「取り越し苦労」をしない。- 「未来」を消極的に決めつけないこと。
思想家・武道家の内田樹は、内田樹の師匠の師匠である中村天風の「七戒」(怒るな、恐れるな、悲しむな、憎むな、妬むな、悪口を言うな、取り越し苦労をするな)にふれながら、そのなかの「取り越し苦労」をとりあげて語っている。
思想家・武道家の内田樹は、内田樹の師匠の師匠である中村天風の「七戒」(怒るな、恐れるな、悲しむな、憎むな、妬むな、悪口を言うな、取り越し苦労をするな)にふれながら、そのなかの「取り越し苦労」をとりあげて語っている。
「取り越し苦労」がそんなに危険なものなのかどうか、最初のうちはわからなかったのが、だんだんとわかってきたのだという。
内田 …ある程度年をとってくるとだんだんわかってくるわけですよ。取り越し苦労で、かなり危険なものだということが。これは怒りや嫉妬と同じくらい人間の心身を蝕む有害なものなんです。取り越し苦労って、要するに、時間を先取りすることだから。…未来というのは何が起こるかわからないから未来なのに、それをわかったつもりになって、その上、…マイナスの要素だけを確実に起こることだと思い込んで苦しむわけですから。取り越し苦労って、無限の可能性の中から限定した不幸な選択肢だけをよりのけて、「これが私の未来だ」と思い込むということですよね。…
内田樹・池上六郎『身体の言い分』(毎日新聞文庫、2019年)
たしかに、「ある程度年をとってくるとだんだんわかる」ということがある。年がすべてでは決してないけれど、年が教えてくれるものごともある。「取り越し苦労」の有害性についても、経験の積み重ねが教えてくれるところもある。
ビジネスなどでは最悪の事態を想定して対策を立てることがあるけれども、「取り越し苦労」は、悪い事態の想定がその道をふみはずして、起こる未来の「思い込み」のふかみにはまってしまうところである。
なお、中村天風自身のことば(『中村天風一日一話 元気と勇気がわいてくる哲人の’教え366話』PHP研究所)を見ておくと、「取り越し苦労の害」というところで、「百害あって一利なし」というように取り越し苦労にふれている。取り越し苦労をすればするほどに、心の消極的反映が運命や健康に悪い結果となってあらわれるのだ、と。
では、どうすればよいか。
「方法」はさまざまにあるだろうけれど、まず取っ掛かりとして、「取り越し苦労」の<異様さ>を、客観的にながめてみること。
「無限の可能性の中から限定した不幸な選択肢だけをよりのけて「これが私の未来だ」と思い込む」というように、一歩立ち止まって「取り越し苦労」のあり様をながめてみると、その思い込みの<異様さ>が明るみに出てくるようだ。自分のことでなく、他者の「取り越し苦労」を見つめてみることで、「思い込み」のあり様が見えてくる。
もちろん、頭でその<異様さ>がわかっても、実際に心配の連鎖を断ち切ることは容易ではない(こともある)。
実際に断ち切っていく方法も、いろいろな側面からいろいろに試されるところであるけれども、ここでひとつ挙げておくとすれば、<方法としての思い込み>である。
「取り越し苦労」は「消極的で不幸な思い込み」であるのと同じく、その逆の方向に、「積極的で幸福な思い込み」をつくってしまうことである。方法として意識化されている思い込みだ。それを支えるのは、人が語る「物語」の力である。人には、物語を語る力があるのである。
一度でうまくいくものではないかもしれない。ここでも、時間と経験を味方につけてゆくことである。
憶い起こせば、海のある風景。- <海の風景>に耳をかたむける。
それなりの年数を生きてきたなかで、自分の住んできた「場所」をふりかえってみる。より正確には、ここ香港で海をながめて、いろいろとかんがえていたら、世界のいろいろな<海の風景>がぼくのなかで重なってきた。そこでふりかえってみると、確かに、<海の風景>が幾重にも重なっているのを、じぶんの内面に見る。
それなりの年数を生きてきたなかで、自分の住んできた「場所」をふりかえってみる。より正確には、ここ香港で海をながめて、いろいろとかんがえていたら、世界のいろいろな<海の風景>がぼくのなかで重なってきた。そこでふりかえってみると、確かに、<海の風景>が幾重にも重なっているのを、じぶんの内面に見る。
<海の風景>。ぼくはそこに特別な感情をもちあわせているようだ。
世界のいろいろなところを旅したり、暮らしてきたりしたなかで、それぞれの<海の風景>の記憶が、ぼくのなかで重なっているのを深く感じる。思えば、<海の風景>にぼくは惹かれてきたようでもある。意識的に選んだわけではないのだけれども、ぼくの深いところにある憧憬や願望がかたちになった結果かもしれないと考えてみることもできる。
ぼくの生まれ故郷は浜松で、やはり「浜」に面している。家から、海の「浜」まではだいぶ距離があるのだけれども、どこかで「浜」から吹く風を感じているようなところがあったかもしれないと思う。
その浜松を離れ、大学に通うために移った東京も海に連なっている。
大学1年のときのはじめての海外は、上海であった。それも、横浜からフェリー(鑑真号)にのって、海をわたり、上海に到着した。翌年は、はじめての飛行機による海外であったが、ここ香港に降り立った。香港から広州へと行き、そこから向かったベトナムも、海に連なるところであった。旅の途中の<海の風景>(ニャチャンの砂浜などの風景)がぼくの記憶に残っている。
それからワーキングホリデー制度を利用して住んだニュージーランドも、いつも<海の風景>があり、また海に限らず、<水に祝福された風景>とでもいうべきところであった。
大学を卒業して、最初に赴任した場所は、西アフリカのシエラレオネ。首都フリータウンは海に面している。シエラレオネにつづいて赴任した東ティモールも、海に囲まれた島である。首都ディリは海の香りがただよっている。
それから、ここ香港。「港」と言われるように、暮らしのなかに海がある。毎日、ぼくは海の存在をこの身体に感じながら生きている。
こんなふうにしてこれまでをふりかえってみると、ぼくの周りにはいつも<海の風景>があったこと、そしてそこには特別な感情が生きていることを感じる。でも、そのことを「ことば化」することはむつかしい。<海の風景>に触発される気持ちは、ぼくの深奥からやってくるようなものにも感じる。そんな深奥からひっぱりだしてきて「ことば」にしようとした途端に、気持ちとことばの大きなギャップを感じてしまう。
だから、「ことば」に<あらわそう>とするのではなく、「ことば」が<あらわれる>のを待つのがひとつの仕方である。
そんなことをかんがえていたら、「助け舟」のような存在を、ぼくは憶い起こしはじめる。
例えば、小説家・詩人のD・H・ロレンス(1885-1930)、哲学者・思想家のカール・シュミット(1888-1985)、解剖学者の三木成夫(1925-1987)など。ロレンスも、三木も、カール・シュミットも、この大地に生きながら<海の存在>をまなざしながら思考を深め、ことばを紡いだ。
<海のある風景>に身をおきながら、彼らの「ことば」にふたたび耳をかたむけようと、ぼくは思う。そんな「ことば」たちを導きの糸としてどんなところに行くことができるのか、いまから楽しみである。
石黒浩の「論理」。- ロボットと心、ロボットと人間とのインターフェース。
ロボット工学者の石黒浩は、著書『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』の冒頭に、一見すると大胆に聞こえることを言ってのけている。
ロボット工学者の石黒浩は、著書『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』の冒頭に、一見すると大胆に聞こえることを言ってのけている。
「人に心はなく、人は互いに心を持っていると信じているだけである」
多少極端な言い方ではあるが、それほど的を外しているとは思わない。実際に自分にいくら問いかけても、自分の心とは何かはなかなか理解できるものではない。一方で他人を見ていて、その人の心の方が自分の心よりも理解できると思うこともある。
…内部から自分を見ているときよりも、外から他人の様子を見ているときの方が、「心の存在」を感じることができるのである。…
石黒浩『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』(講談社現代新書、2012年)
一見して、ある種の「反発」のような感情を抱く人もいるかもしれない。解剖学者(いわゆる「解剖学者」の枠をとびこえているけれど)の養老孟司があるところで述べているように、「心」を特別視してしまうようなところが人にはあるから、「心がない」という言い方は反発をひきおこしてしまう。昔のぼくであれば、反感を持っただろう。
けれども、養老孟司による「唯脳論」にふれてきたこともあって、脳と心の関係性を「構造と機能」と捉える視点で中和化されているぼくは、冷静に石黒浩の論点に耳をすます。ふつうに見れば大胆な言明、「人に心はなく、人は互いに心を持っていると信じているだけである」という地点から、石黒はどこにぼくを連れていってくれるのだろうか。
石黒浩はつぎのように書いている。
そのようにして互いに心があると信じているのが人間であると思う。ゆえに、
「ロボットも心を持つことができる」
と私自身は考えている。
石黒浩『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』(講談社現代新書、2012年)
「人間と関わるロボット」をモチーフにしてきた石黒浩と彼が創作してきたロボットたちを(YouTube動画などで)見ると、このような考え方は理解できる。そのうえでひとつ指摘しておきたいのは、「ゆえに…」と続く、論理の流れのおもしろさである。
「人に心はなく、人は互いに心を持っていると信じているだけである」という地点から、「ロボットも心を持つことができる」という地点への移行は、いわば論理の飛躍である。「ゆえに…」で、簡単につながるものではなく、むしろ、論理を反転させていくような重力をぼくは感じるのである。
なにはともあれ、このような圧倒的な重力が、石黒浩による果敢な挑戦を支えているのだ。
