見たら逆さだけれど、量子力学/物理学なども教えるように、この世界の粒子と波から見たら、普通である。
河合隼雄は「存在が花している」という表現を大好きだと言っているけれど、そう言ったあとで、河合隼雄は、まどみちおの詩の本質にわけいっていく。
…まどさんの詩を読んでいるとその感じが、ぴたっとわかるときがある。まどさんの詩に出てくる、花や石や、そうやのみなどに会うと、「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」とあいさつしたくなってくるような気がするのである。根っ子でつながっている感じが実感されるのである。
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
思想家でもある井筒俊彦のいう「存在が花している」という哲学的な言葉を、「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」という、滑稽ささえ感じさせる言い回しに展開してゆくところは、「根っ子でつながっている感じ」をほんとうに生きている河合隼雄を感じさせる。
そして、<子ども>たちは、「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」という「根っ子でつながっている感じ」の世界の住人である。
「存在が花している」ということを知らないままに、ただ自然と、例えば花たちに向かって「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」と、話しかけるのである。
それにしても、「私は私である(私が私をやっている)」ではなく、「みんなが<私>をやってくれている」という反転の視点と同じように、河合隼雄のこの反転の視点は、ぼくたちの「わたくしといふ現象」(宮沢賢治)の本質を軸とした反転の視点である。