「文化的無臭性」(四方田犬彦)という視点。- 香港における「日本の小説やテレビ」を通してかんがえる。
香港の文学者である也斯(1949~2013)は、比較文学学者の四方田犬彦との往復書簡(四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』岩波書店、2008年)のなかで、じぶんの生い立ちを随所で語りながら、也斯より若い世代の香港の人たちが、日本のテレビドラマを見て育ってきたことを語っている。
香港の文学者である也斯(1949~2013)は、比較文学学者の四方田犬彦との往復書簡(四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』岩波書店、2008年)のなかで、じぶんの生い立ちを随所で語りながら、也斯より若い世代の香港の人たちが、日本のテレビドラマを見て育ってきたことを語っている。
誰でもよく知っているテレビドラマとして挙げられているのは、『キャプテン翼』『きまぐれオレンジロード』『キャンディ・キャンディ』『Dr. スランプ アラレちゃん』『ミスター味っ子』『ロングバケーション』『おいしい関係』などである。
また、也斯の子供たちは、『ドラえもん』『美少女戦士セーラームーン』『ちびまる子ちゃん』などを見て育ってきたという。
ここ香港では、今でも、街のなかで、『キャプテン翼』『ドラえもん』『アラレちゃん』『ちびまる子ちゃん』などを、よく見る。
先日はショッピングモールのイベント会場に『キャプテン翼』を見て、とても不思議な感じがすると共に、「キャプテン翼」の根底に流れる<普遍性>のようなものをかんがえていたところである。
ところで、四方田犬彦は、也斯への手紙のなかで、小説家の村上春樹の作品に言及しながら「文化的無臭性」という問題にふれている。
…恐るべき文化的無臭性が、ハルキの小説の根底に横たわっているのです。
誤解がないようにいっておきますと、わたしはハルキの作品が日本文学ではないと、単純化していいたいのではありません。彼はどこまで日本語で書き、日本を舞台に日本人を描いてきた作家です。ただ、強調したいのは、彼がこれまで海外の眼差しがステレオタイプとして享受し、また期待もしてきた日本的なるものから、完全に距離をとっているという事実です。…
四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)
香港でも、村上春樹はよく読まれており、新作が出ると、店頭に高く積まれることになる。
村上春樹の作品の登場人物を中国人名にしてみたら、香港の物語と受け取る香港の人たちは多いのではないかと、四方田は書いている。
そのような「文化的無臭性」に包まれる村上作品が海外に波及していく仕方は、「ある意味で日本のアニメや漫画、またTVゲームのそれと平行」していると、四方田はさらに指摘している。
そうして、日本文化であっても、香港文化であっても、それらの「ローカリティを犠牲にし、無臭性に徹することでしか、外国に受容されない」のだろうかと、彼はじぶんに問い、思考をめぐらせている。
「キャプテン翼」の<普遍性>のようなことをかんがえていたら、ぼくは、四方田犬彦のいう「文化的無臭性」という視点に、たまたま出くわしたのである。
世界の都市の風景と生活スタイルが「文化的無臭性」の方向に、一様化されてきているようなところは、実際の経験のなかで感じる。
「一様化」という言い方よりも、グローバリゼーションの流れにおける「標準化」の力である。
文化の地層を深く掘っていくことを通して、その根底に諸々の文化を通底するような水脈につきあたるのではなく、それとは逆の方向に「標準化」してしまうような力学だ。
「文化的無臭性」という見方をその表層においてぼくは理解しつつ、村上春樹の作品の根底に「文化的無臭性」が横たわっているのかどうかは、ぼくにはわからない。
村上春樹自身が語るように、無意識の次元に降りて書くようなスタイルは、むしろ人間のなかの深い水脈に降りていくこともできるかもしれず、それは文化的無臭性とは逆の方向に<普遍性>を見出すようにも思えるからだ。
ぼくにはわからないけれど、ただ言えることは、ぼくたちの生は(ひとつの)文化だけに規定されているわけではなく、例えば「生命性/人間性/文明性/近代性/現代性」(見田宗介)というようにそれぞれが共時的に、ぼくたちのなかに生きつづけているということである。
それでも、「文化的無臭性」という四方田犬彦が提示した視点と問題は、ぼくのなかに収めておきたい視点と問題提起である。
「世界」で生きてゆくための<コミカル視点>。- 出来事を「面白おかしく観る視点」。
日本を離れ、ニュージーランド、(西アフリカの)シエラレオネ、東ティモール、香港に住んで16年を超え、人生の「踊り場」のようなところで、これまでの海外生活をふりかえったりする。
日本を離れ、ニュージーランド、(西アフリカの)シエラレオネ、東ティモール、香港に住んで16年を超え、人生の「踊り場」のようなところで、これまでの海外生活をふりかえったりする。
「世界」で生きていくために何が大切なのだろうと、いくつかの文章も書き溜めている。
香港の街を歩きながら、そういえばまだ文章にしていなかったことに、ふと思いあたる。
それは、言ってみれば、<コミカル視点>。
周りでいろいろと起こる出来事を「面白おかしく観る視点」である。
香港の街で、通りを歩き、店に立ち寄ったりしていてときに、そんなことをかんがえる。
じぶんの想像外の出来事、じぶんの常識外の出来事など、「じぶん」の枠をはみだすような出来事や人に、「世界」に住んでいると出くわす。
日本にいても出くわすときは出くわすのだけれど、異文化・異空間において、その確率と深度はいっそうと増してくる。
単純に、面白いこともある。
でも、じぶんの枠をはずれてくるから、「じぶん」にとって心地よいことばかりではない。
不快感を感じたり、人の対応にいらだったり、じぶんの「正しさ」をもちだしてネガティブにジャッジしてしまうようなこともある。
これらを含めて、「面白おかしく観る視点」があるだけで、気持ちが楽になるし、なによりもそのような出来事や人に出会えたことに感謝の気持ちさえおぼえる。
世界が、<コミカルな空間>として、ぼくたちの前に立ち上がってくる。
こんなことをかんがるきっかけのひとつは、スタンドアップ・コメディである。
コメディアンが、周りで起きているなんでもなさそうな出来事に、<面白おかしさ>の光を投じる。
取り上げられる出来事は、ふつうは不快なものであったり、痛みや苦労を伴うようなものであったりする。
また、例えば、アメリカに進出したコメディアンは、文化と文化の間隙から出てくる「面白おかしさ」を素材に、話を組み立てたりする。
そんなコメディを観ながら、そのように<世界を観る/構成する視点>の鮮烈さに、心を動かされることがあって、<コミカル視点>の大切さを思わずにはいられなくなったりする。
「面白おかしく観る視点」には、それを支える基盤として、やはり<好奇心>の炎が、しずかに燃えている。
また、なにかの「正しさ」などの判断軸ではなく、どれだけ面白いかの軸が、どっしりと座している。
そのような<好奇心>や<面白さの軸>は、文化を超えて、多様性と共振している。
そのようにして、<世界観>を、ひろげてゆくことができるのだ。
それにしても、だれかに体験談を語るときはいつだって、語るのは、このような「面白おかしい」体験談だったりする。
「不快」であったり、「いらいら」したり、「ありえない」という話だったりする。
ほんとうは、そのような体験に、心を奪われているからでもある。
「比較・対比」による文化・社会の考察。- 松岡正剛による「ビフテキと茶碗蒸し」(松山幸雄)の考察。
ビフテキと茶碗蒸し。まったく意味のわからない並置は、日米文化比較のエッセイ集の著書名である。
ビフテキと茶碗蒸し。
まったく意味のわからない並置は、日米文化比較のエッセイ集の著書名(『ビフテキと茶碗蒸し』暮しの手帖、1994年)である。
書評サイト「松岡正剛の千夜千冊」の1673夜(2018年5月2日)にて、とりあげられた本である。
著者の松山幸雄は朝日新聞のニューヨーク支局長やアメリカ総局長を遍歴した人物。
著書は1994年に発刊され、このエッセイが書かれた時代背景も一昔前ではあるけれど、松岡正剛も指摘するように、「ビフテキと茶碗蒸し」というタイトルの対比は意外なものであり、好奇心をそそられるものだ。
松山幸雄が国際会議に参加しているとき、途中ずっとハンバーグやビフテキだったところ、最終日に行った料理店で出てきた茶碗蒸しに同行者一同が感激したことの体験から、「ビフテキと茶碗蒸し」にアメリカと日本の違いを見てとったという。
このような文化の比較・対比は、松岡正剛がここで例を挙げているように、これまでもさまざまに語られてきた。
そのような比較・対比が語られるようになってきた流れを、例えばルース・ベネディクト『菊と刀』などに見ながら、松岡正剛も、きりっとした比較・対比を文章にもりこんでいる。
「訴訟するアメリカ、自粛する日本」や「以言伝心のアメリカ社会、以心伝心の日本社会」などの側面を、博識と慧眼に支えられた視点で書いている。
ぼくがおもしろく読んだ箇所は、「過剰サービス社会の日本」という文脈で、アメリカの作家スーザン・ソンタグと松岡正剛が国鉄に乗っていたときのやりとりである。
本書には、ラッシュ時の駅のアナウンスが「降りる人がすんでから、すいている扉から順にお乗りください」と言っている例が出ていたが、ぼくもスーザン・ソンタグ(695夜)と国電に乗ってアナウンスや貼紙の文言を尋ねられたときは、いやになった。「いま、何て言ったの?」「電車が入りますから、白線より下がってお待ちくださいって言った」「いまのアナウンスは?」「前の人に続いて順にお乗りください」「その次のは?」「閉まる扉にご注意ください」「あっそう。これは、なんて書いてあるの?」「指がはさまれるのをご注意ください」。ソンタグは呆れ、「日本人ってそこまで言われないとわからないのね」。
