ツールの「メンテナンス」の大切さについて学んだこと。- シエラレオネで、東ティモールで。
西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールで働いていたころ(12年から17年ほどまえのことになるけれど)、ドライバーのスタッフの方々が、車両をとても丁寧に、時間をかけて手入れし、メンテナンスしている姿に触発されたことがある。
西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールで働いていたころ(12年から17年ほどまえのことになるけれど)、ドライバーのスタッフの方々が、車両をとても丁寧に、時間をかけて手入れし、メンテナンスしている姿に触発されたことがある。
シエラレオネの電気も水道もない山奥、東ティモールの山間部にひろがるコーヒー農園など、そのような道があってないようなところを走る車両には、とても負荷がかかる。山奥ではなくても、交通機関どころか、交通網も整備されていないから、車両(さらにはロジスティクス)はプロジェクトをすすめるうえでのコアになる。
人の命も、仕事も、車両にかかってくるところがあり、ドライバーの方々は、車両のメンテナンスにいつも熱心である。朝早くから、車両のエンジン掛けから点検にいたるまで、ほんとうに余念がない。
そんな「姿」を鏡にして、ぼくは、じぶんの「姿勢」を見つめていた。
ドライバーの方にとっての「車両」は、ぼくにとっての「コンピューター」ということもできる。
もちろん、ぼくは、コンピューターだけで仕事をしていたわけではない。プロジェクトの「現場」、具体的には、難民キャンプや村々、コーヒー農園などの現場での仕事は、ぼく自身、つまり人間が問われるところだ。
だから、ぼくは「人間全体」が問われるところに、押しだされたのである。それはとてもチャレンジングであったし、ぼくも全身全霊で取り組んだ。
そんな「現場」にありながら、プロジェクトの運営や組織マネジメント、対外関係などにおいて、仕事のツールはやはり「コンピューター」であった。それは、ぼく自身の「拡張器官」であるとも言える。
けれども、都会のオフィスにあるコンピューターと異なり、プロジェクトの現場、それも電気や通信が整っていない現場でのコンピューター仕事である。そんな事情もあって、先進産業社会における都市で仕事をするのとは異なる諸々の注意点を含め、いろいろと気をつかうところであった。
いろいろと気をつかってはいたのだけれど、それでも、ぼくはほんとうにコンピューターをメンテナンスできているだろうか、また、ぼくの仕事を最善の仕方ですすめてゆくツールとなるようにケアできているだろうか、と、ドライバーの方々の車両メンテナンスにいつも横で接しながら、じぶんを振り返っていた。
それから、どれくらいケアできてきたか、どれくらいケアできているか。香港に移住してから、じぶん自身のコンピューターを含めて、どれくらいケアできてきたか。自信があるわけではない。忙しさを理由に、あとまわしにしてきたところもある。
でも、ときに、ドライバーの方々の「姿」がぼくの意識に、ふと思い起こされる。そんな「姿」が、メンテナンスの大切さを、ぼくのなかに呼び起こしてくれるのである。
音楽の「楽しみ」そのもののほうへ。- 村上春樹が小澤征爾との対談で学んだこと。
「学ぶ」ことにおいては、「学ぶ」ことそのものに楽しみや歓びがあふれてくるものであるところへとひらいてゆくことが大切であると、先日のブログで書いた。
「学ぶ」ことにおいては、「学ぶ」ことそのものに楽しみや歓びがあふれてくるものであるところへとひらいてゆくことが大切であると、先日のブログで書いた(ブログ「「学ぶ」を、ひろいひろい空間に解き放つこと。- 「学ぶ」にぬりこめられた時代の精神。」)。
この時代や環境などのなかで、「学ぶ」ことが「~ために」という功利的次元へと、あまりにも狭く押しこめられてしまっている。「学ぶ」ことが、何かのための「手段」として、何かを達成するための「手段」としてばかり語られて、それ自体の楽しみや歓びが肩身の狭い思いをしているようなのだ。
なにも、手段としての学びが「悪い」わけではなく(手段としての学びがどれだけ世界を豊かにしてきたか)、楽しみや歓びとしての「学ぶ」ことを、いっそう鮮烈に取り戻してゆくことが、生きることの本質であるように、ぼくは思う。また、むしろ、楽しみや歓びとしての「学ぶ」が、手段としてもいっそう、その役割を深めるのだと、ぼくは思っている。
「学ぶ」ことそのものの楽しみと歓びということをこうして書いていたら、ふと、ある文章に、ぼくはまた惹かれた。小説家の村上春樹が、小澤征爾について、また小澤征爾との共著『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』(新潮社)について書いた文章である。
この文章は、CD「『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』で聴いたクラシック」(DECCA)のライナーノートとして、村上春樹が書いた文章である。
CDのタイトル通り、うえで挙げた本のなかで取り上げられたクラシックが集められた、とても贅沢な曲集に、これまた贅沢に、村上春樹が文章を寄せている。
『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』という本はとても素敵な本で、読んでいるだけで音楽が聴こえてくるかのようだ。でも、やはり、(CDを通してだけれども)じっさいの音楽を聴きたくなる。そんなふうにわきおこる欲求を、さーっと満たしてくれるCDである。
そのCDのライナーノートで、村上春樹はつぎのように書いている。
…僕が小澤さんとの対話から学んだいちばん大きなことは、「音楽は音楽そのものとして楽しまなくてはいけない」ということだった。当たり前のことだけれど、音楽は音楽であり、音楽として自立し、完結するべきものなのだ。…
「小澤征爾さんとの一年」ライナーノート、CD「『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』で聴いたクラシック」(DECCA)
「当たり前のことだけれど」と注記しながら、しかし、村上春樹は、直球で、この言葉を書いている。「音楽は音楽そのものとして楽しまなくてはいけない」、ということを。
音楽の「周辺」には、あまりにも多くのことがらがあり、あまりにも多くのことが語られる。音楽には、あまりにも多くの意味づけがされてしまう。そんななかで、「音楽そのものの楽しさ」が、ときとして、どこかへ身をかくしてしまうのだ。
音楽は音楽そのものとして楽しまなくてはいけない。学びは学びそのものとして楽しまなくてはいけない。
何かを、そのものとして、ただ楽しむこと。それは、日々の暮らしのなかで、忘れてしまいがちなことであり、ぼくたちは、その経験のただなかで、楽しさと歓びを取り戻さなければならない。
ちなみに、ぼくがマーラーをきちんと聴きたくなったのは、『小澤征爾さんと、音楽について話しをする』の本を読んでからであったと思う。
「片づけ」を「済ましてしまう」のはもったいない。- 片づけの「プロセス」を大切にする。
家の「片づけ」をする。ここでは、片づけのうち、部屋に散らかったものを元の場所にもどす「整頓」ではなく、必要ではないものや歓びではないものを「整理」していくこと、つまり「捨てること」について書いている。
家の「片づけ」をする。
ここでは、片づけのうち、部屋に散らかったものを元の場所にもどす「整頓」ではなく、必要ではないものや歓びではないものを「整理」していくこと、つまり「捨てること」について書いている。
タイトルに書いたように、「片づけ」を「済ましてしまう」という仕方はもったいない、と、ぼくは思う。
片づけは、ともすると、「さっさと済ましてしまうもの」と思われがちである。ほかにやることがいっぱいで、「さっさと済ましてしまう」ことができるのであれば、それに越したことがない、というのも、それはそれでひとつの見方でありあり方である。
けれども、たとえば、じぶんや人生を変えてゆこうとするとき、あるいはそのように意識はしていなくてもそのように心の奥のほうで望んでいるとき、「片づけ」を「済ましてしまう」のは、もったいないと思う。
片づけの「プロセス」そのものに、じぶんや人生を変えてゆくことの気づきやヒントなどが、いっぱいに、いっぱいにつまっているからだ。
片づけを「済ましてしまう」という仕方は、その言葉が語るように、片づけを完了した状態にプライオリティをおき、片づけの「プロセス」そのものを脱色してしまう。「プロセス」は、なるべく効率的なほうがいいとされる。
「プロセス」の効率性には、片づけそのものの効率性だけでなく、他の「ながら」行動を重ねることで時間の効率性を上げることも考慮されたりする。ぼくも以前はよくやっていたように、オーディオブックを聴きながら、片づけをすることで、一定の時間を二重に有効に使うことができる。
オーディオブックを聴きながらの片づけ自体が「悪い」と書いているわけではない。それがじぶんにとって「適切」なときもある。
そうではなく、片づけをしながら、「片づけ」を通して、オーディオブックを聴くのではなく、「じぶんの内面に耳をかたむける」ことで、じぶんや人生を変えてゆくときの気づきやヒントなどの「氷山の一角」にふれることができることを、体験として知っておきたい。
とかく、人は、「片づけを済ます」というように考えがちだからであり、また、「じぶん」と向きあうことをあらゆる手段・方法で避けようとするからである。
「片づけ」は、そのあり方によって、「片づけを済ます」片づけにもなるし、じぶんや人生を変えてゆく「プロセス」としての片づけとすることもできる。
ぼくは、この「プロセス」を、なるべく一歩一歩、たしかめながら、踏みしめているところである。
「学ぶ」を、ひろいひろい空間に解き放つこと。- 「学ぶ」にぬりこめられた時代の精神。
「学ぶ」という言葉を目にしたり、「学ぶ」という言葉の響きを耳にしたとき、どのような気持ちをいだきますか?
「学ぶ」という言葉を目にしたり、「学ぶ」という言葉の響きを耳にしたとき、どのような気持ちをいだきますか?
