この時代に「ジグソーパズル」をやる楽しみ。- 楽しさと学びのプロセスとしてのジグソーパズル。
家の片づけをしていたときに、ジグソーパズルが見つかった。だいぶ前に購入してやらないままに、きれいに小さな箱に納まっていた。
家の片づけをしていたときに、ジグソーパズルが見つかった。だいぶ前に購入してやらないままに、きれいに小さな箱に納まっていた。
「パズル系」のゲームは、今ではスマートフォンを手にとれば、いつ、どこにいても、プレーすることができる。
だから、「ジグソーパズル」を販売する店舗などは、これからかなり縮小していくだろう(あるいはすでに、かなり縮小しているだろう。店舗を持てずオンライン店舗になるかもしれない)と漠然と考えていたのだけれど、実際には、ここ香港では、実店舗がのこっている。のこっている、というだけでなく、ある店舗はそれなりの広さを確保し、平日のお昼などでも人が入っている。
ここ香港はオフィス/店舗賃貸料がおどろくほど高いから、実店舗でやっていけるだけでもすごい。すごいと思いながら、このような趣味・遊びが今も好まれていることに、ほっとするところもある。
もちろん、これまでにもさまざまな形態が考案されてきている「ジグソーパズル」が、これからどのような運命をたどってゆくのかはわからないけれど(テクノロジーは想像をこえる仕方で道をひらいている)、このような遊びのすべてがデジタルにおきかわるわけではないと、ぼくは思う。CDが出ても、ストリーミング音楽が出ても、「レコード」がなくならないのと同じように。
そんなこんなで、いろいろと考えるところはあるのだけれど、ジグソーパズルは、遊ばれることでその使命をまっとうするものであるし、なによりも、ジグソーパズルをやってみたくなったので、小さな箱に納められたパズルを机の上にひろげ、とりかかることにした。
なによりも、画面のクリックではなく、じぶんの「指」を使って組み合わせてゆくことが心地よい。たぶん、10年ぶりくらいのことだから、組み合わせてみながら、じぶんの「組み合わせ方」を思い出していく。
あまり意識することなく、じぶんの身体に「組み合わせ方」がしみこんでいるようにも感じる。他の人と一緒にパズルをすると、「組み合わせ方」(ぜんたいの戦略とこまかい戦術)が、違っていることもわかる。そんな気づきがある。
300ピースの小さいパズルだから、2時間と見込んでいたのだけれど、途中で失速してしまい、結局、4時間ほど完成するまでにかかった(楽しさは完成ということ以上にプロセスにあるのだけれど、それでも時間の速さを気にしてしまうのである)。でも、途中むずかしくなってきてから、あきらめることなく、完成させることができた。
プロセスも楽しく、気づきがさまざまで、なおかつ、完成したときの嬉しさがある。
完成したジグソーパズルは、チベット仏教の「砂曼荼羅」のように、できあがってすぐに「解体」しようと思っていた。できあがりのものに固執・執着するのではなく、<手放す>のだ。
ここ数年、ぼくは<手放す>ことを、日々のなかで、実践してきた。だから、そうすることに、とくに抵抗もない。けれども、ジグソーパズルの「花」がきれいであったので、数日だけ、部屋を照らしだしてもらうことにした。
昔であれば「せっかくつくったんだから」などという気持ちからくる執着がのこって、なかなか壊すことができなかったと思う。今回は、そのような執着としてではなく、あくまでも、美を楽しむこととして、数日おいておいたのだ。
楽しさと学びのプロセスとして「ジグソーパズル」(あるいは同様の遊び)を体験することができる。そんなことを思う。
じぶんの人生物語の「ジャンル」は? - じぶんがじぶんに語る「ナラティブ」の色調 。
じぶんの人生物語の「ジャンル」ということを、ふと、思う。
じぶんの人生物語の「ジャンル」ということを、ふと、思う。
ちょうど、ゴールデン・グローブ賞(Golden Globes)のニュースを目にしていた日であったからかもしれない。
なにはともあれ、ふと、思ったのだ。
「ジャンル」(日本的発音になれたぼくにとって「genre」の発音はむずかしい)の定義は幅広いので、ここでは、ひとまず、創作作品の「カテゴリー」という程度にとどめておきたい。
とはいっても、「カテゴリー」も、最近は基準のとりかたがいろいろではある。ぼくが、ふと思って、イメージしていたのは、「アドベンチャー」とか、「コメディー」とか、「スリラー」とか、「ホラー」とか、「ドラマ」とか、といった、映画のジャンル(カテゴリー)である。
<じぶんの人生という物語>のジャンルを考えたときに、どのジャンルがもっともしっくりくるか。
もう少しことばにしてみると、じぶんが日々、じぶんに語る「ナラティブ」は、どのジャンルの調子・仕方で、(じぶん自身に)語っているか、語ってきたか。
最近のアメリカの映画やテレビシリーズなどのジャンルを見ていると、スリラーやホラーなどの系列が相対的に多いようにぼくには感じられ、時代の色調のようなものを反映しているにも思われる。
スティーブン・キングの描く世界は、アメリカの田舎に住む人たちが抱く恐怖の投影であるようなことを、村上春樹がだいぶ前にどこかで書いていたが、その延長線上において、スリラーやホラーなどが射程範囲を拡大してきているようにも見える。
そんな色調に、ぼくの<じぶんの人生という物語>のジャンルがずれている。
ぼくは、じぶんの「ナラティブ」は、「ドラマ」であると思っている。
「ドラマ」といっても、いろいろにサブカテゴリー化されるだろうけれど、ぼくは感動的なドラマが好きである。また、好き嫌いは別として、昔は、そこに悲劇的な要素が少し入っていた。
そんなじぶんの「ナラティブ」を反映してか、ぼくの人生の出来事は、「ドラマ」的に継起してきたように、ぼくは思う。
どのようにして、じぶんの「ナラティブ」の色調、ジャンルがつくられるかは、子供の頃からの周囲の影響もあるだろうし、じぶんに内在的な要因もあるだろう。生きていくなかで、ジャンルも変わってくることもあるだろう。
でも大切なのは、じぶんの「外の世界」にあらかじめジャンルが所与のものとしてあるのではなくて、外の世界にジャンルを与えるのはじぶん自身であるということ。じぶんのナラティブとその色調(ジャンル)にしたがって、じぶんに起きる出来事はじぶんに現れること。
そう考えたとき、ぼくは、もっと「コメディ」と「ミュージカル」のジャンルを、じぶんの人生物語のジャンルとして、じぶんの日々のナラティブに入れたい。「コメディ&ドラマ」の、ミュージカル仕立てになったらよいと思ったりする。
『TIME』誌に寄せられた近藤麻理恵の「2019年予測」。-「Greater shift toward mindfulness in the culture」(Marie Kondo)。
雑誌『TIME』(January 14, 2019)の記事(「The Brief: Year Ahead」)のなかで、影響力のある人たちが、2019年におこるだろうと予測する「大きな変動・変化」について語っている。
雑誌『TIME』(January 14, 2019)の記事(「The Brief: Year Ahead」)のなかで、影響力のある人たちが、2019年におこるだろうと予測する「大きな変動・変化」について語っている。
そのなかのひとりに、近藤麻理恵がいる。
『人生がときめく片づけの魔法』の著書で知られる近藤麻理恵。Netflixのリアリティ番組『Tidying Up With Marie Kondo』が配信されはじめ、またアメリカを中心に活動がさらにひろがりを見せているが、その近藤麻理恵が、上記の記事で、「We’ll take a mindful approach to our phones」(By Marie Kondo)という短い文章を寄せている。
In 2019, I believe that there will be a greater shift toward mindfulness in the culture. …People are starting to realize that happiness isn’t something that you achieve from the outside - through technology or the newest fad - but, rather, from within. I predict people will tune in to their inner voices and identify what sparks joy in all aspects of their lives, from their homes to their work and relationships. …
「We’ll take a mindful approach to our phones」(By Marie Kondo)『TIME』(January 14, 2019)
「2019年、この文化のなかで、マインドフルネスに向けて大きなシフトがおこると、私は信じています。…ハッピネスが、テクノロジーや新しい流行モノなど自分の外側から達成されるものではなく、むしろ、自分の内側から達成するものであることを、人びとは理解しはじめるのです。人びとは自分の内面の声に耳をかたむけ、家から仕事や人間関係にいたる、生活のあらゆる側面において、ときめきを与えてくれるものを判断するようになると、私は予測しています。…」
このようなメッセージを、近藤麻理恵は『TIME』誌に寄せている。
その他寄せられている文章のタイトルを拾うと、「The divided U.S. government will unite」「More companies will combine - or vanish」「Non-Russia scandals will grab our attention」「Genetic science will face greater control」「Behind-the-scenes diversity will bloom」と続いている。
こんななかにあって、近藤麻理恵のメッセージは、文章のタイトルこそ「We’ll take a mindful approach to our phones」というように「携帯電話」の使用の仕方にふれる形で他の記事とバランスを取ろうとしているが、「マインドフルネス」や「ハッピネス(幸せ)」に焦点をあてながら、異彩を放っているように見える。
もちろん、近藤麻理恵は「片づけ」のスペシャリストでありコンサルタントであるから、彼女の周りの人びとが取り組んでいる「片づけ」の経験(片づけだけでなく、片づけを通じた内面の変化)をベースに語っている。
それにしても、その「異彩」な文章とそこに託されたメッセージに、ぼくは惹かれる。語られていることが「新しい」わけでもないし、すごく「特異」ということもないのだけれども、実際に目にしている周りの人びとの「変容」を念頭に、しかし、それと同時に、「未来がこうなってほしい」というコミットメントがこめられているからであり、さらに、このような文章とメッセージを、上に見たような他のタイトルが並ぶ「場」で開示しているからである。
近藤麻理恵が「予測する」(正確には、いろいろな人たちと一緒につくりだしている)世界については、ぼくも同じイメージをもっている。
留意しておくこととしては、日々ふつうに暮らし、メディア上のいろいろなニュースに圧倒されていたりすると、世界が「暗く」見えてしまったりして、「Greater shift toward mindfulness in the culture」がほんとうにおこるのかどうか、疑いの目を向けてしまうことである。
でも、この世界のいたるところで、外部のモノやコトに支配されるような価値感から<解き放たれる>人たちが出てきている(番組『Tidying Up With Marie Kondo』で、見事に家の片づけを成し遂げてゆく人たちからも、その一端を見ることができる)。
ただ家族と話をしたり、ただ友人と談笑したり、ただ陽光の中を歩くことに、なににも変えられない歓びを見出して、<幸福感受性>(見田宗介)を取り戻している人たちがいる。
