書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima

「正しさ」と「成長」の捉え直し。- 宮崎駿の『千と千尋の神隠し』を加藤典洋が読みときながら。

「シン・ゴジラ」から晩年の大江健三郎にいたるまで、「敗者の想像力」という視点で読み解くという、批評家の加藤典洋の試み(『敗者の想像力』集英社新書、2017年)に圧倒される。

「シン・ゴジラ」から晩年の大江健三郎にいたるまで、「敗者の想像力」という視点で読み解くという、批評家の加藤典洋の試み(『敗者の想像力』集英社新書、2017年)に圧倒される。

主題については本の全体にゆずるところではあるけれど、宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』を題材にとっても、その視点を通過させて、宮崎駿のアニメが魅力的であることの本質をひろおうとしている。

 

論考をすすめるうえで加藤典洋が対置しているのは「ディズニー」のアニメである。

ディズニーのアニメは、物語として、あきらかな悪や不正に対峙する「正義・正しさ」の物語が展開されるものであり、またそれは、「子どもが大人になるという成長」の物語である。

加藤典洋は、このような成長の物語を「大人から見られた成長」(前掲書)であるとしている。

そこでは「成長」が急かされ、子どもから見れば「抑圧」ともなってしまうような成長観にうらうちされた近代的な成長の物語の型があるという。

 

宮崎駿の映画『千と千尋』はどうだろうか。

宮崎駿が養老孟司との対談で語っている箇所に、加藤はふれている。

 

…この映画のきっかけは、たまたま、10歳くらいの子ども達がいるのを目にしたことである。このとき、自分は、彼らに対し、いま、何が語れるだろうか、と考えた。最後に正義が勝つ、なんて物語を語ろうなどという気にはさらさらなれなかった。そうではなく、「とにかくどんなことが起こっても、これだけはぼくは本当だと思う、ということ」、それを語ってみたい…。

加藤典洋『敗者の想像力』集英社新書、2017年

 

『千と千尋』ではよく取り上げられるように、トンネルをくぐって異世界にいくときも、また両親をすくいだしてからトンネルを抜けてもどってくるときも、千尋は心細そうに母親の手にすがりついている。

「成長」は目に見える形では見られない。

これがわかりやすいプロットであれば、戻ってくるトンネルでは、自信をもった千尋がいたのかもしれない。

そこには、正義が最後に勝つような物語はない。

 

加藤典洋は「限られた条件のなかでも人は成長できる」という視点を導入しながら、世界の不正を是正するというところまではいかなくても、何をしても無駄ということはないし、何もしなくてもよいということではないとしながら、その限られた条件のなかでも、人は成長して、「正しい」ことをつくり出していくことができると、論を展開していく。

そのうえで、「正しさ」とはなんだろうか、と自問して、応えている。

 

…それは、人が生きる場面のなかから、その都度、「これしかない」というようにして掴み取られ、手本なしに生きることを通じて、つくり出されるものなのではないか。強い立場の人びとの「正義」の物語をお手本にするよりも、新たに自分たちの「正しさ」を模索することのうちに、「正しさ」の基礎はあるのではないか。また、そのことのうちに、本当の成長も兆すのではないか。…

加藤典洋『敗者の想像力』集英社新書、2017年

 

このような物語は、勝者の物語であるディズニー式の「成長」物語とは異質であることとして加藤は対置しながら、その可能性の芽をたしかめている。

何か「正義」の図式があって、その物語にそって「正義」の剣をふるのではなく、人が生きていくなかで、新たな「正しさ」を模索していくこと。

そして、そのような生の内に、本当の成長の芽がひらいていくこと。

加藤自身が言うように、このような模索は、生きる場面においてその都度なされる。

それは幾度も幾度もやってくる場面であり、トンネルをくぐりぬけて、また戻ってきたときに、別人のように成長したというものではないはずだ。

しかし、成長していない、ということでもない。

子どもたちの(そして大人たちの)内面の世界では成長が兆していると視ることのできる眼をもつことができているかが、問われている。

 

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現代社会における「声と耳」(見田宗介)という視点。- 「ワークライフバランス」を一歩引いて考えながら。

「ワークライフバランス」論ということを、いろいろと考えている。

「ワークライフバランス」ということを、いろいろと考えている。

日本でもここ香港でも、この「標語」ほどひろく社会にいきわたり、賛否両論を起こし、またのりこえの方途の議論を活性化してきたものは、最近ではあまりないのではないかとも思う。

違和感の表明と新しい方向性の積極的な展開として、例えば、落合陽一が提唱するような「ワーク”アズ”ライフ」ということがあったりする。

基本路線においては賛同するところでもあるのだけれど、一歩踏みとどまって、視界をひろげることで、「ワークライフバランス」を考えている。

 

一歩踏みとどまって考えるとき、ぼくが「分析」をしたいと思ったのは、この標語や賛否や新しい方途は、誰が、誰に向かって、何を意図して語っているいるのだろうか、ということである。

「働くこと」のいろいろな形態と形式と内容を一緒くたにして語るのは性急にすぎる。

そんなことを考えながら、再び読み直したのは、社会学者である見田宗介の初期著作と「現代文化の理論」に関する論考である。

見田宗介の初期著作や論考は、後期の著作群からは思いもよらないほど、「現代日本」の諸相と内実、ひとりひとりの発する声に迫っている。

 

もうひとつは、「現代文化の総体的な理論」の助走として書かれた、「声と耳 現代文化の理論への助走」(初出:『岩波講座 現代社会学』第一巻「現代社会の社会学」岩波書店、1997年)である。

この論考は、「難解」であるとして岩波新書から出された『社会学入門』(岩波書店、2006年)からは外されたが、著作集の第Ⅱ巻において「声と耳ー現代思想の社会学Ⅰ:ミシェル・フーコー『性の歴史』覚書ー」と改題され所収された。

フランスの思想家ミシェル・フーコーの「権力」にかんする理論にふれながら、見田宗介は次のように書いている。

 

 権力は耳である。このことをフーコーは見事に論じた。権力はひとに「真理」を語らせる。このことをとおして権力は、「真理」を発見する「主体」としてわれわれを構成してしまう。…ところで、大衆もまた耳である。大衆はひとに「真理」を語らせる。このことをとおして大衆は、「真理」を発見する「主体」としてわれわれを構成してしまう。…権力もまた大衆も、同じひとつのもののそれぞれの器官に他ならないからです。…
 方向をもった耳のうしろにはどんな耳でも…、方向をもった身体がある。

見田宗介「声と耳ー現代思想の社会学Ⅰ:ミシェル・フーコー『性の歴史』覚書ー」『定本 見田宗介著作集Ⅱ』岩波書店、2011年

 

「どんな思想も、通俗化という運命を逃れることができない」と、見田宗介はこの論考を書き出している。

仏教やキリスト教、プラトニック・ラブやエピキュリアン、マルクス主義やフロイト主義などを、「ある特定の方向に一面化し、単純化し、平板化することを愛好し、必要とさえする力」が、それぞれの時代の社会の構造の力学に根拠があることへと、読者の視点を向けさせている。

「ワークライフバランス」ということも、その言葉が取り出され、使われ、一面だけが語られ、単純化されて語られることは、時代の社会の構造に力学を持っている。

「方向をもった耳のうしろ」には、方向をもった身体がある。

また、そもそも「ライフ=生」ということで見るながら、「ワークライフ」という並置はおかしいにもかかわらず、そのように感覚する「身体たち」をつくってきた社会の構造も、丁寧に取り出されなければならない。

「ワークライフバランス」を一歩引いてみながら、どのような力学のダイナミズムが動き、誰が、誰に向けて、どのように語っているのか、誰が特定の方向に耳を向けて聴いているかなどを、丁寧に取り出していく。

議論が一面的にならないよう、また「未来」という方向性をただ今あることの「否定」という仕方にならないよう、ぼくは「声と耳」の身体のありかを確かめながら、考えている。
 

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生の道ゆきで出会われるものや他者への深い共感に支えられて。- 石牟礼道子、真木悠介、河合隼雄の文章との対話から。

いつの頃からだったか、生きていくなかで、「死」というものを、じぶんの近くにかんじるようになった。

いつの頃からだったか、生きていくなかで、「死」というものを、じぶんの近くにかんじるようになった。

小さい頃から猫や犬たちと暮らす中で、彼女/彼らの死に幾度も立ちあうなかで、ぼくの小さな感性が感じ取っていったものかもしれない。

そのような感覚が心の奥深くにつみかさなっていて、忘れているときも多くあるのだけれど、いろいろな場で表層にわきあがってくる。

現実のなかで、人の死に直面したり、死がまぢかであるような環境におかれて、そのような感覚に光があてられる。

 

