ニュージーランドで、オークランドの「路上」に歌声を放ったこと。- ギターと歌と、Queen Streetの風景。
ニュージーランドの北島に位置するオークランドの中心を、Queen Streetというメインストリートが通っている。
ニュージーランドの北島に位置するオークランドの中心を、Queen Streetというメインストリートが通っている。
ストリートのひとつの端は、海につながる湾にいきあたる。
その端とは逆方向に見やると、ストリートはまっすぐに伸びていて、お店やレストランや銀行などが並んでいる。
オークランド、あるいはニュージーランドで、もっとも賑やかな繁華街だ。
1996年、ぼくはそのストリートに腰をおろし、ギターを奏でながら、歌を歌っていたことがある。
広い意味で「バスキング」とも言われるけれど、いわゆる路上ライブである。
ずっとやっていたわけではなく、ほんのわずかであったけれども、当時のぼくは、「一度はやってみたいこと」のひとつをやってみたのだ。
やってみたいことだとはいえ(あるいはやってみたいことだからこそ)、ぼくにとっては「勇気」のいることであった。
なお、当時のQueen Streetにはときおり、同じように、ギターを手に、歌声を届けている人たちがいた。
ぼくも、ある日、小さなギターをかかえて、よさそうな場所を見つけ、腰をおろし、また投げ銭を入れることのできる容れ物を前におき、そして、歌を歌うことにしたのだ。
ワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドに渡る前に、ぼくは東京で、マーチン社の「Backpacker」(バックパッカー)という旅用の小さなギターを購入していた。
ギターのボディの部分がそぎ落とされたモデルだ。
ボディが小さいため、ギターの音色はそれほど大きくはならないが、名前の通り、持ち運びに便利なギターである。
だから、家からQueen Streetに持ち運ぶのには便利であったけれど、人が忙しく行き交うストリートでは、音のボリュームが小さくて、音が空間に散っていってしまう。
ぼくは空間に響く音を耳で確認しながら、それでも歌を歌い続けた。
曲は、例えば、ビートルズの「Across the Universe」や「Let it Be」であったりした。
ぼくの前を通りすぎてゆく人たちは、ある人たちはまったくこちらを振り返ることもせず、音も届かない様子で通り過ぎていった。
またある人たちには、可笑しさで、笑われることもあった。
でも、あるときには、微笑みをなげかけてくれたり、なかには、投げ銭をしてくれる人たちもいた。
いつも通っていたQueen Streetの風景が、いつもとは違っていた。
悪い気分が身体をかけぬけたことも、暖かい気持ちを抱いたことも含めて、「勇気」を出して、オークランドのQueen Streetの路上で歌って、ぼくはよかったと思う。
今は、こうして文章を書いていて、路上ライブのように、ある人たちはまったく振り返ることもない。
またある人たちは、ぼくの書いたものを気に入らないだろうし、批判をすることだってある。
でも、あるときには、ぼくは、励ましや感謝をいただくこともある。
そんな諸々のことを含めて、ぼくはインターネット世界の<路上>で、言葉や感覚を届けていて、ぼくはそれで、よいのだと思う。
生きることの「特別な響き方」。- じぶんの<響き>を奏でる、ということ。
ぼくは音楽が好きだ。
ぼくは音楽が好きだ。
もちろん、すべての「音楽」が好きなわけではないけれど、生きるという経験の背景において、あるいはそのステージ上において、音楽がいつも奏でられている。
ぼくが音楽を好きなのは、音楽の街、浜松市に生まれたということも関係しているかもしれないし、物心ついたときにはピアノの鍵盤を通じて「音」を楽しんでいたことも理由(あるいは証拠)かもしれない。
20代前半くらいまでは、ギターなどを手に「音を奏でる」ことが日常であったのが、いつからか、「音を聴く」ことへと重心を移動させてきたところがある。
そして、ときに、音楽について、書く。
音楽について「書く」というのは、実はなかなか骨をおるところがあるのは、実際に書きながら、思ってきたところだ。
だから、小説家の村上春樹が音楽について書くのを読むようになって、文章のひろがりと深さ、そして何よりも、文章における音楽的なリズムに心を揺り動かされてきた。
批評家としての文章ではなく、「生きる=書く=音楽」がひとつになっているような、そのような文章である。
村上春樹が書く、そんな音楽に関する文章を読んでいると、ぼくの心の奥の「何か」がひらいて、ぼくは音楽を聴きたくなってくるのだ。
ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクが、「あなたの弾く音はどうしてそんなに特別な響き方をするのですか?」と聞かれたときに、ピアノを指差しながら彼が応えた言葉を、村上春樹はあるところで、「小説を書きながら、よく思い出す」言葉として、書いている。
モンクがどう応えたかを、まずは想像してみてほしい。
モンクは、次のように応えたという。
「新しい音(note)なんてどこにもない。鍵盤を見てみなさい。すべての音はそこに既に並んでいる。でも君がある音にしっかり意味をこめれば、それは違った響き方をする。君がやるべきことは、本当に意味をこめた音を拾い上げることだ」
村上春樹「違う響きを求めて」『雑文集』新潮社
モンクの語る英語を、このように日本語訳をする村上春樹はさすがであるけれど、村上春樹は小説を書きながら、この言葉をよく思い出す。
村上春樹は、「音」から「言葉」のことへとスライドさせながら、つぎのように書く。
…そう、新しい言葉なんてどこにもありはしない。ごく当たり前の普通の言葉に、新しい意味や、特別な響きを賦与するのが我々の仕事なんだ、と。そう考えると僕は安心することができる。我々の前にはまだまだ広い未知の地平が広がっている。開拓を待っている肥沃な大地がそこにはあるのだ。
村上春樹「違う響きを求めて」『雑文集』新潮社
ぼくは、「音」から「言葉」、そして「言葉」から「生きる」ことそのものへと、ここで語られることの本質をさらにスライドさせて読む。
「生きる」ということそのものも、抽象度を上げて語れば、形としての「新しい生き方」なんてないのだ、と。
でも、じぶんの生き方に、新しい意味や特別な響きをあたえていくことが、ぼくたちの生きるということでもある。
ぼくたちは、それぞれが、<違った響き方>で、じぶんの生を奏でてゆく。
そのことが、自己実現(self-actualization)ということの、ひとつの側面を語っているように、ぼくは思う。
「Oldies(オールディーズ)」の音楽が交響した時代と現代。- 「Oldies」をとりまく現象を見る。
英語圏の音楽には「Oldies(オールディーズ)」と呼ばれる、一群の音楽がある。
英語圏の音楽には「Oldies(オールディーズ)」と呼ばれる、一群の音楽がある。
「一群の音楽」と書いたけれど、それはぼくのなかでの「Oldies」の感覚であって、Wikipedia(英語版)では「radio format(ラジオ・フォーマット)」というように書かれていて、(Wikipediaの記述の正確性はともかくも)「なるほどなぁ」と思う。
Oldies is a radio format that concentrates on rock and roll and pop music from the latter half of the 20th century, specifically from around the mid-1950s to 1970s or 1980s.