2019年だけ、ということではないが、これから、このような<解放の連鎖反応>(見田宗介)が、時間をかけながら、この世界にひろがってゆく。
ぼくには、そのイメージがくっきりと見えている。
ものごとを<望遠鏡で見る>こと。- 常備しておきたい「顕微鏡と望遠鏡」の視点。
原住アメリカ人の小部族であったヤヒ族の「最後の人」となったイシ(1860/1862~1916)、イシと親しくしてきた文化人類学者アルフレッド・クローバー、アルフレッド・クローバーの死後にアルフレッドの考え方を受け継いで「イシ」にかんする著作を書いたシオドーラ・クローバー夫人、それから娘にあたり、著書『ゲド戦記』で知られているアーシュラ・K・ル=グルヴィン。
原住アメリカ人の小部族であったヤヒ族の「最後の人」となったイシ(1860/1862~1916)、イシと親しくしてきた文化人類学者アルフレッド・クローバー、アルフレッド・クローバーの死後にアルフレッドの考え方を受け継いで「イシ」にかんする著作を書いたシオドーラ・クローバー夫人、それから娘にあたり、著書『ゲド戦記』で知られているアーシュラ・K・ル=グルヴィン。
思想家の鶴見俊輔(1922-2015)は、『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)に所収の「イシが伝えてくれたこと」のなかで、上に挙げた人物たちを登場させながら、さまざまな話と視点をおりこんで、ぼくたちに語りかけている。
ことばとして、ぼくのなかに残ったことのひとつに、<望遠鏡で見る>ということがある。
つぎのような文脈で、語られる。
アルフレッド・クローバーは思想を習慣としてとらえる。クローバーの著作には、個人が出てこない。クローバーの遺著の序文を書いたレッドフィールドは、大きな人類学の会議の中で、「ソーシャル・アントロポロジー(社会人類学)の方法が、クローバーの考え方に全然入ってこないのはどういうわけか」と言う。そうすると、クローバーは「社会人類学というのは、今このときに結びつけられすぎている。自分は、顕微鏡ではなくて、望遠鏡で見たい」とこたえた。
鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)
原住アメリカ人の場合には、アジア大陸からベーリング海峡を通ってアメリカに到達してゆくというように、そのあいだも消えることのない「習慣」があり、クローバーは、そのように伝えられるものを<望遠鏡で見る>ことを方法としていた。
一方、シオドーラ夫人は、「個人の生」に焦点をあて(<顕微鏡で見る>ことで)、たとえば、イシの伝記を書いた。
クローバーにとっては、習慣=ハビットが重要だという、ハビットの思想なのだが、シオドーラ夫人の場合には、ハビット・チェンジが重要なのだ。習慣をどういうふうにして変えるか。思想というのは無意識の層につめこまれている習慣ではなく、習慣をどういうふうに変えていくかだというのが、パースの定義だ。
鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)
これはとてもおもしろい視点だけれど、さらにおもしろいのは、娘であるアーシュラは、父親であるアルフレッド・クローバーと同じように、文明を<望遠鏡で見る>視点で、SFの作品を書いていったことだ(こんな系譜のなかで『ゲド戦記』を読むといっそう深みが増すだろう)。
鶴見俊輔はこのようなつらなりの諸相にきりこんでゆき、興味深い視点を提示している。「ハビットの思想」と「ハビット・チェンジの思想」というのは、興味深い視点のひとつだ。
ぼくはこのような考え方や見方において欲張りだから、<顕微鏡で見る>ことも、<望遠鏡で見る>ことも、同じように大切にしていきたいと思う。けれども、今この時代にあってよりいっそう大切なのは、<望遠鏡で見る>という視点であると考えている。
もちろん、顕微鏡にしろ、望遠鏡にしろ、それによって、「何をどのように」見るのかにもよってくるけれども、視点がどうしても、短期的かつ微視的になりやすい時代に生きているように思えるのだ。意識していないと、<望遠鏡で見る>ことがどうしてもおそろかになってしまう。
2019年のはじまりに、「1年」ということを考える。メディアの記事でも、この1年が語られる。それはそれでよいのだけれど、そのときに、<望遠鏡で見る>こともしたい。
人間の歴史において、ぼくたちがどのような時代に生きているのか。未来を望遠鏡で見たときに、どのような光景を見ることができるだろうか、あるいは見たいだろうか。そんな問いを奏でることのできる<望遠鏡>をいつも備えておきたい。
なお、2019年は、「顕微鏡で見る」と「望遠鏡と見る」という言い方が直接に指し示すような、実際の「人間(の内側)」と「宇宙」それぞれの方向に、テクノロジーや探索が進展していくものと思われる。NASAの探査機が太陽系の最果てにとどき、中国の探査機が月の裏側に着陸するというニュースが、2019年のはじまりにとどいたように。
東ティモールで、ぼくはよく笑った。-「ギャグやジョーク」が創る/が生まれる関係性。
西アフリカのシエラレオネと東ティモールではNGO職員として、それから香港では人事労務コンサルタントとして仕事をしてきた。シエラレオネの人たち、東ティモールの人たち、香港の人たち、世界のさまざまなところから来ている人たち、海外で仕事をする日本の人たちと、一緒に仕事をしてきた。
西アフリカのシエラレオネと東ティモールではNGO職員として、それから香港では人事労務コンサルタントとして仕事をしてきた。シエラレオネの人たち、東ティモールの人たち、香港の人たち、世界のさまざまなところから来ている人たち、海外で仕事をする日本の人たちと、一緒に仕事をしてきた。
これらの経験は、ぼくにとって、なににもかえられない、ほんとうに宝の経験である。
26歳でシエラレオネに赴任。最初の赴任が「アフリカ」という、今思えば、(ぼくにとって)これ以上ないほどの機会をいただいた。
現地組織またプロジェクト運営上は「管理職」であり、来る日も来る日も試行錯誤の連続のなかで、「組織を運営する」ことと「一緒に働く」ということを経験してきた。15年以上が経過した今から振り返れば、ああしていればこうしていれば、ということがいろいろとあるのだが、それでも、当時は、じぶんの「限界線」をはるかに超えてゆくような気持ちで、全力を尽くしたと思う。
翌年(2003年)に東ティモールへと新たに赴任する際には、シエラレオネでの「経験」を最大限に生かしていこうと、気持ちを新たにして、東ティモールの首都ディリに降り立った。
結局、2007年初頭まで東ティモールにいたのだけれど、東ティモールで「一緒に働く」ということを思い起こすとき、うまくいかない時期や厳しい時期などがいっぱいにあったなかで、それでも、ぼくは一緒に働いた人たちと「よく笑った」ということを思い起こす。
「厳しい時期」には、ディリ騒乱という外的な状況変化も含まれる。ディリ騒乱によってぼくは一時的に東ティモールから退避しなければいけない状況になったが、そんな時期があったにもかかわらず、一緒に仕事をしながら、あるいはコーヒー農園の近くで一緒に過ごしながら(寝食を共にしていた)、「よく笑った」と思う。
「よく笑う」ことは、たとえば、東ティモールの同僚たちとかわすギャグやジョークから生まれた。日本であれば、たとえば「オヤジギャグ」というカテゴリーに投じられるような、ほんとうに単純で、「つまらない」ギャグやジョークで、ぼくたちは、ほんとうによく笑った。
はたから見れば、なんでそんなギャグやジョークで笑えるのだろう、というような「内容」であったと思う。でも、ぼくたちは、それで充分であったのだ。
言語の違いや生活習慣/行動の仕方の違いなど、異文化の<あいだ>だからこそ生まれてくるようなギャグやジョークもあった。同一文化内のデフォルト的なギャグやジョークではないから、双方に新鮮味があったことも、「おかしみ」を共に感じることができた一因であったかもしれない。
でも、今振り返ると、ギャグやジョークが生まれてくるような<関係性>の土台があったことが、とても大きなことであったのだと、ぼくは思う。そのような土台において、ギャグやジョークは生まれると共に、関係性をさらに創っていく円滑油となる。
とてもシンプルで、単純で、「内容」という内容がないようなギャグやジョークをかわすことのできる関係性。
とてもシンプルで、単純で、「内容」という内容がないようなギャグやジョークで、充分に笑い合うことのできる関係性。
そんな笑いの祝祭空間で、関係がさらに熟成し、「笑う」ということだけで、ともにいるということの<存在>を祝福できるような関係性。
うまく意思が伝わらないことも、コミュニケーションの行き違いも、いろいろとあったけれど、「よく笑い合う」関係性が、もろもろを包んでいた。
2007年、東ティモールを去るとき胸にこみあげるものがあったけれど、それは、今だからこそ、いっそう愛おしいものとして、ぼくの胸にこみあげてくるものがある。
そんな関係性のなかで、一緒に仕事をし、一緒に生きてきた体験は、ほんとうに、ぼくにとっての宝物だ。
<人生はみじかく、はかない>という命題。- この命題の「自明性」をほりおこし、くずしてゆく。
ビートルズに「We Can Work It Out」という曲がある。大学生の頃、その曲を聴きながら、いつも「ひっかかる」箇所があった。
ビートルズに「We Can Work It Out」という曲がある。大学生の頃、その曲を聴きながら、いつも「ひっかかる」箇所があった。
少しテンポと調子が変わって、ポール・マッカートニーとジョン・レノンの歌声がひびく、「Life is very short, and there’s no time for fussing and fighting, my friend…」と。「人生はとても短いんだ、くよくよ悩んだり、争っている時間はないんだよ」と、友人に語りかける。
「Life is very short, and there’s no time…」という、わかりやすく、聴き取りやすい英語だったからかもしれないけれど、「人生は短いんだ」というのが、どうも心にひっかかる。
「人生は短いんだ」ということばに、どのように自分の生きかたをつなげてゆくのか、というところで、「人生は短いんだ」からぼくは「後悔しないように…」を選びとり、生きてきている。この「人生は短い」が語られる文脈のなかでは、「だから、はかない」と続くこともあるなかで、その方向にではなく、別の方向を選びとる。
けれども、そもそもの「人生は短い」ということは、どう見たらよいのだろう。
「時間」にかんする名著『時間の比較社会学』において、真木悠介はその冒頭で、<人生はみじかく、はかない>という命題をあげて考察している。
「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」という劉廷芝の詩をとりあげ、客観的でのがれがたい時間の事実をうたっているように見えるが、そうではなく、「人間のみの個別性にたいするわれわれの執着のもたらす感傷にほかならないこと」がわかると、検討を加えている。
自分と花がもし入れ替わったとしたら、花である自分は、花とくらべてほとんど無限の生を享受しているかのような人間のことを、ぜんぜん違った感傷でうたっただろうというのだ。また、じっさいに、人間は動物のなかでももっとも寿命が長いとしながらも、「そうはいっても…」と聞こえてくる声を想定して、つぎのように書いている。
…しかしこのように数学的に検証してみても、人間の生の「みじかさ」を実感しておののいている人はけっして納得しない。人間の寿命が仮に二百年であり、あるいは二千年であっても、かれらはそのことに納得しないように文化を作っていただろう。「人間ーこの短命なものどもよ」と古代の神話のなかでいうのは神々であり、神々はふつう無限の生命を享受するからだ。人間の寿命が馬や獅子よりも長く、あるいは二百年、二千年であったとしても、永遠のまえには一瞬にすぎないからだ。
だがそれにしてもなぜ永遠を準拠にとるのか?
