外国語の言い回しによって「物事の見方・風景」が変わること。- 東ティモールのテトゥン語「matan aat」という<拠点>から。
日本では「10月10日」は「目の愛護デー」。10.10を横にしたときに、目と眉に見えるという、ユーモアの効いた日だ。...Read On.
日本では「10月10日」は「目の愛護デー」。
10.10を横にしたときに、目と眉に見えるという、ユーモアの効いた日だ。
ぼくが子供の頃は10月10日は「体育の日」だったけれど、第2月曜日への移動により状況は変わってしまった。
「人生100年時代」を生きる際の課題のひとつは「目」であり、目の大切さを改めて感じている。
とりあえずは、コンピュータや携帯電話の画面に向かっては、時折休んで、遠くに目をやったりしている。
「目が悪いこと(視力が低いこと)」については、15年程前に東ティモールに住んでいたとき、東ティモールのテトゥン語の語彙を東ティモール人の同僚に投げかけられて、気づかされたことがある。
コンタクトレンズではなく、眼鏡をかけていたから、ぼくの目の視力が低いことは誰もがみてとることができた。
テトゥン語で、その時に投げかけられたのは、次のような言い回しである。
「matan aat」
「matan」は、「目(=eye)」のことである。
形容詞の「aat」は、「悪い・壊れた(= bad, broken)」などの意味合いである。
「matan aat」ぼくの「脳の語彙変換装置」は、「壊れた目/目が壊れている」と訳した。
「壊れた」と訳したのは、こんな事情がある。
東ティモールのハードなオフロードでの移動により、よく車両が壊れるのだが、「車両が壊れた」ということを「kareta aat」という言い回しでコミュニケーションをとっていたからだ。
語彙数の限定的なテトゥン語であるから、そして外国人であるぼくとのコミュニケーションであるから、ひとつの用語がいろいろに使われる(ちなみに、コーヒー豆のよくないものも「cafe aat」として会話していた)。
だから、ぼくの「脳の語彙変換装置」は、「壊れた車両」と言うのと同じように、「壊れた目」と訳したのだ。
「matan aat」は、テトゥン語の教科書などに「blind」として載っていたりするけれど、当時は、目が悪いということで、ぼくたちはコミュニケーションをとっていた。
東ティモールで眼鏡をかけている人は圧倒的に少ない。
東京や、ここ香港とは比較にならないほど、眼鏡をかける人口は少ない。
ましてや、東ティモールの子供たちはまずかけていない(今はどうかわからないけれど)。
ここ香港では、ほんとうに小さい子供たちが、眼鏡をかけている。
日本にいるときには眼鏡をかけていることが「普通」だったのが、東ティモールでは「普通ではない」こととしてある。
あるいは、どこかかっこよさやインテリ的なものを含んだ「見方・風景」から、「そうではない見方・風景」へと、ぼくの<物事を見る眼鏡>を変えてしまう。
東ティモールという環境の中で、「matan aat(壊れた目)」と言われて、ぼくの目に対する「見方・風景」が変わってしまった。
異なる環境で、異なる言語で、ある「同じもの」を語るとき・指し示すとき、その「効果」のひとつとして、物事を見る「見方・風景」を変えてしまうということがある。
それは、とても鮮烈な経験であった。
言語でつくられる「檻」から解き放たれる経験のひとつだ。
今でも、じぶんの目のことに思いをめぐらすときに、このテトゥン語が立ち上がってくることがある。
ぼくたちはこのように、「世界の見方・風景」を変え、もっとひろい「世界」へと視界をひろげてゆくことができる。
ぼくたちが「変わる」ということの拠点のひとつとして、ぼくたちはそこに拠点のひとつをもつことができる。
国際協力の道を志してから、じぶんに言い聞かせてきた言葉。-「今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない」(森崎和江)
大学時代に、途上国への国際協力・国際支援という道を志したときから、支援の現場にいたときも、それから今でも、ぼくの中に存在している言葉がある。...Read On.
大学時代に、途上国への国際協力・国際支援という道を志したときから、支援の現場にいたときも、それから今でも、ぼくの中に存在している言葉がある。
「草の存在が見える人間になりたい。今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない。…」
森崎和江が1980年代半ばに『思想の科学』(第64号)に寄せた文章の一部である。
文章は「教育の原点での自己と他者」と題され、強者や弱者の「存在の矛盾」の問題に向き合うものだ。
この文章は、次のように続く。
「子供も大人も日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなることを知っていたい。そのことを体得しあえる関係を教育の現場として、随所に求めたい。」
西アフリカのシエラレオネで難民の人たちや住民の人たち、東ティモールのコーヒー生産者とその家族たちに向き合いながら、ぼくの中で、森崎和江の言葉がこだましていた。
「子供も大人も日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなること」。
そして「草の存在」が見えたとしても、「今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない。」
いわゆる「途上国」と呼ばれる国や地域の人たちが、そのまま草の存在であるということではないし、「弱者」であるということではない。
どこでも、人間存在としての強さや深さをもっている人たちはいる。
しかし、ある時代に、ある場所で、ある環境の中で、生きることの「幅」(潜在能力)をひどく狭まれている人たちがいる。
それは、途上国に限られることではないし、世界のどこででも起こりうることだ。
森崎和江が対象として語るように、教育の場にも起こりうることである。
あくまでも相対的に恵まれていたぼくは(例えば、食べることには困らない)、国際協力・国際支援での仕事を志しながら、当時出会った森崎和江の言葉に、深く耳を傾けざるを得なかったのだ。
「草の存在が見える人間になりたい」と。
その言葉に続く、「今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない」が、ぼくの心により頻繁に浮かぶようになったのは、ぼくが実際に「支援の現場」に降り立ち、その現実に直面しているときであった。
例えばシエラレオネでは、紛争による混乱と傷跡に翻弄される人たちと日々直接に接し、訴えを聞き、要望を聞き、あるいは言葉にならないような表情を投げかけられて、「草の存在」が見えてくる。
訪れた難民キャンプや村からの帰路で、あるいは夜をひとりで過ごしながら、時折、あの言葉がやってくる。
今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない…。
支援の現場で、この眼で直接に見えるにもかかわらず、しかしこの眼で直接に見えるからこそ、この言葉の大切さが感じられる。
「日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなること」と、ぼくはじぶん自身に向かう。
それでも、いろいろな状況と環境の中で、「他者」が見えなくなったことはあったと思う。
だから、森崎和江の言葉は、今でもぼくの心の中に、時折、現れる。
ここ香港にいて、たくさんの「人」に向き合ってきながら、後半の部分に「重点」が置かれる形で、それはぼくにやってくる。
「日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなる」という言葉だ。
生活を営みながら、仕事をしながら、ぼくはじぶんに言い聞かせる。
今思えば、ぼくの生きる過程に沿う仕方で、森崎和江の言葉におけるぼくの「重点」が移行してきたようだ。
初めは「草の存在が見える人間になりたい」ということからはじまり、それから支援の現場で焦点は「今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない」に移る。
その内に、「日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなる」という言葉がぼくの生きる道ゆきを照らすようになる。
そうして今、ぼくは、いわゆる「教育」ではないけれど、文章を書き「他者に伝える・共有する」ということをしている。
けれども、そのことは翻って、ぼく自身に向かって語られてもいる。
今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない、と。
「人間はひとつの無償の情熱である」(見田宗介)。- 走るメロスの無償の情熱に見るもの。
「走れメロスー思考の方法論について」と題される、社会学者の見田宗介の小論は、「小論」という言葉に似合わずに、「思考の深さ」へとどこまでも誘う言葉たちで紡がれている。...Read On.
「走れメロスー思考の方法論について」と題される、社会学者の見田宗介の小論は、「小論」という言葉に似合わずに、「思考の深さ」へとどこまでも誘う言葉たちで紡がれている。
この小論は、『現代思想』の「見田宗介=真木悠介特集」(2016年1月臨時増刊号)における論考のいくつかへの「応答」として書かれたものである。
応答は、思考の方法論を主軸として、三つのことがらに絞って展開されている。
一 南端までー往還について
二 不器用な磁石ー刃物について
三 ナワトルの歌ー無償化について
これらの内、「三 ナワトルの歌ー無償化について」は、何度読んでも、思考と心をゆさぶられる、美しい文章である。
その中に、人間の<自我>の基底となる「個体」に関する、明晰を極める文章がある。
人間の<自我>の基底となる「個体」は、元々は生命世界のあらゆる「個体」と同様に、生成子(遺伝子)の再生産の方法とし、装置として形成されたものであったが、ひとり人間の個体のみが、大脳皮質の極度の発達という進化のランナウェイ(cf 孔雀の羽根!)をとおして自己=目的化し、生成子の鉄の目的合理性(効用性)から自立し、解放される。どんな目的にも仕えることのないものとして無償化し、それゆえにどんな目的をもつことのできるものとして主体化する。人間はひとつの無償の情熱 passion inutileである。無償とは禅の根本義<無功徳> inutile である。走るメロスの無償の情熱は、人間存在の凝縮である。…
見田宗介「走れメロスー思考の方法論について」『現代思想』2016年9月号
真木悠介(=見田宗介)の名著『自我の起原』をベースにした言葉たちである。
「進化のランナウェイ」とは、進化生物学の理論の一つで、文字通りで読めば、進化の「暴走」である。
進化生物学では、「孔雀の羽根」を題材に語られたりする。
人間の自我は、孔雀の羽根の進化プロセスのように、進化の「暴走」ではないかと、見田宗介は論理を展開している。
本来は、生命世界では種の「再生産」の中で生命はプログラムされているが、人間は「進化の暴走」によって再生産という目的とプログラムから、自立してしまう。
つまり「自由」となる。
この自由を得た者は、どんな目的にも仕えることのないものとなることができるし(=無償化)、どんな目的をももつことができる(=主体化)。
そのようにして、人間は、その起原において、(すでに)自由である。
人は、経済や社会や文化などのはるか手前のところ、その<自我>という存在の起原において、生命世界でただひとり自己=目的化し、生きてゆくことのできる自由を得ている。
見田宗介は、ここで、「人間はひとつの無償の情熱である」と語る。
生成子(遺伝子)の再生産から解き放たれた人間は、「無償の情熱」として、生きてゆく(ことのできる)存在である。
『走れメロス』の走るメロスは、「無償の情熱」としての友情に導かれて、生きる。
人間存在の凝縮された形が在る。
上記で述べられる「自由」は、一言で言えば「人間の自我の脱目的性」である。
「一度さまよい出た者はどこにもで行くことができる」という、自由であることの根拠である。
再生産のループから解放された人間は、どんな目的をもつこともできるし、もたないこともできる。
見田宗介は、この小論の最後で、この「自由」について、さらに明晰を極める論理を提示している。
現実的・実際的に自由であることには「二つの前提」があるということである。
第一に、「どこにでも行ける」ということ。
これは上述の通りであるが、現実的に自由であるためにはもうひとつの前提が必要である。
それが第二の前提として、どこかに行けば、幸福の可能性(=「希望」)があるということである。
この第二の「希望」の根拠のひとつが、例えば、無償の情熱として注がれる、走るメロスの「友情」である。
市民社会や生命世界などにおける相克性の世界の中で、派生的かつ部分的かもしれないけれども、走るメロスの無償の情熱は、確かな「希望」のひとつである。
歌手Angelique Kidjoから伝わってくるアフリカの大地に根ざす「まっすぐな」歌声。- <志の力>に体験として触れること。
Angelique Kidjo。西アフリカに位置するベナンに生まれ、20代前半にパリに移り、今はニューヨークをベースとするシンガーソングライターである。...Read On.
