成長・成熟, 人生100年時代 Jun Nakajima 成長・成熟, 人生100年時代 Jun Nakajima

「生き方の開拓者 Social Pioneer」と <道に迷うこと>。- リンダ・グラットン、キャンベル、ソルニットからソロー。

「人生100年時代」という認識をひろめてゆくきっかけをつくった経済学者リンダ・グラットンが、その契機となった本を出版したのち、次にとりかかった仕事のなかで使っている用語、「Social Pioneer」(社会的パイオニア、生き方の開拓者)。

🤳 by Jun Nakajima

「人生100年時代」という認識をひろめてゆくきっかけをつくった経済学者リンダ・グラットンが、その契機となった本(『The 100-Year Life: Living and Working in an Age of Longevity』)を出版したのち、次にとりかかった仕事(『The New Long Life: A Framework for Flourishing in a Changing World』)のなかで使っている用語、「Social Pioneer」(社会的パイオニア、生き方の開拓者)。

 これからは、だれもが、その生き方において「開拓者」でなければならない。これまでのように、過去のだれかが舗装した道をただただ進んでゆくのではなく、荒野のなかで「開拓」してゆかなければならない。定年を見越した、人生の三段階「教育→仕事→定年・定年後」という単線的な道のりは、標準なのではなく、さまざまな生き方のうちのひとつにしかすぎないという方向に、のりこえられてゆかなければならない。ぼくはそうおもいます。

 生き方を開拓してゆくということ。つまり、<じぶんの道>を生きてゆくということをおもうとき、神話学者ジョセフ・キャンベルの「ことば」が憶いおこされます。

Follow your bliss.

The heroic life is living the individual adventure.
There is no security
in following the call to adventure.

Nothing is exciting
if you know what the outcome is going to be.

To refuse the call
means stagnation.

What you don’t experience positively
you will experience negatively.

You enter the forest
at the darkest point,
where there is no path.

Where there is a way or path,
it is someone else’s path.

You are not on your own path.
If you follow someone else’s way,
you are not going to realize
your potential.

Campbell, Joseph. A Joseph Campbell Companion: Reflections on the Art of Living (The Collected Works of Joseph Campbell) . Joseph Campbell Foundation. Kindle Edition.

 森深くにわけいってゆくとき、そこには「道 path」がない。道があるのだとすれば、それはだれか他者の道なのだ。キャンベルはこうして、<道のない道>を歩いてゆくこと、そうすることで、じぶんの可能性をひらいてゆくことの大切さを語っています。

 レベッカ・ソルニットの、美しいエッセイ「Open Door」(『The Field Guide to Getting Lost』所収)では、<道に迷うこと>にむかって、直接的なまなざしが投げかけられています。じっさいの登山中に「道に迷うこと」から、さらには「生きてゆく道のりに迷うこと」まで、ソルニットの詩的な手触りのする文章が、「迷うこと」の森へと分け入っていきます。

 とりあげられている単語に分け入ってみると、そこでは違う景色が見えてきます。ソルニットはここで「lost」という単語の語源にさかのぼります。

The word “lost” comes from the Old Norse los, meaning the disbanding of an army, and this origin suggests soldiers falling out of formation to go home, a truce with the wide world. I worry now that many people never disband their armies, never go beyond what they know.

Solnit, Rebecca. A Field Guide to Getting Lost (pp. 6-7). Penguin Publishing Group. Kindle Edition.

 「lost」という言葉はもともと、「軍隊を解散すること」を意味していたこと、そして、この語源が指し示してくれるのは、「兵士たちが編隊から散り散りになって家に帰り、広い世界と休戦すること」なのだと、ソルニットは書いています。ソルニットはこの言葉を、この「社会」のなかで「戦う」現代人に向かって投影し、現代人たちがただただ戦いつづけているだけで、じぶんたちの知っていることの先へとじぶん自身を投じていかないことを杞憂しています。

「It is a surprising and memorable, as well as valuable, experience to be lost in the woods any time,…」

 『Walden』でソローが書いているこの文章を引用しながら、ソルニットは、「どのように迷うのか」という問いへと向き合っています。

 ニュージーランドの森で、ずいぶんと「迷った」体験を、ぼくはおもいだします。ぼくが二十歳のころのことで、ひとり、ニュージーランドの自然のなかに身を投じていたときのことです。森や山には一応「コース」が設定されていて、地図があり、また道ゆきの樹々には「目印」が打たれていて、それらを頼りに、歩みをすすめていきます。けれども、「コース」といっても、「道」がはっきりしているところもありますが、その「道」が消えて獣道になるところもあります。そのなかでは樹々に打たれている小さな「目印」を探しながら前にすすんでゆくのですが、場所によっては、それら目印が見つかりません。前に前にすすんでも一向に目印が見えないとき、この方向ではないなと気づきます。でもそこからどこまで引き返したらよいのか、あるいはどの方向に引き返したらよいのか、わからなくなるときがあります。

 ひとは「迷い方を知らない」と、ソルニットは書いています。ぼくも、はじめのうちは、迷ったことに気づいて、パニックを起こすことがありました。森深くに分け入り、まわりに誰の姿も見えず、目印も見つからない。コンパスは持っていたけれど、どの方向へ抜けてゆけばよいのかわからない。重いバックパックを背負いながら、ぼくは必死で目印を探しに、もと来たであろう方角へとすすんでいきました。こんなことが幾度かつづくなかで、ぼくは次第にパニックを起こすことなく、森の声たちに耳をすまし、光を投げかける太陽にアドバイスをもとめ、川の流れの気配をかんじながら、すすむ方向をさがすようになりました。森のなかで「迷うこと」の体験が、のちのぼくの生のなかで「貴重な」経験であったのだと、ソローを引用するソルニットの文章を読みながら、ぼくはおもうようになりました。

 人生という道を歩みながら、ひとはじぶんのなかに「軍隊」を編成し、ここかしこで戦闘をつづけていきます。ときに敗れ、ときに戦果をあげながら、ときに傷つき、そしてときに一息つきながら、それでも戦闘はやみません。でも、ときに、どうしようもないほどに、「軍隊」がひどく打撃をうけて、意図しないうちに、戦闘員たちは散れぢれになることがあります。これまでの戦略や戦術を遂行しつづけようとおもっても、うまくいかない。人生の「道」で、立ち止まらざるを得なくなり、「道」は道でなくなり、目印も見えなくなります。道を失いながら、じぶんを失ってしまう。じぶんの内面が空っぽになったようにかんじることもあります。けれども、「lost」の語源に本質が隠されているように、この道を失う体験のなかに、もっともっと広い世界との休戦が存在しています。

 「道」があるところは、他者たちの道です。だれかが通ってきた道であり、あるいは、だれかがじぶんに「教えてくれた道」です。キャンベルのことばのように、そこでは、じぶんの可能性は閉じられたままです(少なくとも完全にはひらかれていないままです)。森深く、道のない道にふみだしてゆくとき、ひとは、だれのものでもない、<じぶんの道>を歩みはじめることになります。

 「生き方の開拓者」であるということは、迷うことでもあります。開拓ということの手前で、あるいは開拓と同時に、「迷う」ということがあります。これまでは、家族や世間や社会が「教えてくれた道」を歩んできていたところ、その道が消えて、迷うことになります。でも、そこから、道ではない道を歩んでゆくことになります。そして、これからは、だれもが、「生き方の開拓者」となってゆく時代、あるいはそのような道のない道に投げ出されてしまう時代となっていきます。ひとは喪失感を抱えるかもしれませんが、「道のない道」を、心をもって歩んでゆくことで、気がつけば<じぶんの道>が現れ、キャンベルのいう「じぶんの可能性の世界」がひらかれてゆくのだということです。

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「見田宗介=真木悠介」 Jun Nakajima 「見田宗介=真木悠介」 Jun Nakajima

追悼:見田宗介=真木悠介先生。- <人間の解放>を追いつづけて。

社会学者の見田宗介(筆名:真木悠介)。

「学者」だからといって通りすぎないでほしい、「社会学」だから関係ないやと通りすぎないでほしい、じぶんは「文系」ではないからと通りすぎないでほしい。ぼくはそう願います。
見田宗介の「切実な問題」は、<人間の解放>です。
だから、「学者」や「社会学」や「文系」などという看板をまえにして、立ち去らないでほしいとぼくはおもいます。

🤳 by Jun Nakajima

社会学者の見田宗介(筆名:真木悠介)。

 「学者」だからといって通りすぎないでほしい、「社会学」だから関係ないやと通りすぎないでほしい、じぶんは「文系」ではないからと通りすぎないでほしい。ぼくはそう願います。

 見田宗介の「切実な問題」は、<人間の解放>です。

 だから、「学者」や「社会学」や「文系」などという看板をまえにして、立ち去らないでほしいとぼくはおもいます。

 二十歳をすぎたころのぼくが出逢った見田宗介(真木悠介)の著作。学問がいわゆる「学問」ではなく、社会学がいわゆる「社会学」ではなく、文系という境界がぜったい的なものではなく、学ぶということが生きるということとおなじであるというところへひらいてみせてくれたのが、見田宗介でした。それから約25年、この世界のどこにゆくにも、見田宗介(真木悠介)の著作はいつでも、ぼくに横に在ります。


 その見田宗介先生(社会学者)が2022年4月1日、お亡くなりになられました。ツイッターの投稿でこの事実を知り、驚きと共に、ぼくの心のなかにぽっかりと穴があいたように感じられました。

 驚きであったというのは、見田宗介先生の私塾『樹の塾』のネット掲示板には、「眼」以外はいたって元気である旨、先生のメッセージ(最新の投稿は数年前のもの)が掲載されていたから、そのメッセージとのギャップの間隙にぼくの驚きが現れました。

 それから、見田宗介先生の存在と仕事は、ぼくの「自我」、じぶんという経験の大きな一部を成していたこともあり、喪失感がぼくのなかにやってきました。

 一報を目にし、いろいろとニュースサイトを検索してそのことの「事実」をたしかめても、そしていずれはこの日が来るんだという(あたりまえの)心の準備があっても、ぼくの実感は、亡くなられた事実に、なかなかおいつこうとはしませんでした。ぼくの手はツイッターの投稿をスクロールし続け、見田宗介先生に少なからず影響を受けてきた方々の投稿を、ぼくはただただ追うだけでした。

 「見田宗介先生に影響を受けてきた方がこんなにもいたんだ」と、ツイッターの投稿を追うぼくは、また違った驚きを感じていました。見田宗介先生や先生の仕事(作品)に関するツイッターは普段はほとんど目にしてこなかったこともあって、「見田宗介」の文字がツイッター上に続々と現れてゆく光景に驚いたのです。若い頃に見田宗介先生の著作(例えば『気流の鳴る音』や『時間の比較社会学』など)に心を揺さぶられた方々が結構いらっしゃるようで、「この機会に再読しよう」という声もあがっていました。

 でも、ぼくにとっての見田宗介先生の数々の著作はむしろ、いつも、ぼくの傍に寄り添ってくれている存在でした。じっさいに、『気流の鳴る音』や『宮沢賢治』などの著作は、アフリカからアジアへと続く、ぼくの「長い旅」を共にしてくれています。そして、いまも、いつでも手が届く場所で待っていてくれます。だから、見田宗介先生の個人的な「死」は、これら著作群を通して交わされる、ぼくと見田宗介先生との<講義>と<対話>を止めるものでは決してないのだと、ぼくは感じています。


見田宗介先生にとっての「死」

 見田宗介先生が亡くなられたことはとてもショックではあったのだけれど、その感覚とは別のところで、ぼくの気持ちは穏やかでもありました。それは、ぼくじしんの「死」への向き合い方によるところでもあり、また、見田宗介先生の「死」に対する考え方・生き方(そして「生」に対する考え方・生き方)を知っていたからでもあります。

 まずはじめに触れておくべきことは、見田宗介先生は小さい頃、多くの子供たちがそうであるように、「死」を怖れていたことです。その「死」は、みずからの死にとどまらず、「人類の死」をも含めての「死」です。


…わたしにとっての「ほんとうに切実な問題」は、子どものころから、「人間はどう生きたらいいか」、ほんとうに楽しく充実した生涯をすごすにはどうしたらいいか、という単純な問いでした。この問題は二つに分かれて、第一に、人間は必ず死ぬ。人類の全体もまた、いつか死滅する。その人類がかつて存在したということを記憶する存在さえ残らない。すべては結局「虚しい」のではないかという感覚でした。…

見田宗介『社会学入門』岩波新書


 第二の問題は「自我」に関する感覚で<愛とエゴイズムの問題系>と呼んでいるのに対し、「死」というひとつめの問題を、<死とニヒリズムの問題系>と、見田宗介先生は名づけています。これら二つの問題系はまさしく「ぼくにとっての切実な問題」であり、人はどのように生きたらいいのか、という核心的な問いと共に、ぼくの生をつらぬいてきたものです。

 <死とニヒリズムの問題系>については、『時間の比較社会学』という仕事を通して、見田宗介先生は「透明に見晴らしのきくような仕方で、わたし自身の展望を手に入れることができた」と書いています。そして、それは見田宗介先生だけでなく、ぼくや、さらには幾多の読者たちにとって「展望を手に入れる」ことができるような触発力をもつ名著です。

 この『時間の比較社会学』よりも前に書かれた名著『気流の鳴る音』のなかでは、見田宗介先生は「死」についてつぎのように書いています。


 一 われわれの個人的な<生>とは、われわれの実質materiaである宇宙そのものが、一定の仕方で凝集して個体化した形態formaに他ならない。われわれは実質materiaとしては永遠であり、形態formaとしては有限な存在である。

 二 したがってわれわれの個人的な<死>とは、われわれの実質が形態をこえて拡散してゆくことである。…

 三 ふつうの人間の日常生活においては、生はみずからの形態formaの中にまったく内没し、凝固している。彼らは<死のない人びと>である。

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房


 <死のない人びと>と呼んでいるように、近現代人は日常生活に没頭するなかで「死」の問題(じぶんの死、それから人類の死)を「意識の底に封印している」(『時間の比較社会学』岩波書店)ようなところがあります。このような<死のない人びと>とは異なり、見田宗介先生にとって<死>は身近に感じられるものでした。人は誰しもが「いつ死ぬかわからない」という感覚、この人間という「形態 forma」をとって生きていることを外部からまなざすような感覚のなかで、人間はどのようにしたら歓びに充ちた生を生きることができるのか、という途方もない問題に向かう仕事に「小さな区切り」をつけるような仕方で、見田宗介先生は著作を世に送り(贈り)だしてきたのでした。

