「人間の成熟」ということ。- 谷川俊太郎と河合隼雄の「対話」が生みだす<ことば>。
詩人の谷川俊太郎は、1970年代後半、心理学者・心理療法家である河合隼雄との「対話」のなかで、<人間の成熟>ということの考え方をつぎのように語り、河合隼雄に聞いている。
詩人の谷川俊太郎は、1970年代後半、心理学者・心理療法家である河合隼雄との「対話」のなかで、<人間の成熟>ということの考え方をつぎのように語り、河合隼雄に聞いている。
…たとえば人間が成熟していくということは、無限に本来の自己に接近していくと考えたほうがいいということですね。
しかし、昔ながらの一種の精神修養や修身的な発想でいくと、人間というのは人格をつくり上げていくものだというふうにとらえることがありますね。ぼくはそういうふうに人格がつくり上げることのできるものかどうかというとやや疑問で、むしろ自分をラッキョウの皮をむくみたいにむいていって見えてくるもののほうが、成熟という言葉には近いんじゃないかと思うんですけれども、そういうふうに考えてもいいんでしょうか。
河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫、1993年。もとの作品は1979年に刊行
河合隼雄と谷川俊太郎との、この「対話」が収められた本『魂にメスはいらない ユング心理学講義』。
20年ほど前に、河合隼雄と谷川俊太郎という、ぼくの好きなお二方の対話ということで、文庫版を手に入れて読んだのだけれど、ぼくの側に、対話で交わされている言葉とそれらの余白の<ことば>を受け入れる素地ができていなかったからか、おそらく途中で読むのをやめてしまっていた本であった。
この「20年ほど」のなかで、西アフリカのシエラレオネ・東ティモール・香港で生きてきた経験と、また(たとえば)「自我・自己」ということをかんがえてきたこととが、ぼくの心と思考の素地に雨を降らし、陽光をあて、そこに芽を生成させてきたからか、ふたたびこの本の対話にふれると、ことばがぼくの深いところで共鳴するように感じる。
冒頭のように谷川俊太郎が語る「節」のタイトルは、<人は自分をハダカにしながら成熟していく>とつけられていて、そのことは今のぼくであるから、見えてくるようなところがある。
「人間が成熟していくということは、無限に本来の自己に接近していくと考えたほうがいいということですね」と再確認する谷川俊太郎の語りの前に、河合隼雄は、「私」というもの/ことについて、ユング心理学を土台にして説明を加えている。
…「私」というのを普通の意味の私と本来的な私とに分けているんです。ユングはそれを「エゴ」と「セルフ」と呼んでいるんです。ぼくはほかに適当な訳語が見つからないんで「自我」と「自己」と訳しているんですが、自我というのは“説明可能な私”で、それは本来的な私とちょっとずれている。特にソーシャルな場面に入っていくほど、お世辞も言わんといかんことがあったりしますが、その底のほうに本来的な自己というのがあるとぼくらは思っているんです。
河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫、1993年
この「本来的な自己」を、河合隼雄は、「字では書けないもの」という絶妙な定義を加え、せっかくそういう本来的な自己(=字では書けないもの)を持って生まれてきたのだから、できる限り生かそうじゃないかと、自分の考え方を提示している。
谷川俊太郎の「質問」は、この「字では書けないもの」により接近してゆくように、「自分自身を変革するということも可能なような自己なんですか」という表現になって、河合隼雄に投げかけられてゆく。
河合隼雄も、その質問に導かれながら、つぎのように絶妙な仕方で応答する。
自我というのは変革できるが、自己というのは変革もくそもないわけで、何も名前のつかないようなもの、いわば無限の可能性みたいなものです。
河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫、1993年
こうして、「対話」は、冒頭の谷川俊太郎の言葉、「人間が成熟していくということは、無限に本来の自己に接近していくと考えたほうがいいということですね」に、つながってゆくことになる。
そこから繰り出される谷川俊太郎の質問、「むしろ自分をラッキョウの皮をむくみたいにむいていって見えてくるもののほうが、成熟という言葉には近いんじゃないかと思うんですけれども、そういうふうに考えてもいいんでしょうか」に対して、河合隼雄はつぎのように応えることになる。
ぼくもそういうふうに思います。ただその場合、むくのも自分ですので、それができるだけの力も蓄えねばいけない。
河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫、1993年
「自我・自己」ということが、追求され、展開され、深められてゆくこの「対話」が、ぼくは好きである。
そう、河合隼雄が言うように、ラッキョウの皮をむくために、それが<できるだけの力を蓄える>ことが必要である。
真木悠介は、「詩人」とは<自分と世界との境目がはっきりしない人間>だと定義している(『自我の起原』岩波書店)(*ブログ:「詩人」とは?「詩という現象」とは?。- 真木悠介による定義の明晰さ。)。
谷川俊太郎という詩人も、その「詩人」の定義に適合するように、ぼくには見える。
この本の最後には、そんな谷川俊太郎の詩のいくつかを、河合隼雄が「解釈」を加えるという試みがなされている。
<自我と自己との境目を行き来する人間>ともいうことのできる河合隼雄ならではの試みである。
「詩人」とは?「詩という現象」とは?。- 真木悠介による定義の明晰さと根柢的な思考。
「詩人」とは、どのような存在なのだろうか?
「詩人」とは、どのような存在なのだろうか?
「詩人」は、どのように定義されるだろうか?
その言葉を、表層においてすくいとれば、単純に、「詩をつくる人」などと、いったんは書いてみることができる。
でも、これでは、「詩人」のことを、なにも語っていないようにも聞こえる。
真木悠介(社会学者である見田宗介)は、つぎのように、定義をしている。
…詩人とは、ある現代の詩人のいうように、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>として定義される…。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
詩人とは、詩をつくり、詩を発表し、詩を朗読し、詩を売る人であるけれども、詩人とは根元的にどのような人間であるかということに対して、真木悠介の書く、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>という定義は、とても明晰であるように、ぼくはかんがえる。
この真木悠介による定義は、『自我の起原』という本の「補論1<自我の比較社会学ノート>」の最後の方で、「補論2 性現象と宗教現象ー自我の地平線」の導入部分として、書かれている。
この本のタイトルにあるように、本論は、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>とは逆に、ある意味で「自分と世界との境目をはっきりさせる」自我や意識などを問うものに対して、この「補論2」が対極に置かれている。
補論2は、自我の起原を問う本論の主題の対極に、自我の地平線、あるいはその消失点 vanishing pointを問うモノグラフである。…
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
「自我の地平線」あるいは「自我の消失点」とは、言ってみれば、「自我」が(一時的に)消失し、<自分と世界との境目がはっきりしなくなる>ような経験である。
真木悠介は、この視点において、「詩という現象」をつぎのように位置づけている。
…つまり詩という現象は、性現象/宗教現象がそうであることとおなじに、<自我>という現象の vanishing point、あるいは地平線に立つ現象と考えられるからである。そして、M.K. は、少なくともこの定義における<詩人>の、極限的に直截な存在のかたちと考えられる…。
真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年
「M.K.』とは、想像がつくように、「宮沢賢治」のことであり、「補論2」は、宮沢賢治がモノグラフの素材としてとりあげられている。
「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」(宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫)という、宮沢賢治のよく知られる文章は、「わたくし」(自分)と「林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたもの」(世界)との<境目>が、はっきりしなくなる「地平線」において、「おはなし」として、書かれたものである。
そして思うのは、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>としての詩人という定義のなかで、あるいは自我の地平線である「詩という現象」の視点において、人は、だれしもが<詩人>でありうるのだ、ということでもある。
読書に疲れたとき、ぼくは読書する。- たとえば、村上春樹『村上さんのところ』であったり。
読書に疲れたとき、ぼくは読書をする。
読書に疲れたとき、ぼくは読書をする。
と書いてみて、こんなフレーズも悪くないと思いながら、これでは何を言っているのかわからないじゃないか、と思う。
たとえば、資本主義にかんする本を読んでいて疲れたら、ここ香港でも人気の村上春樹の『村上さんのところ』(新潮社)をひらく。
『村上さんのところ』は、何年かに一度期間限定で行われる、村上春樹と読者との「公開されたメールのやりとり」の「2015年」開催の記録である。
質問メールは、17日間のうちに「3万7456通」が寄せられ、それらすべてを読んだ村上春樹が「3716通」を選び、返事のメールを書く。