<人生はみじかい>という命題はじつは、なんらの客観的事実でもなく、このように途方もなく拡大された基準のとり方の効果にすぎない。真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)
なんどもなんども読み返してきた文章であるのだけれど、今回読み返しているなかで、なぜか、ここの箇所にぼくはひきつけられている。とくに、「人間の寿命が仮に二百年であり、あるいは二千年であっても、かれらはそのことに納得しないように文化を作っていただろう」というくだりである。
それは、人類が目指している(だろう)「不死」ということに、重なったからである。
「人類の21世紀プロジェクト」として人類がつぎに見据えている「プロジェクト」は、不死(immortality)、至福、(bliss)、「Homo Deus」へのアップグレードの3つであると、歴史学者Yuval Noah Harariは著書『Homo Deus』で書いている。
人類が「不死」を達成させるかどうかはわからないけれども、仮に人類が「不死」にちかい長寿(二百年だとか、二千年だとか)を達成したとしても、<人生はみじかい>ということばはなくならないのではないか。「基準」を<無限>に設定し、二百年であっても、二千年であっても、「そのことに納得しないような文化」を作ってしまうのではないだろうか。そんなことを、ぼくは考えるのである。
では、どの方向性に出口を見出してゆくのか、ということが問われる。
整体の創始者といわれる野口晴哉(のぐちはるちか)は、自身の哲学のようなものである「全生」ということにふれて、かつて、つぎのように書いた(生きた)。
…象の百年生くるも全生なら、蝉の一夏の生涯も又全生なのだ。大と小と対立させてその価値に拘泥するのは、人間的な有限感覚に基づいているに他ならぬ。人間の五十年は蚊の一夏に比して長いとは言えぬ。欅の三千年の寿命も猫の十年に等しい。全は、全だ。
この如く、人間が人間感覚からのみ推して ものを対立させているなかに宇宙的無限感を得たものがいたなら、こう言うだろう。野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)
そして、真木悠介自身は、上記に引用した文章につづけて、つぎのように書いている。
…「みじかさ」が、たんに相対的不満ではなく絶対的なむなしさの意識となるのは、このばあいもまた、生存する時がそれじたいとして充足しているという感覚が失われ、時間が過去をつぎつぎと虚無化してゆくものとして感覚されるからである。
真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)
真木悠介は著書『時間の比較社会学』のぜんたいを通して、「生存する時がそれじたいとして充足しているという感覚」が失われてきたことの社会的な構造などをおいながら、その感覚を豊饒に享受する道を照らしている。
もちろん、これらの「道」を生きるのは、ぼくたちひとりひとりである。その助走として、<人生はみじかい>ということ自体が問われなくてはならない。
海外に住みながら「季節」のことをかんがえる。- 「雨季と乾季」あるいは「四季」を生きながら。
「2019年」になって、人間がつくりだす紀年法(西暦はキリスト紀元)のことをかんがえていたら、<自然>のことが、ふと、頭の中に浮かんだ。紀年法による年ではく、「年」という時間の単位は地球が太陽を一周する時間(「閏年」での調整が入るが)であり、さらには、そこには「季節」がある。
「2019年」になって、人間がつくりだす紀年法(西暦はキリスト紀元)のことをかんがえていたら、<自然>のことが、ふと、頭の中に浮かんだ。紀年法による年ではく、「年」という時間の単位は地球が太陽を一周する時間(「閏年」での調整が入るが)であり、さらには、そこには「季節」がある。
紀年法などは、人間の「頭脳」に働きかけるのに対し、季節などは、人間の「身体」に直接に働きかけるものだと、ふと思ったのだ。
西暦の「2000年」や日本の元号の変更などが人びとの意識(そして行動)を変容させて時代をつくってゆくのに対し、一年そして季節のうつりかわりは、人びとの「身体」に直接に作用してくる。
2002年から海外に住んできたなかで、「季節」ということを、ぼくはときおりかんがえる。
2002年の半ばから2003年の半ばにかけて住んでいた西アフリカのシエラレオネ、それから2003年の半ばから2007年初頭まで住んでいた東ティモールで、ときおり、「季節」のことをかんがえたりしたことを思い起こす。
シエラレオネも東ティモールも赤道に近く、熱帯性の気候で、雨季と乾季のうつりかわりがある。それまで日本とニュージーランドに住んできたぼくの身体にとっては、この「雨季と乾季」の季節のうつりかわりは、新しさがあるいっぽうで、どこかなじまないようなところがのこる感覚があったことを覚えている。
もちろん「雨季」的な気候は初めてではないし、また「乾季」的な気候も初めてというわけではない。でも「四季」にすっかり慣れてきた身体にとって、最初の一年・二年のころは、そのような新しさによる興味、それからなんとなくの違和感を感じたのである。
熱帯性の「雨季と乾季」では、日本のような寒い「冬」は訪れないから、それはそれでとても過ごしやすいところでもあるのだけれど、「四季」に慣れ親しんできた身体だからだろうか、最初のころは「四季がない」というふうにかんがえてしまう。四季という季節のうつりかわりの「いいところ」が、ちらほら、ぼくの脳裡にうかんできたりするのであった。
あるいは、いい・わるいということよりも手前のところで、四季ではない季節をすごしてゆくことで、「季節」というものが、じぶんの身体に及ぼす影響のようなものをよりいっそう感じ、ぼくはときおり季節のことをかんがえていたのだ。
東ティモールですっかり「雨季と乾季」の気候に慣れたあと、ぼくは、ここ香港に移り住むことになる。
亜熱帯性の気候の香港。日本と比べると、相対的に、冬はそれほど寒くはない。日本のような秋の紅葉があるわけでもなく、冬に雪はふらない。それでも、そこにはやはり「四季」が、香港の「四季」がある。
東ティモールの「雨季と乾季」を経験している身体であったから、よりいっそう、「四季」に敏感であったのかもしれないと、今では思う。日本から直接に香港に来たのであれば、香港に、四季の「欠如」を見ていたかもしれないし、あるいは「香港の四季」に気づくのに、もっと時間を要したのかもしれない。
でも、やはり、香港には香港なりの季節のうつりかわりがあるし、さらには、「雨季と乾季」のシエラレオネや東ティモールにだって、シエラレオネなりの、また東ティモールなりの季節のうつりかわりがある。
それら季節のうつりかわりのなかで、季節の影響を受けながら、あるいは季節を楽しみ享受しながら、人びとはそれぞれの仕方で、それぞれに生きている。
都市/「脳化社会」(@養老孟司)は季節をできるかぎり脱色してゆくようなところがあるけれど(そうすることで人間社会を自然的制約から離陸させてきたけれど)、そうでありながら、しかし、あたりまえだけれど季節はなくなることはないし、いろいろな仕方で、生きるということと共振している。
「異文化」だけでなく、<異気候/異季節>ともいうべき視点も、海外に住みながら、ぼくはいっそう、この身体に感じてきたし、これからも感じてゆくことを思う。
「鶴見俊輔の世界」のとびらをひらく。- 2019年に「やりたいこと」をはじめる。
2019年にしようと思っていたことに、さっそくとりかかる。「やるべきこと」ではなく、「やりたいこと」。
2019年にしようと思っていたことに、さっそくとりかかる。「やるべきこと」ではなく、「やりたいこと」。
それは、思想家の鶴見俊輔(1922-2015)の著作を読むこと。
読むことの「先」になにが明確にあるのかはわからない。明確に「読む目的」があって読む本もあるけれど、鶴見俊輔の著作が、ぼくをどこにつれていってくれるのかはわからない。
なお、鶴見俊輔の著作にふれることは初めてではない。20年ほどまえに、鶴見俊輔の作品にふれたことがある(鶴見俊輔をめぐる論考やエッセイはいくつか読んだことがある)。でも、当時は、ぼくの側が「読む準備ができていない」状況であったのだと思う。
今回ふたたび読もうと思った直接的なきっかけは、2018年に読んだある本の「あとがき」の記述であった。
それらの本は、加藤典洋『戦後入門』(ちくま新書、2015年)と見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)。
加藤典洋は、じぶんという書き手をつくってくれた鶴見俊輔にどうしても読んでほしいと、大著『戦後入門』の執筆を急いでいたが、まにあわなかった。いっぽう、見田宗介は、「鶴見さんの、素朴なポジティヴなラディカリズムは、一番大切なことをわたしに教えてくれた」と書き、自著を鶴見俊輔に捧げている。
心から尊敬する加藤典洋と見田宗介の両氏が、鶴見俊輔から「教えられたこと」をそれぞれの生のなかで、それぞれの仕方で継承している。
ぼくはそのように続いてゆく「(一番)大切なこと」を、ぼくの仕方で、ひろいだしたくなったのである。でも、明確な仕方で、目的地がわかっているわけではない。ただあるのは、きっとぼくにとって大切なこと(気づきなど)があるのだという感覚だけだ。
鶴見俊輔の著作を読むために、いろいろと「助走」はしてきたつもりだ。加藤典洋と見田宗介の著作を読んできたことも、ある意味、「助走」だとも言える。
「鶴見俊輔」についてふれられているものも読んできた。見田宗介は、鶴見俊輔について、たとえば、つぎのような逸話を論壇時評として書いた文章のなかにすべりこませている。
…(…「こんど出た吉本隆明の『ナショナリズム』をもう読みましたか?わたしが徹底的に批判されているんです。すばらしい論文です。ぜひ読んでみて下さい」。学生であったわたしに鶴見は目を輝かせて言った。爽快だった。本質的な思想家は、論争での勝敗などには目もくれぬものだ)。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
もちろん、ここには「見田宗介の眼」を通した「鶴見俊輔」が語られている。そうだとしても、ここにはとても大切なことが語られていると、いくども読み返してきた箇所だ。
というわけで、2019年、さっそく「鶴見俊輔コレクション」の一冊、鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)を手に入れて、読み始めることにした。
「自分の足で立って歩く」と題された第1章の最初に、「イシが伝えてくれたこと」という文章(談話をもとに文章化されたもの)が置かれている。その最初から、ぼくの思考と感覚は、鶴見のことばにつかまれてしまう。
西洋哲学史は、その全部をプラトンに対する注として読むことができるという。その傾向は中国にもあって、あらゆる著作は『論語』に対する注として読めるというふうに、新しい発見は全部新しい注として発表される。
これはおもしろいかたちなのだが、哲学史の書き方は、必ずしもそうでなくてもいい。自分がすでに採用している生き方に対するコメンタリーとして、哲学を書くこともできる。どちらかといえば、私はそちらのほうを採りたい。哲学というものを、個人が自分で考えて動くときの根元の枠組みとして考えたい。鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)