見田宗介先生の「講義」(2001年)

 ところで、一度だけ、ぼくは見田宗介先生の講義を聴講したことがあります。2001年3月24日、横浜にある朝日カルチャーセンターにおける、「宮沢賢治:存在の祭りの中へ」と「自我という夢」と題された講義でした。当時は、見田宗介先生は東京大学を退官され、共立女子大学で引き続き教壇に立たれていたときで、ぼくはというと、「国際協力」を仕事にしようと、横浜にある大学の大学院で、後進産業地域(発展途上国などとも呼ばれる)の「開発学 development studies」を研究していました。当時から遡ること数年前に、ぼくは見田宗介先生の著作に出逢い、さまざまな仕方で触発されていました。

 講義にはまったくもって「圧倒」されました。見田宗介先生の「講義のスタイル」は、後年あるインタビューで語っておられたように、「その時々に自分が熱中している研究を、そのままストレートに講義でもゼミでもぶつけ」るものです(『超高層のバベル』講談社)。その方法が結局のところ、「いちばん深いところから触発する力をもつ」のだと、見田宗介先生は語っています。横浜での講義もまさにそのとおりの「情熱」で充たされ、また、講義から二ヶ月後くらいに書かれた『宮沢賢治:存在の祭りの中へ』岩波現代文庫版への「あとがき」(2001年5月)では、講義で語っておられた内容が凝縮され、書かれていたのを見ることができます。

 宮沢賢治、という作家は、この作家のことを好きな人たちが四人か五人集まると、一晩中でも、楽しい会話をしてつきることがない、と、屋久島に住んでいる詩人、山尾三省さんが言った。わたしもそのとおりだと思う。…

見田宗介『宮沢賢治:存在の祭りの中へ』岩波現代文庫


横浜での講義に来られている方々もきっと「宮沢賢治」が好きな方々であり、二コマの講義が終わったあとも、そのまま「楽しい会話」がしずかに続くいてゆくのではないかとおもわれるような、そんな講義であったように記憶しています。少なくとも、ぼくはそのままずっと一晩でも尽きないほどの興味と疑問に充たされ、けれども時間の関係から、講義の終盤にたったひとつだけ見田宗介先生に質問をさせていただきました。この小さな「会話」は、いまでもぼくの<記憶の宝物>です。

 こうして、最初に触れたように、見田宗介先生との<会話>と<対話>は、ぼくの心と思考のなかで(さらに、見田宗介先生と著作に触発されてきた幾多のひとびとのなかで)、いまでもしずかに、けれども情熱いっぱいにつづいているのだと、ぼくは感じています。

 そして、「感性的に柔軟な高校生のようなタイプの人にいちばん読んでほしかった」(『超高層のバベル』講談社)と語られるように、『気流の鳴る音』や『宮沢賢治』などの著作は、感性豊かな青年たちに向けられ書かれており、若い世代たち、さらには未来の他者たちのなかで、そこで語られたことばや思想が交響してゆくとよいと、ぼくはおもっています。そこで語られているのは、「古くなることがない」ような、そんなことばや思想であるのだから。

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総論, 成長・成熟 Jun Nakajima 総論, 成長・成熟 Jun Nakajima

「これからの生きかた」とはどんな生きかたか?- シンプルに応えてみると。

これからの生きかた」とはどんな生きかたなのか?そう尋ねられるとすれば、ぼくはこう応える(「答える」ではない)。<自由な生きかた>である、と。生き型にしろ、生き方にしろ、<自由な生きかた>であると、ぼくはおもう。

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 「これからの生きかた」とはどんな生きかたなのか?そう尋ねられるとすれば、ぼくはこう応える(「答える」ではない)。<自由な生きかた>である、と。生き型にしろ、生き方にしろ、<自由な生きかた>であると、ぼくはおもう。この応答ではそもそもの問いに「答えて」いないように聞こえてしまうかもしれない。「これからの生きかた」を問う人たちは、もっと限定的な「回答」を期待するかもしれない。けれども、シンプルに言ってしまえば、やはり<自由な生きかた>である。抽象的な言い方ではあるのだけれど、具体的にすればするほど、生きかたの「自由度」が下がってしまうから、<自由な生きかた>という抽象度を保っておきたい。

 ちなみに、書名に「生き方」がもりこまれている本はさまざまにある。検索をかけてみたときの個人的な印象では、おもっている以上にあった。遠慮しない生き方、迷わない生き方、ブレない生き方、がんばらない生き方、我慢しない生き方、簡素な生き方、ゆるい生き方、等々。これらの書名をざっくりとカテゴリー化すると、以下のように、3つのカテゴリーに分けられる。

(1)アンチテーゼの生き方
(2)テーゼの生き方
(3)その他

 (1)のアンチテーゼは「~しない生き方」である。つまり「これまでの」生き方の否定・反対の姿勢である。これまで遠慮ばかりしてきた人生に対して「遠慮しない生き方」で生き直す。これまで迷ってばかりいた生き方に嫌気がさして「迷わない生き方」を掲げる。このアンチテーゼ型に対して(2)はテーゼ型の生き方である。簡素な生き方も、ゆるい生き方も、テーゼとして提示されている。もちろん、(1)と(2)は表裏一体であることもある。迷わない生き方は、決断する生き方というようにテーゼ式に提示することもできる。ただ、書名という観点から言えば、アンチテーゼ型は人の関心を呼び起こしやすい。日々の生活のなかで「生き方」を見直すときというのは「これまでの」生き方に対する疑いや否定などを感じているときだから、その気持ちに直截に届きやすいのは「アンチテーゼ」である。さらに、(3)その他としては、60歳からの生き方、人生100年時代の生き方のような、アンチテーゼでもテーゼでもない「テーマ型」の生き方の本が見受けられる。これら3つのカテゴリーは、重点にこそ違いはあるのだけれど、「これまで→これから」というようなベクトルを共通点として持っている。つまり、<生き方の変容>である。そしてそこには、<社会の変容>が連動している。

 そのようななかで「これからの生きかた」は、<自由な生きかた>である。上述のカテゴリーで言えば、(2)のテーゼ型に含まれるところだけれど、実質的には、すべてのカテゴリーを包括するものでもある。アンチテーゼであろうが、テーゼであろうが、あるいはその他の特定のテーマであろうが、それらすべてへの<可能性>がひらかれている生きかたである。

 見田宗介(社会学者)は名著『社会学入門』(岩波新書、2006年)のなかで、哲学者ニーチェの生涯を「ある困難な稜線を踏み渡ろうとする孤独な試み」であったとしながら、ニーチェのこの困難な「二正面闘争」についての、思想家バタイユの思考(バタイユ『至高性』)にふれている。

「二正面闘争」とは、次の通りである。

(1)<失われた至高性を回復すること>
(2)<他者に強いられる至高性の一切の形式を否定すること>

 これら「二正面闘争」が、ほんとうに<自由な社会>の条件を構想する課題の遂行において引き受けなければならないものだと、見田宗介は「<自由な社会>の骨格形成」という論考をすすめているのだけれど、これらはそのまま<自由な生きかた>を考え、生き、ひろげてゆくうえでも引き受けていかなければならない「二正面闘争」であるように、ぼくはかんがえている。

 見田宗介は上述の二正面闘争について、理解のために言い方を変えて提示してくれている。

(1’)<魂の自由>を擁護すること
(2’)<魂の自由>を擁護すること

 見田宗介はここから<自由な社会>のモデル構成へと社会理論を発展させている。ぼくはここではその(同じシステム内の)別の一面である<生きかた>という側面に光をあて、「これからの生きかた」へと拡張させてみたい。

 つまり、「これからの生きかた」は、つぎのように簡潔に述べておくことができる。

(1”)<生きかたの自由>
(2”)<生きかたの自由

 再度ニーチェの二正面闘争にバタイユが見たことに則して言えば、第一に、それぞれの人たちにとってほんとうに歓びに充ちた<生きかた>を取り戻すこと、の課題であり、また第二に、他者に強いられる<生きかた>の一切の形式を否定すること、の課題である。ニーチェ、バタイユ、見田宗介という系譜のなかで鮮烈に提示され追究されてきた課題の延長線上に<生きかた>の課題をあてはめてみたい。ぼくはそんなふうにかんがえる。

 ひとつ目の、<生きかた>を取り戻すこと。「生きかたを取り戻す」ということを言い換えれば、ほんとうに<生きる>ということ、<生きる>ということの全体を引き受けてゆくことあるいは享受してゆくこと、さらに、じぶんが<生きる>ということに自ら責任をもつこと、などである。

 二つ目の、他者に強いられる<生きかた>の一切の形式を否定すること、というのは比較的わかりやすい。じぶんの<生きかた>を生きること。もちろん、じぶんの<生きかた>のほうが良い・正しいなどというように、じぶんの<生きかた>を他者に強要しないことである。互いの生きかたを尊重すること。つまり、互いに自由に生きるということ。

 「これからの生きかたはどんな生きかたか?」という問いへの応答、<自由な生きかた>というシンプルな応答には、これら二つの要素がもりこまれている。なお、ひとつ目のことは<じぶん>という存在のあり方を捉え直してゆくことであり、二つ目のことは、じぶんと他者との自由な関係性をきりひらいてゆくことである。<じぶん>という存在を捉え直したうえで、<じぶんの変容>を生きてゆくということである。

 外の環境に眼を転じれば、コロナ禍があったり、情報通信技術に牽引される産業革命があったり、また環境破壊があったりする。そのような環境変化や社会変化の諸々が、ホモ・サピエンスがこれまでに経験したことのないことであり、「時代の変化」や「景気がよい・わるい」という言葉で集約・縮尺されがちな現在の変化をはるかに超える<変化・変容>のなかに、ぼくたちはいる。

 このような<変化・変容>のなかで、<じぶん>という存在のこと、<じぶんの変容>ということ、そこに土台を置いた組織や集団やコミュニティのあり方、さらに<自由な社会>ということをかんがえ、構想し、共有し、企図し、動き、試してゆくことに、ぼくの心は所在し、ぼくの身体と頭脳のエネルギーは注がれている。

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言葉・言語 Jun Nakajima 言葉・言語 Jun Nakajima

「相手の母語で話すこと」について。- ネルソン・マンデラの言葉を起点に。

外国語を学ぶときの「学び方」について書かれた書籍のひとつに、Gabriel Wyner『Fluent Forever』Harmony Books, 2014(邦訳は、ガブリエル・ワイナー『脳が認める外国語勉強法』ダイヤモンド社、2018年)がある。原著の副題は「How to Learn Any Language Fast and Never Forget It」(速く言語を学び、決して忘れない方法)。

 外国語を学ぶときの「学び方」について書かれた書籍のひとつに、Gabriel Wyner『Fluent Forever』Harmony Books, 2014(邦訳は、ガブリエル・ワイナー『脳が認める外国語勉強法』ダイヤモンド社、2018年)がある。原著の副題は「How to Learn Any Language Fast and Never Forget It」(速く言語を学び、決して忘れない方法)。

 だいぶ前に書籍を購入し、また「CreativeLive」というクリエイティブ系のオンライン教育プラットフォームでの彼のプログラムも同じ頃に手に入れていた。そのときはエッセンスに触れただけであったのだけれど、今回は「学び方のアップデート」ということをテーマのひとつとして取り組んでいるなかで、「外国語の学び方」にもきりこんでいこうとおもい、この本とオンラインのプログラムを再びひらいている。

 そうしてひらかれたこの本の第1章、「Stab, Stab, Stab」(邦訳は「『外国語をマスターする』とはどういうことか」と意訳されてある)と題された第1章のエピグラフのひとつに、次の言葉がおかれている。

 If you talk to a man in a language he understands, that goes to his head. If you talk to him in his language, that goes to his heart. 
 - Nelson Mandela

 「相手が理解できる言語で話せば、相手の頭に届く。相手の母語で話せば、相手の心に届く」ネルソン・マンデラ(前掲の邦訳より)

 このネルソン・マンデラの言葉が、いつ、どこで、どのような文脈で、どのように語られた言葉なのか、ぼくは知らない。この言葉はどこかで聞いたようにもおもうのだけれど、よく覚えていない。ましてや、ネルソン・マンデラが発した言葉であることなんて、まったく記憶にもない。でも、このシンプルな言葉のなかに、他者の言語で話すことの本質が語られているようにおもい、ぼくはこの言葉に心を揺さぶられる。

 この言葉は、とりわけ、文化と文化の<あいだ>で生きてきた人たちの賛同を呼びおこす。南アフリカ出身のコメディアンでTVホストでもあるTrevor Noah(トレバー・ノア)が、ベストセラーとなった彼の著書『Born a Crime』(邦訳『トレバー・ノア 生まれたがことが犯罪?』英知出版、2018年)のなかで、この言葉に触れ、まったくそのとおりなのだと賛同している。「他の人の言語で話そうと努力するとき、たとえそれが基礎的なフレーズであろうとも、あなたはこう言っているのだ。「私を超えたところに存在する文化とアイデンティティをあなたがもっているのだということを私は理解しています。私はあなたを人間として見ているのです」と。」(『Born a Crime』。日本語訳はブログ著者)

 もちろん、ぼくも賛同するところである。だからといって、さまざまな相手の言語をぼくが話すことができてきたわけではない。ある程度まとまった会話ができることもあれば、挨拶や単語しか届けることができないこともある。相手の言語でしゃべりたいという衝動を抱きながらも、他の共通言語(例えば英語)で会話できてしまう便利さについつい頼ってしまうこともある。それでも、たとえわずかな単語だけであっても、相手の「心」に届くことがある。それら単語や言葉の表層ではなく、下層のところで伝わるものがあるからである。その下層で届けられるメッセージを、例えばトレバー・ノアは「私を超えたところに存在する文化とアイデンティティをあなたがもっているのだということを私は理解しています。私はあなたを人間として見ているのです」というように捉えている。

