香港のスターフェリーに乗る「わずか何分」の世界。- 「素晴らしいクルージングのように思えた」(沢木耕太郎)。
作家の沢木耕太郎は、その著書シリーズで有名な『深夜特急』(新潮社)の旅で、まずはじめに「香港」へと飛ぶ。
作家の沢木耕太郎は、その著書シリーズで有名な『深夜特急』(新潮社)の旅で、まずはじめに「香港」へと飛ぶ。
「深夜特急」の旅から、おそらく35年ほど経過してから、沢木耕太郎はその旅をふりかえりながら、「香港」の日々についてつぎのように書いている。
香港は本当に毎日が祭りのように楽しかった。無数の人が狭いところに集まって押しくらまんじゅうをしているような熱気がこもっていた。その熱気に私もあおられ、昂揚した気分で日々を送ることができた。食堂や屋台の食べ物はおいしいし、なによりも安い。わずか何分か乗るだけのフェリーが素晴らしいクルージングのように思えた。…自分で旅の仕方を発見し、楽しむことができれば、無限の可能性のあるところだった。
沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
今でこそ、いわゆる食堂や屋台は(場所によっては)減り、ショッピングモールなどのレストランは決して「安い」とは言えないけれども、沢木光太郎が「素晴らしいクルージング」のように思えた「フェリー」は、いくつかのルートが閉鎖になりつつも、今でも香港島と九龍をつないでいる。
香港島の「セントラル」や「ワン・チャイ」から九龍の「チム・サー・チョイ」へ、あるいはその逆の航路で、フェリーは、香港に住む人たち(また観光で来ている人たち)を日々乗せて、航行している。
この「スター・フェリー」は、その歴史をさかのぼると、1888年にまで時計の針をもどすことになるのだという。
その後、香港島と九龍のあいだに位置するビクトリア湾をつなぐルートに、電車と車道(トンネル)が加わったあとも、フェリーは人々を乗せ、またそうありながら、「香港」を香港らしく彩っているのだ。
フェリーの片道料金は、週日/週末、上甲板/下甲板などによって異なっているけれど、たとえば週日の大人一人の料金は2.7香港ドル(約40円)である。
わずかな時間だけだけれど、この料金で乗るフェリーは、沢木耕太郎が語るように、「素晴らしいクルージング」だと思うこともできるのだ。
ぼくは香港に住みながら、スターフェリーに幾度も幾度も乗り、乗るたびにとても爽快で、「香港にいるんだ」というのを感じ、「素晴らしいクルージング」なんだと思うことだってできるのである。
沢木耕太郎がこのような「感覚」を抱いていたことを読みながら、ぼくは、真木悠介(社会学者の見田宗介)が著書のなかで引用するマルクスのことばを、ぼくは思い起こす。
真木悠介は、名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)のなかで、『経済学・哲学草稿』におけるマルクスのつぎの箇所に着目している。
「世界にたいする人間的な関わりはすべて、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感じる、思考する、直観する、感じとる、意欲する、活動する、愛する、こと、要するに人間の個性のすべての器官は、対象的な世界の獲得 Aneignung なのだ。」「私的な所有はわれわれをひどく愚かにし、一面的にしてしまったので、われわれが対象を所有 haben するときにはじめて、対象はわれわれのものであるというふうになっている。」マルクスはこのように書く。…
真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)
「人間の個性のすべての器官は、対象的な世界の獲得 Aneignung なのだ」という明晰な理解と実践は、徹底的にひらかれた「所有」(=対象的な世界の獲得 Aneignung)ともいうべきものである(あのマルクスが、そもそもこんなふうに考えていたのか、と目を見開かせるような考え方である)。
沢木耕太郎が、香港でフェリーに乗るとき、フェリーも、周りにひろがる香港の風景も、ビクトリア湾も、もちろん、沢木耕太郎の(私的な)「所有 haben」の対象ではない。
そんなことは、指摘するまでもなく、あたりまえのことだ。
けれども、大切なことは、それでも、沢木耕太郎にとっては、フェリーも、香港の風景も、ビクトリア湾も、徹底的にひらかれた「所有」として、つまり<対象的な世界の獲得 Aneignung>として、個性の器官すべてによって獲得(所有)されたものなのだ。
沢木耕太郎が駆使したのは、ただ「見る、聞く、嗅ぐ、感じる、思考する、直観する、感じとる、意欲する、活動する」という、人間に備わった器官であった。
旅という、解き放たれた世界のなかで、ふだんとは異なる仕方で、沢木耕太郎は周りの人や世界との関わりをつくってゆくということのなかに、このような鮮烈な感覚を「ひらいた」のだ。
ぼくはそう思う。
そして、もちろん、香港のスターフェリーだけでなく、ぼくたちは、日々、ぼくたちの周りにひろがる「世界」とのかかわりのなかで、「人間の個性のすべての器官」を駆使して、「対象的な世界の獲得 Aneignung 」をすることができる。
CNNの記事にみる、最下位ランナーの「物語」。- ランナーには、いつだって、個々の<物語>がある。
CNNニュース(2018年11月4日)に、「The final finisher: The inspiring stories of last-place marathon runners」(「最後の完走者:最下位のマラソンランナーたちの感動的な/触発的な物語」)と題された記事がある。
CNNニュース(2018年11月4日)に、「The final finisher: The inspiring stories of last-place marathon runners」(「最後の完走者:最下位のマラソンランナーたちの感動的な/触発的な物語」)と題された記事がある。
マラソン大会といえば、人やメディアは「優勝者」や入賞者に光をあてる傾向があることとは逆に、この記事は「最後の完走者」、つまりビリの走者に光をあてている。
そこには、人をインスパイアするような「物語」があるのだと、ライターのJacqueline Howardは書いている。
記事のなかに、ニューヨークシティマラソンのダイレクターであるPeter Ciacciaの言葉がおかれているように、「for every runner, there’s a story.」(「すべてのランナーに、物語があるんだ」)と言うほうが、視点がより包括的で、より徹底しているけれども、記事には「フォーカス」が必要であるし、「最下位ランナーの物語」は人の関心をひくものであるだろうから、このようなタイトルと内容の展開は「理解できるもの」である。
そのことを確認したうえで、「最下位のマラソンランナーたちの物語」にひかれることを、ぼくはここに書いておきたい。
「最下位のマラソンランナーたち(last-place marathon runners)」と複数形で書かれているように、ここでは4名のランナーが取り上げられている(もちろん、ふつうは意識しないけれど、どんなマラソン大会にも「最下位」のランナーがいるものである)。
「まひした身体」でロンドンマラソン(2018)を「最下位」で完走したサイモンさんは、じぶんの子供たちにとって「スーパーヒーロー」となり、また、まひした身体にかかわらず自身の足でこのレースを完走した最初の男性(the first paralyzed man)という記録付きであった。
ニューヨークシティマラソン(2017)を「最下位」で完走したデーヴィッドさんは、このレースの完走は10回目であったけれど、つま先を使って車椅子をおしながら完走であった。
アトランタでのハーフマラソン「The Race」を「最下位」で完走したアミナさんは、ぜんそく持ちでありながらできるとは思っていなかった完走を果たした。
世界中のマラソンやウルトラマラソンを110も走ったリサさんは、それぞれの完走を祝うため、新しく獲得したメダルをかけたまま寝ることを慣習があるのだというけれども、参加したレースのうち25回が「最下位」であったという(彼女は、レースを走りはじめたとき、「ビリ」になることを恐れていたという)。
この記事を書いたライターのJacqueline Howardは、これら4人が「共通してもつもの」を取り出している。
彼ら・彼女たちが「あきらめなかったこと」だ。
あきらめずにゴールを目指し、ビリであっても、走り(あるいは歩き)、ゴールをつきぬける。
より本質的には、じぶんの抱いていた「困難」をあきらめずに(あるいは徹底的にあきらめることによって)、のりこえてゆく精神の運動がみられることであるように、ぼくは思う。
そして、「共通してもつもの」として、より根底的には、それぞれの人たちにとっての<物語>がたちあがり、その物語に生きたことだと、ぼくは思う。
これら4人の「最下位のマラソンランナーたち」の「物語」、それは記事ではとても短い物語だけれど、物語の一端が見えてくるようにさえ感じられる物語である。
でも、それらの物語は、「メディア記事としての物語」ではなく、彼ら・彼女たち自身の<物語>として、鮮烈に生きられてきた物語である。
ぼくはそう思う。
そして、くりかえしになるけれど、「最下位のランナーたち」にかぎらず、だれにとっても、物語はあるのだということ。
途中であきらめてしまい、完走できなかったものたちにも、物語はある。
マラソンのレースは、そのような、個々の物語が、一緒に走るという舞台において交差し交響し共振する場でもある。
個々の物語が、とくに語られるということがなくても。
「旅で人は変わることができるか?」。- 旅人「沢木耕太郎」のまなざし、それから「大沢たかお」の旅。
「旅で人は変わることができるか?」
「旅で人は変わることができるか?」
10代の終わりから20代前半にかけてのぼくにとって、とても切実に迫ってきた「問い」です。
当時の思索ののちに至った、この問いに対する「答え・応え」は、「変わることもできる」し、「変わらないこともできる(変わらない)」という、ごくごくあたりまえのものでした。
今考えてみても、このような問いの立て方であれば、そう応えるしかないことは、至極当然のことのようですが、当時のぼくにとっては、それでも、「切実な問い」であったことに変わりはありません。
その「切実さ」に賭けられていたのは、「旅で人は変わることができる」として、どのような「旅」であるのか、「旅」を方法として取り出すとともに、どのように「人」を変えるのか、あるいはどのような影響を「人」にあたえるのか、という問いでした。
18歳のときにはじめて海外を旅し(鑑真号で横浜から上海へ渡り、西安と北京・天津をめぐる旅)、また香港、ベトナム、タイ、ミャンマー、ラオスへも足をのばし、さらには、ニュージーランドに「住む」という経験を経ながら、ぼくは、じぶんの身体の実感を手がかりにして「旅の方法論」をとりだそうとしたわけです。
ところで、当時読んでいた本のなかに、沢木耕太郎の著書シリーズ『深夜特急』(新潮社)があり、それは少なからず、ぼくの旅に影響をあたえたのでした。
今の若い世代に読まれているのかどうかはわかりませんが、ユーラシア大陸を、デリーからロンドンまで乗合バスでゆくという旅は、多くの人たちに影響をあたえてきたものです。
沢木耕太郎の旅(1970年代)は、インドのデリーを出発点とする予定であったのが事情により(今ぼくが住んでいる、ここ)「香港」からの出発となったのでしたが、そのことが幸福な仕方で作用し、「香港」というはじまりが、沢木耕太郎に「順化」の理想ルートをあたえ、また沢木耕太郎の旅のスタイルを形つくったのだということを、後年に書かれた沢木耕太郎自身の言葉によって、ぼくは知ることになりました。
その沢木耕太郎は、同じ著書『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)のなかで、ぼくが冒頭に挙げた「問い」にも応えています。
沢木耕太郎は、この問いに対する「応え」の結論部分を、つぎのように書いています。
旅は人を変える。しかし変わらない人というのも間違いなくいる。旅がその人を変えないということは、旅に対するその人の対応の仕方の問題なのだろうと思う。人が変わることができる機会というのが人生のうちにそう何度もあるわけではない。だからやはり、旅には出ていった方がいい。危険はいっぱいあるけれど、困難はいっぱいあるけれど、やはり出ていった方がいい。いろいろなところに行き、いろいろなことを経験した方がいい、と私は思うのだ。
沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
旅は人を変えるし、旅は人を変えない。
最終的には、その「人」しだいである、という「結論」は、あたりまえの結論だけれど、肝心なことは、その結論に至るまでのプロセス、つまり経験じたいにあると、ぼくは思います。
沢木耕太郎は、自身の旅の経験を下敷きにしながらこの言葉を書いているとともに、たとえば、ほかの「事例」として、テレビドラマ化された『深夜特急』(1996年~1998年)に出演していた「大沢たかお」に触れています。
このテレビドラマが興味深かったところは、ドキュメンタリーとドラマを融合するという、その形式と内容にありました。
あるプロデューサーがあまりにも熱心であったため、テレビドラマ化の申し出を沢木耕太郎は受け入れることにし、のちに、ようやく決まった主演の、大沢たかおに出会い、そのときの大沢たかおの印象をつぎのように語っています。
私が初めて会ったときの大沢さんは、確かに背は高いが、線が細くてひ弱な感じだった。これであの苛酷な地域の旅に耐えられるのだろうかと心配になるくらいだった。しかし、考えてみれば、旅に出たばかりの私もほとんど似たようなものだったと思い返した。大沢さんもぜひやりたいと言うし…、それでは気をつけて行ってらっしゃいとロケに送り出した。…
沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
そののち、3年がかり、三部作の大作となった『劇的紀行 深夜特急』が放映されますが、沢木耕太郎は、このテレビドラマを見ながら、驚きにとらわれることになります。
…その中の大沢さんを見て私は少し驚いた。彼が明確に変化していったように見えたからだ。…仕事としての旅を彼は自分自身のための旅と捉え直していったらしいのだ。大沢さんは、一作目から二作目、二作目から三作目と旅していくうちに少しずつ変わっていった。それは、旅の質が変わったためではないか、と私には思われた。…
沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
大沢たかおの「変化」は、沢木耕太郎の眼にだけでなく、だれの眼にも明らかであったのではないかと思います。
少なくとも、ぼくの眼にも、明らかに感じるとることができた「変化」であり、そのことがこのテレビドラマを魅力的にした要因でもあったと、ぼくは考えます。
沢木耕太郎は、すべてうまくすすんだら、最終ロケ地のロンドンで落ち合って一杯酒を呑もうと約束していたとおり、ロンドンに向かい、そこで大沢たかおにふたたび会うことになります。
そのときに見た「大沢たかお」は、沢木耕太郎の眼に、「別人」のように見えたのであり、じぶんにたいして確かな自信をもったかのように感じたと、前掲の『旅する力 深夜特急ノート』のなかに書きながら、あわせて、日本に帰ってから大沢たかおが受けたインタビューの言葉をひろっています。
大沢たかおは、つぎのようにインタビューに応えます。
《この仕事の話をいただいた頃の僕って、力不足を認識している一方でどんどん大役が入ってきて。自分の足で歩いていない、自分が頭打ちになっているんじゃないか、その不安感から逃げ出したかったんです。未知なものを求めて、仕事をすべて投げ出して旅に出た26歳の主人公と一緒でした。
原作に、「ふっと体が軽くなった気がした」とか、「また、ひとつ自由になれたような気がした」って表現が幾度も出てくるんですが、僕も第2弾のインド・ロケをしてる頃そんな感じを強く持った。一場面一場面完成させていく度に、重い服を一枚ずつ脱いでいったような。
だから、マルセイユで身体を壊して医者から帰国を命じられた時も、撮影を止める気はなかったですね。ここで散るなら散るでいいかなって。》沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
この言葉に耳をすませながら、大沢たかおの「変化」についても、そしてテレビドラマの魅力についても、ぼくは心の深いところで納得がいくような気がしました。
そして、やはり、「旅で人は変わることができるか?」ということへの、ひとりの人間の<応え>を見ることができたのだと思います。
つまり、沢木耕太郎が書いたように、「旅」にたいする、その人の対応の仕方ということをです。
それにしても、『劇的紀行 深夜特急』をいっそう魅力的にしているのは、井上陽水が歌う主題歌(「積み荷のない船」)であると、ぼくは思ってやまないのですが、いかがですか?
