香港で、「デング熱」に、注意を向ける。- 香港でのデング熱感染状況を受けて。
海外に住むときには、その土地での風土病や感染症などは、その基礎知識と対処法を知っておくことが大切である。
海外に住むときには、その土地での風土病や感染症などは、その基礎知識と対処法を知っておくことが大切である。
特に、日本に住んでいて海外に出ることになったときには、日本では見られない風土病や感染症について知っておくことである。
症状が出たときに(「もしかしたら」の可能性を)知らないままに対処してしまうことを避けたり、あるいは日本に戻ってから発症したときにも対処できるようにしておくためである(日本では特定のクリニックが対処してくれる)。
ここ香港で、デング熱への注意が喚起されている。
香港のライオンロック公園(Lion Rock Park)が、8月17日(金)より30日間、閉鎖されることになった(※South China Morning Postの記事「Lion Rock Park closed for 30 days to wipe out mosquito breeding sites after 11 people get dengue fever in Hong Kong」)。
「デング熱」の感染ケースから、公園での蚊の駆逐が必要と判断されたためである。
判断の背景には、デング熱の感染が確認された11名の内の9名が、ライオンロック公園を訪れていた事情があるという。
「デング熱」については、感染症についてぼくがよく参照にしている、日本の「国立感染症研究所」のサイト(「デング熱とは」)によると、「ネッタイシマカなどの蚊によって媒介されるデングウイルスの感染症である。デングウイルスはフラビウイルス科に属し、4種の血清型が存在する。比較的軽症のデング熱と、重症型のデング出血熱とがある」と書かれている。
デング熱の症状としては、「感染3~7日後、突然の発熱で始まり、頭痛時に眼窩痛・筋肉痛・関節痛を伴うことが多く、食欲不振、腹痛、便秘を伴うこともある。発熱のパターンは二峰性になることが多いようである。発症後、3~4日後より胸部・体幹から始まる発疹が出現し、四肢・顔面へ広がる」とある。
ところで、デング熱のニュースに反応するのは、ぼくが以前、デング熱に感染したことがあるからでもある。
それは、10数年前に東ティモールに住んでいたときに起こった。
始まりは、ある日、突如の高熱(かなりの高熱)としてやってきたのであった。
それまでに、シエラレオネと東ティモールで、マラリアに幾度かやられていたから、そのときも、マラリアだと思い、マラリア治療薬を飲んで、休むことにした。
でも、マラリア薬を飲んでも、一向に、よくならず、関節痛などがひどく、また皮下の発疹が顕著に現れてきた。
後日、それがデング熱であることを知ったが、いわゆる治療という治療方法がないデング熱を、ぼくはこの身体と休養でのりこえるしかなかった。
そして、デング熱は、かかった後に、異なる血清型につぎにかかると重症化することがあり、それからはさらに蚊対策と免疫力の維持には注意をはらってきた。
香港や中国華南でもデング熱は見られるから、ぼくは自分の「情報アンテナ」をはっている。
そして、なによりも、じぶんの身体の状態をととのえ、できるかぎり免疫力を維持するようにしている。
世界の現場で実感した<恐怖からの自由>の大切さ。- ぼくが「自由」を書きつづける理由のひとつ。
人間の個としての「自由」ということを、真木悠介(見田宗介)の明晰な論稿によりながら、別のブログに書いた。
人間の個としての「自由」ということを、真木悠介(見田宗介)の明晰な論稿によりながら、別のブログに書いた。
「テレオノミーの開放系」というコンセプトであり、真木悠介(見田宗介)の言葉で、再度、ふれておきたい。
このコンセプトは、『自我の起原』(岩波書店、1993年)の最終章で提示されているが、真木悠介(見田宗介)は別のところで、その主旨をつぎのようにより簡潔に書いている。
…<テレオノミーの開放系>とは…、人間の<自我>の脱目的性ということである。…生命世界の中で唯一人間の<自我>だけが、最初はこの個体(「自分」)自身を自己=目的化することをとおして、生成子の再生産という鉄の目的性から解放され、しかしそうなると個体は無目的のものとなるから、自己自身の絶対化(エゴイズム)からさえも自由な、どのような生きる目的をももつことができる存在となる。…
見田宗介「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』青土社、2016年9月号
ぼくたちは「個」として、その自我の起原から見ると、どのような生きる目的ももつことも/もたないこともできる存在である。
このことを書いていたら、「個」ではなく、社会における自由という次元において、<恐怖からの自由>ということ、その大切さを思った。
<恐怖からの自由>というコンセプトについては、大学院で途上国の開発問題を専門にしながら「自由論」の領域にどっぷりとつかっているときに出会う。
そのことを、ぼくの経験の軸において、深いところで理解したのは、大学院を終えて、NGO職員として、途上国、特に紛争地と言われる現場に出ていったときであった。
その現場で「自由ではない」ということがどういうものか、まるで手に取ることのできるような仕方で、ぼくは実感したのだ。
この現場での経験と<恐怖からの自由>については、昨年別のブログ(「大学で「自由論」に向き合い、世界で「自由」(「不自由」)を経験して。- 「恐怖からの自由」という視点から。」)で書いたので、一部を加筆修正して再掲する。
ーーーーーーーーーーーーーー
ぼくは、内戦が終結したばかりの西アフリカのシエラレオネに、2002年、赴任した。
当時、国際連合シエレレオネ派遣団(UNAMISIL)が活動していて、その任務は平和維持や武装解除などであり、ぼくが赴任した当時も、各国の軍隊などが駐屯して任務にあたっていた。
UNAMISILの影響もあって街は「平和」が保たれていたけれど、安全対策は最重要事項のひとつであった。
数々の対策を打ちながら「安全」を確保しなければならない中で、「危険からの自由」ということの大切さを、手に取ることができるように、ぼくは実感していくことになる。
それから2003年、ぼくは東ティモールにうつることになる。
バリ島から飛行機で2時間ほどの東ティモールは、長年にわたる紛争を経て独立を果たしたばかりであった。
当時の東ティモールでも、国際連合東ティモール支援団(UNMISET)のもとに、国連の平和維持活動が展開されていた。
ぼくが現地入りしたときは、日本の自衛隊もPKO活動として東ティモールに派遣されていた。
独立による気分の高揚、さまざまな国際支援、平和維持活動の効果などもあって、とても「平和」な東ティモールであった。
しかし、それらの活動が終了・縮小された後の2006年、雲行きが怪しくなり始め、やがて首都ディリで騒乱が発生するに至る。
ディリ騒乱が発生した日、東ティモール政府は独自に事態を収拾できず、各国の軍隊に支援を要請する。
ぼくは首都ディリの市街戦の真っ只中に置かれ、家の外の通りでは銃撃戦が続いた。
家のテレビのBBC放送は、家の前の状況を報道している、という奇妙な状況に、ぼくはおかれる。
その夜、政府の支援要請に応じたオーストラリア軍などが東ティモールに上陸し、事態は若干の落ち着きをみせるが、夜の街は異様な雰囲気を漂わせていた。
事態が沈静化した翌日、ぼくは国外退避することになる。
オーストラリア軍が完全にコントロールするディリの国際空港に入ったときに安心したことを、ぼくは覚えている。
平和的状況を失って、「自由」の輪郭と姿が、じぶんの深いところにさらに刻印されていく。
ぼくは自由と不自由の間にある<落差・格差>のようなものを、見ているようであった。
机上で学んだ「自由論」のひとつの基本は、「~の自由」、特に「他者からの自由」ということである。
誰もが想像するところである。
シエラレオネと東ティモールの経験は、「恐怖からの自由」ということを基底におく自由主義(シュクラーの提唱)をぼくに思い出させた。
政治学者である大川正彦の著作『正義論』(岩波書店)の中で、シュクラーの「恐怖の自由主義(the liberalism of fear)」(大川は「恐怖からの自由」を軸にそえる自由主義と注記している)が紹介されている。
その詳細はいったん横に置いておくが、ぼくが惹かれたのは、まずは「恐怖からの自由」を基軸としておくことの大切さである。
「恐怖からの自由」は、「残酷な行為」からの自由である。
ぼくは「残酷な行為」を無数に経験してきた社会と人たちの中に生きながら、そして社会の秩序が崩壊する現場(東ティモールのディリ騒乱)を自身で経験しながら、机上で学んでいた「恐怖からの自由」という言葉の痛切さを感じることになったのだ。
残酷な行為から自由であることが、どれほど大切であるかということ。
「自由論」は、ともすると抽象的になりすぎる。
また、日常で自由を語る人たちは、自分勝手さと表裏をなすような自由を標榜したりする。
そのような議論と表面的にすぎる考え方を一気にとらえかえすように、「恐怖からの自由」ということの大切さを、ぼくは感じてきた。
ぼくの経験と実感は、今も世界各地で「恐怖からの自由」を手にできない人たちへと、ぼくの眼と心を向けさせる。
「恐怖からの自由」という、その自由を失わないと見えにくいような自由な社会に暮らしながら、あらためて、「恐怖からの自由」を生きることができることに感謝し、ぼくにできることを考える。
「恐怖からの自由」は、「他者(による残酷な行為)からの自由」であるけれど、それは<他者たちとともにつくられる自由/他者たちによってつくられる自由>でもある。
自由とは、他者の干渉や介入などから自由になるということだけでなく、他者たちとともにつくる/他者たちによってつくられる<自由>という大事な側面をもつ。
日々空気のように享受している「恐怖からの自由」という見えないもの/見えにくいものを視る<視力>を持ちながら、ぼくたちは<自由>をともにつくっていくことができる。
ーーーーーーーーーーーーーーー
シエラレオネと東ティモールは、今は「平和」であることを追記しておきたい(※現地に行く人たちが少ない場所であるから、その場所の語り方には注意を要すると考える)。