Angelique Kidjo(アンジェリーク・キジョー)。
西アフリカに位置するベナンに生まれ、20代前半にパリに移り、今はニューヨークをベースとするシンガーソングライターである。
アフリカ音楽をその倍音と基調にしながら、さまざまなジャンルや音楽家の音楽に彩られた音楽を奏でる。
また、音楽を超えて「活動家(Activist)」として、アフリカの女性のエンパワーメントなどに取り組んできている。
国連の親善大使なども務めてきており、その活動の幅には驚かされる。
最も影響力のあるアフリカ人として、各紙が取り上げてきた人物だ。
2年前の2015年に、ここ香港で初めて、コンサートの舞台に立ち、その歌声を届けた。
ぼくはそれまで、西アフリカ出身のAngelique Kidjoを知らなかった。
グラミー賞など数々の賞を受賞している経歴から、「一流」の音楽に触れようと、ぼくは香港文化センターに足を運んだ。
普段はクラシック音楽が奏でられるホールに機材が置かれ、音楽と共に、Angelique Kidjoが現れる。
彼女の出で立ちは、西アフリカ(ぼくが住んでいたシエラレオネ)の女性たちを思い起こさせる。
小柄な身体から放たれる、どこまでも届くような歌声は、魂のレベルに直接に届く響きに満たされている。
小さなホールは、徐々に、彼女の歌声とアフリカダンスの世界にひたされてゆく。
事前に「音楽の予習」をしていかなかったぼくも、次第に、彼女の世界にひきこまれる。
彼女の歌声は、ほんとうに、まっすぐな歌声である。
歌と歌の間に彼女から発せられるメッセージも、まっすぐである。
そのどこまでもまっすぐな響きが、ぼくの心に矢のようにとんでくる感じだ。
しかし、彼女の「まっすぐさ」は、ただのまっすぐさではない。
いわば、言葉にしきれない苦悩と苦闘を内にする者が、あるいはそれらを乗り越えてきた者だけが放つことのできるような「まっすぐさ」である。
アフリカの「状況」を飲み下して発せられる声であり、アフリカの「語られ方」に異を唱える方法としてのまっすぐさでもある。
ぼくが感じる「アフリカ的」なものを語るならば、それは大地から発せられるような、地に足のついた声。
それは、シエラレオネの大地と人びとを、ぼくに思い出させた。
コンサートが終わって、その「熱」にうかされながら、ぼくはシエラレオネ人の友人(元同僚)にメッセージを送ってしまったほどだ。
Angelique Kidjoも、ぼくのシエラレオネ人の友人も、共に、アフリカ人女性のエンパワーメントに力を注いでいる。
コンサートも終盤、Angelique Kidjoは、観客たちを舞台に呼び寄せ、ダンスの共演空間を創りだした。
(ダンスを得意としない)ぼくは舞台には上がらなかったけれど、この光景は今でもこの身体に残っている。
Angelique Kidjoは、さらに、曲中に舞台から観客席におりて、観客の合間をかけめぐってゆく。
通路側の席にいたぼくは、運よく、Angelique Kidjoと握手を交わした。
<志の力>をいっぱいにもらったように、ぼくは感じた。
コンサートでパフォーマンスを楽しむ以上のものを、たくさん受け取ったのだ。
その受け取った「ギフト」は、彼女に出会った個々の人たちが自らの生で芽を育て、花を咲かせるような地点に向けて肩を押してゆくようなところに、Angelique Kidjoの力はある。
CDやYouTubeなどでは決して得ることのできない「体験」を、ぼくは得た。
<志の力>に、身体でふれてゆく「体験」は、なにものにも代え難いものとなった。
異国における思いがけない、日本語書籍との出会い(再会)。- 旅先で、赴任先で、異国の生活の中で。
まだそれほど「昔」ではない時代、電子書籍が普及していなかった(確か)8年程前まで、異国で「出会う」日本語書籍は、特別なものであった。...Read On.
まだそれほど「昔」ではない時代、電子書籍が普及していなかった(確か)8年程前まで、異国で「出会う」日本語書籍は、特別なものであった。
バックパッカーでアジアを旅しているときに目にした、安宿に残された日本語書籍。
赴任先で、同僚が残していった日本語書籍や出張者が差し入れで持ってきてくれた日本語書籍や日本語雑誌。
異国で、日本語書籍を販売している書店で、限定された書籍の中で出会う日本語書籍。
世の中に無数にある日本語の本の中から、偶然に、それらの本に出会う。
インターネットが普及していない時代であったから、さらに、それは特別なものとして感じられた。
今の時代は、インターネットが普及し、電子書籍が普及し、どこにいても、大体どんな書籍も、クリックボタンを押すだけで手にいれることができる。
また、ハードコピーの書籍も、オンラインで購入して、日本からアジアの近いところであれば数日で到着してしまう。
この状況が切り拓いてきた、あるいは切り拓いてゆく「世界」から、ぼくたちはほんとうに多くの恩恵を受けることができる。
でも心のどこかで、不便であった「昔」を懐かしく思い、便利さにたいして逆につまらなさのようなことを感じることがある。
だからといって、「昔」に戻るわけではないけれど、あのような「特別さ」を今後感じることはないだろうと思っていたところで、ちょっとしたことだけれど、あの特別な気持ちを呼び覚ますような出来事にでくわすことになった。
先日、作家の辺見庸のことをブログに書いた。
辺見庸の文章に出会ったのは大学時代であった。
辺見庸を「知る」ようになったのは、食から世界の辺境にまでくいこんでゆくノンフィクションの著作『もの食う人びと』であった。
この著作に出会ったのは、アジアへの一人旅をはじめた時期であったから、なおさら、ぼくの深いところに届いた。
ぼくが世界に仕事と生活の場をうつしてから、ぼくは辺見庸の作品から何故か遠ざかっていた。
ところが、ここ数年、また彼の作品世界に足を踏み入れていた。
ブログではそんなことを書いた。
その「声」がどこかで届くように、ぼくは「小さな出来事」に出くわす。
ここ香港で、「小さなリーディング・ルーム」の棚で、著作『もの食う人びと』に再会したのだ。
中国語の本が並ぶ中で、二冊だけ、日本語の本が並んでいる。
その内の一冊が、『もの食う人びと』であった。
まさかの再会であった。
確率論で言えば、その確率は果てしなくゼロに近いだろう。
日本人が寄贈したのかもしれないけれど、それでも、無限にある日本語書籍の中で、この一冊が確かにそこにたたずんでいたのだ。
ぼくは、その「確かさ」を確かめるように、『もの食う人びと』を手に取る。
ページを開き、本の最初に綴じられたカラー写真を確かめる。
確かに、そこには、『もの食う人びと』があった。
これを読んだ人は、ここ香港で、この本をどのように読んだのだろうか、と想像する。
なぜこの本を選び、人生のどのような旅路で、ここ香港で、どのようにこの本を読み、何を考えていたのか。
20年以上を経て再会する『もの食う人びと』の本に、日本を離れ、あるいは日本語が当たり前にある空間を離れたときに感じるちょっとした不安の中で、たまたま出会う日本語書籍に感じた、あの「特別な気持ち」がぼくの中で呼び覚まされる。
取るに足らない、ちょっとした出来事だけれど、ぼくにとっては大切なものを再び拾うような出来事であった。
それにしても、なぜ『もの食う人びと』が、ぼくの目の前に、あのような形で再び姿を現したのだろうか。
それも、ここ香港で。
香港で、東ティモールのコーヒーを見つけて。- 東ティモールコーヒーの香りと味の記憶と点火された思考。
中秋節と中秋節翌日が過ぎたけれど、香港の街はまだその余韻を残しながら、活気と喧騒の中にあるように見える。コーヒーを飲もうと、Starbucksのプレミア店「Starbucks Reserve」のバーに腰掛ける。...Read On.