ところで、石黒浩は、「心とは何か」という問いにはこれ以上科学的に説明ができないかもしれないことを、この本の終わりのほうで述べている。現在のところ自然科学的に心を解き明かすことができないこと、したがってこの領域は学問的にはある種タブー化している状況を、かつて養老孟司は指摘していたが、そんな限界線を確認しつつ、石黒は<互いに心があると信じているのが人間>というところを土台にして「人間と関わるロボット」を追求しつづけている。
このような石黒浩の研究は、ぼくにとっての「定点観測」のひとつとして存在している。
人間を「鏡」に映す。- 「人間ではない存在」に照らされる<人間>。
「ただ生きる」ということ。それは、なんとなく生きていくというのではなく、むしろ、<生きる>ということの経験のひとつひとつを味わい、経験しつくしてゆく生きかたである。呼吸をすること、食べること、家族や友人と話をすること、身体を動かすこと、このようななんでもないことを味わいながら生きること。
「ただ生きる」ということ。それは、なんとなく生きていくというのではなく、むしろ、<生きる>ということの経験のひとつひとつを味わい、経験しつくしてゆく生きかたである。呼吸をすること、食べること、家族や友人と話をすること、身体を動かすこと、このようななんでもないことを味わいながら生きること。
このような「なんでもないこと」が、人が人として生きるうえでの<歓び>であることを、「人間ではない存在」を通して気づいてゆく。そんな気づきを誘発する装置として、例えば映画やドラマなどがある。
映画やドラマで「人間ではない存在」(たとえばエンジェル)が<人間になる/人として生きる>というようなストーリーが描かれることがある。映画『City of Angels』(1998年)でニコラス・ケージが演じるエンジェルがそんな存在であり、最近では、アメリカのテレビシリーズ『Lucifer』の登場人物たちが挙げられる。
「人間ではない存在」を軸として、<人間である>、<人として生きる>ということはどういう経験であるかを逆照射させてくれる装置だ。「人間ではない存在」が人として「ただ生きる」ことのひとつひとつのなかに、人でなければ経験できないものごとを鮮烈に体験してゆく。なんでもないような、ひとつひとつの出来事が、まるで奇跡のように体験されるのである。
このような「架空の存在」を方法とすることもひとつだけれども、それらとはまったく逆に、現実の「ロボット」という人間ではない存在から、「人間の生きる」ということに光をあてていくこともひとつである。
ロボット工学者の石黒浩は、工場などで使われるロボットではなく、「人間と関わるロボット」をモチーフとしてきた。人間が日常生活を営むなかで、人間のように作動するロボットである。
そのプロセスでは、「人間とは何か?」が問われる。
人間の日常は複雑そうに見えながらも、たとえば朝起きて、電車に乗って仕事場に行き、そこで人と話をしながら書類を作成するなどして、ふたたび電車に乗って家に帰ってくる、といったパターンをとりだしてみると、三つに分けられるのだと石黒は語る(石黒浩『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』講談社現代新書、2012年)。
● 移動すること
● 人と関わり人と話をすること
● 決められた作業をすること
これらのなかで「移動すること」と「決められた作業をすること」は工場のロボットもするけれど、大きく異なるのは「人と関わり人と話をすること」となる。ここに石黒の関心も、ロボットの可能性も、それから難しさがある。難しいのは、工場のロボットは「目的」をもってタスクを遂行していくのに対し、人と関わるロボットは、予測不能な人間と関わってゆくことになるからだ。
「面白さ(関心)」と「可能性」、それから「難しさ」が、人間の予測不能性に関わることは、当たり前に聞こえるかもしれないけれど、<人間とは何か>という質問に対する応答の核心をつくところでもある。
石黒浩は、この研究についてつぎのように書いている。
…日常生活とは、人間が活動する場であり、そこで働くものはロボットでも人間でも、人間を意識する必要がある。すわなち、「人間と関わる機能」を作ることが、研究の中心的な課題になる。この研究を、人間とロボットの相互作用(ヒューマン–ロボットインターラクション)と呼ぶ。
この「人と関わるロボット」の研究開発のもっとも大きな特徴は、ロボットの開発と人間についての理解を同時に進めなければならないという点である。石黒浩『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』(講談社現代新書、2012年)
「人間ではない存在」、ここでは「人と関わるロボット」を通して、<人間とは何か>が追求されてゆく。本の副題が直接に示しているように、人を映す「鏡」として、ロボットが存在している。
「人と関わるロボット」や「人工知能」などはさしあたりテクノロジーの発展のなかに位置づけられるけれども、他方で、近代・現代を生きてきた人間がその豊かな生を追い求めながら、そのプロセスや先端で出会うことになる問いたち、<人間とは何か>、<人が生きるとは>などを入り口としてひらかれてきた分野かもしれないと、ぼくは思ってみたりする。
「ただ生きる」ということ。- 生きるために生きること。
「ただ生きる」、ということ、そのむつかしさについて、真木悠介(社会学者)が書いている。
「ただ生きる」、ということ、そのむつかしさについて、真木悠介(社会学者)が書いている。
なんのために生きているんだろう、という問いは、じぶんが生きるという「物語」のどこかで、ひとそれぞれに違った仕方でおとずれる。そんな問いをふつふつと内面で燃やしていたころに、ぼくはこの文章に出会った。
詩人の山尾三省(1938-2001)の本、『自己への旅』(聖文社、1988年)の「序」として書かれた文章(「伝言」)で、その後、真木悠介のとても美しい著作『旅のノートから』(岩波書店、1994年)に収録された。
真木悠介がはじめて屋久島にわたり、山尾三省の仕事場に泊まったときのことが書かれている。
ある晩に、『自己への旅』の本にも登場する神宮君がやってきて、「オキナワに絶対に行く、そこで漁師をするんだ」とくりかえし語っていたことにふれながら、翌朝、山尾三省と向き合っているとき、「神宮君はどうしてオキナワに行くのかな」と半分ひとりごとのように真木悠介が言ったところで、こんな応答があったのだという。真木悠介はつぎのように書いている。
「神宮君は、ふつうに生きる、ことをしたいのね。ただ生きる、ということを、したいのよね」
水屋の方から、順子さんの声がした。
わたしはどこかで、よくわかった、という気がした。ただ生きる、ということをしたい。
するともういちど、わからなくなった。ただ生きる、とは、どう生きることか? ふつうに生きる、とは、じっさいに、どういうことか? 三省も順子さんも、神宮君も、ただ生きること、ふつうに生きる、ということを求めて、屋久島に来たのだと思う。
ふつうに生きる、ことのむつかしさ。今の世の中で、ただ生きる、ということの、むつかしさ。
…真木悠介『旅のノートから』(岩波書店、1994年)
「ただ生きる」ということをする。確かに「わかる」ようで、わからない。
「ただ生きる」ということは、なんとなく生きていくというのではなく、<生きる>ということの経験のひとつひとつを味わい、経験しつくしてゆく生きかたである。呼吸をすること、食べること、家族や友人と話をすること、身体を動かすこと、このようななんでもないことを味わいながら生きること。
映画やドラマで「人間ではない存在」(たとえばエンジェル)が<人間になる>というストーリーが描かれることがある。それは、<人として生きる>ということはどういう経験であるかを逆照射させる視点だ。人間ではない存在が人として「ただ生きる」ことのひとつひとつのなかに、人でなければ経験できないものごとを鮮烈に体験してゆく。ひとつひとつの出来事がまるで奇跡のように体験される。
ところで、「なんのために生きているのか」という問いは、生きることの「意味」への渇望である。生きていることに「意味」を与えてくれる「目的」への指向性である。ぼくたちは、目標や目的、意義や意味によって、日々の生を賦活することができる。
けれども、より思考を深めてゆくと、人は「生きるために生きている」のだということへといきつく。ぼくはそう思う。
「なんのために生きているのか」という切実な問いは、<生きる>という経験が(そのひとつが、それらのいくつかが、あるいはほとんどが)、なんらかの事情で、損なわれていることからくるものでもある。
真木悠介がふれている、今の世の中で「ただ生きる」ということのむつかしさは、こんなところとも関連していると思う。それにしても、今の世の中、「ただ生きる」ということは、確かにむつかしい。
ただ生きること。生きるために生きること。そんな地点から、じぶんの「生きる」を眺め返してみると、異なった風景が見えてくる。
香港で、急に「暑さ」がやってきて。- 「トランジション(移行期)」には心身を落ち着かせること。
5月の香港はこんなに暑かっただろうかと思うほどに、ここのところ香港は暑い。日中は33度ほどまで気温が上がり、夜も28度ほどである。湿気もあって、すでに「夏」を過ごしているかのようである。
5月の香港はこんなに暑かっただろうかと思うほどに、ここのところ香港は暑い。日中は33度ほどまで気温が上がり、夜も28度ほどである。湿気もあって、すでに「夏」を過ごしているかのようである。
今日はそんな暑さに自然が反応してか、雨がときおり降りそそいで、夜は暑さがやわらいでいる。
香港では、「暑さ」も、冬の「寒さ」も、突然にやってくることがある。ようやく冬が過ぎたかなと思っていると急に暑くなったり、あるいはまだ暑いなぁと思っていると急に寒くなったりするのである。
香港に来て12年にもなるので、そんな「急な季節の変わり目」に向けて気持ちの準備はしているのだけれど、それでも身体はやはり少しびっくりしてしまうようだ。今回もこの「暑さ」で、夜中に目が醒めてしまった。
エアコンはここ5年以上も家では使っていないから、扇風機をつけたりしてなんとかやりくりしてきた。それでも暑かったりするのだけれど、そんなこんなで過ごしていると、心身ともに、暑さに慣れてきたようだ。
