香港で、「糖水」を楽しみながら。- 「糖水」に見るデザート文化。
「糖水」(Tong sui)は「広東料理の最後にデザートとして出されるスイーツ、甘くて温かいスープまたはカスタードの総称」(wikipedia「糖水」)である。...Read On.
「糖水」(Tong sui)は「広東料理の最後にデザートとして出されるスイーツ、甘くて温かいスープまたはカスタードの総称」(wikipedia「糖水」)である。
字から見てとれるように、「sugar+water」ということで、基本レシピは例えば「材料+シュガー+水」からなっている。
種類はいろいろで、例えば、こんなものだ。
●「黒ごまと砂糖と水」が長時間火にかけられてつくられる「芝麻糊」(black sesame soup)
●「ピーナッツ系と砂糖と水」でつくられる「花生糊」(peanut paste soup)など
●「小豆と砂糖と水」などがベースでつくられる「紅豆沙」(red bean soup)
●豆腐をベースとした豆腐プリンともいうべく「豆腐花」
そのほかにも、いろいろとある。
これらの自然食材それぞれが「効用」をもち、「糖水」ごとに「身体への効用」が語られる。
身体を「温める/冷ます」という効用はもちろんのこと、咳に効くとか、腎臓によいとか、である。
このような「糖水」は、例えば、次のような「形式」で、食べることになる。
- 「広東料理の最後に出されるデザート」という(おそらく)オリジナルの形式
- デザート店
- 小売店
オリジナルの形式に近い形で、夕食後にレストランで食すこともあれば、レストランを出てデザート店に向かうこともある。
あるいは、デザート店や小売店で購入して、家にもちかえって家族と食べることもある。
ただのデザートという以上に、「糖水」は香港文化のなかに根をおろしている。
その証拠といっては何だけれど、夜は「糖水」を出す店はどこも人でいっぱいで、活気にみちている。
「糖水文化」の効用としては、このように「人をつなげる」ことも挙げられる。
「糖水」を媒介にして、家族や友人同士などが集うことになる、あるいは「お茶をする」ようにコミュニケーションを促進する。
しかし、伝統的なデザートがしばしば直面するように、「糖水」もモダン化してきているようなところがあるように見受けられる。
「糖水」はつくるのに手間と時間がかかるという意味で、スローフードだ。
「スロー」は、より効率的で手間のかからない方法にとってかわられることもある。
また、都会という環境のなかで、味が強くなり、例えば「甘さ」のもとで素材の味がのっとられてしまうこともある。
このようなモダン化の圧力のなかで、「昔ながらの自然な味」は押しやられてしまうことになる。
「昔ながらの味」を知っている人たちから、そんなことを聞いたりする。
また他方で、他の「都会的でモダンなデザート」が続々と出てくる。
香港はさらに、「高い賃料」という最大の難関があり、店舗を維持するのが難しく、またコストカットのプレッシャーも強い。
そのような状況だから、おいしい「糖水」のお店をみつけると、おいしさを楽しむと共に、応援したくなる。
だから、近くによれば、食事の後などに寄って「糖水」を楽しむ。
時には、はるばる、おいしい「糖水」を目的として、足を運ぶ。
そしておいしい「糖水」を楽しみながら、そこに昔から守られてきた味と心を感じ、これからもつくり続けてくれることを願ったりする。
一般的に、「伝統」というのは、しばしば外部から来たものたちによっても支えられたりするように、「糖水」という伝統を、外部から来たぼくは、楽しみながら食べることで応援する。
少しモダンな「カシューナッツ」のペーストを楽しみながら、ぼくはそんなことを考える。
香港で、誠品書店の「ベストセラー」棚を眺めながら、考えること。- 人々の「耳」のありかをみつめて。
台湾の大型書店チェーンである「誠品書店」(Eslite Bookstore)が、香港に第一号店をCauseway Bayに出店してから、すでに4年がたつ。...Read On.
台湾の大型書店チェーンである「誠品書店」(Eslite Bookstore)が、香港に第一号店をCauseway Bayに出店してから、すでに4年がたつ。
その間に、Tsim Sha TsuiとTaikooにも出店し、現在は合計で3店舗。
第一号店が世界でもっとも土地の値段が高いとされる香港のCauseway Bayに出店されたときには、書店が一般的にその規模を縮小させてきている時期であったこと、また香港ではあまり本が読まれないのではないかということなどから、台湾で成功してきた「誠品書店」が、果たして香港でやっていけるのかどうか、ぼくとしても(期待をかけながらも)懐疑的であった。
そんな懐疑もどこへやら、日本人が多く住むTaikooに出店を果たしている。
Causeway BayやTaikooの店舗にときおり立ち寄りながら、どんな本が香港で話題を集めているかを確認することが、ぼくの最近の「定点観測」のひとつだ。
「ベストセラー」は、作家や出版社の力量もさることながら、何よりも、大衆の「耳」のありかである。
そこに、人々の生活、人々の生きられる問題や課題が垣間見られる。
「誠品書店」のベストセラー棚は、ピックアップの仕方によっていくつかに分かれている。
それぞれ、ランクが1位から10位まであって、並べられている。
日本の書籍で、中国語に訳されたものも多く並んでいる。
台湾で翻訳され、それらが香港でも店頭に並ぶ。
ある一列をざっくりと見ると、日本の書籍が翻訳されて並べられていて、大別すると二つのジャンルに分かれている。
「心理学系」と「片付け系」である。
前者は正当系というより、例えば「人を操る心理学」の漫画版などが上位に来ている。
後者は、例えば「断捨離」の本である。
この二つの系が、ベストセラー系列のひとつにおける1位から10位のランクの多くを占めている。
さっと見ると、通りすぎてしまうか、表層だけで見てしまうようなベストセラーのランクだけれど、ここには、香港の生活における、人々の切実な気持ちが充ちている。
それは、香港で生きてゆくための「二つの戦線」における、生きられる問題なのだ。
- 職場の人間関係
- 住まいの空間
生きていく上での、職場と住まい、あるいは仕事と生活という二つの領域が、書籍のベストセラー・ランキングに垣間見られる。
職場と住まいは、日々の生活の「時間と空間」となる場所であり、瞬間だ。
なかなかうまくいかない職場の人間関係、それから住まいの空間の限定性への悩みなどが、切実な思いをつくり、人々の「耳」となる。
そして、これら二つの領域は、地層を深く掘っていくと、生きることの「二つの側面」を支えていることがわかる。
それらは、社会学者の見田宗介に少しだけ倣って言えば、「仕事」は生きることの「物質的な拠り所」を確保することであり、また「住まい」は生きることの「精神的な拠り所」を確保することである。
ただし、そこには「ねじれ」があり、仕事をする職場という「物質的な拠り所」を支えるところで、「精神的な」人間関係になやむ。
そして、住まいという「精神的な拠り所」を支えるところで、「物質的な」空間の確保になやむ。
いずれにしても、生の「物質的・精神的な拠り所」を、この香港において人々は渇望している。
ぼくが見るに、この「二つの戦線」は、ひきつづき、人々が香港で生きてゆく際の感心と渇望、苦悶と喜びなどを規定するような磁場を形づくってゆくと思う。
ただし、ベストセラー棚はこれらだけではないことも付け加えておかなければならない。
世界的な大ベストセラーである、Yuval Norah Harariの『Sapience』と『Homo Deus』は、それらの英語版も中国語版も、長きにわたり棚をうめていたりする。
「誠品書店」のベストセラー棚を「定点観測」しながら、ぼくは、このように、人や社会、それから未来に思いをひろげてゆく。
「ラバー・ダック・デバッグ(Rubber Duck Debugging)」という方法。- ダニエル・ピンクに習う問題解決の方法。
コンピューター・プログラマーが、プログラミングにおける「問題解決」の方法として、「ラバー・ダック」を使うという。...Read On.
コンピューター・プログラマーが、プログラミングにおける「問題解決」の方法として、「ラバー・ダック」を使うという。
この方法は「ラバー・ダック・デバッグ(Rubber Duck Debugging)」という。
「ラバー・ダック」は、ラバー・ダックである。
ゴムでつくられたアヒルの玩具である。
巨大なラバー・ダックがメディアを騒がすこともあり、いつだったか、ここ香港にも巨大なラバー・ダックが「寄港」していた時期がある。
小型のものは、お風呂に浮かべて遊ぶ、あのラバー・ダックである。
「デバッグ」とは、コンピューター・プログラムにおけるミスを見つけて、修正を施すこと。
だから、言葉通りには、「アヒルの玩具を使ったコンピューター・プログラムの修正」である。
さて、どのように、アヒルの玩具を使うのか。
コンピューター・プログラムのコードを、玩具のアヒルに向かって説明するのだという。
コードをラインごとに。
玩具のアヒルに向かって。
この説明のプロセスにおいて、解決策を思いついたりするのだという。
玩具のアヒルである必要はなく、「他者」であればよいようだけれど、プログラミングの著作のひとつが方法を紹介することで、「ラバー・ダック・デバッグ」が知られるようになったようだ。
Wikipediaにおいても、しっかりとページがつくられている(*Wikipedia「Rubber Duck Debugging」。ただし、日本語がない)。
ぼくが、この方法を知ったのは、ダニエル・ピンク(Daniel Pink)の動画からだ。
「Pinkcast」と呼ばれるダニエル・ピンクのヒント動画シリーズのなかで、取り上げられたのだ。
その回は「How a Simple Bath Toy Can Solve Your Toughest Problems」(いかにして、シンプルなお風呂の玩具があなたのもっともタフな問題を解決することができるか)と題されている(*動画はこちらから。英語。89秒の動画である)。
ダニエル・ピンクは、プログラマーでもなんでもなく、以前はホワイト・ハウスでの勤務経験もある作家である。
書籍は日本語訳されており、『モチベーション3.0』や『人を動かす、新たな3原則』などがここ最近は出されている。
そのダニエル・ピンクが、「どんな仕事にも適用できる方法」として適用範囲をひろげて、この「ラバー・ダック・デバッグ」の方法を紹介している。
ダニエル・ピンクの経験が重ねられて、「効果」があることが説明される。
ぼくたちは、友人や同僚などに、言葉で説明をしているうちに、相手が一言も話さなくても、じぶんで「答え」を得たりすることがある。
相手として、コンサルタントやコーチということもあるだろう。
その相手が、「玩具のアヒル」である。
能動的に説明をするプロセスで、考えが整理されたり、その隙間からヒントが出たり、言葉と感情の照らし合わせをしたり、ぼくたちの「内面」ではいろいろな作業が進行する。
だから、これ自体が新しいことではない。
しかし、相手が玩具のアヒルだということ、実際に使われていること、そして実際に効果が出ていることに、感銘を受ける。
ひとりでもできるし、また「玩具のアヒル」はリラックス効果を発揮するのかもしれない。
ぼくは、頭の中で考えたり、書きながら考えを構築していく。
そこで、問題解決の糸口をさぐったりする。
まだ「ラバー・ダック・デバッグ」を本格的には実践していないけれど、当面、試してみようと思う。
でも、「ラバー・ダック」ではなく、代わりのもので。
いや、やはり、多くの人をひきつけてやまない「ラバー・ダック」には、特別なプラスアルファの効果があるのだろうか。
香港で、香港を「拠点」に旧友と再会する。- 変わりゆくアジア、人とのつながり、空間の自由度。
香港で、15年ぶりに、旧友と再会する。大学院で勉学に励んでいる時に、縁あって出会った留学生の方々の内のひとりだ。...Read On.
