身体性, 宇宙・地球 Jun Nakajima 身体性, 宇宙・地球 Jun Nakajima

生過程の原形と変容。- 三木成夫が採用する「ゲーテの形態学」の方法論。

ここのところ「植物」に惹かれている。ぼく自身の生活において、「フレキシタリアン(flexitarian)」、つまり準菜食主義者となったことも、どこかで関連しているのかもしれないし、生きることの全体性において「動く」ということだけでなく「静」というあり方をとりこもうとしてきたことも、どこかでつながっているかもしれない。

 ここのところ「植物」に惹かれている。ぼく自身の生活において、「フレキシタリアン(flexitarian)」、つまり準菜食主義者となったことも、どこかで関連しているのかもしれないし、生きることの全体性において「動く」ということだけでなく「静」というあり方をとりこもうとしてきたことも、どこかでつながっているかもしれない。さらには、昨年(2019年)に、東京の上野の森美術館で開催されていたゴッホ展で、さいごに展示されていた「糸杉」の絵画にこころを揺さぶられたことも、つながっていると、ぼくはおもっている。

 「植物」ということをかんがえるときに、ぼくは解剖学者の三木成夫(1925-1987)の著作をひらく。植物と動物、人間を比較しながら、三木成夫は、いわば「逆立ちした見方」をぼくに与えてくれるのだ。この点については、もう少しあとでふれたい。

 ところで、解剖学者の三木成夫(1925-1987)は、「人間の生」ということをかんがえるにおいて、「ゲーテの形態学」の考え方をひきついでいる。ゲーテ(1749-1832)は『ファウスト』や『若きウェルテルの悩み』などの著作で知られているから、あまり知られていないかもしれないけれど、自然科学者としての著作もある。

 人間の生の<すがたかたち>をかんがえるにおいて、ゲーテによる「形態学」の根柢をなす方法論として三木成夫がとりだすのは、植物・動物・人間の三者に共通する生過程の「原形」をもとめて、人間における原形の変容(Metamorphose)を抽出するという仕方である。

 生過程とは「成長」と「生殖」の位相交代のはてしなく続く、ひとつの波形として描き出すことができる。…この「食と性」の営みが植物と動物のあいだで著しく異なった形をとって行われることはあらためて言うまでもない。すなわち、合成能力の備わった植物が植わったままで生を営むの対し、この能力の“欠”けた動物は、“動”き廻って草木の実りを求めることになる。この文字通り“欲”動的な生きものの動物に「運動と感覚」という双極の機能が、光合成能の代償として備わったことは、自然のなりゆきと言わねばならないであろう。

三木成夫『三木成夫 いのちの波』平凡社

 三木成夫はこの地点からさらに人間の生命を描きだしてゆくのだけれど、その手前のところで、ぼくは上に引用した「逆立ちした見方」で立ち止まる。「逆立ち」というのは、ふつうの見方と逆さだからである。ふつうであれば、人間を頂点として動物、それから植物とくだってゆく階層がイメージされるのだけれど、ここでは、合成能力を持する植物をまず思考の出発点におき、そこから、この能力を「欠く」存在として動物が描かれる。その「欠如」を代償する仕方で、「動く」という機能があるわけだ。

 ぼくは、この「見方」に教えられる。あるいは、ぼくの「世界の見方」に更新がせまられる。言い過ぎかもしれないけれど、少なくとも、ぼくにとっては、そのように感じられる。

 唐突かもしれないけれど、ひととして生きていくうえで、動物的な「動」に加えて、植物的な「静」をともに、この生の過程にひらいてゆくこと。「じぶんの変容」という、ぼくにとってのライフワークのトピックにおいても、それから<これからの生きかた>をかんがるときにも、このことはとても大切なことだと、ぼくはおもう。

 思想家の吉本隆明(1924-2012)は、三木成夫の思想にもっと早くに出逢っていれば、と、三木成夫について書いているが、それほどに、三木成夫の思想はこの時代にあって、状況を「きりひらく」ちからをもっているのである。

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宇宙・地球, 成長・成熟 Jun Nakajima 宇宙・地球, 成長・成熟 Jun Nakajima

憶い起こせば、海のある風景。- <海の風景>に耳をかたむける。

それなりの年数を生きてきたなかで、自分の住んできた「場所」をふりかえってみる。より正確には、ここ香港で海をながめて、いろいろとかんがえていたら、世界のいろいろな<海の風景>がぼくのなかで重なってきた。そこでふりかえってみると、確かに、<海の風景>が幾重にも重なっているのを、じぶんの内面に見る。

それなりの年数を生きてきたなかで、自分の住んできた「場所」をふりかえってみる。より正確には、ここ香港で海をながめて、いろいろとかんがえていたら、世界のいろいろな<海の風景>がぼくのなかで重なってきた。そこでふりかえってみると、確かに、<海の風景>が幾重にも重なっているのを、じぶんの内面に見る。

<海の風景>。ぼくはそこに特別な感情をもちあわせているようだ。

世界のいろいろなところを旅したり、暮らしてきたりしたなかで、それぞれの<海の風景>の記憶が、ぼくのなかで重なっているのを深く感じる。思えば、<海の風景>にぼくは惹かれてきたようでもある。意識的に選んだわけではないのだけれども、ぼくの深いところにある憧憬や願望がかたちになった結果かもしれないと考えてみることもできる。

ぼくの生まれ故郷は浜松で、やはり「浜」に面している。家から、海の「浜」まではだいぶ距離があるのだけれども、どこかで「浜」から吹く風を感じているようなところがあったかもしれないと思う。

その浜松を離れ、大学に通うために移った東京も海に連なっている。

大学1年のときのはじめての海外は、上海であった。それも、横浜からフェリー(鑑真号)にのって、海をわたり、上海に到着した。翌年は、はじめての飛行機による海外であったが、ここ香港に降り立った。香港から広州へと行き、そこから向かったベトナムも、海に連なるところであった。旅の途中の<海の風景>(ニャチャンの砂浜などの風景)がぼくの記憶に残っている。

それからワーキングホリデー制度を利用して住んだニュージーランドも、いつも<海の風景>があり、また海に限らず、<水に祝福された風景>とでもいうべきところであった。

大学を卒業して、最初に赴任した場所は、西アフリカのシエラレオネ。首都フリータウンは海に面している。シエラレオネにつづいて赴任した東ティモールも、海に囲まれた島である。首都ディリは海の香りがただよっている。

それから、ここ香港。「港」と言われるように、暮らしのなかに海がある。毎日、ぼくは海の存在をこの身体に感じながら生きている。

こんなふうにしてこれまでをふりかえってみると、ぼくの周りにはいつも<海の風景>があったこと、そしてそこには特別な感情が生きていることを感じる。でも、そのことを「ことば化」することはむつかしい。<海の風景>に触発される気持ちは、ぼくの深奥からやってくるようなものにも感じる。そんな深奥からひっぱりだしてきて「ことば」にしようとした途端に、気持ちとことばの大きなギャップを感じてしまう。

だから、「ことば」に<あらわそう>とするのではなく、「ことば」が<あらわれる>のを待つのがひとつの仕方である。

そんなことをかんがえていたら、「助け舟」のような存在を、ぼくは憶い起こしはじめる。

例えば、小説家・詩人のD・H・ロレンス(1885-1930)、哲学者・思想家のカール・シュミット(1888-1985)、解剖学者の三木成夫(1925-1987)など。ロレンスも、三木も、カール・シュミットも、この大地に生きながら<海の存在>をまなざしながら思考を深め、ことばを紡いだ。

<海のある風景>に身をおきながら、彼らの「ことば」にふたたび耳をかたむけようと、ぼくは思う。そんな「ことば」たちを導きの糸としてどんなところに行くことができるのか、いまから楽しみである。

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倫理主義ではなく、<楽しみながら生活水準を下げる>という方法。- 見田宗介の文章「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」に触発されて。

ここ数日のブログでは、宇宙と地球の<はざま>で想像力をはたらかせながら、「地球環境」のことにもふれてきた。そのことに関連して、「環境保護」のようなことを考える。「環境保護」の仕方について考えるとき、見田宗介先生(社会学者)による「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という素敵な文章のことを、ぼくはときおり憶い出す。

ここ数日のブログでは、宇宙と地球の<はざま>で想像力をはたらかせながら、「地球環境」のことにもふれてきた。そのことに関連して、「環境保護」のようなことを考える。「環境保護」の仕方について考えるとき、見田宗介先生(社会学者)による「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という素敵な文章のことを、ぼくはときおり憶い出す。

1980年代半ばの論壇時評として書かれ、その後『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)という本のなかに収められ、さらに1995年に出版された『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫)にも収録された文章である。どちらの本も今では絶版になっており、またこの文章は論壇時評という性格もあってか見田宗介著作集にも収められていない。

新聞紙上に掲載された文章で短い文章であるけれど、ひとりひとりの生き方と未来を見据えた、美しい文章である。

以前(2017年の夏)、月明かりがまぶしい夜に、やはりぼくはこの美しい文章のことを憶い起こし、ブログに取り上げたことがあるので、(一部変更して)それを再掲しておきたい。


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「月明かり」に照らされながら、そしてそのことを文章で描きながら、見田宗介の「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という素敵な文章のことを思い出していた。この文章は、社会学者の見田宗介が1985年に新聞で連載していた論壇時評のなかの一回として書かれ、その後書籍に所収されている。

この文章の中で、雑誌編集をしていたAという人が、アメリカ・インディアンと一緒に幾年かを生きてきたKと結婚して、日本の田舎に移りすむ「記録」が取り上げられている。その「記録」は「わが家に電気がついた日」と題されている。


…東京で生活してきたAにとっては、田舎で暮らしたいと思っていた時も、電気はあって当然に近いものだった。けれどもKは、せっかく電気が来ていない家に住めるのにという。Aも原発には反対だしと、当面は電気なしでいくことにした。案外不便は感じないし、何よりも<夜が夜らしく存在する>。
 唯一めげたのは洗濯で、…結局電気は引くことにする。冷蔵庫やテレビはいらないが、洗濯機だけはおくだろう。けれどこれからも満月の夜だけは電気を消して、<闇について、この明るすぎる文明について語り合います>と書いている。
 かれらは何もよびかけたりしてはいないし、自分たちの限界点を記録しているだけだけれども、この記事をよんだかれらの友人たちは、満月の夜をそれぞれの場所で、みえない全国の友人たちと呼応して<闇>を共有するという、しずかな祭りの夜としてゆくかもしれない。

見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)


「311」を契機とした原発にかんする議論はまだ思考にこだましているけれど、それよりも30年ほど前にも原発問題ということが、生きられる問題として語られ、その「出口」をさぐる人たちが無数にいたことは、これからの「出口」をさぐるうえでもヒントを与えてくれる。

この文章を読みながら、これが「現代」として読んでもまったく違和感がないほどに、問題と課題はひきつづき、人と社会の根底によこたわっている。

上の「記録」は、しかし、見田宗介がわざわざ指摘しているように、「何もよびかけたりしてはいない」。声高なよびかけのかわりにあるのは、みずからの「生活の仕方を変える」ことと、その生活の記録の共有である。

見田宗介はさらにこう記している。


…このこと(*生活の仕方を変えること)を倫理主義的にではなく、<生活水準を楽しみながら下げてゆく>という仕方でやっている。それは失われたよろこびたちを(快楽から至福にいたるその一切のスペクトルにおいて)取り戻してゆくというかたちをとるだろう。ひとりの生が解き放たれてゆく方向と、地球生命圏がその破滅に至る軌道から解き放たれてゆく方向とが、コンパスと地軸のように合致している。