季節の変わり目はこんなふうに急な「移行」をもたらしたりすることがある。そんなとき、過剰に反応して、暑さ対策や寒さ対策をとったりしてしまうことがある。けれども、いつも思うのだけど、その「ある程度の期間」を越えると、心身の調整が効いてきてふつうになるときが、やがてやってくる。過剰反応する必要はなかったりするのだ。
これは「季節の変わり目」だけに言えることではない。
ぼくたちの「人生の変わり目」、住む場所が変わったり、学びや仕事が変わったりするときも、いろいろなことが変わることから、人は心身ともに過剰反応してしまうことがある。いろいろなもの・ごとの「トランジション(移行期)」にである。
生きることの経験を重ねてきたなかでぼくが思うのは、季節の変わり目と同じように、「ある程度の期間」を越えると、やがてふつうになるときがやってくるものだ。ここでいう「ふつう」とは、日常化して、慣れることである。
もちろん、そうなったからといって、個人それぞれに特有の問題・課題が解決するというわけではない。でも、はじまりには「すごく大変だ」と思っていたことが、やがてそこまでは思わなくなるものだ。
だから、ぼくたちが「トランジション(移行期)」を迎えるとき、「ある程度の期間」をはじめから見据えて、時間を味方につけること。ぼくたち自身の「心身の調整機能」を信じること。そうして、心身を落ち着かせること。
香港の暑い日々を迎えながら、そんなことを、ぼくは思う。
「ことば」がむつかしい時代に。- 「ことば」を取り戻すために採用する「二段階の方法」+「もう一段階」。
「ことば」がむつかしい時代である。1990年代、10代から20代をかけぬけたぼくは、地に足のついた「ことば」を求めていたけれど、それから時代が変遷してゆくなかで、「ことば」がほんとうにむつかしい時代になっていると思う。
「ことば」がむつかしい時代である。1990年代、10代から20代をかけぬけたぼくは、地に足のついた「ことば」を求めていたけれど、それから時代が変遷してゆくなかで、「ことば」がほんとうにむつかしい時代になっていると思う。
「ことば」はもともと生を裏切るものだという根底的な「ことば」のむつかしさもあるけれど、それよりももっと日々の「ことば」の次元において、「ことば」は<虚構性>をそのうちに増殖させながら、それらを聞く人や語る人のなかにひろがり、浮遊してゆく。
そんな浮遊する「ことば」がいつしか(内的であろうが外的であろうが)「自分が語ることば」となる。虚構性を増殖させた「ことば」は、それを吸収し培養させた個人たちのなかで、彼・彼女を混乱させ、矛盾のなかに投げ込み、なにがほんとうなのかをわからなくさせる。
「ことば」がむつかしい時代である。
1990年代のぼくを振り返ると(結果的に見ると、ということだけれど)、「ことば」を取り戻してゆくために、ぼくは「二段階の方法」を採用していたようだ。この方法を支えていたのは、海外(日本の外)への一人旅であった。
方法の一段階目は、日々の「ことば」の洪水から、いったん<外>に抜け出ることである。海外への一人旅は、この<外>へ、ということにおいてきわめて効果的であった。毎日当たり前のように聞いて、読んで、話している「日本語の世界」から抜け出ることで、いったん洪水をせきとめるのである。
方法の二段階目は、「身体」を使うなかで(身体性を取り戻しながら)「ことば」を取り戻してゆくこと。もちろん、誰だって「身体」は毎日使っているのだけれど、ここでは、実際に行動しながら、世界を歩きながら、自分の「身体」で体験しながら、自分の「ことば」を取り戻してゆくことを指している。
アジアを旅しながら、ニュージーランドに住み、ニュージーランドをじぶんの身体で歩きながら、ぼくは地に足のついた「ことば」を取り戻そうとしていた。振り返って見てみると、そんな側面が見えてくる。
採用した「二段階の方法」によって、うまくいったところもあれば、うまくいかなかったところもある。でも、少しでもうまくいったこと、つまり「ことば」を取り戻したという感覚を少しでも得た経験は、ぼくにとってはとても貴重であった。
ぼくの心身に、迷ったときの道しるべとなるような杭が打たれたように思う。
あれから時代がすすみ、経済的なグローバル化が完遂し、情報技術テクノロジーの発展のなかでSNSなどが現れ、どこに行っても、虚構性に満ちた「ことば」の洪水にさらされる。「ことば」がずいぶんとむつかしい時代だ。
だからかもしれない、と、ぼくは思いつく。
1910年代から1920年代に生まれた著者たちの「ことば」に最近惹かれてやまないのは、彼ら・彼女たちが「ほんとうのことば」を求めてきた世代であったから/あるからかもしれない、と。浮遊する「ことば」ではなく、地に足をつけながら、同時に飛翔しようとする<ことば>を紡ごうとする世代。
「方法の三段階目」として、このような方法を付け加えることができるかもしれない。
香港の<音の風景>。- 日常における、香港の音たち。
世界のそれぞれの場所に、それぞれに特有の<音の風景>がある。目で見る風景でありながら、日常をかたちづくるような音たち。ここ香港であれば、香港の独特の喧騒の音たちのひとつとして、「建設」の音が挙げられるであろう。
世界のそれぞれの場所に、それぞれに特有の<音の風景>がある。目で見る風景でありながら、日常をかたちづくるような音たち。ここ香港であれば、香港の独特の喧騒の音たちのひとつとして、「建設」の音が挙げられるであろう。
だいたいどこに行っても、香港のどこかで、建設がすすめられている。
道路や橋や鉄道、ビルなどはもとより、ショッピングモール内での店舗づくりや改装、さらにはマンションの部屋のリフォームまで。香港はどこに行っても、建設の音に満ちている。そんな音たちが、休むことなく「転がる香港」(@星野博美)の背景となり、あるいはそんな香港を音として支えている。
ぼくの住まいの周りも、いつだって、なんらかの「建設」がすすんでいる。建設マシーンが作動する音、大きなハンマーで打ち叩く音、ときに建設現場にひびく人々のかけ声。そんな音たちが、いつだって、鳴り響いている。
これだけ、いろいろなところで建設が間断なくつづく風景も、なかなか珍しいものかもしれない。
日本にいるときも、ニュージーランドにいるときも、このような<音の風景>にはひたされなかった。アジアを旅しているときは、建設ラッシュなどにも遭遇し、アジアの発展を体感することもあったけれど、香港のような先進産業地域において、いたるところに建設の音の風景がひろがっていることに、ときおり圧倒されるのである。さらに、そこに香港の「速さ」がつけ加わるから、躍動感と喧騒がいっそう生まれてゆく。
旅で香港に来る時にも、街中のビル群に竹竿で組まれた建設現場に遭遇することはある。けれども、建設のひろがりと持続度においては、やはり、香港でそれなりの期間を過ごさないとわからないかもしれないと、ぼくは思う。
香港で過ごすなかで、通りを歩くとき、交通機関を利用するとき、ショッピングモールを利用するとき、家に住んでいるときそれぞれに、建設の風景と現実が住む人たちの生活に影響してくるからである。それはもちろん、香港の<音の風景>として、住む人たちの心身に登録されるだろう。
それにしても、このような<音の風景>は、ぼくの心身にどのように登録され、どのように影響を与えているのだろうか。
そんな建設の<音の風景>も、公休日(日曜日、祝日)には束の間の空白を得る(※香港では重機による建設仕事は19時から7時まで、また公休日については禁止されている)。
明日は、そんな束の間の静寂の日曜日である。でも、街の中は、いっそう人びとの声であふれる日でもある。
かつて「使われなかった紙幣と硬貨」を使う。- 時空を超える香港の紙幣と硬貨。
海外のいろいろな場所を行き来してきて、いろいろな紙幣と硬貨がたまってしまっている。そんな紙幣と硬貨を整頓していたら、香港の紙幣と硬貨が出てきた。まさかそこに香港の紙幣と硬貨があるとは思っていなかったから、少しびっくりする。
海外のいろいろな場所を行き来してきて、いろいろな紙幣と硬貨がたまってしまっている。そんな紙幣と硬貨を整頓していたら、香港の紙幣と硬貨が出てきた。まさかそこに香港の紙幣と硬貨があるとは思っていなかったから、少しびっくりする。
びっくりしたと言っても、これまで行ったこともないところの、使ったこともない紙幣や硬貨がおさめられていたわけではない。そうではもちろんないけれど、それらは、ぼくが初めて香港を旅したときに使われなかった紙幣と硬貨である。
初めての香港の旅は1995年で、24年まえのことである。ぼくはそのとき、大学2年生であった。
1995年の旅で使われなかった紙幣と硬貨は、それからそのとき住んでいた日本(東京)へと行き、そこでだいぶ長い時間を過ごしたあと、2007年以降、ぼくが香港に移り住むようになってから、ここ香港に戻ってきたことになる。
ずいぶんと、長い時間と広い空間をこえて、ふたたびその生地に戻ってきたわけだ。そのあいだに、時代も、香港も、ずいぶんと変わったものだ。
それにしても、そんなふうに「旅」してきた紙幣と硬貨を手にしてみると、なんだか不思議な感じがするものだ(でも、こんなことを不思議に感じるのは人間だけだろう)。思い出のモノに触れるとタイムスリップしてしまうような話を映画やドラマで観ることがあるけれど、そのような話を創ってきた人たちが「素材」としたであろう体験と同じような体験であるかもしれない。
自分の体験の記憶はときにあやふやに感じられる。思い出のモノは、そんな記憶に対して確証を与える(かのようだ)。使われなかった香港の紙幣と硬貨は、ぼくが確かに、ここ香港に来たことを確証してくれる。でも、そんな確証はなんのために、とも思う。大切なことは、「今」をどのように生きているのか、ということ。
使われなかった紙幣と硬貨は、当初、「いつかまたきたい」という希望や予測のもとに残されていたものだろう。その場所を去るまで、もしかしたら必要になるかもしれない、と思って、少し残されていたものだろう。でも、その「いつか」や「万が一」はやってこない。それらがやってきたときは、そのときはそのときでやりくりすればいい、ということ。
モノへの執着を減らしてゆくこと(他方でモノを大切にしてゆくこと)をこの数年で試みてきて、うまくいった部分もあれば、うまくいかない部分もまだある。けれども、大切なのは「今」をどう生きるかということ。このことに光をあてながら、少しずつだけれど、シフトしてきている。「過去」を大切にしないわけではない。「今」を大切にすることで、「過去」に光があてられるということ。
