東ティモールで、ぼくはよく笑った。-「ギャグやジョーク」が創る/が生まれる関係性。
西アフリカのシエラレオネと東ティモールではNGO職員として、それから香港では人事労務コンサルタントとして仕事をしてきた。シエラレオネの人たち、東ティモールの人たち、香港の人たち、世界のさまざまなところから来ている人たち、海外で仕事をする日本の人たちと、一緒に仕事をしてきた。
西アフリカのシエラレオネと東ティモールではNGO職員として、それから香港では人事労務コンサルタントとして仕事をしてきた。シエラレオネの人たち、東ティモールの人たち、香港の人たち、世界のさまざまなところから来ている人たち、海外で仕事をする日本の人たちと、一緒に仕事をしてきた。
これらの経験は、ぼくにとって、なににもかえられない、ほんとうに宝の経験である。
26歳でシエラレオネに赴任。最初の赴任が「アフリカ」という、今思えば、(ぼくにとって)これ以上ないほどの機会をいただいた。
現地組織またプロジェクト運営上は「管理職」であり、来る日も来る日も試行錯誤の連続のなかで、「組織を運営する」ことと「一緒に働く」ということを経験してきた。15年以上が経過した今から振り返れば、ああしていればこうしていれば、ということがいろいろとあるのだが、それでも、当時は、じぶんの「限界線」をはるかに超えてゆくような気持ちで、全力を尽くしたと思う。
翌年(2003年)に東ティモールへと新たに赴任する際には、シエラレオネでの「経験」を最大限に生かしていこうと、気持ちを新たにして、東ティモールの首都ディリに降り立った。
結局、2007年初頭まで東ティモールにいたのだけれど、東ティモールで「一緒に働く」ということを思い起こすとき、うまくいかない時期や厳しい時期などがいっぱいにあったなかで、それでも、ぼくは一緒に働いた人たちと「よく笑った」ということを思い起こす。
「厳しい時期」には、ディリ騒乱という外的な状況変化も含まれる。ディリ騒乱によってぼくは一時的に東ティモールから退避しなければいけない状況になったが、そんな時期があったにもかかわらず、一緒に仕事をしながら、あるいはコーヒー農園の近くで一緒に過ごしながら(寝食を共にしていた)、「よく笑った」と思う。
「よく笑う」ことは、たとえば、東ティモールの同僚たちとかわすギャグやジョークから生まれた。日本であれば、たとえば「オヤジギャグ」というカテゴリーに投じられるような、ほんとうに単純で、「つまらない」ギャグやジョークで、ぼくたちは、ほんとうによく笑った。
はたから見れば、なんでそんなギャグやジョークで笑えるのだろう、というような「内容」であったと思う。でも、ぼくたちは、それで充分であったのだ。
言語の違いや生活習慣/行動の仕方の違いなど、異文化の<あいだ>だからこそ生まれてくるようなギャグやジョークもあった。同一文化内のデフォルト的なギャグやジョークではないから、双方に新鮮味があったことも、「おかしみ」を共に感じることができた一因であったかもしれない。
でも、今振り返ると、ギャグやジョークが生まれてくるような<関係性>の土台があったことが、とても大きなことであったのだと、ぼくは思う。そのような土台において、ギャグやジョークは生まれると共に、関係性をさらに創っていく円滑油となる。
とてもシンプルで、単純で、「内容」という内容がないようなギャグやジョークをかわすことのできる関係性。
とてもシンプルで、単純で、「内容」という内容がないようなギャグやジョークで、充分に笑い合うことのできる関係性。
そんな笑いの祝祭空間で、関係がさらに熟成し、「笑う」ということだけで、ともにいるということの<存在>を祝福できるような関係性。
うまく意思が伝わらないことも、コミュニケーションの行き違いも、いろいろとあったけれど、「よく笑い合う」関係性が、もろもろを包んでいた。
2007年、東ティモールを去るとき胸にこみあげるものがあったけれど、それは、今だからこそ、いっそう愛おしいものとして、ぼくの胸にこみあげてくるものがある。
そんな関係性のなかで、一緒に仕事をし、一緒に生きてきた体験は、ほんとうに、ぼくにとっての宝物だ。
<人生はみじかく、はかない>という命題。- この命題の「自明性」をほりおこし、くずしてゆく。
ビートルズに「We Can Work It Out」という曲がある。大学生の頃、その曲を聴きながら、いつも「ひっかかる」箇所があった。
ビートルズに「We Can Work It Out」という曲がある。大学生の頃、その曲を聴きながら、いつも「ひっかかる」箇所があった。
少しテンポと調子が変わって、ポール・マッカートニーとジョン・レノンの歌声がひびく、「Life is very short, and there’s no time for fussing and fighting, my friend…」と。「人生はとても短いんだ、くよくよ悩んだり、争っている時間はないんだよ」と、友人に語りかける。
「Life is very short, and there’s no time…」という、わかりやすく、聴き取りやすい英語だったからかもしれないけれど、「人生は短いんだ」というのが、どうも心にひっかかる。
「人生は短いんだ」ということばに、どのように自分の生きかたをつなげてゆくのか、というところで、「人生は短いんだ」からぼくは「後悔しないように…」を選びとり、生きてきている。この「人生は短い」が語られる文脈のなかでは、「だから、はかない」と続くこともあるなかで、その方向にではなく、別の方向を選びとる。
けれども、そもそもの「人生は短い」ということは、どう見たらよいのだろう。
「時間」にかんする名著『時間の比較社会学』において、真木悠介はその冒頭で、<人生はみじかく、はかない>という命題をあげて考察している。
「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」という劉廷芝の詩をとりあげ、客観的でのがれがたい時間の事実をうたっているように見えるが、そうではなく、「人間のみの個別性にたいするわれわれの執着のもたらす感傷にほかならないこと」がわかると、検討を加えている。
自分と花がもし入れ替わったとしたら、花である自分は、花とくらべてほとんど無限の生を享受しているかのような人間のことを、ぜんぜん違った感傷でうたっただろうというのだ。また、じっさいに、人間は動物のなかでももっとも寿命が長いとしながらも、「そうはいっても…」と聞こえてくる声を想定して、つぎのように書いている。
…しかしこのように数学的に検証してみても、人間の生の「みじかさ」を実感しておののいている人はけっして納得しない。人間の寿命が仮に二百年であり、あるいは二千年であっても、かれらはそのことに納得しないように文化を作っていただろう。「人間ーこの短命なものどもよ」と古代の神話のなかでいうのは神々であり、神々はふつう無限の生命を享受するからだ。人間の寿命が馬や獅子よりも長く、あるいは二百年、二千年であったとしても、永遠のまえには一瞬にすぎないからだ。
だがそれにしてもなぜ永遠を準拠にとるのか?
<人生はみじかい>という命題はじつは、なんらの客観的事実でもなく、このように途方もなく拡大された基準のとり方の効果にすぎない。真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)
なんどもなんども読み返してきた文章であるのだけれど、今回読み返しているなかで、なぜか、ここの箇所にぼくはひきつけられている。とくに、「人間の寿命が仮に二百年であり、あるいは二千年であっても、かれらはそのことに納得しないように文化を作っていただろう」というくだりである。
それは、人類が目指している(だろう)「不死」ということに、重なったからである。
「人類の21世紀プロジェクト」として人類がつぎに見据えている「プロジェクト」は、不死(immortality)、至福、(bliss)、「Homo Deus」へのアップグレードの3つであると、歴史学者Yuval Noah Harariは著書『Homo Deus』で書いている。
人類が「不死」を達成させるかどうかはわからないけれども、仮に人類が「不死」にちかい長寿(二百年だとか、二千年だとか)を達成したとしても、<人生はみじかい>ということばはなくならないのではないか。「基準」を<無限>に設定し、二百年であっても、二千年であっても、「そのことに納得しないような文化」を作ってしまうのではないだろうか。そんなことを、ぼくは考えるのである。
では、どの方向性に出口を見出してゆくのか、ということが問われる。
整体の創始者といわれる野口晴哉(のぐちはるちか)は、自身の哲学のようなものである「全生」ということにふれて、かつて、つぎのように書いた(生きた)。
…象の百年生くるも全生なら、蝉の一夏の生涯も又全生なのだ。大と小と対立させてその価値に拘泥するのは、人間的な有限感覚に基づいているに他ならぬ。人間の五十年は蚊の一夏に比して長いとは言えぬ。欅の三千年の寿命も猫の十年に等しい。全は、全だ。
この如く、人間が人間感覚からのみ推して ものを対立させているなかに宇宙的無限感を得たものがいたなら、こう言うだろう。野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)
そして、真木悠介自身は、上記に引用した文章につづけて、つぎのように書いている。
…「みじかさ」が、たんに相対的不満ではなく絶対的なむなしさの意識となるのは、このばあいもまた、生存する時がそれじたいとして充足しているという感覚が失われ、時間が過去をつぎつぎと虚無化してゆくものとして感覚されるからである。
真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)
真木悠介は著書『時間の比較社会学』のぜんたいを通して、「生存する時がそれじたいとして充足しているという感覚」が失われてきたことの社会的な構造などをおいながら、その感覚を豊饒に享受する道を照らしている。
もちろん、これらの「道」を生きるのは、ぼくたちひとりひとりである。その助走として、<人生はみじかい>ということ自体が問われなくてはならない。
海外に住みながら「季節」のことをかんがえる。- 「雨季と乾季」あるいは「四季」を生きながら。
「2019年」になって、人間がつくりだす紀年法(西暦はキリスト紀元)のことをかんがえていたら、<自然>のことが、ふと、頭の中に浮かんだ。紀年法による年ではく、「年」という時間の単位は地球が太陽を一周する時間(「閏年」での調整が入るが)であり、さらには、そこには「季節」がある。
「2019年」になって、人間がつくりだす紀年法(西暦はキリスト紀元)のことをかんがえていたら、<自然>のことが、ふと、頭の中に浮かんだ。紀年法による年ではく、「年」という時間の単位は地球が太陽を一周する時間(「閏年」での調整が入るが)であり、さらには、そこには「季節」がある。
紀年法などは、人間の「頭脳」に働きかけるのに対し、季節などは、人間の「身体」に直接に働きかけるものだと、ふと思ったのだ。
西暦の「2000年」や日本の元号の変更などが人びとの意識(そして行動)を変容させて時代をつくってゆくのに対し、一年そして季節のうつりかわりは、人びとの「身体」に直接に作用してくる。
2002年から海外に住んできたなかで、「季節」ということを、ぼくはときおりかんがえる。
2002年の半ばから2003年の半ばにかけて住んでいた西アフリカのシエラレオネ、それから2003年の半ばから2007年初頭まで住んでいた東ティモールで、ときおり、「季節」のことをかんがえたりしたことを思い起こす。
シエラレオネも東ティモールも赤道に近く、熱帯性の気候で、雨季と乾季のうつりかわりがある。それまで日本とニュージーランドに住んできたぼくの身体にとっては、この「雨季と乾季」の季節のうつりかわりは、新しさがあるいっぽうで、どこかなじまないようなところがのこる感覚があったことを覚えている。
もちろん「雨季」的な気候は初めてではないし、また「乾季」的な気候も初めてというわけではない。でも「四季」にすっかり慣れてきた身体にとって、最初の一年・二年のころは、そのような新しさによる興味、それからなんとなくの違和感を感じたのである。
熱帯性の「雨季と乾季」では、日本のような寒い「冬」は訪れないから、それはそれでとても過ごしやすいところでもあるのだけれど、「四季」に慣れ親しんできた身体だからだろうか、最初のころは「四季がない」というふうにかんがえてしまう。四季という季節のうつりかわりの「いいところ」が、ちらほら、ぼくの脳裡にうかんできたりするのであった。
あるいは、いい・わるいということよりも手前のところで、四季ではない季節をすごしてゆくことで、「季節」というものが、じぶんの身体に及ぼす影響のようなものをよりいっそう感じ、ぼくはときおり季節のことをかんがえていたのだ。
東ティモールですっかり「雨季と乾季」の気候に慣れたあと、ぼくは、ここ香港に移り住むことになる。
亜熱帯性の気候の香港。日本と比べると、相対的に、冬はそれほど寒くはない。日本のような秋の紅葉があるわけでもなく、冬に雪はふらない。それでも、そこにはやはり「四季」が、香港の「四季」がある。
東ティモールの「雨季と乾季」を経験している身体であったから、よりいっそう、「四季」に敏感であったのかもしれないと、今では思う。日本から直接に香港に来たのであれば、香港に、四季の「欠如」を見ていたかもしれないし、あるいは「香港の四季」に気づくのに、もっと時間を要したのかもしれない。
でも、やはり、香港には香港なりの季節のうつりかわりがあるし、さらには、「雨季と乾季」のシエラレオネや東ティモールにだって、シエラレオネなりの、また東ティモールなりの季節のうつりかわりがある。