(オールディーズとは、20世紀後半、特に1950年代半ば頃から1970年代あるいは1980年代におけるロックおよびポップミュージックを集結させるラジオのフォーマットである。)
“Oldies” Wikipedia (※日本語訳はブログ著者)
ラジオというものが今とは異なった仕方で生活のなかに溶け込んでいる時代が20世紀の後半にはあって、そのなかに「Oldies」の音楽を届けるラジオ局がある。
1996年にニュージーランドに住んでいたころ、旅に出る際に小さいラジオをバックパックに入れ、テントを張っては、そこにラジオを立てかけて、そこからながれる「Oldies」の音楽に耳をかたむけていた。
確かに、そこには、「ラジオ・フォーマット」として、すてきな音楽の入り口が用意されていた。
「Oldies」という一群の音楽の象徴としては、1973年のアメリカ映画「American Graffiti」の世界がある。
この映画の世界は、「Oldies」という音楽世界そのものを体現するように描かれている。
映画には、1950年代半ばから1960年代にかけてのロックおよびポップミュージック、つまり、バディ・ホリー、チャック・ベリー、プラターズ、ビーチ・ボーイズたちの音楽の響きが鳴りわたる。
「Oldies」をとりまく現象として触れておきたいことは、大きく2つある。
ひとつに「Oldies」という「時代のきりとり方」があり、もうひとつに「Oldies」の音楽世界と現在の世界風景のズレのようなものである。
一つ目の「Oldies」という「時代のきりとり方」として面白い現象は、「Oldies」というラジオ・フォーマットが含む「時代」の変化である。
Wikipediaにあった記述のように、どこまでを「Oldies」として含めるか、つまり1970年代までか、あるいは1980年代までかは、時代の変遷とともに変わってきたようだ。
映画「American Graffiti」の世界のような1950年代から1960年代の「Oldies」は、ときおり「Golden Oldies」とも呼ばれてきたようで、しかし、2000年以降、「1970年代」の音楽が含まれ、やがて、「1980年代」の音楽も「Oldies」と呼ばれ始めたりしている(※Wikipedia「Oldies」)。
「近代・現代」という(経済発展の)時代の駆動力のひとつは、常に「新しさ」へと、製品を更新してゆくことである。
古いものも「リバイバル」という形で更新されてもゆくけれど、古いものは「新しさ」の装いを身にまとう。
音楽が「10年単位」で捉えられ、そこに時代の色を灯していることは面白いことだけれど、なにはともあれ、広義の「Oldies」には、1950年代から1980年代にかけての音楽の異なる色彩をひとつにまとめてしまうような力学が、2000年以降に働いてきたのである。
そのことが、二つ目の「Oldies」の音楽世界と世界風景のズレのようなものにも、つながっている。
1990年代に聴き、またときにバンドで演奏していた「Oldies」の音楽は、まだ当時、その響きは、生きている世界と交響するところがあったように、ぼくは思う。
1950年代や1960年代の音楽が1990年代の世界で流れていても、そこにはまだ、音楽と世界をつなぐ糸がつながっていた。
しかし、2018年の今、「Oldies」の音楽は、世界とのつながりを欠いてしまっているように、ぼくは感覚している。
ぼく個人としては、「Oldies」はとても好きだから、Apple Music(香港)の「Radio」のなかに創られた「経典老歌OLDIES Radio」局を選んでは、よく聴いたりしている。
ただし、そこに、今現在の「世界」とのつながりが、著しく欠けてしまっている/弱くなっているように感じるのだ。
だから、ぼくはぼくの内面の世界に、そのつながりを取り戻すように聴いている。
アメリカのベビーブーマーたちが10代を迎え、アメリカが繁栄を迎えたあの時代に生まれてきた「Oldies」。
それらの音楽の響きのなかに立ちながら、現代を見るとき、そこにある時代の落差のようなものの深淵が見える。
しかし、時代は古いものを「Oldies」に含めて定義し直しながら、それらと現代との稜線を書き換え、時代の間の深淵をもふさぐようにして変遷している。
エルヴィス・プレスリーの名曲「Can't Help Falling in Love」。- 「名曲」のなかの<名曲>というもの。
Elvis Presley(エルヴィス・プレスリー、1935ー1977)の名曲「Can’t Help Falling in Love」(1961年)。
Elvis Presley(エルヴィス・プレスリー、1935ー1977)の名曲「Can’t Help Falling in Love」(1961年)。
日本語訳では「好きにならずにはいられない」(英語を学んでいたときに「can’t help …ing」で「…せずにいられない」という構文を習って、この名曲がまるで「例文」のように、ぼくのなかに残っていることはさておき。)。
エルヴィス・プレスリーの代表的なバラードである。
静かに曲の前奏がはじまり、そしてエルヴィス・プレスリーの、太く、深い声がつづいてゆく。
Wise men say
Only fools rush in
But I can’t help falling in love with you
…
Elvis Presley “Can’t Help Falling in Love” (※Apple Music表示のLyricsより)
「Apple Music」で、エルヴィスが歌ういくつかのバージョン(ライブ版含む)、またさまざまなアーティストによって歌われる「Can’t Help Falling in Love」を聞く。
サブスクリプションの音楽配信の楽しみ方のひとつである。
「曲」で検索して、いろいろなバージョンを聞くことができる。
20年前は、東京の街を歩いて、CD・レコード店を見つけては、そこでCDやレコードを探していたけれど、今では、手元のスマートフォンの「検索」で探すことができる。
エルヴィスの名曲「Can’t Help Falling in Love」の元の曲と言われる、18世紀フランスの曲「Plaisir d’Amour(愛の喜び)」(※Wikipedia「Can’t Help Falling in Love」参照)のカバー曲も、Apple Musicで検索すればすぐに見つかる。
歩いて見つける楽しみはないけれど、なにはともあれ、いろいろと聞くことのできる楽しみはある。
エルヴィスの名曲「Can’t Help Falling in Love」の、それらさまざまなバージョンを聞きながら、ふと、ぼくは感じる。
やはり、エルヴィス・プレスリーが歌う「Can’t Help Falling in Love」が、心にしみてくる。
そして、(ここが大切なのだけれど)それはあらゆる側面において、エルヴィスの歌声が、圧倒的に心にせまってくる。
一般的に言って、カバー曲はときに、原曲よりもよく演奏され歌われることもあるし、またそこまでではなくても、原曲に異なった光をあてることもある。
そのような光に照らされた曲の色合いを見つけることができる。
しかし、名曲「Can’t Help Falling in Love」は、やはり、エルヴィス・プレスリーの歌なのだ。
例外としてあるとすれば、ロカビリーバンドStray Catsのリードシンガー&ギタリストであったBrian Setzerが、日本の川崎で行ったアコースティックライブで弾き語りした「Can’t Help Falling in Love」は、エルヴィスの歌声がもつ何かを共有しているように、ぼくには聞こえてくる。
それにしても、やはりエルヴィスの「Can’t Help Falling in Love」に戻ってきてしまうのは、ただ、曲に対する、ぼくの「個人的な記憶のぬくもり」が理由かもしれない。
でも、ぼくは思う。
曲には、多くの人たちにカバーされていくような「名曲」がある。
そのような「名曲」のなかには、ときに、曲を創った人(たち)、演奏する人(たち)、歌う人(たち)、製作者(たち)などによる、幸福な組み合わせによって、「Can’t Help Falling in Love」と言えばやはりエルヴィス・プレスリーというような、そのような<名曲>があるということ。
「Can’t Help Falling in Love」は、1960年代から1970年代にかけて、エルヴィス・プレスリーによるショーの最後の曲として歌われていたという。
ライブアルバムなどの最後の曲に、確かに、アップテンポの「Can’t Help Falling in Love」があったりする。
ライブコンサートでの最後の曲として選ばれていた理由を、ぼくは知らない。
しかし、表面的な理由がどうであれ、エルヴィス・プレスリーにとって、この曲はやはり何か特別な響きと思い出を宿していたのではないかと、ぼくは想像する。
そして、1977年6月、エルヴィスの生涯のライブコンサートの最後のコンサートとなった舞台で、最後に歌った曲が、この名曲「Can’t Help Falling in Love」であった(※Wikipedia「Can’t Help Falling in Love」参照)。
その二ヶ月後、エルヴィスは42歳でこの世を去る。
ぼくはその42歳の年に到達し、エルヴィスが「Can’t Help Falling in Love」の歌に込めていた「何か」に思いをよせる。
香港で、「海景」をきりとってみる。- 写真家・杉本博司の「海景」の想像力と視力にあこがれながら。
香港の風景は、「霧」に包まれている。霧が風景を覆い、窓から見渡す限り、霧である。
香港の風景が、今日は濃い「霧」に包まれている。
霧が風景を覆い、窓から見渡す限り、霧である。
湿度もいっぱいに上がり、ときおり、霧に混じるようにして小雨がちらつく。
香港島と九龍側を隔てる海域も霧がたちこめ、ときに、いつもはすぐそこに見える風景が見えない。
そんな海を見ていると、そこは海岸線の涯てのようだ。
海上にたちこめる霧の先には、ただ、広い海原がひろがっているような感覚がどうしても、ぼくから離れていかない。
そのような風景にカメラを向けたときに思い出したのは、写真家の杉本博司の写真である。
杉本博司は、1970年代にアメリカ、そしてニューヨークに移り、写真家としての道をあゆんでいく。
杉本博司の作品群のなかに「海景」のシリーズがあり、そのミニマルだけれど、どこか人の深いところとつながるような写真は、ぼくの深いところをうつ。
杉本博司の写真集『海景』に掲載される、見田宗介の文章は、1976年のニューヨークで、偶然のようなことで初めて杉本と出会った見田宗介の回想がのせられている。
当時はまだ若く貧しく無名の杉本博司は、倉庫を改造したような建物に住んでいたのだという。
建物と外をつなぐ階段はコンクリートの打ち放しのものだけれど、杉本博司はそのコンクリートに、ふつうの人はみないものをみていたことを、見田宗介は思い起こしている。
…階段のコンクリートの水やひび割れの作る微細なしみたちをよく記憶していて、いろんな生命や静物の饗宴をそこに見ていた。とりわけお気に入りの立派な馬がいて、下の階からの踊り場を曲がる以前から、あそこには馬がいるのだと予め高揚していた。…その反還元的情熱は、この時代までのニューヨークの前衛のコンテンポラリーを志向するアーティストたちとは異質のものだったと思う。むしろ天空のランダムに散乱する星たちの中に、馬だの射手だの楽器だのの饗宴を見る文明の原初の人々の想像力に近いものだった。…
見田宗介「時の水平線。あるいは豊饒なる静止」『定本 見田宗介著作集Ⅱ』岩波書店
霧がいっぱいにはる香港の海を見ながら、そこには饗宴という名の物語が生まれてくるような予感をいだきながら、ぼくはカメラを海に向けた。
