養老孟司の印象に強く残った丸山眞男の一節。- 零れ落ちていくものへの哀惜の念。
解剖学者である養老孟司は、都市や社会といったものが「頭」で構築されていく(養老孟司が言う「脳化=社会」が形成される)ときに「こぼれおちてしまうもの」について語るときに、政治学者であった丸山眞男の一説を引いている。...Read On.
解剖学者である養老孟司は、都市や社会といったものが「頭」で構築されていく(養老孟司が言う「脳化=社会」が形成される)過程で「こぼれおちてしまうもの」について語るとき、政治学者であった丸山眞男の一説を引いている。
…丸山眞男の非常に印象に残っている一節があります。「学者というのは現実から物事を掬い取って変えていくので、そのときに自分の指の間から零れた無限の事実について、哀惜の念を持たなければならない」と。…「感性」と言われる感覚もそうです。落としていったピュアなものを措いて、それ以外のものでつくり上げていくので、どうしたっておかしくなってしまう。それを全部拾っているわけにはいかないからそれはよいのですが、丸山眞男の言う通りで、「こぼしたんだよ」という意識だけは持っていてほしいのです。…
養老孟司インタビュー「煮詰まった時代をひらく」『現代思想』2018年1月号
この「丸山眞男の非常に印象に残っている一節」は、学者としての仕事から書くこと・語ることに至るまで、養老孟司にとって物事を視る眼の一部であり、指針のひとつであり、また思想そのものの一部であったように、ぼくには見える。
また、丸山眞男はじぶんの立ち位置から「学者というのは…」と述べているけれど、それは決して学者だけに限られたことではない。
それは「人」に置き換えていってもおかしくない。
丸山眞男のこの一節にぼくは共感すると共に、その視線はぼくの言動に鋭くささっていく。
ぼくがこうして「書く」とき、あるいは「語る」ときに、ぼくの指の間からは「無限の事実」が零れ落ちていってしまう。
何かを「書く」ときに、ぼくはとてもたくさんのことを零していってしまっているように感じる。
でも、そこには「書く」ことの本質があったりする。
あることに焦点をあてて書くことで、見えるものがある。
焦点をはずされた<余白>に「見えないもの」が浮かびあがるように書くこともあるけれど、それでも零れ落ちていくものがある。
だから、養老孟司が念をおして言うように、「こぼしたんだよ」という意識だけはもちつづけていきたいと、ぼくは思う。
海外をわたりながら、ぼくのなかで光をもっていた「視点」。- オクタヴィオ・パスの<暖かいまなざし>。
東京から、西アフリカのシエラレオネ。シエラレオネから東ティモール。東ティモールから香港。その道のりは、ふりかえると、東京を発ってから15年を超える。...Read On.
東京から、西アフリカのシエラレオネ。
シエラレオネから東ティモール。
東ティモールから香港。
その道のりは、ふりかえると、東京を発ってから15年を超える。
それぞれの場所で、それぞれの社会やコミュニティに身を置きながら、ぼくのなかで「ひとつの光」となって、社会やコミュニティをみる「視点」となっていたことがある。
その「視点」を、ぼくは、東京にいたときに読んだ、真木悠介の名著『気流の鳴る音』のなかで教えられた。
1970年代半ばにメキシコに約1年住んでいたときの体験をもとに、真木悠介は「メキシコ社会」について、書いている。
私が感動したのは、だれかを招くと、必ずその恋人や兄弟や友人などの、たのしい「招かれざる客」たちをつれてくることだ。二人を招くと五人で現れる。このようにして関係の波紋はひろがり、目もあやに重畳しながら、いつかそれなりの厚い真実の地平を形づくってしまい、そこからの別離が身を裂くかなしみとなっていることにあとになって気付く。
真木悠介『気流の鳴る音から』ちくま学芸文庫
このような「招かれざる客」からひろがっていく関係の波紋は、日本(の都会?)ではあまりないから、真木悠介の「感動」はぼくにも伝わってくる。
さらに、ぼくのなかに印象付けたのは、真木悠介が引く、オクタヴィオ・パスの「分析」であった。
この開放性と人恋しさの背後には、植民者や混血者たちの存在のふたしかさからくる孤独の深層があるという、オクタヴィオ・パスの分析を私は鋭いと思う。
真木悠介『気流の鳴る音から』ちくま学芸文庫
1970年代半ばのメキシコ社会は、16%が白人、55%がメスティーソ(混血)、29%のインディオから成っていて、インディオの社会には、上述の「開放性」は一般にないと、真木悠介は指摘している。
こうして、ぼくのなかで、オクタヴィオ・パスの<暖かいまなざし>と鋭い分析が、強烈にのこることになる。
開放性と孤独の深層という図式だけではなく、人や社会をみるときの「姿勢」のようなことをぼくは教えられた。
この暖かい視点は、東京から西アフリカのシエラレオネに向かっていくなかでも、ぼくのなかに確かにあった。
しかし、そこでぼくが出会ったのは、また異なる「深層」であったようにも、ぼくは思う。
紛争という世界を通り抜けてきた人たちの「深層」である。
それは歴史的な時間の長さに刻印された「層」ではないけれど、紛争という世界の、言葉にならず、また時間にも置き換えることができないような<長い時間>に刻印された「層」である。
まだぼくのなかでも渦巻いている「層」である。
「目が輝くこと」の輝き。- 指揮者Benjamin Zander、そして野口晴哉が語る「目の輝き」。
「目が輝く」という言葉は、それを語る人、語られる文脈、語られる場などによって、言葉の真実性が異なって現れる。...Read On.
「目が輝く」という言葉は、それを語る人、語られる文脈、語られる場などによって、言葉の真実性が異なって現れる。
例えば、「目の輝き」などと学校のパンフレットなどに記載されていたら、それは「シラケ」を誘ってしまうような言葉の響きを鳴らす。
それが、クラシック音楽の指揮者Benjamin Zanderが、熱をこめて語ると、全然異なった「色彩」を帯びて、ぼくたちの前に現れる。
TEDトークでBenjamin Zanderが語った「成功の定義」、「It’s about how many shining eyes I have around me.」。
ほんとうに「目の輝き」を追い求め、ひろげてきたBenjamin Zanderだからこそ、この言葉は真実さをもつ。
整体の創始者と言われる野口晴哉の著作の中で、「目の輝き」を野口晴哉が語るところがある。
野口晴哉は、七夕に際して、「願いごと」を叶えることの秘訣(=論理)を、「心」の機能・役割の側面から強調していく中で、「目の輝き」について語る。
野口晴哉が扱うのは「身体」でありながら、だからこそ、野口晴哉は「心」の作用をつぶさに観察してきたのである。
まあともかく、人間が心によって生きる道を自分で開拓しているのだということに気付いて、そういう人が多くなれば、私としては、大変幸せです。…新しい欲求がみんなになくなって目が輝かなかったら、そういう人達に囲まれて生きているのは厭です。目が輝いている人が多ければ、私も一生懸命生きます。
近頃、幼稚園に行っている子供まで、目の輝きを失っているのが多い。小学校へ行くともっと多い。教え込まれて、自分の欲求を見失ったからだと思うのですが、子供がそういうようではいけない。もっと、皆さんで力を合わせて、子供の目が輝くような、ついでに自分の目も輝くような、自分の周囲に目の輝いた人ばかりになるような世界を造ろうではありませんか。…
野口晴哉「人間の願いー七夕祭にてー」『大絃小絃』全生社
ここで「近頃」というのは、最近のことではない。
おそらく、1970年前半頃のことと思われる。
野口晴哉は、人の「欲求」と「目の輝き」をつなげている。
人の欲求というと、現代の文脈では自己中心的なイメージがまとわりつくようにも感じられるけれど、ここでは心から描かれた欲求である。
頭でつくられていくような欲求ではなく、空想として描かれ、言葉化されていくような欲求である。
現代の文脈では「好きなこと」という表現のもとに、「(狭い意味での)好きなこと」に物事が閉じ込められてしまうように語られることもあるけれど、そうではなく、もっと広々とした欲求である。
それは、身体の底からわきあがる欲求である。
だから、「教え込まれたこと」を一旦は横に置いて、野口晴哉が言う「体の知恵」を作動させることである。
日本型資本主義を駆動してきた「内面的な動力」(見田宗介)。- 現代のぼくの内面に聞こえる残響。
西欧近代の原動力となった「プロテスタンティズムの倫理」(マックス・ウェーバー)との対比の中で、日本近代の原動力となった精神を「立身出世主義」に見る、社会学者の見田宗介。...Read On.
