香港で、旅人たちの「感動」を通じて<新鮮な風景>を見る。- 「ほぼ日」の食いしん坊トリオ「カロリーメイツ」の「香港の旅」。
ある場所にそれなりに長く住んでいると、その場所の風景、またそこにあるものが「ふつう」のものとして、見えたり、感覚されるようになってしまうことがある。
ある場所にそれなりに長く住んでいると、その場所の風景、またそこにあるものが「ふつう」のものとして、見えたり、感覚されるようになってしまうことがある。
ここ香港に11年住んでいて、毎日それでもいろいろなことを見つけたり、気づいたり、驚いたりすることはあるのだけれど、他方で「ふつう」のことのようになってしまっていることもある。
もちろん、ぼくたちが生きていくうえでは、生活における多くのことやものを「ふつう」のこと(=日常)とすることで、ぼくたちの生活は成り立っていく部分がある。
つまり、あるAのことを「ふつう」としていくことで、例えば、あるBのことへと関心を注ぐことができたりする。
そんなとき、あるAのことを、「新鮮なもの」として、あるいは「違った視点」から感じさせてくれる人たちがいる。
それは、例えば、旅人たちである。
ぼくたちは、旅人たちの「視点」で、ある場所での長い生活で「ふつう」のこととなってしまっているようなことにも、新鮮な風景を見ることができる。
日本に長く住んでいれば、海外から旅行でくる人たちの「視点」で、ぼくたちは、新たな/新鮮な視点で、「ふつう」のことに光をあてることができる。
同じように、ここ香港に住みながら、ときおり訪れる旅人たち/訪問者たちの「視点」で、ぼくは「香港」の生活の驚きや感動への<光>を手にすることができる。
コピーライター糸井重里のウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」の企画のなかに、食いしん坊トリオ「カロリーメイツ」の食べ歩きの旅があり、ちょうどこのブログを書いている日にも重なる、2018年4月23日から25日までの2泊3日において、「カロリーメイツ」は、「香港の旅」に来ている。
特設サイトの冒頭には、次のように書かれている。
「ほぼ日」の食いしん坊トリオ「カロリーメイツ」(シブヤ、スガノ、タナカ)は、これまでさまざまな場所で「食べ歩き」をしてきましたが、「どこか行き忘れている場所がある‥‥。それはもしかして香港じゃない?!」と勝手に気がついて、このたび香港に行くことにしました。みなさまに教えていただきながら、香港のおいしいマップを作ることが目標。2泊3日のウキウキの旅に、いってきまーす!
こうして「香港のおいしいマップ」を作ることが目標として掲げられ、滞在期間中は、リアルタイム中継で、香港での「食べ歩き」風景がレポートされることになる。
ぼくが心を動かされたのは、この「ウキウキ」感であり、また、目標からはずれるけれど、カロリーメイツのお三方の感動がレポートを通じてあふれでており、その感動と視点が、ぼくにとっては日常である「香港」を、まるで新鮮な風景のようなものとして見せてくれることにある。
このようにして、ぼくたちは、<他者>を通じて、普段の日常の風景に、新鮮な風をふきこむことができる。
また、香港に住む(ぼくのような)人にとっても、「香港のおいしいマップ」のようなものは、いくつかのパターンを含め、持っておきたい。
著書『香港でよりよく生きていくための52のこと』(2018年)のなかで、ぼくは、その16番目に「「なんでもある香港」を堪能する」という項目を置いた。
香港は「なんでもある」場所である。
その楽しみ方の切り取り方もさまざまであり、観光で訪れる方などを案内する際に、(少なくとも)いくつかの「ルート」を持っておくことを、すすめている。
だから、「香港のおいしいマップ」は、観光で香港に行く人たちだけではなく、ぼくのように香港に住む人たちにも役に立つものである。
ところで、こんなことをかんがえていたら、カロリーメイツの香港の旅2日目において、カロリーメイツが2018年10月末で解散することが報告された。
なにはともあれ、感謝の気持ちを伝えると共に、香港の3日目最終日を楽しんでいただきたいと思う。
香港で、「清明節」に思い、感謝する。- 香港の清く、よく晴れた日に。
ここ香港は、本日(2018年4月5日)は「清明節」を迎えている。
ここ香港は、本日(2018年4月5日)は「清明節」を迎えている。
「清明節」は、いわゆる日本の「お盆」にあたる行事である。
清明節は旧暦の3月に到来し、香港の人たちはこの機会に墓地におとずれ、「清明」という漢字に表されているように、祖先の墓を掃除する。
清明節の当日はもとより、その前後の日に、お供え物などを入れた赤いプラスチック袋を手に提げながら、家族一緒に、墓地に歩いてゆく人たちを目にする。
香港の、清く、よく晴れた日に。
香港政府観光局のホームページには、「清明節」は以下のように記載されている。
…この時期、中国の人は祖先の墓を掃除します。でも掃除だけで終わりません。清明節は祖先を敬う重要な儀式なので、家族全員で墓地の草むしりをしたり、暮石の碑文を塗りなおしたり、食べ物をお供えしたり、お香をたいたりします。
清明節の時期は伝統的に、先祖があの世で使うとされているものの紙のお供え物を多くの人が墓地で燃やします。…
「清明節」、香港政府観光局ホームページ『香港 Best of All It’s In Hong Kong』(日本語)
「紙のお供え物」は、お金を模したものであったものが、最近では時代を反映して、携帯電話・タブレット、車、冷蔵庫などの紙のレプリカがある。
時代の反映のされ方は興味深いものだけれど、このような伝統的な行事が今も大切にされていることに、ぼくは目を惹かれる。
そしてそこには「家族」が、現代という時代の荒波にありながらも、きっちりと土台をなしていることに感銘をうける。
日本のお盆とは異なる時期だけれど、清明節の、香港の人たちの行き交う姿に触発されて、ぼくも祖先や家族に思いをはせる。
そのような思いはいつしか、このぼくの身心に受け継がれているものへと向けられる。
リチャード・ドーキンスの言うような「利己的遺伝子」の視点から見れば、人は遺伝子にとっての「乗り物」である。
遺伝子は過去から現在に至るまで、長い旅を続け、ぼくという身体に至っている。
その意味において、祖先は、ぼくのなかに息づいている。
そしてまた、人の身体は、真木悠介の書くように、さまざまな生物たちの<共生のエコ・システム>である。
…今日われわれを形成している真核細胞は、それ以前に繁栄の極に達した生命の形態による地球環境「汚染」の危機をのりこえるための、全く異質の生命たちの共生のエコ・システムである。…
われわれ自身がそれである多細胞「個体」の形成の決定的な一歩は、みずから招いた地球環境の危機に対処する原始の微生物たちの共生連合であり、つまりまったく異質の原核生物たちの相乗態としての<真核細胞>の形成である。この<真核細胞>が、相互の2次的な共生態としての多細胞生物「個体」の、複雑化してゆく組織や器官の進化を可能とする遺伝子情報の集合体となる。個体という共生系の形成ののちも、その進化的時間の中で、それは数知れぬ漂泊民や異個体からの移住民たちを包容しつつ変形し、多様化し豊饒化しつづけてきた。「私」という現象は、これら一切の不可視の生成子たちの相乗しまた相剋する力の複合体である。
真木悠介『自我の起原』岩波書店
ぼくたちを構成する細胞もまた、太古の昔から進化的時間の中をぬけながら、今のぼくたちに引き継がれてきているものである。
地球のいろいろな生命たちのリレーのうちに、今のぼくがいる。
地球のいろいろな生命たちも、ぼくにとっての祖先である。
そう書きながら、「生命」が、「清明」という言葉と同じ響きであることに気づく。
「生命」は、清明節の字と同じように、<清く明るい>ものである。
いろいろな生命たち、そして祖先に深謝しつつ、いろいろな生命や祖先から受けつがれているこの身体に、ぼくは深く感謝をする。
香港の、清く、よく晴れた日に。
香港で、鳥たちと共に、生きる。- ぼくの住まいに、鳥が訪れた日。
香港には、どのくらいの種類の「鳥たち」がいるのだろうか、この土地で生を共にしているのだろうか?