そうして、ぼくは、香港の「海景」を写真できりとってみる。
杉本博司の写真集『海景』シリーズのモチーフは、「原始人の見ていた風景を、現代人も同じように見ることは可能か」という自問であったという。
<原始人の見ていた風景>という、魅力あふれるイメージと想像力は、<打ち放しのコンクリートの階段に饗宴を見る視力>の戯れである。
このような想像力と視力に、ぼくは、あこがれる。
「五感の序列性」と、生きること。- 仏教の五根、ブリューゲルの5枚連作「五感」。
よりよく生きていくことにおいて、人間の「五感」の問題はとても大きな問題としてあるように、ぼくは思う。
よりよく生きていくことにおいて、人間の「五感」の問題はとても大きな問題としてあるように、ぼくは思う。
真木悠介は、「近代」のあとの世界と生き方を構想するなかで、この問題にふれている。
「われわれの文明はまずなによりも目の文明」であると真木悠介は述べながら、人間における<目の独裁>から感覚を解き放つことで、「世界」は違った仕方でぼくたちに現れることについて、書いている。
…<目の独裁>からすべての感覚を解き放つこと。世界をきく。世界をかぐ。世界を味わう。世界にふれる。これだけのことによっても、世界の奥行きはまるでかわってくるはずだ。
人間における<目の独裁>の確立は根拠のないことではない。目は独得の卓越性をもった器官だ。
真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫
<目の独裁>の根拠にかかわる例として、真木悠介は「仏教における五根」の序列性を挙げている。
仏教では五根を「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)」というようにならべるように、この配列(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)が、確かに、自然であるように思われる。
このことを西洋美術史を専門で学んでいる友人に伝えたら、この「五感の序列性」(「視覚」の至高性)が、西洋の思想にもあることを教えてくれた。
事例として教えてくれたのは、17世紀の絵画における、ブリューゲルの「五感」という5枚連作。
これら5枚のすべての絵画作品において、背景に庭があり、建物のなかに女性とキューピッドがいる。
おもしろいのは、それぞれの作品に五感のアレゴリーが散りばめられていること(例えば、絵のなかに描かれる「絵画」=視覚)、また、例えば、「触覚」では廃墟がみえるなど、「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」の序列性が見てとれることである。
また、五感と「対象との距離」という視点からもこれら5枚連作が読みとれるということに、ぼくは心地のよい驚きを覚えた。
真木悠介は、五感と「対象との距離」について、配列(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)は、「対象を知覚するにあたって主体自身が変わることの最も少なくてよい順」だろうと書いている。
「身」による認識においては、「知ること」と「生きること」がほとんど未分化なのに対し、「視覚」においては、<生きること>と<知ること>の乖離が最大化することを、真木悠介は指摘している。
そのことは、視覚優位の現代社会では、<知ること>とから<生きること>への道のりを、ぼくたちは心してあるいていくことを示してもいる。
ぼくが「五感」ということを客観視して見るようになった契機は、アジアへ旅するようになってからであった。
船や飛行機を降りたときに、日本とはあきらかに異なるにおいが嗅覚を刺激し、街や通りなどの異なる音たちに身体がさらされる。
そのような体験であった。
近年の「情報テクノロジー」の発展は、ぼくたちの五感をさらに「視覚」へとおしこめてしまうような磁場をもっている。
松岡正剛は、ブログ「千夜千冊」でデリック・ドゥ・ケルコフ『ポスト・メディア論』にふれながら、「知覚とメディアの関係」という問題に直球のボールを投げ込んでいる。
直球のボールは、さまざまな人たちによって、さまざまな企ての形でも投げ込まれている。
ドイツを発祥の地とする「Dialogue in the Dark」は、ここ香港でもあるけれど、<目の独裁>をふつうには得られない次元の「暗闇」によってくずすことで、ぼくたちに気づきの体験を与えてくれる。
真木悠介が40年前に「<目の独裁>からすべての感覚を解き放つこと」と提示した生き方の作法は、今もなお(あるいは今だからこそ)、ぼくたちの「生き方の道具箱」のひとつにおさめておくことができる。
「silence(沈黙・静寂)」のこと。- フレッド・ロジャース、ジョン・ケージ、見田宗介。
「silence」(沈黙・静寂)ということをかんがえる。
「silence」(沈黙・静寂)ということをかんがえる。
「Mister Rogers’ Neighborhood」というアメリカ教育番組の司会者であった故Fred Rogers(フレッド・ロジャース)は、かつてインタビューで、現代社会が、「wonder」(おどろき)ではなく、あまりにも「information(情報)」にばかり関心をもってしまっていること、また「silence(沈黙・静寂)」ではなく、あまりにも「noise(ノイズ)」に充ちていることに対して、警鐘をならした。
ロジャースの静かだけれど凛とした声は、ぼくの心に直接に届くひびきをもって、伝わってくる。
「沈黙」でつらぬかれた有名な作品「4’33’’」を創った音楽家のジョン・ケージにとって、沈黙はいわゆる沈黙ではない。
…ジョン・ケージは沈黙は環境に存在するあらゆる音の一瞬の総和であると語った。彼は同じことを、「沈黙は生きている」と表現することもできた。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論』NTT出版、1999年
沈黙が、時空間の「欠如」と捉えられがちな現代とは異なり、そこには「あらゆる音の一瞬の総和」とみる反転の視点が鮮やかに提示されている。
沈黙におかれるとき、ぼくのなかでときおり、ジョン・ケージのこの反転の視点があらわれる。
「愛の変容/自我の変容」と題された文章で、社会学者の見田宗介は「現代短歌の感覚と思想」を追いながら、最後に二つの短歌を取り上げて、そこに、現代を超えていくことのある種の「乗り越え」のイメージをとりだしている。
ためらわず車椅子ごと母を入れナース楽しむねこじゃらしの原 吉田方子
「愛」ではなく奉仕ではなく献身ではなく親切ではなく感謝ではないような仕方で、三人は自由に結び合っている。ねこじゃらしの原に酩酊することで、人と人との間にしかれているという国の境を越境している。
それぞれにそれぞれの空があるごとく紺の高みにしずまれる凧 渡辺松男
<孤高>ではなく<連帯>ではなく、複数の存在が存在しきっている仕方。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、1995年(※その後、見田宗介『社会学入門』岩波新書に加筆して収録)
「ねこじゃらしの原」も、「紺の高み」も、いずれも、ノイズではなく、沈黙・静寂のなかに風景がおかれている。
しかし、その静けさは、関係の冷たさを体現するものではなく、逆に、関係の「境界線」がなくなってしまうようなところに顕現している。
20年程前に、ニュージーランドの自然を歩きながら、人は静寂や寂しさのようなものを克服する(逃れる)ようにして「都会」をつくったのかもしれない、という想念がかすめる。
都会の喧騒と彩りがとても魅力的に映り、また都会に戻って来るとぼくの自我は「安心のような感情」を抱いたりする。
しかし都会に長くいると、そのノイズに疲れてしまう。
今は、都会と自然という切り分け方そのものが、「情報テクノロジー」の世界のなかでは、その境界線をあやふやにしている。
どこにいても、人はいつのまにか「情報の渦」のなかに投げ込まれてしまう。
だからときには(あるいは日常に)、「沈黙」に身体をさらしたい。
それは欠如に身をおくことではなく、「あらゆる音の一瞬の総和」とでも呼べるような、また存在の境界線がなくなるような、そのような時空である。
「自分のストーリーだからこそ諦めたくない…」(Kiroro『未来へ』)。- じぶん、ストーリー、そして未来。
音楽グループKiroroの歌「未来へ」の中に、次のような歌詞がある。...Read On.
音楽グループKiroroの歌「未来へ」の中に、次のような歌詞がある。
自分のストーリーだからこそ諦めたくない
不安になると
手を握り 一緒に歩んできた
Kiroro「未来へ」(※Apple Musicに表示される歌詞より)
じぶんの「夢」を追うなかで、空高くにある夢に届かず、不安におしつぶされそうななかで、あきらめまいと、母のことを思い出す。
「自分のストーリー」は、この歌詞の直前におかれる「夢」のことである。
「自分の夢」とは言わずに、「自分のストーリー」である。
1)ストーリーとしての「夢」/夢としての「ストーリー」
「夢」とは、未来におかれる。
正確には、未来は現在の自分の中におかれるのだけれど、それは時間的に「先」にある未来である。
「ストーリー」であるということは、その「未来」に向かう道程も含めて、じぶんの「内面」に描いていくことだ。
その道程は、楽しいことばかりでなく、大変なことも不安も含めて、いろいろなものが道いっぱいに散りばめられている。
今を生きながら、でも未来を見ていく。
未来を見ながら、今を生きていく。
そのようなところに、この歌は、ぼくたちの視野をひろげてくれる。
2)「自分の」ストーリーであること
「ストーリー」は、「自分の」ストーリーである。
ストーリーでは、自分が「主人公」である。
主人公であるということは、狭い意味での「自分中心・自己中心」ということではない。
映画の主人公に対して、(主人公であるということそれ自体として)「あなたは自己中心的だ」などとは、ぼくたちは普通は言わない。
じぶんが主人公であることで、じぶんを生きていくことで、ぼくたちは、他者に何かを届けることができるし、ときには他者を救うことだってできる。
3)ストーリーは「諦めること」はできない
夢としてのストーリーは、諦めることができる。
でも、「ストーリー」そのものは、諦めることができない。
夢を諦めることで、異なった「ストーリー」がやってくるだけだ。
「自分のストーリーだからこそ諦めたくない」と歌われるとき、それは「夢としてのストーリー」を諦めないということである。
夢と夢を持つことで生きることの内実を手放すことなく、そのさまざまな彩りを生きていくことを、じぶんに語りきかせている。
こうして、この歌の中では、いくども、次の歌詞がじぶんに投げかけられている。
ほら 足元を見てごらん
これがあなたの歩む道
ほら 前を見てごらん
あれがあなたの未来…
Kiroro「未来へ」(※Apple Musicに表示される歌詞より)
「自分のストーリー」を生きていくこと。
過去における母の面影と思い出を思い浮かべながら(そして気づきながら)、未来へと、前へと視線を向ける。
それは未来によって今が収奪されるのではなく、未来をもつことで、今が豊かになる生である。
「足元」に歩む道、そして(ぼくの想像だけれど)そこに咲く花々へと視線がうつされながら、創られながら創る「自分のストーリー」は生きる力を宿していくことになる。
香港で、波が打ち寄せる「音」で、耳がひらかれる。- 波音が送ってくれた<小さなアラート>。
予期せぬところから、波が打ち寄せる「音」が聞こえてくる。人工的につくられた海岸通りをゆっくり走り、立ち止まったときのことであった。...Read On.