『村上さんのところ【コンプリート版】』(電子書籍)には、その「3716通のすべて」(400字詰め原稿用紙で約6000枚)が収録されている。
「まるで降っても降っても降り止まぬ大雪の中、一人でシャベルを持って雪かきしているみたいな感じで、最後のほうはかなりふらふら」であったというほどの「大作」であり、それだけを聞くと、読む側も疲れそうである。
けれども、一通一通のメールはさらっと読めるし、村上春樹による返事のメールは、どんな質問にも軽快に、ユーモアをふくめながら書かれていて、「質問への応答の仕方」を学ぶことだって、その気になれば、楽しみながらできる。
なによりも、あの、村上春樹の「リズム」は健在で、その場で即興で曲のちょっとしたフレーズを作って、リズムをつけて演奏するような「返信」だ。
そんなわけで、たとえば資本主義の本に疲れたら、ぼくはこの「リズム」にひたりながら、『村上さんのところ』を読む。
気がつけば、『村上さんのところ』の「3716通のすべて」は、はるか先である。
ときおり本をひらいて読むのだけれど、いっこうに、すすんでいかない。
読了を意識してしまうと、「まるで降っても降っても降り止まぬ大雪の中、一人でシャベルを持って雪かきしているみたいな感じ」になってしまうから、読み方は、読了を目指さないことである。
それにしても、いろいろな質問が投げかけられる。
こんなことを(こんなことまで)村上さんに聞くことの意味を、ついかんがえてしまったりするほどだ。
この期間限定のサイトを見ながら、ある人は、村上春樹のことが大好きな人がたくさんいることを感じ、「春樹さんはこのように言われて、『本当の俺のことも知らないくせに、よく言うぜ、けっ。』て思うことがありますか?」と質問を投げかけられる。
村上春樹は、この問いに、つぎのように応えている。
本当の自分とは何か?って、よくわからないですよね。人間というのは場合場合によって、ごく自然に自分の役割を果たしているわけで、じゃあタマネギの皮むきみたいにどんどん役割を剥いでいって、そのあとに何が残るかというと、自分でもよくわかりません。だから「本当の俺のことも知らないくせに、よく言うぜ、けっ。」みたいなことは、まったく思いません。せつせつと自分の役割を果たしているだけです。たぶん本当の僕というのは、いろんな役割の集合としてあるのだろうという気はします。…
村上春樹『村上さんのところ【コンプリート版】』新潮社
「本当の自分とは何か?」について、これだけ簡潔に、これだけ軽快に、でも本質の一面をつく仕方で書くのは、けっこう(というか、かなり)むずかしいものだ。
こんな「メールのやりとり」に、つい、立ち止まってしまって、『村上さんのところ【コンプリート版】』の世界でふりつづく大雪のなかで、ぼくの雪かきはまだまだつづく。
こんなふうにして、読書に疲れたとき、ぼくは読書をする。
追伸:
実のところ、香港の建築現場に組まれた竹の足場が、なぜか、ぼくに『村上さんのところ【コンプリート版】』
を連想させたのであったことを、ここにメモ。
だから、竹の足場の「芸術」の写真を、ともに、ここにアップロードしておきたいと思うところです。
香港で、改装された飲食店に立ち入って、感じたこと、かんがえたこと。- 「環境」と「人」と。
香港では、店舗やレストランなどの「内装」や「外装」が頻繁に変わる/変えられる。
香港では、店舗やレストランなどの「内装」や「外装」が頻繁に変わる/変えられる。
(いろいろと背景や事情はあるのだけれど/あるのだろうけれど)それにしても、よく変わる。
「転がる香港に苔は生えない」(星野博美)と言われるように、香港はまさしく転がりつづけ、動きつづける。
あるチェーンの飲食店の改装工事が終わって、足を運んでみる。
「以前」とは、まったく様相が変わり、デザインだけでなく、雰囲気も変わっている。
でもぼくが驚いたのは、いつもの週末であれば、ひどく混んでいる店内に、結構空席が見られたこと。
そういうわけで、店内はしずかでもある。
来ている人たちも、以前とは少し異なった人たちのようにも感じられる。
ふと、「環境」は、その環境にマッチするような人たちや振る舞いを引き寄せる、ということをかんがえる。
店内を見渡しながら、そのことが「当てはまる」のかどうかはわからず、「たまたま」だけかもしれないとも思う。
- ある視点で、「仮説」を立てる
- ある期間、定点観測をする
- 1の仮説を2から、かんがえてみる
ぼくが、ここ香港で、10年以上にわたって、いくどもいくども繰り返してきたプロセスである。
今回も、とりあえず、「仮説」を据え置いて、これから「定点観測」をしてゆくことになる。
それにしても、「環境」ということをかんがえると、人は環境につくられ、また環境は人につくられることをかんがえる。
「歴史」ということでも同様で、人びとは歴史をこうむるだけでなく、歴史は人びとによってつくられる。
「環境」や「歴史」のカッコ内はいろいろと変えることができ、たとえば、「組織」など、いろいろなバリエーションがある(動詞部分、「つくる」も変えることで、いろいろばバリエーションがある)。
いずれにしても、なにかに<働きかけられる>ものとしての人と、なにかに<働きかける>ものとしての人がいる。
そのような相互作用のなかに、「環境」が生まれ、また「歴史」が生まれる。
こんなことを書いても、言っても、「意味がない」と思われるかもしれない。
けれども、ぼくたちは、ときどきの状況によって、<働きかけられる>ことか、あるいは<働きかける>ことのいずれか(だけ)に焦点をあてて、<働きかけられ/働きかける>ものとしてのじぶんを、どこかに忘れてしまう。
だから、ときに、ぼくはこんなことを思い起こして、「じぶんのいる場所」をたしかめてみたりする。
携帯カメラでの撮影から、どこまでも、すりぬけてゆく「月」。- 中秋節の足音も聴こえる香港で。
満月の日の翌日も、ここ香港では「月」がその月あかりを、いっぱいに、地上に向けて放っている。
満月の日の翌日も、ここ香港では「月」がその月あかりを、いっぱいに、地上に向けて放っている。
ぼくのとても深いところに届く光だ。
火星も月の横で、その存在感を示している。
道では、幾人もの人たちが歩みを止めて、「月」を写真におさめようと、携帯電話をとりだし、月の方向に携帯電話をかざす。
ぼくも、歩みをゆっくりしながら、月あかりに身体をさらし、また、歩みを止め、写真を撮っている人たちを見やる。
月の写真を、携帯電話のカメラでおさめようとすると、カメラのレンズで捉えた「月」と、ぼくたちの目のレンズで捉えた<月>の異なりに、もどかしさのような感覚をおぼえる。
携帯電話のカメラが捉える「月」は、とても小さく、色合いもまったく変わってしまい、神秘さの雰囲気が霧散してしまう。
それでも、なんとかおさめようとして、いつまでもうまく定まらない焦点をあわせ、ボタンを押し、写真を撮る。
カメラでおさめようとすればするほどに、どこまでも、すりぬけていってしまう月なのだ。
もちろん、適切なカメラとレンズで月の被写体をおさめれば別のことであるけれど、ぼくを含め、通りすがりの人たちは、そういうわけにもいかず、携帯電話を天に向けてかざすのであった。
そんな、携帯電話のカメラでは、どこまでも、すりぬけていってしまう月であっても、月あかりに魅せられて、写真のためであろうがなかろうが、人びとが歩みを止める風景に、どこか、ぼくは気持ちがやすらぐのである。
カメラでうまくとれなくったって、それはどうでもよいことで(それぞれに写真の使い道という目的はあるのだろうけれど)、何はともあれ、月を楽しむということだけで、最初の目的(たとえば「写真におさめて、…する」など)さえも書き換えてしまうような、シンプルな経験をぼくたちはもつことができる。
<月を楽しむ>ということにおいては、香港では「中秋節」がある。
その「中秋節」は、今年は2018年9月24日にあたる。
香港では、すでに2ヶ月以上も前から、はすでに「月餅」が店頭に現れ、中秋節の足音が聴こえ始めている。
少し早すぎじゃないかと(毎年のように)思いつつ、やはり、気になって、店頭をのぞいてしまう。
今年はどんな月餅が見られるだろうか。
「月」に呼応する音色。- 「Sleeping At Last」(Ryan O'Neal)の繊細な音楽。
例えば「月」に呼応しながら、繊細に音色をつむぐ、音楽家「Sleeping At Last」。
例えば「月」に呼応しながら、繊細に音色をつむぐ、音楽家「Sleeping At Last」。
「Sleeping At Last」を音楽と言ってよいのか。「Sleeping At Last」とは実質には、公式サイトが書くように、「シカゴを拠点とする、シンガーソングライターであり、プロデューサーであり、編曲者であるライアン・オニール(Ryan O’Neal)の呼称」である。
2000年初頭頃から、「Sleeping At Last」は、さまざまな「プロジェクト」や「シリーズ」のうちに、美しい音楽を奏でている。
テレビドラマや映画でもながれることがあるのだけれど、その音色と歌声を聴けば、その内的な繊細さや、宇宙や自然との交響などを、そこに感じとることができる。
最近は、「月」をモチーフとした音楽も提供し、今回の「July 27, 2018」の皆既月食そのものをタイトルとした楽曲「July 27, 2018: Total Eclipse」をつくっている。
そして、これまでの「月」の企画と同じように、この楽曲のバージョンのひとつは、皆既月食の時間に相当する「103分版」となっている。
楽曲の美しさはもとより、興味深いのは、「月」一般の楽曲ではなく、それぞれの「日」(例えば「July 27, 2018」)の皆既月食などにインスピレーションを得ながら、作曲されていることである。
ぼくがそもそも「Sleeping At Last」を知ったのは、2011年頃のことであった。
TEDの企画動画のなかで流れる音楽にどうしようもなく惹きつけられ、それが「Sleeping At Last」の曲であることを、その動画で知ったのであった。
その曲は「Households」という曲で、「Sleeping At Last」の「Yearbook - Collection」という企画アルバムに収められている。