時間と空間は、平和と戦争・紛争との間に「ギャップ」をつくってゆくことも明記しておきたい。
当時、日本からシエラレオネへの経由地であったイギリスのロンドンは、シエラレオネからやってくると、まったく違う世界がひろがっていて、そのギャップにぼくは感覚を合わせるのに苦労した。
東ティモール騒乱のときも、経由地のバリ島は観光客たちで賑わう平和な場所であり、ぼくは二つの場所のギャップに、やはり、ひどくとまどったものだ。
空間だけに限らず、時間も然りである。
このような経験をしたものの責務のようなものとして、ぼくは、経験とそこで感じたことや学んだことを、少しでも書いておこうと思う。
人間が個として「自由」であることの根拠。- <テレオノミーの開放系>(真木悠介)。
「自由」ということを語ることは、なかなか難しい。
「自由」ということを語ることは、なかなか難しい。
その難しさは、さしあたり、二つの方向からくるように思う。
ひとつは、その「抽象性」からくるもので、もうひとつは、その「具体性」からくるものである。
抽象的に語られるときにも、いろいろな仕方で語られる。
よく知られるルソーでさえ、ルソーという人物から一般的に想像されるであろう「自由」とは異なる仕方、語っている。
…人間の自由は、自分の欲することをなすことにあるなどと、僕は一度も思ったことはない。ただ、自分の欲しないことをなさないことにあると思っている。
ルソー『孤独な散歩者の夢想』青柳瑞穂訳(新潮文庫)
また「自由」を抽象的な議論で追いつめてゆくと、あまりにも観念的なものになってしまう。
逆に、具体的に語ればよいかというとそう簡単ではなく、具体性は、言葉を語る人たち、あるいは受けとる人たちの経験の多様性のなかで、あまりにも多様に(ときに深い感情をともなって)語られる/受け取られるため、議論がなかなかかみあわない。
そんなわけで、「自由」を語ることは、実は難しかったりする。
そのようななかで、人間の個としての「自由」ということを、人間の「自我の起原」において明晰に論じる真木悠介(見田宗介)の論考に、ぼくは魅かれる。
『自我の起原』(岩波書店、1993年)において最終章で提示される「テレオノミーの開放系」ということについて、真木悠介(見田宗介)は別のところで、その主旨をつぎのように書いている。
…<テレオノミーの開放系>とは…、人間の<自我>の脱目的性ということである。…生命世界の中で唯一人間の<自我>だけが、最初はこの個体(「自分」)自身を自己=目的化することをとおして、生成子の再生産という鉄の目的性から解放され、しかしそうなると個体は無目的のものとなるから、自己自身の絶対化(エゴイズム)からさえも自由な、どのような生きる目的をももつことができる存在となる。…
見田宗介「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』青土社、2016年9月号
ここで「生成子」とは「遺伝子」のことであり、人間が「自分」をもつということは、生命の再生産から「自由」になり、個体としては「どのような目的も」もつことができるようになる。
どのような他者たちもぼくたち個人が生きることの目的を決定しないし、どのような他者たちもぼくたち個人の生きることの目的を決定するということ、つまり人は個として<自由>である。
個人としてどんな目的をもつこともできるし、どんな目的ももたないこともできる。
よく「人生に目的はあるのか?」ということが、生きることの目的性を論じるなかで、問いとして立てられたりするけれども、この問いにたいしては、上で見たように、人間の自我の「脱目的性」ということを最初の土台として応えることができる。
つまり、人生に目的をもつこともできるし、人生に目的をもたないこともできる。
また、人生の目的をもつ際にも、どんな目的をももつこともできる。
人間の自我の、この<テレオノミーの開放系>という、きわめて明晰な視点をはじめて知り、理解したとき、ぼくはじぶんの心が解き放たれるように感じたものだ。
そして、「自由」ということをかんがえるときに、やはり、そこを出発点として、かんがえることにしている。
「自由(liberty)」とは何であるか?。- 自由の二つの前提(見田宗介)と歴史的な範例。
社会学者の見田宗介は、「自由(liberty)」ということを理論的に考えるための「歴史的な範例」として、1945年の日本の敗戦直前の沖縄戦を奇跡的に生き残った一人の女性の証言を挙げている(「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』2016年9月号)。
社会学者の見田宗介は、「自由(liberty)」ということを理論的に考えるための「歴史的な範例」として、1945年の日本の敗戦直前の沖縄戦を奇跡的に生き残った一人の女性の証言を挙げている(「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』2016年9月号)。
よく知られているように、当時は「ひめゆり」隊などとして、防衛の最前線に動員されていた女子学生たちがいた。
その中で奇跡的に生き残った一人の女性の2015年90才近くになっての証言によると、米軍の猛攻により敗走するほかのなくなった日本軍から足手まといとなった彼女たちは、「各自判断で行動せよ」と、突然に「自由」を言い渡されたのだという。
外は米軍の砲弾が降り注ぐ状況下で、「どこに行けばいいのか、ご指示下さい」と再度聞こうとする女子学生たちに対し、「何度言ったら分かるんだ。おまえたちは自由なんだ」と言って、日本軍はどこかに立ち去ったという。
この「歴史的な範例」を挙げながら、見田宗介は、はたして女子学生たちは自由であったのだろうか、また自由とは何だろうかと、考えている。
…自由であるということはどこに行ってもよいということである。けれどもこれだけでは現実的に自由であるということにはならない。どこかに行けば幸福の可能性があるということ。「希望」があるということでなければ、現実的、実際的に自由であるということにはならない。自由には二つの前提がある。第一に、「どこにでも行ける」ということ。第二に、どこかに行けば、幸福の可能性がある。「希望」があるということである。第一は自由の、抽象的、形式的な条件である。第二は自由の、現実的、実質的な条件である。…
見田宗介「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』2016年9月号
この「自由の二つの前提」は、「自由」ということにかんする、とても大切なことを教えてくれている。
「自由」というと、西洋的な個人主義の思考の枠組みでは、「自由と責任」として、「個人」のことが語られる。
しかし、見田宗介の挙げる、現実的、実質的な「自由の条件」は、幸福の可能性や希望がある<どこか>を前提としなければならないとしている。
それは、「個人のこと」を超えた条件である。
見田宗介のこの文章、また写真家である亀山亮の文章(「沖縄戦「集団自決」慟哭の新証言」『文藝春秋』2018年9月号)を読み、当時の沖縄戦のことを想像し、その内実に圧倒されながら、「自由」ということを考える。
現実は、言葉や観念などまったくふっとばしてしまうほどのものであったことを承知で、それでも、歴史が獲得してきた、人間の/個人の「自由」ということは、この世界/これからの世界において、より明確に捉えておくべきことであると、ぼくは思う。
人生を駆動するのは「Love or Fear」か。- ジム・キャリー(Jim Carrey)の「大学卒業式における訓示」に魅かれて。
「大学卒業式における訓示(Commencement Address)」としては、よく取り上げられるスティーブ・ジョブズの訓示があったりするけれども、ぼくがとりわけ好きな訓示は、ジム・キャリー(Jim Carrey)の訓示である。
「大学卒業式における訓示(Commencement Address)」としては、よく取り上げられるスティーブ・ジョブズの訓示があったりするけれども、ぼくがとりわけ好きな訓示は、ジム・キャリー(Jim Carrey)の訓示である。
マハリシ大学の2014年度卒業式における訓示(Commencement Address)は、いわば「名作」である。
ジム・キャリーのあの表情とユーモアとそれによる雰囲気づくり、言葉の選び方からスピーチのリズム、スピーチ全体の物語性、会場に用意されたジム・キャリーの絵画、そしてスピーチのメッセージ性と深さなど、どこから見ても、とても魅力的なスピーチである。
「名作」であるものとして、そのスピーチが届けられた大学の卒業生だけでなく、観る者/聴く者たちの印象に深く残るものとなっている。
大学によってYouTubeでその全スピーチが公開されているので、動画(英語等サブタイトル付き)で、ぼくたちはそれを見ることができる。
ジム・キャリーのことを少しブログ(「ジム・キャリー(Jim Carrey)の生と言葉を「導きの糸」にして。- 「しあわせ」ということのメモ。」)で書き、ふと、この訓示を再び見たくなって見ていたら、ちょうど、そのブログとも交差することが語られていたことを発見する。
別のブログで取り上げたのは、「I think everybody should get rich and famous and do everything they ever dreamed of so they can see that it’s not the answer.」(「誰もがお金持ちになり、有名になって、夢見たことをすべてすべきだとぼくは思う。そうすれば、それが答えではないということがわかるから」)という、ジム・キャリーの言葉であった。
このことについてよく語ってきたこととし、ジム・キャリーは訓示の中で、つぎのように語っている。
…I’ve often said that I wish people could realize all their dreams in wealth and fame so that they could see that it’s not where you’re going to find your sense of completion.
