職場での「ほめることと叱ること」。- 河合隼雄のアドバイスに耳を傾けてみる。
人事マネジメントにおいて、「ほめることと叱ること」というテーマはよく語られ、聞かれ、悩まれるテーマである。
人事マネジメントにおいて、「ほめることと叱ること」というテーマはよく語られ、聞かれ、悩まれるテーマである。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の著作『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)のなかに、「ほめることと叱(しか)ること」について書かれているところがある。
部下に対してほめる方がいいのか、叱った方がいいのか、心理学的な効果などを、河合隼雄は質問されることがあったという。
河合隼雄は、心理学者によって行われた「実験」を導きとして、このテーマについて書いている。
実験はとてもシンプルである。
グループを三つに分け、どのグループにも同じような単純な仕事を与える。
仕事が終わったあとに、グループごとに対応をかえ、第一のグループには「ほめる」、第二のグループには「叱る」、第三のグループには「ほめも叱りもしない」とする。
翌日も同じように進め、前日からの進歩度合いをはかる。
二日目は、進歩の大きかった順に、「叱った」グループ、「ほめた」グループ、「何も言わなかった」グループとくる。
しかし、これを続けてゆくと、「ほめた」グループが「叱った」グループの進歩の上昇率の方がより高くなっていくという。
このような実験と実験結果である。
河合隼雄は、この結果から、ほめるのが良いというのは性急すぎるし、出される課題によっても変わるだろうと留保したうえで、つぎのように意見を加えている。
…この実験には、ほめたり叱ったり、というグループは含まれていない。おそらく、正解は「適切にほめ、適切に叱る」のが一番良いということになろうが、この適切にというところが、実際にどうするのか誰しも解らないのが困るところである。それではどうすればいいのだろうか。
河合隼雄『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)
この「適切に」ということを、ほめる/叱ることの割合をおくことによって、ある程度の指針をもつことができる。
もちろん、ほめる/叱るということのうちには、主体と客体のそれぞれの状況と関係性があるから、あくまでも指針ということである。
河合隼雄は「それではどうすればいいのだろうか」ということについて、まず、つぎのことをつづけて書いている。
ほめるにしろ、叱るにしろ、そこに自分の個性が生きているとどちらでも良いようである。部下をほめることに一所懸命になりながら、嫌われている人もあるし、叱ってばかりいるのに、結構、部下に愛されている人もある。といっても、個性を生かすということも難しいことなので、思い切って、ハウ・ツー式に言うと、やっぱり…ほめることを心がけることであろう。
河合隼雄『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)
基本的なところにおいて「正しい」とぼくは思う。
くりかえし強調しておきたいのは、「個性を生かす」ということである。
難しいことであるけれども、ほめるにしろ、叱るにしろ、そこに自分の個性が生きてくるかどうか。
それはやはり、仕事を超えた人間的な魅力性、つまり生き方ということにある。
「すばらしい人間になる」ということではなく、個性、つまり自分の生き方が生きるがどうかである。
また、実験結果における第三グループ、「ほめも叱りもしない」グループは、進歩度が低いままであったことを忘れてはならない。
対話・会話もないままであることは、人事評価での思ってもみない評価の「ズレ」、さらには日々の誤解をいくつもいくつもつくりだしてゆく。
海外での人事マネジメントでは、「言葉」も制約要因としてあるかもしれない。
しかし、それは「言葉」だけの問題ではけっしてないし、また文化的な制約要因などはふだん「当たり前」としていることを「当たり前ではない」ものとして、より注意深く考えさせてくれるものでもある。
こんなことも含めて、「ほめることと叱ること」は、尽きることのないテーマである。
「星の国から」という極意伝授。- 河合隼雄著『働きざかりの心理学』を今読む。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の著作群のなかに、『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)という著作がある。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の著作群のなかに、『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)という著作がある。
元の本は1981年に出版され、文庫化されたのが1995年。
2000年頃に一度手にとり、2018年の今、再び、この本を読んでみる。
出版から文庫化された月日(1981年から1995年)にも日本的な社会と組織と人の変遷があり、また、ぼく自身の月日(2000年頃から2018年)にも、経験の山と谷がきざまれている。
ぼく自身の経験には「働く」ということがあったし、また「人と組織」に傾注してきたところでもある。
そのような眼で読んでゆくとき、河合隼雄の本質的な議論は、今でも、たくさんのことを教えてくれる。
「人と組織」の現在的なあり様とは少し異なる雰囲気がある箇所もあるけれども、そのような箇所は読者が差し引いて読めばよいだけで、むしろ、河合隼雄の本質的な議論に、ぼくは惹かれる。
本のなかに、「星の国から」という、興味深い文章がある。
「行きつけの飲み屋で飲んでいたら、横に座っていた会社の上司と部下らしい人の会話が聞こえてきた。」(前掲書)という文章ではじまる。
この「話」が、ほんとうに飲み屋で河合隼雄が聞いたものなのか、あるいはある程度の創作が入っているのかは定かではないけれども、河合隼雄が書くように、確かに「なかなか面白い会話」である。
登場人物は、上司の部長と部下の2人である。
飲み屋の席で、部下は、「今日の会議」がうまくいったこと、それが上司である部長の「思いどおりの結果」であっただろうこと、会議の司会であった部長があまり努力もしていないように見えたけれども最後は「うまくまとまってしまう」こと、そもそも仕事全体でも部長のやり方はそのような感じであることを、上司に伝える。
「馬鹿なこと言うなよ、不熱心では部長はつとまらない」という部長に、食い下がる部下は秘術でもあるのかどうか、そして秘術があればぜひ伝授してほしい旨を話す。
秘術なんてものはないと前置きながら、部長は部下につぎのように応答していく。
上司「…確かに、会議も会社も大切だけどね、世界全体のなかで見れば、世界といっても宇宙のなかで見れば、そのなかの小さい星である太陽のまわりをまわっている衛星のひとつ、地球のなかでの、小さい小さい出来ごとだし、たとえ地球にだけかぎってもみても、地球の歴史のなかのごく僅かな部分をわれわれは生きているのだから。…だから仕事をしてゆくうえでも、地球外の星の国から見ているようなつもりで見ていると、皆がやいやい言っていることでも、それほど大きいことでもないように思えてくる。まあ、どちらでもいいことではないか、と思っていると、うまく収まってくる」
河合隼雄『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)
上司による「極意伝授」に対して、部下は、「どちらでもいい」としながらそれでも部長の思う方向にものごとが決まってゆくのはなぜかと、よい質問を投げ返す。
質問がなければそこで放っておこうと考えていた上司の部長は、さらに対話をつづけてゆき、つぎのようにしめくくっている。
上司「…だから両方のところのバランスが大切なのさ、人間に目が二つあるのは意味が大きいと思うな。ひとつは自分中心にものごとを見るし、ひとつは星の国からの視点でものをみる。そのバランスを保っていると、自然にうまくゆくのだよ」
河合隼雄『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)
この「面白い会話」の心を動かされたのは、第一に、世界や宇宙という空間軸、また歴史という時間軸の「とり方」、第二に、こんな会話を飲みの席とはいえ、とても自然に語る上司であること、そして第三に、これらを含め「どっしり感」の存在によってである。
もちろん、上司の考え方(そして生き方)に異を唱える人はいるだろうし、もう少し突っ込んで聞かなければいけない部分も会話のなかにはあるだろう。
それでも、やはり眼にとまるのは、このような個性あふれる人の存在であるようにも思う。
ぼくは、「世界で生ききる」うえで大切なこととして、<地球や宇宙>という視点をもつことがあるとかんがえている。