人は、生きてゆくなかで、言葉に、じぶん自身の経験や社会的な意味合いをぬりこんでゆくのだということを思います。もちろん、「学ぶ」という言葉も例外ではありません。
じぶん自身の経験、それはたとえば両親や先生などの他者とともにつくってゆく経験でもありますが、「学ぶ」ということは、「じぶん」がつくられる段階からの経験であるため、じぶんが生きてきた環境やともに過ごしてきた人たちの影響を受けるものでもあります。
「学ぶ」ということをじぶんなりに定義する(できる)以前に、あるいはそもそも「学ぶ」という言葉以前に、「学ぶ」ということを経験として生きてきたわけです。
「じぶん」をつくってゆく段階で、「学ぶ」ということのあり方に疑問をもちながら、じぶんなりの「学ぶ」ということを考えてゆくこともできますが、じぶんの奥深くにまでしみこんだ経験のためか、また社会的な(周りの)影響からか、あまり考えずに大人になって、そのまま生きてきてしまうということもあります。
ぼくの経験としては、「学ぶ」ということのあり方にたいする疑問がどんどんどんどん大きくなっていったことから、その居心地の悪さが原動力になる仕方で、居心地の悪さをのりこえたくてもがいているうちに、いつしか、より広い海に出ていたというところだと思っています。
「学ぶ」は、ぼくの経験のうちに、試験やよい大学に入るためといった「何かのため」、それからそれをもっと時間的にひろげた「将来のため」、ということが、幾重にも幾重にも、ぬりこめられていたのでした。
ぼくの心身は、そんな「学ぶ」に、疑問を感じつづけてきたのです。
大学に入ってしばらくして、ぼくは、経済学者であった内田義彦(1913年~1989年)の本に出会います。岩波新書に収められている本で、たしか『読書と社会科学』という本だったと思います。
本を読むことで、社会をよみとく「眼」をつくってゆくこと。このことは、本を読み、学ぶことは「社会をよみとくため」ということでもあるのだけれど、それ以上に、ぼくは「学ぶ」こと自体の<楽しさ>をそこに見つけたのだと思います。
「~のため」ということと共に、それ自体で楽しいこと。つまり、「学ぶ」は手段的であるとと共に、あるいはそれ以上に、それ自体が、人が生きるということの本質なのだということ。
<学ぶ>ということは、「~のため」という理由が目的を必要としないままに、ほんとうは、学ぶことそのもののうちに歓びがあるということを、そのとき、ぼくは実感として、また意識的にわかりはじめたのだと思います。
「学ぶ」という言葉にどこか重い響きを聞きとってしまうのは、ひとつには、そこに「~のため」という功利的な考え方と経験があまりにも深く深くぬりこめられているからであると、ぼくは思っています。
「~のため」ということがいけないわけではありません。問題なのは、「学ぶ」を「~のため」へと、あまりにも狭めてしまっていること。だから、「学ぶ」を、もっともっとひろい空間に解き放ってゆくことが必要だということです。
でも、だからといって、「学ぶを楽しむべき」とやってしまうのはちがいます。楽しさや歓びは、強引に外側からつくるものではなく、内側からひらかれてゆくものです。
学ぶことを楽しむこと、そして学ぶことで成長すること。「~のため」という理由や目的の手前のところで、学ぶことや成長すること自体が歓びであること。
それは、どんな人にも、その生きることの核心に装填されている欲望である。そして、そのように解き放たれた「学ぶ」や「成長」ということが、これからの時代をひらいてゆく。ぼくはそう思います。
1995年、香港で撮影した写真を見て。- あのときの心象風景を感覚しながら。
先日、写真の整理整頓をしているときに、どこかにまぎれて所在がわからなくなっていた写真が出てきた。
先日、写真の整理整頓をしているときに、どこかにまぎれて所在がわからなくなっていた写真が出てきた。
「夜のマクドナルド」の写真。1995年、香港で撮影した写真である。
1995年、ぼくは大学の夏休みに、香港にいた。
成田空港からユナイテッド航空で香港に飛び、そこから中国の広州に行き、そこからベトナムに飛んだ。2週間ほどの一人旅で、ベトナムからふたたび広州、そして香港に戻る、というルートであった。
「夜のマクドナルド」の写真は、この旅の、初日の夜に撮影したものだ。
「撮影した」と言っても、当時はデジタルカメラなどはなく、使い捨てカメラを片手に撮影したもので、またじっさいの風景をきりとるというよりも、じぶんの心象風景をきりとろうとしたものであった。
初めての飛行機での旅は、この1995年の香港であった。
夜遅くに、以前の国際空港であった啓徳空港に到着したぼくは、バックパッカーたちが泊まる「重慶大厦」を目指し、あまりよくわからないままに、バスに乗車した。数人のバックパッカーたちが乗車するバスに乗り、彼(女)らが降りるところで、ぼくも降りた。
今であれば、行き先や行き方を適切に知ろうとするだろうし、あるいは声をかけていろいろと聞いたりするだろう。でも、そのときのぼくは、そのように振る舞うことをしなかったし(できなかったし)、なんとなく、ひとりで、じぶんのアンテナのゆくままに行ってみたかったのかもしれない。
そんなわけで、数人のバックパッカーたちが降りる場所で、ぼくもバスを降りて、夏の蒸し暑い香港の街のなか、「重慶大厦」を探すために歩くことにした。
しかし、一向に見つからず、時間だけが過ぎてゆき、時刻は夜中の12時を回っていた。途方に暮れながらも、ぼくは「対策」を練ることにし、そのとき、ぼくは、マクドナルドを見つけたのであった。
普段、東京ではマクドナルドはほとんど行かなかったのだけれど、香港のマクドナルドを見つけ、「知っている場」としての安心感を得ることができた。今ではなんでもないことのように思ってしまう出来事も、そのときは、ほんとうに安堵したことを感覚として覚えている。そして、そこで場所の目処をつけ、ぼくはふたたび、夜中の香港の街にくりだしてゆく「力」を得たのであった。
こうして内からわきあがる「力」を得て、マクドナルドをあとにし、その「心象風景」を写そうと、ぼくは、「夜のマクドナルド」にカメラを向けたのである。
「夜のマクドナルド」の写真は、そんな写真である。
なお、その夜は、そのあと、ほんとうに不思議な力にみちびかれてゆくように、ぼくは「重慶大厦」にたどりつき、そのなかの宿のひとつに、泊まることができた。
1995年から12年後の2007年から、ぼくは香港に住むことになる。
「夜のマクドナルド」で途方に暮れていたときは、そんなことはまったく思いもしなかったことである。
「重慶大厦」は、香港のチム・サー・チョイというところに、今も健在だ。そのチム・サー・チョイは以前の仕事場があったところでもあり、ほんとうに多くの時間を過ごしてきたところである。
でも、あの「マクドナルド」は、存在していないようだ。
じっさいに、あの「マクドナルド」がどこにあったのかは、ぼくは大体の感覚しかもっていないのだけれど、香港に住むようになってからチム・サー・チョイ界隈を探してみても、あの「マクドナルド」を見つけることはできなかった。
そんな香港も、住むようになってからほぼ12年が経つところである。
あの「マクドナルド」を現実には見つけることができなかったけれども、そのあいだに、ぼくはじぶんのなかに<別のもの>を見つけることができたように思う。
「過去」を手放しながら、 意識に現れた恩師の言葉に、ふたたび向き合う。
だいぶ昔のことで、正確にいつだったのか覚えていないのだけれど、高校生か大学生になってから、小学生のときの恩師に会いにいったことがある。もう、20年から25年ほどまえにことになる。
だいぶ昔のことで、正確にいつだったのか覚えていないのだけれど、高校生か大学生になってから、小学生のときの恩師に会いにいったことがある。もう、20年から25年ほどまえにことになる。
こんな具合に「いつ」だったのかも覚えていないし、またなぜ会いにいったのか、そのときぼくはなにを抱えていたのかも覚えていない。
けれども、あのとき訪れた学校(恩師が移られていた別の学校)の校門から下駄箱にかけての風景、そしてその風景の空気感のようなものが、なぜかぼくの記憶のなかに残っている。
でも、ぼくのなかにありつづけている、そのときの「教え」が、より鮮烈に残っている。
放課後の、夕暮れ時のことだったと思うのだけれど、近況を含め、いろいろと話をしながら、(たぶん)最後のほうで、恩師がぼくに向かっていわれたのだと思う。
「過去を振り返るときではないでしょ」
そのときに発せられた言葉はもう少し違う言葉だっただろうけれど、ぼくの「受け取った言葉」としてのニュアンスと混ぜ合わせると、そのような言葉であった。
「過去」を振り返っている場合ではなく、今を、そして未来に向かって歩むときでしょう、と、厳しさと優しさの両方が込められた言葉を、恩師はぼくに向けて放ってくれたのである。
昔の先生に会いにくるということは、ぼくが「現在」に問題・課題を抱えていて、ある意味「逃げ場」としての<過去>へと戻ってきたように、恩師はどこかで感じとられたのだろう。会いにきたぼくを、逆に「つきはなす・つきかえす」ことで、現在と未来にぼくを向けさせたのであった。
そんな言葉を受けて、「せっかく会いにきたのに…」という気持ちがいくぶんか湧いたのだけれど、時間が経てば経つほどに、ぼくはこの言葉に生かされているように感じるようになっていった。
そして今、現在と未来に目を向けながら、しかし、物理的に(家のあちこちに)そして心理的に(ぼくの内面に)、さまざまな「過去」が、好ましくない仕方で散乱し、つみあがり、ながれをせきとめている状況に正面から向き合っている。
恩師の教えからブログを書き始めたのだけれど、じっさいには、そんな状況に向き合っていたら、恩師の言葉が思い出されたのである。
「過去を振り返るときではないでしょ」
「過去」を大事にしない、ということではない。「過去」を振り返り、「過去」にきちんと向き合うべきときもある。「過去」の思い出にひたることだって、あっていい。