中秋節と中秋節翌日が過ぎたけれど、香港の街はまだその余韻を残しながら、活気と喧騒の中にあるように見える。
コーヒーを飲もうと、Starbucksのプレミア店「Starbucks Reserve」のバーに腰掛ける。
「さて何を飲もうか」と、バーのカウンターに並べられた、コーヒー豆が入った透明のボトルに眼を向けると、「East Timor」の文字が眼に入ってくる。
「East Timor」の文字の下には「Peaberry」と書かれている。
小さな丸豆である。
コーヒーのチェリーを採取し、コーヒーを精製していると、その中に若干、Peaberryが混じっているのを見つけることができる。
量的にはたくさんあるものではない。
「East Timor Peaberry」を、Starbucksのプレミア店が扱っている。
Starbucksが東ティモール産のコーヒーを販売していたことは、以前から知っていた。
「販売していた」と過去形で書いたのは、13年程前に、オーストラリアのシドニーにあるStarbucksで目にしてから、見ることがなかったからだ。
東ティモールに住んでいるときに、休暇を利用して、オーストラリアのパース経由でシドニーに降り立ったときに、Starbucksでたまたま見つけた。
当時から東ティモールで活動していたCooperative Cafe Timor(CCT)というコーヒー生産者組合を経由して、Starbucksにコーヒーが売られていたことは知っていたから、それを実際に目で確かめた形であった。
CCTは医療クリニックのサービスを提供するなどして、地域社会に貢献している。
ところが、当時、精製していたコーヒーの品質にはいろいろと問題を抱えていた。
そのようなことを思い出していると、準備されるコーヒーから、確かに「東ティモールコーヒー」に独特の「香り」が流れてきた。
運ばれてきたコーヒーを飲みながら、「East Timor Peaberry」の説明書きを見つけ、それを読んでいたら、案の定、CCTと協働の説明が書かれていた。
ぼくが東ティモールを離れたのが2007年初頭。
企業利益に偏重していたStarbucksを立て直すためにHoward SchultzがCEOに戻ったのが、2008年。
Starbucksが軌道修正してきた影響もあったのだろうと推測しながら、「East Timor Peaberry」コーヒーの香りと味を楽しむ。
ぼくが東ティモールで関わってきたレテフォホのコーヒー生産者たちのコーヒーが懐かしくなる。
レテフォホの土地と彼(女)らが生産する高品質のコーヒーに、あらためて、畏れのような念を感じる。
高品質のコーヒーを求める「消費者」の存在は、とても大切だ。
品質に無頓着な消費者が安い価格のコーヒーを求めると、「生産者」はそのようなコーヒーを生産し、やがて価格競争の中で自分たちのコーヒーと生活をつぶしてゆく。
高品質のコーヒーを(慈善ではなく)感謝の現れとして高価格で求めることは、コーヒー生産者たちの生活をつくってゆく。
東ティモールのコーヒーに思わぬところで出会うことで、「East Timor」の名が広がってゆく嬉しさを感じると共に、ぼくは上で書いたようなことをいろいろと考えさせられた。
東ティモールを去ってから10年を経た、ここ香港で。
「多様性」を創出することの手前で。- 自分の経験の多様性を、自分の内面の土壌に植えること。
「多様性」ということが、言われる。例えば、組織作りでは、組織の内部に多様性をつくりあげてゆくということが言われる。...Read On.
「多様性」ということが、言われる。
例えば、組織作りでは、組織の内部に多様性をつくりあげてゆくということが言われる。
近代から現代にかけて世界を推進してきた「合理化」の企てが社会の全域に貫徹したところで、抑え込まれていた力が声を挙げ、合理化の推進役であった企業組織はその背景に押される形で、「多様性」を組織の中にとりこむ必要性に直面する。
そのことは、近代家父長制システムの解体と共に連動している。
近代を駆動してきた合理化の力は、共同体を解体してきた末に、近代家父長制にもその力を伸ばし、最後に「個人」にまで行き着く。
個人とは英語で「in-dividual」と言われるように、これ以上分けることのできない単位である。
個人に行き着いたところで、個人たちはテクノロジーを得て、テクノロジーや情報によりつくられる空間に、新たな「共同体」をさまざまに創設していく。
このような現代から次の時代に向かう中で、「多様性」は必然のものとして立ち上がってきた。
社会や組織において「多様性を持とう」という掛け声の正しさにかかわらず、その手前のところで、個人として「多様性をもって生きる」ということに関心を注ぎ、実際に生きてゆくことが大切であると、ぼくは考えている。
「多様性を持とう」ということの芯のひとつは、「差異」を受け入れていくこということである。
同質性(それも特定の同質性)だけでなく、「差異」にひらかれてゆくマインドをもつことである。
そのようなマインドを持つことを「心がけること」は方法の一つである。
しかし、ぼくは、心がけることと共に(あるいはそれ以上に)、「差異」を生きることで、自分の中に描かれる「世界像」に差異を取り込んでゆくことが肝要だと思う。
個人として、多様性を生きて、多様性に豊饒化された「内面」をもつことである。
「多様性を生きる」とは、具体的には、いろいろな人たちに会ったり、いろいろな人たちと過ごしたり、いろいろな「立場」で生きてみたり、いろいろな場所で過ごしてみたり、ということである。
ぼく個人を振り返ってみても、随分と、「いろいろ」を生きてきたなぁと、思い返すことができる。
アルバイトでは、レストラン、レストラン&バー、デパート、工場など、いろいろな人たちに出会って、一緒に働いた。
先進国の人たち、途上国の人たち、難民の人たち、いろいろな国や人種の人たちなどに出会い、関わってきた。
仕事も、NPOの仕事から民間企業の仕事でいろいろな人たちと仕事をし、公的機関の人たちともプロジェクトを共にしてきた。
戦争・内戦や紛争を生き抜いてきた人たち、心や身体に傷を負ってきた人たち、都市生活の「豊かさ」の中で悩む人たち、都市の先進性に生きる人たち、伝統的な社会に生きる人たちと一緒に活動をしてきた。
会社員として働く人たち、経営者として働く人たち、起業した人たち、仕事が見つからない人たち、仕事先さえない人たち、などなど。
実に、「いろいろ」を生きてきたことを思い出す。
気をつけることは、人や場所などに「ラベルを貼ること」(カテゴリー化してしまうこと)の危険性を念頭に、「個人と個人」として出会ってゆくことである。
ただし、「個人」は、ただ単体として自立的に存在するのではなく、社会や立場や環境や置かれる状況等に「創られる」存在でもある。
これら「いろいろ」が、ぼくの内面に創られる「世界像」を構成し、その「世界」を豊かにしていく。
でも、「豊か」であるということは、問題が起きないわけではないし、むしろ「矛盾」をいたるところにつくっていく。
だから、いろいろな人たちの立場や状況を想像することで、よく悩むことにもなるし、一様に決断できないときもあるし、矛盾を生きていくことになる。
矛盾はしかし、「何か」を生んでいく力の源泉となると、ぼくは思う。
同じように、社会や組織に「多様性をつくる」ことで、多様性による豊かさを生むと共に、問題点や矛盾に、ぼくたちは投げ込まれる。
心やマインドをひらくだけでなく、これらの問題や矛盾をよりよいものに変えていく意志と楽しむ力が求められる。
そのためにも、「多様性を持とう」の掛け声の手前のところで、ぼくたちが個人として「多様性を生きる」ことで、自分の経験の多様性を自分の内面の土壌に植えることが大切である。
経験の多様性を植えられた内面の土壌に水を与え続けることで、実際の「世界」で、たくさんの<豊かさ>を創出してゆくだろうと、ぼくは思う。
香港で、(11回目の)中秋節の夜を迎えながら。- 公園にくりだす子供たちの笑顔にみる「月明かり」。
香港で、11回目の中秋節の夜を迎える。昼間のにわか雨は地上を涼しくし、夜空に雲がひろがる中で、時々、月がその姿を雲間にのぞかせる。...Read On.
香港で、11回目の中秋節の夜を迎える。
昼間のにわか雨は地上を涼しくし、夜空に雲がひろがる中で、時々、月がその姿を雲間にのぞかせる。
香港は中秋節の当日は祝日ではないけれど、企業は(全てではないけれど)慣習上、夕方や午後などに社員が早帰りできるようにしたりする。
夜がやってくると、家族は子供たちをつれて、公園などにくりだす。
子供たちは、手に「(電気式の)提灯」をもって、楽しい様子で動き回っている。
提灯は、ハローキティなどの「キャラクター物」から、シンプルな物まで、いろいろある。
中には手作りの提灯まである。
そのような風景を今年も目にしながら、中秋節を迎える。
提灯の灯りだけでなく、子供たちや大人たちの笑顔で灯される風景を見て感じながら、いい風景だなと思う。
いい風景だと思いながら、二つのことを考える。
ひとつは、子供たちが子供たちであること。
子供たちを一定のイメージに押し込めるわけでは決してないけれど、子供たちが屋外で、歩き回ったり走ったりしている姿に子供たちを見る。
都会化と学歴社会の進化の中で、子供たちが早い次期から大人のような生活になげこまれる。
あまりにも対称的だけれど、東ティモールの山間部の子供たちは、学校が終わると山を駆け回る姿を、ぼくはいつも目にしていた。
どちらがいいとかそういうことではなく、ただ、子供たちが見せる笑顔は正直である。
二つ目は、夜の屋外での遊びという、非日常の経験である。
祭りや祭り的なイベントの「効用」として、日常に「非日常性」をひらくことで、人や社会の内に内包される混沌や無秩序的なものが現象する。
そうして、普段、日常として秩序立てられた人と社会に風穴をあけるようにして、バランスをとる作用がある。
非日常性を通過することで、その後に経験する日常は、これまでと異なる日常であるように感じられることもある。
さまざまな文化には、そのような非日常性の経験としてのイベントが、行事や儀式的に埋め込まれている。
中秋節に、夜遅くに屋外に出て、遅くまで遊ぶ。
日常においては、許されていない行為が、中秋節に一時的に解き放たれる。
文化という枠組みの中ではあるけれど、秩序を意図的に崩す。
そのような文化が、高度に都市化された香港で、生きている。
ぼくは、そんなことを考えながら、提灯をもって公園ではしゃぎまわる子供たちを眺める。
「子供」という「自然」が、その自然を花開かせるときである。
曇り空に月はあまり見えないけれど、地上では子供たちの笑顔が「月明かり」の明るさをたたえている。
公園いっぱいに笑顔がひろがる中秋節が今年も訪れていることに、ただ有り難さを感じる、香港で11回目の中秋節である。
香港で、(食べずに)「月餅」を楽しむ方法。- 月餅の種類と売られ方に惹きよせられて。
中秋節を明日10月4日に控え、ここ香港の街は「中秋節」の彩りが濃くなってきている。...Read On.