香港で、15年ぶりに、旧友と再会する。
大学院で勉学に励んでいる時に、縁あって出会った留学生の方々の内のひとりだ。
アジアに住んでいて、香港に休暇でご家族と来るとのことで、日本ではなく香港での再会となった。
再会を楽しむと共に、感じることがある。
第一に、「変わりゆくアジア」を感じること。
アジア(アジア以外もそうだけれど、実感として一層感じることとして)は確実に変わってきている。
「成長・発展」ということを、同じときに、同じキャンパスで学んできた友人とその国の成長・発展が、変わりゆくアジアの像と重ねって、今のぼくには見える。
また、「香港」という、人が行き交う交差点にいることも手伝ってか、アジアの人たちの行き来がますます増え、物理的にも心理的にも「近く」なってきていることを感じる。
友人に最後に会ったのが15年ほど前であったけれど、その15年は、とても大きかったのだと思う。
第二に、「人のつながり」が、より自由につくってゆくことができること。
このグローバルな世界が、インターネットを通じて、一瞬でつながってしまうことは、「ドラマ」的な側面をなくしてしまうこともあるけれど、もっと自由な関係性をつくり、維持し、発展させてゆくことの土台であることである。
インターネットでつながることが、今回のような再会を可能なものとしてくれたことは確かで、この15年の変化は、人と人との関係性を、幾層にも重層化してきたことを、やはり感じる。
そのことはあたりまえのこととして感じられることかもしれないけれど、感じている以上に、ぼくたちの生きることの諸相を変えてゆくものであることを、あらためて認識した。
それから第三に、再会は、いずれかの母国ではなく、「どこでも」起こるということ。
海外の友人たちから「これから日本に行くんだけど」とか「今日本にいるんだけど」とメッセージが入るたびに、「香港にいる」ことを伝える。
うまく機会があわないわけだけれど、逆に、いずれかの母国ではなく、「香港を拠点」に、小さな同窓会をひらくことができる。
香港に遊びにくる人たちもいれば、逆に、香港を拠点に、こちらから訪れることもできる。
現実の「空間」も、自由度を増している。
昨日の満月の夜の後は、少し雲が増えて、雲がちょうど月のあたりを覆う。
月が雲に覆われながら、香港のビクトリア湾とビル群は、「Symphony of Lights」と名づけられる、毎晩20時からのイルミネーションの光たちに彩られる。
ビクトリア湾をのぞむ、九龍島の南端にあるプロムナードは、イルミネーションをみる人たちでいっぱいだ。
しばらく見ていなかったけれど、久しぶりに見ると、新鮮に眼に映る。
観光で来る人たちの「眼」を通して、生活している香港は、いつもとは違った様相を見せる。
近い内に、今度は、ぼくが友人を訪れる番だ。
そこに「遠さ」は感じない。
ただ、「行くことを決める」だけで、物語がはじまる世界に、ぼくたちはいる。
満月の夜の<しずかな祭り>。- 「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」(見田宗介)という"月明かり"に照らされながら。
「月明かり」に照らされながら、そしてそのことを文章で描きながら、見田宗介の「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という素敵な文章のことを思い出していた。...Read On.
「月明かり」に照らされながら、そしてそのことを文章で書きながら、見田宗介の「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という素敵な文章のことを思い出していた。
この文章は、社会学者の見田宗介が1985年に新聞で連載していた論壇時評のなかの一回として書かれ、その後書籍に所収されている。
この文章の中で、雑誌編集をしていたAという人が、アメリカ・インディアンと一緒に幾年かを生きてきたKと結婚して、日本の田舎に移りすむ「記録」が取り上げられている。
その「記録」は「わが家に電気がついた日」と題されている。
…東京で生活してきたAにとっては、田舎で暮らしたいと思っていた時も、電気はあって当然に近いものだった。けれどもKは、せっかく電気が来ていない家に住めるのにという。Aも原発には反対だしと、当面は電気なしでいくことにした。案外不便は感じないし、何よりも<夜が夜らしく存在する>。
唯一めげたのは洗濯で、…結局電気は引くことにする。冷蔵庫やテレビはいらないが、洗濯機だけはおくだろう。けれどこれからも満月の夜だけは電気を消して、<闇について、この明るすぎる文明について語り合います>と書いている。
かれらは何もよびかけたりしてはいないし、自分たちの限界点を記録しているだけだけれども、この記事をよんだかれらの友人たちは、満月の夜をそれぞれの場所で、みえない全国の友人たちと呼応して<闇>を共有するという、しずかな祭りの夜としてゆくかもしれない。
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
「311」を契機とした原発にかんする議論はまだ思考にこだましているけれど、それよりも30年ほど前にも原発問題ということが、生きられる問題として語られ、その「出口」をさぐる人たちが無数にいたことは、これからの「出口」をさぐるうえでもヒントを与えてくれる。
この文章を読みながら、これが「現代」として読んでもまったく違和感がないほどに、問題と課題はひきつづき、人と社会の根底によこたわっている。
上の「記録」は、しかし、見田宗介がわざわざ指摘しているように、「何もよびかけたりしてはいない」。
声高なよびかけのかわりにあるのは、みずからの「生活の仕方を変える」ことと、その生活の記録の共有である。
見田宗介はさらにこう記している。
…このこと(*生活の仕方を変えること)を倫理主義的にではなく、<生活水準を楽しみながら下げてゆく>という仕方でやっている。それは失われたよろこびたちを(快楽から至福にいたるその一切のスペクトルにおいて)取り戻してゆくというかたちをとるだろう。ひとりの生が解き放たれてゆく方向と、地球生命圏がその破滅に至る軌道から解き放たれてゆく方向とが、コンパスと地軸のように合致している。
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
ぼくはここに語られていることに深く共鳴する。
地球環境のための「消灯キャンペーン」はその試みをぼくは否定しないし、もともとの「情熱」とそこから出てくる行動力には頭がさがる思いだ。
しかし、地球環境のために、という罪悪感と倫理主義におされながら「消灯」を実行するとすれば、ぼくはそこに居心地の悪さを感じてしまう。
そうではなく、楽しみながら消灯をすること。
そして、それは、罪悪感でも倫理主義でもなく、人の生のよろこびと共振してゆくということ。
このようなことを書くとすぐに寄せられるであろう「批判」を想定して、見田宗介は最後にこう付け足している(「想定される批判」にあらかじめ答えておくことを、見田宗介は書くことの方法のひとつとしている。)。
電力の総需要といった計算からすれば、さしあたり一兆分の一ほどの効果しかもたないだろう。けれども一兆分の一だけの自己解放をいたるところで開始すること、それらがたがいに呼応し、連合していつか地表をおおうこと、このことを基礎とすることなしにどのような浮足立った「変革」も、もうひとつの抑圧的な制度を出現させるだけだということを、二十世紀のすべての歴史の経験が書き残している。
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
見田宗介の「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という文章に出会ってから、20年ほどが経過した。
「ひとりの生が解き放たれてゆく方向と、地球生命圏がその破滅に至る軌道から解き放たれてゆく方向」というコンパスと地軸を、ときおり確かめながら、ぼくは生きてきた。
それでも、現代あるいは都会の生活圏は、「消費社会」への居直りへという磁場(マグネティック・フィールド)を形成していて、コンパスと地軸がゆらぐ。
その磁場の中で、ここ4~5年ほどは、家では夏に「クーラー」を使わず、扇風機たちと共に暮らしている。
楽しみながらというと変だけど、ぼくの身体がよろこびながら、クーラーを使わない方向へ生活水準を落としている(それでも電気は消費しているけれど)。
そう、<夏が夏らしく存在する>。
そして、満月の夜には、AとKという幾千もの幾万もの「みえない人たち」と呼応しながら、少し電気を消しながら、満月からの月明かりに身体をさらす。
満月の夜に、人はそれぞれの場所で、みえない人たちと呼応しながら、「しずかな祭りの夜」をしずかに楽しむこと。
2017年8月8日という満月の日に、そんなことを思う。
立秋に、「月明かり」に照らされながら。- <根の存在>としての月と共に生きてきた世界。
月明かりが、香港の海面を照らしている。明日8月8日が満月で、月の光が一層増して、地球とそこに住む人と自然を照らす。...Read On.
月明かりが、香港の海面を照らしている。
明日8月8日が満月を迎えることもあって、月の光が一層増し、地球とそこに住む人と自然を照らす。
香港の夜の郊外を照らし出す街灯や建物の光をつきぬけるように、凛とした光が部屋の中にも差し込んでくる。
差し込む光は淡いようでいて、しかし光の中には芯がある。
ここ香港にいても、月明かりは、ぼくのなかの「何か」を照らしてくれるような気がする。
小学校の頃、ぼくは望遠鏡をもちだして、月や火星、木星を見ることが好きだった。
望遠鏡のレンズの限度もあり、よく見えるのは月だった。
レンズを通して、月の表面のクレーターが見える。
手が届きそうなくらいに、ぼくの眼の前にクレーターがいっぱいにひろがっている。
そこに「うさぎ」はいなくても、それ以上に想像がかきたてられ、ずっと見ていても飽きなかったものだ。
しかし、それから大人になる準備をしてゆくなかで、ぼくはいつしか望遠鏡で夜空や天体を見ることをやめてしまった。
そんなぼくの深いところに、再び「月明かり」が照らされたのは、大学2年を終え休学して行ったニュージーランドでのことであった。
徒歩縦断の旅、山登り、キャンプ場などでの生活のなかで、月と月明かりは、ぼくの夜の過ごし方や動きに影響を与えた。
月明かりがないと夜は夜となり、月明かりが照らすときは、夜はしずかな祭りとなる。
手持ちの懐中電灯を使わずとも身動きをとることができ、「便利」でもあった。
ニュージーランドは南半球に位置し、北半球とは異なる月の姿を見ることも、楽しみのひとつであった。
その内、そのようなリズムと自然の力がぼくのなかに光を点火した。
それから、その後暮らすことになった、西アフリカのシエラレオネ、(ニュージランドと同じ南半球に位置する)東ティモールでも、月明かりは存在感を発揮していた。
シエラレオネでは電気のない町で暮らしていたから、月明かりは、言葉の通り、町を照らしていた。
東ティモールでも、電気が使える時間が限られていたり、電気がない村で過ごしながら、月明かりは山間地のコーヒー農園と村々を照らし出していた。
日本から遠くはなれた土地においても、月明かりはやはりそこにあって、地球とそこに住む人と自然を照らしていた。
空にどこまでもひろがってゆく宇宙空間であったけれど、ぼくにとっては「根」のように感じるものである。
「根をもつことと翼をもつこと」という人の根源的な欲求において、月と月明かりは、翼をひろげてゆくイメージがありながら、しかし、どこにいてもぼくたちを照らし出してくれる<存在>として、ぼくにとっては「根をもつこと」でもある。
ここ香港は、100万ドルの夜景と言われてきた土地柄、「明るさ」に満ちているところである。
しかし、もちろん、香港でも、月はその<存在>の力を放っている。
香港の「明るさ」をつきぬける仕方で、月明かりは香港を照らす。
気がつけば、今日8月7日は「立秋」である。
「中秋節」の足音が聞こえ始める。
ただ、「中秋節」は今年は少しカレンダーの後ろにゆき、10月のはじめである。
香港で、月餅と共にお祝いをする大切な日である。
そこに向けて、月は一層、美しさと存在感を増してゆく。
雲がゆっくり動きながら、隠れていた月が、またあらわれる。
こんなときは、部屋の電気を消して、月明かりに照らされる世界に浸る。
ただ電気を消すだけで、世界が一変するのだ。
こんなにも簡単に、世界は変わる。
「アースデイ」(の消灯キャンペーン)に頼ることなく、そのような呼びかけに肩をおされなくてもいい。
月が出たときに、少しだけでも、電気を消すだけだ。
環境主義・倫理主義でもなんでもなく、ただ月明かりを楽しむために。
明日の満月の日には、そのことをもう少し書こうと思う。
「音楽」と共に世界を生きてゆくこと。- 時間と空間を超えてゆく音色と躍動。
世界で生きてきたなかで、ぼくにとって「音楽」は、空気と同じように、大切なものである。この「世界」で生きてゆくために、「音楽」がぼくにとってどのようにあったのかを、書こうと思う。...Read On.