「自分がすでに採用している生き方に対するコメンタリーとして、哲学を書く」。
これだけでもぼくは心ひかれるけれど、「イシが伝えてくれたこと」という文章は、たくさんのことをぼくに教えてくれる。
今年も、すばらしい出会いが、目の前にひろがっていることを予感する。
「三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景は一変する」(見田宗介)。- 富の分配、資本主義の未来、人間像。
「現代社会はどこに向かうか」という問いを立てて自ら応答してゆくなかで、社会学者の見田宗介は、「資本主義」の行く末について、その大枠をつぎのように書いている。
「現代社会はどこに向かうか」という問いを立てて自ら応答してゆくなかで、社会学者の見田宗介は、「資本主義」の行く末について、その大枠をつぎのように書いている。
必要な以上の富を追求し、所有し、誇示する人間がふつうにけいべつされるだけ、というふうに時代の潮目が変われば、三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景は一変する。必要な以上の富を際限なく追求しつづけようとするばかげた強迫観念から資本家が解放されれば、悪しき意味での「資本主義」はその内側から空洞化して解体する(人間の幸福のためのツールとしての資本主義だけが残る)。ホモ・エコノミクスという人間像を前提とする経済学の理論は少しずつ、しかし根底的に、その現実妥当性を失う。人間の欲望の全体性に立脚する経済学の全体系が立ち現れる。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
「…時代の潮目が変われば、三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景は一変する」と、見田宗介は、人間の三千年の歴史を視界にいれながら、でも、それはやがてやってくる未来として明晰に語っている。
それにしても、たったこれだけの文章だけでも、ほんとうにとても多くのことが語られている。
それぞれをかんたんに見ておきたい。
(1)富の分配
「必要な以上の富」ということが触れられているが、上記の文章の直前で、「富の分配」と「競争」について、見田宗介は書いている。
日本を含む先進産業諸社会では、「すべての人びと」に、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」したとしても、そこには富の余裕がある。富の余裕は、未来にではなく、すでにここに存在している。
だから、「三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景が一変する」ことは、「if you want it」(@ジョン・レノン)であれば、いつだって可能な世界に、ぼくたちはすでにして、いることになる。よく言われるが、世界の軍事費を貧困対策にまわせば、いつでも現在あるような形と内実の貧困をなくすことができる時代なのだ。
見田宗介自身が書いているように、経済的不平等や格差を「なくす」ということではなく、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」というところをまず確保することである。「余裕な部分」は、いくらだって経済ゲームで自由な競争をしたらよいと、見田宗介は指摘している。
なお、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」ということは、ベーシックインカムにつながるポイントとなるところだけれど、少なくとも認識しておくべきことは、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」をしても、「多大な富の余裕」が存在しているという現在についてである。
(2)「資本主義」の未来
社会学者の大澤真幸が、世界の終わりは想像できたとしても、資本主義の終わりは想像できない、というようなことをどこかで語っていたが、それほどに「資本主義」は、現在の世界を根底から形づくっているということである。
そのような「資本主義」の弊害はいろいろと語られてきたし、ここで議論を繰り返すことは目的ではない。
見田宗介が言及していることで肝要なことは、「人間の幸福のためのツールとしての資本主義」ということ。概念というほどまでここでは精緻化されていないし、具体的なところも描かれてはいないけれど、「資本主義」は資本主義であるままで、<人間の幸福のためのツールとしての資本主義>として機能させてゆくことができる見通しを、見田宗介はもっている。
それは願望という見通しではなく、現実に、<人間の幸福のためのツールとしての資本主義>の試みが見られ始めていることを含めての見通しである(見田は、アメリカで法制化されてきた「ベネフィット・コーポレーション」の動きに言及している)。
(3)経済学などが前提とする「人間像」のこと
さらに、さらっと書かれているようにも見えるけれど、<人間の欲望の全体性に立脚する経済学>ということが述べられている。
経済学などの専門家学は特定の条件のもとに理論を発達させ精緻化させてきたとはいえ、「ホモ・エコノミクス」という人間像のみを土台とする経済学に対して、これまでにもさまざまな批判とのりこえが提示されてきた。
たとえば、経学者アマルティア・センは、「合理的な愚か者」という言い方で「ホモ・エコノミクス」という人間像を批判し、経済合理性だけでなく「倫理」を動機として行動する人間像をもちこんで、理論をアップデートしようとした。「経済学」という体系の内部からののりこえである。
見田宗介は「社会学」を基盤としているけれど、ひろく「社会科学」また「人文科学」、さらには自然科学にまで視界をひろげながら、<人間の欲望の全体性に立脚する経済学>ということがひらかれることを見通している。
その見通しが拠って立つのは「理論」そのものということだけではなく、現実に、「ホモ・エコノミクス」という人間像のように行動する人間と社会が変わってゆくことを見据えている。理論と現実とはそのあいだにいろいろなギャップや齟齬がありながらも、それでも相互連関しているものであるからだと、ぼくは考えている。「光景が一変する」ところでは、現実も、理論も、変わってゆく。
時代の潮目が変われば、「三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光みたいに、世界の光景は一変する」。「三千年の悪夢から目覚めた朝の陽光」は、どれほど鮮烈かと、ぼくは想像する。
でも、この想像が現実化されることははるか彼方ではなく、この現代社会のなかにすでに、さまざまな仕方で生成しつつあること。そして、まずは、じぶんが悪夢から目覚めた朝の陽光を経験するところから、はじまってゆくのだと、ぼくは2019年のはじまりに、あらためて思う。
香港で、「魚蛋河紛」の麵を食べて。- 2018年の終わりに。
香港では、クリスマスを過ぎたころから、「香港の冬」の寒さがようやく訪れている。クリスマスのころは昼間は半袖で過ごすほどであったけれど、今は結構着込んで、部屋では暖房を稼働させている。
香港では、クリスマスを過ぎたころから、「香港の冬」の寒さがようやく訪れている。クリスマスのころは昼間は半袖で過ごすほどであったけれど、今は結構着込んで、部屋ではヒーターを稼働させている。
きりっとした空気がながれる2018年大晦日、香港の空はひきつづき、しずかな雲が織りなす風景をみせている(ブログ「香港の「空」を見ながら。- 香港の、陽光としずかな雲の織りなす風景。」)。
こんな日には、日本にいれば「年越し蕎麦」が選択肢のひとつだろうけれど、海外に長く住んでいると、選択肢はいろいろだ。
香港に来るまでは知らなかったのだけれど、香港では「うどん」(烏冬)はごくごく日常で食されている。でも、「蕎麦」はどうしてか、浸透していかない。うどんはいろいろなレストランのメニューに組み込まれ、うどん専門店も人気だけれど、蕎麦はそのようなわけにはいかないのだ。
なぜなのかは、よくわらかない。香港の人たちともそんなことを話したことがあったけれど、その「理由」までは深く入り込むこともなく、理由は定かではない。
蕎麦の独特の味があわないのか、あるいはとてもおいしい蕎麦にありつけないからなのか。ひとつぼくが思うのは、麺と具やスープ(あるいは、たれ)とがつくりだす世界という視点で、うどんのほうが、多様性をひらいているからではないかということ。つまり、うどんは、どんな具やスープやたれとも、大体において、組み合わさることができるから、ということである。
香港の食堂で、朝食に提供されているマカロニスープなんかを見ていると、そう思ったりするのだ。香港という、いろいろなフュージョン料理を花開かせる場所は、うどんのように、多様な組み合わせを実現させてくれる素材がうけいれやすいのではないかと思ったりするのである。
あくまでも、ぼくの仮説のひとつである。
ぼくはどちらかというと「蕎麦派」なので、香港でおいしい蕎麦(立ち食い蕎麦でもよいのだけれど)がないことは少し残念に思ってきたのだけれど、ここは香港、その他いろいろな麺類を楽しむことができるわけだし、現地では現地のものがやはりおいしい。
香港にいて無理してまで年越し蕎麦を食べるつもりもなく、でも、外は結構寒く、年越し蕎麦が暖かいスープ麺を連想させることから、「魚蛋河紛」の麵を大晦日に食べることにした。
「魚蛋河紛」は、英語ではFishball Noodleが近い。麺はきしめんのような麺で、具として、つみれ(魚団子)やはんぺんなどがつく。
香港では相席が日常であり、大きなテーブルに相席ですわり、香港の人たちに混じって食べる。食べながら、すっかり、心身が暖かくなる。香港各地に専門店があって、有名店はいつも人が並ぶ。今日も、早めに行って麺を楽しみ、食べ終わってお店から出ると、外は行列であった。
香港のスピーディーな速さのなか、わいわいがやがやとエネルギーのみなぎる店内で、いつものように「魚蛋河紛」を楽しみ、店をあとにしてから、ぼくは、「香港」の風景を、なぜだかどこか遠くから見ているような、懐かしく見ているような、そんなふうに感じるのであった。
なにはともあれ、香港での一年が、ふたたび過ぎようとしている。
香港の「空」を見ながら。- 香港の、陽光としずかな雲の織りなす風景。
暖かい陽気のクリスマスのあと、ようやく、香港に「冬」がやってきたようだ。陽光は暖かさをふりそそいでいるけれど、ときおり吹く風が冬の冷たさをはこんでくる。
暖かい陽気のクリスマスのあと、ようやく、香港に「冬」がやってきたようだ。陽光は暖かさをふりそそいでいるけれど、ときおり吹く風が冬の冷たさをはこんでくる。
道をゆく人のなかには、半袖であったり、サンダルを履いている人もいるから、いつもながら、なんとも捉えどころのない冬ではあるのだけれど、やはり季節はうつりかわりを見せている。
香港の街は大気の問題からどこかうっすらと曇りがかったようでいるのだけれど、香港の「空」では、暖かな陽光としずかに動きゆく雲たちのコラボレーションが鮮やかにきらめきをつくりだしている。
ふーっと、心がもちあがるように、すいこまれる。
2018年も終わろうとしているなか、でも、そんなことを気にするふうでもなく、香港の「空」は、この地球の美しさをたたえている。