こんなことを思っていると、ぼくのなかで、「何か」の流れをストップさせていたのかもしれない、という想念が浮かぶ。「お金」は社会の血液のようなもので、流れをとめてはいけない。「お金」がその役割を十分に果たせるようにしてあげなければいけない。
すぐさま、ぼくは、これらの紙幣と硬貨を財布に入れて、使うことにした。そして、そのうちのいくらかは、翌日、実際に使われたのであった。
香港のスーパーマーケットで「セルフチェックアウト」を活用しながら。- 「気楽さ」のなかに垣間見える世界。
ここ香港のスーパーマーケットなどにおける「Self-service Checkout」(セルフチェックアウト)の支払い、またはファーストフードなどにおけるセルフオーダーなどが浸透しはじめ、それなりに日常化している。
ここ香港のスーパーマーケットなどにおける「Self-service Checkout」(セルフチェックアウト)の支払い、またはファーストフードなどにおけるセルフオーダーなどが浸透しはじめ、それなりに日常化している。
「それなりに」と書いたのは、とは言いつつも、店員さんがいるキャッシャーを選ぶ人たちが結構多いように見受けられるからだ。
香港のキャッシャーは圧倒的にスピードが速いからからもしれないし、これまでの仕方に慣れていて慣れているのを好むのかもしれないし、あるいは、セルフチェックアウトやセルフオーダーの「使い方を覚える」ための一歩を踏み出さないということかもしれない。
ぼくはやはり試してみたくなるので、早々に使ってみて、使い方を覚え、それなりに利用している。慣れてしまうと便利だし、キャッシャーの列に並ばなくてもよくなる。
誰も並んでいない店員さんのとこと、(誰も並んでいない)セルフチェックアウトとがあるとして、ぼくはどっちへ行くだろうかと考えると、購入する品物が少なくて、バーコードが付いている商品だけであれば、セルフチェックアウトを選ぶように思う。
どこかで「気楽さ」があるのだろう。香港のサービスは「速さ」を最優先にするところがあって、それは圧倒的にすばらしいのだけれど、他の側面において自分が求めているようなサービスを受けられないことがある(香港に限ったことではないのだけれど)。だから、自分でやるほうが「気楽さ」を感じる、ということだろうか。
そんな「気楽さ」のことを考えたり、感じたりするとき、真木悠介(社会学者)のつぎのことばが、ぼくのなかで灯りをともす。
自動販売機の買い物がいちばん気楽でいい、という世代が日本にもあらわれはじめたという。時間がコストにすぎない世界はプロセスの意味(センス)を脱色し、出会いの能力を退縮させてゆくだろう。
時間の意識が他者感覚に干渉するのだ。…真木悠介「狂気としての近代」『旅のノートから』(岩波書店、1994年)
メキシコでの生活を体験した真木悠介が、メキシコと日本の「時間」に照明をあてて書いた「時間の比較社会学」である。ぼくがこの本を読んだのは2000年前後のことだけれども、この文章が発表されたのは1978年のことだ。
ぼくが生まれたころに、「自動販売機の買い物がいちばん気楽でいい」という世代がすでに日本にあらわれていたのだという。
それはそのあとの世代を生きてきたぼくのなかにも埋め込まれているという地点から、自分が感じる「気楽さ」のなかにその一端を垣間見せる現代世界のありかたを、ぼくは見ようとしてきたのである。
西アフリカのシエラレオネ、東ティモールに住んでいたときは「自動販売機」はなかったから(少なくともぼくの生活圏にはなかった)、何かを購入する際にはいつだって「誰か」とコミュニケーションを取っていた。そこに人がいるからといって、自動的にコミュニケーション力や「出会いの能力」が上がるわけでは必ずしもないのだけれど、ぼくが出会う人たちの存在感に助けられて、そこには、「人と人」のコミュニケーション/出会いがあったように思う。
香港では「自動販売機」の利用は一般的ではないけれど、時代が経過するなかで、セルフチェックアウトなどのシステムが導入され、それが「気楽でいい」と思うところもある。便利になればいいなぁとも思ったりする。
けれども、すべてのやりとりが「セルフ」になってしまったら、それは「つまらない」だろうと思う。人とのあいだに起こる不快さもなくなるだろうけれど、そのプロセスで起こるかもしれない楽しさや歓びなどもなくしてしまうだろう。
今日も笑顔と絶妙のセールストークで話しかけてくれ、それから帰り際にも笑顔とサンキューを伝えてくれる店員さんに出会うことができた。日々のなんでもないことだけれど、楽しいひとときであった。出会いは、そんなひとときをつくってくれることがある。
ところで、香港のスーパーマーケットのセルフチェックアウトは、実際はとても賑やかだったりする。使い慣れていない人たちはスタンバイしている店員さんとやりとりするし、近くのセキュリティガードの方が使い方を教えてくれたり、声をかけてくれたりするのだ。
ことばのリズムと会話のやりとりからエネルギーが生成される香港ならではかもしれない。
倫理主義ではなく、<楽しみながら生活水準を下げる>という方法。- 見田宗介の文章「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」に触発されて。
ここ数日のブログでは、宇宙と地球の<はざま>で想像力をはたらかせながら、「地球環境」のことにもふれてきた。そのことに関連して、「環境保護」のようなことを考える。「環境保護」の仕方について考えるとき、見田宗介先生(社会学者)による「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という素敵な文章のことを、ぼくはときおり憶い出す。
ここ数日のブログでは、宇宙と地球の<はざま>で想像力をはたらかせながら、「地球環境」のことにもふれてきた。そのことに関連して、「環境保護」のようなことを考える。「環境保護」の仕方について考えるとき、見田宗介先生(社会学者)による「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という素敵な文章のことを、ぼくはときおり憶い出す。
1980年代半ばの論壇時評として書かれ、その後『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)という本のなかに収められ、さらに1995年に出版された『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫)にも収録された文章である。どちらの本も今では絶版になっており、またこの文章は論壇時評という性格もあってか見田宗介著作集にも収められていない。
新聞紙上に掲載された文章で短い文章であるけれど、ひとりひとりの生き方と未来を見据えた、美しい文章である。
以前(2017年の夏)、月明かりがまぶしい夜に、やはりぼくはこの美しい文章のことを憶い起こし、ブログに取り上げたことがあるので、(一部変更して)それを再掲しておきたい。
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「月明かり」に照らされながら、そしてそのことを文章で描きながら、見田宗介の「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という素敵な文章のことを思い出していた。この文章は、社会学者の見田宗介が1985年に新聞で連載していた論壇時評のなかの一回として書かれ、その後書籍に所収されている。
この文章の中で、雑誌編集をしていたAという人が、アメリカ・インディアンと一緒に幾年かを生きてきたKと結婚して、日本の田舎に移りすむ「記録」が取り上げられている。その「記録」は「わが家に電気がついた日」と題されている。
…東京で生活してきたAにとっては、田舎で暮らしたいと思っていた時も、電気はあって当然に近いものだった。けれどもKは、せっかく電気が来ていない家に住めるのにという。Aも原発には反対だしと、当面は電気なしでいくことにした。案外不便は感じないし、何よりも<夜が夜らしく存在する>。
唯一めげたのは洗濯で、…結局電気は引くことにする。冷蔵庫やテレビはいらないが、洗濯機だけはおくだろう。けれどこれからも満月の夜だけは電気を消して、<闇について、この明るすぎる文明について語り合います>と書いている。
かれらは何もよびかけたりしてはいないし、自分たちの限界点を記録しているだけだけれども、この記事をよんだかれらの友人たちは、満月の夜をそれぞれの場所で、みえない全国の友人たちと呼応して<闇>を共有するという、しずかな祭りの夜としてゆくかもしれない。見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
「311」を契機とした原発にかんする議論はまだ思考にこだましているけれど、それよりも30年ほど前にも原発問題ということが、生きられる問題として語られ、その「出口」をさぐる人たちが無数にいたことは、これからの「出口」をさぐるうえでもヒントを与えてくれる。
この文章を読みながら、これが「現代」として読んでもまったく違和感がないほどに、問題と課題はひきつづき、人と社会の根底によこたわっている。
上の「記録」は、しかし、見田宗介がわざわざ指摘しているように、「何もよびかけたりしてはいない」。声高なよびかけのかわりにあるのは、みずからの「生活の仕方を変える」ことと、その生活の記録の共有である。
見田宗介はさらにこう記している。
…このこと(*生活の仕方を変えること)を倫理主義的にではなく、<生活水準を楽しみながら下げてゆく>という仕方でやっている。それは失われたよろこびたちを(快楽から至福にいたるその一切のスペクトルにおいて)取り戻してゆくというかたちをとるだろう。ひとりの生が解き放たれてゆく方向と、地球生命圏がその破滅に至る軌道から解き放たれてゆく方向とが、コンパスと地軸のように合致している。
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
ぼくはここに語られていることに深く共鳴する。