世界で生きてきたなかで、ぼくにとって「音楽」は、空気と同じように、大切なものである。
この「世界」で生きてゆくために、「音楽」がぼくにとってどのようにあったのかを、書こうと思う。
1)ぼくと「音楽」
浜松という土地(「音楽のまち」。今は「音楽の都」を目指しているという)に生まれたことも影響してか、ぼくは小さいころから「音楽」と暮らしてきた。
ヤマハの音楽教室に通ってピアノをひく。
小学校の音楽会で、ピアノで伴奏をする。
中学のときには、バンドを組み、ロックやパンクの世界にひきこまれ、エレキギターをひく。
高校では、軽音楽部に所属してバンドを組み、ロックやオールディーズといったジャンルで、歌を歌い、ドラムをたたく。
大学では、バンド活動はしなかったけれど、ビートルズやオールディーズにはまり、東京の中古レコード店などをまわる。
「音楽」が、常に、ぼくと共にあった。
「共に」ということ以上に、生きていくうえでのひとつの軸であったし、生きるということの内実でもあった。
それは、ぼくの生きることの、なくてはならない土台と地層を形成し、その後の生活のなかで、ぼくを確かに支えてくれることになる。
2)地理と音楽
日本の外に出たときも/出てからも、音楽はぼくと共にあり、それは一層大切なものとなった。
大学2年を終え、ワーキングホリデー制度でニュージーランドに渡るとき、ぼくは「バックパッカー」と呼ばれる小型のギターを持って行った。
オークランドに住んでいるときは、日本食レストランのアルバイトが休みの日など、オークランドのメインストリートに座り、ギターを片手に歌った。
路上で一度歌ってみたかったのだ。
「Nothing’s gonna change my world…」(ビートルズの曲「Across the Universe」の一節)と歌いながら、通りがかりの人たちは、アジア人の若者に不思議なまなざしを向けていた。
オークランドを離れ、ニュージーランド徒歩縦断を目指したときも、ギターはぼくと共にあった。
歩きながらギターはひけないけれど、ひとり歩きながら、よく歌を口ずさんだものだ。
また、キャンプ場や路上でテントを立てては、ラジオの音楽番組に、耳をすませていた。
徒歩縦断がかなわず、トランピングにかえることになり、山を歩き、山小屋でそっとギターを奏でたりした。
その音色が、他国から来ていた人の心にしみいることもあった。
仕事をするようになって、赴任した西アフリカのシエラレオネ。
アフリカの人たちはダンスが好きだ。
ダンスを軸に、伝統的なアフリカ音楽、そして現代的なダンス音楽が流れる。
隣国リベリアから流入していた難民の人たちのための難民キャンプでは、伝統的なアフリカ音楽にあわせて、子供たちも大人たちも踊る。
シエラレオネの人たちも、コミュニティで踊る。
また、仕事のための移動はオフロード続きで過酷であったけれど、車のドライバーは、音楽のカセットテープを用意してくれて、音楽を流してくれる。
セリーヌ・ディオンの歌声に、疲れと悲しみ(の堆積)がやわらぐ。
紛争という「傷」がいったんは忘れられ、ひびわれた「世界」の断片が、ダンスと音楽のなかで、つながる。
次の赴任地、東ティモール。
アフリカとは異なり、音楽の色調は、ギターを片手にメロディアスな歌、といったところだ。
東ティモールの人たち誰もが知っている、五輪真弓の曲『心の友』。
ギターを片手に、ぼくはコードを鳴らせて、東ティモールの人たちと歌う。
コーヒー生産者の子供たちとは、ギターの音色にあわせて、いっしょに国家を歌う。
コーヒー生産者たちの組合グループには、ギターを寄贈して、コミュニティ活動の促進を手助けする。
東ティモールも、音楽と共にあった。
香港にうつってからは、もっぱら、音楽をきく方にまわる。
ポップ、ロック、クラシック、ワールド・ミュージックなど、さまざまな一流の音楽を、ライブできく。
世界という「地理」、日本の外に生きることの「空間」をひろげながら、しかし、ぼくの土台・地層としての「音楽」はぼくを支える。
大変なときに、ぼくは音楽に支えられる。
それから、音楽は、世界の人たちとの「つながり」を、地理(空間)を超えて創出してゆく。
ぼくの自分という「内なる世界」と、地球という「外なる世界」でのつながりを、音楽が支えてきてくれた。
3)歴史と音楽
「地理」(空間)だけではない。
「歴史」(時間)をも、音楽は超えてゆく。
ぼくの「過去の記憶」(おそらく、ぼくだけでなく多くの人の「記憶」)は、音楽と共にある。
ニュージーランドの記憶も、シエラレオネの記憶も、東ティモールの記憶も、音楽がうめこまれている。
また、クラシック音楽をきくなかで、ぼくは、ぼく個人の記憶ではなく、そのなかに「歴史の記憶」がうめこまれているように聞こえることがある。
そして、音楽は、「未来」への希望の音色でもある。
映画『戦場のピアニスト』のピアノの音色が「希望の音色」であったように、人をひきつけてやまない音楽は、人の「深い地層」におりてゆき、そこに光を点火する。
音楽は、ただ生きることの歓喜という「基層」にうめこまれた光の芯である。
このように、歴史と地理、時間と空間を超えてゆく音楽に、ぼくは支えられ、そして多くのことを教えらてきた。
村上春樹が語るように、文章を書くときに大切なことは「リズム」であることを、ぼくも音楽から学んだ。
仕事も、同様に、リズムと躍動感が大切である。
リズムと躍動感は、生きることと同義でもある。
生きていくうえで「何かがおかしくなる」ときは、きまって、リズムがおかしくなるときだ。
だから、ぼくは、「Add Some Music To Your Day」というビーチボーイズの歌のように、自分の生に「音楽」の音色と躍動を注ぎつづけていきたい。
ビーチボーイズはこの曲で「太陽の下で皆が自分の日に音楽を加えれば、世界はひとつになることができる…」と歌っている。
「世界がひとつ」になるかどうかはわからないけれど、世界のさまざまな場所で、世界のさまざまな人たちがそれぞれの仕方で、音楽を通じて、生きることの歓びという地層におりてゆくことで、肯定的なものが語られ創りだされることを願いながら、ぼくは音楽の音色と躍動を自分の生にそそぎたい。
「カキフライ理論」(村上春樹)にうなってしまう。-「りんごの果肉(理論)」(見田宗介より)に繋げて。
村上春樹・柴田元幸の著作『翻訳夜話』(文藝春秋)を読み返していて、村上春樹の、あの有名な「カキフライ理論」をみつける。
🤳 by Jun Nakajima
村上春樹・柴田元幸の著作『翻訳夜話』(文藝春秋)を読み返していて、村上春樹の、あの有名な「カキフライ理論」をみつける。
知らない方向けに、まずは「カキフライ理論」について、である。
村上春樹のところにきた質問のなかに、こんな質問があった。
「入社試験で原稿用紙三枚なら三枚ぐらいで自分について書きなさい」という試験問題があって、「そんなもの、原稿用紙三枚ぐらいで書けるわけない。村上さんだったら、どうしますか」という質問である。
村上春樹の「カキフライ理論」はここで登場する。
…そういうとき、僕はいつも言うんだけど、「カキフライについて書きなさい」と。自分について書きなさいと言われたとき、自分について書くと煮つまっちゃうんですよ。煮つまって、そのままフリーズしかねない。だから、そういうときはカキフライについて書くんですよ。好きなものなら何でもいいんだけどね、コロッケでもメンチカツでも何でもいいんだけど…
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文藝春秋)
この「アドバイス」の素晴らしさに、ぼくはうなってしまう。
村上春樹は、丁寧にポイントを伝えている。
…僕が言いたいのは、カキフライについて書くことは、自分について書くことと同じなのね。自分とカキフライの間の距離を書くことによって、自分を表現できると思う。それには、語彙はそんなに必要じゃないんですよね。一番必要なのは、別の視点を持ってくること。それが文章を書くことには大事なことだと思うんですよね。
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文藝春秋)
村上春樹が書くように、自分とカキフライの間の「距離」が自分を語る。
その「距離」から生み出される「物語」が、自分を語るということ。
それにしても、「カキフライ理論」という命名と方法の妙に、ぼくは幾度もうなってしまう。
理由の一つ目は、誰でもがわかる名前であること。
理由の二つ目としては、忘れられない命名であること。
それから、三つ目として、やはり「カキフライ」であること。
「べつにカキフライじゃなくてもいいんだけど」と言う村上だが、ぼくは、やはりこれはコロッケでもメンチカツでもなくて、「カキフライ」ではなくてはならなかったのではないかと思う。
この理論を特別なものとするのは、あるいは村上春樹の理論とするには、やはり「カキフライ」でなくてはならなかったのではないかと思うのだ。
「カキフライ理論」を知ってから、「カキフライ」について原稿用紙三枚ぐらいで書こうとは思って、でもまだ書けていない。
その代わりに、旅を書き、シエラレオネや東ティモールを書き、コーヒーを書いては麺を書いたりしている。
ここで終わってしまっては「別の視点」はなくなってしまうので、「りんごの果肉理論」につなげておこう。
「りんごの果肉理論」は、そのような言葉はないけれど、発想そのものは社会学者の見田宗介からである。
見田宗介は「自分について」ではないけれど、「宮沢賢治について」を、本一冊(『宮沢賢治ー存在の祭りの中へー』岩波書店)かけて書いている。
(カキフライ理論の発祥のもとになった「自分」ということにつながるのだけれど)<自我>という問題を追い求める、この著書の「あとがき」で、見田宗介はこんなことを書いている。
この本の中で、論理を追うということだけのためにはいくらか充分すぎる引用をあえてしたのは、宮沢賢治の作品を、おいしいりんごをかじるようにかじりたいと思っているからである。賢治の作品の芯や種よりも、果肉にこそ思想はみちてあるのだ。
見田宗介『宮沢賢治ー存在の祭りの中へー』岩波書店
これが、ぼくが勝手になづける「りんごの果肉理論」だ。
世界の「中心的なものの構造」は、語ることが難しく、そして語ることで世界の面白さを脱色してしまう(金の卵を産む卵をどこまでも解体しても、そこには肉の塊があるだけだ)。
「中心」は語るのではなく、それに「陽射された世界を語ること」と、見田宗介(真木悠介)は別のところで書いている。
中心(芯や種)に照らされるのが、<果肉>だ。
りんごの芯や種はかじってもおいしくないけれど、ぼくたちは<果肉>を楽しむことができる。
「カキフライ」は、<果肉>である。
上記の文章につづけて、見田宗介はこのように語る。
そしてこのような様式と方法自体が、<自我>をとおして<自我>のかなたへ向かうということ、存在の地の部分への感度を獲得することという、この仕事の固有の主題と呼応するものであることはいうまでもない。
…この書物を踏み石として、読者がそれぞれ、直接に宮沢賢治の作品自体の、そしてまた世界自体の、果肉を一層鮮烈にかじることへの契機となることができれば、それでいいと思う。
見田宗介『宮沢賢治ー存在の祭りの中へー』岩波書店
村上春樹が言うように、「自分」を書くことはどこかで煮つまってしまう。
見田宗介が言うように、「りんごの芯や種」をどこまでも解体し分解しても、果肉のおいしさはみつからない。
カキフライが、りんごの果肉が、この世界の<おいしさ>なのだ。
ぼくたちはただ、それらの<おいしさ>を楽しみ、豊饒に生きてゆくことへと生を解き放つこと。
このように、カキフライ理論は、じつは、深みと可能性をもった理論である。
それにしても、「カキフライ」について書こうとすると、つい「生カキ」が頭に浮かんで、ぼくのなかでは「カキ理論」になってしまう。
「フライ」の部分が取り去られてしまう。
だからっていうわけではないけれど、上述のように、「カキフライ」についてはまだ書いていない。
でも、「カキフライ」を題名にして、カキフライではなく「カキ」について書くことが、「ぼく」自身について書くことなんだろうなと、今書いていて、ぼくは気づく。
カキフライも、カキも、深い。
世界は<おいしさ>に充ちている。
ぼくの「本の読み方」(学び方)のひとつの例。- Terry Warner著『Oxford Papers』を題材に。
ぼくにとってとても刺激的で興味が尽きないけれど、格闘している書籍。『Oxford Papers』と題された書籍。...Read On.