それからというもの、ぼくの生活のなかには、「Sleeping At Last」の音楽がありつづけてきた。
ここ香港の夜空にゆっくりと上がってゆく満月を見ながら、ぼくは、楽曲「July 27, 2018: Total Eclipse」を聴く。
その満月の横には、ちょうど数日前に湖底に「水」がある証拠を得たという「火星」が輝いている(なお、「Sleeping At Last」のEP「Atlas: Space 1」には「Mars」という曲が収録されている)。
宮沢賢治が「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」(宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫)と書くとき、それがひとつの真実であったように、ライアン・オニールであれば、「これらのわたくしのおと(音)は、みんな宇宙や月あかりからもらってきたのです」とでも語っているかのような、そしてそこにひとつの真実があるような、「Sleeping At Last」の音楽たちである。
<生ききる>ということについて。- 生きる、生ききる、ただ生きる、生きつくす。
<生ききる>ということを、かんがえる。
<生ききる>ということを、かんがえる。
つぎのような、ぼくの「ライフ・ミッション」に書いた言葉である。
「子供も大人も、どんな人たちも、目を輝かせて、生をカラフルに、そして感動的に生ききることのできる世界(関係性)をクリエイティブにつくっていくこと。」
この「ライフ・ミッション」の最初のドラフトをつくっているときには、「生ききる」ではなく、「生きる」としていた。
「生きる」から「生ききる」になった背景と経緯について、以前のブログでつぎのように書いた。
ーーーーー
「生きる」から「生ききる」へ。
自分の「ライフ・ミッション」を書き直しているとき、その中のことばの一つとして、「生きる」、とはじめに書いた。
それから、「生きる」に「き」の一文字を加えて「生ききる」とした。この加えた「き」は、英語で言えば、「fully」の意味を宿す。
Liveだけでなく、Live fully。生ききること。
人によっては「重く」聞こえるかもしれないけれど、今のぼくには、しっくりくる。
<ただ生きること>の奇跡を土台としてもちながら、この生を<生ききること>。
「一文字」に、気持ち・感覚(と、さらには生き方)を込める仕方を、ぼくは、宮沢賢治に学んだ。
宮沢賢治が、1931年11月3日に、手帳に書き込んだ、有名なことば。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダをモチ…
宮沢賢治
宮沢賢治が書き付けた「直筆」を見ると、ことばの間隙から、宮沢賢治の「声」が聞こえてくる。
直筆から見ると、最初の「原型」はこのような、ことばであった。
雨ニマケズ
風ニマケズ
雪ニモ夏ニモ…
宮沢賢治は、「雨ニ」と「風ニ」のそれぞれの後ろの横に、若干小さい文字で「モ」を加えている。
このこと(と直筆を見る面白さ)を、名著『宮沢賢治』(岩波書店)の著者、見田宗介から学んだ。
見田宗介は宮沢賢治生誕100年を迎えた1996年に、宮沢賢治研究者である天沢退二郎などとの座談会で、このことに触れている(「可能態としての宮澤賢治」雑誌『文学』岩波書店)。
宮沢賢治が、この「一文字」に込めたものに、ぼくは心が動かされた。
その記憶をたよりに、自分の「ライフ・ミッション」を手書きで書きつけながら、ぼくは「生きる」に「き」を加える。
「生ききる」
ことばを、ぼくの身体に重ねてみて感覚を確かめる。
そうして、ぼくの身体とそのリズムがことばに「Yes」と言う。
たったの「一文字」が、世界の見方や生き方を変えることがあることに、気づかされた。
ーーーーー
このように生成してきた言葉とライフ・ミッションであるが、<生ききる>は、上述のように、人によって、あるいは文脈によって、「重く」感じられることもある。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ…」の語感がどこか重さを背負ってしまっているように感じるのと同様である。
それは、人類の歴史において、<近代>という時代を駆動してきた精神、例えば、「時間を無駄にしてはならない、時間は金なり」というようなイメージがすりこまれているように、聞こえるからである。
どんな些細な時間も、将来の「何かのため」に、すみからすみまで活用されねければならない、というようにかんがえる人もいる。
でも、ぼくの「生ききる」は、別に、ゆっくりするのもいいし、またとことん行動してもよい。
<生ききる>ことにおいて、ぼくにとって、肝要なことは、
- <現在を生きる>ということ、
- <じぶんの生>を実現してゆくということ、
である。
これらを基礎としながら、<生ききる>と<ただ生きる>は対立していない。
「生ききる」は行動に充ちた生、<ただ生きる>は行動に欠ける生といったように、逆に聞こえるけれども、それは、前述のような、近代の精神における「思考の癖」のようなものだ。
そんなことが、シャワーに浴びる直前に、ぼくの脳裡に、ふと現れ、少しかんがえさせられた。
また、「生ききる」の代わりとして、<生きつくす>という言葉もよいなと、真木悠介(=見田宗介)の名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)の「最後の一文」を思い出す。
「生のあり方」を考察する最後の節で、真木悠介はつぎのように書いて、この本(の本文)を書き終えている。
人類の歴史はたとえみじかいとはいえ、一億や二億の年月はおそらく生きつづけるであろうし、その最初の百分の一ほどの歴史のなかに解答を見出せなかったからといって、われわれの想像力をその貧寒なカタログのうちにとじこめてしまってはならないだろう。
われわれとしてはただ綽々と、過程のいっさいの苦悩を豊饒に享受しながら、つかのまの陽光のようにきらめくわれわれの「時」を生きつくすのみである。
真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1977年
そう、ぼくたちは、「つかのまの陽光のようにきらめく」生を、<生きつくす>のみである。
ひきだされてゆく才能たち。- TV番組『America's Got Talent』の見方(楽しみ方)。
TV番組『America's Got Talent(アメリカズ・ゴット・タレント)』(略称:AGT)は、公開オーディションの形で才能を競い合うTV番組。
TV番組『America's Got Talent(アメリカズ・ゴット・タレント)』(略称:AGT)は、公開オーディションの形で才能を競い合うTV番組。
歌手(歌を歌う人)、ダンサー、マジシャン、曲芸者、コメディアンなどなど、年齢も出身もさまざまな人たちがオーディションで競い合う。
現在はすでに「Season 13」を迎え、今回も、さまざまな人たちが、才能や創造性を披露している。
YouTubeでも公式アカウントがあり、オーディションやその背景を切り取ったものがアップロードされ、だれでも見ることができる。
ふつうただ見るだけでも面白く、またときに、見せてくれる芸に感動させられる。
さらに、ぼくの「見方」(楽しみ方)のひとつは、オーディションを通過し勝ち上がってゆくプロセスでの「成長度合い」である。
たとえば、1回目のオーディションよりも、2回目のオーディションの方がはるかに、よくなっていたりする。
緊張が和らいだという側面もあるかもしれないけれど、それ以上に、パフォーマンスを披露する人のなかで「何か」がはじけたような、あるいは解き放たれたような、そのようなパフォーマンスを見ることができることがある。
この番組のクリエイターであり、審査員でもサイモン・コーウェル(Simon Cowell)は、審査員として芸を披露した参加者にコメントするときに、ときおり、このことを参加者に直接に伝えることがある。
また、「成長度合い」が、1回のオーディションの中で、引き上がるようなこともある。
サイモン・コーウェル(Simon Cowell)は、歌を披露している人たちのオーディションを「途中で止める」ことがある(「Season 13」でも何回か見られる)。
歌の選曲が、その人の才能を充分に引き出していないと感じ、躊躇なく、途中で止める。
サイモン・コーウェルの提案にしたがって、曲を変え、再度仕切り直しで歌う参加者から、より生命感を感じさせる歌声が放たれる。
1回のオーディションのなかで、才能がひきだされ、ぼくたちは、その場面を目の当たりにすることができる。
ぼくは、そのような場面を、楽しく、心を動かされながら、観ている。
それにしても、番組は、当たり前だけれど、世の中の動きとも呼応していて、「多様性」が、ますます反映されてきている。
世界中からの参加も増えているように見受けられるし(人種の多様性)、また参加者が生きてきた背景(例えば、障害をもつ人、いじめられた経験をもつ人)なども多様だ。
合唱団の構成自体が、年齢や人種や性などの多様性に充ちていたりする。
「芸」だけでなく、その人やグループの背景、あるいは個人史やグループ史の「物語」というもののぜんたいが、観る人たちの「評価」に影響している。
多様性に充ちた参加者たちの生が、このオーディションで交差し、それぞれに花をひらかせようとする(ほんとうは<花>はすでにひらかれている)。
そして、ぼくたちは、日々、いろいろな場所で、いろいろな才能に充ちた人たちと交差している。
「はたらき方」の語られ方で、見逃されているもの。- 糸井重里が光をあてる「よく見たらおもしろい例」。
このブログでもときおり取り上げている、コピーライターの糸井重里が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」(通称:「ほぼ日」)の「今日のダーリン」。
このブログでもときおり取り上げている、コピーライターの糸井重里が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」(通称:「ほぼ日」)の「今日のダーリン」。