それら季節のうつりかわりのなかで、季節の影響を受けながら、あるいは季節を楽しみ享受しながら、人びとはそれぞれの仕方で、それぞれに生きている。
都市/「脳化社会」(@養老孟司)は季節をできるかぎり脱色してゆくようなところがあるけれど(そうすることで人間社会を自然的制約から離陸させてきたけれど)、そうでありながら、しかし、あたりまえだけれど季節はなくなることはないし、いろいろな仕方で、生きるということと共振している。
「異文化」だけでなく、<異気候/異季節>ともいうべき視点も、海外に住みながら、ぼくはいっそう、この身体に感じてきたし、これからも感じてゆくことを思う。
「鶴見俊輔の世界」のとびらをひらく。- 2019年に「やりたいこと」をはじめる。
2019年にしようと思っていたことに、さっそくとりかかる。「やるべきこと」ではなく、「やりたいこと」。
2019年にしようと思っていたことに、さっそくとりかかる。「やるべきこと」ではなく、「やりたいこと」。
それは、思想家の鶴見俊輔(1922-2015)の著作を読むこと。
読むことの「先」になにが明確にあるのかはわからない。明確に「読む目的」があって読む本もあるけれど、鶴見俊輔の著作が、ぼくをどこにつれていってくれるのかはわからない。
なお、鶴見俊輔の著作にふれることは初めてではない。20年ほどまえに、鶴見俊輔の作品にふれたことがある(鶴見俊輔をめぐる論考やエッセイはいくつか読んだことがある)。でも、当時は、ぼくの側が「読む準備ができていない」状況であったのだと思う。
今回ふたたび読もうと思った直接的なきっかけは、2018年に読んだある本の「あとがき」の記述であった。
それらの本は、加藤典洋『戦後入門』(ちくま新書、2015年)と見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)。
加藤典洋は、じぶんという書き手をつくってくれた鶴見俊輔にどうしても読んでほしいと、大著『戦後入門』の執筆を急いでいたが、まにあわなかった。いっぽう、見田宗介は、「鶴見さんの、素朴なポジティヴなラディカリズムは、一番大切なことをわたしに教えてくれた」と書き、自著を鶴見俊輔に捧げている。
心から尊敬する加藤典洋と見田宗介の両氏が、鶴見俊輔から「教えられたこと」をそれぞれの生のなかで、それぞれの仕方で継承している。
ぼくはそのように続いてゆく「(一番)大切なこと」を、ぼくの仕方で、ひろいだしたくなったのである。でも、明確な仕方で、目的地がわかっているわけではない。ただあるのは、きっとぼくにとって大切なこと(気づきなど)があるのだという感覚だけだ。
鶴見俊輔の著作を読むために、いろいろと「助走」はしてきたつもりだ。加藤典洋と見田宗介の著作を読んできたことも、ある意味、「助走」だとも言える。
「鶴見俊輔」についてふれられているものも読んできた。見田宗介は、鶴見俊輔について、たとえば、つぎのような逸話を論壇時評として書いた文章のなかにすべりこませている。
…(…「こんど出た吉本隆明の『ナショナリズム』をもう読みましたか?わたしが徹底的に批判されているんです。すばらしい論文です。ぜひ読んでみて下さい」。学生であったわたしに鶴見は目を輝かせて言った。爽快だった。本質的な思想家は、論争での勝敗などには目もくれぬものだ)。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
もちろん、ここには「見田宗介の眼」を通した「鶴見俊輔」が語られている。そうだとしても、ここにはとても大切なことが語られていると、いくども読み返してきた箇所だ。
というわけで、2019年、さっそく「鶴見俊輔コレクション」の一冊、鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)を手に入れて、読み始めることにした。
「自分の足で立って歩く」と題された第1章の最初に、「イシが伝えてくれたこと」という文章(談話をもとに文章化されたもの)が置かれている。その最初から、ぼくの思考と感覚は、鶴見のことばにつかまれてしまう。
西洋哲学史は、その全部をプラトンに対する注として読むことができるという。その傾向は中国にもあって、あらゆる著作は『論語』に対する注として読めるというふうに、新しい発見は全部新しい注として発表される。
これはおもしろいかたちなのだが、哲学史の書き方は、必ずしもそうでなくてもいい。自分がすでに採用している生き方に対するコメンタリーとして、哲学を書くこともできる。どちらかといえば、私はそちらのほうを採りたい。哲学というものを、個人が自分で考えて動くときの根元の枠組みとして考えたい。鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)
「自分がすでに採用している生き方に対するコメンタリーとして、哲学を書く」。
これだけでもぼくは心ひかれるけれど、「イシが伝えてくれたこと」という文章は、たくさんのことをぼくに教えてくれる。
今年も、すばらしい出会いが、目の前にひろがっていることを予感する。
「三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景は一変する」(見田宗介)。- 富の分配、資本主義の未来、人間像。
「現代社会はどこに向かうか」という問いを立てて自ら応答してゆくなかで、社会学者の見田宗介は、「資本主義」の行く末について、その大枠をつぎのように書いている。
「現代社会はどこに向かうか」という問いを立てて自ら応答してゆくなかで、社会学者の見田宗介は、「資本主義」の行く末について、その大枠をつぎのように書いている。
必要な以上の富を追求し、所有し、誇示する人間がふつうにけいべつされるだけ、というふうに時代の潮目が変われば、三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景は一変する。必要な以上の富を際限なく追求しつづけようとするばかげた強迫観念から資本家が解放されれば、悪しき意味での「資本主義」はその内側から空洞化して解体する(人間の幸福のためのツールとしての資本主義だけが残る)。ホモ・エコノミクスという人間像を前提とする経済学の理論は少しずつ、しかし根底的に、その現実妥当性を失う。人間の欲望の全体性に立脚する経済学の全体系が立ち現れる。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
「…時代の潮目が変われば、三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景は一変する」と、見田宗介は、人間の三千年の歴史を視界にいれながら、でも、それはやがてやってくる未来として明晰に語っている。
それにしても、たったこれだけの文章だけでも、ほんとうにとても多くのことが語られている。
それぞれをかんたんに見ておきたい。
(1)富の分配
「必要な以上の富」ということが触れられているが、上記の文章の直前で、「富の分配」と「競争」について、見田宗介は書いている。
日本を含む先進産業諸社会では、「すべての人びと」に、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」したとしても、そこには富の余裕がある。富の余裕は、未来にではなく、すでにここに存在している。
だから、「三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景が一変する」ことは、「if you want it」(@ジョン・レノン)であれば、いつだって可能な世界に、ぼくたちはすでにして、いることになる。よく言われるが、世界の軍事費を貧困対策にまわせば、いつでも現在あるような形と内実の貧困をなくすことができる時代なのだ。
見田宗介自身が書いているように、経済的不平等や格差を「なくす」ということではなく、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」というところをまず確保することである。「余裕な部分」は、いくらだって経済ゲームで自由な競争をしたらよいと、見田宗介は指摘している。
なお、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」ということは、ベーシックインカムにつながるポイントとなるところだけれど、少なくとも認識しておくべきことは、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」をしても、「多大な富の余裕」が存在しているという現在についてである。
(2)「資本主義」の未来
社会学者の大澤真幸が、世界の終わりは想像できたとしても、資本主義の終わりは想像できない、というようなことをどこかで語っていたが、それほどに「資本主義」は、現在の世界を根底から形づくっているということである。
そのような「資本主義」の弊害はいろいろと語られてきたし、ここで議論を繰り返すことは目的ではない。
見田宗介が言及していることで肝要なことは、「人間の幸福のためのツールとしての資本主義」ということ。概念というほどまでここでは精緻化されていないし、具体的なところも描かれてはいないけれど、「資本主義」は資本主義であるままで、<人間の幸福のためのツールとしての資本主義>として機能させてゆくことができる見通しを、見田宗介はもっている。
それは願望という見通しではなく、現実に、<人間の幸福のためのツールとしての資本主義>の試みが見られ始めていることを含めての見通しである(見田は、アメリカで法制化されてきた「ベネフィット・コーポレーション」の動きに言及している)。
(3)経済学などが前提とする「人間像」のこと
さらに、さらっと書かれているようにも見えるけれど、<人間の欲望の全体性に立脚する経済学>ということが述べられている。
経済学などの専門家学は特定の条件のもとに理論を発達させ精緻化させてきたとはいえ、「ホモ・エコノミクス」という人間像のみを土台とする経済学に対して、これまでにもさまざまな批判とのりこえが提示されてきた。
たとえば、経学者アマルティア・センは、「合理的な愚か者」という言い方で「ホモ・エコノミクス」という人間像を批判し、経済合理性だけでなく「倫理」を動機として行動する人間像をもちこんで、理論をアップデートしようとした。「経済学」という体系の内部からののりこえである。
見田宗介は「社会学」を基盤としているけれど、ひろく「社会科学」また「人文科学」、さらには自然科学にまで視界をひろげながら、<人間の欲望の全体性に立脚する経済学>ということがひらかれることを見通している。
その見通しが拠って立つのは「理論」そのものということだけではなく、現実に、「ホモ・エコノミクス」という人間像のように行動する人間と社会が変わってゆくことを見据えている。理論と現実とはそのあいだにいろいろなギャップや齟齬がありながらも、それでも相互連関しているものであるからだと、ぼくは考えている。「光景が一変する」ところでは、現実も、理論も、変わってゆく。
時代の潮目が変われば、「三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景は一変する」。「三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光」は、どれほど鮮烈かと、ぼくは想像する。
でも、この想像が現実化されることははるか彼方ではなく、この現代社会のなかにすでに、さまざまな仕方で生成しつつあること。そして、まずは、じぶんが悪夢から目覚めた朝の陽光を経験するところから、はじまってゆくのだと、ぼくは2019年のはじまりに、あらためて思う。
香港で、「魚蛋河紛」の麵を食べて。- 2018年の終わりに。
香港では、クリスマスを過ぎたころから、「香港の冬」の寒さがようやく訪れている。クリスマスのころは昼間は半袖で過ごすほどであったけれど、今は結構着込んで、部屋では暖房を稼働させている。
香港では、クリスマスを過ぎたころから、「香港の冬」の寒さがようやく訪れている。クリスマスのころは昼間は半袖で過ごすほどであったけれど、今は結構着込んで、部屋ではヒーターを稼働させている。
きりっとした空気がながれる2018年大晦日、香港の空はひきつづき、しずかな雲が織りなす風景をみせている(ブログ「香港の「空」を見ながら。- 香港の、陽光としずかな雲の織りなす風景。」)。
こんな日には、日本にいれば「年越し蕎麦」が選択肢のひとつだろうけれど、海外に長く住んでいると、選択肢はいろいろだ。
香港に来るまでは知らなかったのだけれど、香港では「うどん」(烏冬)はごくごく日常で食されている。でも、「蕎麦」はどうしてか、浸透していかない。うどんはいろいろなレストランのメニューに組み込まれ、うどん専門店も人気だけれど、蕎麦はそのようなわけにはいかないのだ。
なぜなのかは、よくわらかない。香港の人たちともそんなことを話したことがあったけれど、その「理由」までは深く入り込むこともなく、理由は定かではない。
蕎麦の独特の味があわないのか、あるいはとてもおいしい蕎麦にありつけないからなのか。ひとつぼくが思うのは、麺と具やスープ(あるいは、たれ)とがつくりだす世界という視点で、うどんのほうが、多様性をひらいているからではないかということ。つまり、うどんは、どんな具やスープやたれとも、大体において、組み合わさることができるから、ということである。
香港の食堂で、朝食に提供されているマカロニスープなんかを見ていると、そう思ったりするのだ。香港という、いろいろなフュージョン料理を花開かせる場所は、うどんのように、多様な組み合わせを実現させてくれる素材がうけいれやすいのではないかと思ったりするのである。
あくまでも、ぼくの仮説のひとつである。