 当たり前のことだけれども、コミュニケーションは双方向性のものである。ネルソン・マンデラの言葉は「話す側から相手の側へ」という方向性のなかで語られているように、なによりも、話す側という主体に向けられた言葉である。話す側の主体の変容をうながしている。けれども、双方向性としてのコミュニケーションという視点をとりいれてみると、ここでの「変容」には、ただ単に相手の母語で話すというだけでなく、また相手の心に届くということだけでなく、相手の母語を話そうとするときには話す側の主体が自身の心をひらいてゆくということ、また相手の心に届けられた言葉はそこで折り返して、相手の言葉や表情や感情を通して自身の心に届けられること(またそれらが繰り返されること)のなかに、じぶんが「変容」してゆくところまでを射程している。相手の母語で話すということの楽しさや歓びはそんな変容のなかにふりそそぐのである。

 ガブリエル・ワイナーのオンラインプログラムの導入部分で、参加者がどの外国語を学びたいのか、またなぜその外国語を学びたいのかを問われ、それらの質問に応答する場面がある。フランス語であったり、日本語や中国語であったりと、参加者は質問に応えてゆく。興味深いのは、参加者の人たちが挙げる「外国語を学ぶ動機」であった。外国語を学ぶ動機としてもっともよく取り挙げられたのは、「現地の人たちとコミュニケーションをとりたい」ということであった。仕事のためだとか、これからの経済の発展が見込まれるだとか(ぼくが外国語大学の専攻を選ぶときに中国語を選んだ理由のひとつ)ではなく、ただ、現地の人たちと会話したいということなのである。旅をしながら出会う人たちと会話したい、カフェで話せたらいい。そうすることで、何かの役に立つわけではないけれど、そうすることに楽しみや歓びを感じるのだ。このオンラインプログラムが撮影されたのは2015年前後のことだとおもうから、翻訳機器や翻訳アプリの性能の飛躍的な向上の直前であったかもしれない。けれども、翻訳機器や翻訳アプリの性能の向上を見せている現在(2020年)の段階であっても、このプログラムの参加者たちは、外国語を学ぶ動機として、同じ動機を挙げただろうと、ぼくは勝手に推測している。現地の人たちと直接に会話を交わしたい、という動機を。

 それにしても、翻訳機器や翻訳アプリといえば、Googleの翻訳機能はすごい精度になりつつあるし(ぼくのブログの英語訳がけっこう読めることに先日びっくりしてしまった)、アップル社は先月(2020年9月)iPhoneのiOSアップデートで「Translateアプリ」を搭載させてきた。いまでは翻訳アプリを使えば、翻訳アプリを介して世界のいろいろな人たちと会話ができてしまう。東京のホテルのロビーで、海外からの旅行者の方がスマホの翻訳アプリを駆使して受付の人と「会話」していた風景をぼくは憶い起こす。そこでの「会話」には手間と時間はかかっていたけれど、意思伝達は順調にうまくいっているようであった。そんな風景を実際に見ていると、翻訳機器や翻訳アプリの性能が向上してゆくことはすごいことだし、とても役に立つものであることをおもう。

 ぼくもその恩恵を受けながら(Google翻訳を使ったりしながら)、他方で、別の方向に気持ちのベクトルがあらわれてくるのを感じる。最近、ぼくが「外国語の学び方」にきりこんでいこうとおもったことの背景のひとつには、翻訳アプリの機能性・便利性の飛躍的な向上があるのだと、ぼくはおもってみたりする。翻訳アプリの機能性・便利性の向上とともに、逆に直接に相手の言語で話すことの楽しさや歓びや大切さがぼくのなかで見直され、再評価されるているようなのだ。このことは、オンラインでの関係性が増えれば増えるほど、直接のフィジカルな体験がみなおされてゆくのと似ているようにもおもう。そのようなわけで、翻訳アプリの性能が上がれば上がるほどに、ぼくの「外国語を学ぶ意欲」はますます上がってゆくようなのだ。でも、「翻訳アプリを使うか、それとも実際に話したり書いたりしてゆくか」という二者択一ではなく、どちらも役に立てながら、そして「役立ち」という次元を越えて、言葉を相手の心に届けること(と同時に、じぶんの心をひらくこと)の<歓びと楽しさ>の方向に、外国語の学びを解き放ちたい。そこには、<じぶんの変容>ということがかけられているのだと、ぼくはおもう。

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今、「たった一冊の本」をぼくが無人島にたずさえるとしたら。- 真木悠介の名著『気流の鳴る音』。

村上春樹の短編集『一人称単数』(文芸春秋社、2020年)所収の「謝肉祭(Carnival)」と題された短編において、「無人島に持って行くピアノ音楽」を一曲だけ選ぶ場面がある。「一曲だけのピアノ音楽」とは、なかなかむずかしい選択だ。その選択にはさまざまな「考慮」が投じられることになる。テーマが好きなものであればあるほどに、「考慮」はひろくふかくなってゆかざるをえない。

 村上春樹の短編集『一人称単数』(文芸春秋社、2020年)所収の「謝肉祭(Carnival)」と題された短編において、「無人島に持って行くピアノ音楽」を一曲だけ選ぶ場面がある。「一曲だけのピアノ音楽」とは、なかなかむずかしい選択だ。その選択にはさまざまな「考慮」が投じられることになる。テーマが好きなものであればあるほどに、「考慮」はひろくふかくなってゆかざるをえない。

 このような、いわゆる「無人島に持って行くとしたら」の質問系は、いろいろな会話のなかで、いろいろなテーマのうちに語られる系だ。とはいっても、いまでは「無人島」物語の世界が若い世代のうちに共有されているのかどうか、ぼくにはわからない。「無人島」というものが若い世代にとって現実感をともなって迎えられるかどうか。いまの時代であれば、「無人島」ではなく、むしろ「宇宙」であろうか。でも宇宙に行くにしても、例えば宇宙飛行士の毛利衛は二度目の宇宙飛行(2000年)のときは全部で24枚のCDを持っていったのだというし(『宇宙から学ぶ ユニバソロジのすすめ』岩波新書)、いまでは音楽はデジタル形式でもあるから、24枚をはるかに超える音楽をデータで持っていける。映画『The Martian』では火星でデジタル音楽を聴くシーンがあったのを、ぼくは憶い起こす。ミニマリストのぼくは今ではCDはいっさい持っていないけれど、もちろんストリーミング(Apple Music)によってありとあらゆる音楽を聴くことができる。「オフライン」であっても、あらかじめスマホにダウンロードしてある音楽を再生すればいいだけだ。いずれにしろ「無人島に持って行くとしたら」の質問系は、無人島(あるいは宇宙)に行くときの「条件」に深入りするのは賢明ではない。スマホは持っていけるのか、スマホのキャパシティはどうかなど、そんなことを言い出したら、せっかくの会話の流れがおかしくなってしまう。あくまでも、とにかく、ひとつを選ぶこと(あるいはふたつなり三つなりと提案された数を選ぶこと)から、この会話ははじまるのである。

 ところで、無人島にしろ宇宙にしろ、それらはひとが「移動すること」の先にひろがっている世界である。この視点でみるとき、新型コロナの経験は、移動が制限され、「移動しないこと」へと戻される経験である。大航海時代を経て、近代から現代へとつづいてゆく文明の拡大と進化を高台にのぼって見晴るかすとき、それは(形態はどうであれ)「移動すること」をその核心に装填することですすめられてきたのだということがみてとれる。無人島も宇宙も、文明の拡大と進化のなかで立ち現れた領域である。そこからベクトルはぐいっと転回して、(できるかぎり)「移動しない」世界へと戻されたのである。移動していった先の「ひとつの選択」ではなく、「移動しない」世界での「ひとつの選択」とはいったい、どうなるのだろうかとかんがえてしまう。


 新型コロナの状況下で、いろいろな本をぼくは読んでいる。昨年(2019年)は「移動すること」の多い年だったから、あまり多くの本にふれることをしなかったのだけれど、今年は新型コロナの状況下で、またぼくの生活にもいろいろなことがあって、ぼくはさまざまな本たちとの対話(読書)を重ねてきた。

 新型コロナの状況がさしだしてくれたのは、例えば(長めの本を読むという)時間の余裕あるいは時空間の再編成ということだけに限られない。より深いところでは、それは、人や社会のありかたにおける、根本的な価値観に対して「裂け目」をつくったのだということができる。人の生き方や働き方はもちろんのこと、社会のしくみ、経済のありよう、それから人と自然の関係性にいたるまで、ありとあらゆるものの「根源」をまなざすところへと、現代を生きる人たちはおしだされたようである。もちろん新型コロナの状況にいたるまえにも、個人やコミュニティなどが、人の生き方や社会のあり方に対して真摯で根源的なまなざしをそそぎ、行動し、変えようとしてきたのだけれど、新型コロナの状況ではその「おしだされかた」が、同時的で、全世界的なひろがりをみせていることが特異だ。つまり、たくさんのひとたちが共有している「共同幻想」に<裂け目>ができたのだ。それは、これまで「共同幻想」によってあまり省みなかったようなことがらに風穴をあけ、「共同幻想」によって支えられていた人の生き方や社会のあり方、あるいは共同幻想自体をいっそう明るみに出すことになった。

 そのおしだされたところで人が手にとる本は、意識的にか無意識的にか、近現代の根本的な価値観の裂け目に向かっているような本の系列がひとつであるかもしれない。少なくとも今年のぼくは「古典」と呼ばれる本を手にとることが多い。それはぼくの個人的な関心によるところが大きいのだろうけれど、その個人的な関心は「近現代のあとに来る世界」、近現代をのりこえてゆく、人の生き方、組織や社会のありようをまっすぐにまなざしているから、根本的な価値観が省みられる現在の状況に接合してゆくのは当然のことである。

 いろいろな古典的作品があるけれど、ぼくがやはり立ち戻った本の一冊は、真木悠介(社会学者である見田宗介の筆名)の名著『気流の鳴る音 交響するコミューン』(筑摩書房、1977年)であった。冒頭であげた無人島シリーズのように、今のぼくが「たった一冊の本」だけを手にたずさえるとしたら、真木悠介の『気流の鳴る音 交響するコミューン』を、ぼくは手にとることになる(ちなみに、1977年以後、2003年に「文庫版」がちくま学芸文庫にはいり、この文庫版をもとに2018年に電子書籍化されている。また真木悠介の著作集にも収められている)。今回あらためて精読しているあいだ、ぼくが「たった一冊の本」を選ぶとしたら、やはりこの本だとぼくはおもったのであった。

 『気流の鳴る音 交響するコミューン』は、人類学者カルロス・カスタネダの著作を素材としながら、「われわれの生き方を構想し、解き放ってゆく機縁として、これらインディオの世界と出会うこと」を目的として書かれている。カスタネダの著作は今ではあまり知られていないかもしれないが、メキシコ北部に住むヤキ族のドン・ファンという老人のもとに弟子入りしてインディアンの生き方を学んでゆく話だ(「メキシコの教え」といえば、ぼくにとってはDon Miguel Ruiz『The Four Agreements』で、それはドン・ファンの「教え」とも重なっている)。カスタネダを通じてこれらのインディオの世界と<出会う>なかで、またそれらの素材に触発される仕方で、真木悠介は「人間の生き方」を論じてゆく。真木悠介が書いているように、素材はカスタネダの著作とインディオの世界だけれども、この本は「ドン・ファンやドン・ヘナロの魅惑的なトリックやヴィジョンやレッスンに仮託した、私自身の表現」である。

 この本をぼくの「たった一冊の本」とする理由のひとつは、上で述べたように、「近現代をのりこえてゆく生き方や社会のありよう」をまっすぐに視界におさめていることである。「人間の生き方を発掘したい。とりわけその生き方を充たしている感覚を発掘したい」と、真木悠介は本の冒頭に書きつけている。さらに、『気流の鳴る音』が書かれたときのことを憶い起こしながら、「<近代のあとの時代を構想し、切り開くための比較社会学>という夢の仕事の、荒い最初のモチーフとコンセプトとを伝えるために、カスタネダの最初の四作は魅力的な素材であると思えた」ことを、真木悠介は2003年の「文庫版あとがき」に書いている。<近代のあとの時代の構想>という仕事は、このあと、真木悠介(=見田宗介)の仕事のなかに結実してゆくことになるのだけれど、ここに軸足をおくことは、ほんとうに歓びに充ちた生き方をかんがえてゆくときにはとても大切なことであるとぼくはおもう。

 「たった一冊の本」とする理由の二つ目は、<比較社会>という方法である。自然科学とは異なり「社会」というものは研究室での「実験」はできないから、「他の社会」との比較という方法をとらざるを得ない。だから、「社会を比較する」という方法をとることになる。ぼくにとっての「関心」との重なりでいえば、「異文化という経験」だ。1990年半ば、大学に入学後、ぼくは毎年夏休みには「海外」に出ることにしていた。ぼくが入学した大学は外国語を専攻する大学で、大学内にすでに「異文化空間」が生成していたのだけれど、海外に出ることがふつうのこととして日常化していた。もちろん「海外」へのあこがれをもって入学したのでもあるから、ぼくにとって海外に出ることは当然のことであった。1994年の中国本土にはじまり、1995年には香港(返還前)・中国本土・ベトナム、1996年には一年休学してニュージーランドに滞在、1997年にはタイ・ラオス・ミャンマーといった具合に、「異文化」はぼくのなかで経験の地層をつくっていった。そのような経験の地層をつみかさねるなかで、ぼくは新宿の紀伊国屋書店で、『気流の鳴る音』に出逢ったのであった。『気流の鳴る音』との出遭いは、ぼくが見たり感じたりする「風景」を変えてしまうものであり、あるいはぼくが感覚してきたことがらに「言葉」を与えてくれた。その後もぼくの「異文化経験」は地層をつみかさねゆくことになるのだけれど、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、香港、マレーシアに暮らしてゆくなかで『気流の鳴る音』はいつもぼくと共にあった。シエラレオネに仕事で住むことになったときも、まさに限られた荷物のなかに、ぼくは文庫版の『気流の鳴る音』を入れ、それはぼくの日々を精神面で支えてくれたのである。なお、『気流の鳴る音』はいわゆる「異文化」よりもはるかにひろい射程をもっていることを追記しておきたい(真木悠介の言葉をそのまま使えば「異世界」であり、それは人それぞれの内部の「異世界」をも射程している)。