ぼくはそこにいろいろな「理由」を含めているけれど、一番端的な「効用」は、上司である部長が語ったようなところにある。
少なくとも、ぼくたちは<視点をかえる>という力をだれもがもち、この地球に、日々生きている。
「沈黙の春」(Silent Spring)の戦慄と今。- 見田宗介著『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』を読みつづけて。
8月末ここ香港における大気汚染の中で生活しながら、見田宗介の名著『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)を手にとり、本をひらく。
8月末ここ香港における大気汚染の中で生活しながら、見田宗介の名著『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)を手にとり、本をひらく。
1996年に発刊された本書は、現代社会の「光の巨大」と「闇の巨大」を<ひとつの理論>の中に収め、20年が経過した今も「古い」ということはなく、今でも、そして今だからこそいっそう大切な議論を展開している(*なお、現在では、見田宗介の著作集Ⅰに一部データ変更の上、収められてもいる)。
「闇の巨大」として、あるいは現代社会の「限界問題」として取り上げられ、展開されているのが、以下の問題・課題である。
- 環境の臨界/資源の臨界
- 南の貧困/北の貧困
現代社会の「限界問題1」として取り上げられているのが、環境と資源の問題である。
闇の巨大として語られる「環境・資源」の問題については、今では
この「限界問題1」の章を、見田宗介は、「沈黙の春」という節を出発点として、議論を展開している。
「沈黙の春」(Silent Spring)が学校などでどのように教えられている(あるいは教えられていない)のか、ぼくにはわからない。
その言葉を聞いて、まったくなんのことかわからない、ということもあるだろう。
ぼくが1990年代に大学で学んでいた頃は、レイチェル・カーソンによって書かれたこの『沈黙の春』という書籍は、環境問題・公害問題の「古典」としての位置を占めていた。
「古典」であるということは、見田宗介も書いているとおり、「だれでもその書名をよく知っている割合には、現在ではその内容を必ずしもきちんと読まれていない」(前掲書)という本である。
見田宗介は、この本が提起している問題について、その「基本的な構造」は変わっておらず、「今もなおアクチュアルな問題」であるとしながら、ぼくたちの「感覚のズレ」のようなものについて、教えてくれている。
『沈黙の春』で取り上げられている化学薬品の多くは現在ではほとんど使用されていないけれど、カーソンの描くような環境汚染ははるかに巨きな規模と深度で進行してきた。
そのことを指摘しながら、またカーソンの嘆きを引用しながら、それにつづけて、見田宗介はつぎのように書いている。
…レイチェル・カーソンのこの新しい戦慄を、いくらか「時代おくれ」のものであるように感じる人は多くなっている。それは書かれていることが、解決され、すでに存在しなくなっているからではない。反対に、それが多くの国々で、ふつうのこととなり、だれもそのことに注目しなくなったからである。気づいても、新しい戦慄の声を挙げるということを、しなくなっているからである。人間たちもまた沈黙してしまったからである。あるいは、われわれの中の感受性も、声を挙げるということをしなくなったからである。
見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』岩波新書、1996年
レイチェル・カーソンにだけではなく、ぼくは、この文章に、この見方に、教えられた。
ひとつ前の時代であれば新鮮な戦慄であり、声が挙げられたことが、今では「ふつうのこと」となってしまっていて、その状況をただやりすごしてしまう。
このことは「環境問題」に限ったことではない。
いろいろな事象や状況を射る見方として、『沈黙の春』と『現代社会の理論』はぼくの中にある。
それにしても、この本の副題にある「情報化社会・消費化社会」という言葉も、「古く」感じられてしまうことがある。
しかし、この本を読み、実際の社会に目をやり、じぶんの生活を振り返ると、これらの言葉が指摘することは、今もそのひろがりと深度を増しているようにも思う。
そして、この現代社会の乗り越えも、この「情報」と「消費」の意味合いを転回し、徹底させてゆくところにあるということも、この本が書かれてから20年以上が経過した今、さらに切実さと可能性を大きくしている。
「情報の断片」と「本」。- 情報のあふれる時代に、それでも(だから)「本」を読む。
情報通信技術の進展とともに、インターネットやSNS上に「情報」があふれている。
情報通信技術の進展とともに、インターネットやSNS上に「情報」があふれている。
よい面もわるい面も含めてそんな時代に生きているし、社会がこの状況をやめて引き返すことはない。
ぼく個人としては、その可能性を、肯定的にみたい(いわゆる表面的な「情報」ではなく、それを純化させていったときの<情報>がひらく社会の可能性を含めて)。
「本」(あるいはそれに準じるような活字媒体)のよさのひとつを挙げるとすれば、それがどんな本であろうと、一冊の本としての「完結性」あるいは「全体性」を意図的に志向していることにあると、ぼくは思う。
もちろん厳密には、世界や出来事を「完結性」と「全体性」を達成した本などないのだけれど、少なくとも、そこに「世界や出来事を視る眼」(つまりフレームワーク、「メガネ」など)が提示されていて、読む側としては書き手の「眼」で世界や出来事を視ること、またその見方を学ぶことができる。
社会学者の若林幹夫は「書物」(特に学術的な書物)というものについて、つぎのように書いている。
書物とは、そして思考とは、ある全体性を目指しながら、つねに完結しない開かれの中にあって、他のテクストと、それらを見出した他者たちの思考とともに、いつか到達できるかもしれない世界の全体としての理解を目指すものなのだ。…どんな大著でも、テクストの「全体」とはそのような試みの一部をなす、とりあえずの断片なのだ。
若林幹夫『社会(学)を読む』弘文堂、2012年
若林幹夫の書くように、本も「とりあえずの断片」なのだけれども、それは全体性を目指してもいる。
このことは「書く側」になってみると、よくわかる。
『香港でよりよく生きていくための52のこと』を書いたとき、その小さな本のなかにも、やはり「全体性」を志向したのであった。
上述の「とりあえずの断片」は、ネットやSNS上で獲得する「情報の断片」とは異なる。
何かを学んだり情報を得たりすることに、ネットサーフィンとネット検索であっという間に、さまざまな情報をひろいあげていける世界になったことは、ほんとうにすごいことだと思う一方で、今のところ、それらはいわゆる「情報収集」という次元にある。
それは、情報の断片の収集である。
それら断片(あるいは断片に含まれた全体性)からも学ぶことはできるし、人生の一部を変えてしまうこともあるかもしれないが、「情報収集」は、それ自体では成り立たず、そこには<意識や見方のアルゴリズム>あるいは<フレームワーク>が必要である。
それらをもたないままに情報収集をつづけると、情報の断片がただただ積み重なっていくだけである。
クローゼットのない部屋に、モノが散在してゆくイメージだ。
人はただただ散らかった情報にはたえられないから、そこで収集した情報を「まとめる」ことをしようとするが、その際に使われる<アルゴリズム>は、じぶんが意識的に学んだものというよりは、(無意識的にじぶんにプログラムされた)他者たちのアルゴリズムである。
「本」は、<じぶんのアルゴリズム>をつくってゆくことに役立つ。
その土台の上で行われる情報収集は、さらに(じぶんにとって)生きてくることになる。
情報のあふれる時代に、だから、「本」を読む。
本で学ぶことと経験から学ぶこと。- 本だけではないし、経験だけでもない。
ぼくが本をみずから手にとって読むようになったのは、20歳頃のことである。
ぼくが本をみずから手にとって読むようになったのは、20歳頃のことである。
ニュージーランド、とくにオークランドに住んでいたときが、「転機」のひとつであったと、そのときのことを思い起こす。
そのときの記憶のいくつかは、例えば、ニュージーランドに住んでいるとき、日本食レストランでのアルバイトが休みの日に、オークランドの図書館に行って本を手にとってみたこと。
あるいは、オークランドの古本屋で、歴史家エドワード・カーの『The Twenty Year’s Crisis』を購入し、また(確か)シドニー・シェルダンの作品を手に取ったのもこの同じ古本屋であったと思う。
これまで住んでいた日本の環境を離れてみて、空いた時間の「空隙」に、本がそっとあらわれてきたようだ。