ぼくはどちらかというと「蕎麦派」なので、香港でおいしい蕎麦(立ち食い蕎麦でもよいのだけれど)がないことは少し残念に思ってきたのだけれど、ここは香港、その他いろいろな麺類を楽しむことができるわけだし、現地では現地のものがやはりおいしい。
香港にいて無理してまで年越し蕎麦を食べるつもりもなく、でも、外は結構寒く、年越し蕎麦が暖かいスープ麺を連想させることから、「魚蛋河紛」の麵を大晦日に食べることにした。
「魚蛋河紛」は、英語ではFishball Noodleが近い。麺はきしめんのような麺で、具として、つみれ(魚団子)やはんぺんなどがつく。
香港では相席が日常であり、大きなテーブルに相席ですわり、香港の人たちに混じって食べる。食べながら、すっかり、心身が暖かくなる。香港各地に専門店があって、有名店はいつも人が並ぶ。今日も、早めに行って麺を楽しみ、食べ終わってお店から出ると、外は行列であった。
香港のスピーディーな速さのなか、わいわいがやがやとエネルギーのみなぎる店内で、いつものように「魚蛋河紛」を楽しみ、店をあとにしてから、ぼくは、「香港」の風景を、なぜだかどこか遠くから見ているような、懐かしく見ているような、そんなふうに感じるのであった。
なにはともあれ、香港での一年が、ふたたび過ぎようとしている。
香港の「空」を見ながら。- 香港の、陽光としずかな雲の織りなす風景。
暖かい陽気のクリスマスのあと、ようやく、香港に「冬」がやってきたようだ。陽光は暖かさをふりそそいでいるけれど、ときおり吹く風が冬の冷たさをはこんでくる。
暖かい陽気のクリスマスのあと、ようやく、香港に「冬」がやってきたようだ。陽光は暖かさをふりそそいでいるけれど、ときおり吹く風が冬の冷たさをはこんでくる。
道をゆく人のなかには、半袖であったり、サンダルを履いている人もいるから、いつもながら、なんとも捉えどころのない冬ではあるのだけれど、やはり季節はうつりかわりを見せている。
香港の街は大気の問題からどこかうっすらと曇りがかったようでいるのだけれど、香港の「空」では、暖かな陽光としずかに動きゆく雲たちのコラボレーションが鮮やかにきらめきをつくりだしている。
ふーっと、心がもちあがるように、すいこまれる。
2018年も終わろうとしているなか、でも、そんなことを気にするふうでもなく、香港の「空」は、この地球の美しさをたたえている。
<人間の生きることの歓び>は、ただ、このような経験のうちにあったりする。そんなことを、ぼくは思い起こす。
「発展途上国の開発・発展と国際協力」を研究していたころ、「人間のベーシックニーズ」(住まいや食べ物や水など)ということにふれ、「ニーズ」ということを正面から考えていた。そのようなとき、見田宗介の名著『現代社会の理論』に出会い、その本のなかで語られる<人間の生きることの歓び>に、ぼくはすっかり惹かれて、いくどもいくども読み返すことになった。
…生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。…
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも、本原的なものである。見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)
「ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受」する。
「必要(ニーズ)」よりも歓喜と欲望は本原的であると、見田宗介は書いている。だからといって「必要」をおろそかにしていいということではないけれど、「生きる」ということが、「最も単純な歓びの源泉」であることの経験と享受と理解は、決定的なものであるように、ぼくは思う。
この源泉は、いま、そしてこれからの時代を、一歩、一歩、あゆんでゆくための、たしかな土台である。
香港で、日本産の「さつまいも」を選びながら。- 「さつまいも」への視点。
「さつまいも」がいっぱいに積まれている。
「さつまいも」がいっぱいに積まれている。
日本のいろいろな産地・農場の「さつまいも」だ。ぼくの生まれ故郷である浜松の「うなぎいも」(うなぎを肥料として栽培されたさつまいも。浜名湖のうなぎと遠州浜のさつまいものコラボレーション)も並んでいる。
ここ香港の、スーパーマーケットの光景だ。
さまざまな産地・農場の「さつまいも」が、ほんとうにいっぱいにならんでいる。ここ数ヶ月、ずっとそんな様子だから、香港の人たちはそんなにたくさんの「さつまいも」を食べる習慣があったかどうか、途中から疑問がわいてくる。
香港での「さつまいも」と聞いて、ぼくが思いつくのは、デザートである。「糖水」のひとつで、しょうがのスープにさつまいもが入っている。とてもシンプルなデザートで、身体があたたまる。家でもつくることのできるデザートだけれど、「糖水」を提供するような香港のデザート店で食することができる。
「さつまいも」と聞いてすぐに思いつくのは、そのくらいなのだ。だから、たくさんの日本産「さつまいも」を前にしながら、ふと気になってしまうのである。
香港で10年以上暮らしながら、香港で受け入れられる「日本食」や「日本食食材」の動向が気になったりするのだけれど、たとえば、「納豆」がより日常化して、香港のスーパーマーケットで売られるようになってきたのを実感する。香港に住んでいる日本人だけでなく、香港の人たちも購入している。
「さつまいも」も、ここのところスーパーマーケットでよく見られるようになっていて、日本からの市場開拓と輸出がすすんできたのだろうと思いながら、また供給が増えたことから価格もよりリーズナブルになってきている恩恵も受けながら、ぼくは「さつまいも」を購入する。こうして、日本産の「さつまいも」はやはり甘いなぁと感じながら、おいしくいただくのである。
そうしているあいだにも、スーパーマーケットには、日本から輸入された「さつまいも」が、ひきつづき、いっぱいに並んでいる。さらに、増えたようにも感じるほどだ。
そのようにして「ふと気になったこと」を、ぼくは、香港の友人に直接に聞いてみる機会があったので、聞いてみることにした。
香港の人たちは、どのようにして「さつまいも」を食べるのか。
「デザートとして食べますよ」と、ぼくが連想していた、しょうがとさつまいもの「糖水」が最初の応答であった。
でも、それだけでは、来る日も来る日もスーパーマーケットに並ぶ「さつまいも」の事情は説明しきれない。だから、ぼくの質問の背景を説明して、再度聞く。
「そのままでも食べるよ。ふつうにふかすなどして」
日本産の「さつまいも」はとても甘く、最近は価格もリーズナブルになってきているから、よく食べられているのではないかと、友人は話してくれる。
ぼくは別に突飛な回答を期待していたわけでもないから、話を聴きながら、ふつうに納得してしまう。
「さつまいも、香港」でグーグル検索をしてみると、日本の農家の事情、香港・台湾・シンガポールの市場開拓など、記事や動画などで知ることができ、これがなかなかおもしろい。
日本では小さい「さつまいも」の市場価値がひくいところ、香港では(料理しやすいことなどから)小さいものが好まれると見た農家が、そこに特化してゆく様子などが語られていたりするのだ。
いろいろな人たちの、いろいろな事情が、いろいろな仕方で絡まり、つながりながら、香港のスーパーマーケットに日本産の「さつまいも」が、こうして並んでいる。
そのような新たな「視点」が、いっぱいに積まれている「さつまいも」に、いっそう興味をもつことの契機となる。いつも見ていたなんでもない風景が、「いつもとは違う」風景として見えてくる。
そんな香港のスーパーマーケットの野菜売り場で、「さつまいも」を前に、状態のよいものを選ぶ。選んでいると、ふと、香港の人たちも立ち止まって、「さつまいも」を選びはじめるのであった。
香港で、「納豆」を食べながら。- 香港で日常化する「納豆」。
2002年から海外に住むようになって16年が経過し、それ以前のニュージーランドでの滞在(1996年)も含めると、通算で17年ほど海外に住んでいることになる。これまでの人生の40%ほどの「時間」が、日本の外であったことになる。
2002年から海外に住むようになって16年が経過し、それ以前のニュージーランドでの滞在(1996年)も含めると、通算で17年ほど海外に住んでいることになる。これまでの人生の40%ほどの「時間」が、日本の外であったことになる。
海外にいながら、日本と「海外」の<あいだ>のようなところで、いろいろと経験し、いろいろと考え、いろいろと感じてきた。
そんななかで「納豆」を媒体としながら、考えることもあったりする。「納豆」とは、あの、食べ物の「納豆」である。
ここ香港で暮らしながら、ぼくは結構な頻度で「納豆」を食べている。その頻度は、今では日本に住んでいたときと変わらないくらいである。
香港に住みはじめてから11年半ほど経過したが、そのあいだに、納豆はますます容易に手にいれることができるようになってきた。
香港に来た最初の頃は、たとえば、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるSOGOの地下、あるいは日本人が多く住むTaikoo Shing(太古城)にあるAPITAに行って、納豆を含め日本食材を購入していた。それが、最近では、香港系のスーパーマーケットでも、まるでこれまでずっとそこにあったかのように、納豆が並んでいる。
納豆を購入する人が日本人だけにかぎらず、マーケットが拡大してきたのだろう。このようなマーケットの拡大のお陰もあって、納豆が容易に手に入るようになり、ぼくはいつでも好きなときに納豆を食べることができるのだ。
ニュージーランドにいたときはどうだっただろうかと、ぼくは思い返す。ニュージーランドのオークランドで、ぼくは日本食レストランで働いていて、果たしてレストランで納豆を供していたかどうか。さすがに、1996年のことで、ぼくの記憶は定かではない。でも、普段食べることはなかったことを、ぼくは覚えている。日本食食材のお店も、当時は小さなお店があっただけである。
2002年から2003年にかけて西アフリカのシエラレオネにいたときは、さすがに納豆はなかった。シエラレオネにいる日本人は一桁であったし、日本食材というものは、海外で造られたキッコーマンの醤油のようなものを除いてはなかったと思う。アフリカと日本との「距離」をさすがに感じたことを覚えている。
でも、2003年の半ばに東ティモールに移ったときは、驚かずにはいられなかった。当時、まだ日本の自衛隊が東ティモールに展開していたことの影響もあっただろうけれど、日本食レストランがあり、また、日本食食材(製造場所は海外も含む)も、品数は相当に限られながらも、手に入れることができたからだ。そして、その限られた日本食食材のなかに「納豆」があったのだ。
華人の人たちによって経営されているスーパーマーケットに「納豆」があったのだけれど、でも、さすがに購入はしなかった。その納豆は「冷凍」されていて、いつからそこにあるかわからないようなものであったからだ(多分、賞味期限も切れていたのだと思う)。しかし、なにはともあれ、東ティモールで納豆を手に入れることができる。そのことはやはり驚きであり、また日本との「近さ」のようなものを、ぼくは感じたのであった。
そして2007年にここ香港に移り、日本食食材の充実さにぼくは圧倒され、それ以降、ますます充実してゆく日本食食材を享受してきたことになる。
海外に住みながら、<ふるさと>の感覚を感じるときはどんなときだろうと、ぼくは考えたことがあった。ぼくが住んできた場所で、日本からもっとも遠いシエラレオネの地で、より正面からぼくは考えはじめたのだと思う。
そのときに思ったのは、<ことば>(ぼくの場合は「日本語」)であり、また<食べ物>(ぼくの場合は「日本食」)であり、そして、<親しい人たちの存在>ということであった。
もちろん、地球を「ふるさと」とする感覚においては、どの場所をも<ふるさと>とする感覚をもつことは不可能ではない。でも、そのこととは異なる次元において、どんなときに、どんなものに<ふるさと>を感じるのだろうかと、ぼくはこのじぶんの身体の経験を通じて、正面から考え、ことばと食べ物と親しい人たちを<ふるさと>として感じたのであった。
でも、時代は急速に変わってきた。グローバル化の進展と情報通信技術の発展で、ぼくたちは、世界のどこにいても、たとえば日本語で会話し、親しい人たちとつながることができる。場所によっては、日本食も(お金はかかるかもしれないけど)容易に手に入れることができる。だからなのか、日本からだいぶ足が遠のいてしまっている。
香港で納豆をかき混ぜながら、ぼくはそんなことを考える。「納豆」に、<ふるさと>をどこか感じながら。
人間の知の究極の主題について。- 人の探求の「最終的な目標」。
大澤真幸にとっての、ライフワーク的な仕事である著書『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂、2012年)。大澤真幸にとっての師である見田宗介(真木悠介)の論文『自我の起原』(のちに同タイトルで書籍化。岩波書店、1993年)のスリリングな論考に触発された著書である。
大澤真幸にとっての、ライフワーク的な仕事である著書『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂、2012年)。大澤真幸にとっての師である見田宗介(真木悠介)の論文『自我の起原』(のちに同タイトルで書籍化。岩波書店、1993年)のスリリングな論考に触発された著書である。
この著書の最初には「知の究極の主題」と題された節がおかれていて、つぎのように文章がはじまっている。
人は知ろうとして、探求する。しかし何を知りたいのか?何が探求の目標なのか?