ぼくにとってとても刺激的で興味が尽きないけれど、格闘している書籍。
『Oxford Papers』と題された書籍。
著者は、哲学者であり、The Arbinger Instituteの創業者であるC. Terry Warner。
The Arbinger Instituteは、アメリカに拠点をおき、個人・組織・企業に研修、コンサルティング、コーチングなどを提供する機関である。
The Arbinger Instituteの名前のもとに出版されたベストセラーに、『Leadership and Self-Deception - getting out of the box』がある。
日本でも、『自分の小さな「箱」から脱出する方法』(大和書房)として出版され、ベストセラーとなり、今でも読者を獲得している。
『Oxford Papers』(The Arbinger Institute)は、『Leadership and Self-Deception - getting out of the box』(『自分の小さな「箱」から脱出する方法』)の理論的バックボーンとなった論文集である。
所収されている論稿は、次のような内容だ。
【Contents 目次】
I Anger and Similar Delusions
II Locating Agency
III Self-deception as a Vacuous Experience
IV The Social Construction of Basic Misconceptions of Behaviour
V Irony, Self-deception and Understanding
「self-deception(自己欺瞞、自分をだますこと)」の研究に献身してきたC. Terry Warner氏の理論が集められており(Oxfordで準備された文章である)、哲学者・心理学者Ram Harreが評するように、この理論的な仕事は「深く、そして重要」である。
その深さとアカデミックな書式・文体もあり、とても難しく、とっつきにくい内容だ。
その難しさゆえに、もっと「一般的な読者」向けにと書かれたのが、『Leadership and Self-Deception - getting out of the box』(『自分の小さな「箱」から脱出する方法』)である。
でも、この『Leadership and Self-Deception』も、実はとても深い。
これらの深さと複雑さは、「self-deception(自己欺瞞、自分をだますこと)」そのものから来ている。
むしろ、だからこそ、「self-deception(自己欺瞞、自分をだますこと)」が、強固な仕方で、ぼくたちを「箱」のなかに閉じ込めているとも言える。
「箱」は、自分自身が自分自身をだましながらつくる「現実」という名の「世界」だ。
『Leadership and Self-Deception』では、物語仕立てで、チーム・組織における自己欺瞞、家庭における自己欺瞞の話が展開される。
邦題の『自分の小さな「箱」から脱出する方法』は、「勘違い」を起こしやすい。
「自分の思考を出て考えよう」的な、浅いイメージを起こしがちだ。
少なくとも、ぼくはそう感じて、長いあいだ、この書籍を読まずにいた。
しかし、読み始めて、その内容とメッセージの重要さと深さを認識し、英語のオリジナルタイトルにある「Leadership and Self-deception」の意味合いがよくわかった。
その「感動」にひかれるままに、数年前に、『Oxford Papers』をThe Arbinger Instituteから取り寄せることになった。
本を開いては1ページ読み、閉じてはまた開くことを、ときおりしながら、この「深さと重要さ」に格闘している。
そのような本だから、誰にでもすすめられる本ではない。
でも、『Leadership and Self-Deception - getting out of the box』(『自分の小さな「箱」から脱出する方法』)はすすめることのできる本だ。
「Takeaway」として要点を簡潔に書きすぎると、間違って、あるいは浅く理解されてしまうので、ここでは書かないけれど、もし心と脳に「ひっかかる」ものを感じたら、ぜひ読むことをおすすめする。
そこでの感動と「知のとびら」の開き方によっては、『Oxford Papers』に導かれるのもひとつだ。
この書籍の「活用方法」(効用)が気になる方向けには、英語版の第二版の終わりに書かれているガイドが役に立つ。
書籍が役に立てられてきた5つの領域は次の通りである。
- 企業の採用におけるスクリーニングと採用
- リーダーシップとチームビルディング
- 紛争解決
- 説明責任(アカウンタビリティ)の変容
- 個人の成長と発展
ぼくの「活用の仕方」で言えば、「ぼく自身の実践」と『Leadership and Self-Deception - getting out of the box』と『Oxford Papers』を自由に行き来しながら、考えては実践し、実践しては考えることを繰り返している。
そのような繰り返しのなかで、先日ブログにも書いたDon Miguel Ruiz著『The Four Agreements』のなかにある、「Agreements(約束・契約)」というコンセプトとの交差をみつける。
それから、「あぁ、「繰り返し」と言えば、片岡鶴太郎が「反復」を一生懸命に語っていたなぁ」とも思う。
学びと実践のいろいろが、いろいろに「繋がる」という学びの本質を、ぼくは楽しむ。
「本を読む」ということでは、ぼくは今は「多読型」だ(もちろん、「軸」をつくるためには「深く」読み込むことが大切であることを付け加えておきたい)。
それも「平行多読型」である。
何百冊を平行して読む。
「繋がる」という学びの本質を楽しみながら、実際に「変わること」の確かな拠点とするために。
片岡鶴太郎著『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる』。- 確かなところに「降り立つ」生き方。
仕事に出かけたり画を描きはじめる時間からさかのぼって6時間前に起きるという片岡鶴太郎の「一日の過ごし方」に興味をもって、片岡鶴太郎の著作を読む。...Read On.
仕事に出かけたり画を描きはじめる時間からさかのぼって6時間前に起きるという片岡鶴太郎の「一日の過ごし方」に興味をもって、片岡鶴太郎の著作を読む。
『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる』(SB新書)と題された著作の帯には、次のように書かれている。
・ほんの少しの習慣で「定年後」を謳歌する!
・モノマネ芸人、ボクサー、役者、画家、書家、ヨガ。幾つもの顔をもつ逸楽の達人に学べ!
著作の内容から考えると、タイトルと「定年後」という言葉は(読者層が意識され)若干とってつけた感があるが、著作を通じて片岡鶴太郎の生きてきた軌跡が語られている。
子供のころから、芸人を目指した日々、有名になっていく過程、プロボクサーを目指した経緯、画家になった物語、そして今に至る「片岡鶴太郎」が語られ、そこに通底するエッセンスを取り出してつくられたのが、この著作である。
ぼくがテレビのブラウン管にみていた芸人としての片岡鶴太郎は、その後、役者・プロボクサー・画家としても生きていく。
そんなメディアニュースを耳にしながら興味をおぼえていたけれど、こうして、その経緯とそこに込められた気持ちや生き方を正面から「聞く」のは、この著作においてであった。
目次は次のとおりである。
【目次】
序章:“ものまね”からスタート
1章:62歳、まだまだやりたいことだらけ
2章:画家として立つ
3章:「思い」を「実行」に移す
4章:どうやって身を立てるか
5章:自分の魂を喜ばせるために何をするか
6章:新たなことをはじめる勇気
おわりに
いくつかのエッセンスをひろっておきたい。
1)「ものまね」
「ものまね」を喜びとし芸としてきた片岡鶴太郎は、こんな「提案」をする。
「本気で遊べば人生は愉しくなる」
そのために、まずはものまねをしてみてはいかがでしょうか?
片岡鶴太郎著『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる』SB新書
片岡鶴太郎は、よく使われる「守破離」の「守」にふれている。
師弟関係の基本を説く言葉の「守」は、まず師匠の「型をまねる」ということからはじまる。
「自分がほんとうにしたいこと」と「まねるという学び」を追い求める先に、よろこびの花が咲くところを生きてきたのが片岡鶴太郎であった。
「追い求める」は、片岡自身が述べるように、反復の連続である。
そして、「守破離」は、師匠の型を破り、独自性の境地へと「離陸」する思想であり言葉であるけれど、片岡鶴太郎は離陸しながらも、確かなものに「降り立つ」ことを生き方としてきた人であると、ぼくは思う。
2)「魂の歓喜」
確かなものとして、片岡鶴太郎が語っているのは「魂の歓喜」である。
「魂」という言葉は使い方がむずかしい。
それが語られる場や状況によっては、そこに特定の価値観や前提があるように感覚されるからである。
しかし、おそらく、片岡鶴太郎はやはり、そのようにしか語ることができないような「広い海」のただなかで、生きているように見える。
ひとつ気をつけておきたいのは、片岡鶴太郎は、著書のなかで、魂の歓喜は、新しいことにチャレンジした「先」に待っているギフト(贈り物)だと書いている。
それは、自分のなかの(自分を歓喜させる)「芽」が芽吹いてもたらされるとしている。
つまり、「結果」としての贈り物だというふうに書いている。
著作全体を読んだあとに、ぼくが感じた「片岡鶴太郎」は、しかし結果だけに歓びをみているわけではない。
その「過程」も(苦しさとたくさんの悩みとともに)楽しんできたように、ぼくは感じる。
この著作のコアなメッセージは、ここに焦点している。
「おまえは芸人として、役者として成功したから、そんな呑気なことが言えるんだろ」と叱られるかもしれません。それでも私はこう言いたい。
もっと根源的に自分の魂を喜ばせるために何ができるかを追い求めましょうよ、と。私自身が昔も今も追い求めているものは、ただその1点のような気がします。
片岡鶴太郎著『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる』SB新書
「ただその1点」と、片岡鶴太郎は語っている。
3)「土台」つくり
「ただ1点」としての「魂の歓喜」の追求を支えるものとしての、生きることのいわば「土台」をつくっていくことにたいして、片岡鶴太郎は敏感だ。
それは「基礎」つくりと呼んでもいい。
例えば、料理にチャレンジしているなかに、「画を描くこと」と「料理を作ること」の共通点をみつけていく。
「このコツ」は「あのコツ」と同じじゃないかという、スキルやマインドの「深い地層」の部分での接続を、つねに意識しながら、活動の反復をくりかえす。
そんなエピソードがちりばめられている。
そして、反復をくりかえす片岡鶴太郎は、(1章の扉に彼の「書」が置かれているように)「無我夢中」である。
「無我」の言葉通り、自分をなくす地平に向かって、圧倒的な集中の状態(フロー状態)の「夢の中」におりてゆくのだ。
さて、冒頭に記した「ぼくの(もともとの)興味」にも触れておきたい。
現在62歳の片岡鶴太郎の一日は、仕事や画を描く前の6時間前の起床(早朝3時や4時)にはじまる。
朝はヨーガ(呼吸法、ヨーガのポーズ、瞑想)にはじまる。
これら一連の活動に3時間近くかかる。
そして、水シャワーを浴びて、朝食にうつる。
「一日一食」の食生活を継続している片岡鶴太郎は、それを朝食にあて、玄米・野菜・フルーツ・豆などの種類も量も多い朝食に2時間をかけるという。
それから身支度で、6時間。
朝9時から画を描いたとして、8~9時間ノンストップで描き、それからシャワーを浴びて、夜7時・8時には寝るという。
「また明日も画が描ける」という気持ちで眠りにつき、朝起きるのが楽しみで仕方がないという。
どのように生きるのかという、その多様性を、片岡鶴太郎はぼくに開示してくれている。
20代後半のあるとき、有名になったけれど「とんでもなく醜い人間を鏡の中に見た」片岡鶴太郎は、自身との対話の末に、こう決める。
「どんなに小さな河でもいい、たとえ獣道でもいい。自分の道を探そう」
片岡鶴太郎著『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる』SB新書
役者、プロボクサー、画家として「自分の道」をひらいていくことになる決意が、そのようになされたことを、ぼくは今になって知る。
「あとがき」の最後に置かれる言葉、「汝の立つところ深く掘れ、そこに必ず泉あり」のように、その後、片岡鶴太郎は一層「深く掘る」ことを日々としていく。
必ずある「泉」を信じて、確かなところに「降りてゆく」思想であり生き方である。
「幻想の相互投射性」(見田宗介)という世界のあり方の洞察。- 見田宗介著『白いお城と花咲く野原』。
ドイツの劇作家・詩人・演出家であったベルトルト・ブレヒトの反民話(あるいはメタ・メルヘン)を、社会学者の見田宗介はとりあげている。...Read On.