<人間の生きることの歓び>は、ただ、このような経験のうちにあったりする。そんなことを、ぼくは思い起こす。
「発展途上国の開発・発展と国際協力」を研究していたころ、「人間のベーシックニーズ」(住まいや食べ物や水など)ということにふれ、「ニーズ」ということを正面から考えていた。そのようなとき、見田宗介の名著『現代社会の理論』に出会い、その本のなかで語られる<人間の生きることの歓び>に、ぼくはすっかり惹かれて、いくどもいくども読み返すことになった。
…生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。…
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも、本原的なものである。見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)
「ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受」する。
「必要(ニーズ)」よりも歓喜と欲望は本原的であると、見田宗介は書いている。だからといって「必要」をおろそかにしていいということではないけれど、「生きる」ということが、「最も単純な歓びの源泉」であることの経験と享受と理解は、決定的なものであるように、ぼくは思う。
この源泉は、いま、そしてこれからの時代を、一歩、一歩、あゆんでゆくための、たしかな土台である。
香港で、日本産の「さつまいも」を選びながら。- 「さつまいも」への視点。
「さつまいも」がいっぱいに積まれている。
「さつまいも」がいっぱいに積まれている。
日本のいろいろな産地・農場の「さつまいも」だ。ぼくの生まれ故郷である浜松の「うなぎいも」(うなぎを肥料として栽培されたさつまいも。浜名湖のうなぎと遠州浜のさつまいものコラボレーション)も並んでいる。
ここ香港の、スーパーマーケットの光景だ。
さまざまな産地・農場の「さつまいも」が、ほんとうにいっぱいにならんでいる。ここ数ヶ月、ずっとそんな様子だから、香港の人たちはそんなにたくさんの「さつまいも」を食べる習慣があったかどうか、途中から疑問がわいてくる。
香港での「さつまいも」と聞いて、ぼくが思いつくのは、デザートである。「糖水」のひとつで、しょうがのスープにさつまいもが入っている。とてもシンプルなデザートで、身体があたたまる。家でもつくることのできるデザートだけれど、「糖水」を提供するような香港のデザート店で食することができる。
「さつまいも」と聞いてすぐに思いつくのは、そのくらいなのだ。だから、たくさんの日本産「さつまいも」を前にしながら、ふと気になってしまうのである。
香港で10年以上暮らしながら、香港で受け入れられる「日本食」や「日本食食材」の動向が気になったりするのだけれど、たとえば、「納豆」がより日常化して、香港のスーパーマーケットで売られるようになってきたのを実感する。香港に住んでいる日本人だけでなく、香港の人たちも購入している。
「さつまいも」も、ここのところスーパーマーケットでよく見られるようになっていて、日本からの市場開拓と輸出がすすんできたのだろうと思いながら、また供給が増えたことから価格もよりリーズナブルになってきている恩恵も受けながら、ぼくは「さつまいも」を購入する。こうして、日本産の「さつまいも」はやはり甘いなぁと感じながら、おいしくいただくのである。
そうしているあいだにも、スーパーマーケットには、日本から輸入された「さつまいも」が、ひきつづき、いっぱいに並んでいる。さらに、増えたようにも感じるほどだ。
そのようにして「ふと気になったこと」を、ぼくは、香港の友人に直接に聞いてみる機会があったので、聞いてみることにした。
香港の人たちは、どのようにして「さつまいも」を食べるのか。
「デザートとして食べますよ」と、ぼくが連想していた、しょうがとさつまいもの「糖水」が最初の応答であった。
でも、それだけでは、来る日も来る日もスーパーマーケットに並ぶ「さつまいも」の事情は説明しきれない。だから、ぼくの質問の背景を説明して、再度聞く。
「そのままでも食べるよ。ふつうにふかすなどして」
日本産の「さつまいも」はとても甘く、最近は価格もリーズナブルになってきているから、よく食べられているのではないかと、友人は話してくれる。
ぼくは別に突飛な回答を期待していたわけでもないから、話を聴きながら、ふつうに納得してしまう。
「さつまいも、香港」でグーグル検索をしてみると、日本の農家の事情、香港・台湾・シンガポールの市場開拓など、記事や動画などで知ることができ、これがなかなかおもしろい。
日本では小さい「さつまいも」の市場価値がひくいところ、香港では(料理しやすいことなどから)小さいものが好まれると見た農家が、そこに特化してゆく様子などが語られていたりするのだ。
いろいろな人たちの、いろいろな事情が、いろいろな仕方で絡まり、つながりながら、香港のスーパーマーケットに日本産の「さつまいも」が、こうして並んでいる。
そのような新たな「視点」が、いっぱいに積まれている「さつまいも」に、いっそう興味をもつことの契機となる。いつも見ていたなんでもない風景が、「いつもとは違う」風景として見えてくる。
そんな香港のスーパーマーケットの野菜売り場で、「さつまいも」を前に、状態のよいものを選ぶ。選んでいると、ふと、香港の人たちも立ち止まって、「さつまいも」を選びはじめるのであった。
香港で、「納豆」を食べながら。- 香港で日常化する「納豆」。
2002年から海外に住むようになって16年が経過し、それ以前のニュージーランドでの滞在(1996年)も含めると、通算で17年ほど海外に住んでいることになる。これまでの人生の40%ほどの「時間」が、日本の外であったことになる。
2002年から海外に住むようになって16年が経過し、それ以前のニュージーランドでの滞在(1996年)も含めると、通算で17年ほど海外に住んでいることになる。これまでの人生の40%ほどの「時間」が、日本の外であったことになる。
海外にいながら、日本と「海外」の<あいだ>のようなところで、いろいろと経験し、いろいろと考え、いろいろと感じてきた。
そんななかで「納豆」を媒体としながら、考えることもあったりする。「納豆」とは、あの、食べ物の「納豆」である。
ここ香港で暮らしながら、ぼくは結構な頻度で「納豆」を食べている。その頻度は、今では日本に住んでいたときと変わらないくらいである。
香港に住みはじめてから11年半ほど経過したが、そのあいだに、納豆はますます容易に手にいれることができるようになってきた。
香港に来た最初の頃は、たとえば、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるSOGOの地下、あるいは日本人が多く住むTaikoo Shing(太古城)にあるAPITAに行って、納豆を含め日本食材を購入していた。それが、最近では、香港系のスーパーマーケットでも、まるでこれまでずっとそこにあったかのように、納豆が並んでいる。
納豆を購入する人が日本人だけにかぎらず、マーケットが拡大してきたのだろう。このようなマーケットの拡大のお陰もあって、納豆が容易に手に入るようになり、ぼくはいつでも好きなときに納豆を食べることができるのだ。
ニュージーランドにいたときはどうだっただろうかと、ぼくは思い返す。ニュージーランドのオークランドで、ぼくは日本食レストランで働いていて、果たしてレストランで納豆を供していたかどうか。さすがに、1996年のことで、ぼくの記憶は定かではない。でも、普段食べることはなかったことを、ぼくは覚えている。日本食食材のお店も、当時は小さなお店があっただけである。
2002年から2003年にかけて西アフリカのシエラレオネにいたときは、さすがに納豆はなかった。シエラレオネにいる日本人は一桁であったし、日本食材というものは、海外で造られたキッコーマンの醤油のようなものを除いてはなかったと思う。アフリカと日本との「距離」をさすがに感じたことを覚えている。
でも、2003年の半ばに東ティモールに移ったときは、驚かずにはいられなかった。当時、まだ日本の自衛隊が東ティモールに展開していたことの影響もあっただろうけれど、日本食レストランがあり、また、日本食食材(製造場所は海外も含む)も、品数は相当に限られながらも、手に入れることができたからだ。そして、その限られた日本食食材のなかに「納豆」があったのだ。
華人の人たちによって経営されているスーパーマーケットに「納豆」があったのだけれど、でも、さすがに購入はしなかった。その納豆は「冷凍」されていて、いつからそこにあるかわからないようなものであったからだ(多分、賞味期限も切れていたのだと思う)。しかし、なにはともあれ、東ティモールで納豆を手に入れることができる。そのことはやはり驚きであり、また日本との「近さ」のようなものを、ぼくは感じたのであった。
そして2007年にここ香港に移り、日本食食材の充実さにぼくは圧倒され、それ以降、ますます充実してゆく日本食食材を享受してきたことになる。
海外に住みながら、<ふるさと>の感覚を感じるときはどんなときだろうと、ぼくは考えたことがあった。ぼくが住んできた場所で、日本からもっとも遠いシエラレオネの地で、より正面からぼくは考えはじめたのだと思う。
そのときに思ったのは、<ことば>(ぼくの場合は「日本語」)であり、また<食べ物>(ぼくの場合は「日本食」)であり、そして、<親しい人たちの存在>ということであった。
もちろん、地球を「ふるさと」とする感覚においては、どの場所をも<ふるさと>とする感覚をもつことは不可能ではない。でも、そのこととは異なる次元において、どんなときに、どんなものに<ふるさと>を感じるのだろうかと、ぼくはこのじぶんの身体の経験を通じて、正面から考え、ことばと食べ物と親しい人たちを<ふるさと>として感じたのであった。
でも、時代は急速に変わってきた。グローバル化の進展と情報通信技術の発展で、ぼくたちは、世界のどこにいても、たとえば日本語で会話し、親しい人たちとつながることができる。場所によっては、日本食も(お金はかかるかもしれないけど)容易に手に入れることができる。だからなのか、日本からだいぶ足が遠のいてしまっている。
香港で納豆をかき混ぜながら、ぼくはそんなことを考える。「納豆」に、<ふるさと>をどこか感じながら。
人間の知の究極の主題について。- 人の探求の「最終的な目標」。
大澤真幸にとっての、ライフワーク的な仕事である著書『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂、2012年)。大澤真幸にとっての師である見田宗介(真木悠介)の論文『自我の起原』(のちに同タイトルで書籍化。岩波書店、1993年)のスリリングな論考に触発された著書である。
大澤真幸にとっての、ライフワーク的な仕事である著書『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂、2012年)。大澤真幸にとっての師である見田宗介(真木悠介)の論文『自我の起原』(のちに同タイトルで書籍化。岩波書店、1993年)のスリリングな論考に触発された著書である。
この著書の最初には「知の究極の主題」と題された節がおかれていて、つぎのように文章がはじまっている。
人は知ろうとして、探求する。しかし何を知りたいのか?何が探求の目標なのか?