手に取ったのが「英語」の作品群であったことも、ぼくが本を好きになったことを後押ししたのだと思う。
英語をきっちりと学びたかったことと共に、英語の本の世界を通じて、ぼくは<いつもとは違う場所>に思考と想像をはばたかせることができたのかもしれない。
本を読むようになる前には、本など読まなくても、日々の経験が大切でまたその経験を通してかんがえていくんだというスタンスであった。
今思えば、勝手な言い分だし、未熟な考え方であったように思う。
今は、それらのどちらかではなく、どちらもが大切であると思う。
経験だけではなかなかじぶんの「殻」を出るのがむずかしいし、また経験を通してかんがえることはもちろん大切だけれども、それをまるで「じぶんだけの発見」のように語るのも、ひどく狭い視野である。
これまでに、そして今も、同じことを思考し、それらをさらに先に進めようとしている人たちが存在している。
20代前半にあまり(ほとんど)理解できなかったミシェル・フーコーの(素敵な装丁の)著書『言葉と物』において、近代の「人間」を定義したのはカントであると、フーコーは書いている。
そのことが、吉川浩満『理不尽な進化』(朝日出版社、2014年)のなかで簡潔にまとめられている。
カントこそ近代の「人間」を定義してみせた人物だと、二十世紀フランスの哲学者ミシェル・フーコーはいう。フーコーはカントによって定義された人間を「経験的=先験的二重体」と名づけた…。経験的とは文字どおり経験によって、つまり感官を通して知ることができるものをいう。そして先験的とは、論理や数字のように、あらゆる経験から独立に物事を認識する能力である。つまり経験的=先験的二重体である人間とは、世界に存在するモノの一部であると同時に、モノをモノとして認識して世界に位置づけることができる知性的存在ということだ。…近代科学の発展は、このような経験的=先験的二重体によって可能になったといえる。
吉川浩満『理不尽な進化』朝日出版社、2014年
ぼくが漠然と(先験的に)かんがえていたことは、すでにその深度をもって、いろいろな知性たちによって追求され、語られている。
本は、そのようなことを教えてくれる。
そして、それは「何かのため」という効用の次元だけでなく、それ自体で「楽しい」ものである。
こんなことを書きながら、20年ぶりに、ミシェル・フーコー『言葉と物』を読みたくなる。
読んでもまったくわからないものが(少しは)わかるようになる。- 内田樹を経由するレヴィナスの哲学。
2000年前後の頃、中国語を専攻する大学生であったぼくは、ようやく本を読むようになって、その「世界」に次第にひきこまれ、哲学書にまで手をひろげていった。
2000年前後の頃、中国語を専攻する大学生であったぼくは、ようやく本を読むようになって、その「世界」に次第にひきこまれ、哲学書にまで手をひろげていった。
経済発展の著しい中国を見据えて中国語を学び、また「国際関係論」という領域にも踏み込みながら、実務・実践とは離れたところに、ぼくの興味関心はどうしてもひかれてゆくのであった。
だからといって、思想や哲学にどっぷりとつかったわけでもなく、デリダやレヴィナスなどに触れようと試みては、さまざまに書かれている入門書の段階でつまずいていた。
簡易に書かれているはずの入門書を読んでもまったくわからず、入門の門さえもくぐれないような状況であった。
だから、思想や哲学などのぜんたいには惹かれながら、個別にはなかなか入っていけなかった。
そんな折、ぼくはぼくにとっての「師」、見田宗介=真木悠介先生の著作群に出会ったことから、ぼくにとっての学びの風景が一変してゆくことになった。
その後も、見田宗介=真木悠介先生の著作群を導きの糸としながら、そこで言及される思想家や哲学者などに触れてきたのだが、彼ら・彼女たちの文章は、見田宗介=真木悠介を経由する仕方で、ぼくは理解していったのであった。
そのような状況が変化してゆくのを、ここのところ、内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫、2011年)を読みながら感じることになる。
内田樹の読解を通じてではあるけれども、あの、入門書でさえまったく理解できなかったレヴィナスの哲学を、ぼくなりに理解できるようになったことである。
「ぼくなり」というのは、「今のぼく」が読解できる深度において、という意味である。
リトアニア生まれで、ホロコーストを生き残ったフランス国籍のユダヤ人哲学者であるエマニュエル・レヴィナス。
20年近く前読もうとしたレヴィナスは、ぼくの未熟な経験と浅い読解力からは、はるかに遠くにあるような存在であった。
内田樹という思想家・武道家の「導き」によって、ぼくはそのはるか先に存在した稜線に少しは近づいたようだ。
「導き」によっているとしても、その「導き」でさえ、以前のぼくであればまったくわからなかっただろうと思う。
それでは、このおよそ20年に、ぼくは何を「通過」してきたのだろうか。
理由としては、大きくはつぎのように分けられるものと思う。
- 経験
- 読解力
二つ目の「読解力」は、さらには、論理と語彙のそれぞれの力に分けられる。
実際に生きるという経験のなかで生き方の幅をひろげながら切実な問題をふくらませ、またさまざまな本にふれるという経験のなかで、いろいろな視点にふれ、読み方を学び、語彙を知る。
未熟な経験とうまくいかない状況の経験の重なりのなかで、生きる経験の地層が厚くなってゆく。
今でも未熟さをいっぱいにもちながら、それでも(それだからこそ)、生きる経験の地層ができてゆく。
レヴィナスが読めなかったじぶんと、ようやくその入門の門にさしかかることのできるじぶんとの「あいだ」には、そのような歩みがあったのだろうと、ぼくは考えてみる。
そんなことを考えていたら、この本の「文庫版あとがき」で、内田樹がおもしろいことを書いているのを見つける。
レヴィナスを読む市井の、ふつうの人たちは、レヴィナス翻訳者の内田樹に対して、みんなが、「何が書いてあるのかよくわからないんだけれど、これは私が読まなくちゃいけないものだということは切実にわかった」のだと言ったのだという。
これに対して、内田樹は自身の経験に接続させながら、つぎのように書いている。
でも、そういうことってあると僕は思うんです。僕自身がそうでしたから。
先生の本をはじめて読んだとき、今から30年も前のことですけれど、僕には何が書いてあるかぜんぜん理解できなかった。けれども、「ここには私が早急に理解すべき人間的叡智が書き込まれている。人として理解しなければならないことが書き込まれている。これが理解できないうちは、私はちゃんとした人間にはなれない。」
そう直感的に思ったんです。
内田樹『レヴィナスと愛の現象学』文春文庫、2011年
「ちゃんとした人間」がどのような人間なのかは今でもよくわからないとしながら、他の西洋の思想家、たとえばマルクスやフロイトやニーチェなどを読んだときには、そこまで思ったことはなかったと、内田樹はつづけて書いている。
そして、読み始めてから30年のあいだに、多少なりとも人間的な「成熟」があったのだろうとしながら、その成熟もまた、レヴィナス先生のおかげであったと書いている。
レヴィナスの哲学を学ぶ道筋は、学ぶものが「未熟さ」を知るところから始まることに、他の哲学とは異なる特徴があるのだという。
本文を読んだあとに、このような「あとがき」を読みながら、ぼくはまたうなされてしまったわけである。
そして、このような内田樹に導かれることで、レヴィナスの入門の門に触れることができたのかもしれないと、やはり思ってしまうのである。
それにしても、20年ほど前にレヴィナスにはじめてふれたとき、なぜだか、ぼくも「ここに大切なことが書き込まれている」ように思ったことだけは、今でも覚えている。
書かれていることは、さっぱりわからなかったのだけれども。
「コンティンジェントな自由」(加藤典洋)という自由の範型。- <有限な生と世界を肯定する力を持つような思想>をささえるもの。
加藤典洋が、社会学者である見田宗介に触発されて<有限な生と世界を肯定する力を持つような思想>を追い求めるなかで、現代において現れてきている「自由」の範型を、「コンティンジェントな自由」の範型として拾い上げている。
加藤典洋が、社会学者である見田宗介に触発されて<有限な生と世界を肯定する力を持つような思想>を追い求めるなかで、現代において現れてきている「自由」の範型を、「コンティンジェントな自由」の範型として拾い上げている。
これまで人は欲望に突き動かされ、そこに浮かびあがる目標を達成すべく生きてきた。そしてそこにえられる感覚を自由の感覚と呼んできた。でも、いま現れてきているのは、欲望に自分自身動かされながらも、同時に、その欲望による駆動、あるいは承認願望による動機づけを、うっとうしく、不自由に感じるーひらたくいえば「マッチョ」に感じるー、重層的な生の自由の感覚ともいうべきものである。
わたしはそれをしたい。それをする。でもそれはけっして自分がそれを欲望しているからというのではない。少し違う。またこれを承認されたいからだといわれてしまうと、これも違う。違和感が残る。