 さらに、『気流の鳴る音』を「たった一冊の本」とする理由の三つ目は、真木悠介がふりかえって書いているように、そこには真木悠介の<荒い最初のモチーフとコンセプト>が「混沌と投げ込まれていること」(「文庫版あとがき」)だ。投げ込まれた「荒いモチーフたち」は、その後の真木悠介=見田宗介の仕事(名著『時間の比較社会学』や『自我の起原』など)のなかで「かたち」をなしていったのだけれど、そのことにふれたあとで、真木悠介はつづけてこう書いている。「これからもなおさまざまなモチーフがこの混沌の内から立ち上がり、わたしの中で、他者たちの中で、そして見知らぬ世代たちの中で、さまざまに呼応しながら、新しくおどろきに充ちた冒険と成熟をくりかえしてゆくことに心を踊らせている」(前掲書)。「荒いモチーフたち」は、人の生き方や社会の変革の「答え」ではなく、『気流の鳴る音』を読む者たちのなかで、「新しくおどろきに充ちた冒険と成熟」を触発してゆく、そのような混沌さが、ぼくには魅力的なのだ。仮に無人島で読むにしても、その混沌のなかから、ぼくは「新しくおどろきに充ちた冒険と成熟」をくりかえしてゆくことができる。20年以上読み続け、いまでも読むたびに触発されているぼくの経験はそのことの証のひとつである。でも、ひとつ加えておかなければいけない。「混沌」といっても、『気流の鳴る音』で展開される「論」それ自体は、きわめて明晰で、みごとというほかない。なんど読んでも、ぼくの心は踊り、心の中では感嘆の声しかでない。

 まだまだ「理由」はいっぱいにあげることができるのだけれど、ここでは、「近現代をのりこえてゆく生き方や社会のありよう」への視界、<比較社会>という方法(異文化や異世界へのまなざし)、<荒い最初のモチーフとコンセプト>(答えではなく触発し生成する思想)、という三つのことをあげるにとどめておきたいとおもう。

 それにしても、この本との出逢いがなければ、今のじぶんというものはないだろうとおもう。じぶんは存在はしていただろうけれど、今のような仕方でじぶんが生きているということはないだろう。それほど、ぼくにとって大切な書物であり、「生きかた」をほんとうに変えてゆきたいとおもっている人たち、また/あるいは「社会」を変えてゆきたいとおもっている人たちにすすめたい書物である。新型コロナの世界に生きながら、いっそう「生き方」が問われ、「社会のありよう」が問われている。それらの問いに対して、表層だけで応えないこと、この機会に深い地層におりていって、根源的に問い直すこと、そして生きなおすこと。そこに向かって、『気流の鳴る音』はまっすぐなまなざしを届けてくれている。

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言葉・言語 Jun Nakajima 言葉・言語 Jun Nakajima

「生きること、それがぼくの仕事」(加藤彰彦)。- じぶんの「足元を掘る」こと。

真木悠介(見田宗介)の名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)のなかに、野本三吉さんという魅力的な人物がとりあげられている。『気流の鳴る音』が発刊されたときから約40年後、真木悠介というペンネームではなく、本名である見田宗介の名で書かれた『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書、2018年)のなかで、ふたたび、野本三吉さんがとりあげられる。

 真木悠介(見田宗介)の名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)のなかに、野本三吉さんという魅力的な人物がとりあげられている。『気流の鳴る音』が発刊されたときから約40年後、真木悠介というペンネームではなく、本名である見田宗介の名で書かれた『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書、2018年)のなかで、ふたたび、野本三吉さんがとりあげられる。『気流の鳴る音』に出遭い、それから約25年ほどにわたって、『気流の鳴る音』と共に(文字通り)世界を旅し、生きてきたぼくにとって、「野本三吉」という名はもちろん、なじみの深い名であった。

 「野本三吉」という名はペンネームで、本名は加藤彰彦。野本三吉=加藤彰彦は、いわば福祉的な仕事を経て、横浜市立大学に招かれ大学で授業をもつようになり、2002年に沖縄大学に移ったのだという。沖縄大学のホームページには自己紹介のページがあり、そこに目をとおしていると、彼の「モットー」にぼくはひきつけられる。

 生きること、それがぼくの仕事。君は君の足元を掘れ、ぼくはぼくの足元を掘る。

 「生きること、それがぼくの仕事。」まずは、この言葉に感覚がゆさぶられる。と同時に、「ただ生きる、ということを、したいのよね」という、真木悠介の他の著作(『旅のノートから』岩波書店)に登場する人物の語る言葉がどこかから聞こえてくる。ただ生きるということをすること。それは現代社会においては、とてもむずかしいことである。そこではただ生きるということは背景に押しやられて、なにをしてきたのか、どんな達成をとげてきたのか、どんな地位にあるのかなど、富や栄光や権力などが前景化される。時代は変わろうとしているし、じぶんの「ほんとうのしあわせ」へと軌道修正をくわえているひとたちもたくさんいる。けれども、これまでの近代・現代社会の発展の起動力でもあった富や栄光や権力などに高い価値がおかれる「世界」のなかで、「ただ生きること」は「なにもしていない」ように見られ、無価値の烙印を押されてしまうのだ。そんななかにあって、野本三吉=加藤彰彦は「生きること、それがぼくの仕事。」と言い切っている。明快だ。明快なのだけれど、そこには言葉の深みがたたずんでいる。

 その言葉に続いて、「君は君の足元を掘れ、ぼくはぼくの足元を掘る。」とつづく。ひとによっては、君とぼくのあいだの「つながりの欠如」を見るのかもしれない。それは例えば、「君は君で、ぼくはぼくで」という語感に、狭い意味での個人主義を感覚してしまうからだ。でも、ぼくはこの言葉に、あるいは生き方に共感してしまう。生き方のあり方のひとつが、このシンプルな言葉によって表現されている。

 逆のことを言ってみる。「君はぼくの足元を掘り、ぼくは君の足元を掘る」のだと。そう書いてみると「変な」感じがしてしまうのだけれど、日々の生活のなかで体験したり見たりするのは、けっこう、この言葉が指し示しているようなところであったりするようにも思う。他者があれこれ、こうだ・ああだと「じぶん」に助言したり、コメントしたり、決めつけたりする。でも当の「じぶん」はというと、じぶん自身で「じぶん」を掘り下げてゆくことをせず、他者への助言やコメントや決めつけに忙しい。こんな具合にである。

 そうではなくて、ぼくは、「君は君の足元を掘れ、ぼくはぼくの足元を掘る。」というあり方に惹かれる。君も、ぼくも、彼女も、彼も、だれもが「じぶん」の足元を掘ってゆく。「足元」は、村上春樹の小説であれば「井戸」のイメージであらわれる。足元を掘ってゆくように、井戸の底に降りてゆく。ぼく自身のイメージでは、海底である。ぼくは海の深い底に降り立ってゆく。掘って掘って掘ってゆく。降りて降りて降り立ってゆく。

 文芸評論家の加藤典洋(1948-2019)は、著書『村上春樹の短編を英語で読む 1979-2001 上』(ちくま学芸文庫)にて、そのような村上春樹の小説を読みときながら、「掘って掘って掘ってゆく」思想のかたち、掘ってゆくことを(孤立のなかで)きわめてゆくなかでひととの「つながり」の海へと出てゆく思想のあり方が、戦後日本ではめずらしくないことへと、思考をひろげている。村上春樹の小説の「井戸」はもとより、思想家の吉本隆明の自立思想(「井戸の中の蛙」)、じぶんの無力の底へと落ちてみることを促す森田療法など、この思考のかたちを見ることのできる草原を加藤典洋は横断してゆく。

 このような「掘って掘って掘ってゆく」思想(=生き方)のかたちは、野本三吉=加藤彰彦のモットー「君は君の足元を掘り、ぼくはぼくの足元を掘る」にも見られる。そして、それぞれの思想のかたちが同じように想定しているように、ずーっと掘っていった底のところで、君とぼくは「つながる」ことになる。君にじぶんの足元を掘ってもらうのではなく、じぶんが君の足元を掘るのではなく、じぶんでじぶんの足元を掘ってゆく。それは、自立のことであり、また他者との、深いところでの「つながり」のことである。

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音楽・美術・芸術 Jun Nakajima 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima

コロナの世界でクラシック音楽を聴く。- 「世界の色」がなくなる出来事のなかでぼくは音楽を聴く。

最近ぼくはクラシック音楽をよく聴いている。音楽全般が好きではあるのだけれど、とりわけクラシック音楽を聴く。新型コロナの世界に生きるなかで、クラシック音楽がぼくの心奥に響くようだ。

 最近ぼくはクラシック音楽をよく聴いている。音楽全般が好きではあるのだけれど、とりわけクラシック音楽を聴く。新型コロナの世界に生きるなかで、クラシック音楽がぼくの心奥に響くようだ。

 クラシック音楽をじぶんで聴くようになったのは、アフリカを経験したころのことだった。内戦が終結したばかりのシエラレオネ。ぼくはその地で一年弱をすごした。2002年から2003年にかけてのことだ。ぼくは国際NGOの職員として難民・帰還民支援に携わっていた。

 いまから振り返れば、シエラレオネでの経験は、ぼくの心身、あるいは精神といったものの組成が変わってしまうような経験であった。当時「世界」は混沌としていた。「ひとのためになる」という意志と情熱、国際支援のプロとしての責任、組織を支えているひとたちの思いなどに駆られるようにして、ぼくは無我夢中で仕事をしていた。国連の平和維持軍が展開していて情況は「落ち着いている」けれど、安全上また感染症の危険性と隣り合わせであったこともあって、心身がきわめて緊張してもいた。そして、そこの「現実」に、ぼくの精神は深いところで圧倒されていたのだと思う。もちろん日々ずっとそうであるわけではなく、いろいろなひとたちとの暖かい会話があり、互いに笑うこともあったわけだけれど(そしてそんな笑顔にぼくは生かされてもいたのだけれど)、表面上の「大丈夫さ」の底に、生死の境を生き、心身にさまざまな傷を負ってきたひとたちの苦難、あるいはそれらを客観的に示すような破壊の痕跡などの磁場がどうしても入ってきてしまっていたのだろう。仕事に無我夢中でうちこむあいだにも、ぼくは精神の海底に、なんともいえない暗闇のようなものを抱えてしまったようだ。

 だからといって、ぼくの心身になにか「異常」が現れたわけではない。マラリアに(はじめて)感染したこと以外は、ぼくは心身ともにいたって健康であった。精力的に仕事をしていたし、毎日繰り広げられる「ドラマ」のなかで悪戦苦闘しながらも、同僚たちと共にプロジェクトをすすめていた。ただ、当時気にかかったのは、シエラレオネでの直接的な体験を、ぼくはなかなか「ことば」にすることができずにいたことだ。「…できずにいた」と過去形で書いてみるものの、それ以後も、それからいまでさえも、うまく「ことば」にすることができているわけではない。そもそも「ことば」にすることが必要なのかどうかもわからない。でも、ときおりぼくは、海底に沈んでいる漠としたものを「ことば」にしてみたくなるのだ。

 音楽はそんな「ことば」を飛び越して直接に情感に届くものでもあるから、時間を待つことなく、ぼくの心身や精神はクラシック音楽の旋律に揺さぶられたのかもしれない。「どの」クラシック音楽がぼくを揺さぶったのか、ぼくは覚えていない。けれど、飛行機での移動時、怒涛の日々からの「束の間の退避」の時空間で、機内音楽のプログラムから、ぼくはクラシック音楽を選んでいたことをかすかに覚えている。聴いていると、心の深いところが落ちついてくる。音楽の旋律は人間社会に起こるあらゆることを包摂するかのように感じる。そんなところがきっかけになって、ぼくは徐々に、じぶん自らの選択でクラシック音楽を聴くようになっていった。

 いわゆる「西洋クラシック音楽」は18世紀から20世紀の初頭にかけての200年ほどの間に展開された音楽だ。世界史をひもとけば、その200年は「戦争と革命」によって特色づけられる時代が重なっていることがわかる。クラシック音楽にはそんな時代背景が溶けこんでいる。あるいは、その逆かもしれないという思いがわきあがる。戦争のような「世界から色がなくなるような出来事」(加藤典洋)のなかで、世界の彩りをとりもどしてゆく通路として、クラシック音楽はあったのかもしれない。いずれにしても、そこには、戦前があり、戦中があり、戦後がある。そのような時代の心情に訴えかける旋律が流れている。

 整体の創始者ともいわれる野口晴哉(のぐちはるちか、1911–1976)のエッセイのなかに、カザルスの話が出てくる。チェロ奏者として有名なカザルスである。野口晴哉は体操に音楽を使うことが珍しかった時代に、クラシック音楽を彼の整体指導に活用していた。クラシック音楽は野口晴哉の整体と切り離せないものであり、彼はカザルスの音楽の完成度の高さに比しながら、自身の技術水準の完成度を確かめたりもしていたほどだ。野口晴哉のエッセイ「カザルスの音楽に“この道”をみがいて」(野口晴哉『大絃小絃』全生社、1996年)のなかに、そのことが書かれている。第二次世界大戦の東京空襲によって家が火事のときも、野口晴哉は悟竹の屏風とカザルスのバッハ組曲のレコードだけは持ち出したことを、このエッセイのなかで記している。整体はもとより、野口晴哉の生にとって、クラシック音楽、とりわけカザルスの音楽の存在がどれほど大きかったのかを、このエピソードは物語っている。

 少し視野をひろげると「アート」ということの存在を考えさせられる。音楽や絵画や彫刻や文学や書といった「アート」のことである。いまでこそ「アート思考」というような言い方で、ビジネスサイドからの「アート」の見直しがなされてきているけれど、それは有用性(役に立つこと)の次元からアートに光を当てた見方である。ぼくもその見方や感性、その方向性への展開(転回)に賛成であることを示しつつ、アートは現在語られるような「有用性の次元」を超えて、生きることそのものを支え、生きることの歓びであり、生きることそのものであるようなものである。

 そんなふうに考えてくると、戦争による空襲という「世界から色がなくなるような出来事」のなかで、野口晴哉が救い出したのは、カザルスの音楽のなかに生きている、「世界に彩りをあたえてくれるアート」であったのだと、ぼくは思う。それはそのままで、じぶん自身の精神を救い出すことでもあった。

 西アフリカのシエラレオネのあと、ぼくはアジアにもどり、東ティモールという21世紀最初の独立国に暮らし始めた。インドネシアのバリから飛行機で二時間ほどのところにある東ティモールはとても美しいところだ。牧歌的で平和な東ティモールにぼくが赴任したのは、独立後1年が経過した2003年。独立前まで紛争が25年以上にもわたってつづいていたわけで、ぼくが着いたときも「紛争後(戦後)」だ。国連の平和維持活動が継続され、日本の自衛隊も活動を展開していたころだ。