香港には、どのくらいの種類の「鳥たち」がいるのだろうか、この土地で生を共にしているのだろうか?
香港政府のサイト「HK Species: Birds of Hong Kong」(Agriculture, Fisheries and Conservation Department)によれば、530種類以上の鳥たちが、ここ香港にはいる。
他の土地と比較するための数値が頭のなかに入っているわけではないから、これが比較的多いのか、少ないのかはわからない。
中国全体で見ると、その3分の1の種類がここ香港で見られるというから、その視点においては多い。
大切な視点は、ぼくが普段目にする鳥たちの種類と比較すると、それは圧倒的に多いということである。
大切な視点ということは、ぼくが知らないことが、知らない現実が、たくさんに存在しているということ。
「知らないこと」を知ることは、ぼくはとても大切なことだと思う。
じぶんが今まで見てきた「世界」がとても小さいことを知る。
ぼくがこのじぶんの眼で実際に確認してきたのは、ここ11年間で、おそらく10前後くらいの鳥たちだと思う。
だから、530種類を超える鳥たちがここ香港にいるということは、ぼくにとっては驚きである。
ところで、そもそも鳥たちにかんするホームページを開いたのは、こんな事情があった。
ぼくが文章を書いていたら、鳥の鳴く声が近くでしていることに気づく。
鳥たちの声は一日を通してよく聞こえてくるから、そのことは特にめずらしいことではない。
ただいつもと違っていたのは、その鳥の鳴き声がいくらか続き、そしてとても大きい鳴き声であったことだ。
そこでふと窓越しに外を眺める。
ぼくの眼に入ってきたのは窓の外の柱のあたりから垂れている茶色の大きな羽で、鳴き声とともに、その羽がかすかにゆれているのだ。
あっと、ぼくは目をみはる。
羽の大きさから、タカ科の鳥だろうと思う。
毎日悠然と空を飛んでいる姿を、ぼくはよく眺めているから、とっさにそう思う。
やがて、その鳥は鳴き声をあげながら、空中に向かって、羽を羽ばたかせてゆく。
ぼくは、タカ科のトビ(だと思われる)が飛んでゆくその光景に、心をうばわれてしまった。
香港には、いたるところに「バードウォッチング(野鳥観察)」のポイントもある。
たくさんの鳥たちが香港に住んでいたり、あるいは季節に応じてやってきては去っていく。
そのような視点から「香港」を見ることも面白いし、また、ぼくたち人間は、たくさんの鳥たちを含め、たくさんの生き物たちと共に生きていることを感じることができる。
それは、鳥たちが、ぼくという<私>という経験の一部をつくっていることであり、河合隼雄の言葉を借りれば、「<私>をやってくれている」のでもある。
香港で、ポピュラーな「日本食」をかんがえながら。- 「日本食」(例えば、とんかつ)の歴史を学ぶ。
香港で、ポピュラーな「日本食」を思い起こしてみる。
香港で、ポピュラーな「日本食」を思い起こしてみる。
特定の店の特定のメニューのようなものではなく、一般的な市民権を得ているものとしては、(ぼくの限定的な観察と感覚をもとに)挙げるとすれば、以下の日本食が挙げられる。
● 寿司(また刺身)
● ラーメン
● うどん
● とんかつ
この他にも、カレー、しゃぶしゃぶ、牛丼、焼き鳥、抹茶などがあるけれど、例えば牛丼は圧倒的に吉野家であったりして、多様なひろがりなどを考慮していくと、例えば、上記のような日本食が挙げられる。
また、インスタント麺の「出前一丁」は、一般的な市民権ではなく、特別な市民権を獲得している。
さらに、ここでは「お菓子」類は入れていないけれど、どこに行っても、日本のお菓子(ポテトチップスからポッキーまで)であふれている。
ぼくが小さい頃からあった、チロルチョコやアポロ、うまい棒だって、家のすぐ近くで買うことができる。
このようにして、日本食は、香港の至るところで、さまざまな形で見ることができるし、もちろん食べることができる。
現在的な香港では、「肉」and/or「揚げ物」という組み合わせは好まれるようで、香港でも好まれる「とんかつ」にぼくは興味をもち、そもそも「とんかつ」って何だろうと疑問がわく。
ぼくは肉と揚げ物は探し求めるほど積極的に食べないけれど、「とんかつ」というものに、ぼくは関心を抱いてきた。
香港に来てからのことである。
柳田國男の著作『明治大正史:世相篇』(講談社学術文庫)のなかに、「肉食の新日本式」という項目が立てられ、柳田國男は「肉食率の大激増」などにふれている。
…われわれは決してある歴史家の想像したように、宍(しし)を忘れてしまった人民ではなかった。牛だけははなはだ意外であったかもしらぬが、山の獣は引き続いて冬ごとに食っていたのである。家猪(ぶた)も土地によっては食用のために飼っていた。…ただ多数の者は一生の間、これを食わずとも生きられる方法を知っていたというに過ぎぬ。だから初めて新時代に教えられたのは、多く食うべしという一事であったとも言える。…
柳田國男『明治大正史:世相篇』講談社学術文庫、1993年
柳田國男の記述は、肉料理の詳細にまでふれているわけではない。
そこで手にしたのが、岡田哲『明治洋食事始め:とんかつの誕生』(講談社学術文庫)で、「とんかつ」そのものに焦点を当てながら、しかし「明治の洋食」という大状況を捉えている著作である。
岡田哲は、柳田國男の著作からもいろいろと着想を得ながら、牛肉の料理である牛鍋やすき焼き、それから1887年に牛丼の元祖である牛飯屋の出現などを詳細に追っている。
これらの詳細はそれぞれに興味深い研究と視点を提示しているけれど、ここでは、「とんかつ」がつくられる歴史の結論的流れにだけ、ふれておく。
…「とんかつ」がつくられる歴史は、一つのドラマを構成している。1872年(明治五)に、明治天皇の獣肉解禁があり、1929年(昭和四)に、とんかつが出現するまで、六〇年近い歳月が流れている。すなわち、牛鍋がすき焼きにかわる頃から、庶民の肉食への抵抗が揺らぎはじめていた。その後六〇年をかけた先人たちの努力の積みかさねにより、日本人好みのとんかつができあがった。…
岡田哲『明治洋食事始め:とんかつの誕生』(講談社学術文庫)
このドラマの結論的なこととして、岡田哲は、次のようなドラマの筋を挙げている(前傾書)。
① 牛肉から鶏肉、そして豚肉への変遷
② 薄い肉から分厚い肉への変遷
③ ヨーロッパ式のサラサラした細かいパン粉から、日本式の大粒のパン粉への変遷
④ 炒め焼きからディープ・フライへの変遷
⑤ 西洋野菜の生キャベツの千切りを添える
⑥ 予め包丁を入れて皿に盛る
⑦ 日本式の独特なウスターソースをたっぷりかける
⑧ ナイフやフォークではなく箸を使う
⑨ 味噌汁(豚汁・しじみ汁)をすすりながら食べる
⑩ 米飯で楽しむ和食として完成する
この変遷が、前述のように、六十年をかけてなされていく。
こうして、岡田哲はこれらをたんねんに見ながら、日本の食文化の核心にせまっていく。
これまで当たり前のように食べてきたもののルーツを辿っていく。
日本にいたときはそれほどその「ルーツ」に興味はわかなかったけれど、海外に住んで、海外でいわゆる「日本食」の受容のされ方を観察したりしているうちに、ぼくは「ルーツ」を知りたくなった。
「とんかつ」はどのようにして、今ここ(香港)にあるのだろうか、と。
じぶんの生きてきた日本文化も説明できないようでは、という思いもある。
そして、柳田國男や岡田哲の著作に目を通しながら、「じぶんは何も知らないじゃないか」と、思ってしまう。
「なんでもある」香港で、じぶんの体験の「なんでも」を整理する。- 「オンラインガイドブック」(香港政府観光局)。
「なんでもある香港」を堪能すること。
「なんでもある香港」を堪能すること。
著作『香港でよりよく生きていくための52のこと』における、52のことのうちのひとつとして、ぼくは、そのように書いた。
香港にはなんでもある。
観光はもとより、香港で生活をしていくうえでは、この「なんでもある香港」を楽しむことができる。
香港に2007年の春に来てから、まもなく11年となる。
この11年のなかで「なんでもある香港」での体験をかさねてきたのだけれど、この香港の「なんでも」を整理してみようと、「香港政府観光局」のホームページサイトをひらく。
香港政府観光局のアプリはときどき使っていて、ホームページサイトはたまに参考にするくらいだけれど、以前、そこに電子の「ガイドブック」があったのを覚えていたからだ。
「オンラインガイドブック」(日本語版)として、以下のガイドブックがアップされており、手にいれることができる。
● 香港公式ガイドブック
● オールド・タウン・セントラル街歩きガイド
● 香港ハイキング&サイクリングガイド
● 香港ハイキング&サイクリングガイド(2017年版)
もちろん、英語版も英語のサイトに切り替えれば、手にいれることができる。