西欧近代の原動力となった「プロテスタンティズムの倫理」(マックス・ウェーバー)との対比の中で、日本近代の原動力となった精神を「立身出世主義」に見る、社会学者の見田宗介。
その論考「「立身出世主義」の構造ー日本近代化の<精神>」(『定本 見田宗介著作集Ⅲ』岩波書店に所収)は、発表から50年を経過した今でも、ぼくたちの思考や議論に光を与えてくれる。
日本の外で、日本・日本人なるものを考えながら、そしてだからこそじぶん自身の底流をまなざす中で、この論考は一層、ぼくの内面にひびいてくる。
明治という時代は、人を家柄等ではなく「能力と業績」によって位置づけるという、斬新な考え方を素地にスタートした。
それは「噴出する上昇欲求」となって秩序をおどろかす恐れがある中で、支配層は「秩序とエネルギーを両立させる方途」を探ったと、見田宗介は論を展開していく。
そして、噴出する上昇欲求の体制秩序への「誘導水路の根幹」となったものとして、「学校制度」とそれを基盤とする「官員登用のルート」であったという。
しかし、「官員登用のルート」は、上層にいる人たちをすくうのみであり、小学校だけしかいけない層をすくいとることはできない。
このような民衆のエネルギーを開発しつつ、同時に、秩序の中におさめておく企てにおいて、準拠とされたのが、「二宮金次郎」であったと、見田は指摘している。
このように、上層と下層にいたって形成されてきた「立身出世主義の性質」として、見田宗介は3つのことを挙げているが、その最初におかれたのが、「プロセスにおける倫理化」である。
それは、プロセスにおける「心構え」の重視による倫理化という性質を帯びる。
当時の雑誌などの丹念な読み込みの内に、見田宗介は、この性質を丁寧に論じている。
「成功」のオピニオンリーダーたちは、少年たちの志がいたずらに高くなることを戒め、「ステップ・バイ・ステップ」を伝える。
「心構え」が強調されていく。
底辺から頂点にいたる現実の上昇ルートが限定されればされるほど、能動的な民衆の意欲の開発による社会的エネルギーの調達は、現実認識ときりはなされた抽象的な精神主義にますます依存せざるをえない。
見田宗介「「立身出世主義」の構造ー日本近代化の<精神>」『定本 見田宗介著作集Ⅲ』岩波書店
上層においては、現実に「上昇ルート」を登っていくことの原動力となる「心構え」としての精神。
他方で、それは、下層においては、異なる機能を発揮していく。
…無限の上昇への幻影の供与によって、底辺の上昇欲求を体制秩序の内部において燃焼せしめ、障害の意識と不満はこれを内攻して自罰化せしめ、支配層によって好ましい方向にのみエネルギーを流しこむメカニズムとして、いっそう虚偽性のつよいイデオロギーとしてあった。
そしてこのように、体制の上下において相呼応しつつ、それぞれの地位に応じて機能する「精神」(心構え!)をバネとする、立身出世主義の全構造こそ、日本型資本主義の急速な発展をその方向に推進してきた内面的な動力であった。
見田宗介「「立身出世主義」の構造ー日本近代化の<精神>」『定本 見田宗介著作集Ⅲ』岩波書店
明治時代という特定の時代のことであり、それがそのままの形で現代を特色づけるものではないけれど、日本型資本主義を駆動してきた「内面的な動力」はそれでも、現代の日本の社会と人に、今でも、その性質をいくぶんか残しつつ、残響をひびかせているように、ぼくには感じられる。
また、明治という時代は、実は、それほど遠くない過去であったとも、ぼくは最近よく思う。
日本の外で、来たる時代との接続・トランジションにある中で、ぼくはそんなことを考えている。
日本近代化の<精神>を今考えること。- 近代化を駆動した「立身出世主義」(見田宗介)。
海外(日本の外)にいながら、「日本人・日本」ということをよく考える。「海外で仕事をする」ということにおいては、日本人の仕事の仕方のことをよく考える。...Read On.
海外(日本の外)にいながら、「日本人・日本」ということをよく考える。
「海外で仕事をする」ということにおいては、日本人の仕事の仕方のことをよく考える。
今現在という日々の現象の中でいろいろと考えるのだけれど、他方で「歴史」をひもとくことで見えてくることもある。
社会学者・見田宗介の初期論考(1960年代から1970年前半に書かれた論考)に、「日本の近代化」をテーマとしながら、「明治時代」にまでさかのぼる論考がある。
「見田宗介著作集」の刊行により、これらの論考を手にしやすくなった。
見田宗介の著作は、見田宗介がメキシコにある大学にいく1970年代半ば以降、内容と文体に大きな変化をみせる。
初期論考は、この変化よりも前に書かれた論考だけれど、今でも、多くの示唆に富む内容である。
日本人・日本を見つめ直していく上で、「「立身出世主義」の構造ー日本近代化の<精神>」という見田の論考に、ぼくはひきつけられる。
この論考で、見田宗介は「日本近代の主導精神」として、「立身出世主義」を挙げている。
マックス・ウェーバーが、西欧近代の主導精神として「プロテスタンティズム」にあったことを論じたが、それでは、日本ではどうだろうかと問い、「立身出世主義」であると、見田宗介は考える。
そして、「立身出世主義」の特質と、それによって形成された日本の「近代」社会がはらんだ矛盾を、明晰に論じている。
導入部分で、見田宗介は、日本の小学校・中学校・高等学校の卒業式でうたわれる「あおげば尊し」の歌詞に注目している。
歌の一節に、「身を立て名を挙げやよはげめよ」という句がある。
この「身を立て名を挙げ」という思想は、江戸時代の農民や町民には教えられることはなく、江戸における封建の世においては農民は農民というように分をわきまえるものであったという。
「天性同体ノ人民賢愚其処ヲ得」ベシとする明治元年の伊藤博文の理想が、当時どんなに革新的でありえたことか、すなわち人をその門地家柄によってではなく、能力と業績によって位置づけるという考え方が、当時どんなに斬新でありえたことか。…
見田宗介「「立身出世主義」の構造ー日本近代化の<精神>」『定本 見田宗介著作集Ⅲ』岩波書店
「身を立て名を挙げ」は、それまでの身分的な固定感をうちやぶっていく思想であったと、見田宗介はみている。
「あおげば尊し」の歌は、明治憲法や教育勅語が発布される前の明治17年に、文部省の歌集に現れており、当時急速に発展していく「小学校」という制度(だれもが参加できる!)において、「身を立て名を挙げ」は子供たちのなかに焼きつけられていくことになる。
ちなみに、当時出版された、サミュエル・スマイルズの著作『Self Help』の日本語訳は、「西国立志論」というように「立志」と訳されていることにも、見田は「身を立て名を挙げ」の思想を見ている。
論考の、この導入部分だけでも、さまざまに考えさせられる。
ぼくたちが歌ってきた「あおげば尊し」、「能力と業績」の萌芽、「小学校」という制度、「Self Help」の捉えられ方など、今の日本や日本人を考えていく上でもさまざまな示唆に充ちている。
この導入部につづき、明治の体制への取り込み、日本の「根性」論、「ステップ・バイ・ステップ」の考え方などが、論じられていく。
それらは決して明治の時代のことに限ることではなく、今も、日本や日本文化や日本人の(したがって、ぼくの)底流に流れるものたちだ。
これらを知ったからといってすぐに何かが変わるものではないけれど、なんらかの「道」に光をあててくれるはずだ。
『君たちはどう生きるか』をめぐる回想(丸山真男)。- 丸山真男の「震え」と「明晰さ」。
『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)が多くの読者を獲得している。...Read On.