死の恐怖みたいなこともあるのだけれど、他方で、その感覚は違った方向につれだすことになったように思う。

世界でいろいろな人たち(また美しい自然や生き物)と出会うなかで、ぼくたちはだれもがつかの間の生を生きていることを、強く感覚することがある。

その感覚は、その場と出会いを、とても愛おしいものとして照らし出す。

日本で、香港で、東ティモールで、シエラレオネで、ニュージーランドで、ぼくはときおり、そのような感覚に包まれる。

 

作家の石牟礼道子の作品『天の魚』(講談社)で書きつけられる文章にふれて、社会学者の真木悠介は、次のように書いている。

 

 ここではわれわれの生が死のまぢかにあること、われわれの生の日がつかのまであることが認識され、実感されている。けれどもそれは…索漠たる虚無の感覚にむすびつくのではなく、反対にその生きられる刻と、出会われるものや他者へのかぎりなく深い共感にうらうちしている。…感覚の麻痺や強迫的な信仰や論理のレトリックによるどのような自己欺瞞もなしにわれわれを死の恐怖と生の虚無から解放するのは、存在に向かってひらかれたこの共時性の感覚である。

真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店

 

石牟礼道子の視線は、われわれ生きるものすべての生がつかの間であることを認識しながら、また「人類」そのものが永遠でないものとして感受されている。

それらはしかし、真木悠介が語るように、虚無の感覚にむすびつくのではなく、「生きられる刻と、出会われるものや他者へのかぎりなく深い共感」に彩られている。

 

心理療法家の河合隼雄が作家の小川洋子と対談をするなかでも、この「深い共感」にかさなる感覚が共有されている。

 

小川 …魂と魂を触れあわせるような人間関係を作ろうというとき、大事なのは、お互い限りある人生なんだ、必ず死ぬもの同士なんだという一点を共有しあっていることだと先生もお書きになっていますね。
河合 やさしさの根本は死ぬ自覚だと書いてます。やっぱりお互い死んでゆくということが分かっていたら、大分違います。まあ大体忘れているんですよ。みんなね。

小川 あなたも死ぬ、私も死ぬ、ということを日々共有していられれば、お互いが尊重しあえる。相手のマイナス面も含めて受け入れられる。
河合 それで、そういう観点から見たら、80分も80年も変わらない。…そのひとときが永遠につながる時間なんです。

河合隼雄・小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫

 

「永遠につながる時間」は、真木悠介の言う「存在に向かってひらかれた…共時性の感覚」である。

石牟礼道子、真木悠介、河合隼雄といった人たちの書くものの基底にはいつも、「われわれの生が死のまぢかにあること、われわれの生の日がつかのまであること」の感覚がしずかに、そして暖かくおかれている。

その感覚はもちろん虚無につながる感覚ではなく、生そのものを祝福する感覚だ。
 

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石牟礼道子の文章と「視線」。- 見田宗介=真木悠介の思想と交響する唄。

小さい山に周りを囲まれた海が空からの光をきらめきで映し、遠くにかすれるように大海がひろがっている。


小さい山に周りを囲まれた海が空からの光をきらめきで映しかえし、その遠くにはかすれるように大海がひろがっている。

このような風景を見るとき、日本の九州の「不知火の海」が風景に重なって、ぼくには見える。

不知火海を、ぼくは実際に自分の眼で見たわけではないけれど、作家の石牟礼道子の作品にあらわれるものとして、ぼくの「眼」をつくっている。

ぼくの眼に「石牟礼道子の眼」が重ねられるのだ。

不知火の海は「水俣病」が発生したところである。

ぼくが「不知火の海」を視界に見るとき、人間社会の矛盾が凝縮されながらも、この世界の美の表出を見ているようだ。

 

2018年2月10日、作家の石牟礼道子は亡くなられた。

ぼくがどこでどのように石牟礼道子のことを知ったかは、よく覚えていない。

水俣病を扱った著書『苦海浄土ーわが水俣病』(講談社文庫)の書名はどこかで知っていたかもしれない。

直接的に石牟礼道子のことを知るようになったのは、社会学者の見田宗介(=真木悠介)の仕事を通じてであった。

 

見田宗介=真木悠介の仕事における問題意識、そして人を解き放つことの方向性をしめすものとして、石牟礼道子の存在と作品は、見田宗介=真木悠介の存在とその仕事と、深いところで交響するものである。

 

見田宗介=真木悠介の著作において、たとえば、次のような著作で、石牟礼道子がとりあげられる。

●『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)
●『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)
●『白いお城と花咲く野原ー現代日本の思想の全景』(1987年、朝日新聞社)
●『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
●『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)
●『社会学入門』(岩波新書、2006年)

また、見田宗介は石牟礼道子の作品の「解説」や書評的なものも書いている。

●見田宗介「孤独の地層学」(『定本 見田宗介著作集Ⅱ』所収)、石牟礼道子『天の魚ー続・苦海浄土』(講談社文庫版)の「解説」
●見田宗介「石牟礼道子『流民の都』」『朝日新聞』朝刊、1973年(『定本 見田宗介著作集Ⅹ』所収)

 

見田宗介をはじめ、水俣の問題にかかわってきた人たちは、水俣病を「水俣の病」とするのではなく、「わたしたちの病」としてとらえている。

ひとつの社会を生きるひとびとの「人と人とのつながり方」の問題である(『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、1995年)。

石牟礼道子が言うように、「わたしたち自身の中枢神経の病」である。

この「病」を、人はどのようにのりこえていくことができるだろうか。

「よりよく生きる」という、ぼくがじぶんに問うてきた問いは、こののりこえを考るための問いでもある。

 

石牟礼道子の文章について、見田宗介は次のように書いている。

 

 石牟礼道子の文章は、失語の海の淵からのことづてのようだ。みえないものたちの影をみる視力のように、語られないものたちを語ることばをよびさます。<区切られないもの>の矛盾と多義性をじぶんの中に幾層にも響かせながら、それでも石牟礼は、あえて言い切ることもする。<おかしくならずにいられるだろうか>、こういう断念の一切を澄ませたうえで、そしてまた、人間の上を流れる時間の一切が砂に埋もれ<地質学の時間のように眺められる日>からの視線をもうひとりの自分の視線としながら、<人間はなお荘厳である>と、石牟礼は言う。海はまだ光っていると。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、1995年

 

石牟礼道子の作品『椿の海の記』のふしぎな世界にひたっていると、この「海の光」が浮かび上がってくるように、見えてくる。

石牟礼道子の視線は、ぼくの視線にかさなって、生きている。
 

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「個性」があらわれるところ。河合隼雄の声に耳をすまして。- 生きることの「矛盾」を生きながら。

心理学者・心理療法家の河合隼雄は、この世を去る直前に、作家の小川洋子と「対談」をしている。


心理学者・心理療法家の河合隼雄は、この世を去る直前に、作家の小川洋子と「対談」をしている。

その「対談」は2回行われ、そこで「次回またやりましょう」というように将来の対談にひらかれながら、その次回が来ることはなかった。

この2回の対談は、河合隼雄・小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮文庫)として成り、上記のような事情から、小川洋子の「少し長すぎるあとがき」が付されている。

河合隼雄の晩年におこなわれたこれら2回の対談と、小川洋子の「少し長すぎるあとがき」は、ほんとうに多くの「種子」をぼくの中に、そしてこの世界に投げかけてくれている。

 

あまりにもたくさんのインスピレーションに充ちた言葉たちを前にしながら、ぼくという個人に強く交響する「語り」は、「個性」のあらわれについてである。

「厳密さと曖昧さの共存」ということを、河合隼雄と小川洋子が語るところがある。

小川洋子は、科学技術の発達の限界に触れながら、厳密さよりも曖昧さの方が人間を楽にしてくれるのではないかと、河合隼雄に向けて言葉を届ける。

河合隼雄はそのことに共感しながら、「厳密さと曖昧さの共存」への人生観と世界観の創出を考えている。

 

…それを共存させるような人生観、世界観がないかっていうことを、今ものすごく考えているんです。人間は矛盾しているから生きている。全く矛盾性のない、整合性のあるものは、生き物ではなくて機械です。命というものはそもそも矛盾を孕んでいるものであって、その矛盾を生きている存在として、自分はこういうふうに矛盾してるんだとか、なぜ矛盾してるんだということを、意識して生きていくよりしかたないんじゃないかと、この頃思っています。そして、それをごまかさない。

河合隼雄・小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫

 

人間が生きることの「矛盾」から目をそらさずに、またごまかさずに、そこを直視すること、そしてそれ自体を生きること。

この箇所に続く、河合隼雄の言葉が、ぼくの中で、強く交響する。

 