香港の多様性をうかびあがらせるような表紙デザインいずれものガイドブックも、「ガイドブック」という名前が示すように、いわゆる「旅のパンフレット」の域を超える内容でつくられている。
これほどの内容が、(このサイトの情報を知っていれば)こうしてサイトから簡単にダウンロードできること、それも日本語のものが揃っていることに、ぼくは個人的な驚きを得る。
なお、「香港公式ガイドブック」は日本語のみで、英語版は「BEST IN HONG KONG: A TRAVELLER’S GUIDE」というものがあり、日本語版をはるかに超える180頁越えの内容となっている。
英語サイトでは、「Hong Kong x Cruise」のガイドブック(兼広告)もある。
これらのページをめくりながら、ぼくは、まだ体験していない/行っていないところなどを確認していく。
それにしても、「オールド・タウン・セントラル街歩きガイド」と「香港ハイキング&サイクリングガイド」は、ぼくが来た11年前にはなかったものである(と思う)。
前者が対象とする、香港島の中環(セントラル)の一帯は、ビジネス街である一方で、指摘されるように「歴史やアート、グルメや文化」がひろがる場所である。
近年は特に、中環(セントラル)の隣りの「上環」にまで至る一帯に、「アート」の空間をつくりだしてきている。
また、後者は、「ハイキング&サイクリング」とある通り、「自然」、また「身体を動かすこと」である。
これら、「アート」「自然」「身体を動かすこと」は、2010年以降くらいからの、香港における「活動」の潮流をそのままあらわしている。
経済発展を主旋律としながら、香港という社会と人びとの磁場のなかにつくられてきた、あるいは押しだされるように立ち上がってきた活動たちの諸相である。
そのような側面を、香港政府観光局のサイトの「ガイドブック」を見ながら、また「なんでもある香港」の「なんでも」を整理しながら、ぼくはかんがえる。
香港で、「海景」をきりとってみる。- 写真家・杉本博司の「海景」の想像力と視力にあこがれながら。
香港の風景は、「霧」に包まれている。霧が風景を覆い、窓から見渡す限り、霧である。
香港の風景が、今日は濃い「霧」に包まれている。
霧が風景を覆い、窓から見渡す限り、霧である。
湿度もいっぱいに上がり、ときおり、霧に混じるようにして小雨がちらつく。
香港島と九龍側を隔てる海域も霧がたちこめ、ときに、いつもはすぐそこに見える風景が見えない。
そんな海を見ていると、そこは海岸線の涯てのようだ。
海上にたちこめる霧の先には、ただ、広い海原がひろがっているような感覚がどうしても、ぼくから離れていかない。
そのような風景にカメラを向けたときに思い出したのは、写真家の杉本博司の写真である。
杉本博司は、1970年代にアメリカ、そしてニューヨークに移り、写真家としての道をあゆんでいく。
杉本博司の作品群のなかに「海景」のシリーズがあり、そのミニマルだけれど、どこか人の深いところとつながるような写真は、ぼくの深いところをうつ。
杉本博司の写真集『海景』に掲載される、見田宗介の文章は、1976年のニューヨークで、偶然のようなことで初めて杉本と出会った見田宗介の回想がのせられている。
当時はまだ若く貧しく無名の杉本博司は、倉庫を改造したような建物に住んでいたのだという。
建物と外をつなぐ階段はコンクリートの打ち放しのものだけれど、杉本博司はそのコンクリートに、ふつうの人はみないものをみていたことを、見田宗介は思い起こしている。
…階段のコンクリートの水やひび割れの作る微細なしみたちをよく記憶していて、いろんな生命や静物の饗宴をそこに見ていた。とりわけお気に入りの立派な馬がいて、下の階からの踊り場を曲がる以前から、あそこには馬がいるのだと予め高揚していた。…その反還元的情熱は、この時代までのニューヨークの前衛のコンテンポラリーを志向するアーティストたちとは異質のものだったと思う。むしろ天空のランダムに散乱する星たちの中に、馬だの射手だの楽器だのの饗宴を見る文明の原初の人々の想像力に近いものだった。…
見田宗介「時の水平線。あるいは豊饒なる静止」『定本 見田宗介著作集Ⅱ』岩波書店
霧がいっぱいにはる香港の海を見ながら、そこには饗宴という名の物語が生まれてくるような予感をいだきながら、ぼくはカメラを海に向けた。
そうして、ぼくは、香港の「海景」を写真できりとってみる。
杉本博司の写真集『海景』シリーズのモチーフは、「原始人の見ていた風景を、現代人も同じように見ることは可能か」という自問であったという。
<原始人の見ていた風景>という、魅力あふれるイメージと想像力は、<打ち放しのコンクリートの階段に饗宴を見る視力>の戯れである。
このような想像力と視力に、ぼくは、あこがれる。
香港で、「箸の置き方」をかんがえる。- 「縦向きに置かれる箸」に文化と歴史を見る。
香港で、広東料理などのレストランに行くと、テーブルには箸(はし)が二膳、縦に置かれる/置かれている。
香港で、広東料理などのレストランに行くと、テーブルには箸(はし)が二膳、縦に置かれる/置かれている。
二膳の箸はそれぞれ色が異なっている。
外側のある箸は大皿から料理を取り皿に取るためにあり、内側に置かれた箸で料理をじぶんの口に運ぶ。
それぞれの料理ごとに取り箸があるのではなく、それぞれに置かれている方式は、それはそれで合理的かつ便利でもあって、その方式にすっかりぼくは慣れてしまっている。
ただ、そもそも箸は、なぜ「縦に置かれる」のかということについては、箸が日本で使う箸よりも長いことから、あまり気にしていなかった。
張競の著書『中華料理の文化史』(ちくま新書、1997年)を読んでいたら、第六章が「箸よ、おまえもかー宋元時代」と題されていて、「箸はなぜ縦向きに置くのか」ということが追求されている。
日本では箸を横向きに置く。
香港も、中国本土も、箸は縦向きに置かれる。
この「違い」の起源に、張競は仮説をたてながら、研究をすすめていったという。
箸はそもそも中国から日本に伝わってきたものであり、そこから考えると、なぜ日本人は箸を「横に置いた」のか、というように問いが立てられる。
しかし、張競はこれとは逆に、「日本で箸を横向きに置くのを見て、中国も古代はそうだったかもしれない」(前掲書)というように、仮設を立てる。
文献調査をあきらめていたところ、張競の調査研究の道をひらいたのは、「壁画」であった。
唐代の壁画が見つかり、宴会の場面にて、箸が「横向きに置かれている」ことを、張競はいくつかの壁画から確認することで、少なくとも唐代までは中国も箸を横向きにおいていたことを確証する。
そうだとすると、いつから、横向きに置く箸は縦向きに置かれるようになったのか、またその契機はなんであったかが問われてくる。
張競はさらに壁画や絵巻などを調査研究するうちに、宋代、遅くとも元の時代には、箸を縦向きに置くことは定着していたと考えられるという。
それではその「契機」として、張競が着目しているのは、唐と宋の時代のあいだに位置する「五代十国の激動の時代」である。
その時代には、北方の騎馬民族がやってきては、王朝を打ち立てていった。
これら民族は、肉を主食とし、「ナイフ」を使う。
食事のときには、ナイフは刃先をじぶんとは逆の方向に、縦向きに置くことになる。
その際に、皇帝をはじめ騎馬民族の高級官僚は無意識のうちに、箸を縦向き置いたのではないかと、張競は書いている。
「中国ではもともと箸は横に置かれていたこと」、また「箸を縦向きに置くようになったこと」にかんする時代の特定(宋代)は、壁画や絵巻などから確証できるものでありながら、ナイフの置き方に影響されたという「契機」については、張競の推測が入る。
それでも、この変遷と現代への文化のつらなりは、興味をひくものである。
また、張競は、箸だけでなく、「椅子とテーブル」の使用についても視点をひろげていき、壁画や絵巻などから見ると、宋代のはじめにに現在とほとんど変わらないような状況になったことを突きとめている。
いつも見ているテーブルの風景が、このようにちょっとしたことで、色合いが変わってくる。
なんでもない風景が、意味と物語を帯びてくる。
また、そのようなちょっとした視点が、箸だけではないものに飛び火して、好奇心の光源がひかりだしてくる。
異文化という異なる空間(地理)と文化のつらなり、またそこに積みかさなっている時間(歴史)を感じる。
とにかく、やってみること。- Kindle電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)を発行して。
先日(2018年1月29日)に、アマゾンKindleでの電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)を発行した。...Read On.