見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)


ぼくはここに語られていることに深く共鳴する。

地球環境のための「消灯キャンペーン」はその試みをぼくは否定しないし、もともとの「情熱」とそこから出てくる行動力には頭がさがる思いだ。しかし、地球環境のために、という罪悪感と倫理主義におされながら「消灯」を実行するとすれば、ぼくはそこに居心地の悪さを感じてしまう。そうではなく、楽しみながら消灯をすること。

そして、それは、罪悪感でも倫理主義でもなく、人の生のよろこびと共振してゆくということ。


このようなことを書くとすぐに寄せられるであろう「批判」を想定して、見田宗介は最後にこう付け足している(「想定される批判」にあらかじめ答えておくことを、見田宗介は書くことの方法のひとつとしている)。


 電力の総需要といった計算からすれば、さしあたり一兆分の一ほどの効果しかもたないだろう。けれども一兆分の一だけの自己解放をいたるところで開始すること、それらがたがいに呼応し、連合していつか地表をおおうこと、このことを基礎とすることなしにどのような浮足立った「変革」も、もうひとつの抑圧的な制度を出現させるだけだということを、二十世紀のすべての歴史の経験が書き残している。

見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)


見田宗介の「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という文章に出会ってから、20年ほどが経過した。「ひとりの生が解き放たれてゆく方向と、地球生命圏がその破滅に至る軌道から解き放たれてゆく方向」というコンパスと地軸を、ときおり確かめながら、ぼくは生きてきた。

それでも、現代あるいは都会の生活圏は、「消費社会」への居直りへという磁場(マグネティック・フィールド)を形成していて、コンパスと地軸がゆらぐ。その磁場の中で、ここ4~5年ほどは、家では夏に「クーラー」を使わず、扇風機たちと共に暮らしている。

楽しみながらというと変だけど、ぼくの身体がよろこびながら、クーラーを使わない方向へ生活水準を落としている(それでも電気は消費しているし、生活のなかにクーラーがなくなるわけではないけれど)。そう、<夏が夏らしく存在する>。

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倫理主義的ではなく、<生活水準を楽しみながら下げてゆく>という仕方を、ぼくは強調しておきたい。

倫理主義は「我慢」をいたるところにつくり、反抗する者たちを創出してゆく。そうではなくて、プロセスそのものに<歓び>が充ちていること。このような仕方が、時間はかかるかもしれないけれど、楽しく受け入れられ、確かな方法として根をはってゆくだろう。

こんなふうな見方をすると、たとえば「環境保護」という言い方自体が、おかしく聞こえてくる。環境を保護「しなければならない」という言い方は、倫理主義的である。そのような言い方が必要な文脈があることを理解しつつ、ひとりひとりの生き方としては、<楽しみながら>生活の仕方を変えてゆくほうへと舵を向けること。ぼくはそんな方向性がいいなぁと、思っている。

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Lil Dickyの曲『Earth』。- 「We are the Earth」としての共演。

昨日(2019年5月13日)は、「地球の環境・資源問題の解決の方向性。- 宇宙と地球の<はざま>で。」というタイトルで、ブログを書いた。「宇宙」への動きがいろいろに加速している時代のなかで考えながら、宇宙に向かうにしろ向かわないにしろ、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方」(見田宗介)が求められていること。そんなふうに、文章を終えた。

昨日(2019年5月13日)は、「地球の環境・資源問題の解決の方向性。- 宇宙と地球の<はざま>で。」というタイトルで、ブログを書いた。「宇宙」への動きがいろいろに加速している時代のなかで考えながら、宇宙に向かうにしろ向かわないにしろ、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方」(見田宗介)が求められていること。そんなふうに、文章を終えた。

最近、地球環境のことをいろいろ考えている。べつに環境専門家でも環境活動家でもないし、環境保護にとりわけ熱心というわけではない(できる範囲では「楽しく」関わりたいと思う)のだけれど、上述の「宇宙」の関わりで言えば、<宇宙から折り返す視線>で地球を見るとき(たとえ、それが架空の映像であっても)、やはりそこに美しい青い惑星が存在していることが、ひとつの奇跡のように感じたりして、地球環境のことを考えてしまうのだ。

目の前にひろがる空や海、木々など、さらには空を飛び、きれいな声を放つ鳥たち、花のまわりを飛び交う蝶たちなどの存在も、この地球での共生ということをつきつけてくる。さらには、自分の家の片づけをすすめながら、「モノ」(厳密にはモノと自分との関係)を見直しながら、いろいろと考えさせられるのだ。


そんな折、2019年4月22日の「Earth Day」に先行するかたちで発表された、アメリカのラッパーLil Dickyの曲『Earth』を、ぼくはたまたま、Apple Musicをブラウズしているときに見つけたのであった(※この曲については、先月末のぼくの「メルマガ」で紹介させていただきました)。

Lil Dickyの『Earth』は、4月19日にシングル版が発表され、翌日に音楽動画(※YouTubeに飛びます)が配信された。

曲自体、そのメロディーも、それから歌詞も魅力的であるけれど、やはり音楽動画(※YouTubeに飛びます)で見ることをおすすめしたい。

そして、話題をつくったのは、声で登場するさまざまなミュージシャンたちだ。Justine Bieber、Ariana Grande、Shawn Mendes、Halsey、Ed Sheeranなどが、声で参加している。参加アーティストそれぞれが動物や植物などの役を担いながら(たとえば、トップバッターのJustine Bieberは「ヒヒ(baboon)」というように)、声(歌声)で登場してくる。

Leonardo DiCaprioも出てくるので「なんでだろう」と思ってしまうのだけれど、この曲の収益は「Leonardo DiCaprio Foundation」を通じて環境保護活動に使われることが背景としてあるようだ。

有名ミュージシャンたちの顔ぶれを見ていると、昔、『We are the World』という曲があったことを思い出す。この曲は「We love the Earth」と歌うけれど、それはどこかで「We are the Earth」といった趣もあるのだ。

でも、『We are the World』が、この世界の「人と人とのつながり」を促したのにたいして、『Earth』は、この地球の「人と地球(動物や植物など)とのつながり」を唄っている。そんな時代の移り変わりを見てとることもできるように、ぼくは見る。


曲の終盤の「語り」の部分で、登場人物の「人間」は、「Are we gonna die?」というJustine Bieberの質問に対し、「We might die」と応答するところがある。そんなふうに、正直に、応答される。いらだちを込めながら。「We」つまり人類が死んでしまうかもしれないのは、地球の温暖化がほんとうに起きていることを信じない人たちがいるから、と語りながら。

見田宗介先生は1980年代半ばの論壇時評で、19世紀末の思想の極北が見ていたものが<神の死>であったのに対して、20世紀末の思想の極北が見ているものが<人間の死>であることを指摘している。

それはさしあたり具象的には核や環境破壊の問題として現れているけれど、若い人たちはそうではない仕方でも感受しているのだ、というふうにも書いている。この指摘は、きわめて鋭敏である。


…核や環境汚染の危機を人類がのりこえて生きるときにも、たかだか数億年ののちには、人間はあとかたもなくなっているはずだ。未来へ未来へ意味を求める思想は、終極、虚無におちるしかない。二〇世紀末の状況はこのことを目にみえるかたちで裸出してしまっただけだ。
 人類の死が存在するという…明晰の上に、あたらしく強い思想を開いてゆかなければならない時代の戸口に、わたしたちはいる。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫


『Earth』という曲を聴いていると、見田宗介先生のこの指摘を、ぼくは憶い起こす。

人類の死が存在するという明晰のうえに築かれる「あたらしく強い思想」がひとりひとりの生活のなかにひらかれてゆくとき、それは具象的な仕方で現れている「環境破壊」の問題も、解決の軌道にのってゆく。

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地球の環境・資源問題の解決の方向性。- 宇宙と地球の<はざま>で。

最近の「宇宙」にまつわることがらの盛り上がりを見ながら、「宇宙開拓」という方向性が、たとえば地球の環境容量の限界性(環境・資源問題)を解決するための、ひとつの方向性であることは確かである。資源採掘も、移住先としての地球外惑星も、さらには観光資源(宇宙旅行!)としても、その方向に沿った仕方で追求されている。

最近の「宇宙」にまつわることがらの盛り上がりを見ながら、「宇宙開拓」という方向性が、たとえば地球の環境容量の限界性(環境・資源問題)を解決するための、ひとつの方向性であることは確かである。資源採掘も、移住先としての地球外惑星も、さらには観光資源(宇宙旅行!)としても、その方向に沿った仕方で追求されている。

ブルーオリジン社の月着陸船「Blue Moon」が発表されたところだが、すでにその方向にビジネスを構築してゆくことを想定したうえでの発表である。


ところで、この方向に地球の環境・資源問題を解決してゆくことは「正しい」ように見える。

グローバル化のプロセスは、ある側面において、環境・資源問題を地球内の「他の地域」に外部化することで解決してきたプロセスであるけれど、グローバル化の完成は、そこにどこまで行っても「地球」という球体であることをいっそう目に見える仕方で見せることになった。

その地点から見ると「外部」は「宇宙」となる。環境・資源問題を解決してゆく方向性として、こうして「宇宙」は必然的に現れることになる。

なお、「テクノロジーによる環境容量の変更(拡大)」の方向性としては、多くの識者たちが語っているように、この外部の方向性に加え、人間の内側(遺伝子など)に向かっていく方向性もあるのだけれど、ここではそこには立ち入らない。


環境・資源問題を解決してゆく方向性として「宇宙」へと目が向けられる。だから、その方向性は「正しい」ように見える。

でも、そこで「正しい」としてしまうと、思考が止まってしまう。そのことを、ぼくは、見田宗介先生(社会学者)のことばに学んだ。


…もしそのようなものであるならば、たとえ宇宙の果てまでも探索と征服の版図を拡大しつづけたとしても、たとえ生命と物質の最小の単位までをも解体し再編し加工する手を探り続けたとしても、人間は、満足するということがないだろう。奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方を見出さないなら、人間は永久に不幸であるほかはないだろう。それは人間自身の欲望の構造について、明晰に知ることがないからである。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)


ここで「もしそのようなものであるならば」として指摘されているのは、「経済成長を無限につづける」という強迫観念、あるいは「物質的な欲望は限りなく増長する」という固定観念のことである。「環境容量をむりやりにでも拡大しつづけるという強迫観念」は、これらの強迫観念や固定観念から来ていると、見田宗介先生は書いている。

この指摘は、宇宙開拓の方向性の「正しさ」に対して、もう一段深い合理性の視点を加えている。

つまり、現代人の「考え方の前提」を明るみに出してしまうのである。どこか疑問や無理を感じながら、しかしどこか離れられないような、そんな観念たちである。


宇宙に向かうのが「悪い」ということではない。ただし、「環境容量をむりやりにでも拡大しつづけるという強迫観念」に支えられた、あるいは「経済成長を無限につづけるという強迫観念」に支えられた行動は、どこまでつづけたとしても、人間は幸福を見出すことはないのだということである。

宇宙に向かうにしろ向かわないにしろ、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方」が求められている。ぼくも、今ではそう思う。そして、それは「人間自身の欲望の構造について明晰に知ること」で可能なのだということを、人は知る。

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ブルーオリジン社の月着陸船「Blue Moon」。- 「Blue Moon」のイメージ動画を観て。