 独立後は平和な情況がつづいていた東ティモールであったのだけれども、2006年にディリ騒乱が起きる。首都ディリ市内で銃撃戦も勃発し、東ティモール政府はオーストラリアを含む他国に治安の支援を要請するほどであった。ぼくを含めて在留邦人のほとんどが、騒乱の翌日にチャーター機でインドネシアのジャカルタに退避し、そこから日本に戻ることになった。日本に戻ってからも、ぼくは遠隔で現地事務所とやりとりをしながら、東ティモールで展開しているプロジェクトを継続した。東ティモールはとても不安定な情況のなかにおかれていた。

 日本に戻るまで緊張のためか、ぼくはテンション高く行動していた。日本に戻ってようやく「日常」に適合しはじめたころ、ぼくは以前日本に住んでいたとき以上に、書店に立ち寄るようになった。駅構内の小さな書店にも、時間が少しでも空けば立ち寄った。ぼくはいつしか気づくことになる。「世界から色がなくなるような出来事」を体験してきたのだと。書店はぼくにとって「世界に彩りをあたえてくれるアート空間」であった。そこにはさまざまな「物語」が並べられている。文学だけでなく、実用的な本にも「物語」があるのが、ぼくには見えてくる。どんな本でもそこには物語がながれている。ぼくのなかで色が消えかけていた「世界」に、さまざまな物語が彩りをあたえてくれる。それはぼくの心を深いところで包んでくれるように感じられた。こうして、ぼくは東ティモールにふたたび帰ってゆくまで、いくどもいくども書店に立ち寄ったのであった。

 本も、クラシック音楽も、絵画も、限定的な「有用性の次元」だけで出逢うのはもったいない。それらは思っている以上に、ひとの生を深い次元で支えているものである。それ自体が歓びであるようなものたちである。じぶんのほんとうに深いところからそれらを求めるとき、そんな感覚がせまってくる。

 新型コロナの発生とそれに続く事象、それから「ぼくの世界」で起きてきた事どものなかで、どこか世界の色がなくなっていくような感覚が起きていたのかもしれないと、ぼくは思う。意識的にはまったくそんなことは思いもしていなかったのだけれど、いつもよりもクラシック音楽をよく聴くようになり、いつもよりも本をたくさん読むようになり、いつもよりも(本などを通じて)絵画にふれるようになるなかで、過去の記憶の断片を憶い起こしながら、そんなことをぼくは考える。

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「コロナ後の後」の見晴らし。- ずーっと先を大きく見晴るかす見田宗介の著作との「対話」から。

今年2020年1月から新型コロナの情況をくぐりぬけてゆくなかで、新型コロナ自体への対応・対策をさまざまに施しながら、やはり「コロナ後」のことを考えてしまう。もちろん「この」新型コロナがおさまったあとの「コロナ後」もそうだけれど、もっとずっと先、数十年後、あるいは100年後といった時間軸のなかで、「コロナ後」の「後」の世界のことを考えてしまう。

 今年2020年1月から新型コロナの情況をくぐりぬけてゆくなかで、新型コロナ自体への対応・対策をさまざまに施しながら、やはり「コロナ後」のことを考えてしまう。もちろん「この」新型コロナがおさまったあとの「コロナ後」もそうだけれど、もっとずっと先、数十年後、あるいは100年後といった時間軸のなかで、「コロナ後」の「後」の世界のことを考えてしまう。

 思いきって、ずーっと先を見晴るかす。そんな視界のひろさを深い次元で教えてくれたのは、やはり、見田宗介先生(社会学)であったと思う。ぼくは「生き方」の方向性の大きな部分を、見田先生から学んできた。社会「学」という枠組みにはおさまりきらない「思想」が、そこには宿っている。生き方としての思想だ。

 コロナ禍をかけぬけてゆくなかで、ぼくの感覚と思考の一部には「見田宗介の感覚と思考」が重なっていることを思う。「見田宗介先生だったら(こう語るだろう)…」というプログラムがぼくの思考にはたらきかけて、ぼくはしばしば沈思することになる。

 それでも見田先生の発言に触れたくなって、ついついグーグル検索で見田宗介先生の発言がないかどうかを検索してしまったりするのだけれど、見田先生はこういう情況においてすぐには発言をされないことをぼくはわかっているから(たとえば、アメリカの「911」のときもすぐには発言されなかった)、やはり検索結果に表示されなくても残念には思わない。ぼくは見田宗介先生の著作をひらいて、そこで見田宗介先生と「対話」する。想像の対談。あるいは「創造」の対談である。

 ちなみに、ぼくは大学生として見田宗介先生のもとで学んだわけではない。いわゆる私淑だ。見田宗介(ペンネームは真木悠介)の著作群を通じて、かれこれ25年程にわたって学んでいる。それでも、20年ほど前、横浜の朝日カルチャーセンターの見田宗介先生の講義を聴講した「体験」は、いまでもぼくのなかに深く残っている。もちろん、ぼくはその講義のなかで見田先生に直接に質問をしてみた。そのときの<束の間の対話>は、それ以後、ぼくの内面で見田先生と「対話」するときの、身体的感覚のベースとなっているのだろうと、ぼくは思う。

 コロナ禍ではいろいろなことが「オンライン」上でなされる。それはとてもいいことだと考える一方、ひととひととの、あるいはひとと自然との、身体的な直接の出逢いや共振といったものの大切さを憶いおこさせる。

 「コロナ後の後」のことに戻ろう。時空間の軸をすーっとひろげてみて、つぎのような「考え方」のことを考えてみる。

 人口が大爆発期を迎えた「近代」の基本的な価値観は「自然を征服し、人間も互いに競い合う」という考え方である。見田宗介先生は作家の津島裕子との対談のなかで、この価値観にふれている(『超高層のバベル 見田宗介対話集』講談社)。自然をなるべくコントロールし、利用しつくす。競争社会のなかで「サバイバル(生き残ること)」モードへとかりたてられる。

 高度成長期には有効であったこの価値観とその世界はすでに限界をむかえていて、方向転換をしなければ、人間は破綻してしまうところまで来ている。「自然を征服し、人間も互いに競い合う」という価値観を「無限空間」のなかで羽ばたかせてきたところ、その空間の「有限性」が露出してしまったのである。環境と資源の有限性。「自然を征服し、人間も互いに競い合う」という価値観は「豊かな社会」をもたらすと同時に、グローバル化の達成という局面において、その限界を提示する。こんな時代にあっても、人間は自然を利用しつくそうとし、「経済成長」の号令は高らかにうたわれるのだけれど。

 この解決の方向性はどこに見出すことができるのか。「新しい価値観が必要になってきている」と語る津島裕子氏に、見田宗介先生は言葉を紡ぐ。「どう転換するのか。何らかの形で『共存するシステム』を考えるということだ」と。「高度成長ができなくなったから仕方なく、ということではなく、本当は自然とも他の人間や社会とも共存するほうが楽しい世界なんだと。人間や動植物も含めて、さまざまな種と共存することは楽しい世界なのだと。そういう方向にしか、未来を信じる道はないと思います。」(『超高層のバベル 見田宗介対話集』講談社)

 共存するシステム。それは誰にでもわかる、凡庸なアイデアに聞こえるかもしれない。しかし、この一語のなかには、この一語にいたるまでには、膨大な思索・思考、科学と論理、それから見田宗介の「生き方」が詰まっている。『時間の比較社会学』『自我の起原』『現代社会の論理』などといった著作で追究された思考がそこには充溢している。官制的に発せられるスローガンなどではなく、考え抜かれた、生き抜かれた言葉なのだ。

 なお「競争」が否定されているわけではないことを付け加えておきたい。「楽しい」競争というものはある。自然との共存のもとに、そして人間の共存社会をベースとしながら(個人の最低限の必要が満たされた上で)、「楽しい」競争というものがある。(ところで、コロナ禍での「買い溜め」は人間社会の競争的価値観の発露である。)

 さらにここで触れられている大切なことに照明をあてておきたい。高度成長ができなくなったから仕方なく「ということではなく」である。自然や他者との共存のほうが「楽しい」のだという方向性である。このことはとても大切なことだと、ぼくは思う。反対するひとはそう多くはないかもしれないけれども、このような方向転換は実際にはむずかしいものだ。ひとは「仕方なく」という転換点まで、なかなか変わることができない。「これまでの生き方」が心身にしみこんでしまっているからだ。「自然を征服し、人間も互いに競い合う」という価値観、それから経済成長の強迫的・無限的な進行はとどまるところを知らない。

 新型コロナは「仕方なく」という転換点のひとつである。ぼく個人のことで言えば、新型コロナそのものの出現自体についてはあまりおどろくものではなかった。リスクマネジメント的にはすでにおりこみずみのリスクであったからだ。けれども、実際にそれが顕在化して、人間と社会と経済へのインパクトを体験し、見聞きするにつれて、いろいろな「想定外」に、思考も行動も緊張を強いられることになった。移動が制約されることは想定内としても、実質国境が閉じられるなどの想定外にはいろいろと振り回されることになった。なにはともあれ、情況はさまざまな「仕方なく」をつきつけてきたし、今もそれは続いている。

 「現代」という時代を、近代がつぎなるなんらかの時代への最終的な過渡期と見る視点に立つと、そこでは二つの力学がはたらいている。ひとつは「自然を征服し、人間も互いに競い合う」という近代の価値観の延長線上に、強迫的に「経済成長」を続けようとするもの。もうひとつは、その強迫性から離れて「つぎなる時代」へと軟着陸しようとするもの。これらの二つの力学が拮抗しているのが「現代」という見方である。コロナ禍はこの拮抗の最中に訪れたことになる。

 この大きな見方のなかで前述の「仕方なく」を組み入れてみると、「仕方なく」という転換点としてのコロナ禍は、「強迫的な経済成長」を生きるひとたちにとってはやはり「仕方なく」であるのに対して、つぎなる時代(「共存するシステム」)への軟着陸を試みてきたひとたちにとっては意味合いが異なってくるのだと思う。コロナ禍が訪れようと訪れまいと、未来は(そして現在は)この「共存するシステム」にあるのであって、コロナ禍は「仕方なく」の転換点ではない。

 ぼくが「じぶんの変容」ということを、ホームページやブログで書くとき、このような「共存するシステム」への軟着陸を想定している。「本当は自然とも他の人間や社会とも共存するほうが楽しい世界」という共存する世界への変容を、なによりもまず「じぶん」のなかにひらいていく。共存する楽しさ、自然や他の人間や社会との出遭いの楽しさ。「コロナ後の後」の世界は、そんな価値観に下敷きされた世界がひらいてゆく。時間的には「コロナ後の後の後…」といったところかもしれないけれど。

 ちなみに、大澤真幸先生(社会学)は、コロナの危機こそは「世界共和国の最初の一歩」だと言っている(大澤真幸『コロナ時代の哲学』左右社)。「あえて」そう言い切っている。国際的な連帯や協調というのではなく「世界共和国」。たとえば、21世紀の終わりから2020年を眺め返したとき、コロナ危機は「世界共和国」の第一歩であったのだと振り返られるのだというように。

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社会構想 Jun Nakajima 社会構想 Jun Nakajima

「国際女性デー」をきっかけにかんがえたこと。- この「現代社会」を見つめる視野で。

昨日(3月8日)は「国際女性デー」であった。女性の平等な社会参加などがどこまで進展したか、どこに制約や障害があるのか、ということをかんがえる。

 昨日(3月8日)は「国際女性デー」であった。女性の平等な社会参加などがどこまで進展したか、どこに制約や障害があるのか、ということをかんがえる。

 社会における「女性」というテーマは、後進産業地域(発展途上国)の開発協力・国際協力という領域において、ぼくはより身近に接してきた。開発学(development studies)においてそれは重要なテーマであるし、またじっさいにシエラレオネや東ティモールで国際協力のプロジェクトをおしすすめてゆくにあたっては「女性の参加」ということを、とても大切なものとしてあつかってきた。それは欠くことのできない側面として、国際協力のコミュニティ(NGO・NPO、政府機関、国際機関など)では共有されてもいた。

 ところで、ぼくは小さいころ、女性の地位や社会参加などがもとめられている社会状況そのものをよく理解できていなかった。学校の教科書などでは、自由や平等などが説明され、そのような理念があるにもかかわらず、どうもうまくいっていない。教わることと現実の乖離のはざまで、どうにも居心地のわるさを感じざるを得なかったように思う。「男」として生まれてきて、そのことにどこか負い目のようなものを感じたこともあった。

 そんななかで、まずはじぶんからできることをしてゆく、というように、ぼくはじぶんの思考と行動を方向づけていったのだろう。だから、開発協力・国際協力という領域で学び、仕事をしてゆくなかでは「女性の権利や参加」というテーマには、すーっと入ってゆくことができたのかもしれない。

 教わることと現実のギャップに感じていた「どうにも居心地のわるさ」は、歴史などを学ぶなかで「理想と現実」の図式などをとりこんで理解し、なんとなくそのままになっていた。でも、理想と現実のギャップが徐々にではあるけれど現実のなかでその幅をせばめてゆくなかで、見田宗介先生(社会学者)の文章に出逢い、ぼくは目が見開かれる思いをしたのであった。

 ウェーバーの見るように「近代」の原理は「合理性」であり、近代とはこの「合理性」が、社会のあらゆる領域に貫徹する社会であった。他方、近代の「理念」は自由と平等である。現実の近代社会をその基底において支えた「近代家父長制家族」とは、この近代の現実の原則であった生産主義的な生の手段化=「合理化」によって、近代の「理念」であった自由と平等を封印する形態であった…。
 「高度経済成長」の成就とこの生産主義的な「生の手段化」=「合理化」の圧力の解除とともにこの「封印」は解凍し、「平等」を求める女性たちの声、「自由」を求める青年たちの声の前に、<近代家父長制家族>とこれに連動するモラルとシステムの全体が音を立てての解体を開始している。

見田宗介「現代社会はどこに向かうか」『定本 見田宗介著作集 I』岩波書店

 この箇所は、見田宗介著『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)でもとりあげられている(一般の読者が手に取りやすい岩波新書である)。

 そこで書かれている図式で言えば、「<自由><平等>対<合理性>」である。近代は経済成長のために<合理性>を最優先にし、「近代家父長制」を敷いたのであった。そこで、<自由>と<平等>は封印される。けれども、経済成長が達成され、合理化の圧力が減圧されてゆくなかで、近代の理念でありつづけてきた<自由>と<平等>がちからづよく現れてくる。

 小さいころ、ぼくが感じていた違和感のようなものも、この論理によって音を立てての解体を経験したようであった。なるほど、合理化の圧力の解除とともに現れてきたのは、「いまを生きる」ということである。「合理化」=生産主義的な「生の手段化」とは、「いま」を押し殺し「将来」のために「いま」を手段化することである(将来のための勉強など)。「いまを生きる」ということが、さまざまな仕方で試されているのが「現代」であり、そのような試みを、ぼくたちはいろいろなところで見聞きすることができる。

 ところで、「女性」という問題の立て方は、「男性」を前提する。この社会のなかで女性が解き放たれるには、男性が解き放たれることも双対のものとして並行しなければならない。さらには、LGBTの方々も加わる。女性も、男性も、LGBTの方々もひととして平等で、<みんな同じ>という言い方もできる。けれども、見田宗介先生が語るように、<みんなが違う>という方向性にぼくは惹かれる。差別をのりこえる方向として、<みんなが違う>という方向に、ぼくたちはゆくことができる。

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身体性 Jun Nakajima 身体性 Jun Nakajima

ぼくは昨年、「フレキシタリアン」になった。- 身体の欲求にみちびかれながら。

昨年(2019年)、ぼくは「フレキシタリアン(Flexitarian)」になった。「フレキシタリアン」と聞いて、なんのことかおわかりだろうか?