『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)が多くの読者を獲得している。
1900年代前半(原作の出版は1937年)の日本の東京を舞台に、主人公である本田潤一(コペル君)と叔父さん(おじさん)が、人生のテーマ(世界、人間、いじめ、貧困など)に真摯に向き合いながら、物語が展開していく作品だ。
この『漫画 君たちはどう生きるか』によって、はじめてこの作品を知ったぼくは、原作を読みたくなり、原作を手にした。
原作『君たちはどう生きるか』の岩波文庫版には、丸山真男(丸山眞男)が1981年に書いた「追悼文」が付載されている。
丸山真男は今ではあまり知られていないかもしれないけれど、さまざまな人たちに大きな影響を与えてきた、政治学者・思想史家である。
その丸山真男が、吉野源三郎の追悼文として、雑誌「世界」の依頼で「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」を書いた。
丸山が20代でこの本を読んだときの「震え」と、晩年に読み返して筆をとったときの「明晰さ」が、この文章に詰められていて、とても興味深い。
丸山真男がこの本と出会ったのは、研究者として一歩を踏み出したときであった。
…自分ではいっぱしのオトナになったつもりでいた私の魂をゆるがしたのは、自分とほぼ同年輩らしい「おじさん」と自分を同格化したからではなくて、むしろ、「おじさん」によって、人間と社会への眼をはじめて開かれるコペル君の立場に自分を置くことを通じてでした。
丸山真男『君たちはどう生きるか』をめぐる回想、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫
この「点」を起点として、そこに立ち入って述べていくことで、丸山真男は、吉野への追悼と名著の紹介を果たそうとする。
ぼくの問題関心から、ここではひとつだけ取り上げるとすれば、「主体・客体関係の視座の転換」である。
原作の第一章「へんな経験」で展開される、銀座のデパートメントストアの屋上での出来事。
漫画版においても、原著においても、とても印象的なシーンである。
丸山真男はそのシーンをつぶさに読み解いている。
潤一が屋上から銀座の通りに目をやりながら「見る自分」と「見られる自分」とを感じる場面、またおじさんが手紙でふれる「コペルニクスの地動説」にふれながら、丸山真男は「主体・客体関係の視座の転換」ということを明晰に述べている。
…世界の「客観的」認識というのは、どこまで行っても私達の「主体」の側のあり方の問題であり、主体の利害、主体の責任とわかちがたく結びあわされている、ということーその意味でまさしく私達が「どう生きるか」が問われているのだ、ということを、著者はコペルニクスの「学説」に託して説こうとしたわけです。認識の「客観性」の意味づけが、さらに文学や芸術と「科学的認識」とのちがいは自我がかかわっているか否かにあるのではなくて、自我のかかわり方のちがいなのだという、今日にあっても新鮮な指摘が、これほど平易に、これほど説得的に行われている例を私はほかに知りません。
丸山真男『君たちはどう生きるか』をめぐる回想、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫
この回想には、前に述べたように、丸山真男の「震え」と「明晰さ」が共につめこまれている。
丸山真男が書いているとおり、『君たちはどう生きるか』は、いつの時代にも変わることのない問いかけとなっている。
実際に、原著が出てから80年を経ても、その問いの色合いは決してあせることのない新鮮さで、ぼくたちの前に提示されている。
回想の最後に、丸山真男はこんなことを書いている。
…すくなくとも私は、たかだかここ十何年の、それも世界のほんの一角の風潮よりは、世界の人間の、何百年、何千年の経験に引照基準を求める方が、ヨリ確実な認識と行動への途だということを、「おじさん」とともに固く信じております。…
丸山真男『君たちはどう生きるか』をめぐる回想、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫
1981年に書かれたこの文章は、そのまま、この現在においても、力強く光を放っている。
アマゾンが描く未来を考えはじめる。- ジェフ・ベゾスの語る声に耳を傾けながら。
米国のシアトルで、「Amazon Go」が開店し、社員向けの試験段階から、いよいよ一般向けに開放された。...Read On.
米国のシアトルで、「Amazon Go」が開店し、社員向けの試験段階から、いよいよ一般向けに開放された。
スマートフォンの専用アプリをゲートにかざして入店し、自由に商品を選び、レジを通らずに店舗を出て、自動的に清算される。
これまで描かれてきた「未来」が現実化していくのを見るのは、頭の中でわかっていたことだけれども、実際に映像で見ていると、わくわくすると共に、とても不思議な気持ちがする。
これからも、このような「現実」が、至るところでさまざまな仕方で現れていく。
田中道昭は、著書『アマゾンが描く2022年の世界:すべての業界を震撼させる「ベゾスの大戦略」』(PHP新書、2017年)の序章「2022年11月の近未来」で、「佐藤一郎さん(仮名)」の生活を通して近未来のイメージを描いている。
近未来の設定は、「アマゾン365」という無人コンビニエンスストア店舗のオープンカフェ。
「アマゾン365」は、アマゾンが2017年に買収した米国の高級スーパーマーケットであるホールフーズの一業態に、上述の無人店舗「Amazon Go」を融合させたものとして、描いている。
そこはシェアオフィスの機能も有し、フリーランスの佐藤一郎さんがそこで仕事をしているというイメージだ。
今回の「Amazon Go」は、「はじまり」にすぎない。
ビジネススクール教授である田中道昭は、前掲書で、アマゾンが描く「世界」を、さまざまなフレームワークを駆使しながら、わかりやすく解説してくれる。
田中が本の執筆で「こだわった点」に、ぼくはひかれる。
本書を執筆するにあたって、私が最もこだわった点のひとつは、アマゾンの経営者であるジェフ・ベゾスの生の声を聞くことでした。その会社を理解するためには、その会社の経営者のセルフリーダーシップとセルフマネジメントのあり方を理解することが極めて重要だからです。
田中道昭『アマゾンが描く2022年の世界:すべての業界を震撼させる「ベゾスの大戦略」』PHP新書、2017年
田中道昭は、ベゾスの人物像を理解するために、公開されている動画はすべて視聴し、引用されている発言、関連する学術論文や資料など、可能な限りに目を通す。
その節の見出しにあるように、「ジェフ・ベゾスの生の声」から未来を見ることである。
思えば、ぼくもジェフ・ベゾスの話す内容を、動画を通してじっくり視聴したことがなかったから、YouTubeでいくつかをひろって視聴する。
ジェフ・ベゾスの話す内容と話し方が、思った以上に、ぼくの思考の中にすんなりと入って来る。
特に、アマゾンが掲げる「顧客第一主義」「超長期思考」「イノベーションへの情熱」に関するベゾスの説明は、これらのつながりなどを含めて、ぼくの思考と理解を賦活してくれる。
そこに、ぼくが「顧客」として経験する「Customer Experience(カスタマー・エクスペリエンス)」をあわせながら、ぼくはアマゾンが描く「未来」を見ようとする。
今は毎日、アマゾンをいろいろな仕方で利用しているぼくは、どこに向かっているのだろうか。
田中道昭の分析する「アマゾンの大戦略」の図を見ながら、じっくりと考えてみようと、ぼくは思う。
生きることの「物語性」が浮かびあがった日々を思い起こして。- ぼくたちは「物語」を生きている。
ぼくたちが生きるということは、だれしもが「物語」を生きている。...Read On.