先日(2018年1月29日)に、アマゾンKindleでの電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)を発行した。
「香港で、彩り豊かな「物語」を生きる。」と表紙の帯に掲げたように、香港という人生の舞台で、この本を読んでくださる方々が(そしてこの本を読まれない方々も)、彩り豊かな生を生きていってくださればと思いながら、ぼくは書いた。
「香港」ということで書いたものだけれど、それは、少し掘れば「海外での生活」ということになるし、さらに掘れば「この世界」ということを明確に意識しながら、書いた。
そして、この世界で生きることは、もちろんぼくにとって「現在進行形」である。
とにかく、やってみること。
今回の「プロジェクト」において、これは、やはり大きなことであったと、ぼくは思う。
電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』の構想から執筆、数えきれないほどの書き直し、アマゾンにおける出版プロセスなどの一連の仕事。
その過程における、数多くの学びと気づき。
プロジェクトプランの大切さ。
編集ということの大切さと困難と深さ。
アマゾンでの出版の仕組みと、新しい時代の足音。
その全行程における、仲間からの励ましのありがたさ。
このようなことは、やはり、やってみなければわからない。
もちろん、ぼくの「仕方」は、ありうる仕方のひとつにすぎない。
その意味において、ぼくはぼくの経験があらゆることにあてはまることなど、まったく思わない。
ただし、それでも、やってみることの大切さがあるし、なによりもこの「やること」それ自体が生きるということである。
「だれでも出版はできる」という言葉は一面の正しさをもちつつ、しかし、やはりそうすんなりといくわけではないことも、この一連のプロセスを経るなかで、ぼくは感じてきた。
このことは、またどこかで書きたいと思うけれど、「とにかく、やってみること」は、すべての人ができるわけではないこととも、つながっているようなトピックでもある。
また、「だれでもできる」としても、「よりよく」できることは、まったく異なる次元のことでもある。
「できる」から「よりよくできる」の間の<断層>の大きさにも、ぼくは愕然とした。
こんなことも、やってみることではじめて、身体で感じることができた。
この世を去る方々が、なくなる直前に、「あれをやっておけば、という後悔だけはしないこと」という、ほんとうに深い、本質をつくメッセージをぼくたちに届けてくれている。
この「助言」は頭ではわかっても、「やってみること」ができない人たちも多い。
ぼくは、この助言に、ただただ導かれている。
これからも「やってみること」をつみあげていきたい。
そうして、ぼくが将来、「この世」を去るときには、「あれをやっておけば、という後悔だけはしないこと」というメッセージを語っているだろう。
そんな「物語」を、ぼくは紡いでいる。
Kindle電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)。- 香港で、彩り豊かな「物語」を生きる。
ぼくのアマゾンKindleでの電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)が、2018年1月29日(香港・日本では1月30日)に発行された。...Read On.
ぼくのアマゾンKindleでの電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)が、2018年1月29日(香港・日本では1月30日)に発行された。
香港にこれから住む方、香港に現在住んでいる方/以前住んでいた方、香港に興味のある方に向けて、「香港でよりよく生きていくため」のヒント集である。
「ヒント」と言っても、そこに「答え」があるわけではない。
ここ香港で10年以上(まもなく11年)にわたって生きてきたなかで、ぼくが、観察し、考え、行動し、議論し、学んできたことなどのエッセンスを凝縮して、まとめた本である。
このブログとは別に、形式や文体も変えて、書いた52項目。
あくまでも、限られた視点でしかない。
書き始めたのはちょうど1年ほど前のこと。
ドラフトを一気に書いて、寝かせて、直して、しばらく置いて、直してということを、幾度も幾度も繰り返す。
ときには、書いたものを「捨て」て、新たに書き直す。
その間も香港での生活(観察と行動)は続き、またブログも書きながら、気づいたことを反映させ、項目間の整合性をつけ、また用語を直す。
ぼくにとって大切な人たちが「進捗」を時折確認してくれることに励まされながら。
書き始めて1年だけれど、この文章と内容に至るまでに、42年かかった。
もちろん、「すべて」を書いたわけではない。
「書くこと」自体が、無限の事象と心象の一部をすくいとる行為でもある。
書くことは生きることのただ一部である。
それでも、あくまでもぼくにとっては、42年という「時間」とその間に移動したいろいろな場所という「空間」を凝縮して、その一部を言葉にした。
言葉として浮かびあがってきたことのひとつが、「物語」であった。
人が生きるということは、物語を生きるのだということ。
香港であれば、<香港ライフストーリー>を、ぼくたちは生きる。
だれもが、「物語」を生きる。
そして、本を書き、Kindleで発行し、いろいろな人たちに共有するとプロセスそれ自体が、「物語」に彩られているのだということを、ぼくはあらためて感じている。
それにしても、香港で、東ティモールで、西アフリカのシエラレオネで、ニュージーランドで、アジア各国で、東京で、浜松で出会ってきた方々のことを思い出していたら、「感謝」はお会いした人たちすべてにお伝えしなければと、思ってやまなくなってしまった。
ここでも、ブログを読んでくださっている方々を含め、深く深く感謝させていただくことで、今日のブログを閉じたいと思う。
香港で、波が打ち寄せる「音」で、耳がひらかれる。- 波音が送ってくれた<小さなアラート>。
予期せぬところから、波が打ち寄せる「音」が聞こえてくる。人工的につくられた海岸通りをゆっくり走り、立ち止まったときのことであった。...Read On.
予期せぬところから、波が打ち寄せる「音」が聞こえてくる。
人工的につくられた海岸通りをゆっくり走り、立ち止まったときのことであった。
積み上げられた巨大な石たちに、小さな波がぶつかる音だった。
よく来る場所であったけれど、これまでは、ぼくの耳には聞こえていなかったようだ。
それは、とても新鮮な響きであった。
ある種のリズムがありながら、しかし、波が石たちにぶつかり散開する音は一定ではない。
家で蛇口をひねって出てくる水の「一定の音」とは異なり、そこには、自由に散開する響きがあった。
その異なりに、新鮮な驚きを覚え、心が動かされた。
10年以上前に、東ティモールの海岸線で聴いていた波の音が思い出された。
思想家の内田樹は、「自然が教えてくれるもの」という問いにたいして、定型的ではない私見を提示している。
…自然から子どもが学ぶ最大のものは私見によれば「時間」である。…
都会にいるときに不快を減じるために時間をできるだけ切り縮めようとするのとはちょうど逆に、自然の中にいるとき、私たちは空間的現象を時間の流れの中で賞味することからできる限りの愉悦を引き出そうとする。
私たちが雲を観て飽きることがないのは、…それが「今まで作っていた形」と「これから作る形」の間に律動があり、旋律があり、階調があり、秩序があることを感知するからである。…
海の波をみつめるのも、沈む夕日をみつめるのも、…すべてはそこにある種の「音楽」を私たちが聴き取るからである。
その「音楽」は時間の中を生きる術を知っている人間にしか聞こえない。
自然に沈潜するというのは「そういうこと」である。
内田樹『態度が悪くてすみませんー内なる「他者」との出会い』角川oneテーマ21
都会の子どもたちは、管理された閉鎖空間の中で「時間意識」を損なっていくことに触れながら、内田樹は、「万象を『音楽』として聴くこと」へと誘う自然の中での生活を語っている。
波が打ち寄せる音と小さな波が散開する動きに、ぼくは「時間」の流れを賞味し、そして「音楽」を聴き取っていたということになる。
その瞬間に、五感はいつもとは違う仕方で、ふと、ひらかれたのだろう。
意識的にケアしないと、都会的な空間のなかで感覚が減じられ損なわれていってしまうことを、あらためてぼくに感じさせる。
感覚が減じられ損なわれた身体は、他者の声にならない声、メッセージにならないメッセージをうまく聴き取れない。
香港で、人工的な海岸の石たちに寄せる小さな波音は、そのような<小さなアラート alart>を、ぼくに送ってくれた。
香港で、新年(1月1日)を迎える。- 「生ききる」ことへ照準をあわせながら。
香港で、新年(1月1日)を迎える。昨日までの青空と暖かさ(20度を超える暖かさ)が遠のき、かすみがかり少し冷たい風が肌をさす1月1日となった。...Read On.