それを何と呼べばよいか。
私は、これをこそ、コンティンジェントな自由な範型と呼んでみたい。そこに働いているのは、解放や大義に抗うように、欲望や承認願望に対しても抗う、これらの人を動かす力にコンティンジェントであろうとする意思であり、力である。
加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』新潮社、2014年
「コンティンジェント」とは、他の箇所で漢字で表されているとおり、「偶発的契機」「偶発性」である。
ふつう、人が自由を感じるのは「欲望をかなえる」ことによってであるが、加藤典洋はこの本で丁寧に取り出してきた「することも、しないこともできる」力能を導きにしながら、欲望との関係において「することも、しないこともできる」というコンティンジェントな関係性を、ここで見出している。
この「コンティンジェントな自由」ということは、確かに、今現れてきている自由の範型のように、ぼくには見える。
この自由の範型とは異なる範型として、加藤典洋は、束縛「からの自由」、また目標「への自由」ということを、時代の流れのなかに見ている。
- 束縛「からの自由」
- 目標「への自由」
- コンディンジェントな自由
身分制度や家制度などの束縛「からの自由」が切実に立ち上がる時代から、竹田青嗣が言うような「制限と努力と可能性との相関的意識」(制限と可能性のさなかで、努力と工夫によって達成する感覚)とあらわすことのできる目標「への自由」の時代へとうつってゆく。
もちろんそれらがそれぞれの時代におけるただひとつの自由などというわけではなく、時代を駆動する主旋律のようなものだ。
近代・現代の成長は、これらの自由を基礎として、あるいはそれら自由への欲望のもとに、駆動されてきたのだとも言える。
しかし、加藤典洋が目標「への自由」の違和感のさなかに今現れている自由として丁寧に取り出すのは、「コンティンジェントな自由」である。
それは、「することも、しないこともできる」力である。
この「コンティンジェントな自由」は、観念の問題ではなく、実際に他者のうちに、そしてぼくのうちに、現れてきているように、ぼくは思う。
この抽出はとても鋭いとぼくは思うし、また、これはこれからの<有限な生と世界を肯定する力を持つような思想>をささえうるもの(あるいは基幹となるもの)だと思う。
ところで、「することも、しないこともできる」力ということは、ノーベル経済学者アマルティア・センが提唱してきた「潜在能力(ケイパビリティ)アプローチ」につながるものであると、ぼくは見て取っている。
センが、経済成長に代わる評価指標としてこのアプローチを提唱し、実際に国連開発計画の報告書などで適用されてきたものである。
この「潜在能力アプローチ」の本質は<生き方の幅>ともいわれるように、ひろい視野で言えば「することも、しないこともできる」というスペクトラムにおける<幅>だ。
つまり、経済学で言われてきたような「効用」ではなく、<自由>ということを、評価指標としている。
<有限な生と世界を肯定する力を持つような思想>は、これらの思考と実践が、より自由な仕方でつながってゆくところに現れてくるだろうと、ぼくはかんがえている。
香港で、本と知の「力学の地図」をかんがえる。- 香港の書店の店頭の風景のなかで。
香港の書店にときおり訪れて、「最近の動向」を追う。
香港の書店にときおり訪れて、「最近の動向」を追う。
どんな本が読まれて、どんな本が関心を集めているのか。
日本の書籍の「中国語訳」は、ここ香港の書店でも、あらゆるジャンルのものが並んでいる。
大きな書店ではなく、小さな書店でも、日本の書籍の中国語訳を結構見ることができる。
また、ここ1、2年のことだろうか、日本の書籍の「英語訳」も、心なしか増えたように感じる。
正確に調査をしたわけではないけれども、香港の書店の店頭に、日本の書籍の英語訳を見つけることができる。
これまで、店頭で目にする日本の書籍の英語訳と言えば、古典的な文学作品や村上春樹の作品であったのだけれども、そのジャンルの幅を少しづつ広げているようだ。
近藤麻理恵の片付けの著作はもちろんのこと、「片付け」や「ミニマリズム・ミニマリスト」系の他の著作も並ぶ。
また、岸見一郎・古賀史健の『嫌われる勇気』の英語版(『Courage to be Disliked』)なども目にすることができるのだ。
英語などの著作の日本語訳はつぎからつぎへと出版されているなかで、その逆(日本語の書籍の英語訳)を見たときに、その少なさということがある。
本と知の「力学の地図」のようなものを描くとしたら、そこにはアンバランスがある。
ちょうど読み終えた、加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)のような作品が英語に訳されて、日本の外でも読まれるといいなと思ったりする。
けれども、このような著作が英語になるのは、まだいくつものハードルを飛び越えていかないといけなさそうだ。
出版社としては「売れる・売れない」の軸があるし、英語訳(のコストと労力)の問題もある。
さらに視野をひろげると、例えば、アジアの著作の日本語訳が多いというわけではなく、そこにもアンバランスがある。
ぼくもアジア圏の著作群を読むことができているかというと、あまり読めていない。
本と知の「力学の地図」が、ある意味で、ゆがんでいる。
飛躍するようだけれども、この「ゆがみ」と、この世界で起きていることの、さまざまな<ゆがみ>は、いろいろな回路を通じてつながっているように、ぼくは思う。
それらは、ぼくのなかの<ゆがみ>でもある。
香港の書店の店頭の風景のなかで、ぼくはそんなことを感じ、かんがえる。
「半分」までで読めなくなってしまっていた本を読みすすめて。- 加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』。
「本の読み方」は自由であってよいと思う。
「本の読み方」は自由であってよいと思う。
昔からそう思っていたわけではない。
「本は最初から読み始め、最後まできっちりと読まなければいけない」という考えが、いつ、どのように、誰の影響のもとで獲得してきたものか、ぼくにはまったく見当がつかない。
そもそもが、学校の夏の課題図書を除いて、本を読むことをしなかったから、「本の読み方」の教えの起源などわからない。
20歳頃から本を読み始め、そこから一気に本の世界に魅了され、それが過剰になった30代の半ば頃だっただろうか、ぼくは「本の読み方」の自由を手に入れた。
本をぜんぶ読む必要はないし、どこから読んでもどこで読み終わってもよい、そんな自由だ。
何年も前に手にした本を今になってひらくこともある。
そのようなぼくの蔵書の中に、「半分」まで読んで、そこから進まなくなってしまった本もある。
ぼくのワイフワークのひとつともいえるトピックに正面から向かってくれている、加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)。
社会学者である見田宗介の名著『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)で提起されていることを軸としながら、「震災後」の日本で、<有限な生と世界を肯定する力を持つような思想>を追求している。
けっして、さっと読める本ではないけれども、今を生き、<未来>を構想し、よりよい世界をひらいてゆく精神たちにとって、どこまでも、とことんつきあってくれる思考の連続である。
そんな本の前半を読んだあと、なぜか後半の半分が読めずにいたのだ。
幾度も幾度も読もうとして、数頁や数節を読むのだが、そこで止まってしまう。
つぎに読もうとするとき、思考のロジックを丁寧に追うために、前読んだところから再度読み始めるのだけれども、やはり止まってしまう。
そんなことを繰り返したのち、数日前、ぼくはその「閉ざされた門」をくぐりぬけることができた。
本はいつでも開かれているから「閉ざされた門」というより、ぼく自身が「閉ざしていた門」である。
なぜくぐりぬけることができたのか、ぼくはわからない。
ただ言えることは、後半部分は、この数年来、ちょうどぼくが(意識的にまた無意識的に)かんがえつづけていたトピックを正面から論じていることである。
論がすすむにつれて、やがてそれは、ぼくがこの20年ほどかんがえつづけてきた概念である「自由」ということへとつながってゆくという偶然性つきであった。
提示されている<コンティンジェントな自由>というコンセプトは、ぼくが言葉にすることのできなかったことを、言葉にしてくれている。
作家の高橋源一郎による書評は、この本の帯に、つぎのように綴られている。
「することができる」から、
「することも、しないこともできる」へ。
*
最後に著者がたどり着いた結論は、みなさんが自分で確かめてほしい。それは、脆く、弱く、繊細だが、それこそが、「有限性」の時代の「信憑」の徴なのである。