…「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性が光るんじゃないかと思っているんです。…そしてその時には、自然科学じゃなくて、物語だとしか言いようがない。…自然科学の成果はたとえば数式になったりして、みんなに通用するように均一に供給できる。そして、それで個が生きるから、物語になるんだっていうのが、僕の考え方です。

河合隼雄・小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫

 

矛盾をどう生きるかというところに、個性が光る。

そして、そこに「物語」が出番となる。

この認識と考え方は、ほんとうに透徹されたものだと、ぼくは思う。

それにしても、生きることの「矛盾を私はこう生きました」というところに個性が光るという認識は、「個性」ということをとらえなおす上で、ぼくをとらえてやまない。

 

「次回続きをやりましょう」というようにひらかれた対談はこの世界では続くことはなかったけれど、続けて語られたであろうトピックは、読者それぞれがひきうけて、日々のなかで「語る」という空間へと投げ放たれてある。

矛盾をどう生きるかに個性があらわれること、そこに「物語」が創出すること。

投げ放たれた言葉たちは、確かにひきつがれてゆくだろうと、ぼくは思う。
 

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ネット社会だからこその「関係性の回復」(河合隼雄)。- 「出会いへの欲求」に基礎をおく関係性(真木悠介)へ。

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』(新潮文庫)の文庫版「おまけの講義」として、「関係性の回復ーネット社会こその相当の努力を」と題された、短い記事が掲載されている。


河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』(新潮文庫)の文庫版「おまけの講義」として、「関係性の回復ーネット社会こその相当の努力を」と題された、短い記事が掲載されている。

2004年6月、東京新聞に掲載された文章である。

10年以上前の記事であるにもかかわらず、書かれていることは、今でもその言葉の内実はうすれていない。

インターネットが悪い・よくないなどということではなく、文明の進歩を享受するためにも、「相当な努力」をして、あらゆる人間関係における「関係性の回復」をすることの重要性について、河合隼雄は書いている。

 

インターネットを通じたコミュニケーションの難しさは、直接的なやりとりでは、ある程度の「調整」が入る。

言語だけではない、非言語的なコミュニケーション(表情や身振りなど)が作動するからである。

このことはよく言われることだけれど、河合隼雄が強調していることは、次のことである。

 

…ここでもっと強調したいことは、人間の関係の在り方によって、人間の考えることや感じることも変わってくる、ということである。これは、私の行っている心理療法の根本と言っていいかもしれない。

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』(新潮文庫)

 

機械の操作で物が動くように、人間関係においても、自分が相手を操作したり、支配したりする関係になろうとすることに、河合隼雄は警鐘をならす。

そのような人間関係において、河合隼雄が言うところの「関係性」(=人間と人間の間に生じる相互的な心の交流)が喪失してしまう。

 

 インターネットの書き込みには、「関係性」の喪失の上に立ってなされるので問題が多い。…

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』(新潮文庫)

 

「関係性」ということで、思い出すのは、社会学者である真木悠介が、名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)で語っていた、「関係の実質」ということである。

真木悠介は、差別語が「差別語」とならない現実の関係性にふれて、そこには本人を傷つけないだけの「関係の実質」があるからだと書いている。

また、同書における「出会うことと支配すること」という論考で、「他者と関係するときに抱く基本の欲求」について、論理的に述べている。

 

 われわれが他者と関係するときに抱く基本の欲求は、二つの異質の相をもっている。一方は他者を支配する欲求であり、他方は他者との出会いへの欲求である。操作や迎合や利用や契約は、もちろん支配の欲求の妥協的バリエーションとしてとらえられうる。

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、1977年

 

そうした上で、真木悠介たちが構想していた「コミューン」は、この二つの異相のうちの「出会いへの欲求」に基礎をおく関係性である。

ここで、河合隼雄が言うところの「関係性」と、その回復ということにつながってくる。

人を傷つけないだけの「関係性」があるところでは、インターネットのコミュニケーションは上滑りしなくなる。

もちろん、すべての人たちの関係性を構築できるということではないと思うが、「出会いへの欲求」に基礎をおく関係性を実際にもっているかいないかは、直接に知らない人たちとのインターネットでのコミュニケーションの実質を変えていくだろう。

 

この「関係性」への視点から、ぼくのミッションにおける「世界」は「世界(関係性)』というように書いている。

「世界」は、関係の網の目であり、その関係性を豊かにしてゆくところに未来は構想され、また現在は生きられる。

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南伸坊が河合隼雄から心理療法を学ぶ(『心理療法個人授業』)。- 対話と関係から生まれる言葉と学びの深さ。

イラストレーターの南伸坊(みなみしんぼう)が「個人授業」で学問を学ぶ著書シリーズ(新潮社)がある。

イラストレーターの南伸坊(みなみしんぼう)が「個人授業」で学問を学ぶ著書シリーズがある。

生物学個人授業(岡田節人)、免疫学個人授業(多田富雄)、解剖学個人授業(養老孟司)、それから心理療法個人授業(河合隼雄)がある。

河合隼雄の著作たちを読みすすめていくなかで、シリーズにおける『心理療法個人授業』(河合隼雄・南伸坊、新潮文庫)に出会った。

 

河合隼雄が「先生」で、南伸坊が「生徒」である。

南伸坊が、河合隼雄から「個人授業」で心理療法や臨床心理学を学び、レポートを書く。

河合隼雄がレポートに対して応答する。

第1講から第13講にわたる内容は、「専門書」ではない、対話形式から生み出される、根本的なトピックに充ちている。

以下のような「講」のタイトルを見るだけでも考えさせられる。

 

第1講 催眠術は不思議か?
第2講 頭の中味をを外に出す
第3講 心理学は科学か?
第4講 心理療法は大変だ
第5講 心理療法とヘンな宗教
第6講 謎の行動、謎の言葉
第7講 人間関係が問題
第8講 心理療法と恋愛
第9講 箱庭を見にいった
第10講 「物語」がミソだった
第11講 わかることわからないこと
第12講 ロールシャッハでわかること
第13講 やっとすこしわかってきたのに

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫

 

心理学も心理療法も知らない南伸坊の視線・視点、南伸坊のするどいレポート、対話の中に言葉を生む河合隼雄。

「そもそも心理学とは?」ということから、講をすすめていく内に、南伸坊と河合隼雄とのあいだの関係性、また南伸坊の「気づき」が深みを増していくのを感じることができる。

人が生きていくための心理の「学」が語られている。

 

ぼくのフォーカスである「物語」については、講義も終わりに近づく「第10講」で、南伸坊が予感に充ちた気づきで「物語」のトピックを取り上げて、河合隼雄にぶつけている。

南伸坊は、「なるほどなァ!」とわかった気になりながら、そもそも「物語」とはなんだ、と考える。

南伸坊はそんなことを語りながら、次のようにも語る。

 

「人生に予め意味などない」
という意見に、私は合点していたのだったが、予めないからこそ、意味をつくろうとするのだともいえる。
 なんだか、茫々としてくる思いだ。いままでこんなことを、考えたこともなかった。

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫

 

生きることの「物語」を真摯に考え始めた人の言葉が、ここに興味深く湧いている。

河合隼雄は、あらためて、臨床心理学における「物語」の大切さを書いている。

 

…われわれ臨床心理士のところを訪れる人は、いわゆるビョーキとか異常などというのでない人(大人も子どもも)が多くなってきた。それは、南さんが詳しく書いているように、それぞれの人が自分自身の「物語」をいかように生きるか、ということを相談に来て居られる、とも言えるだろう。

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫

 

両親と別れて住んでいる子供が、「お父さんは大金持だ」とか「お母さんは女優なの」と言うことに対して、これらは「虚言癖」ではなく、そのような「物語」に支えられて子供たちはなんとか生きているという、暖かい視線を投げかけることを、河合隼雄は提示している。

 

講義は、最後の3講で、心が「わかる」と「わからない」という二つの側面を語っている。

これら二つを、共に、謙虚にひきうけていくことの中に、河合隼雄の心理療法の本質がつめられている。

 

 南さんの「わかる」に「わからない」を「つなげる」というのは、本当にいい言葉である。われわれ臨床心理士の仕事の本質がうまく言い表されている。…
…「わからない」と自覚する謙虚さが必要だが、これは、自信がないのとは、全く異なる。自信のないのは、はなから何もわからない人である。「わかる」に「わからない」をつなぐ人は、「わかる」自信と「わからない」謙虚を共存させている。…
 すぐにわかりたい方は、こんな本など読まず、本屋に行けば、御要望に応える本は、ありすぎるほどある。…

河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫

 