 昨年(2019年)、ぼくは「フレキシタリアン(Flexitarian)」になった。「フレキシタリアン」と聞いて、なんのことかおわかりだろうか?「Flexible + Vegetarian」で「フレキシタリアン(Flexitarian)」。そんなことばがあるなんて、ぼくは知らなかった。「セミ・ベジタリアン」という言い方もされている。つまり「準菜食主義者」というわけだ。(ほかにも、食べるものの範囲によっていろいろな呼称がある。お肉は食べずにお魚は食べる「ペスカタリアン」など。)

 どのくらい(例えば一週間にどのくらい)菜食を通すと「フレキシタリアン」と呼ばれるのかの基準はないし、ベジタリアン側から言えば「フレキシタリアンはベジタリアンではない」というスタンスがあるようだけれど、ぼくにとってはとりあえず細かい基準は大切ではない。まずはぼくの身心の「歓び」が大切なのだ。

 ぼくを惹きつけたのは「Flexible(柔軟な)」というあり方であった。菜食主義であるベジタリアン(Vegetarian)、さらに徹底したビーガン(Vegan)などにも惹かれるけれど、外食時の都合や便利さなどもあって、なかなかふみきれずにいたところ、菜食を基本としながらときには肉や魚を食べるという「フレキシタリアン」に、ぼくはひとまずおちついた。

 アジアの国々においては外食を「ベジタリアン」で通すのはむずかしい。近年だいぶ関心がたかまってきて、お店も増えてきているとはいえ、いつも「同じ店舗・レストラン」に行くのならまだしも、そうでない場合、ビーガンやベジタリアンをつらぬいてゆくことはやはりむずかしい。

 でも、ぼくが「フレキシタリアン」に舵をきることができたのは、台湾においてであった。昨年台北に滞在しているときのこと。あるとき、ぼくと妻は、台湾に「(広義の)ベジタリアン」向けビュッフェ式レストランがいたるところにあるのを発見することになる。じっさいに行って食べてみて、すっかり気にいってしまったのであった。メニューの種類は豊富、食べる分だけの料金(手ごろな料金)で、ごはん(orお粥)とスープは好きなだけ食べることもできる。香港や日本にも、こんなレストランがあるとよいのになぁと思いながら、ぼくたちは「ベジタリアン」への道にいよいよふみだした。

 けれども、その後、香港や日本を行き来していたなかで「ベジタリアン」を通すことのむずかしさを感じたのであった。また不便さもさることながら、菜食についての知識や経験が少なかったから、ひとまずは「肉や魚はなるべく減らして、食べるにしてもサイドディッシュ程度にする」という地点に軟着陸することを模索していた。そんなおりに「フレキシタリアン(Flexitarian)」ということばとスタイルを知り、ぼくたちの「軟着陸」が、うまい具合にことば化されることになったのであった。

 ところで、ぼくは急に「フレキシタリアン(Flexitarian)」に目覚めたわけではない。これまでにマクロバイオティックを本で学んだり、リトリートの旅館ですてきなビーガン料理に出逢ったり、身体が肉をあまり欲しなくなったりという、いくつかの導線が並行するなかで、台湾でのビュッフェ式ベジタリアン(素食)をきっかけに、「フレキシタリアン」に舵をきることができたのだ。そして、その直前に、ぼくが「ミニマリスト(エッセンシャリスト)」へと生きかたのスタイルをぐっと変換させたことも間接的に影響しているのだと、ぼくは思う。

 それから、もともと、食べることにおいての「主義」を明確にもっていたというわけでもない。ぼくの身体の要求(非要求)にしたがったと言うほうがより実情にちかい。でも、いつからか、動物のことをかんがえることにはなっていたし、環境への配慮もおおきな関心のひとつであった。

 動物や環境の配慮がまずあって、そのために自分の行動を抑制したというわけではなく、ぼくの行動をじぶんの欲求(歓び)を徹底してゆくことで、道がひらかれた。言ってみれば、ぼくの身体がこころよく向かってゆく方向に、動物や環境への負荷が(少なくともいくぶんかは)解き放たれてゆく方向が重なる。そんなふうにぼくはとらえている。

 「フレキシタリアン」への舵をきってから半年ちかくが経とうとしているが、いまでは身体が菜食にすっかりとなじんでいる。お魚やお肉をほぼ欲しなくなった。外食時にレストランを選ぶとき、選択肢がぐっと狭まったことは、逆に「選びやすくなった」というふうに感じる。メニューを選ぶときも、たくさんのメニューから「選びやすくなった」とも言える。お魚かお肉を選択するしかないときは通常お魚を選び、いのちをありがたくいただく。そして家で菜食料理をするときは、まだいろいろと実験中である。

 こんなふうにして、ぼくは「フレキシタリアン」になり、「フレキシタリアン」のライフスタイルをたのしんでいる。

追記(後日談):

「食」については、このブログを書いたあとも、探究は延々と続いている。いろいろな事情のなかで「食」の世界の深さに、ぼくは足を踏み入れてしまったようだ。いま(2020年9月初頭時点)では、ぼくはある意味で<フレキシタリアン>だけれど、より一般的な意味での「フレキシタリアン」ではなくなっている。つまり、「準菜食主義者」というほど「菜食」をメインにしていないかもしれない。けれども、引き続き、野菜を中心にメニューを組み立てている。大きな理由のひとつに、プロテインの一種に肉類等からしか取れないものがあるからだ。けれども、それ以前にいったんベジタリアンのベクトルにぐいーっと食を変えてみたことは、とてもよかったと思っている。「一度なくしてみる」という体験は、思っている以上に、ぼくたちに「何か」を与えてくれる。なにはともあれ、ぼくの「食の旅」は継続している。大切なことは、食に関する「定説」を疑ってみること。「あたりまえのこと」を「あたりまえではないこと」として見ることである。このあたりの経緯については別途ブログで書く予定である。

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音楽・美術・芸術 Jun Nakajima 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima

美術館での「体験」を通じて。- 美術鑑賞における「身ぶるい」の感覚。

昨年(2019年)日本に一時帰国する際に楽しみにしていたことのひとつに、美術館に行くことがあった。日本の美術館や美術展は数が多く、また見応えのある作品に出逢うことができる。

 昨年(2019年)日本に一時帰国する際に楽しみにしていたことのひとつに、美術館に行くことがあった。日本の美術館や美術展は数が多く、また見応えのある作品に出逢うことができる。

 だいぶ前に香港でモネの作品を見ることのできる展示企画があったのだけれど、限られた会場はひとでいっぱいで、また展示点数もわずかであった。ゆっくり鑑賞することもできないままに、ぼくは会場を後にした記憶がある。

 日本の美術館・美術展は混んでいることもあるけれど、昨年、上野公園にある国立西洋美術館に訪れたときは、ゆっくりと、静かに、作品と対面することができた。ルノワール、モネ、ゴッホ、ピカソなどの作品に、一対一で、静かに向き合うことができる。これほど贅沢なことはない。

 ところで、見田宗介先生(社会学者)は、「アートの人間学ー野口晴哉「美術随想」ノートー」という文章(『定本 見田宗介著作集X 春風万里』所収)のなかで、ムンクという人は「気の流れ」をよく描いている作家である、と書いている。「気の流れ」という表現は核心をついていると、ぼくは思う。有名な作品「叫び」などを鑑賞すると、そのことがよくわかる。

 ムンクはパリ滞在中に印象派の画家たちから影響を受けている。ぼくが好きな作家、ゴッホやルノワールの作品はまさに「気の流れ」があふれでているような作品たちだ。ゴッホやルノワールの作品とじっさいに向き合うとき、ぼくはそこで「気の流れ」を全身で感じる。あたまではなく、身体のおくのほうに、ぼくは「ふるえ」を感じるのである。「身ぶるい」ということばが日本語にはあるけれど、このことばは、まさしくこのようなときのことを語っているのだ。

 この感覚はなにも昔から感じていたことではない。ぼくが44歳を迎えた昨年にはじめて感じた感覚だ。本やインターネットで見てきた作品ではなく、じっさいに身体で「観る」という体験をとおして、ぼくは作品の「気の流れ」、そして身体のおくのほうからやってくる「身ぶるい」をはじめて知ったのであった。「体験」ということ、じっさいにこの身体で経験してみることの大切さを、ぼくは身にしみて感じたときでもあった。

 こうして、「身ぶるい」の体験を身体にのこしながら、ぼくはこの方法を美術鑑賞に適用している。

 絵画から受けとる「第一印象」を感じてみる。それから絵画の前に立つ。できれば、静かな空間で、一対一で向き合いたい。絵画の前で、角度と距離を変えながら鑑賞する。それから、距離をちぢめて、絵画の気の流れを感じる。じっさいに、こころの絵筆で、その気の流れと筆づかいをなぞってみる。ときおり、絵画がじぶんにせまってくる。そして、あのひとときが訪れる。身体のおくのほうから「身ぶるい」が生成するのがわかる。時空をこえて、作者(例えば、ゴッホ)を身近に感じる。

 こんなふうにして、ただ作品と向き合うだけで、深い歓びを感じることができる。

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音楽・美術・芸術, 書籍 Jun Nakajima 音楽・美術・芸術, 書籍 Jun Nakajima

スティーブン・フォスターという人物。- 『はじめてのアメリカ音楽史』を、音楽を聞きながら読む。

スティーブン・フォスター(Setphen Foster)。この名前を聞いて、この人物のことが思い浮かぶひとは、学校の授業でありとあらゆることを吸収していたか、名前を覚えるのが得意か、あるいは音楽史へと足をふみいれてきたか、いずれにしろ、自身でつくりあげる世界の体系のなかに「アメリカ音楽(史)」が組み込まれているひとたちだ。

 スティーブン・フォスター(Setphen Foster)。この名前を聞いて、この人物のことが思い浮かぶひとは、学校の授業でありとあらゆることを吸収していたか、名前を覚えるのが得意か、あるいは音楽史へと足をふみいれてきたか、いずれにしろ、自身でつくりあげる世界の体系のなかに「アメリカ音楽(史)」が組み込まれているひとたちだ。ぼくは、まったく聞いた覚えがなかった。

 けれども、名前を知らなくても、この人物は(おそらく)きわめて多くのひとたちにとって、それなりに「関わり」のある人物である。ジェームス・バーダマン/里中哲彦『はじめてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)は、その関わりを簡明に解きあかしてくれる。

 スティーブン・フォスター(1826-1864)は「ポピュラー音楽の元祖」。フォスターは「歌をポピュラーにすることに成功した最初のアメリカ人」であり、「歌をつくるのを職業にした最初のアメリカ人」であるという(前掲書)。

 彼がつくった歌は、あまりにも有名だ。「故郷の人々(Old Folks at Home)」(別名「スワニー河」)、「おお、スザンナ(Oh! Susanna)」、「草競馬(Camptown Races)」、それに「ケンタッキーのわが家(My Kentucky Home, Good Night!)」。

 曲名を見ただけではわからないかもしれない。音楽ストリーミングやYouTubeで検索して、再生してみればすぐにわかる。「あぁ、あの歌か」といった歌たちが、すべてフォスターの手になるものだとはびっくりである。フォスターは家庭歌謡の「パーラー・ソング(parlor songs)」を135曲つくったようだ。

 バーダマンはつぎのように解説をしてくれる。

 パーラー・ソングというのは、アイルランドやスコットランドの民謡の流れをくむ郷愁歌や上品な音色のラブ・ソングのこと。家庭の居間(パーラー)で演奏されたのでそう呼ばれました。フォスターは自分自身が作詞作曲したものを一般大衆に向けた(ポピュラーな)商品として出版した。フォスターの時代にはまだレコードは存在していませんから、彼は印刷した楽譜を売ることで生計を立てていた。

ジェームス・バーダマン/里中哲彦『はじめてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)

 もちろん、フォスターがそのように生きていけたのは、アメリカの経済社会状況が変遷してきたことにもよる。アメリカは独立戦争と米英戦争を経てイギリスから自立し、その流れのなかで「都市」や「市場」がひらけてゆく。こうして商業娯楽の道がひらかれてゆく。

 それにしても、おもしろい。『はじめてのアメリカ音楽史』は読んでいてこころの躍る本だ。でも、この本の第1章を読んでいるあいだ、フォスターの音楽をApple Musicで聴いたりして、だいぶ脱線しながらの読書になってしまう。以前、村上春樹・小澤征爾『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社)を読んでいたときも、たしかそんな感じだった。村上春樹と小澤征爾の話に耳を傾けながら、そこで語られる音楽を聴く。そんなふうにして、音楽についての本を楽しむ。

 ところで、著者(対談者)のバーダマンは、アメリカの国家「星条旗」にはその前身があることを教えてくれる。「天国のアナクレオンへ(To Anacreon in Heaven)」という曲である。なんと、この歌は酒飲みたちの歌であったという。その歌を「国家」へ昇格させてしまうアメリカも、すごい。

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民謡「Row, Row, Row Your Boat」のこと。- 19世記のアメリカの時空間へ。