高橋源一郎氏評(「波」)
「最後に著者がたどり着いた結論は、みなさんが自分で確かめてほしい」という望みの意味合いと意図を、ぼくはようやく「たどり着いた」ところで、しずかな感動を感じながら理解する。
国際協力・国際支援の現場での、個人的な内面の葛藤。-「できるだけ多くの人たちへの支援」と「数は少なくても根のはる支援」。
西アフリカのシエラレオネと東ティモールで国際協力・国際支援に携わっていたころ、現場からの帰り道や移動中に、ときおりぼくのなかで「葛藤」のようなものが起きた。
西アフリカのシエラレオネと東ティモールで国際協力・国際支援に携わっていたころ、現場からの帰り道や移動中に、ときおりぼくのなかで「葛藤」のようなものが起きた。
支援が「何人」に届くか、また何人に対して効果があるかということについて、その数字の大小の葛藤だ。
「できるだけ多くの人たち」に支援を届け、生活がよくなってほしいと思う一方で、「数は少なくても」ほんとうに効果のある支援を展開したいと思う。
そのどちらもがぼくの心の中にはあって、何かのおりにふと、もやもやしたものが湧き上がってくるのであった。
もちろん、支援を展開する状況によっても、支援の形態は異なる。
生死にかかわるような緊急支援を展開する場合と、緊急の状態ではなく、いわゆる現場の「日常」にかかわってゆくような支援とでは、方法はさまざまに異なってくる。
紛争や自然災害時の緊急支援は「できるだけ多くの人たち」という状況に直面しやすいし、生活改善的な支援はその地域の特定のコミュニティに「根」をはってゆくような支援をデザインしてゆくを目指したりする。
前者は例えば物資支給ということが支援の多くを占めることになりやすく、後者はソフト面の支援が大切な要素として入ってくる。
支援の形態だけでなく、支援の「成果の評価」の側面もある。
支援のコストに対してどれだけの効果があったのかを「費用対効果」として考慮し、成果を評価する。
「限られたリソース」を有効に使ってゆくためにはこの視点とスタンスはとても大切でありながら、他方で「効果」の判定は見方によっては複雑でもある。
このような事情がありながら、それでも、ぼくの内面では、「できるだけ多くの人たちへの支援」と「数は少なくても根のはる支援」というふたつの側面が葛藤のようなものを起こすのであった。
当時も今も、現地に生きる人たちにとって支援がすべてなどとは思わないけれど、他方で支援ということの大きな力にも注意深くあろうと思った。
そのようないろいろな「声」が、ぼくの内面でそれそれ互いに意見を交わしつづけていた。
今になっては、「できるだけ多くの人たちへの支援」と「数は少なくても根のはる支援」というふたつの側面については、それらどちらもが、その気持ちの<源泉>をぼく自身の内奥にもつものであることを思う。
どちらがいいということでもなく、人それぞれに、その人の「目的」として、あるいは「方法」としてもつことのできるものである。
また、同じ人にとってもいつも同じということではなく、人生のタイミングや局面によっても、じぶんにあう目的や方法は異なる。
さらには、この見方自体、つまりこの視点が依って立つ前提自体を変えることもできる。
このような内面的な「対話」をつづけながら、その対話をとめるのではなく、継続してゆくことのバランスのなかで、ぼくはつねに、じぶんのやっていることをより客観的に見つめようとしてきたのだと思う。
コフィー・アナン(Kofi Annan)事務総長の国連(United Nations)と時間を共にして。- ぼくの研究から、フィールドでの協働に至るまで。
小さい頃から「世界がひとつになる」というイメージに惹かれてきた。
小さい頃から「世界がひとつになる」というイメージに惹かれてきた。
「国」という国境線で分けられた世界ではなく、この「地球」という世界のひろがりとつながりにである。
小さい頃に「戦争」の話をよく耳にしていたからかもしれない。
イメージに牽引される仕方で、いつからか、「国連」(United Nations)に興味をもつようになった。
その流れのようなところで、大学で「国際関係論」という学問の分野を学びたくなり、休学して住んだニュージーランドから帰国したぼくは「国際関係論」ゼミ(Peter B. Oblas教授)に所属した。
その年は、今思い返すと、今月(2018年8月)に亡くなられたコフィ・アナン氏が国連の事務総長(Secretary General)に就任した1997年のことであった。
ゼミはOblas教授のもとで数名が集い、英語で行われ、(英語)論文の書き方、そして国際関係について学んだ。
卒業論文としてぼくが選んだトピックは「国連」についてであった。
発展途上国の開発・発展にも興味をもちはじめていたぼくは、それと国連を組み合わせて、国際協力における国連のコーディネーション機能とその限界などについて書いた。
それまでとは異なり、英語文献で国連を学べば学ぶほどに、国連に対して抱かれやすい理想像よりも、その現実性と困難を知ることになった。
事務総長というポジションについても「世界で最も困難な仕事」と形容される事情も、ぼくは徐々に理解していった。
それから数年が経過し、大学院で途上国開発・発展を専門に学んだぼくは、国際NGOの職員として、2002年、西アフリカのシエラレオネに降り立っていた。
携わるプロジェクトは、国連難民高等弁務官事務所が主導する事業の一環であった。
紛争が終結したばかりのシエラレオネの人たちが故郷などに戻り生活を建て直す支援、また隣国リベリアの紛争を逃れてくる難民の人たちの支援である。
治安も安定せず、国連の平和維持軍も展開していたときであった。
国連は引き続き、コフィー・アナン事務総長のもとで運営されていた。
翌年2003年、東ティモールに移ったぼくは、そこでも、国連の強い影響下に独立後の国づくりがすすむ環境で、仕事をすることになった。
ぼくが東ティモールに滞在中の2006年12月をもって、コフィー・アナンは事務総長職を終えた。
やがて、ぼくも、紛争地や途上国での仕事に区切りをつけて、2007年初頭に東ティモールを離れることになった。
今思い返すと、ぼくが大学で国連について学び、そして実際のフィールドで国連と共に仕事をしていた時期は、コフィー・アナンが事務総長として国連を率いていたときであった。
コフィー・アナン氏が亡くなり、いろいろと思い返しているうちに、ぼくはそんなことに気づいた。
コフィー・アナン事務総長のもとでの国連は「ひとつの時代」をつくったけれども、その時代は、ぼくにとっても大切な時であった。
じぶんの「世界の○○な場所」の地図をつくる。-「The World's Greatest Places 2018」(TIME誌)の特集を読みながら。
「The World’s Greatest Places 2018」(2018年世界の最も素敵な場所)という特集が、TIME誌2018年9月3日号/10日号に掲載されている。
「The World’s Greatest Places 2018」(2018年世界の最も素敵な場所)という特集が、TIME誌2018年9月3日号/10日号に掲載されている。
副題には「100 Destinations to Experience Right Now」(今体験すべき目的地100)と付され、「新しい」目的地として100の行き先(博物館、公園、レストラン、ホテルなど)が厳選されている。
選定の基準として、クオリティ、オリジナリティ、創造性、持続可能性、影響が挙げられている。
特集の見開きページに写真と共に掲載されている、中国の天津の図書館「Tianjin Binhai Library」は、「A Haven for Book Lovers」と書かれるように、本好きのぼくにとってはとても魅力的だ。
それから、ここ香港からは「3箇所」(ホテル、レストラン、文化的施設)が選ばれている。
今の「新しい行き先」が選ばれているとおり、まだ、ぼくも行ったことがない(機会を見つけて、そのいくつかには行ってみたいと思う)。
いわゆる「定番」の行く先ではなく、「今体験すべき」行き先を眺めるのは(行くことはできなくても)楽しいものだ。
ひとつには、やはり「今」がきりとられていて、変わりつつある世界を少しでも感じることができる。
100の目的地すべてに行くことはできないから(「不可能」ではないけれども)、写真や文章などで「知る」ことは、大切な手段である。
ふたつ目には、じぶんではない他者たちの「お勧め」に、じぶんでは見つけることができなかった/知ることができなかったような場所が取り上げられていることである。
やはり、じぶんの「検索」だけでは視野が狭くなってしまう。
視野をひろげようと思って、普段しないような「検索」をしても、それでもそれほどひろがりを持てないかもしれない。
だから、他者たち(ここではTIME誌の編集者たち)による「お勧め」は、「じぶんの検索」幅を、じぶんが思ってもしなかったような仕方でひろげてくれる。