地球環境のための「消灯キャンペーン」はその試みをぼくは否定しないし、もともとの「情熱」とそこから出てくる行動力には頭がさがる思いだ。しかし、地球環境のために、という罪悪感と倫理主義におされながら「消灯」を実行するとすれば、ぼくはそこに居心地の悪さを感じてしまう。そうではなく、楽しみながら消灯をすること。
そして、それは、罪悪感でも倫理主義でもなく、人の生のよろこびと共振してゆくということ。
このようなことを書くとすぐに寄せられるであろう「批判」を想定して、見田宗介は最後にこう付け足している(「想定される批判」にあらかじめ答えておくことを、見田宗介は書くことの方法のひとつとしている)。
電力の総需要といった計算からすれば、さしあたり一兆分の一ほどの効果しかもたないだろう。けれども一兆分の一だけの自己解放をいたるところで開始すること、それらがたがいに呼応し、連合していつか地表をおおうこと、このことを基礎とすることなしにどのような浮足立った「変革」も、もうひとつの抑圧的な制度を出現させるだけだということを、二十世紀のすべての歴史の経験が書き残している。
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
見田宗介の「草たちの静かな祭りー「人間主義」の限界線へ」という文章に出会ってから、20年ほどが経過した。「ひとりの生が解き放たれてゆく方向と、地球生命圏がその破滅に至る軌道から解き放たれてゆく方向」というコンパスと地軸を、ときおり確かめながら、ぼくは生きてきた。
それでも、現代あるいは都会の生活圏は、「消費社会」への居直りへという磁場(マグネティック・フィールド)を形成していて、コンパスと地軸がゆらぐ。その磁場の中で、ここ4~5年ほどは、家では夏に「クーラー」を使わず、扇風機たちと共に暮らしている。
楽しみながらというと変だけど、ぼくの身体がよろこびながら、クーラーを使わない方向へ生活水準を落としている(それでも電気は消費しているし、生活のなかにクーラーがなくなるわけではないけれど)。そう、<夏が夏らしく存在する>。
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倫理主義的ではなく、<生活水準を楽しみながら下げてゆく>という仕方を、ぼくは強調しておきたい。
倫理主義は「我慢」をいたるところにつくり、反抗する者たちを創出してゆく。そうではなくて、プロセスそのものに<歓び>が充ちていること。このような仕方が、時間はかかるかもしれないけれど、楽しく受け入れられ、確かな方法として根をはってゆくだろう。
こんなふうな見方をすると、たとえば「環境保護」という言い方自体が、おかしく聞こえてくる。環境を保護「しなければならない」という言い方は、倫理主義的である。そのような言い方が必要な文脈があることを理解しつつ、ひとりひとりの生き方としては、<楽しみながら>生活の仕方を変えてゆくほうへと舵を向けること。ぼくはそんな方向性がいいなぁと、思っている。
Lil Dickyの曲『Earth』。- 「We are the Earth」としての共演。
昨日(2019年5月13日)は、「地球の環境・資源問題の解決の方向性。- 宇宙と地球の<はざま>で。」というタイトルで、ブログを書いた。「宇宙」への動きがいろいろに加速している時代のなかで考えながら、宇宙に向かうにしろ向かわないにしろ、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方」(見田宗介)が求められていること。そんなふうに、文章を終えた。
昨日(2019年5月13日)は、「地球の環境・資源問題の解決の方向性。- 宇宙と地球の<はざま>で。」というタイトルで、ブログを書いた。「宇宙」への動きがいろいろに加速している時代のなかで考えながら、宇宙に向かうにしろ向かわないにしろ、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方」(見田宗介)が求められていること。そんなふうに、文章を終えた。
最近、地球環境のことをいろいろ考えている。べつに環境専門家でも環境活動家でもないし、環境保護にとりわけ熱心というわけではない(できる範囲では「楽しく」関わりたいと思う)のだけれど、上述の「宇宙」の関わりで言えば、<宇宙から折り返す視線>で地球を見るとき(たとえ、それが架空の映像であっても)、やはりそこに美しい青い惑星が存在していることが、ひとつの奇跡のように感じたりして、地球環境のことを考えてしまうのだ。
目の前にひろがる空や海、木々など、さらには空を飛び、きれいな声を放つ鳥たち、花のまわりを飛び交う蝶たちなどの存在も、この地球での共生ということをつきつけてくる。さらには、自分の家の片づけをすすめながら、「モノ」(厳密にはモノと自分との関係)を見直しながら、いろいろと考えさせられるのだ。
そんな折、2019年4月22日の「Earth Day」に先行するかたちで発表された、アメリカのラッパーLil Dickyの曲『Earth』を、ぼくはたまたま、Apple Musicをブラウズしているときに見つけたのであった(※この曲については、先月末のぼくの「メルマガ」で紹介させていただきました)。
Lil Dickyの『Earth』は、4月19日にシングル版が発表され、翌日に音楽動画(※YouTubeに飛びます)が配信された。
曲自体、そのメロディーも、それから歌詞も魅力的であるけれど、やはり音楽動画(※YouTubeに飛びます)で見ることをおすすめしたい。
そして、話題をつくったのは、声で登場するさまざまなミュージシャンたちだ。Justine Bieber、Ariana Grande、Shawn Mendes、Halsey、Ed Sheeranなどが、声で参加している。参加アーティストそれぞれが動物や植物などの役を担いながら(たとえば、トップバッターのJustine Bieberは「ヒヒ(baboon)」というように)、声(歌声)で登場してくる。
Leonardo DiCaprioも出てくるので「なんでだろう」と思ってしまうのだけれど、この曲の収益は「Leonardo DiCaprio Foundation」を通じて環境保護活動に使われることが背景としてあるようだ。
有名ミュージシャンたちの顔ぶれを見ていると、昔、『We are the World』という曲があったことを思い出す。この曲は「We love the Earth」と歌うけれど、それはどこかで「We are the Earth」といった趣もあるのだ。
でも、『We are the World』が、この世界の「人と人とのつながり」を促したのにたいして、『Earth』は、この地球の「人と地球(動物や植物など)とのつながり」を唄っている。そんな時代の移り変わりを見てとることもできるように、ぼくは見る。
曲の終盤の「語り」の部分で、登場人物の「人間」は、「Are we gonna die?」というJustine Bieberの質問に対し、「We might die」と応答するところがある。そんなふうに、正直に、応答される。いらだちを込めながら。「We」つまり人類が死んでしまうかもしれないのは、地球の温暖化がほんとうに起きていることを信じない人たちがいるから、と語りながら。
見田宗介先生は1980年代半ばの論壇時評で、19世紀末の思想の極北が見ていたものが<神の死>であったのに対して、20世紀末の思想の極北が見ているものが<人間の死>であることを指摘している。
それはさしあたり具象的には核や環境破壊の問題として現れているけれど、若い人たちはそうではない仕方でも感受しているのだ、というふうにも書いている。この指摘は、きわめて鋭敏である。
…核や環境汚染の危機を人類がのりこえて生きるときにも、たかだか数億年ののちには、人間はあとかたもなくなっているはずだ。未来へ未来へ意味を求める思想は、終極、虚無におちるしかない。二〇世紀末の状況はこのことを目にみえるかたちで裸出してしまっただけだ。
人類の死が存在するという…明晰の上に、あたらしく強い思想を開いてゆかなければならない時代の戸口に、わたしたちはいる。見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫
『Earth』という曲を聴いていると、見田宗介先生のこの指摘を、ぼくは憶い起こす。
人類の死が存在するという明晰のうえに築かれる「あたらしく強い思想」がひとりひとりの生活のなかにひらかれてゆくとき、それは具象的な仕方で現れている「環境破壊」の問題も、解決の軌道にのってゆく。
地球の環境・資源問題の解決の方向性。- 宇宙と地球の<はざま>で。
最近の「宇宙」にまつわることがらの盛り上がりを見ながら、「宇宙開拓」という方向性が、たとえば地球の環境容量の限界性(環境・資源問題)を解決するための、ひとつの方向性であることは確かである。資源採掘も、移住先としての地球外惑星も、さらには観光資源(宇宙旅行!)としても、その方向に沿った仕方で追求されている。
最近の「宇宙」にまつわることがらの盛り上がりを見ながら、「宇宙開拓」という方向性が、たとえば地球の環境容量の限界性(環境・資源問題)を解決するための、ひとつの方向性であることは確かである。資源採掘も、移住先としての地球外惑星も、さらには観光資源(宇宙旅行!)としても、その方向に沿った仕方で追求されている。
ブルーオリジン社の月着陸船「Blue Moon」が発表されたところだが、すでにその方向にビジネスを構築してゆくことを想定したうえでの発表である。
ところで、この方向に地球の環境・資源問題を解決してゆくことは「正しい」ように見える。
グローバル化のプロセスは、ある側面において、環境・資源問題を地球内の「他の地域」に外部化することで解決してきたプロセスであるけれど、グローバル化の完成は、そこにどこまで行っても「地球」という球体であることをいっそう目に見える仕方で見せることになった。
その地点から見ると「外部」は「宇宙」となる。環境・資源問題を解決してゆく方向性として、こうして「宇宙」は必然的に現れることになる。
なお、「テクノロジーによる環境容量の変更(拡大)」の方向性としては、多くの識者たちが語っているように、この外部の方向性に加え、人間の内側(遺伝子など)に向かっていく方向性もあるのだけれど、ここではそこには立ち入らない。