沢木耕太郎『深夜特急』の旅のはじまりとしての「香港」。- 沢木耕太郎にとっての<香港>。
作家・沢木耕太郎の作品に、『深夜特急』(新潮社)という紀行小説がある。
作家・沢木耕太郎の作品に、『深夜特急』(新潮社)という紀行小説がある。
日本をはなれ「世界を旅する」人たちの多くにとって、バイブル的な本として位置づけられていた本である。
26歳の沢木耕太郎がインドのデリーから乗合バスをのりついでロンドンをめざすユーラシア大陸の旅をもとに書かれている。
大学時代、ぼくのアジアへの旅にも、この『深夜特急』の旅は影響を少なからず与えていたものだ(また、旅先で、さまざまなかたちの「深夜特急」的な旅を生きる人たちに出会い、あるいはさまざまなかたちの「深夜特急」的な旅を否定する人たちに出会った)。
くわしくは小説に書かれているけれど、沢木耕太郎の旅は、いまぼくが住んでいる、ここ「香港」からはじまることになった。
後年、沢木耕太郎は、『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社)という著書のなかで、「香港」という、旅のはじまりについて、つぎのように振り返っている。
このユーラシアへの旅には、いくつもの思いがけない幸運が訪れてくれたが、その最初にして最大のものは、第一歩が香港だったということである。
それはやがて書くことになる紀行文にもあるとおり、本当に訳のわからないまま、九龍にある連れ込み宿風のホテルに長期滞在することから始まった。沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
この「九龍にある連れ込み宿風のホテル」は、その後、バックパッカーの宿として有名になった「重慶大厦」(チョンキン・マンション)である(この建物のなかに幾多もの宿がひしめきあっている)。
「重慶大厦」は、改装され、その外観を新たにしたが、今も健在である。
1995年にはじめて香港を訪れたぼくが目指したのも「重慶大厦」で、そのときの香港・広州・ベトナムの旅のはじまりと終わりに、ぼくは「重慶大厦」のなかの宿を拠点として、香港の街を歩いたのであった。
沢木耕太郎は、当時の香港の旅について、つぎのように書いている。
香港は本当に毎日が祭りのように楽しかった。無数の人が狭いところに集まって押しくらまんじゅうをしているような熱気がこもっていた。その熱気に私もあおられ、昂揚した気分で日々を送ることができた。食堂や屋台の食べ物はおいしいし、なによりも安い。わずか何分か乗るだけのフェリーが素晴らしいクルージングのように思えた。しかも、筆談によって、あるていど互いの気持ちが通じ合える。自分で旅の仕方を発見し、楽しむことができれば、無限の可能性のあるところだった。
のちになって理解することになるのだが、香港から東南アジアを経てインドに入っていくというのは、異国というものに順応していくのに理想的なルートだったかもしれない。…沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
沢木耕太郎の「旅」、それは1970年代の旅で、それから40年ちかく経過してもなお、ここ「香港」は、「無数の人が狭いところに集まって押しくらまんじゅうをしているような熱気」がこもっている(ながく香港に住んでみると、この「熱気」に耐えられなくなるときもあるけれど、やはりこの「熱気」が香港の動力なのだ)。
都市化の進展で、ショッピングモールが増えるなどして食事事情は変貌をとげてきたと思うのだけれど(そして値段は「安い」とは言えなくなってしまった)、それでも、ヴィクトリア湾をつなぐフェリーは「素晴らしいクルージング」だと楽しむことはいまもできるし、香港に10年以上住んでみても、「素晴らしいクルージング」だとぼくは感じることができる。
ところで、沢木耕太郎は、「香港をはじまり」とするルートを、<順化>という視点において理想的だったかもしれないとふりかえっている。
「旅」ということであれば(もちろん「旅」になにを求めるかにもよるけれど)、香港をそのように位置づけることもできるだろう(「住む」となったときは、人によっては「逆」かもしれない。香港の「便利さ」を胸に、たとえば東南アジアやインドに移り住むというルートがよいかどうかには、いろいろと留保があるだろう)。
とはいえ、これも人それぞれであり、場所への適応の仕方それ自体が、その人を特徴づけるものである。
ともあれ、沢木耕太郎の「深夜特急」の旅においては、この<順化>が、とても幸福な仕方で機能したということは、沢木耕太郎自身が明確に意識をしているところだ。
香港が、<順化>ということにおいて機能したことに加えて、沢木耕太郎は、ここ香港で獲得したものに大きな意義・意味を与えているようだ。
香港で旅の第一歩を踏み出したことは、「順化」だけでなく、その後の旅にとって決定的な意味を持ったと思われる。香港に滞在しているうちに私の旅のスタイルがほぼ決まることになったのだ。…
沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)
そうして挙げられているのが、たとえば、「記録」であり、「街歩き」である。
「記録」においては、日本から持っていった大学ノートの書き方を、左頁に「その日の行程と使った金の詳細」、右頁に「心覚え風の単語やメモや断章」を書くことを、香港に到着した一日目に決めたのだという。
また、「街歩き」では、「ガイドブックなし」という方法を香港で適応し、そののちもこの方法で街を歩くことで、新鮮な驚きを獲得しつづけたのだと、沢木耕太郎は書いている。
こんなふうに、沢木耕太郎は、ここ香港で、順化の最初の一歩、記録の方法、街歩きの方法という、旅における<大切なもの・こと>を手にしたのであった。
しかし、このように言葉として抽象的に取り出してしまうと、これらの獲得は必ずしも「香港」である必要はないものであるように見えてくるのだけれども、旅というものは、そんな抽象性を、旅を生きる具体性のなかに融解してゆくことがあり、26歳の沢木耕太郎にとっては、香港での滞在が決定的な意味をもつものであったのだろう。
それは、ぼくにとっての最初の旅が1994年の上海(上海から西安、そして北京・天津)であったこと、そしてその旅がいくぶんなりとも、ぼくの旅のスタイルを決定したものであることからも、実感として感じとることができるのである。
「もう遅い」けれど、「遅すぎ」ではない。「なにかをはじめる」思想。- 糸井重里氏のことばと視点。
糸井重里氏は、2018年11月2日『ほぼ日刊イトイ新聞』の「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」を、つぎのように書き始めています。
糸井重里氏は、2018年11月2日『ほぼ日刊イトイ新聞』の「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」を、つぎのように書き始めています。
なにかをはじめるのに、「もう遅い」と思っちゃだめだなぁとつくづく思います。…
糸井重里「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」『ほぼ日刊イトイ新聞』2018年11月2日号
先日も、糸井重里の「今日のダーリン」でとりあげられていたことを素材にして書きましたが、今日のことばも、ぼくのなかに鮮烈に投げこまれたことから、こうして、また糸井重里の視点を素材に書いています。
でも、鮮烈さは、上記のことばとは少し違ったところにありました。
なにかをはじめるのに「もう遅い」と思ってはだめだ、ということは、糸井重里の実感がこめられたことばであるのですが、さらにその先におかれたことばに、ぼくはとても惹かれるのです。
そのことばにふれるまえに、コンテクストを書き足しておきますが、糸井重里はこの文章を書くまえ、つまり「今日のダーリン」が届けられる日の昨夜に「笑福亭鶴瓶の落語会」を見にいってきたところです。
「ぼくが言うのもおこがましいのですが…」と前置きをしながら、糸井重里は、笑福亭鶴瓶の落語が、「ずいぶん上手になっている」ことをそこで感じたと言います。
そのことにあれこれと付け加えながら、糸井重里は、つぎのように語ります。
で、ね。「俺が落語家になったんは五十歳のときですよ」ですよ。そこからはじめるって、遅いでしょう?それはそうなんだけど、「遅すぎ」ではなかった。いや、「遅すぎ」にしなかったんですよね、本人が。「ほれ、こんなふうに、まだまだ上手くなるよ」と、見本を見せてくれてるような気がします。なにかをはじめると、よく「もう遅い」と言われます。そう言えば、ぼくも「ほぼ日」をはじめたのが五十歳。わりと具体的に「もう遅い」とも言われましたっけ。うん、歩みも遅かった、もう二十年も過ぎちゃったもん。
糸井重里「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」『ほぼ日刊イトイ新聞』2018年11月2日号
「もう遅い」ということを、ぼくたちは思ってしまったり、あるいは人に言われたりしてしまいます。
「もう遅い」と思っちゃだめなのだけれど、どうしても、思ってしまうことがある。
世間や周りの人たちの「見方」が、じぶんに内面化してしまっているから、思ってしまうということもあります。
でも、そこからのひとことが、心に沁みてきます。
「それはそうなんだけど、「遅すぎ」ではなかった」
「もう遅い」から「遅すぎ」までの距離、それは確かに、はるかな距離(空間・時間)かもしれないと、ぼくは思うわけです。
世間的に(したがって、じぶん的にも)「もう遅い」という声が聞こえてくるようなのだけれど(そして、そう思ってはいけないこともわかっているんだけれど)、そこで<遅い>ということばの罠にかかって、あきらめてしまうのではなく、「遅すぎ」ではないんだと、じぶんをひらいてゆく。
それは、とてもひびいてくることばであり、知恵だと思うのです。
糸井重里は、しかし、笑福亭鶴瓶の落語においては、「いや「遅すぎ」にしなかったんだ」というように捉えています。
この捉え方は、遅い/遅くない、ということを超えてゆく「正しい」方法でもあるのだけれど、この認識は、糸井重里の感じていることの半分しか語っていないように、ぼくには見えます。
残りの半分については、じぶんも「もう遅い」と言われた経験があったことにふれながら、最後にこう書いたことに現れています。
「うん、歩みも遅かった、もう二十年も過ぎちゃったもん。」
つまり、ここでは、将来的に「成功」することで、過去の「遅い/遅くない」ということを書き換えるという方法が語られているのではなく(つまり、なにかの「達成」をもって「正しさ」を証明することが書かれているのではなく)、<歩み>自体の楽しさが書かれているわけです。
ぼくたちが「生きる」という道ゆきにおいて、なにかをはじめるときに、何をもって、「遅い」だとか、「遅くない」とかを判断し、評価するのだろう。
もちろん、そのような声をふりきって、未来においてなにかの「達成」を見せて、さしだして、「あのときは遅くなかったのだ」と証明し、言い聞かせることも(上で述べたように)方法のひとつではあるわけです。
けれども、そこで見せつける「達成」とはなんだろうか、と問い返すこともできます。
いずれにしても、人は、いつか「死」というものを迎えてゆくのであり、個人(個体)においては、達成は跡形もなくなってしまうのです。
ぼくたちにできるのは、人間として生きる、この世の一日一日を、遅かろうが速かろうが、その一歩一歩を歩むことでしかないと、ぼくは思うのです。
こういう視点で、「うん、歩みも遅かった、もう二十年も過ぎちゃったもん」という糸井重里のことばを見ると、「歩みは世間的には遅いと言われるだろうけれど、一歩一歩が楽しかったんだ。そのほかになにがあるというんだ」というように、ぼくには聴こえてきます。
それは、「遅すぎ」ではない、ということの、(より)徹底した生き方であるように、ぼくは感じるのです。
それにしても、なにかをはじめる人に向かって、「「もう遅い」ということはないよ」と伝えるよりも、「「遅すぎる」ことはないよ」と伝えるほうが、相手に伝わるということがあると思いませんか?