人が知ろうとしているもの、人の探求の最終的な目標、あらゆる学問の蓄積が最終的にそこへと向かって収斂していく場所、それは何か? 自分自身である。大澤真幸『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂、2012年)
人の探求の「最終的な目標」は、<自分自身>であること。この文章は、読む人によっては、唐突に聴こえるかもしれない。知の形態も、知の内実も、さまざまであるからである。とりわけ、知の対象が、「自分自身」に直截に向かうのではなく、外部のものに向かうようなときには、違和感がのこる。
だから、大澤真幸はつぎのように説明を加えている。
とするならば、人間のすべての知を規定している究極の問いとは、<人間とは何か?>にほかなるまい。一見したところでは、この問いには関係していないような知的探求の領域もある。素粒子の構造についての研究とか、金融政策の効果についての研究とか、特殊な素材の電気の伝導率についての実験等々と、われわれは、何でもかんでも、すべてを知ろうとしているように思われる。だが、こうした多様でばらばらな主題や諸分野も、畢竟、<われわれは何者なのか?><人間とは何か?>という謎へと迫るための多様な迂回路なのだ。
大澤真幸『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂、2012年)
多様でばらばらな主題や諸分野も、たとえそれが素粒子であっても、金融政策であっても、電気であっても、それらは、<人間とは何か?>という究極の問いにつながっている。大澤真幸は、そう定めている。
そうはいっても、まだ首をかしげる人もいるかもしれない。「〇〇は何か?」という「what」の問いもあれば、「どのように…するか?」という「how」の問いもある。問いの向けられる先が、「当面の解決方法」であったり、「表面上の知識」であったり、また「損得にかかわるもの」であったりするかもしれない。。試験に受かるためだとか、お金がもうかる方法だとか。
ただ、「知」をどのように利用するのか、ということを取り除いて考えてゆくと、たしかに、究極の問いは<人間とは何か?>というところに収斂していく。
そして、探求がやがて収斂してゆくところが「自分自身」であるということ(<人間とは何か?>という問いであること)を見定めておくことは、知の探求における「軸」とすることもできると、ぼくは思う。どんな多様な迂回路を通過していようとも、「軸」を定めておくことで得るものがあるということである。
20代を通して、研究においても実践においても「Development Studies(途上国の開発・発展、また国際協力)」という分野につかっていたぼくは、その諸相と方法を学ぶなかで、やがて探求の次元を「開発・発展とは何か?」というところに押し上げざるを得なくなった。そしてそれは、今思えば当然のことながら、「人間とは何か?」という問い(あるいは、この問いにつらなる、人間の生きる目的や人間のしあわせとは、などという問い)を発せざるを得なくなるところに、ぼくの思考を押し出していったのであった。
ぼくはその延長線上に、香港で人事労務という領域、つまり「人」を中心主題とする仕事へとつなげていき、そこから、今こうして、「生きかた」というところへと幅をひろげている。その根柢には、ずっと「自分自身」に向けられた問いがあり、<人間とは何か?>という問いが、「知の究極の主題」として横たわっている。
はじめから明確に意識していたわけではないけれど、表面的な意識よりももっと深いところでは、この「知の究極の主題」をぼくはいつも追ってきたのだと、今の時点からふりかえりながら、ぼくはそう思うのである。
神経回路の「絶望的な混線」(三木成夫)。- 「内臓感覚のいちばん麻痺しているのが、ホモ・サピエンス」ということ。
ぼくたちの「身体」はぼくたちに日々、瞬間瞬間に、さまざまな「シグナル」を送りつづけている。
ぼくたちの「身体」はぼくたちに日々、瞬間瞬間に、さまざまな「シグナル」を送りつづけている。
そうして送られる「シグナル」を、いわば「レシーバー」でキャッチし、じぶんは「何が必要だ」「何がしたい」ということへに変換する。
でも、むずかしいのは、この「変換」である。
人間の「内臓系」(からだの内側に蔵されている“はらわた”の部分。これに対し「体壁系」は手足や脳、目や耳などの感覚器官など、からだの外側の壁を造っている部分)についての講演会で、解剖学者の三木成夫が挙げた事例が、そのことを端的に教えてくれる。内臓の感覚として、最初に挙げられたのは「膀胱感覚」で、三木自身の子どもの観察を交えた事例である。
少し長くなるけれど、この「観察された事例」、それはだれもが(自身として、あるいは子どもに対応する者として)体験し、その体験をいくぶんか記憶しているであろう事例を共有しておくことで、内臓系のシグナルを感受することの「複雑さ」を理解していただけるだろう。少なくともぼくの理解は、一気にすすんだ。
ちょうど、あのオシメが取れた頃のことです……。子どもが一人で遊んでいる。その遊んでいる時ーたとえば積み木をしたり、絵本を観たりしているその一連の動作のなかで、なにか異質な動きが、ふっと入る……。腰のあたりが……(笑声)。これを見た時ありゃいったいなんだ……(笑声)。
ところが、しばらくしたら隣の部屋から、母親の声が聞こえてくる……「オシッコでしょう?」という、まだのんびりした声です。子どもはしかし見向きもしない……。私はその時、あれがサインかと初めて知った(笑声)。
そこでなんとなく見てますと、それは、ある一定の間隔を置いてやってくる。明らかに異質な動きです。…ちょうど“陣痛”と同じで、だんだん間隔が狭まってくる(笑声)。そのうちに、今度は母親の声が少し大きくなって「早く行ってらっしゃい」とやるわけです。子どもは、いぜんとして見向きもしない。
…そうこうしているうちに…動きがかなり激しくなってくる(笑声)。…そのうちに、だんだんむずかるんですね……。ヤレおんぶしろとか、肩ぐるましろとか……。こりゃうるさいことになるゾと思って考えてますと、案の定、隣の声も「ハヤク行きなさイっ」ってグッと切迫度が加わってくる(笑声)。『内臓とこころ』(河出書房新社、2014年)
母親にしてみれば「それなりに切実な問題」であろうとしながら、子どもにとってみれば、これは「まったく関係ない」こと、つまり「トイレという感覚が浮かばない」のだと、三木成夫は冷静に観察をしている。
三木成夫はさらっと述べているけれど、「トイレという感覚が浮かばない」ということは、ここで語られていることの核心である。ぼくは、単純に、子どもは「遊び」などに夢中なのだと思っていたのだけれど、その見方は「トイレに行くこと」がほぼ無意識的に日常に組み込まれた者たちが投影している見方のようだ。
「トイレという感覚が浮かばない」子どもは、トイレに行こうとする気配を見せず、拒否を継続してゆく。じぶんの体験か、あるいは他者(子ども)の様子なのか、どこか既視感のわく状況描写である。
私は子どもを横で見てまして、いろんなことを教わりましたが、これだけは、ほんとうになるほどなあ……と思った。そこで、今度はいよいよ「それオシッコが出るョー」といって、膀胱の真上あたりをギュッと押さえてやる。そしたら、なるほどそれは感覚として、かなり強く響くのでしょうが、本人は、それが自分の内部から出たものだとは思わないから「イヤダ」といって手を払って、行こうとはしない。…
…しまいにうるさいから「……もっと向こうで遊んでおいで、お父さん、お仕事すんだら一緒に遊んであげる」。すると、いちおうは向こうへ行きかけるのですが、もうその頃は地だんだ踏んで、とうとう部屋をあっちこっち走り回る……(笑声)。こうなったら母親も真剣です「ハヤクシナサイッ!」さすがに迫力がある。「イヤ、イカナイ」。もうまるで真剣勝負です。…
…それで、最後のとどめは、もうギリギリの瞬間、あの天の啓示のように「オシッコー!」(笑声)、それはもう心の底から叫んで一目散に駆って行ったーその早かったこと……(笑声)。ともかくも皆さん、人間の内臓感覚とはいかなるものか、全部ここに尽くされている、と私は思います。…『内臓とこころ』(河出書房新社、2014年)
「人間の内臓感覚とはいかなるものか、全部ここに尽くされている」と、三木成夫は語っている。すべてが、ここに尽くされている、と。
ここに「すべてが…?」と思いながら、人は、実際には、身体の(ここでは内臓系の)シグナルを正確に受けて行動するということは、思っている以上にできていないのではないか、という考えが、ぼくのなかに浮かぶのである。
三木成夫の言い方を借りれば、「麻痺している」のである。
三木成夫は、少し極端な言い方で、講演会の徴収に問いかけている。じぶんの体のなかにタンパク質がどれだけ足りないのか、動物タンパクか植物タンパクか、さらには脂肪がどれだけ不足しているか、といったようなことを、「ほんとうに素直に感受できる人間」がいたら、挙手してください、と。
そんな人はおそらく一人もいないはずであり、なぜなら「麻痺している」のだから、と三木成夫は語る。そのことが、三木の結論のひとつである。つまり、内臓感覚のいちばん麻痺しているのが、ホモ・サピエンスであるということである。
なお、三木は講演がすすんだところで、このことを、現代の神経学の用語を借りて、「神経回路を、どこかで取り違える」のだと述べている。「なにしろ、私どもの脳のなかには、それこそ天文学的な数の回路が、乱麻のごとく張りめぐらされているのですから……。絶望的な混線が起きる」のだと。
そして、上述の例をふたたびとりあげながら、膀胱の不快な感覚がひとつの回線をつたって、大脳皮質にたどりつくまでに、これが引き金で、いろいろな雑音(親のヒステリー声やお尻ピンや諸々の「不快」)が割り込んできては「正規の回路」をふさぎ、混戦がきわまってゆくのだと、三木成夫はつづける。これは「ほんとうに深刻な問題」であるのだと。
「膀胱感覚」は内臓感覚のうちのあくまでもひとつであり、胃袋の感覚などへのひろがりを考えると、「内臓感覚のいちばん麻痺している、ホモ・サピエンス」にとって、ほんとうに深刻な問題である。
このような「麻痺」、つまり神経回路の「絶望的な混線」から生じている問題は、じぶんの日々の「よき生(well-being)」をはじめ、他者とのかかわりを含めて、多岐にわたっているのではないかと、ぼくは見ている。でも、それが、人間の生に「ドラマ」を投げ込むものでもあるのだと、ぼくは思う。
ここから「どこへ」行くのか、と問う人がいるかもしれない。まずは認識からだと、ぼくは思う。生命を知ること。ホモ・サピエンスを知ること。「じぶん」を知ること。完全に知ることは無理でも、可能な地平まで。