中秋節を明日10月4日に控え、ここ香港の街は「中秋節」の彩りが濃くなってきている。
中秋節の当日と、香港の祝日となる「中秋節の翌日」共に、天気のいたずらで月は見えないかもしれないが、街では「月餅」がいたるところで、いっぱいの「光」を放っている。
一年の行事の中で、旧正月と冬至と並んで大切にされる「中秋節」に「月餅」が彩りを添える。
月餅は、歴史や言い伝えなどがいろいろに語られるが、現代においては、家族などで一緒に食べることを楽しんだり、ギフトとしての役割も担っている。
甘い月餅はとても甘かったりするから、ぼくは例年、あまり食べないけれど、食べないなりに「月餅」を楽しんでいる。
ぼくが食べずに楽しむ方法は、秋の訪れを感じることの他に、月餅の種類を楽しみ、月餅の売られ方を観察し、そしてビジネスや社会を分析することである。
「甘み」も何もない方法だけれど、ぼくとしては<甘みのある楽しみ>の一つである。
まずは、月餅の「種類」である。
大きくは、甘系と塩系がある。
そこから、それぞれに数え切れないほどに、中身のバリエーションができていく。
中身のバリエーションも、ただ具を変えていくということにとどまらずに、例えば、下記のような広がりをつくっている。
● ブランド志向:ブランド名が刻印された月餅
● 健康志向:例えば「低糖」、保存料調整などの月餅
● モダン:アイス月餅、ドリアン入りの月餅など
● 月餅の「形」をしたスイーツ:月餅の形をした「チョコレート」など
● 月餅の「入れ物」の原型だけを残したもの:容器が月餅で中身は他のお菓子など
● 製造場所:「香港製造」に刻印が押された月餅
● その他
この10年を見てきても、香港における月餅のバリエーションの広がりには驚かされる。
月餅の「種類」に加えて、「売られ方」にも、いつも惹きつけられてしまう。
例えば、次のようなところである。
● 販売時期:いつ頃から売られ、いつ頃にピークを迎えるかなど
● ディスカウント(早割):早割価格が設定されていたりする
● ディスカウント(量):「何箱購入で、何箱フリー」的なディスカウント
● ディスカウント(その他):中秋節後のディスカウントなど
● 個別売り/箱売り:ひとつで購入できるか、箱での購入かなど
● 販売場所:店頭だけでなく、特設場所など
● その他
クーポンなどもあって、売られ方のバリエーションも広がりをもっている。
これらに加えて、プロモーションの仕方なども観察しながら、その売られ方に香港の凄さを見ることができる。
香港の街やショッピングモールを歩きながら、足を止めては、月餅の種類や売られ方を観察し、いろいろと考えることに、ぼくは楽しみを見つける。
コマーシャル化された中秋節の風景のひとつだと言われれば、そうだと言わざるを得ないけれど、そのような批評も飛び越えてゆくほどに、多種多様で多彩な月餅が「光」を放っている。
そして、ぼくは思う。
「中秋節」や「月餅」を大切にする人たちがいて、そこに深い「幸せ」を感じる人たちがいる。
表層的な形を変えても、そこに文化があって、人と人とのつながりがある。
そんなことを考えながら、明日中秋節には久しぶりに月餅を買って、(ひとつ丸ごとは食べられないから)妻と一緒に食べようかと、ぼくは思っている。
海外にいて、異郷で出会う「同郷」の人たち。- 「共通性」をもつことの驚きと歓び。
海外にいて、同郷の人たちに出会うことは、時に心が踊る出来事だ。もちろん、まったく共通点のないような他者(例えば、はじめて出会う国の人たち)と出会うことも歓びである。...Read On.
海外にいて、同郷の人たちに出会うことは、時に心が踊る出来事だ。
もちろん、まったく共通点のないような他者(例えば、はじめて出会う国の人たち)と出会うことも歓びである。
そのことを確認しながら、他者との「共通点」があることの歓び、それは例えば海外にいて同郷の人たちに出会うことの歓びがあることを、ぼくは感じる。
こんなことを考えるきっかけは、そもそも、カレー専門家の水野仁輔のプロフィールを見ていたときであった。
「ほぼ日」の糸井重里に「カレースター」と呼ばれる水野仁輔は、「カレーにまつわるあらゆることのスペシャリスト」で、カレーの学校を開いたりと、面白いことをしている。
それで、たまたまプロフィールを見ていたら、「浜松市出身」とある。
少し検索すると、水野仁輔はかつてぼくと同じ高校の出身で、年齢的に見ると一年上の先輩であったことを知る。
彼は別に海外にいるわけではないけれど、より広い社会の中で、共通点として「同郷」を共有することに、ぼくは驚きと歓びをおぼえたのだ。
その検索の過程で、ジャズピアニストの上原ひろみ(Hiromi)が、同じ高校の出身であったということを知る。
ぼくよりも4つ下の代であったから、同じ時期ではないけれど、彼女はぼくと同じ部活「軽音楽部」でロック的な活動をしていたという。
上原ひろみはアメリカ在住だから、例えばぼくが海外で彼女と出会うことがあれば、軽音楽部のことを語るだろうなと、勝手に想像する。
上原ひろみや水野仁輔やぼくが通った高校は、文武両道で、とても自由な校風に彩られるところであった。
その自由さが、日本や世界のいろいろな分野で活躍する人たちの<土壌>を耕したであろうことを、ぼくは思う。
そんなことを考えながら、「海外で出会う同郷の人たち」ということを、ぼくは考えていた。
「同郷」とは、比較的大きく捉えれば「日本人」であり、小さくはぼくの出身である「静岡県」であり、さらに小さくは「浜松市」であり、といった具合だ。
ある意味で、「確率論的な可能性」の中で、出会うことの確率が少なくなればなるほどに、驚きは大きくなる。
西アフリカのシエラレオネにいたとき、当時2002年において、シエラレオネには「日本人」は10名もいなかった。
シエラレオネに日本の大使館はなく、ぼくが所属していたNGOの同僚、それから国連の日本人職員が数名で、総計5、6名であったと思う。
そこで、「日本人」に出会うこと自体が、日本から遠く離れた土地ということもあって稀であり、親密さを感じさせることであった。
東ティモールに移ってからは、「日本人」が増えた。
ぼくの記憶では、自衛隊の人たちを除くと(自衛隊は途中で任務を終えた)、日本人は70名程であったと思う。
「日本人」ということに驚きはなかったけれど、そこで出会う日本人の人たちとの「共通性」があれば、それは驚きと歓びを届けてくれた。
でも、同郷の人にはそれでも出会うことはなかったと思う。
香港に移ると、「日本人」は圧倒的に増えた。
香港内に、2万人ほどもいるという。
その中で、仕事などを通じて、「日本の出身」をよく聞かれたり、尋ねたりしてきたものだ。
ぼくの「実験的な経験」からは、「静岡県」という枠組みになると、実はそれほど多くはない。
ましてや「浜松市」になると、この10年で数名であった。
同じ「中学校」を出身とする方は、1名であった。
でも、この「確率論的な可能性」の低さの中だからこそ、同郷の人たちにお会いすると、驚きと歓びが増すものである。
「翼をもつことと根をもつこと」(真木悠介)という、人間のもつ欲望の両義性がある。
「翼をもつこと」の欲望がまさるぼくは、Global Citizen的に世界で生きていくことにあこがれる。
真木悠介が語るように、地球そのものを「ふるさと」とすることで、この両義的な欲望は共に満たされる。
それでも、ぼくはときに、「根をもつこと」の狭い形式である「同郷」(出身地など)に根ざすような関心と欲望を、じぶんの中にみる。
そこに執着はもたずに、しかし他者との「共通性」を共有することの歓びを感じながら。
そして、翻って「地球そのものをふるさととすること」に戻れば、ぼくたちは誰とでも、<共通性>を分かち合うことで生きていくことができるということでもある。
香港で、紅茶・ミルクティとコーヒーが出会うところ(「鴛鴦」)。- 四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』の繊細さ。
香港にいながら、「香港」に関する本を探していたときに、共に文学や批評を専門とする四方田犬彦と也斯の往復書簡をまとめた本、『いつも香港を見つめて』を見つけた。...Read On.