「宇宙」が注目され、そこにたくさんの夢がつめられている。今月前半だけ見ても、日本のインターステラテクノロジズ社のロケットが打ち上げに成功し、それから、米アマゾンのジェフ・ベゾス率いるブルーオリジン社の月着陸船「ブルームーン(Blue Moon)」が発表された。

「宇宙」が注目され、そこにたくさんの夢がつめられている。今月前半だけ見ても、日本のインターステラテクノロジズ社のロケットが打ち上げに成功し、それから、米アマゾンのジェフ・ベゾス率いるブルーオリジン社の月着陸船「ブルームーン(Blue Moon)」が発表された。

ぼくも小さい頃から「宇宙」が好きであるから、このような出来事にワクワクしてしまう。そんな気持ちや感情がどうして、どのように湧いてくるのかはよくわからないのだけれど。


「It’s time to go back to the Moon, this time to stay」(月に戻るときがきた。今回は滞在するんだ)と、ベゾスは発表イベントで語った。

月着陸船「ブルームーン」は、月の表面に相当量の装置や器具を届けることができる。月面への着陸はソフトで、人がいても可能だという。もちろん、「宇宙ビジネス」が視野に入れられていて、ブルーオリジン社のサイトの「Blue Moon」ページの下には、連絡先(Email address)が記載されている。

ブルーオリジン社は「Introducing Blue Moon」と題されたイメージ動画(1分46秒)を公開し、そのイメージ動画はぼくたちをワクワクさせてくれる。とてつもなく「新しいこと」をするときには、ビジョンを映像の形で創りだし、共有する仕方は、効果的でもあるだろう。実際にプロジェクトに関わっている人たちはもちろんのこと、そこに期待をよせる人たちまでを含めて、そこに「共同幻想」ができあがるのだ。


月着陸船「ブルームーン」の月着陸イメージの動画を観てワクワクしながら、それと同時に、ぼくのまなざしは、月の表面からはるか先に見える「地球」に向けられたのであった。岩や石やクレーターに囲まれた月の表面を鏡としながら映し出される、美しい青い惑星。水があり、木があり、生き物たちが暮らす地上。


宇宙に解き放たれながら、この小さな惑星、地球の内部に折り返すという「宇宙から折り返す視線」を、見田宗介(社会学者)は人類の課題として提示している。


 ダンテの時代に人びとの目はひたすら<天上>へと向けられていた。それは人類が、じっさいに天に昇ったことがなかったからである。今人類はじっさいに天に昇って、そこに天国はないことを見た。このとき人間を虚無から救うのは、宇宙飛行士が視線を折り返したときに見た<青い惑星>の美しさということだけである。
 地上こそ美しいのだと。
 「先にはもう宇宙しかない」断崖にまで来てしまった人類は、<折り返し>の場所に立っている。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)


人類はじっさいに天に行って、そこに「天国」がないことを見たけれども、そこに「宇宙ビジネス」の可能性を見出している。「資源」という名の天国である。環境・資源問題に直面する地球を見据えながら、それを乗り越えてゆくためのさまざまな「資源」の可能性をいわば<救世主>として見ている。

現在の地球の抱える問題の解決には、この「方向性」は確かにひとつの方向性である。

けれども、見田宗介のもうひとつのことばに、耳を傾けておきたい。


 環境容量をむりやりにでも拡大しつづけるという強迫観念は、経済成長を無限につづけなければならないというシステムの強迫観念から来るものである。あるいは、人間の物質的な欲望は限りなく増長するものであるという固定観念によるものである。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)


「宇宙」は夢をひろげるフィールドである。それは、人びとをワクワクさせてくれる。けれども、そこにわきあがる「欲望」については、立ち止まって、一歩二歩さがってから、じっくりと見なおすこと。そこから見えるもの、感覚されるものに降り立って、さらにじっくりと考えてみること。

「月面」への着陸船はとても魅力的だけれども、ぼくたちの「内面」への着陸船、またこの地球への今一度の<着陸船>も、今現在必要とされているものだと、ぼくは思う。

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香港, 宇宙・地球 Jun Nakajima 香港, 宇宙・地球 Jun Nakajima

夏の足音が聞こえる、香港の「清明節」に。- 「生命」のリレーのなかに存在すること。

本日(2019年4月5日)、ここ香港は「清明節」の休日である。

本日(2019年4月5日)、ここ香港は「清明節」の休日である。

朝から陽射しがふりそそぎ、空はうっすらと雲がかかり、空気のよごれが少し気になるけれど、よく晴れた一日となった。日中は29度ほどまで気温が上昇し、外に出たときには、セミたちが鳴いているのを、耳にした。

「清明節」は、日本の「お盆」にあたるもので、祖先を敬い、家族で墓地にお参りにいく。

お墓参りをするには暑いなぁと勝手に気になってしまったのだけれど、清明節には雨がふりそそぐより、陽射しがふりそそいでいるのがよいと、ぼくは思ったりする。


昨年のブログでぼくは何を書いたのか気になって、ぼくは昨年の清明節(2018年4月5日)のブログをひらいてみた。

昨年の清明節も、よく晴れた香港であったことを、ブログを読み返しながら思い出した。

そして、「よく晴れていたこと」だけでなく、「生命」という次元にまで降りていって書いていたことを、一年前のじぶんに思い出させられた。「清明節」(Ching Ming Festival)の「清明」を日本語読みすると「せいめい」となるけれど、ぼくは(思考が飛んで)「生命」ということを考えていた。

「生命」を考えることは、大それたことかもしれない。しかし、「祖先」ということをつきつめて考えると、誰もが、はるか太古の昔からの「生命たちのリレー」のうちに存在していることを知る。現代の時代を特色づける「個人主義」を履き違えると、それは人を周りの他者たちから切り離すだけでなく、この「生命たちのリレー」から自分の存在を切り離してしまうこともある。

ぼくたちは、今この時代に生きる人たちと共に生きる「生きかた」を見いだしてゆくだけでなく、「生命たちのリレー」というひとつの奇跡のなかで、過去から未来へとつながる「生きかた」を見いだしてゆくときにいる。


そんなことを書いた昨年の清明節(2018年4月5日)のブログをここに再掲しておきたい。


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ここ香港は、本日(2018年4月5日)は「清明節」を迎えている。

「清明節」は、いわゆる日本の「お盆」にあたる行事である。清明節は旧暦の3月に到来し、香港の人たちはこの機会に墓地におとずれ、「清明」という漢字に表されているように、祖先の墓を掃除する。

清明節の当日はもとより、その前後の日に、お供え物などを入れた赤いプラスチック袋を手に提げながら、家族一緒に、墓地に歩いてゆく人たちを目にする。香港の、清く、よく晴れた日に。


香港政府観光局のホームページには、「清明節」は以下のように記載されている。


…この時期、中国の人は祖先の墓を掃除します。でも掃除だけで終わりません。清明節は祖先を敬う重要な儀式なので、家族全員で墓地の草むしりをしたり、暮石の碑文を塗りなおしたり、食べ物をお供えしたり、お香をたいたりします。
清明節の時期は伝統的に、先祖があの世で使うとされているものの紙のお供え物を多くの人が墓地で燃やします。…

「清明節」、香港政府観光局ホームページ『香港 Best of All It’s In Hong Kong』(日本語)


「紙のお供え物」は、お金を模したものであったものが、最近では時代を反映して、携帯電話・タブレット、車、冷蔵庫などの紙のレプリカがある。時代の反映のされ方は興味深いものだけれど、このような伝統的な行事が今も大切にされていることに、ぼくは目を惹かれる。

そしてそこには「家族」が、現代という時代の荒波にありながらも、きっちりと土台をなしていることに感銘をうける。日本のお盆とは異なる時期だけれど、清明節の、香港の人たちの行き交う姿に触発されて、ぼくも祖先や家族に思いをはせる。



そのような思いはいつしか、このぼくの身心に受け継がれているものへと向けられる。

リチャード・ドーキンスの言うような「利己的遺伝子」の視点から見れば、人は遺伝子にとっての「乗り物」である。遺伝子は過去から現在に至るまで、長い旅を続け、ぼくという身体に至っている。その意味において、祖先は、ぼくのなかに息づいている。


そしてまた、人の身体は、真木悠介の書くように、さまざまな生物たちの<共生のエコ・システム>である。


…今日われわれを形成している真核細胞は、それ以前に繁栄の極に達した生命の形態による地球環境「汚染」の危機をのりこえるための、全く異質の生命たちの共生のエコ・システムである。…
 われわれ自身がそれである多細胞「個体」の形成の決定的な一歩は、みずから招いた地球環境の危機に対処する原始の微生物たちの共生連合であり、つまりまったく異質の原核生物たちの相乗態としての<真核細胞>の形成である。この<真核細胞>が、相互の2次的な共生態としての多細胞生物「個体」の、複雑化してゆく組織や器官の進化を可能とする遺伝子情報の集合体となる。個体という共生系の形成ののちも、その進化的時間の中で、それは数知れぬ漂泊民や異個体からの移住民たちを包容しつつ変形し、多様化し豊饒化しつづけてきた。「私」という現象は、これら一切の不可視の生成子たちの相乗しまた相剋する力の複合体である。

真木悠介『自我の起原』岩波書店


ぼくたちを構成する細胞もまた、太古の昔から進化的時間の中をぬけながら、今のぼくたちに引き継がれてきているものである。地球のいろいろな生命たちのリレーのうちに、今のぼくがいる。地球のいろいろな生命たちも、ぼくにとっての祖先である。


そう書きながら、「生命」が、「清明」という言葉と同じ響きであることに気づく。「生命」は、清明節の字と同じように、<清く明るい>ものである。

いろいろな生命たち、そして祖先に深謝しつつ、いろいろな生命や祖先から受けつがれているこの身体に、ぼくは深く感謝をする。

香港の、清く、よく晴れた日に。

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「大量生産→大量消費」のこと。- 片づけをしながら考える「歴史的な大量消費社会」。

家の片づけをしながら、現代という時代の「大量消費」のことを思う。

家の片づけをしながら、現代という時代の「大量消費」のことを思う。

「モノ」への執着はあまりないと思ってきたにもかかわらず、それでも、いろいろな「モノ」が、いろいろな形で、いろいろなところにあるのを見つける。生きることの「豊かさ」をつくってくれる「モノ」が、かならずしもそのように機能せず、また、ぼくも大切にあつかうことができていない。

少し論理が飛躍するけれど、このことは「モノ」だけの話ではなく、「大切にあつかうことができていない」ことが、じぶんの生のどこかに、なんらかの仕方でつながっていたりする。

ともあれ、できるだけ、じぶんなりに「大切にしよう」などと思うのだけれど、現代社会の「構造」のなかに生きていると、「構造」にとりこまれてしまうようなところがある。


「大量消費」のことを思うと、いつも、見田宗介先生(社会学者)の名著『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』で展開された、明晰な論理が憶い起こされる。


「大量生産/大量消費」のシステムとしてふつう語られているものは、一つの無限幻想の形式である。事実は「大量採取/大量生産/大量消費/大量廃棄」という限界づけられたシステムである。
 つまり生産の最初の始点と、消費の最後の末端で、この惑星とその気圏との、「自然」の資源と環境の与件に依存し、その許容する範囲に限定されてしか存立しえない。

見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)