「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの」であり、ぼくも「ほぼ毎日」ブログを書いていることから、ぼくは(勝手に)一緒にマラソンを走っているような気持ちになることがある。
その「今日のダーリン」の、2018年7月25日号では、「はたらき方」の語られ方について、書かれている。
より厳密には、「語られ方」として、<見逃してしまっている語り>のことである。
見逃されているのは、「よく見たらおもしろい例なんか」である。
こうして、糸井重里は、「事業として農業をやっている人」へと、視野を広げてゆくことで、「はたらき方」の語られ方について、面白い視点を投じている。
挙げられているのは、「ほぼ日刊イトイ新聞」のショップでも売られているトマト(ジュース)をつくっている、北海道余市の中野さん一家の「よく見たらおもしろい例」。
「並大抵でない工夫と手間をかけている」トマトづくりについて、糸井重里ら一行が取材に行ったときに、トマトづくりに加え、糸井重里はつぎのような問答を展開したという。
…ふと、余計なこととは思いながら、「トマトって、冬の間は雪で仕事になりませんよね?」と、当然といえば当然すぎるようなことを訊きました。「はい。なんにもやることはないですが、わたしたちは、冬がたのしみなんですよ」と思わぬ答え。「あ、そうですか。別の仕事が待ってるとか?」「いやぁ、ほら、冬はスキーですよ。あちこち行きます。あとは、温泉めぐりです。たのしいんです、冬は」つまり、遊んでいるということです。
…だれに文句を言われる筋合いもないですよね。会社員には、そういうことは無理だとか言われても、みんながみんな会社員じゃないんだし、みんながみんが一年中、毎日のように平均的に仕事をしているという義務もいらないんですよね。…はたらくということは、食える分ほしい分だけ稼いだら、あとは休もうが遊ぼうが自由に決められるはすですよね。中野さんとの会話、ずっと忘れてないんですよ、ぼくは。
糸井重里「今日のダーリン」2018年7月25日『ほぼ日刊イトイ新聞』
確かに、忘れられないような会話だし、「よく見たらおもしろい例」である。
「はたらき方」の議論は、往々にしてその議論の視野と前提を狭めてなされていることを、このような例を鏡とすることで、逆に見せてくれるようなところがある。
もちろん、見田宗介の言うように、貨幣経済と都市の原理の、社会への全面化を<近代>とする見方においては、「都市」における企業の会社員の「はたらき方」が「問題」として浮上し、中心的なこととして語られることは、けっして根拠のないことではない。
忘れられない、中野さんとの会話が示してくれるのは、「はたらく」ということにおいても、あるいは「生きる」ということにおいても、もっと自由に決めることのできる可能性の空間があることの予感である。
このような可能性の空間は、「事業として農業をやっている人」だけでなく、それは、たとえば、日本の外に視野をひろげてゆくことで見えることもある。
バックパッカーでアジアを旅していたとき、ニュージーランドに住んでいたとき、西アフリカのシエラレオネや東ティモールで支援活動をしていたときにぼくが出会った人たちは、生きてきた個人史のぜんたいが「ふつう」ではなく、はたらくことの経歴や仕方も「おもしろい例」であった。
そのような人たちに、そのような「おもしろい例」にいつも触れることは、「はたらく」ことにおいても、「生きる」ことにおいても、もっと可能性の空間はひらかれているのだとかんがえる経験的な根拠をぼくに与えてくれた。
75億とおりの「はたらき方」や「生き方」があってもよいのだということ。
画一化される時代は面白くないし、それはすでに崩れはじめている。
「物語のあり方をもう一回考え直す」(村上春樹・河合隼雄)。- 物語、素朴さ、ただ生きること。
「オウム真理教」の刑執行のニュースは、ここ香港を含む海外メディアでも、取り上げられた。
「オウム真理教」の刑執行のニュースは、ここ香港を含む海外メディアでも、取り上げられた。
ニュースを読みながら、ぼくは「あの日」を思い出していた。
「あの日」、ぼくは、大学の授業があって、午前の少し遅めの時間に家を出た。
東京の(当時の)東横線沿線に住んでいて、東横線で渋谷に出て、渋谷から大学のある巣鴨に向かうのが、ぼくの通学路であった。
遅めに家を出て、いつもと変わらず東横線に乗って、渋谷に出たのだけれど、東横線の渋谷構内がいつもとは異なる雰囲気につつまれている。
東横線は日比谷線につながってゆく線もあり、東横線構内の掲示板のオレンジ色の文字が、日比谷線のダイヤの乱れを伝えていたのだ。
その雰囲気が、ときおり起こるダイヤの乱れとは異なっていて、緊迫感が伝わってくる。
ぼくは掲示板を見ながら、緊迫した雰囲気の中、山手線に乗り換えて、巣鴨に向かった。
やがて「事件」を知り、それが、東横線からつながる「日比谷線」で起きたことに、人ごとではない、なんとも言い難い気持ちを、ぼくは抱いていた。
「あの日」から20年以上が経過し、時代と状況の変遷を感じながら、しかし、人と社会における「問題の本質」はあまり語られず、いまだに大きな問題として残っているように感じる。
心理学者の河合隼雄と小説家の村上春樹の「対談」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫)は、「あの日」と同じ年、1995年の末に行われ、「問題の本質」に、直接に、またその他の一見すると関係のないような角度から触れたものであった。
何度読んでも、学ぶことがあり、また考えさせられる。
村上春樹は、「オウム」のつくりだした「物語」のなかに、「稚拙なものの力」を見て取りながら、「稚拙」だから無意味だと切り捨てることはできないと、この問題に正面から対峙している。
村上 …ある意味では「物語」というもの(小説的物語にせよ、個人的物語にせよ、社会的物語にせよ)が僕らのまわりで、ーつまりこの高度資本主義社会の中でーあまりにも専門化し、複雑化しすてしまったのかもしれない。人々は根本ではもっと稚拙な物語を求めていたのかもしれない。僕らはそのような物語のあり方をもう一回考え直してみなくてはならないのではないかとも思います。…
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫
対談の内容に付された、このフットノートに対して、河合隼雄は、「稚拙な物語」というよりは「素朴な物語」と言う方がよいだろうとしながらも、基本路線において大賛成している。
河合 …「素朴」というのも、素朴であるほどいい、と言うわけでもありません。素朴な話を評価する規準は何なのかが問題なのだと思います。…私は「オウムの物語」の問題点は、素朴な物語に、現代のテクノロジーという、まったく異質なものを組み込んで物語を作ろうとしたことだと思っています。
「物語のあり方をもう一回考え直す」ために、私としてはこれまで「昔話」や「児童文学」を取り上げてきました。大人どもから見れば、まさに「稚拙」に見える物語が、どれほど深い意味を持っているかを示そうとしたつもりです。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫
あの頃を思い出して、ぼくは、ぼくの内面を問う。
「あの日」、あの頃、ぼくの内面では、いろいろと闘っていたのだと、あとで振り返ってみて、思う。
河合隼雄は、村上春樹と「コミットメント」について触れながら、「…コミットしなくちゃならない、ということに気がついた青年たちを、オウムが引き込んだのですね、『ここにコミットしなさい』『答えはありますよ』と」、語っている。
ぼくは、「コミットしなくちゃならない」という気持ちをひとまず<海外>に向け、翌年にはニュージーランドで過ごし、そこから国際関係を学ぶことを契機として「途上国の開発・発展研究」へと、コミットメントの対象を定めていった。
そこに「答え」があるとは思わなかったけれど、そこから多くの「問い」、そして学びと行動が生まれた。
それは、ぼくにとっての「物語」であった。
そうしてまた、「物語のあり方をもう一回考え直す」というところに戻ってくる。
「『物語』というもの(小説的物語にせよ、個人的物語にせよ、社会的物語にせよ)」の、「素朴」な原層とは、を考える。
そこでぼくの中で立ち上がるのは、「ただ生きることの歓び」という幸せの原層である。
それは、だれしもがもつ<幸福感受性>(見田宗介『現代社会はどこに向かうか』岩波新書)に支えられる、幸せの原層である。
<ただ生きることの物語>とは、どのようなものだろうか。
レストランで、「何を食べますか?」と聞かれるときの応答。- 文化と文化の<はざま>で。
海外に住んでいて、例えばレストランに招待され、「何を食べますか?」と聞かれる。
海外に住んでいて、例えばレストランに招待され、「何を食べますか?」と聞かれる。
あるいは、家にお邪魔していて、「何をしたいですか?」と聞かれる。
もし、あなたが、このような状況であれば、どのように応答されるだろうか。
この質問文は、厳密には、「あなたは…?」というように、「あなた」が主語として話される。
「あなた」の意向が問われている。
当たり前と言えば当たり前だけれども、日本で生まれ育ってきた人たちにとって、慣れない内は、応答するのに難しかったりする。
応答すること自体が難しいというよりは、適切に応答することが難しい。
日本であれば、応答は、例えば、レストランの設定では、「何でもいいですよ」とか、「何でも結構です」とか、「お任せします」とか、「同じもので」とかであったりする。
それは、日本であれば(あるいは海外でも日本的な場であれば)、ふつうの応答である。
けれども、海外(場所と状況によっても違うのだけれど)においては、上述の通り、「あなた」の意向が問われている。
だからといって、「私は…食べたい」「私は…したい」という応答は、なかなか出てこなくて、より意識的に言葉を表出することになってしまう。
心理学者の河合隼雄は、自らの体験をベースに、これらのことを語っている。