みっつ目には、「100の目的地」のトレンドやコンセプト、またそれらの「選定基準」というメガネは、今の<時代>のあり様、それから未来の萌芽を見てとるのに「参照」となる。
例えば、選定基準に、持続可能性(sustainability)や創造性(innovation)が含まれていて、その視点で選ばれた場所を知ることから、<時代を読むこと/考えること>ができるのだ。
このように特集を楽しく読みながら、他方で、じぶんにとっての「世界の○○の場所」という<地図>を、じぶんの体験・経験のなかにつくってゆくことが楽しいことだとも思う。
「○○」は、じぶんにとっての基準やテーマが入り(TIME誌のように「Greatest」も候補のひとつである)、その視点から「選定基準」もかんがえてみる。
また、ここでの「世界」とは、この地球ぜんたいというよりも、<じぶんの生きる世界>のことであり、ローカルな世界でもよい。
挙げる数はいくつでもよいけれど「100」とするのもひとつである。
「100」という数は、思っている以上に多く、列挙してゆくのは大変だけれども、その分飽きない数だ。
そんなふうにして、じぶんの「世界の○○の場所」の地図をつくってゆく。
TIME誌の特集「The World's Greatest Places 2018」を読みながら、そんなことをやってみようと、ぼくは思う。
香港で、「ラーメン」の画期的時代を思い起こす。- ポテトチップス「赤丸新味薯片」を見つけて。
「Calbee x 一風堂(IPPUDO HK)」のコラボレーションによるポテトチップス「赤丸新味薯片」。
「Calbee x 一風堂(IPPUDO HK)」のコラボレーションによるポテトチップス「赤丸新味薯片」。
ラーメン店「一風堂」が香港に進出して7周年を記念しての商品だという。
ぼくは、一風堂が香港の尖沙咀(Tsim Sha Tsui)に開店してからもう7年が経過したことを思う。
店頭で目にして、つい、手がのびてしまった。
一風堂は香港(また世界)のラーメン市場を大きくひらいた存在であろう。
香港のラーメン市場は、一風堂が成功をおさめてゆくなかで、活況を呈していった。
それまでもラーメン店はあったのだけれども、クオリティを含め、一風堂が状況を変え、その後の香港におけるラーメン店ラッシュへとつながる流れをつくったのだ。
その後、一風堂は他のアジア(そして欧米)に店舗をひろげ、ぼくは訪れた台湾でも、マレーシアでも、店舗を目にしたのであった(台湾では行列であった)。
開店当時の一風堂は、行列が続いた。
決して安くはない値段だけれども、行列は絶えることはなかったのだ。
日本とは異なる気候におけるスープづくりは思うようにいかなかったようであるが、それでも、あのレベルの味を海外で食べることができることは大きい成果であったと、ぼくは思う。
開店の前年に、一時帰国したときに銀座で食べた一風堂のラーメンと餃子の味には及ばないけれども、まさしく「画期的」であった。
その後、香港内で店舗数を増やし、現在に至っている。
ラーメンの人気は香港で絶えることはなく、おいしいラーメン店はいつも人でいっぱいだ。
25年前にアジアを旅し始めたころ、また17年前に仕事で海外に出始めたころは、このような状況になることは想像もしていなかった。
グローバル化の流れでは「当たり前」のことだろうけれども、実際に海外に住んでいると、なぜか、そういうふうには想像していなかったのだ。
ぼくはそんなことをかんがえながら、ポテトチップス「赤丸新味薯片」を食べる。
香港で、「空気のよごれ」の中でかんがえながら。- そこに未来の「可能性」を見つめる。
ここのところ、香港の空気・大気のよごれが目にもあきらかで、ニュースでもよく取り上げられている。
ここのところ、香港の空気・大気のよごれが目にもあきらかで、ニュースでもよく取り上げられている。
雨風が洗い流してくれることもあるけれど、ときおりやってくる「突然の雨」(ブログ「香港で、「突然の雨」をやりすごしながら。- 降りそそぐ雨のもとで思うこと。」)も、今のところまだ効果はないようだ。
この文章を書いているときも、香港政府環境局のアプリ「HK AQHI 」App(AQHI=Air Quality Health Index)では、香港のほぼ全域にわたって、スケール「10+」(Low1からSerious10、そして10+)を示している。
当面できる対策としては、まずは屋外での活動を減らすこと。
なるべく、ぼくはそうする。
アドバイスに従うというよりは、じぶんの身体がよく知っているといったほうが適切だ。
部屋では、どの程度効果があるかわからないけれども、空気洗浄機をまわしてみる。
また、空気のよごれは、人の「呼吸」も浅くさせるから、じぶんの「呼吸」にもときおり気を向けながら、身体をととのえる。
当面の対策をとりながら、「恒久的な対策」をかんがえてみる。
もちろん、対策はいろいろな「次元」においてかんがえられ、政策レベルなどはここでは立ち入らず、もう少し「恒久」の視野を広げておきたい。
「環境・公害」の問題は、現代社会(とりわけ消費化社会)の問題である。
いわゆる「先進地域」と呼ばれる国々が、環境問題や公害を外部に「域外転移」させる仕方で、ひとまず問題を見えなくさせてゆく側面がある。
香港の空気・大気汚染は中国本土の産業地帯を原因のひとつとしていると言われるけれども、それは産業地帯だけの問題ではなく、そこで作られる製品に支えられている地球全体の問題(またそこに住むひとりひとりの問題)である。
グローバル化はこの「域外転移」の果てに、この地球の球体という<域内>の限界に気づき、その行先の転回を要請されているのが「現代」である。
目に見える「問題」は、そんなことを、より痛切にかんがえさせる契機となる。
ぼくは、この「問題」をより深い次元において教えてくれた名著、見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)をひらく。
現代社会の「光の巨大/闇の巨大」をともにひとつの視界におさめながら、「情報」と「消費」というコンセプトをラディカルに転回させることで、未来にひらかれる社会を描いている。
その魅力性のひとつは、それが、「情報」と「消費」を制約してゆくのではなく、それらの原義の可能性をひらいてゆく仕方で未来の社会を構想していることである。
目の前にひろがる環境の中で、描かれる「未来の社会」構想を読みながら、その「可能性」を、未来にそして現在の至るところの行動やあり方の「芽」の中に、ぼくは見ている。
香港で、子供たちに向けられた「早く」の言葉を耳にしながら。- 「早く、早く」の生活速度にかんする真木悠介の考察。
香港でぼくの住んでいるところの界隈は家族が多く、子供たちに向けられた「早くしなさい」という意味の言葉を耳にすることがある。
香港でぼくの住んでいるところの界隈は家族が多く、子供たちに向けられた「早くしなさい」という意味の言葉を耳にすることがある。
そのような言葉におされるように動く子供たちの身体を、ぼくは目にする。
「速さ」「早い」という行動形式に、社会のぜんたいがかけられている香港。
そのすごさに圧倒される一方で、複雑な気持ちもぼくの中では湧いてくる。
今ではよく覚えていないけれども、ぼくが小さい頃(1980代頃)も「早く」という言葉が、家庭や学校などの生活空間に満ちていたのかもしれないと思う。
「時間」についてそれを正面から見据えた名著『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)において、真木悠介は、現代社会における「早く」の時間衝迫に関連して、つぎのように書いている。
ある音楽家の文章によると、下手でも早く弾いた曲と、上手にゆっくり弾いた曲とを聞かせると、母親の「早く、早く」のシャワーの中で育てあげられた現代の日本の子供は、一様に早く弾いた演奏の方を「上手」と言うという。時間衝迫が芸術のスタイルをも規定せずにはおかないことを、われわれはたとえば映画の表現史にみることができる。…
真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1981年
ここで語られる「現代の日本の子供」は、さしあたり著書が書かれた1970代から1980年代の頃を指しているようだけれども、それは「ゆとり世代」などの表層的な区分を超える仕方で、「現代」という時代の子供たちであるとみることができる。
真木悠介は1990年前半に行われた対談においても、「日本の母親が自分の子どもに一日のうちにいちばんたくさん言うことば」として「早く」という言葉があると指摘し、それが、言うほうにも言われるほうにも、「呼吸が浅くなる」という影響をおよぼすだろうことを語っている(真木悠介・鳥山敏子『創られながら創ること 身体のドラマトゥルギー』太郎次郎社)。
真木悠介が「時間」について比較社会学的な考察をしていた当時、ぼくはそこで語られる「現代の日本の子供」のうちのひとりであった。