Jim Carrey “Full Speech: Jim Carrey’s Commencement Address at the 2014 MUM Graduation”
「私はよく言ってきたのですが、人びとが富と名声におけるすべての夢を現実化できるのを願っていると。そうすれば彼/彼女らは、そこが自分の達成感を見つけるところではないということがわかるだろうから」と。
前述における「それが答えではない」ということが、「そこは達成感を見つける場所ではない」と言い換えられている。
ところで、「それが答えではない」という表現に導かれて、ぼくは音楽家のジェイソン・ムラーズ(Jason Mraz)の新作の最後の曲に、「Love Is Still the Answer」という素敵な曲の、その曲名に目が行ったのであった。
言葉の表現を介した、ジム・キャリーからジェイソン・ムラーズへの、その「飛躍」は、まったくもって、ぼくの頭の中での出来事であった。
けれども、ジム・キャリーの訓示を聴いていたら、「Love or Fear」(愛か怖れか)が、全体を貫くテーマとして選びとられていたことを知る。
例えば、ジム・キャリーはこんなふうに語る。
…Now fear is going to be a player in your life. You get to decide how much you could spend your whole life imagining ghosts, worrying about the pathway to the future but all there will ever be is what’s happening here in the decisions we make in this moment which are based in either love or fear. So many of us choose our path out of fear disguised as practicality. …
「さて、怖れはあなたの人生のプレイヤーになるでしょう。あなたは決めなければいけない。自分の人生のどのくらいを、ゴーストを想像し、未来につづく道を心配しながら過ごすのかということを。けれども、これから起きることのすべては、この瞬間におけるわたしたちの決断の中に起きていることなのです。つまり、愛に基礎をおく決断なのか、あるいは怖れに基礎をおく決断なのか。わたしたちの多くは、実用・実際(practicality)という姿に粉飾した怖れから、自分たちの道を選んでいるのです。」
Jim Carrey “Full Speech: Jim Carrey’s Commencement Address at the 2014 MUM Graduation” ※日本語訳はブログ著者
瞬間瞬間の決断が「愛からなのか、怖れからなのか」、ぼくたちは、その都度、自分に問うことができる。
じぶんの決断が、じぶんの抱く「怖れ」から来ていないか。
とてもシンプルな問いだけれども、それは日々のさまざまな決断の「歪み」に光をあてる問いでもある。
そして、ジム・キャリーは、訓示の最後を、つぎのようにとじている。
…You are ready and able to do beautiful things in this world and after you walk through those doors today, you will only ever have two choices: Love or Fear. Choose love and don’t ever let fear turn you against your playful heart.
「あなたたちはこの世界で美しいことをする準備ができているし、そうすることができるのです。今日そこのドアを通り歩いて出ていったあと、あなたたちには二つの選択肢があるだけなのです。愛か、怖れか。愛を選ぶこと、そして怖れでもって遊び好きな心に対峙しないでください。」
Jim Carrey “Full Speech: Jim Carrey’s Commencement Address at the 2014 MUM Graduation” ※日本語訳はブログ著者
だいぶ前に観た/聴いたときには飛ばしてしまっていた箇所が、今のぼくに届いてくる。
ジム・キャリー(Jim Carrey)の生と言葉を「導きの糸」にして。- 「しあわせ」ということのメモ。
「チキンスープ」と呼ばれる著作シリーズで有名なジャック・キャンフィールド(Jack Canfield)は、「成功原則」をまとめた著作(『The Success Principles』)のなかで、コメディ俳優であるジム・キャリー(Jim Carrey)の「成功秘話」を取り上げている。
「チキンスープ」と呼ばれる著作シリーズで有名なジャック・キャンフィールド(Jack Canfield)は、「成功原則」をまとめた著作(『The Success Principles』)のなかで、コメディ俳優であるジム・キャリー(Jim Carrey)の「成功秘話」を取り上げている。
1990年頃、ジム・キャリーがカナダの売れない若いコメディアンで、ロサンゼルスに向かっていたときのこと、彼は古いトヨタ車を運転して、Mulholland通りに行った。そこに座って、下にひろがる都会を前に自分の将来を夢見ながら、彼は1,000万ドルの小切手を自分自身に書いたのであった。その小切手は1995年の感謝祭の日付が入れられ、「演技に対して」という注記が付けられた。その日から彼は、この小切手を自分の財布の中に入れて持ち歩いたのであった。残りは、言われるように、歴史である。…
Jack Canfield『The Success Principles』HarperCollins, 2005 ※日本語訳はブログ著者
歴史だと言われるように、ジム・キャリーは、1995年までに2,000万ドルまでに自分の演技の価値を上げることになる。
また、父親が1994年に亡くなったときは、彼の棺の中に1,000万ドルの小切手を置いたという。
ジャック・キャンフィールドは、ジム・キャリーの実話をもとに、「WRITE YOURSELF A CHECK」(自分自身に小切手を書く)というタイトルのもとに、「目標」を立てそれを達成するための方法のひとつを取り出している。
「成功原則」としてここで終わるのもひとつだけれども、ジム・キャリーの人生は、そこで止まるものではなかった。
のちに、彼は、つぎのように語っている。
I think everybody should get rich and famous and do everything they ever dreamed of so they can see that it’s not the answer.
- Jim Carrey
「誰もがお金持ちになり、有名になって、夢見たことをすべてすべきだとぼくは思う。そうすれば、それが答えではないということがわかるから」と、ジム・キャリーは語る。
どのような場所で、誰に向けられて、どのように語られたのか、ぼくはわからない。
けれども、あの、ジム・キャリーだからこそ、この言葉を聞く者にひびく何かがあるようにも思う。
それが答えではないんだ、と。
そんな折に、シンガーソングライターのジェイソン・ムラーズ(Jason Mraz)の新しいアルバム『Know.』を聴いていたら、その最後の曲がつぎのような曲名であった。
「Love Is Still the Answer」
とても暖かい曲たちがつまった、この新しいアルバムの最後に、「愛がそれでも答えなんだ」とジェイソン・ムラーズは置いている。
「それでも(Still)」と。
もちろん、ジム・キャリーが語るところと文脈は異なるのだけれども、それは、ぼくの中で、あくまでもぼくの中で、ひとつのつながりを描く。
ジム・キャリーが語るのは、おそらく、「しあわせ」ということの答えはそこにはないんだということである。
「しあわせ」というものを外に外に向けて探していっても、それはどこかで、果ててしまうのだということでもある。
「しあわせ」は、見田宗介が<幸福感受性>と書くように、それを<感受する力>を、じぶんの内に、透明に、高めてゆくことのなかに、ただ自然に現出するように、ぼくは思う。
香港で、路上などで、よく道を尋ねられて。- 「道を尋ねられる」ことについて、少しかんがえてみる。
香港に住んでいて、街やふつうの通りを歩いているときなどに、ぼくは、よく道を聞かれる。
香港に住んでいて、街やふつうの通りを歩いているときなどに、ぼくは、よく道を聞かれる。
昨日も、香港の人に、路上で道を尋ねられた。
でも、この「よく」という言葉を使うのがよいのかどうかはわからない。
「道を尋ねられる」ということにおいて、「よく」というのが、どのくらいの頻度で尋ねられるのかなんて、参考になるような統計や資料があるわけではない。
つまり、きわめて、「相対的」なものだ。
だから、「よく」というのは、ぼくの人生のなかにおいての「よく」という程度にとどめておきたい。
日本に住んでいたときよりも、あるいはニュージーランドやシエラレオネや東ティモールに住んでいたときよりも、はるかに「よく」、ここ香港で、ぼくは道を尋ねられる。
というより、香港に来るまでの人生で「道を尋ねられた数」の総計よりも、ここ香港に住んで11年程の期間に「道を尋ねられた数」の方が大きい。
そう考えてみると、「道を尋ねられる」要因として、まず第一に、「香港」という土地柄が挙げられる。
ぼくに「道を尋ねる人たち」は、大別すると、香港の人と観光で訪れている人(主に中国本土の人)である。
香港の人に道を尋ねられるという点から考えると、香港の人たちの「気さくさ」が挙げられるかもしれない。
たとえば「道を尋ねる」ということにおいて、香港の人たちは互いに気さくに話しかけるようなところがある。
また、観光で訪れる人に尋ねられるという点から考えると、香港は観光で訪れる人たちの数が多く、また香港の街が凝縮されていて「観光地」が密集していることが挙げられる。
だから、どこに行っても、観光で来ている人たちがいたりする。
このような「香港」という土地柄がある。
それから、「道を尋ねられる」要因として、次に「じぶん」ということをかんがえてみる。
ぼくはとりわけ、「道を知ってそうな人」の顔をしているわけではないし(そんな人がいるとしてどんな顔かは定かではないけれど)、「気さくさ」を醸し出しているということもないと思う。