香港で、新年(1月1日)を迎える。
昨日までの青空と暖かさ(20度を超える暖かさ)が遠のき、かすみがかり少し冷たい風が肌をさす1月1日となった。
香港でも1月1日は「祝日」となっている。
しかし、2日からは社会はいつも通り動き出す。
1月1日だけが「祝日」で、年末も年始も、いつも通りである。
正月のお祝いは、1月1日ではなく、「旧正月」になされるからだ。
1月1日は旧正月の足音が聞こえはじめるときである。
香港で迎える1月1日が11回目のぼくは、この事情に一方で慣れながらも、他方で「文化の交差点」における不思議な時間・空間感覚を今でもおぼえる。
新年1月1日は、それでも「Happy New Year」の言葉が交わされる、お祝いのときだ。
ビクトリア湾では12月31日の深夜に恒例の花火が打ち上がり、多くの人たちが2018年の到来を祝った。
ぼくの住んでいるマンションの入り口では、「Happy New Year!」と、レセプションの方が声をかけてくれる。
ぼくも「Happy New Year」と英語でかえす。
それはぼくにとって、世界で今ここに共に在ることへの感謝の気持ちだ。
「現実」に向き直ると、そこには数々の困難と挑戦がぼくをとりかこんでいる。
でも、困難も挑戦もひっくるめて、生きるということの充実さはある。
2018年も、「生ききる」というところに、ぼくは照準をあわせながら、ここ香港で、1月1日を迎えている。
香港で、クリスマス後の「適度なにぎわい」のなかへ。- 年末の香港の街を歩く。
「香港のこの時期は街がしずかで、気候もちょうどよくて、1年で一番好きな時期なんだ。だから年末年始は香港を出る予定はないよ」。...Read On.
「香港のこの時期は街がしずかで、気候もちょうどよくて、1年で一番好きな時期なんだ。だから年末年始は香港を出る予定はないよ」。
香港人の知り合いが、クリスマス後の、(香港においては)しずかな街を歩きながら(英語で)語る。
確かにこの時期は、香港の街がいつもよりしずかになる。
毎年1月あるいは2月頃に迎える「旧正月」もしずかになるけれど、店がほぼ閉まってしまうので、外食や買い物などにおいては不便になる。
旧正月の時期に比較し、この時期は街はいつも通りそこにある。
食事に出かけることもできるし、買い物もできる。
この時期はだから「適度なにぎわい」に包まれる。
相変わらずいっぱいの人たちでにぎわう場所もたくさんあるけれど、この「適度なにぎわい」は、「転がる香港」(星野博美)にあっては貴重なひとときだ。
香港の街が、違った風景に見えてくる。
小林一茶の有名な俳句「古池や蛙飛び込む水の音」が、水の音にたくして「しずけさ」をうかびあがらせるのとは逆の仕方で、香港の「適度なにぎわい」(しずけさ)は、香港の「いつもの躍動感のある混沌としたにぎわい」をうかびあがらせるように、ぼくには見える。
気候も(時にとても寒くなることもあるけれど)過ごしやすくもなる。
2017年はクリスマス前から年末にかけて、15度から20度の気温で推移している。
知り合いの香港人が語るように、ちょうどよい気候ではある。
夏の蒸し暑さでもなく、寒すぎもせず。
だから、「同感だよ」と、ぼくは知り合いの香港人に同意してしまう。
それから、そこに「年末年始」という独特の雰囲気が重なる。
冬至からクリスマス、そして新年の挨拶を一緒にしたような「Season’s greetings」という仕方で、人と人との「つながり」に感謝する。
クリスマス後の最初の平日(ボクシングデー)の夜、「適度なにぎわい」に包まれ、ひとときのしずかな装いをみせる香港の街の一角を歩きながら、ぼくはそんなことを考える。
香港で、クリスマスをむかえて。- 多様性に彩られる「香港のクリスマス」。
香港で、11回目(11年目)のクリスマスをむかえる。香港の街は、すっかりとクリスマスの衣をまとい、冬至を越し、新しい年へ向かう雰囲気をつくっている。...Read On.
香港で、11回目(11年目)のクリスマスをむかえる。
香港の街は、すっかりとクリスマスの衣をまとい、冬至を越し、新しい年へ向かう雰囲気をつくっている。
「香港のクリスマス」という視点の立て方は、それがどういうものかをひとことで語るのは、なかなかむずかしい。
「クリスマス」というものが、街の飾りや商品や語りのなかには厳然と存在しながら、やはり「香港」という場所の多様性のために、語ることがむずかしい。
香港の英字紙「South China Morning Post」は、2017年クリスマスの前の週末を「Hong Kongersがどのように過ごしたか」という記事を24日付で掲載している(*参照記事はこちら)。
そこで取り上げられているのは、例えば、次のようなものだ。
● コンサート
● 食品市
● 抗議行動
● 香港からの/への人の動き
● 行政長官の挨拶
「香港からの/への人の動き」においては、23日の土曜日だけでも、69万3千人が香港を離れ、49万3千人が香港に到着したという。
香港に住んでいる人も、旅行者も入っているので一概には言えないけれど、香港の人口が740万弱であることを考えると、「香港」という場を起点にして、ほんとうに多くの人が動いていることがわかる。
「香港」の境界線において発生している多様性。
また、「香港」の内も多様性に満ちている。
いろいろな国や文化の人たちという「横の多様性」、また階層的な社会構造にあるような「縦の多様性」がある。
さらには、そこに「時間軸」を組み合わせると、時間の進み方の速さが加わり、いっそう、香港の多様性を増している。
それらの多様性が、この香港という小さな場所に凝縮されている。
凝縮されているからこそ、その様相と体験がよりオープンに、目の前で展開される。
ローカルな雰囲気のショッピングモールを歩きながら、文房具店で子供に小さなプレゼントを買う人を見る。
近くのモダンなショッピングモールでは、おしゃれなレストランで、クリスマスディナーを楽しむカップルや家族がいる。
海外から出稼ぎできているヘルパーの人たちがクリスマスデコレーションを背景に写真をとっている。
そんな「いろいろ」な風景が香港である。
そんなことを考えながら、耳から、麻雀(マージャン)の音が聞こえてくる。
麻雀牌をかきまわす音だ。
近所宅に人があつまり、麻雀をしている。
麻雀をしながら、広東語での会話がとぎれることなく続いているようだ。
クリスマスの麻雀の音も、ぼくのなかに「香港のクリスマス」として、刻印されている。
香港で、冬至節(Chinese Winter Solstice Festival)をむかえて。- 「湯圓」を食べながら。
2017年12月22日は冬至(Winter Solstice)にあたり、ここ香港では「冬至節」ということで、多くの家族がこの機会にあつまり、夕食を囲む。...Read On.