でも、「過去を振り返るときではないとき」が、やはりある。
恩師はそのようなタイミングを絶妙の仕方で感知し、教え子であったぼくに、<気づきの機会>を与えてくれたのである。「機会」と書いたのは、当時、ぼくが抱えていた問題・課題を詳細に話した記憶はないからである。ぼくがじぶん自身で気づき、向き合う機会を与えてくれた。ぼくはそう思っているのである。
物理的に、そして心理的に、「過去」を手放しながら、ぼくの無意識から意識の表層へとふたたび顔を見せた、恩師の言葉。
<気づきの機会>としてのこの言葉に、ぼくは20年以上経ったあとに、ふたたび向き合っている。ここ香港で。
続、やはり「速さ」の香港。- 香港に12年住んできたからこそ感じるそのすごさ。
続、やはり、「速さ」の香港。ここで「続」と言うのは、昨日、ブログ「やはり、「速さ」の香港。- レストランで、あれよあれよの「速さ」にふれて。」を書き、その「続き」ということで、さらに「速さ」について書いているからである。
続、やはり、「速さ」の香港。ここで「続」と言うのは、昨日、ブログ「やはり、「速さ」の香港。- レストランで、あれよあれよの「速さ」にふれて。」を書き、その「続き」ということで、さらに「速さ」について書いているからである。
昨日ブログを書いていたときには、「続」を書くことはとくに考えていなかった。もちろん、その可能性を明確に排除していたわけでもないけれど、先日ここ香港での大衆的なレストランで体感した「速さ」のことを書いているときには、「続」を書くことは予定になかった。
では、なぜ、翌日になってふたたび書こうかと思ったのか。
「速さ」に遭遇したからである。
それも、一度きりではない。立て続けに、遭遇したからである。
なお、ある種の「認知バイアス」がかかったようなこともあるかもしれない。つまり、昨日「速さ」のことを書いたことで、ぼくの「意識」に<速さの香港>ということがこびりついていて、ぼくの意識が、<速さの香港>を確証するような出来事を、さまざまな出来事から切り取ったのかもしれない。
この「認知バイアス」の可能性をぼくは否定しない。否定しないけれど、それでも、そんな「認知バイアス」がどうであれ、やはり<速さの香港>が否応なく存在している。12年香港に住んできたぼくは、そう思う。
「速さ」のなかでも印象にのこった「速さ」は、まずは、コンピューターなどの機器やアクセサリーを販売する店舗が集合的に連なっているコンピューター・センターでのことであった。
ある店舗に入って、抱えている問題と必要としているデジタル関連アクセサリーの特色を伝えると、これまた、あれよあれよと、ものごとがすすんでゆく。会話のやりとりがすすみ、実際に試すためにアクセサリーが開封され、電源につないで試し、購入の意思を伝え、支払いをし、お礼を交わす、という一連の流れが、10分ほどの出来事であった(ちなみに、要件は2件あり、ともに完了してしまった)。
前日にはいろいろと、ああでもない、こうでもないと対処法をさぐっていたのだけれど、それが物の見事に10分ほどで終わってしまったのである。1時間ほどを予定していたのが、あっという間に完了したのであった。
それから、スーパーマーケットで遭遇した、レジの店員さんの「速さ」。これも圧巻であった。
いくつかの品の入ったカゴをレジに置き、メンバーカードがある・ないのやりとりをしながらエコバッグをとりだし、バーコードが読み取られて表示される金額を目でおう暇もなく、バーコードの読み込みが終わっってしまう。ぼくはすぐさま、電子マネーで支払いをし、領収書をうけとってパスケースのなかに入れようとしていると、店員さんのほうはすでになにもかもが終わっている。
時間の流れでこのように書いたが、実際にはそれぞれの作業が重なっているから、「一気に」終わってしまうような体感であっったのだ。
「いや~、あいかわらず速いなぁ」と思いながら、ぼくは数日前のことを思い出していた。
パン屋さんでパンを購入してレジにならんでいるときのことであった。ぼくのまえに購入していた人がお財布にお金をしまっていて、そのうしろに、ぼくはつぎの番でならんでいた。
ぼくの番がやってきて、トレイにのせたパンを台にのせる。でも、店員さんはパンを袋に入れるのだけれど、レジ打ちをしない。瞬間、ぼくは気づく。すでにレジ打ちが終わっっていることを。
ぼくのまえにいた方がお財布にお金をしまっているあいだに、ぼくのトレイにのせられたいくつかのパンの料金は、すでに打ち込まれていたのだ。
こんな具合だから、「続」、速さの香港を書くことにしたのだ。
香港の人それぞれの身体に、それから社会のリズムのなかに刻印されている「速さ」。
12年も香港に住まなくても、いつでもどこでも体感できる<速さの香港>だけれど、12年住んできても感じるそのすごさ、さらには12年住んできたからこそ感じるそのすごさ、というのもあるように、最近思うのだ。
やはり、「速さ」の香港。- レストランで、あれよあれよの「速さ」にふれて。
先日、ここ香港の大衆的なレストランで、遅めのランチをとっていたところ、なにやら店内が急に混みだして、ふりかえって見ると、普段見られないような行列が店内にできていた。
先日、ここ香港の大衆的なレストランで、遅めのランチをとっていたところ、なにやら店内が急に混みだして、ふりかえって見ると、普段見られないような行列が店内にできていた。
普段、叉焼(チャーシュー)などをテイクアウトするために、ときおり人が店内にやってきて、カウンターごしに好みを伝えたりするのを見ることはあるのだけれど、こんなに多くの人が店内に行列をなして並んでいるのを見るのははじめてであった。
ふと思ったのは、ツアーグループのような集団がやってきたのだろうか、ということであった。でも、広東語を話しているし、「ツアー」ではない。
そんなことを思いながら目をやると、行列は、すでに、ぼくが座って食事をしていたテーブルの横までできている。
食事をすすめながら(叉焼飯を食べていたのだと記憶している)、次第に状況がつかめてくる。どうやら、16時に、テイクアウト用の特別メニュー(鴨の料理)が売り出される、ということのようだ。値段も手頃である。
その特別メニューを目当てに、16時直前に、急に人が並びはじめたのである。20人から30人くらいだろうか。
店員さんたちはいつもどおりに対応しているようだけれど、並んでいる人たちはなにやら要領がうまくつかめないままに、店員さんや前後の人たちと言葉を交わしている。
それから、行列が急に大移動をはじめる。どうやら、整理券をもらってから、レジに行き支払いをすませ、それから戻ってきて品を受け取る、という手順のようだ。並んでいる人たちは少し不満げにつぶやきながら、大移動をしている。
そんな様子に気を取られ、これはちょっと大変だぞと思いながら、ぼくは食事をつづけたのであった。
ところが、そんな状況は、あれよあれよと、あっというまに消え去ってしまった。10分くらいの出来事だったろうか。食事を終えたころには、あの行列はあとかたもなく消え去っていたのである。だから、食事を終えて、レジに行ったときには、だれもレジに並んでいなかったのである。
「いや~、すごいなぁ」と、ぼくは感心してしまう。
行列から聞こえた不満のつぶやきはどこへやら。この速さでは不満はいっきに消えただろう、という速さである。
支払いを終えると、年配の方がレジにやってきて、あの特別メニューを注文したいという。どうやら、特別メニュー目当てにやってこられたようだ。しかし、店員さんは「売り切れよ」と伝えている。
この段階でわかったことだけれど、特別メニューは限定量での販売である。16時前に来て並ばないと、購入できないほどの人気のようだ。
こうして、帰り際になって、ぼくは「あの行列」の全貌を理解したのであった。
そして、いつものことでもあるのだけれど、やはり、香港の「速さ」に圧倒されてしまう。
もちろん、なんでも速ければいいというものでもない。けれど、この「速さ」には、おどろかされるし、圧倒されるし、また、<香港なるもの>がそこにあるのである。
「聴いていて、わかる」と「書いて、わかる」の段差。- メールマガジンを書きながら思ったこと。
「聴いていて、わかる」と「書いていて、わかる」は違うということを、メールマガジンのための文章を書きながら、また書いた文章をメールマガジン「The Blog & More of Jun Nakajima」にのせてご登録いただいている方々に送信したあとに、ぼくはしみじみと思う。
「聴いていて、わかる」と「書いていて、わかる」は違うということを、メールマガジンのための文章を書きながら、また書いた文章をメールマガジン「The Blog & More of Jun Nakajima」にのせてご登録いただいている方々に送信したあとに、ぼくはしみじみと思う。
「聴いていて、わかる」とは、誰かの話を聴きながら(あるいは「聞きながら」)、「それは知っている」とか、「それはわかっている」とか思うこと、つまり、じぶんはそのことについて「わかっている」と思うことを、ここでは指す。
このような思いは、「聴く(聞く)」だけでなく、本を読んでいるときにも、やってくる。本を読みながら、「こんなことは知っている」とか、「こんなことはわかっている」とか思うことである。
でも、そんなふうに思っていることがらも、じっさいに、じぶんで文章として書くとなると、途端に書けなくなってしまったり、思っていたほどわかっていないことに気づくことがある。
ぼくが配信させていただいているメールマガジンにかぎらず、このブログを書きながら、そのように思うことがやはりあるのである。
とくに、ぼくが勝手に師とさせていただいている、社会学者の見田宗介(真木悠介)先生が書かれるもの、「現代社会の構造」や「消費化・情報化社会」のことから、さらには、「時間」のことから「自我」のことにいたるまで、ぼくはこれまでになんどもなんども、辞書を引く以上の頻度で、読んできた。世界のどこにいこうとも、いつだって、何冊かは携えてきた。