ぼくたちが生きるということは、だれしもが「物語」を生きている。
そのことは、「夢」を生きているような人にとっては、夢という物語があるから見えやすいし、実感がある。
でも、普通に生きているなかでは、なかなか見えなかったりする。
映画やドラマや小説が「物語」であって、ぼくたちの生それ自体が「物語」であるとは感じにくかったりする。
生きていく上での「ライフステージ」が変わるような場面においては、それまでの人生を振り返り、これからの人生を見据えていくなかで、人生のストーリーが見えたりする。
あるいは、他者に、じぶんのことを語る際に、ストーリーが構成されていく。
あるいは、じぶんの目標を立てたときに、未来から現在をみるなかで、ストーリーが構築される。
小さい物語も大きい物語も含めて、ぼくもいろいろな仕方で、ぼくの「ストーリー(物語)」を確かめてきた。
その中で、「物語」ということが、まるで目の前に形あるものとして存在しているかのように見た経験は、2006年、東ティモールの首都ディリでの騒乱を契機とした出来事であった。
街の治安がくずれ、銃撃戦が近くで繰り広げられる。
これまでの「風景」が、あっという間に、「違った風景」に変わってしまう。
これまでの「風景」をつくっていたような、価値や概念や考えのようなものが、くずれていくような感覚におそわれる。
国外退避し、日本に一時帰国してからも、この感覚はぼくにつきまとうことになる。
東京の風景さえもが、違った風景のように見える。
東京の安全な風景の中で、ぼくは遠隔で、治安が不安定な東ティモールで活動を続ける組織をマネジメントしながら、風景はいっそうゆがみをましていく。
そのような日々に、「物語」がいとおしい感覚、「物語」がなくてはならないような感覚が、ぼくの中で強く立ち上がってきたのだ。
日本に帰国してから、毎日のように、ぼくは渋谷の本屋さんに立ち寄っては、そこでさまざまな本に目をやる。
本屋さんは、本の数だけ「物語」に充ちた空間なのだ。
小説だけではなく、それが新書であったり、料理や雑学の本であっても、ぼくは、そこに「物語」を感じる。
ぼくは、じぶんの中の空虚を埋めるかのように、本のタイトルに目をやった。
本のタイトルから、そこに語られる物語を想像した。
いろいろな著者が、それぞれに、物語を語っている。
とてもつまらないタイトルであっても、それらがとてもいとおしく感じるのであった。
大きな本屋さんに立ち寄ることもあれば、列車が発車するまでのわずかな時間に、駅に隣接する小さな本屋さんにも立ち寄った。
本に向かいながら、ぼくはぼく自身と会話をし、そこに、生きることの物語性を感じていた。
生きることの「物語性」が、実感をともなって、ぼくの中に浮かびあがった日々である。
生きることの「物語性」を考えながら、ふと思い出された出来事である。
「英語で語るということは…」(内田樹)。- 言語を一歩引いて見てみること。
中学生にあがる少し前から英語を勉強しはじめて、その後もぼくにとって「英語」はとても特別なものであったし、あり続けている。...Read On.
中学生にあがる少し前から英語を勉強しはじめて、その後もぼくにとって「英語」はとても特別なものであったし、あり続けている。
そして、「英語」という世界から、英語を鏡のようにして「日本語」を眺め、日本語の奥行きの深さを感じたりもする。
この、英語と日本語の「間」の空間が大切である。
日本語だけで考え、聞き、話すというのとは異なるところに、英語はぼくをつれていってくれる。
「論理・ロジック」を正面から意識して論文におとしはじめたのが、ぼくが初めて本格的に「英語の論文」を書いたときであったことは、偶然ではない。
思想家の内田樹が、「英語で語るということは…」について、とても整然に、イメージの豊かな仕方でまとめている。
英語で語るということは、英語話者たちの思考のマナーや生き方を承認し、それを受け容れるということなのです。
逆から言うと、日本語で思考したり表現したりするということは、日本語話者に固有の思考パターン、日本人の「種族の思想」を受け容れるということです。
そういうふうにして、自分が「個性」だと思っていたものの多くが、ある共同体の中で体質的に形成されてしまった一つの「フレームワーク」にすぎない、と気がつくわけです。
じゃあ、自分はいったいどんなフレームワークの中に閉じ込められいるのか、そこからどうやって脱出できるのか、というふうに問いを立てるところから、はじめて反省的な思考の運動は始まります。
「私はどんなふうに感じ、判断することを制度的に強いられているのか」、これを問うのが要するに「思考する」ということです。
内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川書店
言語は、コミュニケーションの手段であり、異文化という環境においては、その手段性はさまざまな場面で喫緊性をもって立ち現れる。
旅行におけるシンプルな会話であったり、日常会話などの次元では、手段としてのコミュニケーションはその役割をいかんなく発揮する。
しかし、人と人とのかかわりにおける深い次元に入っていこうとすると、いろいろとすれ違いや勘違いなどが起こってくる。
そんなところから、ぼくたちは閉じ込められた「フレームワーク」を思考しはじめるのである。
ぼくにとって「英語」が特別なものとしてあり続けてきた理由のひとつは、この「フレームワーク」を客観視しやすくしてくれる、つまり思考することの視点をあらゆるところにつくってくれるからであると、ぼくは思う。
子供として成長していくなかで、日本語という「言葉」は、ぼくを「守るフレームワーク」として、ぼくを形成していく。
しかし、いつしか、ぼくはその「(ぼくを守る)フレームワーク」の閉じ込められている息苦しさを感じる。
そんなときに現れた「英語」という異なる言葉は、異なる「フレームワーク」を提示してくれる。
「ここではないどこかへ」という焦燥で、身体は海外に飛び立つ。
ぼくの「身体」はさまざまなことを感じ、考える。
しかし、頭の中は「日本語のフレームワーク」が作動し、日本的なマナーと生き方の視点から、物事を解釈していく。
そのような異文化という環境で、「自分はいったいどんなフレームワークの中に閉じ込められいるのか、そこからどうやって脱出できるのか」(内田樹)と問いを立てはじめる。
ぼくの「思考」の旅がはじまり、その旅は今も続いている。
言葉の<交換>にみる、仕事と人間性の本質。- それ自体歓びであるコミュニケーション。
仕事をしていくうえで、コミュニケーションが上手くいく/上手くいかない、という次元の問題や悩みについて、よく取り上げられる。...Read On.
仕事をしていくうえで、コミュニケーションが上手くいく/上手くいかない、という次元の問題や悩みについて、よく取り上げられる。
何かを一緒に成し遂げていくうえで、コミュニケーションはとても大切である。
しかも、成し遂げなければいけない時間の幅が、どんどん短縮されてきている中で、効率的なコミュニケーションも求められる。
効果的かつ効率的なコミュニケーションの技を磨いていくことに、ますます焦点はあてられていく。
そのことを理解しつつ、「上手くいく/上手くいかない」という次元から下へ降りていきながら、手段としてのコミュニケーションではなく、それ自体が歓びであるようなコミュニケーションのことを実感しておくことが、ぼくたちが他者と共に仕事をしていくうえでは肝心なことである。
思想家の内田樹は、著書『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川文庫)のなかで、ドストエフスキーの『死の家の記憶』に出てくる究極の拷問という話を取り上げて、歓びとしてのコミュニケーションに光をあてている。
ドストエフスキーの『死の家の記憶』に究極の拷問という話があります。それは「無意味な労働」のことです。半日かけて穴を掘って、半日かけてまた埋めていく。その繰り返しのような仕事に人間は耐えられません。
しかし、同じような労働であっても、そこに他者との「やりとり」さえあれば人間は生きてゆけます。たとえ、穴を掘って埋めるだけというような作業でも、人がいて、一緒にチーム組んで、プロセスの合理化とか、省力化とかについて、あれこれ議論したり、工夫したりしながらやれば、そのような工夫そのもののうちに人間はやり甲斐を見出すことができます。…
仕事の話で人々が忘れがちなのは、このことです。
内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫
このことに触れたうえで、内田樹は、人間が仕事に求めていることは、究極的には「コミュニケーション」であるとしている。
仕事としてやったことに他者からの応答、ポジティブな反応がある。
このような「やりとり」が人間性の本質であり、それが満たされることで、人間は満足を得ていく。
この「やりとり」を、内田樹は<交換>として取り出し、物々交換、お金の交換、言葉の交換(ただ相手が言ったことを繰り返すだけの言葉の交換含め)と展開している。
人間は交換が好きであるということへの視点である。
内田樹が触れている三浦雅士の「三浦説」は面白い。
三浦説によると、むかし、山の民と海の民は収穫物が余ったから物を交換したのではなく、交換したかったから、交換するのが愉しかったから、たくさんの収穫物を収穫したという。
そうして、分業、階級、国家が生まれたという、「ふつうの考え方」の逆さの考え方だ。
ますます加速し、ますますのダイバーシティの環境のなかで、コミュニケーションの困難さにぶつかっていると、つい忘れがちになってしまう、<歓びとしてのコミュニケーション(言葉のやりとり・交換)>を、ときには思い出し、実感したい。
そこへの暖かな視点があるだけでも、コミュニケーションが上手くいかないときの「捉え方」も、いくぶんか変わってくるように、ぼくは思う。
コミュニケーションが上手くいったときは、ひとつの祝福である。
多くのことが「手段」におしこめられていく世界にあって、「それ自体として歓び」である世界へ、いろいろなことをひらいていくこと。
時代は、確実にその方向性に向かっている、とぼくは思う。
<まるいもの>を素材に世界を考える。-「りんご」と「地球」と見田宗介。
社会学者の見田宗介の書くもののなかには、ときおり、<まるいもの>を素材に、この世界を考える論考がある。<まるいもの>とは、りんごと地球である。...Read On.