けれども、ぼくが誰かに道を尋ねるとすれば、やはり、ここ/そこに住んでいそうな人で、またそれなりにフレンドリーに答えてくれそうな人を選ぶだろうと思うと、ぼくは、そのような点において「道を尋ねる人たち」の基準をクリアしているのだろうかと、かんがえてみることはできる。
ぼくは第一に、香港のどこにいっても、大体において「香港の人」だと思われる(英語で話しかけても、広東語できりかえされる)。
それから、第二に、ぼくはやはり、それなりに肯定的な雰囲気を心がけている。
ネガティブなときもあるし、気分がのらないこともたくさんあるけれど、根源的な次元において、ぼくは人生を肯定している。
それが道を尋ねられる理由かどうかはよくわからないけれども、ぼくの側からそうかんがえてみる。
こんなふうに、ぼくは「道を尋ねられる」ことのなかに、「じぶん」を見返してみる。
「道を尋ねられる」ことは、それでも、一つの出会いであるし、またぼくの「状態」を映し出す鏡のようなものでもある。
広東語のいくつもの波におされて、まったく答えられないこともあるけれど、ぼくは笑顔をかえす。
それにしても、いつも、「まさかこんなところで…」という場所とタイミングで、ぼくは、道を尋ねられるのである。
ボブ・ディランの「捉えどころのなさ」を、引きつづき、かんがえる。- たとえば、1970年のボブ・ディランとロドリゲス。
経験や体験というものは、ぼくたちの好奇心や問題意識に火をつける。
経験や体験というものは、ぼくたちの好奇心や問題意識に火をつける。
それらがじぶんの意識や知識、つまり言葉で語ることができないものである場合は、なおさらである。
ボブ・ディランの、どこか「捉えどころのない」歌声と演奏に、ここ香港でふれてから、その「捉えどころのなさ」に、ぼくはひっぱられる(ブログ「香港でふれる、ボブ・ディラン(Bob Dylan)の「世界」。- 「捉えどころのない」なかで浮かび上がる歌声。」)。
もちろん、そこにはボブ・ディランの歌声があり、ボブ・ディランの世界があるのだけれど、なかなか「捉えどころがない」のである。
あくまでも、「ぼく」にとって、捉えどころがないということであるけれども。
1970年にアメリカでリリースされた二つのアルバムに、マニュエル・ヤンは着目している(「ボブ・ディランが歌うアメリカ」第十回『現代思想』青土社、2016年9月号)。
一つは、すでに世界的スターであったボブ・ディランの『自画像(セルフ・ポートレイト)』であり、もう一つは、デトロイトの無名のメキシコ系肉体労働者ロドリゲスによる『冷厳な事実(コールド・ファクト)』である。
音楽的水準の天秤にかけた場合、ロドリゲスの『冷厳な事実(コールド・ファクト)』のレベルの高さが厳然たる事実であると、マニュエル・ヤンは述べているが、確かに、ロドリゲスの音楽には心を揺さぶるものがある。
これら二つのアルバムを対比させながら、マニュエル・ヤンはつぎのように評している。
…デトロイトを拠点に活動した無名歌手ロドリゲスはまるで異次元を泳ぐ『自画像』の対位法のような『冷厳な事実』を同時期に録音している。『自画像』がドメスティックな生活に自己陶酔し社会とは縁を切った我田引水するアーティストのバスティーシュ作品だとしたら、『冷厳な事実』は都会の反乱と混乱にまみれた具体的な社会性に根を張りながら自己表出を自然体でやり遂げた名作である。
マニュエル・ヤン「見張りの塔で自画像を描くアーティストと反乱する都市から逃げられない労働者」「ボブ・ディランが歌うアメリカ」第十回『現代思想』青土社、2016年9月号
この「無名」のロドリゲスを、アメリカや地元デトロイトで「有名」にしたのは、アカデミー賞受賞のドキュメンタリー映画『シュガーマン』(2012年)によってであり、『冷厳な事実(コールド・ファクト)』から40年以上が経過してからであった(※知られるとおり、南アフリカなど熱狂的に迎えられた場所もある)。
ロドリゲスとボブ・ディランの対比という仕方は興味深く、そこからアメリカやその時代をきりとる視点を提示してもくれる。
けれども、『自画像』を超えてボブ・ディランを聴き、その総体を見たとき、やはり「捉えどころのない」ボブ・ディランの世界があるように、ぼくには感じられる。
その「捉えどころのなさ」は、ある一人の人生の、ときに捉えどころのない多面性に根ざしているのかもしれないし、あるいは「じぶん」という経験の、多様な社会や人びとをその境界に映し出す本質に根ざしているのかもしれないと、思ったりもする。
マニュエル・ヤンは、ロドリゲスの作品に、デトロイトから逃げられないという「逃走」のテーマをひろいあげながら、つぎのように書く。
「逃走」はロックンロールの永続的テーマであり、アメリカ社会史の原点でもある。…ディランとその後のカウンターカルチャーに強い影響を残したジャック・ケロアックの『路上』と彼の仲間のビート作家たちにしろ、同じ1950年代に文化的対抗軸としてあらわれたロックンロールも、ミドルクラスの労働規律に従い工場や企業で働く「朗らかなロボット」(C・ライト・ミルズ)になることを拒む「逃亡者」の文化だ。
マニュエル・ヤン「見張りの塔で自画像を描くアーティストと反乱する都市から逃げられない労働者」『現代思想』青土社、2016年9月号
このような「逃走」のテーマの系譜において、マニュエル・ヤンは、「新しいディラン」と言われたブルース・スプリングスティーンを論考で追ってゆく。
この時代の「逃走」とは、何だったのだろうかと問いを立ててみることができる。
20世紀の後半の社会を特徴づけたのは、社会学者の見田宗介が明晰に解き明かしているように、消費化社会/情報化社会であり、さらに<近代>という広い視点においては、貨幣と都市の原理の全面化である。
そして、これらを駆動してきたのは、世界を抽象化/数量化/合理化する精神であり、また現在の意味を未来の目的のうちに求める精神である。
社会のすみずみまでどこまでも「合理化」し、人びとの<今>を解体してゆく精神において社会の発展が駆動され、このような磁場から「逃走」する精神たちを生んできたように見える。
「逃走」のロックンロールを生みだした時代は、ある意味、人間の歴史における特異な時代であったと見ることもできる。
そして時代が「人間の歴史の第二の曲がり角」(見田宗介)にかかっているなかで、これまでにない「時代」に突入している。
そんな時代に、どのような「音楽」が生まれているのだろうか/生まれてくるだろうか。
香港で、手持ちの「硬貨」を極力減らす。- 人間の歴史における「貨幣」の転換点において。
香港歴史博物館の特別展示「An Age of Luxury: the Assyrians to Alexander(豪華・贅沢の時代:アッシリア人からアレキサンダーへ)」(2018年5月9日~9月3日)で展示品の中に、貨幣経済の発祥地リュディア(Lydia)で製造された「硬貨」があった。
香港歴史博物館の特別展示「An Age of Luxury: the Assyrians to Alexander(豪華・贅沢の時代:アッシリア人からアレキサンダーへ)」(2018年5月9日~9月3日)で展示品の中に、貨幣経済の発祥地リュディア(Lydia)で製造された「硬貨」があった。
紀元前600~550年における初期の硬貨である。
それから2500年以上が経過しているけれども、世界では硬貨がふつうに流通している。
もちろん、ここ香港でもふつうに使われている。
香港の「硬貨」はというと、10セント、20セント、50セント、1ドル、2ドル、5ドル、10ドルがある。
ぼくは、少し前に、香港に住んでいる10年間に溜めてしまっていた「10セント、20セント、50セント」を使うことにした。
第一になるべく現金を使わないようにしていこうと思ったこと、また第二に家にあるもので「使わないもの」をなくそうと思ったことを理由に、手持ちの硬貨、とくに「セント」を使いきることにした。
それほど多くはなかったけれども、それでも、1ドル以上の硬貨ならまだしも、セントを使いきるのにはそれなりに時間がかかった。
お店によっては現金しか受けつけてくれないお店もあるので、いまでもときどき硬貨のお釣りをもらうことになるが、ほぼ硬貨のない暮らしになった。
ところで、香港に住んでいて「硬貨」が溜まってしまったとき、使いきったり街頭のチャリティに募金をすることもできるけれど、「香港金融管理局」(Hong Kong Monetary Authority)による「硬貨収集プログラム」(Coin Collection Programme)を利用することもできる。
このプログラムのもとに、硬貨収集の窓口を内装する車両「Coin Cart」が、スケジュールにしたがい香港の各地に現れることになる。
車体には、さまざまなコインが描かれていて、見ればすぐにわかる。
街を歩いていて、ときおり、その姿が目にはいってくる。
利用の仕方は、ホームページにも掲載されているし、「Coin Cart」の入り口にも注意書きがおかれている。
変換可能なコインの種類、利用規則などが決められている。
たとえば、1人あたり「10KG」までと決められている(それにしても10KGは相当な量だ)。
両替は現金で受け取ることもできれば、現金でない仕方で受け取ることもできる。
とても便利なサービスで、ぼくが目を留めている間にも、幾人かの人たちが中に入っていって、両替をしていた。
でも、結局、ぼくはこのサービスを利用する機会はなかったし、またこれからも利用することはないだろう。
ぼくは、一気に両替してしまうよりも、実際に硬貨を使うことを楽しみながら、ほぼ硬貨を持たない生活に変えていった。
それは、生活の仕方を変えていくための儀式のようなものであった。
かつて、リュディアの地で貨幣経済が発祥し、それが全世界に浸透し、どこまでも地球を覆っていくことで、「現代」という時代にまでやってきた。
そして、この「貨幣経済」が大きな転換点を迎えている。
「現金」という形での貨幣は、硬貨を含め、近い将来にはその姿をなくすか、あるいは最小限のものとなるか、また異なる姿へと変身してゆく移行期間に、ぼくたちはいる。
そうなれば、「Coin Cart」のような車両も見ることはできなくなる(あるいは硬貨の歴史をとじるための回収・収集を担うかもしれない)。
リュディアの硬貨が博物館に収められたように、「Coin Cart」も博物館に入ってしまうかもしれない。