いや、言われないとわからないのではなく、「サービス過剰」と「言わずもがな」と「責任回避」が一緒くたなのである。ソンタグは遠慮なく追い打ちをかけてきた。「どの駅でも同じことを言っているの?」、ぼく「そうね」。ソンタグ「公衆道徳はどこにあるの?」、ぼく「公示するんだね」。「ふうん、自主性を教えられていないのね」、ぼく「そうだ」。そう言うしかない。
「あの」スーザン・ソンタグがどのように日本社会を観たのかということ、またその視点の新鮮さ、さらに松岡正剛の応答と考察を、ぼくは興味深く読んだ。
さらに、著者の松山幸雄がかなり苛立っているという「日本人の会話力」についての松岡正剛の考察も、海外に住んできたぼくとしては、やはり耳を傾けたくなる。
英語はうまくなる必要はない。発音も二の次でいい。要めになる単語をはっきり言えば、あとはもぐもぐしてもいい。それよりも「何を話すか」「何を話しているか」を方向づけ、そこを強調したほうがいいに決まっているのだが、ところがこれがへたくそだ。ぼくは同時通訳のグループを10年ほど預かって、いかに日本人の会話やスピーチの通訳が厄介か、要約するのが困難か、かれらから何十回となく聞かされてきた。白洲正子(893夜)もずっとそう感じていたようだ。『白洲正子自伝』(新潮文庫)に、英米人は日本人が何を話しているのかわからないといつも言っているという話を書いていた。
このようにとてもストレートに、松岡正剛は書いている。
ぼくは会話や会議や議論でこのような失敗をいっぱいしてきたうえで言うのだけれど、松岡正剛の意見に同感である。
アメリカなどに限らず、アジアにおいても、日本人が「何を話しているのかわからない」と感じる人たちに、ぼくは数えきれないほど出会ってきたのだ。
なお、松岡正剛はこの会話力の文脈の流れで、「ディベート」についても言及し、独自の視点を一気にさしこんでいる。
このような「比較・対比」は、じぶんを知り、他者を知り、そしてその間の距離を確かめ、柔軟に実践していくことにおいて、有効な方法のひとつである。
もちろん、それは事象の側面をわかりやすくきりとったものであり、「わかりやすさ」が切り捨ててしまう側面もある。
また、そのような比較・対比が「偏見化」してしまい、実際の事象を観るときに、見方を固定してしまう可能性もある。
そのような負の側面を考慮しつつ、それでも、有効な方法のひとつとして、ぼくたちはそこから学び、そこにとどまるのではなく、そこから思考や考察をひろげてゆくことができる。
それにしても、「ビフテキと茶碗蒸し」は意外な対比であった。
ここ香港で言えば、この意外性に相当するものは何だろうかと、ついつい、かんがえてしまう(けれど、思いつかない)。
「こんな生き方もあるんだ」という感覚。- 「自明性の罠」(見田宗介)をひらく。
アジアを旅し、海外(ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、香港)に住んできて、ぼくにとって大きかったことのひとつは、いろいろな人たちに出会ったり、いろいろな人たちと同じ空気を吸いながら、「こんな生き方もあるんだ」ということを、肌感覚で認識してきたことである。
アジアを旅し、海外(ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、香港)に住んできて、ぼくにとって大きかったことのひとつは、いろいろな人たちに出会ったり、いろいろな人たちと同じ空気を吸いながら、「こんな生き方もあるんだ」ということを、肌感覚で認識してきたことである。
いわゆる(狭義での)「情報」としては、ぼくたちは、「いろいろな生き方」があるということは知っている。
けれども、頭でわかっているだけで、「いろいろな生き方」を実感し、いろいろな生き方へとひらかれてゆくことは、それほど容易ではなかったりする。
「いろいろな生き方」をしている人たちが、じぶんの<実感として感じることのできる範囲>に現れることで、「いろいろな生き方」が、ぼくたち自身が自身のなかに仕掛ける<自明性の罠>(見田宗介)のなかに忍び込み、その罠をときほどいてゆく力を宿していく。
あくまでも、ぼくの経験上のことである。
アジアを旅しながら、ぼくはいろいろな「旅人」に出会ってきた。
1年以上の「年単位」で旅する旅人たちが存在することは、いろいろな本でも読めるし、情報としては知っている。
しかし、宿のドミトリーで、そんな人たちと会話をしていると、「いろいろな生き方があってもよい」という感覚が、ぼくの「あたりまえ」という<自明性の罠>に入り込んでゆく。
ニュージーランドに暮らしながら、そこでもいろいろな人たちに出会った。
アジアの国々から家族で移住してきた人たち、ニュージーランドで農場を営む人たち。
キャンプ場で出会った陽気な旅人たちは、イスラエルの兵士たちだと知る。
ぼくと同じように、ワーキングホリデー制度を利用して、「何か」を求めながら暮らしている日本の人たちなど。
西アフリカのシエラレオネでは、長い紛争が終わった後に、一生懸命に生活を立て直そうとする人たちがいた。
国連や国際NGOで働いている人たちも、いろいろな人たちで、シエラレオネという土地で、いろいろな人たちの人生が交差した。
世界の紛争地をかけめぐって支援をしている人たちもいる。
各国の軍隊や警察の人たちと、たまたま、このシエラレオネで出会う。
会う人たちそれぞれが、それぞれの「生き方」をもっていて、「生きる」ということが直線である必要もなく、いわば「物語」に充ちていることを知る。
「こんな生き方もあるんだ」という認識にひらかれる前は、ほんとうに狭い生き方の「枠」のなかに閉じ込められていたようで、ぼくはそれらをまるで「あたりまえこと」のようにして生きていた。
「あたりまえのこと」のような「現実」をつくっていたのは、(今思えば)ぼく自身であった(「ぼく」というのはひとつの<現象>であって、そのうちに、社会や世間などの他者の考えや声が入り込んでいるから、単純に「ぼく自身」と言い切れないところがあることは注記である)。
「あたりまえ」と勝手に思っていた社会やそこでの生き方から離れてみて、そしていろいろな人たちがぼくの半径○メートルという世界に現れて、ぼくのなかでの<自明性の罠>に亀裂が入っていったようだ。
シエラレオネの次に住んだ東ティモール。
こちらでも、長年にわたる紛争をのりこえてきた人たちに出会った。
一緒に働いたコーヒー生産者とその家族たちの「生き方」にも、どっぷりとつかった。
国連や国際NGOで働いている人たちの生きてきたルートもさまざまである。
それから、ここ香港。
ここはここで、多様性のある社会であり、家族の大切にされる社会である。
やはり、いろいろな人たちが、いろいろな生き方をしている。
ぼくは、このようにして、「こんな生き方もあるんだ」という感覚を、ぼくの<自明性の罠>からひらかれるようにして、ぼくのなかにつくりだしてきた。
このように、「生き方の幅」がひろがったことは、ぼくのなかで根拠のない自信も形成する。
なにがあっても大丈夫。
どのような人生のルートをとっていこうとも、どうにかなってゆく。
ぼくのなかに存在する他者たちも、ぼくにそう語りかけてくる。
海外で、じぶんの「出身地」を語る準備。- 「静岡県浜松市」を、海外の人たちに伝える。
海外へ旅したり、海外に住んでいくうえでは、じぶんの「出身地」を語れるようにしておくことの大切さを、ぼくは経験から学んできた。
海外へ旅したり、海外に住んでいくうえでは、じぶんの「出身地」を語れるようにしておくことの大切さを、ぼくは経験から学んできた。
ぼくの感覚として、以前は、海外にいるとき「どこから来たんですか?」と聞かれて、「日本から来ました」と応答すれば、比較的多くの場合、それでいったんその話題は終わった。
しかし、最近は、ここ香港に住んでいると、日本に旅行で行く人たちがたくさんいるからか、「日本のどこの出身ですか?」ということを聞かれる。
香港の方々のなかには、ぼくよりもはるかに頻繁に日本に行く人たちもいるし、またぼくが行ったこともないような日本の地方を旅している方々もいたりして、「日本から」ということだけでなく、「日本のどこから」ということが、話題としてあがってくることになる。
出身地が「東京」や「大阪」、あるいは「北海道」や「沖縄」であれば、それだけを語れば、おおよそわかってくれるのであるけれど、ぼくの出身は「静岡県浜松市」である。
「静岡」と「浜松」という地名だけでは海外の方々はイメージがわかないから、ぼくはそこにキーワードを加えていくことになる。
まずは、「場所」からだ。
東京と大阪はよく知られているから、ぼくは「東京と大阪の中間にある」ことでイメージをつけてもらう。
そこに、浜松からは若干距離があるけれど、静岡県は「富士山」があるところだとも伝える。
会話のなかでは、場所の正確性が求められているのではないから、浜松から富士山の距離は問題ではないと思う。
「場所」のイメージを持っていただいてから、ぼくは「浜松」にまつわるキーワードを加えていく。
ぼくが挙げるのは、ホンダ、ヤマハ、スズキ、である。
「ホンダ、ご存知でしょう?」
「それから、ヤマハ、ご存知ですね?」
「スズキも、ご存知ですね?」
ここまで来れば、ここ香港に限らず、世界のいろいろなところでも、ぼくがどんなところから来たのかを知っていただけることになる。
繰り返しになるけれど、詳細の正確な情報ではなく、海外の人たちとの共通の情報や話題を通じて<つながり>をつくっていくプロセスである。