…たとえば、私の子どもがスイスの幼稚園へ行っておりましたので体験したことですけれども、幼稚園に子どもが入ってくるでしょう。そしたら、先生が待っていて、入ってくる子に、「きょう、何したい?」と聞くんですね。その子が「ぼく、ブランコする」と言ったら、「はい、ブランコのほうに行きなさい」。その子が「絵をかきたい」と言ったら、「はい、絵のほうに行きなさい」と、こういうふうに言うわけです。
ところが、その先生が言われるのは、私の子どもというのは「何をしたい?」と聞いてもなかなか答えないんですね(笑)。「何したい?」と言っても、顔を見てニコッとしているだけです。…
河合隼雄『カウンセリングを語る(下)』講談社+α文庫、1999年
これに続けて河合隼雄が語るように、日本では、「何したい」と言わないほうがよくて、「お任せします」というのは非常にうまくできた言葉として機能する。
だから、レストランにおいても、海外の人に「何にしますか?」と聞かれて、「自分はこれにします」と、すぐに言えるように、日本人は訓練されていない。
…われわれというのは、大人になっても、いつも「お任せします。どうぞ、どうぞ」とみんなが言うて(笑)、何や知らん間にきまっているという……。非常にうまいと思うのですが、「何をしたい」と言うてないんだけれども、全体の中で、結局、自分のしたいことができるようにわれわれは訓練されている。
河合隼雄『カウンセリングを語る(下)』講談社+α文庫、1999年
一個の個人と一個の個人との関係というより、河合隼雄が挙げるように例えば「おまえとおれの仲じゃないか」に見られる二人が一緒になってしまうような人間関係ができあがっているのが、日本的であったりする(河合隼雄は、「母性的人間関係」ということで論理を展開する)。
だから、「私は…食べたい」「私は…したい」という応答は、実際の状況において、なかなか出てこなかったりするのである。
海外に住みながら、慣れを味方につけたぼくは「私は…食べたい」「私は…したい」という応答をするのだけれど、ときに日本的な応答をしてしまったりすることもある。
レストランで海外の知り合いが、ぼくに「何食べたい?」と聞いてきたときに「何でもいいよ」とぼくが答えたりすると、場の流れが滞ってしまったりする。
文化と文化の<はざま>では、いろいろなことがあって、それらは鏡のように、「ぼく」を映し出している。
ニュージーランドで、「日曜日」に、ぼくは生活様式を問われる。- 「当たり前」の風景から離れてみて。
もう20年以上も前のことになるけれど、ニュージーランドに住みはじめたとき、はじめのころなかなか慣れずにいたのが、「日曜日」であった。
もう20年以上も前のことになるけれど、ニュージーランドに住みはじめたとき、はじめのころなかなか慣れずにいたのが、「日曜日」であった。
慣れずにいたのは、日曜日には、街の大半のお店が閉店しまうことであった。
ニュージーランドに来る前までは東京に住んでいて、日曜日だって、祝日だって、夜だって、開店していることにすっかり慣れていたから、大半のお店が閉店してしまう「日曜日」を、はじめのころは、心身のリズムが合わないままに過ごしていた。
一方で「プラクティカルでないこと/便利でないこと」が好きになれず、他方で「(皆で一緒に)きっちりと休みをとること」の慣習もよいものだと思う。
この二つが同居していて、けれども、これまでのじぶんの「生活様式」における習慣からか、また異なる文化に対してぼくが充分にひらかれておらず、柔軟性に欠けていたからか、「プラクティカルでないこと」の気持ちがより優って、はじめのころは、どうしても日曜日が好きになれずにいたのであった。
ニュージーランドに着いたばかりのころ、オークランドの中心街にある宿に泊まっていたときは、日曜日はメインストリートであるQueen Streetは閑散とし、歩いているのは観光客(日本人観光客をよく見た)であったりした。
Queen Streetにある中規模のスーパーマーケットは(確か)限定された時間で営業していたから、ぼくは、食料の買い出しにスーパーマーケットに足を運んだのであった。
この図式に変更が加えられることになったのは、宿住まいから、共有ハウスの一部屋を借りて過ごしはじめてからであったと思う。
ぼくを含めて7名で住む共有ハウスに移り、旅的な生活から、より生活感のある生活をするようになって、日曜日に「きっちりと休みをとること」の慣習もよいものだということが、ぼくの生活のなかに入り込んできたのだ。
ある日曜日には、オークランドの街を一望できるMt. Eden(マウント・イーデン)に足を運んだりした。
このような生活の変化とともに、もちろん、ニュージーランドに暮らす「時間」も、ぼくの味方であった。
幾度もの日曜日を過ごしながら、幾度もの「週」を生きながら、ぼくの心身は、次第に、時間のリズムと生活様式を取り入れていくことになる。
こうして、ぼくは、静かな「日曜日」の生活に慣れていき、じぶんの生活の仕方に、ある種のひろがりを獲得していったのであった。
そんななか、ニュージーランド滞在の後半、徒歩縦断旅行やトレッキングやキャンピングなどをしているときは、日曜日に限らず祝祭日も大半が閉店であるから、旅程や買い出しなどにおいてより注意が必要となった。
そのような時期もあったけれども、それでも、生活の仕方における「ひろがり」の獲得は、ぼくにとって大きな体験であったと思う。
便利さを生きることもできるし、ひとつの社会の中での特定の生活様式も生きることができる。
なによりも「日曜日は休み」という生活様式を実際に生きてみることで、異なる時間と生活のリズムを心身で感覚し、そこで「見えてくる」ことをかんがえる。
どちらが良いだとか悪いだとか、結論するということではなく、異なる社会の「あり方」から、これまで「当たり前」だと生きてきた「あり方」を客観視する。
こうして、「当たり前」のように生きてきた日本の生活様式から実際に離れてみることは、ぼくにとって、とても大切な経験であった。
日曜日には近くの建設工事が「休み」になる、ここ香港で、そんなことを思う。
<億の幸福>という「明るい世界」の核心(見田宗介)。- <多様性>ということのメモ。
社会学者である見田宗介の新著『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)の最後には、補章として、「世界を変える二つの方法」という文章が置かれている。
社会学者である見田宗介の新著『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)の最後には、補章として、「世界を変える二つの方法」という文章が置かれている。
短い文章であるけれども、ここへの「到達」までには、見田宗介(=真木悠介)のこれまでの研究と実践が、幾重にも折り重なっている。
この魅力的な補章のなかで、見田宗介は、20世紀の歴史の「悲惨な成行」を振り返りながら、「世界を創造する時のわれわれの実践的な公準」として、つぎの3つを取り出している。
● 「positive」肯定的であること。
● 「diverse」多様であること。
● 「consummatory」現在を楽しむこと。
英語の頭文字が「小文字」であることには意味が付されていて、それ自体ひとつのテーマでもあるのだけれど、さしあたって、社会の全域を目指す公準ということではなく、いたるところの「小さな、自由なコミューン」の公準としてかんがえられていることだけを、ここでは指摘しておく。
見田宗介は、これらが取り出された背景としてある「20世紀の歴史の悲惨な成行」、それからこれら3つのことに、簡潔に説明を加えている。
ぼくが惹かれたのは、「diverse 多様であること」に関する、見田宗介のつぎの「言葉の書き換え」である。
宮沢賢治の詩稿の断片に、このような一説がある。
ああたれか来てわたくしに言へ/「億の巨匠が並んで生まれ、/しかも互いに相犯さない、/明るい世界はかならず来る」と
われわれはここで巨匠の項のコンセプトに、幸福をおきかえてみることができる。
億の幸福が並んで生まれ、/しかも互いに相犯さない、/明るい世界はかならず来る。と
明るい世界の核心は、億の幸福の相犯さない共存ということにある。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
「多様性」という、さまざまな場や局面で触れられる抽象的な言葉に、より具体的なイメージを重ね合わせてゆくように、<億の幸福の相犯さない共存>ということが書かれている。
ここでの「幸福」は、広い意味のなかで捉えられるものであり、そこに包括される言葉(あるいはそれを包括する言葉)として、ぼくは「生き方」におきかえてみたい。
億の生き方が並んで生まれ、/しかも互いに相犯さない、/明るい世界はかならず来る。と
ところで、「虹」のイメージは、「多様性」の象徴として使われることがある。
そのイメージは、6色として使われたり、7色として使われたりしているから、「億」の色には到底程遠いという見方もある。
けれども、6色として見るのも、7色としても見るのも、あるいはその前後の数で色を見るのも、「特定の見方」に規定された色たちである。
実際の虹の連続体は、そこに「グラデーション」が連なっているから、見方を変えれば、数えきれない「虹の色」をもっていると見ることもできる。
たとえば「黄色」をとってみても、「いろいろの黄色」がある。
人は、その「人生においてそれぞれに違った色を生きてゆくことができる」という多様性に、「明るい世界」の核心がある。
「億の幸福」「億の生き方」が並んで生まれ、互いに相犯さない、明るい世界の方へと、人と社会は舵をとることができるところに、現在ある。
ニュージーランドで、「ぼく」という人間の地層がつくられる。- 「じぶん」のなかの他者たちの豊饒さ。
「ぼく」というもの、「じぶん」というものは、<他者>である。
「ぼく」というもの、「じぶん」というものは、<他者>である。
「自己とは他者である」と、かつて、フランスの詩人アルチュール・ランボーは書いたように、ぼくたちの「じぶん」というものの実質は、両親や兄弟姉妹、先生や友人、その他出会う人たちの<声>の集積のようなものである。
そのようにして「ぼく」というものをつくってくれている<人たち>は、ときとして、ただ一度きりの出会いで、ぼくたちの人生の舞台に登場した人であることもある。