まるで、未来からやってきた者たちが観るような仕方で、ぼくは「Coin Cart」を眺めていた。
香港で、人類の「歴史の曲がり角」をかんがえる。- 香港歴史博物館の特別展示「An Age of Luxury」。
香港歴史博物館の特別展示である「An Age of Luxury: the Assyrians to Alexander(豪奢・贅沢の時代:アッシリア人からアレキサンダーへ)」(2018年5月9日~9月3日)が展示する豪華なもの・贅沢品の数々は、紀元前900年から紀元前300年の時代にわたるものである。
香港歴史博物館の特別展示である「An Age of Luxury: the Assyrians to Alexander(豪奢・贅沢の時代:アッシリア人からアレキサンダーへ)」(2018年5月9日~9月3日)が展示する豪奢なもの・贅沢品の数々は、紀元前900年から紀元前300年の時代にわたるものである。
この「時代」は、かつて、歴史家カール・ヤスパースが、つぎのように「特定した時代」と重なっている。
…この世界史の軸は、はっきりいって紀元前500年頃、800年から200年の間に発生した精神的過程にあると思われる。そこに最も深い歴史の切れ目がある。われわれが今日に至るまで、そのような人間として生きてきたところのその人間が発生したのである。…
カール・ヤスパース「歴史の起原と目標」重田英世訳『ヤスパース』河出書房新社
ヤスパースが「軸の時代」(※上記の本では「枢軸時代」の訳)と呼んだ、この時代に着目しながら、社会学者の見田宗介は、「人間の歴史の第一の曲がり角」であったとしている(『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年)。
歴史の第一の曲がり角を特徴づけた背景は、<貨幣経済>と<都市の勃興>であり、とくに貨幣経済による人間世界の「無限化」であったと、見田宗介は語る。
ギリシアの哲学が生まれ、宗教がひらかれた「軸の時代」は、そのような開放と不安と恐怖に彩られる時代であったという。
そして、無限化された人間世界は、現代に至り、グローバル化の果てに、その地球の「有限」を見る。
「人間の歴史の第二の曲がり角」に、ぼくたちはいる。
このような問題意識において、「軸の時代」、つまり「人間の歴史の第一の曲がり角」であった時代を、ぼくは展示品を通して思い描くのであった。
特別展示「An Age of Luxury: the Assyrians to Alexander」は、大英博物館に収められている、歴史の語り手でもある「贅沢品」を展示しているが、この展示物のなかに、世界における、初期の「硬貨」がある。
貨幣経済が発祥したとされるリュディア(Lydia)で製造された硬貨である。
エレクトラム(琥珀金)から作られ、金と銀が混合されているという。
このリュディアでの貨幣経済の発祥にふれて、見田宗介は、前述の本で「現代社会はどこに向かうか」を問いにしながら、つぎのように書いている。
…ミダス王はこのリュディアの東方フリュギアの王である。知られているとおり、ミダス王は黄金を何よりも愛し、手に触れるものすべてを黄金にへんずるという力を獲得するのだが、水を飲もうとしても水が黄金に変わってしまうので、のどが渇いて死んでしまうというものである。貨幣経済のあらあらしい発生期にミダス王の神話を生み出した人びとが直感したのは、貨幣の欲望の本質は世界の等質化ということにあること。つまり抽象化することにあること。この故に貨幣の欲望には限度がないこと。具体の事物への幸福感受性を枯渇すること。この故に人は現代の人間のように、死ぬまで渇きつづけるということである。三千年の射程をもつ予感であった。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
「An Age of Luxury」とは、世界が、等質化され、抽象化され、「無限」として感じられはじめた時代であり、開放と不安と恐怖のなかで、たとえばミダス王の神話に託された「予感」のように、人びとが戸惑った時代でもあったのである。
香港歴史博物館の特別展示「An Age of Luxury」はもちろん大英博物館のほんの一部の展示品(210の展示品)を見せるだけである。
けれども、大英博物館であったなら、展示品があまりにも多すぎることから、ついつい通り過ぎていってしまいそうな展示品の前に立ち止まって、じっくりと鑑賞し、人間の歴史に想いを馳せることができる。
リュディアの、ほんとうに小さい硬貨の前で、ぼくは当時の人たちの「三千年の射程をもつ予感」に想いを馳せる。
香港で、「香港の歴史」を、一気にくぐりぬける。- 香港歴史博物館の「香港故事」。
「歴史が好きか、地理が好きか」と問われるならば、昔は「地理だ」と答えただろうと思うほどに、世界を移動した。
「歴史が好きか、地理が好きか」と問われるならば、昔は「地理だ」と答えただろうと思うほどに、世界を移動した。
でも、今はどちらも好きだし、ある意味では歴史の方が好きである。
ここ香港の「香港歴史博物館」(Hong Kong Museum of History)にある常設展示「香港故事」(The Hong Kong Story)は、そのような「歴史」の好奇心に応え、また一層かきたてる展示である。
4億年前の香港から現代の香港まで、ぼくたちは、一気に、「香港の歴史」をくぐりぬけることができる。
ほんとうにゆっくりと観ていくのであれば、数時間はかかるほどに充実した展示である。
ぼくは大学時代、アジアを旅しながら、現地に到着すると、決まって「博物館」に行ったことを思い出す。
その土地に行って、その土地のことを知る。
それはとても楽しい時間のひと時であった。
生活する場合、そんな「学び」がついつい脇に押しやられてしまうことがある。
生活の土台をつくり、仕事で忙しくなり、あれよあれよと時間は過ぎていく。
毎日その土地にいるから、生活視点では、いろいろと観察し、あるいは人から聞いて学んだりするのだけれども、そこで止まってしまうことがある。
そんなとき、ふと、「博物館」に行ってみること。
それは、思っている以上に、いろいろなものをもたらしてくれる。
これまでの生活体験に、「歴史」の光をあてながら、納得することがあったり、教えられることがある。
旅で、初めての土地で行く「博物館」もよいものだけれど、ずっと生活していた土地のことを、じぶんの体験も重ねながら学ぶことは、違った楽しみと学びを得ることができると、ぼくは思う。
ところで、「香港歴史博物館」でぼくは、「煤氣風扇」(Gas operated fan)を見つけた。
19世紀後半のもので、もちろんすべての人たちではなく一部の人たちが使っていたものだろうけれども、このようなものを使って、香港の夏の暑さをやりすごしている情景が思い浮かぶ。
そのときから百数十年のうちに、香港も、そして世界も、一気に「発展・成長」を遂げてきた。
果たして、この先の「歴史」は、どのようにつくられ、あるいは人はそれをつくってゆくのだろうか。
香港で、「香港製造」を楽しむ。- その土地のものを、その土地で楽しむ。
「香港」という場所は、「港」であり、交通の要衝・ハブでもあるから、香港では世界のいろいろなものが手に入る。
「香港」という場所は、「港」であり、交通の要衝・ハブでもあるから、香港では世界のいろいろなものが手に入る。
「メイド・イン・ジャパン」のものにはどこにいっても遭遇し、また「日本(からの)直送」の食材やお菓子やケーキが売られているのを日常で見る。
日本のレストランなどの食材も、例えば、「日本直送」を宣伝していたりする。
さらに、日本の不動産だって、香港の不動産屋の店頭にチラシが出ていて、ぼくの出身地の「静岡県」の物件が出ているのを見たときは、さすがにびっくりしてしまった。
別に「日本」にかぎらず、世界各国のものが香港で手に入る。
<なんでもある香港>のすごいところだ。
そのような<なんでもある香港>の豊かさと便利さを享受しながら、他方で、「香港」のもの、「香港製造/Made in Hong Kong」のものを楽しむ。
食材や食べ物など、ここでしか食べられないものを楽しむ。
他で食べられるかもしれないけれど、新鮮さが失われたりしてしまったり、その環境だからこそのおいしさが損なわれてしまうこともある。
その土地のものを、その土地で楽しむ。
おいしい食べ物も、おいしいお酒も、旅をしない、というようなことが言われるように、その土地のものはその土地で味わうことで、味が生きてくる。
「ローカル」なものを応援したい、ということもある。
けれども、「応援したい」だけでは、楽しみが長続きしにくく、どこか「応援しなければならない」といった、じぶんをしめつける気持ちで抑制されてしまうこともある。
だから、ほんとうによいものを選ぶことで、それを楽しむ側も、それを提供する側も、ともに、「物語」を紡いでゆくことができる。
そうして、ぼくは、このブログの写真にたどりつく。
これは豆腐ではなく、「豆腐花」とここ香港では呼ばれるデザートである。
豆乳を固めてつくられた、豆腐よりも柔らかいデザート(※香港の外ではいろいろな仕方で食されている事情はひとまず横に置いて)。
香港のデザート店では、暖かいものと冷たいものとお好みで選び、たとえばシロップなどをかけて食べる。
その新鮮な風味を楽しむことができる。
最近は、ぼくは、豆腐花がパッケージされたものをスーパーマーケットで購入して、冷蔵庫に入れておいて、ときおり食べる。
スーパーマーケットは、世界各国からのデザートでいっぱいで、たくさんの選択肢があるけれども、ときに豆腐花も、買い物カゴに入れる。
「応援したい」だけでなく、シンプルに、その素朴なおいしさがあるからでもある。
その土地のものを、その土地で楽しむ。
凝り固まる「理論・思想」ではなく、生成する<理論・思想>。- ユング、河合隼雄、真木悠介。
心理学者・心理療法家の河合隼雄は、心理学者カール・ユングの生涯を語る本(『ユングの生涯』)のなかで、弟子によって提唱された「ユング研究所」の設立に、ユング自身が当初反対であったことについて、書いている。
心理学者・心理療法家の河合隼雄は、心理学者カール・ユングの生涯を語る本(『ユングの生涯』)のなかで、弟子によって提唱された「ユング研究所」の設立に、ユング自身が当初反対であったことについて、書いている。
…彼はユング研究所をつくることに反対だったのである。ユングは、「個性化」ということを強調するように、個々人は自らの個性化の道を歩むべきであると考えていたので、研究所ができたりして、ユングの心理学が画一化されたり、マス・プロ化されることを極端に嫌っていたのである。