先進産業地域の都市などに暮らしていると、「大量生産→大量消費」のなかで(忙しく)生きてゆく。街に出ていけば、あるいはインターネットに接続すれば(大量生産でつくられた)「モノ」がいつでも、どこでも手に入り、そして、それらを(大量消費的に)購入し、利用し、楽しむ。使いおわれば、ゴミとして廃棄する。

見田宗介先生が明晰に論じているように、これは「一つの無限幻想の形式」であり、実際には「大量採取→(大量生産→大量消費)→大量廃棄」という限界づけられたシステムである。

日々の生活のなかでこの「限界づけられたシステム」(の両端)を感じることはあまりなく、「モノを購入して消費し、そして廃棄する」ことを、ただふつうの日常として生きる。でもときに、テレビやインターネットの写真や映像で、「大量採取」と「大量廃棄」を知識として知る。遠くの出来事のように感じたり、心を傷めたりしながら。

前出の著書で、見田宗介先生がさらに論じているように、歴史的な大量消費社会は、この限界づけられたシステムの両端、つまり「大量採取」と「大量廃棄」を、「外部」の諸社会や諸地域に転嫁することで存立してきたのである。

いろいろな物事は、このような「間接化」され、視えなくされることで存立している。


もちろん、これらのことを「知って」いるだけでは、この限界づけられたシステムから解き放たれることはできないし、また、個々それぞれにゴミを少なくしたり(なくしたり)、リサイクルをすすめたりするだけでは、(それらはとても大切なことであるけれども)なかなか「解放の道」が見えないものでもある。

でも、人びとが、このような社会を理解し、そこから解き放たれてゆくことの「物語」を共有することなしに、道はひらけていかない。だから、知ることと、個々にできることをすることは出発点でもある。


見田宗介先生は、21世紀の人間にとって切実な課題を、ポジティブに定式化して、つぎのように書いている。


…<自由な社会>という理念を手放すことなしに、現在あるような形の「成長」依存的な経済構造=社会構造=精神構造からの解放の道を見出すということが、二十一世紀の人間にとって切実に現実的な課題として立ち現れる。

見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)※2018年増補版


ハイライトをつけておきたいのは、「経済構造=社会構造=精神構造」からの解放の道であるということ。経済/社会/精神が相互に連関する構造として、描かれていることである。

経済/社会/精神のそれぞれが「同時に」すすんでゆくこともあれば、それぞれのあいだに時間的/空間的なギャップ(あるいは緊張)をつくりながら動いてゆくこともある。「現代」は、まさにそのような<過渡期>であるとも言える。

「じぶん」がいる立ち位置を確認しながら、じぶんの生を抑圧するのではなく、ひらいてゆく方向に(ほんとうの「歓び」を深めてゆく方向に)、「解放の道」をそれぞれに見つけたい。そのために、「じぶん」という経験の内奥に、降りてゆくこと。

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日本, 宇宙・地球 Jun Nakajima 日本, 宇宙・地球 Jun Nakajima

「植物の名」の多いこと。- 日本語と日本人の「植物」への関心と可能性。

言語学者であった金田一春彦(1913-2004)の著書『美しい日本語』(角川文庫)のなかに、「世界で一番植物の名が多い国」という文章がある。

言語学者であった金田一春彦(1913-2004)の著書『美しい日本語』(角川文庫)のなかに、「世界で一番植物の名が多い国」という文章がある。


 日本語にはおびただしい数の木の名・草の名がある。大槻文彦氏の編集した『言海』を開いて、これは植物の名ばかりではないかと言ったという外国人の話がある。…

金田一春彦『美しい日本語』(角川文庫)


海外の友人が、日本人の植物への関心の高さについて語っていたのを、ぼくは思い起こす。思えば、ぼく自身も、海外で日本から来た人を案内するときに、植物の名前を尋ねられたことがあった。


言語のなかで言葉が多くあらわれるのは、ひとつには、実際の生活において密接なつながりを有しているものごとである。使われる言葉から、人の生活や社会が見えてくることになるが、たしかに、日本は植物(木や草や花など)とのむすびつきがより強いように、実感として感じる。

もちろん、金田一春彦が書くように、日本語に植物の名が多いことの背景には、まず、日本に植物の種類が豊富であることが挙げられる。

さらには、ひとつの対象であっても、古来の言葉や方言などが加わって、植物の名は『言海』の辞書を埋め尽くす、とまではいかなくても、外国人が「これは植物の名ばかりではないか」と発言するほどの存在感をつくってしまうのである。


ぼくはこの文章に眼をとおしながら、そこに「可能性」を見る。

日本語にはおびただしい数の木の名・草の名があっても、それがそのままに「世界」にひろがってゆくものではない。

けれども、おびただしい数の木の名・草の名をもつ「生きかた」、自然との関係のありかたに、自然と人間社会との関係性をいくぶんなりとも変容させてゆく「可能性」を感じるのである。

そのような生きかたやありかたの底流にながれる、人と植物たちとの具体的な関係性に、である。


この「可能性」は、おなじように、ぼくのなかにも、ひらいていきたいものである。

抽象的思考を好むぼくは、ついつい、具体性から離陸してしまう。だから、「名前」をきっかけに(「名前」の功罪ということもあるので、それがすべてではないけれど)、この「世界」のいろいろなものごとを、楽しみたいと思う。

そのような具体的な関係のありように、「世界」は、ぼく(たち)のまえに、異なった姿であらわれるのである。

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宇宙・地球 Jun Nakajima 宇宙・地球 Jun Nakajima

火星の「音」を聴く。- NASA探査機「InSight」がとらえた「風の音」。

先月(2018年11月)の末に、火星に見事に着陸した、NASAの探査機「InSight」(インサイト)。

12月1日、着陸後に探査機「InSight」からひろげられたソーラーパネルを吹き抜ける風による振動を、探査機が探知したようだ。

はじめて聴くことのできる、火星の「音」(Sounds of Mars)。耳で直接に聴く音ではないにしろ、はじめて聴く、火星の「風の音」。

火星の「音」(Sounds of Mars)、「風の音」という文字を目にしながら、ぼくはふと、とてもシンプルなことに気づく。確かに、火星はこれまで、目で<見る>対象であった。探査機がとらえた火星の表情を目で見る(たとえば、探査機「Curiosity」がとらえた火星の地表をきれいな画像で見ることができる)。思えば、<聴く>ということはなかった。


その、火星の「音」を<聴く>という体験を、今回NASAは<共有>してくれている。つまり、一般公開し、ぼくたちは、火星の「風の音」(振動)を聴くことができるのだ。

ここでは、YouTubeへのリンクを貼っておきたい(下記をクリックするとYouTubeにとびます)。


「Sounds of Mars: NASA’s InSight Senses Martian Wind」(by NASA Jet Propulsion Laboratory)


動画を再生する前には「ヘッドホン」を装着しておくことを、おすすめする。NASAは、音のピッチによって3つのバージョンを用意してくれていて、最初のバージョンは、ヘッドフォンがないと聞こえないくらい低いピッチであるからだ。そしてなによりも、より親密に、火星の「風の音」を聴くために。


火星の「風の音」に耳を澄ませていると、想像の世界の扉がひらかれてゆく。この音がなんの音か知らされないままに聴いたとしたら、ただのなんでもない風の音だと思うだろう。けれども、そこに、火星の「風の音」ということが加わると、やはり想像の世界がひらかれる。

想像の世界は、<聴く>ということのなかに、いっそうひろがってゆく。<見る>ということ以上に。

それでも、<見る>ということも加えてみるのも、ひとつの方法である。探査機「Curiosity」がとらえた火星の地表の「パノラマ」は圧巻である。夜空に赤く光る、火星という赤い惑星の地表を、とても鮮明に、ぼくたちは見ることができるのだ。

YouTubeにアップロードされている「Namib Dune(ナミブ砂丘)の360度ビュー」へのリンクを、ここでは挙げておきたい。


「NASA’s Curiosity Mars Rover at Namib Dune (360 view)」(by NASA Jet Propulsion Laboratory)


そこから、もう少しビューをひろげて見ると、いっそう、火星の風景を、ぼくたちは目にすることができる。探査機「Curiosity」の旅路などの解説(英語)も加えられているが、火星の地表の「眺望」(scenic overlook)として、つぎも圧巻である。


「Curiosity at Martian Scenic Overlook」(by NASA Jet Propulsion Laboratory)


この探査機の名前(「Curiosity」)のごとく、NASAのJPLの研究者たちだけでなく、ぼくたちの「好奇心」をどこまでも駆り立ててやまない画像たちである。その好奇心に導かれながら、ぼくたちは、想像の翼をいっぱいにはばたかせることができる。


ところで、宇宙における「音」について、「世界は音」というコンセプトに触れている、社会学者・見田宗介の言葉を以前紹介した。

社会学者の見田宗介は、古代インドのコンセプトであり、ジャズの大御所ベーレント(Joachim-Ernst Berent)の著作のタイトル『世界は音ーナーダ・ブラフマー』(人文書院)にもなったコンセプトに触れながら、つぎのように書いている。


…わたしたちが、じっさいに音を聴くことができるのは、空気や水、大地などという、濃密で敏感な分子たちのひしめきの中だけである。<宇宙は音>というイメージは、わたしたちの意識を宇宙に解き放つとともに、また幾層もの<音>の呼び交わす、奇跡のように祝福された小さな惑星の、限定された空間と時間の内部に呼び戻しもする。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)


火星という環境の「分子たちのひしめき」のなかで記録され、そしてこの青い小さな惑星で<聴く>ことのできる、火星の「風の音」。

どこまでも好奇心をかきたてる音でありながら、他方で、この地球の「風の音」へと、呼び戻しもする。「奇跡のように祝福された小さな惑星」の自然が奏でる音たち(また、水があり木がありという風景)が、いっそう鮮烈に、ぼくの意識へとのぼってくる。

火星の「風の音」を聴きながら、そこに重層するように、地球の「風の音」を聴く。この耳に直接にとどく「風の音」を感じる。

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宇宙・地球 Jun Nakajima 宇宙・地球 Jun Nakajima

「世界」の周辺が暗闇だった時代の「感覚」を想像して。- 地球が「地球」でなかったころ。

この「地球」を生きているぼくたちは、この地球が球体であることを「知って」いる(あるいは、ここが「地『球』」であることを知っている)。

この「地球」を生きているぼくたちは、この地球が球体であることを「知って」いる(あるいは、ここが「地『球』」であることを知っている)。

学校でも習ったし、文房具店や百貨店には地球儀がならび、ニュースは「グローバル化」を語り、iPhoneやApple Watchのスクリーンは球体である地球をうつしだしている。

地球のなかにいるとそれが球体であるのかは、飛行機にのっても船にのっても「実感」できないけれど、宇宙飛行士が宇宙で<折り返したときの視線>は、そこに青い惑星の(光の都合で完全ではないが)球体をみることができる。

現代社会を正面からみつめ、肯定的な未来を構想する見田宗介は、「グローバル・システムの危機」の文脈で、つぎのように書いている。

 球はふしぎな幾何学である。無限であり、有限である。球面はどこまでいっても際限はないが、それでもひとつの「閉域」である。
 グローバル・システムとは球のシステムということである。どこまで行っても障壁はないが、それでもひとつの閉域である。これもまた比喩でなく現実の論理である。二十一世紀の今現実に起きていることの構造である。グローバル・システムとは、無限を追求することえをとおして立証してしまった有限性である。それが最終的であるのは、共同体にも国家にも域外はあるが、地球には域外はないからである。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年