ところで、ここで取りあげた箇所は、著書『内臓とこころ』(河出書房新社、2014年)の「最初」の章に収められており、またその元となった講演会の「最初」に触れられた話でもある。「最初」から、こんな調子である。
それは、まるで、ビートルズ(The Beatles)の名盤『A Hard Day’s Night』が、最初の曲「A Hard Day’s Night」の、あの短く高らかに鳴り響くギター音で幕が開けられるように、はじまっている。最初から聴く者(読む者)の頭のなかに、「革新(あるいは、核心)」を打ちこむのだ。
「クリスマス休戦」(1914年)のこと。- ぼくの「経験」と重ねあわせながら考えること。
クリスマス休戦(Christmas Truce)。第一次世界大戦(1914-1918)中の1914年12月24日から12月25日、西部戦線でみられた一時的停戦。なんらかの休戦協定などによる停戦ではなく、各地の最前線で、自然発生的に生まれた停戦である。停戦中、敵対していたドイツとイギリスの兵士たちが、共に歌を歌ったり、食べ物などをシェアしたりして、クリスマスを祝ったといわれている。
クリスマス休戦(Christmas Truce)。第一次世界大戦(1914-1918)中の1914年12月24日から12月25日、西部戦線でみられた一時的停戦。なんらかの休戦協定などによる停戦ではなく、各地の最前線で、自然発生的に生まれた停戦である。停戦中、敵対していたドイツとイギリスの兵士たちが、共に歌を歌ったり、食べ物などをシェアしたりして、クリスマスを祝ったといわれている。
もちろん、実際には場所によっていろいろな状況ーよい状況も、悪い状況もーが生まれていたし、また1914年以降は上層部の命令によって「クリスマス休戦」は禁止されたようだが、それにしても、このようなことが戦争という極限の状況において起こったという事実に、ぼくたちは心を動かされ、また考えさせられることになる。
どのようにして、どのような条件で、このような「休戦」が可能であったのか?
「クリスマス休戦」に直接的に焦点をあてながら研究もなされてきたようだが、ここではその詳細に入ってゆくほどの知識をぼくは持たないし、思考を深めてもいない。けれども、100年以上前のこの「クリスマス休戦」と、もしかしたらどこか通底しているような状況に、ぼくはかつて東ティモールで遭遇した経験を重ねながら考えている。
2002年にようやく独立をはたした東ティモール。国連をはじめ、国際的な支援のもと、独立後平和な状況にあった東ティモールは、2006年半ば、ディリ騒乱を発端に、国内情勢が不安定化し、国内避難民を生じる事態へと至った。
銃撃戦を逃れ、騒乱発生翌日にインドネシアを経由して日本に戻ったぼくは、治安が若干安定した段階で、ふたたび東ティモールに戻った。2006年9月頃のことであった。東ティモールに戻り、関わっていたコーヒー事業をふたたび軌道にのせ、2006年末、ようやく一息つけるところとなった。
東ティモールに戻って事業をすすめているあいだ、情勢はひきつづき不安定で、ディリ市内では住民の一部が国内避難民として家に帰ることができず、あちらこちらで争いが起きていた。事業は一息ついたところであったけれど、その意味では、緊張を解くことができないままに、ぼくは日々を過ごしていた。
年末はいつもであれば所用で日本に戻っている時期だが、その年はクリスマスから年末年始にかけて、ぼくはディリに滞在することになっていた。
そのようにして迎えたクリスマス。ディリ市内の争いが一時的に沈静化し、「しずかな夜」が訪れる。
東ティモールはカトリック教徒が大半であり、そんな人たちにとっては、クリスマスは大切なときだ。たぶん、そのような事情もあったのだろう。ディリ市内に「しずかな夜」が訪れたのであった。
今でもぼくの記憶のなかには、そのときに感じた安堵感(「争いは止まる(止めることができる)」)とともに、「しずかな夜」の空気感がのこっている。
このような記憶のなかで、「クリスマス休戦」という歴史的出来事は、ぼくのこの経験に重ねられるのである。
「クリスマス休戦」には、「humanity(ヒューマニティ)」という言葉が添えられることもある。想像でしかないけれど、たしかにそのように語られるような状況もあったのだろう(あるいは、少なくとも、そこに「希望」を見出したいのだということもある)。
でも、「人間性」ということでぼくを捉えるのは、「クリスマス」という、いわば「物語・ストーリー」を持ちつづけている「人間」という存在についてである。
人間は、「物語・ストーリー」(あるいは、幻想)という仕方で、いろいろなことを「信じて」いる。そのような、人間の固有性が、戦争や争いのなかでも、生きている。もちろん、そのような「物語・ストーリー」が極端な仕方で信じられて、いろいろと非人間的な行為がなされたりすることがあるのだけれど、肝要なことは、それでも、共通する「物語・ストーリー」を持っていることである。さらには、「物語・ストーリー」は変えてゆくことができることである。
「物語・ストーリー」については、「ホモ・サピエンス」を論じてきた歴史学者のYuval Noah Harariも、キー概念として語っている。あるいは、これまでにも「共同幻想」などとして、いろいろと語られてきた事象である。
人間は、「物語・ストーリー」の外部に出ることはできない。「物語・ストーリー」なしでは生きていけない。でも、共通する「物語・ストーリー」をもって共生し、協力することができる。
それは「希望(hope)」であると、ぼくは思う。
自然のなかで得たインスピレーションに導かれるクリスマスソング。- Gwen Stefani のクリスマスアルバム『You Make It Feel Like Christmas』。
ぼくにとっての「クリスマスソング」と言えば、いわゆるスタンダートナンバーももちろんチョイスのうちだけれど、なによりも、John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲「Happy Xmas (War is Over)」である。
ぼくにとっての「クリスマスソング」と言えば、いわゆるスタンダートナンバーももちろんチョイスのうちだけれど、なによりも、John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲「Happy Xmas (War is Over)」である。
ほんとうのところを言うと、この名曲は、「クリスマス」に限ることなく、ぼくの生きるという経験において、ひとつの大切な「物語」の一部としてありつづけてきたように思う。
昨年のブログ「東ティモールでむかえた「クリスマス」(2006年)の記憶から。- 「War is over, if you want it...」(ジョン・レノン)」で書いたように、2006年の騒乱を受けた混乱のなかで、ぼくのなかで、この曲が流れていた。2006年だけでなく、それ以前、西アフリカのシエラレオネにいたときだって、その内戦が終結したばかりの国で、この曲はぼくのなかで鳴り響いていたし、今だってぼくのなかで奏でられている。
そうでありながら、今年(2018年)挙げておきたい「クリスマスソング(クリスマスアルバム)」は、Gwen Stefaniのクリスマスアルバム『You Make It Feel Like Christmas』(2017)。
全12曲(6曲のオリジナルと6曲のスタンダードナンバーのカバー)が収められたこのクリスマスアルバムは2017年に発表され、2018年には「Extended Edition」として、5曲(2曲のオリジナルと3曲のカバー)が加えられた。
アルバムのタイトルともなっているオリジナル曲「You Make It Feel Like Christmas」を含め、楽しさと歓びとインスピレーションに充ちた曲たちが収められている。また、想像したこともなかったのだけれど、Gwen Stefaniの独特の歌声は、なんともクリスマスソングとの相性がよいのだ。
Gwen Stefani(グウェン・ステファニー)は、アメリカのバンド「No Doubt」のボーカリストとして世に知られるようになり、ソロでも活動をしてきた歌手である。
彼女の存在をぼくが知ったのは、1996年のこと。当時は「No Doubt」のボーカリストであったグウェン・ステファニー。アルバム『Tragic Kingdom』(1995)、およびそこに収められた曲「Just a Girl」が人気を博していたときだ。
1996年にニュージーランドに住んでいたぼくは、ハウスメートたちと一緒にテレビで観ていたMTV番組を通じて、バンド「No Doubt」のことを知った。「Just a Girl」の曲に、ぼくは惹きつけられたのであった。ぼくは、オークランドのレコード店で、手頃な価格のカセットテープでアルバム『Tragic Kingdom』を購入したことを記憶している。
さらに運がよかったのは、1996年9月に「No Doubt」が『Tragic Kingdom』の世界ツアーで、オークランドにやってきたことである。ぼくはこうして「No Doubt」の音楽を、オークランドのライブハウス「Powerstation」で直接に聴くことができたのだ。
ぼくが当時住んでいた家からすぐ近くにあったライブハウス「Powerstation」はまさにライブハウスで、それほど大きくもなかったから、ぼくはほんとうに間近で、「No Doubt」の音楽の、あのうねりと熱を感じることができた。
でも「No Doubt」の音楽はアルバム『Tragic Kingdom』を頂点としながらバンド活動は次第に縮小してゆき、ぼくも、このアルバムを除いて、それほど聴かなくなっていった。
そのあいだもグウェン・ステファニーがソロ活動を展開していたことなどは耳にしていたのだけれど、そんな時期がずっとつづいていたところ、昨年(2017年)、クリスマスアルバム『You Make It Feel Like Christmas』が世に放たれ、聴けば聴くほどに、このアルバムに惹かれるのであった。
「クリスマスアルバム」をつくろうと触発された契機は「nature walk」(自然のなかを歩くこと)のなかにあったのだという(※Wikipedia英語版)。
ボーイフレンドであり、「You Make It Feel Like Christmas」の曲をともに歌っているカントリー・ミュージシャンBlake Sheltonのオクラホマにあるランチ・ハウスと自然のなかで、グウェン・ステファニーは、運動をしたり、メディテーションをしたり、祈っていたりしたのだという。近くにある自然のなかを歩きながら、ふと、自問がわいてくる。「クリスマスの歌をじぶんが書くとしたら、どんな歌になるのだろう?」と。