ぼくは、そう思います。
繰り返しになりますが、本人は、心のどこかで、「もう遅い」ということを感じてしまっていることがあるのだから。
と、思って、さっそく、「遅すぎることはないよ」と、伝えてみました。
「プラスチック・ワード」(ペルクゼン)に関心をもって。- 松岡正剛の書く「一夜」を参考にしながら。
膨大な情報と知見と好奇心が織りこめられている、Webサイト「松岡正剛の千夜千冊」。
膨大な情報と知見と好奇心が織りこめられている、Webサイト「松岡正剛の千夜千冊」。
すでに、1000冊は優にこえ、これを書いている時点で、中島春紫『日本の伝統 発酵の科学』の一夜が最新となっており、1687夜(1687回)である。
最新で書かれてゆく「一夜」には、その都度、立ち寄って、松岡正剛の眼をとおした「一冊」に耳をかたむけるのだけれど、まだまだ100夜(100冊)にもおよんでいないだろう。
これとはべつに、ぼくは、思想家・武道家の内田樹のブログ「内田樹の研究室」を最初に書かれたところに遡って読んでいて、それは1999年からのもので、いまだに2000年時点に書かれたブログの文章世界のなかを歩いている。
「読み終わること」が目的ではなく、知見に学ぶこと自体を楽しみ、そして「生きる」ことを賦活していくことを念頭にしているから、歩みを急ごうとは思わない。
カルロス・カスタネダの作品に登場するドン・ファンの教えに共感して、「心のある道」を歩んでゆくだけである。
「松岡正剛の千夜千冊」のことに触れたのは、「1685夜」で、『プラスチック・ワード 歴史を喪失したことばの蔓延』(藤原書店、1998年)という、ウヴェ・ペルクゼンの著書をとりあげていて、興味深い内容であったから、ブログで書いておきたいと思ったためである。
この「1685夜」をぼくは読み飛ばしてしまっていたようで、昨日のブログを準備しながら、解剖学者である三木成夫のことをしらべているときに、「松岡正剛の千夜千冊」にて『胎児の世界』という、三木が生前に発表していた著書2冊のうちの一冊がとりあげられているのを見つけたときに、ぼくの視界に「プラスチック・ワード」も入ってきたのであった。
ここですべてをとりあげることはしないので、興味のある方は松岡正剛のまとめと見解に直截に触れられるのがよいかと思う(原著はドイツ語で、『プラスチック・ワード』の英語訳を探したのだけれど、まだ電子書籍にはなっていないようで、「なるべく電子書籍」のぼくとしては本それ自体はまだ読んでいません)。
ぼくが焦点をあてたのは、シンプルに、「プラスチック・ワード」という言葉とその条件、あるいはその実例的な言葉の一群であった。
本ぜんたいには、副題「歴史を喪失したことばの蔓延」に逆説的に語るように、「歴史を内包することば」の衰退(世界の「言語」が減少してきていることを含めた衰退)が、重奏低音のごとくひびいている。
そのような文脈のなかで「プラスチック・ワード」が語られるのだが、松岡正剛の「要約」は、つぎのようにまとめている。
世界を牛耳る言語には、いくつものプラスチック・ワード(plastic word)がある。プラスチック・ワードとは、意味が曖昧なのにいかにも新しい内容を伝えているかのような乱用用語のことだ。
合成樹脂のようにできた言葉だから、一応の成型はいくらでもできるが、体温も生活も感情もない。たとえば、「アイデンティティ」「マネージメント」「コミュニケーション」「インフォメーション」「マテリアル」「グローバル化」「トレンド」「セキュシャリティ」「パートナー」「コンタクト」「イニシアチブ」「ソリューション」などなどだ。
これらはその用語を発しさえすれば、それにまつわるいっさいの状況の進展や当事者の方向をどこか一方に押し出していく。押し出しながら中味を充実させることなく、圧倒的な猛威を奮っていく。
読みながら、ぼくは「あらら…」と、じぶんの内面で声を発してしまう。
プラスチック・ワードとして挙げられる言葉の一群は、ぼくがつかってきた/つかっている言葉の一群である。
そして、プラスチック・ワードとしての条件、つまりそこに「共通する特徴」を、ペルクゼンは、つぎのように抽出したのだという。
●きわめて広い応用範囲をもつ。
●多様な使用法がある。
●話し手には、その言葉を定義する力がない。
●多くは科学用語や技術用語に起源をもつ。
●同意語を排除する。
●歴史から切り離されている。
●内容よりも機能を担っていく。
●コンテキストから独立していく。
●たいてい国際性を発揮する。
●その言葉をつかうと威信が増す。
「アイデンティティ」「マネージメント」「コミュニケーション」「グローバル化」などのプラスチック・ワードとされる実例を見てから、これらの特徴をそれらに当てはめてみると、さらに考えさせられることになるのである。
さらに、つぎのような説明が加わって、プラスチック・ワードが、より具体的な「イメージ」とともに、ぼくたちに迫ってくるかのようだ。
多くのプラスチック・ワードが役所の文書、企業の計画書、流行雑誌のヘッドラインに乱れ飛んでいた。そうしたものでは、まずプラスチック・ワードが掲げられ、しばらく現状説明があって、途中にプラスチック・ワードが必需品であることが述べられ、また現状変革のための条件の説明に入り、最後にまたまことしやかにプラスチック・ワードで締めくくられる。
一見、体裁はととのっているようだが、なんの説明も深まってはいない。内容がなく機能に偏り、話し手には中枢概念(プラスチック・ワード)を説明する力がない。しかも、すべてが歴史から切り離されているのだ。
「まずプラスチック・ワードが掲げられ、しばらく現状説明があって、途中にプラスチック・ワードが必需品であることが述べられ、また現状変革のための条件の説明に入り、最後にまたまことしやかにプラスチック・ワードで締めくくられる」という形式が、どこか、ぼくたちの記憶のなかにも収まっているように感じられてくる。
ちなみに、この箇所につづけて触れられているように、「アメリカの民主政治・デモクラシー」を論じた、フランス人の政治思想家トクヴィルが、かつて、すでに1835年の時点で、「抽象化」「擬人化」「曖昧化」という傾向を<アメリカ英語>がもっていることを指摘していたということは、注目に値するところだ。
松岡正剛は、『プラスチック・ワールド』には煮え切らないところや説得力が足りないところ、取り逃がしているところがあるとして若干の見解を加えている。
この本自体や著者ペルクゼンの著作ぜんたいを精査的に読みこんだわけではないので、ぼくはそのことについての見解は書けないし書くべきではないと思うけれど、プラスチック・ワードの定義と実例、共通の特徴などを概観しただけでも、考えさせられることがあるし、学びを得るところがある。
ぼく自身としては、ペルクゼンが挙げるような「プラスチック・ワード」的な特徴をぼくなりの感覚のなかで感覚し、考えることによって、アイデンティティやコミュニケーションやグローバル化やマネージメントなどの内実を考察し、歴史軸をも作動させ、実際に生きることのなかに位置づけようとしてきたことを、作法のひとつとしてきたことを、ここに書いておきたい。
でも、そのような仕方は、プラスチック・ワードへの「抵抗・対抗」としてよりも、むしろ、生きることのなかで、それらの言葉の内実を深く考えざるをえないような地点におしだされることによってであったように、ぼくは思う。
また他方、プラスチック・ワードとして挙げられるような言葉が必ずしも「負の側面」だけを身におびているというのではなく、なにごともよい面とわるい面があるように、よい面としての効用・効果も発揮してきた/発揮しているようにも思ったりする(プラスチック・ワードの定義として「乱用用語」とあるように、「乱用」を避ける知性が、これらの言葉に問いを付す)。
それはたとえば、「意味が曖昧で新しい言葉」としていったん歴史的な言葉から離れ、それが鏡になることでじっさいの内実を問うという方向にゆくこともできるのではないだろうか。
三木成夫の著書との出会い。- それは、「ひとつの事件」(吉本隆明)である。
解剖学者の三木成夫(1925-1987)。
解剖学者の三木成夫(1925-1987)。
三木成夫先生の著作との出会いは、確かに「ひとつの事件」であった、としか言いようのない出来事である。
三木成夫のことを知ったのは、加藤典洋の大きな仕事、『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)という著書においてである。
「有限な生と世界を肯定する力を持つような思想」をきずきあげること、という、社会学者である見田宗介の提起する課題を真摯にひきうけながら、その方向へと歩みをすすめた著書。
この本の終盤、加藤典洋が「この考察をどこで終わればよいのか」と自問しながら、書きすすめていくなかで、吉本隆明(1924-2012)の著書『アフリカ的段階についてー史観の拡張』を素材のひとつとしてゆくところで、吉本隆明が三木の「解剖学的な人間観」にヒントを得ていたということが語られている。
吉本の『アフリカ的段階についてー史観の拡張』における「動物生」といういい方、またその「精神史」と「外在史」という考え方の全体は、その最初のヒントを、この三木の解剖学的な人間観から受け取っている。吉本は、1990年代初頭に、三木の著作と出会い、彼自身のかつての言語学的な、また心的現象学的考察が、もう一つ深い発生学的な人間観、世界観へと踏み込めるのではないかと考えた。先に見た吉本の歴史観の更新の提言は、じつはそこから生まれてきたものにほかならない。…
加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)
その吉本隆明は、「三木成夫の著書にであったのは、ここ数年のわたしにひとつの事件だった。」と、三木が亡くなったあとに出版された著書『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書院、1992年)の「解説」に書いている。
さらに、「…知識に目覚めはじめの時期に、もっとはやくこの著者の仕事に出あっていたら、いまよりましな仕事ができていただろうに…」と後悔の念をいだくこともあったというほどに、吉本隆明の思想にとって、決定的な影響をもったようだ。
吉本隆明のことばをそのまま借りれば、三木成夫の著書との出会いは、ぼくにとって「ひとつの事件」であったとも言える。
とはいえ、ぼくがようやく読み終わったのは、三木の生前に出されていた著作(2冊のみ)の一冊(『内臓のはたらきと子どものこころ』の文庫版)、『内臓とこころ』(河出書房新社、2014年)である。
三木の著作のうち、はじめて出版されたもので、講義録である。
読みながらこまったのは、ハイライトしたい箇所がいっぱいありすぎること、さらにBookWalkerの電子書籍で読んでいるのだけれど、ハイライトできる数なり量なりが限定されているので、途中でハイライトできなくなってしまったことである。
なにはともあれ、それほどにひきこまれてしまったのだけれど、では三木成夫は何を語り、なにがすごいのかというのは、まとめるのがむずかしい。
まだぼく自身のなかで混沌としていることが理由のひとつだけれど、他方で、解剖学をはみだしてゆく三木成夫の「思想のひろがりと深さ」が大きな理由でもあるだろう。
1978年ころにたまたま三木に出会うこととなった松岡正剛は、生前に発刊されたもう一冊の三木の著作『胎児の世界』(中公新書、1983年)をとりあげて語るなかで、三木成夫はもともと解剖学者であること、しかし、ゲーテを愛した形態学者であり、徹底した反還元主義者であり、言霊主義者であり、そしてタオイストであったとしている(松岡正剛「胎児の世界」、Webサイト『松岡正剛の千夜千冊』)。
また、三木の弟子といわれる布施英利は、著書『人体 5億年の記憶:解剖学者・三木成夫の世界』(海鳴社)にかんするインタビューの冒頭で、三木成夫の解剖学の「ユニークさ」について、つぎのように語っている。
布施 「…三木成夫がユニークなのは解剖学全般の研究をすべて体系化しようとしたことにあります。だから、人間や動物だけじゃなく、植物とか、星も出てきちゃう。それらをある意味で人体に集約させているわけですよ。そこに人間の胎児を扱う発生学、もっとずっと長いスパンで過去を遡る進化の視点も取り込んでいく。比較解剖学は今生きている猿や魚なんかを比べるという横の比較なのに、そこに(発生学や進化の)縦の比較も全部含めちゃうから、何かの思想のように見えちゃうわけですよ」
「五億年の生命の記憶から人体がわかる!解剖学者・三木成夫を解き明かすその弟子・布施英利インタビュー」、Webサイト『TOCANA』
三木が務めていた大学の学生たちも、松岡正剛も、布施英利も、養老孟司も語っているように、三木成夫は相当に変わった人(おもしろい人)だったようである。
養老孟司は、また三木成夫の時代がやってくるという予感をいだいているようだが、ぼくもその「予感」を感じ、その「予感」のうちに、三木成夫の著書を読む。
三木成夫の著書との出会い、それは「ひとつの事件」である。
<空間的な移動>による「人生41年」環境を経験したこと。-「なにを書こうか」とひらく、糸井重里の文章との「対話」から。