そのような「人」に、ぼくは、ニュージーランドに住んでいたときの日記を読み返しているときに、ぼくの記憶のなかで、ふたたび出会う。
ワーキングホリデー制度によるビザを取得したぼくは、1996年、ニュージーランドの北島に位置するオークランドに降り立った。
とくに具体的で明確な計画は立てず、(旅ではなく)海外生活を体験すること、そして英語を習得することは、はじめから念頭に入れていたことであった。
そんな調子で生活がはじまり、はじめのころは、オークランドの中心街Queen Streetに沿ったところに宿をとっていた。
宿は、バックパッカー向けの宿で、ぼくはドミトリーに泊まっていた。
ドミトリーに泊まることは、それまでの2度にわたる海外への旅(中国、香港、ベトナム)で、ぼくは経験していたから、とくに抵抗感はなかった。
抵抗感がないというよりも、むしろ、一人旅をするものにとっては、「楽しい」場でもあった。
世界中の旅している人たちに出会うことができること自体の楽しさであり、また情報交換の場としても刺激的で有益であった。
この宿で、「あの方」に出会ったのは、ニュージーランドに到着してから1ヶ月も経過していない頃のことであった。
はじめオークランドに到着してから、その後の生活の見通しがうまくたたず、仕事も、また(よりパーマネントな)滞在先も、まだ決まっていなかった。
そこでまずは「動いてみよう」と、いったんオークランドを離れて、ファーム・ステイなどの体験をしてから、考えた挙句、ふたたびオークランドに戻ってくることにした。
オークランドに戻り、ふたたびバックパッカー向けの宿に落ちついた日、そこで、ぼくは、一人の年配の方に出会う。
どのように、この方とぼくが話しのきっかけをつくったのかは、覚えていない。
おそらく、彼が、ぼくに話しかけてくれたのだと思う、それも日本語で。
話し始めてわかったのは、その方は台湾の人で、お年は66歳ということであること。
今は、英語を学ぶために、オークランドに来ているとのことであった。
その日、ぼくは彼とすっかり話し込むことになった。
おそらく、「まだ若いんだから」と、ぼくはいろいろな角度から励まされ、またじぶん自身でも「まだまだ」と鼓舞したのだと思う。
そんなこともあるなかで、オークランドに戻ってきたぼくは、1週間後に、住むところ(共有ハウス)を見つけ、それから10日ほどして、日本食レストランでの仕事が決まった。
それまで、まったく「先が見えない」ところに、一気に、生活の土台が固められたのだ。
そして、そんな地点に立ってみると、これまでのいろいろなことが「理由があって起きた」ように感じられるのであった。
それにしても、20年以上経って振り返ってみると、ぼくの「あの方」との出会いは、「ぼく」という人間の地層にふりつもってゆく、豊饒な経験のひとつであったと、ぼくは思う。
たった一度の出会い、その出会いからぼくは1週間で宿を出たから、それほど長くは時間を共にしていない出会い。
けれども、66歳という年で、わざわざ台湾からオークランドにまでやってきて、学びつづけているという「生き方」に、ぼくは、ただ、心を動かされるのであった。
そのような人たちに、ぼくはその場での励ましをもらうだけでなく、さらに、その出会いが「じぶん」という人間の地層にふりつもり、ぼくを「支えて」くれている。
香港で、「Hong Kongに行きたい」と書きつけたときのことを振り返る。- ニュージーランドに住みながら書きつけたこと。
ニュージーランドに住んでいたときの「日記」をパラパラと読み返す。
ニュージーランドに住んでいたときの「日記」をパラパラと読み返す。
1996年4月、ぼくはニュージーランドの商業都市オークランドに降り立っていた。
身体の深いところからくる衝動に導かれながら、大学2年を終えたところで大学に休学届けを提出し、東京のニュージーランド大使館でワーキングホリデーのビザを取得して、ぼくは大韓航空で韓国を経由して、ニュージーランドのオークランドに降り立った。
とくに具体的な計画をつくっていたわけではなく、とにかく、ひとまずニュージーランドに降り立つことを、ぼくは大事にした。
20歳を迎える、少し前のことであった。
オークランドに到着し、はじめのころは、中心街のQueen Streetにある「Aotea Square」に隣接していたバックパッカー向けの宿に宿泊していた。
街の中心にあり、ビジターセンターもあったから、なにをするにも便利な場所であったし、ぼくはその宿が気に入っていた。
ただし、オークランドに来てから「次の一歩」がうちだせず、気持ちが焦りだしたころ、宿の共有キッチンの掲示板に、たまたま「farm helper in NZ」の文字を見つけたのを契機に、ぼくはファーム・ステイをしてみようと思い立ったのであった。
オークランドを離れ、まずは温泉で有名なロトルアというところに行き、そこからファームへ移動した。
その数日間のファーム・ステイをしながら、やはりオークランドに戻って、仕事と滞在先を見つけようと、ぼくの意志は方向づけられていく。
そうして戻ったオークランドは、いつもとは違う街に見え、ぼくはそこで、仕事探しと家探しをはじめたのであった。
そのような、「はじまり」の不安と期待のなかに置かれながら、ぼくはなぜか、つぎのように、唐突に、日記に書きつけている。
「Hong Kongに行きたい。何がそんなに引きつけるのか」と。
香港へは、そこから9ヶ月ほど前に、訪れていた。
大学の夏休みを利用して、香港から広州、広州からベトナムへ行き、そこからまた広州・香港へと戻ってくるルートで、一人旅をしていた。
香港に滞在したのは、数日であった。
それほどいろいろと散策したわけではなかったのだけれど、なぜか、9ヶ月後のニュージーランドで、ぼくは「Hong Kongに行きたい」と、思ったのであった。
そんなことを書いたのは、今の今まで記憶しておらず、ほぼ20年後の今、書きつけられた文字を、ぼくは見つける。
大学でぼくは「中国語・中国文化」を専門としていたのだけれど、ニュージーランド滞在時から、ぼくは「国際関係論」という分野にひかれ、またその関心がやがて「途上国研究」の方向へと水路を見出してゆくことになる。
さまざまな変遷を経験しながら、ぼくは2002年、NGO職員として西アフリカのシエラレオネに赴任し、「中国・香港」からはますます距離が離れていくことになった。
そのシエラレオネの滞在中に、今でも覚えているのは、同僚が持参してくれたAERA誌に見つけた「香港SARS」の記事であった。
シエラレオネの、当時水も電気も通っていないコノという街で、ぼくはこの記事を読みながら、その出来事の深刻さを感じるとともに、出来事がはるか彼方のところで起こっているように感じたものだ。
そのシエラレオネを去り、次は東ティモール。
アジアに来たとはいえ、さらに「中国・香港」からは距離が離れていった感があった。
その感覚は、とくに良いものでも悪いものでもなく、ただそのように感じただけであり、ニュージーランドで「Hong Kongに行きたい」と思ったことなど、ひとかけらの記憶も、ぼくの意識には上がってこなかった。
ただし、人生の道ゆきは、ときに、思ってもみないところに、つながり、またひらかれてゆく。
人との出会いに導かれながら、東ティモールの後に向かったのが、「香港」であった。
その「香港」に来たのが2007年のことであり、それから10年以上が過ぎたことになる。
そんな地点において、ニュージーランドの日記に書きつけた「Hong Kongに行きたい。何がそんなに引きつけるのか」の言葉を見つけ、とても不思議に、そしてとても面白く思う。
「願いは叶う」ということだけに還元できない何かがあるようにも思う。
むしろ、「何がそんなに引きつけるのか」というところに「何か」があるのかもしれない。
「何がそんなに引きつけるのか」わからない場所や人や事柄に、ぼくたちは、生きていくなかで、引きつけられていく。
なんとなく言葉にすることもできるのだけれど、それだけでは何かが欠けているように感じる。
そんなふうにして言葉にして「何が」を突き詰めてゆくよりも、そこに、入ってみる、飛び込んでみる。
あるいは、「何が」は、<未完了な事柄>として、いずれ、じぶんのところにやってくるのだとも、言える。
そんなところから、<じぶんの生>が展開し、ひらかれてゆく。
ぼくの経験の地層は、ぼくにそのように語っている。
そして、ぼくはじぶんに問うてみる。
「何がそんなに引きつけるのか」と感じさせる「何」とは、今のぼくにとって何だろうか、と。
香港で、「よく使われる英語表現」にみる<香港>。- 言葉に表出する、社会と生活の諸相。
香港で、よく使われる英語表現がある。
香港で、よく使われる英語表現がある。
しばしば、ビジネスやサービスにおける「書き言葉」として使われる英語表現で、フォーマルな場における通知(アナウンスメント)に使われたりする。
香港に住んでいらっしゃる方、香港に住んでいらっしゃった方は、ぜひ、少しばかり、かんがえてみてほしい/思い出してみてほしい。
どの英語表現だろうか、と。
なお、よく使われる英語表現の「統計数値」があるわけでもなく(少なくとも、ぼくは知らない)、ぼくが10年以上にわたって、ここ香港に住み、仕事をしてきたなかで、よく接してきた英語表現である(今回のこのブログのポイントは、その「正確性」ではありませんので、そこはあらかじめご了承ください)。
香港で、よく使われる英語表現(しばしば「書き言葉」としての英語表現)として、つぎのものが挙げられる。
「Sorry for any inconvenience caused.」
日本語に訳すとすると、「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。」である。
なにか、不便や面倒や迷惑をかけるような事態(小さなことから大きなことにいたる事態)を引き起こしたとき、文面の最後に(あるいは通知などの最後に)、この言葉がおかれる。
eメールのやりとりでも、この言葉が使われることがある。
じぶんの「海外生活」をふりかえってみて、香港以外で、ぼくはこの言葉を使ったり、目にした覚えがない。
ニュージーランドでも、西アフリカのシエラレオネでも、東ティモールでも、英語のやりとりにおいて、ぼくはこの表現を使ったことはない(少なくとも使った覚えがない)。