ドイツの劇作家・詩人・演出家であったベルトルト・ブレヒトの反民話(あるいはメタ・メルヘン)を、社会学者の見田宗介はとりあげている。
それは、このような反民話である。
<むかしはるかなメルヘンの国にひとりの王子様がいました。王子様はいつも花咲く野原に寝ころんで、輝く露台のあるまっ白なお城を夢見ていました。やがて王子様は王位について白いお城に住むようになり、こんどは花咲く野原を夢見るようになりました>
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
ここに見られる<白いお城>と<花咲く野原>から、見田宗介は「世界のあり方」を考えている。
1986年に、論壇時評のひとつとして書かれた「白いお城と花咲く野原」と題される文章で、それはそのまま書籍のタイトルともなった(なお、この書籍はその後圧縮されて、見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫として出版された)。
上にあげたブレヒトの『メルヘン』について、ドイツ文学者の今泉文子は「近代合理性の中で『骨抜きにされ、薄められた』メルヘンに対する風刺」であると解釈するのにたいし、見田は、<近代>と<前近代>との「幻想の相互投射性」ともいうべきものへの洞察として、より普遍的にとらえている。
ブレヒトの『メルヘン』は…世界のあり方についての洞察である。<白いお城>と<花咲く野原>の、相対性原理。世界がメルヘン的なのだ。
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
「隣の芝生は青い」という幻想の一方向性ではなく、ここでは「相互」に投射する「相対性原理」が述べられている。
自分がいま立っている、まさに「ここ」は、外部の他者たちが「夢見る」場所であるかもしれない。
ぼくは、「幻想の相互投射性」ということを、以前、「旅(非日常)と日常」ということの文脈で考えはじめた。
大学のときに一歩を踏み出した「アジアへの旅」を通じて、ぼくはたくさんのことを体験し、そして考えた。
東京の日常にいると、旅への幻想がつのっていく。
逆に、アジアへの旅に出ていると、日本の日常がいとおしくなってくる。
そんな「幻想の相互投射」をくりかえしているうちに、いまいる「ここ」は、他者たち(いまの自分ではない自分を含め)が「夢見る」ところだと、感覚しはじめた。
そのことは、旅という文脈だけでなく、都会と田舎、(見田がいうように)近代と前近代などなど、あらゆる「相対」のものの真実であるのだ。
「白いお城」だけがメルヘン的なのではない、「花咲く野原」だけがメルヘン的なのではない。
<白いお城>も<花咲く野原>も、メルヘン的なのだ。
見田宗介が語るように、これが「世界のあり方」である。
だから、この「世界のあり方」のなかで、どのような幻想(物語)を生きていくのかというところに、ぼくたちの生き方の選択は向けられる。
それにしても、「白いお城」と「花咲く野原」があれば、ぼくはどちらも楽しみたいと思う。
ここ香港は、「白いお城」と「花咲く野原」がいっぱいにひろがっている。
都会と自然があり、お城の生活をおくりながら、野原をかけめぐることができる。
ここも例外なく、幻想の相互投射がいっぱいにはりわたされている空間だ。
香港で、約30年前の「アグネス・チャン」が語る言葉に、ぼくは耳をすます。- 社会の力学と「虚構の時代」の生き方。
社会学者・見田宗介の1985年の「論壇時評」を読み返していて、「アグネス・チャン」について語られる箇所に眼がとまる。...Read On.
社会学者・見田宗介の1985年の「論壇時評」を読み返していて、「アグネス・チャン」について語られる箇所に眼がとまる。
アグネス・チャンが香港に生まれ今は日本にいて、ぼくは日本に生まれ今は香港にいるということも、気になる理由のひとつとしてある。
しかし、焦点は、アグネス・チャンの語る「言葉」であり、そこから見えることである。
アグネス・チャンの言葉でありながら、ぼくは、たくさんの「アグネス・チャン」がいただろうし、今もいるだろう、と思うところで、書きたいと思ったのだ。
「論壇時評」として、その元となったのは、雑誌『広告批評』(1985年3月号)における特集「女はなにを考えているか」であった。
アグネス・チャンは日本に来てスターになって、プロダクションから、きついことは言うな、はっきり意見を言うな、みんなに好かれねば困るからと言われる(同誌)。…
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
アグネス・チャンが日本で活動を始めたのは1970年前半のことである。
「きついことは言うな、はっきり意見を言うな」という指示には、いくつかのことが交差しているように見える。
ひとつには、「スター」という立場に置かれたことからくる、「みんなに好かれねば」という圧力である。
彼女に限らない人たちに向けられた圧力としての言葉であり、圧力としての言葉であった(である)。
このことが一つある。
そして、二つ目には、河合隼雄が「母性社会日本の病理」として日本社会を分析したように、「母性原理」が優位にはたらく日本社会の力学が交差してくる。
それは、母性原理のもとで「みんなが平等」という力学のなか、スターに限らず、社会の内部に身をおく人たちに向けられる。
また、香港を出身とする人物ということが、「日本社会」を逆照射する仕方で、照明をあてる。
「きついこと」「はっきりした意見」を生きることの作法とする「香港」という社会、そしてそこに生きる人たち(たくさんの「アグネス・チャン」)。
コミュニケーションの仕方のすれ違いがいっぱいにあっただろうと、香港に住むぼくは思う。
香港で仕事をすることになった日本の人たちのなかには、日本とは(コミュニケーションの仕方において)「逆転」する社会に生きる困難さにぶつかることがある。
例えば、「きついこと」や「はっきりした意見」を言われることで、戸惑いの気持ちを覚える。
あるいは、「はっきりした意見」や考えを伝えないことから、言いたいことがまったく伝わらない。
日々、このようなすれ違いが、あらゆるところで起きている。
それから、三つ目には、この論壇時評を書く見田宗介の念頭にあった、「虚構の時代」という時代性である。
アグネス・チャンは、(1985年に)このように語っている。
…「でも、いまは全然そうは思わない。百人に一人だって、自分のこと応援してくれるんだったらたいしたものですよね。はっきり言ったほうが応援しやすいと思う。あいまいな時代って、これから消えるような気がするんだけど。」
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
この発言がなされたときから30年以上が経過した現時点においては、「百人に一人の応援」の方向に時代は一方向にて進んできているけれど、「あいまいな時代」も消えずに残っている。
その二つの力線が、コミュニティや社会のあり方として、ときに平行し、ときに拮抗し、ときに相互に相入れずに存在している。
そして、「虚構の時代」は、その時代幅を長くしながら、今も延命している(例えば、「サブプライム」の問題の本質は、虚構の上に虚構をかさねていったものの瓦解である)。
「虚構の時代」への向き合い方ということでは、見田宗介は、つづけて、このように書いている。
…スターだからというのではなく、スターでさえというべきだろう。時代に作られる存在であることから、時代に対してまっすぐに立つ人間であることへの、ひとりの青年の自己解放の軌跡をそこにみることができる。
虚構にたいしてこのように同じく敏感でありながら、「私ね、真剣なんです。イヤぐらい真面目ですよ」というアグネスは、この特集の他の先端的な女たちとは、べつの方向に出口を求めているように思える。「新しい曲も、シンプルで前向きなラブ・ソング。いま、ようやくやろうとしてることが、全部同じ方向に向いてきたんです。」という彼女は、虚構をつきつめて逆手にとって自己を表現するというよりも、虚構のない世界をシンプルに希求している。クラシックなのだ。クラシックということは古いということではなく、時代をこえたものに根づこうとしていることだ。
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
ぼくは、「虚構をみずからの存在の技法」とするのではなく、虚構のかなたにある虚構のない世界を希求している。
時代をこえたものに根づくことを、生きている。
しかし、時代の「力学」の移行期において、また「虚構の時代」がつづくなかで、まだまだ壁にぶつかっては立ち上がることの連続である。
テトゥン語(東ティモール)を久しぶりに使いながら。- 「言語の貯蔵庫」のドアを開ける。
久しぶりに、東ティモールの言語である「テトゥン語」を使って文章を書いた。...Read On.
久しぶりに、東ティモールの言語である「テトゥン語」を使って文章を書いた。
簡単なやりとりであれば、東ティモールを去った後もあったけれど、一対一を超える人たちに見てもらう文章を書くということで、姿勢を正して、気合いを入れて書く。
それほど長い文章ではないのだけれど、語彙と文法をひとつひとつ確認しながら、思い出しながら、書いた。
2003年の夏から2007年の初頭にかけて東ティモールに住んでいたとき、ぼくは、テトゥン語を覚えて、日常や仕事で使ってきた。
本格的に学ぶようになったのは、最初の一年にさしかかるころであったと思う。
最初は、首都ディリにいることが多く、なんとか英語ですすめることができたのだけれど、コーヒー生産地である山に行くようになり、テトゥン語がないとまったく生活と仕事に不自由するようになっていったことが、大きなきっかけであった。
だから、まったくの「必要性」におされて、学んでいった。
参考書などはあったけれど、もちろん他の言語とは比べものにならないほど少なかった。
今では、英語や日本語によるテトゥン語の参考書は、それなりに揃っているようだ。
そのような状態だったこともあり、ぼくがテトゥン語を勉強しはじめたころは、「音」から入っていった。
それまでの「言語習得」(英語も中国語も)は、ぼくは、「字」から入っていったけれど、テトゥン語は「音」で学んだ。
「音」を中心に学んでいく言語は、不思議なものであった。
そのようにして「音から学んだテトゥン語」は、日常でも、コーヒー生産者との会議でも、政府関係者とのやりとりでも、生きた。
実際に、テトゥン語は「書き言葉」というよりも、「話し言葉」として発展してきたようなことも聞いていた。
だからか、生活に必要な最小限の言葉であり、「近代的な言葉」はポルトガル語やインドネシア語が取り入れられている。
必要最小限な言葉であることは、しかし、生きるということの貧しさを意味はしない。
言葉が生まれでる、あるいは言葉の背景である、人と人との関係性は、豊かな「関係の土壌」を形成している。
シンプルな「言葉の世界」は、シンプルに、豊かにつながる人と人との関係性を表現してもいる。
ぼくにとっても「話し言葉」として覚えた言語だから、書くとなると、それなりの準備と確認が必要になる。
そして、すでに10年前に日常で使うことをしなくなった言語であるから、ぼくのなかの「言語の貯蔵庫」の具合が、気になった。
ネット上で手に入れた英語の参考書に目を通しながら、語彙を確認し、覚えていない言葉を探す。
でも、いったん、覚えていない言葉の情報の一片がわかると、「言語の貯蔵庫」のドアがひらきだす。
そして、言葉のひとつひとつから、東ティモールでの記憶が飛び立つのを感じる。
風景や交わした会話の断片が、思い出されてゆく。
それは、とても不思議な体験でもあった。
シンプルなテトゥン語の「言葉の世界」が、ぼくの記憶をきっちりと形づくっている。
そして、「言葉の世界」の外にひろがる、言葉にしてはならないあの感覚と体験が、そこにはいっぱいにひろがっている。
香港で、さまざまに「呼びかけ」られながら。- 「販促の磁場」のなかに置かれて考えること。
香港では、どこに行っても、ぼくたちはさまざまな仕方で「呼びかけ」られる。「これを買わないか、あれを買わないか」という呼びかけだ。...Read On.
香港では、どこに行っても、ぼくたちはさまざまな仕方で「呼びかけ」られる。
「これを買わないか、あれを買わないか」という呼びかけだ。
販促の「呼びかけ」が、ぼくたちに浴びせられる。
ほんとうは、香港に限らず、情報化/消費化社会では、常に、ぼくたちは「呼びかけ」られている。
しかし、香港では、勢いのある広東語のリズムにのせられて、直接的な言葉がぼくたちに投げかけられる。
例えば、こんな感じだ。
コンビニエンスストアでは、レジで支払いをするときには必ず、レジ前に並べられた商品の購入をすすめられる。
洋服などを買いにいくと、ディスカウント情報がまず伝えられ、多くの商品の購入をすすめられる。
キャセイ航空では、飛行機が一定の高度に達してシートベルトのマークが消えた途端、機内販売とディスカウント情報が伝えられたりする。
食品市場では、フルーツを買うと、別のフルーツはどうか、と声が飛んでくる。
レストランでも、おすすめのメニューをすすめられる。
スーパーマーケットでは、プロモーターの人たちが、あちこちから声をかけてくる。
こんな感じだから、ぼくがもっとも使う広東語のひとつは、「必要ありません」だったりする。
先日は、「米線」と呼ばれる、お米でつくられた麺を食べに行ったところ、机の上に「広告」のシールが貼られていた。
電気製品系であったり、美容系であったり、ミニ倉庫(家具などの保管)であったりする。
「こんなところまで…」と、ぼくは複雑な気持ちをいだきながら、感心したりもしてしまう。
また、さらには、街頭募金の呼びかけは、募金してくれた人の服に貼り付けられるシールを「買ってください」という表現がされたりもする。
「販促の磁場」のなかに置かれて、ぼくたちは、常に「呼びかけ」られている。
ぼくは個人的にはあんまり好きでなかったりするけれど、それでも、好き・嫌いの感情を通りこして、いろいろと考えさせられる。
例えば、こんなことを考えたりする。
1)きっちりと伝えること
人(出身)や階層など多様性のある社会において、やはり「きっちりと伝えること」が必要とされてきたことである。
要望などは伝えないと、相手はわかってくれない。
そんな前提のなかで、言葉で直接的に伝える。
これは販促に限らず、仕事場でもそうであったりする。
日本的文化に慣れている場合、香港では「きっちりと伝えられる」ことにびっくりしてばかりではやっていけないし、相手に「きっちりと伝えること」が大切である。
2)プッシュ型・押しで売るということ
きっちりと伝えることとつながることとして、プッシュ型・押しの力で売ることが(すべてではないけれど)方法とされている。
相手がどう思うかにかかわらず、まずは伝えること、願いを伝えること、そこからの出発である。
それにしても、その「粘り強さ」には感心させられてしまう(もちろん声をかけることが「仕事のひとつ」とされていたりする)。
なんどもなんども、いろいろな人たちに声をかけていく。
そして、きっと、そのうちの幾人かは(あるいは相当な人が)、呼びかけに応えて、購入したりするから、方法は継続されていく。
3)「功利」をこえたところにあるもの
上で書いたような「功利」的な意図がまずはありつつも、ときに、ぼくは思ってしまう。
「功利」をこえたところとして、これは「挨拶」に近いのではないかということ。
販促という呼びかけの言葉は、人と人をつなげるような、挨拶的な言葉の役割を果たしているのではないかということ。
特に、食品市場での呼びかけは、そんな様相をみせる(だから、ぼくと妻は今朝、「呼びかけ」に応えて、すすめられたフルーツを追加で購入してしまった)。
「香港」というところは、歴史的にも人の移動が多く、ここに根ざす人たちのアイデンティティ形成の歴史は比較的に言えば長くはない。
そのような土地で、言葉の交わし合いは、人と人とをつなげるうえでとても大切であると、ぼくは思う。
だから、「販促の磁場」におかれながらも、ときに、ぼくはそんな感覚のなかで、販促という表層をこえて、笑顔をかえす。
静かにお金を渡し、静かに商品を受け取るよりも、「販促という名の挨拶」による言葉の行き交いのなかで物を買う方がよいのではないかと思ったりする。
そういうふうにカッコよく文章を終えたいのだが、あまりにも機械的な販促に、ぼくはそっけない応答をしてしまうことも多い(静かに買い物をしたいときって、ありますよね)。
そんなときにうっとうしく思ってしまう販促も、香港を一時的に離れると、ほっとした気持ちと、しかし他方でさびしさのようなものを感じてしまう。
そうして香港に帰ってきて、販促の磁場におかれると、「あぁ、香港だな」と思ったりする。
香港の「販促の磁場」はそんなことも含めて面白く、深く考えさせられてしまう。
大学進学で「専攻」を決める際に感じていた違和感ととまどい。- 真木悠介著『現代社会の存立構造』で得たヒント。
大学進学において「専攻」を決めなければいけないという、生きることの「岐路」のひとつで、ぼくは違和感を覚えていた。...Read On.