「なにを書こうか、ずっと迷っていた。…」と、糸井重里は今日、2018年10月30日の「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」を書き始めています。
「なにを書こうか、ずっと迷っていた。…」と、糸井重里は今日、2018年10月30日の「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」を書き始めています。
糸井重里が『ほぼ日刊イトイ新聞』上で、毎日書き続けている「エッセイのようなもの」ですが、糸井重里はしばしば、「なにを書こうか迷う」のを、ぼくたちは目にします。
ぼくはこのブログで「なにを書こうか」と思っているときに、iPhoneで『ほぼ日刊イトイ新聞』アプリを立ち上げ、トップに掲載されている「今日のダーリン」を見たりすると、結構な割合で、糸井重里氏が「なにを書こうか」と迷っている文章の出だしに出会うのです。
この「迷い」は、迷いというからには、まったく書くことがないということではなく、あれもこれもあって(あるいはそのように予感して)、でも、このタイミングで、どのように書くのか、あるいは納得のいく仕方で書くことができるだろうかなどを考慮しているうちに「はまってしまう」袋小路のようなものです。
ぼくの場合は、トピックそのものがしぼりきれないこともあって、たとえば「今日のダーリン」などに訪れて、あるいは本を読んでみて、じぶんとそれらの文章のあいだの<間隙>から生まれてくるようなものを探りあてようとしたりするのです。
つまり、ある種の、他者との「対話」から、書くことが立ち上がってくるのをうかがうわけです。
それは、主体の表現というかたちの「書くこと」ではなく、「対話」によって書いていくことです。
そんなわけで、糸井重里の書いたものを読んでいたら(書かれたテクストと仮想敵な対話をしていたら)、思いつくことがあったのです。
取り上げられていたのは、歴史をさかのぼったときの「時間感覚と人生」です。
人生100年時代といわれるようになりましたが、(歴史にあったように)仮に人生が30年の時代にいると考えたとしたら、一年、一月、一日というものの時間感覚はどのように違うのかと、糸井重里はじぶん自身に問いながら書いています(なお、「一年、一月、一日」というように、ここに「週」が入っていないのは、おそらく意図的なのだと推測しますが、「週」が一般的に使われるようになったのは「近代」に入ってからです。人生30年時代は近代以前のことでしょうから、これは「正しい」わけです)。
こうだろうか、ああだろうかと書きながら、とにもかくにも人生100年時代とは「ものすごいちがい」を感じることになるわけです。
このことはあたりまえではあるのだけれども、この問いを問う人それぞれの「実感の度合い」あるいは「想像力のひろさ/深さ」によって、ちがいの感覚のされ方はさまざまであるものだと思います。
そのように読みながら、ふと(思い出しながら)考えていたのは、<空間的な移動>によって、ぼくは「人生41年」のところに生きていたことがあるのだということでした。
糸井重里は想像力を駆使しながら<時間的な移動>(昔だったら…)という思考のなかで考えて書いたのですが、ぼくはこの現代における<空間的な移動>で、実際にその「場」にいたわけです。
それはどういうことかというと、ぼくは、2002年、当時内戦が終結したばかりの西アフリカ・シエラレオネに住んでいたということ、シエラレオネでは当時平均余命が41歳程度であったのです(シエラレオネでは現在ようやく、平均余命は51歳程度までに至っています)。
もちろん、ぼくは外部からやってきて1年に満たない時間を過ごしただけですし、また平均余命の算定方法などからもいくらか差し引いて考慮すべきことがあるのだと思いますが、それでも、この現代という同時代において、空間を移動することで、ぼくは「人生41年」の環境に生きていたことになります。
つまり、「実感」として、あるいは実感という感覚の土台となる経験において、ぼくはある限度のなかでその経験をいくぶんか得ているわけです。
「人生41年」から見れば、当時のぼくは26歳から27歳であったから、そこから15年ほどで41歳に到達し、また今の時点ではすでにぼくはその41歳を超えるところにいることになります。
シエラレオネにいた当時、山本敏晴さんの『世界で一番いのちの短い国ーシエラレオネの国境なき医師団』(白水社、2002年)という著作もあり、ぼくのなかでも、そのような環境にいるんだということは明確に感じていました。
そのような経験を書かなければと思うのですが、今すぐに書けるようなことではないことを、書きながら思うところです(<空間的>に今もそのような環境があることは、少なくとも、知っておくことであると思います)。
このようなことを、糸井重里の書いたテクストとの対話のなかで、ぼくは考えていました。
さらに、糸井重里が最後のところで、「…ぼくは、いまも1000年生きるつもりで日々を過ごしています。」と書いている箇所に至って、「仮想的、人生30年時代」思考からの転回に、いくぶんかのおどろきのようなものを感じると共に、でもそのこと(糸井重里の生きかた)がとてもすんなりとわかるような気がしました。
人生を「短く」想定しようと、あるいは人生を「かなり長く」想定しようと、いずれもが、<今、ここ>の生をどのように生きるのかという問いと言動に凝縮されているのだから。
見田宗介の読み解く「村上春樹」の小説。- 「週末のような終末」とあたらしい強い思想の方へ。
ぼくが個人的に「師」と仰ぐ、見田宗介先生(社会学者)。
ぼくが個人的に「師」と仰ぐ、見田宗介先生(社会学者)。
見田宗介先生の著作などから、ぼくは「人や社会や世界」の見方を学び、その見方をぼくなりに日々採用して、人や社会や世界を見て、いろいろと考えるわけですが、ときに、ある特定の人や事象などについて「見田宗介先生ご自身の見方」を聴きたくなることがあります。
そのような「人」のひとりとして、小説家の村上春樹氏がいます(ぼくにとっては、作品が出ればかならず読み、尊敬してやまない小説家です)。
見田宗介先生が村上春樹あるいは村上春樹作品をどのように読み解くだろうかと、とても気になるわけです。
ぼくが見田宗介の(ほぼ)全著作を読んできたなかでは、1985年~1986年にかけて朝日新聞「論壇時評」として書かれた文章群のなかに、「週末のような終末ー軽やかな幸福と不幸」と題された文章を見つけることができます。
その文章で、見田宗介は、村上春樹の小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社、1985年)を取り上げています。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、村上春樹の一連の小説の流れにあって「画期」的な作品であり、見田宗介が論壇時評を書いていた年(1985年)に「日本文学の最大の収穫」と考えられていた作品です(ちなみに、『ノルウェイの森』で村上春樹から遠ざかっていたぼくが、村上春樹に回帰する契機となった作品でもあります)。
1986年に書かれた論壇時評(「週末のような終末ー軽やかな幸福と不幸」)で、見田宗介は、つぎのように村上春樹に触れてゆきます。
昨年の日本文学の最大の収穫とされているのは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹、新潮社)と題された小説である。…村上はこの小説で、世界が限定されたものであるという断念の上にひとつの肯定をさぐりあてている。
<私は死ぬのだーと私は便宜的に考えることにした。……そう考えると私の気分はいくぶん楽になった。>見田宗介『現代の日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
この作品への他の批評のことばなどを取り上げながら、見田宗介はさらにつぎのように「見て取る」ことになる。
「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」の意識の死を前にしての、<限定された人生には、限定された祝福が与えられるのだ>という述懐は、わたしたちの心にしみとおる。
けれどそれは、何という老人風の知恵だろう。「世界の終り」を、いわば二重の物のように、はじめから伴走させている青年たちの世代の生の物語。
村上春樹は「世界の終り」を自同律の快ともいうべき都市として描く。…見田宗介『現代の日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
こうして、文庫のページ数としては6頁(うち村上春樹に直接に触れるのは4頁ほど)のなかに、見田宗介は濃密に凝縮された文章を織り込んでいきます。
ここではすべては取り上げませんが、のちに論壇時評の「最終回」においてこれまでの論壇時評を振り返るなかで、「世界の終り」を「週末のような終末」として感覚する世代たちをみながら、見田宗介は、1980年代なかばから21世紀前半にかけての本質的な課題をより明確な形で提示してゆくことになります。
…<週末のような終末>の中で、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を素材に、現在の若い世代の、明るい終末の感覚のようなものを見てきた…
…この世紀末は次の世紀が来るかという問いを、思想の内部に抱いた世紀末である。
前世紀末の思想の極北が見ていたものが<神の死>ということだったように、今世紀末の思想の極北が見ているものは、<人間の死>ということだ。
それはさしあたり具象的には、核や環境破壊の問題として現れているが、そうでない様々な仕方でも感受されていて、若い世代はこのことを日常の中で呼吸している。核や環境破壊の危機を人類がのりこえて生きるときにも、たかだか数億年ののちには、人間はあとかたもなくなくなっているはずだ。未来へ未来へと意味を求める思想は、終極、虚無におちるしかない。
二十世紀の状況はこのことを目にみえるかたちで裸出してしまっただけだ。…見田宗介『現代の日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
小説の世界に看取される、若い世代たちの感覚を出発点として、その感覚が人類ぜんたいの課題である<あたらしく強い思想>の要請につなげられ、語られています。
あるいは、このあたらしい思想の要請が、見田宗介の眼を通して、「週末のような終末」を感覚する世代たちを看取するのだということもできます。
この双方向性の(徹底的な)まなざしは、見田宗介の見方であり、あるいはいっそう、その視点の行き来が「生きかた」そのものであるところに、つきない魅力がひそんでもいるわけです。
ここで語られていることは、この文章が書かれてから30年を経過しても、けっして古くなることのない、人類の課題たちのひとつ(もっとも大きなもののひとつ)を指し示しているように、ぼくは思います。
今も、具象的には、核や環境破壊の問題が「日常の問題」として立ち現れ、ぼくたちは、<人間の死>という極北のイメージを日々呼吸しています。
それでも、「未来へ未来へと意味を求める思想」の体現としての社会システムと人々の生きかたは、それをのりこえることができず、自転車操業的に作動しつづけている状況にあります。
これらをのりこえる契機としては、やはり、「物語」ということの力がとても大きいだろう、とぼくは思うのです。
「物語」は、村上春樹の小説のような「物語」だけでなく、人間たちが<共に生きる物語>ということを共同幻想するところまでを射程とする<物語>を含みます。
村上春樹の小説から、話題はずいぶんとひろがってしまいましたが、この「ひろがり」のなかに、見田宗介先生の「本質的な問い」が見えるわけです。
ところで、ぼくの知る限り、見田宗介先生は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』以降の作品に、他の著作等では触れていません(とはいえ、やはり『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に触れたことがあるだけ、嬉しさの混じる「びっくり」ではあったのですが)。
それ以降の作品を読んでいらっしゃるとしたら、どのように「読んで」いらっしゃるのか、お伺いしてみたいものです。
高橋源一郎の「システム」、大江千里の「物語」、Patricia Graceの文学。- 他者に「出会い」、そして「知ること」。
作家の高橋源一郎が他者のことを論じたり、書いたり、あるいは他者と話したりする前の前段階として採用する、「全作品を読む・見る・聞く」システム。
作家の高橋源一郎が他者のことを論じたり、書いたり、あるいは他者と話したりする前の前段階として採用する、「全作品を読む・見る・聞く」システム(こちらのブログで触れました。「高橋源一郎の「システム」(リスペクトの作法)に学ぶ。- ついでに、「二重人格」を見て取る、その視覚も。」)。
この<リスペクトの作法>の効果・効用として、高橋源一郎はそこに「リスペクト以上のもの」を確認しています。