「一定の生活速度は一定の生活の型を要求する」(真木悠介)ように、現代の日本における生活速度の中で「一定の生活の型」を体得していったのだろう。
その「生活の型」を身体に刻みながら、ぼくは、この現代の社会での「速さ」に対して、その流れを泳ぐための「型」を手にしてきた。
けれども、それと同時に、何か大切なものを、いくぶんか忘れてしまったようにも思う。
だから、そのようなことに気づきを得たときから、呼吸をととのえながら、生きるという時間の経験のぜんたいを取り戻そうとしてきたのであり、まだいろいろに試しているところである。
こんなことだから、「早く」という言葉のシャワーを聞くと、いろいろとかんがえさせられるのである。
それにしても、「速さ」「早い」にかけられた香港の行動形式・様式には、いつもいつも、おどろかされる。
香港に来る前、西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールに住んでいたことも、そこと香港との「ギャップ」をいっそう体感させた理由であったかもしれない。
香港で、「突然の雨」をやりすごしながら。- 降りそそぐ雨のもとで思うこと。
突然の雨が、香港の空から降ってくる。
突然の雨が、香港の空から降ってくる。
降り始めたと思ったら、すぐさま、雨脚が強くなる。
それにしても、ここ数日にわたって香港の空気を覆っているよごれを、きれいにしてくれそうな雨だ。
雨脚はさらに強くなってきた。
帰宅途中のぼくは、雨傘をもっておらず、ひとまず屋根のあるところをさがして、かけこんだ。
しばらくしても、雨脚は変わらず、いっそう強い風も吹いてくる。
どうにかして、濡れずに(あまり濡れずに)建物のなかに入ろうと思考を巡らす。
香港は、建物と建物の「つながり」が便利だ。
日本などとは異なり、建物と建物、建物とマンション、マンションと駅などが、それなりにつながっている。
雨が降っても、つながりがよければ、多くの人たちは雨傘なしで家に着くことができる。
思考を巡らしたけれども、やはり濡れるなと思い、ベンチに腰掛けたまま、様子見をすることにした。
それにしても、そんなに「急ぐ」必要はあるのだろうかという想念がわく。
特にその後の予定が入っているわけではない。
香港の強い雨脚は、待っていれば弱くなっていくのだから、ゆっくりと待てばよいのだとも思う。
二つのことを思う。
ひとつは、雨を疎外する仕方で「都市・都会」が成立し、自立してきたこと。
雨の度に人が足を止めていたら、この「現代社会」はまわってゆかない。
「脳化社会」(養老孟司)は、人間にコントロールされた環境をつくり、コントロールされた環境に人は生きる。
「自然」はそこでは排除されてゆく。
もうひとつは、雨が止むのを待つという時間を無駄な時間だと思ってしまう、「時間」の機制。
雨をゆっくりと楽しもう、というようにはすぐには感じられない。
そんな時間があるのであれば、別の目的に「有効」に使われるべきだという衝迫。
もちろん、今ではスマートフォンがあるから、雨を待ちながら、「待っている」ということさえも気にせずに、「何かをする」という行動に時間を当てることはできる。
それは方法のひとつだけれども、「雨を眺めて楽しむ」という選択肢はそこには入っていない。
降りそそぐ雨を眺めて楽しむ、という選択肢はどこに追いやられてしまったのだろう。
突然の雨が降ってきて、雨宿りをしながら、また小雨になって家に帰ってきたときに、そんなことを思う。
ときには、突然の雨に足を止めて、その降りそそぐ雨をゆっくりと楽しむこともあってもいい。
それが何か特別に「有益」なものをもたらせなくても。
ただ、降りそそぐ雨に、心をひたしてゆくだけでよいのだと思う。
「表現」について。真木悠介の表現論。- <あらわす>ことを、そぎ落とすこと。
作家のダニエル・ピンクは誰もが「セールス」をしているのだとして『To Sell is Human』という本を書いたけれど、その意味の次元と同じところで語れば、人は誰もが「表現」していると言える。
作家のダニエル・ピンクは誰もが「セールス」をしているのだとして『To Sell is Human』という本を書いたけれど、その意味の次元と同じところで語れば、人は誰もが「表現」していると言える。
毎日、至るところで、人は言葉を語り、書き、また言葉とは違う形式で表現する。
表現を手段とし、あるいは表現を作品や形あるものにおとしてゆくこともある。
じぶんが語り、書く言葉はどこか「ほんとう」ではないものと感じられることもある。
なにかを表現しようと思えば思うほどに、表現する言葉に違和感を感じてしまうこともある。
表現と<生きること>とのあいだには、緊張がある。
(語ることは、いくぶんか、裏切りである。)
真木悠介「伝言」『旅のノートから』岩波書店、1994年
詩人である山尾三省の著書の序文に、真木悠介はこのように書いている。
ことあるごとに、ぼくが立ち戻ってくる文章である。
詩人であり百姓であった山尾三省の「生」とその詩に向かいながら、「語ることが裏切りでないような言葉。生を裏切らない表現というものがあるか?」と、真木悠介は問いながら、つぎのように書いている。
表現とは、あらわす、ということである。このように理解されている。そして表現が、あらわす、ということであるかぎり、それはいつでも、いくぶんか、生を裏切る。しかし表現は、あらわれる、ということであることもできる。表現が<あらわす>ということでなく、<あらわれる>ということであるかぎりにおいて、表現は、生を裏切ることのないものであることができる。…
創ることでなく、創られること。
<あらわす>ことを、そぎ落とすこと。<あらわれる>ことに向かって、純化すること。洗われるように現れることばに向かって、降りてゆくこと。降りそそぐことばの海に立ちつくすこと。
真木悠介「伝言」『旅のノートから』岩波書店、1994年
「創られながら、創ること」は、真木悠介の思想(生き方)における、大切な軸のひとつである。
それは、近代的自我や近代芸術における「表現」や「創造」における「あらわすこと」や「つくること」という主体のあり方に対して、根源的な視点の転換である。
じぶん(「自分」という確固としたモノ)の中にあるものを外側に向けて「あらわす」、というふうに捉えられる仕方を転回させているのだ。
「表現が<あらわす>ということでなく、<あらわれる>ということであるかぎりにおいて、表現は、生を裏切ることのないものであることができる」と、真木悠介が書くとき、それはけっして言葉遊びなどではない。
ここでの対象人物である山尾三省はもとより、宮沢賢治などが降り立ってゆく<降り注ぐことばの海>に、真木悠介は実際に深く触れてきている(※また、真木悠介の言葉自体も<あらわれる>ところに向かって純化されてきている)。
真木悠介は別のところで「詩人とは、ある現代の詩人のいうように、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>として定義される…」(『自我の起原』岩波書店)と書いている。
<自我と世界との境目がはっきりしない>場所は、そこから言葉を<あらわす>ような場所ではなく、そこから言葉が<あらわれる>ような場所である。
このような言葉たちに触れながら、ぼくは「表現」ということをかんがえる。
「自然はじつは割り切れない」(養老孟司)。- 「男女の違い」を説明する論理。
本をひらいて、ページを数ページ繰ってゆくだけで、ぼくにとって、いつもなんらかの「気づき」や洞察をあたえてくれるような本を書く人たちがいる。
本をひらいて、ページを数ページ繰ってゆくだけで、ぼくにとって、いつもなんらかの「気づき」や洞察をあたえてくれるような本を書く人たちがいる。
そのような人たちは、例えば、真木悠介(見田宗介)であり、野口晴哉であり、河合隼雄である。
また、解剖学者の養老孟司もそのひとりである。
「脳化社会」というコンセプトは、人間や自然や社会を視るうえでの切り口のひとつとして、20年以上前からぼくの思考の「道具箱」にきっちりとおさめられ、適宜使われているものである。
「男と女はどこが違うか」(『男の見方 女の見方』PHP文庫)を論じる養老孟司の視点も、あいかわらず、鋭い。
養老孟司は、この問題に、「身体的な違い」という中立点を設けることできりこむ。
身体という「中立の観点」を設定することで、「男と女」という、文学的、社会的、個人的、自然科学的な主題として際限のないトピックを「まとめる」ことを企図する。
考え方や感じ方の違う男女の違いは「脳のはたらきの違い」であり、それはつまり「身体の違い」となるわけだ。
「男と女の違い」を説明してゆく養老孟司は、それがもともと、二つの点において「面倒」であることを述べている。
- 男女の違いは「自然に生じた」ものだが、自然の困る点は「ものごとがきれいに割り切れない」こと
- 「自然は割り切れる」という偏見の存在