予期せぬところから、波が打ち寄せる「音」が聞こえてくる。
人工的につくられた海岸通りをゆっくり走り、立ち止まったときのことであった。
積み上げられた巨大な石たちに、小さな波がぶつかる音だった。
よく来る場所であったけれど、これまでは、ぼくの耳には聞こえていなかったようだ。
それは、とても新鮮な響きであった。
ある種のリズムがありながら、しかし、波が石たちにぶつかり散開する音は一定ではない。
家で蛇口をひねって出てくる水の「一定の音」とは異なり、そこには、自由に散開する響きがあった。
その異なりに、新鮮な驚きを覚え、心が動かされた。
10年以上前に、東ティモールの海岸線で聴いていた波の音が思い出された。
思想家の内田樹は、「自然が教えてくれるもの」という問いにたいして、定型的ではない私見を提示している。
…自然から子どもが学ぶ最大のものは私見によれば「時間」である。…
都会にいるときに不快を減じるために時間をできるだけ切り縮めようとするのとはちょうど逆に、自然の中にいるとき、私たちは空間的現象を時間の流れの中で賞味することからできる限りの愉悦を引き出そうとする。
私たちが雲を観て飽きることがないのは、…それが「今まで作っていた形」と「これから作る形」の間に律動があり、旋律があり、階調があり、秩序があることを感知するからである。…
海の波をみつめるのも、沈む夕日をみつめるのも、…すべてはそこにある種の「音楽」を私たちが聴き取るからである。
その「音楽」は時間の中を生きる術を知っている人間にしか聞こえない。
自然に沈潜するというのは「そういうこと」である。
内田樹『態度が悪くてすみませんー内なる「他者」との出会い』角川oneテーマ21
都会の子どもたちは、管理された閉鎖空間の中で「時間意識」を損なっていくことに触れながら、内田樹は、「万象を『音楽』として聴くこと」へと誘う自然の中での生活を語っている。
波が打ち寄せる音と小さな波が散開する動きに、ぼくは「時間」の流れを賞味し、そして「音楽」を聴き取っていたということになる。
その瞬間に、五感はいつもとは違う仕方で、ふと、ひらかれたのだろう。
意識的にケアしないと、都会的な空間のなかで感覚が減じられ損なわれていってしまうことを、あらためてぼくに感じさせる。
感覚が減じられ損なわれた身体は、他者の声にならない声、メッセージにならないメッセージをうまく聴き取れない。
香港で、人工的な海岸の石たちに寄せる小さな波音は、そのような<小さなアラート alart>を、ぼくに送ってくれた。
東ティモールでむかえた「クリスマス」(2006年)の記憶から。- 「War is over, if you want it...」(ジョン・レノン)
「War is over, if you want it…」。争いは終わるよ、あなたがそれを望むのであるなら。...Read On.
「War is over, if you want it…」。
争いは終わるよ、あなたがそれを望むのであるなら。
John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲のひとつである「Happy Xmas (War is Over)」のバックコーラスが届ける歌詞である。
ジョン・レノンが主旋律を歌いながら、ヨーコとハーレムコミュニティ合唱団の子供たちが声を奏でている。
2002年から2003年にかけて、戦争が停戦に至ったばかりの西アフリカのシエラレオネに赴任していたときも、それから2003年から2007年初頭にかけて、独立したばかりの東ティモールにいたときにも、この名曲はぼくの深いところで、力強いメロディーと歌声で鳴り響いていた。
シエラレオネは停戦に至っていたけれども隣国リベリアは内戦が激化していて、難民がシエラレオネに押し寄せていた。
独立したばかりの東ティモールは平和を維持してきたけれど、2006年になってディリ騒乱が発生し、国内避難民を発生させた。
そのような現実に身をおきながら、国際支援を展開しているぼくの内面を、ジョン・レノンの歌が支えてくれていた。
「争いは終わる、望むのなら」と。
東ティモールの首都ディリでの騒乱は、ふりかえるのであればその前触れはいっぱいに集められるけれど、騒乱へと突如に落ちてゆく行き方は(万が一の準備はしつつも)あまり予測されない事態であった。
ディリ中心街の銃撃戦の場に、ぼくはいつのまにか置かれ、翌日には東ティモールを退去せざるをえない状況になった。
すぐにもどる予定が、国際支援の制度上のしばりにしばられ、なかなか戻れず、日本から遠隔でプロジェクトを指揮していた。
ディリの状況はよくならず、情勢は不安定さを増していくことになる。
その間、しばりのない他のチームがディリに入り、国内避難民の支援をはじめていた。
そうして情勢が若干の落ち着きをみせはじめたころ、ディリを退避してから数ヶ月後に、ようやく、ぼくはディリにもどることができた。
2006年9月のことだったかと思う。
不安定さはまだ残り、慎重な支援事業を展開していった。
一時は恐れたコーヒーの出荷を、コーヒー生産者たちとチーム一丸で、ぼくたちは達成した。
出荷作業も終わり、そのフォローアップも落ち着いたのは、2006年の末であった。
クリスマスは、ぼくはディリにいた。
いたるところで小競り合いがつづくディリであったけれど、クリスマスの前あたりから、街は「落ち着き」を得ていた。
クリスマスの夜、事務所の前からディリの山腹をながめながら、ぼくはじぶんのなかで、つぶやいていた。
War is over, if you want it…
争いをつづけている人たちであっても、「クリスマス」という、カトリック教徒であろう彼らにとって大切な日には、争いをとめることができたのだ。
その事実に、ぼくは少し安心した。
<共同幻想としてのクリスマス>という、人間的な事象はくずれることなく、生きつづけている。
完全に人間がこわれてしまったわけではない。
ジョン・レノンの歌にこめられた<共同幻想>を書き換える企ては、その根拠をもっていることを、ぼくは争いが続く場で感じたのだ。
望めば、争いは終わるのだ。
たとえ、それがつかの間のことであったとしても。
今では東ティモールは、ふたたび、平和な日々をとりもどしている。
東ティモールにいる間、「Happy Xmas (War is Over)」の東ティモール版のようなバージョンを収録したいと、ぼくはかんがえていた。
ニューヨークのハーレムコミュニティ合唱団に替わって、東ティモール合唱団(あるいは世界の合唱団)のような合唱団がバックコーラスの歌声を奏でるというものだ。
そのときはその夢を形にすることはできなかったけれど、ぼくの「人生でやりたいことのリスト」にひきつづき含まれている。
ここ香港でクリスマスイブをむかえるなかで、ぼくはその夢をおもいだす。
名曲「Happy Xmas(War is Over)」(ジョン・レノン)。- <共同幻想>の書き換えに向けられた歌。
John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲のひとつ、「Happy Xmas (War is Over)」。...Read On.