…この「全作品を読む・見る・聞く」システムは、相手をリスペクトする以上の意味がある。相手を理解し、好きになることができるのである。…書かれた言葉には(どんなにひどくても)、その個人の顔が刻印されている。全部読んだら、もう知り合いだ。憎む理由がなくなってしまうのである。
この体験の一例として、高橋源一郎は、橋下徹を挙げて、語っています。
批判してやろうと思っていた橋下徹の全著作を読むうちに、橋下氏が好きになってしまったわけです。
この実例のように「批判対象→好きになる」という心情移行ではなく、「(あまり関心はもたないけれど)リスペクト→リスペクト以上に興味をもち、耳を傾ける」という具合に、ぼくの心情移行を感じている他者として、シンガーソングライターの大江千里氏がいます。
大江千里(おおえせんり)は、1980年代にデビューしたシンガーソングライター。
他のアーティストたちにも楽曲が提供され、彼の曲が耳にはいる機会も多々あったと思うのですが、とくに好きということもなく、「(あまり関心はもたないけれど)リスペクト」という状態で今に至っていました。
その状態に変化をもたらした契機は、彼の著作を読んだことにあります。
とはいっても、高橋源一郎のように「全作品を読む・見る・聞く」システムを発動させたわけではなく、しかし、「著作を購入し読む」ということをしたわけです。
ぼくが関心をもったのは、大江千里の「ジャズピアニスト」への転向の物語でした。
2007年、47歳の大江千里は、腕試し的に出願していた音楽大学(ニューヨークにあるザ・ニュースクール・フォー・ジャズ・アンド・コンテポラリーミュージックのジャズピアノ科)の合格通知を得たことで、10代なかばに断念していたジャズへの思いと志にふたたび情熱の火を点火し、急遽日本での仕事をキャンセルし、愛犬のぴと共にニューヨークに旅立ってゆくことで、新たな人生を歩みはじめる。
この経緯が、『9番目の音を探して 47歳からのニューヨークジャズ留学』(角川書店、2015年)としてまとめられていて、この本を読み進め、大江千里の「ジャズ作品」を聴いてゆくなかで、ぼくの心情変化がすすんでいったことになります。
「全作品を読む・見る・聞く」システムの、ミニバージョンを発動させたわけです(大江千里の別の著作『ブルックリンでジャズを耕す 52歳から始めるひとりビジネス』も読もうかなと思うところです)。
ところで、ニュージーランド作家Patricia Graceの最初の著作『Waiariki』(1975)という短編集に収められている最初の短編は、「A Way of Talking」と題されています。
マオリの女性作家によって英語で書かれた物語が出版されたのは、この著作が初めてであったという、記念碑的著作の最初の一編です。
とても短い短編ですが、心を揺さぶられる作品です。
そこで語られるテーマのひとつに、マオリ人とヨーロッパ系の人たちとのあいだの、人種的な距離ということがあります。
異なる人種の人たちを「…人は」という語り口で語るなか、つまり「話し方(a way of talking)」のなかに、その距離が表出してくることを描いています。
この短編のなかには、この距離を縮めてゆくための「入り口」が語られているようにぼくは読むのですが、それはそのような語りに「固有名」を入れてゆくこと、そして、固有名によって個人と個人として関係をつくること、そのようにぼくは「入り口」が提示されているのだと思います。
それは、ぼくが東ティモールに住んでいたときに感じたものと交差することになります。
「ポルトガル人は…」と語られるなかで(東ティモールはポルトガルの植民地でした)、ぼくがなんとなく抱いていた「偏見」があったのですが、実際にポルトガル人の方に「固有名」で出会ったことを契機にして、カテゴリー的な偏見の枠が消えてゆくのを感じたのでした。
思えば、このことは世界のいろいろなところにいって、個人と個人で「出会う」ときに、ぼくが感じていたことでもあったのですが、東ティモールで、ぼくはより明確にわかったのでした。
そのような視点が、Patricia Graceの語りのなかに、「話し方(a way of talking)」の移行という入り口を読み取ったのでした。
固有名で人と出会うことは、高橋源一郎の「全作品を読む・見る・聞く」システムと共通する作法であるように、ぼくは考えています。
それは、ある他者を知ってゆく、という作法です。
好きになるか、嫌いになるか、あるいはその中間になるかどうかはわかりませんが、ある他者を知ってゆく。
そのことが、とても大切だと、ぼくは思うのです。
高橋源一郎の「システム」(リスペクトの作法)に学ぶ。- ついでに、「二重人格」を見て取る、その視覚も。
「多重人格」のことを別のブログ(「多重人格」において前提されている「自己」。- 「内田樹の研究室」読破の旅路で出くわした文章。)で書いたあとに、いくつかの文章を読んでいたら、作家の高橋源一郎が書いた文章に目がとまりました。
「多重人格」のことを別のブログ(「多重人格」において前提されている「自己」。- 「内田樹の研究室」読破の旅路で出くわした文章。)で書いたあとに、いくつかの文章を読んでいたら、作家の高橋源一郎が書いた文章に目がとまりました。
Webサイト「Webでも考える人」(新潮社)に掲載された文章で、「「文藝評論家」小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」という、ひときわ目を引くタイトルが冠されていたのです。
文藝評論家の「小川榮太郎」と聞いて、ぼくは誰かもわからずに読み始めたのですが、読み始めてからようやく、小川榮太郎が「新潮45」問題にまつわる人だということがわかりました。
ここ香港に住んでいると、日本のニュースに「自動的に」さらされることはなく(香港のニュースでいろいろと取り上げられるものもあるのですが)、むしろこちらから探しにいかないと(あるいは情報が入ってくるように設定していないと)、情報は入ってきません。
そんな状況で、「新潮45」問題のことはその概要を知りながら、個人名まではぼくの記憶のなかにはなく、高橋源一郎の文章を読みながら、ぼくは状況の一部と個人名を確認したわけです。
高橋源一郎のこの文章を読みながら、ぼくがちょうど書いていた「多重人格」につなげて興味深かった点は、つぎのような箇所に見受けられます。
「新潮45」問題についての原稿を書く準備として、小川榮太郎の全著作を読んだ高橋源一郎は、つぎのような印象を明確にもつに至ったというのです。
…おれは、小川さんの全著作を読み、ここに、ふたつの人格があるように思った。ひとりは、文学を深く愛好し「他者性への畏れや慮りを忘れ」ない「小川榮太郎・A」だ。そして、もうひとりは、「新潮45」のような文章を平気で書いてしまう、「無神経」で「傍若無人な」「小川榮太郎・B」だ。…
つまり、高橋源一郎も明確に書いているように、全著作を読んだあとに、そこに、小川榮太郎の「二重人格」を見て取ることになるわけです。
このことについては、つぎのようにも書いています。
「小川榮太郎・A」と「小川榮太郎・B」は、お互いのことをまるで知らないように存在している。同じ人間だと知ったら、内部から崩壊してしまうことに薄々気づいているからだろうか。その構造は、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた「二重思考」にもよく似ている。あれは、強大な権力に隷従するとき必要な、自らの内面を誤魔化すための高度なシステムだったのだが。…
ぼくは、小川榮太郎の書いたものをひとつも読んだことがないので、この見方に対してどうこう言うことはできませんが、「人格」という観点から、とても興味深い見方だと思うのです。
このことはちょうど「多重人格」のことを書いたあとであったために関心が向けられたのでもあったのですが、そもそも、ブログで書こうと思ったのは、高橋源一郎の「システム」についてでした。
つまり、この「全著作を読む」というシステムについてです。
高橋源一郎は、この「システム」について、つぎのように説明を加えています。
…おれがふだん励行している「論じる、もしくは、話をする前に、その相手の全著作を読んでおく」システムについて触れておきたい。よく、「なんでそんな馬鹿なことするんだよ」といわれる。同感だ。だが、それは、おれにとって最低限の、相手へのリスペクトの表現なのである。…
こうして、高橋源一郎は、パーソナリティをつとめるNHKラジオ「すっぴん!」で毎週ゲストを迎える前に、「全著作(作家以外の方は全作品)」を基本自費で手に入れてチェックすること(でも著作が400冊越えや出演映画が100本以上など膨大な場合にはすべてはチェックできず、ゲストに謝ること)を書いている。
このシステムとその徹底具合、さらに「相手へのリスペクト表現」としての実践であることに、ぼくは素直に感心してしまうのです(できることなら、ぼくもこのシステムを、じぶんにインストールしたいとさえ思うのです)。
でも、さらにぼくを捉えたのは、つぎの「効用」でした。
…この「全作品を読む・見る・聞く」システムは、相手をリスペクトする以上の意味がある。相手を理解し、好きになることができるのである。以前、元大阪府知事・市長の橋下徹の言動にむかついて、批判してやろうと思い、やはり彼の全著作を取り寄せた。そのかなりの部分が絶版になっていたが、努力して集め、そして読んだ。そしたら、すっかり橋下氏が好きになってしまったのだ……。書かれた言葉には(どんなにひどくても)、その個人の顔が刻印されている。全部読んだら、もう知り合いだ。憎む理由がなくなってしまうのである。
高橋源一郎は、この「効用」に、「ヘイトスピーチに象徴される憎悪の連鎖を止めるヒント」があるとさえ見ています。
この「全著作を読む」ことによる効用が、小川榮太郎を読み解く仕方に作用したことは、このブログの前半に見てきたところです。
なお、「ヘイトスピーチに象徴される憎悪の連鎖を止めるヒント」については、この文章の趣旨とずれてくることから、これ以上は説かれていませんが、このことは、ぼくたち一人一人が身に引き受けて、考えてみることであるように、ぼくは思います。
でも、ぼくたちは世界のすべての人たちを「全著作を読む」ように知ることはできないではないか、という意見も出てくることが予測されます。
それはその通りで、ぼくたちは誰もが、じぶんの生活空間において、「親密圏」とともに、「公共圏」という大きな圏域をもつことになります。
けれども、数の限りがあるなかでも「相手をリスペクトする」システムがじぶんに備わっており(100%でなくともそのようなシステムが形成されており)、実際に「嫌いだと感じていた人たちのことを好きになってしまう」体験・経験の積み重ねのなかで、それは、公共圏における他者たちに向き合う仕方を変遷させてゆくように、ぼくは考えるわけです。
好きにはならないかもしれないけれど、「リスペクト」することはできる、そう思うのです。
「多重人格」において前提されている「自己」。- 「内田樹の研究室」読破の旅路で出くわした文章。
「自分とは何か」をめぐる、ささやかな、でもぼくにとっては切実な冒険について、その少しのことを別のブログ(「ほんとうの自分」ということのメモ。- 「ほんとうの…」に向けるまなざし以上に、「自分」に向けるまなざし。)で書きました。
「自分とは何か」をめぐる、ささやかな、でもぼくにとっては切実な冒険について、その少しのことを別のブログ(「ほんとうの自分」ということのメモ。- 「ほんとうの…」に向けるまなざし以上に、「自分」に向けるまなざし。)で書きました。
そんな折に、思想家・武道家の内田樹が「多重人格」について書いている文章に、時期を同じくして出くわしましたので、ここではその文章を取り上げておきたいと思うのです。
ちなみに、内田樹のWebサイト『内田樹の研究室』は、1999年7月からのブログをアーカイブとしても残していて、ぼくは今、この1999年7月のブログから現在2018年に向けて旅立ったところです(ようやく、2000年1月にまで到達しました)。
1996年に、ぼくはニュージーランドにいて、徒歩縦断を企図して700キロほどを歩いたこと(でも縦断は4分の1ほどで断念したこと)がありますので、この旅路も、一歩一歩、今度は無理をせず、歩いてゆこうと思いながら、ブログを読んでいます。
ブログの「数」に限って言えば、年を経るごとに減ってきてはいるのですが、ある時期までは毎日だとか2日に1回といった頻度でブログがアップされているので、まだまだ旅路ははるか先までつづきます(1999年と言えば、ぼくがまだ大学に通っていたころだから、この旅路の長さが実感として感じられるのである)。
「内容」は多岐にわたるけれど、このブログが編纂されて本が何冊も出ているように、日々の出来事を綴ったブログを流し読みするというようわけにもいかず、2000年1月に書かれた「多重人格」についての文章のように、いくどもいくども、立ち止まってしまうのです。
というわけで、「多重人格」についてですが、この言葉を起点に小論文を書け、と言われたら、どのように書きますか?