そんな問いとインスピレーションに導かれながら、クリスマスアルバムの制作につながってゆく。そのプロセスは、つらい感情を曲に変換するという前作とは異なり、ただ「歓び」に充ちていたようだ。
そんなふうにして、楽しさと歓びとインスピレーションに充ちたクリスマスソングがつくられ、ここに収められた曲たちを通して、それらの感覚がぼくたちに伝わってくるように、ぼくは思う。
そこに1996年にオークランドで聴いたグウェン・ステファニーの独特な歌声の芯をひきつづき感じながら、でも、20年の歳月とそのあいだの彼女の生が凝縮され、深いところに込められているようにも、ぼくは感じる。いろいろな辛い体験や困難なことも一緒に凝縮され、たしかな地層ができて、その地層から「楽しさと歓び」が生成されてきたような曲たちと歌声である。
名曲「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」の響きのほうへ。- ルイ・アームストロングの歌声と音色に照らされて。
ときに、ルイ・アームストロング(1901-1971)の「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」を無性に聴きたくなる。すばらしい文学作品がそうであるように、この曲の短い出だしだけで、ぼくは一気に、その音楽が紡ぐ「物語」の世界にひきこまれる。
ときに、ルイ・アームストロング(1901-1971)の「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」を無性に聴きたくなる。すばらしい文学作品がそうであるように、この曲の短い出だしだけで、ぼくは一気に、その音楽が紡ぐ「物語」の世界にひきこまれる。
作詞・作曲はG・ダグラスとジョージ・デヴィット・ワイス。ベトナム戦争や人種問題の深刻化という時代背景のなかでつくられた曲である(※Wikipediaなど参照。「背景」にはいろいろな見方や事情や経緯があるようだ)。
時代背景は、いっぽうで、John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲「Happy Xmas (War is Over)」や「Imagine」を、ぼくに思い起こさせる。
これらの名曲をぼくはほんとうに好きなのだけれど、それは、このような「時代背景」のなかで、曲に託された「世界」(戦争や紛争のない世界)と無縁ではないようにも思う。紛争後の世界(2000年代初頭の、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール)に身をおきながら、ぼくのなかでは、名曲「Happy Xmas (War is Over)」が鳴り響いていた(※ブログ「東ティモールでむかえた「クリスマス」(2006年)の記憶から。- 「War is over, if you want it...」(ジョン・レノン)」)。
「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」は、映画『グッドモーニング、ベトナム(Good Morning, Vietnam)』の挿入歌としても採用されているから、ぼくの記憶の深いところで、これらの名曲は通底していたのかもしれない。
「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」に限らず、ぼくは、ルイ・アームストロングの音楽、彼の歌声、それからトランペットの響きに心から惹かれる。
村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)では、JAZZアーティストたちと、アーティストそれぞれの「この一枚」(LP)が取り上げられているけれど、そこでも、ルイ・アームストロングが描かれ、書かれている。そして、和田誠が描くルイ・アームストロングの肖像、それから村上春樹の書く文章にふれながら、ぼくは、ルイ・アームストロングに、心から惹かれる理由がわかったような気がする。
ルイ・アームストロングは11歳のころ、つまらないいたずらが原因で警察に捕まり「ホーム」に入れられる。そこで楽器と出会い、チャイム代わりの「ラッパ」の役をこなし、さらにそれだけでなく、ルイのラッパを聞くようになったみんなは、とても楽しい気持ちで目覚め、とても安らかな気持ちで眠りにつくことができるようになったのだという。
音楽の、このような「効果」は、他のアーティスト(たとえば、ピアニストのLang Lang)の場合でも語られるのをぼくは読んだりするが、ルイ・アームストロングのこのエピソードは彼の音楽の「ほとんどすべてを物語っている」から大好きなのだと、村上春樹は書いている。つづけて、村上春樹は、つぎのように、ルイ・アームストロングの音楽について書く。
ルイ・アームストロングの音楽が、僕らにいつも変わらず感じさせるのは、「この男はほんとうに心から喜んで音楽を演奏しているんだ」ということである。そしてその喜びは見事なばかりに強い伝染性を持っている。マイルズ・デイヴィスはルイ・アームストロングの音楽を尊敬しながらも、舞台で白人聴衆に向かって歯を見せてにこにこと笑う彼の芸人性を厳しく批判した。でも僕はルイはほんとうに楽しくてたまらなかったのだろうと想像する。自分がこうして生きて、音楽を作り出して、人々がそれに耳を傾けてくれるというだけでたまらなく幸福で、何を考えるよりも先に、自然に、にこにこと歯を見せて笑ってしまったのだろうと思う。
村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)
この文章を読みながら、ぼくはたしかに、ルイ・アームストロングの音楽の核心にあるものがわかったような気がしたのだ。
でも、音楽の、あるいは世界の「楽しみかた」は、この核心そのものをその中心に向かって掘り尽くすことではなく、あくまでも、その核心に「照らされた世界」(つまり、ルイ・アームストロングの音楽)を楽しむことだ。村上春樹の文章は、核心を一気につくものでありながら、よりいっそう、この「照らされた世界」に照準されている。
そのようにしてルイ・アームストロングの音楽にもどると、「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」とともに、ぼくの心を深いところで揺さぶるのは、「Moon River」である。
彼の歌う、そして彼のトランペットが奏でる「Moon River」を聴くたびに、ぼくの心は、ほんとうに「揺れる」のだ。とくに、彼のトランペットが奏でる「Moon River」の響きに。
年を重ねることで得るもの。- ビリー・ホリデイの歌声に、村上春樹が<聴きとる>もの。
村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)を道案内としながら、Apple Musicで、村上春樹と和田誠がとりあげるJAZZアーティストたちひとりずつを訪れ、また村上春樹が選ぶ「この一枚」(元はLP)を探す。「この一枚」があるときは迷いなくその作品を、またなくてもアーティストの作品たちを、ぼくはじぶんの「ライブラリー」に収める。
村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)を道案内としながら、Apple Musicで、村上春樹と和田誠がとりあげるJAZZアーティストたちひとりずつを訪れ、また村上春樹が選ぶ「この一枚」(元はLP)を探す。「この一枚」があるときは迷いなくその作品を、またなくてもアーティストの作品たちを、ぼくはじぶんの「ライブラリー」に収める。
ここ香港の空に夕闇がおとずれるころ、ライブラリーから、意識的に、あるいは無意識的にアーティストや作品や曲を選びとって、再生する。音楽の響きに、耳を、それから心身を傾け、また村上春樹のことばをゆっくりと追う。ときおり、和田誠の描くアーティストの肖像をながめる。それだけで、しあわせなひとときだ。
でも、しあわせな感覚は、高揚するような感覚(そのようなときもあるけれど)というよりは、ぼくの心の地層に静かにそそぐ雨がゆっくりとしみこんでゆくような、そのような感覚だったりする。
多少なりとも年を重ねてきたことで感じるものがある。
「ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)」(1915-1959)を、若い頃の村上春樹はよく聴いたのだという。でも、ビリー・ホリデイの素晴らしさを「ほんとうに知った」のは、もっと年をとってからであったと、村上春樹は書いている。
でも、ビリー・ホリデイの晩年の録音は、若い頃は熱心に聴かず、むしろ避けていたという。とりわけ1950年代に入ってからのビリー・ホリデイの録音は、「痛々しく、重苦しく、パセティックに」聴こえたからだ。それが、30代に入り、40代に進むにつれて、逆に、晩年のビリー・ホリデイを好んで聴くようになる。
「ビリー・ホリデイの晩年の、ある意味では崩れた歌唱の中」に聴きとることができるようになったもの、あるいはそれほどまでに村上春樹を惹きつけたものは何かと、自らずいぶん考えたのだと、村上春樹は記している。
ひょっとしてはそれは「赦し」のようなものではあるまいかー最近になってそう感じるようになった。ビリー・ホリデイの晩年の歌を聴いていると、僕が生きることをとおして、あるいは書くことをとおして、これまでにおかしてきた数多くの過ちや、これまでに傷つけてきた数多くの人々の心を、彼女がそっくりと静かに引き受けて、それをぜんぶひっくるめて赦してくれているような気が、僕にはするのだ。もういいから忘れなさいと。それは「癒し」ではない。僕は決して癒されたりはしない。なにものによっても、それは癒されるものではない。ただ赦されるだけだ。…
村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)
村上春樹のことばをゆっくりとおいながら、ぼくは、それこそ、ずいぶんと考えさせられてしまった。「癒し(いやし)」ではなく、「赦し(ゆるし)」ということを。
ところで、ビリーホリデイの優れたレコードとして、村上春樹が選ぶのは、コロンビア盤。さらに、その中の一曲として、村上春樹は迷うことなく、「君微笑めば」(When You’re Smiling (The Whole World Smiles With You))を選んでいる。
…彼女は歌う、
「あなたが微笑めば、世界そのものが微笑む」
When you are smiling, the whole world smiles with you.