ぼくのブログのなかでよく読まれているブログに「民謡「Row, Row, Row Your Boat」の人生観・世界観。- シンプルかつ凝縮された歌詞。」があります。2018年の9月に書いた文章ですが、2020年になったいまも、よく読まれているようです。

 ぼくのブログのなかでよく読まれているブログに「民謡「Row, Row, Row Your Boat」の人生観・世界観。- シンプルかつ凝縮された歌詞。」があります。2018年の9月に書いた文章ですが、2020年になったいまも、よく読まれているようです。ありがたいことです。

 この民謡「Row, Row, Row Your Boat」をとりあげた最初のきっかけは、この民謡の歌詞の最後に「life is but a dream」という歌詞が出てくるのですが、そのことばについていろいろとかんがえていたことにあります。

 この歌詞に触発された真木悠介(社会学者)がじぶんの生を表現するものとしてこころのなかでつぶやいてきた「人生という旅のことば」(life is but a dream. dream is, but, a life)。ぼくの好きなことばのひとつですが、このことばの源泉をさがしていて、この「Row, Row, Row Your Boat」に辿りつきました。子どもたちが学校などで歌う歌だというのはあとで知ったのですが、ぼくは小さい頃に学校で歌った覚えはありません。でもたしかに、英語圏などではよく歌われているようでした。

 子どもたちに歌われているとのことですが、はたして「life is but a dream」ということばの「意味」はどのように捉えられているのだろうか。ちなみに、ここでの「but」は、英語の試験でもよく出てくるように「only」の意味合いです。つまり、「人生は夢でしかない」ということ。このことばが歌詞の最後に突如あらわれるのです。子どもたちがいきなり「人生は夢でしかない」と言われても、いったいなんのことかわからないだろう、とおもうわけです。

 でも、小さい子どもは「意味」によってこの「世界」を捉えないのでないか。そのように、ぼくの内なる声が語りかけてきました。子どもたちは「世界」をもっともっと「感覚的」に捉えている。ぼくはそう思います。ぼくが子どものころを憶い出しても、歌を歌いながらはたしてそれらの「意味」を正確に捉えようとしていたかというと、けっしてそんなことはなかった、とおもいます。

 だから「life is but a dream」ということばも、子どもたちにとっては「感覚的」に、とうぜんのことのように捉えられている。そんなふうにおもうわけです。

 ところで、この民謡の成り立ちは明確にはわかっていないようです。Wikipedia(英語版)によると、アメリカのミンストレル・ショー(大衆芸能)から生まれ、現在確認できるところでは、1852年に初期の印刷物(※楽譜)が確認されているといいます。作曲と作詞が誰によってなされたのかもわかっていません。

 「ミンストレル・ショー(Minstrel Shows)」とはアメリカで19世紀半ばに誕生した大衆娯楽の形態であるとのことです。Wikipediaの英語版・日本語版ともに、結構詳細に記載されています。詳細を読んではいなかったのですが、ジェームス・バーダマンと里中哲彦の対談からなる『はじめてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)を読んでいたら、「ミンストレル・ショーとは何か」にふれられていました。

 白人の役者が顔を黒く塗って芸(歌や踊り、劇など)を披露するという、黒人の軽蔑があからさまな芸能ではあったものの、アメリカの「ミュージカル」へとつながる力線をもっているなど、歴史的には切り捨てることができないものであったようです。

 話を民謡「Row, Row, Row Your Boat」へ戻すと、この民謡は上述のミンストレル・ショーと呼ばれた大衆芸能において生まれてきた歌曲であったというわけです。

 さらに、『はじめてのアメリカ音楽史』においてバーダマンは、当時は歌がお金になるなんて誰もおもっておらず、著作権といった概念もなかったから、「作者不明」という曲がたくさんあるんだということを、語っています。おそらく、「Row, Row, Row Your Boat」もそのような曲群のなかに生まれた曲だったのでしょう。

 それにしても、19世紀のアメリカで、「Row, Row, Row Your Boat」がいったい、どのようにつくられ、どのように歌われ、どのように捉えられていたのか。どんな心情のなかで「life is but a dream」が歌われたのか。ぼくの想像は19世紀のアメリカのひとびとへと投げかけられます。

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身体性, 宇宙・地球 Jun Nakajima 身体性, 宇宙・地球 Jun Nakajima

生過程の原形と変容。- 三木成夫が採用する「ゲーテの形態学」の方法論。

ここのところ「植物」に惹かれている。ぼく自身の生活において、「フレキシタリアン(flexitarian)」、つまり準菜食主義者となったことも、どこかで関連しているのかもしれないし、生きることの全体性において「動く」ということだけでなく「静」というあり方をとりこもうとしてきたことも、どこかでつながっているかもしれない。

 ここのところ「植物」に惹かれている。ぼく自身の生活において、「フレキシタリアン(flexitarian)」、つまり準菜食主義者となったことも、どこかで関連しているのかもしれないし、生きることの全体性において「動く」ということだけでなく「静」というあり方をとりこもうとしてきたことも、どこかでつながっているかもしれない。さらには、昨年(2019年)に、東京の上野の森美術館で開催されていたゴッホ展で、さいごに展示されていた「糸杉」の絵画にこころを揺さぶられたことも、つながっていると、ぼくはおもっている。

 「植物」ということをかんがえるときに、ぼくは解剖学者の三木成夫(1925-1987)の著作をひらく。植物と動物、人間を比較しながら、三木成夫は、いわば「逆立ちした見方」をぼくに与えてくれるのだ。この点については、もう少しあとでふれたい。

 ところで、解剖学者の三木成夫(1925-1987)は、「人間の生」ということをかんがえるにおいて、「ゲーテの形態学」の考え方をひきついでいる。ゲーテ(1749-1832)は『ファウスト』や『若きウェルテルの悩み』などの著作で知られているから、あまり知られていないかもしれないけれど、自然科学者としての著作もある。

 人間の生の<すがたかたち>をかんがえるにおいて、ゲーテによる「形態学」の根柢をなす方法論として三木成夫がとりだすのは、植物・動物・人間の三者に共通する生過程の「原形」をもとめて、人間における原形の変容(Metamorphose)を抽出するという仕方である。

 生過程とは「成長」と「生殖」の位相交代のはてしなく続く、ひとつの波形として描き出すことができる。…この「食と性」の営みが植物と動物のあいだで著しく異なった形をとって行われることはあらためて言うまでもない。すなわち、合成能力の備わった植物が植わったままで生を営むの対し、この能力の“欠”けた動物は、“動”き廻って草木の実りを求めることになる。この文字通り“欲”動的な生きものの動物に「運動と感覚」という双極の機能が、光合成能の代償として備わったことは、自然のなりゆきと言わねばならないであろう。

三木成夫『三木成夫 いのちの波』平凡社

 三木成夫はこの地点からさらに人間の生命を描きだしてゆくのだけれど、その手前のところで、ぼくは上に引用した「逆立ちした見方」で立ち止まる。「逆立ち」というのは、ふつうの見方と逆さだからである。ふつうであれば、人間を頂点として動物、それから植物とくだってゆく階層がイメージされるのだけれど、ここでは、合成能力を持する植物をまず思考の出発点におき、そこから、この能力を「欠く」存在として動物が描かれる。その「欠如」を代償する仕方で、「動く」という機能があるわけだ。

 ぼくは、この「見方」に教えられる。あるいは、ぼくの「世界の見方」に更新がせまられる。言い過ぎかもしれないけれど、少なくとも、ぼくにとっては、そのように感じられる。

 唐突かもしれないけれど、ひととして生きていくうえで、動物的な「動」に加えて、植物的な「静」をともに、この生の過程にひらいてゆくこと。「じぶんの変容」という、ぼくにとってのライフワークのトピックにおいても、それから<これからの生きかた>をかんがるときにも、このことはとても大切なことだと、ぼくはおもう。

 思想家の吉本隆明(1924-2012)は、三木成夫の思想にもっと早くに出逢っていれば、と、三木成夫について書いているが、それほどに、三木成夫の思想はこの時代にあって、状況を「きりひらく」ちからをもっているのである。

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成長・成熟, 言葉・言語 Jun Nakajima 成長・成熟, 言葉・言語 Jun Nakajima

治療への拘泥とは病に執着すること。- 森田療法の「ことば」にふれて。

批評家の加藤典洋(1948-2019)の「乱暴な要約」に触発されて、1919年に創始された森田療法(神経症に対する精神療法)を学んでみたくなり、創始者である森田正馬(まさたけ)(1874-1938)の「ことば」にふれる。

 批評家の加藤典洋(1948-2019)の「乱暴な要約」に触発されて、1919年に創始された森田療法(神経症に対する精神療法)を学んでみたくなり、創始者である森田正馬(まさたけ)(1874-1938)の「ことば」にふれる。

 海外から入手できる電子書籍をさぐってみると、『神経質に対する余の対症療法』(1921年)と題される、20頁ほどの文章が入手可能である。さっそくダウンロードして、読んでみる。

 なお、森田療法センターのウェブサイトに掲載されている説明によると、森田療法がもともと対象としていた「神経症」とは、強迫症(強迫性障害)、社交不安症(社交不安障害)、パニック症(パニック障害)、広場恐怖症(広場恐怖)、全般不安症(全般性不安障害)、病気不安症(心気症)、身体症状症(身体表現性障害)などの病態を指すものである。

 これらの症状の背後に、森田正馬は「神経質性格」と呼ぶことになる共通性を見出す。それは、内向的、自己反省的、小心、過敏、心配性、完全主義、理想主義、負けず嫌いなどの性格特質であり、それを基盤として、「とらわれの機制」という心理メカニズムによって症状が発展してゆく。その「とらわれの機制」から、「あるがまま」の心へと、森田療法は援助してゆく。森田療法センターのウェブサイトはこのように解説している。

 不安や恐怖の感情を排除するのではなく、それらを「あるがまま」に受け入れてゆく。そしていわば心身の根柢に生成するちからを花ひらかせる。加藤典洋は、このような森田療法とは「患者が自分の無力の底まで「落ちて落ちて落ちて」行かせる」セラピーだと、要約している。なるほど、と、ぼくは加藤典洋の要約を思い起こすのである。

 『神経質に対する余の対症療法』で、森田正馬はつぎのように書いている。

 神経質は精神の病的過敏であるから、患者が自ら治さんとあせる事は皆却て有害で、例へば物を忘れようと努力する事は、意識が其の方に執着して、却て忘れる事の出來ぬ關係である。…余は先づ患者の意識する衛生法や治療法を一度び破壊し、治療的ならぬ治療法を行ひ、以て患者をして治療といふ事を忘れしめ、從つて病の観念から離れしめるのである。治療に拘泥するといふ事は、同時に病に執着するといふ事である。

森田正馬『神経質に対する余の対症療法』1921年、青空文庫

 ここでいわれる「衛生法の破壊」とは、例えば、原則一日一度の入浴を習慣とする患者があれば、その習慣(衛生観念)を一度は壊すのだという。「一日一度は入浴しないと気持ち悪い」という地点から、「入浴しなくても別に心にとまらない」という地点へと促してゆく。

 「とらわれの機制」から「あるがまま」へという視点をとりいれれば、森田正馬が意図していることがよくわかる。「~すべき」という<とらわれ>のこころに、窓をうがつことで、<とらわれ>が決壊する。

 別の言い方をすれば、<手放す letting go>である。いままでの観念と行動を手放してゆく。森田正馬が書くように、「執着するといふ事」を手放してゆくのだ。ぼくはここに、深く共感させられる。

 ところで、森田正馬の文章を読んでいると、整体によって身体を知り尽くしていた野口晴哉(1911-1976)のことが思い浮かぶ。「人間」をその<あるがまま>に視る、その徹底したあり方に、森田正馬と野口晴哉に共通のものを感じ、ぼくはいっそう惹かれてゆく。

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言葉・言語 Jun Nakajima 言葉・言語 Jun Nakajima

「乱暴な要約」にも惹かれることがある。- 加藤典洋による「森田療法」の要約。

「乱暴な要約」にも惹かれることがある。学校などでは適切に要約をすることを学んだりする。でもときには「乱暴な要約」があってもいいし、その要約によって「要約」を超えてその対象にふみこんでいきたいと思ったりするものである。

 「乱暴な要約」にも惹かれることがある。学校などでは適切に要約をすることを学んだりする。でもときには「乱暴な要約」があってもいいし、その要約によって「要約」を超えてその対象にふみこんでいきたいと思ったりするものである。

 ぼくはそんな「要約」に出逢った。批評家の加藤典洋(1948-2019)による「森田療法」の要約だ。「乱暴な要約」といっても、考えられていない「乱暴さ」ではなく、要約の対象の「取り出し方」においてラフなだけだ。

 ここでふれられる森田療法(モリタ・セラピー)は、大正期の精神科医森田正馬が創始した精神療法である。専門家でもない加藤典洋自身が「かなり乱暴な要約かもしれない」と述べているが、ぼくはその要約に惹かれて、これまで学びの一歩を踏み出さなかった森田療法を学びたくなった。

 「デタッチメントからコミットメントへ」という、作品と生きかたのあり方・態度の変容を遂げた小説家の村上春樹にふれながら、じぶんの内面を「掘って掘って掘って」いく仕方の同型性の一例として、加藤典洋は「森田療法」を挙げている。

 …この療法では、簡単に言うと、鬱病の病人に頑張れ、しっかりしろ、と督励する代わりに頑張るな、ただただ寝ていなさい、何もするな、と指示をします。それで患者が自分の無力の底まで「落ちて落ちて落ちて」行きなさい、と言うのです。それで患者が自分の無力の底に降りついて、もう身体がむずむずしてじっとしているのはいやだ、何かしたい、というところに達するとはじめて草むしりとか雑巾がけのような単純な仕事を与える。私は専門家ではないのでかなり乱暴な要約かもしれませんが、これはそういう方向のセラピーであって、日本の大正期という精神療法の創成期に生まれた独創的かつ先駆的なメソッドでした。…

加藤典洋『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011 上』(ちくま学芸文庫)

 「落ちて落ちて落ちて」いく。このスタイルが、村上春樹、吉本隆明、丸山真男などと同列にならべられて語られる。ぼくにとってのライフワークとしてのトピック、「じぶんの変容」に密に関わるところでもあって、ぼくはとても惹かれるのだ。内面の底に向かって、「掘って掘って掘って」、「落ちて落ちて落ちて」いく。その方向性に、「じぶんの変容」へと向かう磁力をぼくは感じるのだ。