ここ香港では、これらのキーワードに加えて、最近は「キャプテン翼」が加わった。
漫画「キャプテン翼」は、ここ香港でよく知られている。
キャプテン翼の南葛小は、設定上は「静岡県」にあることになっている。
だから、ぼくはキャプテン翼の大空翼と同じ県から来たのです、と伝えることになる。
日本の漫画は、海外でも、<つながり>をつくってくれるのだ。
それから香港のショッピングモールで、ぼくは、ハッとした。
「ちびまる子ちゃん」を忘れていたと、「ちびまる子ちゃん」のキャラクターを見つけて気づいたのだ。
香港で人気の「ちびまる子ちゃん」。
漫画「ちびまる子ちゃん」の舞台は、静岡県清水市であった。
「キャプテン翼」や「ちびまる子ちゃん」など、日本の漫画のキャラクターと同じ場所(静岡県)の出身であること(そしてそのことを語ること)は、ある意味、バカバカしいことであるかもしれない。
しかし、それらを通じて、ぼくは、海外の人たちとの<つながり>をつくっていくことができる。
ぼくは、それでいいのだと、思う。
海外に「どれくらい住んでいるか」ということをめぐる体験。- 「滞在期間の相対性」を超えてゆく。
海外に住んでいると、「どれくらい住んでいるのですか?」「来て、どのくらいになりますか?」という質問が、会話のなかで交わされたりする。
海外に住んでいると、「どれくらい住んでいるのですか?」「来て、どのくらいになりますか?」という質問が、会話のなかで交わされたりする。
そのような質問が交わされる理由として、ただ「相手を知る」ことや会話の進め方を見定めていくための情報収集ということがある一方で、ときおり、「滞在の長さ」を前提とした「相手の意見等の見定めるための<メガネ>」となってしまうようなことがある。
長い滞在をよしとする、滞在の長さの競い合いのような様相だ。
「来て●ヶ月(●年)じゃ、…だよね」というような応答のなかに、優越の響きが聴こえ、聴いている方としては肩身の狭い思いをしたりする。
そのような肩身の狭い思いの経験があるから、ぼくは、このような質問を相手に投げかける側になる場合、「ぼくが尋ねているのはそんな優越のためなんかではなくて、話をしている相手のプロフィールを知るための情報のひとつとして聴いているのですよ」という話し方と声の響きとなるように、気をつけたりする。
「滞在の長さ」ということに戻ると、それはとても相対的なものだ。
どれくらいの期間をもって「長い」と言うのかは、比較対象の長さによってしまう。
ぼくは香港に住んでまもなく11年になるけれど、11年なんて、20年や30年あるいはそれ以上いる方々にとってみれば、なんでもない長さである。
社会学者の真木悠介(=見田宗介)はメキシコに1年ほど滞在していたときのことを、次のように書いている。
旅をする人の観察について、永く住む者の目からは「よく分かっていない」というような批評を目にすることがある。わたしは直感的に、それをイヤミな言い方だと思うことがある。わたし自身、メキシコに1年位いた時に、数日だけ日本から訪れてきてメキシコのことを語ったり書いたりする人のものを、表面的だと思ったこともある。けれども10年位も前にメキシコ人と結婚してメキシコに住みついているT教授などの目からみるなら、1年しかいないわたしの観察など、数日間の旅行者のそれと同じだろう。…
真木悠介『旅のノートから』岩波書店、1994年
真木悠介は、さらに、「22歳かにペルー経由でメキシコに来て50年以上になるという…わが敬愛する大老人」を挙げて、大老人(荻田さん)のただ一つのわるいくせは、10年位しかメキシコにいないT教授のような人も、「何も分かっとらん」ということであったことを書いている。
…その荻田さんだって、先祖代々のメシーカ族の子孫からみれば「旅の人」みたいなものなのに!
そうして旅の人にしかみえない真実というものもある。…
真木悠介『旅のノートから』岩波書店、1994年
真木悠介のとる「時間軸」は、とてもひろい。
「先祖代々のメシーカ族の…」と書く真木悠介の時間軸は、この「先祖代々」というようにひろがってゆく時間に向けられているようにぼくには聴こえ、一人の人間が生きる生涯ほどの時間は、まるですべての人が「旅の人」であるかのように感じさせるところがある。
香港も、香港に長くいることで、見えてくるものもあるように思う。
少なくとも、ぼくにとっては、すぐには見えないこともあった。
しかし、旅人や短期滞在者だからこそ見えるものもある。
旅人や短期滞在者の見たものあるいは語るものが、表層的であるかもしれない。
ただし、長くいることで見える深いものごとも、見方が偏見化され固定化されてしまい、別のものを覆い隠してしまうかもしれない。
「滞在の長さ」は、その土地や環境を知るための、あくまでも、要素のひとつでしかない。
大切なことは、海外というその土地や環境に、じぶんがひらかれる仕方であり、視点や視野の豊饒さと持ち方であり、またオープンさと見方の組み合わせによる柔軟性である。
そしてそのように外部にたいしてひらかれながら(また同時にじぶんにたいしてひらかれながら)、どのようにそこの環境において他者とかかわってゆくのかということが、滞在の長さにかかわらず、大切なことのように思う。
「『じぶん』という秩序がこわれる」旅。- 雑誌「旅行人」編集長・蔵前仁一の「旅」。
バックパッカー向けの雑誌「旅行人」(2011年12月に休刊し、2017年に1号だけ復刊)の編集長を務めてきた蔵前仁一。
バックパッカー向けの雑誌「旅行人」(2011年12月に休刊し、2017年に1号だけ復刊)の編集長を務めてきた蔵前仁一。
海外旅行にまったく興味のなかった蔵前仁一は、フリーのイラストレーターとグラフィック・デザイナーとして社会に出ることになる(蔵前仁一『あの日、僕は旅に出た』幻冬舎)。
その後、東京での生活に疲れ、仕事に疲れ、海外旅行にでも行こうとなったとき、同僚の「インドはおもしろい」という言葉に導かれるようにして、1982年にインドへの旅に出る。
2週間のインドの旅が、蔵前仁一の人生をまったく違うものに変えることになる。
散々な目にあってインドから日本に戻ってきた蔵前の頭のなかは、気がつけばインドのことが立ち上がる。
「インド病」と蔵前仁一の友人が指摘するように、彼は、インドに魂をもっていかれてしまった。
インド病を治すためには「インドに戻ること」という助言に動かされるように、蔵前仁一はインドに戻ることを決め、今度はいつ戻るか決めない長い旅にでる。
仕事を整理し、グラフィック・デザイナーとイラストレーターの仕事を休業し、賃貸マンションを引き払い、旅に出る。
蔵前仁一は最初の目的地を「中国」とし、ビザをとるために、最初に(今ぼくがこの文章を書いている)香港に飛んだ。
1983年9月11日のことであった。
成田空港から飛び立ったエア・インディア103便は、四時間半のフライトで、当時の啓徳空港に着陸し、そこから最終的に1年を超える旅がはじまる。
1985年3月に蔵前仁一は、初めての長い旅を終えて日本に帰国。
次の旅を考える一方で、これまでのような仕事の仕方を変えたく思い、手元にあった「タイの島で描いたインドの絵日記」をもとに出版の道をさぐる。
これが、蔵前仁一の最初の著作『ゴーゴー・インド』(凱風社)となった。
そこから、他の著作を出したり、ミニコミ誌を出したり、最終的に「旅行人」の出版社設立にまでいたる。
しかし、イメージしていたことをだいたい実現し、体力も続かなくなった蔵前仁一は、バックパッカーが減っているといわれるインターネット時代のなかで、そろそろ潮時と見た雑誌「旅行人」の休刊を決め、2011年12月に、雑誌「旅行人」は休刊となった。
そのような蔵前仁一は、「旅の不思議な作用」ということを、自身の旅の経験をふりかえりながら、つぎのように語っている。
あれは自分の中の秩序の崩壊だったと僕は思っている。
インドに行くまで、僕は自分なりの秩序をたもって生きてきた。自分の常識の中で判断し、行動していた。…
それがインドで壊れて、激しい混乱を来したのだ。…
そこで僕は、世界には絶対に正しいことなどないことを知る。…
…
自分もまた変わる。旅に出る前の自分と、旅のあとの自分は同じではない。そして、世界も常に変わり続けている。…だから、旅人は二度と同じ場所へ帰ることはできない。それはまるで長い宇宙飛行から帰ってきた宇宙飛行士と同じであり、浦島太郎のようなものだ。それが、旅の不思議な作用だと思う。
蔵前仁一『あの日、僕は旅に出た』幻冬舎
旅での体験が、じぶんの「世界」に闖入してくる。
蔵前仁一にとっては、それらが、「自分の中の秩序」を壊すことになる。
彼は、その深い経験を、また「旅の不思議な作用」を、じぶんを変えてゆく肯定的な力とすることができた。
「旅で人は変わるか?」と問うことができる。
ぼくは、旅で、人は変わることもできるし、変わらないこともできると、思う。
蔵前仁一にとっては、そしてぼくにとっては、旅で、じぶんが変わってゆく経験をしたということだけだ。
そして、それは、「自分の中の秩序がこわれる経験」である。
その解体と生成のプロセスで、じぶんが<創られるながら創る>という経験である。
雑誌「旅行人」(編集長・蔵前仁一)の宇宙。- 旅の「ディープな世界」への案内。
20年以上も前のこと、ぼくが大学生の頃、大学の夏休みにぼくは旅をした。
20年以上も前のこと、ぼくが大学生の頃、大学の夏休みにぼくは旅をした。
バックパックを背負っての海外一人旅、いわゆる「バックパッカー」の旅であった。
ぼくの心持ちとして、あるいはささやかなスタンスのようなものとして、「バックパッカー」と言い切れないようなところがあるけれど、第三者から見たら、それは「バックパッカー」以外の何者でもなかったと思う。