内田樹は、アメリカで患者数数十万という「流行病」としての「多重人格」ということから書き出し、その定説にふれたうえで、「多重化した人格を統合する」という療法に対する疑義を最初から差しはさんで生きます。
…これは「自己とは何か」という問題について、危険な予断を含んでいると私は思う。
最終的に人格はひとつに統合されるべきである、という治療の前提を私は疑っているからである。「人格はひとつ」なんて、誰が決めたのだ。
私はパーソナリティの発達過程とは、人格の多重化のプロセスである、というふうに考えている。…
このように、いきなり「自己とは何か」という根本的な問題にきりこみ、その「前提」を疑うことで、多重人格の問題に光をあててゆくのだけれど、ぼくはまったくもって、この「持説」に賛同するわけです。
内田樹は、パーソナリティの発達過程の話題へと話をすすめながら、つぎのように書いていくことになります。
…コミュニケーションの語法を変えるということは、いわば「別人格を演じる」ということである。
相手と自分の社会的関係、親疎、権力位階、価値観の親和と反発…それは人間が二人向き合うごとに違う。その場合ごとの一回的で特殊な関係を私たちはそのつど構築しなければならない。
場面が変わるごとにその場にふさわしい適切な語法でコミュニケーションをとれるひとのことを、私たちは「大人」と呼んできた。…
さらに、別のブログでぼくがとりあげた「ほんとうの自分」や「自己実現」ということにも、ふれてゆくことになります。
「本当の自分を探す」、「自己実現」というような修辞は、その背後に、場面ごとにばらばらである自分を統括する中枢的な自我がなければならない、という予断を踏まえている。…
「自分を統括する中枢的な自我がなければならない」という予断については、微細に見ておくべきところです。
「本当の自分を探す」とか「自己実現」などの議論をひとくくりにして語ってしまう前に一歩立ち止まることが必要だとぼくは思いますが、メディアなどで表層的に語られてきたような「ほんとうの自分」や「自己実現」や「自分探し」が、どこかに「自分」というものが<確かなもの>として存在していることを前提にしているということはできるように思います。
この立場とは逆に、「自分」というもの(こと)が不確かなもので、「自分」は「場面」ごとに現象してくるという見方があり、内田樹も(ぼくも)そのように「自分」ということ(現象)を見るわけです。
このことは、ぼくは別のブログ(「ほんとうの自分」ということのメモ。- 「ほんとうの…」に向けるまなざし以上に、「自分」に向けるまなざし。)で書いたわけです。
なお、それでは、この「自分」ということを根拠づけるのは何かという、次元を異にする問いがあるのですが、このことについてはここではこれ以上ふれないことにします(ぼくがいろいろ学んできて、じぶんが納得したのは、見田宗介=真木悠介による「近代的自我」の論点があることだけを、ここでは書いておきます)。
多重人格のこと、自己とは何かということ、そこに前提されていること、「大人」になることなどを展開しながら、内田樹は最後に、つぎのように書いています。
…私がインターネットであれこれと持説を論じたり、私生活について書いたりしているのを不思議におもってか、「先生、あんなに自分のことをさらけだして、いいんですか?」とたずねた学生さんがいた。
あのね、私のホームページで「私」と言っているのは「ホームページ上の内田樹」なの。あれは私がつくった「キャラ」なの。…
「私」はと語っている「私」は私の「多重人格のひとつ」なのだよ。…
私は「内田樹という名前で発信してぜんぜん平気である。それは自分のことを「純粋でリアルな存在」だと思ってなんかいないからである。
内田樹による話しの「最後」が、まさかこう来るとは予期しておらず、深く感心しながら、ぼくも思うのです。
明瞭に意識してはいなかったけれど、このホームページの「ぼく」も、「多重人格のひとつ」なんだということを。
でも、それも考えてみれば当然のことだと思います。
ぼくは、「多重人格」や「自己とは何か」という話を、日常の社会生活のなかでしているわけではないですから(日常のなかでその考え方を生かしてはいますけど)。
生きかたにかんする「必読書」の一冊。- 真木悠介『気流の鳴る音』という必読書。
「海外に出てゆくさいの『必読書』の一冊」として、以前、内田樹の著作『日本辺境論』(文春文庫)を挙げました。
「海外に出てゆくさいの『必読書』の一冊」として、以前、内田樹の著作『日本辺境論』(文春文庫)を挙げました。
今回は、枠をおしひろげて、「生きかた」にかんする「必読書」を挙げてみたいと思います。
「必読書」と書くからには、誰にとって、何のために必須とされる書物なのか、ということが明らかにされなければなりませんが、「生きかた」を探求する人たちにとって、よりよい生きかたを考え/実践するためと、ひとまずは書いておきたいと思います。
ぼくの想像のなかで「生きかた」というクラスをたとえば持つとしたら、必読書として、最初に挙げる本です。
書名は、ブログのタイトルにすでに記しましたが、真木悠介の著作『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)です。
40年前の著作ですが、この40年のあいだに「文庫版」(ちくま学芸文庫、2003年)の形になり、また真木悠介の著作集にも収められました。
『気流の鳴る音』には、本編「気流の鳴る音」のほかにも、本編と共振する文章が収められていますが、本編は、「生き方を構想し、解き放ってゆく機縁」として、カルロス・カスタネダが描くインディオの世界に出会ってゆくことが、目的とされています。
真木悠介は、社会学者である見田宗介の筆名ですが、この本が書かれた当時、<近代のあとの時代を構想し、切り開くための比較社会学>が思い描かれていたように、「生きかたの構想」には、「近代のあとの時代」が重ねられています。
そのようにして、今の時代の生きかたではなく、それをのりこえてゆくところに生きかたが構想されており、そのために近代(および現代)の「外」に一度出るという「方法」(つまり「比較」という方法)が採用されています。
でも、この本を読むことで、しあわせになれるだとか、仕事ができるようになるとかいう「間違った期待」をしてはいけません。
もちろん、そのようになれることも「結果として」はあるのかもしれませんが、読んですぐになんらかの「効果」が生活にあらわれるようなものではありません。
ぼくにとっては20年以上も「読み続けている」本であり、ページをひらくたびに、「生きかた」、あるいは(さらに)存在そのものが問われるような本なのです。
真木悠介は「このように(あるいは、あのように)生きなさい」などと生きかたマニュアルを語るのではなく、その逆に、ぼくたちのなかに、じぶんたちの生きかたを照射する光の粒(あるいは生きかたに影を生む闇の粒)をいっぱいに投げこんでゆくのです。
だから、生きかたの「ハウツー」ではなく、ハウツーが語られる土台そのものを、解体し生成する機縁を与えてくれます。
とはいえ、ぼくにとって、あくまでもぼくにとってはということですが、この本は、読むだけで、ぼくの狭い視界をいっきにひろげてくれたのは確かなことです。
20代はじめのころ、東京新宿の埼京線プラットフォームに向かって歩きながら、この本のことばに導かれ、視界が光をうけるようにひらかれてゆくのを感じたことが、今でも実感として思いおこされます。
それから、西アフリカのシエラレオネに赴くときも、東ティモールに住むことになったときも、ぼくは、ちくま学芸文庫版の『気流の鳴る音』を携え、これら紛争が終結したばかりの国々の「世界」で生きてきたのでもあります。
日々のきりきりとする出来事のなかにあって、ときどきこの本を取り出しては、「日々」のはるか彼方を視野に収める『気流の鳴る音』の射程に支えられたことを、今でも思い出します。
またあるときは、この本に書かれている、ものごとの「見方」(たとえば「焦点をあわせない見方」)を意識して、シエラレオネや東ティモールでの支援活動に生かしたこともありました。
そしてここ香港でも、ぼくはたびたび、この本を手にとることになるわけです。
この本のよいところ(数限りなく、ページページにありますが)のひとつは、「明晰の罠」ということが、明確に意識され、仕込まれていることです。
この本に引用され、また真木悠介(見田宗介)の書くものを通じてときおり出てくる『ウパニシャッド』のつぎの一節が、「明晰の罠」ということを語ってくれていますので、ここで挙げておきたいと思います。
無知に耽溺するものは
あやめもわかぬ闇をゆく
明知に自足するものは、しかし
いっそうふかき闇をゆくという『ウパニシャッド』の一節が思いおこされる。
真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1977年
明知に自足することの危険性をインディオの教えにも観つつ充全に認識しながら、このことが、この本ぜんたいに埋め込まれ、さらには生きかたの思想のなかに装填されることで、あらかじめ、明知の自足によって闇になげこまれるという「明晰の罠」への牽制がなされているのです。
だから、生きかたの構想とそれを解き放ってゆくことは、いつまでも続く旅となることでもあるのですが、だからといって不毛に陥るのではなく、むしろ、この「過程」そのもののなかに、「心のある道」(ドン・ファン)を観る思想が、この本の中心テーマのひとつでもあります。
そんな本を、ぼくは、「生きかたにかんする『必読書』の一冊」として挙げたいと思うところです。
「ほんとうの自分」ということのメモ。- 「ほんとうの…」に向けるまなざし以上に、「自分」に向けるまなざし。
「ほんとうの自分」ということが問われたりします(今日は文体を少し変えて書こうと思います)。
「ほんとうの自分」ということが問われたりします(今日は文体を少し変えて書こうと思います)。
今生きている自分はほんとうの自分ではなくて、ほんとうの自分は異なるんだ、という問題意識です。
日々生きているなかで、そのような意識が、どうしても切実に現れてくる。
この「ほんとうの自分」を見つけ出す旅は、「自分探し」と呼ばれたり(今ではあまり言われなくなりましたね)、「自己実現」という言葉を持ち出してきたりして、いろいろに模索され、語られてきました。
それにしても、そのような「旅」に出た人たちが、「ほんとうの自分」を見つけたと明快に書いているレポートを、ぼくは(あまり)見ていません(「あまり」と書くのは、人によって明快さは異なっていて「見つけた」ということも人によって異なるからです)。
ちなみに、ぼくにとっては、「ほんとうの」ということ以上に、「自分」ということの方が、もともと切実なこととして現れてきたのでした。
「自分探し」とか「自己実現」などの言説がメディアでしばしば語られることになるよりも前の時代に多感な時期を過ごしたからかもしれませんが、「自分探し」においても、また「自己実現」ということにおいても、「探し」や「実現」ということ以上に、「自分」や「自己」そのものに対して、ぼくはやむにやまれない疑問、また居心地の悪さをもってしまったのです。
そのような疑問や居心地の悪さは、たとえば、「二重人格じゃないの」という友人からのフィードバック、あるいは太宰治『人間失格』の登場人物のなかに投影する仕方で感じたりするものでした。
でも、それは、「二重」の人格、つまり、「嘘の自分」がいて、「ほんとうの自分」がいるというように、単純には考えられないようなものであり、むしろ「多重人格」的な様相にも見えるものだったのです。
そのようなものとして、「自分」とか「自己」とかは、なにか「確固なもの」(実体があるもの)というのではなくて、自在に変わるようなものとして、ぼくには感じられていたのです。
のちに本を読むようになって、実にたくさんの人たちが、宮沢賢治も、見田宗介も、養老孟司も、内田樹も、南直哉も、平野啓一郎も、同じように感覚していることを知って、いくぶんかの安心ととめどない興味をわきあがらせてゆくことになるのですが、この「自分」や「自己」や「自我」という問題が、ほんとうに切実なものとして、ぼくの生きるという経験に立ち現れてきたことが、ぼくが生きてきた中での「軸」としてありつづけてきたことを感じます。
ざっくりと言ってしまうと、世の中には、「『自分・自己』という「もの」が確固として/実体としてあると信じている人」と「『自分・自己』という経験は現象にすぎないと見ている人」とがいるわけです(あくまでも「ざっくり」ということであって、実際はそのような感覚を対極としてその中間もあるわけですが)。
普段の生活のなかでは、これら二つの立場がコンフリクトすることは、見た目はないかもしれませんが(あくまでも「見た目」です)、やはり、なにかの話や事を深くすすめてゆくようなときに、「根本的な違い」として現れてくることがあるようにも思うわけです。
いつものことながら、どちらがよいわるいということを言いたいのではなく、そのような「違い」があるのだということを知ることが、他者やじぶんを理解するためにも大切だと考えるところです。
そして、海外に暮らしながら、異なる文化に身を入れ、異なる言語でコミュニケーションをとることは、いっそう、ぼくを「自分・自己」という問題領域におしだしてゆくのです。
が、このことは、別の機会にでも書こうと思います。
ここでは最後に、見田宗介が読み解く「宮沢賢治」から、問題の核心をいっきに突く文章を取り上げます。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です宮澤賢治が生前に刊行したただひとつの詩集である『春と修羅』の序は、<わたくしといふ現象は>ということばではじまっている。自我というもの、あるいは正確にいうならば自我ということが、実体のないひとつの現象であるという現代哲学のテーゼを、賢治は一九二〇年代に明確に意識し、そして感覚していた。