球のふしぎな幾何学(無限であり、有限である)については、人によっては小さいころに考えさせられたことであるかもしれない。それは、あたりまえのことでありながら、しかし、思考や想像を触発するものである。

地球の「球体」をあたりまえのこととして認識しながら、あるいは地球のだいたいどこにどのような大陸や島があってということを想像しながら、ぼくの想像と問いは、「昔の人たち」がどのように、空間(また時間)を感覚し、認識し、想像していたのか、という地平へと向かう。それは、どのような「感じ」であったのか。

写真家の杉本博司の写真集『海景』シリーズのモチーフは、「原始人の見ていた風景を、現代人も同じように見ることは可能か」という自問であったというが、そのモチーフとも共振するように、ぼくの想像と問いはある。

あるいは、極限してゆけば、養老孟司が「ヒトがいない世界」というものをものすごくリアルに考えているということとも通底しているのかもしれない。縄文時代や富士山ができる頃の日本列島の自然を見てみたいのだと、ずっと思っているという気持ちとの共振である。

真木悠介(見田宗介)は、「人間の解放」に照準をあわせながら、近代・現代とは異なる社会と出会うことを方法(「比較社会学」という方法)としている。名著『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)は、近代・現代とは異なる「時間感覚」をほりおこしてもいる。

今とは異なる「時間感覚/空間感覚」を実感してみたい、体験してみたいという衝動が、ぼくのなかにある。

オーストラリアとニュージーランドの歴史を書いた著作『History of Australia and New Zealand』(1894)で、著者のAlexander Sutherland(1852-1902)とGeorge Sutherland(1855-1905)は、ヨーロッパ人がオーストラリアを「発見」した当時の、「空間認識」から書きはじめている。

To the people who lived four centuries ago in Europe only a very small portion of the earth’s surface was known. 
4世紀前のヨーロッパに住んでいた人たちにとって、地球の表面のほんのわずかな部分しか知られていなかった。

Alexander Sutherland and George Sutherland『History of Australia and New Zealand』(Aberdeen University Press) ※日本語訳はブログ著者

限定されていた「ほんのわずかな部分」とは、地中海世界のすぐ周辺の地域、ヨーロッパ・北アフリカ・アジアの西側の地域であったという。

Round these there was a margin, obscurely and imperfectly described in the reports of merchants; but by far the greater part of the world was utterly unknown. Great realms of darkness stretched all beyond, and closely hemmed in the little circle of light. In these unknown lands our ancestors loved to picture everything that was strange and mysterious. 
これらの場所の周りは、商人たちの報告で、あいまいかつ不完全に述べられる余白であった。しかし、世界の圧倒的に大きな部分はまったく知られていなかったのである。先には大きな暗闇がひろがっていて、明かりの小さな円に密接に取り囲まれている。これらの知られていない土地について、われわれの祖先たちは、奇怪でミステリアスなものとしてすべてを想像することをとても好んだのであった。

Alexander Sutherland and George Sutherland『History of Australia and New Zealand』(Aberdeen University Press) ※日本語訳はブログ著者

もちろん、このあと航海術などの進展にともない、たとえばコロンブスの「発見」などにつながってゆくことになる。

それにしても、ある土地の先が「闇」であるような<地図>をもとに旅をしてゆくことが、どのような「感覚」のなかにあったのか。「オーストラリア」の発見を描写してゆく、Sutherland兄弟の本の「出だし」(旅の出発点)を読みながら、その想像の世界のなかに、読み手はなげこまれることになる。

そのことがたった400年ほど前のことであったのだということも、地球が球体であることをあたりまえのこととして知る現代の人間たち(そして、決心して行こうと思えば、いつだってこの球体をまわることができる人間たち)にとっては、なかなか想像しがたいことだ。

なにか結論や教訓などをひきだすのではなく、ぼくはただ、今とは異なる「時間感覚/空間感覚」を実感してみたい、体験してみたいという衝動について書いている。

それは、ひとつには、ぼくたちが生きている「今」という地点を、歴史的/地理的なマップのなかで「見渡す」ということでもある。ぼくたちが、どのような時代の、どのような所に生きているのかを、より客観的に知ることである。

また、もうひとつには、「今」という地点から、いったん想像的に<外部へ出てみる>ことで、「今」という地点ではなかなか手にいれることができない感覚と視点を手に入れようとする試みでもある。そうすることで、生きかたを想像的に創造する「翼」を手にすることができるかもしれない。

このようであることで、過去へ向かう旅は、現在と未来への旅である。

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「先にはもう宇宙しかない」断崖の<折り返し>の場所(見田宗介)。- 地球からの視線と宇宙からの視線。

NASA「InSight」による見事な火星着陸のトピックを起点として、「宇宙」にかんれんすることを書いてきた。

NASA「InSight」による見事な火星着陸のトピックを起点として、「宇宙」にかんれんすることを書いてきた。


●ブログ(11月27日): 「火星」を起点に、現実として宇宙を視野に。- Stephen L. Petranek著『How We'll Live on Mars』。

●ブログ(11月28日):記憶に鮮烈にのこっている「星空」。- 東ティモールの山間部で見た「星空」。

●ブログ(11月29日):三木成夫「生命とリズム」のことばから。- 人間の原形と地球・宇宙のリズムの共振。


「宇宙」そのものにぼくは惹かれるのだけれど、宇宙に思いを馳せ、宇宙のことを考え書きながら、ぼくは同時に、「人間」のこと、この「地球」のことを考えている。

さしあたって「火星」は、SpaceXやNASA「InSight」の果敢な挑戦とともに、将来の「人間の移住」先としての興味もつきない。さらには、火星の「先」にひろがる宇宙空間、たとえば火星と木星の間にある小惑星帯には、鉱石資源があると言われ、宇宙ビジネスも本格化してきているという。人間が、「宇宙」を開拓してゆくことへの、まなざしである。

それから、「星空」のことについて書いた。いつも夜空を観ていたりするのだけれど、記憶に鮮烈にしるされた「星空」(記憶の表層にあらわれる「星空」)は、少なくともぼくにとっては、それほどあるものではなく、そんな鮮烈な記憶のひとつ、「東ティモール」の山間部レテフォホで観た「星空」の体験について、少しのことを書いた。人間が、天空にまなざす視線である。

さらに、解剖学者である三木成夫の研究と美しいことばによりながら、地球の生命たちが、その生命の原形において、宇宙のリズムと共振していることについて、かんたんに概観した。人間を含む生命たちと宇宙/太陽系とが<つながっている>ことへの、まなざしである。


「宇宙」について、人間は、まだほとんど何も知らないという状態であるのだと言うこともできるだろし、火星やその先を見据えながら、人間の「開拓」は進んでゆくのだけれど(それはワクワクすることでもあるのだけれど)、それと同時に、火星の状況などを知るようになって「つくづく感じる」のは、「地球」という惑星の美しさと、水があり森があり山がある(人間を含む生命たちにとっての)すばらしい環境である。

クリストファー・ノーラン監督の映画『Interstellar』、マット・デーモン主演の映画『The Martian』などを観たあとに感じる安堵感と心地よさは、宇宙や火星などを舞台にしながら、それらの状況や映像に反射するように映し出される「地球」の美しさと環境からくるものである。少なくとも、ぼくはそう思う。宇宙や他の惑星という視点から折り返される「地球」へのまなざしである。

現実的に、人間が「音を聴く」ということでさえ、いわゆる宇宙空間のただなかではかなわない。

このことについて、社会学者の見田宗介は、古代インドのコンセプトであり、ジャズの大御所ベーレント(Joachim-Ernst Berent)の著作『世界は音ーナーダ・ブラフマー』(人文書院)に触れながら、つぎのように書いている。


…わたしたちが、じっさいに音を聴くことができるのは、空気や水、大地などという、濃密で敏感な分子たちのひしめきの中だけである。<宇宙は音>というイメージは、わたしたちの意識を宇宙に解き放つとともに、また幾層もの<音>の呼び交わす、奇跡のように祝福された小さな惑星の、限定された空間と時間の内部に呼び戻しもする。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)


宇宙に解き放たれながら、小さな惑星の内部に折り返してくるイメージ。この、いわば「宇宙から折り返す視線」を、見田宗介は人類の課題として、提示している。


 ダンテの時代に人びとの目はひたすら<天上>へと向けられていた。それは人類が、じっさいに天に昇ったことがなかったからである。今人類はじっさいに天に昇って、そこに天国はないことを見た。このとき人間を虚無から救うのは、宇宙飛行士が視線を折り返したときに見た<青い惑星>の美しさということだけである。
 地上こそ美しいのだと。
 「先にはもう宇宙しかない」断崖にまで来てしまった人類は、<折り返し>の場所に立っている。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)


「人類はじっさいに天に昇って、そこに天国はないことを見た」あとに、それでも、「宇宙」という謎や夢に魅せられる人たちもいる(ぼくもひきつづき、魅せられれている)。宇宙の「開拓」へとつきすすんでゆく人たちもいる。

けれども、ぼくたちは、やはり「知っている」のだと思う。宇宙飛行士が視線を折り返したときに見た<青い惑星>のイメージを胸にしながら、「地上こそ美しい」のだということを。

宇宙へと解き放たれたのちに、宇宙から折り返す、まなざしである。

ここ香港で、窓の外にひろがる海と、海の表面をたわむれる陽射したちを見ながら、「先にはもう宇宙しかない」断崖の<折り返し>の場所のことを、ぼくは考えている。

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宇宙・地球, 身体性 Jun Nakajima 宇宙・地球, 身体性 Jun Nakajima

三木成夫「生命とリズム」のことばから。- 人間の原形と地球・宇宙のリズムの共振。

「三木成夫の著書にであったのは、ここ数年のわたしにひとつの事件だった」と、かつて、思想家の吉本隆明(1924-2012)が深く影響を受けることとなった、解剖学者の三木成夫(1925-1987)の研究と著作。

「三木成夫の著書にであったのは、ここ数年のわたしにひとつの事件だった」と、かつて、思想家の吉本隆明(1924-2012)が深く影響を受けることとなった、解剖学者の三木成夫(1925-1987)の研究と著作。

三木成夫が「人間の生命」について書いた文章は、とても美しい(もちろん、きわめて論理的でもある)。

「人間生命の誕生」(『生命とリズム』河出文庫に所収)では、「人間の生命形態」について、植物と動物との比較において追求されている。

三木成夫の拠って立つ「ゲーテ形態学」における方法論に基礎をおきながら、つまり、人間の<すがたかたち>(人間の原形)を知るために、人間と植物と動物の三者に共通する「生過程の原形」を求めたうえで、その原形の「人間における変容(Metamorphose)」を追求する方法で、人間生命にせまってゆく。


なお、三木成夫は、「自然を眺める人間の眼」には、<かたち(すがたかたち)>に向かうものと、<しくみ(しかけしくみ)>に向かうものの二種があるとしながら、これらは「左右の眼の使い分け」によって、ひとつのものが生きたもの/死んだものとなるとし、前者を<こころの眼>、また後者を<あたまの眼>と呼んでいる。

そして、ここで「人間生命」と三木が言う時、それは人間のもつ独自の<すがたかたち>のことである。この<すがたかたち>の学問体系がゲーテ形態学によって確立され、ゲーテは人間独自の<すがたかたち>を「人間の原形」と呼んで、この解明に生涯を賭したのだという(ゲーテは、文学者というだけでなく、科学者でもある。三木も、自然科学者でありながら「文学的」であるとぼくは思うが、真の知性たちは追い求めるもののために「境界を越境する」)。