 「森田療法」の存在自体は、その文字をいろいろなところ(本屋やインターネット)で見てきたから知っていたのだけれど、どんな療法なのかを知っているわけではなかった。

 そんななかにあって、加藤典洋による要約がことばの海に投じられ、ぼくの好奇心に灯りを灯す。本質的な作家や批評家や学者たちは、そのような、確かな「灯り」を、自身とことばのなかにもっているのだ。

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未来が現在に「意味」を与える生。- 作曲家チャイコフスキーのことば。

未来は、生きることの現在に「意味」を与える。いまの勉強や仕事は、将来の「~のため」というように。このような「意味」によってひとの生は支えられ、充実を得ることがある。

 未来は、生きることの現在に「意味」を与える。いまの勉強や仕事は、将来の「~のため」というように。このような「意味」によってひとの生は支えられ、充実を得ることがある。そしてじっさいに「未来/将来」が生に果実を与え、「意味」が現実化する。けれども、いま、この「未来/将来」が必ずしも果実をもたらさない。そんな時代にいる。

 見田宗介先生(社会学者)は、ここに「現代」という時代の「二重の疎外」を明晰に見ている。

 …「近代」の最終のステージとしての「現代」の特質は、人びとが未来を失ったということにあった。…未来へ未来へとリアリティの根拠を先送りしてきた人間は、初めてその生のリアリティの空疎に気付く。…第一に<未来への疎外>が存在し、この上に<未来からの疎外>が重なる。この疎外の二重性として、現代における生のリアリティの解体は把握することができる。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年

 現代における生のリアリティの解体はさまざまな局面において見られる。そんなときにあって、「これからの<生きかた>」は、この疎外の二重性を乗り越えてゆくことを、その核心においてゆく。

 「未来を失う」(未来からの疎外)ということにおいて、その前提となる<未来への疎外>自体を変容させてゆく生きかた。つまり、この<現在の生>を取り戻してゆくことを核心とするのである。

 作曲家チャイコフスキー(1840-1893)の伝記とレターが収められた本『The Life & Letters of Peter Ilich Tchaikovsky』(Modeste Tchaikovsky, translated by Rosa Newmarch, 1907)のはじめに、チャイコフスキーのレターから抜粋されたことばがおかれている。

 “To regret the past, to hope in the future, and never to be satisfied with the present - this is my life.” - P. Tchaikovsky (Extract from a letter) 

 「過去を悔い、未来に希望をもち、現在に決して満足しない。これがわたしの人生だ。」そう、チャイコフスキーは書く。この焦燥のようなものが作曲へのちからを生みだしたのかもしれないけれど、ここには現在の生に満足せず、未来へ未来へと向かう生が語られている。

 チャイコフスキーは精神の病を患ったが、彼の精神はじっさいにどのような困難を抱えていたのか。そこにはどのような「人生の物語」が流れていたのか。そんな彼の「音楽」はどのように彼とともに在ったのか。ぼくはこの大著を読みながら、<未来へ疎外>された精神と生に寄り添おうとする。

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村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima 村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima

村上春樹の「デタッチメントからコミットメントへ」再訪。- 加藤典洋の視点に導かれる。

ぼくの好きな本のひとつに、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)がある。20代にかけて、ぼくがなんどもなんども読んできた本である。

 ぼくの好きな本のひとつに、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)がある。20代にかけて、ぼくがなんどもなんども読んできた本である。そのなかに(いろいろなひとたちによって取り上げられてきた)「デタッチメントからコミットメントへ」という、村上春樹の考え方・態度の変化が語られる箇所がある。

 「デタッチメント」は「~から離れる」という原義のように、社会や関わりから「離れる」という態度である。そんな生と作品を生きてきた村上春樹が、デタッチメントをつきつめてゆくなかで「コミットメント」へ変容してゆく。

 国際協力という仕方で「社会へのコミットメント」を追求していたときでもあったので、ぼくのこころに共鳴することばであった。

 「デタッチメントからコミットメントへ」ということを再び考えようと思ったのは、批評家の、故・加藤典洋氏の論考(レクチャー)に触発されたからである。

 ぼくが感覚と論理を信頼する加藤典洋氏(以下敬称略)は、『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011 上』という、英語によるレクチャーが著作となった本(日本語)のなかで、いわば「助走」として「デタッチメントからコミットメントへ」のことを取り上げている。「助走」と書いたのは、このレクチャーが村上春樹の「短編」をあつかうことを目指したものでありながら、まずは長編小説『ねじまき鳥クロニクル』を語りながら、この「デタッチメントからコミットメント」への変化にふれたからである。

 加藤典洋のその「ふれかた」によって、デタッチメントからコミットメントという変化について語られていた「大切なこと」を、ぼくは憶い出させられる。それは、この、いってみれば村上春樹の「変容(トランスフォーメーション)」のあいだには、デタッチメントの「深化」ということがあるということ。「変わる」というときに、ひとは、横に移動するとか、よくなるという上昇への移動をイメージするかもしれないが、ここには「深化」が方法とされている。

 村上春樹は心理学者の河合隼雄を前に、つぎのように語っている。

 コミットメントというのは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけれど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を超えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。

河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)

 加藤典洋はこの「デタッチメント」から「コミットメント」への移行が、「変化」というより「深化」であるのだということを強調するために、「井戸」の形象がもちいられていることを指摘している。なお、加藤典洋自身は「連通管」(理科の実験などで使われる器具)をイメージして語っている。

 ぼくは「じぶんの変容」というテーマを立てているけれど、この「変容」のなかに、<深化>を重ね合わせている。ぼくがこれまで考えてきて、これからの<生きかた>をひらく核心として考えたいと思っていることの中心は、「じぶん」という経験を、内面に向けて<降りてゆく>ということである。だから、このタイミングで、加藤典洋の明晰な指摘があらためてぼくの思考を深く触発する。

 けれども、さらに思考を触発するのは、加藤典洋自身が「面白いと思う」ことである。「誰からも離れた細い井戸を、掘って掘って掘ったあげくに、つまり「孤立」の道を極めた果てに、広い「人とのつながり」の海にでる」といった、このような言い方やあり方や考え方が、「日本ではけっして珍しくない」という方向に加藤典洋は論考の舵をきってゆく。

 …こういうあり方に「惹かれる」ことのうちに、日本の戦後性ともいうべきものが顔をのぞかせているのではないかと思われるからです。僕の考えを言えば、こうした形象のうちに、近代の社会における孤立と連帯の主題に関して「原型的」なあり方が、いわば日本における世界史的な戦後性の核心として、掴まれているのです。

加藤典洋『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011 上』(ちくま学芸文庫)

 こういうあり方に惹かれてきた系譜として、思想家の吉本隆明、政治学者の丸山真男、森田療法、心理学者の河合隼雄、親鸞などを、加藤典洋は挙げている。それぞれに関心をひくところがいっぱいにあるけれど(それはこの本を読んでいただくことにして)、なにはともあれ、ここに「日本」があらわれることに、ぼくは興味をおぼえる(ちなみに、このような系譜が「日本」だけにあるわけではない)。ぼくとしては、社会学者の見田宗介=真木悠介の思想を重ね合わせながら、考えてみたいと思うところだ。

 ところで、加藤典洋も指摘しているように、「デタッチメントからコミットメントへ」という村上春樹の移行(深化)は、村上春樹がアメリカに住んだことと関係があるかもしれないということを、最後に付記しておきたい。

 ぼくの関心にひきつけていえば、「じぶんの変容」における<異文化>や<異世界>との出逢い、ということ。ぼくはそこに「可能性」をみたいと思う。

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成長・成熟, 身体性 Jun Nakajima 成長・成熟, 身体性 Jun Nakajima

生きづらさの<身体的>感覚。- 「じぶんの変容」への舵きり。

「生きづらさ」ということは、ぼく自身の「生の探究」ともいうべきものの原点でもある。日本社会のなかで感じてきた「生きづらさ」をバネにしながら、1994年から開始する<旅>を起点にして、<ほんとうに歓びに充ちた生>の方向性へ舵をきってきた、というのが、これまでのぼくの生のダイジェスト(一行ダイジェスト)である。

 「生きづらさ」ということは、ぼく自身の「生の探究」ともいうべきものの原点でもある。日本社会のなかで感じてきた「生きづらさ」をバネにしながら、1994年から開始する<旅>を起点にして、<ほんとうに歓びに充ちた生>の方向性へ舵をきってきた、というのが、これまでのぼくの生のダイジェスト(一行ダイジェスト)である。

 その「生きづらさ」を著書タイトルにのせた『生きづらさについて考える』(毎日新聞出版)の著者、思想家であり武道家である内田樹は、週刊金曜日によるインタビューのなかで、つぎのように応えている。

  2016年暮れに、米問題外交評議会発行の『フォーリン・アフェアーズ』が、「日本の大学」特集をしたときに、いまの大学に対してどう思うかを、日本の教員や学生にインタビューしていました。すると、「身動きできない」(trapped)「息苦しい」(suffocating)「釘付けにされている」(stuck)というような、「身体的」な印象を共通してみんなが語っていた。
 僕は制度の問題より、そういう「身体的」な印象を語った言語のほうが、今の日本社会の実相をよく現していると思うのです。
 「生きづらい」とみんなが思っているのは文字通り、「身体的」につらいということなのです。
 若い人たちが特に感じているのは「未来が閉じられている」という実感ではないでしょうか。自分が動ける可動域がどんどん制限されていく、職業であっても、居住地であっても、生き方の自由度が下がってきている。…

内田樹「週刊金曜日インタビュー」、ウェブサイト『内田樹の研究室』

 ぼくには「とてもよくわかる」ことばである。ぼくが1990年代に感覚していた「生きづらさ」は、やはり「身体的」に感じられたものだった。そのことは、あとになって振り返るなかで「ことば化」されたのだけれど、アジアやニュージーランドへの旅はぼくの身体をひらいてゆく契機となった。

 「閉塞感を感じる」。昨年会って話をしていた日本の友人がいまの日本社会について静かに語ったのを思い出す。「閉塞」ということも、『フォーリン・アフェアーズ』のインタビューでみんなが共通して語っていた「身体的」な印象、身動きができない、息苦しい、釘付けにされている、と同じ感覚を表現している。それは、やはり、身体的な印象である。

 ところで、あたりまえのことだけれど、個人と社会はそれぞれが別個にあるわけではない。個人の網の目、個人が関係する仕方が社会である。個人のあり方が社会のあり方をつくり、社会のあり方が個人をつくる。その意味において、社会の実相は個人の生きかたや内面に反映され、逆もしかりである。

 「社会を変える」には、「じぶんの変容」がなによりも出発点であり、方法論でもある。社会は「…あるべきだ」、ひとは「…あるべきだ」という仕方で、じぶんの外部を変えてゆこうとするのではなく、まずは、「じぶん」の生きかたや内面に光をあててゆく。そこに「閉塞の窓」をうがち、変容をうながしてゆく。そのような生のプロセスを、世界いっぱいにひろげてゆく。じぶんの「生きづらさ」、変容にさらしてゆく。

 なお、「じぶん」という存在はそれ自体、<ひとつの共生社会>である。ぼくたちの「意識」は絶えず「わたしはわたし」と言い張ろうとするけれど、この身体も、それからパーソナリティ(意識/無意識)も、きわめて多様性に満ちた<共生社会>である。その共生社会の閉塞性、身体的な閉塞感を解き放つ。そこにぼくは、「閉じられた未来」ではなく、「ひらかれた未来」の可能性を見ています。

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身体性, 成長・成熟 Jun Nakajima 身体性, 成長・成熟 Jun Nakajima

子どもたちはさまざまな仕方で「語りかける」。- <人類誕生のドラマ>を重ねる三木成夫。

子どもたちと接することはそれだけで歓びでもあるけれど、学びと気づきの場でもある。兄弟姉妹や友人の子どもたちと接しながら、ぼくは学ばされ、気づかされる。子どもたちはぼくの「先生」でもある。

 子どもたちと接することはそれだけで歓びでもあるけれど、学びと気づきの場でもある。兄弟姉妹や友人の子どもたちと接しながら、ぼくは学ばされ、気づかされる。子どもたちはぼくの「先生」でもある。子どもたちが直接に何かを教えてくれるのではない。何らかの「情報」を教わるのではなく、ぼくがじぶんやひとや自然や世界と接する、その仕方を根抵から問われる。生きかたが問われるのだ。そのようにして「教え」はやってくる。

 幼児たちにとっての「世界との出逢い」、どこまでもひろがる好奇心にみちびかれてゆく。いや、好奇心ということばが適切なのかどうなのかもわからない。好奇心ということばにおさまらないほどの身体の揺さぶりが子どもたちをとらえているように、ぼくには見える。

 指差しにはじまり、「あれ、なーに?」、それから「どーして?」と続いてゆく。どこまでもひろがる「世界との出逢い」の経験は、「大人」になったぼくにも、かつて訪れていた時空間である。ひとにとって、じぶんの周りにひろがる「世界」は、じぶんの感受性をいっぱいにひらいてみれば、そのようにして「あらわれる」ことのある時空間だ。

 名著『内臓とこころ』では、解剖学者の三木成夫は自身の子ども観察をおりこみながら、子どもの成長のなかに<人類誕生のドラマ>を重ね合わせる視界をひらいてみせてくれている。

 赤ん坊の成長の日々を観察すること…それは、いってみれば自然観察の最後の課題に入るのかもしれません。そのような観察が乳児期から幼児期に及び、やがてあの「三歳児」の世界に参入する時、それは、なにかひとつのクライマックスを迎えるように思われるのです。
 そこには人類誕生のドラマの秘めやかな再現が見られる……!…そこでは数百万年そして数千万年の歳月が、わずか数ヶ月・数年の日々に、ものすごく凝縮される。…

三木成夫『内臓とこころ』(河出文庫)

 ひとそれぞれの誕生に人類誕生のドラマが重ね合わせられる。この本をひらくまで、ぼくが思いもしなかった見方である。子どもたちの指差し、「アレナーニ?」から「ドーシテ?」にいたるまで、三木は人類誕生のドラマをそこに見る。

 三木成夫の視点は鮮烈に、ぼくたちの「視界」を変えてしまうちからをもつ。そして、子どもたちは、さまざまな仕方でぼくに語りかける。

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