でも、見田宗介(真木悠介)先生の世界観や視点や論理に触発されながら、それらをこのブログで書こうとするとき、「書けないこと」があるのだ。それも一度ではなく、いくども、である。
そこでくじけずに書こうとして、なんとか書いているときに、「わかる」というのが、「読んでいて/聴いていて、わかる」というのとは違う次元で、ひらかれるように感じることがある。
これが、「書いて、わかる」である。
ふつうは、「わかって、書く」ということなのだろうけれど、書いている感覚として、<書いて(いて)、わかる>というのが、ぼくの実感である。
<書いて(いて)、わかる>のは、「聴いていて、わかる」のとは、だいぶ、段差があるのである。
このことは以前から気づき感じていたことで、だから、簡単で平易なことがらであっても、それらを聴きながら、あるいは読みながら、ぼくは「それはわかっている」というふうには聴かないように/読まないようにしてきた。
簡単で平易なことがらであっても、それらを話したり、書いたりしている方々の「わかる・わかっている」度合いや次元は、表面的に聴いたり読んだりしている側がわかるのとは異なっているし、うえで述べたように、聴いたり読んだりして「わかる」ようでいても、じぶんが話したり書いたりすると思ったようにはできない程度の理解しか、じぶんにはなかったりするからでもある。
インプットとアウトプットの、この段差を、メールマガジンの文章を書きながら、また送信したあとに、ぼくは思ったのでした。
※ なお、メールマガジン「The Blog & More of Jun Nakajima」(現在のところ、2週間に1度配信)のご購読登録がまだの方、ぜひ、ご登録ください(このページ下に登録フォームがございます)。
香港で「食事」が運ばれるのを待っていたら。- 「しきり越し」のトレイと笑顔。
ここ香港で、ファーストフード店で、数字の書かれた立て札をテーブルにおいて、注文した食事が運ばれるのを席について待っている。午前の時間ということもあって、食事時であれば人でいっぱいになるであろう店内も、人はまばらである。
ここ香港で、ファーストフード店で、数字の書かれた立て札をテーブルにおいて、注文した食事が運ばれるのを席について待っている。午前の時間ということもあって、食事時であれば人でいっぱいになるであろう店内も、人はまばらである。
やがて、カウンターごしに、食事が準備されたのが見え、店員さんがトレイをもってきてくれる。けれども、トレイには注文したすべての品がのせられているのではなく、残りの注文のものは待ってくれとのことである。
なにごともとてつもなく「速い」香港であるけれど、残りの注文のものは少し時間がかかっているようだ。
すると、少し距離をおいて、店員のおばさんがトレイを手に、声をかけてくる。どうやら、しきりを超えてこちらに来てくれるのではなく、しきり越しにトレイを手渡ししたいようで、ぼくはトレイに手を伸ばして、残りの注文のものを受け取る。おばさんは満面の笑顔である。トレイを受け取りながら、「ありがとうございます」の言葉が自然に出てくる。
なんでもないようなやりとりだけれど、以前であれば、「こちらのテーブルにまでやってくるのが面倒くさくて、しきり越しに渡してくるとはなんぞや」と、絶対にあってはならないという気持ちが、どこかでわいてきていた。日本であれば「失礼」と思われるかもしれないことである。
ところが、香港の環境のなかに身をおき、観察し、そこのシステムを駆動する「原理」のようなものを<理解する>なかで、「これはこれ」というように見るようになり、また「おっ、そうきたか」と、面白さを感じるようになった。
「これはこれ」という見方では、しきり越しのほうが、速いし、効率的である。また、社会的視点でみれば、エネルギー使用量は少ない。そんなふうにぼくには見える。また、今回は予期していなかったけれど、「おっ、そうきたか」と、ぼくはトレイを受け取ったのであった。
そんな出来事があった翌日。今度は、香港の食堂的なレストランで、少し遅めの時間のお昼ご飯を注文したら、やはり、「しきり越し」に、注文が運ばれてきた。
この店では、以前も、「しきり越し」に注文がやってきたのだけれど、そんなことは忘れていて、注文が来るだろう通路側に近いテーブルのうえを広めに空けておいたから、「しきり越し」に料理がテーブルにやってきたときは不意をうたれてしまった。また、注文してから5分もしない高速でやってきたから、さらにびっくりしてしまった。
注文した二品目も、「しきり越し」にやってきたときは、心の準備はできていたのだけれど、やはり通路側に近いテーブルのうえを空けておいたから、その逆から料理がやってきたときは、店員のおばさんがテーブルにのせるスペースがなくて、とっさにぼくは手をのばし、麺類を受け取ることになった。
やはり、一連の動作のなかで、速さと効率は抜群であった。「待った」という感覚が残らないのだ。
そんなわけで、二日連続で「しきり越し」の出来事があって印象に残っていたから(一回の単発であれば、その場だけで忘れてしまっていたかもしれない)、ブログに書いたわけである。
それぞれの文化、それぞれの場所には、それぞれの社会システムを駆動するコアなものがある。じぶんのデフォルトの文化の視点だけで見ると、「ありえない」こともあるかもしれないけれども、そこにはそこなりの「原理」があって、いろいろなことやものが動いている。そこには「論理」がある。
だから、一歩立ち止まって、目をこらし、耳をすましてみる。あるとき、「あっ」と、<風景>が見えてくる。
服装よりも、むしろ髪に、その人があらわれる。- 「髪」をカットしてもらいながら、考える。
Thomas Thwaites(トーマス・トウェイツ)の著書『GoatMan: How I Took a Holiday from Being Human』(Princeton Architectural Press)(邦訳『人間をお休みしてヤギになってみた結果』村井理子訳、新潮文庫)という、ユニークな本がある。
Thomas Thwaites(トーマス・トウェイツ)の著書『GoatMan: How I Took a Holiday from Being Human』(Princeton Architectural Press)(邦訳『人間をお休みしてヤギになってみた結果』村井理子訳、新潮文庫)という、ユニークな本がある。
ヤギになって人間の悩みから解放されることを想像する。ふつうの人であればそこで折り返して「現実世界」に戻ってくるのだけれど、トーマスはそのような夢想をつきぬけてゆく仕方で、実験へとつきすすんでゆく。そんなユニークな実験録である。
そう、世界はいろいろな人たちで充ちているものだ。
そのような方向に「つきぬけること」はしないぼくは、冒頭(「Intoroduction」)の、ちょっとした記述が気になってしまう。
ロンドンのWaterlooで、トーマスはコーヒーショップに座って通勤の流れを見ながら、いろいろな「思い」を綴っているのだが、ぼくが気になったのは、かつてルイ・ヴィトンで働いていた友人がトーマスに語ったことである。
ルイ・ヴィトンの店員さんたちは、店に入ってきた女性を判断することにおいて、彼女の服装というよりも、彼女の髪を見るように訓練を受けるのだという。
なるほどなぁ、と、ぼくは立ち止まってしまう。
友人が語っただけのことなので、実際にどうかはわからないけれども、その話の正否はどうあれ、服装よりも髪を見て人を見極める、というのは、見極めの方法のひとつだなぁと思う。
ぼくの「経験の記憶」が、一気に作動する。
経験のなかでも、とくに、じぶんの「髪」に対する姿勢・態度という点から、この方法は結構大切なポイントをついているように思えてくるのだ。
人を見て、なんらかの「判断」をするときに、「見た目は関係ない」という見方もひとつだ。
でも、シャーロック・ホームズが「見た目」からさまざまな情報をひきだしてゆくように、「見た目」が語る情報は、やはりさまざまにあると、ぼくは思う。
くどい言い方かもしれないけれど、「見た目は関係ない」といった<見た目>もあるものだ。
「じぶんの外見は他人にどう見られてもいい」と思う人を大きく分けると、二種類に分けることができる。
● 「じぶんの外見」は、じぶんにとってもどうでもいい、という人
● 「じぶんの外見」は、じぶんなりにこだわる、という人
「他人にどう見られてもいい」という思いは同じであっても、そこに向けられる姿勢・態度は真逆になるのである。
ぼくの「経験の記憶」をたどると、いつしか、ぼくはこの内の前者、「じぶんにとってもどうでもいい」というところに向かっていたことがある。でも、そこから、後者へと、方向転換してきた。
「じぶんにとってもどうでもいい」ということは、正面からそうは思っていなくても、結局そうなっていたりする。いろいろな理由や事情をひっつけて、その方向に向かってしまうのだ。
そんなことが、たとえば、「髪」という外見に現れるのだ。
服装というよりも(服装もそうだけれど)、むしろ髪を見ると人(他者も、じぶんも)がわかることがある。
そんなことを、「髪」をカットしてもらいながら、ぼくは考える。トーマス・トウェイツの本の冒頭に書かれている、ルイ・ヴィトンで働いていた友人の話を思い浮かべながら。
香港の「トイレ事情」に、変遷を見る。- 変わりつづける香港。
香港に住んで12年になろうとしている。
香港に住んで12年になろうとしている。
香港に来るまえに住んでいた東ティモールを去って、香港に来たのは2007年。今年2019年で、十二支が一巡したことになる。
12年もいると、その場所の「変遷」を目の当たりにすることができる。
「転がる香港に苔は生えない」(@星野博美)と言われるように、香港はまったく止まることなく、転がり続けている。それも、転がるスピードが半端ではない。だから、「変遷」もいろいろである。