2017年12月22日は冬至(Winter Solstice)にあたり、ここ香港では「冬至節」ということで、多くの家族がこの機会にあつまり、夕食を囲む。
香港の休日に関する法律では休日ではないけれど、香港の雇用法(雇用条例)においては、使用者側の選択により、この日を法定休日とするかあるいは「クリスマス」を法定休日とするかを決めることができるようになっている。
多くの企業などでは、クリスマスを法定休日とするから冬至節は休みにならないが、香港の慣習により、仕事に支障がなければ仕事を早めに切り上げることができるようにしていたりする。
それだけ大切な日である。
早く家に帰ったりレストランにくりだして、家族たちと食事を共にする。
冬至は、知られているとおり、一年で昼の時間がもっとも短くなる。
冬至の起源は、生きることのバランス・調和に関する、中国の「陰と陽」の概念にある(※参照:Discover Hong Kong)。
昼がもっとも短くなる冬至は「陰」(暗闇・冷たさ)の力を極めるが、そこを境にして「陽」(光・暖かさ)に開かれていく日にあたる。
この日に家族があつまり、食事を共にする、家族にとって一年でもっとも大切な日のうちの、ひとつである。
上述のように、香港では、仕事を早めにきりあげて、家族があつまるのだ。
習慣として、「湯圓」(もち米で作った団子の入った甘いスープ)を食べたりする。
その発音の仕方である「tongyuen」が、「reunion、再会」と似ているからという。
「大切さ」を尊重して、夜、デザート店に「湯圓」を食べに立ち寄った。
午後10時に近い時間にもかかわらず、多くの人たちで席が埋まり、多くの人たちがテイクアウトをするために店頭に並んでいた。
家族たちがこうしてあつまる機会は、ふつうにいいな、と思う。
別にそれが冬至に限られたことではないし、冬至のような特別な日に限るのもよくないけれど、それでも、そのような日があって、みんながあつまる。
シンプルにそれはいいなと、ここ香港のそんな風景を見ながら、ぼくは感じるのであった。
香港で、「寒冷天気警報(Cold Weather Warning)」が発出される「寒さ」をむかえて。
香港もようやく「寒く」なりはじめて、香港天文台(気象庁にあたる)は12月半ばにして初めて、「寒冷天気警報(Cold Weather Warning)」を発令した。...Read On.
香港もようやく「寒く」なりはじめて、香港天文台(気象庁にあたる)は12月半ばにして初めて、「寒冷天気警報(Cold Weather Warning)」を発令した。
しかし、気温は低くても11度前後で推移し、世界的に見たら「寒い」と言うにはおよばないけれど、香港に長く住んでいると、これはこれで寒い。
ただし、この寒さも数日続いてから緩和し、クリスマス頃は15度から20度くらいとなるようだ。
このくらいの気温の範囲であると、行き交う人びとの装いはさまざまだ。
一方でダウンジャケットを着る人たちがいれば、他方でシャツだけを着ているような人もいる。
世界のさまざまな地域から人が集まるところでもあるので、「寒さの基準」が一様でない。
寒さに対処するにおいても、香港天文台や周りにあわせていくのではなく、じぶんの「基準」をつくっておかないと、たちまち体調を崩してしまう。
寒く感じることの理由のひとつは、暖房があまりなく(街中ではほとんどなく)、冬でもエアコンの冷たい空気が、空気の流れをよくしていることだ。
「香港のエアコンディショニングはなぜそんなに寒いのか?」(WHY IS THE AIR-CONDITIONING IN HONG KONG SO COLD?)
街を歩いていたら、そのように問う、アート的な香港案内を見つけた。
最近、香港島のセントラルのSOHOという場所(多国籍の料理やバー)からIFCという建物(映画バットマンのシーンでも登場する建物)に向かう「通り道」が改装された。
ブリッジ式の通り道で、それまでは通りの横に店舗が並んでいた。
相当昔から商いをしてきたような店々であったが、全体がとりこわされ、完全に「道」だけとなり、壁には「香港案内」がアーティスティックに並べられている。
そのうちのひとつが、上記の「香港のエアコンディショニングはなぜそんなに寒いのか?」という案内である。
簡易案内の言葉にこんなことが書かれている(日本語訳はブログ著者)。
…Why is the air-conditioning so cold? Perhaps because the British are accustomed to the chilly weather back home, the industry standard for air-conditioning is 22℃. In some shopping centre and restaurants, the temperature may even be lower than 20℃, which is far lower the nearby cities…
(なぜエアコンディショニングはそんなに寒いのか?おそらく、英国人は英国での寒い天候に慣れていることから、エアコンディショニングの業界基準が22℃となっているらのであろう。ショッピングセンターやレストランによっては、気温は20℃よりも低く、それは近隣の都市などと比べてもかなり低いのである。…)
こんな具体に、香港への訪問者(visotor)向けに、香港案内が壁一面に並んでいる。
香港の風景も、都市開発のなかで、このようにして様変わりしていく。
それにしても、理由がなんであれ、香港のショッピングセンターもレストランも寒いから、少し多めに着込んで、ぼくは今日も出かけてゆく。
「暖かい気候のクリスマス」のこと。- ぼくのなかに定着した「暖かい/寒いクリスマス」。
香港はいたるところで、クリスマスの飾りつけがほどこされ、クリスマスと新年の到来の足音がきこえるようになってきた。...Read On.
香港はいたるところで、クリスマスの飾りつけがほどこされ、クリスマスと新年の到来の足音がきこえるようになってきた。
ヴィクトリア湾を挟んで、ビルがイルミネーションに包まれ、「Season’s Greeting」のメッセージを届けている。
住まいであるマンションのロビーや敷地内も、クリスマスの飾りで、すっかり化粧をし直したところだ。
そんな香港は、今年は暖秋が続いている。
いっときは冬の到来が感じられるようになったと思ったら、すぐさま20度前後の気温にもどってしまった。
2017年の「9月~11月」にかけての平均気温は、25.8度で、これまでの歴史上の記録で3番目に暖かい秋となったという。
まだクリスマスの予報は出ていないけれど、「暖かい気候のクリスマス」になるかもしれない。
それにしても、「暖かい気候のクリスマス」をぼくが体験したのは、1996年にニュージーランドに住んでいたときのことであった。
ニュージーランドは南半球に位置しているから、クリスマスはちょうど夏の時期にあたる。
ぼくは、キャンプ場でテントを設営して、サンタクロスの姿を横目に、まったく「クリスマスらしくないクリスマス」を過ごしたことを思い出す。
「暖かい気候のクリスマス」があることなんて、南半球があり、また熱帯がありなどとちょっと考えてみれば、知識・情報としてはすぐわかることだ。
しかし、「暖かい気候のクリスマス」を過ごす感覚は、やはり体験してみないとわからない。
だから、体験として、ぼくの既成概念を壊すのに、よい機会となった。
その後は2002年に西アフリカのシエラレオネに住むことになり(その年のクリスマスは会議等で日本に戻っていたけれど)、それ以降も東ティモール、それから香港と移り住むなかで、「暖かい気候のクリスマス」はすっかりぼくのなかに定着した。
それでも、例えば、香港では、15度の気温だとして、その「気温」にはあらわれない<寒さ>のようなものを感じる。
実際、この暖秋においても、それなりの人たちが、コートやダウンジャケットを着はじめている。
気温にはあらわれない<寒さ>は、ある人は、湿気が高いことが理由だと言う。
ほんとうのところはよくわからないけれど、ぼく自身のことで言えば、人間の環境適応性のようなところがある。
2002年以降、ずっと、熱帯や亜熱帯に暮らしてきて、ぼくの身体はすっかりその気温・気候に慣れてしまった。
だから、ぼくのなかでの「寒さの基準」が変わってしまったのだと思う。
香港にいながら、ぼくはこの「寒さ」のなかでも、クリスマスの雰囲気を楽しめるようになった。
もしかしたら、人間のもつ「想像力・イメージ」の力、あるいは「記憶」の力が、力をかしてくれているのかもしれない。
そのようにして、ぼくのなかに、「暖かい/寒いクリスマス」が定着し、同居している。
それにしても、この「人間の環境適応性」はすごいものだと思いながら、逆にこわいものだとも思う。
現在の地球がくぐりぬけている環境汚染や気候変動に、ぼくたちがすっかり慣れてしまい、それが「当然のこと」となってしまうことの恐れである。
そうならない前に、ぼくたちの社会は、その軌道を変えていかなければならない。
「暖かい気候のクリスマス」は決して悪いものではないけれど、でも、世界全体が「暖かい気候のクリスマス」を迎えないように。
香港で、「吉野家」をつうじて<香港>をかんがえる。- ビジネス、メニュー、それから「紅ショウガと生卵」のゆくえ。
ここ香港では、「吉野家」はすでに庶民の食文化に根ざしている。香港のどこにもあり、それから、どこに行っても人であふれている。...Read On.