初めての海外への旅は横浜からフェリー「鑑真号」に乗って向かった中国の上海で、その旅ではその後、西安から北京、北京から天津、天津から神戸と旅をした。
翌年には、この文章を書いているここ香港から入り、広州そしてベトナムという旅であった。
その次の年はワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドに住み、帰ってきた年の夏には、タイ、ミャンマー、ラオスと旅をした。
タイのカオサン通りの小さなレストランでは、テレビのニュースが、アジア通貨危機の到来、それからダイアナ妃がこの世を去ったことを伝えていた。
旅をすることの楽しみのひとつは、旅を練り、計画し、想像することにあった。
当時、旅のガイドとしては「地球の歩き方」は一般的な観光旅行のためという認識のもと、バックパッカーにとっては、英語の「Lonely Planet(ロンリー・プラネット)」が世界的に読まれており、また日本語のものとしては雑誌「旅行人」が独特のポジションを獲得していた。
東京の新宿の紀伊国屋書店でも、「旅行人」のコーナーが独特の雰囲気を醸し出していたものだ。
「旅行人」の存在は、旅好きな友人が教えてくれたように記憶している。
雑誌は、インドやアフリカなど、世界のディープな旅を扱い、安宿や出入国の状況(陸路による国境越えなど)の情報、また旅のおもしろい/ありえないような話が紙面に所狭しといっぱいにつまっていた。
雑誌「旅行人」の編集長は蔵前仁一(文書書き、編集者、グラフィック・デザイナー、イラストレーターおよび出版社社長)、著書『ゴーゴー・インド』などで知られていた。
雑誌「旅行人」で情報を得ながら、その不思議な「宇宙」にひたっていると、無性に旅に出たくなるのだった。
「旅行人」のことを、ふと思い出し、グーグルで検索をかける。
すると、なんと「旅行人」のホームページがあるではないか。。
「まだ続いているのか」という驚きと嬉しさで、サイトを探索する。
読んでわかったことは、雑誌「旅行人」は、2011年12月に、165号をもって休刊となったということ。
しかし、2017年9月、休刊から5年9ヶ月後、雑誌「旅行人」は1号だけ(つまり166号だけ)が復刊されている。
その名も、「インド、さらにその奥へ《1号だけ復刊号》」。
なにはともあれ、雑誌「旅行人」のホームページがあり、蔵前仁一編集長はご健在で、今も、いわば「異世界への旅」に出る(あるいはその周辺で集う)人たちがいることに、ぼくの心はおどる。
前身の「遊星通信」から数えて20年以上もやってきた「旅行人」の休刊の経緯については、蔵前仁一は著書『あの日、僕は旅に出た』(幻冬舎)のなかで、蔵前仁一の半生とともに語られている。
…アジア・アフリカを長く旅したときにイメージしたことはだいたい実現した。インターネットも登場し、長い旅をするバックパッカーも減ってきているというし、体力も続かなくなった。そろそろ潮時かな。
僕はそろそろ「旅行人」を休刊しようと思うようになった。
…二年ほど、ぐずぐずと迷い、…そして、ようやく休刊すると決めた。
それはフリーの仕事をいったんやめて、旅に出たときの心境とも似ていた。あのときも、旅から帰国後どうするかなにもわからなかった。だが、それをやめたことで新しい道が開かれたのだ。…また新しいなにかが始まるだろう。
蔵前仁一『あの日、僕は旅に出た』幻冬舎
1956年生まれの蔵前仁一も60歳を超えている。
蔵前仁一の人生を変えた、1982年の「インドへの旅」からも30年以上が過ぎている。
その間に時代も変わり、蔵前仁一の言うように、長い旅をするバックパッカーも減ってきているのかもしれない。
インターネットの世界は世界の距離感を極端に短くし、「旅のあり方」のようなものを、その内実において変えてきているように思われる。
けれども、雑誌「旅行人」が体現していたように、「旅」は、旅の仕方によっては、ディープな世界に入っていくことができる。
それはさしあたり「世界のどこ」ということでもあるけれど、より深いところにおいては、じぶんと世界のつながり方や(旅の)経験の仕方にあるように、ぼくは思う。
村上春樹の「遠い太鼓」に呼ばれた旅。- 「空間(異国)」編:ヨーロッパでの3年。
小説家の村上春樹の著作『遠い太鼓』(講談社文庫)。1986年から1989年にかけて、村上春樹がヨーロッパに住んだときのエッセイ(記録)である。
小説家の村上春樹の著作『遠い太鼓』(講談社文庫)。
1986年から1989年にかけて、村上春樹がヨーロッパに住んだときのエッセイ(記録)である。
「四十歳」に特別な予感をいだきながら、「遠い太鼓」に呼ばれるようにして、村上春樹(夫妻)は、三十七歳でヨーロッパに旅立った。
「四十歳」への予感ということと共に、ぼくの関心をよんだのは、この長い旅が、村上春樹にとって「初めての海外暮らし」であったことである。
村上春樹は、夫妻が置かれる「立場」がとても「中途半端」であったことを書いている。
「観光的旅行者」でもなく、かといって「恒久的生活者」でもない。
さらに、会社や団体などにも属しておらず、あえて言えば「常駐的旅行者」であったという。
本拠地をローマとしながらも、気に入った場所があれば「台所のついたアパートメント」を借りて何ヶ月か滞在し、それからまた次の場所に移っていく。
その生活の様子や出来事が、まるでそれらが物語のように、語られている。
物語のように描かれる世界、筆致と文体とリズム、視点や視角はとても魅力的である。
村上春樹は、そのような生活を「孤立した異国の生活」というように語っている。
その(自ら望んだ)孤立のなかで、村上春樹はただただ小説を書きつづけ、この3年間に、長編小説としては『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書き上げることになる。
『ノルウェイの森』はギリシャで書き始められ、シシリーで書き継がれ、ローマで完成したようだ。
『ダンス・ダンス・ダンス』は、ローマで大半が書かれ、ロンドンで完成されたという。
このようにして、これらの長編小説には「異国の影」がしみついているのだと、村上春樹自身が感じるものとして、できあがったのだ。
村上春樹は、これらの作品は、仮に日本に住み続けていたとしても、時間はかかってもいずれは同じようなものが書かれたであろうと、振り返っている。
…僕にとって『ノルウィイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』は、結果的には書かれるべくして書かれた小説である。でももし日本で書かれていたとしたら、このふたつの作品は今あるものとはかなり違った色彩を帯びていたのではないかという気がする。はっきり言えば、僕はこれほど垂直的に深く「入って」いかなかっただろう。良くも悪くも。
村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫
ヨーロッパでの孤立した生活のなかで、誰にも邪魔されずに、ひたすら小説を書く。
「なんだかまるで深い井戸の底に机を置いて小説を書いている」ようであったと、小説を書いている自分を、村上春樹は客観視する。
深い井戸の底に、垂直に深く「入って」いくことのできる<環境>を、ヨーロッパでの生活が準備し、そこで村上春樹の作品が生成する。
…結局のところ、僕はそういう世界に入りたがっていたのだと思う。異質な文化に取り囲まれ、孤立した生活の中で、掘れるところまで自分の足元を掘ってみたかった(あるいは入っていけるところまでどんどん入っていきたかった)のだろう。たしかにそういう渇望はあった。…
村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫
さらに、後年になって、村上春樹は、ヨーロッパという異質な文化の環境で、「三年かけてこの本を書いたことによってなんとなく体得したもの」として、「複合的な目」を挙げている。
外国に行くとたしかに「世界は広いんだ」という思いをあらたにします。でもそれと同時に「文京区だって(あるいは焼津市だって、旭川市だって)広いんだ」という視点もちゃんとあるわけです。僕はこのどちらも視点としては正しいと思います。そしてこのようなミクロとマクロの視点が一人の人間の中に同時に存在してこそ、より正確でより豊かな世界観を抱くことが可能になるはずだと思うのです。
村上春樹「文庫本のためのあとがき」『遠い太鼓』講談社文庫
この文章を、村上春樹は、ヨーロッパの次に住むことになった海外、アメリカで書いている。
ときおり、もし村上春樹が海外に住まず、日本で小説を書き続けていたら、彼の小説がどのようになっていただろうかと、ぼくは勝手にかんがえてしまう。
村上春樹が言うように、日本にいても書かれたのかもしれないけれど、『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』以後の長編小説の深い世界を思うとき、ぼくはやはりかんがえてしまうのだ。
そしてときおり、ぼくはじぶんのこともかんがえてしまう。
もし、ぼくが、海外に暮らさずに、日本で暮らし続けていたとしたら、と。
無意味な問いと想像なのかもしれないけれど、「四十歳の分水嶺」に村上春樹が予感していたように、「それは何かを取り、何かをあとに置いていくこと」という「精神的な組み替え」が、生きることの<空間の分水嶺>において生じたであろうところに、ぼくの思考と想像をつれていくようにも、思われるのだ。
「距離」をつくり、時間を経ながら「異なる空間たち」と対話すること。- 日本の文学作品に(ようやく)ふれながら。
日本の文学作品を、最近はそれなりに手にとって、読むようになった。
日本の文学作品を、最近はそれなりに手にとって、読むようになった。
20歳を超えるまでは本はほとんど読まなかったけれど、10代から20代の前半くらいにかけて特に日本の文学作品は、ぼくの関心からおよそかけ離れたところにあった。