環境・資源問題を解決してゆく方向性として「宇宙」へと目が向けられる。だから、その方向性は「正しい」ように見える。
でも、そこで「正しい」としてしまうと、思考が止まってしまう。そのことを、ぼくは、見田宗介先生(社会学者)のことばに学んだ。
…もしそのようなものであるならば、たとえ宇宙の果てまでも探索と征服の版図を拡大しつづけたとしても、たとえ生命と物質の最小の単位までをも解体し再編し加工する手を探り続けたとしても、人間は、満足するということがないだろう。奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方を見出さないなら、人間は永久に不幸であるほかはないだろう。それは人間自身の欲望の構造について、明晰に知ることがないからである。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)
ここで「もしそのようなものであるならば」として指摘されているのは、「経済成長を無限につづける」という強迫観念、あるいは「物質的な欲望は限りなく増長する」という固定観念のことである。「環境容量をむりやりにでも拡大しつづけるという強迫観念」は、これらの強迫観念や固定観念から来ていると、見田宗介先生は書いている。
この指摘は、宇宙開拓の方向性の「正しさ」に対して、もう一段深い合理性の視点を加えている。
つまり、現代人の「考え方の前提」を明るみに出してしまうのである。どこか疑問や無理を感じながら、しかしどこか離れられないような、そんな観念たちである。
宇宙に向かうのが「悪い」ということではない。ただし、「環境容量をむりやりにでも拡大しつづけるという強迫観念」に支えられた、あるいは「経済成長を無限につづけるという強迫観念」に支えられた行動は、どこまでつづけたとしても、人間は幸福を見出すことはないのだということである。
宇宙に向かうにしろ向かわないにしろ、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方」が求められている。ぼくも、今ではそう思う。そして、それは「人間自身の欲望の構造について明晰に知ること」で可能なのだということを、人は知る。
ブルーオリジン社の月着陸船「Blue Moon」。- 「Blue Moon」のイメージ動画を観て。
「宇宙」が注目され、そこにたくさんの夢がつめられている。今月前半だけ見ても、日本のインターステラテクノロジズ社のロケットが打ち上げに成功し、それから、米アマゾンのジェフ・ベゾス率いるブルーオリジン社の月着陸船「ブルームーン(Blue Moon)」が発表された。
「宇宙」が注目され、そこにたくさんの夢がつめられている。今月前半だけ見ても、日本のインターステラテクノロジズ社のロケットが打ち上げに成功し、それから、米アマゾンのジェフ・ベゾス率いるブルーオリジン社の月着陸船「ブルームーン(Blue Moon)」が発表された。
ぼくも小さい頃から「宇宙」が好きであるから、このような出来事にワクワクしてしまう。そんな気持ちや感情がどうして、どのように湧いてくるのかはよくわからないのだけれど。
「It’s time to go back to the Moon, this time to stay」(月に戻るときがきた。今回は滞在するんだ)と、ベゾスは発表イベントで語った。
月着陸船「ブルームーン」は、月の表面に相当量の装置や器具を届けることができる。月面への着陸はソフトで、人がいても可能だという。もちろん、「宇宙ビジネス」が視野に入れられていて、ブルーオリジン社のサイトの「Blue Moon」ページの下には、連絡先(Email address)が記載されている。
ブルーオリジン社は「Introducing Blue Moon」と題されたイメージ動画(1分46秒)を公開し、そのイメージ動画はぼくたちをワクワクさせてくれる。とてつもなく「新しいこと」をするときには、ビジョンを映像の形で創りだし、共有する仕方は、効果的でもあるだろう。実際にプロジェクトに関わっている人たちはもちろんのこと、そこに期待をよせる人たちまでを含めて、そこに「共同幻想」ができあがるのだ。
月着陸船「ブルームーン」の月着陸イメージの動画を観てワクワクしながら、それと同時に、ぼくのまなざしは、月の表面からはるか先に見える「地球」に向けられたのであった。岩や石やクレーターに囲まれた月の表面を鏡としながら映し出される、美しい青い惑星。水があり、木があり、生き物たちが暮らす地上。
宇宙に解き放たれながら、この小さな惑星、地球の内部に折り返すという「宇宙から折り返す視線」を、見田宗介(社会学者)は人類の課題として提示している。
ダンテの時代に人びとの目はひたすら<天上>へと向けられていた。それは人類が、じっさいに天に昇ったことがなかったからである。今人類はじっさいに天に昇って、そこに天国はないことを見た。このとき人間を虚無から救うのは、宇宙飛行士が視線を折り返したときに見た<青い惑星>の美しさということだけである。
地上こそ美しいのだと。
「先にはもう宇宙しかない」断崖にまで来てしまった人類は、<折り返し>の場所に立っている。見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
人類はじっさいに天に行って、そこに「天国」がないことを見たけれども、そこに「宇宙ビジネス」の可能性を見出している。「資源」という名の天国である。環境・資源問題に直面する地球を見据えながら、それを乗り越えてゆくためのさまざまな「資源」の可能性をいわば<救世主>として見ている。
現在の地球の抱える問題の解決には、この「方向性」は確かにひとつの方向性である。
けれども、見田宗介のもうひとつのことばに、耳を傾けておきたい。
環境容量をむりやりにでも拡大しつづけるという強迫観念は、経済成長を無限につづけなければならないというシステムの強迫観念から来るものである。あるいは、人間の物質的な欲望は限りなく増長するものであるという固定観念によるものである。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)
「宇宙」は夢をひろげるフィールドである。それは、人びとをワクワクさせてくれる。けれども、そこにわきあがる「欲望」については、立ち止まって、一歩二歩さがってから、じっくりと見なおすこと。そこから見えるもの、感覚されるものに降り立って、さらにじっくりと考えてみること。
「月面」への着陸船はとても魅力的だけれども、ぼくたちの「内面」への着陸船、またこの地球への今一度の<着陸船>も、今現在必要とされているものだと、ぼくは思う。
Yoko Onoのアルバム『Warzone』。- なぜか心に響いてくるYoko Onoの声音。
昨年2018年にリリースされた、Yoko Ono(ヨーコ・オノ)のアルバム『Warzone(ウォーゾーン)』。生誕85周年、またミュージシャンとしての50周年にあわせて発表されたアルバムである。
昨年2018年にリリースされた、Yoko Ono(ヨーコ・オノ)のアルバム『Warzone(ウォーゾーン)』。生誕85周年、またミュージシャンとしての50周年にあわせて発表されたアルバムである。
収録曲は13曲。1970年から2009年までのヨーコ・オノの作品から選曲され、新たに収録されている。
13曲目には、あの、ジョン・レノンの「Imagine」が収められている。2017年に、作詞・作曲のクレジットに「Yoko Ono」が追加された曲でもある。背景としては、ジョン・レノンが生前、歌詞やコンセプトへの、ヨーコ・オノのかかわりを認めていたことがある。
正直、ぼくがこのアルバムを聴いてみようと思った理由のひとつに、この「Imagine」があったことがある。ヨーコ・オノがどのように「Imagine」を歌うのか。それを確かめてみたかった。
ヨーコ・オノの曲や歌声は「普通」ではない。ミュージシャンそれぞれにユニークさを持っているという次元ではなく、そもそもの次元において異なっている(ように聞こえる)。
はじめて聴く人のなかには、ただの語りや叫びのように聞こえるかもしれないし、ずっと聴くに耐えないという人もいるかもしれない。確かに、「うまい」と言えるような歌声ではない。街角の静かなカフェではながれていないだろう。カフェでながれてきたら、びっくりしてしまう曲たちもある。
ビートルズも、ジョン・レノンをよく聴いてきたぼくでさえも、ヨーコ・オノを尊敬しながらも、彼女の曲たちをすすんで聴こうとはあまり思わなかったのが正直なところである。
けれども、ぼくがそれなりに歳と経験を重ねてゆくなかで、ヨーコ・オノの曲たち、とりわけ彼女の声音が自分の心に響いてくるのを感じるから不思議なものである。どんなふうにしてなのかは、ぼくにはよくわからないけれど。
アルバムに収められた「I Love All of Me」や「I Love You Earth」はどこか遠い世界からのことづてのように、聴く者に届けらるかのようだ。
それから、アルバムの最後に収められている「Imagine」の新バージョン。
「この曲をやるのは怖かった」と、ヨーコ・オノは語る。
「この曲をやるのは怖かった。トム(プロデューサーのトーマス・バートレット)も少し怖がっていたんじゃないかと思います。世界中の人が知っている曲ですから。でも、今回のアルバムのテーマに合うと思ったから、やるべきだと決心しました」
聴き方は、聴く人それぞれによるものである。
でも、少なくともぼくの耳には、ヨーコ・オノの声音が「届いた」のだと言える。そこに聞こえる声音だけでなく、まるでその声音を超える仕方で<音>がひろがってゆくのを感じながら。
「ポスト真実」という事象を生みだす「社会的地殻変動」。- 「虚構の時代」(見田宗介)の「フィクション」。
「ポスト真実の政治」(post-truth politics)などと言われることがある。「政策の詳細や客観的な事実より個人的心情や感情へのアピールが重視され、世論が形成される政治文化」というように、Wikepedia(日本語)には書かれている。