香港にいながら、「香港」に関する本を探していたときに、共に文学や批評を専門とする四方田犬彦と也斯の往復書簡をまとめた本、『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)を見つけた。
その時は、読もうと思わなかったのだけれど、今、この本を手にしてみて、四方田犬彦と也斯の繊細な観察眼と文章に心をうたれる。
また、也斯の文章を日本語に訳しているのは池上貞子先生で、大学時代に、池上貞子先生の授業で中国文学を学んだことを思い出す。
「香港に横たわっている文化的多層性を歴史的文脈のもとに分析的に観察する力」(四方田犬彦)によって、ぼくが今いる香港をその歴史という重層性とともに見せてくれるとともに、大学時代に遡るぼく自身の「歴史」も重なりながら、時間と空間がさまざまに交錯するような読書体験を、ぼくは味わう。
往復書簡は、さしあたって、也斯の「香港」と四方田の「東京」を行き来する。
四方田は日本・東京という立ち位置から文章を書き、香港に届ける。
日本の読者は、通常は、同じように日本にいて、「身体的」には同じ立ち位置から、この本を読む。
ぼくは今は香港で、この本を読んでいるから、四方田の語りが、時に香港にいるぼくに宛てられるような気がして、不思議な感じがする。
そのような読書体験を楽しみながら、二人の繊細な文章に心が動かされる。
也斯は、往復書簡において「食べ物」を題材にはじめることを提案する。
食べ物からコミュニケーションを開始することは、「真っ先に他の文化との接点を知ること」(也斯)になるからである。
文化と文化との<境界線>を越えてゆくのに、食べ物はコミュニケーションを容易にしていくのだ。
也斯は、「香港の食」の話を、香港の喫茶店でだされる独特の飲み物を題材につくった彼の詩を紹介することではじめる。
鴛鴦
五種類の異なる茶葉からつくる
濃厚なミルクティー 布の袋か
あるいは伝説のストッキングで やんわりと混雑を包み
もう一つのティーポットのなかに注ぐ その時間の長さが
茶の味の濃さの決め手 この加減が
うまく調節出来るかしら もしも ミルクティーを
もう一つのカップのコーヒーに混ぜたら この強烈な飲み物は
圧倒的な力で 相手を抹殺してしまうだろうか
それともまったく別の味? 街頭の屋台では
日常というかまどの上に 義理人情と世故を積みかさね
日常の世俗さと高尚さを混ぜあわせる 勤勉なそしてまたすこしだけ
散漫な……あの何とも表現しようのない味
四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)
ここで描写される飲み物が、紅茶とコーヒーをミックスしてつくられ、「鴛鴦」(Yuenyeung, Yinyeung, Yinyong)と呼ばれる飲み物だ。
ぼくも初めて口にしたときには、「散漫な……あの何とも表現しようのない味」を感じたものだ。
也斯は、この詩で、「二種類の異なる事物を混ぜあわせること」と、香港における「東西文化の合流」を重ね合わせながら、文章を紡いでゆく。
「東西文化」の融合の結果として、香港では「ミルクティ」が一般に飲まれている。
店ごとに味が異なり、それを試していくのは、楽しみのひとつだ。
美味しいミルクティの「淹れ方の秘訣」は、いろいろな言い伝えがあったと、也斯は紹介している。
…最も荒唐無稽な説は、女性の絹のストッキングで濾すと、美味になるというものです。実は、この言い伝えも香港の歴史の発展段階と関係があります。五十年代に上環の三角碼頭で働いていた労働者たちが、そのあたり一帯の屋台を歩き回っているうち、茶を煮出した袋を見つけました。それはちょうどその頃に西洋から香港に入ってきたばかりの、女性用の肌色のストッキングにそっくりだったのです。…
四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)
この「勘違い」が伝わって、ストッキングで濾したお茶はおいしいということになったという。
香港の紅茶の煮出しを知っている人たちは、この「勘違い」を笑うことはできないだろう。
也斯の詩には、その言葉と行間から、「香港」を感じることができる。
香港の喧騒に囲まれ、立ち止まることを忘れてしまいそうになる中で、也斯の言葉が「香港」を繊細な仕方で、ぼくに語ってくれる。
往復書簡は、香港と日本の交錯が、上述のように、歴史的な文脈による文化的多層性の中で語られ、また読み解かれてゆく。
ここ香港にいて、その語りに耳をすましていると、やはり、時間と空間の軸が、ぼくの想像の中でぶれて曖昧になっていくのを感じる。
現在の都市空間に、過去の風景が見えてくる。
文化性に欠けると言われる香港だけれど、そこには<文化>が見えてくる。
人がいるかぎり、そこには人々の生から形作られ、伝えられる<文化>がある。
見えないものを見る力を、也斯と四方田は教えてくれる。
也斯が香港の文学や作家が陽の目をみることを望みながら他界したのが2013年。
あれから4年。
香港の文学や作家たちは、也斯の望みをどのように承継しているのだろうか。
紅茶・ミルクティとコーヒーが出会う、ここ香港で。
「作るっていうか、生まれるんですね」(黒澤明)から「芸術は爆発だ」(岡本太郎)にみる創造の本質と感動の条件。
昔、テレビで黒澤明へのインタビュー映像を見ていて、「映画づくり」について、黒澤明は次のように語っていた。「作るっていうか、生まれるんですね」...Read On.
昔、テレビで黒澤明へのインタビュー映像を見ていて、「映画づくり」について、黒澤明は次のように語っていた。
「作るっていうか、生まれるんですね」
当時「ほんとうのもの」を求めながら、ぼくは「創造」ということの本質に<関心のアンテナ>がはられていた。
世界の人たちに「感動」を生むような仕事=作品の条件のひとつが、そこに開示されているように、ぼくには聞こえた。
それは、まるで、<自我の稜線>を越え出てゆくような精神の運動である。
そんなことを、芸術家の岡本太郎の「言葉」に耳をかたむけながら、思い出した。
岡本太郎の「言葉」として一般に流通したのが、「芸術は爆発だ」という言葉である。
この言葉と岡本太郎の出で立ちだけが、表層的に、岡本太郎に対する大衆イメージをつくっていった。
この言葉はいろいろに語ることができる。
その一つの諸相として、黒澤明の語る「生まれるんですね」ということと重層する創作プロセスのことを、「爆発」とう言い方で言語化したものと言えると思う。
「作る⇨生まれる」という創作プロセスにおける、いわば「⇨生まれる」の部分の出来事である。
岡本太郎は、彼と親交があったフランスの思想家ジョルジュ・バタイユの思想の本質のように、「どこまでもあふれでる生命力」でもって、何事にも「ぶつかる」存在であった。
だから、「芸術は爆発」ということは、「芸術」を超えて、<生き方の芸術>へとひろがっていかざるをえない岡本太郎の生そのものを意味している。
岡本太郎は、このような言い方をしている。
人間として最も強烈に生きるもの、
無条件に生命をつき出し、爆発する。
その生き方こそが、芸術だ。
岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
このような、いわば<自我の稜線>を越え出てゆく人間とその作品が、世界のあらゆる人に届き「感動」を生んでいく。
岡本太郎は、「ほんとうに感動したら…」という言葉に続けて、「あなたの見る世界は色、形をかえる」(前掲書)とも述べている。
ぼくたちには誰にも、<自我の稜線>を越え出る力、そして感動する力が備わっている。
岡本太郎とバタイユと「フランスのパリ」という共通項をもつ、フランスの哲学者ベルクソン。
彼は「創造的活動」に触れる中で「精神の力」について、次のように書いている。
…もしも、精神の力というものが存在するのならば、その精神の力がほかのものから区別されるのは、まさしく自分が持っている以上のものを自分自身から引き出す働きによってではないでしょうか。…
ベルクソン『世界の名著:ベルクソン』(中央公論社)
黒澤明、岡本太郎、バタイユ、ベルクソンといった「師」たちが指し示してくれる<地点>に、ぼくはどこまでもあこがれる。
パリで、20代の岡本太郎が学んだこと。- 岡本太郎著『壁を破る言葉』にみる「のり超えの痕跡」。
芸術家・岡本太郎の妻である岡本敏子が構成・監修を担当した、岡本太郎の著作『壁を破る言葉』。岡本太郎の「言葉」が、まるで芸術作品のように並んでいる。...Read On.
芸術家・岡本太郎の妻である岡本敏子が構成・監修を担当した、岡本太郎の著作『壁を破る言葉』(イースト・プレス)。
岡本太郎の「言葉」が、まるで芸術作品のように並んでいる。
目次は、「自由」「芸術」「人間」とシンプルに構成され、それぞれのテーマごとに、岡本太郎の「言葉」が存在感を放っている。
この「人間」の章における最後の方に、次の言葉が置かれている。
ぼくはパリで、
人間全体として生きることを学んだ。
画家とか彫刻家とか一つの職業に限定されないで、
もっと広く人間、全存在として生きる。
これがぼくのつかんだ自由だ。
岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
1911年に生まれ1996年に他界した岡本太郎は、世界で生ききってきた人間である。
岡本太郎がパリに渡ったのは1930年だから、ほぼ20歳で、そこから10年ほどをパリで過ごしたという。
つまり、20代を、岡本太郎はパリに生きたのだ。
その経験から学びとったものとして、岡本太郎は上記のような言葉を残している。
この言葉に込められたこと。
人間として、ぼくはとてもわかるような気がする。
ぼくは20代の後半を西アフリカのシエラレオネと東ティモールに生き、そして30代を香港に生きた。
その過程において、「もっと広く人間、全存在として生きる」(岡本太郎)空間へと、ぼくは押し出されてきたように感じる。
気がつくと、「生きる」という、大きなテーマのところに行き着いている。
大きいテーマであることは承知で、しかし、強力な重力にひっぱられるように、この大きなテーマの前に立たされているようだ。
人間全体として生きること。
そのように生きる人たちに出会ってきたこともあるし、ぼくが<人間全体>で向き合わないとやっていけないような場に生きてきたこともある。
それでも、存在の小ささのようなことを感じてしまうときもある。
そのようなとき、岡本太郎は次のように言葉をかけるのかもしれない。
自分の限界なんてわからないよ。
どんなに小さくても、未熟でも、
全宇宙をしょって生きているんだ。
岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
この著作は、タイトルにあるように、「壁を破る」ヒントがいっぱいにつまっている。
「ものを創る人」が必ずゆきづまり、壁にぶつかったときにこの書を開いてほしいと望みながら、岡本敏子は「あとがき」で次のように書いている。
…岡本太郎の言葉は簡潔だが、自身の血をふき出す壮烈な生き方に裏打ちされている。理屈ではない、説教でもない。彼のナマ身がぶつかり、のり越えてきた、その痕跡なのだ。…
岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
理屈でもない、説教でもない、と岡本敏子は言葉をつぎ足しながら書いている。
人間全体として、全宇宙をしょって生きてきた岡本太郎の「ナマ身」にかけられた、ひとつの生。
岡本太郎が、パリで、何を経験し、何を感じ、どうのり越えたのか。
ぼくは、<ひとつの生の歴史>を紐解きたくなる。
この世界で「ナマ身」でぶつかればぶつかるほど、岡本太郎の「のり超えの痕跡」としての言葉が、この心身の深いところに響いてくる。
世界のレストランから。- 東ティモールの「廃墟のレストラン」に灯るろうそくの光が記憶を照らして。
世界のいろいろなレストランで食事をしてきた。思い出深いレストランのひとつを取り上げると、東ティモールのディリ市内にあった「廃墟のレストラン」である。...Read On.