それから20年、そのほとんどの期間を日本の外で暮らしているうちに、ぼくは、夏目漱石や大江健三郎、また日本の古典的作品に、少しずつふれるようになってきている。
加藤典洋や河合隼雄などの著作における「読解」の角度や深さに、作品の面白さについての手ほどきを受けたことも理由のひとつだと思う。
けれども、やはり海外という「異なる空間」(異文化)で長く暮らすということの影響はとても大きなこととしてあるように、ぼくは思う。
日本にいるときは、海外のものに関心をもつ。
日本の外に出ることによって、逆に、日本のものに関心をもつようになる。
いわゆる<幻想の相互投射性>(見田宗介)ともいうべき、日本にいるときは海外にあこがれ、海外にいるときは日本にあこがれるというようなことかもしれない。
ただ、経験として、もう一段掘り起こすと、次のようなことであったようにも思う。
日本の外に出ること、つまり場所という<空間>をかえることで、次のような「効果」があったのではないかとかんがえる。
● 埋め込まれていた環境から「じぶん」を引き離すことで、より効果的に、自己相対化ができる
● ネガティブな偏見などから距離をとることで、自明性や偏見からいくぶんか距離をとって、ものごとを見てかんがえることができる
● いろいろな見方・視点を手にいれることで、ものごとを見てかんがえるときに、ひろい視野で見てかんがえることができる
「いろいろな見方・視点」を手に入れるなかでは、日本や(西洋にたいする)東洋にかんすることを、例えば「英語」で読むことで、上述のような「効果」の重層効果があったのではないかとも、思う。
文化や言語などにおいて異なる「他者の視点」で日本や東洋が照らされることで、同じものごとも異なる光のもとで見ることができる。
あるいは、日本語の複雑な言い回しなどが、(ひとまず)「わかりやすい言い回し」で語られることで理解(あるいは理解の一部)をたすけてもらうことができる。
これらのことは、「日本」からの<距離>(経験の質としての距離)が遠ければ遠いほど、効果は大きい。
その意味において、最初に赴任した西アフリカのシエラレオネでの暮らしと仕事は、やはり、日本からの<距離>が大きかったのだと思う。
その<距離>のはざまで、これまで埋め込まれていた環境の特異性・特殊性がうかびあがってくる。
「異なる空間たち」(異なる環境・文化・言語など)は、自己・自我というものがそれまでに構築してきた、いわば「身体的・精神的なシミュレーション(空間)」の磁場をくるわせ、壊し、問いを投げかける。
そのような経験を積み重ねていくうちに、じぶんのなかでも「対話」がすすみ、相手・他者(他者のいる文化など含む)を知ることと、じぶん(じぶんが生まれた文化など含む)を知ることが深まっていく。
じぶんと距離をつくり(じぶんをより客観的な位置におき)、時間を経ながら、いわば「異なる空間たち」と対話を深める。
そのプロセスで、「日本」や「日本なるもの」を掘り起こし、対話は続いていく。
これらを経験するために、もちろん、論理的には、わざわざ「海外」に出なければいけないということでは決してない。
今いるところの「井の中」を下に下に掘っていくことで、じぶんで<距離>をつくり、異なる空間たちと対話をしていくことはできる。
ただし、ぼくに限って言えば、「海外」に出るということが、経験上、必要であったように思う。
ぼくにとっては「井の外」の助けが、必要であったということだけだ。
でも、そのようなこととして、「井の外」は、方法のひとつではある。
「井の外」が助けになるかどうかは、翻ってじぶん次第ではあるけれど、やはり、方法のひとつであると、ぼくは思う。
「水のおいしさ」を身体でわかるまで。- デフォルト社会から出て「水」との関係をかえる。
「水を飲む」ということが、ぼくにとって、当たり前になったのはいつであったろうか。今思えば、この問いは奇妙な問いである。
「水を飲む」ということが、ぼくにとって、当たり前になったのはいつであったろうか。
今思えば、この問いは奇妙な問いである。
今では、とても大切なこととして、水を飲んでいる。
常温の水、あるいは冬であれば温めた水を飲む。
冷たい水を飲むことはほとんどない。
「喉がかわいたから」という理由以上に、生きるということそのものであるような仕方で、水を飲む。
グラスに注いだ水をあじわいながら、そして感謝しながら、ぼくは身体のすみずみを潤すように水を飲む。
ぼくが子供の頃、「飲み物」は、麦茶であったり、緑茶であったり、スポーツドリンクであったり、ジュースであった。
もちろん学校の休憩時間では、蛇口をひねって水を飲んだし、外食時には氷のいっぱいにはいった水も飲んだ。
でも、水それ自体は「脇役」のような立ち位置にあった。
10代の終わりから、海外を旅するようになって、「水」とぼくの関係は変わりはじめる。
アジアを旅している間、もちろん、「水」は蛇口からそのまま飲むことはできない。
「水」は買わなければいけない。
ニュージーランドに住んでいたときは、蛇口の水がそのまま飲めたけれど、ぼくはキャンプをしながら、「水」のありがたさを身体にきざんでいく。
20代からは、アフリカやアジアの蛇口のないところで、仕事をする。
「水」そのものの確保がむずかしい地域で、水を確保し、水を使い、水を飲む。
おそらく、そのころから、ぼくは水を「常温」で飲むようになったのだと記憶している。
氷は「贅沢品」でもある。
常温の水を飲み続ける内に、常温の水がぼくの身体に適合するようになっていく。
また、世界それぞれの場所で飲む「異なる水」は、ひとつひとつに個性あるあじわいを教えてくれ、ぼくの楽しみのひとつとなった。
水のひとつひとつの「個性」に出会う中で、いつしか、水にこだわるようになっていく。
高級な水というこだわりではなく、じぶんの<身体に合う水>へのこだわりである。
こうして、いつしか、「水」は、ぼくの生のなかで、脇役ではなく「主役」になる。
コーヒーも紅茶なども楽しむけれど、主役は「水」である。
水が主役の場におどりでるまでに、相当な年月がかかった。
ぼくにとっては、「デフォルトである社会」(当時の日本社会)を出て、水とぼくとの関係がかわっていくプロセスである。
「水」というものがその社会でおかれるポジションみたいなものがあって、ぼくは、デフォルト社会を出てみることで、そのポジションを確かめてゆくという道のりを通過することになった。
また、「水のおいしさ」を身体からあじわうまで、相当な年月がかかった。
なにはともあれ、ぼくは、今、こうして、おいしい水を飲むことができる。
海外をわたりながら、ぼくのなかで光をもっていた「視点」。- オクタヴィオ・パスの<暖かいまなざし>。
東京から、西アフリカのシエラレオネ。シエラレオネから東ティモール。東ティモールから香港。その道のりは、ふりかえると、東京を発ってから15年を超える。...Read On.
東京から、西アフリカのシエラレオネ。
シエラレオネから東ティモール。
東ティモールから香港。
その道のりは、ふりかえると、東京を発ってから15年を超える。
それぞれの場所で、それぞれの社会やコミュニティに身を置きながら、ぼくのなかで「ひとつの光」となって、社会やコミュニティをみる「視点」となっていたことがある。
その「視点」を、ぼくは、東京にいたときに読んだ、真木悠介の名著『気流の鳴る音』のなかで教えられた。
1970年代半ばにメキシコに約1年住んでいたときの体験をもとに、真木悠介は「メキシコ社会」について、書いている。
私が感動したのは、だれかを招くと、必ずその恋人や兄弟や友人などの、たのしい「招かれざる客」たちをつれてくることだ。二人を招くと五人で現れる。このようにして関係の波紋はひろがり、目もあやに重畳しながら、いつかそれなりの厚い真実の地平を形づくってしまい、そこからの別離が身を裂くかなしみとなっていることにあとになって気付く。
真木悠介『気流の鳴る音から』ちくま学芸文庫
このような「招かれざる客」からひろがっていく関係の波紋は、日本(の都会?)ではあまりないから、真木悠介の「感動」はぼくにも伝わってくる。
さらに、ぼくのなかに印象付けたのは、真木悠介が引く、オクタヴィオ・パスの「分析」であった。
この開放性と人恋しさの背後には、植民者や混血者たちの存在のふたしかさからくる孤独の深層があるという、オクタヴィオ・パスの分析を私は鋭いと思う。
真木悠介『気流の鳴る音から』ちくま学芸文庫
1970年代半ばのメキシコ社会は、16%が白人、55%がメスティーソ(混血)、29%のインディオから成っていて、インディオの社会には、上述の「開放性」は一般にないと、真木悠介は指摘している。
こうして、ぼくのなかで、オクタヴィオ・パスの<暖かいまなざし>と鋭い分析が、強烈にのこることになる。
開放性と孤独の深層という図式だけではなく、人や社会をみるときの「姿勢」のようなことをぼくは教えられた。
この暖かい視点は、東京から西アフリカのシエラレオネに向かっていくなかでも、ぼくのなかに確かにあった。
しかし、そこでぼくが出会ったのは、また異なる「深層」であったようにも、ぼくは思う。
紛争という世界を通り抜けてきた人たちの「深層」である。
それは歴史的な時間の長さに刻印された「層」ではないけれど、紛争という世界の、言葉にならず、また時間にも置き換えることができないような<長い時間>に刻印された「層」である。
まだぼくのなかでも渦巻いている「層」である。
留学生である夏目漱石のイギリスでの苦悩と「変身」。-「嚢(ふくろ)を突き破る錐(キリ)」を追い求めて。
夏目漱石の『私の個人主義』に最初に目を通したのは、確か、大学か大学院で勉強していた20代前半のことであったと思う。...Read On.