そして世界は微笑む。信じてもらえないかもしれないけれど、ほんとうににっこりと微笑むのだ。村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)
アップテンポで、心が楽しくなるようでいて、深い哀愁がただよう響きのなかで、「When you are smiling, the whole world smiles with you.…」と、ビリー・ホリデイの深い歌声が見事なまでに歌い上げている。レスター・ヤングのソロの響きも、心の深いところを揺さぶる。とてもすてきで、心をうつ曲だ。
昔どこかで聴いた曲であるけれど、そのときぼくは聴き流していたようなところがあったと思う。あれから、ひとこと、ふたことでは話せないほどの時間がすぎてゆき、今こうして聴くと、年を重ねてきたことで聴きとるものがたしかにあるように、ぼくは感じる。
このことは、たとえば、文学の古典的作品を「読めるようになった」ことに関する、思想家・内田樹のことばを、ぼくに思い起こさせる。
…夏目漱石を少年期に読んだときと、中年になってから読んだときとでは、テクストの表情は一変する。私たちは同じテクストにまったく別の相貌があることを知る。そして、もし私たちが「大人」になったせいで漱石のテクストを読めるようになったのだとしたら、その成熟には、少年期に漱石を読んだ経験がすでに関与しているのである。
内田樹『他者と死者ーラカンによるレヴィナス』(文春文庫)
はたして、「音楽」という経験も同じなのだろうかと、ぼくは考えてしまう。
内田樹の書く文章を、「夏目漱石」を「ビリー・ホリデイ」に、「テクスト」を「曲」に、そして「少年期」を「青年期」に書き換えて、読んでみる。
「ビリー・ホリデイを青年期に聴いたときと、中年になってから聴いたときとでは、曲の表情は一変する。私たちは同じ曲にまったく別の相貌があることを知る。そして、もし私たちが「大人」になったせいでビリー・ホリデイの曲を聴くことができるようになったのだとしたら、その成熟には、青年期にビリー・ホリデイを聴いた経験がすでに関与しているのである。」
うん、これはこれで成り立つように、ぼくは思う。
でも、成熟に「青年期にビリー・ホリデイを聴いた経験がすでに関与している」のだとしたら、どのような風に「関与」しているのだろうか。曲の響き、メッセージあるいはステートメント、世界観などが、<聴く>という行為のなかで、じぶんに「関与」してくるのだろうか。……
なにはともあれ、ビリー・ホリデイの曲と歌声を、少しは正面から<聴く>ことができるようになったことは、たしかなようだ。
「音楽ストリーミング」の楽しみかた。- 村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』を道案内としながら。
ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にしながら、「音楽ストリーミング」の時代の到来をいっそう現実的に、ぼくは実感する(※ブログ「「音楽ストリーミング」の時代のなかで。- 香港でその「移行期」を通過しながら。」)。
ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にしながら、「音楽ストリーミング」の時代の到来をいっそう現実的に、ぼくは実感する(※ブログ「「音楽ストリーミング」の時代のなかで。- 香港でその「移行期」を通過しながら。」)。
実際にはぼくも、Apple Musicが開始されて以来これまでずっと、Apple Musicの「音楽ストリーミング」サービスを利用している。Apple Musicによって、ぼくの手元に、5000万の曲たちにつながる「入り口」と「通路」を手にしたことになる。
音楽の好きな人たちにとっては、この夢のような世界が、現実として、手元に存在しているのだ。
そのような夢の世界の楽しみかたは、人それぞれに、いろいろと多様に、ひろがっているだろう。
たとえば、ある「名曲」の、いろいろなバージョン、さまざまなアーティストによるカバー曲も含めたいろいろなバージョンを、ぼくたちは楽しむことができる。名曲の曲名を検索にかけると、そのバージョンが贅沢にも、一覧で表示される。そのなかから、気になるものを選択するだけで、名曲の響きが空間にひろがってゆく。
エルヴィス・プレスリーの名曲「Can't Help Falling in Love」を検索して、ぼくはいろいろなバージョンを楽しむ。でも、やはり、エルヴィスの歌声に戻ってくるといった具合に。(※ブログ「エルヴィス・プレスリーの名曲「Can't Help Falling in Love」。- 「名曲」のなかの<名曲>というもの。」)
今取り組んでいるのは、村上春樹を「道案内人」としながら、ジャズの名作品にふれてゆくこと。村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)が、この冒険のガイドブックだ。
『ポートレイト・イン・ジャズ』は、和田誠が描くJAZZミュージシャンの肖像と、村上春樹が書くエッセイが共演する作品。1990年代に刊行された2冊(『ポートレイト・イン・ジャズ』と『ポートレイト・イン・ジャズ2』)に、ボーナス・トラックが加えられて一冊となった文庫である。
まるでJAZZの名演のように、和田誠の描く肖像と村上春樹の文章が、うまいぐあいに鳴り響いている。55人がとりあげられ、村上春樹の個人的選択による、それぞれの「この一枚」(LP)が写真とともに掲載されている。
だいぶ前に読み始めた一冊であったのだけれど、今読み返してみると、途中で「止まった」ままであったようだ。途中、ピアニストのビル・エヴァンスがとりあげられているのだけれど、エヴァンスの一枚として選ばれている「Waltz for Debby」をぼくは(香港のHMVで)手に入れて聴いているうちに、すっかりその世界にとりこまれて、そこでずいぶん長いあいだ、立ち止まって楽しんでいたようだ。
当時は、「音楽ストリーミング」の世界がきりひらかれていなかったときで、ここで村上春樹おすすめの名盤(LP)を知って、香港のHMVでCDを探す必要があったのだ(アマゾンなどで検索して注文する方法などもなかったわけではないけれど)。
今となっては、(ぼくにとっては)Apple Musicによって、5000万曲への通路がひらかれている。
『ポートレイト・イン・ジャズ』をはじめから再読しつつ、そこで取り上げられている名盤を、Apple Musicで探す。あるものもあれば、ないものもある。「この一枚」がなくても、たとえば、Chet Bakerの他の作品やライブ録音を眺めては、「これだ」と思うものをひろって、じぶんの「ライブラリー」に収めてゆく。その過程での思ってもみなかった「出会い」に、心がおどることもある。
村上春樹の「この一枚」でApple Musicにあるものであれば、迷わず、「ライブラリー」に入れる。そうして、村上春樹が曲名にふれているのであれば、その曲を再生して、その曲の響きに耳を傾ける。そうして、村上春樹の「ことば」と、曲の「響き」を重ねてゆく。音楽の聴き方はとても個人的なものでありながら、その響きはどこかで個人を超えて、深いところで通底することもある。楽しいひとときだ。
別に村上春樹である必要はない。ぼくにとっては、たとえば、道案内人のひとりが、その感覚を信頼できる道案内人のひとりが「村上春樹」であっただけだ。
また、あたりまえのことだけれど、JAZZである必要もない。ぼくは今、このタイミングで、JAZZが聴きたくなっただけだ。これまで、ぼくにとってのJAZZは、とても限られた範囲だけであった。でも、ぼくの今の心身が、JAZZの響きとそこに在るものに、とても惹かれるのだ。
村上さんは、言うかもしれない。やはり聴くなら、LPをターンテーブルにのせて聴くんだよ、と。ぼくもLPにはまっていたときがあるから、そのよさは多少なりともわかる。デジタル音楽・「音楽ストリーミング」は、JAZZのほんとうの響きに、ある種の「距離感」をつくってしまうかもしれない。
でも、「いろいろな楽しみかた」があってよいのだと、ぼくは思う。楽しみかたは、無限にひろがっている。
ぼくは『ポートレイト・イン・ジャズ』の道案内に忠実にしたがいながら、音楽ストリーミングのライブラリーに分け入っては、JAZZの世界を楽しんでいる。
「音楽ストリーミング」の時代のなかで。- 香港でその「移行期」を通過しながら。
ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にして、後もどりすることのない時代の流れを感じる。CDやDVDなどに代わり、Apple MusicやSpotifyなどの「音楽ストリーミング」サービスが主流となる。
先日(2018年12月18日)に、ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にして、後もどりすることのない時代の流れを感じる。CDやDVDなどに代わり、Apple MusicやSpotifyなどの「音楽ストリーミング」サービスが主流となる。
香港のHMVは25年ほど前に香港に登場し、音楽シーンの中心的役割の一端を担ってきた。ぼくが香港に来た2007年、HMVには多くの人たちが出入りしていた。
当時は、映画などはDVDだけでなく、VCDもあって、HMV内にもVCDコーナーが設置されていた。音楽CDの品揃えは香港内ではやはり群を抜いていたから、ぼくは時間を見つけては、銅鑼灣(Causeway Bay)、中環(Central)、九龍湾(Kowloon Bay)のHMVに立ち寄ったものだ。
驚いたのは、日本で購入するよりもリーズナブルな価格でCDもDVDも購入できたこと。そんなこともあって、結構いろいろなCDとDVDを香港のHMVで手に入れた。当時よく聴くようになっていたクラシック音楽をはじめ、香港の生活のなかで縁の深かったビーチボーイズ(特に、名盤「ペット・サウンズ」)など、ぼくの香港生活においてなくてはならない「音楽」は、その多くをぼくは香港HMVで手に入れたのであった。
香港で、CDとコンサートがひとつの「セット」のような仕方で、ぼくは音楽を楽しんできたと、10年以上の香港生活をふりかえってみて思う。
ノルウェイのピアニストであるLeif Ove Andsnesが弾く「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850を、その息づかいが身体にしみこむまでCDで聴いていたところ、彼がマーラー室内管弦楽団とともに香港にやってきた。ピアノを弾きながら指揮をするという興味深い形式のなか、とても親密で繊細な音楽を、この身体で聴くことができた。
ビーチボーイズも50周年記念のコンサートツアーで香港にやってきた。ブライアン・ウィルソンの存在感とともに、休憩を挟んで3時間におよぶパワフルなステージを堪能できた。
Coldplayも、ぼくは香港に住みながら初めてその音楽に触れ、そして、香港のコンサート会場で、一体感につつまれるあの音楽を楽しむことができた。
でも、このような時間的経過のなかで、音楽が提供される「形式」は、深い変遷のなかにあったのだ。iPodのなかに収められる音楽の曲たちは、いつからかiPhoneなどのスマートフォンのなかに移住してゆく。CDからiTunesを通してiPodに収められた音楽の曲たちは、いまでは、Apple Musicのような「音楽ストリーミング」サービスによって、いつでも、どこでも、ぼくたちの手元と耳に届くようになった。
さらにぼくが生きてきた40年余りの時系列のなかに音楽媒体を見渡すと、レコードとカセット、CD(またMD)、それからデジタルへと、音楽媒体は目まぐるしい変遷をとげてきたことを思う。これらの変遷が、たった40年近くのあいだに、一気に進んだのだ。そんな特別な時代に、ぼくは生きている。
カセットテープは10代の頃、重宝した。その当時のだれもがしていたように、じぶんなりの曲構成で、オリジナルのカセットテープを作成したりしていた。1996年にニュージーランドにいるときは、なぜかカセットテープがよく売られていて、CDに比べ安価だったから、ぼくはカセットテープと共に生活していた。
レコードはレコードがコレクターアイテムとして扱われるようになってからも、ぼくはときどき聴いていた。東京の街で、ビートルズのレコード盤を手に入れ、そこに、1960年代の音を聴いた。
それからCDも、東京の街をいろいろと歩きまわりながら手に入れた。香港に移ってからも、香港HMVで、それは続いたのであった。
この10年をふりかえって、CDやDVD離れの傾向のなか、香港HMVもずいぶんと、いろいろな手立てを立てて、存続を企図してきていた。ヘッドフォンなどの機器類、レコードのレア品、本や雑誌、グッズ、レストラン併設など、幅を広げてきていた。でも、確実に、出入りする人は減っていた。
その減少と入れ替わるようにして出現してきた「音楽ストリーミング」、またNetflixのような「映像ストリーミング」。これらの時代の到来は明らかであったし、だれもが実感していることではある。でも、実際に、店舗が閉じられるということになってみて、この時代の変遷がいっそう、実感をともなって感じられる。
必然の流れでありながら、やはり寂しくも感じる。でもよい面だって、ある。ストリーミングという形式は、CDやDVDのような「マテリアル・物質」に依存することなく、現代社会の抱える環境・資源問題から、より自由な仕方で(環境への負担を軽減し、資源収奪的な要素が減った形で)、音楽や映像を共有することができるということでもある。
そして、あたりまえのことだけれど、「音楽」を聴くことができないわけではないし、「音楽」が聴かれなくなったというわけではない。「音楽」はなくならない。東京の街や香港の街を歩きながら、聴きたかった音楽、あるいは予期もしない音楽に出会うという楽しみはなくなったけれど、音楽との「出会い」そのものがなくなるわけではない。