ここ香港では、「吉野家」はすでに庶民の食文化に根ざしている。
香港のどこにもあり、それから、どこに行っても人であふれている。
香港に吉野家が登場したのは1991年というから、すでに25年の月日が流れている。
なお、北京に吉野家ができたのは1992年で、ぼくは1994年に、北京への旅のなかで吉野家に訪れたことを覚えている。
10年ほど前にぼくが香港に移り住んだときにも吉野家は健在であったけれど、それ以降も、吉野家は試行錯誤のなか、香港でビジネスを展開し、食を提供している。
「うまい、やすい、はやい」という吉野家文化は、香港では、日本ではなかなか想像のつきにくい仕方で運営されている。
あくまでも「基礎編」的な内容ではあるけれど、そこに見える<香港的なるもの>を捉えることを目的として、書いておきたいと思う。
(1)ビジネスについて
ビジネスについては、その運営のされ方に、日本とは異なる特徴がある。
第一に、一日が「4区分」されている。
・ モーニング
・ ランチ
・ ティー
・ ディナー
それぞれでメニュー(あるいはセット)が若干かわり、何よりも「値段」がおどろくほどに変わる。
香港の大衆食堂的な店舗では、この形式は「普通」のことであるけれど、吉野家もその形式に順応している。
値段が安くなるティータイムなどの設定により、一日中、人が絶えないことになる。
この「人を絶えさせない」ビジネスに、香港の特徴がある。
第二に、上述のように、「値段」の設定である。
ティータイムの値段設定に見られるように、柔軟に展開される。
ティータイムだけでなく、他の庶民食堂のように「学生料金」も設定されている。
もちろん、より「やすい」値段での提供であり、学生への「応援歌」だ。
背景には、香港の多様性と階層的な社会構造があるのではないかと、ぼくは見ている。
第三に、店内の構造は、日本のような「カウンター形式」ではなく、他のファーストフード店のような仕組みである。
まずはレジでオーダーしてお金を払う。
そのやりとりの最中に、マイクを通じて、オーダーが伝えられる(オーダーはもちろん印字される紙でも伝わるけれど、それでは例えばスピードが落ちてしまうのだろう)。
引換券を手に待つことになるが、そこからは、「香港 x 吉野家」の「はやい文化」の掛け算で、即座に用意されることになる。
(2)メニューについて
第一に、メニューの多様性・柔軟性は圧倒的で、試行錯誤がつづき、さまざまなメニューにあふれる。
うどんがあったり、うどんやインスタント麺(出前一丁)の上に牛肉がのるメニューもある。
牛丼だけでなく、鶏肉や豚肉の丼ぶりがあり、からあげもある。
日本の吉野家のように、カレーもあれば、うなぎもある。
オーソドックスだけでなく、香港ならではで、チーズやトマトが牛丼にトッピングとしてのるものもある。
「飲み物」の選択は、日本茶、味噌汁、コーラ、コーヒー、ミルクティーなどと続く。
第二に、メニューの多様性・柔軟性は、上述の「4区分」の時間帯で、異なってくる。
モーニングセットには、西洋風のメニュー(スクランブルエッグやパンなど)も加わる。
特徴的なのはディナーの時間帯で、一人前用の「ホットポット(鍋)」で、吉野家の店内が鍋屋のようになる。
香港の庶民食堂文化が、融合される。
「文化の受容性」は香港のひとつの特徴だけれど、吉野家は<香港なるもの>を、ビジネスやメニューにどんどんと受容している。
(3)「紅ショウガと生卵」のゆくえ
やはり、気になるのは、「紅ショウガと生卵」のゆくえである。
牛丼には欠かせない食材だ。
香港的な環境のなかで、これら二つは次のような変化をとげる。
● 紅ショウガ → ガリ(小分けされた「しょうがの甘酢漬け」)
● 生卵 → 温泉卵
紅ショウガが香港の日本食で提供されていないわけではない(豚骨ラーメン店にはある)が、吉野家は薄黄色のガリを小分けで提供している。
ただし、席におかれているのではなく、「しょうがをください」と受け取りカウンターで頼まないといけない。
初めて香港の吉野家に来た人たちは、しょうががあることなんて、まったくわからない。
だから、ぼくはいつも、頼むことになるのだ。
時と場によっては、受け取りカウンターにおかれていたこともあったけれど、今ではぼくの知る限り、しょうがは、キッチンの見えないところに配備されている。
それから、問題は「生卵」だ。
生卵を食べることができる地域は、日本を含め、世界でも限られている。
そこで「編み出された方法」が、「温泉卵」であった。
半熟の温泉卵だから、卵のとろみがあり、生卵の代わりとなる。
香港に来た10年前には、その温泉卵でさえなく、また温泉卵が出た当初はそれほど食されていなかったようだ。
牛丼と温泉卵の組み合わせに、とまどう人たちも多かったのではないかと思う。
今では、香港の人たちもオーダーしている風景を目にする。
このように、香港の吉野家は、日本の吉野家からは想像のつきにくい仕方で店舗が運営され、食が提供されている。
<香港的なるもの>が吉野家のさまざまなところに浸透しているのだけれど、「うまい、やすい、はやい」という吉野家文化の中心は維持されている。
なにはともあれ、香港に住む人たちの食堂のような存在となっている。
香港で、「THERE is NO PAUSE in LIFE」の言葉に、つい引きつけられて。- ショッピングモールを歩きながら。
今年2017年の1月中旬から書きはじめたブログ。毎日一歩一歩をあゆみながら、ふとこれまでの歩みをふりかえれば、300ほどの文章を紡いできたことに気づく。...Read On.
今年2017年の1月中旬から書きはじめたブログ。
毎日一歩一歩をあゆみながら、ふとこれまでの歩みをふりかえれば、300ほどの文章を紡いできたことに気づく。
ブログとは別に少しずつ書き溜めている文章と異なり、ブログは、なるべくその日に思いついたことを書くようにしている。
最初から「枠」の中にはめずに、自由にひろがっていくトピックについて書いている。
いろいろなトピックが雑多にならんでいるのは、そうした理由からである。
けれども、雑多に見えても、ふりかえってみれば、そこに「思考の流れ」や「生きることの焦点」が見えてくる。
ここ香港に、すでに10年以上暮らしながら、「テーマ」として追ってきたことのひとつに、「生活のスピード」がある。
以前ふれた『No City for Slow Men』(Jason Y. Ng著, Blacksmith Books刊)という本のタイトルにもあるように、香港は「Slow Men」の都市ではない。
圧倒的なスピードでうごきつづけることで、生きることのリズムをつくっている。
そのような香港も、ぼくの身体感覚と観察において、この10年は、スピードにおいてけっして一様ではなかったように、思う。
そのような「テーマ」を追っていると、ショッピングモールで、たまたま出会う、次のような言葉が目に自然とはいってくる。
「THERE is NO PAUSE in LIFE」
ショッピングモールの「改装中の敷地の壁」に、店舗の広告と共に、書かれている。
あらゆる場所ですすんでいる「改装」自体が、香港のスピードの象徴のひとつのようなところがあるが、「改装にもかかわらず、店舗は休むことなく営業中」ということのメッセージのようだ。
あるいは、人生は「NO PAUSE」だから店舗は営業している、というようなメッセージなのかもしれない。
言葉を受けとる側の関心のおきどころによって、受けとられ方が異なる言葉だ。
いずれにしろ、香港では、「休む間もなく」ということが生活のすみずみにまで浸透しているから、「NO PAUSE in LIFE」を「普通のこと」として読んでしまう。
「THERE is NO PAUSE in LIFE」という言葉とは逆に、「PAUSE in LIFE」が極めて大切になっていると、ぼくは思う。
「PAUSE」で思い起こすのは、リーダーシップ論の著作として、前にすすむための「Pause」を提示している、『The Pause Principles: Step Back to Lead Forward』(Kevin Cashman著、Berrett-Koehler刊)という興味深い本である。
「立ち止まって考えること」の大切さを感じながら、しかし「香港という場」がぼくに語りかけてくるのは、「動きながら考えること」である。
香港はその意味で「THERE is NO PAUSE」なのだけれど、実際にそこで暮らす人たちは、近年ますます、「PAUSE」を生活の中に組み込もうとしているように、ぼくには見える。
その「方法」はひとそれぞれにいろいろである。
仕事で「考える場と時間」をつくることもそうであるし、マラソンやヨガなどもある意味そうであるだろうし、海外の「田舎」(例えば、ぼくも行ったことのないような日本の田舎)への旅もその一形態であるかもしれない。
「No City for Slow Men」(Jason Y. Ng)の香港は、全体としては「NO PAUSE」でありながら、その周辺に「PAUSE」をする人たちを生みだしてきている。
とはいえ、「PAUSE」をどのようにとり、その機会をどのように使い、Kevin Cashmanが言うように「Step Back to Lead Forward」できるかどうかは、それぞれの個人にかかっている。
香港で、レストランの予約対応における「差」に学ぶ。- 会話の「もう一歩」。
香港では、中堅くらい以上のレストランの多くは、「予約型」である。人数に限らず、2名であっても、予約が必要であったりする。...Read On.