レポートで南伸坊も書いているように、河合隼雄の言葉を引用しようとすると、あれもこれもで、尽きることがないから、どこかで禁欲しなければならない(ぜひ購入してお読みください)。

それくらい、「本当にいい言葉」で充ちている。

それだけ、「大変な」世界をくぐりぬけてきているのだと、ぼくは感じる。

 

文庫版には「おまけの講義」で、ネット社会における「関係性の回復」について、河合隼雄が書いた記事が掲載されている。

ここにも、言葉の宝物が埋まっている。

別のブログで、このことについては、ふれたいと思う。

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身体性, 海外・異文化 Jun Nakajima 身体性, 海外・異文化 Jun Nakajima

「水のおいしさ」を身体でわかるまで。- デフォルト社会から出て「水」との関係をかえる。

「水を飲む」ということが、ぼくにとって、当たり前になったのはいつであったろうか。今思えば、この問いは奇妙な問いである。


「水を飲む」ということが、ぼくにとって、当たり前になったのはいつであったろうか。

今思えば、この問いは奇妙な問いである。

今では、とても大切なこととして、水を飲んでいる。

常温の水、あるいは冬であれば温めた水を飲む。

冷たい水を飲むことはほとんどない。

「喉がかわいたから」という理由以上に、生きるということそのものであるような仕方で、水を飲む。

グラスに注いだ水をあじわいながら、そして感謝しながら、ぼくは身体のすみずみを潤すように水を飲む。

 

ぼくが子供の頃、「飲み物」は、麦茶であったり、緑茶であったり、スポーツドリンクであったり、ジュースであった。

もちろん学校の休憩時間では、蛇口をひねって水を飲んだし、外食時には氷のいっぱいにはいった水も飲んだ。

でも、水それ自体は「脇役」のような立ち位置にあった。

 

10代の終わりから、海外を旅するようになって、「水」とぼくの関係は変わりはじめる。

アジアを旅している間、もちろん、「水」は蛇口からそのまま飲むことはできない。

「水」は買わなければいけない。

ニュージーランドに住んでいたときは、蛇口の水がそのまま飲めたけれど、ぼくはキャンプをしながら、「水」のありがたさを身体にきざんでいく。

 

20代からは、アフリカやアジアの蛇口のないところで、仕事をする。

「水」そのものの確保がむずかしい地域で、水を確保し、水を使い、水を飲む。

おそらく、そのころから、ぼくは水を「常温」で飲むようになったのだと記憶している。

氷は「贅沢品」でもある。

常温の水を飲み続ける内に、常温の水がぼくの身体に適合するようになっていく。

また、世界それぞれの場所で飲む「異なる水」は、ひとつひとつに個性あるあじわいを教えてくれ、ぼくの楽しみのひとつとなった。

水のひとつひとつの「個性」に出会う中で、いつしか、水にこだわるようになっていく。

高級な水というこだわりではなく、じぶんの<身体に合う水>へのこだわりである。

 

こうして、いつしか、「水」は、ぼくの生のなかで、脇役ではなく「主役」になる。

コーヒーも紅茶なども楽しむけれど、主役は「水」である。

水が主役の場におどりでるまでに、相当な年月がかかった。

ぼくにとっては、「デフォルトである社会」(当時の日本社会)を出て、水とぼくとの関係がかわっていくプロセスである。

「水」というものがその社会でおかれるポジションみたいなものがあって、ぼくは、デフォルト社会を出てみることで、そのポジションを確かめてゆくという道のりを通過することになった。

また、「水のおいしさ」を身体からあじわうまで、相当な年月がかかった。

なにはともあれ、ぼくは、今、こうして、おいしい水を飲むことができる。

 

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成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

「リアライゼーション」の二つの意味にひらかれる可能性。- 河合隼雄の心理療法における基軸。

心理学者・心理療法家の河合隼雄は、講義録である著書『こころの最終講義』(新潮文庫)にて、ユングの「コンステレーション」(constellation)という言葉をたよりにユングや自身のカウンセリングについて語っている。

🤳 by Jun Nakajima


心理学者・心理療法家の河合隼雄は、講義録である著書『こころの最終講義』(新潮文庫)にて、ユングの「コンステレーション」(constellation)という言葉をたよりにユングや自身のカウンセリングについて語っている。

また、前掲書に掲載されている、これとは別の講演で、河合隼雄は「リアライゼーション」(realization)という言葉をとっかかりとして、「物語と心理療法」について聴衆に語りかけている。

「コンステレーション」も「リアライゼーション」も、共に日本語にしにくい言葉であり、河合隼雄はカタカナ表記をすることで、日本語の意味合いにからめとられないように、丁寧に語っている。

 

「リアライゼーション」という言葉を使うことについて、河合隼雄は講演の冒頭で、次のように述べている。

 

…この英語はいい英語だと思っているからです。それは「何かがわかる、理解する」という意味と「何かを実現する」という意味との両方をもっているのです。
 つまり、われわれが生きているということは、自分が実現しているということと、わかっているということを両方うまくやっているのだと思うのです。それがまさにリアライゼーションであって、個人は生まれてきたかぎりはなんらかの意味で個人としてのリアライゼーションをするのではないか。それが残念ながらなにかの理由でうまくっていないのではないか。

河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫

 

ぼくも、この「リアライゼーション」という英語はいい英語だと思っている。

その動詞形は「リアライズ」(realize)で、河合隼雄がふれているように、「理解する」ということ(「気づく」に近い)と「実現(現実化)していく」という、この言葉の二重性は、この言葉に深みを与えている。

気づきと実現が共にあるようなところに、いろいろな物事はひらいていく。

河合隼雄は、心理療法という実践において、「個人としてのリアライゼーション」に焦点をあてながら、真摯に来談される方々に向き合ってきた。

そして、河合隼雄は、そこに「他人との関係」という関係性の視点を大切にする。

 

…私が何かをリアライズするということと私の周囲の人たちが何かをリアライズするということが全部重なってきますので、たんに自分のことだけを考えていたのでは、それはどうしてもできない。つまり他人との関係を無視することはできない。だから、われわれ心理療法をしているものは、自分の前に座られた方のリアライゼーションということを考えるわけですが、その方を取り巻く周囲の状況、あるいはなによりも治療者自身のリアライゼーションも考えて行わねばならないということだと思います。

河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫

 

来談にくる方々だけではなく、「治療者自身のリアライゼーション」への透徹した視点を、河合隼雄は身にひきうけている。

そして、このことは心理療法ということに限らず、他者とのかかわりがある、さまざまな場において大切なことだと、ぼくは考える。

河合隼雄は、心理療法をするものが、「知識をもっているということ」(リアライズの意味合いのひとつである、理解すること)に加え、自分が「体感として知っている」(自分が実現して知っている)ことが重要なことであると語っている。

リアライズということでの「理解」は、ぼくとしては、すでにそこに「体得」が感じられているものだと思うけれど、それは些細なことだ。

ここには、「身体性」の問題がきっちりと提示されていることに、ぼくは焦点をあてておきたい。

 

講演は、この導入に続いて、個人のリアライゼーションと「物語」という、関心の尽きないトピックにはいっていく。

哲学者の坂部恵『かたり』(弘文堂)を参照に「語る」ということの次元にまでおりながら、また日本人の自我、物語と自然科学にいたるまで、きわめてインスピレーションに充ちた内容を展開している。

河合隼雄が生前に残してくれた言葉たち。

ぼくがこれまでに読んだのはそれらのほんの一部であり、河合隼雄の<思考の大海>を前に、その出会いにぼくはただ歓びを感じるだけである。

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「コンステレーション」から物語へ。- 河合隼雄がユングを読み解きながら(ユングと生きながら)。

心理学者の河合隼雄は、京都大学の最終講義(河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫)で、ユングがよく使ってきた「コンステレーション」(constellation)という言葉を手がかりに、こころのこと、心理療法のこと、生きることを語っている。

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心理学者の河合隼雄は、京都大学の最終講義(河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫)で、ユングがよく使ってきた「コンステレーション」(constellation)という言葉を手がかりに、こころのこと、心理療法のこと、生きることを語っている。

「コンステレーション」という単語は、そのものでは「星座」を意味する言葉である。

「コン」(con-)は「ともに」(with)にあたり、ステレーションの「ステラ」は「星」を意味し、「星座」という意味をもっている。

ユングがたよりにしてきた「コンステレーション」は、星座のことではなく、心の問題を扱う上で、はじめは「コンプレックスがコンステレートしている」というように使っていたという。

河合隼雄は、ユングが使ってきた「コンステーション」の使われ方と意味合いの変遷を追いながら、「コンステレーション」の言葉の重要性と可能性を聴き手に伝えている。

また、それらを語ることで、河合隼雄が辿ってきた道の「物語」を語っている。

 