世界のいろいろなレストランで食事をしてきた。
思い出深いレストランのひとつを取り上げると、東ティモールのディリ市内にあった「廃墟のレストラン」である。
正確には、廃墟の建物が「レストラン」となっていた。
廃墟は、コンクリートがむきだしで、屋根はなく、破壊された建物の壁と柱が、かろうじて建物の形態をふちどっていた。
2002年に独立した東ティモールは、さかのぼること1999年に、独立に関する住民投票を行なった。
その結果、事実上の独立が決まると、インドネシア併合維持派は民兵により破壊活動へと走った。
ぼくが東ティモールに入った2003年頃、破壊された建物がまだ見受けられた。
「廃墟のレストラン」は、そのように破壊された、首都ディリ郊外の建物のひとつであった。
そこの家族が、破壊された建物を残したままで、レストランを開業していたのだ。
「レストラン」とは、別に「建物」を意味するとは限らない。
そこに、食事を提供する人たちがいて、食事をとる人たち(カスタマー)がいて、食事があって、サービスがあれば、「レストラン」になる。
「廃墟のレストラン」は、夜に「レストラン」となる。
廃墟のひとつの部屋(部屋といっても部屋があったであろう空間である)に、長テーブルが出される。
外が次第に暗くなり、ろうそくがテーブルと、そこに着席している人たちを灯す。
料理は、以前はポルトガル領であったこともあり、ポルトガル料理的なものが並ぶ。
廃墟で、屋根はなく、壁もあってないようなものだから、星たちが頭上にのぼり、周囲の静かな気配が直に伝わってくる。
難点は「蚊」で、コイルの蚊取り線香が足元で、煙を一生懸命にたいている。
ぼくたちは、レストランで食事をとりながら、東ティモールのこと、そこでの支援活動の話などを語る。
当時はとても平和な東ティモールであって、独立闘争や民兵による破壊活動がなかなか想像しにくいほどであった中で、「廃墟」という空間は困難な歴史を伝え続けていた。
レストランのオーナー家族が「廃墟」を残していることの目的のひとつも、歴史を忘れないことであったかと記憶している。
しんみりとしてしまうこともあるのだけれど、そのように生きている人たちに勇気づけられ、翌日、チャレンジングな支援活動にまた立ち上がっていったものである。
料理はおいしかったと思うのだけれど、それ以上に、その空間とそこに生きる人たち、一緒に東ティモールで支援活動を行う人たちなどとの総体としての体験として、東ティモールの「廃墟のレストラン」は、ぼくの中に記憶されている。
2006年に、首都ディリなどが再度騒乱になげこまれてから、ぼくが東ティモールを去る2007年初頭まで、ぼくが再びこのレストランに行くことはなかった。
あれから、この「廃墟のレストラン」がどうなったかはわからない。
わからないけれど、ぼくを含め、そこを訪れた人たちの心の中に確かに記憶として残っていると思う。
困難な歴史を刻印づけながらも、しかし一歩でも未来に向かって歩む人たちの存在を、ろうそくの光が灯しながら。
生き方の方向性や行動を選ぶ「基準」( 快楽、利得、正邪、善悪…)について。- <気流の鳴る音>が聞こえるか。
生き方の方向性や行動を選ぶ「基準」というものは、人それぞれが、それぞれの生の中で、意識的にあるいは無意識的にもっている。...Read On.
生き方の方向性や行動を選ぶ「基準」というものは、人それぞれが、それぞれの生の中で、意識的にあるいは無意識的にもっている。
ぼくが勝手に師とする社会学者の見田宗介は、著作集(『定本 見田宗介著作集X』)の中で、自身の「基準」に触れている。
社会学における社会理論や価値意識などの精緻な研究を続けてきた見田宗介は、「じぶんはどうか?」と問われたりする中で、しっくりとこない経験をする。
基準となりうるような、快楽、利害、善悪、正義/不正(正邪)等のどの基準も、自分に合わない。
そのうちに、現実を生きていく中で、ある時期から、非常に明確に感知できるようになる。
しかし、「簡潔な二字熟語」では表現できず、長くなってもよいからということで表現をしようとして、次のようなところに行き着く。
●<気が充ちる/気が涸れる>
●<気が澄む/気が濁る>
●<気が晴れる/気が曇る>
見田宗介は、次のように言葉を届けている。
…気が涸れること、気が濁ること、気が曇ることはやらない。「わがまま」と言われても拒否する。気が充ちわたるような方向、気が澄みわたるような方向、気が晴れわたるような方向を必ず選ぶ。「気」というものがどういうものか、現在の科学は正確に定義することができない。精神か身体かといえば、精神であり、身体である。利己か利他かといえば、利己であり、利他である。また、どちらでもないものでもある。けれども、<気が充ちる/気が涸れる>、<気が澄む/気が濁る>、<気が晴れる/気が曇る>という現象は明確に存在している。そして、気が充ちわたるような方向、気が澄みわたるような方向、気が晴れわたるような方向を選択すれば、大きい方向性としてまちがえることはないとわたしは考えている。…
見田宗介『定本 見田宗介著作集X 春風万里』岩波書店
この挿話を聞きながら、ぼくたちは、じぶん自身に問うことができる。
じぶんの「生き方の方向性や行動を選ぶ基準」は、どのようなものであるだろうか?
見田宗介の経験から、ぼくたちは、いくつかのヒントを拾い出しておくことができる。
第1に、人は、「基準」を最初からもっているわけでは必ずしもなく、生きていく過程で、感知し、言葉化していくことができる。
最初から明確に「基準」をもつような人もいるけれど、生きていく過程で、しぼりだされ、浮かび上がってくるようなものでもある。
第2に、しっくりくるまで「じぶんの言葉」で表現をこころみること。
言葉を、じぶんの精神と身体の「土壌」にひたしてみることである。
第3に、「基準」でじぶんをしばるわけではないが、方向性を確認するものであること。
基準がほんとうに「じぶんの言葉」であれば、それはきっと、大きな方向性へと導いてくれることである。
ぼく個人のことはというと、やはり関心を持ち続けてきて、生きてゆく過程のその時どきで、基準(=言葉)と行動を常に行き来しながら、「じぶんに合うか」を確かめてきた。
いっときには、例えば、「チャレンジングか/チャレンジングではないか」などを、ぼくは採用してきた。
しかし、基準と行動の行き来(=フィードバック)の中で、しっくりこないものを感じつつ、一生懸命に、精神と身体双方に合うような言葉をさがしてきた。
そのうち、ぼくは「長くなってしまう形」で、<個人ミッション>へと昇華させてきた。
<個人ミッション>
子供も大人も、どんな人たちも、
目を輝かせて、生をカラフルに、そして感動的に
生ききることのできる世界(関係性)を
クリエイティブにつくっていくこと。
<個人ミッション>に沿うかどうかを、ぼくは「生き方の方向性や行動の基準」としている。
そう考えた後で、しかし、より簡潔な言葉をさがしてみる。
ぼくはじぶんの記憶をさぐり、何を「基準」としてきたのかと、さらに思考を重ねる。
<個人ミッション>に通底するようなものとして、ぼくは、ひとつ思い当たる。
それは、<気流の鳴る音>だ。
見田宗介が真木悠介名で書いた著作のタイトルである。
20歳を超えたところで、ぼくはこの名著に出会い、ぼくの内側が開かれていくのを感じた。
生き方や行動を選ぶにおいて、「気流の鳴る音」が聞こえるかどうか。
「気流の鳴る音」は、<はじまりの音・気配>である。
「気流の鳴る音」は、<新しい風をかんじさせる音・気配>である。
「気流の鳴る音」は、<生きるリズムがきこえる音・気配>である。
ぼくは、耳をすます。
そこに、「気流の鳴る音」が聞こえるかどうか。
気流の音が聞こえるとき、そこに、はじまりがあり、新しい風がふきぬけ、生の躍動がこだまするのだ。
大学で「自由論」に向き合い、世界で「自由」(「不自由」)を経験して。- 「恐怖からの自由」という視点から。
ぼくは、大学院で研究をしていたときに、取り憑かれたように「自由論」を学んだ。...Read On.
ぼくは、大学院で研究をしていたときに、取り憑かれたように「自由論」を学んだ。
修士論文は『開発と自由』と題し、途上国(と先進国)の発展を「自由」という観点から論じた。
大学院を終えて、NGO職員として、途上国、特に紛争地と言われる現場に出ていくことになる。
その現場で、「自由」あるいは「不自由」ということが、まるで、手に取ることのできるような仕方で、ぼくは感じてきた。
内戦が終結したばかりの西アフリカのシエラレオネに、2002年に赴任する。
当時、国際連合シエレレオネ派遣団(UNAMISIL)が結成され活動していて、その任務のひとつに平和維持や武装解除などがあり、各国の軍隊などが駐屯して任務にあたっていた。
UNAMISILの影響もあって街は平和が保たれていたけれど、安全対策は最重要事項のひとつであった。
数々の対策を打ちながら、「安全」を確保しなければならない中で、「危険からの自由」ということの大切さを、手に取ることができるように、ぼくは実感していくことになる。
2003年に、ぼくは東ティモールにうつることになる。
東ティモールも、長年にわたる紛争を経て、独立を果たしたばかりであった。
東ティモールでも、国際連合東ティモール支援団(UNMISET)のもとに、国連の平和維持活動が展開されていた。
当時、日本の自衛隊もPKO活動として東ティモールに派遣されていた。
それらの活動が終了・縮小された後の2006年に、東ティモール騒乱が発生し、政府は独自に事態を収拾できず各国の軍隊に支援を要請する。
ぼくは首都ディリの市街戦の真っ只中に置かれ、家の外の通りでは銃撃戦が続いていた。
その夜、オーストラリア軍などが上陸し、沈静化した翌日に、ぼくは国外退避することになる。
平和的状況を失って、「自由」の輪郭と姿が、じぶんの深いところにさらに刻印されていく。
ぼくは自由と不自由の間にある<落差・格差>のようなものを、見ているようであった。
机上で学んだ「自由論」のひとつの基本は、「~からの自由」、特に「他者(の干渉)からの自由」ということである。
誰もが理解するところである。
シエラレオネと東ティモールの経験は、「恐怖からの自由」ということを基底におく自由主義(シュクラーの提唱)をぼくに思い出させた。
政治学者である大川正彦の著作『正義論』(岩波書店)の中で、シュクラーの「恐怖の自由主義(the liberalism of fear)」(大川は「恐怖からの自由」を軸にそえる自由主義と注記している)が紹介されている。
その詳細はいったん横に置いておくが、ぼくが惹かれたのは、まずは「恐怖からの自由」を基軸としておくことの大切さである。
「恐怖からの自由」は、「残酷な行為」からの自由である。
ぼくは「残酷な行為」を無数に経験してきた社会と人たちの中に生きながら、そして社会の秩序が崩壊する現場(東ティモール騒乱)をじしんが経験しながら、机上で学んでいた「恐怖からの自由」という言葉の痛切さを感じることになったのだ。
残酷な行為から自由であることが、どれほど大切であるかということ。
「自由論」は、ともすると抽象的になりすぎる。
また、日常で自由を語る人たちは、自分勝手さと表裏をなすような自由を標榜したりする。
そのような議論と表面的にすぎる考え方を一気にとらえかえすように、「恐怖からの自由」ということの大切さを、ぼくは感じてきた。
ぼくの経験と実感は、今も世界各地で「恐怖からの自由」を手にできない人たちへと、ぼくの眼と心を向けさせる。
「恐怖からの自由」という、その自由を失わないと見えにくいような自由な社会に暮らしながら、あらためて、「恐怖からの自由」を生きることができることに感謝し、ぼくにできることを考える。
「恐怖からの自由」は、「他者(による残酷な行為)からの自由」であるけれど、それは<他者たちとともにつくられる自由/他者たちによってつくられる自由>でもある。
自由とは、他者の干渉や介入などから自由になるということだけでなく、他者たちとともにつくる/他者たちによってつくられる<自由>という大事な側面をもつ。
日々空気のように享受している「恐怖からの自由」という見えないもの/見えにくいものを視る<視力>を持ちながら、ぼくたちは<自由>をともにつくっていくことができる。
「能率」か「情緒」か?「むずかしい仕事」と「地域の問題」において。- 「日本人の意識」調査の結果から。
「『能率』か『情緒』か?」などのような問いに対する日本人の考え方と考え方の変容について、統計学的に、客観的な数字で見ることのできる資料として、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査がある。...Read On.