身体的な男女の違いのように簡単に割り切れそうなこともそれほど簡単ではなく、また男女ははっきり分かれているという偏見がすでにあること。
「自然のものごとがきれいに割り切れない」例として養老孟司が挙げるのは、生死のことである。
何をもって死とするかは実はそれほど明確ではなく、心臓死をもって死とすることで、「わかりやすい」ものとなる。
それは、人間がそのように「決める」ことによってである。
…社会はそうした人間の取り決めでできている。したがって社会はわかりやすい。それをわかりにくくしているのは、むしろ自然である。ところが現代社会は、自然の持っているそのわかりにくさを、自然を「排除する」ことで、すっかり隠してしまった。
だから、現代人は、ほとんど社会の論理、すなわち人工物の論理しか使っていない。この人工物論理は、ものごとをきれいに割り切る。しかし、その論理をそのまま自然にあてはめると、しばしば使いものにならない。…
自然はじつは割り切れない。だから、男女の差も、生死と同様、絶対的なものではないのである。
養老孟司・長谷川眞理子『男の見方 女の見方』PHP文庫
こうしてはじまる「自然を割り切らない」養老孟司講義は、気づきと洞察に充ちている。
なお、「男女の違い」においても、そこに<自然を排除する>思考たちがあることはまた別の、しかし密接に関連する大きなトピックとしてあることを書いておきたい。
ところで、男女の身体的な違いを説明してゆくなかで、上述の「自然は割り切れる」という偏見に加え、男性中心主義のよる偏見、さらには「機能中心主義」という偏見を、養老孟司はあぶりだしている。
挙げられる例は「骨盤」のトピックで、多くの教科書が男性の骨盤を基準として捉え、また「女の骨盤をお産に適合した形」と書く。
後者は、その「はたらき」(機能)を重視するからである。
…しかし、形を考えるときに、はたらきばかり考えると、わかりはいいのだが、しばしば誤解を生じる。「なんのために」という説明は、人間が作ったものについては、よく当てはまる。なぜなら、人間は、ものをある目的で作り出すからである。しかし、自然の存在については、そう簡単に「目的」がわかるとはかぎらない。そんな目的など、まったくないかもしれないのである。
養老孟司・長谷川眞理子『男の見方 女の見方』PHP文庫
人間が「脳化社会」にすっぽりと入り込んでしまうときに陥ってしまいがちな思考の癖や偏見を、「自然」を置いてみることで、相対化している。
「思考の道具箱」に入れておきたい視点であると、ぼくは思う。
「Peace Diamond(平和のダイヤモンド)」。- シエラレオネの「709カラット」(2017年)のダイヤモンドのゆくえ。
西アフリカのシエラレオネで、2017年に発見された「709カラット」のダイヤモンド。
西アフリカのシエラレオネで、2017年に発見された「709カラット」のダイヤモンド。
シエラレオネ史上3番目ともいわれるこのダイヤモンドのゆくえを、Time誌が追い、写真を含め6頁ほどの記事(Aryn Baker “The Diamond As Big As a Village”『Time』27 August 2018)にしている。
ダイヤモンドの「ゆくえ」と書いたが、正確には、それ自体のゆくえとともに、それが「もたらしたもの」である。
「ダイヤモンド」それ自体に特に興味をもっているわけではないぼくが、昨年からこのニュースを興味深く追っていたのは、まず第一に、それが、西アフリカのシエラレオネのことであったからである。
2002年、紛争が終結したばかりであった当時のシエラレオネに、ぼくはいた。
国際NGOの職員として、難民キャンプ支援、それから帰還民支援と呼ばれる支援の一環として井戸掘りプロジェクトなどに携わっていたのだ。
ぼくが常駐した場所は、ダイヤモンド産地であるコノ地区であり、地区としては前述のダイヤモンドが発見されたところである。
事務所をかまえていた付近は、ちょっと歩けば、すぐにダイヤモンド鉱山があった。
いわば、ほんとうにたくさんの「Komba Johnbull」たちが、日々、ダイヤモンド鉱山へと向かい、泥にまみれながら、作業をしていた。
このような経験が、ぼくを、シエラレオネとダイヤモンドに引きつけている。
Time誌は、あのダイヤモンドを発見した青年Komba Johnbull氏と、その青年が属する掘削チームのスポンサーであった牧師Emmanuel Momoh氏を中心に、「その後の物語」を語っている。
青年がどのようにダイヤモンドを見つけ、そして牧師がどのようにダイヤモンドを扱ったのか、そしてそのゆくえと「もたらされたもの」。
このダイヤモンドがいくらで落札されるかということ以上に、このダイヤモンドが、牧師によって、密輸業者ではなく、販売ルートでとしてシエラレオネ政府に届け出たことに、記事はフォーカスしている。
そのことは、確かに「大きな意味」をもつ行動であり、社会を変えてゆく力をもつかもしれない。
そこには、シエラレオネなどのダイヤモンドが、レオナルド・ディカプリオ主演の映画のタイトルのように、「Blood Diamond(血のダイヤモンド)」と呼ばれてきた物語を、「Peace Diamond(平和のダイヤモンド)」の物語へと変えてゆきたい人たちの意志と行動が、かけられている。
政府は、収益の15%を、ダイヤモンドが発見された地元の道路や学校や電気や水供給などに使うことを約束したのであった。
Momoh氏の発言について、Time誌はつぎのように書いている。
…「わたしたちのダイヤモンドはもう戦争のためのものではないのです。発展(development)のためのものなのです。」と彼は言う。「政府がダイヤモンドから取ったお金を村を発展することに利用するとき、ダイヤモンドは世界をよりよいところにすることができるのだと、全世界が見ることになるのです。」
Aryn Baker “The Diamond As Big As a Village” 『Time』(27 August 2018) ※日本語訳はブログ著者
「709カラット」のダイヤモンドは最終的に、最初に想定されたほど/夢見られたほど高値では売れなかったが、その収益の一部はMomoh氏と掘削チームのメンバーに渡されたことに加え、政府の約束通り、村のプロジェクトに還元され、プロジェクトが始動した(※Momoh氏は、プロジェクトのハードだけでなく、人などのソフト面が始動し維持されるのを注視していきたいとしている。正しいと思う)。
ダイヤモンドを発見した青年Komba Johnbull氏は、「貧困のサイクル」から抜け出ようと考え、自分の「教育」へ投資しようと考えるが、その「物語」はTime誌の記事を読んでほしい。
その経緯と顛末に、ぼくは考えさせられてしまった。
そのような思考とともに、かつて一緒に働いた人たちや村々の人たちは、どのような「物語」をその後紡いでいるのかと、ぼくの思いははるかシエラレオネへととんでゆくのである。
香港で、「lah」が親密な空気をつくる。。- レストラン「Noodle Lah」を訪れて。
マレーシアやシンガポールの英語において、言葉や文章の最後につけられる「lah」。
マレーシアやシンガポールの英語において、言葉や文章の最後につけられる「lah」。
「lah」それ自体では意味を持たないけれど、会話をやわらかみと親しみやすさで包む語感をもち、会話を円滑にする潤滑油のようなものだ。
厳密にはいろいろな機能があるようだが、普通に使われる「lah」は親密な雰囲気をつくり、慣れてしまうと心地よい。
香港には、そのような「lah」をレストラン名にもつ、「Eat Lahグループ」がある。
その最初の系列が、「Noodle Lah」であった(グループの別の系列に「Wah Lah」がある)。
レストラン名を聞いたときには、「やられたなぁ」と思った。
「lah」をうまく使った店名である。
店名だけでなく、メニューには面白い名前が並ぶ。
例えばラクサは「LAHksa」である。
この「LAHksa」のように、東南アジアの麺などを、食べることができる。
少し前になるけれども、そのレストラン「Noodle Lah」の新しい店舗に行ってきた。
Wan Chaiのコンベンションセンターからフェリー乗り場へとつながる道の途中に、反対側に九龍島の景色を見やりながら、レストラン「Noodle Lah」がある。
「Noodle Lah」が最初の店舗をAdmiraltyにオープンさせたときから、人の縁もあって、また「麺類」が好きなこともあって、ぼくはよく足を運んできた。
Admiralty駅は当時の通勤通路でもあったから、場所的に便利であったこともある。
Admiraltyの店舗は残念ながら閉店になり、Wan Chaiに新しい店舗がオープンしたのであった。
場所も、内装も変わったのだけれども、なによりも、その親密さが新しい店舗にもひきつがれているのを感じる。
「lah」という響きそのものが、店舗の形と内実にあらわれているようだ。
そうして、麺好きなぼくは、ここ香港でも、麺を楽しむのである。