John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲のひとつ、「Happy Xmas (War is Over)」。
年の瀬が近くなるにつれ、この曲のメロディ、ジョン・レノンの差し迫ってくる歌声、ヨーコとハーレムコミュニティ合唱団のバックコーラス、それから公式動画に映し出される世界での争いが、ぼくの中にながれてくる。
1971年にリリースされてから、今ではクリスマスソングのスタンダードに数えられ、数々のアーティストたちに歌い継がれている。
この名曲は、ジョン・レノンとヨーコ・オノが1960年代末から展開していた一連の「平和活動」のなかで放たれたことから、クリスマスソングにおさまらない奥行きをつくりだしている。
「クリスマス」というイベントを旗印にして、<すべての人たちにとってのクリスマス>という図式で、メッセージを届けている。
And so this is Xmas (war is over)
For weak and for strong (if you want it)
For rich and poor ones (war is over)
…
And so this is Xmas (war is over)
For black and for white (if you want it)
For yellow and red ones (war is over)
Let’s stop all the fight (now)
John & Yoko/Plastic Ono Band, “Happy Xmas (War is Over)”
人の強さ、裕福さ、人種を超え、<すべての人たち>を、「クリスマス」という出来事のもとにおさめる。
いろいろと<違う>人たちを、<同じ>土台のもとに置くのは「クリスマス」という事象だ。
ここでいう「クリスマス」は、いわゆる宗教的な色彩は(それも包含しながら)そぎおとされたものだと、ぼくは考える。
抽象化して言えば、それは人間のもつ<共同幻想としてのクリスマス>である。
世界での「クリスマス」は、宗教的なものも非宗教的なものも共に含めるような仕方で、毎年やってくる。
歴史家ユバル・ハラリは、「未来の歴史」を見据えるなかで、人間のもつ、この共同幻想に着目している。
そこで語られる共同幻想と同型のものとして、「Happy Xmas(War is Over)」において、<みんなが同じ>土台として立つことになる「クリスマス」は存在している。
この意味の構造において、ヨーコとハーレムコミュニティ合唱団の子供たちが奏でるバックコーラスの「叫び」は、「争いが終わること」の方法としての妥当性をもっている。
戦争や争いを終わらせる力としての「共同幻想」。
ジョン・レノンやヨーコたちがそれだけで争いが終わるとは考えていなかっただろうけれど、じぶんたちの立つ「立ち位置」において、できるだろうことのひとつとして世界に向けられたメッセージである。
それは、<共同幻想>を書き換えるムーブメントのひとつである。
ジョン・レノンやヨーコや合唱団の子供たちはうたう。
戦争は終わる。
あなたが望めば、と。
望めば終わるという論理はストレートでありながら、反対に、「望んでいない」人たちという存在をあぶりだす言葉の装置でもある。
時代の大きな転換において、課される課題は、望まないことを望むことに変換するための行動の想像力と実行力である。
ニュージーランドの美しい歌がしみこむ夜。- 「Pokarekare Ana」の曲に魅せられて。
ニュージーランドに、マオリ語で歌われる「Pokarekare Ana」という曲がある。ぼくの好きな曲だ。...Read On.
ニュージーランドに、マオリ語で歌われる「Pokarekare Ana」という曲がある。
ぼくの好きな曲だ。
伝統的なスタイルで歌われる「Pokarekare Ana」も、あるいはクライストチャーチ(ニュージーランドの南島にある街)生まれのHayley Westenraが歌う「Pokarekare Ana」も、それぞれに味がある。
ネット検索でざっと見ていると、この曲の「オリジナル」は明確ではないようで、第一次大戦頃に生まれ、いろいろな人たちのアレンジが加わって、今のような形になってきたようだ。
ぼくがこの曲に出逢ったのは、今から20年ほど前になる1996年。
ニュージーランドの北島にあるロトルアという街においてであった。
大学2年を終えたところで休学し、ワーキングホリデー制度を利用して、ぼくはニュージーランドに降り立っていた。
オークランドに降り立ち、その後の滞在計画を練りながら、「これ」というものが見つからずに、ぼくはロトルアに行ってみることにした。
ロトルアは北島の中間あたりに位置し、温泉で有名な街である。
街全体が硫黄のにおいで充満しているほどである。
ニュージーランドが秋に入ってゆく時期の、とてもよく晴れた日に、ぼくはロトルアに到着した。
そこで、マオリ族の人たちが伝統的な歌と踊りを披露していることを知り、星々がひろがる夜空のもとに悠然とたたずむ木造りの小屋に、ぼくは足を踏み入れた。
マオリ族の伝統的な建物である。
10名ほどのマオリ族の人たちが伝統的な衣装を着飾り、伝統的な物語を素材に、歌と踊りで物語にいのちをふきこんでいく。
フォークギターがその背景に音楽を奏でる。
ラグビーのオールブラックスが試合前に行うことで有名になった「Haka」もそのひとつとして披露された。
後半も終わりに近くであっただろうか、とても美しい調べの歌が小屋にひびきわたる。
凛とした空気のなか、凛とした歌声がきれいに風をきっていくような響きだ。
その曲の調べと美しい歌声のひびきは、いつまでも、ぼくのなかでこだましていた。
小屋の外に出ると、しずかな夜風がぼくにふれた。
その曲が「Pokarekare Ana」という曲だということを、後にぼくは知る。
帰り際に、会場の入り口で、つい購入してしまったカセットテープによって。
そして、ぼくは、ときにこの曲がとても聴きたくなる。
新しい曲たちもいいけれど、「伝統」の曲たちもいいものだ。
新しさと古さの分断線を、この曲は風をきっていく美しさで、気にする風情なくのりこえていくように、ぼくにはきこえる。
名曲「Imagine(イマジン)」(ジョン・レノン)の方法論。- 現実の<消去>という仕方で描かれる世界。
名曲「Imagine(イマジン)」。誰もが知る、今も歌い継がれてゆくジョン・レノンの歌が描く世界に一歩ふみこんでみると、またひとつの視界がひらける。...Read On.
名曲「Imagine(イマジン)」。
誰もが知る、今も歌い継がれてゆくジョン・レノンの歌が描く世界に一歩ふみこんでみると、またひとつの視界がひらける。
この曲の中で、「想像してごらん」と、ジョン・レノンが描く世界は、3つのことの<消去>により現出する世界である。
想像のなかで消去されたのは、次の3つのことである。
- 天国と地獄
- 国と宗教
- 所有
それらに対置されたもの・ことを、さらに一歩ふみこみ理論としてとりだすと、次のようになることを、別のブログで論じてきた。
(1) 天国と地獄 ⇄ 「今を生きること」➡︎ 時間
(2) 国と宗教 ⇄ 「平和に生きること」➡︎ 共同体
(3) 所有 ⇄ 「分かち合うこと」➡︎ お金
これら3つのこと・ものは、今の時代が「次なる時代」にひらかれてゆく過程で直面する、大きな課題である。
ジョン・レノンの名曲は、この大きな課題に照準をあわせながら、しかし、人びとに「想像」をよびかけながら、その方法として現実の<消去>という方法をとっている。
天国と地獄がない世界、国と宗教がない世界、所有のない世界の想像を喚起するという方法である。
理論として語るのであれば、方法としては、「否定」(~ではない)と「肯定」(~である)という方法がある。
しかし、ジョン・レノンは、そのどちらでもない、<消去>という方法をえらんでいる。
なぜそのような方法をとったのだろうかと、ぼくはかんがえる。
社会学者の見田宗介は、1986年の論壇時評において、「差別」をのりこえる方途を次のように書いている。
…男女の差別をこえるという時、「女である前に人間です」という言い方で、同質性に還元してゆく仕方がひとつある。もうひとつ「女といっても一人一人違う。男といっても一人一人違う」という言い方で、異質性をきわだたせてゆく仕方がある。最首の言い方をかりれば、<みんなが同じ>という仕方で差別をこえる方向と、<みんなが違う>という仕方で差別をこえる方向とである。
異質なものの呼応と交響、というあり方に魅かれるわたし自身には、<みんなが違う>という言い方の方が、得心がゆく。異質化は世界をすてきにしてゆく(同質化は世界をたいくつにする!)。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫
見田宗介は、最首悟が障害を持つ自分の子供にふれて言った言葉(最首悟は、<みんが同じ>という均質化の力が差別をつくることを語っている)や、加藤典洋が語る「国境」の話などを手がかりに、差別をのりこえる仕方を展開している。
<みんがが同じ>という方向と<みんなが違う>という仕方。
ジョン・レノンが挙げたこと・ものを、「否定」という仕方で展開して言うと、例えば、「国や宗教がない世界」などとなる。
これは、かんがえる仕方としては、<みんなが同じ>という方向へののりこえに向かってしまう。
それは、最首悟の言うように、均質化の力が逆に差別を生み、見田宗介の言うように、同質化は世界をたいくつにする方向であり、今あることの「否定」がかならずしも、よい世界につながるとは、ジョン・レノンはかんがえていなかったのではないかと、ぼくは思う。
そして、否定とは逆に「肯定」という方向性はいまだ積極的にはみえず、その苦悩と狭間のなかで、<消去>という方法を、彼はとらざるを得なかったのではないかと、ぼくは推測している。
名曲「イマジン」が世に放たれたのは1971年のことであり、時代はますます「標準化」という均質化・同質化の力を強めていたときである。
ぼくはもう少し、ジョン・レノンが描いた世界を、異なる地点や視点から見ていく必要があるように思う(でも、断っておけば、あくまでも、ぼくの解釈にすぎないのだけれど)。
その課題のヒントを、次に、ジョン・レノンのもう一つの名曲「Happy Xmas (War Is Over)」を読みときながら、ぼくは探っていくことになるだろう。
ジョン・レノンの名曲「Imagine(イマジン)」の描いた世界。- この名曲に一歩ふみこんで、かんがえてみる。
誰もが知る、John Lennon(ジョン・レノン)の名曲「Imagine (イマジン)」。名曲「イマジン」は、多くのミュージシャンたちをひきつけてきた。...Read On.