「『能率』か『情緒』か?」などのような問いに対する日本人の考え方と考え方の変容について、統計学的に、客観的な数字で見ることのできる資料として、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査がある。
調査は1973年から5年ごとに行われ、日本人の生活や社会についての意見の動きを捉えることを目的としている。
最新の調査は、2013年に行われている。
日本の国外(海外)で15年にわたり生活をし、働いてきた中で、「日本人の意識」や考え方と、異国・異文化における人々の意識や考え方との<間>におかれながら、いろいろと問題に直面し、考えさせられてもきた。
そのような問題意識で、「日本人の意識」調査のデータを見ていると、とても興味深いことばかりだ。
海外で(もちろん日本国内でも)よりよく生きて、よりよく働くためにも、「気づき」を得て、日々に生かしていくことが大切だ。
その「気づき」のためにも、調査結果のデータはたくさんのことを、客観的な数値で見せてくれる。
「能率・情緒」という意識と考え方について、「仕事」と「隣近所」という場に関する設問を見ることにする。
能率・情緒(仕事の相手)
第16問
かりにあなたが、リストにあげた甲、乙いずれかの人と組んで仕事をするとします。
その仕事がかなりむずかしく、しかも長期間にわたる場合、あなたはどちらの人を選びたいと思いますか。
甲:多少つきあいにくいが、能力のすぐれた人
乙:多少能力は劣るが、人柄のよい人
NHK放送文化研究所「日本人の意識」調査(2013年)結果の概要
これまで行われた9回の調査の内、ここでは1973年・1993年・2013年のデータを共有しておくと次のようになる。
- 甲の人を選ぶ(能率):26.9%(1973), 24.6%(1993), 27.0%(2013)
- 乙の人を選ぶ(情緒):68.0%(1973), 70.8%(1993), 70.3%(2013)
- わからない、無回答等:5.0%(1973), 4.6%(1993), 2.7%(2013)
むずかしい問題に向かい中長期にわたって一緒に仕事をする相手を選ぶ際に、能率よりも「情緒」を選ぶ人が多いことは、推測の域を超えるところではない。
ただし、それでもおどろくのは、第一に、情緒を選ぶ人が70%という高い数値であり、それから第二に、この40年間の推移において、ほとんど数値が動かないことである。
一貫して高い数値を維持し、2013年という最近においても、その数値の水準が維持され続けていることである。
むずかしい仕事の乗り越えを、仕事そのものの解決というより、「人間関係」にたくしているように(あるいは人間関係に解消してしまうように)みえる。
例えば、香港という「能率」を重視する社会の中で、香港的な能率と日本的な情緒という仕事の仕方のようなところで、異文化のズレがさまざまな事象の中に見られる。
このトピックはここから深く分析していくことも可能だけれど、ここでは立ち入らず、次の「地域・隣近所」における「能率・情緒」を見てみる。
能率・情緒(会合)
第32問
かりに、この地域に起きた問題を話し合うために、隣近所の人が10人程度集まったとします。
その場合、会合の進め方としては、リストにある甲、乙どちらがよいと思いますか。
甲:世間話などをまじえながら、時間がかかってもなごやかに話をすすめる
乙:むだな話を抜きにして、てきぱきと手ぎわよくみんなの意見をまとめる
NHK放送文化研究所「日本人の意識」調査(2013年)結果の概要
ここでも、前の設問と同じように、1973年・1993年・2013年のデータを共有しておくと次のようになる。
- 甲の人を選ぶ(情緒):44.5%(1973), 50.9%(1993), 54.8%(2013)
- 乙の人を選ぶ(能率):51.7%(1973), 44.6%(1993), 42.5%(2013)
- わからない、無回答等:3.8%(1973), 4.5%(1993), 2.7%(2013)
「仕事の相手」の設問とは、場(関わり方)の設定、時間(短期、長期)の設定などが異なるが、それでも興味深いデータを見ることができる。
第一に、「能率」を選ぶ人が多いこと、第二に、1973年時点では「能率」を選択する人の方が多かったこと、さらに第三に、1973年以後徐々に「情緒」の数値の方が大きくなっていることである。
1973年の数値の背景としては、「隣近所」というコミュニティの「つながり」が醸成されていたこと、あるいは逆に「つながり」がなかったけれど見えない信頼感のようなものが形成されやすい場であったのかもしれない。
「情緒」が醸成されている/醸成されやすい環境で、むしろ「能率」に目が向けられる。
あるいは、日本社会の「合理化」という近代化の動力におされる形で、社会のすみずみまで、「能率」が貫徹されていく過程であったのかもしれない。
1973年以降は、今度は、日本社会における共同体と家族の変容(あるいは解体)の中で、「つながり」の細い糸を巻いては強くするように、「情緒」を大切にしているように見える。
あるいは、社会における合理化の貫徹の中で、また311などを契機としていく中で、違うところに価値を見出す人たちの出現を表しているのかもしれない。
調査では、甲・乙という設問のあり方だけれど、現実はそれほど単純ではない。
能率も大切だし、情緒も大切だ。
能率か情緒かに関する抽象的な議論にはあまり意味がない。
日々の仕事やコミュニティにおける問題・課題の解決では、双方が求められ、日々の具体性の中で双方を駆使していく必要がある。
そのことを認識しながらも、しかし、意識の底辺における考え方や感じ方が、問題・課題解決から人や組織を遠ざけることもある。
異文化の中では、それが「先鋭化」しがちだ。
その一歩引いた視点の中で、「気づき」を土台に、仕事やコミュニティでの人との関わり方を考え、生きていくことが、ぼくたちをより広い世界に解き放ってくれる。
自然がつくりだす「アート」としての青空と雲を眺めながら。- 香港にひろがる青空の彼方へ。
中秋節を10日後ほどに控え、至るところが月餅で彩られる香港は、暑い日差しが差しながらも、香港のはるか南を通り過ぎていく台風の影響もあってか、やや強めだけれど気持ちのよい風が吹いていく。...Read On.
中秋節を10日後ほどに控え、至るところが月餅で彩られる香港は、暑い日差しが差しながらも、香港のはるか南を通り過ぎていく台風の影響もあってか、やや強めだけれど気持ちのよい風が吹いていく。
季節の移り変わりを感じさせる青空と雲が、ぼくたちの頭上に、ひろがっている。
風が雲を急ぎ足にさせて、頭上にひろがる風景は万華鏡のように、そのデザインと色合いを変えていく。
まるで、青空のキャンバスに、自然が織りなす「アート」のライブショーを見ているようだ。
香港の晴れた午後に、エクササイズとしてのウォーキングに出かける。
強めの風を肌に受けながら、空に浮かぶ雲は刻々と姿を変えていく。
30度を超える夏日だけれど、風が吹き抜けていくため、暑さは気にならない。
時折、小さな雨雲がよこぎっては、少しの雨粒をおとしていく。
雨雲がさり、真白い厚い雲の出番となり、雲の合間から日差しが勢いよく差してくる。
その内に、厚い雲が青空のキャンバスの脇によせられ、青空が顔を出す。
青空には、白い絵の具をつけた絵画の筆を勢いよく無造作に走らせたような雲が描かれている。
その風景の<美の重力>を感じて、歩みをとめ、空を見上げる。
<美の重力>は、視界を地球の中心に向けてではなく、地球の外部に向けて、ぼくをひっぱっていく。
まるで宇宙にいて、宇宙から地球を見ているような錯覚をおぼえる。
見上げながら、空と雲と風と太陽などが織りなす「アート」に惹き込まれていた妻が、顔を上げたままに、ふと口にする。
「(通りがかりの)他の人たちも、私たちにつられて、空を見上げるかしら。」
彼女はそのまま空に見入っていて、ぼくが周りに目を向ける。
ジョギングをする人たち、歩いている人たち、サイクリングをしている人たち、話し込んでいる人たちなどが視界に入ってくるけれど、ぼくの視界の中では、誰も空を見上げてはいなかった。
「誰も見上げていないね。」
ぼくは言葉を返しながら、ライブショーを続ける空へと再び目を向ける。
空は三日月をうっすらと描き、そして、小さくなって飛んでいく飛行機も描き足していく。
「アート」は刻一刻と変わっていく。
そろそろ、見るのをやめないと。
ぼくは心の中でつぶやく。
<世界の見方>を間違わないように。
頭上に描かれる「アート」は、ライブショーをひとまず終わらせようとしていたのだ。
まぶたの裏に、終わりの風景が焼き付けられないように、「終わる」前に、ぼくは目を離さなければと思うのだけれど、どうしてももう少し見ていたいと思ってしまう。
あやうく「終わる」ところで、ぼくは目を空にひろがる「アート」からそらすことができた。
再び歩きはじめて、空に白く厚い雲がおおっていくのを、目の端がとらえる。
ぼくのまぶたの裏には、あの「アート」が残っていて、<美の重力>の余韻も感じられる。
その余韻の中で、香港にひろがる青空の彼方へと、ぼくはひきこまれていく。
有限な地球の中で、じぶんが無限にひらかれていくのを感じるひとときである。
「125歳まで生きるためには…」と、じぶんに問いかけてみること。- 「人生の時間軸」を切り拓いて気づくこと。
片岡鶴太郎(肩書きはタレント・俳優・画家・書家・ヨーギなど)は、「125歳まで生きること」を目標のひとつとしている。...Read On.