人が知ろうとしているもの、人の探求の最終的な目標、あらゆる学問の蓄積が最終的にそこへと向かって収斂していく場所、それは何か? 自分自身である。大澤真幸『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂、2012年)
人の探求の「最終的な目標」は、<自分自身>であること。この文章は、読む人によっては、唐突に聴こえるかもしれない。知の形態も、知の内実も、さまざまであるからである。とりわけ、知の対象が、「自分自身」に直截に向かうのではなく、外部のものに向かうようなときには、違和感がのこる。
だから、大澤真幸はつぎのように説明を加えている。
とするならば、人間のすべての知を規定している究極の問いとは、<人間とは何か?>にほかなるまい。一見したところでは、この問いには関係していないような知的探求の領域もある。素粒子の構造についての研究とか、金融政策の効果についての研究とか、特殊な素材の電気の伝導率についての実験等々と、われわれは、何でもかんでも、すべてを知ろうとしているように思われる。だが、こうした多様でばらばらな主題や諸分野も、畢竟、<われわれは何者なのか?><人間とは何か?>という謎へと迫るための多様な迂回路なのだ。
大澤真幸『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂、2012年)
多様でばらばらな主題や諸分野も、たとえそれが素粒子であっても、金融政策であっても、電気であっても、それらは、<人間とは何か?>という究極の問いにつながっている。大澤真幸は、そう定めている。
そうはいっても、まだ首をかしげる人もいるかもしれない。「〇〇は何か?」という「what」の問いもあれば、「どのように…するか?」という「how」の問いもある。問いの向けられる先が、「当面の解決方法」であったり、「表面上の知識」であったり、また「損得にかかわるもの」であったりするかもしれない。。試験に受かるためだとか、お金がもうかる方法だとか。
ただ、「知」をどのように利用するのか、ということを取り除いて考えてゆくと、たしかに、究極の問いは<人間とは何か?>というところに収斂していく。
そして、探求がやがて収斂してゆくところが「自分自身」であるということ(<人間とは何か?>という問いであること)を見定めておくことは、知の探求における「軸」とすることもできると、ぼくは思う。どんな多様な迂回路を通過していようとも、「軸」を定めておくことで得るものがあるということである。
20代を通して、研究においても実践においても「Development Studies(途上国の開発・発展、また国際協力)」という分野につかっていたぼくは、その諸相と方法を学ぶなかで、やがて探求の次元を「開発・発展とは何か?」というところに押し上げざるを得なくなった。そしてそれは、今思えば当然のことながら、「人間とは何か?」という問い(あるいは、この問いにつらなる、人間の生きる目的や人間のしあわせとは、などという問い)を発せざるを得なくなるところに、ぼくの思考を押し出していったのであった。
ぼくはその延長線上に、香港で人事労務という領域、つまり「人」を中心主題とする仕事へとつなげていき、そこから、今こうして、「生きかた」というところへと幅をひろげている。その根柢には、ずっと「自分自身」に向けられた問いがあり、<人間とは何か?>という問いが、「知の究極の主題」として横たわっている。
はじめから明確に意識していたわけではないけれど、表面的な意識よりももっと深いところでは、この「知の究極の主題」をぼくはいつも追ってきたのだと、今の時点からふりかえりながら、ぼくはそう思うのである。
神経回路の「絶望的な混線」(三木成夫)。- 「内臓感覚のいちばん麻痺しているのが、ホモ・サピエンス」ということ。
ぼくたちの「身体」はぼくたちに日々、瞬間瞬間に、さまざまな「シグナル」を送りつづけている。
ぼくたちの「身体」はぼくたちに日々、瞬間瞬間に、さまざまな「シグナル」を送りつづけている。
そうして送られる「シグナル」を、いわば「レシーバー」でキャッチし、じぶんは「何が必要だ」「何がしたい」ということへに変換する。
でも、むずかしいのは、この「変換」である。
人間の「内臓系」(からだの内側に蔵されている“はらわた”の部分。これに対し「体壁系」は手足や脳、目や耳などの感覚器官など、からだの外側の壁を造っている部分)についての講演会で、解剖学者の三木成夫が挙げた事例が、そのことを端的に教えてくれる。内臓の感覚として、最初に挙げられたのは「膀胱感覚」で、三木自身の子どもの観察を交えた事例である。
少し長くなるけれど、この「観察された事例」、それはだれもが(自身として、あるいは子どもに対応する者として)体験し、その体験をいくぶんか記憶しているであろう事例を共有しておくことで、内臓系のシグナルを感受することの「複雑さ」を理解していただけるだろう。少なくともぼくの理解は、一気にすすんだ。
ちょうど、あのオシメが取れた頃のことです……。子どもが一人で遊んでいる。その遊んでいる時ーたとえば積み木をしたり、絵本を観たりしているその一連の動作のなかで、なにか異質な動きが、ふっと入る……。腰のあたりが……(笑声)。これを見た時ありゃいったいなんだ……(笑声)。
ところが、しばらくしたら隣の部屋から、母親の声が聞こえてくる……「オシッコでしょう?」という、まだのんびりした声です。子どもはしかし見向きもしない……。私はその時、あれがサインかと初めて知った(笑声)。
そこでなんとなく見てますと、それは、ある一定の間隔を置いてやってくる。明らかに異質な動きです。…ちょうど“陣痛”と同じで、だんだん間隔が狭まってくる(笑声)。そのうちに、今度は母親の声が少し大きくなって「早く行ってらっしゃい」とやるわけです。子どもは、いぜんとして見向きもしない。
…そうこうしているうちに…動きがかなり激しくなってくる(笑声)。…そのうちに、だんだんむずかるんですね……。ヤレおんぶしろとか、肩ぐるましろとか……。こりゃうるさいことになるゾと思って考えてますと、案の定、隣の声も「ハヤク行きなさイっ」ってグッと切迫度が加わってくる(笑声)。『内臓とこころ』(河出書房新社、2014年)
母親にしてみれば「それなりに切実な問題」であろうとしながら、子どもにとってみれば、これは「まったく関係ない」こと、つまり「トイレという感覚が浮かばない」のだと、三木成夫は冷静に観察をしている。
三木成夫はさらっと述べているけれど、「トイレという感覚が浮かばない」ということは、ここで語られていることの核心である。ぼくは、単純に、子どもは「遊び」などに夢中なのだと思っていたのだけれど、その見方は「トイレに行くこと」がほぼ無意識的に日常に組み込まれた者たちが投影している見方のようだ。
「トイレという感覚が浮かばない」子どもは、トイレに行こうとする気配を見せず、拒否を継続してゆく。じぶんの体験か、あるいは他者(子ども)の様子なのか、どこか既視感のわく状況描写である。
私は子どもを横で見てまして、いろんなことを教わりましたが、これだけは、ほんとうになるほどなあ……と思った。そこで、今度はいよいよ「それオシッコが出るョー」といって、膀胱の真上あたりをギュッと押さえてやる。そしたら、なるほどそれは感覚として、かなり強く響くのでしょうが、本人は、それが自分の内部から出たものだとは思わないから「イヤダ」といって手を払って、行こうとはしない。…
…しまいにうるさいから「……もっと向こうで遊んでおいで、お父さん、お仕事すんだら一緒に遊んであげる」。すると、いちおうは向こうへ行きかけるのですが、もうその頃は地だんだ踏んで、とうとう部屋をあっちこっち走り回る……(笑声)。こうなったら母親も真剣です「ハヤクシナサイッ!」さすがに迫力がある。「イヤ、イカナイ」。もうまるで真剣勝負です。…
…それで、最後のとどめは、もうギリギリの瞬間、あの天の啓示のように「オシッコー!」(笑声)、それはもう心の底から叫んで一目散に駆って行ったーその早かったこと……(笑声)。ともかくも皆さん、人間の内臓感覚とはいかなるものか、全部ここに尽くされている、と私は思います。…『内臓とこころ』(河出書房新社、2014年)
「人間の内臓感覚とはいかなるものか、全部ここに尽くされている」と、三木成夫は語っている。すべてが、ここに尽くされている、と。
ここに「すべてが…?」と思いながら、人は、実際には、身体の(ここでは内臓系の)シグナルを正確に受けて行動するということは、思っている以上にできていないのではないか、という考えが、ぼくのなかに浮かぶのである。
三木成夫の言い方を借りれば、「麻痺している」のである。
三木成夫は、少し極端な言い方で、講演会の徴収に問いかけている。じぶんの体のなかにタンパク質がどれだけ足りないのか、動物タンパクか植物タンパクか、さらには脂肪がどれだけ不足しているか、といったようなことを、「ほんとうに素直に感受できる人間」がいたら、挙手してください、と。
そんな人はおそらく一人もいないはずであり、なぜなら「麻痺している」のだから、と三木成夫は語る。そのことが、三木の結論のひとつである。つまり、内臓感覚のいちばん麻痺しているのが、ホモ・サピエンスであるということである。
なお、三木は講演がすすんだところで、このことを、現代の神経学の用語を借りて、「神経回路を、どこかで取り違える」のだと述べている。「なにしろ、私どもの脳のなかには、それこそ天文学的な数の回路が、乱麻のごとく張りめぐらされているのですから……。絶望的な混線が起きる」のだと。
そして、上述の例をふたたびとりあげながら、膀胱の不快な感覚がひとつの回線をつたって、大脳皮質にたどりつくまでに、これが引き金で、いろいろな雑音(親のヒステリー声やお尻ピンや諸々の「不快」)が割り込んできては「正規の回路」をふさぎ、混戦がきわまってゆくのだと、三木成夫はつづける。これは「ほんとうに深刻な問題」であるのだと。
「膀胱感覚」は内臓感覚のうちのあくまでもひとつであり、胃袋の感覚などへのひろがりを考えると、「内臓感覚のいちばん麻痺している、ホモ・サピエンス」にとって、ほんとうに深刻な問題である。
このような「麻痺」、つまり神経回路の「絶望的な混線」から生じている問題は、じぶんの日々の「よき生(well-being)」をはじめ、他者とのかかわりを含めて、多岐にわたっているのではないかと、ぼくは見ている。でも、それが、人間の生に「ドラマ」を投げ込むものでもあるのだと、ぼくは思う。
ここから「どこへ」行くのか、と問う人がいるかもしれない。まずは認識からだと、ぼくは思う。生命を知ること。ホモ・サピエンスを知ること。「じぶん」を知ること。完全に知ることは無理でも、可能な地平まで。
ところで、ここで取りあげた箇所は、著書『内臓とこころ』(河出書房新社、2014年)の「最初」の章に収められており、またその元となった講演会の「最初」に触れられた話でもある。「最初」から、こんな調子である。
それは、まるで、ビートルズ(The Beatles)の名盤『A Hard Day’s Night』が、最初の曲「A Hard Day’s Night」の、あの短く高らかに鳴り響くギター音で幕が開けられるように、はじまっている。最初から聴く者(読む者)の頭のなかに、「革新(あるいは、核心)」を打ちこむのだ。
「クリスマス休戦」(1914年)のこと。- ぼくの「経験」と重ねあわせながら考えること。
クリスマス休戦(Christmas Truce)。第一次世界大戦(1914-1918)中の1914年12月24日から12月25日、西部戦線でみられた一時的停戦。なんらかの休戦協定などによる停戦ではなく、各地の最前線で、自然発生的に生まれた停戦である。停戦中、敵対していたドイツとイギリスの兵士たちが、共に歌を歌ったり、食べ物などをシェアしたりして、クリスマスを祝ったといわれている。
クリスマス休戦(Christmas Truce)。第一次世界大戦(1914-1918)中の1914年12月24日から12月25日、西部戦線でみられた一時的停戦。なんらかの休戦協定などによる停戦ではなく、各地の最前線で、自然発生的に生まれた停戦である。停戦中、敵対していたドイツとイギリスの兵士たちが、共に歌を歌ったり、食べ物などをシェアしたりして、クリスマスを祝ったといわれている。
もちろん、実際には場所によっていろいろな状況ーよい状況も、悪い状況もーが生まれていたし、また1914年以降は上層部の命令によって「クリスマス休戦」は禁止されたようだが、それにしても、このようなことが戦争という極限の状況において起こったという事実に、ぼくたちは心を動かされ、また考えさせられることになる。
どのようにして、どのような条件で、このような「休戦」が可能であったのか?