ユングが精神医学の世界にデビューした契機は、「言語連想のテスト」とそこでの気づきであったという。

言語連想テストでは、「山」という言葉にたいして、連想する言葉をすぐに言ってもらう。

川という人もいれば、名詞ではなく、動詞で答える人もいる。

あるいは、黙ってしまう人もいる。

ユングの「気づき」は、連想において「時間がおくれる」ということにあったという。

「山」ということで連想されるのが、恐ろしいものであったりして、人によっては言葉が出てこなくなってしまう。

心の中に「かたまり」ができている。

それは、心理学で言われる「コンプレックス」ということであり、ユングは、前述のように、「コンプレックスがコンステレートしている」と表現していたようだ。

 

その後のユングの研究の道ゆきにおいて、1940年頃からユングは、「元型(アーキタイプ)がコンステレートしている」というような表現を多用していく。

元型(アーキタイプ)は、人間の心の深くにそのような元型があり、それがいろいろにあらわれるというように、ユングが考えようとしていたときの、キーワードである。

 

河合隼雄がユング研究所での資格をとった1965年。

ユングの流れをくむC.A.マイヤーの60歳の誕生日祝いに、弟子たちが論文を書いてマイヤーのお祝いをしたという。

その論文のなかに、マイヤーに関する面白い論文を、河合隼雄は見つけることになる。

 

…われわれが心理療法をするということは、いろんな仕事をしているんだ。時には忠告を与えるときもあるし、時には来られた人の気持ちをちゃんと、こちらがそれを反射してあげる。…けれども、マイヤーは特別なことをやっている。マイヤーは何をしているかというと、「コンステレートしている」という言葉がそこで出てくるんですね。
 …クライエントが来られたら、その内容に対して何か答えを言ってあげるとか、解釈してあげるんじゃなくて、その人のセルフリアライゼーション、自己実現の過程をコンステレートするんだ、と書いてあるんですね。そして、その人が自己実現の過程をコンステレートして自己実現の道を歩む限りにおいて、その人にともについていくのだ、と書いてあるわけです。これは私にとって非常に衝撃だった。

河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫

 

河合隼雄に衝撃を与えた「コンステーション」は、その後も、河合隼雄の実践と研究を方向付けていく。

河合隼雄に学ぶところのひとつは、河合隼雄はユングを読み解きながら(ユングの研究と生きながら)、研究や研究成果に埋没するのではなく、現実や実際の生や状況などとの間で、きわめて冷静に物事を見て、実践につなげているところである。

安易に理論に傾倒するのではない。

地に足をつけながら、しかし空高く飛翔していくという二面性をともにひきうけているのである。

そうしてひらかれてきた実践と研究は、「物語」という軸において、河合隼雄の深い関心を呼び起こしていく。

講義のなかでも、終わり近くで、「コンステレーションと物語」ということを簡潔に語っている。

 

…人間の心というものは、このコンステレーションを表現するときに物語ろうとする傾向を持っているということだと私は思います。

河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫

 

そうして、河合隼雄は日本の神話などへの関心を、その後の残りの生のなかで形にし、ぼくたちにとってほんとうに「大きなもの」を残してくれている。

ぼくの大きな関心のひとつも、「物語」という軸に収斂してきている。

個人が生きることにおける「物語」、家族が一緒に生きていく「物語」、チームや組織が一緒に生きる「物語」、そして社会が共につくっていく「物語」。

そこに、ぼくは、「煮詰まった時代」(養老孟司)をひらく大きな可能性を見ている。
 

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「見田宗介=真木悠介」 Jun Nakajima 「見田宗介=真木悠介」 Jun Nakajima

「他者との関係性」と「ゲーム」。- 「リアリティの飢え」の形成による「情報資本主義の無限運動」(見田宗介)。

ぼくのメンターである方が教えてくれた、携帯アプリでのゲーム「旅かえる」。


ぼくのメンターである方が教えてくれた、携帯アプリでのゲーム「旅かえる」。

小屋「おうち」で、小さいカエルを育てる。

旅支度をしてあげると、カエルはいつのまにか、「たび」にでる。

そしていつのまにか、「たび」から帰ってくる。

場面は、あくまでも「おうち」を中心とした領域のみで展開していく。

 

日本でも中国でも流行っているとのことで、早速ダウンロードして、プレイしてみる。

ぼくが、あくまでも「感覚」として気になったことは、第1に、プレイヤーが「旅にでる」のではなく「旅から帰ってくる」カエルを待つというベクトルであること、また第2に、カエルとは「直接のコミュニケーションがない」ことである。

このような(気楽な)「距離感」をもつ他者と、また(それでも)じぶんのもとに「帰ってくる存在」としての他者という、他者との関わり方の二つの方向性において、それは現代社会の関係性の諸相・問題を映しているように、ぼくには見える。

 

他者との関係性ということで、ぼくが思い出していたのは、社会学者の見田宗介の視点である。

見田宗介は、「近代日本の愛の歴史」の講義において、2010年の『ラブプラス+』というゲームにふれている。

 

…『ラブプラス+』は熱海などの実際の観光地のホテルと契約していて、プレイヤーが一人でそのホテルに行くと、「お二人様」として全て扱われ、プレイヤーはそこで操作ボタンとモニターを通してさまざまの愛の言葉を発する理想の女性の映像と、幸福の一日を過ごすのだということです。
 エレクトロニックな恋愛がリアリティの飢えを形成し、この飢えがまた新しい市場として新商品の開発を呼び、この新しい商品がまた新しい飢えを形成していっそう「リアル」な商品を呼び出すにちがいないような、情報資本主義の無限運動の一つのサイクルをそこに見ることができます。

見田宗介「近代日本の愛の歴史 1868/2010」『定本 見田宗介著作集IV』岩波書店、2012年

 

「情報資本主義の無限運動」の一つとして捉えながら、そこでは「関係のリアリティの飢え」が増殖していくことを、見田宗介は見ている。

SNS上における「友達の数」を増やしても増やしても満足できないのと同じく、エレクトロニックな関係をつくってもつくっても満足いかない「関係性」である。
 

「旅かえる」をプレイしながら、ぼくは、そんなことを考えていた。

「旅かえる」をプレイしながら、ぼくはやはり、他者との関係性ということ、また生ということを、考えてしまう。

「旅かえる」は、単純に「他者(カエル)との関係」をきずくということではなく、じぶんの「立ち位置」が、飼い主であると同時にカエルでもあるというように「二重」になっているようなところもあるところに、現代の諸相を映している。

関係の気楽さと関係の濃密さ(の渇望)。

この「二重の立ち位置」が、不思議な感覚をぼくに与えている。

このような思考を続けながら、今しばらく、このゲームを続けてみようと思う。
 

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書籍, テクノロジー Jun Nakajima 書籍, テクノロジー Jun Nakajima

「宇宙を引き寄せる言葉/語る文法」(池内了)。- 池内了『宇宙入門:138億年を読む』を読む。

小学生の頃だったと記憶しているけれど、ぼくは「宇宙」の世界に魅了されていた。...Read On.

小学生の頃だったと記憶しているけれど、ぼくは「宇宙」の世界に魅了されていた。

関心は、やがて「望遠鏡による観察」となり、望遠鏡のレンズを通して、ぼくは月や火星、木星などを見ていた。

天体ということに限らず、そこには何か大きなものがひろがっているような感触に、ぼくの想像はかきたてられた。

 

しかし、その後、学校教育のなかに入っていくなかで「試験・受験勉強」の語彙と文法にからめとられ、ぼくは自然科学の興味を失ってしまった。

宇宙物理学者の池内了は、著書『宇宙入門:138億年を読む』(角川ソフィア文庫)の「まえがき」で、受験における、無味乾燥な暗記や計算、意味不明な記号、考える暇を与えない答えの訓練等が、物理学から人をとおざけてきたことを、語っている。

ぼくの埋もれた好奇心をひらいてくれたのは、やはり「夜空」であったように、ぼくは思う。

ニュージーランドでキャンプをしているとき、またトランピングの折に見た、夜空にひろがる星たち。

西アフリカのシエラレオネの空にひろがる広大な空間。

東ティモールの山に、ふりそそぐ流星たち。

香港でも、中秋節を迎える頃には、月が圧倒的な光をふりそそぐ。

そして、時代は、宇宙探索の「空白の時代」を超えて、今また、火星やそれを超えるところに視界をとらえている。

 

「宇宙」は、人の好奇心をかきたてるものでありながら、現代において実にいろいろな「意味」をもっている。

そのような導火線にみちびかれながら、ぼくは「宇宙」について再び、学び始めている。

内田樹の語るところの、私たちが知らないことから出発する「よい入門書」(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書)を探していたところ、池内了の「宇宙入門」に出くわした。