片岡鶴太郎(肩書きはタレント・俳優・画家・書家・ヨーギなど)は、「125歳まで生きること」を目標のひとつとしている。
著作『50代から本気で遊べば人生は愉しくなる』(SB新書)で、朝(夜中)に起きてから6時間かけて、一日をはじめる「準備」をする様子が書かれている。
ヨガにはじまり、瞑想、それから2時間かけての食事(一日一食)と続く。
その片岡鶴太郎が「125歳まで生きること」を目標としていることを公言している。
他方で、昨年に出版されたLynda Gratton & Andrew Scottの著書『The 100-Year Life: Living and Working in an Age of Longevity』(日本語訳『LIFE SHIFT(ライフシフト)』)が、読者を獲得し、メディアでも取り上げられてきたことで、「100年時代」というキーワードが日本では一般的に使われ始めている。
平均余命のトップ1・2を日本と分かち合う、ここ香港では、「100年時代」的なキーワードは特に一般化されてはいないようだ。
日本政府の資料や香港政府の資料などを見ると、2060年予測には、平均寿命や平均余命において「90歳代」(女性)の数値が現れる。
これまでの「最高年齢」をネット検索していると、122歳という方がいらっしゃったりする。
その他、人間は何歳まで生物学的に生きることができるのか、という記事やブログが、ネット検索でもいろいろにひっかかってくる。
遺伝子の視点なども含め、いろいろな説があるようだ。
片岡鶴太郎が公言する「125歳の目標」は、とんでもない数値目標ということでもなさそうだ。
だから、ぼくも「100年時代」だから「100歳」とはせずに、片岡鶴太郎式に数値目標を上げることにした。
現状は、125歳に3歳足して、「128歳」というように、ぼくは「人生の時間軸」を切り拓くことにした。
目標を大切にしながらも、その道ゆきを楽しむものとしての目標数値である。
何よりも、そのように設定したときの「自分の気づき」や思考の仕方、それから日々の生き方(実践)を大切にするために、ぼくは「人生の時間軸」を引き伸ばしてみることにした。
別に、125歳や128歳を勧めるわけではないけれど、思考実験として試すことは、誰でもできる。
片岡鶴太郎式に、例えば「125歳まで生きる」としたら、じぶんは、日々どのように生きていくだろうか、と。
そのときに引き入れておくべき「補助線」は、「健康寿命」である。
「健康寿命」とは、健康的に日常生活をおくることのできる期間のことである。
ぼくは、寿命と健康寿命が重なるようにして、考えてみる。
40歳を超えたぼくとしては、80年以上をどのように健康的に生きていくことができるかと、じぶんに問うことである。
ぼくは、たくさんの「気づき」を得ることになる。
ひとつには、やはり、じぶんの「思い込み」である。
ぼくは、小さいころから漠然と、平均寿命といわれる80歳くらいまで生きるという「思い込み」の中で、人生を組み立て、生きてきたことである。
40歳は人生の「折り返し地点」などと、じぶんの身体に相談もせず、じぶん勝手に思ったりしたことだ。
その考え方と思い込みの中で、じぶん(じぶんの身体)を大切にして来なかったようなところが、128歳まで生きると決めてから、より明確に「見えてくる」ようになる。
人は、この話題になると、二者択一的な議論を展開しがちだ。
- 太く短い人生
- 細く長い人生
人は本来の「生」を、このように「狭い議論」の中におしこめてしまう。
「じぶんは長生きするつもりはなく、太く短い人生でいいんだ」と、二者択一的な思考の中で、「選択」してしまう。
生きることは「選択」である。
かつては「太く短い人生」に憧れたぼくは、今でこそ、「太く(深く)長い人生」もあるという確信の中で、そのような人生を生きたいと思う。
ただ「選択」するところから、「生」は本来の豊饒さを開いていく。
ぼくは、たくさんの本を読みたいし、たくさんのこともしたいし、火星に移住する人たちと同時代を生きたいし、人工知能が生活にとけこんだ社会も生きてみたい。
近代・現代の後の「次なる時代」を構想し、その「次なる時代」へつながる橋渡しに生き、「次なる時代」を生きたい。
「125歳まで生きるために」という思考とそのような生き方の選択は、何よりも、「じぶんを大切にすること」への思考と実践へと、じぶんを開いていくことの戦略と戦術である。
「じぶんを大切にすること」で、じぶんがもつギフトをもっと他者に与えられることへと、じぶんを開いてゆく。
「他者」は、同時代に生きる人たち、子供たち、将来に生まれでてくる人たち、それからこの地球の自然や動物や生物にまで射程がひらかれる。
「125歳」というはるか先を見すえたはずなのに、視点と実践はいつのまにか、「今、ここ」にそそがれていることに、ぼく(たち)は気づく。
「今、ここ」のじぶんや他者への暖かく冷静な心と行動が、「125歳」までの豊饒な道ゆきをつくりだしていくのだから。
「近代・現代の社会はどのような社会であったか/あるか」を説明せよとの設問が出されたら。- 見田宗介の文章に倣う。
「近代・現代の社会はどのような社会であったか」を300字程度で説明せよと、試験の設問に出されたら、どのように書くことができるだろうか。...Read On.
「近代・現代の社会はどのような社会であったか」を300字程度で説明せよと、試験の設問に出されたら、どのように書くことができるだろうか。
なお、設問は追記で、「合理性」および「自由と平等」というキーワードを必ず文章に入れること、とされているとしたら。
社会学者の見田宗介が書く文章の一部を見ていたら、この質問への徹底的に考えつくされた「魅力的な解答例」であるように思えて仕方なく、ぼくは、何度も何度もその箇所を読み返す。
それは、「世界の見方」を、ぼくたちに与えてくれる。
見田宗介は、この文章を、日本における「近代家父長制家族」の考察に続けて、次のように書いている。
ウェーバーの見るように「近代」の原理は「合理性」であり、近代とはこの「合理性」が、社会のあらゆる領域に貫徹する社会であった。他方、近代の「理念」は自由と平等である。現実の近代社会をその基底において支えた「近代家父長制家族」とは、この近代の現実の原則であった生産主義的な生の手段化=「合理化」によって、近代の「理念」であった自由と平等を封印する形態であった…。
「高度経済成長」の成就とこの生産主義的な「生の手段化」=「合理化」の圧力の解除とともにこの「封印」は解凍し、「平等」を求める女性たちの声、「自由」を求める青年たちの声の前に、<近代家父長制家族>とこれに連動するモラルとシステムの全体が音を立てての解体を開始している。
見田宗介「現代社会はどこに向かうか」『定本 見田宗介著作集 I』岩波書店
繰り返しになるが、ポイントを分けて再掲すると、次のようになる。
●「近代の原理」は、「合理性」であること
●「合理性」が、社会のすみずみまで浸透する社会が近代であること。それは「生きること」を生産のために手段化すること
●この「合理化」を支えたのが、実際には「近代家父長制家族」(父親が外で仕事をし、母親が家庭を守る「内外分担」の家族像)であったこと
●「近代の理念」は、「自由と平等」であること
●「自由と平等」は、実際には、社会の合理化優先の中で、「封印」されたこと(理念は一旦後回しにされたこと)
●合理化が社会に貫徹し、高度に経済成長した(日本)社会において、理念である「自由と平等」が(封印をとかれ)姿を現してきたこと
●「自由と平等」は、例えば、平等を求める女性であったり、自由を求める青年であったりすること
●「自由と平等」の理念のもとで、「近代家父長制度」とそれに連動し関連する道徳や制度などがくずれてきていること
ぼくは、見田宗介の文章を読みながら、頭の中で、上記のように、ひとつひとつに分解し、読み直し、ダイジェストしていく。
それぞれの文章に、深い考察が凝縮されている。
これらは「近代」という時代の全体像を簡潔にしかし深いところで理解させてくれるだけでなく、凝縮された文章の中に、現代の状況を語りあるいは分析するための思考のヒントがいくつも開示されている。
これらは、今現在、日々起きている事象、日本に限らず、世界で起きている事象を考えていく際に、その「骨格」を用意してくれる。
「合理化」=生産主義的な生の手段化、ということひとつをとってみても、それは、ぼくが小さい頃から感じてきた「生き難さ」の感覚の源泉のひとつである。
「将来役に立つから…」という社会の声の前で、現在の豊饒な生が脇に追いやられ、自分の生を生産主義的に手段化し成形していく。
また、「近代家父長制」に疑問をもちつつも、実は、現実にそれが合理化を支える制度であったことに、現実をつきつけられる。
「自由と平等」という理念の大切さにひかれながらも、現実の社会では、「合理化」と「自由と平等」の並行的な両立は容易ではないことを考えさせられる。
ぼくが携わってきた途上国などの状況と国際支援という文脈においてみると、考えさせられることばかりだ。
経済成長を果たし、つまり「合理化」を貫徹させてきたところで、「自由と平等」の「封印」が解かれる事象を、ぼくは現実にもメディアにもさまざまに見ることができる。
「人事」という領域ひとつとっても、話題に尽きない。
「働き方改革」は、誰もが知るところである。
日本における「近代家父長制度」の崩壊とともに、「自由と平等」の理念が開花し、例えば「多様性」が仕事・職場に一気に流入してゆく。
日々の事象やメディア情報に流されるのではなく、それらを大きな軸・骨格をもって見ること。
そのことの大切さと見方、思考の展開の仕方(生成力のある思考の方法)などを、ぼくは上記の文章を何度も読み直しながら学ぶ。
「大きな軸・骨格」をもったからといって、すぐに人生が好転するわけではないけれど、それは生きていく航路で、必ず、ぼくたちの生を支えてくれるのだと、ぼくは思っている。