さて、三木成夫は、「生過程」を、「「成長」と「生殖」の位相交替のはてしなく続く、ひとつの波形として描き出すことができる」としている。

成長と生殖の営み、つまり「食と性」は、もちろん、植物と動物とでは異なる。

三木の「まなざし」の興味深さは、動かないままに「合成能力」によって生を営む植物の視点から、その能力を「欠いた」ものとして動物の営みを記述している。動物は、合成能力がないから「動く」ことで草木の実りを求め、また合成能力の代償として「運動と感覚」の機能が身についたのだと説明している。

この「植物」にかんすることばがとても美しく、ぼくには感じられる。


 植物はしたがって、完全に無感覚・無運動の、言ってみれば覚醒のない熟睡の生涯を永遠に繰り返してゆく生きものということになるのであるが、…しからばいかにして歳月の移り変わりを知ることになるのであろうか?それはこの植物を形成するひとつひとつの細胞原形質に「遠い彼方」と共振する性能が備わっているから、と説明するよりほかないであろう。巨視的に見ればこの原形質の母胎は地球であり、さらに地球の母胎は太陽でなければならない。
 …細胞原形質には、遠くを見る目玉のない代わりに、そうした「遠受容」の性能が備わっていたことになる。これを生物の持つ「観得」の性能と呼ぶ。植物はこのおかげで、自らの生のリズムを宇宙のそれに参画させる。

三木成夫『生命とリズム』河出文庫


ぼくたちの「眼」は、物事を分節しながら「世界」を認識してゆくから、植物は植物、地球は地球、太陽は太陽、宇宙は宇宙、といった具合に、対象を別々に理解している。個人主義的な社会のなかではさらに物事を「個体」として看取していくから、対象は「別々」である。

そのような「世界」認識を、生命が持つ「観得」の性能は連関するものとしてとらえる。植物は、「自らの生のリズムを宇宙のそれに参画させる」のだ。


ここのところ、NASA「InSight」による見事な火星着陸に触発されて、ブログを書いている。火星や月や星空のことなどを書いているのだけれど、それは「宇宙」というカテゴリーのもとに、じぶんの、あるいはじぶんをとりまく生命たちと「別々」のこととして考えているのではないことを、三木成夫のことばをガイドに、いまこうして、もうひとつのブログを書いている。

宇宙や太陽系の形成と発展という視点からみれば、その形成と発展のなかに、現在のかたちとしくみの「地球」とその生命体たちが存在しているのであるから、地球とその生命体たちが宇宙のリズムと共振していることはなにも不思議なことではない。

三木の研究とことばは、それとはちょうど逆の仕方で、つまり植物と動物と人間という生命体たちを起点としながら、それらの生過程のなかに宇宙とそのリズムをとりこんだ視点で説明してくれている。

真木悠介(社会学者の見田宗介)の描く「現代人間の五層構造」(生命・人間・文明・近代・現代)の要諦は、現代の人間はそれらを「かけあがってきた」のではなく、どんな現代の人間においても、これらの五層が<共時的に生きつづけている>ということである。

この五層における人間のいちばん基底にある「生命」としての層が、宇宙/太陽系のリズムとともに、いまも生きつづけている。


植物につづいて「動物」はどうであろうかと、三木成夫は文章を展開させてゆく。


…その原形質もまた宇宙のリズムに乗って自らの食と性を営んでゆくのであるが、ここではさらに、その時々の原形質の欠乏を満たす糧を、それがたとい五感の及ばぬ遥か彼方のものであっても、それを的確に観得し、それに向かって運動を起こす。つまり成長繁茂・開花結実という生過程にのみ結ばれた植物の「観得」の性能は、動物ではさらに餌と異性に向かう個体運動(locomotion)にまで結ばれることになる。かれらが日月星辰のリズムに乗って、ある時は大空を渡り、ある時は急流を遡り、それぞれ彼方の見えぬ「食と性」の目標に向かってあたかも生磁気に牽きよせられるがごとくに進んでいくーいわゆる“鳥の渡り”とか“魚の産卵”に見られる動物の「本能」とは、まさにこの「遠観得」の性能に依存するものであることがここで判明した。

三木成夫『生命とリズム』河出文庫


動物の「観得」はここにとどまらず、感覚・運動の回路を通じて「外界」を形成し、人間にいたっては無限の「世界」にまで拡大されるとしながら、三木は、人びとは植物原形質が観得した「遠のおもかげ」を見出すことができるのであると説明している(論理の展開の詳細は本書をご参照ください)。


これからの時代と生きかたをきりひらいてゆくうえで、三木成夫が追い求めたものと彼のことばは、とてもたくさんの教えを与えてくれているように、ぼくは思う。

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宇宙・地球 Jun Nakajima 宇宙・地球 Jun Nakajima

記憶に鮮烈にのこっている「星空」。- 東ティモールの山間部で見た「星空」。

NASA「InSight」による見事な火星着陸に触発され、また、ブログ「「火星」を起点に、現実として宇宙を視野に。- Stephen L. Petranek著『How We'll Live on Mars』。」を書いていたら、「宇宙」にかんすることをいろいろと思い出しました。

NASA「InSight」による見事な火星着陸に触発され、また、ブログ「火星」を起点に、現実として宇宙を視野に。- Stephen L. Petranek著『How We'll Live on Mars』。を書いていたら、「宇宙」にかんすることをいろいろと思い出しました。

でも、これまでにいくどとなく「星空」を見てきたにもかかわらず、記憶の「表層」にのぼってくる「星空」の風景は、それほど多くはないものです。

つまり、星空と星空を見ている様子がイメージとして脳裏にあらわれ、またその星空を見上げていたときの夜の空気感さえも記憶にあがってくるような「とき」は、ぼくにとっては、ほとんど思い出せないものだったりします。

自然と思い起こすことのできる「星空」の風景は、いくつか、と、数えることのできるほどです。


そのことはなにも「星空」のせいであるというよりも、むしろ、それを見るぼく自身の心象や状況によるものだと思うのですが、それでも、じぶん自身の心象や状況をも圧倒してしまうほどに印象的な「星空」があることもたしかです。

30年近く前のことで思い起こすのは、いわゆる「星空」ではなく、望遠鏡で観た月と惑星です。

家の近くの、少し高台となっている公園に望遠鏡をはこび、適当なレンズを選んで、月や火星や木星へと焦点をあわせていきます。

火星や木星はあまり大きくは見えないから、結局、月にもどってきては、月表にひろがっているクレーターたちを眺めたのでした。

ぼくはクレーターと暗い宇宙空間の境界線を見やりながら、そのどこか厳かな雰囲気に、夜の空気がぴーんと張るように感知したものです。

そのときのことを、ぼくはまだ感覚とイメージとして覚えています。


人間的時間は先にすすんで、15年ほど前のこと、2000年代の半ばに、ぼくは東ティモールにいました。

当時、仕事で東ティモールに滞在しており、首都ディリと、(コーヒーの)プロジェクト地である山間部のレテフォホ群を行き来していました。

当時の首都ディリには信号もなく、高い建物もほとんどなく(あってもほとんどが2階建くらいで、確かもっとも高い建物も5階建てくらいであった)、またときどき停電がやってきたのでした。

レテフォホ群のほうはというと、電気は確か、夕方18時頃にやってきて、22時にはとまってしまう計画停電が敷かれていました。だから、レテフォホの村にいるときは、電気がとまってしまう22時にあわせて眠るようにし、そうすることで山間部の冷えも寝床でしのいでいました。

早めに寝床につくことと山間部の冷えのためか、夜中に、ぼくはトイレに行きたくなって、ときおり目が覚めました。寒さを感じるため、寝床を出ていくのは億劫になってしまうこともあり、とくにトイレが建物の後ろにつくられていて、そこにたどりつくためには、裏手のドアから一度「外」に出る必要があったことから、一層寝床を出ることがためらわれるのでした。

でも、その「とき」はぼくにとって、「祝福されたとき」でもあったのでした。一度「外」に出る必要があることから、外の新鮮な空気を吸うことができるとともに、天候や月明かりの状況によっては、天空に満天の星たちを見ることができたからです。コーヒー農園がいっぱいにひろがるレテフォホの夜空に、ほんとうにいっぱいの星たちがひろがっているのです。

都会ではふつう、夜空の暗黒のなかに星たちが散らばっているのですが、レテフォホでは、逆に、星たちのなかに暗闇があるほどに星たちが天空をうめつくしている。星雲がひろがり「星座」なんてまったくよみとることができないし、「流れ星」が、ひっきりなしに、流れてゆく。

流れ星を数えながら、明け方の寒さで「もうダメだ」と思いながらも、ぼくはぎりぎりまでそこに立ち尽くすのでした。

その星空の風景と凛とした空気感は、いまでもぼくの記憶の表層におとずれるものです。

NASA「InSight」の火星着陸をよろこび、火星、そして宇宙のほうへと気持ちを向けていたら、レテフォホとレテフォホの星空がやってきては、ぼくに呼びかけるのでした。

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宇宙・地球 Jun Nakajima 宇宙・地球 Jun Nakajima

NASA「InSight」の火星着陸に触発されて。- 「宇宙」への視線と視界。

NASAの「InSight」が見事に、火星に着陸し、最初の画像を地球におくってきた(人類の歴史で8度目の火星着陸である)。

NASAの「InSight」が見事に、火星に着陸し、最初の画像を地球におくってきた(人類の歴史で8度目の火星着陸である)。

「InSight」の火星着陸後、NASAジェット推進研究所(Jet Propulsion Laboratory)にエンジニアとして勤務する石松拓人が「1億5000万Kmも離れたリアルタイム通信も不可能な場所に 時速2万Kmで突っ込む360Kgもの剛体を全自動で安全に降ろす ってマジ天才集団だわ」とツイートしたように、偉業の極みである。

その着陸の「むつかしさ」は「The 7 Minutes of Terror」という言葉に凝縮され、時速2万Kmで飛翔しながら地球ほどの大気圏をもたない火星に突入していくことの困難さが語られている。

その困難をのりこえ、「InSight」が火星に着陸。着陸直前、NASAのミッション・コントロールで成り行きをみまもる人たちの表情と雰囲気は、緊張とエキサイティングさに包まれていたのが、ぼくには、とても印象的であった。「天才」たちの表情と雰囲気に、まるで「子ども」の、どこまでもひろがる関心と興奮をみたような気がしたのだ。

これから「InSight」は、火星へ人をおくりこむことも見据えながら、火星の「内部(interior)」の探査にはいってゆくことになる。


「InSight」の火星着陸に触発されて、「宇宙」のことを書こうと思う。ぼくたちの「生活」はこの地球の日々のなかにあるのだから、はるか彼方の宇宙のことなんか関係ない、などと思うまえに、今の時代において「宇宙」に焦点をあてたい。

「この世界を生きつくす」ために、ぼくは「宇宙」の視点も大切だと思う(ぼくがただ「宇宙」が好きなことも大きく影響しているけれども)。

いろいろと書くことはあるのだけれども、「InSight」の火星着陸を契機として、今回は、以前書いたブログ「「火星」を起点に、現実として宇宙を視野に。- Stephen L. Petranek著『How We'll Live on Mars』。」を再録しておきたい。

宇宙のなかで、ぼくが「火星」により興味をもつことになった本、Stephen L. Petranek著『How We'll Live on Mars』。」について書いたブログである。