夏目漱石『私の個人主義』に最初に目を通したのは、確か、大学か大学院で勉強していた20代前半のことであったと思う。
夏目漱石の書くものにぼくは深く惹かれていたわけではない。
中学や高校での教科書や読書感想文用の図書として取り上げられる夏目漱石であったけれど、どうにも、深く入っていくことができずにいた。
ただ、おそらく、「個人主義」という言葉にひかれて、手にとったのだと思う。
当時のぼくは、個人と共同体、自由主義と共同体主義などのトピックに、正面からぶつかっていた時期であったからだ。
でも、『私の個人主義』もあまりぼくの心身に合わず、読んだ内容はほぼ覚えていないような状況であった。
20年程が経過して再び『私の個人主義』を手にとろうと思ったのは、ある論考を読んでいて、「留学生の夏目漱石」に焦点をあてた箇所に惹かれたからである。
『現代思想』誌(青土社)の2016年9月号(特集:精神医療の新時代)における、酒井崇「適応することと潜勢力としての思考」という論考のなかである。
精神病理学を専門とする著者が、「大学において留学生の相談・診療業務」をするなかで、留学生などにみられる「適応の困難さ」について論じている。
論考の展開のなかで、「留学生漱石」に光をあて、イギリス(ロンドン)に留学した夏目漱石が、ロンドンの生活に「不適応」を起こしていたことに目をつける。
イギリス留学に行くずっと以前から「不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至るところに潜んでいるようで堪まらない」(夏目漱石、『私の個人主義』青空文庫)感覚を漱石は持ち続けていた。
「私はこの世に生れた以上何かしなければならん」(前掲書)と思いつつ、思いつかないといった、状態である。
漱石は、この状態を、「あたかも嚢(ふくろ)の中に詰められて出る事のできない人のような気持ち」と語り、「一本の錐(キリ)さえあればどこか一箇所突き破って見せるのだ」(前掲書)というように、焦り抜いていたという。
不安を抱いたまま、漱石はイギリスのロンドンに渡ることになる。
…この嚢を突き破る錐は倫敦(ロンドン)中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。
夏目漱石『私の個人主義』青空文庫
本を読んでもうまくいかない。
本を読む意味さえも失うなかで、夏目漱石はひとつの「気づき」を得る。
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う道はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で…そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。
夏目漱石『私の個人主義』青空文庫
夏目漱石がそうして行き着いたのが「自己本位」ということである。
「自己本位」という言葉を手に入れた漱石は、文学に限らず、科学的研究や哲学的思索にふける。
「自己本位」が道を照らしたのだ。
そのとき、留学してから、一年以上が経過していた。
漱石はこう語っている。
…外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。
夏目漱石『私の個人主義』青空文庫
漱石のロンドン「不適応状態」に焦点をあてた酒井崇は、「嚢を突き破る錐」は何であったのだろうと問う。
…英国へ留学して一年間、いわば不適応状態にあった漱石を変えたものは何であったのだろうか。…たんに英文学に見切りをつけて、関心を文学そのものへ移したということだけのことでは決してない。「概念を根本的に自分で作り上げ」ようとしたこと、周囲から神経衰弱と言われるほどまでに「思考」したことが錐となったのではないだろうか。
酒井崇「適応することと潜勢力としての思考」『現代思想』(青土社)2016年9月号(特集:精神医療の新時代)
夏目漱石が「私の個人主義」の講演を行なったのは1914年(大正3年)11月25日。
漱石が他界する2年前の講演で、そのとき漱石は47歳であった。
イギリス留学の年から14年が経過していた。
ぼくも幾分、霧の中をくぐり抜けてきた漱石と同じような経験を通過してきた。
そのためなのか、漱石の言葉をかみしめる素地が少しはできたのかもしれない。
久しぶりに読む『私の個人主義』のなかに興味のつきない語りを見つけ、それらがぼくに迫ってくるように感じられる。
なお、「個人主義」という言葉だけでは、ミスリーディングになりやすい。
だから、「私の個人主義」というように「私の」がつけられているように思う。
夏目漱石は、この講演で聴衆に向けて、次のような、熱を帯びた言葉を投げかけている。
…もし途中で霧か靄(もや)のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。…もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。ーもっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。
夏目漱石『私の個人主義』青空文庫
「掘当てるところまで行ったらよろしかろう」と、漱石は語る。
それにしても、留学生の漱石に会ってみたくなった。
作法としての「ユダヤ的知性」。- 内田樹がよみとく「ユダヤ的知性」。
NewsPicksのプレミアム(有料)で読むことのできるシリーズの中に(読みごたえのあるシリーズばかりで読みきれていない)、「ユダヤ最強説」という特集があり、全10回にわたって、ユダヤ人の強さを掘り下げている。...Read On.
NewsPicksのプレミアム(有料)で読むことのできるシリーズの中に(読みごたえのあるシリーズばかりで読みきれていない)、「ユダヤ最強説」という特集があり、全10回にわたって、ユダヤ人の強さを掘り下げている。
その最終回に、『私家版・ユダヤ文化論』の著者である内田樹が、「『ユダヤ的知性』は、いかに生み出されたのか。」について語っている。
上述の著書を読んだときには一気に読んでしまって、ぼくのフィルターにかからなかったのだけれど、この特集で、内田樹は「ユダヤ的知性」をわかりやすい言葉で、しかしその本質をさぐりあてている。
「ユダヤ的知性」を、内田樹は、ユダヤ人固有の「頭の使い方」として語っている。
「私家版・ユダヤ文化論」という本に書きましたけれど、ユダヤ的知性の特徴を一言で言うと、「最終的な解を求めない」ということです。
解答することが困難な問いに安易な解を与えずに、そのまま宙吊りにしておく。そんなことを続けていると、「答えのない問い」だけが無限に増殖してゆくことになりますけれど、その未決状態に耐える。それがユダヤ的知性の働きです。まことにストレスフルな生き方なのです。
内田樹「『ユダヤ的知性』は、いかに生み出されたのか。」『ユダヤ最強説』NewsPicks
この「ユダヤ的知性」がユダヤ教的なところにかかわることを解説しながらも、内田樹は次のように指摘している。
繰り返し言いますけれど、ユダヤ人たちのものの考え方は、教義というよりはむしろ「家風」です。子どもの頃から周りの大人たちから、立ち居ふるまい、箸の上げ下ろしについてうるさく言われてきて身体化したようなものです。
内田樹「『ユダヤ的知性』は、いかに生み出されたのか。」『ユダヤ最強説』NewsPicks
身体化された「頭の使い方」は、今の時代をきりひらく上で、とても魅力的に、ぼくにはうつる。
「最終的な解を求めない」というスタイルにかんれんして、内田樹はいくつかの例をあげている。
例えば、ユダヤ人に向かって「…ですか?」と聞くと、「どうして君はそれを訊ねるのか?」と聞き返すことで、問いの文脈を前景化しようとするという。
問いに対して問いで答えるということをやると、日本人同士であればケンカになってしまうだろうと指摘しながら、ユダヤ人はそこから対話を盛り上げ、論争の次数をあげていくことが、身についていることを、内田樹は説明している。
ユダヤ人は何をしても、「なぜ自分はこんなことをするのか」について考え始める。必ずメタレベルに上げてしまう。…
…つねに論争の次数を上げていって、違う視点から、より高い視点から、今の自分たちの思考や感情を説明しようとする。
内田樹「『ユダヤ的知性』は、いかに生み出されたのか。」『ユダヤ最強説』NewsPicks
ある意味、「好奇心」が、ユダヤ的知性の作法にくみこまれているようだ。
なお、内田樹は、くりかえし、これは宗教や教義ではなく、宗教が形骸化したあとでも残る作法であることをつけくわえている。
質問の背景を前景化したり、思考をメタレベルに上げていったり、議論の次数を上げていくことは、コンサルタントの作法とも通じる。
そのような作法が、社会のなかにうめこまれていることに、ぼくは感心してしまうと同時に、ユダヤ人の強さを垣間見たような気持ちがわきあがる。
ちなみに、コンサルタントや経営者が参照する有名なピーター・ドラッカーも、ユダヤ系である。
人工知能の行く末など未来はどうなるかはわからないけれど、少なくとも今においては、「考えること」はとても大切だ。
ぼくたちが「ユダヤ的知性」に学ぶところは多い。
久しぶりに、内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)をひらこうと、ぼくは思う。
「ユダヤ的知性」の視点でよみとき、学ぶために。
「標準語」と「共通語」の異なり。- グローバル化のなかで<近代・現代をこえる>方向性を確認しておくこと。
社会学者の見田宗介の論考を手がかりに、「差別」をのりこえる仕方を、<みんなが同じ>と<みんなが違う>という異なる方向性において見ることを、少し前のブログで書いた。...Read On.
社会学者の見田宗介の論考を手がかりに、「差別」をのりこえる仕方を、<みんなが同じ>と<みんなが違う>という異なる方向性において見ることを、少し前のブログで書いた。
<みんなが同じ>という均質化の力学が「差別」を生み出していくこと、<みんなが違う>という異質化は世界を豊饒化していくこと。
しかし、見田宗介の徹底した「論理」は、この平面に、もう一段論理を組み込むことで、現実の問題・課題とこれからののりこえの方向性をとらえている。
見田宗介が提示する、この論理・認識と感覚は、とても大切なことであるように、ぼくは世界のいろいろなところに住みながら思う。
見田宗介は、同じ論考のなかで、評論家の加藤典洋が書く「国際化」にかんする文章に触発されながら、ことばについて「標準語」と「共通語」とを丁寧に分けながら、ぼくたちが目指す方向性を明晰に示している。
「インディアンが部族言語だけを持ち、標準語をもつことがなかった」ことに加藤が学ぼうとしていることに、わたしは共感する。共感するが、加藤がここで「標準語」を「共通語」一般と同一視していることから、加藤は論理的な困難に自分を追い込んでしまったと思う。
アメリカ原住民がもし共通語を持とうとしなかったとすれば、それは彼らの美しさであると同時に、弱さでもあったのではないか?
わたしたちに必要なことは、共通語をもたいないことではなく、「標準語」に転化することのないような仕方で、つまり土着語を抑圧することのない仕方で、共通のことばをもつということではないか?
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫
見田宗介は、この<共通のもの>と<標準のもの>ということを、「近代」全般の見方へと敷衍して書いている。
「近代」とは、<共通のもの>を<標準のもの>に転化することで、土着を解体してきた。
これが、「近代」市民社会(ゲゼルシャフト)である。
だから<共通のもの>を批判して、共同体(ゲマインシャフト)に戻ればいいというものでもない。
見田宗介は、近代のもつ「両義性」をひきうけて、そこから「近代をこえる」方向性を示していく。
近代をこえるということは、文化と文化との間であれ、個人と個人との間であれ、人間と他の存在の形たちとの間であれ、各々に特異なものを決して還元し漂白することのない仕方で、きわだたせ交響するという仕方で、共通の<ことば>を見いだすことができるかという課題に絞られてゆくように思う。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫
このような見田宗介の指し示す「近代」をこえる方向性は、この文章が書かれた1986年から10年後に、著作『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)として結実する。
近代を否定するのでもなく、近代をただ肯定するのでもなく、近代の両義性をひきうけながら、未来の方向性を明晰に論じている。
このスタイルの重要性と理論の可能性を深いところで認識し、さらに展開をこころみたのが、上述の加藤典洋であったことは、ぼくの関心をひく。
加藤典洋は日本の311の経験ののちに、見田宗介の『現代社会の理論』の可能性を、出版から20年を経て改めて認識し、『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)を書く。
本質的な思想家たちが、お互いに触発されながら、未来の方向性をさがしあてている。
人はものごとの「両義性」に弱いように、ぼくには見受けられる。
どうしても、人は、どちらかの「極」(例えば、近代と反近代)にひっぱられていってしまう。
そのようななかにあって、「各々に特異なものを決して還元し漂白することのない仕方で、きわだたせ交響するという仕方で、共通の<ことば>を見いだすことができるか」という、見田宗介がさししめしてくれた課題は、ぼくたちの歩く方向性の見晴らしをつくってくれている。
その課題を、グローバル化の世界における日々の生のなかでどのように生きていくことができるのかが、ぼくたちに問われている。
「暖かい気候のクリスマス」のこと。- ぼくのなかに定着した「暖かい/寒いクリスマス」。
香港はいたるところで、クリスマスの飾りつけがほどこされ、クリスマスと新年の到来の足音がきこえるようになってきた。...Read On.