河合隼雄『ユングの生涯』第三文明社
のちに、ユング心理学を学びたい人たちの増加などの状況のなかで、いずれ研究所ができるのであれば自分が生きている間に自分の意見もいれて設立したいと、ユング自身が研究所設立を提案することになるが、当初は「個性化」ということを大切にして、その設立に反対していたことは注目しておきたいところだ。
この「個性化」というユングの言葉と概念について、河合隼雄は本の最後に、「完全性と全体性」という節のなかで、興味深いことを書いている。
「人格の全体性」という、人間の心の光と影を全体として包含することを、ユングは思い至ることになるが、この「全体性」ということにたいして「完全性」というものを対置させながら、「個性化」について、河合隼雄は書いている。
完全性は欠点を排除することによって達成されると考えられるが、全体性はむしろ欠点を受け容れることによって、そこに生じる統合を目標としようとする。この際、完全性は多くの人にとって共通の目標を提供するが、全体性の方は、ある個人がその影の部分を受け容れることによって達成されるものであるために、そこには各人の個性が強く関係してきて、万人共通の目標やモデルを与えてくれない。ユングが個性化という言葉を用いるのもこのためである。
河合隼雄『ユングの生涯』第三文明社
こうして、「単純なモデルとしてのユングの否定」が、本来的な意味でユングの考えに従うことになると、河合隼雄は指摘している。
「ユング心理学」ということは、「学としての体系」としてあるように見えるけれども、その本質において、体系として凝固させる力をほどいてゆく力学をそのうちに内包している。
それは、個性化の過程で、つまり「個人が生きる」ということのなかで、生成していく<理論>のようなものだ。
そして、このように語る「河合隼雄」自身の教えるところも、個人の生のなかで生成してゆくところへ、開け放たれてある。
だから、ユングも河合隼雄も、彼らが書くもの/語るもののなかにに人生の「答え」があるように読もうとしたときに、すでにして方向性を間違うことになる。
このように開け放たれてあるスタイルとして思い起こすのは、人間の生き方の発掘をめざした、真木悠介の名著『気流の鳴る音』(筑摩書房)である。
「あとがき」に記されるように、この本が追求したのは、「生活のうちに内化し、しかしけっして溶解してしまうのではなく、生き方にたえずあらたな霊感を与えつづけるような具体的な生成力をもった骨髄としての思想、生きられたイメージをとおして論理を展開する思想」であった。
人はときとして、生き方の「答え」を求めようとする。
そして、納得のできる「答え」がないときに失望し、あるいは、それは間違っているのではないかと批判する。
逆に、生き方を伝える側も、「こうあるべきだ」と語ろうとすることがある。
これらは、いずれも、「完全性」の思考である。
「共通」の目標であるものが、「万人の」目標として置き換えられてしまい、個性化を阻害する思考であり、行動だ。
このような完全性のなかに凝り固まる「思想・理論」ではなく、「具体的な生成力をもった骨髄としての思想・理論」が、ぼくたちそれぞれの個性化の過程で、生きてくる。
ユングも、河合隼雄も、そして真木悠介も、ぼくにそのようなことを教えてくれながら、またぼく自身の「個性化」を絶えず問いつづけてくるのだ。
香港でふれる、ボブ・ディラン(Bob Dylan)の「世界」。- 「捉えどころのない」なかで浮かび上がる歌声。
香港の「サイズを活用する」ことのひとつとして(電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』の「17 「香港のサイズ」を活用する。」)、「コンサート」を楽しむことがある。
香港の「サイズを活用する」ことのひとつとして(電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』の「17 「香港のサイズ」を活用する。」)、「コンサート」を楽しむことがある。
香港の「コンサート会場」は小さいから、大物ミュージシャンであっても、ぼくたちは間近に音楽を楽しむことができる。
Coldplayも、Jason Mrazも、Bryan Adamsも、Elton Johnも、The Beach Boysも、そして、Bob Dylanだって。
2018年8月4日、香港のビクトリア湾に面する「Hong Kong Convention and Exhibition Centre」。
ボブ・ディラン(Bob Dylan)と彼のバンドが、舞台に立った。
久しぶりに来るこのコンサート会場はやはり小さな会場で、一番後ろのゾーンにいるぼくの位置からも、肉眼で舞台を普通に見ることができる。
そんな会場に入って舞台を見渡してみて、「スクリーン」がないことに気づく。
普通のコンサートではこの会場でも「スクリーン」がつくのだけれども、そのスクリーンがなく、さすがに顔の表情までは見ることができない。
スクリーンがないことを含め、舞台はきわめて素朴で、エンターテインメント性を極力にそぎおとしているようにも見えるのだ。
やがて、開演時間がやってきて、少し遅れて、演奏がはじまった。
香港のコンサートでは時間通りに演奏がはじまることはとても少ないためか、多くの人たちがまだ席についていないなか、ボブ・ディランのあの独特の声音が会場にひびきはじめる。
これまでいろいろなコンサートを観てきたけれど、ボブ・ディランのコンサートは、なかなか独特で、なかなか捉えどころのないものであった。
ギターのチューニングのズレ、音をうちこむリズムのズレ、楽器の音量バランスのズレなど、演奏や楽器の音がときに「ズレ」ているように感じる。
また、ボブ・ディランもバンドメンバーも、2時間近くのコンサートで、曲の間に一言もしゃべることはなかった。
そのような「捉えどころのない」演奏やコンサートの全体に最初はとまどったのであったけれど、とても不思議なのは、その空間には、やはり(あるいは、だからこそ)「ボブ・ディラン」が浮かびあがってくるのである。
ボブ・ディランの「歌」自体が、<ことばを伝えること>であって、それ以外に「何」が必要だろうかとも思う。
歌自体に、ことばが尽くされているのだと見ることもできる(とは言っても、ぼくは、英語の歌詞はほとんど聞き取ることができなかったけれど)。
また、ボブ・ディランの声音を主旋律として、楽器の音たちはそのどこか不器用な声音に不器用に合わさることで、主旋律である声の響きがいっそう照らし出されるのでだ。
こうして「ボブ・ディランの世界」が顕現してくる。
歌われることのなかった名曲「Blowin’ in the Wind」と「Like a Rolling Stone」はやはり聴きたかったけれど、演奏される曲たちはコンサートの全体感のなかで選ばれているから、ぼくはその全体感を尊重したい。
このように、なかなか「捉えどころのない」コンサートであったのだけれども、ほかに「捉えどころのない」風景として、聴きに来ている人たちがあった。
会場全体に、若い人たちが目立ったのだ。
サンタナが香港に来たときは圧倒的にサンタナと同年代の人たちが多かったのだけれども、ボブ・ディラン(77歳)はちがった。
ぼくの席の周りも、まだ20代くらいの人たちで埋まっていたのである。
彼ら・彼女たちにとって「ボブ・ディラン」の歌や存在はどのようなものなのだろうかと、ぼくは興味深く思う。
このような「捉えどころのない」コンサートの余韻が、ぼくのなかに、不思議と、強く残っている。
香港で、香港の「広さ」をかんがえる。- 香港は「広い」、香港は「小さい」。
香港に初めて来られた方が、「香港は思っていたよりも広い」と語る。
香港に初めて来られた方が、「香港は思っていたよりも広い」と語る。
香港に長く住んでいると、ときに、「香港は小さいなぁ/狭いなぁ」という感覚が生まれることがある。
感覚は主観的かつ相対的なものだけれども、旅行ならまだしも、実際に住んでいくときには、主観的だからこそ、いっそう気をつけておきたいところでもある。
香港は「香港島」「九龍」「新界」の三つの地域に分けられている。
香港の総面積は「1106平方キロメートル」(香港島:81平方キロメートル、九龍:47平方キロメートル、新界:978平方キロメートル)であり(2014年10月現在)、香港全体で「東京都の半分ほどの広さ」になるという(『香港を知るための60章』明石書店)。
世界史の教科書でも出てくるように、1842年の南京条約で「香港島」がイギリスに割譲されるのだけれど、九龍と新界が編入されるまでには歴史のページをさらに繰ってゆくことになる。
九龍と新界の広さを考慮すると、最初に割譲された「香港島」は、現在の香港(香港特別行政区)の広さから見れば、わずかな地域であった。
その後、九龍がイギリス領に編入されたのは1860年、さらに現在の香港の面積の大部分を占める「新界」を租借したのが、1898年のことである。
このような歴史もあってか、香港は、それぞれの地域によって異なる風景を見せている。
中国本土の深センから香港に入り、電車やバスに乗って、この「新界」を通りぬけてくると、「香港は思っていたよりも広い」と感じることがある。
風景も、「百万ドルの夜景」の香港ではなく、多くが緑に覆われていたりする。
逆に、香港へ飛行機で入り、「百万ドルの夜景」の舞台である香港のビクトリア湾周辺に住み、そこでどっぷりと入って生活していると、「香港は小さいなぁ/狭いなぁ」と感じることがある。
どこの風景を見、どこに暮らし、どこを生活範囲とするかで、「香港」の見え方が異なる。
当たり前のことではあるけれども、実際に、香港に住んでいると、じぶんの感覚と見方がときに<凝固>してしまうことがある。
だから、香港の外から来る人たちの感覚や感想は、ときに、(ぼくを含め)香港に長く住む人たちの感覚や味方を<溶解>し、新鮮な風をおくりこんでくれるのである。
それでも、「香港」に長く住んでいると、やはり香港の「サイズは小さい」と思ったりする。
でもだからといって「つまらない」のではなく、<なんでもある香港>とも言えるのである。
そして、この、<サイズが小さい香港>と<なんでもある香港>の組み合わせは、圧倒的な「便利さ」を、ここ香港につくりだしてもいる。
さらには、<なんでもある香港>は、長く住んでいても、すべてを行きつくせないほどの「なんでも」に充ちてもいる。