大学進学において「専攻」を決めなければいけないという、生きることの「岐路」のひとつで、ぼくは違和感ととまどいを覚えていた。
ひとつには、多くの人たちがそうであるように、やはり「将来やりたいことがつかめない」ということ。
実際の「経験」という土壌が不足していたことが原因のひとつであろうけれど、このことは、大学進学においてだけでなく、その後の人生においても幾度も立ち止まるときがやってくる問題である。
違和感ととまどいのもうひとつは、文系における専攻の選択において、「社会の科学」か「人間の哲学」か、という大きな分かれ目を前に感じるものであった。
当時、この「大きな分かれ目」で感じたのは、このどちらかに引き裂かれるような思いであった。
シンプルに言えば、前者は「将来お金になる」学問であり、後者は「将来お金にならない」学問という認識を原因とする、引き裂かれる思いであった。
社会の科学は、経済や経営、社会や法律などの、客観的にみられる法則などを学ぶ学問で、「将来ビジネスとして使える」学問である。
他方、文学やアートなどの「人間の哲学」は、大人たちの「眼」からは、「お金にならない」学問だ。
文学やアートなどの「人間の哲学」は、ぼくにとっても「生きられる問題系」であった。
しかし、ぼくという自己」は大人たちの「眼」を内側に強く引き込み、その「眼」は、ぼくに「将来お金になる」学問を強くすすめるような強い視線を、意識のなかで投げかけていた。
ぼくの解決は、この引き裂かれる思いのなかで、外国語という言語の選択であった。
それは、使い方によっては、「将来(ビジネスに)役にたつ」学問であり、他方では文学などの「人間の哲学」のための学問でもあった。
このように、ぼくのなかでは、「社会の科学」と「人間の哲学」は、二つの大きく異なる学問という認識であった。
そして、「役に立つ・役に立たない」という次元だけで語ることのできない違和感ととまどいが、ぼくのなかに残っていた。
大学に入ってのち、「社会の科学」と「人間の哲学」という二つの視点を統合するような見方(パースペクティブ)を与えてくれたのは、社会学者・真木悠介の著作『現代社会の存立構造』(1977年)という、硬質な著作であった。
真木自身が語るように、難しい議論で、誰にも読まれないような著作だから、見田宗介=真木悠介の「著作集」からは外された仕事である(2014年、大澤真幸の解題がつけられ復刻版が朝日出版社から出された)。
社会学者である見田宗介=真木悠介の著作群に出会うなかで、過去の著作を片っ端から読み返している内に、ぼくはこの『現代社会の存立構造』に出会った。
この著作の全体は、確かに一筋縄では太刀打ちできず、「格闘」が必要であったが、その「序」の部分だけでも、ぼくの「見方」を変えてしまうのに充分であった。
「社会科学へのプロレゴーメナ」と副題がつけられた「序 存立構造論の問題」において、「人間の哲学」と「社会の科学」の二つの視点の「相互疎外」、それから「問題のたて方」自体の問題ということを述べている。
まず、「社会」は、日常の意識において、対象的=客観的に、そこに確実にある「もの」のように、「私=個人」からは感覚されることが語られる。
「社会」には客観的な法則があって、「個人」は法則を理解し利用することで利益を得たりあるいは失ったりする。
ぼくたちには、日常で、このように感覚する。
しかし、この「自明性」自体を問題としながら、「近代社会諸科学」が何を問い、何を答えてきたかと、真木悠介は考察する。
出発点は「近代理性(分析理性)」である。
…分析理性こそはまさしく、近代社会における諸個人の存在形態に直接的に適合する理性の形式であるから、分析理性的な諸科学は「近代社会の自己意識」として、必然的に市民社会の支配的な社会諸科学である。
…近代社会諸科学の主題の骨格をなしているのは、対象的=客観的に存立する社会諸形象(商品・貨幣・資本・利子率・国家・官僚制・法・道徳、等々)と、その運動として成立する対象的=客観的な諸法則である。そしてこれらの法則をその「運命」または「利益」として身にこうむる主体の生の現実性は、「文学」あるいは<実存>の哲学等々の主題としてその体系から疎外される。このことは根拠のないことではない。なぜならば近代社会は、まさしく対象的=客観的な物象として存立し完徹する社会的諸形象および社会的諸法則を、現実にその構造の骨格となすからであり、個々の主体はこれをただ身にこうむりつつ、せいぜいこれを「利用」し「操作」することを試みる偶然性として、そして同時に「内面的には」自己絶対化された「私」の個別性として、したがって挫折する「実存」の悲劇性として、現実に存立するからである。
真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房)
「社会の科学」と「人間の哲学」との分裂の把握と乗り越えの方途について、真木悠介は、マルクスの仕事から取り出している。
「マルクス」という名前には、すでにそこにさまざまな「主義」や偏見や感情がぬりこめられているけれど、それらを取り除き、真木悠介は、マルクスの仕事を土台に『現代社会の存立構造』を展開している。
マルクスの仕事にも依拠しながら、「社会の科学」と「人間の哲学」との分裂という、凝固した「客体−主体」図式を、問題化する。
例えば、「国民経済学」は、私有財産がたどる物質的な過程を一般的・抽象的な公式で「法則」として語るけれど、このような「法則」がどのように私有財産の本質から形成されるかは語らない。
真木悠介は、この例をあげながら、次のように述べている。
ここでは既成体としての事実に内在し、物象化された事実を立脚点とする分析理性の方法にたいし、これらの「物質的な」諸形象・諸法則をその生成の論理において解明し把握する、弁証法的理性の方法が端的に対置されている。
真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房)
「物象化」とは、「事物・のように・なること」である。
事物と(感じられるように)なった「社会」ではなく、事物のようになる過程そのものに焦点をあてることが、方法として取り出されるわけである。
物象化された対象性としての「法則」の客観的な認識としての「社会の科学」と、疎外された主体性としての「実存」の主観的な表出としての「人間の哲学」を相互に疎外し、それぞれの内部をさらに、部分的な函数関係や部分的な意味連関へと分解する分析理性の問題のたて方(プロブレマティーク)とは逆に、弁証法的な理性は、このような双対性の地平そのものの存立の構造の問いへ、具体的には、対象的な社会諸形象の「法則的」な存立の機制、したがってまた、主体的な精神諸現象の「実存的」な存立の機制そのものを対自化する問いへ、問題機制(プロブレマティーク)そのものをまず転回する。
真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房)
ぼくが大学の「専攻」を選択するということに感じていた違和感ととまどいは、近代理性・分析理性とそれに支えられた近代社会諸科学、それから近代社会の現実に存立する仕方に、根拠をもつものであったということである。
ぼくは、あらかじめ、違和感ととまどいを感じるように仕掛けられていたともいえる。
ぼくの違和感ととまどいは、マルクスや真木悠介が正面から主題化し、その問いを「社会の存立構造」にまでひろげていった問題意識とつながっていたわけだ。
その展開は、マルクスの『資本論』であり、真木悠介の『現代社会の存立構造』という著作になる。
ここではこれ以上ふみこまないけれど、「もの」のように見える「社会」と「個人」の二元論を、端的に超える見方を最後にみておきたい。
マルクスは、人間の本質は「社会的諸関係の複合的総体(アンサンブル)」と述べている。
真木悠介は、その人間=社会把握に触れて、こう書いている。
歴史の主体=実体は、「個人」でも「社会」でもなく、「つながりあう諸個人」の「相互につくり合う」関係そのものである。ここには原子論と全体論、方法的「個人」主義と方法的「社会」主義との同位対立の地平を端的に止揚する、あるがままの事態の実相に定位する人間=社会了解の境位が示されている。
真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房)
ぼくは、見田宗介=真木悠介に出会い、勇気付けられてきた。
ぼくが感じていた違和感やとまどい、問題意識などが、「あってもよいもの」だということ、それを透明に追い求めてもよいのだということに、肩をおされる。
見田宗介=真木悠介は、『現代社会の存立構造』後も、主体ー客体、個人ー社会、そして「社会の科学」と「人間の哲学」という分裂と相互疎外をこえる視点と視野で、人と社会を論じてきた。
「現代社会」という「ハードな問題系」を書きながら、その裏にはいつも人の内部問題である「ソフトな問題系」を意識している。
逆も然りである。
そのような問題意識と方法、そして人と社会に向けられる「冷静な頭脳」と「温かい心」が、ぼく個人はもとより、人と社会の未来の道ゆきに照明を照らしてくれている。
途上国で感じる「懐かしさ」という感覚を掘り下げて。- シエラレオネで、東ティモールで。
いわゆる「途上国」と呼ばれる国をおとずれた人たちが、しばしば現場の感想として口にするのは、「懐かしい感じがする」という感覚だ。...Read On.