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ぼくの構想のひとつである「時間と空間の『人と社会』学/「生き方」学」(仮名)。

その「空間」の座標軸は、ひとまずは「グローバルへの広がり」を視野に入れながら、しかし、その先には「宇宙空間への広がり」を見据えている。

「そんなに大きな話を」という声に対しては、SpaceX社のElon Muskは「火星移住計画」を着実に進めているし、2030年代前半頃の実現見通しも言われている。

「仮説」や「妄想」は、確実に「現実」に向かっている。


その「現実性」を感じさせてくれた書籍のひとつに、Stephen L. Petranek著『How We'll Live on Mars』(TED Books, 2015)がある。

『私たちはいかに火星に住むのか』。

この書名は、二重の意味において「正しい」。

第一に、どのように火星に「到達」するかではなく、「住む」のかということについて書かれていること。

第二に、「どのように」住むのか、という具体性において書かれていること。

この二重の意味が、人が火星に降り立つ日が「目前」であることを伝えている。


【Contents(目次)】

Epigraph
Introduction: The Dream
Chapter 1: Das Marsprojekt
Chapter 2: The Great Private Space Race
Chapter 3: Rockets Are Tricky
Chapter 4: Big Questions
Chapter 5: The Economics of Mars
Chapter 6: Living on Mars
Chapter 7: Making Mars in Earth’s Image
Chapter 8: The Next Gold Rush
Chapter 9: The Final Frontier
Imagining Life on Mars


「The Dream」と題されるイントロダクションは、「予測的な物語」で始まる。


A Prediction: 
In the year 2027, two sleek spacecraft dubbed Raptor 1 and Raptor 2 finally make it to Mars, slipping into orbit after a gruelling 243-day voyage. As Raptor 1 descends to the sufface, an estimated 50 percent of all the people on Earth are watching the event, some on huge outdoor LCD screens…

ひとつの予測:
2027年、流線型の宇宙船Raptor 1とRaptor 2が、いよいよ火星に到達する。宇宙船は243日の旅ののちに、火星の軌道にはいっていく。Raptor 1が火星の地表に向かっておりていくところ、地球の50%にあたる人びとがこのイベントを見ている。屋外のLCD巨大スクリーンで見ている人たちもいる。…

Stephen L. Petranek著『How We'll Live on Mars』(TED Books, 2015)(※日本語訳はブログ著者)


それは、現実に見ているような錯覚を、ぼくに与える。

映画『The Martian』(オデッセイ)の風景が、ぼくの記憶の中で重なる。

このようなイントロダクションに始まり、Stephenは、火星への有人飛行と移住が技術的に可能であることなどを、具体性の中で語る。

Stephenは、Elon Muskが移住計画の全体の妥当性について、「環境的な障害」ではなく、「基本コストの課題」として見ていることに、注意を向ける。

火星移住は、火星における空気、放射線、水などの問題・課題よりも、コストが課題だということだ。

もちろん空気や水などといった、人間の生きる条件ともなる環境要因は大切である。

しかし、この本においても、それらの問題・課題を、具体性の次元において(一般読者向けに)語っている。

火星移住のシナリオが具体性の中で語られ、最初で述べたように、いかに火星に到達するかということではなく、焦点はどのように住むのかという方向に重力をもつ。

読み終えると、火星移住が現実のものとして感じられるから不思議だ。


そして、ぼくが驚いたのは、「Chapter 8: The Next Gold Rush(次なるゴールド・ラッシュ)」という章で展開されている内容だ。

それは、火星の「その先」にあるものだ。

火星と木星の間にある小惑星帯には、鉱石資源がある。

NASAによると、その価値は「今日の地球のすべての人が1000億ドルを持っていること」と同等だろうと言われる。

資源問題という「グローバリゼーション」の行きつく現問題を、ある程度解決する方途を、宇宙資源はひらいていく可能性がある。

そして、グローバル企業はすでにその「ビジネス」に参入している。

地球と小惑星帯の間に位置する火星は、この方途における「基地」のような役目を果たす可能性があるのだ。

それは先のことかもしれないけれど、実はそれほど遠くない未来の話だ。

準備は進められていて、実際の小惑星における鉱石発掘の試験などは2020年代前半頃ということも、この書は触れている。

地球という「有限の空間」、グローバリゼーションというプロジェクトの行き止まりの空間が、その先に「無限の宇宙空間」をきりひらいていくその仕方と、人と社会への影響を、ぼくは追っている。

宇宙を視野に入れることは、すでに現実問題として、ぼくたちの前に立ち現れている。


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資源問題という「グローバリゼーション」の行きつく現問題を、「ある程度解決する方途を宇宙資源はひらいていく可能性があること」については、別の視点を、ぼくの「師」、見田宗介先生の新著から学んだことを付記しておきたい(ブログ「テクノロジーによる「環境容量」の拡大の方向性について。- 見田宗介による「環境容量の拡大と人間の幸せ・不幸せ」の考察。」)。

そのトピックをひとまずに脇においたとしても、それでも、「火星」にひかれる。火星に人が着陸する日を想像して、ぼくの心は踊る。

NASAのAdministrator、Jim Bridenstineは「The best of NASA is yet to come, and it is coming soon.(NASAのベストはまだこれからだ。それはいずれやってくる)」と語っている(*CNNの記事「NASA’s InSight lander has touched down on Mars」)。

NASAのミッション・コントロールが、笑顔と歓声でふたたびあふれる日は、そう遠くない。


追記:「写真」は火星ではなく、香港の夜空にあらわれた「金星」。2018年夏に撮影。

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「カタツムリの世界」へと降り立ち、折り返すまなざし。- ヴャチェスラフ・ミシチェンコの写真世界。

『誰よりも、ゆっくり進もう カタツムリの物語』(飛鳥新社、2014年)という、写真とことばに彩られた小さな美しい本がある。

『誰よりも、ゆっくり進もう カタツムリの物語』(飛鳥新社、2014年)という、写真とことばに彩られた小さな美しい本がある。

ウクライナの写真家ヴャチェスラフ・ミシチェンコ(Vyacheslav Mishchenko)が撮影した「カタツムリ」の写真をならべ、そこに、ひすいこたろうが物語を紡ぐ仕方で、本はつくられている。

ヴャチェスラフ・ミシチェンコのきりとる写真世界の美しさに、そしてその世界の豊饒さに、まさに<ヴャチェスラフ・ミシチェンコの眼>をとおして、ぼくたちは誘われる。


ヴャチェスラフ・ミシチェンコの<眼>を豊饒にしたのは、小さい頃に、写真撮影における「マクロ撮影の技法」に出会ったことであるという。

そこから、この技法を使い、自然が見せる異なる次元へと降り立ってゆく。

前掲の本の「あとがき」で、ミシチェンコは、つぎのように書いている。

…夢と現のはざまにある夜明けの前の時間帯、マクロレンズのファインダーは息をのむほど美しい世界にわたしを立ち会わせてくれます。その世界では、人間の世界のもめごとなんて、本当にちっぽけなものなんです。

ひすいこたろう(物語)、ヴャチェスラフ・ミシチェンコ(写真)『誰よりも、ゆっくり進もう カタツムリの物語』(飛鳥新社、2014年)


ミシチェンコは、たとえば「カタツムリの世界」に入ってゆくことで、その世界から折り返す仕方で、「人間の世界」をまなざす視点を獲得している。

それは、ちょうど、「宇宙の世界」に入ってゆくことで、その世界から折り返す仕方で、「人間の世界」をまなざす視点とおなじ形であり、視点の「基点」は逆さまだ。

宇宙の視点から「人間の世界のもめごとなんて、本当にちっぽけ」と思うことはあっても、カタツムリの世界からそのように思うことはあまりないのではないかと、ぼくは思う。

このように、地球から外部(宇宙)へと出て獲得する視点とは逆に、地球のその自然の内部に一気に降りてゆくことで、ミシチェンコは「人間の世界」をまなざす鮮烈な視点を獲得している。


ミシチェンコは、カタツムリの「生きかた」には<独特の哲学>があるのだとしながら、つづけて、つぎのように書いている。

 カタツムリは、のろいのではありません。ただ「生」を、じゅうぶんに感謝しつつ味わっているんです。
 わたしが伝えたいのは、われわれはカタツムリとほとんど何も違わない、ということ。カタツムリという存在は、「急がないこと」「抗わないこと」の究極の象徴です。それでカタツムリは一生幸せに生きられるのです。

ひすいこたろう(物語)、ヴャチェスラフ・ミシチェンコ(写真)『誰よりも、ゆっくり進もう カタツムリの物語』(飛鳥新社、2014年)


「人間の世界」において、とりわけ現代社会においては、「早い/遅い」ということは切実な意味をもって立ち現れる。

資本制システムの本質は、「時間との闘い」である。

ぼくたちは、小さい頃から、「早く、早く」ということばのシャワーのなかで生きてきた。

ただし、動物などの寿命が「長い/短い」のかということがあくまでも人間的な視点であるのと同じく、カタツムリが「のろい」のかどうかも人間的な視点にすぎない。

大切なことは「早い/のろい」ということではなく、ミシチェンコが書くように、「生」をじゅうぶんに感謝しつつ味わっている、かどうかということである(なお、原文がどうかはわからないけれど、「感謝しつつ」ということはより正確だ。「感謝してから」味わうのはではなく、味わいのなかに、感謝がわきでてくる)。

この地球という新鮮な奇跡を、ミシチェンコが撮影したカタツムリたちのように、じゅうぶんに味わうこと自体が、「幸せ」ということでもある。

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香港, 宇宙・地球 Jun Nakajima 香港, 宇宙・地球 Jun Nakajima

香港で、台風のあとに「自然」のことをすこし書く。- 「人間と自然」の「と」について。

「自然」は、人間にとって、大別すると(ざっくりと分けると)、ふたつの現れ方をする。

「自然」は、人間にとって、大別すると(ざっくりと分けると)、ふたつの現れ方をする。

ひとつは、この度(9月16日)の香港の「台風」などのような「自然災害」や乗り越えられるべき障害として対峙する現れ方であり、もうひとつは、ビーチやハイキングや森林浴などのように歓びの源泉となるような現れ方である。

「台風」は自然そのものの論理のなかで「悪気なしに」生まれてくるものであるけれど、人間にとっては、脅威であり、敵である。

今回台風の影響で住まいに隣接する道路が閉鎖され、その説明の張り紙に「Due to the typhoon attack…」と書かれているのを見て、つまり台風の「攻撃」という表現に「人間と自然」、より厳密には「人間・対・自然」という図式が前提されているのを、ぼくは感じたのであった(※でもさらに興味深いことは、中国語表記ではattackではなく「影響」となっていること)。


真木悠介は、「人間・対・自然」という図式(および「個人・対・社会」という図式)について、つぎのような明晰な文章を書いている。

…<人間・対・自然>という図式も、けっして自然一般を超越する先験的な妥当性をもつものではなく、この図式の妥当する地平それじたいの存立が、ひとつの自然史内在的な過程に他ならない。
 すなわち…自然に外在する「人間」があらかじめて先在していて、彼らが他在としての「自然」とかかわりをもつのではない。人間は…本源的に<自然・内・存在>であるという仕方で、いわば二重に内存在である。
 けれども…物質性の<自然>の胎内から、一個の不遜な自己目的性としての人間=精神が析出し、残余の<自然>を対象化する主体として屹立するときにはじめて、人間としての人間の歴史ははじまり、したがってまた、広義の経済的諸カテゴリー〔生産・所有・等々〕は存立しうる。