見田宗介『宮沢賢治』岩波書店、1984年
学生のころ、はじめて『春と修羅』を読んだときにはまったくひっかかってこなかった一節が、今では切実なものとして、生きられることばとして、ぼくのなかで立ち上がってきます。
グローバル化による価値観の変動。- たとえば、「社会的流動性」による人々の格付け。
「グローバル化」や「グローバリゼーション」という言葉は、時を経るにつれて、そのものとしてはあまり使われなくなってきているようなところがあるように見える。
「グローバル化」や「グローバリゼーション」という言葉は、時を経るにつれて、そのものとしてはあまり使われなくなってきているようなところがあるように見える。
それは、もちろん、それらが「なくなった」ということではなく、そのような事象がその表層において完徹し、また人びとにとって「自明のこと」となり、改めて言及するほどのものではないと思われているからである。
だから、グローバル化をすでに自明のこととして、そこで起きていることが語られる。
とはいえ、「グローバル化」や「グローバリゼーション」は、どこから、どのように語るかによっても、いろいろに光を放つから、議論は結構むずかしかったりする。
また、「グローバリゼーション」に対して「反グローバリゼーション」という二元論的思考によって議論を絡めとってしまうことで、出口のない議論が展開されてしまうこともある。
そんなわけだから、そんな事象をここで簡潔にまとめて、なんらかの解決策を提示しようとも思わない。
ただメモとして、あるいは思考や生きることを紡ぐ際に「引き受けておく」こととして、思想家である内田樹の提起しているポイントを書いておきたいと、ぼくは思う。
内田樹は、グローバル世界に「社会的流動性」(また機動性の高い/低い)という視点を投じながら、社会の「差別性」に光をあてている。
…グローバル化した世界は、一見すると、社会的流動性が極限まで高まった社会のように思われますけれど、実際にはそうではありません。「社会的流動性が高い人々」が世界中の権力・財貨・情報・文化資本を独占し、「社会的流動性の低い人々」は「グローバル化の時代に適応できない滅び行く種族である」とみなされ、どれほど愚弄されようと、収奪されようと「それは自然過程だからやむを得ない」と人々が信じてしまった社会、つまり「社会的流動性」という新しい指標による差別が固定化した社会なのです。
内田樹『内田樹による内田樹』文春文庫
何かしらのことがよいと標榜されるとき、そこには排除されているもの、捨てられているもの、無視されているものがある。
「語られないもの」をまなざすこと、を、ぼくは経済学者アマルティア・センから学んだのだけれど、それと同じように、高らかに語られること(グローバル時代の「社会的流動性」)の背後にあるものに、内田樹をまなざし、書いている。
内田樹のいう「新しい指標による差別」を、内田樹の言葉でもう少し見ておこう。
「私はどこでも生きていける。だから、自分の祖国が地上から消えても、自分の祖国の言語や宗教や食文化や生活習慣が失われても、別に困らない」と言い切れる人間が「最強」に格付けされ、その反対に、農林水産業に従事したり、伝統的な技術や芸能を継承したり、共同体の次世代の担い手を育てたりする仕事をする人は、身動きができないがゆえに「最弱」と評価される。それがグローバル化がもたらした決定的な価値観の変動です。
内田樹『内田樹による内田樹』文春文庫
機動性を軸にして急速な階層化がすすんでいる社会を内田樹は見ている。
「どこでも生きていける」ようになりたいという気持ちを持ったことがある者として、しかし、最強格付けの方向には走らなかった者として(いろいろな意味でできなかっただけだけれど)、ぼくは、ここで語られることを、じぶんの経験に落としながら、考える。
世界をただ均一化してゆくものとしてのグローバリゼーションは、やはり乗り越えられるべきものである。
でも、それは反グローバリゼーションに傾くのではなく、またグローバリゼーションそのものを否定することでもない。
ぼくにとって「英語」は、世界のなかで機動性を高めることのためだけにあるわけではない。
英語それ自体の面白さがあり、じぶんという人間自体を相対化するものであり、そうすることで日本や日本語を(つまりじぶんを)知ってゆくことでもある。
「機動性」は高まるけれど、それよりも、英語を「共通のことば」として、世界のいろいろな人たちと話すことができること、そのつながりを、ぼくは楽しむものである。
「問題」は、このような「共通のことば」が「標準化」し、世界を均一化してゆくことである。
このことを、ぼくは社会学者の見田宗介から学んだ。
近代をこえるということは、文化と文化との間であれ、個人と個人との間であれ、人間と他の存在の形たちとの間であれ、各々に特異なものを決して還元し漂白することのない仕方で、きわだたせ交響するという仕方で、共通の<ことば>を見いだすことができるかという課題に絞られてゆくように思う。
見田宗介「差異の銀河へ」(1986年5月30日)『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫
グローバル化ということを「近代」ということの最終形として見るのであれば、これはグローバル化を含めた文脈として読むことができるのであり、現在ある形での「グローバリゼーション」を越えることの方向性が書かれている。
共通の<ことば>、それは、いわば「共生の作法」である。
安田登に教わる、『論語』の読み方について。- 「四十にして惑わず」を一例に。
『論語』という書物は、ひろく人びとをとらえてやまない書物であったことは、論語に関連する本の多さ、たとえばビジネスと論語をつなげた本などのつらなりからも知ることができる。
『論語』岩波文庫版の訳注者である金谷治は、冒頭の「はしがき」で、論語に対して「古くさい道徳主義を連想する人も少なくないはずだ」と想定しながら、そのような人たちの多くが「いわゆる食わず嫌い」であるだろうとし、そのような人たちによっても論語がひろく読まれることを期待している。
岩波文庫版は、『論語』の原文・読み下し・現代語訳があわせて掲載されているから、「食わず嫌い」の読者にとってもありがたい構成となっている。
ところどころ読んだ『論語』の文章のなかに道徳主義的なものを感じ、この書物から遠ざかっていたぼくは、岩波文庫版の『論語』を読みながら、やはり、どこかに「古くさい道徳主義」的なものを感受してしまう。
きっちりと読みたいなと思いながら、他方で読めないなと思ってしまう。
そのように行き交う気持ちを、思ってもみなかった仕方できりひらき、導いてくれたのが、能楽師でもある安田登による『論語』の読み方の教示であり、読解であった。
『論語』の読み方について、安田登は、つぎのように、核心を一気につきぬける。
…『論語』を読むときに注意しなければならないのは、それを現代の文字で読んではいけないということです。なぜならば、孔子の時代にはない漢字が『論語』の中に使われているからです。
「現代の文字で読んではいけない」という読み方(「正しい」読み方というよりは、読み方のひとつ)。
ぼくがまったく思ってもいなかった仕方で、安田登は、読み方の方法を提示しているのだが、この方法が、『論語』を読むことにおいて、「光」が差し込むように、ぼくの前に提示されたのであった。
孔子は紀元前500年くらいの人で、安田登が指摘するように、ゴータマ・シッダールタやソクラテスなどと同時代人であり、カール・ヤスパースが「軸の時代」と名付けた時代、思想が一気に開花した時代の生きていたのである。
しかし、『論語』が書かれたのは(諸説あるだろうけれど)それから400年ほど経過してからであって、ゴータマ・シッダールタの教えと同様に、書かれるまでは「口承」で伝えられてきたものである。
孔子の時代の文字は(現在の研究からは)「金文」(青銅器に刻まれた文字)であったといい、『論語』が書かれたときに、当時(漢)の文字で書かれたという、その「ギャップ」に、安田登は注意を向けている。
とても合理的な考え方である。
そのようなギャップの一例として安田登が挙げているのが、『論語』に出てくる「四十にして惑わず」という、「不惑」である。
「四十にして惑わず」などとは思わないということが、いろいろな人たちによっても語られてきたし、実際に、ぼく自身の経験としても、そんなことはない、と言わざるをえない。
より詳細な説明は安田登自身の言葉にふれるのがよいと思うが、簡単に言うと、「惑」という漢字は古くには見られないこと(甲骨文にも、西周の金文にも、孔子時代の金文にもない)、だから、孔子は「不惑」などとは言っていなかったかもしれないこと、代わりを調べてみると(「心」を取った)「或」という字体があることである。
そして、文字の成り立ちから見ると、「或」とは、「境界によって、ある区間を区切ること」を意味するといい、また藤堂明保によれば、「惑」とは「心が狭いわくに囲まれること」だという。
安田登はこうして「不惑」を「不或」と考え、「分けない心」「限定しない心」、あるいは(心に限る必要はないから心を外して)「限りない身体」というように捉えている。
つまり、じぶんはこういう人間だと限定しがちな四十歳の人たちに向かって、「自分を限定してはいけない」と言っているのだということになる。
孔子という人の思想や人柄を考えてみてみても、このほうが、整合性があるのだともいうことができると思う。
それにしても、『論語』の「原文」はそれが書かれた時代の漢字だ(ある意味ではそのとおりなのだが)と思い込み、その地平だけから読み取ろうとすることから解放してくれる安田登の方法と読解に、ぼくは強く惹かれるとともに、ほんとうに多くのことを教えられるのである。
そしてなによりも、『論語』というものの世界が、幾重にも深くなって、ぼくの目の前に現れてくる。
映画『The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society』。- 物語と言葉で「つながる」世界。
映画『The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society』(2018)は、同名の小説をもとにした作品。
映画『The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society』(2018)は、同名の小説をもとにした作品。
日本語訳の小説タイトルは『ガーンジー島の読書会』とつけられている。
オリジナルの名前はとてもしゃれていて、ある意味でこの作品の核心をつきぬけているのだけれど、わかりやすくするために「読書会」に焦点をしぼったのだろう。
なお、「The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society」とは、この読書会の団体名である。
映画は、第二次世界大戦が終わったばかりの1946年、ロンドンに拠点をおく作家Juliet Ashtonのもとに、イギリス海峡に位置し、戦時下ドイツに占領されていた歴史をもつガーンジー島(the island of Guernsey)に住むDawsey Adamsから手紙が届き、その手紙のやりとりから、物語が展開してゆく。
物語の展開は、1946年の「現在」という物語と、ドイツ占領下の1941年に思いもかけない仕方で「The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society」が結成され、活動を続けていた「過去の記憶」の物語とが交差されながら、すすんでゆくのである。
この映画を「どのように見るか」は、もちろん人それぞれであるし、ひとつの映画のなかに、人それぞれにいくつもの共感や関心やテーマを見出してゆくものである。
ぼくがこの映画に惹き込まれたのは、物語と言葉が、人と人とを「つなげる」世界のあり様であった。
貧窮極まる、ドイツ占領下のガーンジー島に暮らす幾人かが、思いもかけない仕方で「本」を読むようになり、文字通り、「本」に生かされることになる。
物語と言葉が、「現在」の人たちをつなげ、また、著者と読者を幸福な仕方でつなげる。
このことのリアリティを、ぼくは感じざるを得ないのである。
なによりも、ぼく自身、「何か」がくずれさってゆくような感覚のなかで、「物語」に支えられたことがある。
2006年東ティモールのディリ騒乱で、銃撃戦の最中にまきこまれ、翌日に国外に退避したことの経験である(今の東ティモールはとても平和であることを付け加えておく)。
規模と被害などにおいて第二次世界大戦などと比べものにならないながらも、紛争がぼくの精神に与える影響の一端を垣間見たのであった。
ぼくの精神の風景には、数日後日本に戻ってからも、寒々とした風景がひろがり、何かがくずれてゆくようであった。
ぼくを支えてくれたのは、「本」であり、そこにひろがる「物語」であった。
日々、ぼくは本屋さんに立ち寄ることで、なんとか、精神を維持していたようなところがある。
だから、ぼくのなかに刻印されたそのリアリティの地点から、ぼくは映画のなか、戦争・占領下において精神がくずれさってゆくような状況で、「物語と言葉」が人と人とをつなげ、また人それぞれの精神を支え、この世界とのつながりを維持してゆくあり様を見て、そこに惹かれたのだと思う。
これは、あくまでも、ぼくの見方である。
人は食べ物がなければ生きてゆけないこととは異なる次元で、しかし、人は物語と言葉がなければ生きてゆけない。
この映画は、そこのリアリティに降りてゆく作品でもある。
海外に出てゆくさいの「必読書」の一冊。- 内田樹『日本辺境論』という必読書。