誰もが知る、John Lennon(ジョン・レノン)の名曲「Imagine (イマジン)」。
名曲「イマジン」は、多くのミュージシャンたちをひきつけてきた。
子供のときにイラクの戦場で見つけられたEmmauel Kellyが、だいぶ前にオーストラリアの番組Xファクターで「イマジン」を歌う姿と歌声は、人びとの心をうった。
Emmanuel Kellyは、Coldplayのオーストラリアでのコンサートで、一緒に「イマジン」を披露している。
生きる力の充溢をそこに見ることができる。
ジョン・レノンだけでなく、さまざまなアーティストにひきつがれてゆく名曲の<つなげる力>に、ぼくは心を動かされる。
名曲「イマジン」は、「世界がひとつになって生きる」ことを歌っているけれど、どのような世界を望んでるのか。
何度も聞いてきたこの名曲を、ぼくは一歩ふみこんでかんがえたことがなかった。
歌詞だけにおさまらない力が、この歌にはひめられていることもあるけれど、「わかった」気持ちでいたことも、理由のひとつかもしれない。
「♫ Imagine(想像してごらん)」と、ジョン・レノンが歌うとき、「~のない世界」をとジョン・レノンはメッセージをのせている。
大きく分けると、そこには3つの大きな<消去>がおかれている。
- 天国と地獄
- 国と宗教
- 所有
これらを見ると、わかったような気がするけれど、ジョン・レノンがこれらに「対置」するものを置くと、もう少し見えてくるものがある。
(1) 天国と地獄 ⇄ 「今を生きること」
(2) 国と宗教 ⇄ 「平和に生きること」
(3) 所有 ⇄ 「分かち合うこと」
ここまではジョン・レノンが、歌詞にのせたメッセージである。
さらに、ここから、もう一歩ふみこんで、「抽象度」をあげて理論として取り出してみると、これらの3つは、次のように読みとることができる。
(1’) 時間
(2’) 共同体
(3’) お金
こうしてみることで、ジョン・レノンが名曲にのせて歌うメッセージは、とても「論理的」であることがわかる。
これら3つは、「生きること」の3つの側面であり、「生きること」を支える3つのもの・ことである。
二つ目の「共同体」は、人の<精神的な側面>を支えるものであり、三つ目の「お金」は、人の<物質的な側面>を支えるものである。
人びとの生を支えるものでありながら、それらが逆に、「抑圧」として人びとの生に影響をあたえている状況に、想像の世界でジョン・レノンは現実を<消去>したのだ。
一つ目の「時間」はと言うと、ひとつの解釈としては、人が個人として生きる「意味」がそこにこめられているように、思う。
「天国と地獄」という「結末」に向けられた視線は、人の生をそこに向けて収斂させながら、<今ここの生>をおきざりにしてしまう。
だから、ジョン・レノンは「今日を生きること」へと、人びとの想像の力を解き放とうとしている。
このように、名曲「イマジン」は、時間・共同体・お金という、人が生きてゆくことの、意味と精神的・物質的側面の色彩を変えることで、「ひとつになる世界」を描いている。
その想像の「道すじ」において、ジョン・レノンは、天国と地獄、国と宗教、所有を<消去>するという仕方を選んだことは、積極的な方法というよりも、そう取らざるを得なかったのかもしれないと、ぼくはかんがえている。
ジョン・レノンを思う日。- 「全世界の異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界」(見田宗介)への途上に鳴りひびく歌。
毎年12月8日は、ぼくにとって、ジョン・レノンを思う日だ。時代をつくった音楽バンド、ビートルズの中心メンバーであり、ビートルズ解散後も、数々の名曲をつくり、レノンの歌は世界に交響してきた。...Read On.
毎年12月8日は、ぼくにとって、ジョン・レノンを思う日だ。
時代をつくった音楽バンド、ビートルズの中心メンバーであり、ビートルズ解散後も、数々の名曲をつくり、レノンの歌は世界に交響してきた。
そのジョン・レノンが、1980年12月8日にニューヨークの自宅前で、凶弾に倒れた。
ジョン・レノンが40歳のときだ。
それから27年が過ぎた。
気がつけば、ぼくはジョン・レノンの年齢を超えている。
ぼくがジョン・レノンに出会ったのは、たしか中学生のときの英語の教科書のなかであって、ぼくのなかではジョン・レノンは、今でもそのときの立ち位置に存在している。
英語の教科書では、ニューヨークのセントラルパークに、亡くなったジョン・レノンを思いつつ平和をいのる人たちが集ったこと、それから名曲「イマジン」のことが書かれていたように記憶している。
学校で学ぶということの窮屈さのなかにあって、英語の教科書にあらわれたジョン・レノンは、ぼくをひきつけてやまなかった。
大学で東京に出てからは、渋谷東急でビートルズの物品の展示に使われていた、ジョン・レノンモデルの「リッケンバッカー」のギターが売りに出されていたのを、ぼくは手に入れて、ジョン・レノンが鳴らしたであろう響きを、少しでも感じようとした。
12月8日にかぎるわけではないけれど、クリスマスが近づき、ジョン・レノンの名曲「Happy Xmas (War Is Over」が外からも、それからぼくの内からも、その響きを届けるころ、ぼくはジョン・レノンのことを思い、ジョン・レノンが思い描き、目指していた世界のことをかんがえる。
ビートルズとジョン・レノンの歌、それからレノンの生き方は、ぼくの生き方の方向性に交響する仕方で、ぼくのなかに流れている。
社会学者の見田宗介は、整体の創始者といわれる野口晴哉にかんする論考のなかで、ジョン・レノンにふれている。
その「節」は、「時代の文脈ーレノンの歌、遥かな呼応」という言葉がおかれている。
見田宗介が1970年代半ばにメキシコの滞在から日本に帰ったおり、野口晴哉の思想に出会ったときの「時代の文脈」を、2008年の地点から振り返って語るところである。
今ふりかえってみて初めて気がつくのだけれども、わたしたちにとって野口晴哉は、ジョン・レノンやボブ・ディランやカルロス・サンタナの歌と遥かに呼応する運動のうねりの中で、全世界の異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界を実現するための、方法の夢中の模索と探求という途上で出会われた。
戦争と憎悪と抑圧のない世界を、暴力的な否定という仕方ではなく、(人間の中の自然の可能な力を肯定するということをとおして)異質なもの多様なものの相補し交響する世界の胚芽を、至るところの今ここに生きられる仕方で実現してゆくのだという方法論の、確実な一角として探り当てられていた。
見田宗介「思想の身体価」『定本 見田宗介著作集X:春風万里』岩波書店
この時代を生き、「方法の夢中の探索と探求」をつづけてきた人たち。
見田宗介、野口晴哉、ジョン・レノン、ボブ・ディラン、カルロス・サンタナなど。
学問も、整体も、歌も、反戦運動も、すべてが「遥かに呼応する運動のうねり」の中で、それぞれに、「全世界の異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界」の実現をめざしてゆくことの活動としてあった。
時代に流されるのではなく、時代に垂直に立つ仕方で、これらの人たちの生は生きられてきた。
ジョン・レノンの生き方にぼくがあこがれたのも、その音楽的な感性だけでなく、「時代に垂直に立つ仕方」であったように、ぼくは思う。
「全世界の異質なもの多様なものたちの生々として共存する世界」。
時代がうつりかわっていくなかで、しかし、照準はそこに、定められている。
音楽を奏でる家「Goose house」という<場のコミューン>。- 「オンガク」へと解凍される音楽。
「Goose house」という、日本の音楽グループがある。ソニー・ウォークマンのPR企画「PlayYou.House」の後身として、番組終了後も番組制作を続け、YouTubeなどに演奏をアップしている。...Read On.