香港はいたるところで、クリスマスの飾りつけがほどこされ、クリスマスと新年の到来の足音がきこえるようになってきた。
ヴィクトリア湾を挟んで、ビルがイルミネーションに包まれ、「Season’s Greeting」のメッセージを届けている。
住まいであるマンションのロビーや敷地内も、クリスマスの飾りで、すっかり化粧をし直したところだ。
そんな香港は、今年は暖秋が続いている。
いっときは冬の到来が感じられるようになったと思ったら、すぐさま20度前後の気温にもどってしまった。
2017年の「9月~11月」にかけての平均気温は、25.8度で、これまでの歴史上の記録で3番目に暖かい秋となったという。
まだクリスマスの予報は出ていないけれど、「暖かい気候のクリスマス」になるかもしれない。
それにしても、「暖かい気候のクリスマス」をぼくが体験したのは、1996年にニュージーランドに住んでいたときのことであった。
ニュージーランドは南半球に位置しているから、クリスマスはちょうど夏の時期にあたる。
ぼくは、キャンプ場でテントを設営して、サンタクロスの姿を横目に、まったく「クリスマスらしくないクリスマス」を過ごしたことを思い出す。
「暖かい気候のクリスマス」があることなんて、南半球があり、また熱帯がありなどとちょっと考えてみれば、知識・情報としてはすぐわかることだ。
しかし、「暖かい気候のクリスマス」を過ごす感覚は、やはり体験してみないとわからない。
だから、体験として、ぼくの既成概念を壊すのに、よい機会となった。
その後は2002年に西アフリカのシエラレオネに住むことになり(その年のクリスマスは会議等で日本に戻っていたけれど)、それ以降も東ティモール、それから香港と移り住むなかで、「暖かい気候のクリスマス」はすっかりぼくのなかに定着した。
それでも、例えば、香港では、15度の気温だとして、その「気温」にはあらわれない<寒さ>のようなものを感じる。
実際、この暖秋においても、それなりの人たちが、コートやダウンジャケットを着はじめている。
気温にはあらわれない<寒さ>は、ある人は、湿気が高いことが理由だと言う。
ほんとうのところはよくわからないけれど、ぼく自身のことで言えば、人間の環境適応性のようなところがある。
2002年以降、ずっと、熱帯や亜熱帯に暮らしてきて、ぼくの身体はすっかりその気温・気候に慣れてしまった。
だから、ぼくのなかでの「寒さの基準」が変わってしまったのだと思う。
香港にいながら、ぼくはこの「寒さ」のなかでも、クリスマスの雰囲気を楽しめるようになった。
もしかしたら、人間のもつ「想像力・イメージ」の力、あるいは「記憶」の力が、力をかしてくれているのかもしれない。
そのようにして、ぼくのなかに、「暖かい/寒いクリスマス」が定着し、同居している。
それにしても、この「人間の環境適応性」はすごいものだと思いながら、逆にこわいものだとも思う。
現在の地球がくぐりぬけている環境汚染や気候変動に、ぼくたちがすっかり慣れてしまい、それが「当然のこと」となってしまうことの恐れである。
そうならない前に、ぼくたちの社会は、その軌道を変えていかなければならない。
「暖かい気候のクリスマス」は決して悪いものではないけれど、でも、世界全体が「暖かい気候のクリスマス」を迎えないように。
暦・時間にとりこまれず、味方につける。- 世界を移動しながら相対化されてゆく「暦・時間」の中で。
カレンダーが12月になり、2017年という年は1ヶ月という「時間」を有している。そんなあたりまえのことを思いながら、ぼくは、日本、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それからここ香港と、世界で住まいの拠点を変えていく過程で、「暦・時間」の感覚が一層、じぶんの中で相対化されてきたことを、思う。...Read On.
カレンダーが12月になり、2017年という年は1ヶ月という「時間」を有している。
そんなあたりまえのことを思いながら、ぼくは、日本、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それからここ香港と、世界で住まいの拠点を変えていく過程で、「暦・時間」の感覚が一層、じぶんの中で相対化されてきたことを、思う。
日本に暮らしていたときには、すっぽりと「日本的な暦・時間」の中にじぶんがおさまっていて、日本的な風習・行事を生活の区切りとしながら、そのような「暦・時間の構造」の中で生きていた。
お正月があり、4月の入学・入社・新しい会計年度のスタートがあり、お盆があり、年末がありという具合だ。
ひとたび海外に出てみて、その「時間の構造」が相対化されていく。
ここ香港では新年は「旧正月」を祝うことから、1月1日ではなく、旧暦にしたがい毎年日にちが変動する「旧正月」が生活や仕事の流れの中に、ぐいっと、はいりこんでくることになる。
シエラレオネや東ティモールなどでは、祝日の中には宗教的な日が選ばれたりすることから、生活の区切りも異なる。
シエラレオネや東ティモールにおいて国際NGOや国際機関で勤務している人たちは、それぞれ自身の「時間の構造」の中で動くから、日本にいたときのようにみんなが一斉に休むというより、それぞれの風習や文化に沿った暦・時間に沿って休暇をとったりする。
このような環境に長く身をおいていると、それまでの「日本的な暦・時間」の考えが相対化され、その感覚も解凍されていく。
そして、それでも「西暦」というものがひとまず、(お金という概念と同じように)世界の「協働連関」をつなげるものとして屹立していることに、驚きと感嘆をいだくことになる。
「相対化」されていくことで得たものと言えば、「暦・時間」はやはり人間がつくりだしたものだということの、実感である。
日本で暮らしていたときには、そのようなことは頭ではわかっていたのかもしれないけれど、「暦・時間」は絶対的なものとしてそこにあるように感覚されていたのだと、思う。
その実感を手にいれながら、ぼくは、「暦・時間」をあくまでもツールとして、ぼくの「味方」につけることへと方向転換をしてきた。
絶対的なものとしてじぶんに迫ってくる「暦・時間」ではなくて(もちろん「締め切りがせまってくる」ような状況はあるけれど)、ぼくの生活を豊饒化させていく手段として活用していくことである。
まったく自分勝手だけれど、いわゆる「新年」(1月1日)までにできなかったことは、「旧正月」をターゲットにして動く。
「Procrastination(先延ばし)」と言われればその通りなのだけれど、これは、あくまでもひとつの例として。
暦・時間に支配されることなく、逆に活用していくこと。
世界をつなげる協働連関のための「暦・時間」の「ありがたさ」をたしかめながら、しかし、じぶんの中や大切な他者たちとの間に流れる<時間>も取り戻し、生きてゆくこと。
外的な時間(「暦・時間」)と内的な時間(「じぶんの中や他者たちとの間に流れる<時間>」)を、それぞれに豊饒に生きてゆくこと。
世界を移動しながら相対化されてゆく「暦・時間」の中で、ぼくが実感として獲得してきたことである。
それでも、ますます加速していく世界の中で、外的な時間は気がつけば、圧倒的な力でもって、ぼくたちの内的な時間に侵食してしまう。
その侵食をのりこえていくところに、今のところ、ぼくたちの生き方のスタイルと工夫がかけられている。
「英語」は習ったままにせず、異なる世界への「鍵」として使う。- 「英語のインターネット空間」に入ること。
「英語」は習ったままにしないことである。「英語を使う」というあたりまえのことなのだけれど、現代は、その「垣根」が一気に低くなった。...Read On.