香港12年目のぼくだって、行きつくせていない。
このような「香港で生きる経験」をつんで、ぼくは、電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』の「17番目のこと」として、「17 「香港のサイズ」を活用する。」と書くことになる。
これだって、当たり前のことと言えば当たり前のことである。
けれども、香港で実際に長く住んでいると、「香港は小さいなぁ」とかつぶやいたり、見方が小さくなってしまうから、「「香港のサイズ」を活用する。」視点は、香港でよりよく生きるために「とても大切なこと」だと、ぼくは思う。
住んでみて直面することがあり、そこで生きていくなかで、じぶんの納得する仕方で気づくことがあったりする。
香港に住み始めて、12回目の夏を過ごしながら、ぼくはそんなことを考える。
香港の「新界」が清朝からイギリスに租借されたのが1898年で、それから1997年に中国に返還されることになったのだけれど、1898年から今に至るまでは約120年。
ぼくは、その約10分の1もの時間を、ここ香港で過ごしたことになる。
中国に返還されてからの時間では、ぼくは、その半分以上を、ここ香港で過ごしている。
見方によっては、それはとても不思議な感覚を、ぼくに与える。
「夢を見ない」村上春樹と谷川俊太郎。- 現実生活と創作のパラレルな存在。
「ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが…」と、小説家の村上春樹は、心理学者・心理療法家の河合隼雄に向けて語っている。
「ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが…」と、小説家の村上春樹は、心理学者・心理療法家の河合隼雄に向けて語っている(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫)。
河合隼雄は、つぎのように、村上春樹にことばを返している。
河合 それは小説を書いておられるからですよ。谷川俊太郎さんも言っておられました、ほとんど見ないって。そりゃあたりまえだ、あなた詩を書いているもんって、ぼくは言ったんです。…とくに『ねじまき鳥クロニクル』のような物語を書かれているときは、もう現実生活と物語を書くことが完全にパラレルにあるのでしょうからね。だから、見る必要がないのだと思います。書いておられるうえにもう無理に夢なんか見たりしていたら大変ですよ。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫
「夢を見ない」村上春樹と谷川俊太郎。
ぼくは、なぜか、この箇所に、とてもひかれる。
詩や(『ねじまき鳥クロニクル』のような)小説などの創作と作品の本質ということ。
村上春樹や谷川俊太郎の作品が<意識と無意識の境目を往還すること>でつくられること(なお、村上春樹のインタビュー集のひとつは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』と題されている)。
そのようなことが、「夢」という文脈において、ぼくの強い関心をひらかせるようだ。
ちなみに、ここでふれられている、詩人の谷川俊太郎との「対話」が、どこのものかは定かではないけれど、「ユング心理学」をめぐる河合隼雄と谷川俊太郎の間の「対話」のなかで、「ぼくなんかも夢は見るんだけれども、ほとんど覚えてないんです。…」と、谷川俊太郎は河合隼雄に語っている(『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫)。
「夢をぜんぜん見ない」ということは「夢をほとんど覚えていない」ということと同質のこととして、ここでは捉えてもよいのだろう(※ 河合隼雄は「みんな夢は見ているんですよ。」と、上記の「対話」で谷川俊太郎に解説している)。
ところで、「夢をぜんぜん見ない」村上春樹も、(『ねじまき鳥クロニクル』が書かれたいた頃)ただひとつだけ見る夢があると、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の「対話」で語っている。
その夢は、<空中浮遊の夢>である。
高いところに飛翔する空中浮遊ではなく、地面からちょっとだけ浮く<空中浮遊の夢>である。
この<空中浮遊>ということは「物語づくり」であると、河合隼雄は解釈をしている。
その対話を読みながら、ぼくもある時期、空中浮遊の夢、それも村上春樹と同じように、「地面からちょっとだけ浮く空中浮遊」の夢を見る時期があったことを、思い起こす。
ぼくもあまり「夢を見ない(覚えていない)」ほうなのだけれど。
「人間の成熟」ということ。- 谷川俊太郎と河合隼雄の「対話」が生みだす<ことば>。
詩人の谷川俊太郎は、1970年代後半、心理学者・心理療法家である河合隼雄との「対話」のなかで、<人間の成熟>ということの考え方をつぎのように語り、河合隼雄に聞いている。
詩人の谷川俊太郎は、1970年代後半、心理学者・心理療法家である河合隼雄との「対話」のなかで、<人間の成熟>ということの考え方をつぎのように語り、河合隼雄に聞いている。
…たとえば人間が成熟していくということは、無限に本来の自己に接近していくと考えたほうがいいということですね。
しかし、昔ながらの一種の精神修養や修身的な発想でいくと、人間というのは人格をつくり上げていくものだというふうにとらえることがありますね。ぼくはそういうふうに人格がつくり上げることのできるものかどうかというとやや疑問で、むしろ自分をラッキョウの皮をむくみたいにむいていって見えてくるもののほうが、成熟という言葉には近いんじゃないかと思うんですけれども、そういうふうに考えてもいいんでしょうか。
河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫、1993年。もとの作品は1979年に刊行
河合隼雄と谷川俊太郎との、この「対話」が収められた本『魂にメスはいらない ユング心理学講義』。
20年ほど前に、河合隼雄と谷川俊太郎という、ぼくの好きなお二方の対話ということで、文庫版を手に入れて読んだのだけれど、ぼくの側に、対話で交わされている言葉とそれらの余白の<ことば>を受け入れる素地ができていなかったからか、おそらく途中で読むのをやめてしまっていた本であった。
この「20年ほど」のなかで、西アフリカのシエラレオネ・東ティモール・香港で生きてきた経験と、また(たとえば)「自我・自己」ということをかんがえてきたこととが、ぼくの心と思考の素地に雨を降らし、陽光をあて、そこに芽を生成させてきたからか、ふたたびこの本の対話にふれると、ことばがぼくの深いところで共鳴するように感じる。
冒頭のように谷川俊太郎が語る「節」のタイトルは、<人は自分をハダカにしながら成熟していく>とつけられていて、そのことは今のぼくであるから、見えてくるようなところがある。
「人間が成熟していくということは、無限に本来の自己に接近していくと考えたほうがいいということですね」と再確認する谷川俊太郎の語りの前に、河合隼雄は、「私」というもの/ことについて、ユング心理学を土台にして説明を加えている。
…「私」というのを普通の意味の私と本来的な私とに分けているんです。ユングはそれを「エゴ」と「セルフ」と呼んでいるんです。ぼくはほかに適当な訳語が見つからないんで「自我」と「自己」と訳しているんですが、自我というのは“説明可能な私”で、それは本来的な私とちょっとずれている。特にソーシャルな場面に入っていくほど、お世辞も言わんといかんことがあったりしますが、その底のほうに本来的な自己というのがあるとぼくらは思っているんです。
河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫、1993年
この「本来的な自己」を、河合隼雄は、「字では書けないもの」という絶妙な定義を加え、せっかくそういう本来的な自己(=字では書けないもの)を持って生まれてきたのだから、できる限り生かそうじゃないかと、自分の考え方を提示している。
谷川俊太郎の「質問」は、この「字では書けないもの」により接近してゆくように、「自分自身を変革するということも可能なような自己なんですか」という表現になって、河合隼雄に投げかけられてゆく。
河合隼雄も、その質問に導かれながら、つぎのように絶妙な仕方で応答する。
自我というのは変革できるが、自己というのは変革もくそもないわけで、何も名前のつかないようなもの、いわば無限の可能性みたいなものです。
河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫、1993年
こうして、「対話」は、冒頭の谷川俊太郎の言葉、「人間が成熟していくということは、無限に本来の自己に接近していくと考えたほうがいいということですね」に、つながってゆくことになる。
そこから繰り出される谷川俊太郎の質問、「むしろ自分をラッキョウの皮をむくみたいにむいていって見えてくるもののほうが、成熟という言葉には近いんじゃないかと思うんですけれども、そういうふうに考えてもいいんでしょうか」に対して、河合隼雄はつぎのように応えることになる。
ぼくもそういうふうに思います。ただその場合、むくのも自分ですので、それができるだけの力も蓄えねばいけない。
河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫、1993年
「自我・自己」ということが、追求され、展開され、深められてゆくこの「対話」が、ぼくは好きである。
そう、河合隼雄が言うように、ラッキョウの皮をむくために、それが<できるだけの力を蓄える>ことが必要である。
真木悠介は、「詩人」とは<自分と世界との境目がはっきりしない人間>だと定義している(『自我の起原』岩波書店)(*ブログ:「詩人」とは?「詩という現象」とは?。- 真木悠介による定義の明晰さ。)。
谷川俊太郎という詩人も、その「詩人」の定義に適合するように、ぼくには見える。
この本の最後には、そんな谷川俊太郎の詩のいくつかを、河合隼雄が「解釈」を加えるという試みがなされている。
<自我と自己との境目を行き来する人間>ともいうことのできる河合隼雄ならではの試みである。
「詩人」とは?「詩という現象」とは?。- 真木悠介による定義の明晰さと根柢的な思考。
「詩人」とは、どのような存在なのだろうか?