日本から海外に出てゆくとき、その形態が旅であれ、ワーキングホリデーであれ、仕事であれ、移住であれ、読んでおきたい「必読書」。
日本から海外に出てゆくとき、その形態が旅であれ、ワーキングホリデーであれ、仕事であれ、移住であれ、読んでおきたい「必読書」。
もし、そんな「必読書リスト」をつくるとしたら、ぼくは迷わずに、つぎの一冊をリストに加える。
内田樹『日本辺境論』(新潮新書)。
これは、日本・日本人論である。
内田樹自身が言及しているように、「日本・日本人論」の射程において、この本にはほとんど創見といえるものは含まれておらず、「日本・日本人論」について知っておくべきことは、これまでに論じ尽くされている。
「問題は…」と、内田樹は続けて書いている。
問題は、先賢が肺腑から絞り出すようにして語った言葉を私たちが十分に内面化することなく、伝統として語り継ぐこともなく、ほとんど忘れてしまって今日に至っているということです。
先人たちが、その骨身を削って、深く厚みのある、手触りのたしかな日本論を構築してきたのに、私たちはそれを有効活用しないまま、アーカイブの埃の中に放置して、ときどき思い出したように、そのつど、「日本とは……」という論を蒸し返している。内田樹『日本辺境論』新潮新書、2009年
ここで言われている先賢や先人には、たとえば、丸山眞男、沢庵禅師、梅棹忠夫、養老孟司、司馬遼太郎、川島武宜などが念頭されているが、この「問題」について、ぼくは同意せざるをえない。
内田樹が提案するように、これらの先賢たちの論に一気に向かうことも方法のひとつではあるけれど、いきなり丸山眞男や沢庵禅師を読もうと思う人は比較的少数だろう。
だから、内田樹による、さまざまな日本論の「抜き書き張」(内田樹)は、創見はなくても、そのようであることで役に立つものあるし、また「唯一の創見」と内田自身が語るつぎのような事実には、目を開かれざるをえない。
私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません…。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。…内田樹『日本辺境論』新潮新書、2009年
冒頭のほうでこのように言及される箇所を読んだだけで、ぼくはこの本の価値を高くひきあげてしまった。
日本の外で16年以上の歳月を過ごしながら、執拗にぼくのもとにやってくる問いたち、「日本文化とは何か」「日本人とはどういう集団か」などなど。
日々の生活や仕事のなかで、悩み、じぶんを見つめ直し、他者たちとの距離を確認し、じぶんのあり様をながめる。
そのようななかで先賢たちの日本論にはやはりはっとさせられ、納得させられたりするのだけれども、さらにそこに通底している「日本人の宿命」(同一の主題に繰り返し回帰すること)という視点は、じぶんの立ち位置そのものを問われるような感覚が一気にわきおこるのである。
「グローバルに活躍する方法」だとか、「グローバル人材になるために」だとか、「異文化理解のために」だとか、いろいろと役に立つ本はあるし、実際の生活や仕事で効果を発揮することもあるだろう。
けれども、方法論だけをじぶんに重ね、それまでの「じぶん」というものを所与のものとしていると、これまでの経験などに条件づけられた思考や行動が、いろいろな場面で、無意識のままに、現れてくる。
そのところも含めて射程とし、対自化しておくためには、「日本文化とは何か」や「日本人とはどういう集団か」といった問いに正面から向かっておくことが必要になる。
だから、海外に出てゆくさいの「必読書」の一冊として、ぼくは迷わず、この、内田樹『日本辺境論』(新潮新書)をリストに加える。
「序破急」と「英雄になる基本構造」(Joseph Cambell)の違い。- 引き続き、能楽師安田登に耳を傾けて、メモをとる。
能楽師である安田登は、「能」を夢中に語る著書『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)のなかで、能を大成した世阿弥が書いた「能の創作方法」にふれている。
能楽師である安田登は、「能」を夢中に語る著書『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)のなかで、能を大成した世阿弥が書いた「能の創作方法」にふれている。
つまり、能の創作において、世阿弥は「能の構造」を「序破急(じょはきゅう)」にするように説いていることである。
「序破急」はそもそも雅楽の用語であったのだが、世阿弥は「観客を引き込む作劇法」として応用したという。
安田登の説明(前掲書)をもとにすると、能における「序破急」は以下のようになる。
●「序」:観客を場に引き込む。いろんな要素を投げることで、無意識下に「何か」を埋め込む。
●「破」:大切なことをじっくり展開する。途中で(半分くらい目を開けて)眠くなる状態がよく、観客の心の深いところに降りてゆく。
●「急」:目が覚めることをする。
能においては、さらに、それぞれのなかに「序破急」があるという(たとえば、「序」のなかに「序破急」があるというように)。
このような「序破急」は、演劇や音楽の分野にかぎらず、華道・茶道、書道、武術、文学などに応用されていったようで、安田自身も、この方法論を、短い文章を書くこと、プレゼンテーションをすること、講演することに適用していることを述べている。
安田登の好奇心と知見のひろがりと深さに圧倒されながら、ぼくが興味深く読んだのは、「序破急の構造」と「英雄になる基本構造」の比較(違い)についての見方のところであった。
「英雄になる基本構造」は、アメリカの神話学者Joseph Campbell(ジョーゼフ・キャンベル)が神話のなかに見出した「構造」のパターンである。
それは、世界の様々な神話に共通する英雄の型であり、キャンベルは「Departure 出発 - Initiation 通過儀礼 - Return 帰還」として見出している。
これに関連してよく知られているのは、キャンベルの「英雄になる基本構造」に感化されたジョージ・ルーカスが、映画『スター・ウォーズ』の制作においてこの「構造」をベースにしたことであり、安田登も、本のなかで、このことにふれている。
そのうえで、安田登は、『スター・ウォーズ』の構造が、「序破急の構造」になっていることを指摘しながら、しかし、能とキャンベルの見た神話との「違い」について、つぎのように書いている。
能とキャンベルの見た神話との違いは、後者は必ず「帰還」の場面があることでしょう。召命を受けた主人公が、一度共同体から出て敵と戦い、そして帰還することによって、共同体を救う。現実的に変わることを大事にする、これは英雄の類型です。
でも能の場合は、事態に変化はありません。自分の過去を語り、ときには恨み言を言った幽霊は本姓を明かして去るだけで、現実的に何かを変えるわけではない。でも、旅人(ワキ)に話を聞いてもらった幽霊(シテ)は救われ、ワキ方が演じた、幽霊と出会い、その声を聞いた現世の人の内面も確実に変わっています。そして、それが結果的に共同体を救うことになるのです。安田登『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)
「現実的に変わることを大事にする英雄の類型」と「現実的に何かを変えるわけではない類型」。
このような「対称性」ということにおいては、異なる角度から、思想家の加藤典洋が、「ディズニーのアニメ」と「宮崎駿のアニメ」を対置しながら、登場人物たちの「成長」ということを素材に書いている(加藤典洋『敗者の想像力』集英社新書、2017年)。
加藤典洋は、「ディズニーのアニメ」を「大人から見られた成長」としている。
ディズニーのアニメは、物語として悪に対峙する「正義」の物語が展開され、またその過程において「子どもが大人になるという成長」の物語である。
そこでは「成長」が急かされ、子どもから見れば「抑圧」ともなってしまう成長観、言い換えれば「近代的な成長の物語の型」があると、加藤典洋はいう。
宮崎駿は、このような型とは異なる現実を描く。
映画『千と千尋の神隠し』では、映画の冒頭でトンネルをくぐって異世界にいくときも、また両親をすくいだしてからトンネルを抜けてこの世界にもどってくるときも、千尋は相変わらず心細そうに母親の手にすがりついている。
そこでは「成長」は目に見える形では見られない。
けれども、千尋やその周辺に変化が見られないとしても、だからといって、成長や変化や影響がないということではないだろう。
ただし、それらが「見えにくい」ということはある。
このような対称性において、どちらが良いだとか悪いだとかいうことではなく、ひとまずはそのような対称性(違い)があるのだということだけを、ここでは書いておきたいと思う。
このことを問題意識のひとつとして、ぼくの「考えること」の抽斗に、いったん入れておくのである。
能楽師安田登に引き続き耳を傾けながら、ぼくはこうして、メモをとる。
これからの時代の、「初心忘るべからず」(世阿弥)。- たとえば、バッサリと裁ち切ること。
日本の伝統芸能である「能」が、650年にわたって「続いてきた理由」とはなにか、「それを可能にしているものはなにか」と問いながら、能楽師の安田登は、「初心」と「伝統」であると、ずばり答えている。
日本の伝統芸能である「能」が、650年にわたって「続いてきた理由」とはなにか、「それを可能にしているものはなにか」と問いながら、能楽師の安田登は、「初心」と「伝統」であると、ずばり答えている。
そのうちの「初心」について、能を大成した世阿弥が記した「初心忘るべからず」にふれながら、安田登は「初心」という言葉を使ったのは観阿弥・世阿弥が初めてではなく、しかし、世阿弥はこの「初心忘るべからず」を繰り返すこと、「初心」の精神を能の中に「仕掛け」たことを書いている(安田登『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書))。
精神論にとどまらず、<初心の仕掛け>を能に施すこと、そこに能の650年にわたる存続を見ている。
「初心忘るべからず」という言葉が、観阿弥・世阿弥にとって、現在一般に使われるような「初々しい気持ち」という意味で使われていなかったことは、世阿弥の書き記したものからはもちろんのこと、いろいろな人たちが教えてくれている。
このトピックだけでも、語って尽きないものである。
だから、安田登は「初心」という言葉の意味に焦点をあてながら書いているが、それはとてもクリアなイメージと意味を与えてくれる。
初心の「初」という漢字は、「衣」偏と「刀」からできており、もとの意味は「衣(布地)を刀(鋏)で断つ」。すなわち「初」とは、まっさらな生地に、はじめて刀(鋏)を入れることを示し、「初心忘るべからず」とは「折あるごとに古い自己を裁ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならない、そのことを忘れるな」という意味なのです。
安田登『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)
「まっさらな生地に、はじめて刀(鋏)を入れること」のイメージは鮮烈である。
このイメージをつかんでおくことで、「初心忘るべからず」の意味も、そしてその言葉の正しい解釈ということ以上に、ぼくたちが生きていくなかで、ぼくたち自身の言葉とすることができる(「格言」は他者に向けられると説教じみて苦しさを感じることがあるけれど、それがじぶんによってじぶんとじぶんの生に向けられるときに、生きてくる)。
「初」の鮮烈なイメージと意味をおさえたうえで、安田登は、つぎのように書いている。
…固定化された自己イメージをそのまま放っておくと、「自己」と「自己イメージ」との間にはギャップが生じます。現状の「自己」と、過去のままにあり続けようとする「自己イメージによる自分」との差は広がり、ついにはそのギャップの中で毎日がつまらなく、息苦しいものになる。そうなると好奇心もうすれ、成長も止まってしまいます。人生も、その人間もつまらないものになっていくのです。
そんなときに必要なのが「初心」です。古い自己イメージをバッサリ裁ち切り、次なるステージに上り、そして新しい身の丈に合った自分に立ち返るー世阿弥はこれを「時々の初心」とも呼びました。
また、「老後の初心」ということも言っています。どんな年齢になっても自分自身を裁ち切り、新たなステージに上る勇気が必要だと。安田登『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)
「つまらなさ」は、ぼくは、人にとってもっとも大きな「敵」のひとつだと考える(人は、「つまらなさ」よりも、「不幸」を選ぶというようなことが、ほんとうにあるのだと思う)。
そんな「つまらなさ」を「バッサリ裁ち切る」イメージが鮮烈に書かれている。
そのイメージと意味がもたらすのは、不安や迷いであろう。
安田登は、「老後の初心」の厳しさ、つまり、これまでの過去の達成などが忘れられず、じぶんの生の限りも見えてくるなかで、自己を「裁ち切る」ことなどしたら、「本当にもう一度変容し得るのだろうか」と迷うだろうことに言及している。
そして、それでも裁ち切る、のだということ。
ぼくは読みながら、「人生100年時代」において、これはとても大切なことではないかと、安田登の言葉に共振する。
「老後の初心」の「老後」は、今の時代の時間軸の文脈で、読み方の仕方を若干変更する必要がある(現代社会における「老後=定年後」的なイメージから自由になる必要がある)。
「人生100年時代」という時間軸において、「初心忘るべからず」という、<初心の仕掛け>をどのようにじぶんの人生に組み込んでゆくのかが、今問われていることである。