いわゆる「途上国」と呼ばれる国をおとずれた人たちが、しばしば現場の感想として口にするのは、「懐かしい感じがする」という感覚だ。
ゆったりとした環境、人懐っこい笑顔などに囲まれながら、「懐かしさ」を感じる。
ぼくも、同じような「感じ」を持ちながら、しかし、この感覚は「懐かしさ」なのだろうか、ということを、西アフリカのシエラレオネと東ティモールという「途上国」に4年ほど住みながら、自問してきた。
経済統計やメディアなどにおいては、シエラレオネは「世界でもっとも寿命が短い国」であり、東ティモールはアジアのなかでも「最貧国」と言われたりする。
ぼくは、西アフリカのシエラレオネには、2002年後半から2003年の前半まで、東ティモールには2003年後半から2007年の初頭まで、滞在していた。
そのような「現場」で考える。
そして、今も考えたりする(だから、こうして書いている)。
このような些細な問いがなぜ大切かということは、ひとつには、ただの「直感」であるけれど、もうひとつには、そこに「つながり」をつくるヒントが隠されているように思ったからだ。
また、「懐かしさ」という、いわば「過去」への視線が、途上国から先進国へという直線的な発展論の見方を内包しているようでもあったから、それにたいして疑問ももっていた。
東ティモールから次の香港に移ってから10年が経ち、その歳月のなかでも、ぼくが抱いてきた「感覚」や「考え」を、丁寧に掘り下げることをしてきた。
シエラレオネや東ティモールを去ってから考えるということは、ひとつには現場では「余裕」がなかったことと、そして外から見ることで客観視できるからということでもある。
さて、「懐かしさ」の感覚は、表層においては、何かの「昔っぽい」イメージ(ほんものであれ、映像であれ)が浮かびあがることにおいて、確かに感じるのかもしれない。
ぼくも以前、アジアへの旅のなかで、そんなイメージがわきあがったことを覚えている。
しかし、ぼくは、その感覚の言葉は、必ずしも正確ではないように感じてきた。
掘り下げてみると、その感覚は、人だれしもがもつ「ただ生きることということの歓び」が裸形で現れる感覚であるように思う。
「懐かしさ」は、風景にたいしての「昔っぽさ」というよりは、自分のなかに眠ったような状態にある「ただ生きることの歓び」というシンプルな感覚が深い層より裸出してくるということだ。
都会の喧騒や情報が氾濫する環境や生活で、ホコリが覆ってしまっていた地層が、(一般化はできないけれど)「途上国」の風景、それからそこに生きる人びとの笑顔によって、ホコリが取り払われる。
懐かしさは、そんな生きる歓びの原風景へとつながる感覚なのではないか。
もちろん、世界のどこにいても、人びとは厳しい生活のなかに置かれていたりするけれど(途上国における「貧しい」ということはまた別に書きたい)、そんなことも(ひとときのあいだ)突き抜けて感覚される、ただ生きるということの歓びの地層である。
これからの未来を構想することを考えているときに、人や社会はどこへ「着地」していくのかという問題意識のなかで、社会学者の見田宗介の明晰な言葉を追っていて、「生きることが一切の価値の基礎」という言葉に、ぼくの感覚が着地した。
…生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。…
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも、本原的なものである。
見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)
具体論ではないけれど、いわゆる「先進国」と「途上国」の「つながり」を考えるとき、この「歓びの生地」に、人も社会も着地をしていくことが大切であるということを思う。
あるいは、少なくとも、そこを意識しながら、交流や支援などのつながりをつくっていくことが大切である。
シエラレオネで、東ティモールで、ぼくは、「必要」なものを支援しながらも、この「ただ生きることの歓び」の地層を忘れないように、人びとや環境に接してきた。
現場で日々おきる困難と、そこに渦巻く様々な感情と向き合い、ときには必死に闘いながら。
そして、今、そのような「感覚の地層」に、人がときおり途上国に感じる「懐かしさ」がつながっているのではないかということ、それからその「感覚の地層」こそが、人と社会が次の時代に向かう「着地点」であるのではないかということを、ぼくは考えている。
Don Miguel Ruiz著『The Four Agreements』。- 言葉でつくられる世界にたいし、言葉で世界をひらく。
Don Miguel Ruiz著『The Four Agreements - A Practical Guide to Personal Freedom』(Amber-Allen Publishing)は、美しく、そして洞察の深い本だ。...Read On.
Don Miguel Ruiz著『The Four Agreements - A Practical Guide to Personal Freedom』(Amber-Allen Publishing)は、美しく、そして洞察の深い本だ。
日本語訳は『四つの約束』と題されて出版されていて、あまり多くの読者を得ていないようだけれど、英語の書籍は今でも多くの人にとって「大切な書」として手に取られている。
ドン・ミゲル・ルイスが、古代メキシコの「トルテック」の教えを、「Four Agreements」(四つの約束)としてまとめた本だ。
古代メキシコの「トルテック」という響きやその装丁のデザインからは想像しにくいほど、そのコンテンツは、生きるということの深いロジックと共に、大切な教えをぼくたちに伝えてくれる。
古代メキシコの教えというと、人類学者カルロス・カスタネダの仕事が思い起こされる。
真木悠介が名著『気流の鳴る音』で、カスタネダが得たメキシコのヤキ族の老人ドン・ファンの教えを明晰に論じている。
そのドン・ファンの教えとも一部視点が重なりながら、しかし、「Four Agreements」(四つの約束)というポイントに照準し、ドン・ミゲルは副題のとおり、自由になるための実用的なガイドをぼくたちに提示してくれる。
「Agreements」(約束・契約)とは、ここでは、ぼくたちが生きていく上で自身と結ぶ幾千もの約束・契約である。
それは、情報選別の「言葉のフィルター」のようなものである。
養老孟司は、「意識」というものは、人間の脳が世界をシミュレートするのをシミュレートするものというような言い方をしたけれど、そのシミュレートの「フィルター」のようなものが、「Agreements」(約束・契約)であろう。
それはレゴのブロックのようなもので、「約束のブロック」で、ぼくたちはぼくたちが見て生きる「世界」を脳の中に構築していく。
ポジティブなものもあれば、ネガティブなものもある。
「醜い」と言われた子供は、「醜くあること」という約束を自分自身としてしまい、そのように生きてしまう。
「Four Agreements」(四つの約束)は、そのような幾千もの約束・契約をうちやぶっていくような、自分自身との約束・契約である。
「Four Agreements」(四つの約束)とは、次のとおりである。
- 「Be impeccable with your word」(あなたの言葉を正しく使うこと、申し分のない言葉の使い方をすること)
- 「Don’t take anything personally」(なにごとも個人的に受けとらないこと)
- 「Don’t make assumptions」(憶測を立てないこと)
- 「Always do your best」(いつもベストをつくすこと)
「Four Agreements」(四つの約束)がよくまとめられているのは、そのコンパニオン・ブックである。
1 Be impeccable with your word(あなたの言葉を正しく使うこと、申し分のない言葉の使い方をすること)
一貫性(integrity)をもって話すこと。自分の言いたいことのみを言うこと。自分に反する言葉を使うことを避けること、あるいは他者のゴシップをしないこと。真実と愛の方向に言葉の力を利用すること。
2 Don’t take anything personally(なにごとも個人的に受けとらないこと)
他者のすることの何ものも、あなたが理由ではない。他者が言うことやすることは、彼(女)ら自身の現実や夢の投影であること。他者の意見や行動にたいしてあなたが免疫があるとき、あなたは必要のない苦痛の被害者とはならない。
3 Don’t make assumptions(憶測を立てないこと)
質問をしたり、あなたがほんとうに欲しいものを伝える勇気をみつけること。誤解や悲しさやドラマを避けるため、できるかぎり明確に他者とコミュニケーションをとること。この約束だけで、あなたは人生を完全に変容させることができる。
4 Always do your best(いつもベストをつくすこと)
あなたのベストはときどきにおいて変化する。病気であるときにたいし、健康であるときはそれは異なる。どんな状況でも、シンプルにベストをつくすこと。そうすれば、自己判断や自虐や後悔を避けることができる。
Don Miguel Ruiz “The Four Agreements Companion Book” (Amber-Allen Publishing)*日本語訳は筆者。
「Four Agreements」(四つの約束)は、とてもシンプルであり、それだけを見ると、通りすぎてしまうような内容にも見えてしまう。
しかし、ひとつひとつが、深い洞察に裏打ちされ、これだけで日々のいろいろなことが変わっていく力を、確かにもっていると、ぼくは思う。
ぼくがこの本に「ひきこまれた」のは、その最初の導入部分である。
人が、子供時代を通じてどのように「社会的な人間」として、自分自身をつくっていき、その果てに自分自身を「牢獄」に閉じ込めてしまうのかという語りの部分だ。
彼は、このプロセスを「domestication of humans」(人間の家畜化)と呼んでいる。
それは、別の言い方をすれば、「洗脳」にも近い。
ドン・ミゲルの「語り」に耳をすませていると(ぼくはオーディオブックで聞く)、ぼくが子供のころからの出来事を追体験しているような、そんな錯覚におちいってしまう。
この「語り」は、ドン・ミゲルの「言葉」というものへのナイーブさに支えられてもいる。
ドン・ミゲルは、この本を通じて、「言葉」というものを中心軸にそえている。
ぼくたちは、「言葉」でものごとを概念化することにより「世界」をつくっている。
ぼくたちは、日常において、自分自身とのさまざまな約束・契約を結びながら、世界をつくってしまっている。
ネガティブな言葉を(言葉にして、あるいは心の中で)発することで、そこに「世界とのネガティブな関係性」をつくってしまう。
言葉の「力」をみくびってはいけない。
ドン・ミゲルは、この閉じられた「世界」の存立の機制、構築のプロセス、そして「Four Agreements」による世界の裂開を、この本で展開している。
「言葉と世界」の関係性を丹念にひもときながら。
そのような「語り」に、ぼくはひきこまれていく。
ところで、ぼくは、ドン・ミゲルの教えを生きてきたというより、これまでの生きることの経験をふりかえりながらドン・ミゲルの教えの大切さを再度認識する、という仕方で、この本に教えられている。
だからか、この「Four Agreements」(四つの約束)の大切さを、心身の深いところで、感じる。
しかし、これらたった4つのことを続けていくことは容易ではない。
ぼくたちは、生きるという道ゆきで、幾千もの約束・契約を自分自身と結び、その「結びつき」が日常の経験により強化されてしまっているからだ。
だから、ドン・ミゲルは、四つ目に「いつもベストをつくすこと」をわざわざ置いている。
そのときそのときのベストをつくすこと。
もっと大きなベストはあるけれど、そのときの状況でベストをつくすこと。
そこに日々をかけていくしかないと、ぼくは自分に「約束」をする。
日本人や日本社会を客観視していくために。- 河合隼雄著『母性社会日本の病理』に学ぶこと。
ぼくの信頼する心理学者である(今は亡き)河合隼雄の仕事のひとつ、『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)は、その最初の形は1976年に執筆され、20年ほどの年月を経て文庫版となった。...Read On.