社会学者の見田宗介の書くもののなかには、ときおり、<まるいもの>を素材に、この世界を考える論考がある。
<まるいもの>とは、りんごと地球である。
見田宗介は名著『宮沢賢治』のなかで、宮沢賢治の書くものに繰り返し立ち現れてくる「汽車の中でりんごを食べる人」に触れながら、「りんご」の形態から、宮沢賢治の作品と生とを照らしだす照明を手に入れている。
「りんご」の形態としては、だれもが見て取るように、それは<まるいもの>である。
しかし、見田宗介は、<まるいもの>に加え、「孔のある球体」であることに目をつける。
りんご自体の「深奥の内部に向って一気に誘いこむような、本質的な孔をもつ球体」(見田宗介)である。
宮沢賢治の作品の中で、汽車にのる人たちは、そのような形態をもつ「りんご」を、食べていたり、手にもっていったりする。
…人間の禁断の知恵の源泉についてのよく知られている神話の中で、<鍵>の象徴としてえらばれているように、存在の芯の秘密のありかに向って直進してゆく罪深い想像力を誘発しながら、そのことによって、とじられた球体の「裏」と「表」の、つまり内部と外部との反転することの可能な、四次元世界の模型のようなものとして手の中にある。
見田宗介『宮沢賢治』岩波書店
見田宗介は、この「内部と外部との反転」ということを思考の方法として、宮沢賢治をあざやかな仕方で、よみといていくことになる。
「社会」に焦点を合わせ、現代社会とそのグローバル社会をみすえながら、見田宗介は「地球」という形態にふれる。
球はふしぎな幾何学である。無限であり、有限である。球面はどこまでいっても障壁はないが、それでもひとつの「閉域」である。
グローバル・システムとは球のシステムということである。どこまで行っても障壁はないが、それでもひとつの閉域である。これもまた比喩でなく現実の論理である。二十一世紀の今現実に起きていることの構造である。グローバル・システムとは、無限を追求することをとおして立証してしまった有限性である。それが最終的であるのは、共同体にも国家にも域外はあるが、地球に域外はないからである。
見田宗介「現代社会はどこに向かうか(二〇一五版)」『現代思想』2015, Vol.43-19
グローバル経済主義によってグローバル化が進展してきた地球は、地球という球の「有限」に出会う。
その「有限」の空間の中に、宮沢賢治がもっていたような想像力(つまり人だれしもがもつ想像力)によって、どのように「無限」をつくりだしていくかが、ぼくたちに投げかけられた課題である。
見田宗介は、真木悠介名で書いた『自我の起原』(岩波書店)で、動物行動学のローレンツの「幼児図式」にふれて、他者との「相乗性」の契機としての<誘惑>を論じている。
幼児は「かわいさ」の感情を人によびおこす。
ローレンツは幼児図式で、「かわいさ」をよびおこすことの特徴のひとつとして、「まるみ」を帯びた形態を挙げている。
このような「かわいさ」を含め、人は(広義の)他者からいつも作用されている/はたらきかけられている。
他者にはたらきかける方法の究極は「誘惑」であり、他者に歓びを与えることである。
幼児の「まるみ」を帯びた形態は、人にはたらきかけている(ともいえる)。
ぼくたちは、ほほえみを投げかけてくる幼児を、歓んで「世話」する。
<まるいもの>は、見田宗介(真木悠介)の書くものの中で、とても大切な形態として現れる。
それは、どのようにしたら歓びをもって生きていくことができるのか、という見田宗介の問いに、まっすぐにつながっていく形態であり、深く触発する形態である。
それにしても、りんごと地球。
とても素敵な響きだ。
「子供は親の注意の集まる方向に伸びる」(野口晴哉)。- 「大人の注意」にあけわたされた存在の「生活の手段」。
レストランで食事をしているとき、隣のテーブルの男の子(おそらく7歳前後)がぼくのいるテーブルの方向に向けて、水の入っているコップを倒した。
隣のテーブルの机にコップの水と氷がこぼれ、隣のテーブルとこちらのテーブルの間にも少し水がとびちった。
その男の子のお母さんが、たしなめるように、隣の席で子供に声をかけ、テーブルをふく。
しばらくして、その男の子は二つのテーブルの間を行き来し、向かいに座っている兄弟と思われる男の子のところに幾度も足を運ぶ。
ときおりこちらのテーブルと椅子にぶつかりそうになるから、ぼくはそのたびに注意を向けることになる。
ふと横を見ると、お母さんはスマートフォンの画面に目をおとしていた。
このような場面に遭遇し、ぼくは整体の創始者と言われる野口晴哉の「教え」を思い出していた。
…「お客様の前で何です」と言ってたしなめ、子供の行為を抑える。これが、子供にもっと騒ぎたくなるように仕向けることになる。それはお客様がきている間は、子供の行動にお母さんの全身の注意が向いているからです。
野口晴哉『潜在意識教育』全生社
勝手な解釈だけれど、レストランのテーブルで、男の子がぼくのいるテーブルの方向にコップをたおしたのは、お母さんの注意を集めるためである。
その行為により叱られようが、目的は注意を集めること。
その目的は達成されたわけである。
産まれてくるとき、人間はすぐに歩けるわけでもなく、生きることを他者に完全に委ねる。
野口晴哉は次のように書いている。
子供は元来大人の注意によって生活している。自分で生活してゆく力を持たない赤ちゃんの状態で産まれてくるというのは、大人の注意によらなければ育たないということである。だから子供が親の注意を得ようとするのは、大人のようなお化粧ではなくて生活の手段である。子供は頭で感じる以前に体で感じている。注意が少なければすぐに空虚を感じる。お客様が来た時に騒げばお母さんの注意が集中するが、おとなしいと注意が集まらないとなれば、子供は騒がずにはいられない。…
野口晴哉『潜在意識教育』全生社
子供が親の注意を得ようとすることは「生活の手段」であると、野口は書いている。
養老孟司が言っているように、都市は「脳化=社会」であり、頭で作られた場所である。
子供はその中での「自然」でもある。
「頭で感じる以前に体で感じる」ものとしての子供たち。
そして、野口も書いているように、大人も、「我ここにあり」と、人の注意を喚起するような方法をいろいろに発明する。
こんな風な「視点」で見ると、ぼくたちの「周りの風景」は、違ったように見えてくる。
「よい入門書」はどのような入門書か。- 内田樹の書く「まえがき」はいつも素敵に文章を奏でる。
思想家・武道家である内田樹の書く「まえがき」は、いつも素敵に文章を奏でる。...Read On.