変わった事情のひとつに、「トイレ事情」がある。
世界のいろいろな場所の「トイレ事情」はそれだけで大きなトピックとなるけれど、ぼくが来た頃の香港は、また違った「事情」を有していた。
香港に来るまえに住んでいた西アフリカのシエラレオネと東ティモールは比較対象としにくいので、さらにその前に住んだり学んだり仕事をしていた「東京」と比べると、その「事情」があぶりだされる。
ひとつには、(中小規模の)ショッピング・センターのようなところでのトイレは「テナント用」であることである。つまり、トイレは、その場所に入っている店舗やレストラン用として、店舗やレストランを利用する人たち限定の施設である。
だから、例えば、CD・DVDを購入しようとして選んでいる最中にトイレに行きたくなったら、カウンターに行って「鍵」を借りることになる。男性用/女性用トイレのマークが大きく描かれた鍵を借り、トイレに行き、またカウンターに戻って鍵を返すことになる。
「変遷」と言えば、大きなショッピング・モールなどが増えて、だれでも、いつでも利用できるトイレが増えたことである。今でも「テナント用」のところもあるのだけれど、「いざ」というときに行けるトイレが増えたことは確かだ。
なお、テナント用のトイレも、(いくつかの場所で)「変遷」を見せた。鍵についている「男性用/女性用トイレのマーク」のキーホルダーが大きくなった(ところがある)。キーホルダーが小さいと、ポケットに入れたり、トイレに置きっ放しで、お店に返すのを忘れがちだからである。
ふたつめには、香港の電車(MTR)の駅構内(改札内)で、トイレ施設がある駅がとても少なかったことである。
東京では駅構内でトイレを利用することが多かったぼくにとっては、最初はなかなか不便であった。
なお、厳密には、駅の駅員さんに頼めば、(たぶん)駅員さんなどが使用する(鍵のかかった)トイレを使わせてもらうことができる。ぼくもいくどかお願いしたことがあった。でも、これはなかなか不便である。
でも、こんなところにも「変遷」が見られる。
MTRの、より多くの駅に「公共トイレ(public toilets)」の施設が設置されてきている。今回、このブログを書こうと思ったのも、この「変遷」を目にしたからでもある。
なお、MTRのホームページには、どの駅に公共トイレがあり、さらに、トイレのない駅では「最寄りの公共トイレへの距離」が明記されている。
みっつめには、香港のトイレの多くには、管理人の方が常在していて、常時きれいに保とうとしてくれている。このことを書いておかないといけない。
東京には「なかった」ものが、香港に「ある」。
ひとつめとふたつめのことと同じに、このみっつめにも「事情」がいろいろとあるのだろうけれども、いつもながらに、頭が下がる思いだ。
だから、トイレを使用したあとには、機会があれば、「ありがとうございます」の言葉を、ぼくは広東語で伝えるようにしている。
なお、「東京」のトイレのあり方をデフォルトとして書いているわけではない。ただ、東京(関東圏)にふつうに暮らしてから、香港に来て、「あるものがない」と思いつつ、でも、ときに不便さを感じ、「あった」ということに感謝したのものである。
そして、香港に長く住んでいると、またその事情が「ふつう」になってくる。でも、時間的な変遷のなかで、それもいろいろと変わってくるものである。便利になって、ありがたく感じることもあるし、不便であった過去をなつかしく思うこともある。
それにしても、香港は、変わりつづけている。変わることのなかに、香港がある。
香港で、「感冒茶」を飲んで、体をやすめる。- その土地の「対処法」を活用すること。
旧正月(2月5日)以降、20度前後の、暖かく、過ごしやすい日がつづいていた香港。
旧正月(2月5日)以降、20度前後の、暖かく、過ごしやすい日がつづいていた香港。
ここ2日ほど、少し気温がさがっている。それでも15度から19度くらいで、「これくらいはなんでもない」と思っていたら、体の節々がいたくなって、これは「風邪のひきはじめ」かもと、初期段階における「対応モード」にはいる。
風邪は「敵」ではなく、身体の「祝祭」である、というような意味合いのことを、整体の野口晴哉は語っていたと思うけれど、ぼくの身体は「祝祭」を奏でているのだと、つまり、祭りのようにいったん秩序をこわし、新たな息吹をいれながら秩序を再構成しているのだと解釈する。
そんなわけで、「祝祭」が粛々ととりおこなわれるようにと、体を休ませようと思い、今回は、「感冒茶」を買って、飲むことにする。
「感冒茶」は、その名のとおり、「感冒」(風邪)の症状に効果を発揮する漢方茶・ハーブ茶である。
香港の街角では、このような飲み物を売っているお店にときどきでくわすのだけれど、飲みたいと思うときにはお店が近くになかったり、どこにあるか覚えていなかったりする。
このような昔からつづいているようなお店の店頭では、その場でお椀や紙コップで飲むこともできたり、あるいはテイクアウト用にペットボトルのものを購入することもできる。
そんな粋なお店とはべつに、モダンでおしゃれなお店もあり、駅の改札近くにならぶ売店のひとつとして出店している。
今回は、駅の改札近くにならんでいる「Hung Fook Tong」で感冒茶を買うことにする。以前、すでに試しているから、大丈夫だ。
感冒茶はさまざまなハーブなどからつくられているから、他のお茶や飲み物に比べ、少し高めである(Hung Fook Tongでは46香港ドル≒約650円)。500mlのペットボトルにはいっていて、購入時に温めてもらう。
「2回に分けて飲むのよ。あいだに4時間空けること。飲む前には何か食べるのよ」と、店員さんが、代わる代わる伝えてくれる。
お昼ご飯を食べ終わっていたから、ぼくは家に帰って、1回目の一杯を飲む。苦いのだけれど、ぼくは、このような漢方茶の苦さが好きなので、とくに苦にならない。さらに、このお店の感冒茶は少し砂糖が入っていて、飲みやすくしてあるようだ。
やがて身体に心地よさがやってきて(やってきたようで)、ぼくは横になって、眠ることにする。
だいぶ眠って起きて、夕食をとり、2回目の一杯を飲んでから、ぼくはこの文章を書いている。体の節々のいたみが残りながらも、だいぶ、体が楽になったように感じる。
書きながら、思い出す。海外で旅したり、暮らしているときに、体の不調が起きたら、その土地の「対処法」を活用すること。
アジアを旅していたときにお腹をこわして、ぼくは日本から持っていった薬ではなく、その土地で購入した薬を試したことを思い出す。西アフリカのシエラレオネに赴任し、最初のほうにしたことのひとつも、マラリアの治療薬を調達することであったことを思い出す。
その土地での「対処法」、その土地で手にすることのできる薬、それから漢方茶など、それらがそこに存在しているという存在理由が、やはりあるのだ。
なにはともあれ、朝からお昼にかけて、「今日のブログ書けるかな」と思ったのだけれど、感冒茶を飲んで、寝て起きたら、ブログを書くことができた。店員さんの「指示」にしたがい、2回に分けて感冒茶を飲み干したぼくは、そんなことを思いながら、ふたたび体を横にして、休もうと思う。
海外にいると、人びとの「生き方」が気になる。- 河合隼雄のエッセイ「幸福の条件」を読みながら。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)は、1990年代の新聞の連載のなかで、つぎのように書いている。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)は、1990年代の新聞の連載のなかで、つぎのように書いている。
…外国に行くと、そこの国の人びとの生き方が気になる。私の職業が人間の生きることに密接に関連しているので、他の文化の人がどんな生き方をしているか知りたくなる。…
河合隼雄『河合隼雄の幸福論』(PHP研究所、2014年)※『しあわせ眼鏡』(海鳴社、1998年)の復刊
ちょうど中国に行ってきたという時期に、当時の中国の人たちの生き方にふれながら、この文章が書かれている。
1990年代半ばに、ぼくもはじめて中国を旅した。大学に入学してから迎えるはじめての夏休みに、ぼくは中国を旅したのであった。はじめての外国でもあった。
ぼくの「海外」は、ここからはじまった。
フェリー(鑑真号)で横浜を発ち、三泊四日かけて上海にはいった旅は、今から振り返れば、その後のぼくの人生をあきらかに変えるものであった。
河合隼雄のように心理学を学んでいたわけではなく、大学では中国語・中国文化を学んでいたぼくであったのだけれど、ぼくも、訪れた国の人たちの「生き方」が気になった。ぼくは、当時から、「人間が生きる」ということに、深い関心をもっていた。
生き方を見つめるということにおいて、短い旅のなかでは限度があるにはあるのだけれど、旅だからこそ見えるところもある。ぼくはそう思っていたし、いまでもそう思う。
それから、旅にかぎらず、ニュージーランドに住み、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、そしてここ香港で暮らしながら、やはり、人びとの「生き方」に、ぼくは関心をもってきた。
だから、ときにしげしげと人を観察してしまうこともあるし、また、友人や知り合いについダイレクトに聞いてしまうこともある。
生き方ということと関連して気になるのは、「しあわせ」ということである。
もちろん、国や場所にかかわらず、人間としてのしあわせということであるのだけれど、それが、じっさいに、具体的に、どのように生きられているのか、そんなことに、ぼくの関心は向けられてきた。
より正確には、普遍的なしあわせがどのように生きられているかということとともに、その逆に、じっさいにじぶんの眼でいろいろな生き方を見つめながら、普遍的なしあわせを確かめることでもあった。