真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房、1977年 → 復刻版:朝日新聞社、2014年)

つまり、「人間・対・自然」などという図式・考え方が最初からあったのではなく、「一個の不遜な自己目的性としての人間=精神が析出し、残余の<自然>を対象化する主体として屹立するときにはじめて」、それは認識され、その後の人間の歴史のなかで自明のこととなってゆく。

この「文明」は、自然を対象化し、利用し、開発し、支配することで、成り立っている。

だから、この文明、またその文明のもとにつくられる社会システムがおびやかされる状況等において、人間は「自然」を敵視する。

それは、いわば「外部」からやってくる、自然の脅威であり、「人間・対・自然」の構図がより鮮明にうかびあがる。

そのようななかで、「(人間がつくってきた)現代の社会システム・対・自然」の対面が、自然災害においては顕著に意識される。

この対面において、今回の台風による影響・被害から、復旧され、立ち直ってゆく様子を見ながら、ぼくは、この現代の社会システム、つまり資本制システムの圧倒的な力を見てきたようにも、ぼくは思う。


「人間と自然」(あるいは「人間・対・自然」)という書き方(また捉え方)そのものが、「当たり前のこと」ではなく、この文明とそこに構築されてきた社会システム、またそこに生きる人間の生き方(生活の仕方)と双対的にあることを、少しばかり書いてきた。

だからといって、なにかがすぐに変わるわけでもないし、「得」があるわけでもない。

けれども、自然災害のもとで、やはり感じたりかんがえたりすることがあるし、それは人間や社会をふりかえる際にもよいきっかけである。

さらには、「自然との関係性」を見直し、変えざるを得ない時代のなかで、そのひとつのとっかかりであるとぼくは思いながら、その入口のところだけをすこしだけ書いた。

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香港, 宇宙・地球 Jun Nakajima 香港, 宇宙・地球 Jun Nakajima

香港で、大型の「台風」の過ぎ去ったあとに。- 木々の倒れる小さな森に、鳥たちが戻ってくる。

9月16日に香港の南を通過していった「台風」は中国本土に上陸し、ここ香港では17日の午後になって、台風の「警戒レベル」を最小の「シグナル1」に落とした。


9月16日に香港の南を通過していった「台風」は中国本土に上陸し、ここ香港では17日の午後になって、台風の「警戒レベル」を最小の「シグナル1」に落とした。

今回の台風は、相当な被害を香港にもたらしたようだ。

「ようだ」と書くのは、メディアで伝えられている情報なども含めて書いているからだ。

ぼくはすべてをこの目で見たわけではないけれども、少なくとも、ぼくの住んでいるマンションの敷地と周辺は、あきらかに、これまでの(ここ10年ほどの)台風とは次元の異なる被害をもたらしている。

木々は至るところで幹や枝が折れ、なかには根こそぎ倒れている。

それらが車道をふさぎ、一時的に閉鎖されている。

マンションのロビーのドアガラスなどが壊れたり、その他の施設もそれ自体が倒壊したり表面がはがれおちたりしていて、管理チームが朝から復旧作業に追われている。

16日に香港の天文台(気象庁)が「警告シグナル」を最高度の「シグナル10」に上げてから、結局10時間に渡って、シグナル10が発令されていたことになる。

その間にブログ(「香港で、大型の「台風」を経験しながら。- 「台風」という言葉の檻から出ること。」)を書いていたのだけれど、落ち着くことのできない「時間」であった。

夜になっても、高度の警告シグナルが発令されつづけ、終日家にいることになった。

だから、外がどのようになっているかは、窓から見える風景とメディアが伝える写真と映像などから知るだけであった。

学校が休校となり、倒木などが道路がふさがり香港の至るところで交通のみだれが伝えられる今日17日になり、ようやく、外に出てみて、身近な「被害」の状況と、そこから想像される台風のすさまじさが、ひしひしと伝わってくるのであった。

復旧には相当な時間と労力が要される状況である。


お昼の時間帯になってもいくつかの店舗が閉まっているショッピングモールではしかし、いつもどおりの人の行き来がみられるようになり、そのような人の「流れ」が、まるで<普段の生活空間>をとりもどしてゆく動力であるように、ぼくには見えた。

今は空も海も、それから身体にふれる風も、とても穏やかで、「あの」台風が昨日であったことが信じられないほどだ。

今朝起きて、ようやく「窓」を開けることができ、窓の外から流れ込む新鮮な空気を肌に感じながら、ふと遠くの方で<鳥の鳴く声>が、その凛とした響きがぼくに届いた。

「鳥が戻ってきた」と、ぼくはすぐさま思う。

台風のあいだ、いったいどこに身を寄せていたのだろうかと不思議であった鳥たちが、戻ってきたのだ。

木々が倒れた小さな森に、鳥たちがそれでも戻ってくる。

鳥たちの姿と声が、どこか、ぼくの内面を穏やかに、そして安心させてくれるように、ぼくは感じるのであった。

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香港で、「日本のことを気にかけてくれる」声に、世界の<つながりの地層>のひとつを視る。

日本での大雨や台風や地震による被害について、ここ香港の現地ニュースでもその多くがニュースなどで伝えられている。

日本での大雨や台風や地震による被害について、ここ香港の現地ニュースでもその多くがニュースなどで伝えられている。

それだけ、日本と香港のつながりが密であるということでもある。

直接的な/間接的な「影響」が、相互に見られるということである。

香港から観光などで日本に行く人たちも多いから気になるところではあるし、ビジネスなどにも影響することから人によっては必須の情報でもある。

もちろん、直接的に影響がでるような際には、ニュースだけでは情報不足であり、もっと緊密な連絡がなされたりするだろう。

 

でも、ここで、伝えたいことは、とりあえず(あるいは現在のところ)、直接的/間接的に関わらない人たちも、ここ香港で、日本のことを気にかけてくれている、ということである。

友人が、例えば、「いろいろ日本では起きているけれど、大丈夫?」と声をかけてくれる。

友人たちは観光などで日本に行ったことが幾度かあるという「経験」を下敷きにして、あるいは日本人の友人や知り合いがいるという「関係性」を下敷きにして、日本の状況を聞き、気にかけてくれているということはある。

逆をかんがえてみても同じように、行ったことのある場所で何かが起きたとき、あるいは友人や知り合いが住んでいるところで何かが起きたとき、やはり、気にかかったりする。

 

<気にかけるということ>が、直接的に、日本の(あるいは他の場所の)状況を変えたり、支援になるというわけではないけれども、「それでも」、ぼくは、そのことを伝えるために、書いておきたい。

日本にずっと住んでいるときは、そんなことはまったく思いにもおよばなかったから。

日本ではない、世界のどこかで、誰かが、日本のどこかで起きていることで、<気にかけてくれているということ>を、ぼくは日本に住んでいるときは思いもしなかった。

海外の状況が日本のニュースでも報道されるのと同じく、日本の状況が海外のニュースで報道されることは、頭ではわかっている。

けれでも、そのことがより現実味を帯びて経験されるのは、やはりひとつには、海外にいて、日本のことを<気にかけてくれているということ>を直接に知ることが挙げられる。

 

このことは、さしあたりとても「小さなこと」であるし、口に出さなければ伝わらないことである。

けれども、「世界」は、こんなふうにも<つながっている>ということでもある。

互いに、気にかけ、気にかけられるという、そのような<つながりの地層>があるということ。

気にかけるということは、どこの誰というような「固有名詞」がはっきりしない仕方で投げかけられるのかもしれないけれど、「それでも」、そこに住んでいる人たちに向けられていること。

大雨・台風・地震とつづく日本の状況について、ここ香港で、「気にかけてくれる」友人に声をかけられて、ぼくはそんなことを思い、かんがえている。

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「沈黙の春」(Silent Spring)の戦慄と今。- 見田宗介著『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』を読みつづけて。

8月末ここ香港における大気汚染の中で生活しながら、見田宗介の名著『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)を手にとり、本をひらく。

8月末ここ香港における大気汚染の中で生活しながら、見田宗介の名著『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)を手にとり、本をひらく。

1996年に発刊された本書は、現代社会の「光の巨大」と「闇の巨大」を<ひとつの理論>の中に収め、20年が経過した今も「古い」ということはなく、今でも、そして今だからこそいっそう大切な議論を展開している(*なお、現在では、見田宗介の著作集Ⅰに一部データ変更の上、収められてもいる)。

 

「闇の巨大」として、あるいは現代社会の「限界問題」として取り上げられ、展開されているのが、以下の問題・課題である。

  1. 環境の臨界/資源の臨界
  2. 南の貧困/北の貧困

 

現代社会の「限界問題1」として取り上げられているのが、環境と資源の問題である。

闇の巨大として語られる「環境・資源」の問題については、今では

この「限界問題1」の章を、見田宗介は、「沈黙の春」という節を出発点として、議論を展開している。

「沈黙の春」(Silent Spring)が学校などでどのように教えられている(あるいは教えられていない)のか、ぼくにはわからない。

その言葉を聞いて、まったくなんのことかわからない、ということもあるだろう。

ぼくが1990年代に大学で学んでいた頃は、レイチェル・カーソンによって書かれたこの『沈黙の春』という書籍は、環境問題・公害問題の「古典」としての位置を占めていた。

「古典」であるということは、見田宗介も書いているとおり、「だれでもその書名をよく知っている割合には、現在ではその内容を必ずしもきちんと読まれていない」(前掲書)という本である。

見田宗介は、この本が提起している問題について、その「基本的な構造」は変わっておらず、「今もなおアクチュアルな問題」であるとしながら、ぼくたちの「感覚のズレ」のようなものについて、教えてくれている。

 

『沈黙の春』で取り上げられている化学薬品の多くは現在ではほとんど使用されていないけれど、カーソンの描くような環境汚染ははるかに巨きな規模と深度で進行してきた。

そのことを指摘しながら、またカーソンの嘆きを引用しながら、それにつづけて、見田宗介はつぎのように書いている。

 

…レイチェル・カーソンのこの新しい戦慄を、いくらか「時代おくれ」のものであるように感じる人は多くなっている。それは書かれていることが、解決され、すでに存在しなくなっているからではない。反対に、それが多くの国々で、ふつうのこととなり、だれもそのことに注目しなくなったからである。気づいても、新しい戦慄の声を挙げるということを、しなくなっているからである。人間たちもまた沈黙してしまったからである。あるいは、われわれの中の感受性も、声を挙げるということをしなくなったからである。

見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』岩波新書、1996年

 

レイチェル・カーソンにだけではなく、ぼくは、この文章に、この見方に、教えられた。

ひとつ前の時代であれば新鮮な戦慄であり、声が挙げられたことが、今では「ふつうのこと」となってしまっていて、その状況をただやりすごしてしまう。

このことは「環境問題」に限ったことではない。

いろいろな事象や状況を射る見方として、『沈黙の春』と『現代社会の理論』はぼくの中にある。

 

それにしても、この本の副題にある「情報化社会・消費化社会」という言葉も、「古く」感じられてしまうことがある。

しかし、この本を読み、実際の社会に目をやり、じぶんの生活を振り返ると、これらの言葉が指摘することは、今もそのひろがりと深度を増しているようにも思う。

そして、この現代社会の乗り越えも、この「情報」と「消費」の意味合いを転回し、徹底させてゆくところにあるということも、この本が書かれてから20年以上が経過した今、さらに切実さと可能性を大きくしている。

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