「ポスト真実の政治」(post-truth politics)などと言われることがある。「政策の詳細や客観的な事実より個人的心情や感情へのアピールが重視され、世論が形成される政治文化」というように、Wikepedia(日本語)には書かれている。
これは、Oxford English Dictionaryにおける「post-truth」の定義が採用されるかたちでの説明である。ちなみに、Oxford English Dictionaryの「post-truth」の定義は、「relating to or denoting circumstances in which objective facts are less influential in shaping public opinion than appeals to emotion and personal belief」とある(※Apple社のmacOSに搭載の辞書より)。
つまり、すでに辞書に掲載されるほどに、「ポスト真実」の事象が見られ、語られ、論が展開されてきている。
たとえば、ハーバード大学で教えるために10ヶ月ほどアメリカに滞在した吉見俊哉(メディア論)が、アメリカに住みながら「アメリカと世界」を捉え返そうとした著書『トランプのアメリカに住む』(岩波新書、2018年)の第一章は、「ポスト真実の地政学」と題して、この「ポスト真実」に焦点をあてている。
それにしても、「ポスト真実」ということばで語られる事象を「政治文化」に限定せず、より巨視的な視点で、ぼくたちが生きる社会のありようから見渡すと、どのように見えるだろうか。いったい、「ポスト真実」のように語られる「世界」とは、どのような世界なのだろうか。
「ポスト真実」がことばになるよりもずっとまえから、見田宗介(社会学者)が語ってきた視点が、この社会の地殻変動を的確につかんでいるように、ぼくは思う。
見田宗介は1945年以降における日本の現代社会史を「現実」に対する3つの反対語(現実と理想、現実と夢、現実と虚構)と「高度成長」を組み合わせながら、つぎのような「三つの時代」に切り分けている(見田宗介『社会学入門』岩波新書、2006年)。
「理想」の時代:人びとが<理想>に生きようとした時代(1945年~1960年頃:プレ高度成長期)
「夢」の時代:人びとが<夢>に生きようとした時代(1960年~1970年前半:高度成長期)
「虚構」の時代:人びとが<虚構>に生きようとした時代(1970年後半:ポスト高度成長期)
現在は、引き続き「虚構の時代」が続いている。このことは「日本」に限られたものではなく、国々の高度産業化のタイミングによって時期の違いはあれ、虚構の時代に入り、虚構が深まってゆく時代にいるのだということである(と、ぼくは解釈している。「グローバル化」も合わせて考慮しながら。)。
さらに、巨視的な「人類の人口増加率」の観点も導入しながら、人類は「第II期:高度成長」から、次なる「第Ⅲ期:安定平衡」の時期に入らなければいけない時代にきていることにふれながら、2010年に行われた講演の質疑応答に応える仕方で、見田宗介は次のように語った。
…人類の全体の人口の増加率を見ると、もうすでに第Ⅲの時期に入らなければいけない時代にきているけれど、第Ⅱ期の高度成長をいつまでも続けよう、また高度成長を復活させようなんていう政治家とかまだいますからね。そうすると人気が出たりする。そういうメンタリティーとか社会システムが非常に力強くまだ働き続けているものだから、環境限界に達した後、実態ではないもので無理やり高度成長させようと思うとフィクションにならざるを得ないのです。欲望を作り出すとか、フィクションの世界で無限に商品を売るとかね。
そうすると、本当に第Ⅲ期の充実した明るい現在を、そういうものとして人々が楽しむという時代が来るまでは虚構の時代であらざるを得ないと思うんです。…第Ⅱ期が終わった後の第Ⅲ期がはじまるまでのいわば中間であって、無理やりに第Ⅱ期的な高度成長を続けようと思えば、虚構の時代にならざるを得ない。…見田宗介『現代社会はどこに向かうかー≪生きるリアリティの崩壊と再生≫ー』弦書房、2012年
「実態ではないもので無理やり高度成長させようと思うとフィクションにならざるを得ない」のだと、見田宗介は社会の状況をとらえている。社会が「安定平衡」に向かう過渡期である現在において、無理やりに「高度成長」を続けようとしてゆくと、そこでは「虚構の時代」にならざるを得ない。
見田宗介のこの視点はきわめて明晰である。
このようにして巨視的に眺めてみると、虚構の時代における構えのひとつが「ポスト真実」であることが見えてくる。「高度成長」を目標として掲げるのであれば、「フィクション」が登場せざるを得ないのだから。「フィクション」は感情にアピールするものである。
人類は、「第II期:高度成長」から「第Ⅲ期:安定平衡」へと至る、大きな社会的地殻変動を経験している。その過渡期を、どのように経験してゆくのか、生きていくのか。社会的地殻変動という過渡期に対応するかたちで、ぼくたち自身がどのように「生きかたのトランジション(移行)」を生きるのか。「ポスト真実」の時代の生きかたは、そこの根底にまで降り立ってゆくことで、いっそう深い問いを、ぼくたちひとりひとりに投げ返してくるのである。
よりミニマルな生きかたを求めるプロセスでの学び。- 「やってみないとわからないことがある」という学び。
モノを減らしながら、よりミニマルな生きかたを求めるプロセスでの「学び」は、ほんとうに多様で、思っている以上に厚みがある。
モノを減らしながら、よりミニマルな生きかたを求めるプロセスでの「学び」は、ほんとうに多様で、思っている以上に厚みがある。
人は「自分が何者か」ということを、たとえば所有するモノによって意味づけてゆくことがある。明確に意識していなくても、いつのまにか、モノが「自分」をかたちづくり、終わりのない所有への欲動が作動する。あるところまではこの方法はうまくいくかもしれないけれど、そのような生きかたのなかで、<自分>が見えなくなってゆく。
だから、モノを減らしてゆくことは、<自分>をふたたび取り戻してゆくプロセスとも言えるのだけれど、モノによって支えられてきた「自分」がそこに存在しているから、モノを減らしてゆくことは怖かったりするし、ただモノだけでなく、内面の「何か」を失ってしまうような感覚にとらわれることもあるのである。
そのような感覚を経験しながら、そのプロセスは、そこに飛びこむ者たちに、多様で厚みのある「学び」をもたらしてくれることになる。
どんなモノに囲まれ、どのようなモノが隠れていて、それらがどのようにしてそこに存在しているのかなど、プロセスのひとつひとつに立ちどまって耳をすましてみると、それらは必ずや「何か」を教えてくれるものである。
今は使っていないけれど棚にしまわれているモノ、使っているけれど粗末にあつかってしまっているモノ、歓びを感じないけれどそこにあるモノ。あるいは、それらのモノの置かれかた、などなど。それらのモノを通して、それらのモノを入り口として自分の内面に降り立ちながら、そこで感じたり、考えたりすることに目をこらし、耳をすます。
そこに、「自分」と「世界」とのつながりかたの輪郭があらわれるのである。
そこまで書いて、べつのブログでふれた山本七平の(1921-1991)ことばが浮かんでくる。日本人の「働く」ということに見られる精神構造についてであるが、これと同じ精神が、上述のような態度にも見られるのかもしれないと、自分の精神を括弧に入れる。
…日本人が働くのは経済的行為ではなく、「仏業の外成作業有べからず。」と同じ、一切を禅的な修行でやっているにほかならない。農業即仏行であり、サラリーマン即仏行であり、働くことはすべて仏行、メーカーが物を作り出すのは一仏の分身として世界を利益するため、またセールスマンは巡礼である。みなが、それによって、貪、瞋(しん)、痴の三毒から解放されて成仏するためにやっている…。
山本七平『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)※電子書籍版(PHP文庫)
ここで、禅とエコノミック・アニマルが「同じ発想」からきているのだと山本七平は語っているが、「片づけ」のプロセスにも同じ発想が生きているのだろうか。「片づけ」を機能だけで見るのか、あるいはそこに修行を見出すのか。
ところで、よりミニマルな生きかたを求めるプロセスでの学びを得てきたなかで、より深く感じたのは、「やってみないとわからない」ことである。このことをすべての事象に適用しようとは思わないけれども、「やってみないとわからないことがあるのだ」ということである。
ヘルマン・ヘッセの名著『シッダールタ』で、シッダールタは「教え」だけにうずもれるのではなく「経験したいんだ」という気持ちを抱いて「世界」に旅立っていったけれど、物質的によりミニマルな生きかたも、経験してみることである。
そこには何もないかもしれないし、自分にとって大切な「何か」が存在しているかもしれない。存在と不在の振れ幅をふくめての、経験ということである。
「自分」をバージョンアップさせてゆく。- たとえば、海外で暮らしてゆくなかで。
「自分」であること。一貫性をもった振る舞いかたで、どこにいっても、どんなときも「自分」をもっていること。確固とした「自分」であること。そのような、不動で、確固とした、強い個人像のようなものが有効であり、また強く信じられることがある。
「自分」であること。一貫性をもった振る舞いかたで、どこにいっても、どんなときも「自分」をもっていること。確固とした「自分」であること。そのような、不動で、確固とした、強い個人像のようなものが有効であり、また強く信じられることがある。
その有効性も感じながら、海外でそれなりにながく暮らしてきて思うのは、むしろ、これと逆のありかた、柔軟で、一見すると個がないように見える振る舞いの有効性である。
ぼくたちは、ある文化のなかで生まれ、育てられるなかで、その文化や環境に適合性のある仕方で教育され、そのように振る舞うことが期待され、ときには反感をもちながらも、期待に応えるように振る舞い、生きてゆく。
でも、国際化やグローバル化のなかに身を投じることでより明確にわかってくるのは、そのようなある文化のコードは、ぼく(たち)の人間性の一面にすぎないということである。ある文化で高く評価される一面が、他の文化にいけば、まったく評価されないということがある。「謙虚さ」などは、わかりやすい例かもしれない。日本で大事にされるある種の謙虚さが、異文化のなかで負の側面となって現れることにもなるのだ。