「詩人」とは、どのような存在なのだろうか?
「詩人」は、どのように定義されるだろうか?
その言葉を、表層においてすくいとれば、単純に、「詩をつくる人」などと、いったんは書いてみることができる。
でも、これでは、「詩人」のことを、なにも語っていないようにも聞こえる。
真木悠介(社会学者である見田宗介)は、つぎのように、定義をしている。
…詩人とは、ある現代の詩人のいうように、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>として定義される…。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
詩人とは、詩をつくり、詩を発表し、詩を朗読し、詩を売る人であるけれども、詩人とは根元的にどのような人間であるかということに対して、真木悠介の書く、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>という定義は、とても明晰であるように、ぼくはかんがえる。
この真木悠介による定義は、『自我の起原』という本の「補論1<自我の比較社会学ノート>」の最後の方で、「補論2 性現象と宗教現象ー自我の地平線」の導入部分として、書かれている。
この本のタイトルにあるように、本論は、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>とは逆に、ある意味で「自分と世界との境目をはっきりさせる」自我や意識などを問うものに対して、この「補論2」が対極に置かれている。
補論2は、自我の起原を問う本論の主題の対極に、自我の地平線、あるいはその消失点 vanishing pointを問うモノグラフである。…
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
「自我の地平線」あるいは「自我の消失点」とは、言ってみれば、「自我」が(一時的に)消失し、<自分と世界との境目がはっきりしなくなる>ような経験である。
真木悠介は、この視点において、「詩という現象」をつぎのように位置づけている。
…つまり詩という現象は、性現象/宗教現象がそうであることとおなじに、<自我>という現象の vanishing point、あるいは地平線に立つ現象と考えられるからである。そして、M.K. は、少なくともこの定義における<詩人>の、極限的に直截な存在のかたちと考えられる…。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
「M.K.』とは、想像がつくように、「宮沢賢治」のことであり、「補論2」は、宮沢賢治がモノグラフの素材としてとりあげられている。
「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」(宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫)という、宮沢賢治のよく知られる文章は、「わたくし」(自分)と「林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたもの」(世界)との<境目>が、はっきりしなくなる「地平線」において、「おはなし」として、書かれたものである。
そして思うのは、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>としての詩人という定義のなかで、あるいは自我の地平線である「詩という現象」の視点において、人は、だれしもが<詩人>でありうるのだ、ということでもある。
読書に疲れたとき、ぼくは読書する。- たとえば、村上春樹『村上さんのところ』であったり。
読書に疲れたとき、ぼくは読書をする。
読書に疲れたとき、ぼくは読書をする。
と書いてみて、こんなフレーズも悪くないと思いながら、これでは何を言っているのかわからないじゃないか、と思う。
たとえば、資本主義にかんする本を読んでいて疲れたら、ここ香港でも人気の村上春樹の『村上さんのところ』(新潮社)をひらく。
『村上さんのところ』は、何年かに一度期間限定で行われる、村上春樹と読者との「公開されたメールのやりとり」の「2015年」開催の記録である。
質問メールは、17日間のうちに「3万7456通」が寄せられ、それらすべてを読んだ村上春樹が「3716通」を選び、返事のメールを書く。
『村上さんのところ【コンプリート版】』(電子書籍)には、その「3716通のすべて」(400字詰め原稿用紙で約6000枚)が収録されている。
「まるで降っても降っても降り止まぬ大雪の中、一人でシャベルを持って雪かきしているみたいな感じで、最後のほうはかなりふらふら」であったというほどの「大作」であり、それだけを聞くと、読む側も疲れそうである。
けれども、一通一通のメールはさらっと読めるし、村上春樹による返事のメールは、どんな質問にも軽快に、ユーモアをふくめながら書かれていて、「質問への応答の仕方」を学ぶことだって、その気になれば、楽しみながらできる。
なによりも、あの、村上春樹の「リズム」は健在で、その場で即興で曲のちょっとしたフレーズを作って、リズムをつけて演奏するような「返信」だ。
そんなわけで、たとえば資本主義の本に疲れたら、ぼくはこの「リズム」にひたりながら、『村上さんのところ』を読む。
気がつけば、『村上さんのところ』の「3716通のすべて」は、はるか先である。
ときおり本をひらいて読むのだけれど、いっこうに、すすんでいかない。
読了を意識してしまうと、「まるで降っても降っても降り止まぬ大雪の中、一人でシャベルを持って雪かきしているみたいな感じ」になってしまうから、読み方は、読了を目指さないことである。
それにしても、いろいろな質問が投げかけられる。
こんなことを(こんなことまで)村上さんに聞くことの意味を、ついかんがえてしまったりするほどだ。
この期間限定のサイトを見ながら、ある人は、村上春樹のことが大好きな人がたくさんいることを感じ、「春樹さんはこのように言われて、『本当の俺のことも知らないくせに、よく言うぜ、けっ。』て思うことがありますか?」と質問を投げかけられる。
村上春樹は、この問いに、つぎのように応えている。
本当の自分とは何か?って、よくわからないですよね。人間というのは場合場合によって、ごく自然に自分の役割を果たしているわけで、じゃあタマネギの皮むきみたいにどんどん役割を剥いでいって、そのあとに何が残るかというと、自分でもよくわかりません。だから「本当の俺のことも知らないくせに、よく言うぜ、けっ。」みたいなことは、まったく思いません。せつせつと自分の役割を果たしているだけです。たぶん本当の僕というのは、いろんな役割の集合としてあるのだろうという気はします。…
村上春樹『村上さんのところ【コンプリート版】』新潮社
「本当の自分とは何か?」について、これだけ簡潔に、これだけ軽快に、でも本質の一面をつく仕方で書くのは、けっこう(というか、かなり)むずかしいものだ。
こんな「メールのやりとり」に、つい、立ち止まってしまって、『村上さんのところ【コンプリート版】』の世界でふりつづく大雪のなかで、ぼくの雪かきはまだまだつづく。
こんなふうにして、読書に疲れたとき、ぼくは読書をする。
追伸:
実のところ、香港の建築現場に組まれた竹の足場が、なぜか、ぼくに『村上さんのところ【コンプリート版】』
を連想させたのであったことを、ここにメモ。
だから、竹の足場の「芸術」の写真を、ともに、ここにアップロードしておきたいと思うところです。
香港で、改装された飲食店に立ち入って、感じたこと、かんがえたこと。- 「環境」と「人」と。
香港では、店舗やレストランなどの「内装」や「外装」が頻繁に変わる/変えられる。
香港では、店舗やレストランなどの「内装」や「外装」が頻繁に変わる/変えられる。
(いろいろと背景や事情はあるのだけれど/あるのだろうけれど)それにしても、よく変わる。
「転がる香港に苔は生えない」(星野博美)と言われるように、香港はまさしく転がりつづけ、動きつづける。
あるチェーンの飲食店の改装工事が終わって、足を運んでみる。
「以前」とは、まったく様相が変わり、デザインだけでなく、雰囲気も変わっている。
でもぼくが驚いたのは、いつもの週末であれば、ひどく混んでいる店内に、結構空席が見られたこと。
そういうわけで、店内はしずかでもある。
来ている人たちも、以前とは少し異なった人たちのようにも感じられる。
ふと、「環境」は、その環境にマッチするような人たちや振る舞いを引き寄せる、ということをかんがえる。
店内を見渡しながら、そのことが「当てはまる」のかどうかはわからず、「たまたま」だけかもしれないとも思う。
- ある視点で、「仮説」を立てる
- ある期間、定点観測をする
- 1の仮説を2から、かんがえてみる
ぼくが、ここ香港で、10年以上にわたって、いくどもいくども繰り返してきたプロセスである。
今回も、とりあえず、「仮説」を据え置いて、これから「定点観測」をしてゆくことになる。
それにしても、「環境」ということをかんがえると、人は環境につくられ、また環境は人につくられることをかんがえる。
「歴史」ということでも同様で、人びとは歴史をこうむるだけでなく、歴史は人びとによってつくられる。
「環境」や「歴史」のカッコ内はいろいろと変えることができ、たとえば、「組織」など、いろいろなバリエーションがある(動詞部分、「つくる」も変えることで、いろいろばバリエーションがある)。
いずれにしても、なにかに<働きかけられる>ものとしての人と、なにかに<働きかける>ものとしての人がいる。
そのような相互作用のなかに、「環境」が生まれ、また「歴史」が生まれる。
こんなことを書いても、言っても、「意味がない」と思われるかもしれない。
けれども、ぼくたちは、ときどきの状況によって、<働きかけられる>ことか、あるいは<働きかける>ことのいずれか(だけ)に焦点をあてて、<働きかけられ/働きかける>ものとしてのじぶんを、どこかに忘れてしまう。
だから、ときに、ぼくはこんなことを思い起こして、「じぶんのいる場所」をたしかめてみたりする。