「音楽ストリーミング」という何千万曲もの音楽を収めた音楽ライブラリーの宇宙が、手元に存在している。その宇宙の入り口が、手元にあるのだ。音楽を聴く者としては、それは夢のような世界だ。
もちろん、音楽産業(音楽を作ったり販売したり配信したりする側)としては、異なる見方がいろいろあるだろう。
この文章を書きながら、だいぶ前(数年前)に手に入れた著作『How Music Got Free: The End of An Industry, The Turn of The Century, And The Patient Zero of Piracy』by Stephen Witt(Viking, 2015)のこと、その本をまだほとんど読んでいないことを思い出した。(ぼくにとって)この本を読むタイミングが熟したのかもしれない。
香港の「エスカレーター」の利用のこと。- 日本と香港の「片側空けのマナー」から。
日本のJR東日本が(JR東日本はもちろん日本だけれど、ぼくは香港で書いているので「日本の」という形容詞を付ける)、東京駅で「エスカレーター歩行対策」を試行していることを、ネットのニュースで読む。
日本のJR東日本が(JR東日本はもちろん日本だけれど、ぼくは香港で書いているので「日本の」という形容詞を付ける)、東京駅で「エスカレーター歩行対策」を試行していることを、ネットのニュースで読む(乗りものニュース「危険なマナー『片側空け』は変わるか エスカレーター「歩かないで!」東京駅で対策)。
急いでいる人のためにエスカレーターの右側を空けることが、東京や東京周辺で「マナー」となっているなかで、エスカレーターの「片側空け」というマナーを変えようというのだ(この「マナー」がはたして、日本のどのくらいの地域に及んでいるかはぼくは知らないけれど)。こうして、エスカレーターでは歩かないこと、手すりにつかまること、左右2列で乗ることなどが、推奨されている。
消費者庁にデータも掲載されていて、東京消防庁管内では2013年までの3年間で、なんと、3865人がエスカレーターでの事故(ほとんどが点灯・転落)で救急搬送されているという。数値で見ると、問題がよりいっそう深刻さの容貌を見せる。
歩行対策によってエスカレーターを歩く人は減ったようだけれど、「意識を切り替えてもらう」ことの難しさを、JR東日本の担当者の方は語っている。
ニュースを読みながら、ここ香港での状況が、ぼくの頭のなかで交差してくる。
香港の「エスカレーターの状況」をかんたんに述べておくと、3つのことが挙げられる。
● エスカレーターの「スピードが速い」
● エスカレーターの「片側空け」は香港でもマナーとなっている(つまり、急いでいる人は片側を歩く)
● (東京と逆で)「左側」を空ける(つまり、急いでいる人は左側を歩く)
香港に長く住んできた今となっては慣れてしまったけれど、香港のエスカレーターの「スピード」は、圧倒的に速い。場所によっても(またメーカーによっても)異なるけれど、日本の1.5倍~2倍の速さはあるのではないかと思う。日本のエスカレーターに慣れていたぼくにとって、最初の頃、少し怖いくらいの速さであった。
でも「慣れ」というものはすごいもので、香港のエスカレーターの速さに慣れてしまうと、今度は日本のエスカレーターの遅さにイライラしてしまったこともある。とにもかくにも、香港のエスカレーターは速い。
その速いエスカレーターであっても、香港の「速さ」をカバーしきれないようで、「片側空け」は香港でもマナーとなっている。そして上述のように、東京とは逆で、「左側」を空ける。日本に戻ったときに、ぼくはつい「左側」を空けてしまうこともあったし、逆に、香港に戻ってきて、つい「右側」を空けてしまうこともあった。
はたして、左側や右側を覚えているのは、意識なのか、身体なのか、あるいはそのあわいのような心身なのか。
いずれにしろ、速いスピードで動くエスカレーターの、空いた片側を、急いでいる人は、また空いた片側に押し出された人は、歩くことになる。下りのときは、歩くというよりも、早歩きとなるといったほうが正確である。
ぼくも以前は、急いでいるときや列ができているときは空いている片側を歩いたし、今でも、人がいっぱいのときは、空いている片側を歩いたりする。空いているときなどは歩かないし、また歩くときにも、せめて、手すりに手をかけながら歩くようにはしている。
さらに、香港では、しばしばエスカレーターが不調を起こし、ショッピングモールなどのエスカレーターでは、2列(上がりと下り)のエスカレーターの一方を止めて修理にかかり、もう一方のエスカレーターも止めて「歩く」ために開放する。つまり、止まったエスカレーターを、上がる人と下る人が共有するのだ。段差があるから、上がるのは大変だし、下るのは気をつけなければならない。この状況が結構頻繁に発生することになる。
香港と日本との共通性としてくくりだすのであれば(もちろん個人差は多分にあるし一概には言えることではないことは承知のうえで言えば)、「急ぐ」ということが挙げられる。けれども、その内実は、香港では「速さ」、日本では「時間の正確性」というところに重心を置いた「急ぐ」である。
そんなことをぼくは考える。
それにしても、エスカレーターの利用の仕方を、啓蒙的に(たとえばポスターなどのメッセージで)変えることは、やはりむずかしい。
香港のエスカレーターを利用しながら、ぼくの意識と利用の仕方が少しなりとも変化をしてきたのは、じぶんをあるいは周りをより客観的に見る、ということによってであった。
エスカレーターの空いている片側を歩くことでどれだけの「時間」を短縮できるか、ということを実感したり、あるいは観察してみると、使うエネルギーの割にはそれほどの短縮効果がないことを、ぼくはあるときに客観的に考えた。あるいは、状況を見ながら、やはり2列でエスカレーターを利用したほうが、総体的にはエスカレーターの運搬能力は高いことがわかる。
ときには、「エスカレーターの利用の仕方」ということを超えたところ、じぶんの生きかたを見直してゆく過程で、たとえば心に「余裕」をもちたいと思ったこともあった。駅では、階段を使うことで少しでも身体を使おうと心がけることもある。そのような経験のなかで、ぼくの意識や行動は多少なりとも変わってきたように、ぼくは思う。
「エスカレーターの利用」の意識を変えるためには、「エスカレーターの利用」を超えたところに意識や行動が向かうことが、ぼくにとっては有効であったのだ。それは大きく言えば、生きかたを変えてゆくことでもある。
じぶんにとって「適切」な方法をみつけること。-「すべき」「あらねばならない」を「方法のひとつ」として捉える。
年末年始ともなると、いろいろな「…すべき」「…あらねばならない」「…したほうがよい」などの言説が、周りやメディアなどで語られ、伝えられる。
年末年始ともなると、いろいろな「…すべき」「…あらねばならない」「…したほうがよい」などの言説が、周りやメディアなどで語られ、伝えられる。
年末には掃除をしなければならない、年末には一年を振り返らなければならない、年始には先一年の抱負や計画を持たなければならない、最後が肝心(だから…すべき)あるいは最初が肝心(だから…すべき)、などなど。
もちろん、集団(家族や組織やコミュニティなど)で生きているなかでは、年末に掃除をしたり、一年を一緒に振り返ったり、あるいは計画を立てたりする。それは大事なことであったりする。このような所作は、ある種の「共同体の知恵」として機能してきたような部分があると、ぼくは思う。
けれども、個人ということにおいては、自由に、じぶんにとって「適切な」やりかた・ありかたに開かれてよいのだと思う。
これだって「…のほうがよい」という言い方だけれども、AとBのどちらかがよい、というのではなく、AもBもよい、という言い方である。選択を迫る言い方ではなく、選択をひろげる言い方である。
年末に掃除をしてもよいし、しなくてもよい。年末に一年を振り返ってもよいし、振り返らなくてもよい。年始に抱負や計画を立ててもよいし、立てなくてもよい。
これらの「言葉」だけをひろってみると、ここで問われているのは、「時間・タイミング」と「行動」である。
「時間・タイミング」ということでは、ぼくは「いつだっていい」と思う。「年末年始にする」ということは、「年末年始以外ではしない」ともなりかねない。
掃除であれば、「いつも」である。じぶんにあったタイミングで、掃除(整理整頓)をする。じぶんとの対話のなかで、あるいは実感のなかで、なにか行き詰まってしまっているようなとき、なにかうまくいかないとき、なにかやる気がおきないときなど、周りを整理整頓してみる。といった具合に。
「行動」ということでは、じぶんの「うごきかた」でいい。たとえば、計画を立てるのが合う人もいれば、逆にその場・その時に物事をきりひらいてゆくのが合う人もいる。このように「人によって」という見方もあるし、同じ人であっても、時期によって、計画を立てるのがいいときもあれば、物事をその場・その時できりひらくのがいいときもある。
大切なのは、「じぶんの方法」を、試行錯誤しながら、見つけてゆくことである。試行錯誤なしで、すぐに見つかるかもしれない。でも、方法は変わらなくても、じぶんが変わってゆくこともある。「じぶん」も、「方法」も変わってゆく。絶対的な方法なんてことも、ない。「じぶん」という存在とありかた、じぶんの内面と外面で起きていること(と双方の連関)、これらへのまなざしが肝要なのだ。
だから、「すべき」「あらねばならない」という言葉で語られることは、「方法のひとつ」のオプションとして捉える。それが「いい・わるい」という反射的反応、あるいは「じぶんもそうすべき」という盲目の順応やプレッシャーで捉えるのではなく、あくまでも、方法のひとつとして、距離をおいて捉える。
そのうえで、方法のひとつとして、試行錯誤してみる。「それはないでしょ」という方法のなかに、じぶんにとって「最適」な方法が眠っているかもしれない。ぼくも、ひきつづき(これからもずっと)、試行錯誤と楽しい「気づき」のプロセスのなかにいる。
勝手に立てていた「見切り」の看板をはずす。- 電子書籍の「脚注(footnote)」の操作性の体験から。
たとえば『古事記」のような作品を電子書籍で読むことを、ずいぶんと長いあいだ、じぶんの「オプション」から外していた。
たとえば『古事記」のような作品を電子書籍で読むことを、ずいぶんと長いあいだ、じぶんの「オプション」から外していた。
古典作品だから紙の書籍でじっくり読みたいと思っていたのではなく、「脚注」が読みにくいのではないかと思っていたからだ。
はじめて読むときは脚注のついている箇所を読み飛ばしてゆくというのもひとつの方法だけれども、やはりいろいろと知らないことがあるし、また脚注に大切なこと(核心的なこと)が書かれていることもあるから、脚注は、いつも見るわけでなくとも、いつでも見れるようにしておきたいと、ぼくは思っている。
なかには、脚注に飛ぶ必要のないようにつくられている本もある。たとえば岩波文庫版の『論語』は、それぞれの言行録ごとに、原文・読み下し・現代語訳・簡単な注が記載されていて、わざわざ本のうしろの脚注に飛ぶ必要はないように工夫がほどこされている。とはいえ、言行録のそれぞれが「短い文章」だからできる工夫でもあるので、すべての本をそうするわけにはいかない。
でも、『古事記』をきっちりと読みたくなって、岩波文庫版の『古事記』を電子書籍で購入したら、ずいぶん長いあいだ、オプションではないと思っていた「見切り」は、ぼくの勝手な「見切り」であったことがわかる。
本文を読んでいて、脚注に飛びたいときは脚注をクリックすると脚注に飛ぶ。そうして脚注をふたたびクリックすると、その脚注が付されている本文の場所に戻ってくるのだ。
紙の本で読んでいるときよりも、容易だ。紙の本で読んでいるときは、脚注のページにしおりなどをさして、脚注のたびにそのページを開いていたけれど、そのプロセスがクリックで済んでしまう。
これは便利で、脚注の多い本も電子書籍でまったく問題ないというか、電子書籍のほうがよい部分もあるなと思っていたら、ふと、脚注に飛ぶのではなく、脚注をクリックするとページ下かどこかに脚注が現れるとさらによいなあと感じる。
そう感じながら、「あれ、アマゾンの電子書籍はどうだったかな」と思い、たしか脚注の多かったEdward Saidの著作『Orientalism』を開いて、脚注をたしかめる。そうしたら、なんと、脚注(Footnote)の番号をクリックすると、脚注がそのページの下に、くりだすようにして現れるのであった。さらに、そこから、巻末の脚注に飛ぶこともできる。
だいぶ前から、このような機能に変わっていたのだろうけれど、ぼくの理解と利用は、この「だいぶ前」で止まってしまっていたのだ。
電子書籍の「脚注」にかぎらず、ぼくたちは、生きているなかで、ものごとを、なんらかのタイミングで「見切る」ということをしてしまうことがある。これはこんなものかと見切って、そこに「見切り」の看板をじぶんで立ててしまう。
でも、あたりまえのことだけれど、人や社会は、時間とともに変わってゆく。「見切り」の看板を勝手に立てて、その後、その看板の背後の景色も内実もずいぶんと変わったのにもかかわらず、そこに立ち入ろうとしないのは、じぶんの思い込みのせいだったりする。
とりわけ、情報技術関連においては、「これはだめだな」という機能なりが、月や年が変わったら、だめではなくなったりする。
だから、ぼくたちが生きているあいだには「見切る」こともあるし、それが個人の生において大切なことであることもあるけれど、ひとまず「暫定的見切り」くらいにして、オープンな姿勢を保持しておきたい。
3D的な視線を超えて、4D、つまり3Dに時間軸を加える視線を身に付けたい。