ぼくの体験・経験上のこととして、この英語表現は、「香港」で、よく使われる表現なのである。
この英語表現におけるキーワードのひとつは、「香港」という社会と生活を軸にかんがえると、「convenience」ということであるかと思う。
この英語表現に表出されているのは、「convenience」(便利さ)ということにかけられている、社会や生活のエネルギーである。
香港という社会とそこでの生活は、とにかく、「便利さ」において突出している。
社会システムのさまざまな側面が、この「便利さ」に向けて、構築されてきたようなところがある。
街の構造も、交通機関の作られ方も、政府関連の手続きも、便利なのだ。
そして、この「便利さ」と重なり合いながら、「スピード(迅速さ)」があることで、変わり続け、止まることのない、香港のダイナミズムをつくりだしている。
だから、この「便利さ」を阻害するようなものやことがあったとき、そこに注がれてきたエネルギーが突如にせき止められて、フラストレーションを起こす。
そのフラストレーションをおさえるかのように、「Sorry for any inconvenience caused.」の表現が投げかけられるのだ。
この表現の多用は、「convenience」(便利さ)に注ぎ込まれる社会や人の力の強さを逆に表出しているように、ぼくには見える。
こうして、「Sorry for any inconvenience caused.」の表現は、今日も、そこかしこで、使われているのである。
中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』。- けっして「古くない」、日本・日本の組織や集団・日本人を「視る」視点の提起。
ある本で、つぎのように論じられている。
ある本で、つぎのように論じられている。
…海外滞在が長いと出世がおくれる、ということは多くのサラリーマンたちの口にするところである。…本国の中央から遠くにいるということは、マイナスを意味するというのが常識になっており、事実、日本の人事というものがその傾向を充分もっていることはいなめないのである。
この現場軽視の思想が、現地駐在員の発言権を弱め、彼らの現地生活は腰かけ的な一時しのぎのスタイルを生むのである。…
これは、中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』(講談社現代新書、1972年)の一節であり、今から45年以上も前の論考であるにもかかわらず、それはある側面において「今」を分析しているかのように思われる。
もちろん、この45年ほどの間に、グローバリゼーションが進展し、経済社会的に、あるいは企業組織的にも、いろいろな(そして、ときに根本的な)変化を遂げてきてはいる。
現地駐在員の方々の中には、現地生活を一時しのぎではなく、そこに「ミッション」を定めながら、仕事に傾注してきた/傾注している人たちがいる。
また、現在の状況においては、海外滞在が多くの「プラス」を意味していることもある。
そのような変化や個人的な傾注にかかわらず、また冒頭の文章も企業・組織によっては現在の状況とのズレがでていることを考慮に入れたうえで、それでも、「日本社会また組織」という地平からみるとき、中根千枝がこの本で書いていることは、さまざまな点において、「今」の状況をかんがえるための視点を与えてくれる。
中根千枝は社会人類学者であり、今でも読み継がれている、中根千枝『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書、1967年)がよく知られている。
この本の「姉妹篇」として、『適応の条件:日本的連続の思考』が書かれている。
ぼくが『タテ社会の人間関係』を読んだのは、大学に在学中の頃であったから、20年ほど前のことになる。
「日本社会」におけるいろいろな疑問を感じていた頃に読んだこの本は、その疑問の背景を、まるで「見方・考え方」にひとつひとつ輪郭をつくることで理解させてくれるような本であった。
少し長くなるけれども、目次の全体を下に書いておきたい。
【目次】
まえがき
第一部 カルチュア・ショックー異文化への対応
1ー異なる文化の拒絶反応
2ー日本文化(システム)への逃避
3ー表現と実行のあいだ
4ー特定ケースと一般化の問題
5ー日本的システムの強制
6ー日本的信頼関係の敗北
7ー契約に信頼をおく欧米との違い
8ー現地社会への逃避
9ー国内用の異国
10ー外国語の修得と文化の関係
11ー個人差による適応度
第二部 日本の国際化をはばむものー社会学的諸要因
1ー厚い“ウチ”の壁
2ー日本人の社会学的認識
3ー連続の思考・ウチからソトへ
4ー二者間関係における連続
5ー義理人情の分析
6ーもてる者ともたざる者の関係
適応の条件ー結びにかえて
「異文化への対応」と「日本の国際化をはばむもの」という、「今でも」本質的なものとして立ち上がる課題にたいして、1970年代初頭という「国際化」のはじまりの時代に、中根千枝は自身の海外経験と「タテ社会」の論理をもって向かい、論を展開している。
一部の記述は当時の状況を反映したものであり、一見すると「古さ」を感じるものである。
しかし、日本企業のより積極的な海外進出などを見ることになった「国際化」の初期の時代だからこそ、現象する問題が先鋭化されて発現することもあること、またそれらを駆動する力学は今でも見られる現象や問題を分析する上で大切な視点を与えてくれることから、「古くない」と言える論考である。
むしろ、それは、海外の日系企業において変わってゆく形態や施策や試みや努力などの底流において、今も生きつづけている力学を論じていると、ぼくは読む。
こうして、冒頭の状況に戻ってくる。
底流に生きつづけている力学としての「タテ社会」は、つぎのように書かれている。
…「タテ」のイメージは、自己中心的な社会認識と異なるようであるが、いずれもヒエラルキーの頂点あるいは自己という基点を設けて、そこからの距離によって他の人々、集団を位置づけるという点で同じである。いずれも異質の存在、機能というものを考慮にいれないところに特色があるといえよう。
タテ組織の頂点、あるいは自己(集団)を基点とする思考方法によるイメージ化は、さらに、中央から地方へというスキームに結びつくものである。これは、本書のテーマからいえば、本部と現場、本社(本省)と海外駐在員ということになる。
中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』講談社現代新書、1972年
この力学において、「日本人全体、そして日本の中枢の人たちは、まだ本当にソトの世界を理解しようとしていない」のであり、このことは「『ソトに出る者』は相対的に低い地位におかれてきたという、社会学的なシステムと密接に関連している」と、中根千枝は書いている。
繰り返しになるが、現在における、海外における日系企業の動きにおいては、さまざまな動きと試みによって、「タテ社会」から生じる問題の克服、あるいはそれ自体の構造変化をねらうものが見られる。
けれども、と前置詞を置いた上で、ぼくは、この現代においても、いろいろな実際の場面で、ぼくは、中根千枝の指摘するような状況を見て取るのである。
この小さな本(新書)には、そのような指摘と分析、そしてときに厳しいコメントが詰まっている。
20年ぶりに中根千枝の本をひらき、その20年のほとんどを海外で仕事をしてきた経験を本の内容に重ねてみながら、ぼくはここ香港で、日本・日本の組織・日本の集団・日本人について、いろいろと深くかんがえさせられる。
テクノロジーによる「環境容量」の拡大の方向性について。- 見田宗介による「環境容量の拡大と人間の幸せ・不幸せ」の考察。
これからの人と社会をかんがえているなかで、社会学者の見田宗介先生と「議論を交わしたい」と思っていたことがあって、将来いつかお会いできるときにお伺いできたらと、準備していた「テーマ」がある。
これからの人と社会をかんがえているなかで、社会学者の見田宗介先生と「議論を交わしたい」と思っていたことがあって、将来いつかお会いできたら、ぜひお伺いしたいと、準備していた「テーマ」がある。
それは、現代社会が直面する「巨大な闇」である環境問題・資源問題をのりこえてゆく方途としての「宇宙開拓」についてである。
想像以上に宇宙ビジネスが進展してきているなかで、それでもすぐにとは言わずとも、「宇宙開拓」による資源採掘などが、グローバル化の果ての地球(無限でありながらの有限な球体)を救う手立てとなるかどうかである。
そのような「テーマ」を準備していたから、新著である見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)に、このテーマに正面から応答する文章があるのを見つけたときは、嬉しさと共に、そこで展開される論理の明晰さに感嘆の声を心の中であげてしまった。
見田宗介は、「テクノロジーによる環境容量の変更。弾力帯。「リスク社会」化。不可能生と不必要性」(第5章第3節)と題しながら、「テクノロジーの環境容量の変更(拡大)」という方向性を、実際に進んでいる分野として、「二つの方向性」に見ている。
- 外延的(extensive)に環境容量を変更(拡大)する方向:地球外天体への移住植民や資源探索・採取など
- 内包的(intensive)に環境容量を微視の方向に変更(拡大)する方向:遺伝子の組み替えや素粒子の操作など
この内の2番目についても、ぼくは「テーマ」を持ってかんがえているけれど、さしあたって、冒頭で問題としたテーマはこの1番目に該当するところである。
グローバリゼーションにおいて、この「地球」という球体の環境・資源を使い尽くす方向に走ってきた人間は、その地点において、論理的に、この外延的(extensive)/内包的(intensive)な方向性に、テクノロジーの舵をきってゆくことは当然であるようにも思われる。
ぼく自身も「外延的(extensive)」な方向への、つまり地球外天体への方向への、研究や試みやビジネスなどの動きに「関心のアンテナ」を張ってきた。
そんな「関心のアンテナ」もあったから、つぎのように書かれているのを読んだとき、ぼくはハッとしたのであった。