「英語」は習ったままにしないことである。
「英語を使う」というあたりまえのことなのだけれど、現代は、その「垣根」が一気に低くなった。
使わないことの言い訳ができないほどに、垣根が低い。
ぼくが英語を習い始めた30年程前は、英語を使う環境を自発的に見つけ作っていく必要があった。
「英語を使って話す」ことが必要だと言われたけれど、じぶんの周りを見回したところですぐには見つからない。
そのような環境を見つけていく必要があった。
ぼくは結局のところ、教科書や参考書と向き合い、ときおり洋楽の歌詞の世界に入りこんだ。
でも、今は事情はまったくと言ってよいほど異なる。
「現実の世界」においては、日本にいても、世界いろいろなところからくる人たちに出会うことができる。
そして何よりも、「インターネットの世界」が状況を圧倒的に変えてしまった。
そんなことは言われなくても誰もが思うところだが、ぼくは繰り返し、そのことを書いておきたい。
「インターネットの世界」に誰もがつながりながら、しかし、多くの人たちはそのヴァーチャルな世界の一部にしか訪れていない、ふれていない。
「日本語のインターネット世界」に閉じこもってしまうのだ。
英語検索によってインターネット世界をひらくだけでも、視界は一気にひらける。
東浩紀が、著書『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎)の中で、検索の言語を変えてみるだけで異なる世界がひろがることにふれている。
検索ワードを日本語だけに限定すると、検索エンジンは「日本語のインターネット世界」に人を案内する。
それを他の言語に変えると、そこにはまったくといってよいほどに異なるインターネット世界がひろがっている。
それも、どこか遠くにあるのではなく、すぐそこに、ひろがっている。
「検索ワード」はどのような検索ワードをタイプするかで検索のパフォーマンスに影響するという意味で、検索ワードの選び方はスキルのひとつだけれど、そこで「言語を変える」ということも身につけたいところだ。
英語によるインターネットの世界は圧倒的な「空間」であるけれど、検索などで訪れるだけでなく、もう一歩すすんでおきたいところだ。
楽しむだけでなく、インターネットがどのように使われているのかを見ておくことが、もう一歩である。
例えば、無料の「ニュースレター」でよいので、配信登録をしてみる。
配信登録で使われる英語は初歩的なものだ。
ニュースレターがどのような内容で、どのように送られてくるのか、どのくらいの頻度で、どのタイミングに配信されるかなど、学ぶべきところばかりだ。
マーケティングオートメーションなどの仕組みなども、興味深い。
いろいろな実践や試みが、圧倒的に早いスピードで展開されているのだ。
このような学びが、今では、手元の携帯電話だけでできてしまう。
「英語」は習ったままにしないこと。
それは、異なる世界、「英語のインターネット空間」という、果てしないひろい世界への「鍵」である。
いずれは、翻訳アプリや翻訳機能の進歩により、言語を習わなくてももっとシームレスに入っていける空間がひらけていくけれど、今ここに「鍵」があるのだから、使わない手はない。
ワーキングホリデーで、なんとか海外生活できたこと。- 50万円を手に、ニュージーランドに旅立つ。
海外で生活をしていく際に「お金」はやはり必要なのだけれど、ぼくが20年程前にニュージーランドに旅立ったときは、およそ50万円ほどの所持金であった。...Read On.
海外で生活をしていく際に「お金」はやはり必要なのだけれど、ぼくが20年程前にニュージーランドに旅立ったときは、およそ50万円ほどの所持金であった。
大学生の頃にはもちろん大きなお金ではあるけれど、一年を過ごす予定でニュージーランドに旅立つ際に、その金額で何とかなってしまったことは、ぼくのなかに、お金も含めて「なんとかなる」感覚を醸成したのだと、今になっては思う。
なぜ「50万円」であったかというと、当時、ニュージーランドのワーキングホリデー制度のビザ申請において「必要な資金」を持っていることの証明が必要であったことだ。
当時は、(確か)50万円であったと記憶しているけれど、じぶんの銀行口座にその金額以上あることを、通帳のコピーを提出することで証明する必要があった。
ぼくは日夜、東京でアルバイトをしながら資金を貯めることで、なんとかその金額にのせることができた。
(確か)ビザが取れてから航空チケットを購入したので、実際に行くときには、その金額を少し切るようなところであったと思う。
航空チケットは、1年オープンの往復チケットを購入しなければならず、しかし逆に、資金が尽きれば、復路のチケットで帰国するという「緊急策」はある。
それでも、初めて暮らすことになる海外で、50万円を切るくらいの金額で旅立ったのは、なにはともあれ、ひとつに恐れを知らない「若さ」とそれから情熱であったのだろう。
今であれば、たったの50万円で、まったく知らない異国で暮らすために、収入のあてもなく旅立つという無謀なことには、一歩も二歩も足がひけてしまう。
あのときは、「今行かなければ」という焦燥感のなかで、とにかくビザを取るための最低限の資金をもって、ぼくはニュージーランドに旅立った。
こうして、1996年4月にオークランドに降り立ち、ぼくはニュージーランドで暮らすことになった。
南半球のニュージーランドは、ちょうど秋で、これから冬に向かってゆくところである。
オークランドにあるANZ銀行(後に東ティモールでもお世話になる)で、ぼくは海外ではじめて、銀行口座をひらく。
当時お金に心配がなかったわけではない。
少し書いていた日記を読み返すと、お金がみるみる減っていくことに、ぼくは焦りを感じていた。
宿は、最初はバックパッカー向けの安宿で、ドミトリーに宿泊しながら、「空白の未来」に、どのように進んでいくのかを考えていた。
安宿とはいえ宿代もかかり、焦りがつのる。
「早く仕事を見つけなければ…」と。
オークランドを一度はなれ、ファーム(農場)での仕事などにも一時トライしたけれど、結局ぼくはオークランドに戻ることに決める。
オークランドに戻り、住むところを探し、仕事を探す。
今ふりかえると、それはひとつの物語のように、「道」がひらかれていったように、ぼくには見える。
新聞で見つけたシェアハウスの一室を借りることができ、オークランド大学の大学生たちなどと住むことになる。
オークランドで仕事を得ることは容易ではないと言われるなか、たまたま、日本食レストランのウェイターの仕事を得る。
また、日夜働きながらぼくは資金を貯め、「空白の未来」に、「ニュージーランド徒歩縦断の旅」という目標を書く。
そうして、冬があけてくる9月の終わりに、ぼくはオークランドを発ち、「前哨戦」として映画『ピアノレッスン』で有名な砂浜のあるところまでの40キロほどを、歩いていったのだ。
1年をすごす予定が、ぼくのなかで何かの区切りがつき、結局9ヶ月ほどして、ぼくは日本に帰国することになった。
現地ですごすためのお金は、なんとかなってしまった。
「なんとかなる」という感覚が、こうして、ぼくのなかに醸成されていったのだと、ぼくは思う。
それはお金だけでなく、海外で生活をしてゆくということもそうだし、何かをきりひらいていくこともそうだし、そして何よりも、人との出会いにおいてもである。
その後の人生で、「海外に行きたいけれど、迷っている人たち」の相談を受けたりする。
どこで迷っているかにもよるけれど、それがうまく行かないんではないかという「漠然とした怖れ」のようなものであれば、ぼくは迷わずに肩をおす。
人は、道をあゆんでいるときには懸命で気づかなかったりするけれど、後の人生の歩みのなかで、ふと振り返りながら思い起こす。
なんとかなるもんだな、と。
一歩をふみだして、やはりよかったのだ、と。
遠くはなれて、視点の<点>をふやしていく。- 「世界はこうだ」というプログラムを変えること。
大学時代の旅は、ぼくにとって、ぼくのなかの「世界地図」に、<異なる点>を打っていくようなものであったと、今ではより見晴らしのきく視野から見ていて思う。...Read On.
大学時代の旅は、ぼくにとって、ぼくのなかの「世界地図」に、<異なる点>を打っていくようなものであったと、今ではより見晴らしのきく視野から見ていて思う。
「世界地図」は、実際の「世界」ではなく、ぼくが生まれてから自分のなかに築きあげてきた「世界」だ。
世の中はこうであるとか、社会はこうであるとか、人はこうであるとか、である。
脳は日々シミュレーションをくりかえしながら、「世界」をつくりだしていく。
生きていくうえでは、築きあげていく「世界」は必要だ。
この世界で日々、「安全」に生きていくためのプログラムだから。
でも、ぼくはじぶんで築きあげた「世界」に、生き苦しさを感じてしまっていた。
ぼくは「海外への憧れ」という、ひとつの直感をたよりに、大学の1年目から「旅」をくりかえしていくことになる。
1994年の中国上海にはじまり、香港、ベトナム、タイ、ミャンマー、ラオスを旅していく。
1996年には、大学を休学して、ニュージーランドで暮らす。
旅や海外生活はそれ自体が楽しいもの(たいへんだけれど楽しいもの)でありながら、「方法としての旅」でもあった。
じぶんの脳がシミュレーションをくりかえして築きあげてきた「世界」に<裂け目>をいれていくための、「方法としての旅」。
それは、「視点」の「点」を、「じぶんの世界」にあらたにプロットしていくプログラミングだ。
例えば、ニュージーランドにいたときに、ぼくは初めて、海外で映画館にいく。
確か映画は『12 Monkeys』で、「映画館で日本語字幕なしの映画を観る」という<点>を打つ。
映画のチケットは、ぼくの記憶では当時ニュージーランドドルで6ドルくらいであったから、とても安かったことに、ぼくは驚いたものだ。
日本では「1800円」が「あたりまえ」だと思っていたから、そうではない<点>をぼくはプロットすることになる。
これまでただの<点>であったものが、もうひとつの<点>ができる。
そうして、点と点をつなぐ線分ができる。
そのようにして、視点の<点>をふやしながら、そしてそれは増殖していく。
このことは、別に日本でもできるし、本やテレビなどで見てもできるといえばできるのだけれど、「体験」によって打たれる<点>、とくに今いる環境や文化から遠く離れた「体験」によって打たれる<点>は鮮烈だ。
その<点>は、これまでに穿たれていた<点>よりもはるか遠くに、打たれる。
ベトナムを旅しながら、屋台で食事をとり、ビールを注文する。
缶のビールは冷えていなくて、でも氷の入ったグラスと共に出される。
氷は衛生上危ないこともあるので気をつけるべきものだけれど、当時は氷を安全性を身振り手振りで店員さんに確かめながら、ぼくは氷で冷たくなるビールを試した記憶がある。
ぼくの「世界」に、新たな<点>が打たれる。
そのようにして増殖していく<点>は、線分になり、さらに<面>になり、さらには<立体>になる。
視野がひろがり、パースペクティブが変わっていく。
そのようにして、ぼくのなかの「世界」はひろがり、ひろがるだけでなく、「ありうる世界」という柔軟性を獲得していく。
これまで「世界はこうだ」と思っていたところに、裂け目ができる。
ある面で凝固していたシミュレーションがふたたび作動していく。
「方法としての旅」ということを考えるときに、ぼくは、この<点>の大切さを、今では思う。
「世界」はぼくたちが思っているほど、狭くはない。
ひろがる<世界>を、ぼくたちの狭い「世界」に閉じ込めないこと。
今日も、だから、<点>をひとつひとつ打つ。