思想家・武道家である内田樹の書く「まえがき」は、いつも素敵に文章を奏でる。
本文も「わかりやすい」(でもだからこそ深い)言葉で、鋭い切れ味の論理と独特のリズムを持って書かれているけれど、ぼくはいつもいつも「まえがき」の奏でる音楽に聴きいってしまう。
著書『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)を読もうとして、「構造主義」という思想にはいっていこうとしていたら、その「まえがき」につかまってしまったのだ。
「まえがき」で、内田樹は、この本が「入門者のために書かれた解説書」であることを語る。
そこから、「よい入門書」に関する考えが、やはり入門的に、書かれている。
…「よい入門書」は、「私たちが知らないこと」から出発します。
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)
「専門家のために書かれた解説書」が「知っていること」を積み上げ式で積み上げてゆくのに対し、入門書は「知らないこと」から問いを始める。
それは、内田樹も言うように、ラディカルな(根源的な)問いにならざるをえない。
入門書は専門書よりも「根源的な問い」に出会う確率が高い。これは私が経験から得た原則です。「入門書がおもしろい「」のは、そのような「誰も答えを知らない問い」をめぐって思考し、その問いの下に繰り返しアンダーラインを引いてくれるからです。そして、知性がみずからに課すいちばん大切な仕事は、実は、「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのです。
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)
「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」と、内田樹は繰り返し述べている。
例として挙げられていることで言えば、真にラディカルな「医学の入門書」があるとしたら、「人はなぜ死ぬか」という問いから始まるだろうと。
「死ぬことの意味」や「老いることの必要性」の根源的な考察などなど。
そんな入門書には会ったこともないし、会ってみたいと思う。
医学ではなく、ぼくが大学院で「(途上国の)開発学」を土俵としていたとき、方法論にしびれをきらしたぼくは、修士論文で、「開発とは何か」と、人や社会の発展と開発という根源的な問いに一気に下降していってしまった。
すぐに「現場」で使えるものではなかったけれど、そのときの考察はその後のぼくの「現場」での活動はもとより、今でもぼくの思考の土壌となっている。
そのようなぼくの資質もあってか、ぼくも「よい入門書」が好きである。
そして、内田樹の奏でる<入門の音楽>を聴きながら、ぼくは重要な問いの下にアンダーラインを引き続けるのだ。
「構造主義」などという思想はじぶんとは関係ないと思うだろうけれど、そう思う前に、この<入門の音楽>を聴いてみるのもひとつだ。
専門家だけでなく、ぼくたちのような普通の人たちの思考も、「構造主義の思考」の中でかけめぐっていると言われたら、どうだろうか。
「ゴールのわからない未知のトラックを走る」。- 内田樹『修業論』の強力な重力に引かれて。
「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」という修業について、思想家・武道家の内田樹は「ゴールのわからない未知のトラックを走る」ようなものだと、著書『修業論』(光文社新書)のなかで述べている。...Read On.
「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」という修業について、思想家・武道家の内田樹は「ゴールのわからない未知のトラックを走る」ようなものだと、著書『修業論』(光文社新書)のなかで述べている。
自身の合気道の修業を身体的なベースとしながら、「修業ということ」の本質を丁寧にさぐっている。
…走っているうちに「自分だけの特別なトラック」が目の前に現れてくる。新しいトラックにコースを切り替えて走り続ける。さらにあるレベルに達すると、また別のトラックが現れてくる。また切り替える。
そのつどのトラックは、それぞれ長さも感触も違う。そもそもを「どこに向かう」かが違う。はっと気がつくと、誰もない場所を一人で走っている。…
内田樹『修業論』光文社新書
修業というものは、そのような「未知」を走る。
しかし、以前からよく言われるように、「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」と頭ごなしに言われると、若い人たちは耳を貸さない。
内田樹は、このようなふるまいを、「消費者」という視点を導入して、語っている。
消費者が商品を見定めるときに例えば「何の役に立つのか?」ということを聞いたとして、その問いに対し(修業のように)「使ってみればわかる」と答えるような売り手はいない。
使い道がわからない商品はこの世に存在しない。とりあえず、今の子どもたちはみなそう信じています。現に、家庭でも学校でも、あらゆる機会において、子どもたちは何かするときに「これをするとこれこれこういう『善いこと』がある」という説明を受けて利益誘導されています。
内田樹『修業論』光文社新書
「利益誘導」ということは、内田樹も説明しているように、「努力のインセンティブ」を与えていくことである。
前述のように消費者的な視点を引き入れると、努力をすると「商品」が得られるというプロセスなのだが、修業とはそのようなものではない。
「ゴールのわからない未知のトラックを走る」ようなもので、あらかじめ、明確なゴールが示されるものではない。
ゴールは、「あれはそういうことだったのか」という事後の気づきという形で、語られる。
そういうものだ。
著書『修業論』は、そのようなことがわからない「子ども」に対して書かれた本である。
しかし、内田樹が展開していく論理は、この「まえがき」の導入から本文に入っていくなかで、一気にその論が先鋭化されていく。
「無敵とはなにか、天下無敵とはどういうことか」など、修業というものの本質が持つ強力な磁場に引かれるようにして、論は深くきりこんでゆく。
その強力な重力に、ぼくは一気に引っぱられている。
そのようにして、「ゴールのわからない未知のトラック」を、ぼくはただただ走り続けている。
香港で、波が打ち寄せる「音」で、耳がひらかれる。- 波音が送ってくれた<小さなアラート>。
予期せぬところから、波が打ち寄せる「音」が聞こえてくる。人工的につくられた海岸通りをゆっくり走り、立ち止まったときのことであった。...Read On.
予期せぬところから、波が打ち寄せる「音」が聞こえてくる。
人工的につくられた海岸通りをゆっくり走り、立ち止まったときのことであった。
積み上げられた巨大な石たちに、小さな波がぶつかる音だった。
よく来る場所であったけれど、これまでは、ぼくの耳には聞こえていなかったようだ。
それは、とても新鮮な響きであった。
ある種のリズムがありながら、しかし、波が石たちにぶつかり散開する音は一定ではない。
家で蛇口をひねって出てくる水の「一定の音」とは異なり、そこには、自由に散開する響きがあった。
その異なりに、新鮮な驚きを覚え、心が動かされた。
10年以上前に、東ティモールの海岸線で聴いていた波の音が思い出された。
思想家の内田樹は、「自然が教えてくれるもの」という問いにたいして、定型的ではない私見を提示している。
…自然から子どもが学ぶ最大のものは私見によれば「時間」である。…
都会にいるときに不快を減じるために時間をできるだけ切り縮めようとするのとはちょうど逆に、自然の中にいるとき、私たちは空間的現象を時間の流れの中で賞味することからできる限りの愉悦を引き出そうとする。
私たちが雲を観て飽きることがないのは、…それが「今まで作っていた形」と「これから作る形」の間に律動があり、旋律があり、階調があり、秩序があることを感知するからである。…
海の波をみつめるのも、沈む夕日をみつめるのも、…すべてはそこにある種の「音楽」を私たちが聴き取るからである。
その「音楽」は時間の中を生きる術を知っている人間にしか聞こえない。
自然に沈潜するというのは「そういうこと」である。
内田樹『態度が悪くてすみませんー内なる「他者」との出会い』角川oneテーマ21
都会の子どもたちは、管理された閉鎖空間の中で「時間意識」を損なっていくことに触れながら、内田樹は、「万象を『音楽』として聴くこと」へと誘う自然の中での生活を語っている。
波が打ち寄せる音と小さな波が散開する動きに、ぼくは「時間」の流れを賞味し、そして「音楽」を聴き取っていたということになる。
その瞬間に、五感はいつもとは違う仕方で、ふと、ひらかれたのだろう。
意識的にケアしないと、都会的な空間のなかで感覚が減じられ損なわれていってしまうことを、あらためてぼくに感じさせる。
感覚が減じられ損なわれた身体は、他者の声にならない声、メッセージにならないメッセージをうまく聴き取れない。
香港で、人工的な海岸の石たちに寄せる小さな波音は、そのような<小さなアラート alart>を、ぼくに送ってくれた。
留学生である夏目漱石のイギリスでの苦悩と「変身」。-「嚢(ふくろ)を突き破る錐(キリ)」を追い求めて。
夏目漱石の『私の個人主義』に最初に目を通したのは、確か、大学か大学院で勉強していた20代前半のことであったと思う。...Read On.