香港では、中堅くらい以上のレストランの多くは、「予約型」である。
人数に限らず、2名であっても、予約が必要であったりする。
香港に住むようになった当初は、この「予約」のシステムになかなか慣れなかった。
ちなみに日系の飲食店などはいろいろ柔軟にシステムをつくりあげているようだ。
香港における「予約型システム」と「会計を席上ですること」には、香港で暮らしていく上で慣れておく必要がある。
ぼくは今でも、完全に慣れたわけではないけれど、必要なときにはもちろん予約する。
そんなこんなで、今回も予約をしようと、携帯電話で電話をすることにした。
そのときの「電話対応」の話である。
電話対応における少しの差が、(ぼくへの)影響として大きな差になったことの話だ。
香港のあるホテル内にあるレストランを予約しようと、ぼくは電話をかける。
電話先は、この場合、レストランではなくホテルのカスタマーサービスだ。
電話取りは素早く、英語が先に来て、広東語が続く。
ぼくは英語で、「明日のディナーの席予約をお願いしたいのですが」と伝える。
即座に英語で、「すみません、席は予約で満席です」と返答をいただく。
「そうですか、ありがとうございます」とぼくは伝えて、お互いに電話をきる。
とても手際よく、コミュニケーションがなされる。
明るく自然で、別に悪い気はしない。
翌日、キャンセルがあるかもしれないと、ぼくは念のため、もう一度電話をかけてみることにした。
再度、素早い対応により、女性の声で、英語に続き、広東語が話される。
前回の方とは異なる人のようだ。
ぼくは前回と同じように、英語で、用件を伝える。
また同じように、即座に、「席が予約でいっぱいである」旨がぼくに伝えられることになる。
そこまではほぼ同じだったのだけれど、その後に、こんな内容がぼくに伝えられたのだ。
「先着順で外のテーブルについていただくことができますので、是非お越しください」と。
それから、外のテーブルが6テーブルあることも聞くことができた。
どちらも対応いただいた感じはよかったのだけれど、「先着順で…」の付け足しに、ぼくは心が動かされた。
それは次のように心を動かされたのである。
- 印象がまったく異なること
- 「行こうかな」と思うこと
- 行けなくても、次回やはり行こうと思うこと
第一に、やはり、印象がまったく違ったこと。
予約テーブルではないテーブルの存在を知ることと同時に、歓迎されているように感じたのだ。
それはぼくの側の視点から言葉を付け加えてくれたからでもある。
そうだからこそ、第二に、「行こうかな」と思うのである。
今回は、結局ぼくは行かなかったのだけれど、今回行かなくても「次回やはり行こうかな」と思う。
たった一文が付け加えられただけで、印象と風景ががらっと変わってしまったのだ。
後で考えてみると、「当たり前」のことを伝えられただけなのだろうけれど、その「当たり前」は全員ができるものではない。
むしろ少数派であるように思う。
また、香港でのぼくの経験に限って言えば、満席の場合は、「満席です」で通常は会話が終わってしまうことを思い起こすと、そこからの「一歩」は大きい。
30秒(x 2回)くらいの会話だったけれど、いい体験と学びの時間であった。
香港で、東ティモールのコーヒーを見つけて。- 東ティモールコーヒーの香りと味の記憶と点火された思考。
中秋節と中秋節翌日が過ぎたけれど、香港の街はまだその余韻を残しながら、活気と喧騒の中にあるように見える。コーヒーを飲もうと、Starbucksのプレミア店「Starbucks Reserve」のバーに腰掛ける。...Read On.
中秋節と中秋節翌日が過ぎたけれど、香港の街はまだその余韻を残しながら、活気と喧騒の中にあるように見える。
コーヒーを飲もうと、Starbucksのプレミア店「Starbucks Reserve」のバーに腰掛ける。
「さて何を飲もうか」と、バーのカウンターに並べられた、コーヒー豆が入った透明のボトルに眼を向けると、「East Timor」の文字が眼に入ってくる。
「East Timor」の文字の下には「Peaberry」と書かれている。
小さな丸豆である。
コーヒーのチェリーを採取し、コーヒーを精製していると、その中に若干、Peaberryが混じっているのを見つけることができる。
量的にはたくさんあるものではない。
「East Timor Peaberry」を、Starbucksのプレミア店が扱っている。
Starbucksが東ティモール産のコーヒーを販売していたことは、以前から知っていた。
「販売していた」と過去形で書いたのは、13年程前に、オーストラリアのシドニーにあるStarbucksで目にしてから、見ることがなかったからだ。
東ティモールに住んでいるときに、休暇を利用して、オーストラリアのパース経由でシドニーに降り立ったときに、Starbucksでたまたま見つけた。
当時から東ティモールで活動していたCooperative Cafe Timor(CCT)というコーヒー生産者組合を経由して、Starbucksにコーヒーが売られていたことは知っていたから、それを実際に目で確かめた形であった。
CCTは医療クリニックのサービスを提供するなどして、地域社会に貢献している。
ところが、当時、精製していたコーヒーの品質にはいろいろと問題を抱えていた。
そのようなことを思い出していると、準備されるコーヒーから、確かに「東ティモールコーヒー」に独特の「香り」が流れてきた。
運ばれてきたコーヒーを飲みながら、「East Timor Peaberry」の説明書きを見つけ、それを読んでいたら、案の定、CCTと協働の説明が書かれていた。
ぼくが東ティモールを離れたのが2007年初頭。
企業利益に偏重していたStarbucksを立て直すためにHoward SchultzがCEOに戻ったのが、2008年。
Starbucksが軌道修正してきた影響もあったのだろうと推測しながら、「East Timor Peaberry」コーヒーの香りと味を楽しむ。
ぼくが東ティモールで関わってきたレテフォホのコーヒー生産者たちのコーヒーが懐かしくなる。
レテフォホの土地と彼(女)らが生産する高品質のコーヒーに、あらためて、畏れのような念を感じる。
高品質のコーヒーを求める「消費者」の存在は、とても大切だ。
品質に無頓着な消費者が安い価格のコーヒーを求めると、「生産者」はそのようなコーヒーを生産し、やがて価格競争の中で自分たちのコーヒーと生活をつぶしてゆく。
高品質のコーヒーを(慈善ではなく)感謝の現れとして高価格で求めることは、コーヒー生産者たちの生活をつくってゆく。
東ティモールのコーヒーに思わぬところで出会うことで、「East Timor」の名が広がってゆく嬉しさを感じると共に、ぼくは上で書いたようなことをいろいろと考えさせられた。
東ティモールを去ってから10年を経た、ここ香港で。