専門家向けではなく、ぼくのような一般の人向けに書かれ、「解かれていない」宇宙の問題を語っている。

「宇宙を引き寄せることば」と「宇宙を語る文法」という構成で、ぼくたちに語りかけてくれる。

 

池内了『宇宙入門:138億年を読む』(角川ソフィア文庫)

【目次】

Ⅰ 宇宙を引き寄せることば
第1章 ビッグバン
第2章 インフレーション宇宙
第3章 膨張宇宙
第4章 バブル宇宙
第5章 渦巻銀河
第6章 フィードバック
第7章 潮汐力
第8章 望遠鏡

II 宇宙を語る文法
第9章 エントロピーの法則
第10章 エネルギー保存則
第11章 運動量保存則
第12章 ベルヌーイの定理
第13章 遠心力
第14章 コリオリ力
第15章 フラクタル
第16章 チューリングモデル

 

「宇宙を引き寄せる言葉/宇宙を語る文法」を、ひとつひとつ丁寧に、池内了が読者に提示してくれる。

「ビックバン」という、今では「正統的な理論」も、市民権を得たのは実はここ50年ほどのことだという。

「初めに光ありき」と語られる「ビッグバン」は、非常な高温で、高エネルギーの「光」に満ちていたと考えられている。

その光は、宇宙が膨張していく過程でエネルギーを失い、その光は現在「電波」となって宇宙にただよっているということが、ビッグパンの証拠であるという考え方だ。

池内了は、しかし、「ビッグバン宇宙論」を疑う態度は忘れてはならないのではないかと、語る。

 

人間に眼を投じたときにぼくを捉えたのは、私たちの体も「光のエネルギー」を発していることに、池内了がふれたところである。

 

 温度が高いと放射されるエネルギーも高くなります。私たちの体は、体温に応じた光である赤外線を放射していることは、暗闇でも赤外線写真が撮れることからもわかります。私たちも「輝いている」のです。…

池内了『宇宙入門:138億年を読む』角川ソフィア文庫

 

ぼくたちは、この暗闇の宇宙のなかで「輝いている」。

SpaceXのロケット「Falcon Heavy」に搭載されたテスラ車「Roadster」の前方には、大きな「暗闇」がどこまでもひろがっている。

そのようなはるかな暗闇のなかで、「輝いている」人たち。

ぼくは、池内了がふと書いた「輝いている」という言葉とイメージに、どこかひかれている。

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社会構想 Jun Nakajima 社会構想 Jun Nakajima

「*Made on Earth by humans*」。- Space Xのロケット「Falcon Heavy」の美しい打ち上げに際して。

見事な仕方で打ち上げられた、Elon Musk(イーロン・マスク)率いるSpace Xのロケット「Falcon Heavy」(ファルコン・ヘビィー)。...Read On.

見事な仕方で打ち上げられた、Elon Musk(イーロン・マスク)率いるSpace Xのロケット「Falcon Heavy」(ファルコン・ヘビィー)。

Falcon Heavyはもっともパワフルなロケットで、積載量において最大を誇る。

そのFalcon Heavyに搭載された赤いテスラ車「Roadster」のサーキットボードに記載された言葉は、多くの人たちを魅了する。

 

「*Made on Earth by humans*」

 

ユーモアあふれる言葉であると同時に、宇宙を鏡にして、「地球に住む人類」をひとつにつなげる。

そのテスラ車「Roadster」とそれを片手で運転する「Starman」の映像は、ライブストリームで提供される。

その映像が映し出すはるかな宇宙の旅は、人を魅了してやまない。

はるかな宇宙を火星に向けて旅する「Roadster」車のハンドル横には、「DON’T PANIC!」の文字がひときわ目立っている。

「Starman」はまったく「パニック」になることなく宇宙の旅路につき、車の前方や後方には、美しい地球がうつる。

CBSNのニュース番組で記者に質問され、イーロン・マスクは、無邪気に遊ぶ子供のような表情をうかべながら、質問に答える。

「Starman」について聞かれ、テスラ車「Roadster」のダッシュボードには、小さな「Roadster」と「Starman」があることを、イーロンは楽しそうに語る。

その楽しそうに語るイーロン・マスクの言葉が、まるで美しい仕方で地球に帰還した2本のブースターのように、ぼくのなかに「着地」する。

 

It’s kind of silly and fun. 
But silly and fun things are important. 
(ある種ばかげたことで楽しいことです。でも、ばかげていて楽しいことは大切なことです。)

Elon Musk “Space X Celebrates Successful Launch” CBSN(日本語訳:ブログ著者)

 

「Falcon Heavy」が未来のとびらを確かにひらいたのと同時に、イーロン・マスクはさまざまな仕方で「未来のとびら」をひらいている。

歴史をつくるSpace Xの人たちの歓声と熱気と興奮が、ぼくの耳にこだましている。

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崩れゆくものに「ざわめく未来」を見る眼。- 宇佐美圭司の「廃墟巡礼」の旅。

画家の宇佐美圭司は、21世紀を迎える直前に、「廃墟巡礼」の旅をしている。...Read On.


画家の宇佐美圭司は、21世紀を迎える直前に、「廃墟巡礼」の旅をしている。

アトリエでの制作から一年間解放された画家が、1998年から1999年にかけて、アジア各地や北アフリカに至るところに、文化遺産や遺跡の崩壊の場を訪れ、言葉を紡いだ。

旅の全体を貫くテーマは「崩壊と生成」。

言葉は、まさしく「生成」していくようにして、『廃墟巡礼』(平凡社新書、2000年)としてまとめられた。

 

廃墟の遺跡などを求め、旅を続ける。

廃墟をどのように「現在」に持ち帰れるかと問いながら、廃墟のなかに「未来」を予感する。

 

 廃墟には崩壊と生成の振動があり、変容のなかでざわめく未来が予感される。蕾の崩壊が花の生成であり、散る花びらは種子の結実を祝福する。崩れゆくもののなかにこそ、生成するものの新たな息吹があふれ出すのだ。…
 イランでは私はいくつもの「タッペ」の丘に立った。…
 丘はつるりとした固い盛り土だ。しかし、それはざらざらした内部を持っている。ざらざらした内部へと想像力を向けること。
 旅は、そんな「つるつるからざらざらへ」の一歩ずつの歩みだしだろう。

宇佐美圭司『廃墟巡礼』平凡社新書、2000年

 

旅は、「ざらざら」を求めて、「ざらざら」の感触を頼りに、想像力をひろげていく。

宇佐美の身体は、タイ、ヴェトナム、インド、イラン、中国、北アフリカへと移動を続けながら、廃墟にめぐりあってゆく。

『廃墟巡礼』という本の文章や写真は、そのような経過を追っている。

文明という時間と空間を大きな視野でとらえる宇佐美の思考は、しかし、宇佐美の「創作」の過程のようにも、ぼくには聞こえてくる。

まるで、宇佐美がアトリエに立って、筆を持っているところに、ぼくがそばに立っているような感覚だ。

そのようであることで、「創造」ということの深い地層に、宇佐美圭司に導かれてゆく「旅」でもある。

 

この本を読んで、旅の終わりに、「崩壊と生成」から立ち上がる「未来」はこういう未来だというように、なんらかの「答え」を得るわけではない。

そうではなくて、ぼくたちは、崩壊と生成のなかに未来が立ち上がる「手がかりの見方」を得る。

「手がかりの見方」ですぐさま未来が見えるわけでもないけれど、「ざらざら」への想像力の入り口をつかむようなものだと、ぼくは思う。

別の言い方をすれば、それは崩壊から生成への「動き」をつかむようなものだ。

 

宇佐美圭司は、眼下の波しぶきに「静止・沈黙」を見ながら、その「運動(動き)」を、次のように記している。

 

…それは廃墟に液体を感受するのと同じことかもしれない。私は画家として、動かない画面に、どう動きや時間を表現しようかと試行錯誤を繰り返してきた。そんな精神の習慣が、「静」に「動」を読みとる眼や意識を付与するのかもしれない。

宇佐美圭司『廃墟巡礼』平凡社新書、2000年

 

宇佐美圭司の旅からすでに15年以上経過したけれど、世界は引き続き「大きな移行」のなかに置かれている。

このトランジションは、「崩壊と生成」の<運動>でもある。

一言で言い換えれば、<創造>の過程である。

ぼくたちは、崩壊と生成の間隙に、どのような「ざわめく未来」を見ることがきるのか。

どのような「ざわめく未来」をひろいあげ、つくっていくことができるのか。

それは、(人類が存続する限りにおいて)終わりのない旅である。
 

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「日本人の創造性」についての、野口晴哉の考察。- 「正確・記憶・形式」から「空想」へ。

整体の創始者といわれる野口晴哉の、地に足のついた考察を読めば読むほどに、その広がりと深さに圧倒される。...Read On.