「Goose house」という、日本の音楽グループがある。
ソニー・ウォークマンのPR企画「PlayYou.House」の後身として、番組終了後も番組制作を続け、YouTubeなどに演奏をアップしている(参照:Wikipedia)。
シンガーソングライターが集まり、カバー曲やオリジナル曲を演奏している。
2011年の活動から徐々にファンを増やし、CDを発表し、今では大きなライブ公演もこなす。
YouTubeに演奏がアップされると、またたく間に多くの視聴者を得ているようだ。
ぼくたちの「思考の癖」からは「グループ」というように見てしまうのだけれど、名前そのものが示すように「house 家」という<場>である。
Goose houseのホームページに書かれているプロフィールには、そのことがシンプルに書かれている。
シンガーソングライターが集い
オンガクを奏でる家、Goose house。
ひとつひとつは、
まだちっぽけな音だけれど、
重なり合い、紡ぎ合い、
やがてひとつの暖かい音になり、
この都会の片隅の小さな部屋から、
世界中の街へ拡がりつつある。
「WHAT’S Goose house」Goose houseホームページより
それは、ひとつの<場>である。
実際に、Goose houseはシェアハウスに集まっては、曲を収録する。
収録した曲は、YouTubeなどに「発表」される。
曲によっては、何万回・何十万回も再生され、視聴する人たちに「何か」を届けている。
Goose houseは、音学を「オンガク」とカタカタで表記している。
ぼくたちが知る「音学」を一度解凍することで、「オンガク」という<オト(音)のたのしさ(楽)>にまで戻りつつ、変わりゆく世界のなかで<オンガクの力>を追い求めているように、ぼくには見える。
Goose houseは、ホームページにおける、上述の文章につづいて、次のように書いている。
10年前には考えられなかった。
それが「今」という時代。
オンガクを取り巻く環境は、
明るい話ばかりじゃないけど、
オンガクの力は、
変わらなくヒトを包んでくれる。
オンガクの「今」を、全身で楽しみたい。
オンガクの「これから」を、
この目で確かめたい。
「WHAT’S Goose house」Goose houseホームページより
ぼくの個人的な好みでは、多くのメンバーで楽曲を奏でる曲に、心ひかれる。
そのアレンジの面白さと「オンガク」を奏でることの<たのしさ>の表出から、ぼくは、例えば次の曲の演奏が好きだ。
● 坂本九「明日があるさ」
● 猿岩石「白い雲のように」
● スガシカオ「Progeress」
● 19「あの紙ヒコーキ くもり空わって」
● Goose house「オトノナルホウへ」
Goose houseの奏でる「オンガク」から湧き出る<たのしさ>は、ぼくが10代に「オンガク」にうちこんでいたときのことを思い出させてくれる。
友人たちと集まっては、だれかれとなく楽器を奏で始める。
そこに響きをあわせるように、ひとりが加わり、またひとりが加わり、そうして「セッション」が始まる。
そこで、ぼくたちは、「オンガク」を通じて、生きることのリズムと<つながり>を感じることができる。
ぼくにとっては、「オンガク」が、この世界につながることの<蜘蛛の糸>のようなものであった。
それは独り占めする「蜘蛛の糸」ではなく、みんなと共にのぼってゆく<蜘蛛の糸>であった。
秋から冬にかけての「真夏の果実」。- ニュージーランドで聴くサザンオールスターズの記憶。
レストランのスピーカーから、サザンオールスターズの曲のイントロが、ぼくの耳にはいってくる。静かなイントロだ。だれしもが知っている曲だけれど、ぼくは「曲名」を知らない。...Read On.
レストランのスピーカーから、サザンオールスターズの曲のイントロが、ぼくの耳にはいってくる。
静かなイントロだ。
だれしもが知っている曲だけれど、ぼくは「曲名」を知らない。
日本食のレストランでウェイターの仕事をしながら、スピーカーから流れる「日本の歌」に、ときおり懐かしさのようなものを感じる。
1996年、ぼくは大学を休学して、ニュージーランドに渡った。
ワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドに渡り、ぼくは、商業都市であるオークランドの日本食レストランで、運良くウェイターの仕事を得ることになった。
オークランドの中心街、海の近くにある日本食レストラン。
オーナーは韓国人、シェフは台湾人と中国人、ウェイター・ウェイトレスが日本人という、不思議な構成だ。
ぼくはニュージーランドに渡る前は、東京のカフェレストランで働いていたから、ウェイターという仕事そのものにおいては問題なかった。
やりとりは英語だから、ときおり日本食の説明にとまどったけれど、ぼくはとにかくよく働いた。
ワーキングホリデーの「ホリデー」はどこへやら、「ワーキング」が生活の主要な活動になっていった。
その日本食レストランで、バックミュージックに使われていたのが、日本のポップミュージックであった。
当時は、今では見かけない、カセットテープにふきこまれていた。
1980年代の「少し古い」音楽が流れる。
普段なら聞き流してしまうような曲たちも、異国の土地では、とてもいとおしい音色をひびかせる。
そんななかで、サザンオールスターズの曲の響きはとりわけ、ぼくの心を捉えていた。
静かなイントロに続き、「♫ 涙があふれる 悲しい季節は…」と、桑田佳祐の歌声が店内にひびいてゆく。
後に、ぼくは曲名が「真夏の果実」であることを知る。
南半球に位置するニュージーランドは、日本と逆で、ちょうど秋から冬にかけて季節が移り変わるときであった。
「真夏の果実」は、なぜか、ぼくのなかで「海外の風景」との親和性がたかい曲である。
東ティモールに住んでいたときも、それからここ香港でも、ぼくは「真夏の果実」のメロディーと歌声が、風景にしぜんと重なりあうのを感じてきた。
気がつけば、ここ香港も、ようやく秋が深まりつつあるところで、「真夏の果実」は夏が終わったところで(も)、ぼくの心にふれてくる。
これらそれぞれの空間に、無理やりに「共通点」を見つければ、<海>がいつも、ぼくの目の前にひろがっていた。
オークランドの海と港、東ティモールのディリと共にある海と港、それから香港をかたちづくり彩る海と港。
そこにはいつも<海>の風景があり、すこやかな風が吹いていた。
「丘」に現れる喪失と再起の<境界>。- 村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』
「丘」をうたう歌謡曲を通じて、人と社会を考察した村瀬学の著作『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』(春秋社、2002年)は、心踊る作品だ。...Read On.
「丘」をうたう歌謡曲を通じて、人と社会を考察した村瀬学の著作『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』(春秋社、2002年)は、心踊る作品だ。
歌謡曲の中で登場する「丘」にひかれ、「丘」をたよりに、村瀬は歌謡曲通史を試みた仕事である。
その中心的コンセプトとして、村瀬学は「丘」に、喪失と再起の象徴を見ている。
なぜ万葉集の一番最初の歌に「おか」がうたわれているのか。
「丘は丘陵・丘墓にも用いる字。[説文]に「土の高きものなり。人の為る所に非ざるなり」とし、象形とする。墳丘の意にも用いる。」(白川静『字訓』)
と説明されているように、古代から「丘」と「墓」は同じように意識されてきた側面がある。古墳も「丘」である。そういう意味では、「丘」とは、死者を葬る場所であり、同時にそこで死者を思い出す場所にもなっていた。つまり「丘」とは、失いと思い出しの場所、つまり失いと蘇りを象徴する場所、もう少しいえば、「喪失」と「再起」を象徴するものとしてあった…。
村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』春秋社
しかし、それは物理的な「丘」だけに限らない<丘>である。
村瀬学は、次のように書いている。
…私は、ここで喪失と再起を象徴するもの全体を「丘」と呼ぶことにした。そう考えることで、なぜ歌謡曲で「丘」がたくさん歌われてきたのか。また「丘」が歌われなくなってから、その「丘」はどういうイメージに変形され、歌い継がれていったのか、そこのところをたどってみることができるのではないかと考えた。…
丘とは、あくまで「境目」であり「境界」であり、そこには二つの領域の出会いがある。そこはAが終わる場所(喪失)であり、Bが始まる場所(再起)である。その接点を人は歌の中で「丘」と呼んできたのである。ここにはだから「複数の声」がする。Aであろうとする声と、Bであろうとする声だ。その「複数の声」を聞くということが、歌を聴くということの楽しみでもある。
村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』春秋社
ここで述べられているように、喪失と再起を象徴するもの全体を、村瀬学は「丘」と呼んでいる。
村瀬学は、この<丘>という喪失と再起の象徴を導きの糸に、日本の戦後歌謡と社会をよみといていくスリリングな旅に出るのだ。
目次にならい、各年代のイメージとしては、次のようなものとして村瀬はよみとく。
●1950年代:「丘」から「峠」へ
●1960年代:「丘」から「夕陽」へ
●1970年代:「独りよがり」の時代へ
●1980年代:「ワル」のふりをして
●1990年代:「激励」と「感謝」と
それぞれに取り上げられる歌は、美空ひばりや石原慎太郎、坂本九、サザンオールスターズ、モーニング娘。などなど、多岐にわたる。
直接に「丘」という言葉が歌に使われてきたのは六十年代までと村瀬は分析を加えているが、その1961年にヒットした坂本九の名曲『上を向いて歩こう』は、ひとつの時代を画するものとして、捉えられている。
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 思い出す春の日 一人ぼっちの夜
上を向いて歩こう にじんだ星を数えて 思い出す夏の日 一人ぼっちの夜
幸せは雲の上に 幸せは空の上に
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜
(『上を向いて歩こう』永六輔詞・中村八大曲、昭和36、1961)
この曲が外国でも『スキヤキソング』としてヒットしたことはよく知られているところだけれど、そのひとつの要因として、この歌が日本的な情感や情念より、脱日本語的な「リズム」に共感をうけたことを、村瀬は指摘している。
そして『上を向いて歩こう』という曲も、<境界>に位置した曲であることを、村瀬は次のように書いていて興味深い。
おそらくさまざまな意味において(というのは、リズムや歌い方や歌詞から見ても、ということなのだが)、この歌が「境界」の上でうたわれていることが見えてくる。特に歌詞から見れば、この歌が「失われた過去」と「幸せな未来」の境界に立っていることは一目瞭然である。「境界」だから、「前」も「後」も、まだ保留にされる。だから、ここに立てば、人は「上」を見ることができるのだ。そこにこの歌の持つ「丘」としての位置がある。人はこの「う・え・を・む・う・い・て、あーるこうおうおうおう」と口ずさむ時、「失われた過去」や「まだやってこない未来」をとりあえずカッコに入れて、涙がこぼれないように上を向くことで、元気付けられたのである。…
村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』春秋社
そこからひとたび視点を日本の社会に転じると、「上」は「高度成長」としての「上」とも重なり、高度な消費社会は人々のつながりを解体し、「一人ぼっち」にしはじめていたことにも触れられている。
この「一人ぼっち」(個人主義)につらなるものとして、「上を見る=星を見る=希望(夢)を見る=アメリカン・ドリームを見る」(村瀬学)といった生活の形式と内実があるのだ。
時代が歌に反映し、歌が時代をつくりだしてゆくような、そのようなものとして、歌謡曲と社会が捉えられている。
ぼくのことで言えば、「ニュージーランド徒歩縦断」の旅に旅立つときに、ニュージーランドの北島の果てでたまたま出会った日本人の方が、『上を向いて歩こう』をオカリナで吹いてくれたことを思い出す。
互いに「一人ぼっち」の旅であった。
ニュージーランドの北端のポイント、レインガ岬の近くでのことであった。
なだらかな「丘」が先までつづく道のりを歩くぼくの背中に向けて、『上を向いて歩こう』の曲がオカリナの音色にのって響いてくる。
その音色に確かに励まされながら、あの「丘」で、ぼくはどのような喪失と再起の<境界>を越えようとしていたのかを、20年以上が経過した今でも、ぼくはときどき考えてしまう。
若い頃には、何でもないような歌に心ときめく歌謡体験をし、さらに何でもないようなささやかな一行の歌詞になぐさめられ、勇気づけられることがしょっちゅうあるものだ。それが、日々の「丘の体験」である。そういう体験が直接に「丘」という言葉を使って歌にされたのが六十年代までであって、その後は、言葉としては直接使われなくなる。それでも歌謡曲が存在する限り、すぐれた歌の体験は、大なり小なり「丘の体験」としてあるのだ…。
村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』春秋社
歌は、ぼくたちの日々の「丘の体験」の時空を、ぼくたちの中につくりだしてくれる。
それにしても、今の時代の「歌たち」は、どのような「丘の体験」なのだろうか、あるいは「丘の体験」などなくしてしまったのだろうか。
音楽を演奏するように、語り、仕事をし、文章を書き、生きる。- <音楽の地層>による祝福。
ぼくは、まるで音楽を演奏するように、あるいは音になったようにして、人と語り、仕事をし、文章を書くという感覚を、生きることの「地層」としている。...Read On.