「クリスマス休戦」に直接的に焦点をあてながら研究もなされてきたようだが、ここではその詳細に入ってゆくほどの知識をぼくは持たないし、思考を深めてもいない。けれども、100年以上前のこの「クリスマス休戦」と、もしかしたらどこか通底しているような状況に、ぼくはかつて東ティモールで遭遇した経験を重ねながら考えている。
2002年にようやく独立をはたした東ティモール。国連をはじめ、国際的な支援のもと、独立後平和な状況にあった東ティモールは、2006年半ば、ディリ騒乱を発端に、国内情勢が不安定化し、国内避難民を生じる事態へと至った。
銃撃戦を逃れ、騒乱発生翌日にインドネシアを経由して日本に戻ったぼくは、治安が若干安定した段階で、ふたたび東ティモールに戻った。2006年9月頃のことであった。東ティモールに戻り、関わっていたコーヒー事業をふたたび軌道にのせ、2006年末、ようやく一息つけるところとなった。
東ティモールに戻って事業をすすめているあいだ、情勢はひきつづき不安定で、ディリ市内では住民の一部が国内避難民として家に帰ることができず、あちらこちらで争いが起きていた。事業は一息ついたところであったけれど、その意味では、緊張を解くことができないままに、ぼくは日々を過ごしていた。
年末はいつもであれば所用で日本に戻っている時期だが、その年はクリスマスから年末年始にかけて、ぼくはディリに滞在することになっていた。
そのようにして迎えたクリスマス。ディリ市内の争いが一時的に沈静化し、「しずかな夜」が訪れる。
東ティモールはカトリック教徒が大半であり、そんな人たちにとっては、クリスマスは大切なときだ。たぶん、そのような事情もあったのだろう。ディリ市内に「しずかな夜」が訪れたのであった。
今でもぼくの記憶のなかには、そのときに感じた安堵感(「争いは止まる(止めることができる)」)とともに、「しずかな夜」の空気感がのこっている。
このような記憶のなかで、「クリスマス休戦」という歴史的出来事は、ぼくのこの経験に重ねられるのである。
「クリスマス休戦」には、「humanity(ヒューマニティ)」という言葉が添えられることもある。想像でしかないけれど、たしかにそのように語られるような状況もあったのだろう(あるいは、少なくとも、そこに「希望」を見出したいのだということもある)。
でも、「人間性」ということでぼくを捉えるのは、「クリスマス」という、いわば「物語・ストーリー」を持ちつづけている「人間」という存在についてである。
人間は、「物語・ストーリー」(あるいは、幻想)という仕方で、いろいろなことを「信じて」いる。そのような、人間の固有性が、戦争や争いのなかでも、生きている。もちろん、そのような「物語・ストーリー」が極端な仕方で信じられて、いろいろと非人間的な行為がなされたりすることがあるのだけれど、肝要なことは、それでも、共通する「物語・ストーリー」を持っていることである。さらには、「物語・ストーリー」は変えてゆくことができることである。
「物語・ストーリー」については、「ホモ・サピエンス」を論じてきた歴史学者のYuval Noah Harariも、キー概念として語っている。あるいは、これまでにも「共同幻想」などとして、いろいろと語られてきた事象である。
人間は、「物語・ストーリー」の外部に出ることはできない。「物語・ストーリー」なしでは生きていけない。でも、共通する「物語・ストーリー」をもって共生し、協力することができる。
それは「希望(hope)」であると、ぼくは思う。
自然のなかで得たインスピレーションに導かれるクリスマスソング。- Gwen Stefani のクリスマスアルバム『You Make It Feel Like Christmas』。
ぼくにとっての「クリスマスソング」と言えば、いわゆるスタンダートナンバーももちろんチョイスのうちだけれど、なによりも、John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲「Happy Xmas (War is Over)」である。
ぼくにとっての「クリスマスソング」と言えば、いわゆるスタンダートナンバーももちろんチョイスのうちだけれど、なによりも、John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲「Happy Xmas (War is Over)」である。
ほんとうのところを言うと、この名曲は、「クリスマス」に限ることなく、ぼくの生きるという経験において、ひとつの大切な「物語」の一部としてありつづけてきたように思う。
昨年のブログ「東ティモールでむかえた「クリスマス」(2006年)の記憶から。- 「War is over, if you want it...」(ジョン・レノン)」で書いたように、2006年の騒乱を受けた混乱のなかで、ぼくのなかで、この曲が流れていた。2006年だけでなく、それ以前、西アフリカのシエラレオネにいたときだって、その内戦が終結したばかりの国で、この曲はぼくのなかで鳴り響いていたし、今だってぼくのなかで奏でられている。
そうでありながら、今年(2018年)挙げておきたい「クリスマスソング(クリスマスアルバム)」は、Gwen Stefaniのクリスマスアルバム『You Make It Feel Like Christmas』(2017)。
全12曲(6曲のオリジナルと6曲のスタンダードナンバーのカバー)が収められたこのクリスマスアルバムは2017年に発表され、2018年には「Extended Edition」として、5曲(2曲のオリジナルと3曲のカバー)が加えられた。
アルバムのタイトルともなっているオリジナル曲「You Make It Feel Like Christmas」を含め、楽しさと歓びとインスピレーションに充ちた曲たちが収められている。また、想像したこともなかったのだけれど、Gwen Stefaniの独特の歌声は、なんともクリスマスソングとの相性がよいのだ。
Gwen Stefani(グウェン・ステファニー)は、アメリカのバンド「No Doubt」のボーカリストとして世に知られるようになり、ソロでも活動をしてきた歌手である。
彼女の存在をぼくが知ったのは、1996年のこと。当時は「No Doubt」のボーカリストであったグウェン・ステファニー。アルバム『Tragic Kingdom』(1995)、およびそこに収められた曲「Just a Girl」が人気を博していたときだ。
1996年にニュージーランドに住んでいたぼくは、ハウスメートたちと一緒にテレビで観ていたMTV番組を通じて、バンド「No Doubt」のことを知った。「Just a Girl」の曲に、ぼくは惹きつけられたのであった。ぼくは、オークランドのレコード店で、手頃な価格のカセットテープでアルバム『Tragic Kingdom』を購入したことを記憶している。
さらに運がよかったのは、1996年9月に「No Doubt」が『Tragic Kingdom』の世界ツアーで、オークランドにやってきたことである。ぼくはこうして「No Doubt」の音楽を、オークランドのライブハウス「Powerstation」で直接に聴くことができたのだ。
ぼくが当時住んでいた家からすぐ近くにあったライブハウス「Powerstation」はまさにライブハウスで、それほど大きくもなかったから、ぼくはほんとうに間近で、「No Doubt」の音楽の、あのうねりと熱を感じることができた。
でも「No Doubt」の音楽はアルバム『Tragic Kingdom』を頂点としながらバンド活動は次第に縮小してゆき、ぼくも、このアルバムを除いて、それほど聴かなくなっていった。
そのあいだもグウェン・ステファニーがソロ活動を展開していたことなどは耳にしていたのだけれど、そんな時期がずっとつづいていたところ、昨年(2017年)、クリスマスアルバム『You Make It Feel Like Christmas』が世に放たれ、聴けば聴くほどに、このアルバムに惹かれるのであった。
「クリスマスアルバム」をつくろうと触発された契機は「nature walk」(自然のなかを歩くこと)のなかにあったのだという(※Wikipedia英語版)。
ボーイフレンドであり、「You Make It Feel Like Christmas」の曲をともに歌っているカントリー・ミュージシャンBlake Sheltonのオクラホマにあるランチ・ハウスと自然のなかで、グウェン・ステファニーは、運動をしたり、メディテーションをしたり、祈っていたりしたのだという。近くにある自然のなかを歩きながら、ふと、自問がわいてくる。「クリスマスの歌をじぶんが書くとしたら、どんな歌になるのだろう?」と。
そんな問いとインスピレーションに導かれながら、クリスマスアルバムの制作につながってゆく。そのプロセスは、つらい感情を曲に変換するという前作とは異なり、ただ「歓び」に充ちていたようだ。
そんなふうにして、楽しさと歓びとインスピレーションに充ちたクリスマスソングがつくられ、ここに収められた曲たちを通して、それらの感覚がぼくたちに伝わってくるように、ぼくは思う。
そこに1996年にオークランドで聴いたグウェン・ステファニーの独特な歌声の芯をひきつづき感じながら、でも、20年の歳月とそのあいだの彼女の生が凝縮され、深いところに込められているようにも、ぼくは感じる。いろいろな辛い体験や困難なことも一緒に凝縮され、たしかな地層ができて、その地層から「楽しさと歓び」が生成されてきたような曲たちと歌声である。
名曲「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」の響きのほうへ。- ルイ・アームストロングの歌声と音色に照らされて。
ときに、ルイ・アームストロング(1901-1971)の「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」を無性に聴きたくなる。すばらしい文学作品がそうであるように、この曲の短い出だしだけで、ぼくは一気に、その音楽が紡ぐ「物語」の世界にひきこまれる。
ときに、ルイ・アームストロング(1901-1971)の「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」を無性に聴きたくなる。すばらしい文学作品がそうであるように、この曲の短い出だしだけで、ぼくは一気に、その音楽が紡ぐ「物語」の世界にひきこまれる。
作詞・作曲はG・ダグラスとジョージ・デヴィット・ワイス。ベトナム戦争や人種問題の深刻化という時代背景のなかでつくられた曲である(※Wikipediaなど参照。「背景」にはいろいろな見方や事情や経緯があるようだ)。
時代背景は、いっぽうで、John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲「Happy Xmas (War is Over)」や「Imagine」を、ぼくに思い起こさせる。
これらの名曲をぼくはほんとうに好きなのだけれど、それは、このような「時代背景」のなかで、曲に託された「世界」(戦争や紛争のない世界)と無縁ではないようにも思う。紛争後の世界(2000年代初頭の、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール)に身をおきながら、ぼくのなかでは、名曲「Happy Xmas (War is Over)」が鳴り響いていた(※ブログ「東ティモールでむかえた「クリスマス」(2006年)の記憶から。- 「War is over, if you want it...」(ジョン・レノン)」)。
「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」は、映画『グッドモーニング、ベトナム(Good Morning, Vietnam)』の挿入歌としても採用されているから、ぼくの記憶の深いところで、これらの名曲は通底していたのかもしれない。
「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」に限らず、ぼくは、ルイ・アームストロングの音楽、彼の歌声、それからトランペットの響きに心から惹かれる。
村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)では、JAZZアーティストたちと、アーティストそれぞれの「この一枚」(LP)が取り上げられているけれど、そこでも、ルイ・アームストロングが描かれ、書かれている。そして、和田誠が描くルイ・アームストロングの肖像、それから村上春樹の書く文章にふれながら、ぼくは、ルイ・アームストロングに、心から惹かれる理由がわかったような気がする。
ルイ・アームストロングは11歳のころ、つまらないいたずらが原因で警察に捕まり「ホーム」に入れられる。そこで楽器と出会い、チャイム代わりの「ラッパ」の役をこなし、さらにそれだけでなく、ルイのラッパを聞くようになったみんなは、とても楽しい気持ちで目覚め、とても安らかな気持ちで眠りにつくことができるようになったのだという。
音楽の、このような「効果」は、他のアーティスト(たとえば、ピアニストのLang Lang)の場合でも語られるのをぼくは読んだりするが、ルイ・アームストロングのこのエピソードは彼の音楽の「ほとんどすべてを物語っている」から大好きなのだと、村上春樹は書いている。つづけて、村上春樹は、つぎのように、ルイ・アームストロングの音楽について書く。