ぼくの信頼する心理学者である(今は亡き)河合隼雄の仕事のひとつ、『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)は、その最初の形は1976年に執筆され、20年ほどの年月を経て文庫版となった。
そして、それからさらに20年ほどの年月を経て、ぼくはこの著作を手に取る。
文庫本用の序文を河合は書いているが、その後の河合隼雄の「考えの発展の基礎」となったという、数々のエッセイがまとめられている。
1965年にスイスのユング研究所から帰国してから、心理療法の臨床経験のなかで、河合隼雄は日本人の特性について考えをめぐらし、ようやく形となるまでに10年ほどを要したという。
その「成果」として書かれた文章たちが、この『母性社会日本の病理』には収められており、今の時代にも(あるいは今の時代だからこそ)、ぼくたちのなかに、限りないほどの思考の芽を点火してくれる。
ぼく個人のことで言えば、海外で仕事をしてきながら、「日本人の特性」ということについて考えざるをえない状況に置かれてきた。
だから、少しまとめておきたいと思う。
タイトルにあるように、思考の手がかりとして、河合隼雄は「父性原理」と「母性原理」という考え方、その二つの原理の相克を立てている。
父性原理と母性原理のバランスの取り方により、社会や文化の特性がつくりだされていくという考え方の上に、河合は分析をくわえている。
父性原理と母性原理は、前掲書における河合隼雄の記述をもとにまとめると、次のようなものだ。
●父性原理:「切断する」機能。すべてのものを切断し分割する(例:主体と客体、善と悪、上と下)。(子供をその)能力や個性に応じて類別(「よい子だけがわが子」)。
●母性原理:「包含する」機能。良きにつけ悪しきにつけ包む込み、そこではすべてのものが絶対的な平等をもつ。(子供をその)個性や能力とは関係なく、「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いとする(「わが子はすべてよい子」)。
それぞれにおいて、「肯定的な面」と「否定的な面」があり、例えば、次のようなこととされている。
●父性原理:肯定的な面は、強いものをつくりあげてゆく建設的なところ。否定的な面は、切断の力が強すぎて破壊に至る。
●母性原理:肯定的な面は、生み育てるもの。否定的な面は、呑みこみ、しがみつき、死に至らしめるもの。
この二つの対立原理が、道徳や宗教、法律などの根本において、融合しながら、どちらかが優位に立ち、どちらかが抑圧されていると、河合は語っている。
その上で、日本社会は、「母性優位の心性」をもつとされる。
河合隼雄は、さらに思考の軸として、「場の倫理」(母性原理に基づく倫理観)と「個の倫理」(父性原理に基づく倫理観)を、論考のなかにひきいれている。
前者は、「場」の平衡状態の維持に高い倫理性を与え、後者は、個人の欲求の充足、個人の成長に高い価値をおく。
河合は、その上で、「現代日本の社会情勢の多くの混乱」の原因を、これらの倫理観の相克のなかの状況に見定めている。
現代日本の社会情勢の多くの混乱は、…父性的な倫理観と母性的な倫理観の相克の中で、一般の人々がそのいずれに準拠してよいか判断が下せぬこと、また、混乱の原因を他に求めるために問題の本質が見失われることによるところが大きいと考えられる。
…現在の日本は「長」と名のつくものの受難の時代であるとさえいうことができる。つまり、長たるものが自信をもって準拠すべき枠組みをもたぬために、「下からのツキアゲ」に対して対処する方法が分からず、困惑してしまうのである。
河合隼雄『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)
さらに「組織」の視点において、「場の平衡状態を保つ方策」としての「成員の順序づけ」をとりあげ、文化人類学者である中根千枝の有名な「タテ社会」の人間関係と関連づける。
河合隼雄は、ここで大切な指摘をしている。
…「タテ社会」という用語を、権力による上からの支配構造のような意味で用いる…これはまったく誤解である。
タテ社会においては、下位のものは上位のものの意見に従わなければならない。しかも、それは下位の成員の個人的欲求や、合理的判断を抑える形でなされるので、下位のものはそれを権力者による抑圧と取りがちである。ところが、上位のものは場全体の平衡状態の維持という責任上、そのような決定を下していることが多く、彼自身でさえ自分の欲求を抑えなければならぬことが多いのである。
このため…日本では全員が被害者意識に苦しむことになる。…実のところは、日本ではすべてのものが場の力の被害者なのである。
河合隼雄『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)
「場の倫理」をのりこえようとして飛び出す人たちも、そこに「日本的な場」をつくってしまうことから、「場」は集団の凝集性を強めてしまい、さらに「場の倫理」がつよくなる。
このような状況のなかで、日本人は母性原理からなかなか抜け出せず、父性原理に基づく自我を確立することを困難としているという。
なお、河合隼雄は、父性原理が優位であるのがよいとか、母性原理が優位であるのがよいとかを述べているわけではない。
スティーブン・コヴィーの最後の著書(『The 3rd Alternative』)のように、「第三の道」を開く方途を、河合隼雄はまなざしている。
河合隼雄の分析と視線、そして明晰な記述は、海外の日系企業が直面する問題や課題とも交差してくる。
例えば、こんなふうに、語る。
グレートマザー的な絶対平等感を基礎として、それに「永遠の少年」の上昇傾向が加わるとき、日本人のすべてが能力差の存在を無視し、無限の可能性を信じて上にあがろうとする。ここに日本のタテ社会の構造ができあがってくるのである。
…父性原理に基づく社会は、西洋の近代社会のように、上昇を許すけれど、そこには「資格」に対する強い制度をもち、能力差、個人差の存在を前提としている。このため、欧米の社会においては、各人は自分の能力の程度を知り、自らの責任においてその地位を獲得してゆかなければならない。この厳しさは日本人にはおそらく、なかなか理解できないものであろう。
河合隼雄『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)
河合隼雄がこの文章を書いたのは、冒頭で述べたとおり、1976年のことであるが、問題や課題の現象面で言えば、それから40年後の今も、同様の状況を至るところに見ることができる。
日本社会の「外」に身をおき、そして「外」における日本社会をみつめて考えながら、河合隼雄の生きられた問い(留学、ユング研究所などの海外を生きてきた河合隼雄が切実に抱いた「問い」)とその探索の過程で得たこれらの文章は、グローバル化した今の時代だからこそ、丁寧に読まれる必要があると、ぼくは思う。
そうすることで、今すぐここに「解決」をもたらすものではないけれど、文化や社会の間の「差異のロジック」を深いところで理解し、自身を客観視し、そこから自身の「生きられた問い」を発していくための堅固な土台つくりとなる。
その堅固な土台は、いっときの「解決」をもたらす以上に、より豊饒な「人と人との関係」をつくるための思考と実践の源泉となるような足場である。
生きることの「両義性」を生きること。- 「自分をのりこえることはできるか」(見田宗介)の論考から。
人の成長、ということを、生きていく上での大きなテーマのひとつとしながら、見田宗介の論考「自分をのりこえることができるか」に目が留まる。...Read On.
人の成長、ということを、生きていく上での大きなテーマのひとつとしながら、見田宗介の論考「自分をのりこえることができるか」に目が留まる。
『定本 見田宗介著作集X:春風万理ー短編集』に所収の論考で、もともとは『教育の森』(毎日新聞社)という雑誌に掲載された文章である。
論考の「軸」としては、ふたつの論・立場が取り上げられている。
●エリク・エリクソン:「漸成的発達段階論(epigenesis)」
●実存主義:根本テーゼは<実存は本質に先立つ>
エリクソンの「発達段階論」は、大学の「心理学」の入門的な講義で習った記憶が、ぼくにはある。
日本でもよく知られた理論であろう。
エリクソンは、人間の誕生以後の人間形成という心理・社会的な関係のプロセスについて、乳児期・初期児童期・遊戯期・学齢期・青春期・若い成人期・成人期・成熟期という「八つの発達段階」を設定している。
それぞれの段階に、「達成されるべき発達課題」や「達成にとって重要な人間関係の範囲」が設定されている。
見田宗介は、エリクソンのこの発達段階論から「教えられるところが多いことはいうまでもない」としながらも、客観的に、こう書いている。
…けれども同時に、考えてみると、これはおそろしい思想でもある。それが真実であるかぎりでは、それはおそろしい真実である。なぜならば、それは人間は自分で自分を自由にのりこえて進むことができない存在だ、ということを意味しているからである。
見田宗介「自分をのりこえることができるか」『定本 見田宗介著作集X:春風万理ー短編集』
このエリクソンが、「実存主義」に反発を感じ、見田宗介は論考のもうひとつの軸として並べる。
実存主義によれば、(見田の簡潔なまとめによると)人間にはのりこえ不可能な本質などなく、自由に、自分という人間を選んでいくことができ、だからこそ、そのことにたいして責任をもたなければならないという考え方である。
実存主義による「自分をのりこえることができる」という考え方と、エリクソンによる「自分をのりこえられない」資質といった考え方が対峙する。
この対峙に間隙を丁寧にさぐりながら、見田宗介は、両者の「微妙なすれちがい」は、実存主義は人間を自分のこととして内側からみていること、他方エリクソンは、人間を愛情と責任をもって外側からみていることにあると、述べている。
見田宗介は、そうして、次のように、論考の最後の段落を書いている。
エリクソンと実存主義という、それぞれに真摯な生き方の二つの思想の反発し合う構図から、われわれにとってみえてくるのは、<つくられるもの>としての人間と<自分をつくるもの>としての人間という問題、事実性としての人間と自由としての人間との両義性であり…。
見田宗介「自分をのりこえることができるか」『定本 見田宗介著作集X:春風万理ー短編集』
人間は、<つくられるもの>と<自分をつくるもの>の二つを、また事実性と自由を、それらのどちらかではなく、同時に生きている。
このことは、敷衍して言えば、「人の育成」ということとも関連する。
人を育成できるか否か、という議論は、その構図だけで見れば、ここに見られる構図と同型である。
育成できるかという問いのナイーブさは、<自分をつくるもの>としての人間への畏れのようなものを胚胎している。
生きていくことの「両義性」を、そのままでひきうけることを、見田宗介という真摯で孤高の社会学者はあらゆるところで語っている。
この論考の最後は、人を育てるという「教育」という現場の「教師」に向けられ(だからこそ、見田宗介自身に向けられ)、次のように書かれる。
…<教育>という問題に即していえば、責任をもって対しなければならない幼い他者たち、若い他者たち、という人間と、みずからの親や教師に責任を転嫁してはならない自由な主体性、としての教師である<わたし自身>との、生きられるべき両義性である。
見田宗介「自分をのりこえることができるか」『定本 見田宗介著作集X:春風万理ー短編集』
原的な「両義性」をみつめながら、それらの「生きられるべき両義性」を生きていくことに、ぼくたちの生はかけられている。
見田宗介(真木悠介)が、フランスの思想家バタイユに依拠しながら、別のところで語っている<創られながら創ること>という言葉は、生きられるべき両義性を生きることで、自分をのりこえていく精神を、シンプルに、しかし深いところで照らし出している。
香港で、「九龍半島の南端」にたたずみながら。- 何をするのでもなく、ただ、ぼーっと、すること。
香港の九龍半島の南端に位置するプロムナード(散歩道)から、ビクトリア湾と湾を挟んで立ち並ぶ香港島の高層ビル群をながめる。「香港」を感じるひとときだ。...Read On.
香港の九龍半島の南端に位置するプロムナード(散歩道)から、ビクトリア湾と湾を挟んで立ち並ぶ香港島の高層ビル群をながめる。
「香港」を感じるひとときだ。
今は、改装工事のため、一部入ることができないところがある。
九龍半島の南端に位置するプロムナード。
ここから、「シンフォニー・オブ・ライツ」と呼ばれる「世界最大の光と音のショー」を楽しむことができる。
「シンフォニー・オブ・ライツ」では、ビクトリア湾の両側に立つ40棟以上ものビルが光を放ち、夜空とビクトリア湾を、照らし出す。
毎晩20時から約13分間にわたって繰り広げられるショーだ。
香港の夜景は、そこに「香港」の刻印を確かに刻んでいる。
1995年、旅の目的地のひとつして、香港にはじめて来たとき、「香港は夜型の街だ」と、ぼくは感じた。
同じ旅の行く先であった中国本土やベトナムの朝は早かった。
その対称性のなかで、香港が(東京と同じように)夜型であることを、ぼくは感じていた。
しかし、九龍半島から香港島をながめる風景は、ぼくにとって、「午前から昼にかけての風景」である。
22年前、午前の朝食の後に、宿から歩いて、ぼくはこのプロムナードにやってきては、香港島をながめていた。
ただ何をするのでもなく、ぼーっと、ながめているだけであったけれど。
「九龍半島の南端」のプロムナードは、人をひきつけてやまない、不思議な力の磁場をもった場所である。
バックパッカースタイルでの旅を書き続ける下川祐治は、著書『週末 香港・マカオでちょっとエキゾチック』(朝日文庫)のなかで、やはり、この「九龍半島の南端」で、香港の旅をはじめる。
彼は、この著書の旅以前の香港を振り返りながら、こんなふうに、書いている。
香港ではさしたる目的もなかったから、ただ、ただ、街を歩いていた。…夜はいつも九龍半島の南端の埠頭から、香港島の夜景を眺めていた。…九龍半島の南端から香港島の夜景を眺めることが好きだった。…
それからも何回か香港に足を運んだ。宿に荷を置き、真っ先に向かう場所が九龍半島の南端埠頭だった。
「また香港に来た」
どこか自分の居場所に戻ってきたような気がした。…
下川祐治『週末 香港・マカオでちょっとエキゾチック』(朝日文庫)
そして、下川祐治は、香港島のネオンサインを、この九龍半島の南端から、やはり、ぼーっと、ながめていた。
ぼくにとっては、夜景の風景ではなく(夜景もいいけれど)、午前から昼間の風景。
香港が「旅」の行く先から、生活するという「日常」へと変わっても、九龍半島の南端からながめる香港島は、「香港」を感じさせる風景だ。
日常として生きる香港でも、ぼくは、ときおり、九龍半島の南端のプロムナードから、香港島をながめる。
ビクトリア湾とそこに行き交う船を視界に、香港の今を身に感じる。
でも、何を考えるのでもなく、やはり、ぼーっと、ながめる。
そして、ぼくはしずかに確かめるのだ。
ぼくは今、香港にいる、ということを。
「九龍半島の南端」のプロムナードとそこからの風景は、人をひきつけ、人びとのなかに「香港」を刻むような磁場をもっている。
何をするわけでもないけれど、そこにいると、ぼくの「内面の磁場」も、ある意味、ととのえられるような、そんな場所である。
そして、ぼくは思う。
人は、そんな「場所と風景」をもって、日々を生きているのだ。
何をするのでもなく、逆に、しないことで、「内面の磁場」をととのえるような、そんな場所と風景を。