環境容量をむりやりにでも拡大しつづけるという強迫観念は、経済成長を無限につづけなければならないというシステムの強迫観念から来るものである。あるいは、人間の物質的な欲望は限りなく増長するものであるという固定観念によるものである。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
「テクノロジーによる環境容量の変更(拡大)」の方向性は(ひとまずは)続いてゆくだろうし、ぼくは「関心のアンテナ」も引き続き立てておくところだけれども、「考え方の前提」を明るみに出すことを通して、ぼくたちの「思考の癖」を一気に指摘する箇所である。
「経済成長を無限につづける」という強迫観念、「物質的な欲望は限りなく増長する」という固定観念は、現代社会を生きてきたものたちの多くの心身に刻まれているであろう。
どこか疑問や無理を感じながら、しかしどこか離れられないような、そんな観念たちである。
そうして、見田宗介は、つぎのように、つづけて書いている。
…もしそのようなものであるならば、たとえ宇宙の果てまでも探索と征服の版図を拡大しつづけたとしても、たとえ生命と物質の最小の単位までをも解体し再編し加工する手を探り続けたとしても、人間は、満足するということがないだろう。奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方を見出さないなら、人間は永久に不幸であるほかはないだろう。それは人間自身の欲望の構造について、明晰に知ることがないからである。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
上述の強迫観念と固定観念にうながされるのであれば、、どこまで拡大をつづけても、どこまでも探りつづけても、人間は「満足するということがない」だろうと、見田宗介は書いている。
なお、外延的な環境容量の拡大そのものについては、「コスト・パフォーマンスやカバーしうる資源アイテムの限定性等々からほとんど現実的ではないと思われる」と見田宗介は書いていて、ぼくは「現実的か否か」の議論には、いったんの「留保」をつけておきたい。
それにもかかわらず、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方を見出さないなら、人間は永久に不幸であるほかはないだろう」という言葉は、外延的な環境容量の拡大が「現実的か否か」の議論をまるでとびこえてしまうように、ぼくの心を、正面から射る。
ほんとうに、ぐさっと、ぼくの心を射る。
宇宙にとんだ視線は、こうして、この「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星」に、また「人間自身の欲望の構造」に、さらには、じぶん自身の「幸福に生きる仕方」に、反転される。
「麺をすする音」のちょっとした文化考。- 世界で暮らしてゆくときには。
世界で暮らしていくうえで、「麺をすする音」には一歩立ち止まって考え、じぶんの「麺の食べ方」を定位しておくところである。
世界で暮らしていくうえでは、「麺をすする音」について一歩立ち止まって考え、じぶんの「麺の食べ方」を定位しておくことである。
日本でも外国からやってくる人たちが増え、「ヌードルハラスメント」(略:ヌーハラ)なる和製英語があることを、ぼくは初めて知った。
Wikipediaでは、「日本人に多く見られる『麺類を食べるときに、麺をすすってズルズル音を立てる』食べ方が、猫舌の人や外国人に不快感を与えるとして慎むべきであるとする主張を示す和製英語」と書かれている。
そもそもは「麺をすする音をカモフラージュする機能を搭載したフォーク」(日清食品)の動画を見ていて、この言葉に触れたのであった。
「麺をすする」のは日本人だけというふうに以前は思っていたのだけれど、ここ香港に住んでいて、「そうでもないな」と実際の生活レベルで体験する。
「日本人だけが…する/日本だけが…だ」と言われる事柄のいくつかは、実際に海外に住んだり旅したりするなかで、必ずしもそうではないはないことを、ぼくは目にしてきた。
その一つが「麺をすする」ということであり、ここ香港で、だれもがというわけではまったくないけれど、外食しながら、ぼくは隣の席に「麺をすする音」を耳にすることがある。
「実証」としては、ぼくの経験上多くは決してないけれど、一度や二度や三度のことではない(ただし、実証研究に耐えるような観察ではなく、あくまでも、ぼく個人の日常観察ですが)。
でも、ここからが、文化考のひとつとして面白いところなのだけれど、ポイントは「環境の前提条件」である。
日本の環境は、まずはじめに、「静かな環境」で(静かに)食べるということへ条件が設定されたうえで、「麺をすする音」が聞こえる。
ところが、たとえば香港では、この最初の条件設定がなしに、ワイワイガヤガヤで食べるという環境があるから、「麺をすする音」は聞こえても、気にならない。
「麺をすする音をカモフラージュする機能を搭載したフォーク」がカモフラージュ音を流すことでノイズキャンセルする一方で、「ワイワイガヤガヤ」の環境は、会話音を自然のごとくに流すことでノイズ自体を無効化するのだ。
そんなちょっとしたことを、ぼくは香港にいながら、文化のはざまで、かんがえる。
ぼくのことで言えば、ぼくが「麺をすする音」を明確に意識しはじめたのは、ニュージーランドに暮らしているときであった。
大学2年を終えて休学し、ワーキングホリデー制度を利用して住んだニュージーランド。
シェアハウスでニュージーランド人たちと共に共同生活をしたり、バックパッカー宿やキャンプ場で過ごしたり、またニュージーランドを旅しながら夕食をご馳走になったりしながら、ぼくは、「麺をすすらない」麺類(スパゲティ)の食べ方を習得し、身につけていった。
おそらく、そこが出発点で、それからも海外の人たちと時間や食事を共にすることがそれなりにあって、ぼくは、日本でも日本の外でも、「麺をすすらない食べ方」をじぶんの食べ方として選んできた。
世界で生きてゆくためには、「麺をすする」食べ方を大切にする場合も、「麺をすすらない」食べ方も身につけておきたい。
時と場所によって「麺をすする/麺をすすらない」という選択ができるように。
「麺をすする音をカモフラージュする機能を搭載したフォーク」(フォークにしては大きいフォークだ)をいつも持ち歩くわけにはいかないし、カモフラージュ音が気になってしまうような時と場所もあるだろう。
なお、ぼくは「麺をすする」食べ方を世界のどこででも通すほどそこにこだわっていないし、また「麺をすする/麺をすすらない」ことをその時々で選択するのも面倒だしと、「麺をすすらない」食べ方を、すっかりと身につけただけだ。
「麺をすする」文化の退行だとある人は言うかもしれないけれど、ぼく一人がやめても、その影響のかけらもなにもないと、ぼくは思う。
香港で、「虹」の風景に出逢って。- 最近、<虹>をご覧になりましたか?
最近、「虹」を見ましたか?この問いを、たとえば1ヶ月前に問われたとしたら、こう応えていただろう。
最近、「虹」を見ましたか?
この問いを、たとえば1ヶ月前に問われたとしたら、こう応えていただろう。
「最近は見てないですね。それに、“最近”だけでなく、最後に虹を見たのがいつか、思い出せないですねぇ」と。
そう、最後に見たのが、いつ、どこであったのか、ぼくには記憶がない。
東ティモールであったか、西アフリカのシエラレオネであったか、あるいはそもそも東ティモールとシエラレオネで、ぼくは虹を見たのか。
見たような気もするが、いずれの場所にいたのも10年以上前のことで、はっきりと覚えていない。
それから、今ぼくが住んでいるここ香港で、虹を見たかどうか、この記憶も定かではない。
なにはともあれ、先日、ここ香港で、ぼくは「虹」の風景に遭遇した。
最後に虹を見たのが、いつ、どこであったか覚えていなかったからか、ぼくは、すっかりと、その風景に心を揺さぶられたのだ。
じぶんの内面の奥深くを揺さぶる<虹>であった。
それにしても、最近、都会で虹を見ることは減ってきているのではないかと、そんな仮説をたててみる。
もし虹があまり「現れなくなっている」とすれば、それは、「人間」の側の問題だろうか、あるいは「(自然)環境」の側の問題だろうか、さらには「人間と(自然)環境の<あいだ>」の問題だろうかと、ぼくはかんがえてしまう。
「人間」が、現代社会において、さらに自然から切り離された生活をおくるようになったのだろうか。
「自然環境」が、環境破壊や公害などの影響をより受けているのだろうか。
あるいは、上記とも関連して、人間と自然環境との「むすびつき」が弱くなっているのだろうか。
もちろん、ただ、ぼくが見ていなかっただけ、ということもありうる。
ともあれ、ぼくは、ここ香港で、虹を見た。
虹の「色」は、時空間によって、つまり時代と文化によって、その見られる仕方が異なってきたものであり、何色に見られるかは「実際の色」ではなく、人間の「見方」に規定されてきたものである。
Wikipedia(ウィキペディア)は、「虹」の項目において、その発生の科学的説明を含めて、それ相当の解説をのせている。
虹という現象が人を惹きつけてやまないからであろう。
解説の多くの部分が割かれている、虹にかんする「科学的説明」はとても興味深いものである。
でも、それと共に、ぼくは、神話や伝説や物語などに描かれてきた<虹>にも惹かれる。
人びとの心をとらえる<虹>は、人びとに彩り豊かな想像を抱かせる。
大切なことは、虹の発生の仕組み(科学)を知ることと共に、それだけに思考を還元してゆくのではなく、<虹>に感動する感受性とそこから想像力を解き放つことでもあるように思う。
宮沢賢治が、「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」(宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫)と書くとき、それは賢治にとって、ほんとうのことであったと思う。
香港で「虹」の風景に出逢った余韻のなかで、ぼくは、つぎのように書く。
最近、<虹>をご覧になりましたか?