ルイ・アームストロングの音楽が、僕らにいつも変わらず感じさせるのは、「この男はほんとうに心から喜んで音楽を演奏しているんだ」ということである。そしてその喜びは見事なばかりに強い伝染性を持っている。マイルズ・デイヴィスはルイ・アームストロングの音楽を尊敬しながらも、舞台で白人聴衆に向かって歯を見せてにこにこと笑う彼の芸人性を厳しく批判した。でも僕はルイはほんとうに楽しくてたまらなかったのだろうと想像する。自分がこうして生きて、音楽を作り出して、人々がそれに耳を傾けてくれるというだけでたまらなく幸福で、何を考えるよりも先に、自然に、にこにこと歯を見せて笑ってしまったのだろうと思う。
村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)
この文章を読みながら、ぼくはたしかに、ルイ・アームストロングの音楽の核心にあるものがわかったような気がしたのだ。
でも、音楽の、あるいは世界の「楽しみかた」は、この核心そのものをその中心に向かって掘り尽くすことではなく、あくまでも、その核心に「照らされた世界」(つまり、ルイ・アームストロングの音楽)を楽しむことだ。村上春樹の文章は、核心を一気につくものでありながら、よりいっそう、この「照らされた世界」に照準されている。
そのようにしてルイ・アームストロングの音楽にもどると、「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」とともに、ぼくの心を深いところで揺さぶるのは、「Moon River」である。
彼の歌う、そして彼のトランペットが奏でる「Moon River」を聴くたびに、ぼくの心は、ほんとうに「揺れる」のだ。とくに、彼のトランペットが奏でる「Moon River」の響きに。
年を重ねることで得るもの。- ビリー・ホリデイの歌声に、村上春樹が<聴きとる>もの。
村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)を道案内としながら、Apple Musicで、村上春樹と和田誠がとりあげるJAZZアーティストたちひとりずつを訪れ、また村上春樹が選ぶ「この一枚」(元はLP)を探す。「この一枚」があるときは迷いなくその作品を、またなくてもアーティストの作品たちを、ぼくはじぶんの「ライブラリー」に収める。
村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)を道案内としながら、Apple Musicで、村上春樹と和田誠がとりあげるJAZZアーティストたちひとりずつを訪れ、また村上春樹が選ぶ「この一枚」(元はLP)を探す。「この一枚」があるときは迷いなくその作品を、またなくてもアーティストの作品たちを、ぼくはじぶんの「ライブラリー」に収める。
ここ香港の空に夕闇がおとずれるころ、ライブラリーから、意識的に、あるいは無意識的にアーティストや作品や曲を選びとって、再生する。音楽の響きに、耳を、それから心身を傾け、また村上春樹のことばをゆっくりと追う。ときおり、和田誠の描くアーティストの肖像をながめる。それだけで、しあわせなひとときだ。
でも、しあわせな感覚は、高揚するような感覚(そのようなときもあるけれど)というよりは、ぼくの心の地層に静かにそそぐ雨がゆっくりとしみこんでゆくような、そのような感覚だったりする。
多少なりとも年を重ねてきたことで感じるものがある。
「ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)」(1915-1959)を、若い頃の村上春樹はよく聴いたのだという。でも、ビリー・ホリデイの素晴らしさを「ほんとうに知った」のは、もっと年をとってからであったと、村上春樹は書いている。
でも、ビリー・ホリデイの晩年の録音は、若い頃は熱心に聴かず、むしろ避けていたという。とりわけ1950年代に入ってからのビリー・ホリデイの録音は、「痛々しく、重苦しく、パセティックに」聴こえたからだ。それが、30代に入り、40代に進むにつれて、逆に、晩年のビリー・ホリデイを好んで聴くようになる。
「ビリー・ホリデイの晩年の、ある意味では崩れた歌唱の中」に聴きとることができるようになったもの、あるいはそれほどまでに村上春樹を惹きつけたものは何かと、自らずいぶん考えたのだと、村上春樹は記している。
ひょっとしてはそれは「赦し」のようなものではあるまいかー最近になってそう感じるようになった。ビリー・ホリデイの晩年の歌を聴いていると、僕が生きることをとおして、あるいは書くことをとおして、これまでにおかしてきた数多くの過ちや、これまでに傷つけてきた数多くの人々の心を、彼女がそっくりと静かに引き受けて、それをぜんぶひっくるめて赦してくれているような気が、僕にはするのだ。もういいから忘れなさいと。それは「癒し」ではない。僕は決して癒されたりはしない。なにものによっても、それは癒されるものではない。ただ赦されるだけだ。…
村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)
村上春樹のことばをゆっくりとおいながら、ぼくは、それこそ、ずいぶんと考えさせられてしまった。「癒し(いやし)」ではなく、「赦し(ゆるし)」ということを。
ところで、ビリーホリデイの優れたレコードとして、村上春樹が選ぶのは、コロンビア盤。さらに、その中の一曲として、村上春樹は迷うことなく、「君微笑めば」(When You’re Smiling (The Whole World Smiles With You))を選んでいる。
…彼女は歌う、
「あなたが微笑めば、世界そのものが微笑む」
When you are smiling, the whole world smiles with you.
そして世界は微笑む。信じてもらえないかもしれないけれど、ほんとうににっこりと微笑むのだ。村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)
アップテンポで、心が楽しくなるようでいて、深い哀愁がただよう響きのなかで、「When you are smiling, the whole world smiles with you.…」と、ビリー・ホリデイの深い歌声が見事なまでに歌い上げている。レスター・ヤングのソロの響きも、心の深いところを揺さぶる。とてもすてきで、心をうつ曲だ。
昔どこかで聴いた曲であるけれど、そのときぼくは聴き流していたようなところがあったと思う。あれから、ひとこと、ふたことでは話せないほどの時間がすぎてゆき、今こうして聴くと、年を重ねてきたことで聴きとるものがたしかにあるように、ぼくは感じる。
このことは、たとえば、文学の古典的作品を「読めるようになった」ことに関する、思想家・内田樹のことばを、ぼくに思い起こさせる。
…夏目漱石を少年期に読んだときと、中年になってから読んだときとでは、テクストの表情は一変する。私たちは同じテクストにまったく別の相貌があることを知る。そして、もし私たちが「大人」になったせいで漱石のテクストを読めるようになったのだとしたら、その成熟には、少年期に漱石を読んだ経験がすでに関与しているのである。
内田樹『他者と死者ーラカンによるレヴィナス』(文春文庫)
はたして、「音楽」という経験も同じなのだろうかと、ぼくは考えてしまう。
内田樹の書く文章を、「夏目漱石」を「ビリー・ホリデイ」に、「テクスト」を「曲」に、そして「少年期」を「青年期」に書き換えて、読んでみる。
「ビリー・ホリデイを青年期に聴いたときと、中年になってから聴いたときとでは、曲の表情は一変する。私たちは同じ曲にまったく別の相貌があることを知る。そして、もし私たちが「大人」になったせいでビリー・ホリデイの曲を聴くことができるようになったのだとしたら、その成熟には、青年期にビリー・ホリデイを聴いた経験がすでに関与しているのである。」
うん、これはこれで成り立つように、ぼくは思う。
でも、成熟に「青年期にビリー・ホリデイを聴いた経験がすでに関与している」のだとしたら、どのような風に「関与」しているのだろうか。曲の響き、メッセージあるいはステートメント、世界観などが、<聴く>という行為のなかで、じぶんに「関与」してくるのだろうか。……
なにはともあれ、ビリー・ホリデイの曲と歌声を、少しは正面から<聴く>ことができるようになったことは、たしかなようだ。
「音楽ストリーミング」の楽しみかた。- 村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』を道案内としながら。
ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にしながら、「音楽ストリーミング」の時代の到来をいっそう現実的に、ぼくは実感する(※ブログ「「音楽ストリーミング」の時代のなかで。- 香港でその「移行期」を通過しながら。」)。
ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にしながら、「音楽ストリーミング」の時代の到来をいっそう現実的に、ぼくは実感する(※ブログ「「音楽ストリーミング」の時代のなかで。- 香港でその「移行期」を通過しながら。」)。
実際にはぼくも、Apple Musicが開始されて以来これまでずっと、Apple Musicの「音楽ストリーミング」サービスを利用している。Apple Musicによって、ぼくの手元に、5000万の曲たちにつながる「入り口」と「通路」を手にしたことになる。
音楽の好きな人たちにとっては、この夢のような世界が、現実として、手元に存在しているのだ。
そのような夢の世界の楽しみかたは、人それぞれに、いろいろと多様に、ひろがっているだろう。
たとえば、ある「名曲」の、いろいろなバージョン、さまざまなアーティストによるカバー曲も含めたいろいろなバージョンを、ぼくたちは楽しむことができる。名曲の曲名を検索にかけると、そのバージョンが贅沢にも、一覧で表示される。そのなかから、気になるものを選択するだけで、名曲の響きが空間にひろがってゆく。
エルヴィス・プレスリーの名曲「Can't Help Falling in Love」を検索して、ぼくはいろいろなバージョンを楽しむ。でも、やはり、エルヴィスの歌声に戻ってくるといった具合に。(※ブログ「エルヴィス・プレスリーの名曲「Can't Help Falling in Love」。- 「名曲」のなかの<名曲>というもの。」)
今取り組んでいるのは、村上春樹を「道案内人」としながら、ジャズの名作品にふれてゆくこと。村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)が、この冒険のガイドブックだ。
『ポートレイト・イン・ジャズ』は、和田誠が描くJAZZミュージシャンの肖像と、村上春樹が書くエッセイが共演する作品。1990年代に刊行された2冊(『ポートレイト・イン・ジャズ』と『ポートレイト・イン・ジャズ2』)に、ボーナス・トラックが加えられて一冊となった文庫である。
まるでJAZZの名演のように、和田誠の描く肖像と村上春樹の文章が、うまいぐあいに鳴り響いている。55人がとりあげられ、村上春樹の個人的選択による、それぞれの「この一枚」(LP)が写真とともに掲載されている。
だいぶ前に読み始めた一冊であったのだけれど、今読み返してみると、途中で「止まった」ままであったようだ。途中、ピアニストのビル・エヴァンスがとりあげられているのだけれど、エヴァンスの一枚として選ばれている「Waltz for Debby」をぼくは(香港のHMVで)手に入れて聴いているうちに、すっかりその世界にとりこまれて、そこでずいぶん長いあいだ、立ち止まって楽しんでいたようだ。
当時は、「音楽ストリーミング」の世界がきりひらかれていなかったときで、ここで村上春樹おすすめの名盤(LP)を知って、香港のHMVでCDを探す必要があったのだ(アマゾンなどで検索して注文する方法などもなかったわけではないけれど)。
今となっては、(ぼくにとっては)Apple Musicによって、5000万曲への通路がひらかれている。
『ポートレイト・イン・ジャズ』をはじめから再読しつつ、そこで取り上げられている名盤を、Apple Musicで探す。あるものもあれば、ないものもある。「この一枚」がなくても、たとえば、Chet Bakerの他の作品やライブ録音を眺めては、「これだ」と思うものをひろって、じぶんの「ライブラリー」に収めてゆく。その過程での思ってもみなかった「出会い」に、心がおどることもある。
村上春樹の「この一枚」でApple Musicにあるものであれば、迷わず、「ライブラリー」に入れる。そうして、村上春樹が曲名にふれているのであれば、その曲を再生して、その曲の響きに耳を傾ける。そうして、村上春樹の「ことば」と、曲の「響き」を重ねてゆく。音楽の聴き方はとても個人的なものでありながら、その響きはどこかで個人を超えて、深いところで通底することもある。楽しいひとときだ。
別に村上春樹である必要はない。ぼくにとっては、たとえば、道案内人のひとりが、その感覚を信頼できる道案内人のひとりが「村上春樹」であっただけだ。
また、あたりまえのことだけれど、JAZZである必要もない。ぼくは今、このタイミングで、JAZZが聴きたくなっただけだ。これまで、ぼくにとってのJAZZは、とても限られた範囲だけであった。でも、ぼくの今の心身が、JAZZの響きとそこに在るものに、とても惹かれるのだ。
村上さんは、言うかもしれない。やはり聴くなら、LPをターンテーブルにのせて聴くんだよ、と。ぼくもLPにはまっていたときがあるから、そのよさは多少なりともわかる。デジタル音楽・「音楽ストリーミング」は、JAZZのほんとうの響きに、ある種の「距離感」をつくってしまうかもしれない。
でも、「いろいろな楽しみかた」があってよいのだと、ぼくは思う。楽しみかたは、無限にひろがっている。
ぼくは『ポートレイト・イン・ジャズ』の道案内に忠実にしたがいながら、音楽ストリーミングのライブラリーに分け入っては、JAZZの世界を楽しんでいる。