そんな状況にでくわすときは、自分の振る舞いの「自明性」に疑問がなげかけられるときでもある。これまで「A」と教えられ、Aの振る舞いを身体にきざんできたのが、あるときそれと反対の「Z」も大切で、環境や状況によっては有効なんだということを体験していく。
自分にとってデフォルト「A」の振る舞いに対して、反対の振る舞いかた「Z」を学んでゆく。Aを捨ててしまうのではなく、Aも残したままでZもとりこんでいく。AもZも自分の振る舞いかたとして、そのいわば人間の特質の<全体性>を獲得していく。
<全体性>を獲得した個人は、環境や状況に応じて、どちらにも柔軟に振る舞うことができる。そんなふうにして「自分」をつくっていく。そして、それは反対の振る舞いを排除しないという仕方で、<多様性>にひらかれていく仕方でもある。
柔軟に主体を変えてゆく構えは、あたかも、日本的な「主体」であるようにも見える。日本では、「主語」は置かれる立場などによって変わるし、また「主語」がその<場>に投じられて消えてしまうこともある。
けれども、ぼくが経験から思うのは、一度、その日本的な主体から<出ること>が大切なのだということである。つまり、確固とした「主体」を、いつも変わらない「主語」(I)で生きてみることである。
そのうえで、どちらも自由に行き来できるようなところに、バージョンアップさせてゆくことである。
日本人にとっての「働く」こと。- 理解され難い、「働く」を支える発想。再び、山本七平の視点。
伝統的な師弟関係における本質(のひとつの見方)について、自身が武道家でもある思想家の内田樹に依拠しながら、修業としての「トイレ掃除」ということのなかに見てとったブログ「「学び方」を学ぶこと。- 修業としての「トイレ掃除」の本質。」を昨日書いた。
伝統的な師弟関係における本質(のひとつの見方)について、自身が武道家でもある思想家の内田樹に依拠しながら、修業としての「トイレ掃除」ということのなかに見てとったブログ「「学び方」を学ぶこと。- 修業としての「トイレ掃除」の本質。」を昨日書いた。
このような形の師弟関係は、日本において「働く」ことのなかにも見られ、語られたりしてきた。現代においては、そのような関係性は見られなくなったり、有効ではないというように語られている。師弟関係ではなく、メンターやコーチなどという形態がすすめられたりする。これらに焦点をあててゆくだけでも興味深いことだけれども、ここではそこには入っていくことはしない。
けれども、伝統的な師弟関係が「働く」ことのなかにおりこまれてゆく仕方が、どのような日本文化(の特質)に支えられているのかについて、もうひとつべつの議論を重ねておきたい。
内田樹の「便所掃除がなぜ修業なのか」(『日本辺境論』新潮新書に所収)を読みながら伝統的な師弟関係の本質をかんがえ、ぼくがそこに重ねていたのは、山本七平(1921-1991)の『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)における、日本的な特質のことである。
山本七平は徳川時代の武士であり禅僧であった鈴木正三の思想に日本の資本主義に通じる精神を見ているが、「禅とエコノミック・アニマルは同じ発想から出ている」と書いている。1960年代、日本人は国際社会で「エコノミック・アニマル」と呼ばれるほどであったけれど、それと「禅」が同じ発想から出ているというのだ。
ここで言われる「同じ発想」がなんであるか、どのようなものであるか、おわかりだろうか。少し考えてみてほしい。
キーワードは、冒頭に挙げた「修業」に近いことばである「修行」である。
「禅」に興味をもつ外国の人に「禅」について質問されたとき、山本七平は、鈴木正三にふれながら、つぎのように応えたのだという。
…日本人が働くのは経済的行為ではなく、「仏業の外成作業有べからず。」と同じ、一切を禅的な修行でやっているにほかならない。農業即仏行であり、サラリーマン即仏行であり、働くことはすべて仏行、メーカーが物を作り出すのは一仏の分身として世界を利益するため、またセールスマンは巡礼である。みなが、それによって、貪、瞋(しん)、痴の三毒から解放されて成仏するためにやっている…。
山本七平『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)※電子書籍版(PHP文庫)
山本七平のこの応答を聴いた人たちはたいへんに驚いたのだという。まさか、禅とエコノミック・アニマルが同じ発想から出ているなど、思ってもみないからである。
なお、エコノミック・アニマルにかかわる「利潤の追求」ということを支える考え方として、「利潤の追求は許されないが、結果としての利潤は肯定される」という鈴木正三の考え方が日本の底流に根強く残っていることを指摘している(1970年代の日本であるけれど、文化の根はそんなに変わるものではない)。
なお、山本七平は、近代・現代社会における「脱宗教体制」のことは織り込み済みである。今では資本主義の極致のように見えるアメリカについて、ピューリタンの面影はないというのが皮相な見方なら、日本にはすでに禅の面影が見られないのも皮相な見方であると明示している。
ちなみに、橋爪大三郎・大澤真幸は著書『アメリカ』(河出新書、2018年)で、アメリカの本質に光をあてるときに、まず押さえるべきは「キリスト教」だと語っている。キリスト教がなかったらアメリカは存在しない、と。いろいろと経験と学びを深めてゆくなかで、(「宗教」を学ぶことになるべく距離をおいてきた)ぼくも、そのことがようやくわかりはじめた。
ところで、農業も、仕事も、働くことも、それら「世俗の行為を修行とすることで宗教的行為となりうる」といった考え方が、日本人に大きい影響を与えてきたことを、山本七平は強調している。この考え方を反転させてゆくと、修行としての世俗の行為が高みに上がることで宗教否定的であり、また日本人は「無宗教」であるという見方になる(もちろん、だからといって<宗教性>をもたないということではない)。
なるほど、と思う。このような日本の社会では、「働かない」ということは仏行を行なっていないことであるから非難されるのだと、上述の議論からひきだされる興味深い状況例も、山本七平は挙げている(日本社会で「ブラブラしている」は、このようにして、非難的な言葉である)。
こんなふうにして、最初の「トイレ掃除」にもどると、その行為も、ひたすらに<修行的>なのだろう。
山本七平の著書『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』。今だからこそ、読まれるべき本であると、ぼくは思う。くりかえしになるけれど、海外で働く日本の人たちに、この本を勧めたい。山本七平自身が書いているように、「視点の提供」として。
「学び方」を学ぶこと。- 修業としての「トイレ掃除」の本質。
思想家・武道家の内田樹の『日本辺境論』(新潮新書)というきわめてスリリングな本のなかで、内田樹は、師弟関係における「トイレ掃除」について書いている(「便所掃除がなぜ修業なのか」)。
思想家・武道家の内田樹の『日本辺境論』(新潮新書)というきわめてスリリングな本のなかで、内田樹は、師弟関係における「トイレ掃除」について書いている(「便所掃除がなぜ修業なのか」)。
弟子から見て「無意味だと思われる仕事」、たとえばトイレ掃除などを、師弟関係を師弟関係として発動させてゆくために、師は弟子にあたえる。一般に語られる話の形では、弟子は修業に直結するような、もっと有用なことを求めたくなる。師に向かってそんなことを頼むことはできない、というのがよくある形だけれど、なかには、師に向かって頼んでしまう、という展開の話もあるだろう。いずれにしと、師弟関係におけるトイレ掃除は、師弟関係を語る際によく語られてきたものである。
トイレ掃除そのものに「意味」を見出してゆくというように語られることもあるけれど、内田樹は、よりファンダメンタルに、「学び方」を学ぶ、ということへの道筋を見ている。
「もっと有用なことを…」という弟子ではなく、黙々とトイレ掃除をする弟子には「感情」の変化がやがておとずれる。その変化のうつりゆきは、態度と感情の矛盾のなかで、「無意味なこと」をしている自分を合理化しようとする、心の安定化作用のうちに見て取られることになる。
黙々とトレイ掃除をする弟子は、つぎのような変化を経験していくことになると、内田樹は書いている。
…「…先生はあまりに偉大なので、そのふるまいが深遠すぎて、私には『意味』として察知されないだけである」というかなり無理のある推論にしがみつくようになります。「私は意味のあることをしている」という「正しさ」を立証するために、「私には何に意味があるのか、よくわかっていない」という「愚かさ」を論拠に引っ張り出す。おのれの無知と愚鈍を論拠にして、おのれを超える人間的境位の適法性を基礎づける。それが師弟関係において追い詰められた弟子が最後に採用する逆説的なソリューションなのです。
「私はなぜ、何を、どのように学ぶのかを今ここでは言うことができない。そして、それを言うことができないという事実こそ、私が学ばなければならない当の理由なのである」、これが学びの信仰告白の基本文型です。
「学ぶ」とは何よりもまずその誓言をなすことです。そして、この誓言を口にしたとき、人は「学び方」を学んだことになります。…内田樹『日本辺境論』新潮新書
こうして「学び」の誓言をし、「学び方」を学んだものは、どんなものや人からも学びを引き出せるようになる。師から「何か」を学ぶということよりも、「学び方」を学ぶことで、弟子の学びの翼は飛翔する。翼を獲得することで、どこまでも飛んでゆくことができる。
トイレ掃除の「意味」ということにとどまらず、それよりもファンダメンタルな次元において、「学び方」を体得してゆく。このうつりゆきに、師弟関係における修業の本質がやどっている。
もちろん、今の時代はしかし、「無意味なこと」に不寛容なところをもちあわせているようだ。それがよいのかわるいのかということは簡単に言うことはできないけれど、「学びの信仰告白の基本文型」をどのように手にすることができるのか、ということは肝要なことであると、ぼくは思う。