ところで、河合隼雄は冒頭の文章のまえに、つぎのように、この短いエッセイを書き始めている。エッセイは「幸福の条件」と題されている。
人間が幸福であると感じるための条件としてはいろいろあるだろうが、私は最近、▷将来に対して希望がもてる ▷自分を超える存在とつながっている、あるいは支えられていると感じることができるーーという二点が実に重要であると思うようになった。
物がないとか、親しい人を亡くしたとか、いろいろと不幸なことがあっても、前記の二点が充たされていると幸福と言えるし、この逆に物がたくさんあったり、地位があったりしても、前述の幸福の条件がそろっていないときは、幸福と言えないようである。河合隼雄『河合隼雄の幸福論』(PHP研究所、2014年)
「最近」というのは前述のように1990年代のことであり、この本のエッセイが連載されていた時期は、1995年の阪神大震災と地下鉄サリン事件が起こった時期でもあった。ぼくのなかにもたくさんの「疑問・問い」が生まれていた時期であった。河合隼雄はそんな時期に、この「幸福の条件」を書いた。
この時期から20年以上が過ぎたが、「幸福の条件」というトピックは色あせるどころか、いっそう問われるべき時代にいるように、ぼくは思う。
そんな時代に、「幸福の条件」として挙げられた二点をひきうけながら、じぶんなりに考えてみるのもひとつだと思う。
● 将来に対して希望がもてること
● 自分を超える存在とつながっている、あるいは支えられていると感じること
これら二点を見つていると、ぼくのなかにも、いろいろと「考え」が浮かんでくるのである。
「アメリカ」について知り、考える。- じぶんのなかの「アメリカ」を見つめるためにも。
「アメリカ」について、学んでいる。より正確には、国や社会としてのいわゆる「アメリカ」だけでなく、「アメリカなるもの」も含めて、である。
「アメリカ」について、学んでいる。より正確には、国や社会としてのいわゆる「アメリカ」だけでなく、「アメリカなるもの」も含めて、である。
「アメリカ」とは、だれもが知りながら、実はあまりよくわかっていないところだと、ぼくは思う。日々、ドラマや映画やニュースなどでアメリカに触れて、いろいろなトピックに渡って「知っている」けれど、でも「わかっていない」。
ぼくも「アメリカ」を知りながら、その本質について、やはりあまりわかっていないのだと思う。もちろん、なにをもって「アメリカがわかった」と言えるのか、という問題もあるけれど、その深みにたどりつくところまでに、ぼくはまだいっていない。
そんなふうに感じながら、「アメリカ」について、また「アメリカなるもの」について、学ぶ。
「アメリカ」に正面からぶつかってゆく本で、ぼくの手元(手元と言っても電子書籍)にある本(日本語の書籍)を刊行年月日の新しい順で挙げると、つぎのとおりである。
● 橋爪大三郎・大澤真幸『アメリカ』(河出新書、2018年)
● 吉見俊哉『トランプのアメリカに住む』(岩波新書、2018年)
● 西谷修『アメリカ 異形の制度空間』(講談社選書メチエ、2016年)
● 内田樹『街場のアメリカ論』(文春文庫、2010年)※単行本は2005年
いずれの著者も、「アメリカの専門家」ではない。でも、それぞれの切り口において、アメリカをきりとっていて、さまざまな視点を得ることができる。
最初に挙げた本、橋爪大三郎・大澤真幸『アメリカ』(河出新書、2018年)。
社会学者の大澤真幸は、その「まえがき」で、アメリカというものの「極端な両義性」に触れることから、「アメリカ」について語り始めている。
アメリカというものには、極端な両義性がある。
まず、アメリカは、圧倒的な世界標準である。世界中の人が、…少なくとも、アメリカ的な価値観がデフォルトの標準であるという前提を、受け入れている。仮に自分は賛同できないとしても、アメリカに代表される価値観の方が標準とされていることを、すべての人が知っているのだ。…
ならば、アメリカ社会は、地球上のさまざまな国や社会の平均値に近いのか、というと、そうではない。逆である。アメリカは、他に似た社会を見出せないまったくの例外なのだ。…
標準なのに例外。その二重性によって、アメリカは「現代」を代表している。橋爪大三郎・大澤真幸『アメリカ』(河出新書、2018年)
「現代」という時代を理解するためには、「アメリカ」を理解すること。<標準なのに例外の二重性>によって特徴づけられる「アメリカ」をである。
このことに加えて、大澤真幸は、日本のアメリカにたいする関係性から見て、「日本人ほどアメリカを理解できていない国民はほかにない」と書いている。「アメリカへの愛着の大きさとアメリカへの無理解の程度の落差」(前掲書)が見られる、と。
こうして、「アメリカを知ること」は、第一に、現代社会の全般を理解することであり、そして第二に、現代日本を知ることである、と位置づけている。
この二つは、冒頭に書いた「アメリカを知っているけれどわかっていない」というぼくの感覚と交差してくる。
そして、「現代」と「(現代)日本」を知ることで、それは、ぼくのなかの「世界観」、あるいはぼくが理解できない「世界観」に光を射してくれるように直感するのである。
「アメリカを知ること」はまた、この世界で生きる、ということを考えてゆくときにも、避けて通ることはできないようにも感じる。
だから、先に読んだ内田樹『街場のアメリカ論』を筆頭にして、この四冊をほぼ同時並行的に読みながら、「アメリカ」あるいは「アメリカなるもの」を、ぼくは理解しようとしている。
それにしても、世界のいろいろな「扉」をひらいてゆくような気持ちにもなり、これまた、とてもスリリングである。
「脳と心」、心身論のこと。- 「唯脳論」(養老孟司)の立場からの、シンプルで、きわめてスリリングな見方。
ここのところ、養老孟司の二つの著作、それら著作の「あいだ」に20年ほどの時間が介している二つの著作、『唯脳論』(ちくま学芸文庫、1998年)と『遺言。』(新潮新書、2017年)を導きとしながら、「意識と感覚(の段差)」、「脳の世界」の浸潤としてみる歴史、「不死」ということについてブログに書いた。
ここのところ、養老孟司の二つの著作、それら著作の「あいだ」に20年ほどの時間が介している二つの著作、『唯脳論』(ちくま学芸文庫、1998年)と『遺言。』(新潮新書、2017年)を導きとしながら、「意識と感覚(の段差)」、「脳の世界」の浸潤としてみる歴史、「不死」ということについてブログに書いた。
これまで読んできたこれらの本(養老孟司のほかの本を含め)、読み返せば読み返すほどに、養老孟司の言わんとすることがわかっていなかったことを思う。でも、なによりも、養老孟司という先達の視点・視野・視界、あるいはその試みと提案に触発され、スリリングな気持ちのままに、その気持ちの一部をブログにのせている。
「ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場」である「唯脳論」(「唯脳論」は養老孟司が思いついた言葉ではなく、編集者が思いついた言葉だが、養老孟司の書くように、絶妙の言い方でありながら誤解をまねく言い方でもある。参照:『唯脳論』ちくま学芸文庫、1998年)。
この著書『唯脳論』は、本のはじめから、一般的に考えられている「難問」をとりあげ、「唯脳論」の立場から明晰に論じている。
その「難問」とは、心身論・心身問題である。つまり、「心は脳から生じるか」という問題である。
ある人たち(以前の「ぼく」も含め)は、脳(という物質)から心が出てくる、と考えたうえで、たとえば、「そんなことはない」と思ったりする。
「心」はそのように語るだけでは語りつくせないものであると思ったりする。
「唯脳論」は、このように語られることもある心身論に、つぎのように明晰な説明を加える。
唯脳論は、この素朴な問題点について、それなりの解答を与える。脳と心の関係の問題、すなわち心身論とは、じつは構造と機能の関係の問題に帰着する、ということである。
養老孟司『唯脳論』(ちくま学芸文庫、1998年)
心身論は、「脳と心の関係=構造と機能の関係」であると、養老孟司は唯脳論の立場から語る。
とても明快だが、養老孟司が挙げる例にしたがい、もう少し見ておこう。「脳という物質を分解していっても、どこにも「心」などは見つからないではないか」と感じている人にとっては、「構造と機能の関係」と言われただけでは、その感覚と思考は氷解しないだろうから。
養老孟司は「心臓」の例を挙げている。心臓が止まると、循環は止まる。これはだれでもわかる。
けれども、心臓血管系を分解してゆくと、どこに「循環」が出てくるのか。どこにも「循環」というものは出てこない。心臓は「物」であり、循環は「機能」だからである。
脳と心の関係は、この例のように心臓と循環、あるいは腎臓と排泄、肺と呼吸といった関係と似たものであると、養老孟司は指摘している。
「脳から心は出てこない」という考え方は、唯脳論の立場からすれば、「機能は構造から出てこない」という考え方となってしまうのである。
「でも、心は…」と、口をはさみたくなるかもしれない。心臓と循環の関係はわかるけれど、「心はちがうんじゃないか」、と。
養老孟司は、そこに(まさに、そこに)、<心の特別あつかい>という、偏った考え方を見て取っている。
心が脳の機能ではないと思うのは、心を特別扱いするからである。つまり、心というのは、なにか特殊なものである。そういう考えがあるからである。たしかに、心には、ある特殊性がある。それを、われわれは「意識」と呼ぶ。意識には、「自分で自分のことを考える」というおかしさがある。これは、もちろん、他の臓器ではあり得ない機能である。この機能的特性のために、ヒトは、意識つまり心をいつでも特別扱いしてきたのである。…
養老孟司『唯脳論』(ちくま学芸文庫、1998年)
なお、ヒトが、なぜ、「構造」と「機能」(たとえば、脳と心)というように「分けて考える」のかについて、それは脳がそのように構築されているからだと、養老孟司は指摘している(『唯脳論』ではその詳細も書かれている)。