整体の創始者といわれる野口晴哉の、地に足のついた考察を読めば読むほどに、その広がりと深さに圧倒される。

「子供の教育」(したがって、親や大人の言動)にかんする野口晴哉の考察の中に、「日本・日本人」についての考察がある。

「日本人には本当に独創性がないのだろうか」と、野口晴哉は自身に問いながら、簡潔かつ直球の考察をなげかえしている。

1960年代に書かれた考察で、日本の教育が「模倣の才能」を育て、独創性を壊してしまうような方向に行われていることを、野口晴哉は語っている。

 

…日本の教育に於て、一番大切にされているものは何かといえば、正確ということである。自分で思いついたことより、何かの標準に正確に合っていることの方が貴ばれている。思いつきより標準に正確な方が信頼される。正確というものは物差しがいる。物差しは自分以外のものである。正確が要求されればされるほど、思いつきは価値を失う。…思いつきが育たなければ創造ということはない。…

野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年

 

野口晴哉は、日本の教育で大切にされているものとしての「正確」に加え、「形式」と「記憶」が日本では大切にされているとする。

「形式」を厳重に守ることで、個人の自由な思いつきは脇にやられる。

そこで、「記憶」ということが大切にされる。

正確、記憶、形式というものをつきやぶることのない教育が、日本人の独創性を奪ったものとして、野口晴哉は考えていた。

およそ1960年代のことである。

このことは、50年ほどが経過してもなお、日本・日本人、また日本の教育につきまとうことであるように、ぼくは思う。

野口晴哉の文章を、「今の時代」のこととして読んでも、まったく違和感がない。

今も、日本は、正確・記憶・形式ということの中に、からめとられているようなところがある。

もちろん、日本の経済発展を支えてきたのも、これらである。

一様にきりすてるものではないけれど、あまりにも、これらに偏重してきたように思う。

 

野口晴哉は、この状況を打開していく方途として、子供たちの「空想」を育ててゆく方向を定めている。

 

 私達はこれからの子供達に、正確だとか記憶だとかいうような、過去の残骸を押しつけることを止めたい。正確も記憶も、みんな過去のものであって未来のものではない。その過去のものから出発させるという教育を止めて、思いついたこと、思い浮かべたことを育てて創造に直結できるように、日本人の持っている空想性というものを育ててゆきたい。…

野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年

 

野口晴哉はこの文章に続き、「空想」ということを、あらゆる角度から論じている。

これらの考察は、人間にかんする深い洞察に充ちている。

ぼくの関心(「ストーリー・物語」論)にひきつけると、この「空想」は、「物語」を人の中に生成させるプロセスであるように、ぼくは見ている。

思いついたこと、思い浮かべたことが「他者の物差し(物語)」により抑制されるのではなく、じぶんの中に生成していく物語の芽となる。

そのように、ぼくは野口晴哉の「空想論」の中に、可能性を見出していきたい。

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20年以上が経過して開かれる本。- ニュージーランドの作家Patricia Grace『Potiki』。

ニュージーランドの作家Patricia Graceの文学作品『Potiki』(Penguin Books, 1986)。...Read On.

ニュージーランドの作家Patricia Graceの文学作品『Potiki』(Penguin Books, 1986)。

1996年に、9ヶ月ほど住んでいたニュージーランドを旅立つ際に、ニュージーランド人の友人からいただいた本である。

20歳になってようやく「本」というものの面白さと深さを体験しはじめていたぼくを知ってか、友人はぼくに、まるで「ニュージーランド」を本のなかに吹き込むようにして、ぼくに贈ってくれた。

日本に帰国してから、数ページ読み始めては、そこから先に進まず、ぼくの蔵書のなかに収められていた。

180頁ほどの小さな本だけれど、いつか読もうと、ぼくは心のひきだしにしまっていた。

 

そして、最近なぜか、この『Potiki』に呼びかけられているような気がして、ぼくはこの本をひらいた。

まず、驚いたのは、本のタイトルページをめくると、次の文字が目にとびこんできたときであった。

「Printed in Hong Kong」

1986年の出版の際に、この本は、ぼくが今いる、ここ香港で印刷されている。

やがて、本はニュージーランドに旅し、そこで友人の手にわたり、出版から10年の歳月を経て、1996年にぼくの手にわたる。

そのようにして、その本はぼくと共に、日本にわたっていくことになる。

2007年に、香港に移り住む際に、(おそらくそのタイミングで)ぼくはこの『Potiki』を香港にもってくることになる。

それから、またおよそ10年が経過する。

そこで、ふと呼びかけられるようにして、開いた本は、「Printed in Hong Kong」を刻印している。

30年の時を経て、香港にもどってきたことになる。

そうして開かれた本の物語と情景は、今度は、ぼくの心のなかに、すーっと、はいっていくのだ。

 

Patricia Graceは、1937年に、ニュージーランドのウェリントンに生まれる。

父親はマオリ人、母親がヨーロッパ系である。

最初の頃は英語教師でありながら、短編をつむぐ。

彼女が1975年に発表した短編集は、マオリ人女性によって書かれた初めての短編集であったという。

作品は、マオリの生を描いている。

『Potiki』は1986年に発表され、ニュージーランドでの賞を得ることになった作品だ。


「明るさ」に充ちた物語ではないけれど、それでもその筆致はとても美しい作品だ。

ニュージーランドの風景を、ぼくのなかに、ありありと思い出させてくれる。

そのような風景のなかで、人が生きていく「物語」の物語だ。

「物語」を生きていく人たちを描く物語。

 

ぼくも生きていくなかで、この「物語」としての生を、今みつめている。

この本は、ぼくに開かれるのを、じっくりと待っていてくれたように、ぼくは「物語」を紡いでいる。

決して、ぼくにいらだつのでもなく、ただじっと、そこで待っていてくれたわけだ。

まるで、ニュージーランドの海や山や森たちのように。

 

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「問いの、核心にことばが届くということがあるなら…」(真木悠介)。- 書くものにとっての「過剰の幸福」と「奇跡といっていい祝福」。

社会学者である真木悠介(見田宗介)は、『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)と『自我の起原』(岩波書店、1993年)の二つの仕事を通して、自身が持ち続けてきた「原初の問い」に対して、「透明な見晴らしのきく」ような仕方で、自身の展望を得た...Read On.


社会学者である真木悠介(見田宗介)は、『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)と『自我の起原』(岩波書店、1993年)の二つの仕事を通して、自身が持ち続けてきた「原初の問い」に対して、「透明な見晴らしのきく」ような仕方で、自身の展望を得たことを、『時間の比較社会学』の岩波同時代ライブラリー版(1997年)の「後記」で書いている。

「原初の問い」とは、「永遠の生」を願望としてしまうという問題と、「自分」という唯一かけがいのないものとして現象してしまう理不尽な問題である。

見田宗介の仕事を<初めの炎>として駆動してきた原初の問いは、一貫して追求され、自身が納得のいく仕方で書かれ、その成果が「本」という形で世に放たれる。

「後記」の最後は、次のような、美しい文章でとじられている。

 

 わたし自身にとって納得のできる仕方が、他の人にとって、さまざまな角度と限界をもちながら、いくつもの光源の内の一つとなることができるなら、すでに過剰の幸福である。更に、問題感覚の核を共有することのできる読者が一人あるなら、そしてこのような一つの問いの、核心にことばが届くということがあるなら、それは書くものにとって、奇蹟といっていい祝福である。

真木悠介「同時代ライブラリー版への後記」『時間の比較社会学』(同時代ライブラリー版)(岩波書店、1997年)

 

この「後記」を読みながら、20年ほど前のぼくは、思わずにはいられなかった。

ぼくのような「読むもの」にとって、ぼくの問題感覚の核に向けてことばが紡がれ、そして問いの核心にことばが届くということは、「奇跡といっていい祝福」である、と。

当時のぼくは、この世界において、ほんとうに光を得たような感覚を得たものだ。

 

そして、今度は書く側に立って、断片やまとまった文章を書きながら、真木悠介が考えていたことを思う。

他者の問いの、核心にことばが届くということの、「奇跡といっていい祝福」についてである。

ことばが伝わっていくルートには、「さまざまな角度と限界」があるからである。

真木悠介が語るような角度と限界、つまり他者にとっての大切な生きられる問題や経験との差異や深浅などもある。

またそもそも、その本を手に取るか否かという限界性もある。

毎日毎日文章を書きながら、そしてこの度は「本」という形で文章を書いて構成しながら、ぼくの脳裏に、真木悠介のこの「後記」がよぎってくる。

そして、それは、ぼくを励ましてもくれている。

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とにかく、やってみること。- Kindle電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)を発行して。

先日(2018年1月29日)に、アマゾンKindleでの電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)を発行した。...Read On.