夏目漱石『私の個人主義』に最初に目を通したのは、確か、大学か大学院で勉強していた20代前半のことであったと思う。
夏目漱石の書くものにぼくは深く惹かれていたわけではない。
中学や高校での教科書や読書感想文用の図書として取り上げられる夏目漱石であったけれど、どうにも、深く入っていくことができずにいた。
ただ、おそらく、「個人主義」という言葉にひかれて、手にとったのだと思う。
当時のぼくは、個人と共同体、自由主義と共同体主義などのトピックに、正面からぶつかっていた時期であったからだ。
でも、『私の個人主義』もあまりぼくの心身に合わず、読んだ内容はほぼ覚えていないような状況であった。
20年程が経過して再び『私の個人主義』を手にとろうと思ったのは、ある論考を読んでいて、「留学生の夏目漱石」に焦点をあてた箇所に惹かれたからである。
『現代思想』誌(青土社)の2016年9月号(特集:精神医療の新時代)における、酒井崇「適応することと潜勢力としての思考」という論考のなかである。
精神病理学を専門とする著者が、「大学において留学生の相談・診療業務」をするなかで、留学生などにみられる「適応の困難さ」について論じている。
論考の展開のなかで、「留学生漱石」に光をあて、イギリス(ロンドン)に留学した夏目漱石が、ロンドンの生活に「不適応」を起こしていたことに目をつける。
イギリス留学に行くずっと以前から「不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至るところに潜んでいるようで堪まらない」(夏目漱石、『私の個人主義』青空文庫)感覚を漱石は持ち続けていた。
「私はこの世に生れた以上何かしなければならん」(前掲書)と思いつつ、思いつかないといった、状態である。
漱石は、この状態を、「あたかも嚢(ふくろ)の中に詰められて出る事のできない人のような気持ち」と語り、「一本の錐(キリ)さえあればどこか一箇所突き破って見せるのだ」(前掲書)というように、焦り抜いていたという。
不安を抱いたまま、漱石はイギリスのロンドンに渡ることになる。
…この嚢を突き破る錐は倫敦(ロンドン)中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。
夏目漱石『私の個人主義』青空文庫
本を読んでもうまくいかない。
本を読む意味さえも失うなかで、夏目漱石はひとつの「気づき」を得る。
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う道はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で…そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。
夏目漱石『私の個人主義』青空文庫
夏目漱石がそうして行き着いたのが「自己本位」ということである。
「自己本位」という言葉を手に入れた漱石は、文学に限らず、科学的研究や哲学的思索にふける。
「自己本位」が道を照らしたのだ。
そのとき、留学してから、一年以上が経過していた。
漱石はこう語っている。
…外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。
夏目漱石『私の個人主義』青空文庫
漱石のロンドン「不適応状態」に焦点をあてた酒井崇は、「嚢を突き破る錐」は何であったのだろうと問う。
…英国へ留学して一年間、いわば不適応状態にあった漱石を変えたものは何であったのだろうか。…たんに英文学に見切りをつけて、関心を文学そのものへ移したということだけのことでは決してない。「概念を根本的に自分で作り上げ」ようとしたこと、周囲から神経衰弱と言われるほどまでに「思考」したことが錐となったのではないだろうか。
酒井崇「適応することと潜勢力としての思考」『現代思想』(青土社)2016年9月号(特集:精神医療の新時代)
夏目漱石が「私の個人主義」の講演を行なったのは1914年(大正3年)11月25日。
漱石が他界する2年前の講演で、そのとき漱石は47歳であった。
イギリス留学の年から14年が経過していた。
ぼくも幾分、霧の中をくぐり抜けてきた漱石と同じような経験を通過してきた。
そのためなのか、漱石の言葉をかみしめる素地が少しはできたのかもしれない。
久しぶりに読む『私の個人主義』のなかに興味のつきない語りを見つけ、それらがぼくに迫ってくるように感じられる。
なお、「個人主義」という言葉だけでは、ミスリーディングになりやすい。
だから、「私の個人主義」というように「私の」がつけられているように思う。
夏目漱石は、この講演で聴衆に向けて、次のような、熱を帯びた言葉を投げかけている。
…もし途中で霧か靄(もや)のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。…もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。ーもっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。
夏目漱石『私の個人主義』青空文庫
「掘当てるところまで行ったらよろしかろう」と、漱石は語る。
それにしても、留学生の漱石に会ってみたくなった。
「うら」(うらなう)を考える。- 「世界のあり方」の比較社会学(見田宗介)を頼りに。
新年ということで、日本では「おみくじ」などを引いたりしている様子をここ香港で見聞きしながら、「おみくじ」や「うらない」のようなものへの、ぼくの関わり方を考える。...Read On.
新年ということで、日本では「おみくじ」などを引いたりしている様子をここ香港で見聞きしながら、「おみくじ」や「うらない」のようなものへの、ぼくの関わり方を考える。
ぼくにとっては、(今ではまずやらないけれど)「おみくじ」や「うらない」で書かれたことや言われることは、ぼくの心身と対話するときのツールである。
書かれたことや言われることで「気になること」は、じぶんの心身に何か「身に覚え」があることであると、ぼくは考える。
つまり、じぶんのなかで、問題であったり課題であったりすることだ。
そこから、じぶんが感じたり考えたりする問題や課題をつきつめていく。
逆に「気にならないこと」は、特に気にしない。
気づきのためのツールである。
社会学者の見田宗介は、「世界のあり方」の比較社会学という視点で、原始人たちが感覚していた「世界のあり方」について書いている。
アメリカ・インディアンのホピ族の言語…では「時間」というコンセプトではなく、近代文明を形成してきた諸文化の言語のように「過去/現在/未来」という基本的な「時制」もなくて、その代わりに「顕在態」(manifested)と「潜在態」(unmanifested)という二つの態様が、「世界のあり方」の基本のわくぐみを作っています。
見田宗介『社会学入門:人間と社会の未来』岩波新書
近代人が使う言葉との対比をまとめると、次のようになる。
●「過去」「現在」=「顕在態」(過去のものは、この世界に「蓄積している」と感じられる)
●「未来」=「潜在態」(ホピの人たちは「心中にあるもの」と言う)
見田宗介は別の著作で次のように書いている。
…アメリカ原住民のホピ族などの文法も、未来をあらわす形式と心象をあらわす形式が同じである。「うら」(うらなう)ということばに標本されるように、上代日本人の世界の感覚ともそれは呼応している。ほんとうは、will、shallという、英語の未来をあらわす仕方が心意をあらわす語によってしかされないように、時間の次元が心象の次元であるということは、ヨーロッパ文化自身の古層にも普遍する直感であった。
見田宗介『宮沢賢治』岩波現代文庫
これらに先立つ仕事(『時間の比較社会学』岩波書店)で、見田宗介(真木悠介)は、近代社会の「直線的な時間」とは異なり、原始共同体社会の時間感覚は「反復的な時間」であったことを、述べている。
顕在態と潜在態の反復、また、別の言い方をすれば、「おもての世界」(顕現している世界)と「うらの世界」(潜在している世界)の反復である。
原始社会や原始人たちの抱いていた「世界のあり方」の感覚だ。
文化のこれらの基底的な感覚と、「おみくじ」や「うらない」をしていた人たちの感覚がどのように交差していたのかは、わからない。
けれども、近代人がおみくじやうらないをしたときに「見る仕方」とは異なっていただろうと、推測する。
見田宗介が明晰に語っているように、原始人たちの感覚は、未来と心象がおなじ形式の言葉として使われる感覚に支えられている。
心象は「現在」、未来は「(現在ではない)未来」として、直線的な時間の内に感覚するのが近代人である。
そんなことを考えながら、原始人の人たちは、「うらない」のうちに、じぶんや事象の「心象」を見ていたのだろうと、ぼくは想像力をむけてみる。
「近代人」がついそうしてしまうような、起こるだろう未来の予測ではない仕方で、心象を見る。
しかし、近代人は「未来」という考え方を獲得し、世界をきりひらいてきた。
「未来」を信じ、構想し、行動していくところに、これからの「人と社会」の行く末は賭けられている。
「時の力を生かすこと」(野口晴哉)。- 技術を修めた者に向けられた言葉。
「市民社会の存立の媒体としての物象化された時間」(真木悠介)を獲得したことは、人類の発展において、決定的に重要なことであった。...Read On.