それにしても、「唯脳論」の立場から語られる心身論は、きわめて明快である。もちろん、「心」そのものが明快であるというわけではない。「意識」というものの特殊性から、ヒトは、心という機能の「多様性」を知っている。
なお、心身論は「脳と身体の関係」だけでなく、「脳以外の身体と脳の関係」があることも、養老孟司は明示的に書いている。「脳と身体」は明瞭に分離できないのだ、と。身体には末梢神経が張りめぐらされ、かつ、脳と神経は連続する構造であるからである。この意味において、唯脳論は<身体一元論>であるという。
この心身論(あるいは、身体一元論としての唯脳論)を踏まえたうえで、『唯脳論』は「死」の問題にはいってゆくのだが、その冒頭の言葉をとりあげるだけで、ここでとめておこうと思う。
養老孟司は語る。「…死体があるからこそ、ヒトは素朴に、身体と魂の分離を信じたのであろう」、と。
きわめて、スリリングである。
「正しい/正しくない」というような意見や判断はさておき(そんな判断はぼくにはまったくできないが)、とにもかくにも、思考の深いところから触発される、スリリングな論考である。
以前も「読んだ」のだろうけれども、それほど「理解」できていなくて(言葉や論の表面だけをおっていて)、でも、いまのぼくは、言葉や論の深いところに降りてゆくことができるようだ。
「不死」のテーマをおいつづけて。- 養老孟司の「不死へのあこがれ」という文章を導きとして。
著書『Homo Deus』で、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)は、人類が「飢饉、伝染病、戦争」を管理可能な課題にまでもってきたことを指摘しながら、人類が次に直面する課題は、次の3つとしている。
著書『Homo Deus』で、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)は、人類が「飢饉、伝染病、戦争」を管理可能な課題にまでもってきたことを指摘しながら、人類が次に直面する課題は、次の3つとしている。
● 不死
● 幸せ/至福
●「神的な領域」に入ること
このうちの「不死」ということについて、とりあげたい。
最近読み返している養老孟司の本のなかに、「不死へのあこがれ」と題される、興味深い一節があったからである。それに、触発されたからである。
「不死」ということを、ぼくはときおり、思い、考える。
「不死」を痛切にねがうわけではないけれど、ぼくの内奥のどこかに「不死」をねがう気持ちがないとはいえない。以前は、死をおそれて「不死」を思うこともあった。
あるいは、これまでの人間の歴史をひもとくと、「不死」が語られ、希求され、それがなんらかの形となって残されているのを目にする。
「不死」のこれまでとこれから。
これから、テクノロジーの進展とともに、「不死」が追求されてゆく(いまも、追求されている)。
それにしても、「不死」への衝動を、根源的なところでひきおこしているのは、なんであろうか、どのようなメカニズムであろうか。
養老孟司の著書『遺言。』(新潮新書、2017年)のなかの一節「不死へのあこがれ」は、このような問いに応える。「意識」が考えることではなく、「意識」そのものにわけいることで、「不死」へと向かう(向かわざるをえない)「意識」について書いているのである。
「不死」を語るさいに、ヒトが必死に「デジタルの世界」を作ろうとするのはなぜか、という問いを、養老孟司は話の導入としている。
このような問いに、コンピュータのようなデジタル世界は、便利・合理的・経済的だからと、多くの局面では応える。この説明の仕方を「機能的な説明」と養老孟司は読んでいる。
人体でいえば、「心臓は血液を送り出すポンプである」という言い方であり、それで人は納得するし、この言明はわかりやすいから、「人工臓器」として心臓が最初につくられることになる。
この「裏にある暗黙の意図」をおう。
人工臓器は具合が悪くなれば変換する。この論理を延長してゆくと、この意図がわかるというのだ。
それが、「不死」である。
「不死」と「デジタル」の関係性が、ここで語られることになる。
…デジタル・パタンとは、永久に変わらないコピーだと述べた。なんとコンピュータの中には、すでに不死が実現されている。デジタル・パタンが死にそうになったら、つまり消えそうになったら、どんどんコピーを作ればいい。だからクラウドなのである。どこにコピーが存在しているのか、よくわからないけど、ともかくどこかにコピーが存在している。これをいたるところに置けば、実際的には死にようがなくなるではないか。だから自分の記憶、感情のすべてをコンピュータに入れたらどうなるんでしょうね、という質問がなされる。その暗黙の裏は「俺は死なない」ということであろう。
養老孟司『遺言。』(新潮新書、2017年)
これにつづけて、さらに、とても興味深い「考え方」が書かれている。
骨子は「空間の支配から時間の超越」。ヒトは、空間を支配しようとし、空間の支配が達成されると時間の超越という課題ぶつかり、その課題を解決しようとしてきたということである。
「空間の支配」の衝動につきうごかされながら、たとえば、かつてのローマ帝国や大英帝国ができた。空間を支配したところに、「時間の超越」という課題があらわれる。そこで、たとえば、秦の始皇帝は万里の長城を作り、エジプトの王たちはピラミッドを作る。石で作った巨大な建造物は、時間を超えて、いまでも残っている。
さらに、時間の超越のためにつかわれたのが「文字」である。養老孟司はそう指摘する。書かれたものは永久に変わらない。巨大な建造物をつくる必要もない。そうして、巨大な建造物に変わって、文字が「永久」をつくりだしてゆく。
そして、その延長線上にデジタル・データがあり、そこで時間の超越は終止符を打つ。
「時間と空間」というテーマは、ぼくにとって大きなテーマである。これからの「生きかた」をふりかえり、考え、その未来を構想するときにも、この二つの軸が「人生マッピング」のうえでも役に立つ。でも、そのような功利的な思考をとらなくても、このテーマそのものはぼくの好奇心がうずまくところだ。
それにしても、この「意識」そのもののメカニズムから、歴史をきりとり、現代社会をきりとり、また生きかたをきりとると、いろいろなものごとが「違って」見えてくる。
なお、「耳が時間、目が空間」をとらえるものであり、この二つを統合するのが「言葉」であるということを、養老孟司はべつのところで書いている。が、ここではそこには立ち入らないことにする。
ともあれ、「意識」そのものが、空間を支配し、時間を(ある意味)超越しようとし、不死を希求する。デジタル・データがある意味で時間の超越に終止符を打つようなものであるものとして、しかし、ヒトは、徹底的に、ほんとうに徹底的に、この「不死」をデジタル・データを駆使しながらさらに追求している。
ユヴァル・ノア・ハラリが書くように、「不死」は、残された人類の課題のひとつとして、徹底的に追求され、これからも追求されてゆく。
「意識」は、ヒトの身体に左右されるからべつに偉くないのだけれども、意識はそれが気にくわず、意識が偉いのだと主張しながら、不死を希求する。世界を支配しようとする。養老孟司はそう書く。
ヒトの生活から意識を外すことはできない。できることは、意識がいかなるものか、それを理解することである。それを理解すれば、ああしてはまずい、こうすればいいということが、ひとりでにわかってくるはずである。それはそんなに難しいことではない。
養老孟司『遺言。』(新潮新書、2017年)
知性。これも(ある意味)「意識」の産物とも言えるけれど、その知性のもっともすぐれたところのひとつは、「いかなるものかを理解する」ことである。
「意識」そのものを意識する、理解する。そこに<出口>がある。「意識」は意識そのものの性質と機能のなかに、みずからの<出口>を装填している。
ヒトの歴史は「自然の世界」に対する「脳の世界」の浸潤の歴史(養老孟司)。- 『唯脳論』とぼくの出逢い。
「意識」そのものを考える。「意識」によって考えられたことを議論するのではなく、「意識」自体を議論の俎上にのせる。このタブーとされてきたことを解き放つ試みとしての『遺言。』(新潮新書、2017年)にふれながら、ブログ(「「意識と感覚」の<段差>を意識する。- 養老孟司の提案。」)を書いた。
「意識」そのものを考える。「意識」によって考えられたことを議論するのではなく、「意識」自体を議論の俎上にのせる。このタブーとされてきたことを解き放つ試みとしての『遺言。』(新潮新書、2017年)にふれながら、ブログ(「「意識と感覚」の<段差>を意識する。- 養老孟司の提案。」)を書いた。
ちょうど、養老孟司『唯脳論』(ちくま学芸文庫、1998年)も読み返していたところであった。『唯脳論』は、あいかわらず、スリリングな本である。まったく古くなることのない本だ。
『唯脳論』との出逢いは、もう20年以上まえのことになる。20年以上まえに、「発展途上国の開発・発展」を研究していたぼくは、『開発とは何か』という主題で修士論文を準備していた。開発・発展の「方法」を学ぶなかで、「そもそも論」として「開発とは何か」をきっちりと見定めておきたくなったのである。
開発・発展にたずさわる人たちそれぞれが、それぞれの考えを暗黙の前提にして、つまり明確に明示することなく「方法」を語っているように思えたのだ。だから、ときに議論がかみあっていないように見える。「何」や目的を間違ってしまうと方法をいくら変えても、目指すところからそれていってしまう。だから、きっちりと見定めておこうと、ぼくは思ったのである。
「発展途上国の開発・発展」と「唯脳論」(ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場)が、どのようにつながってくるのか。