ぼくは、まるで音楽を演奏するように、あるいは音になったようにして、人と語り、仕事をし、文章を書くという感覚を、生きることの「地層」としている。
音楽と共に生きる、ということよりも、より深い地層である。
ぼくは「音楽のまち」(今は「音楽の都」へ)といわれる浜松市に生まれ育った。
ヤマハやカワイ、ローランドといった楽器メーカーが立地するという「環境」においてピアノを習い、また「時代」の流れのなかで早い時期からバンド活動でギターを演奏し、ドラムを叩き、歌を唄ってきた。
さらには、浜松祭りという大きな祭りでは、ラッパの音色に合わせて練り歩くなかで、ぼくはラッパを吹いた。
生きることのすみずみにまで「音楽」がしみこんでいた。
音楽を演奏するように、あるいは音楽のように、生きていくような感覚とリズムを、ぼくはいつのまにか獲得していたように、今では思う。
よく知られているように、小説家の村上春樹が、小説を書くときに「リズム」をもっとも大切にしている。
デヴュー作となった『風の歌を聴け』の創作について、村上は次のように書いている。
小説を書いているとき、「文章を書いている」というよりはむしろ「音楽を演奏している」というのに近い感覚がありました。ぼくはその感覚を今でも大事に保っています。それは要するに、頭で文章を書くよりはむしろ体感で文章を書くということなのかもしれません。リズムを確保し、素敵な和音を見つけ、即興演奏の力を信じること。
村上春樹『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング
村上春樹が、このように語るとき、ぼくは頭ではなく「体感」でわかる。
「文章を書く」ときに限らず、人と語るときのリズム感や素敵な和音的感覚から、仕事にいたるまで、音楽を演奏しているような感覚が、ぼくの深いところで感じられる。
うまく演奏できることもあれば、演奏がしっくりこないときもある。
あるいは、うまい演奏ではなくても、深い響きに充ちた演奏になることもある。
そのようにして、ぼくは生きる。
社会学者の大澤真幸は、「音楽」というものは「笑い」の延長線上にでてきたものではないかと考えている(『<わたし>と<みんな>の社会学』左右社)。
音楽と笑いをつなげる太い線は、「共感のメカニズム」である。
つまり、人と人とが一緒に生きていくことの関係づくりであり、その一つの方法として音楽があったのではないかという。
ネアンデルタール人は、言葉は原始的であったとしても、音楽はかなり発達していたと考えられていることを、大澤真幸は語っている。
音楽というのは、その意味において、言葉よりも本源的なものである。
ぼくたちの、より深い地層を形成している。
その深い地層から祝福されるように、ぼくたちの語ること、書くこと、描くこと、創ること、つまり生きることは存在している。
だから、今日も、音楽を演奏するように、生きる。
歌手Angelique Kidjoから伝わってくるアフリカの大地に根ざす「まっすぐな」歌声。- <志の力>に体験として触れること。
Angelique Kidjo。西アフリカに位置するベナンに生まれ、20代前半にパリに移り、今はニューヨークをベースとするシンガーソングライターである。...Read On.
Angelique Kidjo(アンジェリーク・キジョー)。
西アフリカに位置するベナンに生まれ、20代前半にパリに移り、今はニューヨークをベースとするシンガーソングライターである。
アフリカ音楽をその倍音と基調にしながら、さまざまなジャンルや音楽家の音楽に彩られた音楽を奏でる。
また、音楽を超えて「活動家(Activist)」として、アフリカの女性のエンパワーメントなどに取り組んできている。
国連の親善大使なども務めてきており、その活動の幅には驚かされる。
最も影響力のあるアフリカ人として、各紙が取り上げてきた人物だ。
2年前の2015年に、ここ香港で初めて、コンサートの舞台に立ち、その歌声を届けた。
ぼくはそれまで、西アフリカ出身のAngelique Kidjoを知らなかった。
グラミー賞など数々の賞を受賞している経歴から、「一流」の音楽に触れようと、ぼくは香港文化センターに足を運んだ。
普段はクラシック音楽が奏でられるホールに機材が置かれ、音楽と共に、Angelique Kidjoが現れる。
彼女の出で立ちは、西アフリカ(ぼくが住んでいたシエラレオネ)の女性たちを思い起こさせる。
小柄な身体から放たれる、どこまでも届くような歌声は、魂のレベルに直接に届く響きに満たされている。
小さなホールは、徐々に、彼女の歌声とアフリカダンスの世界にひたされてゆく。
事前に「音楽の予習」をしていかなかったぼくも、次第に、彼女の世界にひきこまれる。
彼女の歌声は、ほんとうに、まっすぐな歌声である。
歌と歌の間に彼女から発せられるメッセージも、まっすぐである。
そのどこまでもまっすぐな響きが、ぼくの心に矢のようにとんでくる感じだ。
しかし、彼女の「まっすぐさ」は、ただのまっすぐさではない。
いわば、言葉にしきれない苦悩と苦闘を内にする者が、あるいはそれらを乗り越えてきた者だけが放つことのできるような「まっすぐさ」である。
アフリカの「状況」を飲み下して発せられる声であり、アフリカの「語られ方」に異を唱える方法としてのまっすぐさでもある。
ぼくが感じる「アフリカ的」なものを語るならば、それは大地から発せられるような、地に足のついた声。
それは、シエラレオネの大地と人びとを、ぼくに思い出させた。
コンサートが終わって、その「熱」にうかされながら、ぼくはシエラレオネ人の友人(元同僚)にメッセージを送ってしまったほどだ。
Angelique Kidjoも、ぼくのシエラレオネ人の友人も、共に、アフリカ人女性のエンパワーメントに力を注いでいる。
コンサートも終盤、Angelique Kidjoは、観客たちを舞台に呼び寄せ、ダンスの共演空間を創りだした。
(ダンスを得意としない)ぼくは舞台には上がらなかったけれど、この光景は今でもこの身体に残っている。
Angelique Kidjoは、さらに、曲中に舞台から観客席におりて、観客の合間をかけめぐってゆく。
通路側の席にいたぼくは、運よく、Angelique Kidjoと握手を交わした。
<志の力>をいっぱいにもらったように、ぼくは感じた。
コンサートでパフォーマンスを楽しむ以上のものを、たくさん受け取ったのだ。
その受け取った「ギフト」は、彼女に出会った個々の人たちが自らの生で芽を育て、花を咲かせるような地点に向けて肩を押してゆくようなところに、Angelique Kidjoの力はある。
CDやYouTubeなどでは決して得ることのできない「体験」を、ぼくは得た。
<志の力>に、身体でふれてゆく「体験」は、なにものにも代え難いものとなった。