先日(2018年1月29日)に、アマゾンKindleでの電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)を発行した。

「香港で、彩り豊かな「物語」を生きる。」と表紙の帯に掲げたように、香港という人生の舞台で、この本を読んでくださる方々が(そしてこの本を読まれない方々も)、彩り豊かな生を生きていってくださればと思いながら、ぼくは書いた。

「香港」ということで書いたものだけれど、それは、少し掘れば「海外での生活」ということになるし、さらに掘れば「この世界」ということを明確に意識しながら、書いた。

そして、この世界で生きることは、もちろんぼくにとって「現在進行形」である。

 

とにかく、やってみること。

今回の「プロジェクト」において、これは、やはり大きなことであったと、ぼくは思う。

電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』の構想から執筆、数えきれないほどの書き直し、アマゾンにおける出版プロセスなどの一連の仕事。

その過程における、数多くの学びと気づき。

プロジェクトプランの大切さ。

編集ということの大切さと困難と深さ。

アマゾンでの出版の仕組みと、新しい時代の足音。

その全行程における、仲間からの励ましのありがたさ。

このようなことは、やはり、やってみなければわからない。

もちろん、ぼくの「仕方」は、ありうる仕方のひとつにすぎない。

その意味において、ぼくはぼくの経験があらゆることにあてはまることなど、まったく思わない。

ただし、それでも、やってみることの大切さがあるし、なによりもこの「やること」それ自体が生きるということである。

 

「だれでも出版はできる」という言葉は一面の正しさをもちつつ、しかし、やはりそうすんなりといくわけではないことも、この一連のプロセスを経るなかで、ぼくは感じてきた。

このことは、またどこかで書きたいと思うけれど、「とにかく、やってみること」は、すべての人ができるわけではないこととも、つながっているようなトピックでもある。

また、「だれでもできる」としても、「よりよく」できることは、まったく異なる次元のことでもある。

「できる」から「よりよくできる」の間の<断層>の大きさにも、ぼくは愕然とした。

こんなことも、やってみることではじめて、身体で感じることができた。

 

この世を去る方々が、なくなる直前に、「あれをやっておけば、という後悔だけはしないこと」という、ほんとうに深い、本質をつくメッセージをぼくたちに届けてくれている。

この「助言」は頭ではわかっても、「やってみること」ができない人たちも多い。

ぼくは、この助言に、ただただ導かれている。

これからも「やってみること」をつみあげていきたい。

そうして、ぼくが将来、「この世」を去るときには、「あれをやっておけば、という後悔だけはしないこと」というメッセージを語っているだろう。

そんな「物語」を、ぼくは紡いでいる。

 

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「自分のストーリーだからこそ諦めたくない…」(Kiroro『未来へ』)。- じぶん、ストーリー、そして未来。

音楽グループKiroroの歌「未来へ」の中に、次のような歌詞がある。...Read On.

音楽グループKiroroの歌「未来へ」の中に、次のような歌詞がある。

 

自分のストーリーだからこそ諦めたくない
不安になると
手を握り 一緒に歩んできた

Kiroro「未来へ」(※Apple Musicに表示される歌詞より)

 

じぶんの「夢」を追うなかで、空高くにある夢に届かず、不安におしつぶされそうななかで、あきらめまいと、母のことを思い出す。

「自分のストーリー」は、この歌詞の直前におかれる「夢」のことである。

「自分の夢」とは言わずに、「自分のストーリー」である。

 

1)ストーリーとしての「夢」/夢としての「ストーリー」

「夢」とは、未来におかれる。

正確には、未来は現在の自分の中におかれるのだけれど、それは時間的に「先」にある未来である。

「ストーリー」であるということは、その「未来」に向かう道程も含めて、じぶんの「内面」に描いていくことだ。

その道程は、楽しいことばかりでなく、大変なことも不安も含めて、いろいろなものが道いっぱいに散りばめられている。

今を生きながら、でも未来を見ていく。

未来を見ながら、今を生きていく。

そのようなところに、この歌は、ぼくたちの視野をひろげてくれる。

 

2)「自分の」ストーリーであること

「ストーリー」は、「自分の」ストーリーである。

ストーリーでは、自分が「主人公」である。

主人公であるということは、狭い意味での「自分中心・自己中心」ということではない。

映画の主人公に対して、(主人公であるということそれ自体として)「あなたは自己中心的だ」などとは、ぼくたちは普通は言わない。

じぶんが主人公であることで、じぶんを生きていくことで、ぼくたちは、他者に何かを届けることができるし、ときには他者を救うことだってできる。

 

3)ストーリーは「諦めること」はできない

夢としてのストーリーは、諦めることができる。

でも、「ストーリー」そのものは、諦めることができない。

夢を諦めることで、異なった「ストーリー」がやってくるだけだ。

「自分のストーリーだからこそ諦めたくない」と歌われるとき、それは「夢としてのストーリー」を諦めないということである。

夢と夢を持つことで生きることの内実を手放すことなく、そのさまざまな彩りを生きていくことを、じぶんに語りきかせている。

 

こうして、この歌の中では、いくども、次の歌詞がじぶんに投げかけられている。

 

ほら 足元を見てごらん
これがあなたの歩む道
ほら 前を見てごらん
あれがあなたの未来…

Kiroro「未来へ」(※Apple Musicに表示される歌詞より)

 

「自分のストーリー」を生きていくこと。

過去における母の面影と思い出を思い浮かべながら(そして気づきながら)、未来へと、前へと視線を向ける。

それは未来によって今が収奪されるのではなく、未来をもつことで、今が豊かになる生である。

「足元」に歩む道、そして(ぼくの想像だけれど)そこに咲く花々へと視線がうつされながら、創られながら創る「自分のストーリー」は生きる力を宿していくことになる。

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Kindle電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)。- 香港で、彩り豊かな「物語」を生きる。

ぼくのアマゾンKindleでの電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)が、2018年1月29日(香港・日本では1月30日)に発行された。...Read On.


ぼくのアマゾンKindleでの電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』(中島純)が、2018年1月29日(香港・日本では1月30日)に発行された。

香港にこれから住む方、香港に現在住んでいる方/以前住んでいた方、香港に興味のある方に向けて、「香港でよりよく生きていくため」のヒント集である。

「ヒント」と言っても、そこに「答え」があるわけではない。

ここ香港で10年以上(まもなく11年)にわたって生きてきたなかで、ぼくが、観察し、考え、行動し、議論し、学んできたことなどのエッセンスを凝縮して、まとめた本である。

このブログとは別に、形式や文体も変えて、書いた52項目。

あくまでも、限られた視点でしかない。

 

書き始めたのはちょうど1年ほど前のこと。

ドラフトを一気に書いて、寝かせて、直して、しばらく置いて、直してということを、幾度も幾度も繰り返す。

ときには、書いたものを「捨て」て、新たに書き直す。

その間も香港での生活(観察と行動)は続き、またブログも書きながら、気づいたことを反映させ、項目間の整合性をつけ、また用語を直す。

ぼくにとって大切な人たちが「進捗」を時折確認してくれることに励まされながら。

 

書き始めて1年だけれど、この文章と内容に至るまでに、42年かかった。

もちろん、「すべて」を書いたわけではない。

「書くこと」自体が、無限の事象と心象の一部をすくいとる行為でもある。

書くことは生きることのただ一部である。

それでも、あくまでもぼくにとっては、42年という「時間」とその間に移動したいろいろな場所という「空間」を凝縮して、その一部を言葉にした。

 

言葉として浮かびあがってきたことのひとつが、「物語」であった。

人が生きるということは、物語を生きるのだということ。

香港であれば、<香港ライフストーリー>を、ぼくたちは生きる。

だれもが、「物語」を生きる。

そして、本を書き、Kindleで発行し、いろいろな人たちに共有するとプロセスそれ自体が、「物語」に彩られているのだということを、ぼくはあらためて感じている。


それにしても、香港で、東ティモールで、西アフリカのシエラレオネで、ニュージーランドで、アジア各国で、東京で、浜松で出会ってきた方々のことを思い出していたら、「感謝」はお会いした人たちすべてにお伝えしなければと、思ってやまなくなってしまった。

ここでも、ブログを読んでくださっている方々を含め、深く深く感謝させていただくことで、今日のブログを閉じたいと思う。

 

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