「市民社会の存立の媒体としての物象化された時間」(真木悠介)を獲得したことは、人類の発展において、決定的に重要なことであった。
それは、お金やメディアなどの、人と人を媒介するものと、構造を同じにしている。
時間は、一年があり、半年があり、四半期があり、また月・週・日がある。
時計は、1時間、1分、1秒を告げている。
年末年始というタイミングには、ぼくたちは「時間」をより明確に意識する。
「2018年という時間」を、世界ぜんたいで共にお祝いをするという、つなげる力としての「時間」。
ぼくたち個人にとっても、「時間」をうまく味方につけることで、ぼくたちの生は豊かになる。
「時間」について考えながら、整体の創始者といわれる野口晴哉のエッセイを読んでいたら、「時の力」という短い文章に魅かれる。
時間が刻一刻とすぎていく様から、野口は書き始めている。
いつの間にか夏になり、秋になり、冬になる。
時というものは少しも休まない。…
この一瞬にも、永遠に連なる一瞬が消えている。
生くるはもとより、死ぬも病むも、また人を導くも、ともに生活するにも、この時の力を軽視してはいけない。
軽視する人は少ないが、忘れている人は多い。…
野口晴哉『大絃小絃』全生社、1996年
野口晴哉は「時の力」について、それを軽視している人や忘れている人に思い出させるように書いている。
生くることの全体に向けられながら、やがて、自身のよってたつ養生や治療を含めた「技術を修めた者」に向けて、言葉が集注され投げかけることになる。
時の力を生かすことを考えることが、技術を修めた者には何よりも必要だ。
世の中には芽生えた稲の伸びが遅いと、手でそれを引っ張って伸ばすような養生や治療が行われている。
野口晴哉『大絃小絃』全生社、1996年
野口晴哉の語る<時の力>は、明確に計測し見ることのできる「時間」ではなく、自然的な流れとしての<時>に触れている。
養生や治療に限らず、「技術を修めた者」にひびく言葉だ。
軽視もしないし、忘れもしない<時の力>だけれど、「市民社会の存立の媒体としての物象化された時間」の圧力と要請は、日々、ぼくたちにのしかかってくるものだ。
野口がこの文章を書いた数十年前に比較し、この「時間」の圧力と要請はいっそう強さを増している。
世界の人たちをつなげる「時間」と個人の生をひらいていく「時間」を味方につけつつ、どのようにしてこの<時の力>をも、生きることの実践としていくことができるのか。
その「方法」について野口はこのエッセイでは書いていないけれど、それはぼくたち一人一人に投げかけられた問いであり、ぼくたちの想像力が試されるところである。
思考や行動が狭く型づけられているなかで、どのようにしてこの想像力の翼を獲得していくことができるのかが課題である。
香港で、新年(1月1日)を迎える。- 「生ききる」ことへ照準をあわせながら。
香港で、新年(1月1日)を迎える。昨日までの青空と暖かさ(20度を超える暖かさ)が遠のき、かすみがかり少し冷たい風が肌をさす1月1日となった。...Read On.
香港で、新年(1月1日)を迎える。
昨日までの青空と暖かさ(20度を超える暖かさ)が遠のき、かすみがかり少し冷たい風が肌をさす1月1日となった。
香港でも1月1日は「祝日」となっている。
しかし、2日からは社会はいつも通り動き出す。
1月1日だけが「祝日」で、年末も年始も、いつも通りである。
正月のお祝いは、1月1日ではなく、「旧正月」になされるからだ。
1月1日は旧正月の足音が聞こえはじめるときである。
香港で迎える1月1日が11回目のぼくは、この事情に一方で慣れながらも、他方で「文化の交差点」における不思議な時間・空間感覚を今でもおぼえる。
新年1月1日は、それでも「Happy New Year」の言葉が交わされる、お祝いのときだ。
ビクトリア湾では12月31日の深夜に恒例の花火が打ち上がり、多くの人たちが2018年の到来を祝った。
ぼくの住んでいるマンションの入り口では、「Happy New Year!」と、レセプションの方が声をかけてくれる。
ぼくも「Happy New Year」と英語でかえす。
それはぼくにとって、世界で今ここに共に在ることへの感謝の気持ちだ。
「現実」に向き直ると、そこには数々の困難と挑戦がぼくをとりかこんでいる。
でも、困難も挑戦もひっくるめて、生きるということの充実さはある。
2018年も、「生ききる」というところに、ぼくは照準をあわせながら、ここ香港で、1月1日を迎えている。
人はだれもが「物語」を生きる。- どのような「物語」を描き、どのように生きるか。
人であるということは、「物語」をもっているということでもある。人は、だれもが、「物語」を生きている。...Read On.
人であるということは、「物語」をもっているということでもある。
人は、だれもが、「物語」を生きている。
そして、人は、その生において、「物語性」の外部に出ることはない。
どのような「物語」を生きていくか、ということに、ぼくたちの生の本質はある。
すでに「物語・物語性」は、人や組織や社会において、いっそう重要なものとして取り上げられる場面が増えてきている。
ぼくもいろいろと文献などをさぐっている。
『The Storytelling Animal: How Stories Make Us Human』(Jonathan Gottschall著, Mariner Books)という面白いタイトルの本がある。
「物語を語る動物」としての人を、生物学、心理学、脳科学の知見から読み解いていく試みである。
また、橋本陽介『物語論:基礎と応用』(講談社)においては、フランス構造主義の物語論を中心に「物語」が中心にそえられている。
心理学者からの「ライフストーリー論」としては、Dan P. McAdamsの理論展開に、ぼくは耳をかたむけている。
河合隼雄の「物語論」も、心理学・臨床心理などさまざまな視点にきりこみ、深い議論を展開している。
「年末年始」という時期には、人や組織や社会の「物語」の一端が語られるときでもある。
「振り返り」という、ひとつの物語。
「目標」という、ひとつの物語。
「予想・予測」という、これも物語。
世界は「物語」に充ちている。
ぼくたちは、忙しさや困難さのただなかで、「点(dot)」に集注する。
ときには、一歩も二歩も後ろにさがってみて、スティーブ・ジョブズが語ったように「connecting dots」をしてみる。
そこに、これまで生きてきた・働いてきた・学んできたことの「物語」が見えてくることがある。
物語は、困難や挑戦、失敗などに「意味・意義」をふきこんでくれる。
そしてそのような間隙から、「新しい物語」の息吹が聞こえ、萌芽を見るかもしれない。
これらの「物語」を、どのように描き、どのように生きていくかという問いを、ぼくたちの生の全体はぼくたちに日々問いかけている。