唯脳論の定義にあるように、ぼくは視界を思いっきりひろげながら、「ヒト」というところまでひきのばして、「人間社会の発展」のなかに、発展途上国を含めた現代社会を位置づけたのだ。
大雑把に言ってしまえば、「自然からの解放・離陸」ということである。
「ヒトの歴史は、「自然の世界」に対する、「脳の世界」の浸潤の歴史だった」と、養老孟司は『唯脳論』のはじめに書いている。そのことを、人は「進歩」と呼んだのだと。こうして、いまあるような社会を「脳化=社会」と呼び、養老孟司は議論をすすめている(管理社会化も、身体性も、ダーウィンも、哲学も、三島由紀夫の生と死も)。
このように、現在ある社会を歴史の大きな流れのなかに描いておくことで、ぼくは「開発とは何か」ということ、そしてこの「何か」の未来の方向性を確認したのである。
明示しておきたいのは、このことは、「発展途上国の開発・発展」ということとともに、先進産業国に住むぼくたち自身の問題・課題である。
人間や人間社会が何を求め、どのように「進歩」し、そして「どこに」行こうとしているのか。
20年ほどまえの当時、人間は、そしてもちろんぼく自身は、「何のために」勉強をし、仕事をし、生きているのだろう、という問いが、ぼくのなかで切迫していた。
そんななかで出逢った本の一冊が、養老孟司の『唯脳論』であった。
『唯脳論』は、すぐに何かを解決してくれるものではないけれど、ぼくが「世界」を見る見方を変えてくれるものであった。そのようなものとして、「脳化=社会」というコンセプトを、ぼくは修士論文で引用した。
そして、いま『唯脳論』を読み返しながら思うのは、それは、いっそう、「ぼく自身」(あるいは、ヒト自身)を見る見方を変えてくれるものであることである。
もちろん、すぐに何かの問題を解決してくれるものではないけれど、ぼくたちの脳、あるいは「意識」がどのようであるのか、その法則性を知っておくことで、そもそもの問題・課題のありかを見定めておくことができる。
それは、とても重要なことである。ぼくはそう思う。
「意識と感覚」の<段差>を意識する。- 養老孟司の提案。
養老孟司の視点とことばは切れ味するどく、スリリングだ。
🤳 by Jun Nakajima
養老孟司の視点とことばは切れ味するどく、スリリングだ。
20年以上まえに読んでいた『唯脳論』(ちくま学芸文庫)を読み返しながら、最近の著書『遺言。』(新潮新書、2017年)をふたたびひらいたら、養老孟司の視点とことばが、よりせまってくるように、ぼくは感じたのである。
これらで語られていることの核心は、「意識」と「感覚(感覚所与)」のことである。
養老孟司の書くものは、それを一文字一文字おっているときは、一般向けにわかりやすく語られてもいるから「わかりやすい」と感じるし、「わかったよう」にも感じるのである。
たとえば、少子化についても、その深いところ(意識と感覚という次元)で問題をとらえているが、とてもわかりやすい。
…子供が増えないのは、根本的には都市化と関連している。都市は意識の世界であり、意識は自然を排除する。つまり人工的な世界は、まさに不自然なのである。ところが子供は自然である。なぜなら設計図がなく、先行きがどうなるか、育ててみなければ、結果は不明である。そういう存在を意識は嫌う。意識的にはすべては「ああすれば、こうなる」でなければならない。…
養老孟司『遺言。』(新潮新書、2017年)
とてもわかりやすい視点だ。このように理解したそれぞれのトピックやエピソードはその通りであろう。
でも、そこで終わりにせず、養老孟司が<きりひらこうとしていること>にとどまって、さらに、じぶんの理解を深めてゆく方向に一歩一歩進んでみると、それまでに理解してきたことの核心が見えて、ぱっーと、視界がひらけてくる。少なくとも、ぼくにっとてはそうであったのである。
その語られていることの<革命的視点・視座>がほんとうに「わかる」とき、ぼくたちが見ている「世界」がまるでちがったものに見えてくる。
このような<革命性>は、「意識」そのものにきりこんでゆくことで、これまで光があてられてこなかったことに光をあてて、「意識」そのものをきりひらいてゆくことにある。
人は何かをかんがえたり言葉にするときに「意識」を使うのだけれど、その「意識」自体を問うことは(あまり)されず、不動の「前提」とされてきたようなところがある。
養老孟司は『遺言。』のなかで、「意識について考えること」がタブーとされてきたのだと書いている。すべての学問は「意識の上」に成り立っていて、「意識」自体を考えることはその「足元を掘り起こす」ことになるから、タブーとされてきたのだと指摘する。『遺言。』は、明示されているように、このタブーを解き放とうとするものでもある。
「意識」は<同じ>にしようとし、「感覚」は<違う>という。
養老孟司はこのことを、いろいろな知見と事例をまじえながら、説いている。いろいろな問題が、「意識」と「感覚」の対立や矛盾などとして(そのように「見える」ものとして)、現実には立ち現れる。環境問題も、少子化も。
でも、そこにさらに大切なポイントとして、意識と感覚は「階層が違う」ことを指摘している。意識と感覚の<段差>である。
さらに注記されるのは、「階層」においては、意識(「同じ」)が「上」だと考えてしまう問題である。この暗黙の了解(意識は感覚より階層が上)のもとに、「意識中心の都市型社会」は、個々の具体的な社会問題などで、「意識」が「感覚」に勝利することが多くなる。
このことを知ったからといって、個々の問題がすぐさま「解決」するわけではない。
でも、それらの対立や矛盾(に見える)ことの根源的な理由を、ぼくたちの「意識」自体のありかたのなかに、しっかりと措定しておくこと。根源的な「問題」(対立や矛盾)を抱えているのは、ぼくたち自身にあること。
養老孟司は、「おわりに」で、山口真由『リベラルという病』(新潮新書)にふれながら、つぎのように書いている。
…たとえば、強いフェミニズムは、感覚で捉えられる男女の「違い」を無視し、なにがなんでも男女を「同じ」にしようとする。「病」というしかない。「同じにする」がどんどん強くなって、信仰の域に達する。それがアメリカの「リベラルという病」だ、ということになる。
「同じにする」ことが間違っているのではない。ただし感覚は「違う」という。その二つが対立するのは、そう「見える」だけで、そこには段差があるのだから、両者を並べることはできない。まずそのこと自体を「意識」したらどうですか。それがいわば私の拙い提案である。養老孟司『遺言。』(新潮新書、2017年)
なるほど、と思う。
ぼくたち自身(「意識と感覚」)を理解すること(「意識」すること)。そしてその地点から出発するだけで、「問題」のとらえかたも、議論の仕方も、そして(おそらく)解決の仕方も、だいぶ変わってくるのではないかと、ぼくは思う。
「職業タイトル」を深いところで超えて。- <人間全体として生きる>こと。
串田孫一(1915-2005)のことを、作家の辺見庸は著作『水の透視画法』で書いている。
串田孫一(1915-2005)のことを、作家の辺見庸は著作『水の透視画法』(集英社文庫)で書いている。
辺見庸が見た夢のなかに、すでに亡くなられた串田孫一の姿を見たことから、串田孫一にお会いしたときのことを思い出す。東京の新宿でただ一度会い、3時間の話をしたときのことである。
辺見庸は、串田孫一を「なんとよべばよいのか」と自問した。串田孫一にはいろいろな「顔」がある。哲学者、詩人、エッセイスト、翻訳家、アルピニスト、画家など。でも、どれもぴんとこない。このような「職業名」があてはまらない。
辺見庸は、結局のところ、尊称としての<ひと>と、串田孫一を心のなかでよんできたのだという。
<ひと>として、生きる。
やはり、岡本太郎(1911-1996)のことばがわきあがってくる。
ぼくはパリで、
人間全体として生きることを学んだ。
画家とか彫刻家とか一つの職業に限定されないで、
もっと広く人間、全存在として生きる。
これがぼくのつかんだ自由だ。岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
1930年にパリに渡り、10年ほどをパリで過ごしたという岡本太郎。20代をパリに生きながら、<人間全体として生きる>ことを学んだのである。
人間社会の成り立ちと発展のなかに「分業」がくみこまれており、人は自分の生を「職業」に限定する仕方で生きていく。
このようなことを話はじめると、「スペシャリスト/ジェネラリスト」という、さらに限定された議論にはいっていってしまうことがある。もちろん、そのような議論が妥当性をもつ場や文脈もあるけれども、串田孫一や岡本太郎のことばや生きかたは、このような二分法そのものを裂開してしまうのだと、ぼくは思う。
スペシャリストであろうが、ジェネラリストであろうが、あるいはその両方であろうが、<人間全体として生きる>ことが土台であるように、仕事をし、生きてゆくことができる。
「職業タイトル」があろうと、あるいはなかろうと、<人間全体として生きる>ことを土台とすることができる。
ぼくは、この「限定」していく力にたいして我慢できなかったりして、つい、<人間全体>のほうへ、心身が向かってしまう。
全存在として生きる。岡本太郎のいうように、これが「自由」であるということもできる。
なお、<人間全体>とは、ぼくにとっては、「職業という領域」だけのことではない。もっとひろくとらえている。
カール・ユングのいうような精神の「全体性 wholeness」であり、また五感でいえば現代テクノロジーによる各感覚器官の拡張(だけ)ではなく「感覚の全体性」である。
もういちどくりかえしておくと、たとえば「個/全体」というような二分法において「全体」が優位であるということではない。
この「個/全体」という見方そのものを裂開し、つきくずす方向へ、生きかたをひらいていくということである。生きることの土台として、<人間全体として生きる>ことである。